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厚岸町
よみがえった 厚岸町 「1 5 0年前の海難」 釧路管内 いる。 歴史から再浮上したイーモント号 当時から厚岸にあった蝦夷3官寺のひとつ国泰寺に残る 町役場の隣にある厚岸町海事記念館。その1階の奥中央の 「日鑑記」にはイーモント号の海難事故は記録されていたが、 クラレンスコーナーに船底の残がいの木片が展示されてい 厚岸の人々の間ではこの事故はすっかり忘れ去られていた。 る。これが1985年(昭和60年)、同町末広(まびろ)の300∼ それが、歴史の陰から再び浮上したのが、1977年(昭和52 500メートル沖の海底から135年ぶりに引き揚げられたオース 年)豪州捕鯨操業の歴史調査の一環で在日オーストラリア大 トラリア(豪州) ・タスマニア州ホバート港を母港とした捕 使館からのイーモント号関係についての突然の問い合わせ。 時を合わせたように79年横浜市の作家、遠藤雅子さんがシ 鯨船イーモント号の木片だ。 ドニーの新聞記者とともに来町し、イーモント号の遭難につ 案内してくれた同記念館学芸員の熊崎農夫博さんは「昔の ことなので地元でも宝物を積んだ船が沈んでいる程度の話し いて調査。その結果は81年に「謎の異国船」として出版され、 か伝わっていなかったのですがね」と木片の存在感の“重み” その史実が全国的に紹介されることになった。 を語る。 イーモント号(2 78トン)は1850年(嘉永3年)4月、前 一気に実現したクラレンス市との 姉妹都市提携 夜来の風雨のため末広沖で座礁、32人の乗組員が上陸し、救 助を要請してきた。当時、厚岸は幕府の直轄地で松前藩の詰 もともと、豪州に住んでいた遠藤さんの助力などもあって め所があり、アイヌの人々との交易の場所でもあった。 翌年、乗組員は長崎経由で故国に帰るが、1831年(天保2 80年、厚岸町は在日オーストラリア大使館を通じてタスマニ 年)シドニーの捕鯨船「レディー・ロウェナ号」が厚岸のウ ア州第2の都市・クラレンス市に姉妹提携の希望を伝え、同 ライネコタン沖(現在の浜中町羨古丹沖)で松前藩と17日間 市もこの申し入れを快諾、遠藤さんの著書「謎の異国船」が にわたって戦闘とにらみ合いを続けた事件と合わせ、この2 出版された翌年の82年(同57年)2月、同市で姉妹都市提携 つ出来事が歴史的にも日本人と豪州人の初の接点といわれて のスピード調印となった。 姉妹都市提携21周年記念で来町したキャンベル副市長らクラレンス市の訪問団。クラレンスコーナーに展示 されているイーモント号の船底の木片に感慨深げだ=2003年9月、厚岸町海事記念館で 136 イーモント号の海難事故は132年目にして姉妹都市の“絆” として現代によみがえったわけだ。 39年(同14年)宗谷管内猿払村の沖合で遭難、720人が死 亡した旧ソ連の貨客船インディギルカ号の大海難事故で、必 死の救助活動を行った同村に感謝して、半世紀を経た91年(平 成3年)、サハリンのオジョールスキイ村の希望で姉妹都市 提携が実現している。 内容にはやや違いはあるものの1つの海難事故が長い時を 経て、姉妹都市提携に結び付いたケースとしては珍しい類似 点がある。加えて、厚岸町が北緯43度に位置しているのに対 して、クラレンス市は南緯43度。赤道を挟んで仲良く経緯が 同じ43度同士の姉妹都市となった。 姉妹都市提携20周年で獅子舞を披露するアイリス派遣の中学生たち =2002年1月、クラレンス市で ボランティア主導の中身の濃い交流 アイリスの活動でユニークなのが、他の地方でもそう例の 行政レベルでは周年ごとの訪問、議会関係者などの訪問が ない徹底した事前学習。訪問希望中学生には募集時の1年生 随時行われているが、厚岸町の場合は、民間が主導する中高 の5月にアイリスに入会してもらい、訪問時の2年生の末ま 校生の訪問派遣事業が柱といえる。 での約20カ月間、英語やホテルマナー、豪州の歴史、文化な どを週一回のペースで研修してもらう。 その中心的な役割を果たしているのが、90年(同2年)に 研修といっても、会員が手書きの楽譜を作り、会員宅で実 町内の主婦など5、6人の女性が自発的に発足させた民間国 施するというボランティアそのものの活動内容だ。訪問終了 際交流団体「アイリス」 (西村由美子代表)。 後も報告書の作成や発表会を開くなど、結果のフォローアッ 「手紙のやり取りだけでなく、ペンパル同士を会わせてあ プにも努めている。 げたかったから…」(同代表)が動機というが、93年から町 西村代表は「町費を使っている以上、海外旅行が出来てラッ の町おこし基金を活用して訪問派遣事業を開始した。 同基金は国のふるさと創生基金を原資に、町内の各種民間 キーだけではダメ。子供たちにとって実のある訪問となり、 団体が自主的に取り組む地域活性化・振興事業に補助金を出 その後の人生や将来のまちづくりに生かしてもらいたい」と し、活動を支援している。町から旅費、滞在費の半分が助成 強調する。 町の花のヒオウギアヤメの英語名「アイリス」にちなんで されるが毎年、中高校生が10数人訪問し、2005年(同17年) 名づけたアイリスの会。ボランティアで姉妹都市交流を支え、 までに約120人に上っている。 ホームステイですっかりクラレンスの人々と仲良くなった厚岸の子供たち =2004年3月 137 それを自らの努力で実りあるものにしようという活動は、地 いた従来のホタテ貝の多数種苗と違い、純粋の厚岸カキの養 域おこし、人づくりの面からも注目していいだろう。 殖が可能になるという新たなメリットも生じる。 99年(同11年)、町は「厚岸生まれの厚岸育ち」の地元産 種苗生産のために「カキ種苗センター」を建設し、試験生産 豪州輸入のシングルシード方式で カキ養殖に活路 に乗り出した。 2003年(同15年)には生態工学学会(本部・東京)から技 「カキといえば厚岸」というほど道内では有名だが、その 術賞を受賞、同センターの養殖技術は全国的にも認められる 厚岸のカキが1983年(昭和58年)大量斃死(へいし)した。 段階にまでなった。 厚岸漁協、町にカキ生産再生の命題が大きくのしかかって シングルシード技術によるカキ養殖は同町生産者の約3 きたが、93年(平成5年)たまたま、姉妹都市交流でクラレ 割。種苗の数にまだ限界があるため03年度の出荷額は約1千 ンス市を訪問していた厚岸の中学生たちが、同市でカキのシ 万円に止まっているが、町では「カキえもん」の名称で、純 ングルシード養殖を見学した。 厚岸産のカキ生産増に本腰を入れている。 シングルシードは「1つの種」の意味で、従来のホタテ貝 「姉妹都市提携で経済交流を」は各自治体が望むところだ に多数のカキの稚貝を付着させ、養殖する方法と違い、細か が、距離的なハンディによる採算性の問題などで、なかなか く砕いた貝殻の一片にカキの幼生・種苗を1個ずつ対にして 実現には至っていないのが実情だ。そんな中で、姉妹都市交 付着、養殖する方式で、豪州で確立された技術。 流から実現したカキのシングルシード方式は、厚岸のカキ生 水産関係者も本などでの知識はあったが、実際に見たこと 産の起死回生策の期待がかかる。 はなかったという。 江戸時代に厚岸沖で難破した豪州捕鯨船イーモント号は約 150年を経た現代、厚岸町に姉妹都市をプレゼントし、日本 中学生たちの報告を聞いて翌年と翌々年、町長や町の担当 初のカキのシングルシード技術を呼び込んだ。 者らがクラレンスの養殖施設を視察、日本で初めてシングル シード方式導入の検討に入った。 地元の言い伝え通り、本当に“宝船”だったのかもしれな この方式が軌道に乗れば、宮城種などの移入、養殖をして い。 大きな実りをもたらしている姉妹都市提携。21周年で来町したクラレンスの訪問団を歓迎する厚岸 の人々=2003年9月 厚岸町 ! http : //info.town.akkeshi.hokkaido.jp/ 人口:約1万2千人 厚岸湖および厚岸湾外海をふくむ72キロの海岸線に は漁村が点在し、丘陵地帯には酪農地帯が広がって いる。「厚岸湖・別寒辺牛湿原」はラムサール条約 にも登録され、5千年前からカキの生息が確認され ている。江戸後期から厚岸は国防上の拠点、海産物 面積:7 3 4. 8 の産地として注目された。1960年(昭和35年)には 一時、人口は2万人を越えたことがある。 国際交流の問い合わせ先 厚岸町まちづくり推進課 ℡(0153) 52―3131 138