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J.ゴットヘルフ「黒い蜘蛛」

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J.ゴットヘルフ「黒い蜘蛛」
Nara Women's University Digital Information Repository
Title
蜘蛛<女>への洗礼 : J.ゴットヘルフ「黒い蜘蛛」におけるスイス村
落共同体
Author(s)
吉田, 孝夫
Citation
奈良女子大学文学部研究教育年報, 第4号, pp.43-53
Issue Date
2007-12-31
Description
奈良女子大学文学部研究教育年報 第4号 特集1:ジェンダーと言
語文化
URL
http://hdl.handle.net/10935/590
Textversion
publisher
This document is downloaded at: 2017-03-29T05:06:30Z
http://nwudir.lib.nara-w.ac.jp/dspace
奈良女子大学文学部研究教育年報
4
3
第 4号
蜘妹 (
女) への洗礼
- J・ゴ ッ トへル フ 『
黒 い蜘 妹』 にお け るスイス村 落共 同体 一
吉
1.家 ・村 ・谷
田 孝 夫
窓柱 に開けた穴の中へ封 じ込 め られるのである。
ズ ミスヴァル トという、 スイスに実在す る小 さな村
この悪の封 じ込めのモチーフを、小説の形式 におい
を舞台 として、 ある言 い伝えが語 られる。 それによれ
てそのまま象 るかのように、二つの陰惨な出来事を、
ば、かって この村 に、 ボーデ ン湖畔の ドイツの町 リン
さらにもう一つの、 しか し内容的には全 く対極的な、
ダウか ら嫁 に来 た女、つまり村 にとっては本来 よそ者
平穏なる牧歌的物語が包み こんでいる。 いわゆる枠物
である女がいた。 ある時彼女 は、悪魔 と思 しき一人 の
語形式の成功 した一例であ り、 スイスの農村家族 の一
男 に誘惑 され、 口づ けを受 けた頬か ら、一匹の黒い毒
家最たる老父が、聴 き手 にせがまれた末、村の過去 に
蜘妹が現われ出る。 ドイツ人女性の頬 に鎮座す るこの
まつわる二つの事件を個別 に-
つまりそれぞれの蜘
蜘妹 は、後 に無数 の子蜘妹を産み落 とし、それ らは村
妹を自ら封印す るかのように-
物語 ってゆ く。
中に蔓延 して、数多 くのスイスの村 びとの命 を奪 った
とい う。
この悲惨 な出来事のおよそ二百年後、黒い毒蜘妹 は
老父 と聴 き手たちの集 いは、老父の家 にち ょうど生
まれた孫息子の洗礼式 に端を発 した ものである。 時 は
五月の日曜 日、美 しい春の山麓 を眺めるこの 「
主の 日」
再び村 を席巻 した。 そ してそのきっかけにな ったの も
は、昇天祭の祝 日にあた っていた。「
天使 たちが、 そ
また、先 の女 と同 じく 「よその土地か ら来 た」 1 放窓
して人間たちの魂が昇 り降 りす る梯子 は、なお も天 に
なる女性だ ったと、村の伝承 に言われる。
架か っていることの証明 として、かって息子が父の も
村外の出身に して、 しか も女性であるという人間が、
とへ と戻 ってい った 日」(
1
0
) に、 山の植物 たちは空
村の歴史 に残 る二つの大惨事の原因 とされる。 山国ス
を目指 して伸び咲 き匂 い、 あちこちの教会で鳴 らされ
イスの社会的風土が、村 ない し谷 という閉鎖的空間 と
る鐘の音が谷を満たす。
厳 しい家父長制 とによって構成 されていることを思 う
この平和 な情緒の外枠物語 と、黒 い毒蜘妹 にまつわ
とき、 このよ うな筋書 きは何 ら驚 くべ きものを もたな
る二つの枠内物語 は、内容 ・表現の細部 にわたる肌理
いだろう。 その種のスイス的性格 は、作品の随所 に示
細かな対応関係 を備えている。 「ドイツ語 の文学 にお
されてい る。 父親 は、 家 の 「主 (
Me
i
s
t
e
r
)」 (
1
0
0
)
いておよそ匹敵す るもののない完全 さ」
2を もっ と評
と して一段高 い位置 にあ り、 一括 りに して言 われ る
された、 この見事 な枠物語形式 のい くつかの細部 に本
「
妻 と子 (
We
i
bundKi
nd)
」(
7
6
) のために、 「保護
論 は言及す ることになるだろうが、例えば第一枠 内物
と監視」 (
71
) を施すべ き存在であるという。
語 において殉教す る女性 は、蜘妹の毒 による苦痛 に悶
スイス ・ベル ン地方の山村 を舞台 とす る作品 『
黒い
え苦 しみなが ら、 わが子 を救 いえた ことに満足 し、
蜘妹』(
1
8
41
年)は、改革派牧師イェレミ-アス ・ゴッ
「
神の恵みに感謝」 しつつ死 んでゆ く。 そ して 「天使
トへルフの短編小説である。1
9
世紀 スイスの家族的共
たちは、彼女の魂 を神の玉座へ導 く」 (
92
) のである。
同体観が、改革派 プロテスタン ト聖職者のキ リス ト教
昇天祭の冒頭箇所 との共鳴関係 は明白である。
的な家父長制的観念 によって一層堅固に守 られている。
昇天 という、天空への霊化 を目指す このベク トルに
キ リス ト教的な枠組をあまりにも明瞭に備えるこの
対抗 して、地上 と物質の領域 に人間をとどめようとす
物語 は、 あたか も聖人伝、殉教者列伝のごとくに展開
るのが悪魔であ り、それに属す るものとして、悪魔が
する。 結末 として毒蜘妹 は、信心深 き一人の うら若 い
あの村のよそ者女性 に産 ませた子 ども、すなわち黒 い
母親 と一人 の成人男性 とによって素手で掴 まれ、家の
毒蜘妹 たちがいる。「まるで土 中か ら湧 き出て くるよ
4
4
蜘妹 (
女) への洗礼
う」 (
6
8
) に、変幻 自在 に出没す る蜘妹 は、神 に叛 い
名前 には、 キ リス ト教的な寓意性が如実 に漂 う。 そ う
たまま自 らの罪性 に気づかぬ村 び とたちを、次 々 と餌
した人物 たちを包み こみなが ら、「
神 の祝福」(
9
8
) も、
食 にか ける。 累 々 と地面 に積 み重 な る彼 ら人間 と家畜
毒 蜘妹 の もた らす 「
絶望 」(
1
0
9
) も、 「谷 のすべて を
たちの無数 の亡骸、 「死者 の山」(
1
0
9
) は、天 に向 け
覆 って」(
丘be
rde
n ganz
e
nThal
e
)広が るのだ った。
て引 き揚 げ るすべ もな く重 い。
そ して老父 は、 この谷 を統率 す る一人 と して、 「ここ
作者 のキ リス ト教 的世界観 に基づ くこの垂直軸 にお
1
1
6
) とい う切実 な願 いを こめっ
に家が あるか ぎり」(
いて、顕著 な役割 を果 た しているのは洗礼 のモチーフ
つ、村 と家 の-
であ る。牧歌的な外枠物語 が、洗礼式 の祝宴 を背景 と
るべ き未来 を思 い描 く。
して展 開す ることはすで に述べたが、枠 内の二つの物
つ ま り特定 の個人 ので はない-
あ
キ リス ト教 の神 とい う男 と、悪魔 ・ 「
緑 の男」 (
3
8
)
語 もまた、 ともに赤子 の洗礼 を重要 な主題 と している。
とい う、男同士 の表象 のあいだ にあ って、家 とい うス
悪魔 の 目的 は、 まだ教会 の洗礼 を受 けていない赤子 の
イス的空間 もまた、家父長 とい う男 に支配 されている。
魂 を手 に入 れ ることで あ った。 そ して第二 の枠 内物語
村 びとは、重要 な集会 の場面 などで しば しば 「
男 たち」
で は、聖餐式 と洗礼式 をパ ロデ ィ して戯 れ、 「ス トー
(
42) と総称 され、 その一方 で 「女 たち」 は、 「料理 の
ブの下 に うず くまる犬 に洗礼 を施 した」(
1
0
6
)暴徒 た
仕度 」 (
31
) な どに忙 しい。 その上 に女 は、 冒頭 に述
ちの振舞 いが、毒蜘妹 の再来 の最終的な誘 引 とな る。
べ たよ うに、村落共 同体 を襲 う災厄 の媒体 ともな る。
天 の領域へ と導 くべ き神 の洗礼 と、 それに対立す る悪
家 ・村 ・谷 とい うこのスイス的生活空間 は、 どのよ う
魔 の洗礼 とのあいだ に、 スイス ・アルプスの谷が置か
な形 で共 同体 の構成員 を認可 してい るのだ ろ うか。 そ
れて いる。 その谷 に包 まれて、村 があ り、個 々の家が
してそ こに、身体的 ・文化的性差 は、 どのよ うに関与
ある。 アルプスの村 び とたちがその生 を形作 る根本的
して い るのだ ろ うか。一見 した ところ、素朴 に してあ
な空間 と して、家 ・村 ・谷 の三者 は、 それぞれ に入 れ
ま りに も明白な男女観がそ こにはあ り、覇権 を握 る男
寵 を成 す、一つの小宇宙 を成 している。
性 と、 それを周縁か ら補 い支 え る、 あ るいは逆 に脅か
物語 の登場人物 たちは、近代的 な個人 の表情 をおよ
そ うとす る女性 との対 (
ない し対立)の図式が見え る。
そ もたない。 ゲーテ 『ヘルマ ンと ドロテーア』 の叙事
いわゆ る近代 の家 のイデオ ロギーの ままに、男性 は、
詩 的世界 へ の近親性 を見 て、 「非個人 的な、類型化す
脇役 の女性 を単 に適宜、選別 的 に共 同体 に組 み入 れ る
る言語 」
3が評価 され るこの作 品 は、作者 自身 の述懐
ばか りなのか。
によ るな ら、 「ベル ンの土地 に特有 の形 で育 まれ たい
くつかの伝説 」
4を基 に して作 られ た ものだ とい う。
2.女 の腕
ベル ン地方土着 の伝説 に強 い関心 を抱 いて いた ゴッ ト
女性 の類型的な描かれ方 はた しか に目を引 く。 赤子
へル フは、具体 的 には、悪魔 との契約 の伝説 (
計略で
のために命 を捨 て る若 い母親 の 自己犠牲 的な姿 は、 あ
悪魔 を出 し抜 く物語型)、 ペス ト封 印の伝説、 そ して
る意味で聖人伝 のよ うに美 しく、 また同時に白々 しい。
蜘妹 と女性 の亡霊 にまつわ るアルプスの伝説 などを念
その対極 にいるのは、悪魔 と結 ばれた リンダウ出身 の
頭 にお きつつ創作 した らしい。 5 近代小説 の語 りで あ
よそ者女 であ る。夫 を罵倒 し、男 たちの話 し合 いに口
るよ りはむ しろ、民間伝承 の世界 そのままに、「
伝説」、
を出す彼女 は、 「家 にいて、静寂 のなかで 自 らの役 目
「
神話」、「キ リス ト教聖人伝 」
6に近 い文体 によ って物
を執 り行 うことをよろ こび とす る女 たち、 豪才 子 ど あ
語 を形作 っている。
/
=右の ことだけに気を配 るような女 たちの類ではなか っ
近代的個人 の内的表 白とは異質 な、古 き共 同体 の語
た」 (
44)
0
りのなかで、家 ・村 ・谷 とい う空間が描かれ る。 おそ
ゴ ッ トへル フ自身 によるこの斜体箇所 には、家父長
らくこの共 同体空間 こそが、 この小説 の本来 の主人公
制 的世界観 に対す る彼 の強 い思 い入 れを感 じ取 ること
であ るのだ ろ う。 外枠物語 の代父 と赤子 に始 ま り、枠
もで きるだろ う。 ここで文学史 のおさ らいをす るな ら、
内物語 の凶悪 な領主 や よそ者女 の夫 にいた るまで、幾
『黒 い蜘妹』 の成立 は ど- ダーマイア一期、 つ ま り革
人 もの 「- ンス」 とい う名 の男が現 れ る。 またよそ者
命 の挫折 による保守 ・反動化 と、 それに伴 う家庭的 ・
の女 ク リスチ-ネと弱気 な夫 ク リステ ンとい うよ うな
情緒的な ものの愛好の時代 にあたる。 ゴッ トへル フは、
奈良女子大学文学部研究教育年報
およそ40
歳の ころに小説家 としての活動を始める以前、
4
5
第 4号
にこそ、 ある積極的な意義が存在 したのだか ら。
リベ ラル穏 健 派 の立 場 か ら、 『ベ ル ン民 衆 の友 』
今一度確認すれば、 この小説の言語 は、近代の小説
(
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nd
)紙 に健筆 を奮 い、 容赦 ない
とは異質な、む しろ前近代的な物語類のそれに属す る。
社会批判 を展開 していた。 しか しゴッ トへルフは、急
ゴッ トへルフの作品は、近代 1
9
世紀の市民家族 と ビー
進化す る リベ ラル派 に反教会主義的傾向が露わになる
ダーマイア一文化の時代 の産物ではあるが、作品中に
や、逆 に極端 な保守派へ と「転回」
7を遂 げてゆ く。
描かれるスイスの家族 は、む しろそれ以前の時代 の、
「
世俗権力 と聖界権力の協力に基づ く」
「
平和的協調」
8
ときに中世的な雰囲気 さえ漂わせている。 これは、生
を夢見た この改革派聖職者 は、以後、小説家の肩書 き
産活動 と家庭生活がなお一体化 していた古 き大所帯家
を担 いっつ、民衆生活の向上 と信仰心の陶冶を目指 し
d
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us
)の一例 と見 なす こ
族、「
全 き家」(
てゆ くのである。「わた しは民への奉仕 の もとにあ り
とがで きる。14 いわゆ る 3K、教会
ます」
9-
『黒 い蜘妹』の物語 に、二度 にわたって
(
Kt
i
c
he
)
、子 ども (
Ki
nd
e
r
)の三要素 に女性 の持 ち
恐怖の蜘妹が出現す るところには、古来の伝統的権威
場を限定 し、女性の 「
禁治産者化」 と家庭空間の 「
情
と村の平和の破壊者 として、 ナポ レオ ンの投影を見 る
緒化」を進 めた、狭陰なる1
9
世紀的市民家族 とは厳密
者 もある。10
に区別 しなければな らない。15
ゴッ トへル フのそ うした保守性の激 しさは、蜘妹 と
(
Ki
r
c
he
)
、台所
民俗学者 ヴェ-バー-ケラーマ ンの歴史的概観 が示
化す女性 を含 めた、『黒 い蜘妹』 の女性描写 において
すように、た しかに家父長制 は、ゲルマン古代か ら近 ・
も、 当然 の ごと く指摘 されている。W ・フロイ ン ト
現代 に至 るまで ドイツ語圏の家族原理でありつづ けた。
は、男性支配を正当化するこの物語において、女性 は、
ついにはナチズムのイデオロギー的根底 を成す ことに
罪 と肉欲を体現する 「
女性」 と献身的な 「
母親」 との
なるこの文化 システムは、「
共同決定 とパー トナー シッ
「
役割の コン トラス ト」へ と 「ステロタイプ」化 され
プ的協力関係 の世界」
1
6へ とやがては克服 されて い く
ていると述べ る。 いわば 「自己愛の悪魔化 と自己犠牲
べ きものなのだろう。 ケラーマ ンは、1
9
世紀中葉 の文
の英雄視」 という構図のなかで、「デーモ ンとなって、
化史家 ヴィルヘルム ・リールの 『家族 』(
1
8
5
5
年) に
悪魔 に仕え る」女性 は、悪魔の誘惑 に屈 したイヴの原
少なか らず言及 しているが、それは、伝統的農民 と大
罪 を反復 し、他方、男性/夫 に仕 え る家庭 の母親 は
家族の家父長的精神を ロマン的に美化 し、 ナチズムの
「
女性 の理想像」へ と紋切 り化 されるのだ と。 そ して
「
血 と土」 のイデオ ロギー構築 に間接的に加担 した書
毒蜘妹欝を包み こむあの平和な外枠物語 は、女性の犠
物 だ ったか らで もある。「
男女の 自然 の差異」 に社会
牲の上 に成 り立っ 「自ら限定 し、かつ限定 された退屈
的な男女格差を根拠づ け、 とりわけ中 ・近世の 「
全き
な牧歌」 にす ぎないと言われる。11
家」 を理想化 した リールが、同時にゴッ トへルフの文
この指摘 にはた しかに首肯すべきものがあ り、身体
的 ・文化的性差 にかかわる 『
黒い蜘妹』の分析 は、 こ
学世界の極めて早 い賞賛者 ・理解者で もあったことは、
ある意味で 自然 な話である。17
れに尽 きるもの として終わるべ きなのか もしれない。
とはいえ、中世 に端 を発す る 「
全 き家」 は、少 な く
慧眼にもフロイ ン トは、第二 の枠内物語 において、毒
とも1
9
世紀の農村社会 まで生 き延 びてゆ く。次第 に農
蜘妹 のために激減 した村 の人 口が、「わずか二十数人
民人 口を減 らす ドイツ語圏のなかで、市民社会の家族
の男たちだけだ った」(
1
1
6
) と、「
男性のみ列挙」
1
2さ
モデルと一定 の距離を保 ちなが ら、それだけになお一
れていることさえ発見す る。
層重要 な伝統的モデルとして存在 し続 けたのである。
しか しこの論調 には、 ある種の もどか しさも残 る。
下男、下女 らも同 じ屋根の下 に暮 らす 「
全 き家」 の世
例えばグ リムのメル ヒェンなどに対 して、 その女性像
界 において、 「フ ァ ミリー」 の語源 で あ る F
a
mul
us
のいわゆる偏 りが指摘 され る場合にも似 た、ある種 の
とは、 もともと血縁者 に限定 されぬ、 あ くまで も 「
住
違和感である。前近代 に由来す るテクス トを、近代的
居 と経済 を共有す る者 」
1
8を意味 した。 そのなかで妻
な物差 しで安直に切 り取 って しまうことは適切 とは言
は、第一 に夫の労働パ ー トナーとして存在 したのであ
えない。後述す るように、前近代の世界像 においては、
り、例えば男が刈 り手 となる場合 には、女性が束 ね手
模範 とい う紋切 り型 に従 うこと、「
類型的な個人化」
1
3
の役割を担 ったよ うに、「
定住農業労働者 は、花嫁 を
4
6
蜘妹 (
女)への洗礼
選ぶ時には、娘の体力 と技術 に注 目」す るのだ った。19
まれる。 語 り手/ ゴッ トへルフの教訓的意図 は明 らか
だろう。 この枠内物語 を聴 き終えて、真 っ先 に悲鳴を
ゴッ トへルフ 『
黒い蜘妹』の家族 は、 この時代のカ
上 げる (
9
2
) の も、 これまた 「
代母」である。 ことも
テゴ リーによ くあてはまる。 最初の枠内物語が、 まさ
あろうに彼女 は、毒蜘妹を封印 した窓柱のす ぐ傍 に座
に中世 1
3
世紀へ と遡 るように、 このスイス的村落共同
らされていた。
体 は、近代 1
9
世紀の市民社会 とは異質 な世界 にある。
ところで、先の老父の言葉 (
2
0
) において注意 して
花嫁選 びにまつわる、次の箇所 は典型的だろう。 平和
おきたいのは、当然 といえば当然のことなが ら、村 に
なる外枠物語 のなかに、未来の世代の象徴 として登場
とって女性 は、何 よ りも 「
母」 として意味を もった こ
す る若 い 「
代母」がいるが、彼女 は、同 じく洗礼式 に
とである。 アルプスの厳 しい自然風土のなか、深 い谷
代父 として参加 した若い未婚の男を目に して好意を感
間に切 り拓かれた村 ・家族 という小世界の維持 と継続
じ、教会 までの短 くはない道の りを、赤子を懸命 に抱
こそが、 この山の人 びとの最大の使命 と願 いであった。
えつづ けてい くのである。 それは、「いかに自分 の腕
そ して女性 は、「
屋根」、「
安 らかな屋根」 (
7
3) に象徴
が強 いか」 (
2
0
) を誇示す るためであ った。 この外枠
され る 「家」 のなかで、「
母」 として子孫 を残 してゆ
物語の語 り手、すなわち家長たる老父 は、代母 の振舞
く営みに、個人 の意志や感慨を超えた意味を もたされ
いをこう解説す る。
ていたのである。
第一 の枠 内物語 は、正確 には中世か ら語 り始 めるの
まっとうな農夫 にとって、妻の力強い腕 は、華奮
ではな く、遠 い古代、「
人類が誕生 した と言われ る遥
な、だ らしない楊枝のような腕 よ りもず っとふさ
かな東方か ら」、 このアルプスの山中にスイス人 の祖
わ しい。 そんなものは、冷たい北西の山風が、そ
先がたどり着 いた、 とい う言 い伝えにまず言及 してい
の気 になればいっで も吹きほどいて しまうだろう。
る。「われ らが救 い主が、 まだ この世 に姿 をお示 しに
母が力強い腕を していることは、多 くの子 どもた
なるよ りも前 に」 (
32
)
、 このズ ミスヴァル トの村 は存
ちにとって、ず っと救 いだ った。父親が死んで し
在 したとい う。 小説 の随所 に施 された聖書的言語 の暗
まえば、母 は一人で朕の責任を担 い、家政 という
示 についてはシェ-ネの卓越 した論考があるが、 なか
車を、 いっ落ちるとも知れぬい くつ もの穴ぼ こか
で もこの冒頭の短 い一節 には、創世記の響 きが寵 め ら
ら、救 い上 げなければな らなか ったのだか ら。
れている。20 外枠物語 の語 り出 し、つ ま り小説全体 の
(
2
0
)
語 り出 しにあたる牧歌的な山の描写 には、 スイスの谷
とい う小宇宙の創世記が意図されているのである。
か弱 く繊細な市民家庭の母 とはおよそ異なる女性が、
谷の共同体の系譜、谷を生 き継 いで きた人 びとの系
この村の理想的女である。 女の理想像 を立て ること自
譜が この小説 の主題であるとき、そのなかで女性や男
体 に対す る近代風の疑念 はさておいて、今 はこの中世
性たちは、 どのような役割を担 うのだろうか。女性描
的世界 をたどっていこう。 それはもちろん、「
父親」
写をめ ぐる、先 のフロイ ン トによる批判的な指摘 は、
という権威の下での役割にすぎず、出す ぎた物言 いは、
近代小説 を見 るまなざ しで中世民話の素朴 さを非難す
男によってやはり碧め られる。少 し後で彼女 は、「きょ
るような無理 を犯 している。 そ して何 よ りも、肉欲 を
うびの若 い男 どもときた ら」、「町の旦那か、 あるいは
悪魔 と結 びっ けるばか りで、肝心の家の存続 に関わ る
書記で もあるかのよ うに」(
2
8
f
.
)、愚かな仕事ぶ りだ
「
母親」 の出産能力への 目配 りがない。 た しか に リン
と、役 に立 たない軟弱な男性たちを批判す る。 それに
ダウの女 は、悪魔 とのあいだに出来た子 どもであるか
対 して語 り手 は、「
強い代母 さん」 (
2
0) と皮肉混 じり
のよ うに、無数の毒蜘妹を誕生 させているが、並行 し
に彼女を呼んだ末、第一の枠内物語で は、悪魔 を招い
て、村の敬度 なる母 たち もまた、 きちん と出産 してい
たよそ者 の女、夫を尻に敷 くリンダウの勝気な女 ク リ
る。 英雄的、殉教者的な一人の母親の 「自己犠牲」的
スチ-ネに、 この 「
代母」を重ね合わせ るのである。
な姿の傍 らで、彼女 を含む母 たちの、村 のための出産
赤子を革 めて狂乱す るク リスチ-ネは、「強い男たち」
の営みは、小説 の解釈 において等閑視で きるものなの
によって、つまり男たちの腕力によって逆 に押 さえ こ
だろうか。作品のなかには、 いわば肯定的なイヴの姿
奈良女子大学文学部研究教育年報
第 4号
4
7
も、 ゴッ トへルフの教訓的意図に反 して現われ出てい
ン ・シュ トッフェル ン (
男)-② 〔
悪魔到来を決定づ
るのではないか。
ける無法者〕 リンダウ人 (
女)-③ 〔
救済者〕敬度な
若 い女 とその義理の母 (
女) となってお り、同 じ構図
3.男 ・女 ・子 ども
において第二枠内物語では、`
① (よそ者)の女 とその
悪の根源が、よそ者 の女 とい う二重の辺境的存在 に
親類 (
女)-②最 も大胆不敵な下男 (
男)-③ ク リス
帰せ られているという見方 は、 テキス トに即 してみれ
テ ンと捨て子の少年 (
男)へ と物語 りは展開する。 さ
ば、実の ところ正確ではない。 まず、第一の枠内物語
らに、 よそ者 とい う意味では、 もともと領主- ンスを
において、悪魔 との結託を惹 き起 こす本来の原因を作 っ
暴挙 に馬
区り立てた極悪人である 「
若 いポーランドの騎
たのは、村の領主ハ ンス ・フォン ・シュ トッフェル ン
士」 (
86
) を、第一枠 内物語 の① の箇所 に加え ること
この男 は、1
6
世紀 にズ ミスヴァル トを支配
もで きよう。 いずれに して も 「
性別 に関わる一面的な
下 に置いた実在の ドイツ騎士団員だが、暴君ぶ りの記
印象 は、すべて取 り除 くとい うゴッ トへルフの企図」
録 は残 っていない とい う21-
が、 この相互対称的な構図に示 されている、 とフェ-
の悪政-
であ った。 この男 に常
軌 を逸 した賦役労働を強制 され、村びとたちは悪魔 の
アは言 う。22
力を借 りることを選択す るのである。 この領主 は ドイ
彼の主張 によれば、 この民話的小説 の眼 目にな って
ツ南部 「シュヴァ-ベ ンの国」(
3
3
) の出身であ り、
いるのは 「キ リス ト教的 ヒュブ リスのモチーフ」、人
つまりよそ者の (
男) こそが、悪魔の出現に発端に立 っ
間の思 い上が りである。 ゴッ トへルフは 「ルター派」
ていたことになる。
に属す るが、 ここでは、善悪の間に立 たされた人間の
第二の枠内物語で も、横暴勝手なよそ者の女たち、
「
決断の自由」が物語 として試 されているのだと。23 ち
「
主人気取 りの女 たち (
Me
i
s
t
e
r
we
i
be
r
)
」(
1
0
4
) は、
なみにゴッ トへルフは、ルター訳聖書を高 く尊重 して
正確 には悪魔の到来の下準備 を行 ったにす ぎない。華
はいたが、2
4先述 のよ うに改革派 の聖職者であって、
美を好む彼女たちは、古 い家を嫌 い、 自分たちのため
ルター派ではない。
には新 しい家を建て る。 そ して毒蜘妹の封印された不
この小説を、 フェ-アのよ うなキ リス ト教的ない し
気味な家 は下男 ・下女の管理 に任せて しまうのである。
カ トリック的な人間観 と罪の観念で読む ことは、聖人
ここで冒涜的に教会の儀式をパ ロディし、ついに毒蜘
伝的な全体 の印象か らすれば当然 の ことだろう。 しか
妹を蘇 らせて しまったのは、「どこの出であるのか、
しこの作品は、たとえ聖職者の筆 になるものとはいえ、
だれ も知 らなか った」 (
1
0
5
)一人 の下男である。「リ
純粋 に宗教的な主張だけに還元で きるものではないと
ス」 のよ うな 「
赤 い」 (
1
0
5
)髪 の毛 を し、「悪魔 その
思われる。 キ リス ト教的にすべてを読むには、スイス
もののように猛 り笑 った」(
1
07
) という彼の描写 には、
土着の特殊 な共同体 の姿、特殊 な風土性があまりに濃
第一の枠内物語における悪魔の姿 (
3
8,5
7
)がオーヴァ-
厚なのである。
ラップす る。
(
女) の弁護 を続 けるな ら、 ク リスチ-ネを一人残
毒蜘妹の大惨事 は、本文中で 「黒 い死」(
9
2
) と呼
ばれている。 それは神 に叛 いた人間への罰である以前
して逃 げ去 った り (
45
)、彼女 の言 いな りにな って、
に、ペス トと村 との実 に リアルな闘いの痕跡であった。
自分の責任を回避す ることだけに懸命な村の男たちの
そ して 『
黒 い蜘妹』の基層を成 している伝説 ジャンル
姿 (
Z
.
B.7
2
,8
3
) は、 なん とも頼 りない。 それ に対
は、例えばよ く知 られた (
--メル ンの子 どもたち)
して、男たちに対 し最後 の抗弁 を行 った 「
老婆」 (
5
3
)
の物語がそ うであるように、核 を成す史実の痕跡 と民
や、極秘であるべ き村 びとの計略を、司祭に決然 と告
衆層 ・教養層の幻想 とのアマルガムによって こそ成立
白 Lに行 く 「ひとりの女 」 (
6
0) など、 ご立派 な女性
しているものである。
たちを少 なか らず挙 げることもできる。
さらに、本論では詳 しく述べ ることはできないが、
物語全体 としての構図 は、 ゴットへルフ研究の開拓
この小説 には、 キ リス ト教的な装 いの陰で、異教的 と
者的存在 の一人、K ・フェ-アの文献 (
1
9
4
2
年) のな
呼んで もよい、ベル ン地方土着 のさまざまな習俗 ・風
かで、すでに明快 にまとめ られている。 すなわち第一
習が織 り込 まれている。 つまりこの作品には、悪魔対
枠内物語では、① 〔
発端 の無法者〕騎士ハ ンス ・フォ
神 という純粋 キ リス ト教的な二項対立ではな く、 アル
4
8
蜘妹 (
女)への洗礼
ブスの自然的 ・地理的風土/ スイス土着の文化/キ リ
対象 とな らぬかぎり、村 びとたちは、近代の (
個人)
ス ト教 とい う三つの層の緊張関係 を認めるべ きなので
とい う自己完結的な鎧の内部へ閉ざされることな く、
あ る。 作 品 の要所 には、 Br
auc
h(
1
5
)Si
t
t
e(
6
0,
む しろ外 なる役割へ と自発的に身を委ねて、特殊な開
1
1
4) といった慣習 ・習俗 を意味す る言葉が現れるが、
放感 と安息感を生 きていたことだろう。
それを具体的に示す例の一つ として、作品内に点在す
ところで フェ-アが提示 した対称的な構図 は、 スイ
Zt
i
pf
e
)
」 とい う
る食事の場面がある。「ツユプフェ (
ス農村の役割分担の明快 さそのままに、男女のどち ら
ベル ンの郷土料理を始めとして、宴の料理 に舌鼓 を打
にも等分 に、共同体への善/悪が生 じうることを示 し
つ祝祭の情景 は、たとえ語 り手のキ リス ト教的意識 に
ていた。 しか し村の構成員 にはもう一つ、いまだ成人
よって最終的には抑制 されようとも、実 に不思議なほ
にな らぬ、子 どもとい う層が存在す る。「
結婚生活か
ど生 き生 きと描かれている。
ら子 どもが生れては じめて夫 は自他 ともに認 める家父
食 と並んで、洗礼 にまつわる場面 もまた、そ うした
長 となることがで きる」29 と言 われ る、 この (
小 さな
ベル ン特有の文化的風土 を示す顕著 な例である。 すで
大人) は、ニュー トラルな存在性か ら、 どのよ うな形
に述べたように、赤子の洗礼のモチーフは、 この短編
で共同体 に組み入れ られてゆ くのか。そ して、 この子
小説を一貫す る柱であるが、例えば赤子の洗礼 に若 い
どもという問題的存在を産み出だす ことが可能な存在、
代父 と代母が参加す ることは、同時に彼 ら自身の男女
つまり女性 は、村組織 のなかでどのような位置価値 を
の出会 いと結婚を準備す るという、ある意味では不謹
担 っているのか。
慎な機能を兼ねていた。村 の存続のために重要 な意味
合 いを もつ、異教性 とも無縁ではない 「
農村洗礼の習
俗」25 だ ったのである。
4.産むこと ・敷居
この小説のなかでは、二種類の異 なる結婚 と出産が
中世的心性 における、 キ リス ト教思想 と異教的世界
行われている。 一方 は村の通常 の婚姻 ・出産であ り、
像 の混交 の さまを的確 に描 出 した A ・グ レー ヴィチ
外枠物語 に一人、枠内物語 に三人、合計四人の赤子が
の 『中世文化のカテゴ リー』 は、洗礼 とい う儀式が、
生 まれている。 その うち一人 は 「
黒 い死」の犠牲 とな
単 にキ リス ト教的な意味を もっただけでな く、 「中世
るものの、最終的には全員がキ リス ト教的 ・ベル ン土
の共同体 における個人 の加入認可 の特別 の手段」2
6に
着的な洗礼を受 ける。 悪魔の洗礼に遅れをとるまいと、
な っていた と述べ る。「
人間存在 を根元的 に揺 り動か
司祭側 は急いで儀式 を執 り行 う。 この赤子たちの性 に
す変容」、 すなわち 「
homoc
a
r
ni
s(肉なる人間) あ
こだわるな ら、明示 されない第一枠 内物語の三人を除
るいは ho
mona
t
ur
al
i
s(自然的人間)」か ら、「
ho
mo
いて、第二の枠内物語での唯一 の子 どもと、外枠物語
Chr
i
s
t
i
anus(キ リス ト教的人間)」へ、 「信仰者 の共
の平和な家庭の子 ども-
同体の成員」への変容 として体験 された洗礼 は、中世
の小説 において、 ただ一人、未来を象徴する重要 な存
の人 びとの人生 を、土着の 「
社会的共同性への関与」
在である-
によって決定づ けるものであ った。27 『黒い蜘妹』 にお
的家父長制の何が しかの反映であるのだろう。 ちなみ
け る洗礼 は、 いわ ば スイ ス ・キ リス ト教 的人 間、
に第二枠内物語、狂乱の女 による出産の情景 は、後述
ho
moHe
l
ve
t
i
c
us
Chr
i
s
t
i
anusとで も呼ぶべ き独特 な
す るように、村 と新 しい生命 との関係 についてある重
る土着的存在への加入儀礼である。
要 な示唆を与えるものである。
過去の言 い伝えか ら成 るこ
が、共 に 「
息子」であることは、 スイス
た しかにそれは、ho
moというラテ ン語男性名詞 に
上記の村 びとの出産 に対 して、他方、第一の枠内物
基づいた、男性中心主義への偏向を示す ものであるの
語 における、悪魔 とク リスチ-ネとのあいだの結婚 と
だろう。 男 は力仕事を担 い、家を指揮 し、女 は力仕事
出産がある。 この結婚が、 ファウス ト伝説のよ うな単
の補助を しつつ、家事 ・出産 ・育児を担 う。 農村 の、
なる悪魔 との契約ではな く、男/悪魔 と女/人間 との
このあまりにも明快な役割分担のなかで、 スイス的な
「
結婚」 として、つ ま り村 の聖 なる結婚 に対す る、 い
男 と女が作 られてゆ く。 前近代的な個人 は、 この社会
わば反対像 としてイメージされていることは、そのす
的役割、外 なる典型性 に自らを投影す ることで、 自己
ぐ後 に描かれる嵐の夜の描写か らもわか る。
を 「
遠心的 に」28 認識 していた。 その典型性が懐疑 の
奈良女子大学文学部研究教育年報
荒れた (
wi
l
d)夜 になった。空の風 も山峡 も捻 り
第 4号
4
9
この出産 は、厳密に言えば、先に述べたこっの結婚、
どよめいた。 まるで夜の霊 たちが黒雲 のなかで結
すなわちキ リス ト教的結婚 と悪魔的結婚 との中間的な
婚を祝 い、恐 ろ しい踊 りを舞 う風たちが荒々 しい
位置にある。 そ してその ことにより、出産 と子 ど もと
(
wi
l
d)輪舞を戯れ、稲光 は結婚の松明の ごとく、
いう問題 に関す る、キ リス ト教的な評価軸 によるのと
雷鳴は結婚 の祝福であるかのようだ った。 (
49
)
は別の重要 な示唆を与えて くれる。 家へ と迫 りくる狂
乱の若母 は、 ある力 によって、突然 にその行 く手 を阻
形容詞 wi
l
dは、 この小説の随所 に現れ る。 キ リス
まれる。
ト教的悪魔表象の装 いの下に、 スイス人が対略 して き
た厳 しい自然風土の存在を示す、 いわば、 スイス的生
戸 口の下 のところで、走 り寄 る彼女を痛みが押 し
存圏の成立 に関わ る注意すべ き言葉なのだが、 これに
とどめた。戸 口の柱 に しがみつ きなが ら、女 は、
ついては別の場所で論 じるはかない。 この時、「
悪魔」
哀れなク リステ ンに呪誼の言葉をとめどな く浴 び
との結婚を祝 って荒れ狂 うスイス的自然の猛威か ら人
せかけた。あんたこそ司祭様を呼びに行 くべ きだ、
びとを守 るかのように、「
一棟の大 きな家」(
49)が立 っ
この世 と永遠の世 において、末代 まで呪われた く
ている。 スイス的共同体の象徴 としての (
家)が、不
ないな らね。 しか し痛みのために罵 りは押 さえつ
安 におびえる村 びとたちをその中に集めている。
けられ、やがて この荒々 しい女 は、 ク リステ ンの
家 には、そこへ入 るための敷居 というものがあ り、
家 の敷居の上で、男の赤ん坊を産みお とした。女
この ミクロコスモスを危険な外界か ら隔て る境界 とな
の後を追 って きた人 びとはみな、あまりにもおぞ
る。 この 「
敷居」が、小説のなかでは何度か言及 され
ま しい出来事 を見て四散 していった。 (
1
1
2
)
てお り、共同体への認可の象徴的な役割を担 っている。
まず第一枠内物語 において、「
良心」(
6
0
)に苦 しむ一
敷居は、女 と赤子を拒否 した。信仰心を失 った 「
荒々
人の女か ら悪魔 との契約の事実を知 らされた司祭が、
しい」女 と、信仰共同体への認可 を受 けていない生 ま
勇ま しく産婦 の家 に向か ってい く。 そ して清めた水で
れたての赤子 は、敷居の内部 という聖空間に、 いまだ
「
悪霊 ども」の踏み越え られぬ聖域をっ くり、「
敷居 と
入 ることがで きない。 スイスの農村 に残存す る中世的
部屋の全体 に祝福 を与えた」 (
61
) のだ った。 スイス
心性、つま り子 どもを、「
精神病者」 など 「
社会 の質
的生活圏 の安全 が ここに保障 され る。 「安 らか に」
的に劣 る、 マー ジナルな要素 と同一視」
3
0す る心性 を
(
61
) 出産 を済 ませ た産婦 を、 同 じく 「安 らか な」
ここに見て とることがで きるか もしれない。女だ けで
(
61
)夜の山の風景が包み こむ。
な く、子 どももまたよそ者 なのである。
「
敷居」 は、 (
家) という聖域の存在を、第二の枠
家 とい うミクロコスモスの外側か ら、生命力の権化
内物語 において もう一度意識化す る。 母 と妻 の支配下
としての子 どもがや って くる。 別の言 い方をすれば、
にある優柔不断な男 ク リステンは、家父長/父 にふさ
嫁 という部外者を とり、家の外なるエネルギーに預か
わ しくない性格 こそが蜘妹の復活の原因にな ったのだ
ることによって家 は持続す る。敷居の上での出産 とい
と、村 びとか ら非難 される。 とりわけまもな く出産す
う、 この少 なか らず グロテスクな情景 は、家 とい う小
る予定 にあった 「
一人 の荒々 しい女」(
111
)-
宇宙の微妙な境界性 を表 している。
ここ
にも悪魔的な wi
l
dの表象が用 い られ、 しか も 「女」
(
We
i
b) の語 と効果的な頭韻 を成す-
女や子 どもとは異 な り、蜘妹 は、 いともたやす くこ
の怒 りは激 し
の圏域 を出入 りしてい く。 蜘妹の出現 は、村落共同体
か った。 「
神への信頼 などおよそ もたず、 それだ けに
のタブーが侵 された ことに起因 していた。一個人 を超
一層の憎 しみ と復讐心 を抱いた」彼女 は、 ク リステ ン
えた、 マクロコスモス的な力の象徴である蜘妹が、 日
の家 に、あのかって蜘妹を封印 した 「
古 い家」 に、狂
常世界のなかへ乱れ入 る。家々の内部へ自由に侵入 し、
奔のさまで押 しか けるのである。 その様子 は、「元 の
死 の苦 しみを家族 に与えた後、毒蜘妹 は、 ほかで もな
姿そのままのク リスチ-ネ」 (
1
1
2
)か と思われたとい
い 「
敷居の上」 (
1
09
)か ら、その様子を振 りかえ りつ
う。 数百年 の時代 を隔てた二つの枠内物語が、 この一
つ見っめるのだ った。
瞬にお互 いを照 らし合 う。
敷居の上 の産婦 は、蜘妹それ自体ではない。 しか し
5
0
蜘妹 (
女)への洗礼
その不可思議な力の一部 に預か って、 まるで 「
蜘妹そ
ス ト教的呪術を間近 に受 けて、悪魔の口づ けの場所が
れ自身であるかのように」(
1
1
3
)
、「
荒 々 しい」(
1
1
3
)
「
炎の鉄」のよ うに痛み出 し、子 どもを危 うく 「
地面」
視線 をク リステ ンに突 きつける。 スイス的共同体 にい
に落 としそ うになる。
まだ馴化 されぬ存在が ここにある。
生命 は、 この 「
地面」 と村 ・家 とのあいだを こそ行
やがて蜘妹 は、 ク リステ ンの手 に包 まれ、彼 の手を
き来 しているよ うに見える。 この物語 における、 キ リ
毒で苛みなが ら、 この古 い家に持ち帰 られる。 そ して
ス ト教的な昇天の構図は、 ゴッ トへルフの意図 とは無
敷居の上 の産婦 は、蜘妹 と一体化 した男 ク リステ ンに
関係 に、 ひとっの装 いにす ぎない。悪魔 と称 され る男
引きず られ、いわば彼 らのマクロコスモス的な力 に共
は、司祭の呪術 を受 けて 「
大地 に飲み こまれ る」 (
80
)
に流 され るように、家のなかへ、 カオスと化 した家の
のだ った。悪魔の 「
緑」色 は、むろん狩人表象 と悪魔
なかへ入 ってい く。 蜘妹 は、かっての我が家へ と帰還
との伝統的結合の反映ではあれ、「
草の中」 (
82
,89)
す る。
に消えてはまた現れ る蜘妹 たち、「
地面か ら湧 き出て
第一の枠 内物語を思 い起 こせば、蜘妹 は、村中の家
を悲惨 の底 に追 いや る一方で、「ただ一軒 の家だけ」
(
8
9
) は無傷 のまま残 し、最後 にそ こへ と帰 ってい っ
くるよ うな」 (
68) 蜘妹 たちの生態 と意味 あ りげに響
き合 う。
スイス人作家 W ・ムシュクによる1
9
4
2
年 の論考 は、
た。 それはク リスチーネの家、つまり蜘妹を産み、 ま
先 に言及 した同年 の フェーアの著書 と並んで、 『黒 い
た自らも蜘妹その ものと化す人間の家 として、 いわば
蜘妹』批評を本格的にスター トさせた記念碑的論文で
蜘妹 自身の家で もあった。 この場所で蜘妹 は、信仰篤
ある。1
9
4
0
年代 とい う時代性か ら、「
二度」 の大戦 を
い若母の手 によって封印されるのだが、実 はこの女性
経てようや く毒蜘妹の正当な評価が可能 にな ったとい
の夫 とク リスチ-ネの夫 は兄弟である、 とい う設定 に
う言 い方 もなされ る。31 っまり蜘妹 は悪 の象徴 とい う
なっている。つまり二人の女性、敬度 なる女性 と悪魔
わけだが、 ムシュクは、 この毒蜘妹が女であることを
的女性 とは、 いわば一組の姉妹なのである。 しか もこ
ゴットへルフの 「
天才的創意」 と評価 し、 この 「
怪物」
の敬度 な女性 は、「自分の親類など一人 もいない」「
孤
的存在が、 ゴッ トへルフにとってまさに 「
現実的」 な
児」 (
71
) として家 に来 た とい う、 これ もまた一種 の
存在であ った ことを示唆す る。「まさに如何 と して も
よそ者であった。
名づ けよ うのない もの」 を表現す る蜘妹 は、 「
常 に変
この ことは、家 という空間を包む聖 なる力の二義性
身」 しっづけ、「あ らゆる理性的な説明を噺笑」す る。
を表 して興味深 い。生命を呼び込み、 また何処かへ と
蜘妹 は、「ペス トであ り、暴政であ り、人間のあ くど
連れ去 ってい くマクロコスモスの力の二義性である。
さ、戦争、情念、悪魔-
看過 してな らないのは、蜘妹の致命的な毒 の強 さだけ
に存在す るあ らゆる戦懐を意味す る。
」
3
2
あ らゆる姿で現れた、世界
でな く、 その驚異的な出産力である。 第一の枠内物語
ムシュクが言 う 「
戦懐」か ら、む しろ否定的な意味
において、二人 目の赤子の略奪 に失敗 したク リスチ-
合いを取 り去 ってみたい。蜘妹はむ しろ、R ・オ ッ トー
ネの頬か ら、「
無数 の黒 い蜘妹たち」 が次 々 と産 み落
が言 った 「
聖 なるもの」 に近い、 ア ンビヴァレン トな
とされる。 グロテスクではあるが圧倒的な印象を与え
超越的体験を体現す るのではないか。 ムシュクには、
るこの繁殖力の表現 は、わずか一人の赤子を産み、そ
より重要 に思われ る次のような指摘がある。 すなわち
の行 く末 に汲々 とす る村の人間たちの姿 と好対照を成
「ゴッ トへル フにとって、人間の生、文化 の存続 は、
している。 この蜘妹の生殖の図は、谷の人間たちの密
倫理的な問題である。
」
3
3
かな願望夢でさえあったのではないか。
家の存続を至上命令 とす るアルプスの民俗的生。周
司祭の聖 なる魔術 によって人間の肉体を失 い、やが
囲の暴力的な自然 との闘いのなかで、正統的なキ リス
て蜘妹女 その もの と化す ク リスチ-ネは、「孤児」 で
ト教の範噂をいっ しか逸脱 した、 スイス土着 の、特殊
あ った若母 の出産 の場 に 「
熟練 の産婆 」 (
62
) と して
ベル ン的な生活規範 ・儀礼が築かれ る。 力仕事 と戦闘
居合わせた とい う。 しか も彼女 は、時を急 いで行われ
を担 う男中心 に作 られたその文化 システムのなかで、
た洗礼式 に 「
代母」 として立会 っている。 つねに出産
生殖、子孫繁栄 は、女 という辺境者の助 けを もって初
の相の もとに置かれたこの女性 は、 しか し司祭のキ リ
めて成就す る。 日常世界 という男中心の ミクロコスモ
奈良女子大学文学部研究教育年報
第 4号
5
1
スに対 して、産み出だす力を体現す る女性 は、 マクロ
に一つの祝福であった。柱の毒蜘妹 を、「
光輝、幸福、
コスモスの力を移 し容れる媒体 に して器 となる。
3
6の現われ として肯定的 に捉 え る見方 は、 すで
祝福」
谷の日常 とい う小宇宙のなかに、外部か ら関与す る
大宇宙の力の魅惑 と脅威-
にキ リス ト教的解釈のなかで行われている。 改革派神
それをゴッ トへルフは、
学、具体的にはツヴィンブ リ/ カル ヴァン的な予定説
よそ者の女の表象の もとに表現 した。例えば近世 にお
のなかで、人間の罪性の自覚 に貫かれた清廉潔白な生
いて、「たいていの夫婦 はかな り狭 い近隣の地域や、
活 と、此岸的世界 における物質的繁栄 は、互 いに排除
家庭の友人の中で、 あるいは公の祭 りの機会や、農場
し合 うものではなか った。外枠物語 における豪華 な洗
で労働 を共 に しなが ら知合 った ものだ った」
3
4とすれ
礼 の宴 は、すなわち神の選 びの しる Lとして解 され う
ば、 ドイツか ら来たとされるク リスチ-ネの異質性 に
る。 しか しなが ら、 スイスの家族 ・村落共同体 と土着
は、 はか りしれないものがある。家父長制社会内での
の自然 との相互関係 に照 らして毒蜘妹の意味を考え る
女性の現実的位置が、「ドイツ」、「よそ者」 とい う言
とき、そ うしたキ リス ト教性 とは別 なる相貌 もまた現
い方のなかに強 く凝縮 されている。
われ うるということを、 ここでは確認 しておきたいの
蜘妹 とな ったク リスチ-ネは、 はかの誰 よりも自ら
である。
の夫に対 して 「
最 も惨た らしい怒 りをぶちまけ」(
90)
、
最 も残酷な死を与えたという。 村で疎外 される彼女を、
5.儀礼 ・語 り
ついに夫 は守 り支えなか った ことへの復讐である。 ク
聖職者 ゴッ トへルフは、外枠物語を語 る家長の老人
リスチ-ネが、村の男たちに対 し、よそ者である自分
の姿を借 りて、信仰 と謙譲 とい うキ リス ト教的教訓 を
への不当な扱 いを訴える場面 は、彼女がいわゆる悪役
説 くように見える。 しか し彼が対決すべ き敵 は、 キ リ
であることを忘れさせ るほどに切実である。 村 びとた
ス ト教の神 に対す る悪魔だけだ ったのではない。 た し
ちか ら、およそ真心 を もって扱われたことがな く、村
か に彼 は しば しば 「
異教」 (
33) 的な存在 に言及 し、
の女 たちにいた っては、「ボーデ ン湖 は、城 の池 よ り
その 「
神 を も悪魔 を も畏れぬ」 (
33) す さんだ姿 を否
も大 きいと彼女が言 っても、絶対に信 じようとしなかっ
定的に描 く。 しか しそ うした 「
異教」的描写 は、先述
た」 (
52
) とい う。 村 の偏狭 さ、村 の否定的側面 は、
の形容詞 wi
l
dとも共同 して、 む しろ彼 らスイス人が
ゴット-ル フによって確かに記述 されてお り、つまり
築 いたスイス伝統の習俗 にこそ敵対 しているように思
この小説をキ リス ト教の神 とスイスの村を絶対善 とす
える。
る、単なる勧善懲悪の物語 として捉えることはやはり
難 しい。
村のこのような負の描写 を見逃す ことな く、 スイス
小説 冒頭の平和な山の情景 は、 スイス的共同体 とそ
の習俗 とに調和 した自然の姿であるのだろう。 そ こに
言及 される鳥たちはみな、家族を作 るためにさえず り、
の村 ・家の存続 にとって、女性 ・子 どもとい う部外者
「
結婚の輪舞」 (9)を踊 っている。 結婚 と出産を主要
が意味す るものを包括的に捉えたい。生命の更新 に関
な使命 とす るこのスイス的共同体 は、外枠物語の若 い
与する女性 は、中世的世界観 に従 うか ぎり、一つの象
代母 に、その将来を託 している。洗礼の祝宴 において、
徴的存在 と して現れ る。 そ こで、「
大地 の豊浜性が女
この娘 は しきりに飲食を勧 め られ るが、彼女 はまた見
性的に理解 され るのは、人間の女性の出産能力が大地
事 にそれ らを腹の中に納めてゆ く。 代母 はここで、村
の生産 リズムへ と説明の型 として転用 されたか らでは
の伝統の食 をなかば強制的に受 け取 らされることで、
ない。そうではな く、先行するのは大地のほうである」
、
同志 として、村共同体の認可 を受 けるのである。 そ し
と言 うのは H ・ベーメである。 人間 とは、 「コスモス
て これは、辺境的存在 としての女性が、身体性 と精神
のプロセス」を反復す る存在であ り、つまり 「出産 と
性 の融合す る食 という行為 において、村 という共同体
は、人間女性が大地 の母の聖 なる出産行為を反復す る
への加入度 を深める一方、同時に外 なるマクロコスモ
ミメ- シス」 なのである。35 ク リスチーネとい う蜘妹
スの生命力が、村の儀礼の制御の もとに村内へ と入 っ
は、広大 なるマクロコスモスか ら流れ入 り、そ してま
てい く瞬間で もある。
たどこかへ と流れ去 る生命力の現われなのだ った。
その意味で毒蜘妹 とは、 スイスの家 にとって明 らか
洗礼式 において、子 どもとい う部外者 と共 に、 この
成人の女 という部外者 にも新 しい洗礼が施 される。 そ
5
2
蜘妹 (
女)への洗礼
して女の姿の もとに具現化 された毒蜘妹、 あの生殖力
べたが、 ゴッ トへルフの基盤 はあ くまで も啓蒙主義、
にあふれた大宇宙の力 もまた、 しば し村の習俗の管理
それ も民衆 の啓蒙 にあった。39 改革派 キ リス ト教 に基
下 に置かれるのである。 枠内物語 に描かれたように、
づいた独特 なる保守主義の もとに、民衆 の生活改善へ
いっまた荒れ狂 うや もしれぬ破壊的な力は、平和 な外
の意志 を もちなが ら、 しか し彼が描 く悪 は、 なぜか魅
枠物語の中に包み込 まれ る。 老父 によって物語 られる
惑 に満 ちあふれ、教訓的言述を覆 い隠す ほどである。
この言語的プロセスは、それ自体、大 いなる霊の鎮 め
ゴッ トへルフの啓蒙主義 に潜む野蛮性、つま り自然 と
の儀式である。
い う野蛮 さを、同程度かそれ以上の野蛮 と暴力で克服
民間伝説的な語 りが一貫するこの1
9
世紀の小説 には、
しよ うとす る、啓蒙的精神の典型的な矛盾を ここに見
非 日常的な ものの 日常への侵入 に直面 して、それを調
て、 ゴッ トへル フという 「(
文明化 されざる人間) の
伏 しよ うとす る 「
儀礼」
3
7行為が満 ち溢れていると指
隠れた欲望」
4
0が、 いわゆる悪 の描写 を契機 に噴出 し
摘 される。 しか し、そ もそ も伝説 という言説形式が、
ているのだ と言 う者 もある。 本論のさらなる関心 は、
昔話 (メルヘ ン) などとは異 な り、「
世俗的な世界 と
この ゴッ トへルフというスイス人の (
野蛮)性 の根源
神聖 な世界、此岸的な世界 と彼岸的な世界 との間の緊
をより精密に見定めることにある。黒い蜘妹の姿をとっ
張関係」か ら成 り立 ち、現実の生活圏に生 じた非 日常
て、啓蒙 とキ リス ト教 に抗 うスイスの風土。 この厳 し
的な出来事への震掘 と、その動揺の回復、そ して最終
い括抗のなかか ら生 まれたスイス土着の習俗が、 テク
的には自らの生活圏、 自らの土地 との和解を表現 しよ
ス トの随所 に織 り込まれている。スイス村落共同体を、
うとす る物語である。 リュ-テ ィの定義を借 りれば、
外部か ら象 りつつ繋 ぎとめている大宇宙の観念、聖 な
「
伝説 は故郷をっ くり、昔話 は世界を創造す る」-
るものの観念 は、そうした民俗 とゴット-ル フとの関
係を踏 まえた上で、 より明確な ものとなるだろう。
伝説を物語 る、そ して物語 って もらう人 は、不安
に身を委ね、同時に保護を求め、 自分を保護 しよ
うと試みる。 この二つの ことにとって共同体が重
要 となる。 つまり、共同体 は恐 ろ しいものに好ん
註
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で開かれるが、拠 り所 も提供 して くれるのである。
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風景 を異質な ものにす る。信頼 のおけないもの、
三訳
不気味なものがそ こに織 り込 まれる。 しか し伝説
論社、1
9
67
年) と山崎章甫訳 (
岩波文庫、1
9
9
5
年)
は同時に風景を自分の ものとし、それを初めて本
の二つの先訳を適宜参照 した。
来的に故郷 とす るのである。38
ドイツ名作集』所収、 中央公
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るものの顕現 とその調伏の儀礼 に立 ち会わされている。
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9 リヒャル ト・ファン ・デュルメン 『近世の文化 と
日常生活 1』 (
佐藤正樹訳)、鳥影社、1
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松村園隆訳)、 同 『ドイツ幻想文学 の系譜』、
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(
川端香男里 ・栗原成郎訳)、岩波書店 、1
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鳥光美緒子訳)、勤草書房、1
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同 『
民間伝承 と創作文学』 (
高木昌史訳)、法政大学
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8 ヴェ-バーニケラーマ ン、81
頁。
出版局、2
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頁、2
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貢。
間伝説 に関するこの論文は、 ゴットへルフの 『
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蜘妹』 にも言及 している。 同、4
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頁参照。
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