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Page 1 Page 2 としての批評家』 は、 ワイルドの成熟した芸術観を表わし
オスカー. ワイルド﹃ドリアン
じられる。
グレイの肖像﹄に見る逆転の可能性
島 原 知 大
﹃芸術家としての批評家﹄と﹃ドリアン・グレイの肖像﹄は、個々
の文学的価値は勿論のこと、ワイルドの作家としての比較的短い活
動期間の中でも非常に重要な位置を占めている。一八七〇年代から
八○年代半ばにかけて、若き日のワイルドは詩や戯曲や短い評論を
発表したが、この頃に書かれた作品はあまり高い評価を受けていな
い。ところが、一八八O年代の終わりから九〇年代初頭にかけて
次々と秀作を発表する。即ち、二冊の童話集﹃幸福の王子﹄︵§Φ
二三
の大きな転換期に書かれた﹃ドリアン・グレイの肖像﹄と﹃芸術家
五年までに五本の喜劇と一本の悲劇を残している。このような作家
イルドは劇作家へと本格的に転身し、一八九二年から逮捕される九
版されたのは﹃詩集﹄︵、oΦ妻一崖o。一︶があるのみである。その後、ワ
て﹃ドリアン・グレイの肖像﹄である。それ以前に単行本として出
ての批評家﹄を収録した評論集﹃意向集﹄︵ぎ−§ぎ§Lo。胃︶、そし
︵卜oミ㌧、§§、吻§§釘Qき§ΦSさ90§§9oミ3Hoo胃︶、﹃芸術家とし
9き§§§§§葺畠胃︶、短篇集﹃アーサー.サヴィル卿の犯罪﹄
ξ便ミぎ8§§qO§ミ蔓雪一Ho.o.o。︶と﹃柘榴の家﹄︵§㊦き姜⑯
●
オスカー・ワイルド﹃ドリアン・グレイの肖像﹄に見る逆転の可能性
や美に対する基本的姿勢がこのように正反対であるのには疑問が感
リー卿とギルバートはその代表的存在である。それ故、二人の芸術
ワイルドのあらゆるジャンルの作品に登場するが、とりわけヘン
作者ワイルドの分身と言われる作中人物は、小説、評論、戯曲と、
く邑巨⑦︶の重要性を説くヘンリー卿の態度とは相反するものである。
のだ﹂︵S︶と、美青年ドリアンに対して﹁眼に見えるもの﹂︵艘①
君は在るがままの自分︵峯ぎζ昌冨︸ξ弩①︶を意識していなかった
イの肖像﹄︵§Φミo§§gbo‡9§Ω§sHo。⑩H︶において、﹁今まで
批評の目的を﹁対象を在るがままに見ないこと﹂︵8ω①①艘①O互①9
^ユ︶
竈巨ま①罵岸H8ξ︸ω目g︶としているが、これは﹃ドリアン.グレ
で、対話の主人公ギルバートは、文学を人生に対する批評と捉え、
評論﹃芸術家としての批評家﹄︵§ΦQきざま㌧ミ鼻Ho.8︶の中
序
二四
永遠の若さと引き換えに若者が魂を売るという発想を初めて得
た時−文学史上、古くからある概念だが、これに私は新しい形
としての批評家﹄は、ワイルドの成熟した芸術観を表わしていると
言えるだろう。
を与えたのだ1私は審美的観点から、道徳を本来の二次的な立
ここには﹃ドリアン・グレイの肖像﹄を執筆する際のワイルドの
わし、芸術作品そのものの対象ではなく︵昌;ぎo互①go︷艘①
^6︺
考o寿o︷實二a①5芸術作品の劇的な要素の一つとなるのだ。
として宣言していない。だが、純粋に個人の生活の中に姿を現
術的且つ意識的に抑えられているので、その摂理を一般の原理
と同様に、罰せられるということだ。この道徳はあまりにも芸
の物語の真の道徳は、全てを過度に行えば、全てを放棄するの
でも思っていない。道徳が明白すぎると思っている。︵中略︶こ
場に留めておくのは難しいと感じた。そのようにできたとは今
二つの作晶が執筆された時期は極めて近い。﹃ドリアン・グレイ
の肖像﹄が一八九〇年六月二〇日にアメリカ・フィラデルフィアの
︵2︶
﹃リピンコッツ・マンスリー・マガジン﹄に掲載されたのに対して、
﹃芸術家としての批評家﹄は﹃ナインティーンス・センチュリー﹄の
^3︺
一八九〇年七月号に第一部が、九月号に第二部が掲載されている。
執筆された時期だけでなく、内容においてもこれらの作品は密接な
繋がりを持っている。イソベル・マレイは﹃ドリアン・グレイの肖
︵4︶
像﹄を﹁魂の物語﹂一弓ぎ望OqO艘ωO巨︶と呼んでいる。﹃芸術家
としての批評家﹄の終わりに近い部分でギルバートは、﹁今やフィク
ションによって我々を掻き立てる者は、全く新しい背景を与えるか、
あるいは人間の魂の最も奥深い働きを我々に曝さなければならな
意図が明確に現われている。つまり、古い概念にワイルド独白の
﹁新しい形﹂を与えることによって、﹁魂﹂の深遠な働きを描き、更
い﹂と述べているが、これはマレイの主張を裏付けると同時に、ワ
^5︺
イルドがこの評論を書く際に﹃ドリアン・グレイの肖像﹄を念頭に
に読者の﹁魂﹂をも掻き立てるのである。そのためには、明白な道
徳を在りのままに描いていては都合が悪い。ワイルドが最も腐心し
置いていたことを思わせる一節である。また、﹃リピンコッツ﹄掲載、
及び単行本化された直後に﹃ドリアン・グレイの肖像﹄は、不道徳
な内容を使い古された形式で描いているという主旨の批判を数多く
﹁対象を在るがままに見ない﹂というギルバートの言葉に通じる。こ
たのは、﹁極端なまでに明白な道徳を如何にして芸術的且つ劇的な
^7︶
効果の下に置くか﹂ということであった。ワイルドのこの試みは、
主張の正当性を強めている。例えば、﹃デイリー・クロニクル﹄に宛
のように、﹃芸術家としての批評家﹄に見られる一節と、﹃ドリア
受けたが、これらの批判に対するワイルドの反論が、ギルバートの
て てこのように反論 し て い る 。
ン.グレイの肖像﹄を執筆中の作者の心理が一致している。それに
も拘わらず、冒頭で引用したヘンリー卿とギルバートの言葉は相容
写し取っている画家の様子ではない。
執って肖像画を描くバジルの様子は、 単にモデルをキャンバス上に
二五
の目的を果たしていないのであろうか。﹁対象を在るがままに見な
では、このように目的とは矛盾した方法で描かれた肖像画は、そ
がらも、実際にはドリアンを在りのままには見ていないのである。
ている。バジルはドリアンの美貌を在りのままに写し取ると言いな
ではなく﹁魂﹂でドリアンに対蒔しなければならないことを暗示し
と芸術全体が飲み込まれてしまうような体験が、後にバジルが視覚
眼で見る﹂芸術家なのである。ドリアンに初めて会った時の、﹁魂﹂
^9︶
ルバートの言葉を借りれば、バジルは﹁肉体の眼で見る以上に魂の
るこのような拒絶は﹁対象を在るがままに見ない﹂ことであり、ギ
と手段が矛盾した努力をここに見て取ることができる。視覚に対す
も、眼のみでそれを捉えることには反対するという、バジルの目的
ドリアンの美貌をキャンバス上に再現することを目的としながら
あった。︵H−N︶
い、ある奇妙な夢を脳の中に閉じ込めようとしているようで
閉じ、目蓋に指を押し当てた。それは恰も目覚めるのが恐ろし
けるかのように思われた。しかし、突然、彼はハッとして眼を
見た時、画家の顔には喜びの笑みが浮かび、暫くそこに漂い続
自分の芸術の中に大変巧みに写し取った優雅で見目麗しい姿を
れない。そこで本稿では、﹁対象を在るがままに見ない﹂というギル
バートの言葉が実際に﹃ドリアン・グレイの肖像﹄に反映されてい
るか検証してみたい。
ギルバートとヘンリー卿の言葉が生み出す矛盾を読み解く鍵とな
るのが、ドリアンの肖像画であることは容易に想像がつくであろう。
だが、ロバート・ミガルが指摘しているように、﹁魔法の絵画﹂
︵冒品ざ巴寝葦−握ω︶は、文学史上、﹁魂を売るという発想﹂と同様
に古くから存在していたのだから、肖像画そのものを﹁新しい形﹂
^8︺
と呼ぶのは妥当ではないように思われる。それでは、ワイルドの言
う﹁新しい形﹂とは一体何であろうか。
肖像画そのものは文学作品において特に珍しい存在ではないが、
肖像画が表現し意味するところはワイルド独特のものであるように
思われる。その独自性を見極めるために、まず、肖像画が誕生する
過程に注目する必要がある。
画家バジル・ホールワードは、﹁君︵ドリアン︶を実物さながらに
素晴らしい肖像画に描こうと決心したのだ﹂︵H崖︶と、肖像画を作
成する理由を表明している。そして確かに、完成した肖像画は本物
さながらにドリアンの美貌を湛えていた。しかし、実際に絵筆を
オスカー・ワイルド﹃ドリアン・グレイの肖像﹄に見る逆転の可能性
い﹂という行為は、見る者に想像のより大きな可能性を与え、そこ
から創造の可能性も同時に広がる。その一方で、対象と、それを題
材に創造された芸術作品との結び付きが弱体化し、両者の関係が逆
転する土壌が生まれる。肖像画が完成したのは、このように素材と
芸術作品の相関関係が非常に不安定な状態においてではないだろう
か。ドリアンに出会った時、バジルは﹁魂が飲み込まれる﹂ほど烈
しく動揺した。そのバジルが﹁魂﹂を込めて描いた肖像画は、澄ん
二六
ような﹁混沌﹂の渦中にあるドリアンにとって、ヘンリー卿の﹁言
葉﹂は﹁形無きものに変幻自在の形を与えてくれる﹂︵岩︶存在であ
り、これを聞き入れることで秩序を回復する。
しかしながら、ドリアンが取り戻した秩序は、肖像画が描かれる
前の秩序とは異質のものである。そのことは、完成した肖像画を見
たドリアンの態度から明らかである。﹁まるで自分自身を初めて認
識したかのように﹂︵墨︶、ドリアンは肖像画を見つめる。これが、
それまで意識することのなかった自己をドリアンが強く意識し始め
た瞬問である。ところが、この自意識の萌芽は、他方、自己の客体
だ表情とは裏腹に﹁混沌﹂︵O巨8︶の中で生み落とされたのである。
不安定な状態にあるのは﹁対象﹂であるドリアンも同じである。
化と捉えることができる。ドリアンは自己を直接認識しているので
する際に言った、﹁物事に現実性を与えるのは表現である﹂︵岩べ︶と
が逆転し得る環境を創り出している。ヘンリー卿がドリアンを誘惑
﹁現実﹂︵屋竺q︶であるドリアンと﹁影﹂︵争邑O峯︶である肖像画
ドリアンも同じ美貌を湛えているものの、共に﹁混沌﹂を経験し、
肖像画が完成した時、表面上は生身のドリアンもキャンバス上の
存在である、というドリアンの絶望的な確信の現われであろう。
一本一本震わせた﹂︵爵︶という一節は、自分と肖像画が最早別個の
﹁鋭い激痛がナイフのように突き刺さり、彼の本質の繊細な繊維を
た自分自身の姿を他者であると感ぜずにはいられなかったのである。
れ故、ドリアンは自己の美貌を意識した次の瞬間、肖像画に描かれ
肖像画として対象化し、それを在るがままに見ているのである。そ
はなく、肖像画を通して自己を認識している。つまり、自分自身を
ヘンリー卿の誘惑の﹁声﹂︵<〇一8︶にドリアンは烈しく動揺する。
音楽が嘗て彼をこのように掻き立てた。音楽が彼を何度も悩ま
せた。しかし音楽は明瞭ではない。音楽が我々の中に創り出す
ものは新しい世界ではなく、寧ろもう一つの混沌である。︵H⑩︶
ワイルドはドリアンの中に生じた﹁混沌﹂を﹁不明瞭な﹂︵昌ζ﹁
ま巨9①一﹁音楽﹂︵昌易一〇︶に瞼えているが、この﹁混沌﹂に秩序を
与えようとするのが、﹁在るがままの自分を意識せよ﹂と呼び掛ける
ヘンリー卿の﹁言葉﹂︵奏Oaω︶である。ドリアンはバジルとヘン
リー卿の端的な違いとして、ヘンリi卿の﹁声﹂の素晴らしさを挙
げている。﹁声﹂には音楽的性質と言語的性質とがあるが、﹁音楽﹂
と﹁言葉﹂が調和しているのがヘンリー卿の﹁声﹂である。﹁音楽﹂の
いう言葉は、﹁現実﹂と﹁影﹂が逆転する可能性を示唆している。肖
像画が完成した直後のバジルとドリアンの会話の中に、早くもその
兆侯が現われている。
﹁私は本物のドリアンと残るよ﹂とバジルは悲しげに言った。
﹁それが本物のドリアンだって?﹂と、バジルの方に歩み寄りな
がら、肖像画に描かれた本人が叫んだ。﹁私は本当にあの絵のよ
うかね?﹂
﹁ああ、君は正にあの絵のようだ。﹂
﹁何と素晴らしいことだ、バジル!﹂
﹁少なくとも外見は、あの絵のようだ。しかし、絵は決して変わ
ることがない﹂と、ホールワードは溜息を吐いた。﹁そこが違う
ところさ。﹂︵8︶
バジルは肖像画を﹁本物のドリアン﹂一ま①H邑U邑彗一と呼び、
肖像画がドリアンに似ているのではなく、﹁原型﹂︵ま①OH衝量−︶で
あるドリアンが肖像画に似ていると言っている。更に﹁少なくとも
外見は﹂という言葉が、ドリアンが中身のない外見だけの存在、つ
まり、在るがままに見られるだけの存在になったことを思わせる。
肖像画が完成する前のドリアンをバジルは﹁目に見えない理想の視
覚的な具現化﹂︵H崖︶と名付け、彼の中に﹁魂と肉体の調和﹂︵HO︶を
画の完成後に﹁空虚な理想﹂と﹁低俗な現実性﹂に引き裂かれてい
る。これは、皮相化したドリアンの性質を的確に言い表わしている
言葉だと言えるだろう。なぜなら、ドリアンは﹁魂﹂と引き換えに
永遠の若さを手に入れたが、﹁肉体﹂はその類稀な美しさゆえに﹁理
想﹂であるけれども、有形であるので現実的な存在と言えるからだ。
会話の最後でバジルは、ドリアンは変わり、肖像画は変わらない、
と両者の決定的な違いを敢えて明確にしているけれども、会話の前
半部分がドリアンと肖像画の﹁現実﹂と﹁影﹂という関係を逆転可
能にしているので、最後の一節も、﹁絵が変わる﹂という反対の意味
に解釈することが出来る。このように、肖像画誕生の瞬問は、ドリ
アンの分身が誕生すると同時に、その分身と本体の結び付きが弱ま
り、主客転倒が生じる土壌を創り出した瞬問でもあるのだ。醜く変
貌する肖像画によって表現される﹁影﹂の変容が、ワイルドの言う
﹁新しい形﹂であり、﹁影﹂であるがために、在るがままに見ないこ
とによってしか捉えられないのではないだろうか。
肖像画が完成することでドリアンの﹁肉体﹂は皮相化するが、肖
像画は依然として﹁混沌﹂から脱却していない。無論、その理由は、
ドリアンの外見は変化しないが、肖像画はドリアンが罪を重ねる度
一一七
に変貌するからである。暖昧になった﹁現実﹂と﹁影﹂の関係が逆
オスカー・ワイルド﹃ドリアン・グレイの肖像﹄ に見る逆転の可能性
見出している。だが、その調和は、バジルの言葉を借りれば、肖像
一一
転し始めるのは、ドリアンの恋人シビル・ヴェインの死によつてで
ある。では、﹁現実﹂と﹁影﹂の入れ替わりとシビルの死の間には、
一体どのような関連があるのだろうか。
醜怪な雰囲気を醸し出す、ロンドンの貧民街イースト・エンドに
件む小さな劇場において、シビルは正に一輸の美しい花のような存
在である。ジュリエットを演じるシビルの様子は、ドリアンによっ
て次のように描写される。
ジュリエットと来たら!ハリー、小さな花のような顔をした、
十七歳にも満たない少女を思い浮かべてご覧。その頭はギリ
シャ人のように濃い茶色の髪を三編みにしていて、眼はすみれ
色をした情熱の源泉であり、唇はバラの花弁のようだ。︵8︶
これは、色や形などを細部に渉るまで綿密に捉えた、非常に視覚
的な描写である。しかし、ドリアンはシビルの視覚的な美のみに囚
われているのではない。﹁私は彼女に飢えている。あの象牙色の小さ
な身体に隠された素晴らしい魂のことを考えると、私は畏れ多くて
堪らない﹂︵望︶という言葉から、ドリアンがシビルの﹁肉体﹂とい
う視覚的な美の奥に、彼女の桟れ無き﹁魂﹂という眼に見えない美
を看取していることが分かる。つまり、嘗てバジルがドリアンをそ
う呼んだように、シビルの中でも﹁魂﹂と﹁肉体﹂が調和している
のである。だが、それを畏れ、渇望するということは、ドリアンが
一一八
﹁魂と肉体の調和﹂を自己の内には存在しない他者として受け止め
ていることの現われに他ならない。
ドリアンがシビルに失望するのは、彼女の﹁肉体﹂の奥に﹁魂﹂
を見出せなくなったからである。シビルはドリアンに次のように告
白する。
貴方を知る前、演じることが私の人生の唯一の現実だったわ。
私が生きていたのは劇場の中だけだった。私は劇場が全て真実
だと思っていたの。︵中略︶私は影しか知らないで、それを本物
だと思っていた。貴方がやって来て、私の魂を牢獄から解放し
てくれた。貴方は現実が本当はどんなものか私に教えてくれた。
︵中略︶私は⋮⋮私が話さなければならない言葉が本物ではな
く、私の言葉ではないこと、私が言いたいことではないことに
気付いたの。貴方がもっと高貴なものを私にもたらしてくれた。
全ての芸術はその影でしかないわ。︵中略︶私は影にはもううん
ざりよ。︵oo蜆−㊦︶
嘗てシビルは女優という一種の芸術であり、彼女には﹁現実﹂に
毒されていない美しさがあった。ところがドリアンという、﹁肉体﹂
の美のみが皮相化した、極めて現実的な存在によって、シビルの
﹁現実﹂と﹁影﹂の均衡が崩れてしまったのだ。シビルは、それまで
﹁現実﹂と信じてきた演劇の世界を、真実ではない﹁影﹂として切り
の自分を意識したように、シビルは﹁現実が本当はどんなものか﹂
の美貌の認識と同質のものと言えるだろう。ドリアンが在るがまま
捨てている。このシビルの﹁現実﹂への覚醒は、ドリアンの、自己
するドリアンの無関心が読み取れる。この無関心は、ドリアンがシ
ら明らかなように、ここには、﹁在るがままの現実﹂や﹁肉体﹂に対
﹁好奇心すら掻き立てられない﹂、﹁可愛い顔だけの﹂という言葉か
は、ドリアンだけでなくシビルにも当てはまる。
魂を待ち受けた﹂︵留一という﹁魂﹂と﹁肉体﹂の分離を現わす言葉
ることでしかない。﹁秘密の隠れ家から魂が這い出し、途中で欲望が
解放﹂と呼んでいるが、それは﹁魂と肉体の調和﹂の崩壊を意味す
演技に象徴されている。シビルは﹁現実﹂に目覚めたことを﹁魂の
として認識されている。そのことは、まるで別人のようなシビルの
ままに見ること﹂であり、この行為によって自已は客体化され他者
実﹂を意識することで却って﹁影﹂に留まったと逆説的に解釈する
ことで﹁影﹂に現実性を与えることが出来なくなったのだから、﹁現
は必ずしも分離されたものではない。シビルは﹁現実﹂に目覚める
役割を果たしていると言える。このように考えると、﹁現実﹂と﹁影﹂
うように、演技をすることで﹁影﹂に現実性を与えるという重要な
言うような、単なる﹁影﹂の世界の住人ではなく、ヘンリー卿が言
影に形と本質を与えた﹂と述べていることから、シビルは、本人が
意識していることに起因するように思われる。その一方で、﹁芸術の
ビルを自分と異質な他者としてではなく、寧ろ自己と同質のものと
しかしながら、シビルが主張するように、彼女は本当に﹁影﹂か
ことが可能ではないだろうか。このような解釈はドリアンについて
︵峯夢;s一ξHg=ユω一を知ったのである。これは﹁対象を在るが
ら﹁現実﹂へと至ったのであろうか。シビルに失望したドリアンが
も言うことができる。だが、それを論じる前に、﹃漁師と魂﹄︵§㊦
触れてみたい。
き§§§§§邑§吻旨星HO。⑩H一の﹁影﹂一撃邑O色について少し
彼女に言い放つ言葉を見てみよう。
嘗て君は私の想像力を掻き立てた。今や私は好奇心すら掻き立
てられない。君は何の効果も生み出さない。私が君を愛したの
は⋮⋮君が偉大な詩人の夢を実現し、芸術の影に形と本質を与
えたからだ。君はそれを皆、投げ捨てたのだ。︵中略︶芸術がな
﹃漁師と魂﹄は、ワイルドの二冊目の童話集﹃柘榴の家﹄に収めら
れているが、収録された四つの作品中、最も長い。また、年代的に
二九
も﹃ドリアン・グレイの肖像﹄や﹃芸術家としての批評家﹄に非常
オスカー・ワイルド﹃ドリアン・グレイの肖像﹄ に見る逆転の可能性
ければ君は何でもない。︵中略︶顔が可愛いだけの三流役者だ。
一〇。?べ一
三
三〇
る最も顕著な相違点として、良心や﹁魂﹂に代表される﹁精神的な
やマシュー・アーノルドの詩﹃見捨てられた人魚﹄との問に見られ
イアン.スモールは﹃漁師と魂﹄と、アンデルセンの﹃人魚姫﹄
人魚と暮らし始めるが、これは二人が﹁肉体﹂のみの存在になった
てしか認識していないのである。漁師は﹁魂﹂を捨て海に飛び込み、
ない。つまり、決して自分と同一化することのない単なる他者とし
ので、﹁魂﹂と﹁肉体﹂を持つ漁師は人魚に自己を見出すことができ
し、他方、彼女を他者として捉えていることから、それは自己の客
もの﹂一9①名巨9邑が勝利し、世俗的な快楽や﹁肉体﹂に代表さ
に過ぎない。自己の客体化は﹁魂と肉体の調和﹂がなければ起こり
に近く、更にはこれら二つの作品の主題である﹁魂﹂を冠に頂いて
れる﹁物質的なもの﹂︵艘①昌黒⑦ま一︶が敗北するというキリスト教
得ないのであり、ドリアンと肖像画、あるいはドリアンとシビルの
体化と呼べるだろう。ところが、人魚は最初から﹁魂﹂を持たない
の伝統的な道徳観が、﹃漁師と魂﹄においては陵昧になされている、
場合とは異なり、漁師と人魚の場合は﹁現実﹂と﹁影﹂の入れ替わ
いることからも、﹃漁師と魂﹄が重要な作品であることが伺われる。
と述べている。この暖味な道徳観に、﹁現実﹂と﹁影﹂の逆転現象を
りが起こっていない。更に、たとえ漁師が人魚と同様に﹁肉体﹂だ
︵10︺
見出すことは出来ないだろうか。
けになっても、人魚の腰から下は魚の尾であるから、漁師と人魚の
漁師は、﹁人魚の肉体を得るためなら、私は魂をも与えよう。彼女
﹁肉体﹂が結合して一つになることはないのである。
人魚の描写はシビルの描写と同じように、極めて視覚的である。
﹁濡れた金の綿毛のような髪﹂、﹁貝殻のような耳﹂、﹁珊瑚礁のような
︵11︶
唇﹂などの体の部位を形容する言葉は、人魚が非常に官能的である
ドリアンの、﹁世界中で私が与えられないものなどない。私の代わり
の愛を得るためなら、天をも放棄しよう﹂と言っているが、これは
︵12︶
取ることは不可能であろう。しかしながら、人魚とシビルの﹁象牙
に肖像画が年老いてくれるのなら、私は魂をも与えよう﹂︵爵−㊦︶と
ことを印象付けている。このような官能的特質をシビルの中に読み
のように白い体﹂に、漁師もドリアンも共に烈しい欲望を感じてい
らすために﹁魂﹂を与えると言っているのに対して、漁師は人魚と
いう言葉を思い出させる。だが、二つの台詞が決定的に異なるのは、
を捨てるように要求している。この﹁魂﹂の有無が、ドリアンがシ
いう他者の﹁肉体﹂を手に入れるために﹁魂﹂を与えようとしてい
るが、シビルの﹁肉体﹂に﹁魂﹂が宿っているのに対して、人魚の
ビルに欲望を感じる一方で﹁畏れ﹂︵岬奏①一を抱いているのに対して、
る。この違いは、先程述べた、自已の客体化か否かに起因している
二人の動機である。ドリアンが自分の﹁肉体﹂に永遠の若さをもた
漁師が人魚に﹁肉体﹂の欲望しか感じない所以であろう。ドリアン
だろう。ドリアンの言葉は肖像画への嫉妬から発せられているとい
﹁肉体﹂には﹁魂﹂がない。﹁魂﹂がないどころか、人魚は漁師に﹁魂﹂
は﹁魂と肉体の調和﹂を保っているシビルの中に嘗ての自分を見出
師は﹁魂﹂を否定的に捉えているが、﹁魂﹂を見ようとし、触れよう
者の間に重要な共通点も見られる。﹁魂が何の役に立つのだ。見るこ
︵B︶
とも出来ないし、触れることも出来ない。私は魂を知らない﹂と漁
いるということが、自己の客体化の証明と言えるだろう。だが、両
のだろうか。精神と物質が分離するのは神秘である。精神と物
ダーノ・ブルーノが考えたように、肉体は本当は魂の中にある
略一魂は罪の館に腰を下ろした影であろうか。あるいはジョル
魂と肉体、肉体と魂。これらは何と神秘的なものだろうか!魂
うこと、あるいはシビルの﹁魂と肉体の調和﹂に畏敬の念を抱いて
とする姿勢は、﹁対象を在るがままに﹂見ようとすることに他ならな
質の融合もまた、神秘である。一㎝o。一
次に﹃漁師と魂﹄
では、
には動物的なものがあり、肉体には精神的な瞬間がある。︵中
い。ドリアンも漁師も視覚に囚われて﹁肉体﹂を在るがままに見、
﹁魂﹂を無視したために、﹁肉体﹂が﹁魂﹂と分離して皮相化してし
まっている。
人聞が﹁肉体の影﹂︵艘①多ぎOξO二ぎぎ身︶と呼んでいるも
﹃ドリアン・グレイの肖像﹄において、﹁現実﹂と﹁影﹂の関係が
暖味になり、その状態の中で﹁魂﹂と﹁肉体﹂が次第に分離してゆ
のは、肉体の影ではなく、﹁魂の肉体﹂︵艘①σOξO二訂吻Oら
である。
^14︺
くのに比べて、﹃漁師と魂﹄では﹁魂﹂と﹁肉体﹂の分離が明瞭かつ
瞬間的に描かれている。漁師は魔女の指示通り、月を背にして真夜
中の海辺に仔み、地面に映った自分の﹁影﹂をナイフで切り離す。
を象徴している。
界に住むということが、﹁魂﹂と﹁肉体﹂の分断が決定的であること
中に暮らし、﹁魂﹂は陸を妨程うことになるのだが、この全く別の世
漁師は聞き入れず人魚の許へと去ってゆく。これ以後、﹁肉体﹂は海
現わしている。﹃漁師と魂﹄では、﹁影﹂はナイフで切り取られた瞬
が映じるためには﹁肉体﹂が必要である。と同時に、﹁影﹂は﹁魂﹂を
と﹁肉体﹂の媒体の役目を果たしている。人間が光を受けて﹁影﹂
いうことだ。その困難な切り離しを可能にするために、﹁影﹂が﹁魂﹂
りが非常に密接であるがために、二つを切り離すのが困難であると
と述べている。ここから読み取れるのは、﹁魂﹂と﹁肉体﹂の繋が
﹃ドリアン・グレイの肖像﹄と﹃漁師と魂﹄の中で、ワイルドは
間、﹁肉体﹂と断絶している。これによって、﹁魂﹂と﹁肉体﹂が別
切り離された﹁影﹂は再び﹁肉体﹂と一つになることを懇願するが、
﹁魂﹂と﹁肉体﹂の関係について言及している。まず、﹃ドリアン.
個の存在として描かれ、両者の関係が比較的単純化されていると言
一一一一
グレイの肖像﹄においては、
オスカー・ワイルド﹃ドリアン・グレイの肖像﹄ に見る逆転の可能性
える。しかし、﹃ドリアン・グレイの肖像﹄では、﹁魂﹂と﹁肉体﹂
は常に不安定な関係にあり、どちらが﹁影﹂であるのか判断を下す
を曝した。︵岩㊦︶
一一一二
ここから、ドリアンの﹁肉体﹂と﹁魂﹂が、﹁影﹂である肖像画に
は既に触れた。肖像画の表情は醜く変貌するが、それによって肖像
﹁物事に現実性を与えるのは表現だ﹂とヘンリー卿が言ったこと
悪の影を現実にする夢﹂︵睾9昌ωま津奉昌冨昌芽二︸①争注O奉O︷
持つ非現実性﹂︵ま①昌8竺q03争$昌︶︵8︶を感じつつも、﹁邪
するという、現実には起こり得ない現象に対してドリアンは﹁夢の
のは容易ではない。
よって表現されていることが分かるが、これは﹃漁師と魂﹄におい
て、﹁肉体の影﹂︵亭①争ぎO考O饒序σO身︶が﹁魂の肉体﹂︵ま①σO身
画は現実性を増す。その現実性は、﹁影﹂という言葉で呼ばれている。
艘亭①≦冨邑︵HH㊤︶が自分に宿っていることを確信している。こ
○岸序ωoεであることと相通じると言えよう。また、肖像画が変貌
完成直後の肖像画は﹁彼一1−ドリアン一の美しさの影﹂一乎①臣邑o奉
のことは、﹁夜の非現実的な影から、現実の人生が帰って来る﹂
︵○鼻o二ぼ⋮篶邑多茎oミωo二ぼ箏釘睾8昌窃σ碧斤一まHg=豪︶
o︷巨巴oき;霧ω︶︵畠︶と呼ばれているが、この時点では、たとえ
﹁現実﹂と﹁影﹂が、逆転可能な﹁混沌﹂の中にあるといえども、表
の一方で現実性を増大している。シビルが死んだ翌日の夕暮れ、庭
ンとかけ離れてゆくに従って、肖像画には﹁影﹂が付きまとい、そ
という叙述は至極当然である。だが、シビルの死後、本物のドリア
ところは、大いに真に迫る﹂︵芽①巨;窪−ξO箏ぎまω邑呂冒︶︵畠︶
だ﹂と、﹁影﹂を忌み嫌うようになる。しかしながら、ドリアンが紡
の﹁影﹂への移行である。それ故、ドリアンは、﹁醜さが唯一の現実
いわば、﹁影﹂による﹁魂﹂の﹁現実﹂化と、﹁肉体﹂による﹁現実﹂
現実の存在になりつつあることを嫌でも感じない訳にはいかない。
を目の当たりにして、ドリアンは永遠に美しい自分の﹁肉体﹂が非
︵H胃︶という言葉にも伺える。﹁影﹂が刻一刻と﹁現実﹂に近づくの
先から﹁影﹂がドリアンの部屋へと這入り込み、肖像画をはじめ、
程う夜の街は闇に覆われており、街灯の下や人家の窓など、至る所
面上はドリアンと肖像画は瓜二つであるので、﹁肖像画が表現する
室内の全てを覆い尽くす。この﹁影﹂に覆われた肖像画について、
で﹁影﹂に出くわし、逃れることができない。そして遂に、ある夜、
アンは何とか難を逃れるものの、それ以降その﹁影﹂に付きまとわ
秘密の酒場から出たドリアンを一つの﹁影﹂が背後から襲う。ドリ
次のような記述がある。
肖像画は、丁度彼の肉体を曝すように、 ドリアンの前に彼の魂
れる。この時、 ドリアンは﹁影﹂を﹁死﹂︵︷Sま一の象徴と意識す
﹃ドリアン・グレイの肖像﹄のテキストはζ膏H黛L眈o悪一︵&.︶一〇ω︹胃
峯旨9§⑮ぎミgき§§§﹃防ooぎ募§俸曽−Φg&Qミ︷oミ、§竃︵霊亨
の批評家﹄、﹃漁師と魂﹄のテキストは各々∪oミ=長一=邑二&.︶一〇ωo彗
オ旨9§Φ主o§轟9bo喜9§尋§︵O津o具H⑩o.H︶を使用し、﹃芸術家として
死は私を脅かす唯一のものだ。︵中略︶人は死以外のものからは
§恥防oミ♀奏§§註﹃いooぎぎ肋§雨防gs冨9Qぎぎ§−、暮眈ゆo.違o
碧貝岩違︶に収録されているものを使用した。
①・巨P8εとω昌i彗一〇e一〇〇弩≦幕もO§一軸耐寒§き§§一勺彗−
るようになる。 死についてヘンリー卿は次のように言う。
註
逃れることができる。死と俗悪のみが、十九世紀において説明
することのできない二つの事実である。︵N旨︶
一方、ドリアンは﹁魂は恐ろしい現実だ﹂︵↓思ω8二ω二①冒巨①
冨竺貫一︵曽9と言い、﹁影﹂によって現わされる﹁魂﹂が遂に﹁現
実﹂となったことを理解する。バジルはドリアンを眼で在るがまま
に見るのではなく、﹁魂﹂でもって見ることで肖像画を描いた。その
ようにして描かれた肖像画の中にドリアンは在るがままの自分を見
た。変貌後の肖像画をドリアンが見るという行為は、自分の﹁魂﹂
の様相を見ているのであるから、﹁対象を在るがままに見ない﹂行為
である。そこに見出された、﹁現実﹂となった﹁影﹂は﹁ドリアンの
魂の生きた屍﹂︵ま①一ζ長︷8まO︷巨ωO冬目ωO邑︶︵SH︶である。こ
の﹁現実﹂を否定しようとしてドリアンは肖像画にナイフを突き立
てたのであるが、それによって逆に、生きた屍であった﹁魂﹂が完
全に死に絶えたのである。この時、逆転していた﹁現実﹂と﹁影﹂
は再び逆転して元に戻ったのである。そのことは、年老いたドリア
ンの死体と、若きドリアンの美しさを湛える肖像画の在るがままの
﹃ドリアン・グレイの肖像﹄は翌一八九一年四月に﹁序文﹂と六つの章を
新たに加えて単行本化された。
§恥Q﹃§oま﹄き邑は当初、§Φ尋§、§§s§9さq§§恥gQミ苧
ζ昌Hξ一&シ§、§ミ恥gbo§§§§⋮2
載された。
者旨昌鶉穴昌色霧の判断で前半と後半に分けられ、一ヶ月の問を置いて掲
一〇§耐という題名で発表されたが、き§冨§§Q§§§きo§ぎ⑮の編集
○膏§㌧S︷き8§∼記Φミ§喜吻O§きΦ§§§§竃9b9§≧9ざ“§1㌧bぎ−
一3︶
オスカー・ワイルド﹃ドリアン・グレイの肖像﹄ に見る逆転の可能性
姿に現われている。
21
§串g
手紙であり、同年七月二日の同紙に掲載された。
発表された、﹃ドリアン・グレイの肖像﹄に対する批判的な書評への反論の
b§§Qミ§§軸に宛てたこの手紙は、一八九〇年六月三〇日付の同紙に
§ΦQo§−9⑮卜9誌竃♀O竃9﹃§§叉乞o峯く昌河8oo︶一〇﹄蟹。ワイルドが
§Φ吻o§呉き§§註﹃吻ooぎぎ眈§細寒−s討9Qまぎ§−、§岨㊦一pミoo
654
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三三
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三四
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