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チェーホフ『中二階のある家』における女性像 ――親密圏と公共圏の両極化

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チェーホフ『中二階のある家』における女性像 ――親密圏と公共圏の両極化
Agora: Journal of International Center for Regional Studies, No.8, 2011
75
【論 文】
チェーホフ
『中二階のある家』
における女性像
――親密圏と公共圏の両極化
川 島 静 *
1. はじめに
2. 作品の成立と読者層の問題
3. 当時のロシア社会における「公共圏」と女性の地位
4. チェーホフが描いた「公共圏への女性進出」
5. 『中二階のある家』に描かれた「議論する女性」とゼムストヴォの現状
6. マルタとマリア
1.はじめに
子を押さえながら帰宅する」(Чехов 1977a:
チェーホフの短編『中二階のある家 ある
179)ところが描写される。ロシアでは伝統的
画家の話』(1896)は,語り手の「画家」と,
避暑先の田園地帯で出会った地主階級の姉妹
との,ひと夏の交流を描いた物語である。姉
リーダと妹ジェーニャ
(ミシュシ)
は,きわめ
て対照的に描かれている。どちらも「すらり
として美しい」(Чехов 1977a: 175)とされる
姉妹の性格描写は,ことごとく対照的になさ
れる。話すとき,妹は前に回ってきて向き
合って話すが,姉は目をそらせて事務的に話
す。母と一心同体の妹に対し,姉は母に甘え
ることがなく,経済的にも「自立」
(Че
х
о
в 1977a:
176)
していることを誇りにしている。妹は読
書(おそらく小説)ざんまいで無為な生活を
送っているが,姉は「新聞」(Чехов 1977a:
187)
を読み,ばね付き馬車をひとりで乗り回
し,家にいるときもせかせかと行動的であ
る。妹が話題にするのは日常的な些事だが,
姉は仕事のことばかりである。このように,
社会に接点を持たず家庭内に留まっている妹
に対し,姉は社会活動にいそしんでいる。
二人の対照性は,服装のレベルでも表れ
る。たとえば,姉リーダは「しばしば村へ
帽子もかぶらず日傘をさして出かけていく」
(Чехов 1977a: 178)が,妹は「風の日に帽
* 天理大学聴講生
に女性は髪をむきだしにせず,家の中でも覆
い隠す風習があったが,近代になってそれが
薄れてからも,少なくとも外出時には被り物
を着用することが女性のたしなみとされてい
た(江川 1986: 165)。帽子を着用しないこと
は当時の社会の規範から外れた振る舞いであ
り,あえてそうすることは,自分が新しい生
き方を選んだ女性であることを示す社会への
アピールであったのだ。
画家はやがて妹のミシュシに恋するように
なるが,姉のリーダとはもっぱら社会問題につ
いて議論を闘わせる。
恋物語と,
社会問題の
議論。この二つの要素が混在するこの物語の
性格を,
沼野充義は以下のように評している。
稀にみるほど清らかで抒情的な恋と風刺
的・戯画的な激しい対立が対置されてい
る。その対比の背後には芸術家やインテリ
ゲンツィヤの社会的義務や,病めるロシア
を救うにはどうするべきかという深刻な社
会的テーマがあって,いわば「親密圏」と
「公共圏」が渾然となって,小品ながら奥
行きの深い小説の世界を作っている(沼野
2010: 111-112)
。
76
アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)
本稿は,この「親密圏」と「公共圏」とい
「ミシュシ,君はどこにいるの?」
(Чехов
うキーワードに注目し,チェーホフが描いた
1977a: 191)
という問いが投げかけられたまま
両極化した女性像の特徴を,作家としての彼
でこの物語は終わる。「この結びの文句は非
が対象としていた読者層の特徴と,当時のロ
常に有名になって,繰り返し唱われる歌のモ
シア社会における女性の地位という観点から
チーフのように,あらゆる人の唇にのぼり
読み解いてみたい。
しばしば引用にも使われた」(エルミーロフ
2.作品の成立と読者層の問題
1953: 222)。たった三つの単語からなるにす
ぎないこの問いは,この部分だけがある意味
この物語が執筆されたのはモスクワの北70
で独り歩きして有名になるほど,不思議なイ
㎞の距離にあるメリホヴォ村である。子供
ンパクトを持っているのだ。シャヴロヴァへ
時代を黒海北岸の港町タガンローグで送った
の手紙の内容が真実なら,この問いかけは作
チェーホフは,大学入学を機にモスクワに出
家からその恋人に向けて発せられた心の叫び
て12年間をそこで過ごしたのち,メリホヴォ
であり,小説より何より先にまずこの問いが
にひとつの村を買って移り住んだ。その村
生まれ,作家の胸の中で長く温められていた
は213デシャチンの広さ,メートル法に換算
に違いない。
すれば一辺1.5㎞の正方形の面積に相当する。
この作品が実際に書き始められたのは1895
そこにはふたつの池と家と果樹園があって,
年で,時期と内容がシャヴロヴァへの手紙と
残りの4分の3は森であった。ここでチェーホ
符合する。現存するチェーホフの覚書から推
フははじめて地主になったのだった。メリホ
定して,同年春には恋物語の構想ができてい
ヴォ時代は作家としても充実した時期で,中
たと考えられている。その秋,引退した演劇
編小説に分類されるような比較的長い作品が
人とその家族のため,『アピール』と題した
集中して生まれている。
義捐文集の出版が計画され,その編集部から
物語を執筆中に,チェーホフは友人エレー
チェーホフに原稿依頼の手紙(10月23日付)が
ナ・シャヴロヴァに手紙を書いた。この1895
舞い込んだ。その時点でこの恋物語はほぼ完
年11月26日の手紙によれば,かつてチェーホ
成していたのだろう,『僕のフィアンセ』を
フには心に決めた女性がいて,この物語はそ
依頼された文集用に当てるつもりで,「原稿
のときの体験談なのだという。
は12月に送ります」という返事を11月に出し
ている。しかし,実際には『アピール』の発
『ロシア思想』11月号に私の短編小説
『殺人』が掲載されました。これはあまり
行が一年延期されたため,この作品は雑誌
『ロシア思想』に回されることになった。
かんばしくありません。12月号には『アリ
やがて完成した作品に,恋物語と社会問題
アドナ』が載ります。これもたいしたこ
の議論という二つの異質なテーマが混在する
とはない。今は小さい物語(маленький
ようになった理由は,上記のような成立史上
рассказ)『僕のフィアンセ』に取りか
の屈折から説明できる。雑誌『ロシア思想』
かっています。かつて私にはフィアンセが
は,1880年にモスクワで創刊された月刊誌で
いました……。その人は「ミシュシ」と呼
あり,リベラルな知識人を主な対象としてい
ばれていました。私は彼女のことが大好
た。そもそもチェーホフが作家活動をスター
きでした。このことを書いているのです。
トさせたのは1880年代初頭で,彼はそのころ
(Чехов1978: 103)
『とんぼ』『目覚まし時計』などの大衆向けの
ユーモア雑誌へ,「アントーシャ」「チェホン
川島静:チェーホフ『中二階のある家』における女性像
77
テ」名義で滑稽小説を寄稿していた。しか
の屈折は,作品のボリューム自体を大きく変
し1880年代半ばには日刊紙『ペテルブルグ新
えたのである。ようやく作品が脱稿したのは
聞』や『新時代』へ風刺小説の寄稿を始め,
1896年2月。これは校正を経て,『中二階のあ
これによって彼は文壇にその存在を認知され
る家 ある画家の話』のタイトルで『ロシア
ていくことになる。そして1880年代後半,初
思想』4月号に発表された。
めて取り組んだ中編小説『広野』(1888)を
『北方報知』に発表し,いわゆる「分厚い雑
誌」と呼ばれる総合雑誌にデビューを果た
3.当時のロシア社会における「公共圏」と
女性の地位
す。19世紀ロシア文学の大部分が最初に発
このときチェーホフが,インテリゲンツィ
表される形は,本ではなくて,このような
ヤの読者に向けた作品に社会的テーマを盛り
定期刊行物であった(ヒングリー 1984: 50)。
込まなければならないと考えたことの背後に
チェーホフはこれを機に,それまで使って
は,当時のロシア社会において,出版メディ
きた筆名を捨て,作家「アントン・チェー
アの発達にともなって批判的な公共圏が形成
ホフ」として再出発した。つぎに『六号室』
され,「分厚い雑誌」を読む知識人のサーク
(1892)で自由主義的傾向の『ロシア思想』
ルで日常的に社会的テーマが議論されてい
に,『大ヴォロージャ』(1893)で『ロシア報
た,という事情があった。以下では,その時
知』に進出し,インテリゲンツィヤ層に読者
代背景と,そこで特に女性がどのように位置
を獲得していった1)。政治的傾向を表面に表
づけられていたかを見ていきたい。
わさないチェーホフの作品は,保守的な『新
公共圏の歴史的変遷を追ったドイツの哲学
時代』からマルクス主義的な『生活』まで,
者ハーバーマスは,近代西欧の市民的な公共
あらゆる傾向の雑誌に掲載されることができ
圏の特徴を,コーヒーハウスやサロンや読
た(ヒングリー 1984: 276)。その彼が『ロシ
書クラブなどで人々が印刷メディアによって
ア思想』に寄稿した自作短編に社会的テーマ
情報を共有しつつ,対等に議論し合っていた
を付け加えることにしたのは,知的な読者層
点に見出している。このタイプの公共圏の出
に向け,そのニーズに応えて単なる恋物語以
現は,当時の市民階級を中心に,いわゆる大
上のものを提供するという意図があったもの
家族から小家族への家族モデルの移行が起こ
と考えられる。
り,個人のプライバシーを尊重する排他的な
ただし,その構想の転換は,あまり容易に
空間としての親密圏が家庭内に生じていたこ
は実現しなかった。チェーホフは『新時代』
とを前提とする(ハーバーマス 1994: 64-72)。
の出版者スヴォーリンへの手紙で,「いま大
この新たな親密圏において近代的ヒューマニ
きな中編小説
(большой повесть)
に取り組
ズムの思想が育まれ,やがてその価値観をそ
んでいるが,なかなか筆が進まない。来客が
なえた人々が公共圏に出ていくことにより,
多くて困る」(Чехов 1978: 446)と告白して
民主主義の理念が社会に広まっていくのだと
いる。前述のシャヴロヴァへの手紙では「小
いう。その過程では,当初は文学や芸術の趣
さい物語」として紹介していた作品を,ス
味的な話題を中心にしていた公共圏での議論
ヴォーリンには「大きな中編」と呼び換え
が政治・社会の問題へと及ぶ,という変化が
ている。想定読者の変化にともなうテーマ上
見られる。文芸公共圏から政治公共圏への移
1)レイトブラートによると,19世紀後半のロシアの読者は,①知識階級の教養読者,②娯楽を求める町
人・商人などの半教養読者,③最低限の識字能力を有する農村読者の三つに階層分化していた。それま
で半教養読者を対象としていたチェーホフは,この時点から自らの執筆の対象が教養読者に変わった
(Рейтблат 1999: 4)。
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アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)
行である
(ハーバーマス 1994: 72-85)
。ただし
け,アントンの妹マリアも当時モスクワにお
ハーバーマスは,近代の市民的な公共圏から
いてロシアで最初の女子大学として開設され
女性が排除されていたことを強調している。
たばかりの「ゲリエ課程」に進んだ。それは
西欧の市民社会においては,民主主義と平等
当時の女性が望みうる限り最高の教育であっ
の理念が叫ばれる一方,男性と女性の差異が
た。若きチェーホフの周辺にはその妹マリア
改めてイデオロギー化され,女性は家庭内の
の友人や,モスクワ絵画彫刻建築学校生で
親密圏にのみ属する存在であることが求めら
あった次兄ニコライの友人たちが集い,高度
れた。
に知的で文化的な交友関係を結んでいた。彼
西欧諸国に比べて産業と資本主義の発達が
は公共圏とは何か,そこで行われている議論
遅れ,市民階級が未形成であったロシアで
とは何かを身をもって知り,かつ公共圏への女
も,アレクサンドル二世の治世下の1860年代
性の参加も目の当たりにしていたに違いない。
には農奴解放をはじめ地方自治,司法,教育
チェーホフの描く女性像の多様性は,19
などさまざまな領域で近代化が図られ,急速
世紀後半から20世紀初頭にかけてのロシア
な経済成長が始まった。それと並行して検
作家の系譜のなかで,独特の位置を占めて
閲が緩和されたことで出版メディアが劇的
いる(Heldt 1987: 49-57)。彼がまだ医学生
に成長し,1880年代には発行部数が一万部に
であった こ ろ 長 兄 ア レ ク サ ン ド ル に 宛 て
も達する月刊総合雑誌が12を数えた(ヒング
た手紙(Чехов 1974: 53-55)において「自然
リー 1984: 271-286)。こうして,ようやく本
は不平等を許さない」と断言しているよう
格的な「議論する公共圏」が生まれる前提が
に,チェーホフは「男女は生物学的には平
整ったのである。そこでは,伝統や信仰に
等」であると堅く信じていた。そして,現
よって守られてきた従来のあらゆる価値観が
実社会において歴然と存在する男女の差異
根底から問い直され,それまで絶対視されて
は,悪しき教育が作りだした後天的な弊害
きたツァーリの権力,キリスト教信仰,家父
にすぎないと考えていた(川島 2011)。ただ
長制などへの信頼が大きく揺らぎ始めた。上
し,チェーホフは必ずしも女性の社会進出や
記のような,男女を公共圏と親密圏で分離し
フェミニズムの主張に共感していたわけでは
ようとする思想とともに,男女平等を求める
ない。初期作品では,時には知的な女性の
フェミニズム思想も同時進行で西欧から伝播
苦悩を扱うこともあったが,男女同権を求
し
(Stites 1978; 和田 1989; 富永 1998)
,女性
める女性の姿をどちらかというと揶揄的に
の教育権を求める動きも盛んになった(橋本
扱っていた(De Maegd-Soёp 1987: 214)。だ
2004: 255-359)。したがって,後進国ロシア
が後期作品と戯曲においては,「新しい女性
で新しいタイプの公共圏が形成されていく際
の生き方」が誠実に取り上げられるように
には,「公共圏への女性の参加」が重要な問
なった。ヒロインたちの多くは,もはや人
題となった。実際,1870年代から活発化した
生の最終目的を結婚や恋愛に置かず,自立
ナロードニキ運動には数多くの女性が参加
し,創造的な仕事をし,恋人ではなく同朋とし
し,この活動がらみで1875年までに逮捕され
て男性に向き合おうとした(De Maegd-Soёp
予審にまわされた770人のうち,2割が女性で
1987: 261)
。1895年に発表された『三年』
,翌
あったという
(和田 1976: 241-242)
。
年の『わが生活』と『中二階のある家』など
チェーホフは,この時代の流れを敏感に察
がその例として挙げられる。興味深いこと
知していた。貴族でもなく裕福でもなかった
に,この時期に集中して発表されたこれらの
チェーホフ家だが,兄弟はみな高い教育を受
作品には,女性たちが公共圏における議論に
川島静:チェーホフ『中二階のある家』における女性像
79
参加している姿がはっきりと描かれているの
きっとそういう人々は,そんなもの,読むの
だ。その事例を次節ではまず確認したい。
も嫌にちがいないわ。
」
(Че
х
о
в1977a: 54-55)
4.チェーホフが描いた「公共圏への女性進出」
ここでは,ハーバーマスのいう「文芸公共
中編小説『三年』は,地方貴族の娘ユー
圏」がまさに「政治公共圏」へと移行しよう
リャを妻に迎えたモスクワの商人ラープチェ
とする局面が光を浴びているといえよう。た
フが,愛とは,夫婦とは,人生とはという問
だし,その移行には歯止めがかけられる。夫
いを自らに課しつつ,妻と暮らす三年間を描
の大学時代の友人ヤールツェフが,ふたりの
いた物語である。そこでは,当時のロシア社
立場にこう反論するからだ。
会に生成しつつあった市民的公共圏の一断面
が,克明に捉えられている。ユーリャはモス
「もしも詩が,君たちに重要だと思える
クワで新婚生活をスタートさせるが,新居に
問題を解決しないというのなら,技術や,
は夫の友人たちが連日押し掛けてきて討論を
警察法や,会計の本でも読みたまえ。科学
楽しむ。そこで議論の的になるのは,
「芸術」
記事でも読めばいいじゃないか。『ロミオ
の位置づけである。1870年前後から活動を活
とジュリエット』の中で,愛の代わりに,
発化させた画家集団〈移動展派〉のリアリズ
たとえば,教育の自由とか監獄の消毒とか
ム絵画の運動に典型的に見られるように,芸
を論じなければならないとでもいうのか
術の社会参加は帝政末期のロシアで重要な
い。
」
(Чехов1977a: 55)
トピックとなっていた(川島 2009)。その事
情が『三年』にはリアルに描写されているの
これを傍で聞いていた夫が一時中座し,し
だ。ある日の討論では,まず夫の幼馴染コー
ばらくして戻ってみると,すでに議論は終
スチャが,芸術には「傾向」が必要だとする立
わっており,ヤールツェフが講義口調で「ひ
場から話を始め,ユーリャがそれに同意する。
とりでしゃべっていた」。つまり,ここではい
まだ「文芸公共圏」の要素が優位なのである。
「芸術作品に意義があるのは,テーマに
中編小説『わが生活』では,貴族の身分に
何かまじめな社会問題が盛り込まれている
ありながら肉体労働で生きていこうとする
時だけだ。〔……〕農奴制に対する抗議が
「私」の姿を通して,理想化しがたい現実の
作品に含まれているとか,作者が上流社会
人民の状況が描かれる。そんな「私」のとこ
の俗悪さに反発しているとかいうのなら,
ろに,ある日,医師ブラゴヴォーがやって来
作品は有益だ。しかし,ああとかこうと
て議論を挑む。この医師は,
「私」の姉クレオ
か,彼女が彼を愛したとか,彼が彼女を捨
パトラの親しい友人アニュータの兄である。
てたとかいうだけの小説は,――そういう
作品はくそくらえだ。
」
「仮に,意志の力や,集中力や,すべて
「わたし,あなたのおっしゃることに賛成
の能力を,何か別のことに,たとえば,将
よ,コンスタンチン・イワーヌイチ。あいび
来大学者とか芸術家になることに費やすと
きを書く作家もいれば,浮気を書く作家も
したら,あなたの生活はもっともっと広く
いる。別れた後の邂逅を書く作家もいる。
深くなって,あらゆる意味でもっと生産的
でも,もっと他にテーマがないのかしら。
になるのではありませんか。
」
だって,病気の人,不幸な人,貧乏に苦しん
私たちは会話に没頭し,そして肉体労働
でいる人がこんなに大勢いるのですもの。
に話が及んだとき,私は以下のような考え
80
アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)
を述べた。肝腎なことは,強者が弱者を奴
するという状況が実際に当時のロシア社会で
隷にしないことだ。ひと握りの人間がおお
現出していたことを忠実に捉えたものである
ぜいの人間の寄生虫であったり,うまい汁
と考えられる。ただし,公共圏に進出する女
を慢性的に吸いあげるポンプであったりし
性たちの姿が肯定的に提示されているかとい
ないこと。つまり,強者も弱者も,金持ち
うと,決してそうとはいえない。『三年』に
も貧乏人も,例外なしに誰もが自分のため
おいて,公共の場で発言する妻ユーリャを目
に,等しく生存競争に参加できることだ。
にした夫ラープチェフは,「まだ22歳にもな
そしてその意味では,すべての人間に共通
らない妻が,こんなにもまじめくさって,冷
の,だれもが負う義務としての肉体労働ほ
やかに,愛を論じるのは不愉快だ」と感じる
ど,平等化の手段としてすぐれたものはあ
(Чехов 1977a: 55)。『わが生活』では,「議
り得ない。
〔……〕
論に耳を傾けては,嬉々として楽しげで,
「でも,もし思想家や大学者のような優
うっとり聞き惚れながら,好奇心にあふれた
秀な人々もひっくるめて,だれもが,めい
表情」(Чехов 1977a: 222-223)をしている姉
めい自分のために生存競争に参加して,石
クレオパトラの姿が描写される。ここでは
を砕いたり,屋根を塗ったりするのに時間
彼女自身は発言しないが,次の節では,「私」
をとられでもしたら,社会の進歩に深刻な
の未来の妻マーシャが次のように発言する。
危険が及ぶのではありませんか。
」
(Чехов
1977a: 220)
「教育のある人も金持ちも,みんなと
同じように働かなくちゃなりませんわ。
社会の進歩が人間を幸福にすると信じる医
〔……〕」そのあと,彼女はペテルブルグに
師と,誰もが均等に肉体労働を分担すること
いたころのことを話してきかせ,名だかい
が社会の不平等根絶に繋がるのだと主張する
歌手たちの声や歌いぶりをまねてみせた。
「私」の立場は,真っ向から対立する。ここに
彼女は笑ったり,ふざけたり,かわいらし
は,先に触れた「文学の傾向」の問題と同じ
く顔をしかめたりした。私は,彼女が不正
く当時のロシア社会でさかんに話題になって
な富についてしゃべったりするよりもこち
いた,トルストイ流のアナーキズム思想を
らの方がずっとふさわしいと感じる。さっ
めぐる問題が表されている2)。ちなみに作者
き富だとか,安楽だとかしゃべったのも,
チェーホフ自身も,一時期トルストイ主義に傾
真剣な話ではなく,誰かの口まねだろうと
倒し,のちにそこから脱却したという経緯があ
いう気さえした。
(Чехов1977a: 229)
る。チェーホフが,当時の知識人たちの関心の
動向にきわめて敏感であったことが窺える。
ユーリャの夫ラープチェフ同様,マーシャ
ここで注意したいのが,このように描き出
の夫となる「私」も,妻の社会的発言に対し
される公共圏の議論における,女性たちの
て批判的である。これらの作品の女性たち
立場である。興味深いことに,彼女たちは
は,公共圏に喜んで参加しようとするが,せ
決して公共圏から排除されてはいない。『三
いぜいその雰囲気を楽しむだけで,本質的に
年』のユーリャのように,公共圏の議論の場
自分自身の意見を持たない存在として描かれ
に同席し,ときに積極的に発言する女性の姿
ている。こうした描き方が,当時のマジョリ
をチェーホフは描いているのだ。これは,前
ティの男性読者たちの女性理解の枠組みに合
節で確認したように,公共圏に女性が参加
致するものであったろうことは想像できる
2)1894年3月27日付けのスヴォーリンへの手紙(Чехов 1977c: 553)には,トルストイ主義からの決別の理由
が詳しく記されている。
川島静:チェーホフ『中二階のある家』における女性像
81
し,作者自身が現実の女性の社会進出に対し
する。民衆を救済しなければならないと考え
て抱いていた不快感が反映しているとも考え
ている点では,ふたりの意見は一致してい
られる。そして,『中二階のある家』に描か
る。民衆救済は知識階級の責務であるという
れた女性像にも,やはり同じ特徴が認められ
のが,当時のロシア社会に生きるインテリゲ
るのである。
ンツィヤの共通認識であった。ただし,その
5.
『中二階のある家』に描かれた「議論する
女性」とゼムストヴォの現状
実現手段については,相反する立場が乱立す
る状況であった。ここでのリーダの立場は,
同時代にポスト・ナロードニキの理論として
社会活動家のリーダと,無為の生活を送る
注目を集めた「小さい仕事」理論のそれに合
画家は,表面上は平穏な関係を装っていた
致している。
が,8月のある日曜日,遂にふたりは衝突す
ロシア社会の近代化を目指し,知識階級
る。常々感じていたリーダの活動への不信
による農村変革に着手したナロードニキ運
を,画家がさらけ出すのである。
動は,1870年代の「ヴ・ナロード(人民の中
へ)」の試みに失敗し,1881年にはアレクサ
「農民たちの境遇で何がひどいかという
ンドル二世暗殺というテロリズムに走った
と,それは,彼らが魂について考えるひま
が,その結果厳しい弾圧を招き閉塞状態に
もなく,自分たちの姿は神に似せてつく
陥った。その状況を打開すべく生まれたのが
られたのだということを思い出すひまもな
ヤーコフ・アブラーモフの唱道した「小さい
く,飢えや,寒さや,動物的な恐怖や,山
仕事」理論で,ゼムストヴォという既存の地
のような仕事が,まるで雪崩のように,精
方自治組織を活動の拠点として,過激な革
神活動への道をすっかりふさいでしまって
命運動に農民を動員することなく文化的活
いることなのです。この精神活動こそが,
動,とりわけ教育による社会変革をめざした
人間を動物から区別するもので,そのため
(Новак 1997; Зверев 1997)。この理論は
に生きるに値する唯一のものなのですから
1880年代末から1890年代初頭にインテリゲン
ね。あなたがたは彼らを救おうとして,病
ツィヤから多くの支持を集めた。なお,「小
院やら小学校やらを作るけれど,そんなも
さい仕事」という名称は,革命運動こそが正
のは彼らをくびきから解きはなつ役には立
当な「大きい仕事」であるとするナロードニ
ちませんよ。それどころか,一層奴隷化す
キ左派によって蔑称として命名されたもので
るだけです。だって,彼らの生活の中へ新
ある。アブラーモフらは「社会主義からドイ
しい偏見を持ちこんでは,彼らの欲求を増
ツの服をはぎ取り,ラシャのカフタンを着せ
やしているのですからね。薬代や本代をゼ
よう」をスローガンに反マルクス主義的立場
ムストヴォに払うために,彼らはもっと背
をとったため,ソビエト時代には反革命の烙
をかがめて働かなければならないのですか
印をおされ,1929年版百科事典を除くすべて
ら。
」
(Чехов1977a: 184)
の情報は削除されたのだった。
「小さい仕事」の活動拠点となったゼムス
これに対してリーダは,「ただ手をこまね
トヴォは,帝政ロシアの地方自治組織として
いているわけにはいかないじゃないですか。
いわゆる「大改革」のさなかの1864年に設立
〔……〕教養のある人間のいちばん高い,い
されたもので,医療,教育,統計,農事指導
ちばん神聖なつとめは,身近な人々に奉仕す
の部門に分かれ,農村の文化啓蒙をその任務
ることですから」(Чехов 1977a: 184)と反論
とした。しかし,本格的に地域社会に浸透し
82
アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)
定着するのは,1891年の大飢饉と92年のコレ
収束する頃には,「私は生きがいを見出した」
ラ流行という危機に農村が見舞われてからで
と手紙に書くほどに変っていた。チェーホフ
あった。ゼムストヴォが果たした歴史的役割
の活動は医療分野に留まらない。1894年には
は,それを構成する自由主義的貴族に,立憲
教会付属学校の世話人となり,1896-1898年
主義的な政治運動の温床を提供したことであ
には学校を三棟建てる。1894年と1897年度に
るという見方が従来は主流であったが,最近
はゼムストヴォの議員にまでなっている。
では地域社会や農村に実際に果たした役割の
ちなみに,物語に描かれるリーダは,三等
方が重視されている。そこに勤務する職員の
官の娘であるので身分的には上流階級(貴族)
多くは専門知識を持った進歩的インテリゲン
に属するが,ゼムストヴォの小学校に奉職し
ツィヤであった。他ならぬチェーホフもその
ている。当時は,高い教養を身につけても女
ひとりである
(左近 2004)
。
性に門戸を開いている職種は少なく,ゼムス
チェーホフのゼムストヴォ活動は大学卒業
トヴォが彼女たちの受け皿としての機能を果
直後に始まる。卒業後モスクワ県ヴォスクレ
たしていた(橋本 2004: 290)。また,当時の
センスクおよびズヴェニゴロドという町の
ゼムストヴォは公共図書館の普及を通じて特
ゼムストヴォに所属して医療活動を行った
権階級から民衆へと公共圏が拡大してく現場
(Россолимо 1960: 665-666)。メリホヴォ
であった(巽 2008: 255)。ゼムストヴォで学
に転居した1892年3月4日当時,付近一帯に
校教育や診療所建設に邁進するリーダの像
はコレラが大流行していたため,1892年7
は,作者の実体験に立脚しているだけにリア
月6日付けの書簡で地元のゼムストヴォか
リティと説得力があり,1890年代の社会状況
ら協力を請われて,メリホヴォ村を中心に
下では最高度にアクチュアルな形象であった
26の村,7の工場,1の修道院のコレラ防疫
はずである。その彼女が「中二階のある家」
を担当することになった。3カ月間の渾身
で画家と議論を闘わすとき,彼女の姿は先に
の活動が功を奏して同年10月15日には臨時
見た『三年』『わが生活』の場合とは異なっ
診療所が閉鎖されコレラ終息宣言が出さ
て明らかに自立的で,公共圏への女性進出の
れた。チェーホフはそれ以後もゼムスト
イメージを当時としてはこの上なく先鋭に打
ヴォに留まり,中風やジフテリヤ対策に当
ち出すものに他ならなかっただろう。
たった。村の住民は,チェーホフが作家で
しかしながら,彼女もやはり肯定的に描か
あることを知らず,医者なのだと思い続け
れているとはいいがたい。何より,主人公に
ていたという。一般にゼムストヴォにおい
恋されるのはリーダではなく,いかにも「女
ては,農民と医師の間には信頼関係が成立
らしい」「子どもっぽい」ミシュシなのだ。
していなかった。コレラを撒き散らして
もちろん,作中で画家が述べるリーダの社会
いるのは医師だと疑われさえした(Чехов
活動への批判自体は,その内容が濃厚にトル
1977b: 96)。当初「コレラに関することすべ
ストイ主義を思わせる3)だけに,すでに1894
てが疎ましい」(Чехов 1977b: 100)と愚痴を
年にはトルストイ主義への決別を宣言してい
こぼしていたチェーホフも,コレラ騒動が
た作者本心からの心情を代弁していると受け
3)たとえば以下の箇所。「もしも私たちみんなが,都会の者も田舎の者も,金持ちも貧乏人も,ひとりの
例外もなしに,人類全体が日に2,3時間働きさえすれば,残りの時間は自由になるのです。余暇を科学
や芸術に捧げることができるのです」(Чехов 1977a: 186)。なお1891年と1892年にロシアは深刻な飢饉
に襲われたが,トルストイは雑誌『週間手帳』1892年1月号に論文『飢饉について』を発表した。画家
が口にする,「10億人もの人々が,獣より悪い環境で」(Чехов 1977a: 184)暮らす悲惨な農村の現状は,
「重税,耕地不足,放置と退廃のもとに民衆が暮らしている限り,飢饉は不可避である」というトルス
トイの主張に重ね合わすことができるという(Катаев 1979: 232-233)。
川島静:チェーホフ『中二階のある家』における女性像
83
取る必要はないわけだが,画家に批判された
離された美しい世界は,桃源郷のイメージさ
リーダの苛立った態度の描写などからして,
え髣髴とさせる。実はこの物語の根底には貧
彼女の立場が正しいと描かれていると読むの
民救済問題があって,対岸の村では民衆の苦
は困難である。また,彼女が母親や妹ミシュ
しい暮らしが営まれているはずなのだが,そ
シに対して見せる独裁的な振る舞いは,あた
の存在は伏せられ,夕空に映えるシルエット
かも家父長制を裏返しにしたかのような横暴
だけが提示される。この作品では,社会問題
さであり,家父長制への嫌悪を常々表明して
と自然風景とが対置されていて,こうした描
いたチェーホフの,知的な女性の「男性化」
写は,作中人物の画家が「風景画」しか描か
への皮肉な視線が感じられる。
ないことと響き合っている。
6.マルタとマリア
この二人の女性,「議論する女性」である
風景画というジャンルは,19世紀後半のロ
シアにおいて,社会問題からの逃避として厳
しく批判されてきた4)。物語中で社会活動家
姉リーダと「女らしい」妹ジェーニャを作者
リーダが画家のことを毛嫌いするのは,彼が
チェーホフが価値評価するにあたっては,同
「風景画家であり,自作中で民衆のつらい生
時代の絵画や聖書的なイメージまでが動員さ
活を描こうとしない」せいだ(Чехов 1977a:
れている。その点を,当時のロシア絵画をめ
178)とされているのは,まさしく時代の社会
ぐる状況とからめて確認し,本稿の結びとし
たい。
的文脈を踏まえた表現なのである。ただし,
〈移動展派〉の風景画は公衆のあいだで大き
ミシュシにまつわる恋物語は,作中では一
な人気を博し,画家たちを経済的に支えても
貫して,抒情的な風景と一体化して描かれ
いた。そして1890年代以降,同派が社会参加
る。作品のタイトルになっている「中二階の
から後退していくにつれ,風景画の地位はさ
ある家」とは,19世紀にロシアで流行した小
らに高まっていく。貧しい境遇から身を起こ
ぶりでおしゃれな西洋風の建物を指すのだ
し,優れた風景画を数多く残したイサーク・
が,そのイメージに加えて,作品のサブタイ
レヴィタンは,この局面の〈移動展派〉を代
トルになっている「画家」があたかたもカン
表する存在である
(Valkenier, 1977: 128-129)
。
バスに風景画を描いていくように描写される
彼はチェーホフの友人であり,他でもなく
美しくノスタルジックな自然が,主人公であ
『中二階のある家』の画家のモデルと目され
る画家の恋愛を彩っている。「針葉樹の強い
る(Чехов 1977a: 490-491)。先に述べたよう
匂い,落ち葉を踏みしめるカサコソいう音,
に,この画家像に作者の共感が寄せられてい
畑の緑」などの五感に訴える描写,「ボート
るとは必ずしもいえないが,風景画がすでに
遊び,キノコ採り,サクランボもぎ」などの
ジャンルとして確立され,知識人の風景画批
田舎ならではの遊び,「樅の並木道から菩提
判がやや時代遅れになりつつある時期に,作
樹の並木道へ折れ,鬱蒼とした老木の間を抜
者チェーホフが女性活動家リーダと風景画家
けて,テラスと中二階のある白い家の横を通
のどちらに読者の共感がより多く集まると計
り過ぎると,幻想的な世界が眼前に開ける。
算していたかは,疑問の余地がないように思
地主屋敷の庭と大きな池と対岸の村,鐘楼の
える。
上には十字架が夕陽に煌めいている」
(Чехов
さらに,同時代の読者たちは,チェーホフ
1977a: 174-175)。このように現実社会から隔
の描く両極的な姉妹像を目にして,聖書の
4)A・サヴラーソフの『ミヤマガラスの飛来』(1871)への雑誌『課題(Дело)』の批判が有名である。作
家V・ガルシンも風景画批判の急先鋒であり,小説『ふたりの画家』(1879) では社会問題を描く風俗画
家と風景画家の対立を描いた(Valkenier 1977: 77)。
84
アゴラ(天理大学地域文化研究センター紀要)
ひとつのエピソードを強く喚起されたはず
とりで,のちにトルストイに傾倒したニコラ
である。すなわち,『ルカによる福音書』第
イ・ゲーも,1890年頃「キリストの最期」を
10章38~42節に見える,ベタニヤ村の「マル
テーマとする連作を制作している。それらと
タとマリア」の姉妹の物語である。イエス
同時期に描かれたセミラツキーとポレーノフ
の来訪に際し,もてなしのために忙しく立ち
の作品は,「女性」にスポットが当たってい
働いた姉マルタに対して,ただイエスの足も
る点が特徴的である。
とに座ってその言葉に耳を傾けていた妹マリ
アが「良いほうを選んだ」とイエスから称賛
される。そのストーリーは周知のとおりであ
る。活動的なリーダと消極的なミシュシの姉
妹像は,このマルタとマリアの対比をなぞっ
ているのではないだろうか。特に,チェーホ
フ作品のキノコ採りの場面において画家の言
左:セミラツキー 右:ポレーノフ
葉を聞くミシュシの姿は,「無言のまま学ん
これらの絵画は構図が共通しており,イエ
でいる」ベタニヤ村のマリアの像に重なり合
スより一段低い所にマリアが座り,教えを仰
う。ミシュシは画家の言葉に「すなおに耳を
いでいる。基本的に,そこでは,家庭という
傾け,そのまま信じ,証拠を求めなかった」
親密圏において女性が男性に従属すべきもの
(Чехов 1977a: 180)
のだ。さらに同じ場面で,
であることが語られているようだ。イエスの
ミシュシは画家が「永遠の世界」に通じてい
話を黙って拝聴するマリアの姿は,チェーホ
ると考え,そこに自分も同行することや,神
フ作品の男性読者の大方が求めた理想像に合
や魂の不滅や奇跡などについて語ることを望
致しているのだろう。ただ,立ち働き発言す
む。このくだりでは画家とイエスを同一化し
るマルタの姿が,特にポレーノフ作品では,
ているとさえいえる。
イエスを見下ろすような位置に描かれている
なお「マルタとマリア」のモチーフは,古
のは印象的である。これは,当時の社会で女
来きわめて多くの画家によって絵画化されて
性をめぐる議論がさかんに行われ,新たに公
きたが,同時代のロシアでも好んで画家たち
共圏における地位の確認を求める女性たちが
の取り上げるところとなっていた。セミラツ
増えていたことと無関係ではない。少し穿っ
キーСемирадский, Г.И.(1843-1902)の『マ
た見方をすれば,「マルタとマリア」を題材
ルタとマリアの家のキリスト』
(1886)
と,レ
にした絵画には,『中二階のある家』に描か
ヴィタンの風景画の師ポレーノフПоленов,
れたのと同様,もはや女性に対して絶対的優
В.Д.(1844-1927)の同名の絵(1890年代)が,
位には立っていない男性知識人のありようが
その例である。もとより宗教画は伝統的な絵
見て取れるのである。『中二階のある家』が
画ジャンルだが,19世紀後半,イワーノフの
発表されると多くの女性読者からの反応が寄
『民衆の前に現れたキリスト』(1837-1857)や
せられたが,そのうち半分はリーダの描き方
〈移動展派〉の指導者クラムスコイの『荒野
を肯定的に捉えたもので,残りの半分はリー
のキリスト』
(1871)
などの作品により,聖書
ダへの攻撃を自分たちへの攻撃と見なして憤
から画題を採りながら同時代のインテリゲ
慨する声であったという
(Чехов 1977a: 494)
。
ンツィヤの苦悩を表現するという手法は珍し
おそらく作者本人の予想を超えて,公共圏
くなくなっていた(Hilton 1978: 110; Jackson
への進出と承認を求める女性たちの期待は高
2006: 102)
。
〈移動展派〉の設立メンバーのひ
まっていたのだ。
川島静:チェーホフ『中二階のある家』における女性像
85
チェーホフは,この時代状況の中で,自分
ちの姿を肯定的に描ききることは決してな
の作品の読者が求める女性像を追い続けてい
かったが,現実の社会で活動を始めつつあっ
た。その結果,彼の描く女性像は,リーダ
た彼女たちの声に可能なかぎり接近した作品
とミシュシへと二極分化することになった。
が『中二階のある家』だったのである。
チェーホフが公共圏に生きる主体的な女性た
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