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手作 り紙芝居 「日蓮 大聖人 ご生誕 の日 」
てづく かみしばい 手作り紙芝居 にちれんだいしょうにん せいたん ひ 「日蓮 大 聖 人 ご生誕の日」 はじめに(6枚目の絵の裏に貼る) にちれんだいしょうにん せいたん ひ 2 月 16 日は日蓮 大 聖 人 ご生誕の日です。 みな しょうがい まな せいしん ふ 皆で日蓮大聖人のご生 涯 を学びあい、その精神に触れていきましょう。 せいたん 1枚目/ご生誕 (6枚目の絵の裏に貼る) じょうおうがんねん あ わ の くに げんざい ち ば け ん かもがわし しゅっせい 日蓮大聖人は貞 応 元年(1222 年)2 月 16 日、安房国(現在の千葉県鴨川市)で出 生 されまし じ しん おんごく もの たみ こ など ぎょぎょう た。大聖人ご自身が、 「遠国の者・民が子」 (御書 1332 ページ)等と言われているように、漁 業 で せいけい た しょみん う 生計を立てる庶民の生まれでした。 に ほ ん だいいち ち しゃ たま 2枚目/「日本第一の智者となし給へ」 さい せいちょうじ のぼ と うじ (1枚目の絵の裏に貼る) しょとうきょういく まな だいしょうにん どう ぜんぼう ししょう せいしき 12歳で清澄寺へ登り、当時の初等 教 育 を学んだ大 聖 人 は、16 歳で道善房を師匠として正式に しゅっけ 出家しました。 かまくら てんぺん ち い き きん えきびょう あ いつ だれ ひ と り く の う しず ひと 当時の鎌倉では、天変地異、飢饉、疫 病 が相次ぎ、誰一人苦悩に沈まない人はいませんでした。 じょうきょう ふか こころ いた ふ ぼ みんしゅう すく この 状 況 に深く 心 を痛められた大聖人は、父母らをはじめとする民 衆 を救う智者になりたいと ねが せいがん た 願われ、 「日本第一の智者となし給へ」 (同 893 ページ)との誓願を立てられました。 りっしゅうせんげん 3枚目/立 宗 宣言 だいしょうにん (2枚目の絵の裏に貼る) か くち し ょじ めぐ いっさいきょう せいどく かくしゅうは きょうぎ ほんしつ きゅうめい 大 聖 人 は、各地の諸寺を巡り一切 経 を精読するとともに、各宗派の教義の本質を究 明 されて じ しん さと みょうほう ほけきょう かんよう なむみょうほうれんげきょう こんかん いきます。“自身が悟った妙 法 とは法華経の肝要である南無妙法蓮華経であり、一切経の根幹で しょしゅう ひとびと じょうぶつ みち と けつろん ある法華経をないがしろにする諸 宗 は、人々の成 仏 の道を閉ざしている”と結論されるのです。 だいなん お か くご みょうほう ぐ づ う じっせん ふ だ け つい けんちょう そして、大難が起こることを覚悟のうえで妙 法 弘通の実践に踏み出すことを決意され、建 長 5 さい とき せいちょうじ ねんぶつ はしゃく 年(1253 年)4月 28 日、32歳の時に、清澄寺で念仏などを破折するとともに、 「南無妙法蓮華経」 まっぽう せかいじゅう みんしゅう すく ゆいいつ ほう こそが末法の世界中の民 衆 を救う唯一の法であると宣言されました。これを立宗宣言といいます。 ころ みずか にちれん な の またこの頃に、 自 ら「日蓮」と名乗られました。 しゅじゅ だいなん ほっしゃくけん ぽん 4枚目/種々の大難と発 迹 顕本 (3枚目の絵の裏に貼る) だいしょうにん なん ほんかくか みんしゅう あんのん へ いわ こころ ねが りっしょうあんこくろん とき 大 聖 人 への難が本格化するのは、民 衆 の安穏と平和を 心 から願い、 「立 正 安 国論」をもって時 じっしつてき さいこうけんりょくしゃ ほうじょうときより いさ の実質的最高 権 力 者 ・北条時頼を諫められた時からでした。 ま つばが やつ こまつばら たつ くち つづ ほうなん い ず さ ど ど およ る ざい 松葉ケ谷、小松原・竜の口と続く法難。そして、伊豆、佐渡の2度に及ぶ流罪。それでも大聖 みんしゅうきゅうさい ちか ほけきょう せいしん せ いぎ とうそう つづ 人は、民 衆 救 済 を誓う法華経の精神のままに正義の闘争を続けられました。 ちょうてん へいのさえもんのじょう けい しっこう これらの大難の頂 点 が竜の口の法難・佐渡流罪でしたが、平左衛門尉が刑を執行しようとした え しま ほう ひか もの ほくせい ほうこう よ ぞら はし へ いし おそ 時、江の島の方から“まり”のような光り物が北西の方向へ夜空を走ったのです。兵士たちは恐れ、 ざんしゅ 大聖人を斬首することはできませんでした。 い らい まっぽう ごほんぶつ ふ ま しめ この時以来、大聖人は末法の御本仏としてのお振る舞いを示されていきます。これを発迹顕本 といいます。 み のぶにゅうざん あつ はら ほうなん だい ご ほ ん ぞ ん こんりゅう 5枚目/身 延 入 山 ・熱原の法難・大御本尊 建 立 さ ど る ざ い しゃめんご だいしょうにん かまくら かえ (4枚目の絵の裏に貼る) ば くふ いさ ぶんえい 佐渡流罪赦免後、大 聖 人 は鎌倉に帰られ、幕府を諫められます。そして、文永11 年(1274 年) か い の こく やまなしけん み のぶさん はい の5月に甲斐国(今の山梨県)の身延山へ入られました。 こうあん のうみん し ん と にん む じつ つみ た いほ 大聖人の身延入山後、弘安2年(1279 年) 、熱原の農民信徒20人が無実の罪で逮捕されました。 へいのさえもんのじょう きび と しら おこな ほけきょう しんじん す おど 平左衛門尉が鎌倉で厳しい取り調べを 行 い、法華経の信心を捨てるよう脅しましたが、農民たち つらぬ とお しょけい ついほうしょぶん あ は信心を 貫 き通し、3人が処刑され、残りの 17 人は追放処分に遭ったのです。これを熱原の法 難といいます。 みんしゅう だいなん た つよ かくりつ かん どうねん 大聖人は、 民 衆 が大難に耐 える強 き信心を確立 したことを感 じられて、同年 10 月 12 日に いちえんぶだい そ う よ だい ご ほ ん ぞ ん こんりゅう にっこうしょうにん たく 一閻浮提総与の大御本尊を建 立 されました。そして、すべてを日興 聖 人 に託し、弘安5年(1282 さい とうと ごしょうがい お 年)10 月 13 日、61歳の 尊 い御生涯を終えられました。 そ うか し てい 6枚目/創価の師弟 たいがん (5枚目の絵の裏に貼る) ほ っけぐ づう だいしょうにん ご ゆ い めい い ち え ん ぶ だ い こうせん る ふ 「大願とは法華弘通なり」 (同 736 ページ)との大 聖 人 の御遺命のままに「一閻浮提広宣流布」 じつげん そうかがっかい さんだい し てい を実現してきたのが創価学会の三代の師弟です。 せ ん ご ま しょうわ と だ せんせい しゅっぱんがんしゅ はっかん にちれん 戦後間もない昭和27 年(1952 年)4月 28 日、戸田先生が出 版 願主となり、発刊された「日蓮 だいしょうにん ご し ょ ぜんしゅう げんざい おお げ んご ほん やく せかいじゅう ひとびと おし ひろ 大 聖 人 御書 全 集 」は現在、多くの言語で翻訳され、世界中の人々に日蓮大聖人の教えが広まり ました。 い け だ せんせい くだ 池田先生は教えて下さっています。 わす ふしゃく じっせん きょうもんどお 「忘れてはならないことは、大聖人の不惜の実践とは、すべて経 文 通りであられたということ こんにち わたし ご しょ とお お おせ です。今日の 私 たちでいえば、〝御書の通り〟〝大聖人の仰せの通り〟ということであります」 と。 しんじん じ だい かえ さけ ごしょうがい ごせいしん 戸田先生は、 『信心は日蓮大聖人の時代に還れ!』と叫ばれました。大聖人の御生涯と御精神を こころ きざ とも せ か い こう ふ まいしん まい 心 に刻み、池田先生と共に世界広布に邁進して参りましょう。 け つい 決意など