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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
王安憶作品研究
Author(s)
葛城, 明子; 荒木, 猛
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1995, 35(2), p.147-164
Issue Date
1995-01-31
URL
http://hdl.handle.net/10069/15350
Right
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長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第35巻 第2号 147-164 (1995年1月)
王安憶作品研究
葛城明子・荒木猛
The Study of Wang An i's Works
Akiko
KATSURAGI・Takeshi
ARAKI
はじめに
葛城氏には、今年度(平成六年度)より、本学の中国語の非常勤講師として、週に
二日はど来ていただいているが、それ以外に氏のご研究中の王安憶の作品を一緒に読
みながら、中国の当代文学(1949年、中華人民共和国成立後の文学)について語り
合う機会を、何度か得た。ここにその読書会の成果の一端を発表し、広くご教示賜り
たい所存である。なお、次に挙げる王安憶の略歴と主要作品集に関しては、荒木が担
当し、以下作品論は、葛城氏の手によるものである。
王安憶の略歴
1954年3月6日、南京に生まれる。原籍、福建省同安県。父は劇作家の王噴平、母
は著名な女流作家、茄志醜。
55年、母親の中国作家協会上海分会への転属に伴って上海へ移住。
69年、上海向明初級中学を"結束" (作者が"卒業"杏"結束"と訂正した)。
70年、安徽省准北の五河県頭鋪公社大劉大隊七小隊に入る。
72年、江蘇省徐州地区文芸工作団に楽隊員として入団し、アコーディオンとチェロ
を担当する。
75年、創作を始める。最初の作品は散文「大理石」。これは知育(知識青年)散文集
『飛肥、時代的脱鵬』 (上海文芸出版社、 77年)に収められたが、執筆者に記
念として、一冊ずつ贈られただけで、刊行はされなかった。
78年、上海に帰り、 『児童時代』社の編集部に転属。児童文学を書き始める。
80年、児童文学雑誌『少年文芸』の推薦により、中国作家協会第五期文学講習所に
入り、半年間の養成を受ける。
81年、 「雨、沙沙沙」 (『北京文芸』 1980年第6期)が『北京文学』 1980年の優秀小
葛城明子・荒木猛
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説賞を受賞する。また、児童文学作品「誰是未来的中隊長」 (『少年文芸』 1979
年第4期)が第二回(1980年)全国優秀児童文芸創作二等賞を受賞する。
82年、 「木次列車終点」 (『上海文学』 1981年第10期)が、中国作家協会第四回
(1981年)全国優秀短篇小説賞を受賞する。
83年、茄志醜と共にアメリカのアイオワ大学に招かれ、四ケ月滞在する。
「流逝」 (『鐘山』 1982年第6期)が中国作家協会第二回(1981年-82年)
全国優秀中篇小説賞を受賞する。
84年、 「B角」 (『上海文学』 1982年第9期)が、第一回(1982年-83年)上海文学
賞を受賞する。
87年、上海作家協会の専業作家となる。 「小胞庄」 ( 『中国作家』 1985年第2期)が、
中国作家協会第四回(1985年-86年)全国優秀中篇小説賞を受賞する。
88年4月、茄志鵬と初めて来日し、約二週間滞在する。 9月、西ドイツのハンブルグ
芸術祭「中国月間」に出席する。 「小城之恋」 (『上海文学』 1986年第8期)が
第三回(1986年-87年) "益友杯"上海文学賞を受賞する。
91年、 「叔叔的故事」 (『収穫』 1990年第6期)が、第一回(1990年-91年)上海長
中篇小説優秀作品大賞を受賞する。
王安憶の主要作品集
1 『雨、沙沙沙』 (短篇小説集)百花文芸出版社1981年。
2 『黒黒白白』 (児童文学作品集)上海児童出版社1983年。
3 『王安憶中短篇小説集』中国青年出版社1983年。
4 『流逝』 (短篇小説集)四川人民出版社1983年。
5 『尾声』 (短篇小説集)四川人民出版社1983年。
6 『小胞庄』 (中短篇小説集)上海文芸出版社1986年。
7 『黄河故通人』 (長篇小説)四川文芸出版社1986年。
8 『69届初中生』 (長篇小説)中国青年出版社1986年。
9 『母女連荘美利堅』 (茄志鵬との共著)上海文芸出版社1986年。
10 『荒山之恋』 (中篇小説集)番港南卑出版社1988年。
ll 『蒲公英』 (散文集)上海文芸出版社1988年。
12 『海上繁華夢』 (短篇小説集)花城出版社1989年。
13 『流水三十章』 (長篇小説)上海文芸出版社1990年。
14 『旅徳的故事』 (長篇旅行記)江蘇出版社1990年。
15 『米尼』 (長篇小説)江蘇文芸出版社1990年。
王安憶作品研究
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16 『神聖祭壇』 (小説集)人民文学出版社1991年。
17 『烏托邦詩篇』 (中篇小説集)華芸出版社1993年。
18 『荒山之恋』 (中篇小説集)長江文芸出版社1993年。
19 『男男女女』 (長篇小説)香港勤十線出版社1994年。
作品論
王安憶(1954年、南京生まれ)は、 1981年に最初の短篇小説集『雨、沙沙沙』を
出した。中に収められているのは、 78年から81年にかけて発表された十三篇の短篇
小説である。当初は、代表作である「雨、沙沙沙」 (『北京文芸』 1980年第6期)が、
『北京文学』 (もと『北京文芸』。 1980年10月より『北京文学』に改題。)の優秀小説
賞を受賞したことや、その母親が中国の当代の代表的な女性作家茄志鵬であることも
恐らくあって、この新人作家の初めての作品集について、多くの人から評論が出され
た。もともと児童文学作家だった彼女(1978年から、上海の児童文学雑誌『児童時
代』の編集部に所属。)は、 80年前後は短篇小説に加えて、児童文学作品も数篇発表
しており、それらは児童文学作品集『黒黒白白』 (少年児童出版社出版、 1983年)に
収められている。今回は児童文学はさておき、作品集『雨、沙沙沙』の中の何篇かに
ついて、先行の評論を挙げながら、次の三つの観点から分析を試みたいと思う。
1.女性知識青年像
2.男性知識青年像
3.王安値の「生活」観
1.女性知識青年像
この作品集で最も印象深いのは、数篇の作品にわたって、要要という名の少女が登
場することである。例えば「雨、沙沙沙」に登場する要要を簡単に紹介すると、彼女
は農村から上海へ帰って来て、ある工場で働く知識青年だ。ある雨の夜、夜勤の帰り
に要要は最終バスに乗り遅れてしまった。歩き始めた彼女に、自転車に乗った見知ら
ぬ青年が声をかけて来た。後ろに乗せて家まで送ってくれるという。彼は下心がある
のではないかと思って、要要は警戒したが、歩いて帰るのも大変なので、彼に乗せて
もらうことにした。初めは警戒し恐れていた彼女も、彼と話しているうちに、悪い人
ではないことがわかって来た。そればかりか逆にこの青年の言動に、要要は心の温も
りを感じた。彼は言った。 「本当さ。君が困った時、例えば雨が降ってバスがない時
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とか、きっと誰かが君の前に現れるよ。」 (「雨、沙沙沙」)要要はこの言葉を信じて、
彼にまた会えることを期待して、職場の上司が紹介してくれたボーイフレンドとの交
際も断った。が、結局彼は現れなかったが、彼女は夢をあきらめなかった。彼女は言っ
ている。 「もしこれ(夢-筆者注)がなかったら、世界はどうなるだろう?もし仕事
への追求や、愛情への夢や友情への憧れがなかったら、生活はどうなるだろう?」
この「雨、沙沙沙」の要要に代表される少女たちは、作品集の十三篇中七篇に、或
は桑桑、或は小方などの名で出て来る。王安憶はこれらの少女について、 「この数篇
の小説に連続性はない。要要は一人でもいいし数人でもいい。」 (『雨、沙沙沙』 「後記」)
と言っているが、評論はどれも一人の少女として扱っているようだ。その形象に関す
る各評論の記述は、次の通りである。
(その1)
彼女(王安憶-筆者注)は、私たちに要要という名の誠実な女の子を紹介してく
れた。彼女はまだ十六歳で、しかしすでに広大な天地で、人生の第-課を学んだ。
この要要はとても面白い。彼女は王安憶の小説にたびたび出て来る。ある時は名を
変えて、小方や桑桑やいっそのこと「彼女」とかである。このあどけなく、善良で
思慮深く、憧れが強く、自分の意見をもち、時には弱点もある要要は、王安憶の大
切な形象だ。 (曾鎮南「秀干出林」)
(その2)
作者は青年女性に特有の素質や、特有の鋭敏な感覚や、繊細で離れ難い情感や、
独特の情熱や、純粋な魂や、胸に抱く憧れや追求などをもって、要要の世代の青年
の心理や情緒の歴史を描いてみせ、昨今の文壇にひとつの侮り難く忘れ難い、典型
的な一連の形象を添えた。 (程徳培「要要的情緒天地」)
七篇の作品で、少女たちはいずれも純粋で憧れが強く、生活に夢をもっている。中
でも「広間天地的一角」の要要は、特にそうである。この作品で要要は16歳で農村
へ下放され、生産隊で働いている。ある時省の積極分子代表大会に参加し、そこで世
の中全てを欺輔だと思っている青年荊国慶に出会う。 「人も俺を編す。どうせこんな
ふうに編し編されるのが、生活ってもんさ。」と言う彼に、要要はきっぱりと「もし
生活がほんとうにそんなもんだったら、私はすぐにでもさよならするわ。でも生活は
もともと、そんなに悪いもんじゃない。」と言い切った。要要のこうした形象はどこ
から来るのか。言い換えると要要はなぜこう純粋なのか。その理由は、各論によると
次のように考えられている。
王安憶作品研究
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(その1)
彼女(要要-筆者注)たちは生活に足を踏み入れたばかりで、人の世の移り変わ
りをあまり経験したことがなく、天真で無邪気で、想像力が豊かである。文化大革
命の十年の大災害の中でも、彼女たちは「政治」を読み漁らず、受けた「汚染」も
少なく浅い。だから愛情問題で、彼女たちは始終誠実で純朴な心をもって、美しい
境地を追い求めている。 (盛英「春天里初放的中花」)
(その2)
この作品(「広間天地的一角」 -筆者注)では要要が原来もつ魅力的な性格がよ
く現われている。仕事においても、人を信じることにおいてもきまじめで純粋であ
り何よりも自分なりの考えをもっている。 (中略)要要には「貴下中農に奉仕する」
という意識もなく「思想闘争」も関係もない。ただ自分を鍛える場として今度の積
極分子代表大会への参加を素直に喜こんでいる。彼女の純粋さは社会への妥協を許
さない。 (中山文「王安憶文学の原点-要要を迫って」)
上の論によると、 16歳の要要が純粋なのは、まだ社会へ出て日が浅く、醜い現実
の実態を知らないからだ。それはかつての少年荊国慶が、世界を愛し生活を愛してい
たのと同じだ。だが無垢な彼女も、次第に現実とはどういうものか、知ることになる。
彼女は自分が積極分子の代表に選ばれたのは、自分の労働態度が認められたからだと
信じていたが、実はそうではなかった。幹部の張主任が息子のために、彼女を選んだ
のだった。その息子はかねてから要要を気に入っていた。それだけでなく、要要が大
学へ行きたし,、と言うと、張主任はコネを使ってその入学を請け合うから、代わりに息
子と付き合うように言った。こうしたあからさまな駆け引きは、文革当時は恐らく珍
しくなかった。中には就職や進学のために、条件をのんだ女の子もいた。 (「広間天地
的一角」の朱敏など)
要要はこのことで、かなりのショックを受けるが、それで一転して世の中を悲観視
するには至ってない。彼女は母親宛の手紙にこう書いている。 「今回の会議で、私は
たくさんのことを知ったわ。ほんとうにたくさんのことを。なんだか急に大人になっ
たみたい。もう16歳ではなくて、 26歳になったみたいよ。 (中略)彼(荊国慶-筆
者注)が言うのは正しいわ。現実を正視しなくちゃ。現実を正視する-今回新たに
知った言葉よ。家は天国ではない。そして-生家にいるわけにもいかない。私は大き
くなりたい。生活をしたい、自分の力で生活を、ご飯を食べて行くようになりたい。」
(「広間天地的一角」)評論の中には、このような要要の人物像を肯定しているものも
ある。以下に引用する。
葛城明子・荒木猛
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彼女は「実は醜いのは張主任だけではない。またそれよりも美しい山河や善良な
農村の人たちの方が、ずっと多い。」と言っている。人はこの小娘の考え方は、単
純すぎると思うかもしれないが、生活の中の美しいものや善いものに対する、彼女
のあの信念は賛美すべきものだ。この点はまさに、王安憶文学という歌の主旋律だ。
(曾鏡南「秀干出林」)
王安憶は、要要のことを「彼女は食べる物にも着る物にも、不自由していない。人
生のために、更に現実的な要求のために、心を煩わす必要もない。しかし生活には、
更に多くの人が、衣食住のために心を煩わせている。」と述べている。 (王安憶「感受・
理解・衰運」)要要は基本的に衣食住にも困らず、生きる上での苦労もない、幸せな
女の子である。 16歳で農村へ下放されるまでは、恐らく温かい家庭で育ち、純粋な
ままで社会への第一歩を踏み出した。が、そこでは誰しも、現実を避けて通ることは
出来ない。要要も現実社会の実態を目にすることになる。しかし彼女は、それによっ
て犯されることはなかったようだ。 「現実を正視して」前向きに生きようとしたので
ある。
要要は社会の荒波に挟まれたことがなく、盛氏や中山氏の指摘するように、文革中
も何か政治的な意図があって農村へ行ったわけでもなく、個人的に自分を鍛えようと
したに過ぎない。だが農村での生活を通して、彼女なりにいろいろな体験をし、その
中での成長もあったばずだ。しかしそれによって、彼女本来の生活観が崩れることは
なかったと言っていいだろう。彼女は相変わらず、生活の中に美しいものの存在を信
じ、それを求めて止まなかったのである。
従って要要が純粋である理由が、ただ社会経験が浅くて、苦労したことがないから
というだけでは、足りないと思う。彼女は確かに基本的には、衣食住に困った経験も
なく、社会の荒波に挟まれた経験もないが、農村やそれに続く文工団での生活を通し
て、多少は世間というものの明暗を知ったはずである。だがそれによって、純粋さや
夢をもっ心は、失われなかったというべきではないだろうか。初めに要要は「生活は
もともと、そんなに憩いもんじゃない。」と言った。この生活観は、現実の実態を知
ることによって変わることはなかった。
以上、王安憶の小説に度々現れる少女(要要)たちの形象について見て来たが、最
後に作者と少女たちの関係について述べたい。これまでの評論では殆どが、両者を結
び付けて要要-作者自身と考えているようだ。以下に引用する。
(その1)
作者は自分の作品中の愛する女主人公に対して、一種の特別な感情を抱いている
王安憶作品研究
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ことがわかる。彼女は自己分析に浸るのをたいへん好み、一刻もいい加減にせず、
人物の内心の活動を観察する。彼女は独特な生活に対する蓄積や記憶や理解を、こ
の自分に似て非なる形象の中に融合させた。従って芸術の創造の中で、独特な情緒
の天地を構成している。この行間から、作者が「一種の言葉に出来ない喜びのため
に寮え、中に融合させた」ことが想像出来る。 (中略)この意味で我々は「要要は
王安憶だ。」と言える。 (程徳培「要要的情緒天地」)
(その2)
この系列の作品を通して王安憶は、当代の一部の青年女性の典型的な生活の過程
を描いてみせた。作者は「後記」で「この数篇の小説に連続性はない。」という声
明を出しているが、実はこれらが描いているのは、一種の共通した運命の系列で、
しかもこの運命の系列は、まさに作者自身の往年の生活経歴の変奏(バリエーショ
ン)である。当然我々は小説を作者の自伝と見なすことは出来ないが、確かに一本
の切れないへその緒が、作者とその筆の下の女主人公の問につながっていることは
否定できない。 (周介入「失落与追尋」)
要要をかつての作者と見るのは、極めて自然である。それぞれの作品に登場する要
要の経歴をっなげてみると、そのまま作者のそれと重なる。 16歳で上海を離れて農
村(王安憶も69年、安徽省の農村)へ下放され、その後文工団(王安憶は72年江蘇
省の文工団)へ、楽団の団員として移り、最後は上海へ(王安憶は78年に)帰る。
作者自身も要要は自分だと言っている。以下に引用する。
要要という人物の身には、私自身のものが多く、自己表現の意識がかなり強い。
だから私が作品に書くのも、かなり簡単で順調であったはずだ、と言う人もいる。
(中略)ここにも私の創作上の一つの弱点が反映されている。人物を書くのに、人
を書くのが苦手で、ただ自分しかうまく書けない。だから81年は私には計画があ
り、自分の枠から抜け出して、他の人を書いてみようと思う。ある人に言わせると、
これは主観世界から客観世界への移行だと言う。理屈はわからないが、どのみち距
離のある人を書くことを、学ばなければならない。 (王安憶「感受・理解・表達」)
要要はかつての作者自身だという意見に、たいていの読者は異論がないだろう。こ
こで問題にしたいのは、作品を書いている時点での作者の意識だ。要要はかつての作
者の姿であり、作者はかつての自分を振り返るようにして、作品を書いている趣があ
る。上の程徳培氏の論にもあるように、行間に作者の要要に対する特別な感情が読み
葛城明子・荒木猛
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取れる。それは王安憶が「彼女(要要-筆者注)は私の愛する女の子で、彼女の身に、
私は最も良い願いを託し、彼女の幸福を祈っている。」 (『雨、沙沙沙』 「後記」)と言っ
たように、自分がこれまで歩いて来た道を、懐かしく振り返る時の気持ちである。そ
れは作者の次のような言葉からも推察出来よう。
しばらく歩いて振り返って眺めると、歩いて来た道が、急にあんなに懐かしく貴
く思えて来た。たとえ凹凸やぬかるみがあっても、あんなに豊かな内容や、とても
深い意味を含んでいる。そこで極力あの足跡の一つ一つの深みを思い出そうと思う。
残念なことに、歩みはあまりに慌ただしく、多くの美しく貴いものを、或はあまり
美しくはないが、やはり貴いものを疎かにして来た。 (中略)このあまりにも慌た
だしく過ぎ去った中で、初めて知ったことは、微々たるものではあるが、私はやは
りそれを大切にし、捨てるに忍びない。私はそれらを心に深く収め、記憶によって
それらのために、一つの魂の博物館を建てたいと思う。 (王安憶『雨、沙沙沙』 「後
記」)
王安憶は自分がこれまで生きて来た道を愛惜し、作品に残したと考えられる。彼女
が、かつての自分を愛しく患いながら、執筆する様子が想像出来る。王安憶が、一連
の要要シリーズともいえるこの作品群を書いた時、書く対象(-かつての自分)と、
書いている本人(今の作者)は基本的に別のもので、書く側は、かっての自分の分身
ともいえる主人公の少女(要要)たちに対して、愛しく大切に思う感情を抱いていた
のではないかということを、指摘しておきたい。
2.男性知識青年像
作品集『雨、沙沙沙』には、要要など少女の他に、個性豊かな男性知識青年も登場
する。例えば「命運」の彰生、 「広閥天地的一角」の荊国慶、 「当長笛Solo的時候」
の向明、 「新来的教練」の谷中、 「這個鬼団! 」の林凡などである。評論の中には、次
のように彼らをあまり問題にしていないものもある。
王安憶のこの時期の人物の創造は、基本的に二種類に分けられる。一つは要要、
桑桑等の女性で、一つは彰生、向明等の男性である。両者のうち、女性の形象の方
が、男性の形象よりずっと豊富である。 (程徳培「要要的情緒天地」)
確かに作品の主人公が要要たち少女だという意味では、青年たちは脇役的存在でし
王安憶作品研究
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かない。しかし作品集全体からいうと、各青年像間には共通点もある。彼らはもちろ
ん一人の人物ではないが、不思議とある共通した要素が見られる。一人一人見て行こ
う。まず各評論でよく取り上げられている「新来的教練」の谷中である。彼は、ある
省の体育学校の女子バレーチームに、新しく副コーチとして赴任して来た。正コーチ
は玉華という女性だが、彼女は技術的な指導力に欠け、チームの成績を上げることが、
なかなか出来ない。そこで彼が抜擢されたわけだ。作者によると、この谷中の人物像
の形成にあたって、モデルとした人物が実在するらしい。以下に引用する。
私の親戚の一人がある省の体育学校で働いている。彼は上海の大学の体育学部を
卒業したが、文化大革命中に、ある省城の中学校へ配属された。彼はそこで音楽を
教え、英語を教え、世界地理も教え、何でもやった。しかし心の中では、もともと
の専門をやりたいと思っていた。彼はとても利口な人で世渡りがうまく、コネを使っ
たり、贈り物をしたり食事をおごったり、線香をあげ仏を拝み、ついに省の体育学
校へ潜り込むことが出来た。私たちの国では正式なルートで、事を運ぼうとしても、
解決出来ないことが多く、コネを使わざるを得ない。そして彼がこのようにコネを
使ったのも、外ならぬ自分の専門の仕事に就きたかったからだけなのだ。 (王安憶
「感受・理解・表達」)
谷中も、このモデルの青年と同じように、やっとの思いで体育学校へ入り、彼は自
分の力を発揮する場を得た。そこで練習を厳しくし、選手を徹底的に鍛えた。女性コー
チがどう思おうと全く気にしなかった。そんな彼に選手たちは素直について来た。中
でもエースの燕燕は、特に彼を慕っていた。彼も彼女に好意をもって接した。ある夜
燕燕は、ついに谷中に愛を告白するが、彼は断った。彼女はまだ若く、選手として将
来性があるので、その芽を潰したくなかったのだ。作品では、他に彼の友だちのオー
ルド・ミス(恐らくあだ名)も登場する。その友だちは、祖国に絶望しアメリカへと
去って行くが、谷中は「異郷で流浪するくらいなら、故郷で死にたい」と言って、中
国に残る。このような谷中を各評論では高く評価している。だがそれは彼の人間性を
評しているのではなく、国の発展に貢献出来る模範的人物として評価しているようで
ある。
(その1)
表面的には、彼は倣憶で粗暴で「一言も正当な理由を言っていない」が、実は彼
は、祖国や事業や人生や愛情に対して、厳粛でまじめである。彼は改革を渇望し、
改革する力のある新人だ。このような人は、動乱の時代に生活のどん底で鍛えて来
葛城明子・荒木猛
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たのだ。 (中略)もし英雄を口は大言壮語し、身は悪に染まっていない神だとしな
ければ、 「新来的教練」は当代の英雄の賛歌である。私たちの四つの事業には、こ
のような英雄がどれほど必要なことか! (曾鎮南「秀子出林」)
(その2)
谷中が省の体育学校に転勤するためにとった様々な手段は、 「適当でない」と言
えるかもしれない。しかし谷中は個人主義者ではなく、彼が努力して実現したい最
終目標は、国の体育事業の繁栄である。 (中略)谷中の愛すべき尊敬すべきところ
は、彼が勇敢に運命の誤まった配属から抜け出し、信念をもって、祖国のために栄
誉を勝ち取った点である。谷中は意志が堅く、彼が献身的に行っている事業のため、
多くのもともと彼が手に入れるはずだったものを捨てた。たとえば愛だ。 (中略)
彼の一切の努力は、全て国のためであり、あの貯水も出来ず油分もない痩地を、肥
沃な良田に変えるためである。谷中のこの精神は、たいへん高尚と言えないだろう
か。 (張鷹「王安憶的追求与探索」)
谷中-の人物評価が、このように社会の発展に寄与できるという面に偏って行われ
るのは、社会主義文学観から来るものだと考えられる。しかし作者自身は、谷中を書
く際に、本当にこのような社会的な意味を込めていたのだろうか。作品を読む限りで
は、筆者にはあまり感じられない。谷中のような青年が、当時の社会で歓迎されたこ
とは、恐らく事実だろう。しかし作者はそのことを図るよりも、むしろある青年の姿
をありのままに描くことに、力点をおいたように思う。作者は次に言うように谷中を、
良い憩いの基準で書き分けてはいない。
「新来的教練」は私がよく知っている人で、彼には欠点も長所もある。複雑なの
は、欠点が長所の中に含まれ、長所も欠点の中に含まれていることである。私はそ
れをありのままに描こうと試みた。彼はエリートなのか落後者なのか、良いのか或
はそれほどでもないのかについて、私には判断が難しい。私は必ずしも結論を出さ
なくてもよいと思う。生活とはこんなものだ。もし善悪が一本の直線で分けられた
ら、もはや生活ではなくなる。 (王安憶『雨、沙沙沙』 「後記」)
谷中という人物の社会における存在価値は十分認められるが、書く側にとっては、
それをあえて書こうとしたのでもなさそうだ。作者の言うように、人間は良いとか悪
いとかだけで、価値が判断出来るほど単純なものではない。むしろ長所も欠点も具え、
両者が複雑に融合し合っているのが、自然な人間の姿であることを、作者は谷中を通
王安憶作品研究
157
して、表現しようとしたのではないだろうか。或は作者のいう「生活」とは、一本の
直線で割り切れるほど簡単なものではないことを、表現しようとしたのではないだろ
うか。
次に谷中以外で取り上げられている青年について述べたい。 「広間天地的一角」の
荊国慶と「命運」の彰生である。荊国慶については、 1で少し触れた。彼はかって16
歳のころは、数学やプラモデルのコンクールで優勝し、最高の大学に行こうと勉強に
励んでいた。彼は世界は自分のものだと信じていた。しかし19歳で文革が始まり、
彼の身にも変化が生じた。以下本文を引用する。
19歳の時、俺は馬鹿になった。俺は先生を殴り、学校を破壊した。しかし俺が
憩いのではない。汚いものは何一つ見たくなかった。俺は自分の世界に、塵や疾や
煙など汚いものが、あってはいけないと思っていた。そうではないか?俺は張主任
の汚職や賄賂を告発し、堂々と自分の名前を署名した。生活はやはり正義の味方だ
と思っていた。でもその結果はどうだ?生活め、よくも人を弄んでくれたな!今俺
は恵になった。賄賂は贈るし、手紙は匿名で出すし、発言の原稿はでっちあげるし、
煙草も酒もやるし、地上の嬢と化し、空の黒煙となった。 16歳の俺はどこへ行っ
てしまったのか? (「広閥天地的一角」)
彼はこうして社会の悪にすっかり染まってしまった。そこへ16歳の要要が現れ、
荊国慶は彼女の中にかつての自分を見た。要要が汚い現実を知ると、彼女を守ってや
りたいと思うようになった。そして以前は受け入れられなかった彼女の「生活はもと
もと、そんなに悪いもんじゃない。」という言葉にも、耳を傾けるようになった。
この荊国慶の人物像にも.、 「新来的教練」の谷中と同様、欠点と長所が融合されて
いる。彼らはともに社会経験を通して、損をしないような生き方を身につけた青年で
ある。文革中は恐らく無数の荊国慶や谷中がいたことだろう。作者は彼らのことを否
定的に描いてはいない。そのありのままを描き出している。この意味で次の指摘は、
作者の創作意図に近いものではないかと考えられる。
作者が谷中や荊国慶を書いて追求したのは、率直な美であり、彼女は彼らの正直
さや良識や智慧や才能を書き尽くし、但し彼らの欠点や弱点乃至誤りも避けられな
かった。従ってこのような人物形象は、生気に満ち、ある種の孤立性を帯びた抽象
的なものでなく、かなり大きな社会的容量を含んでいる。 (盛英「春天里初放的中
花」)
158
葛城明子・荒木猛
次に「命運」の彰生について述べる。彼は地方の文工団で、指揮を担当する青年だ。
恋人の要要とは、同じ文工団で知り合った。彼女は母親のコネでこの文工団に難無く
入り、チェロを担当していた。四人組打倒後は、再び母親のコネで、早速上海の文工
団に移ることが出来た。一方彰生は、もともと何のコネもないため、地方の文工団へ
入るのにも、何度も試験を受けたりして、随分苦労したのだった。この度は要要の希
望で上海の音楽学院を受験したが、失敗してしまった。しかし彼はそれほど落ち込み
もせず、前々から取り組んでいた組歌作成のため、田舎へ帰った。彼の不合格で結婚
が遠のいて、この先どうしたらいいかわからなくなった要要の元へ、彼からの手紙が
届いた。以下その手紙の一部を引用したい。
ここ数日僕は八っの県の山を越え谷を渡って、民謡をたくさん集めたよ。 (中略)
この度の受験に失敗して帰って来て、僕たちのような者は、自分のために道を切り
開いて、大なたを振るうように思い切ってやるべきで、あまりくよくよしても始ま
らないことに気付いたよ。さもなければ時間は過ぎ去り、僕らは年をとり、一つも
事をなし得ずに終わるかもしれない。 (中略)僕はもともと音楽の素質がないのか
もしれない。僕が音楽をやるのは、全くの歴史の誤りかもしれない(僕らの世代の
身の上には、誤りが多すぎるね。)しかし困ったことに、僕は本当に音楽が好きな
んだ。音楽は僕にとっては理想だ.それは多分自分で選んだ道だし、一番苦しかっ
た日々に、ちょっぴり学んだものだからかもしれない。ちっぽけな文工団でちっぽ
けな楽団を、僕に「駆使」させてもらえるのなら、僕は満足だ。要要、君にはわか
らないかもしれないが、自分で歩いて来た道には、どれほど深い思いがあることか。
だって君が得たものは全て、とても簡単に手に入ったのだから。 (中略)君は決し
て僕のために奔走しないで、自分の道はやはり自分で歩いて行くよ。たとえ歴史の
誤りでも、自分で歩いて行くよ。 (「命運」)
彰生が「新来的教練」の谷中や、 「広閥天地的一角」の荊国慶と大きく違うのは、
進路に関してコネなどを使わず、自分の力で運命を切り開いて行こうとしている点で
ある。彼は自分でも言っているように、音楽の才能には欠けるかもしれないが、情熱
は人一倍だ。自分の音楽を作るためには、どんな努力も惜しまない。また性格も、谷
中や荊国慶のように外向的ではなく、逆に「口数が少なく、人とあまり無駄話もしな
い。」 (「命運」)というように内向的だ。彼の人物像に関する評価は次の通りである。
感動的なのは、社会主義の新しい長征の出だしの段階で、我々の祖国は千にも万
にも上る彰生のような青年が沸き起こったことだ。彰生がこのように自分の力を信
王安憶作品研究
159
じることで、始終理想を追求する勇気や、信念をもって積極的に行う進取の精神を
鼓舞した。これはまさに我々の今日の時代の青年たちに特有の優れた品格でもある。
このような青年がいて、我々の社会主義の新しい長征の路上で、他に克服出来ない
難関険阻があろうか。 (張鷹「王安憶的追求与探索」)
この彰生に対する評価は、先の谷中に対するものと、言葉は違うが内容は同じだと
思う。谷中と彰生の人物像は、今見たように正反対といっても良いくらい違うのに、
両者に対する評価は、新しい社会主義建設に寄与出来るという点で一致している。こ
こでも、彼らの人物像が一人一人の人間性でなく、社会的な存在価値という視点で語
られていることがわかる。
彰生の人物形象は彼一人のものではなく、 「当長笛Solo的時候」の向明や、 「這個
鬼団! 」の林凡にも通じるものがある。まず三人とも文工団で音楽に携わっている。
またそれぞれの音楽に対する情熱には、同様に並々ならぬものがある。向明は文工団
で臨時に雇われたフルート奏者だが、バイオリン奏者の桑桑という少女と一緒にいる
ところを、楽団の指揮者に見られて、二人は恋愛関係にあると、指導部にあらぬ報告
をされて、向明は結局文工団を追われてしまう。彼は別れ際に桑桑に言った。 「僕は
また文工団を受験しようと思っているんだ。全くしょうがない!死ぬまでそうさ。ど
うしても音楽が好きなんだ!」向明は今後も、どこかの文工団に入るまで、何度でも
受験するだろう。そこには「命運」の彰生と同じく、自分の力で運命を何とか切り開
いて行こうとする姿勢が見られる。また音楽に心酔していることは、彼の上の言葉か
らも明らかである。
一方「這個鬼団! 」の林凡は、文工団の楽団の指揮者だ。彼はもともと音楽学院の
指揮学部に合格していたが\文革が始まり大学は閉鎖され、農村行きが決まった。農
村で働きながら各地の文工団を受験し続け、やっとこの文工団に入ることが出来た。
これらのいきさつは、彰生のそれとよく似ている。四人組が打倒されたある日、十年
ぶりにベ-トーベンの交響曲「運命」が、テレビで流され感激した彼は、楽団の演奏
レベルを上げようと、特別な練習を始める。しかし楽団員はなかなか彼の思うとおり
に演奏してくれない。 -回目の練習で彼は早くも療病を起こし「このくそ楽団!辞め
てやる。」と言ってしまった。こんなことは珍しくないので、団員は誰も彼を止めよ
うとしない。彼も後へ退けなくなって、一旦は荷物をまとめて駅まで行くが、結局ま
た戻ってしまう。ここを去ったら、自分の好きな音楽が出来なくなることは、百も承
知なのだ。友だちは、上海へ戻ることをしきりに勧めるが、戻ったところで音楽が出
来ないとわかっている以上、彼はやはりこの楽団に残るしかないのであった。
彼の音楽に対する異常なまでの情熱は、彰生や向明に勝るとも劣らずといえよう。
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葛城明子・荒木猛
「這個鬼団! 」は、作品集『雨、沙沙沙』で、主人公が男性知識青年である唯一の作
品だ。だから林凡の人物像は他の青年たちより、鮮明ではないかと思うのだが、なぜ
か彼に関する言及は、評論中見当たらない。林凡という人物は、彰生や向明を一回り
強烈にした感じだ。三人には多少の差もあるが、一貫して音楽を熱愛し、自分の理想
とする音楽のためなら、どんな努力も惜しまないという点で、よく似ている。また彼
らは、決して世渡りが上手ではなく、苦労も多い。その点では、谷中や荊国慶とは対
照的である。
しかし作品集全体で、彼ら男性知識青年に共通して言えるのは、皆文革のために遠
回りを強いられたが、努力して自分のやりたい仕事に就き、その後は自分の生き甲斐
を、それぞれの専門の仕事に求め、それに徹底して従事しているということだ。そこ
-至る過程には、大きく二通りの道があった。谷中や荊国慶のように、あらゆる手段
を講じて目標を達成する者と、彰生や向明や林凡のように、不遇な運命にも負けず、
自分の力で立ち向かって行く者とである。しかし結果的に両者の目的はただ一つ、自
分の好きな仕事を思う存分やることである。これが王安憶がこの作品集で描いた青年
たちの全体像といえよう。
3.王安憶の「生活」観
1で筆者は、作品の中の要要はかつての王安憶で、作品を書いている時の作者は、
かつての自分を懐かしくまた大切に思い、自分の歩いて来た軌跡を作品に残そうとし
て、要要シリーズを書いたのではないかと述べた。作品集には、彼女自身のこれまで
の生活に対する、深い思いが込められている。ここでは、作品集全体に流れている王
安憶の生活というものに対する思いを取り上げたい。
王安憶の生活観を考える上で鍵となる作品には、 「広間天地的一角」、 「小院墳記」、
「雨、沙沙沙」などが挙げられよう。 「広閥天地的一角」は、 1や2で触れたように、
要要と荊国慶という正反対の生活観をもった二人が出会い、要要は現実の実態を知る
ことで、それまでの無垢な状態から一歩成長し、荊国慶は要要を知ったことで、生活
に対するこれまでの否定的な見方を少し改めるという、二人の青年の成長の過程を描
いている。要要の「生活はもともと、そんなに悪いもんじゃない。」という言葉は、
作者自身の主張でもある。また「雨、沙沙沙」で「生活の中には楽しみがたくさんあっ
て、その中には夢を見る権利も含まれているはずだ。要要は他には何も要らなかった、
ただ夢さえあれば。彼女はそのために辛い思いもしたが、それでもやはり必要だった。
どうしても欲しかった。もしもこれがなかったら、生活はどうなるだろう-・-」とい
う要要のつぶやきがある。作者のこうした主張は、どこから来るのだろうか。
王安憶作品研究
161
王安憶が生活というものを、意識するようになったのは、いっのころからか、明確
な時期は示せないが、彼女の言葉から、 16歳で農村へ下放されてから、少しずつ生
活というものに対して、目が開かれて行ったのではないかと考えられる。以下に作者
の言葉を引用する。
私の人生の旅はこうして始まった。肩に縄をかけて翠を引き、種まき車を引き、
氷の張った雪の大地に河を掘り、感激を胸に敬度な気持ちで省の積極代表大会に参
加し、オーケストラで低音のチェロを弾いた。 -・・・しばらく歩いて振り返って眺め
ると、歩いて来た道が、急にあんなに懐かしく貴く思えて来た。たとえ凹凸やぬか
るみがあっても、あんなに豊かな内容や、とても深い意味を含んでいる。 (中略)
生活はあんなに広大で、あんなに豊富で、全てを体験したい、とどんなに思うこと
か。ただ残念なことに人生は、あまりにも慌ただしく、あまりにも慌ただしい。
(王安憶『雨、沙沙沙』 「後記」)
仮に王安憶が、生活というものを意識するようになったのが、農村へ行ってからだ
とすると、そのころの作者の生活観が表れている作品が、 「広間天地的一角」だとい
うことになる。次に身をもって生活の中に美しいものを認めたのは、文工団-行って
からではないだろうか。彼女は文工団での生活体験を、 「小院墳記」に書いている。
「小院噴記」の小院には、文工団の団員の五世帯の家族が住んでいる。主人公の桑桑
は、舞踊団の踊り子で、その夫は楽団の指揮者の阿平である。他に十年越しの愛を実
らせて、やっと結婚した舞台美術の大工の計小中と画家の連珠夫婦や、男前の海平と
それ故に異常な焼きもち焼きの任嘉夫婦や、貧乏で子だくさん、そのため金のことで
しょっちゅうけんかするが、互いに愛し合っている老妻、中華夫婦や、文化局長の息
子黄健と李秀文の、裕福だがあまり会話のない夫婦の、全部で五組が住んでいる。王
安憶は、この五組の夫婦の日常生活を淡々と描くことで、生活のもつ美しさを表そう
としたと考えられる。以下に作者の言糞を引用する。
「小院墳記」の中の小院は、かって私が五、六年生活した所で、ここにはこまご
まとした家庭内のいざこざや、言い争いや怒鳴り合い、よもやま話などいろいろな
ものが入り混じっている。しかし私はこの一団の雑多な生活の中に、美しい閃光が
見えた、確かに見えたのだ。生活の中には、暗く醜いものが多い。しかし美しいも
のも結局存在する。私はいっもそう信じ、いつもそういう気持ちで、生活と接した
いと思う。 (王安憶『雨、沙沙沙』 「後記」)
葛城明子・荒木猛
162
王安憶が文工団での生活を通して、そこに美しいものの存在を認め、それを作品に
したのが「小院墳記」だと考えれば、上海へ帰ってから、生活の中に美しいものを求
めようとして書いた作品が、さしずめ「雨、沙沙沙」ということになるだろうか。こ
れに関して、王安憶によると、面白いエピソードがある。それを以下に引用する。
ある日私が停留所でバスを待っていると、雨が降り出した。そばに立っていた青
年が、傘を差して何も言わずに、傘を私の方へ持って来て、私を一緒に入れてくれ
た。バスが来ると彼はやはり私に一言も言わずに、傘を畳み別の乗りロから乗った。
私は非常に感動した。 「雨、沙沙沙」が発表された後、寄せられた青年たちの手紙
の中には、生活の中にこんな美しいことはありえないと書いたものもあった。しか
し面白いことに、 『文匪報』のインタビュー記事にこのことが載った後、こんな手
紙をもらった。 「私の友だちが前に96番線のバス停で、女の子を傘に入れてあげた
そうなんですが、この女の子はもしかしてあなたではないですか。」とあった。こ
れは私ではない。私が乗ったのは24番線だったからだ。しかしこのことは、こう
した美しいことが生活の中に存在し、人と人との信頼感は結局回復出来るというこ
とを証明している。 (王安憶「感受・理解・表達」)
王安憶はこのような経験によって、生活の中の美しいものの存在を確信し、 「雨、
沙沙沙」のような作品が生まれたと考えられる。つまり彼女は自分の生活観を作品に
表したのである。そのことは彼女自身の言葉の中にもある。以下に引用する。
私にこの作品(「雨、沙沙沙」 -筆者注)を書くよう促したのは、主にやはり生
活の中のある感想だった。 (中略)私たちの世代は、多くの苦難を経て失望が多く、
人と人の間の関係に深い傷痕を残したが、やはりこの美しい追求を放棄してはなら
ない。さもなければあまりにも惨めである。 (王安憶「感受・理解・表達」)
生活の中に美しいものや善いものを求めるという作者の姿勢が、作品全体を貫いて
いることは、各評論でも指摘しているところである。以下に引用する。
(その1)
生活の中の美しいものを見過ごしたり、疎かにしたり、いい加減にあしらったり
したくないという生活態度は、実は王安憶の基本的な創作態度でもある。美と善に
対して、天真的ともいえる信頼と追求を持続させる。これは更に人生の深いところ
にある悲しみを深く表現したり、人の魂に対して更に強烈な衝撃力のある作品を書
王安憶作品研究
163
くのには、有利ではないかもしれないが、王安憶の創作における個性と芸術におけ
る勇気を、鮮明に表している。 (曾鎮南「秀子出林」)
(その2)
あの未だ姿を現さない青年(「雨、沙沙沙」で要要を自転車に乗せた若者-筆者
注)の形象を、私たちは要要の情緒の動きの中で知った。彼の平凡な行動は、深い
印象を残した。小説は作者が表明した創作態度を裏付けた。つまり「美しいものや
光明のあるものを努力して探す」ことだ。 (程徳培「要要的情緒天地」)
(その3)
青春の息吹にあふれ、青年の生活を反映した多くの作品を書くことによって、
「四人組」を粉砕した後の青年たちの新しい生活に対する新しい追求を表現し、彼
女自身の陽光や雨露への渇望と賛美の感情を述べ表している。 (中略)人生美への
賛嘆、憧れ、人生の理想への渇望、追求、これらは王安憶作品の総主題である。
(張鷹「王安憶的追求与探索」)
以上、王安憶の初期作品の主題を探るという意味も含めて、彼女の生活に対する見
方について見て来た。彼女が初めて生活のもつ魅力に目覚めたのは、恐らく16歳で
農村へ行ってからであろう。そこには彼女がそれまで住んでいた上海とは、全く別の
世界があったのだ。次に彼女が生活の中に、きらりと光るものを認めたのは、文工団
の「小院」で生活した時だろう。最後に上海へ帰って、実際にあった雨の日の出来事
や、読者からの手紙によって、王安憶は生活の美の存在を確信するに至ったと考えら
れる。彼女の生活における美への追求は、ここに収められた十三篇の作品の随所に見
られる。彼女は、これまでの生活の中で何度か目にした、一瞬のきらめきをこれらの
作品に残したのだ。従って王安憶のこうした生活の中に美を認め、美を求めるという
生活観が、作品集『雨、沙沙沙』を貫いている主題の一つといっても、差し支えない
だろう。
テキスト
王安憶『雨、沙沙沙』 (百花文芸出版社、 1981年)
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葛城明子・荒木猛
参考文献
王安憶『雨、沙沙沙』 「後記」 (1981年2月15日『雨、沙沙沙』所収)
曾鎮南「秀出千林-談王安憶的短篇小説」 (『読書』 1981年第4期)
盛英「春天里初放的中花-読王安憶的小説」 (1981年6月『中国新時期女作家論』所収・百
花文芸出版社1992年6月)
程徳培「"要要"的情緒天地-読王安憶的短篇近作」 (『上海文学』 1981年第7期)
周介入「失落与追尋-読王安憶小説集『雨、沙沙沙』札記」 (『文芸報』 1982年第6期)
王安憶「感受・理解・衷達」 (『上海文学』 1982年第8期)
張鷹「王安憶的追求与探索」 (『新文学論叢』 1982年第4期総第14期)
中山文「王安憶文学の原点-要要を追って」 (『野草』第34号、 1984年5月)
佐伯慶子「王安憶略歴」 「王安憶作品目録」 (『中国文学論叢』第14号、 1988年)
「王安憶小伝」 「王安憶作品目録」 (王安憶『米尼』所収・江蘇文芸出版社1㈱年)
「王安憶主要作品目録」 (王安憶『荒山之恋』所収・長江文芸出版社1993年)
(1994年10月28日受理)
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