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「鉄の民俗」からみた四街道

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「鉄の民俗」からみた四街道
千葉大学教育学部研究紀要 第5
9巻 2
1
3∼2
2
1頁(2
0
1
1)
「鉄の民俗」からみた四街道
井
上
孝
夫
千葉大学教育学部
Yotsukaido Area in terms of the Folklore of Iron
INOUE Takao
Chiba University, Faculty of Education
千葉県四街道市が鉄と関係がある,といったら,驚く人も多いだろう。しかし「鉄」にまつわる民俗から四街道を
みると,地域形成の事情を把握することができる。出発点は,四街道という地名由来の発祥地の背後にある地域の歴
史である。つづいて,熊野信仰と製鉄のかかわりを探る。そして行き着くべき目標は,現行四街道市域内で最も有名
な皇産霊神社の「どろんこ祭り」の謎解きだ。
キーワード:畔田地名(Azeta, Name of a Place) 春日神社(Kasuga Shrine) 熊野信仰(Belief to Kumano)
大六天(Dairokuten, The Sixth Heaven) どろんこ祭り(Doronko(Mud)Festival)
は新家屋で埋められていった」
(陸上自衛隊高射学校編,
1
9
7
6:1
4―1
5)
。こうして,駅の周辺には商店や住宅が増
千葉県四街道市は県都・千葉市の北側に隣接する人口
加し,街としての賑わいを形成していったのである。
8万7,
0
0
0人ほどの都市である。
三番目には,第二次大戦後の変化がある。軍隊は解体
今日の四街道市域が形成されるに至った要因として,
し,跡地には学校,病院,工場,住宅などが占めること
次のような経緯を考えることができる。
になった。それとともに,かつての演習地や原野は軍関
一つには,
1
8
9
4年の総武本線(当時は私設の総武鉄道)
係者,大陸からの引揚者,戦災被害者などによる開拓地
の開通である。農村地帯に鉄道を敷設する計画が持ち上
となった。六方野(鹿放ケ丘)と呼ばれる地域である。
がったとき,旧和良比村(1
8
8
9年に旭村に統合)の住民
そして1
9
6
0年代後半からは大規模な住宅開発がすすん
は,「農耕地内に列車が通るのは困る」,「農耕用の牛馬
でいく。さちが丘,旭ケ丘グリーンタウン,千代田団地,
の通行の妨げになる」といった理由から反対した(矢部・
みそらニュータウン,美しが丘などはその代表的な地域
大野・岡田,2
0
0
2:4
7)
。その結果,線路は旭村と千代
である。
田村の境界付近を通ることになり,駅も村はずれに建設
このように,四街道市の近代は総武本線の四街道駅周
された。鉄道と駅のこのような立地が,今日の四街道市
辺の発展から始まり,第二次大戦後の開拓の時代を経て,
域の姿を根本から規定している。
東京近郊の住宅地としての今日の性格を持つに至ったわ
次に,鉄道開通後数年して,新設の駅周辺に陸軍砲兵
けである。だがそこに至るまでには,この地域にはもう
学校をはじめとする軍関係の施設が立地したことである。 一つ別の相貌がある。それを「鉄の民俗」という観点か
幕末以来,駅の北方の下志津原(現佐倉市)には佐倉藩
ら解き明かしてみよう(以下の議論については併せて,
の火業場(大砲試射場)があり,それを陸軍が受け継い
概念図1,を参照)
。
で,陸軍砲兵射的学校が設置されていた。周辺一帯には
下志津原や六方ケ原といった広大な原野が広がっていて,
2.四街道発祥地の背後にあるもの
軍事演習の適地だったのである。ただし当初,砲弾は下
志津原から南方に向かって撃たれていたので,線路の敷
四街道駅から千葉寄りに数百メートルすすんだところ
設計画と折り合わなくなったのだろう(そのままにして
に一本の榎があり,そこが四街道の発祥の地とされてい
おくと,線路に向かって砲弾が飛ぶことになってしま
る(写真1)
。江戸時代の終わり頃,ここは千葉・佐倉
う)
。砲兵射的学校を駅近くに移転させ,そこから北方
間と船橋・東金間をそれぞれ結ぶ二つの道路の交差する
や西方に向けて砲撃することになったわけである。1
8
9
7
十字路だった。そして佐倉の殿様(堀田家)の休憩する
年,陸軍砲兵射的学校は陸軍野戦砲兵射的学校として四
場所の一つとして,1
8
3
4年頃,ここに榎を植えて,茶店
街道駅近くに移転した。駅開設当初,周辺は一面の松や
(休憩所)を出していた(栗原東洋,1
9
7
9:2
2
6)
。ただ
クヌギ林で,一軒の人家もなく,駅が「林のなかに浮か
し当時は人影も少ない原野であり,交通の要所として賑
んでいるような」状態だったというが,軍施設の移転と
わっていたというわけではない。
ともに「雑木林は急速に切り開かれ,戸口は増加し道路
この場所を「四辻」だとか「四つ角」と呼んでいた。
は舗装され,街区は整備され,道路で囲まれた三角地帯
そして明治時代になって,「四街道」という通称が出来
上がった。「よつかど」が「よつかいどう」になっただ
けなのだが,名称の変更はこの十字路を起点にして,船
連絡先著者:井上孝夫
1.はじめに
2
1
3
千葉大学教育学部研究紀要 第5
9巻 À:人文・社会科学系
概念図1
四街道市域「鉄の民俗」関連図
2
1
4
「鉄の民俗」からみた四街道
りの佐倉市に編入されている。村の入り口に春日神社が
祀られているが,四街道市畔田新田の「榎」の並びにも
春日神社が祀られていることは,両村の深いつながりを
示している(四街道十字路の春日神社はもともと,1
8
5
6
年に畔田本村より分祀したものだが,陸軍演習場の拡張
に伴い,1
9
1
9年に現在地に移転したという経緯がある)。
そしてこの春日神社こそ,「鉄」との結びつきを示唆し
ているのである(写真3)
。
写真1
四街道十字路の榎
橋,千葉,佐倉,東金の四方向に道路が延びているかの
ような印象を与える。ただし,この通称が普及するのに
は大きな要因があった。まず,1
8
8
0年にこの四辻近くに
茶店の開設者が郵便局を設置したことである。「四街道
郵便局」という名称とともに,この通称は広がった。さ
らに決定的なことは,総武本線の駅名が四街道になった
ことである。もともと村はずれに駅があり,しかも地元
住民は線路の敷設そのものに反対だったこともあって,
通称名「四街道」が採用されたわけである。そして軍隊
の駐屯と周辺の発展がこの通称名を確固たるものにして
いった。このような経緯から,四街道は1
9
3
6年に千代田
村の正式な字名となり,その後1
9
5
5年,千代田町(千代
田村は1
9
4
0年に町になっていた)と旭村が合併する際,
町名として「四街道」が採用されたのである。
だが四街道十字路の周辺には,れっきとした正式名称
があった。それは「畔田新田」である。いまではほとん
ど顧みられることもないが,総武本線の踏み切りに「畔
田」の名称は刻まれている(写真2)。この畔田新田と
いう地名は,江戸時代の後期に畔田村の農民によって新
田開発が行なわれたことに由来している。この畔田村は
旧四街道町に属していたが,1
9
5
7年1月1日付けで北隣
写真3
四街道市畔田新田の春日神社
3.春日神社と鉄
春日神社は鉄と関係がある。神社の主祭神は「天児屋
根」で藤原氏の祖神であり,それだけでは鉄との関係は
はっきりとしない。だが,「カスガ」という名称が「カ」
という接頭語と砂鉄を意味する「スガ」の複合だとする
と,納得がいく。全国の春日神社の本社である奈良の春
日大社は平城京の守り神として,常陸国鹿島神宮から武
甕槌神が鹿に案内されて祀られたという伝承をもつ。こ
の伝承は,春日大社が軍神としての鉄の神の性格をもっ
ていることを示唆している。
例えば,古代周防国の鋳銭所には施設の中心に春日神
社が鎮座しているのだが,これは官営の鋳銭所がおかれ
る以前からこの地で鉄や銅の採掘が行なわれ,その作業
に携わった人々によって信仰されていたからだろう。ち
なみに,この地域における金属生産について,鋳銭司遺
跡の中心部に位置する字大畠小字金毛という地名にかか
わって,次のように指摘されている。「この金毛は金気
に音通し,金属との密接な関係性が示唆されているが,
事実大量の鋳滓などがしばしば発掘されていることから
みて,『鋳銭司』関係の施設が存在したと想定すること
ができよう」
(山口市教育委員会編,1
9
7
8:9
4)
。
もう一例挙げてみよう。埼玉県秩父地方の荒川右岸
(長瀞町)に金ケ岳という小さな山がある。秩父周辺に
は,和同開珎の鋳銭のきっかけとなった銅坑(秩父市黒
谷)をはじめとして銅山がいくつもある。ここもその一
つで,その山名の通り,金属,特に銅の採掘と関係して
いる。麓にある法善寺には,山から落ちてきたと伝承さ
れている銅鉱石が寺宝として安置されている。そしてこ
こでも,山頂には春日神社が祀られているのである。そ
の信仰の担い手について,長瀞町が1
9
8
2年3月に設置し
た案内板には,「社殿には,約1.
8メートルの奉納額があ
写真2 「畔田」の名をとどめる総武本線「畔田踏切」
2
1
5
千葉大学教育学部研究紀要 第5
9巻 À:人文・社会科学系
るが,奉納者として丹治姓を名乗るものが5人も書かれ
ており,これは古代末期から中世にかけて活躍した武蔵
七党中丹党の根拠地であったことを示す資料と考えられ,
井戸地区[金ケ岳のある一帯の字名―引用者]の歴史を
物語るものである」とある。ここにある秩父丹党の丹治
氏とは,もともと砂鉄や水銀を採取していた氏族であり,
彼らが春日神社信仰を担っていた,というわけである
(丹とは原初的には砂鉄を意味し,その後水銀を意味す
るようになった)
。
畔田本村の春日神社もおそらく,これらの春日神社と
同様の性格をもっているはずである。その創建は1
3
5
7年
(延文2年)といわれ,これは村の草創と結びついてい
る(写真4)
。神社の裏手には,多数の鉱滓が散らばっ
ていたという(佐倉市史編さん委員会,1
9
7
1:1
9
9―2
0
0)
。
開拓に必要な農耕具を製造していたものだろう。また,
この春日神社から少し離れた場所に正光寺という寺院
(現在,無住)があり,付属の薬師堂には薬師如来が祀
られていることも鉄とのかかわりを暗示している。寺院
名に「光」という文字を入れているのは高温で融解した
鉄を示している。また薬師如来は,高温と高熱にさらさ
れる製鉄従事者の「眼病快癒」のための祈願の拠り所で
ある(写真5)
。
畔田は「アゼタ」と呼んでいるが,「クロダ」とも読
む。現在の四街道市内黒田は畔田本村から手繰川水系を
さかのぼった位置にあり,そこは畔田本村の初期の分村
である。そして内黒田は近世以前には「内畔田」と書い
て「ウチクロダ」と読ませていたこともあったという(押
尾忠,1
9
8
1:5
5)
。このことは,畔田本村自体が「クロ
ダ」といわれていた可能性があることを示している。水
田の畔のことを「クロ」というが,「クロダ」という水
田の名称はやはり特別なものと考えなければならない。
クロダとは砂鉄を比重選鉱する水簸田のことである。原
料となる砂鉄は印旛沼から運ばれたとしても,それを高
品位なものにするためにこの場所で比重選鉱していた可
能性がある。またそれとはまったく別に,手繰川の上流
の土砂を崩して,この川を利用して品位を高めつつ,最
終的にこの地で水簸田をつくっていたのかもしれない。
手繰川は印旛沼に注ぐ川であって,その川を逆流するか
たちで砂鉄を運んできたのかどうかには若干の疑問も残
るのである。
ということで,四街道地名の背後にある「畔田」や「畔
田新田」の由来を探っていくと,この地域の人々が開拓
に際して製鉄と深くかかわっていたことを知ることがで
きる。このことは,四街道という地名のおこりだけみて
いても決してわからないだろう。
4.熊野信仰の流れ
写真4
写真5
現行の四街道市周辺のいくつかの農業集落の成立には,
熊野修験道がかかわっているとみることができる。内黒
田もその一つで,ここには熊野神社が鎮座している(写
真6)
。創建は1
3
7
6年(永和2年)ということから,畔
田本村の春日神社の創建から1
9年しか経っていないこと
になる。毎年3月1
5日には「はだか参り」として,稲の
豊作を占う神事が行なわれ,のちにみる和良比の「どろ
んこ祭り」との類似性も考えられるが,その起源につい
てははっきりしない。また,ここの熊野信仰は,根源に
おいて製鉄とかかわるかどうかもよくわからない。ただ,
集落の中央やや西よりに「かじ林」という地名のついた
一帯があり(押尾忠,1
9
8
1:5
6)
,鍛冶用の木炭を供給
していた場所だった可能性は残されている。
この内黒田から東方,佐倉市との境に亀崎という集落
があり,ここにも熊野神社が鎮座している(写真7)。
佐倉市畔田の春日神社
春日神社に隣接する正光寺
一説に,原料となる砂鉄は集落の下を流れる手繰川を
使って印旛沼から船で運んで来たとも推測されている
(竹内編,1
9
8
4:6
5)
。だが,「畔田」という地名は何事
かを示唆しているのではないか。
写真6
2
1
6
内黒田の熊野神社
「鉄の民俗」からみた四街道
写真7
なわれていた。鉄滓が散らばった一帯に蕨が自生してい
たという。ところがその蕨には特有の渋みがない。地中
の鉄分と蕨のタンニンが化合して,渋みが消えたからだ
4)
。もしその特異な蕨にあ
という(石田肇,1
9
9
2:1
8―2
やかって地名を付けたとすれば,和良比は製鉄関連の地
名ということになる。
ほかに考えられることをあらかじめ指摘しておけば,
和良比は藁火で焼畑ないし製鉄にかかわるかもしれない。
あるいは,「ワラベ」で子供とかかわるとも考えられる。
だが,いずれも確証はない。
さて,この和良比地区からは製鉄関連の遺跡が発掘さ
れている。一つは,字中山の製鉄工人の工房と住居の跡。
時代は古墳時代の初期と推定されている。原料となる鉄
は鉄の延板のかたちで持ち込まれ,工房では小鍛冶(加
工)が行なわれ,金床が残されていた(印旛郡市文化財
センター編,1
9
8
7)
。そこでつくられた工作物が農耕具
なのか,古墳の造営にかかわるのか,といった点につい
てはまったく不明である。
もう一箇所,地域の南西端,千葉市の御成街道に隣接
する地区にカナクソと呼ばれる場所があり,そこからは
文字通り鉄滓が出土している。しかし時代的な背景も含
めて,人間活動との関連については不明である(千葉県
教育庁文化課編,1
9
8
6,によると,この場所は「小名木
カナクソ」と呼ばれ,鉄滓が遺物とされる)。ちなみに,
近くには「鎌池」という地名が残っているが,これはか
つて鎌池という池があったことに由来している。この鎌
池は製鉄の工程で使われた金池の可能性がある。
このように,和良比という地名は確実に鉄とかかわっ
ていそうなのだが,その実態はよくわからないままであ
る。
亀崎の熊野神社
創建は内黒田の熊野神社と同時期の永和年間(1
3
7
5―7
9
年)という。もと「熊野三社大権現」と称し,産土神で
あるとともに,社殿の裏には,向かって左に皇産霊神,
右に大六天を祀る祠がある。
亀崎の熊野信仰の特徴はこの熊野神社とは別に,鍛冶
内(かじち)という集落に独自の熊野神社が祀られてい
ることである。そして鍛冶内には「かじちのひもとき」
という行事が伝えられている。毎年1
2月7日に熊野神社
の氏子のあいだで行なわれ,おびしゃ(御奉射)に似た
行事で,一年ごとに幣束の渡しがあり,それを受けると
丁重に襟にさし背負って帰り,その後に直会がある。こ
の「ひもとき」については,「紐解き」ないし「帯解き」
といった行事との関連性で説明されることも多いようだ
が,「火ほどき」や「御火とき」というように「火」に
かかわる行事だという説明もあるという。これに関連し
て,「昔,村の小屋でお産をしたときは,産小屋に大き
な火床があって無事出産を願って祈願の火を焚き続け
た」という習俗が紹介されている(四街道市教育委員会
編,1
9
9
5:1
4
6―1
4
7)
。
おびしゃが年頭の祭儀であるとすると,「ひもとき」
の行事は明らかにそれとは異質である。年末近くに火を
入れる,とは,どういうことなのだろうか。思い当たる
のは「フイゴ祭り」である。鍛冶師たちは農作業が終わっ
た晩秋から初冬にかけて,炉に火を入れ,作業を開始す
る。フイゴ祭りはその仕事始めのための祭礼である。そ
の点を踏まえると,「ひもとき」は本来は「火ほどき」
で,そういった鍛冶師の祭礼を受け継いだものといえな
いだろうか。「産屋で火を燃しつづけて安産を祈願する」
というのは,タタラ製鉄で炉に火を入れて ができるの
を祈る,ということと重なり合う。なお,地名の鍛冶内
は本来,「鍛冶打ち」だったはずで,それが縮まって「か
じち」と呼ばれているのだろう。
5.和良比という地名
和良比とは総武本線四街道駅の主として南側に広がる
地名だが,一部は住宅開発で美しが丘と名称を変えた。
和良比という地名は,埼玉県蕨市と重なる。だが蕨市
の「蕨」の由来については,はっきりしない。佐倉市に
も蕨とかかわる場所がある。佐倉市天辺の渋なし蕨の自
生地である。周辺は古墳時代からの開発地で,製鉄が行
6.どろんこ祭り
この和良比地区には,四街道市の名前を全国に知らし
めている行事がある。皇産霊神社に伝わる「どろんこ祭
り」である。毎年2月2
5日に行なわれ,その日は朝から
祭りを知らせる花火が打ち上げられる。周辺の幼稚園や
学校のなかには,この日を「創立記念日」に設定して休
日にしているところもあるようで,子供の見物も多い。
祭りは午前から行なわれ,褌姿の男衆が神社への参拝の
のち,裏手の田んぼに入ってどろ合戦が繰り広げられる。
基本的には稲の豊作祈願の意味合いが込められている。
また,赤ん坊の顔(額)にどろを塗って,健やかな成長
を祈願するという側面もある。
この祭りについて,「この祭は風の祭り,田の祭だと
もいわれ,泥を掛けあって泥まみれになったりする。こ
れは砂鉄など製鉄原料を採取した製鉄民の名残を止めた
もので,また風の祭とは製鉄の溶鉱炉に必要な鞴の風に
由来したものだろう」とする説がある(前島長盛,2
0
0
0:
2
2
5―2
2
6)
。どろんこ祭りが「風の祭り」という性格をも
つ,という指摘については,他の資料で確認することが
できなかったが,この説は基本的には「どろんこ祭りは,
水簸田で砂鉄を採取していた姿を模したものだ」とする
ものであり,もしこれが妥当だとすると,和良比と鉄に
ついては一本の糸でつながることになる。
2
1
7
千葉大学教育学部研究紀要 第5
9巻 À:人文・社会科学系
そこで,その妥当性について検討してみよう。
現在,どろんこ祭りは和良比の皇産霊神社の祭りとし
て行なわれている。しかしここはもともと,大六天が祀
られている大六天社であった。だから「でいろくてん(大
六天)様のお祭り」が本来の名称である。大六天という
聞きなれない神仏についてはひとまず脇に置く(「大六
天」は本来ならば「第六天」と表記するが,四街道市内
をはじめとして地域によっては「大六天」と書きならわ
されているので,以下の記述では両者を互換的に使うこ
とにする)
。江戸時代,皇産霊神社はもとは西に数百
メートル離れた字御屋敷という場所にあった。そこは神
仏習合の地で,同じ建物の半分が吉祥院(創建年不明)
という寺院,残りの半分が皇産霊神社となっていた(写
真8)
。明治時代になって,政府は神仏分離を促し,神
道を国の宗教とするようになる。それに伴って,この地
区では二つのことが課題となったはずである。一つは吉
祥院と皇産霊神社を分離すること,もう一つは大六天と
いう得体の知れない神仏を消すことである。この二つの
課題は,皇産霊神社を大六天社に合祀して,大六天の名
前を表面上消すことによって一挙に達成された。こうし
て,現在に至るかたちが整えられることになった。その
結果,字御屋敷には真言宗吉祥院,字中山には皇産霊神
社が鎮座するかたちになったのである。ただし,皇産霊
神社といいながらも,社殿に掲げられている額には「大
六天」とある(写真9)
。
そしてどろんこ祭りの原型は,明治初年に吉祥院から
皇産霊神社が遷宮する際に取り行なわれた祭りだとされ
ている。そうだとすれば,どろんこ祭りは製鉄などとは
まったく関係なし,ということになりそうである。実際,
どろんこ祭りの原型は,およそ次のようなものだったと
いう。
「昔の参加者は,各自が家で褌をしめて裸になって,
上にちょっと絆纏をひっかけて裸足で神社まで行った。
……(中略―引用者)……藁を,手一束余の長さに切り,
これを松葉に混ぜたものを一握りの束にして持って神社
に行った。参加者は例年1
5∼1
6人で,神社と下を流れる
小川の間を,お百度を履むといっていたが,回数は適当
に省略されていた。出発の時,拝殿の鈴の下に集り,松
葉と藁を捲き,柏手を打って拝礼すると下の田圃に駆け
おりてゆき,小川の水で口を注ぎそこでまた藁と松を撒
いて拝礼した。これを何度か繰りかえしていると,神社
総代の方から中入りという休憩の声がかかり,焚火の回
りで神酒や村の参詣者が重箱にいれて神前に供えた食物
をいただいた。……(中略―引用者)……中入りの後は,
3∼4歳から6∼7歳くらいまでの男の子が,赤い襦袢
をきて褌をしめて大人の肩車にのって田圃にゆき泥田に
抛り込まれた。昔の田圃は秋に田起しをしており軟泥の
状態であったから,跳び込んでも抛り込んでも怪我をす
るようなことはなかった」
(四街道市文化財審議会編,
6
0)
。
1
9
9
2,2
5
9―2
ここからは,村の素朴な信仰行事だったことがうかが
える。そして,どろにまみれるとはいいながらも当時の
たんぼでの仕事と大差はなかった,という点に留意した
い。それに対して今日のどろんこ祭りは他人に見せて楽
しませる年中行事になってしまったため,どろ合戦その
ものが何やら特別なものと理解される傾向をもつように
なったのである。そうだとすれば,どろんこ祭りを製鉄
と結びつけるのは飛躍がある,ということになる。
とはいえ,吉祥院,皇産霊神社,大六天という三者の
関連を考慮に入れると,別の側面がみえてくるかもしれ
ない。
写真8
和良比の吉祥院
7.第六天とは何か
まず,第六天とは何かという問題がある。これについ
ては,いくつかの考え方がある。
一つは神道におけるもので,第六の天神という意味で
ある。『日本書紀』では,面足命,惶根命の二神に相当
する(『古事記』では,淤母陀琉命,訶志古泥命と表記
する)
。簡単にいえば,天地開闢の神である。
もう一つは,仏教における「欲界の最高位・第六天」
の魔王,という位置づけである。それは「正法を妨害す
る天魔」であり,「他の楽事をとり来りて自在に受楽す
る」他化自在天という悪魔である。そして密教において
は,胎蔵曼荼羅の一尊という位置を占める(『密教大辞
典』
)
。織田信長は第六天の熱烈な信者だったといわれる
が,それはこの悪魔的な側面への共感に基づくものと考
えられる。
写真9 「大六天」とある和良比・皇産霊神社の扁額
2
1
8
「鉄の民俗」からみた四街道
以上が基本的な考え方だが,江戸時代の後期,平田篤
胤派の神道解釈では面足命,惶根命の二神を造化三神中
の神皇産霊神と高皇産霊神だとした。「国土生成」や「五
穀豊穣」という点で一致するからである。
次に,その信仰の担い手の問題である。中世から近世
においてその担い手は密教,修験道だったと考えられる。
彼らの活動を背景に,武士階層への信仰が拡大したのだ
ろう。例えば,東金市田間の田間神社には大六天が合祀
されているが,それはもともと,武将,酒井定隆・隆敏
親子が永正6年(1
5
0
9年)に土気から田間に移る際に城
内に祀ったのが起源だという(東金市立東金図書館編,
2
0
0
2:3
2―3
3)
。
また武士層への信仰の拡大には,織田信長の影響も指
摘されているところである。すなわち,織田信長が魔王
としての第六天を信仰し,信長ののち,配下の武士がそ
の信仰を担っていったと考えられているわけである。だ
が,その信仰が民衆のあいだに広がっていたのは,やは
り修験者の布教活動があってのことだろう。
今日確認できる第六天信仰の痕跡については,次のよ
うな特徴がある。
一つは,その信仰圏が駿河以東の関東,甲信にほぼ限
定されていることである。これらの地域のなかで,『新
編武蔵風土記稿』
,『新編相模風土記稿』
,『増訂 豆洲志
稿』に基づく調査によると,第六天社は武蔵に3
2
0余,
相 模 に1
4
0余,伊 豆 に4
0余 が 確 認 さ れ て い る(木 村,
1
9
8
0:6
2)
。その理由については,先に挙げた「信長と
その配下の武士層」とのかかわりが指摘されている。
次に,第六天社は大六天と表記されることもあるし,
また「天」の文字から,天王信仰や天神信仰に変化して
いる場合もみられる(木村,1
9
8
0:7
1)
。そして,明治
初年になると,神仏混淆を禁止した「神仏判然令」に触
れるとして,第六天社は皇産霊神社などへと姿を変える
のである。
8.吉祥院,皇産霊神社,大六天
以上を踏まえて,四街道市和良比の大六天について考
えてみたい。
まず,大六天は集落の産土神であり,本源的な位置に
存在する。大六天社は明治初年に,皇産霊神社の遷宮と
いうかたちで名称を変えたが,その背景には平田派神道
の解釈があってのことと考えることができる。
次に,遷宮した皇産霊神社はもともと吉祥院といわば
「同居」のかたちにあったわけだが,吉祥院と皇産霊神
社とは宗教思想のうえでは結びつきがある。「吉祥」と
は「吉祥恩恵」であり,ヒンドゥー教の主神シヴァと結
びつく。シヴァは「自律的な宇宙の生理そのもの」を象
徴する神(藤巻,1
9
9
1:1
5
9,藤巻,2
0
0
1:1
8
0)であり,
ここから天地開闢の皇産霊神と共通性をもつと考えられ
たにちがいないのである。吉祥院のある一帯の字名は
「御屋敷」という。この地名は,この地域の開拓者であ
り権力者である人物が居住していた御屋敷に由来するも
のだろう。近くには堀込城という城跡も残っているので,
それとのかかわりが濃厚だと推測できる(写真1
0)
。堀
込城は,残された遺物から1
5世紀から1
6世紀にかけて機
2
1
9
能し,臼井城(佐倉市)と生実城(千葉市)の中継基地
だったとも考えられている(平凡社地方資料センター
編,1
9
9
6:4
4
3)
。
写真1
0 和良比・堀込城跡
そしてまた,皇産霊神社の遷宮先である大六天社が鎮
座する地名が「中山」であることも見逃すことができな
い。中山とは吉備中山に示されているように,鉄などの
鉱物資源を暗示しているからである。ちなみに,製鉄と
中山との結びつきは,中国の古典『山海経』のなかで製
鉄の世界を表わす「中山経」に由来すると考えられてい
る(真弓常忠,1
9
8
5:2
7)
。開発に伴う発掘によって,
ここには古代の製鉄工人が居住していたことがはっきり
としたわけだが,中山という地名が古墳時代から今日ま
で存続していたとは考えにくく,時代が降ってからもこ
の地と製鉄とがかかわっていたことを示すものと考えた
い。「御屋敷」や「中山」といった地名は,今日と直接
つながるような地域の草創と深く結びついているはずで
ある。
その一方,和良比の大六天については,山倉(旧山田
町,現香取市)の大六天とも結びついていた。山倉の大
六天は「山倉様」とか「鮭の大六天」などといわれ,次
のような伝説がある。
「山倉村で疫病が流行したとき,弘法大師が一カ月大
六天に祈願して,病魔を退散させた。里人たちは感謝の
気持ちをもって,栗山川の鮭を供え,弘法大師にも饗応
した。以来,悪疫除けと風邪の治療に霊験ありといわれ
ている」
(高橋・荒川編,1
9
7
6:4
3,より要約)
。
伝説に弘法大師が登場することは,修験道とのかかわ
りをうかがわせる。この山倉の大六天は,御師の人たち
が御神体の分身を笈に背負って,村々を回り,信仰を広
めていった。そのような経緯があるので,山倉大六天は
大六天の「本社」といわれたりもしているのである。次
の記述は,四街道市亀崎の大六天講の様子である(先に
述べたように,亀崎の熊野神社には大六天が合祀されて
いる)
。
「この山倉様の講には,村中殆どの家が入っていて世
話人が6∼7人いた。本社山倉様から一年に一度,村に
出開帳にみえた。黒い僧衣を着て,御厨子を背負って,
千葉大学教育学部研究紀要 第5
9巻 À:人文・社会科学系
寺崎(佐倉市)から送られて村の世話人の家についた。
簡単な接待を受けて,寺崎の世話人が帰ると,御厨子を
背負って祈祷師を案内して村を廻る。家の者が出て来て
背負った御厨子を拝み祈祷料を供えると護符と書いた小
さな紙袋をくれる。この中には鮭を黒焼きにした粉が
入っている。白湯にその粉を少し浮かせて飲むと風邪や
夏まけに良く効くといわれた。鮭は大六天様のお使いで
あるといわれ,栗山川を遡ってきた鮭が神格化されてい
る。こうして村中を廻り終わると,世話人の家に泊って
翌日次の村に送られてゆく。亀崎からは飯郷(現佐倉市)
に行く例が多かったという」
(四街道市教育委員会編,
1
9
9
5:1
7
7)
。
この記述では時代的な特定がはっきりとしないが,四
街道市域の講組織が山倉大六天に「四街道」と刻んで石
灯籠を奉納していることから判断すると,山倉の大六天
講は2
0世紀の半ば頃まで存続していたとも考えられる。
カ山」
(長岡)
,「和良比中山」
,「小名木カナクソ」
,「寺
屋敷」
(南波佐間)
,「吉岡カナクソ¿・À」
(吉岡)の五
箇所であり,この小論で取り上げたのはそのなかの「和
良比中山」と「小名木カナクソ」の二箇所ということに
なる。それ以外の三箇所については,製鉄の伝承がはっ
きりとしない。逆に,内黒田の「かじ林」や亀崎の「鍛
冶内」については製鉄の遺構が見つけられていないため,
千葉県教育庁文化課編(1
9
8
6)では触れられていない。
現佐倉市の畔田についても「カナクソ」の残存というこ
とから考えれば,「入ノ台ボッカ山」や「吉岡カナクソ
À」などと同等なのだが,この報告書には取り上げられ
ていない。このように体系的な調査は十分とはいえない
状況にあるが,地名,伝説,寺社縁起などにみられる
「鉄の民俗」の観点から様々な可能性を探り,資料を蓄
積させていきたい。そこから,埋もれたままになってい
る地域の姿を発掘することができるだろう。
〈付
9.どろんこ祭りと鉄
どろんこ祭りの背景に第六天信仰があり,それが修験
者によって広められたものだとすると,修験道の芸能的
な側面も視野に入れる必要があるだろう。例えば,謡曲
「第六天」では,第六天はスサノオによって打ち負かさ
れて虚空へと消えていく。また,神楽の「八幡」では,
第六天は八幡神が「神通の弓」と「方便の弓」を使って
退治する悪魔である。
第六天が登場する芸能では,第六天はスサノオや八幡
神といった製鉄神に打ち負かされる悪魔の役割を演じて
いる。そしてこのような話の構造は,第六天が河童や鬼
に近い存在だということを示している。
その意味で,大六天は先進的な製鉄民に打ち負かされ,
服属させられた先住製鉄民の姿につうじる。だから,大
六天ゆかりのどろんこ祭りは河童の草取りにつうじてい
るといえるのだが,和良比のどろんこ祭りがこの地域に
おける製鉄と直接的に結びついていたとは考え難い。そ
れは修験者による布教の過程で,観念的に伝承された祭
礼なのだろう。ちなみに,大六天を祀る山倉大神は皇産
霊神,スサノオ,大物主を合祀している(土屋,1
9
8
7:
1
4)
。
また,第六天は子供である,とする説もある。どろん
こ祭りで,子供の顔(額)にどろを塗って健やかな成長
を願う,というのは,このような考え方が背景にあると
思われる。その場合,おそらく,第六天は河童と同じよ
うに「小童」として捉えられているのだろう。いずれに
しても,どろんこ祭りが直接的に製鉄と結びついている
とはいえないが,背景に修験道における製鉄の要素が存
在する,ということはできるだろう。
1
0.おわりに
現在の四街道市域において製鉄の民俗と深くかかわっ
ているのではないかと思われる場所を選んで検討してみ
た。千葉県教育庁文化課編(1
9
8
6)によると,四街道市
内の製鉄遺構として挙げられているのは,「入ノ台ボッ
2
2
0
記〉
本稿は,2
0
1
0年6月5日に,「
『鉄の民俗』からみた四
街道」と題して行なった「四街道千葉県庁会総会」での
講演内容に基づいてまとめたものである。
〈文
献〉
相川日出雄編,1
9
8
3,『地区探訪』四街道市役所
千葉県教育庁文化課編,1
9
8
6,『千葉県生産遺跡詳細分
布調査報告書』千葉県文化財保護協会
藤巻一保,1
9
9
1,『第六天魔王と信長』悠飛社
藤巻一保,2
0
0
1,『第六天魔王信長 織田信長と異形の
守護神』学研M文庫
平凡社地方史料センター編,1
9
9
6,『千葉県の地名』
(日
本歴史地名大系1
2)
,平凡社
印旛郡市文化財センター編,1
9
8
7,『四街道市四街道南
地区土地区画整理事業地内発掘調査報告書』印旛郡市
文化財センター
石田肇,1
9
9
2,
『千葉県北部地方 農村の変貌』創栄出版
木村博,1
9
8
0,「第六天信仰の展開」
『日本民俗学』1
2
7:
6
1―7
1
小松崎文夫,2
0
0
7,『沈黙する神 消された「第六天」
の謎を解く』小学館クリエイティブ
栗原東洋,1
9
7
5,『四街道町史(第一部・通史編)
』四街
道町役場
前島長盛,2
0
0
0,『古代の風』日本学術文化社
真弓常忠,1
9
8
5,『古代の鉄と神々』学生社
押尾忠,1
9
8
1,『四街道市の民俗散歩 昔の内黒田村』
四街道市内黒田民俗愛好会
押尾忠,1
9
8
8,「内黒田のはだかまいりと和良比のはだ
かまつり」
『四街道市の文化財』1
4:1
6―2
7
陸上自衛隊高射学校編,19
7
6,『下志津原』陸上自衛隊
高射学校
六方町自治会,2
0
0
1,『六方町のあゆみ』六方町自治会
佐倉市史編さん委員会,1
9
7
1,『佐倉市史』巻1,佐倉市
高橋在久・荒川法勝編,1
9
7
6,『房総の伝説』
(日本の伝
説6)
,角川書店
「鉄の民俗」からみた四街道
竹内理三編,1
9
8
4,『千葉県』
(角川日本地名大辞典1
2)
,
角川書店
東金市立東金図書館編,2
0
0
2,『われらのふるさと 上
総の東金』東金市立東金図書館
土屋清實,1
9
8
7,「山倉の大六天」
『会報』3:1
4―1
6,
東庄郷土史研究会
矢部菊枝・大野滋子・岡田はる美,2
0
0
2,「四街道市街
7
地の発生と発展」
『四街道の歴史』創刊号:3
7―6
2
2
1
山口市教育委員会編,19
7
8,『周防鋳銭司跡』山口市教
育委員会
四街道市文化財審議会編,19
9
2,『四街道市民俗散歩
和良比』四街道市教育委員会
四街道市教育委員会編,1
9
7
9,『四街道町史(社寺史編)
』
四街道市教育委員会
四街道市教育委員会編,19
9
5,『四街道市民俗散歩 亀
崎』四街道市教育委員会
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