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特別展「彩色立面図に見る日本の近代建築 −銀行・オフィスビルから邸宅

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特別展「彩色立面図に見る日本の近代建築 −銀行・オフィスビルから邸宅
特別展「彩色立面図に見る日本の近代建築
−銀行・オフィスビルから邸宅まで−」について
丹治 雄一
1 本展の概要
の横浜市内の建築を取り上げるのが第 2 章となります。
現在当館では、特別展「彩色立面図に見る日本の近
第 1 章では、旧横浜正金銀行本店本館(1904 年)や
代建築−銀行・オフィスビルから邸宅まで−」を開催
「ジャックの塔」の旧開港記念横浜会館(1917 年、図
しています。この展示は、建築家岡義男氏が描いた彩
1)などの煉瓦造建築、第 2 章では関内地区の「キング
色立面図(さいしきりつめんず)により近代建築の魅
の塔」の神奈川県庁舎(1928 年)や「クイーンの塔」
力をご紹介しようと企画したものです。重要文化財・史
の横浜税関本関庁舎(1934 年)
・横浜郵船ビル(1936
跡に指定されている日本を代表する近代洋風建築「旧
年)などの鉄筋コンクリート・鉄骨鉄筋コンクリート
横浜正金銀行本店本館」を利用した当館で開催する本
造の「復興建築」
、山手地区の外国人住宅・教会・学校
展は、前期・後期にわかれており、現在開催中の前期
建築の彩色立面図を展示しています。
「神奈川県編」(会期:2 月 20 日∼ 3 月 28 日)では神
続く第 3 章は、横浜を除く神奈川県域に現存する近
奈川県内の銀行・オフィス・住宅などさまざまな用途
代建築を扱い、旧東伏見宮別邸(1914 年)・旧前田家
の建物の彩色立面図を、後期の「銀行建築編」(会期 4
別邸(1936 年)をはじめ、鎌倉・藤沢・大磯などに建
月 3 日∼ 5 月 9 日)では全国各地の銀行建築の彩色立
てられた別荘建築、リゾート地として発展を遂げた箱
面図を各 60 点ずつ展示します。
根の福住旅館金泉楼・萬翠楼(1877・1878 年、図 2)
、
彩色立面図とは、建物正面の外観を建築図面の立面
富士屋ホテル本館(1891 年)などの建物とその彩色立
図風に極めて精細に描いた水彩画です。作者の岡義男
面図を紹介しています。時代の生き証人ともいえるこ
氏は横浜市内在住の一級建築士で、神奈川県内をはじ
れらの近代建築を通じて、それぞれの建物の魅力と横
め、東京さらには全国各地に遺された明治・大正・昭
浜や神奈川県の近代史の歩みを感じていただければと
和戦前期に建てられた歴史的建造物の彩色立面図制作
考えています。
をライフワークとされています。建物創建時の図面を
基本資料に、写真や文献など各種資料を収集・分析し、
3 「後期 銀行建築編」について
現地での建物細部の詳細な撮影調査も行った上で、そ
第 1 章 日本銀行本店と横浜正金銀行本店
れぞれの建物の創建時の姿を描くことを制作にあたっ
日本を代表する銀行建築である日本銀行本店本館
ての基本方針としており、それが岡氏の彩色立面図の
(1896 年、表紙参照)と旧横浜正金銀行本店本館とい
大きな特徴です。建物の外壁の煉瓦の質感や柱頭飾り
うふたつの建物だけに特化して構成した章です。ここ
の意匠を精細に描きながら、下書きまですべてが手描
では岡氏の彩色立面図に加えて、両建物および日銀本
きで、どこか温かみも感じることができる画風ではな
店の設計者である辰野金吾(1854 ∼ 1919 年)と正金
いかと思います。ここでは、4 月 3 日より開催される
本店の設計者妻木頼黄(1859 ∼ 1916 年)に関わる資
後期展示の内容を中心にご紹介したいと思います。
料も展示します。特に、日本銀行本店の新築工事過程
を定期的に撮影した写真 17 点を巻子装にした「日本銀
2 「前期 神奈川県編」について
行新築場沿革図」
(図 3)は、全長が 15 メートルにも
現在開催中の前期展示は、
「横浜の近代建築−関東大
及ぶ長大な資料で、本展が外部での初公開となります
震災前−」
「横浜の近代建築−関東大震災後−」「神奈
(会期中に場面替えを行いつつ、全 17 点をご覧いただ
川県内の近代建築」の 3 章構成です。
けます)
。
神奈川県内には、明治・大正・昭和戦前期に建てら
ちなみに、日銀本店と正金本店建物の外観には、意
れた歴史的建造物(近代建築)が現在も数多く遺され
匠の共通性は感じられませんが、両建物の地下金庫室
ています。そのうち特に多くの建造物が現存する横浜
の内装の仕上げや金庫扉・スチールサッシ・スチール
市域に 1923(大正 12)年 9 月 1 日の関東大震災前に
シャッターなど内部の仕様には共通点が多く大変興味
建てられた建物をご紹介するのが第 1 章で、震災以降
深いものがあります。辰野と妻木は生まれもキャリア
もまったく異なり、宿命のライバルとして日本近代建
銀行奈良支店(1926 年)のように全鉄筋コンクリート
築史上にもその名が刻まれています。妻木が設計した
造となり、大きな転換期となっていることが当該期の
建物で開催される本展で、辰野と日銀本店をはじめと
特徴です。関東大震災以降、銀行などオフィスビルの
する辰野設計のいくつかの銀行建築と、辰野ゆかりの
主流となる鉄筋コンクリート造建築は、躯体の一部分
資料が展示されることを、辰野と妻木はどんな気持ち
に使用されることから始まり、最終的に外装の石張り
で眺めてくれているでしょうか。
や装飾タイルを除く躯体全体に適用されるという過程
をたどっていったのです。
第 2 章 明治の銀行建築
彩色立面図では、こうした構造面の変遷をたどるこ
日本の銀行建築は、海運橋三井組為替座御用所(の
とはできませんが、本章で取り上げた建物からも、煉
ち第一国立銀行、1872 年 、
図 4)
・駿河町三井組為替座御
瓦造で外壁にも赤煉瓦を使用した建物から、鉄筋コン
用所(1874 年)という清水喜助(二代目)が明治初期
クリート造で外壁に石やタイルを張った建物へという
に手がけた擬洋風建築に始まり、地方に数多くの中小
流れは感じ取っていただけるものと思います。
規模の銀行が設立されると、全国各地に建設されるよ
うになりました。
第 4 章 昭和戦前の銀行建築
この章では、ジョサイア・コンドル(1852 ∼ 1920
昭和戦前期に建てられた銀行建築の彩色立面図など
年)の三菱一号館(1894 年、図 4)や辰野金吾の日本
を展示します。当該期の建物は、そのほとんどが鉄筋
銀行大阪支店(1903 年)・旧日本銀行京都支店(1906
コンクリート造ないし鉄骨鉄筋コンクリート造となり、
年)
・曾 達蔵(1852 ∼ 1937 年)の旧三菱銀行神戸支
関東大震災を受けて耐震構造に関心が寄せられていた
店(1900 年)など、黎明期の日本の建築界を担った第
ことが窺われます。
一世代の建築家が設計した大手銀行の支店建築のほか、
外観の意匠については、
村野藤吾(1891 ∼ 1984 年)
青森県弘前の旧第五十九銀行本店本館(1904 年)のよ
の旧加能合同銀行本店(1932 年、図 7)がアール・デコ
うな地元の大工棟梁が設計した、地方の中小規模の銀
様式の非常に斬新なデザインであるほかは、アメリカ
行の彩色立面図も紹介します。建築構造は海運橋三井
のトローブリッジ&リヴィングストン建築事務所が設
組の木骨石造や旧中越銀行本店(1909 年)の土蔵造か
計した三井本館(1929 年、図 8)や、中村與資平(1880
ら、煉瓦造ないしは煉瓦造で外壁を石張りとした大規
∼ 1963 年)の旧静岡三十五銀行本店(1931 年)など
模な建築まで、外観の意匠も大工棟梁による見よう見
のように、外壁を石張りとし円柱列を持つ典型的な古
まねの「擬洋風建築」から古典主義様式、そして岩手
典主義様式でまとめられており、展示する彩色立面図
銀行(旧盛岡銀行)旧本店本館(1911 年、図 5)に見
でも一見すると非常に似通った意匠の建物が見受けら
られるような赤煉瓦の壁面に石材を縦横に配したいわ
れます。銀行が古典主義の建築を好んだのは、古代ギ
ゆる「辰野式」
、さらには旧第九十銀行本店本館(1910
リシアの時代にまで遡ることができるスタイルを用い
年)のアール・ヌーボー風まで、非常にバリエーショ
ることで、銀行経営の安定性を表現することができる
ンに富んだ建物をご覧いただけます。
からであるとされていますが、そうした傾向は金融恐
慌・昭和恐慌で日本経済が不況に見舞われた昭和初期
第 3 章 大正の銀行建築
に、より顕著なかたちであらわれていると考えること
大正期の銀行建築では、辰野・妻木らを継ぐ第二世
ができるかもしれません。
代の建築家たちが活躍の場を広げていきます。建築構
造面では、
初期には田辺淳吉(1879 ∼ 1926 年)設計の
4 おわりに
旧高岡共立銀行本店(1915 年)など、明治期と同様煉
本展の中核となる彩色立面図を中心としたご紹介に
瓦造の建物が主流でした。しかし、中期には西村好時
なりましたが、後期展示では大きな絵馬状の板に描か
(1886 ∼ 1961 年)の旧第一銀行熊本支店(1919 年)
れた 「第一国立銀行図」(図 4)など初公開の資料も展
や長野宇平治(1867 ∼ 1937 年)の旧三井銀行下関支
示します。特別展では岡氏の彩色立面図をご堪能いた
店(1920 年、図 6)に見られるような煉瓦造の一部に
だくとともに、こうした関係資料からも、日本の近代
鉄筋コンクリート造の部分を持つ混構造の建物が現わ
建築の魅力を感じとっていただければ幸いです。
れ、関東大震災後になると同じく長野設計の旧六十八
(たんじ ゆういち 学芸員)
(たんじゆういち・学芸員)
ポップでキッチュでパンクな面々
−コレクション展「奇妙奇天烈 !? 明治の版画あれこれ」によせて−
角田 拓朗
昨年、大和市内の方から明治以後に出版された版画
《東京名妓》
(明治 22 年、図 2)のように、表現技法
98 点をご恵贈頂きました。これにより、当館の近代の
が西洋絵画を基礎としたこともあり、開化風俗を積極
版画コレクションは 300 点をこえ、その詳細は当館研
的に取り入れ、顔立ちも西洋人に近づいているようで
究報告第 36 号で報告しました。その中から主な作品を
す。本作には新旧を対比する意図も含まれており、新
紹介する目的で、本年 6 月 5 日から 7 月 19 日までコレ
たな明治美人の一例が示されてもいます。
クション展「奇妙奇天烈 !? 明治の版画あれこれ」を
そもそも石版印刷は大量印刷を可能にする技術とし
開催します。本稿では同展の概要にそい、近代の版画
て要請され、明治 10 年代にはその技術的な頂点を迎え
の諸特徴について記したいと思います。
ます。その後は美術・芸術的な表現を強く志向したと
いうよりも、明治の風俗や文化を発信する役割を担い、
石版画の世界
より大衆の期待に応えた内容を目指した作例がほとん
石版印刷は、近代国家の幕開けにともなって欧米か
どといえます。第 3 回内国勧業博覧会を描いた矢島智
ら輸入され、大いに活躍した技術でした。しかしなが
三郎(発行印刷)
《会場式》
(明治 23 年、図 3)に示さ
ら、その活躍は長くは続かず、ほぼ明治という時代と
れる報道的な性格もまた、視覚情報の大量発信が見込
ともにその華々しい時代は過ぎ去ります。その盛期に
まれた時代になったことを裏付ける作例です。
あたる明治 20 年代の作例を挙げながら、特徴的な主題
石版画には以上のような静的な印象のある作例があ
についてご紹介しましょう。
る一方で、動的な印象から時には奇怪な印象をうける
まずは、明治天皇・皇室・政府高官・軍人の主題で
作例も見受けられます。子どもたちの図像がその代表
すが、明治期に刷られた石版画の総体においても多数
例でしょう。太田節次(画作印刷発行)
《角力遊》
(明
を占めたことが指摘されており、当館コレクションで
治 25 年、図 4)を例として挙げますが、この笑顔には
は全体のおよそ三分の一を占めます。有山定次郎(画
必ずや驚かれることでしょう。明治の人々がこの作品
作印刷発行)
《帝国貴顕御肖像》(明治 23 年、図 1)は
をどのような心持ちで見たのかは定かではありません
その一例で、明治天皇皇后を単色石版で刷り、その上
が、幼児特有の愛らしさという点を無視して作者は表
に手彩色をほどこしております。今となってはそのど
現したと推測されます。遊戯する子どもの姿には、大
ぎつい色合いに不自然さが感じられますが、明治には
人の世界=時代を揶揄する効果が期待されたものと考
この強烈な色彩が好まれたようです。
えられ、そのギャップを楽しんだと推測されます。
この画題に「天皇」と記されていない点に注目しましょ
そして、この表情のキッチュな印象を助長したのは、
う。類例も表記には注意を払っており、画題に「天
石版印刷特有の肌合いだったと考えられます。他にも、
皇」と明記する方が少数です。それは罰せられること
富士山を主題とした香山秀吉(印刷発行)
《駿州吉原之
を危惧したためと推定されます。さらに注意がひかれ
景》
(明治 21 年、盛廣堂製造、明治 21 年、図 5)を見
るのは、粗悪とも稚拙とも見なしうる像主の崩れた相
ると、従来の山容とは異なる立体感や量感が描かれて
貌です。これこそ不敬罪にならなかったのかと不思議
います。ざらりともぬめりとも感じられる触覚を刺激
ですが、過度に取り締まらなかったのはイメージ戦略
する石版印刷特有の刷りが、人物の肌や布、岩石、樹
があったからでしょう。明治国家の核たる明治天皇は
木、あるいは雲や水などにも認められます。より平面
国家統合の象徴で、いわば当時の「スーパースター」
的な視覚に慣れた我々は、その肌合いと量感に違和感
でしたから、そう認識されるようにあえてその流布を
を感じるのでしょう。
緩やかに統制していたと想像されます。
当館には石版画の優品は多くはないかもしれません
次にコレクションの多数を占めるのが女性像です。
が、当時広く民間に流布した作例がまとまって収蔵さ
主に芸者を描いたものが多く、浮世絵版画の美人画の
れており、それらは明治という時代をより深く理解す
流れをくむものです。ただ、深瀬亀次郎(画作印刷行)
る一助になるコレクションだといえます。
ビゴーが見た日本
石版印刷以外にも木口木版やその他の平板印刷など
次にご紹介するのはフランス人ジョルジュ・ビゴー
の新技術がその時代に輸入されました。それら新技術
Georges Ferdinand Bigot(1860-1927)で、本年生誕
の普及発展と歩みを共にしたのが新聞でした。初期の
150 年を迎えます。先の石版画がたいへん豊かに明治
新聞普及に貢献したのが連載小説の挿絵で、のちに網
という時代を物語るのですが、それはあくまで日本人
版・写真版が登場することで活字媒体に視覚情報が大
の視点でした。彼は外国人の視点から明治の日本をと
量に加わり、今日の写真週刊誌のようなものまで登場
らえており、同時代の日本人による作例と比較対照す
し始めます。また、多色刷石版画が新聞附録として明
ることで、私たちは明治という時代をより深く感じる
治後半頃に登場し、カラー図版の大量印刷化が実現さ
ことができるものと思います。
れます。
《やまとひめとブリタニア》(明治 35 年、図
フランスに生まれた彼は日本美術を研究するため明
8)は『時事新報』附録として発行されましたが、同様
治 15 年に来日。以後、同 32 年に帰国するまでの間、報
に華美な多色刷石版画は豪華附録としてもてはやされ
道画家などとして活躍しました。多面的な活動が認め
ました。なお、ここには描かれた女神は日本と英国を
られますが、中でも明治日本の実態を克明に描き出し
擬人化したもので、両者が手を取り合い強固な日英同
た銅版画集は優品といえます。
盟を象徴しています。この作者の北沢楽天ですが、ビ
Croquis Japonais 中の一図(明治 19 年、図 6)を例
ゴーと同じく漫画という手法で反体制的な作品を数多
に挙げましょう。水を汲むという何の変哲もない女性
く描いたことを付記しておきましょう。
の姿ですが、西欧で培われた確かな描写技術、堅固な
さて、この時代において木版画は石版画などと比べ
リアリズムという精神に支えられた造形で、神々しさ
れば時代遅れの技術という位置になりますが、旧態依
すら感じられます。屑拾いの男性(MATA 掲載、明
然とばかりしていたわけではありません。実のところ、
治 17 年、図 7)もまた、社会の底辺に生きる人にもか
彫と摺の技術は明治時代に最も優れていたという事実
かわらず、同じような雰囲気をたたえます。このよう
もあります。例えば《大鳥居及五重塔》
(明治 26 年、
図
な作品に対して、
「朝野新聞」ではビゴーが貧しい日本
9)は亀井至一の原画をもとに刷られた多色木版画で、
人を絵にして外国人の軽蔑心をさそっていると報道さ
従来の色の重ね方とは異なり水彩画の雰囲気をあらわ
れました。おそらくこの見解は彼の思惑とは異なるで
すことを試みています。本作は日光の土産品として刷
しょう。彼には時の政府や権力者を揶揄する諷刺画を
られたものでしょうが、その画面からうける印象とし
数多く描いた仕事があり、むしろ大衆や社会の底辺に
ては、一個の独立した美術作品のようです。木版画は
生きる人々に寄り添う姿勢が認められるからです。懸
少数制作という点もあってか、かえって高い芸術性を
命に生きる人の姿にこそ共感したのでしょう。
志向していく側面があり、次代の大正期の新版画運動
ビゴーに先立ち、横浜でワーグマンが諷刺漫画誌
や創作版画運動にまでつながっていくのです。
JAPAN PUNCH を発行していましたが、最初は木版
で、その後石版でした。諷刺誌には、社会的な清涼剤
大量印刷により、全国で情報が共有される状況が明
ないしはその浄化作用を促す効果があります。そして
治になると生まれました。それが表現の大衆化=ポッ
諷刺をより有効とするには、より多くの人と情報を共
プを生み、時には奇抜あるいは俗な表現=キッチュで
有することが必要で、そのためには一品制作よりも大
さらに目をひくことをねらったでしょう。そして反体
量発信を簡易にする版画が適していたでしょう。彼ら
制=パンクの姿勢も、大衆側の社会的意志として表明
来日外国人が展開した反体制=パンクの精神は、のち
されます。その三要素は、例えればホップ・ステップ・
に日本の漫画に大きな影響を与えました。
ジャンプとも重なるような、新しい表現世界へ移行す
るために必要なものだったのかもしれません。以上の
多種多彩な版表現
ような技術の革新と表現の多様化を経て、今日の印刷
明治日本が視覚表現の大きな転回点であったことは、
メディアをめぐる環境が整えられていったわけですが、
今まで述べてきたように、大量生産・大量発信を目指
本コレクション展を通してその過渡期の一端をご覧い
した技術革新と、より直接的に西洋絵画を学習したこ
ただきたいと思います。
とによる表現の多様化という二点からご理解頂けるこ
とでしょう。
(つのだたくろう・学芸員)
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