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平成 16 年度厚生労働科学研究費補助金(厚生労働科学特別研究事業)

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平成 16 年度厚生労働科学研究費補助金(厚生労働科学特別研究事業)
平成 16 年度厚生労働科学研究費補助金(厚生労働科学特別研究事業)
Web サイトを介しての複数同時自殺の実態と予防に関する研究
研究協力報告書
ネット自殺に関する社会学的考察
―現代日本の人間関係パターンと情報機器コミュニケーション−
清水新二(奈良女子大学 生活環境学部 教授)
研究要旨
ネット集団自殺に関して以下のような諸点から社会学的に考察を加えた。1)未だ不確かな情報
と理解にとどまるこの新奇な自殺形態が、社会的現象としてどう現れ社会に認知されていくの
か、その過程と論点について主に社会構築主義アプローチから検討を加えた。2)ネット集団自殺
の問題点を現代の若者の人間関係の持ち方から取りあげ、肥大化した自己と希薄化した世間(遠
慮)の構造の時代的変化と絡めて検討した。3)ネットコミュニケーションが第三者のまなざしを
欠落させやすい点に注目する一方、ネット自殺をはかる者の絆の希薄さを補うために第三者の確
認を必要とする(自殺の集団化)というアイロニカルな状況からネットを通じた集団的な形をと
る自殺形態が生じる、と考察した。
はじめに
1.ネット自殺は社会的構築現象か
ネット自殺の問題点には、1)若者の人間
最近の社会学、特に社会問題論では社会
関係にまつわる要因、2)インターネット上
構築主義的アプローチ1)が隆盛である。
の人間関係にまつわる要因、の二つがあり、
しかしながらネット自殺に関しては、この
後者は若者だけに限らない一般的な性質を
立場からの論議をほとんど聞かない。社会
有する。またどちらか一方の要因だけでは
的構築とは、ある問題とされる現象がどの
「ネット集団自殺」の現象は起こりにくい
ように人びとに意識され議論され、それが
と考えられる。両要因に共通するのは、現
問題化されていく社会的過程を明らかにす
代日本社会における人と人を結びつけるコ
ることを課題とする。具体的には、問題化
ミュニケーションのあり方に関連している
したい社会的主体・立場の動機とそれを遂
ことである。以下ではこの基本的視点に立
行する言説・活動、レトリック、人びとの
脚して、いわゆる“ネット自殺”を社会学
日常の中でマスメディアやうわさ話などを
的に考察してみると、どのようなことが言
通じそれがどのように受け止められ「問題」
えるかを記してみる。
だと理解されて行くのか、すなわちこれが
社会的構築過程であり、これらを分析する
ものである。ネット自殺を問題視する動機、
定報道コンテンツは確実に減少してゆく。
問題化の過程で使われる言説・レトリック、
ネット自殺の場合も同様に、1)従前からの
その背後の社会的力学等々、が論議の対象
心中集団自殺とは異なる人間関係、2)イン
となる。
ターネットという関係構築の契機性、とい
ネット自殺に関して社会的構築主義アプ
う新奇な要素がメディアの関心を大いにと
ローチからの論議が未だなされていない理
らえ、少々過熱気味のネット自殺報道合戦
由のひとつは、現象自体がなお最近注目さ
の様相がなかったとはいえない。ただ通常
れ始めたばかりであること、したがってネ
の場合と違うのは、ネット自殺報道の傾向
ット自殺の論議自体が「構築」されていな
は一過的な報道活動に終わらずその後も変
いことがあげられる。現在進行中のネット
わらず報道が続いていることである。直近
自殺研究プロジェクトの活動自体が数年後、
の集団自殺事件としても、2005年3月
このアプローチからの研究対象とされる可
1日、雛祭りを直前に中学3年生女子を含
能性は十分に高いといえる。
む3人(あとは40歳と19歳の男性)が
車内に練炭を持ち込んで鬼怒川の河川敷で
2.ネット自殺は問題現象の掘り起こし効
果か
死亡していたことが全国紙に報道されてい
る。
警察庁報告によると、2003年には1
このようにネット自殺の場合、マスメデ
2件、34人が集団自殺を試みている。マ
ィアはその新奇性ゆえにこれに大いに関心
スメディアはことさらこの「事実」を力説
を示し、一昨年あたりからは集団自殺事件
して報道している。しかし社会問題論のも
をほぼ漏れなく報道しているようである。
う一つに視点からすれば、この「事実」は
しかし暗数部分が大きいひきこもりや青少
作られた事実でないのか、との議論が出さ
年のシンナー使用などと違って、少なくと
れる可能性がある。年度末やある特定月に
も死亡事件の場合、掘り起こし効果はまっ
交通違反件数が増えるのは、ドライバー側
たくないとは言えないまでも、公的統計に
の要因と言うより、取締り活動の実績が気
影響を与えるほどには大きな効果は想定し
になる当局の都合が大きく影響している。
得ない。法律的に死亡確認届け出手続きが
未成年の飲酒や喫煙に関わる補導件数や最
確立しているためである。問題があるとす
近の女児への性犯罪者問題も同様である。
れば、それまでにも同様の見知らぬもの同
同じくマスメディアも、話題になり始めた
士の心中事件が生じていたかも知れず、に
現象はより多く報道し、時にはキャンペー
もかかわらずこれをネット自殺として呼ば
ンも張る。
なかっただけのことがあったかもしれない、
通常メディアは新奇性にニュースバリュ
という点である。水俣病もドメスティッ
ーを求めるため、一定の期間が過ぎると特
ク・バイオレンスも社会問題化する過程は
同じであった2)。ここまでくると、用語が
ことを木村敏も「人と人の間」5)と、浜口
現象を形作るとする社会的構築論の射程に
恵俊は「間人主義」6)として論じている。
なってくるが、議論としてはありえても事
さらに井上忠司7)は、特に土居の所論を受
実がどうであったかは、今となってはなん
けてミウチとタニンの間に遠慮が働く「世
とも言えないというしかない。
間体」なる世界があることに着目して、ミ
ウチ=セケン=タニンの三層の同心円から
3.現代若者世代における自己と他者
なる人間関係ゾーン=「世間体の構造」を
インターネットを利用した自殺志願書の
設定した(図1)。この内「世間」をさらに
募集という異常な現象もさることながら、
身近で具体的な近隣関係と、一般的で誰と
先ずは現代の若者の人間関係にまつわる側
特定化しえない社会一般、しかし遠慮を働
面に関して社会学的に考察してみる。
かさねばならない道徳的世界に細分化して
いる。しかしこの日本人の人間関係の文化
1)日本人の人間関係の文化的パターン
的パターンと構造は、その後の日本社会の
かつて土居健郎3)は日本人の人間関係の
急速な変化(富裕社会化、情報化、個人化・
規定に甘えの構造があることに着目し、こ
私事化)にともない、それなりの影響とパ
の甘えが許容される社会関係をミウチと呼
ターン・構造変化を経験してきたはずであ
び、甘えの許されないタニンの世界と区別
る。土居・井上モデルがそのまま現代日本
した。タニンの世界は甘えが許されないと
社会、とりわけ若者の人間関係パターンに
同時に、このこと故に「旅の恥はかきすて」
妥当するとは思われない。
とばかり関わりのない無視できる対象でも
ある。そして日本では上手に甘えることが、
2) 日本社会の変化
いわば社会的成熟であり、日本的自我のあ
ところが1980年代以降、「ジャパ
りようの一面とした。上手に甘えない者は
ン・アズ・ナンバーワン」8)などとおだて
「水くさい」
「気が置ける」とされ、甘えす
上げられるほどの経済的好調を背景に、日
ぎは「甘ったれている」「分をわきまえな
本社会がいよいよ富裕な社会水準に到達す
い」として後ろ指を指される。これを反映
るとともにこの世間体の構造に変化が生じ
して、日本人の人間関係では各種のミウチ
てきたと考えられる。個人はそれまでは家
化がおこなわれ、親分−子分、キョウダイ
族やら地域やら職域などに依存して生活を
分、県人会から学閥、社閥などが横行し、
成り立たせてきたが、次第にこうした共同
反対に甘えを許さない者にはよそ者、ガイ
体的なるものから自由に考え振る舞えるほ
ジンとして非ミウチ化する。同じ頃こうし
どにその依存性を低下させ始めた。第一次
たミウチ社会の人間関係文化を中根千枝は
貧困線をほぼ国民的にクリアし、広大な中
「タテ社会」として論じている4)。同様の
間階層が出現した富裕な社会に到達した
「一億総中流社会」日本では、共同的拘束
肥大化現象である。自分のことしか見えな
を嫌ってそこから距離をとり、自律して一
い自己中心的行動は、周囲(セケン)から
人でもあるいは自分の家族だけでもなんと
すると傍若無人で非常識な行動に映る。電
か生きられる時代に入ったのである。社会
車の中で抱き合いキスする高校生。我先に
的ないしは公的生活場面より、プライベー
座席を確保しようと、列の隙間をぬって子
トな自分(たち)だけの私的な空間・時間・
どもを先に電車の中へ割り込ませようとす
行動基準がより優位になる「私事化」傾向
る親。うっかりであれ他人の足を踏んでも、
が進展していく。それまでとは逆に“近く
一言も詫びないヤングアダルト。世代を問
の親戚よりは遠くの友人”とばかり、情報
わず、こうした自己肥大的行動が目に付く
社会がこの動きを支え、強化した。私的な
昨今であるが、その分遠慮と気配りを期待
生活世界を優先重視する社会的傾向を私事
されるセケンの生活世界は限りなく狭小化
化(privatization)と社会学では呼ぶが、現
していく。セケンが内周ゾーンから狭小化
代日本社会ではさらに個別化、個人化とい
すると同時に、交通通信手段の発達、国際
った個人を単位、中心に考える価値観がよ
化などにより社会的空間が飛躍的に拡大し
り優勢になり始めている9)。私事化は近代
た中で、外周ゾーンのタニン世界も拡大し
社会の成立・発展とともに始動し、個別化
ている。
を経て個人化という、いわゆるポストモダ
以上のことを図2にまとめて示したが、
ン的状況に移行しつつある。各種世論調査
井上による世間体論における三層構造と比
によれば、特に若者世代にこの傾向が顕著
べてミウチの中にジブン領域が発生し増殖
に認められる。
拡大しており、甘えが受け入れられるそれ
こうした新たに出現しつつある日本の社
までのミウチゾーンは狭小化している。親
会状況では、かつてのミウチ=セケン=タ
密な関係性の構築可能性が低下し、困難化
ニンの三層構造は解体したとは言えないま
していると言ってもよいし、ミウチにも上
でもそれなりの変質を遂げていることが想
手に甘えられないと言ってもよい。一方、
定される。そこで次に、このことを踏まえ
国際化、情報化などによる社会的空間の飛
て最近の変質した世間体の構造について検
躍的拡大を受けてタニン世界のゾーンも驚
討を加え、その上で近年の若者の逸脱的行
異的に拡大している。この中で一番目立つ
動についても若干の考察を試みる。
のがセケンのゾーンに薄弱化傾向である。
極論すれば、肥大化した自己と驚異的に拡
3) 最近の世間体の構造
大化したタニンの二つの生活領域に挟まれ
社会の富裕化と個別化、個人化は自己完
て、セケン=他者への遠慮・配慮の生活世
結的欲求充足を促すが、行き過ぎればミウ
界は極限的に希薄化しているとモデル的に
チ世界をも細分化、アトム化する。自己の
表現できる。
セケンの狭小化という、いわば第三者の
を求めるような集団ネット自殺の勧誘メッ
まなざしが機能しにくい状況の中で、肥大
セージにみるのは、以上のようなことがら
化した自己はいきなりタニンと行きずり的
である。
に遭遇する確率は飛躍的に高めている。さ
なお以上のことは、当然社会の富裕化の
らに行きずり的遭遇にとどまらない意図的
恩恵を最も享受し、その結果個別化、個人
接点をもち結びつく可能性を情報化と情報
化傾向のより一層強い若者に顕著な特徴と
機器がもたらしたのである。携帯を介した
いえる。他方、若者のすべてがそうではな
援助交際や出会い系サイトといわれる世界
いことは言うまでもない。あくまでも大勢
はその典型といえよう。ここに至ってタニ
的な傾向としての議論である。
ンは、これまでのように甘えも遠慮も関係
のない世界ではなくなり、ひょっとすると
4.仮想社会的空間と人間関係の特徴
一時であれ肥大化した自己意識≒甘えを受
1)デジタル・コミュニケーションの優先
け入れてくれる“本当の(?)”ミウチが見
人間のコミュニケーションの仕方は字義
つかるかも知れない仮想世界と化してもお
通りのデジタルなコミュニケーション要素
かしくない。仮想世界でのことゆえ、それ
が、その真意、背景の動機、情緒が感性や
は“本当の”でも現実でもないのだが、仮
想像力によって補われつつ進行し、現実的
想世界ゆえに青い鳥探しが可能に思われて
に成立している。このアナロガスなコミュ
しまう。
ニケーションなくしては人間の社会的コミ
「毎日がただ辛く、辛く、辛く、・・・。
ュニケーションは決して成立しない。この
逝く根性もなく毎日をぷかぷかと浮かぶの
コミュニケーションレベルの齟齬を問題視
み。だれかこんな僕を別界へ、いざなって
し、分裂病(統合失調症)の家族的成因と位
くれませんか」といった掲示板の書き込み
置づけて展開したのが人類学者ベイトソン
を読むと、甘えも遠慮も関係のないタニン
らの二重拘束説である10)。
であるからこそ第三者からの細かい詮索や
仮想社会場面では、デジタルなコミュニ
介入非難もなく、それでいて甘えを受け入
ケーションにおいては迅速簡便正確である
れてくれる気まぐれなタニンを求める肥大
ものの、若者の絵文字の応用利用にみられ
化した自己が浮かび上がってくる。
るようにその発話の背景にある感情、微妙
な意味あいなどは十分伝達されるかという
こうした有り様を現実に可能にしたのは、
とそうではない。しかしそれが欠点として
現代日本の社会状況を背景にして生じた現
作用する場合もあれば、そうでない場合も
代人の人間関係パターンの変化と、これに
ある。そうでないのが対面的人間関係が苦
スパークを与え集団自殺の可能性を提供し
手で、むしろ掲示板やネット・コミュニケ
た情報化革命である。日帰り旅行の同行者
ーションを好む一部の若者の例である。
「死にたい」を「死ぬほどつらい、助け
て」と読み替えるように推奨されるのが自
ていることを窺わせる使われ方さえ観察さ
れる。
殺予防の世界である。専門家にとってでさ
本来的に人間のもつコミュニケーション
えも、そうしたメタコミュニケーションの
のもつ複雑さと複合性を備えたネット・コ
理解への必要性がマニュアル化されねばな
ミュニケーションであれば、そして「死に
らぬほどに重要な事柄である。ところが、
たい」が「死ぬほどつらい、助けて」とい
デジタルな発話では「死にたい」はその背
うメタメッセージであることを真とするな
景の心理的状態や感情はほとんど推測しが
らば、ネット掲示板の「死の同行者」の勧
たい。軽口や冗談なのか、軽い微妙な念慮
誘広告が「生の同行者」へと転換すること
なのか、それとも危急のメッセージなのか。
さえ十分にありうる。いくつかの自殺サイ
かつて若者が「むかつく」という言葉を口
トはこの可能性を探って立ち上げられたも
にしだした時期、大人の側は屈折した怒り
のである。もちろん逆も真である。「生の同
の感情の底深さに驚愕さえ覚えたものであ
行者」が「死の同行者」に転換することも
る。ところが実際には、ボキャビュラリー
あろう。しかしその可能性は「生の同行者」
の誤用、貧困さに起因するごく浅い感情表
への転換可能性よりははるかに低いであろ
現でしかないことがわかって、妙に安心し
うし、少なくとも上回ることはないであろ
た経験を有する。
う。
表情、声色、話し方のピッチやイントネ
ーションなど、直接的コミュニケーション
2)第三のまなざしの不在
であればその心理状態や感情を推し量るこ
自殺募集サイトのネット・コミュニケー
とはそう難事ではないといえる。また直接
ションのもう一つの特徴は、男女間の密会
的コミュニケーションで無い場合でも、ほ
の約束のようにそうすべき理由がないにも
とんどの場合その発話のコンテクストから
かかわらず、二人だけのあるいは密室的な
私たちはその真意や心理を無難な程度に了
やりとりのコミュニケーションになりがち
解しえている。このようにして成り立って
な点である。加えて相手も自分もお互いに、
いるのが私たちの日常的なコミュニケーシ
ネットによって交わされるメッセージ以外
ョンである。一方、メールなどのコミュニ
の総体的な情報をほとんど総合することな
ケーションでは、コミュニケーションであ
く、すなわち話し込むタイプの会話はほと
る以上コンテクストがないわけではないも
んどなく、目前の関心事だけの“情報の交
のの、そのシンプルさ、簡便さゆえに掛け
換”だけで相手とやりとりをしている。
合い的相互作用による確認的要素が欠ける
第三者のまなざしが欠落し、逸脱した直
傾向が強い。むしろ真意をぼかすためには
接取引が第三者からなんの介入もなしに進
便利なコミュニケーション手段と認識され
展してしまうのがネット自殺者の相互合意
形成過程の特徴といえる。それも願望を共
る意志決定をするときには、こうした第三
有するもの同士であるため、この合意形成
のまなざしが介在しており、またこのメカ
過程はきわめてスムーズに短時間で進行す
ニズムが作用する限りにおいて社会が存在
る確率が高い。
し、社会への絆が維持されてといえる。こ
自殺志願者公募広告は多くの場合掲示板に
の意味で、ネット・コミュニケーションは
貼られるため、一見第三者のまなざしに曝
利用の仕方では従前には決して出会えなか
されているようにも思われる。しかしその
った人びとを結びつけ、活動を共有させる
まなざしはほとんどが同好者からのものと
「魔法の絆」を提供する新たな時代の社会
想定される。仮に異論が記載されても、対
的コミュニケーション・システムである一
面的コミュニケーションの場であればなん
方、第三のまなざしをシャットアウトしう
らかの返答が期待要求されるものが、ネッ
る秘密結社的コミュニケーションをも可能
ト・コミュニケーションでは単純に無視す
にする。
るだけでよく、あり得たであろう第3者の
前段の現代日本の人間関係の変質を想起
介入的まなざしは実質的に無化されてしま
すれば、ネット・コミュニケーションは肥
う。
大化した自己に社会的絆を提供する有力な
また目前の関心事に特化した“情報の交
媒体であるのだが、その絆は世間にではな
換”だけで仮想の相手とコミュニケーショ
く、広大な「他人」ゾーンの人びととの架
ンしていることで、現在子どもが何人いる
け橋となる。その限りでネット・コミュニ
のか、要介護の老親を抱えているのか、受
ケーションは一定の異質なまなざしとの接
験を目前にしているのか、本当に過労で追
点となりうるが、秘密結社的想念を強く願
いつめられているのかそれともストレス耐
望する人びとには肥大化した自己を相対化
性が低いだけなのか、一番気に入っている
する第三のまなざし効果を期待することは
想い出がなんなのか等々、その人をまさに
難しく、反対に二者間の同好の士を一本釣
その人個人となさしめている各種の要素の
りする広大な釣り堀的機能を果たしてしま
総体が極端に背後に後退してしまう。第三
う点に、これほどにネット集団自殺を広め、
者そのものでなくとも自分のまなざしを相
安直に選択させ得た状況を形作った社会
対化する、自分の中のもうひとつのまなざ
的・技術的背景があるとかんがえるもので
し、すなわち第三のまなざしも希薄化しが
ある。
ちとなる。
第三のまなざしとは異質な意見、相対的
3)第三者による確認
な見方のことである。私たちの通常のコミ
ネット自殺は集団自殺の形をとることが
ュニケーションでは多かれ少なかれこの第
圧倒的に多く、それがメディアや社会の注
三のまなざしに否応なく曝されている。あ
目を引く理由の一つである。自殺者3万人
時代の現在の日本においては、既に個人の
翻ってこうした社会学理論をベースに考
単独自殺は報道の関心を引くには不十分で
えてみると、なぜネット自殺が集団の形を
あるのかとさえ考えさせられる。
取るのかが少し見えてくる。要は自殺への
この集団自殺には時に6人の事例もみら
選択意志を確認してくれる相手と、ならび
れるが、3人の場合が多い。社会学では3
にこの相互意志の成就が途中で腰砕けにな
の数字と集団は密接な関連性を持つものと
らない保証としての第三者を必要とするほ
して理解されている。形式社会学を提唱し
どに、彼らの関係性は電気的信号によって
た G.Simmel はメンバーが3人になって初
つながっているだけの薄弱な絆でしかない。
めて関係性は安定し、したがって集団形成
この点で、これまでの心中自殺とは大いに
の要件も構成員が3人以上であることに着
異なる。自殺への願望はあるのだろうが、
目している11)。その理由は、二者関係で
その意志は堅固でなく、明日になれば心変
はどちらか一方が離脱してしまえば関係そ
わりさえしかねない自分の選択を支持確認
れ自体が消滅してしまう脆弱な関係性にと
して一緒に同行してくれる相手が欲しい、
どまっているが、三者関係になるとそうし
それも同じ様に確信のない自殺願望の相手
た関係性の保持、持続における脆弱性は劇
1人では決行プロセスに支障が生じる畏れ
的に低くなる。加えて単に<3−1=2>
をお互いが十分に察知しているからこそ、
という事実のみならず、<1+1=2+α
個人の心変わりを拘束する舞台設定、すな
>として定式化できる創発特性(emergent
わち3人以上の集団自殺のスタイルをとる
property)がある。社会の社会たるゆえんは、
のであろう。
個別要素に還元しきれない「全体は総和以
要するに、ネット・コミュニケーション
上のもの」というテーゼによって示される。
は一方で第三者のまなざしを欠落させやす
集団や継続的な関係性には、個別要素の還
いのだが、まさにこのこと故に自殺の遂行
元され得ない部分が発生し、この特性があ
にあってあまりにも薄弱な電気信号だけの
るからこそ個人の意志や希望だけで関係が
絆の頼りなさを補うために第三者の確認を
簡単に消滅するものではないのである。こ
必要とする(自殺の集団化)というアイロ
の意味でαは創発特性と呼ばれ、私たち諸
ニカルな状況から「ネット故の集団的な形」
個人を超越して私たちの外部に存在しかつ
をとる自殺形態が生じるのではないだろう
拘束的に作用する性質を持つ。夫婦が気分
か。
の変化で簡単に他人になることは難しく、
掲示板に記入された「やはり一人では寂
それなりの介入や手続きもある。そして上
しいですから」とのメッセージは、自殺願
記のごとく、第三者のまなざしもある。
望の意志の薄弱さとこれをお互いに補うた
E.Durkheim12)はこれこそ社会の本質的な
めの同行者募集広告である。また「心中相
ものと考え、これを社会的事実と呼んだ。
手を捜しています。女性に限ります。方法
は練炭による一酸化炭素中毒です。すべて
もちろん防止策として、たとえばネット活
そろえ終わりました。」とサイト掲示板に記
用規定の見直し議論があっても構わない。
して集合した三人(男1、女2)がアパー
二者間の秘密結社的コミュニケーションに
トの一室で集団自殺した事例でも、第三者
ならないような工夫が必要との提案も、そ
を引き入れたにもかかわらず、それはあく
れが技術的に可能ならば結構なことである。
まで同類者のまなざしであり、決して異質
もちろんこの「技術」にはハードとソフト
相対化のモーメントを有したなまなざしで
が含まれ、その成否は特に信条の自由、通
はなかったはずである。
信の自由など現代社会を成り立たせている
根本的な社会原理と抵触してしまう危険性
5.まとめと示唆
をどうマネージできるかにかかっている。
なぜネットによる募集なのか、なぜ集団
他方予防の観点からは、そうした議論と
自殺の形をとるのか、について社会学的考
は別に、やはりなぜ特に若者が日帰り旅行
察を加えてきた。その結果、ネット集団自
募集のごときメッセージひとつで「簡単に」
殺にはれなりの了解できる背景状況がある
自殺を選択してしまうのか、その心情や人
ことを示せたと考える。ただしかし、それ
間関係観、ストレス耐性・脆弱性問題、フ
はあくまで「ネット集団自殺」という自殺
リーターや neet、ひきこもりを生み出す社
のスタイルを説明したに過ぎない。なぜ若
会経済的状況など、複合的観点から若者も
者が、時に中年者までもが、スタイルはど
夢や希望をもてる社会と健康な心づくりを
うであれ自らの命を絶って自分を終わりに
探ることが肝要と考える。そもそも現在生
したいと感じてしまうのか、一言で言えば
じているネット集団自殺への即効薬もなく、
「生きにくさ」の問題については本論では
地道な社会づくりを目指すしかないとの立
触れていない。この問題はそう簡単に扱え
場である。
るトピックではなくもっと根本的な考察が
必要とされる。また今回の課題の射程範囲
外にあるものである。
文
献
「ネット集団自殺」に関して今回は社会
1) スペクター、M.
・キツセJ.I.
(村
学的視点から検討を加えたものの、今回の
上直之・中河伸俊・鮎川潤・森俊太
作業からの帰結と示唆は、ネット集団自殺
訳)、社会問題の構築―ラベリング理
というスタイルにあまり目を奪われるので
論をこえて―、マルジュ社、1987.
はなく、そもそもなぜ「生きにくさ」と表
2)
宝月誠、社会病理とはなにか、大橋
現されるような上記の問題が若年世代に広
薫・望月嵩・宝月誠編、社会病理学
がっているの
入門、2-12、学文社、1978.
か、を問うべきであろうというものである。
3)
土居健郎、「甘え」の構造、弘文堂、
1971.
4)
5)
清水新二、家族精神保健論序説―現
木村敏、人と人の間―精神病理学的
代家族の私事化・個別化状況をめぐ
日本論―、弘文堂、1972.
って―、精神保健研究、37、137-150、
中根千枝、タテ社会の人間関係―単
1991.
一社会の理論―、講談社新書、1967.
6)
9)
10) Bateson,G., Jackson,D., Haley,J.
浜口恵俊、間人主義の社会日本、東
and Weakland, J., Toward a Theory of
洋経済新報社、1982.
Schizophrenia, Behavioral Science, 1,
7) 井上忠司、「世間体」の構造、日本放
送出版協会、1975.
251-254,1956.
11) ジンメルG.(居安正訳)、社会分化
8) ヴォーゲル、E.F.(広中和歌子訳)、
ジャアパンアズナンバーワン、阪急
コミュニケーションズ、1980.
論、青木書店、1970.
12)
デュルケム、E.(佐々木交賢訳)、
社会学的方法の基準、学文社、1979.
B.セケン
A.ミウチ
C.タニン
図1:
従来の世間体三層構造
ジブン1
ジブン2
セケン
ミウチ
タニン
図2:最近の世間体の構造
Fly UP