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シュメールの心 その11 マリ遺跡から おもいは飛鳥の謎の石像物へ
シュメールの心 その11 マリ遺跡から おもいは飛鳥の謎の石像物へ 栁 幸夫 ◆シリアの<マリ遺跡>へ 例によって略図でマリの位置を→で示す。前回紹介した<エブラ>から東南に向い、イラク国境ま で18キロほど。イラクで見たユーフラテスを5年後に再びシリアの中流域で見ることになる。 ◆マリに行き着く前に<ドゥラ・ユーロポス遺 跡>に立ち寄る。(現在地名はデーレ・ゾール) ◆ <マリ遺跡>(現在地名 テル・ハリーリ) ④テントで覆われたマリ王宮址(ジム・リリム王) 大戸千之著『ヘレニズムとオリエント』(ミネ ルヴァ書房 93 年)では「ドゥラ・エウロポス(ママ) はシリアの東部、エウフラテス河にのぞんだ要 害の地に位置し、とくにパルティア時代、東西 交易の中継基地として繁栄した都市であるが、 もともとは、セレウコス一世の時代に建設され た軍事植民地であった」とされている。従って この遺跡はギリシア・ローマ時代のもので本稿 さて、本稿の主役であるシュメール・アッカ の主題と離れるので写真だけに留めおきたい。 ドに関連する<マリ遺跡>について、私自身は ①ユーフラテス河畔のドゥロ・ユーロポス遺跡 あらたに学び直さなければならない。 マリは西方セム系民族の王国であるとされ る。上の略図を眺めていると、前回紹介したエ ブラとアッカドのほぼ中間に位置するから、当 然メソポタミアとシリアを結ぶ交易などで栄 えた都市であったであろうくらいは私でも想 像はつく。 前川和也氏は「前三千年紀の中ごろから後半 ②ドゥロ・ユーロポスのパルミラ門 ③周壁 にかけて、南部メソポタミアでシュメール人の 都市国家がたがいに覇を争っていたころ、マリ もまた繁栄していた。シュメール王朝表にもマ リ王朝についての記述がある。またラガシュ王 エアンナトゥムも、来襲したマリ軍と戦ってい た。一方マリでは、ウル第一王朝の支配者の碑 文も発見されている。このころ、北シリアの都 市エブラは支配領域を拡大して、マリと衝突を (『世界の歴史1「人類の起源と古代オリエント」 前川和也論文』 中央公論社 1998年) くりかえしていた。エブラ文書庫(前回紹介) で、マリ王エンナ・ダガンがエブラの支配者に ⑤ジムリ・リム王宮殿址内に入る通廊 あてた手紙がみつかっているが、これには彼の 父祖たちがいかにエブラの攻撃から領土を守 ってきたかが詳しく述べられている。・・・ウ ル第三王朝時代には、マリはウルに臣従してい た。マリ王は彼の娘をウル王家(シュルギ王?) へ嫁がせている。マリがもっとも繁栄したのは 前二千年紀前半であるが、ジムリ・リム王のと き、バビロンのハムラビによってマリは征服さ れてしまう(前1762年)。マリの歴史が終 ジムリ・リム王宮殿址は、現在の地表から4 わった。ジムリ・リムが住んだ壮大な王宮は、 mも掘り下げた処にある。壁の煉瓦はすっかり この地でシリア文化とメソポタミア文化が幸 風化してしまっている。通路は細かく仕切られ 福に融合したことの証拠である」。↑ 外敵の侵入を困難にするよう造られている。 ⑥ジムリ・リム王宮殿復元図(NEWTON アーキオ「メソポタミア」98 年)より ◆ジムリ・リ ム王はマリ 最後の王朝 である。左図 に見るよう に、複雑な通 路を通って 最初の広い 中庭に出る。 玉座の間に 行くには、警 備の厳しい 通路を通り、 豪華な壁画 が飾ってあ った内側の 中庭を通り 過ぎていか ねばならな い。王家の住いはさらに離れた奥の場所にあり、複雑な構造の部屋になっていた。 300以上の部屋や庭が在ったというが、煉瓦が泥状に劣化荒廃していて何が何だかわからない。 ⑦マリ王宮 玉座の間 ◆マリ遺跡からは興味ひかれるものが多く出 土している。主なものをあげてみよう。 ⑩マリ王イシュトゥフ・イルム像 閃緑岩製で高さ 150.5cm。前 2 千年紀前半。 ジムリ・リム王宮の玉座近く で発見された。 手を組み、足をそろえて左右 対称の構成から力強さが感じ ⑧壁画が在った部屋 壁画が剥ぎ取られた跡 ふさかざ られる。縁に総飾りのついた長 衣を左肩からまとい、右肩をあ わにしているのは、古代セム人 の風習だといわれる。 ⑩次ページの遺物⑪と⑫が出土した中庭 ⑨犠牲の雄牛を連れて行く列(前18cの壁画) ⑪獅子頭をもつ鷲の小像 ⑫女神立像 ◆マリの発掘は1933年より、アンドレ・パ ロを隊長とするフランス隊によって開始され ⑪は89年福岡市でも開催された「古代シリ た。もっとも重要な成果は、年代が前18世紀 ア文明展」にも展示された有名な小像である。 前半に当たる王室文書の発見であった。この文 獅子の頭部と尾は金の薄板で作られ、翼の部分 書の発見で、シリアに関する情報が一挙に増大 はラピスラズリの平板が用いられている。図録 した。さらに、エブラ文書の発見と解読によっ の解説では「シュメールのグデア神殿賛歌など てマリ王国の解明がすすみつつあるのだろう。 にしばしば登場するニンギルス神の使者であ る怪鳥アンズーを象ったものと考えられてお でなく、手にする壷の底から孔を台座までうが り、このモチーフは初期王朝期の他の遺物にも って、実際に水を噴出させる仕掛けを備えてい しばしば登場する」という。(前2500年頃) る・・・ ⑫は同じく「全体は銅製であるが、頭部にエ 神事に際して水を噴出させたと考えられるこ レクトラム製の環をつけている。また瞳はラピ とから、聖堂の内室に安置されたと推測されて スラズリの小片で作られ、そのまわりに白色の いる」(NHK『古代シリア文明展』図録88年) 材料が埋め込まれる。手の中には銅線の痕跡が みられ、何かを掲げていたものと推定される。 ◆このような噴水施設から私のおもいは飛躍 頭環の上には短い牛の角が2本表現されてい する。2008年、北九州の小倉にある松本清 て、この立像が女神を表現したものであること 張記念館を訪れた。記念館に入ると清張さんの を示す」 (『古代シリア文明展』図録解説)。 700冊もの全著作が天井に届く高さまでカ ラフルに紹介してある。そして、清張さんの数 ⑬奉納石像(神殿址出土 高さ115cm) ある傑作の中に「火の路」 (原題「火の回路」) マリの様々な神殿址から多数の石像が発見さ という古代史の推理小説がある。 (73年から7 れている。このような像を神殿に奉納すること 4年の朝日連載小説)これはNHKドラマにもな によって礼拝者が常に神に礼拝していること り、あの栗原小巻さんが知的な魅力溢れるヒロ を意味したものと考えられている。この石像は インを演じ、古代史ファンの中にもコマキスト その典型的なタイプといわれている。 がさらに増えたものである。 「イク・シャマガン像 目や眉の部 分には貝、アスフアルトをつめ、 「火の路」の中で、奈良県飛鳥の謎の石像物 し ゅ み せ ん 長い髯をたくわえてセム系びと のひとつである「須弥山石」が登場する。私は の特色を示している。 79年9月、筑紫古代文化研究会の研修旅行で 腰につけたカウナケス(ふさのつ 飛鳥の謎の石像物を多く見た。84年4月、再 いた六段襞の衣服)は古拙な感じ び独りレンタル自転車で亀石や酒船石、益田岩 をさそうが、南メソポタミアのシ 船などを見て廻った。私は、猿石や二面石はい ュメール人の間で流行していた。 わゆる胡人の顔だなと直感していた。胡人とは アラバスター製」 ( 『世界の博物館 ペルシャ人やソグド人のことでゾロアスター 18 教を国教としていた。 シリア国立博物館』講談社 1979 年刊より 下図⑭も) ⑭泉の女神像(ジムリ・リム宮殿出土高さ 142cm) し ゅ み せ ん ⑮須弥山石(山形石)⑯石人像(二面石・道祖神?) 「頭に牛角飾の冠をいただいて おり、初期農耕集落址からしばし ば出土する地母神の伝統をくむ 神像であることがわかる。水の豊 かさを象徴する壺をいだき、農業 をつかさどる女神の像である。 「衣服裾部に平行して刻まれた 曲線は水の流出を示して、そこに 遡行する魚の姿をそえている。豊 穣の水はこうした刻線文様だけ ⑮の「須弥山石」は奈良県明日香村石神の田か ら発掘された。三段に積み上げた円錐状の装飾 子がそれよりも千年前の七世紀に飛鳥の地に 石で、上・中段に山の文様、下段に水波文が浮 「先取り」していた、とまで述べられていた。 彫で描かれている。下段の石は臼状に彫りこま れ、底からは外側に貫通する小さな孔があいて 下の写真は2005年3月に私が撮影した いる。つまり、中が中空になっていて外側に穴 そのチェヘル・ソトーン宮殿(四十柱宮殿)の を開けている。いわゆるサイフォンの原理で高 噴水施設である。 い処から水を送ってくると水圧で穴から噴水 ⑰四十柱宮殿噴水の池 (イラン・イスファハン) するという仕掛けである。須弥山は古代インド の世界観の中で中心にそびえる聖山として、バ ラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教に 共通している。『日本書紀』の斉明朝時代にこ れが作られた記事がいくつか出てくる。「須弥 山石」の石はもう一つあって、上から三つ目の 石がなくなっているという説もある。 ⑯の石人像は本来は口元に杯があって足の 裏から口まで細い孔が貫いており、 「須弥山石」 と同じく噴水施設であるとされている。 当初清張さんの小説「火の路」では「山形石 ⑱噴水するライオン像 (須弥山石)は斉明紀の「須弥山」とは関係な いもの」で、「斉明天皇が造営を試みて中止と ふたつきのみや ふたつきのみや なった「両槻宮」の付属物であろう」 「両槻宮」 け ん きょう の「天宮」を祆 教 ないし中央アジア的ゾロアス ター教の拝火壇・拝火神殿と想定すれば、これ らの付属石像物もその宗教に属するものと考 えなければならぬ」とされていた。 79年に清張さんは『ペルセポリスから飛鳥 へ』の中で、「須弥山石」を含む飛鳥の数々の ふたつきのみや そ が の う ま こ 石像物は、「両槻宮」ではなく、蘇我馬子が自 え み し 「四十柱宮」の名は、宮殿の二十柱が水面に 分の邸宅に造らせ、子の蝦夷がそれを継承した 映って二倍の四十柱になるからだ。柱のライオ と、訂正された。 ン像の口から噴水する仕掛けになっていた。 その考察の章で、「噴水施設のある石造物と 「西アジアにも見当たらないと思うが」とい いうのは、中国にも朝鮮にもない。日本の飛鳥 う清張さんの研究はその後どこまですすめら だけである。西アジアにも見当たらないと思う れたのだろう?『ペルセポリスから飛鳥へ』の が、しかし、噴水の発想は、水を憧憬する砂漠 中で、日本の飛鳥時代にイラン人が渡来して彼 地に住む民族のものであり、須弥山石と石人男 らの宗教(ゾロアスター教)の遺産を残してい 女像の噴水施設は渡来のイラン人が考えだし ったとする仮説は私には魅力的である。しかし たものであろう」とされた。そして、イランの 多くの疑問も出されている。(※北九州市立松 イスファハンにある17世紀のチェヘル・ソト 本清張記念館『松本清張研究』第六号05年発 ーン宮殿の噴水装置のことに言及され、蘇我馬 行に学者たちが見解を披露している)(続く)