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ハーストハウス「徳の理論と人工妊娠中絶」

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ハーストハウス「徳の理論と人工妊娠中絶」
ハーストハウス「徳の理論と人工妊娠中絶」
(Rosalind Hursthouse, "Virtue Theory and Abortion", Philosophy and Public Affairs
20(1991), pp. 223-46.)
中澤 務
この論文は、徳倫理学の実践的応用の可能性を問うハーストハウスの野心作である*。
論文は二つの部分からなる。前半部では、徳の理論の理論的特徴づけがなされた後、徳
の理論に対する種々の批判が取り上られ、考察される。後半部では、前半部の考察を踏
まえて、徳の理論が実践的な問題においてどのように機能するかということが、人工妊
娠中絶の問題を題材にして考察される。
*私の知る限り、この論文以前には、応用倫理学の問題を徳の倫理の枠組みで考えようとする試み
は、フットの古典的論文 (P. Foot, "Euthanasia", in Virtue and Vices, 1978, pp. 33-61) を除けばほとん
ど見当たらない。その意味で、この論文は、最近盛んになりつつある生命倫理における徳倫理学
的アプローチの先駆けをなすエポックメイキングな論文といえよう。
(なお、A Companion to Bioethics, H. Kouse & P. Singer (eds.), 1998, p.92. に簡単な論評がある。
)
1. 徳の理論
徳の理論は、義務論や功利主義と対比させたとき、どのような特徴を持つであろうか。
義務論は正しい行為の基準を道徳的規則に求め、その規則が成立する根拠を(あるバー
ジョンでは)理性に求める。これに対して(行為)功利主義は、正しい行為の基準を最
善の結果に求め、それを幸福の最大化として規定する。これらに対して徳の理論では、正
しい行為の基準は「有徳な行為者」に求められる。すなわち、正しい行為とは有徳な行
為者であれば行うであろうような行為である。このとき「有徳な行為者」の基準は、徳
の所有である。そして徳は、
「人間が開花し(flourish)、よく生きるために必要とする性格」
として規定される。
ハーストハウスはまず、こうした徳の理論に向けられる批判を取り上げる。彼女によ
れば、それらの大部分は単純な誤解に基づいていたり、他の道徳理論にも共通する難点
であったりする。まず、単純な誤解に基づく批判(五つ)に関して次のようにコメント
する。
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(1)この理論は「エウダイモニア (eudaimonia)」
〔一般に "happiness"(幸福)と訳される
が、徳倫理学の文脈では "flourishing"(繁栄・開花)と訳されることが多い〕という曖昧
な概念に依存していると批判される。確かに、人間の開花という概念は容易に把握しう
るものではない。しかし、同様の困難は義務論や功利主義の中心的概念である「合理性」
や「幸福」の概念についても伴うものであり、こうした困難が義務論や功利主義では存
在しないわけではない。
(2)この理論は循環的であり、正しい行為を有徳な行為者によって規定し、逆に有徳な
行為者を正しい行為によって規定していると批判されるが、そうではない。それは、有
徳な行為者を徳によって規定し、それを、単に正しい行為への性向としてではなく、エ
ウダイモニアを獲得するために要求される性格(それは特定の仕方で行為する性向であ
るとともに、感じ反応する性向である)として規定する。
(3)この理論は、
「私はいかなる種類の人間であるべきか」という存在を巡る問いだけで
なく、「私は何を為すべきか」という行為を巡る問いにも答えている。
(4)この理論は規則や原理を見出すことができないと批判されるが、実際には、何を為
すべきかという問いに対し、規則や原理を見出すことによって答えることができる。
(5)徳の理論は、我々の全ての道徳的概念を有徳な行為者という概念によって定義する
ような還元主義にはコミットしていない。逆に、それは沢山の重要な道徳的概念に依存
している。たとえば慈悲心 (charity) と仁愛 (benevolence) は他人の「善」に関係する徳で
あるが、
「善」の概念は「邪悪」や「有害性」の概念と関係し、またこれらは「価値ある」
や「有利な」や「快い」といった概念と関係している。
次に、ハーストハウスは、徳の理論に対する二つの標準的批判を検討する。一つは、
我々は徳に関して何ら明瞭な知識を持たないので、徳の理論は道徳的懐疑主義や多元主
義や文化相対主義の脅威にさらされやすいという批判、もう一つは、徳の倫理は、様々
な徳の要求が互いに衝突するとき、
正しい答えに至るすべを持たないという批判である。
これらの批判には一理あるが、
それらが提起する問題は徳の理論に固有のものではなく、
義務論や功利主義にも共通する問題である。
最後に、ハーストハウスは、徳の理論に対する主要な批判と彼女が考えるものを取り
上げる。それによれば、徳の理論は、徳と悪徳を巡る諸概念や、これに関係する、善や
価値を巡る諸概念に依存しているが、この依存によって、徳の理論は真正の道徳的問題
において行為を導く指針を与えることができなくなってしまう。なぜなら、こうした概
念は単に同意され受け入れられるだけのものであるがゆえに、真であるとは確定できず、
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またそれゆえに、
別の概念を前提に同じ問題に対して別の解答を与える者が現れたとき、
どちらの答えが真であるかを確定することができないのであるから。
こうした批判が生まれてくる背景には、行為の指針となる十分な理論は、何を為すべ
きかについての知識を持ち、全ての人に対して明確な指針を与えることができなければ
ならないという、普遍主義的考え方がある。だが、この条件は信じがたいものである。正
しく行為するためには道徳的知恵が必要であるが、それを獲得するのは困難であり、ま
た、それはアリストテレスの言うように、十分な経験を積まなければ獲得できないよう
な種類の知恵なのである。
また、何が価値あることなのかなどの、価値を巡る諸概念についても同様のことが言
える。批判者は、よい規範理論が真の道徳的問題に対して答えを与えるとき、その答え
は、人間の生において何が善いのか、何が価値あるのかなどについての真理によって決
定されてはならないと考えているように思われる。だが我々は、そうした問題に対する
知を持たない者から、真の道徳的問題に対する指針を得ようとするだろうか?
以上の考察を踏まえ、次にハーストハウスは、具体的な道徳的問題の場面で徳の理論
がどのように機能するのかを、人工妊娠中絶の問題を題材に説明する。
2. 人工妊娠中絶
人工妊娠中絶の道徳性は、
(1)胎児の地位を巡る問題と、
(2)女性の権利を巡る問題という、
二つの側面から考察されてきた。徳の理論はこの枠組みそのものを根本的に不適切なも
のとして却下することにより、人工妊娠中絶を巡る議論を変容させようとする。
まず女性の権利について、ハーストハウスは次のように説明する。仮に女性が中絶を
する道徳的権利を持っていると仮定しても、徳の理論に従えば、この仮定からは人工妊
娠中絶の道徳性に関して何ごとも帰結しない。道徳的権利を行使する際に、私は何か残
酷なこと、あるいは冷淡なこと、あるいは利己的なこと等々をする、すなわち一言でい
えば、邪悪に(viciously)行為しうるからである。常に権利を主張していれば愛も友情も消
えてしまうし、自分が権利を持つものを手に入れることが何にもまして重要であると考
えるとき、ひとは善く生きることはできない。それゆえ、女性が妊娠を中断する道徳的
権利を持つか否かという問いは、徳の理論の中では不適切である。徳の理論で問題にさ
れるのは、
「しかじかの状況において中絶をすることによって、行為者は有徳に行為して
いるか、あるいは邪悪に行為しているか、それともいずれでもないか?」という問いな
のである。
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では、胎児の地位についてはどうだろうか。この問いは形而上学的な問いであり、し
かも、一見すると徳の理論は、何が正しいことなのかについての知識を獲得するために
形而上学に依存しなければならないように見えるので、有徳な人物は胎児の地位を知っ
ていなければならないようにみえる。だが、有徳であるために必要とされる知恵はその
ような哲学的な知ではない。徳の理論においては、胎児の地位の問題は、人工妊娠中絶
の正不正の問題とは端的に無関係である。もちろん、馴染深い生物学的事実−生殖や胎
児の成長にかかわる常識的な諸事実−にであれば関係しているが、ここで問題となる胎
児の地位は、そうした馴染み深い事実を越えたもの−たとえば胎児は権利を持つかとか、
人格であるかといったこと−である。
胎児の地位を確定しなければならないという確信は、人工妊娠中絶の問題を何らかの
一般的規則、たとえば「生きる権利を持った何ものも殺してはならないが、それ以外の
ものであれば殺してもよい」といった規則によって解決しようとする欲求に根差してい
る。だが、その結果、人工妊娠中絶を巡る現在の哲学的文献は、人間の生殖や家族生活
の現実とかけ離れ、道徳的問題を取り扱っているとは言い難いものになってしまった。
徳の理論においてまず問うべきは、
「馴染み深い生物学的諸事実から、胎児の地位につ
いて何が導きだされるか」という問いではなく、
「それらの事実が、有徳な者と有徳でな
い者の実践的推論、行為と情念、思考と反応 (reactions) においてどのように影響するか、
それらの事実に対して正しい態度を持つことの徴は何か、また間違った態度を持つこと
を示すのは何か」という問いである。この問いは、単に人間の生殖に関わる全ての諸事
実だけでなく、それらに関係する我々の感情についての諸事実全体、すなわち人間の両
親がその子どもを熱心にケアしようとする傾向にあること、家族関係は我々の人生にお
ける最も深くて強くまた最も永続的な関係の一つであること、などの事実に本質的に関
係している。
こうした事実から明らかになるのは、
妊娠が他の様々な生理的状態とは異なっており、
それゆえ、人工妊娠中絶はヘアカットや虫垂切除と同じ様なものだと考えるのは間違っ
ているということである。妊娠を早期に中断することは、ある意味で新しい人間の生命
を切断することであり、このことを通して、人間の生、死、親であること、そして家族
関係についての我々の思考と結び付いている。この事実を無視し、人工妊娠中絶を重要
でない何ものかを殺すことにすぎないとか、権利の行使にすぎないとか、何らかの望ま
しい状態に至るための付帯的方法にすぎないなどと見なすことは、何か冷淡で軽率なこ
と、有徳で賢慮を持った人物であれば行わないような種類のことなのである。それは、胎
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児に対して誤った態度を取るだけでなく、もっと一般に人間の生と死、親であること、そ
して家族関係に対して誤った態度を取っているのである。これが正しいことは、自然な
中絶すなわち流産の場合には、それをヘアカットや虫垂切除に準えることはできないと
いうことを見ればわかる。流産における嘆きは、虫垂切除の傷や失敗したヘアカットへ
の嘆きとは異なる。この違いは、行為中心的な理論では説明できない。なぜなら、違い
は、生命を失うことの深刻さを巡る態度に存するのであって、どの行為が正しくどの行
為は誤っているかについての信念には存しないからである。
もちろん、妊娠が他の多くの生理的状態とは異なるからといって、この事実に背く振
舞いをすれば悪徳であるということにはならない。たとえば、女性が身体的にとても貧
しい健康状態にあったり、子育てで消耗していたり、あるいは身体的にダメージを与え
るような仕事を強いられているようなときには、彼女が中絶を選択したとしても、それ
は冷淡とも、無責任とも、軽率とも記述されない。このようなときには、彼女達の生の
諸条件の中に何か大きな誤りがあり、それが、妊娠や子育てを良いものと見なせなくし
ている。
権利を持ち出すことは、人間にとっての善い生とは何かという問いを封じてしまう効
果を持つ。だが、徳の理論は、何が人間の善き生を構成するか、真の幸福とは何かとい
うことに関係する。人工妊娠中絶の文脈において、人間の善き生について語ろうとする
なら、我々は愛と家族生活の価値について考えなければならない。馴染み深い事実は、親
であることや母親であること、
そしてとりわけ子育てが内在的に価値あるものであり、
開
花した人間の生活を構成する部分になると考えられるものの一つであるということを示
す。これが正しければ、人工妊娠中絶を選択することによって母親にならないことを選
択する女性は、そのことによって、自分の生がどのようなものであるべきかについての
間違った把握をあらわにしているのである。
3. 結論
人工妊娠中絶を巡る具体的な考察は、徳の理論の重要な特質がどこにあるかを示して
いる。徳の理論は、具体的問題に答えを与えるために、有徳な人間であればどのように
振舞うかを問題にする必要はない。大部分の議論は徳と悪徳に関係する用語によって行
われ、その適用が実践的結論を与えている。こうした徳と悪徳に関係する用語によって、
議論は不可避的に、我々の人生において何が価値ある重要な善であるのかについての主
張を含むことになる。
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確かに、2.でなされた具体的議論における個々の主張は議論の余地があろう。しかし
重要なことは、道徳的問題を解決するためには、議論の中でこうした事柄を問題にしな
ければならず、徳の理論は、そうした議論において必要とされる理論だということなの
である。
〈コメント〉
人工妊娠中絶に対するハーストハウスの態度は、一見して明らかなように、伝統を重
視する保守的な立場に近いものである。一般に、こうした保守主義的傾向は、徳の倫理
が持つ不可避的な性格と見なされることが多い。しかし、私はそうではなく、むしろ、徳
の倫理を構築する際に取られがちな或る理論的戦略が保守主義と結び付くのであり、そ
れはハーストハウスの説明の中に明瞭に現れていると考える。すなわちそれは、徳より
もむしろエウダイモニアの概念を理論の根幹に据えるという戦略である。最初に提示さ
れる徳の理論の定式化から明らかなように、ハーストハウスの理論の中では、徳はそれ
自体で独立的な性質ではない。それはエウダイモニアに至るために必要とされる性質な
のであり、その内実はエウダイモニアの内容によって規定されるのである。この点で彼
女は「徳の道具説」の立場に立っているといえるだろう。
こうした戦略を彼女が取ることには、おそらく理由がある。すなわち、彼女は徳の理
論は循環的だという批判を回避しようとしているのである。だが、これによって、有徳
な人間は伝統の僕となってしまう。というのも、
「よく生きること」の内容を徳の発揮そ
のものに求めることができない以上、我々はそれを、伝統的価値の中に求めざるをえな
いからである。そして、このことは同時に、徳そのものの重要性を相対的に弱めてしま
う効果を持つように思われる(この点も彼女の議論から読み取ることができよう)。
我々は、徳そのものを根底に据えた徳の理論を構想するべきであろう。そして、循環
を解消しようとするのではなく、
それが持つ意味を捉え直す作業を行うべきであろう。
そ
のとき、徳の理論の実践的適用のあり方は、ハーストハウスの考えるものとは異なった
ものになりうるのではないだろうか。
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