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瀟紅「生死の場」(下) 中 里 見 敬 訳 - Kyushu University Library

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瀟紅「生死の場」(下) 中 里 見 敬 訳 - Kyushu University Library
瀟紅「生死の場」(下)
中 里 見 敬 訳
七、罪悪の端午節
五月の端午になり、たてつづけに二つの事件が発生した。響町が毒を飲み、国辱の子がむごい
死にかたをした。
弓張り月が鎌のように、林の先端に突き刺さった。至藝は髪の毛をふりみだして、家の裏の薪
置き場に行き、垣根の戸をそっと開けた。薪置き場の外は真っ暗に静まりかえっていて、そよ風
もこの黒色の夜のカンバスを邪魔することはできない。キュウリのつるが棚をはい上った! ト
ウモロコシの勇ましい葉がザワザワと音をたてる。カエルは鳴かず、虫の声もしない。
古弊は髪をふりみだして、幽霊のように薪の上にひざまずくと、手のコップを口元へもってき
ワンポへ
た。すべてのことが心の中にわきあがり、すべてが彼女をいざなった。王婆はうつ伏せにわらの
山に倒れこむと、こみあげる悲しみに大声をあげて泣き出した。
書画が寝床から起きあがった。彼は事情がはっきりわからずに、むかっ腹をたてて、薪置き場
の至藝のところにやって来た。
「どうした? 気でも狂ったのか?」
気がふさいで、薪置き場に身を投げかけて泣いているのだろう、と彼は思っていた。
歪縫がわらの中でコップをけとばした。その瞬間にすべての思考が停止した。彼は急いで家に
もどり、灯りの下で、コップの底にドロドロした黒い液体があるのを発見した。まず手につけて
みて、それから舌先でなめてみた。苦い味がした。
「掌骨が毒を飲んだぞ!」
翌朝、村はこのニュースで大騒ぎになった。村人が次々に悲痛な面持ちで見舞いにやって来た。
二黒は家にいなかった。彼は駆けだすと、無縁墓地でかみさんのための場所を見つけようとし
ていた。
アルり パン
無縁墓地では、生者が死者のために穴を掘っていた。穴が深くなると、まず二里半が飛びおり
た。下層の湿った土が、穴の横に掘りだされ、穴はますます深く、大きくなった! 何人もが飛
びおりて、シャベルが休みなく掘りつづけた。穴は人の腰より深くなった。外に積まれた土の山
は人の頭を越えた。
墓場は死の城郭だ。花の香りもなく、虫の鳴き声もない。たとえ花があり、虫がいたとしても、
それは別離の歌を奏で、死者の言い尽くせぬ永遠の寂しさにお供をしているのだ。
無縁墓地は、地主が貧しい農民たちの死後の住まいとして喜捨したものである。しかし、生き
ている農民は、いつも地主たちに追い立てられるのだ。彼らはふろしき包みをさげ、子供を連れ
て、ぼろ家からもっとおんぼろの家へと追いやられる。ときには馬小屋を借りて住まいとするこ
ともあった。子供たちは馬小屋で母さんを泣いて困らせた。
一167一
勢望が城内へ行くと、突然の出来事が彼をおそい、彼はすっかり往生した! 笥薫詩から城内
へ野菜売りに来た車に出会うと、その車を駆る人がぶつぶつ言っていた。
「野菜は値下がりして、紙幣は紙くず同然だ。穀物も値がつかねえ。」
その車夫はむちを打ちながら言った。
「高いのは布と塩だけさ。そのうち一家全員、塩もなめられなくなるぞ!小作料は上がるし、
百姓にどうやって暮らしていけっていうんだ?」
殖1雪は車に飛び乗ると、うなだれたまま車のうしろのながえに座った。くたびれた両足がダラ
リとたれて、揺れている。車輪がわだちでガタンガタンと音をたてた。
城内の大通りは人であふれかえっていた! 市場は大変な混乱だった。肉屋をかこんで、人々
はけんかのような騒ぎだ。大忙しの売り子の手から、色とりどりの瓢箪が宙を飛ぶように売れて
いく。彼らは「端午の節句」のために狂っていた。
二野は何も目に入らなかった。まるで通りに人が誰もいなくなったようだ! まるで街が空っ
ぽになったようだ。だが、一人の子供がうしろにくっついてきた。
「端午節だよ、お子さんに、ひとつ買ってお帰り!」
雛ノはそのことばが耳に入らない。瓢箪売りの子は、まるで自分が子供ではなく、大人になっ
たようだった。彼はまだついてくる。
「端午節だよ、お子さんにひとつ買ってお帰り!」
柳の枝にくくりつけられた色とりどりの瓢箪が、まるでひもで結びつけられた蝶のように、
楚雪のあとを追っかけてきた。
棺桶屋の入り口に、赤いのやら白いのやら、棺桶がいくつもならべてある。野州はそこで立ち
止まった。子供も追いかけるのをやめた。
すべての準備が整った! 棺桶が門の前に置かれ、穴掘りのシャベルは掘るのをやめた!
ワンボ 死者に最後の日の光を見せるため、窓が開けられた。三婆は胸もとが起伏して、まだかすかに
呼吸している。明るい光線が彼女のきなりの装いを照らしていた。至萎はすでに黒い綿入れズボ
ンと薄い色をしたひとえの短い上着を着せられていた。顔が紫色をしていること以外、死に臨ん
で、彼女に何も変わった様子はなかった。人々が大声で言った。
「さあ、かつげ! かつぎあげろ!」
彼女はまだかすかに息があり、口からわずかに白いあわを出していたが、そのときはもうかつ
ピンアル
がれていた。外で平児があわてて叫んだ。
「驚千や鎖が来たよ! 鴇ンチや鎖!」
母と娘の再会はあまりにもおそすぎた! この母と娘はもう二度と永遠に会えないのだ! 娘
は手に小さなふろしき包みをもち、そろそろとお母さんの前へ歩みよった。彼女はまじまじと見
つめた。顔がお母さんの顔とぶつかりそうになったとき、甲高い張り裂けるような鳴子があがっ
た。小さなふろしき包みが地面に転がり落ちた。
周囲の人は、つらくて目と鼻をうるませた。この小娘によって呼び起こされた忍びがたきつら
さをこらえて、泣かずにおれる者がいようか? 関係のない人もこの娘といっしょになって彼女
の母の死を実した。
一168一
なかでも最近旦那を亡くした寡婦が、最も激しく、最も哀切に泣いていた。その女はまるで自
分の旦那の死を実しているかのようで、すっかり自分の旦那の墓の前に座りこんでいるのだと錯
覚していた。
男たちが大声で叫んだ。「かつぎあげろ! さあ、かつぐそ。泣くのはそれからだ!」
あの小娘はここは自分の家ではないと感じた。身近に一人の親戚もいなかった。彼女は泣くの
をやめた。
毒を飲んだ母親の目はずっと見開いたままだった。だが、彼女には娘の来たことがわかってい
なかった。何もわからなくなっていた! 厨房の台の上までかつがれて一休みすると、口から白
いあわを吐いた。みぞおちはまだかすかに動いていた。
廼1望はオンドルに座り、キセルに火をつけた。女たちは白布を見つけて娘の頭に巻いてやり、
ビンアル
平瓦は白帯を腰にくくりつけた。
廼崔ノが部屋にいない問に、女たちはその娘に尋ねはじめた。
「あんたの駕という姓の父ちゃんはいつ死んだんだい?」
「死んで二年以上になります。」
「あんたの本当の父ちゃんは?」
「ずっと前に四二策へ帰ったんです!」
「どうしてあんたたちを連れて帰らなかったのかい?」
「あの人は母ちゃんを打つから、母ちゃんが兄さんと私を連れて、二三寂のところへ身を寄せ
たんです。」
女たちは二二の過去の生活を聞きだし、至葵のことで心を動かされた。あの寡婦が言った。
「あんたの兄さんはどうして来ないの? 家に帰って兄さんを連れてきて、母ちゃんに会わせ
なさいよ!」
頭を白布で包んだ娘は、壁のほうに向きなおった。小さな頬にまた涙がつたった!娘は唇を
かみしめようとしたが、その小さな唇はわなわなと開き、とうとう口を開けて泣き出した!女
たちにやさしくされていくらか大胆になった娘は、母ちゃんのそばに行くと、冷たくなった手を
しかと握り、手で母ちゃんの唇のあわをふいてやった。母親が驚かないようにこっそりと、もっ
てきたふろしき包みを足の下で踏みつけた。女たちがまた言った。
「家から兄さんを連れてきて、母ちゃんに会わせなさいよ!」
兄さんのことを言われて、娘は泣き出しそうになったが、なんとかこらえた。あの寡婦がまた
尋ねた。
「あんたの兄さんは家にいないの?」
娘はとうとう頭の白布で顔をおおって号泣しだした。泣いた勢いで、ようやく兄さんのことを
話しはじめた。
「兄さんはおととい死んだんです。お役人につかまって銃殺されたんです。」
頭に巻いた布が頭からずり落ちた。身寄りのない子はひきつけを起こしたように、顔を母親の
胸にすがりつけて泣いた。
「母ちゃん。……母ちゃん……」
一169一
娘はほかに何も言えなかった。まだ子供なのだ!
女たちが互いに言いあっていた。「兄さんはいったいいつ死んだんだろう? どうして誰も聞い
てないんだろう……」
麗ノのキセルが戸口にあらわれた。女たちが欝欝の息子についてあれこれ言っているのを、彼
・ははっきりと耳にした。鍵ノはその若者が「ホンフーツ富盛子」6だということを知っていた。どうして死
んだかといえば至萎が毒を飲んだのは、息子が銃殺されたと聞いたから、自殺しようとしたの
ではないのか? そのことは鍵だけが知っていた。彼はかみさんの自殺が匪賊の事件と関係あ
るということを、他人に知られたくなかった。匪賊になるなんてどんなことがあっても不名誉な
ことだと彼は思っていた。
キセルをふりあげると、彼のうつろなこわばった声が響いた。娘はキセルでせきたてられた。
「さあ帰った、帰った! もう死んだんだ! 何も見るものはねえ。さっさと自分の家さ帰
れ!」
小娘は父ちゃんに捨てられ、兄さんも銃殺されて、母さんといっしょに暮らすためにふろしき
包みをかかえて来たのに、その母さんさえも死んでしまった。母さんがいなくなったいま、この
娘にいったい誰と生きていけというのか?
娘は呆然としてふろしき包みも置いたまま、白布だけを巻いて、母の家をあとにした。母の家
をあとにすることは、まるで自分の心を置き去りにして、どこか遠くへ行ってしまうようなもの
だ。
誕ノは年をとっていたので、心の中であの若者を裁いていた。
「金があれば、女といっしょになるのもいいだろう。金もなくてどうやっていっしょになる?
そんなの見たことがねえ。端午節を迎え、っけを払わねばならなくなると7、あばずれ女はその日
を越すことができずに、男にかっぱらいをさせる。若い者はそうやって命を落とすんだ。」
命の尽きようとしている自分のかみさんを見たとき、鍵ノはあの銃殺された若者をひどく恨め
しく思った。だが去年の冬、至藝が古い洋式鉄砲を借りてきたことを思い出すと、今度はあの若
者をたいしたやつだと思った。
フ ツ
「長いこと詣子をやっていたんだ! 人に辱めを受けることはねえ!」
女たちが薪をくべ、鍋からだんだんと湯気が上がってきた。避ノはキセルをひねりながら、行
ったり来たりしていた。しばらくして彼が窒萎を見ると、ほんのかすかに息をしており、まだ息
絶えていなかった。彼はまるで至藝の死を待ちきれないかのようだった。待ちくたびれると、壁
ホンフ ツ
6 「紅伊野」のような自衛型の民間武装結社に対して、土匪のことを俗に「紅引子」(赤ひげ)と呼
んでいた。富江r近代中国の革命と秘密結社:中国革命の社会史的研究(1895∼1955)』(東京:汲古書
院,2007)は、「紅槍会は地縁関係と民間信仰を紐帯に結成された民間の武装結社の通称である。その
本来の目的は外部のr兵匪』(元兵士からなる土匪)の侵入から郷村社会を守ることにあると見られる。
紅槍会と敵対的な存在である土匪は、主に失業農民、浮浪者など『流眠無産階級』=ルンペン・プロ
レタリアートと呼ばれる階層を中心とした武装集団であり、その内部は基本的には義兄弟の原理に基
づいて構成される」(p.224)という。ただし、両者の関係および共産党との関係は単純ではない。とく
に、孫江著の第六、七章を参照。
7中国では旧時、一年に三回、端午節・中秋節・大晦日に借金を清算していた。
ホンチァンホイ
一170一
によりかかって居眠りを始めた。
長時間の死の恐怖が、人々に恐怖を感じさせなくなった! 人々は集まって食事をし、酒を飲
んだ。そのとき至葵が深で声をあげた。見ると、紫の顔がうす紫に変わっていた。人々はコップ
を置き、生き返るんでねえか、と言った。
だがそうではなかった。突然、口角からどす黒い血が流れ出て、しかも唇がやや動いたかと思
うと、ついに大きなうめき声をあげた。人々は目を見張って、もうすぐ臨終だぞ、と言った。
多くの視線が取り囲む中で、彼女は起きあがろうとして動いた! 人々はあわてふためいた!
女は外へ逃げ出した!男は水をかつぐ天秤棒をとりに駆けだした。死体に霊魂が帰ってきたぞ、
という声がした。
酒の入った鍵は勇猛だった。
「もしこれを起きあがらせると、子供に抱きついたまま死んだり、木を抱いたまま死んだりす
るぞ。大人でも抱きつかれると離さねえだけの力があるぞ。」
竈磐は大きな赤い手でしゃにむに天秤棒をおさえつけた。ぐさりと刀のように至葵の腰にくい
こんだ。彼女の腹と胸が、たちまち魚の浮きのようにふくれあがった。彼女はぎょろりと目をむ
いて、閃光を放たんばかりだ。彼女の黒い口角も動きだし、何か話しているようだが、ことばに
はならない。口から血が噴き出し、麹磐の上着全体に飛び散った。鍵は反対側で天秤棒をお
さえている男に命じた。
「もっとかるくおさえろ! 全身血だらけになるじゃねえか。」
市警はこれでようやく完全に息を引きとった!彼女は門口に待たせてあった棺桶に入れられ
た。
村はずれの廟の前では、老いたルンペンが二人、一人は赤いちょうちんを、もう一人はやかん
ピンアル
をぶらさげ、平児を連れて廟へ報告に来た。廟のまわりを三周すると、草の生えた小道を通って
もどってきて、老人が節のついたことばを読みあげた。赤ちょうちんが子供の頭上の白布と連れ
ピンアル
立って、家へ帰っていった。三児はちっとも泣かなかった。あの年、母ちゃんが死んだときもこ
ビンアル
うやって廟へ報告に行ったじゃないか? 平児はそれしか覚えていなかった。
ワンポ だがζ三婆の娘は、いっしょに来ることができなかった。
一門が死んだという知らせば村中に伝わり、女たちは棺桶のそばに座って激しく泣いた!鼻
水をすすりながら、号泣している。子供を回す者、旦那を奨す者、自分のつらい運命を契す者、
要するに、つらいことが何であれ、みなここへ来て見送った! 村の年長者が死ぬと、彼女たち、
女の群れは、いつもそうするのである。
棺を墓場に運ぶときがきた! 棺桶のふたに釘を打つときだ!
至藝はけっきょく死ななかった。彼女は寒気と渇きを感じて、小さな声で言った。
「水をちょうだい!」
だが彼女は、自分がいったいどこに眠っているのか知らなかった。
× × × ×
一171一
アルリ パン
端午節になり、どの家も戸口に瓢箪をぶらさげた8。二里半の間の抜けたかみさんの家では子供
が泣いていた。だが彼女は戸口にしゃがんで馬用の鉄のブラシで羊の毛をすいていた。
アルリ パン
ニ里半がびっこをひいている。端午節は、彼をたいそう愉快な気持ちにした。彼は畑でキャベ
ツが虫に食われて何回かだめになっているのを見かけた。いつもなら虫に悪態をつくか、怒って
足でキャベツをけとばすかしただろう。だが今日はお祭りだ。彼は何もかも愉快で、自分も愉快
アルリ パン
であるべきだと思った。畑の横を歩きながら、まだ赤くなっていないトマトを見て、二里半は思
った。青いトマトをいくつかとって子供に食わせてやろう! お祭りだからな!
村中がお祭り気分だった。野菜畑も麦畑も、どこもひっそりと静まりかえり、甘美だった。虫
たちもまるでいつもよりじょうずに歌っているかのようだ。
アルリ バン
お祭り気分で二里半はすっかり気持ちが大きくなった。家の門まで来ると、中へも入らずにト
マトを子供に放り投げて、そのまま出かけていった! 彼はせっかくこんなに愉快な日なのだか
ら、友達に会いたくなった。
近所の戸口にはどこも紙の瓢箪がぶらさげてあった。彼が至萎の家を通りかかると、その戸に
ぶらさがっていたのは緑色の瓢箪だった。さらに行くと、釜穫の家だ。二三の家では、戸外に瓢
アルリ パン
箪がかかっていなかった。屋内にも誰もいない! 二里半はしばらくながめていた。子供のおし
めがかまどの横で風に吹かれて、ひらひらとはためいていた。
釜寝の赤ん坊はこの世に生まれ落ちてたったのひと月で、父ちゃんに投げつけられて死んだ。
この赤ん坊はどうしてこんな世の中に生まれてきたのだろう? その子は憎しみをいだいて逝っ
てしまった! かくも短き命よ! わずか幾日の小さな命よ!
ちつちゃな赤ん坊が大勢の死人の中で眠っている。怖いと思わないのだろうか? 母ちゃんは
遠くへ行ってしまった! 母ちゃんのすすり泣きも聞こえなくなってしまった!
空が暗くなった! お月さんも赤ん坊に付き添ってはくれない。
× × × ×
端午節の前、二二はしきりに城内へ往き来していた。そして家に帰ると、妻とけんかした。彼
は言った。
「米の値段が下がりやがつた! 三月に買った米は、いま売るとほとんど半値だ。売っても借
金を返すには足りねえし、売らなければどうやって端午節を越せっていうんだ?」
しかも彼はだんだんと釜穫の赤ん坊への愛情も失せてしまい、夜中に子供が泣いて眠れないと
き、彼は言った。
「まだ泣くのか! 好きなだけ泣くがいい!」
お祭りの前日、彼の家では何の準備もしておらず、小麦粉一袋すら買っていなかった。食事を
作ろうとして、大豆油の缶をさかさにしても、何も出てこなかった。
晟1棄が不機嫌な顔で帰ってきた。まだ食事の準備ができていないのを見ると、どなり声をあげ
た。
「おい、これじゃおれは……飢え死にだぞ、飯にもありつけないのか……おれは城内で……お
8中国では旧時、五月を俗に「月月」「悪月」といい、邪気払いのために、虎の絵柄を描いた瓢箪をさ
かさにぶらさげ、また紙で作った瓢箪や小動物をかけて飾った。
一172一
れは城内で。」
赤ん坊は釜寝のふところで乳を飲んでいた。彼がさらに言った。
「このままでまともな暮らしのできる日が来るのか! おまえたち足手まといのせいで、追い
はぎをしようにも行けやしねえ。」
釜穫はうつむいたままご飯をならべた。赤ん坊はそばで泣いている。
震棄は食卓の漬け物とお粥を見て、少し考えるとまたぶつぶつ言い始めた。
「泣くがいい1 このごくつぶしめ! おまえを売って借金の返済にあてるからな!」
赤ん坊はまだ泣いていた。母ちゃんは厨房で、地面を掃いているのだろうか、たきぎを片づけ
ているのだろうか。父ちゃんはカッとなった。
「おまえたちをひとまとめに売りとばしてやる。おまえたちのようなうるさいやつがいても何
の役にもたちゃあしねえ……」
厨房の母ちゃんは、マッチのように火がついた。
「あんた、なにさまのつもりよ! 帰るなり怒鳴ったり暴れたり、私はあんたの仇でもないの
に。売れるもんなら、売ってみなさいよ!」
父ちゃんは茶碗を投げつけた! 母ちゃんは怒りを爆発させた。
「おれが本当に売ると思ってるのか! こいつは投げ殺してやるんだ!……誰が売るもん
か!」
こうしてその小さな命はこときれてしまった!
× × × ×
至藝は釜寝の赤ん坊が死んだと聞いて、様子を見に来ようと思った。だが、つえにすがって立
ち上がっても、すぐにまた倒れた。彼女の足の骨は毒素に侵されて、まだ歩くことができなかっ
た。
三日後、若いお母さんは無縁墓地へ赤ん坊を見に行った。だが、そこで何を見るというのだ?
犬に食いちぎられて、何も残っていなかった。
晟1棄は血に染まったわらを見て、それが釜穫の赤ん坊を結わえたわらだろうと想像した! 二
人は背を向けあって涙を流した。
無縁墓地でどれだけの悲惨な涙が流されたことだろう? 永年にわたる悲惨な土地には、カラ
スすらおりてこない。
i晟棄は墓穴を見つけた。頭蓋骨がそこで再び日の目を見ていた。
墓場を出ると、棺桶、墓の盛り土、しんと静まりかえった印象が、二人の歩みをせきたてた。
八.蚊が忙しくなる
彼女の娘がやってきた! 至萎の娘がやってきた!
至藝は釣りざおをもち、川辺に座って魚釣りをすることができるようになった! 顔のしわは
べつに増えもせず、減りもしていなかった。つまり彼女はもとどおりたいした変化もなく、これ
からも生きていかねばならないということを証明していた。
一173一
夜、川辺のカエルの声がやかましい。蚊が川辺の草むらから出てきて、プーンとうるさい隊列
を組んで、家々にたちこめた。昼間、太陽がじりじりと照りつける! 太陽が人々の皮膚を焼き
つける。夏、畑の人々は、凶悪な暴君を憎むのと同じように、太陽を憎む。畑全体を、一個の大
きな火の玉が転がっていく。
ワンポ だが、王婆はつねに夏を心待ちにしていた。なぜなら、夏は青々とした葉と実り豊かな果樹が
あり、しかも夏の夜は二二の詩的な気持ちを呼びさますからだ。彼女が夏の夜に向かって物語を
始めるときが来た。だが今年の夏、彼女は何も話さなかった! 窓辺によりかかり、眠っている
かのように、はるかな天空と向き合っていた。
カエルの鳴き声が人々の寂舅をつんざき、蚊に邪魔されておちおち眠ることもできない。
ワンポへ
このいつもと同じ六月、去年麦刈りをした時期がまたやってきた。直直の家では今年は麦を植
えなかった。そのため彼女はますます落ちこみ、しょげかえっていた!釣りざおをかついで波
うつ麦畑を通りすぎるとき、彼女はさおの先に糸を巻きつけて、頭を上げ、高い空をながめなが
ら、麦畑をちらりと一瞥もせずに通りすぎた。
至藝の気性はますます激しくなった! 酒におぼれるようにもなった。毎日釣りをするばかり
で、家族の服の繕いや洗濯もせずに、毎晩魚を焼いては酒を飲み、べうんべうんに酔っぱらって
は、庭の中、家の中をうろついた。やがて林の中までうろつくようになった。
彼女は杯の中にかつての夫の面影を見ることもあった。そして身を寄せてきた孤独な娘を悲し
げに見つめた。要するに酒を飲むと、彼女はいっそう深くもの思いにふけるのであった。
いまや彼女の様子はほとんど滑稽なまでになっていた。石のように庭の真ん中に座りこみ、夜
も庭で寝るのが習いとなった。
庭で寝て蚊にまとわりつかれるさまは、ちょうどアリの群れが腐ったハエを引きずるのに似て
いた。彼女はもはや感情を失ってしまったようだ! 生きようとする感情を失ってしまったの
だ!
至塾は蚊に食われて、顔中でこぼこになり、皮膚は腫れあがった。
至萎は杯の中にはじめて娘がやってきた日のことを回想することもあった。娘は島回のふとこ
ろの中で横になって言った。
「母さん! 死んだかと思ったのよ! 口から白いあわを吐いて、手は冷たくなっていたのよ!
…… Zさんが死んで、母さんまで死んだら、私はどこへ行って物乞いをすればいいの!……みん
なが私を追い出したとき、もってきたふろしき包みまで忘れてしまったの。私は泣いて……泣い
て何もかもわからなくなって……母さん、あの人たちは意地が悪いのよ。私を一刻もはやく母さ
んから引き離そうとしたのよ……」
それからその子はお母さんのふところがら立ち上がるときに、もっと大事なことを言った。
「私、あの人たちが憎らしくてたまらない! もし兄さんが生きていたら、私きっと兄さんに
言ってあの人たちを打ち殺してもらうのに。」
最後に、娘は涙をふいて言った。
「私、きっと兄さんのようになって、……」
そこまで言うと、彼女は唇をかんだ。
一174一
至萎は考えていた。この娘はどうしてこんなに気性が激しいんだろう? もしかするとこの子
は立派になるかもしれない。
緊密は突然、酒におぼれるのをやめた。彼女は毎晩、林の中で娘に教えはじめた。ひっそりと
静まりかえった林の中で、彼女は厳しい顔をして言った。
「仇を討たねば。兄さんのために仇を討たねば。誰がおまえの兄さんを殺したの?」
娘は「役人が兄さんを殺したんだ。」と思った。娘はまた母さんが言うのを耳にした。
「兄さんを殺した人、その人をあんたは殺すのよ、……」
娘は十何日も考えたあと、ためらいがちに母ちゃんに言った。
「兄さんを殺した人のことだけど。母さん、明日、私を城内に連れていって。あの仇を探しだ
せば、あとでそいつに遇ったとき、いつでも殺せるから。」
娘が子供っぽい話をしたので、お母さんは笑った! そして心を痛めた。
窒藝が殖磐とけんかした日の夜、請萄の水が河床からあふれだした。請荷のほとりで大声がし
た。
「川が氾濫したぞ! 川が氾濫したぞ!」
人々が川辺で駆けずりまわっているころ、殖望ノも家の申で大声をあげていた。
「はやいとこあいつを追い出すんだぞ。あれはうちの子じゃねえ。おまえのろくでもないガキ
を、うちに置くわけにはいかねえ。はやいとこ一」
翌日、どの家の麦も、麦打ち場へ運ばれた。最初の収穫を、人々は酒を飲んで祝うことになっ
ている。平癒はこの年はじめて麦を植えなかったので、彼の家はひっそりと静まりかえっていた。
彼を呼びに人がやって来た。彼は他人がうれしそうに話している酒席に座った。他人がうれしそ
うに話すのを見、他人が収穫した麦を見て、彼の赤い大きな手は人前で困惑していた! たえず
手をむやみやたらとねじっていたが、それに気づく者はいなかった。麦を植えた人は麦を植えた
人どうしで互いに話をしていた。
川の水が引くと、たくさんの蚊がわいた。夜のカエルの鳴き声も、まるで蚊のブンブンという
吾にかきけされるようだ。昼間も蚊の群れは忙しく飛んでいた。二二ノだけが黙りこんでいた。
九、 伝染病
無縁墓地には、死骸が散らばっていた。土をかけてやる人もおらず、野犬が死体の群れの中で
わがもの顔をしていた。
太陽が血のように赤暗い。朝から晩まで、蚊と朦朧たる霧がまざって空に充満している。コウ
リャン、トウモロコシとすべての野菜類は畑にうちすてられた。どの家も病気で、やがて絶滅し
そうな家ばかりだ。
村中が静まりかえっている。植物もそれを揺らす風がない。すべてが霧の中に沈んでいる。
麓が畑の南端に腰をおろして、新しい鎌を五本売りに出していた。それは「鎌刀会」を結成
したときにあまったものだった。彼がその悲しげな残り物を見ていると、村のおばあさんがやっ
て来て尋ねた。
一175一
「ほら言わんこつちゃない……天のお告げだよ。これがどんな天のお告げかだって? 天変地
異が起ころうとしているんだよ。お天道さまが人を皆殺しにするだろうかだって? あ一……」
おばあさんは誕ノから立ち去り、曲がった背中はたちまち霧の中に消えた。彼女の声も遠くに
去ってしまったようだった。
「天が人を滅ぼそうとしている!……お天道さまはとっくに人間を滅ぼすべきだったのさ!
人の世は強盗、戦争、殺人ばかり。これは人間が自分で招いた罪なのさ……」
だんだんと遠ざかっていった!遠くで一頭のロバの鳴き声が聞こえた。ロバは山の斜面で鳴
き声をあげたのだろうか? ロバは小川で鳴き声をあげたのだろうか?
何も見えず、音が聞こえるだけだ。そのとき、竺二三の女のしゃがれたいやな声が誕ノのほう
へ近づいてきた。讐は鎌のことでいらいらしながら、霧の中に座っていた。彼はいらいらした
気分で鎌のことを恨めしく思っていた。彼は思った。
「黒牛は売ってしまった!麦も植えることができなかった。」
アルリ パン
ニ里半のかみさんが彼に話しかけたが、彼は気づかなかった。かみさんは足下の石ころにつま
ずいて転んだ。彼女は立ち上がるときにひどくあわてたが、霧の中では彼女がどんなにあわてた
か、はっきりとは見えなかった。彼女の声の波が、大きな蚊の音のように、網状の波紋を引き起
こした。
「乙張、まだここに座ってたのかい? おたくにもたぶん『蒐字』9が来るだろうよ。小さな子
供にまで、『鯉≠』は注射をするんだよ。ほら、それで私は子供を抱いて逃げてきたんだよ。子供
が病気で死ぬのはあきらめがつくけども、注射はさせるわけにはいかねえよ。」
蘇青糞は三男ノから去っていった! まだ死なずにいる、泣き声もあげられない子供を抱いて、
霧の中へ消えていった。
太陽が赤暗色に拡大して光のない輪となって、人の頭上にあった。朦朧とした村には、天然の
災害の種が埋まったままで、その種はだんだんと繁殖していった。
伝染病は拡大した太陽のように勃発し、繁茂しはじめた!
麹1聖は死んだカエルを踏みつけながら道を歩いていた。人々が棺桶をかついで、彼のすぐそば
でしばし姿をあらわしたかと思うと、また霧の中に消えていった! 顔のゆがんだ、纏足の女が
うしろからついてきて、かぼそい声で泣いていた。ロバの鳴き声が聞こえたかと思うと、ほどな
くしてロバがさっと通りすぎていった。ロバの背には重病の老人が乗っていた。
人々が「繕」と呼ぶ西洋人は、白い外套をまとっていた。翌日、霧が晴れると、白衣の人
が離ノの窓の外にやってきた。彼は口にマスクをかけており、わかりづらい中国語で話しはじめ
た。
「あなたのところ、病人の人いるか? 私の治療いい、来い。はやくはやく。」
年配の太ったもう一人が、ひげをぴくぴく動かし、ブタの目のように太った目をして、窓から
のぞきこんでいた。
9外国人に対する呼称。とくに日本兵および日本人を指す。戦前に日本人が中国人のことを「支那人」
と呼んでいたように、当時の中国庶民が日本人の意味で用いる名詞は「夕潮」がごく一般的であった。
リ ベンツ
なお、本作品中には「日本子」という語も出てくるが、その場合は「日本人」と訳出した。
一176一
鍵はあわてて病人はいないと言ったが、ついに軽蔑は注射をされてしまった!
「年配の殺到」があの「若い蒐孚」に話をしており、口のマスクがもごもご動いた。チューブ、
薬瓶ナイフが手提げカバンから取り出され、麓は井戸で冷たい水をくんだ。その「解」は
穴の開いたガラス管をみがきはじめた。
睾碓は窓の前に置かれた板に寝かされ、白布で目かくしされた。蒐字はどうやって病気を治す
のか、蒐字の治療はいったいどんなに恐ろしいものか知りたくて、隣近所の人々が見にやってき
た。
ガラス管はへその下一寸のところに刺され、長さ五寸のガラス管のわずか半分だけがおなかの
上で光っていた。そこで、人々は子供をしっかりおさえ、仰向けに寝たまま動けないようにした。
「写字」の一人が冷たい水のはいった瓶をもち、もう一人があの長いゴム管の先端の漏水器10に
照準をあわせた。その様子は、「二字」が器械を修理しているみたいだ。まわりを取り囲んでなが
めている人は、ため息をついたり、みんなでいっせいに肩をすくめたりしているようだった。子
供は「いてっ! いてっ」と短く叫んだだけで、あっという間に一瓶の水が注入された! 最後
にふくれたおなかに黄色い薬をぬり、小さなはさみで脱脂綿を切って傷口に貼りつけた。こうし
て白衣の「丁字」はカバンを持つと、さっさと行ってしまった! またほかの人の家へ行ってし
まった。
ある晴れた日、伝染病は絶頂のときを迎えた! 女たちは死にかけた子供を抱いたまま、それ
でもいまだに注射を恐れ、白衣の「解」が水の瓶で子供のおなかに水を入れるのを恐れていた。
彼女たちはあのふくれあがった奇妙なおなかを見るのが耐えられなかった。
悪いうわさが広まった。
「李家は一家みんな死んだぞ!」「城内から人が検査にやってきて、病気の症状がある者は車で
城内へ連れていかれる。ばあさんも、子供も、みんな連れていって注射をされる。」
人が死んでも賦する声も聞こえず、ひっそりと静かに、むしろや棺桶をかついで、無縁墓地へ
と歩いていく。次から次へと、絶えることなく……
アルリ パン
昼過ぎ、二里半のかみさんが子供を無縁墓地に送った! 彼女はほかにも何人かの子供を目に
した。ある子は髪の毛が白い顔をおおっており、ある子は野犬に手足を食いちぎられていた。そ
して何人かはそこで安らかに眠っていた。
野犬が遠くのほうで平然と骨片を噛みくだく音をたてていた。犬は満足すると、それ以上食べ
物を求めて狂暴になったり、生きた人間を襲ったりすることはなかった。
ピンアル
平児は一晩中、黄色の水や緑色の水を吐きつづけ、白目いっぱいに赤い筋が浮きあがった。
麓はぶつぶつ言いながら家の門を出ていった。村中で多くの人が死んだけれども、農作物が
すっかりだめになったけれども、それでも彼はどうしても鎌を売ろうと思った。鎌を家に置いて
おくことが、永遠に彼の気がかりだった。
10ヴォルフガング・ミヒェル氏によれば、「明治12年、コレラ病が関西地方に流行。白井松器械舗は
大阪司薬場技師ドワルスに働きかけ軽便なる漏水器を案出し、同氏の同意とその筋の許可を得て広く
販売し公衆衛生のために尽くした。」という。同氏「伝統と革新:明治期の大阪における医科器械業」
カ ヘ へ
(http:〃wwwf【c.kyushu−u.acjpノ∼michellexhibitions120070407_081index−jp.html)参照。
一177一
十、 十年
十年前の村の山、山のふもとの小川は、いまも十年前と同じくもとのままだ。川の水は静かに
流れ、山の斜面は季節によって衣裳を換える。広々とした村では十年前と同じように生死が輪廻
している。
屋根にはスズメが相変わらずたくさんいる。太陽もいつものように暖かい。山のふもとで牧童
が童謡を歌っている。それは十年前の古い調べだ。「秋夜長く、秋風涼し。母ちゃんないのはどこ
の子か、母ちゃんないのはどこの子か、……西の窓に月沈む。」
何もかも十年前と同じで、至萎も変わっていないようだ。皐碓だけが大きくなった! 皐冤と
がにまた
三山腿は大人になった!
窒萎は髪の毛を涼風に吹かれながら、垣根の外ではるか山の斜面から聞とえてくる童謡を聞い
ていた。
十一、時がゆっくりと大きく動きだした
雪の空に、村人たちが長いこと見ることのなかった旗がひらひらと、空へ上っていった!
村中が静まりかえった。日本の旗だけが丘の臨時軍営門の前で、音をたててはためいていた。
村人たちは思った。いったいどういうご時世なんだろう? 中華の国が国号を改めたのだろう
か?
十二、 黒 い 舌
「王道」を宣伝する旗がやってきた! 砂煙と喧喚を連れてやってきた。
広くゆったりした並木道に、自動車がけたたましい音をたてる!
畑では若苗色の新芽が果てしなく続いている。だが、ここはもはや静詮な村ではなく、人々は
心の平衡を失っていた。草地の上を自動車がほこりを巻きあげながら走っていき、赤や緑のビラ
を種をまくように落としていく。小さなかやぶき小屋の屋根にきれいな色のビラが舞っている。
近くの大きな道沿いの枝にビラが引っかかり、ハタハタと揺れている。城内から出発した自動車
がまた追いかけてやってきた。車の上には威風あたりを払う日本人、朝鮮人が立っており、いば
った中国人も立っていた。車輪が飛ぶように回るとき、車上の人たちの手にした旗がバタバタと
音をたて、車上の人はまるで羽が生えたようにいっせいに飛んでいった。日本の旗をもって媚び
た笑い顔を作っていた人たちが、辻口から消えた。
「王道」と書かれたビラが山の斜面に飛んでゆき、川辺に飛んでいった……
至萎が門前に立ち、竺堕宰のヤギはひげをたらしていた。ヤギはそろそろと生い茂った木の下
を通りすぎた。ヤギはもはや食べ物を探そうとしない。疲れてしまったのだ! 年をとりすぎて、
全身が土のような茶色に変わり、目は涙が出たようにぼんやりしている。ヤギはすっかりユーモ
一178一
ラスで哀れな格好になって、長いひげを揺らしながら窪地のほうへ歩いていった。
前方の窪地に向かって、ヤギに向かって、至萎は過去の辛く苦しかった日々の託憶を追い求め
ていた。彼女はあの日々を取りもどしたいと思った。なぜなら過去のほうが今日の日々よりまだ
よかったからだ。窪地は耕す人がおらず、高台にあるかつての麦畑は荒れはてていた。彼女は悲
しげに追憶していた。
日本の飛行機がプーンという轟音を引きずって飛んでいくと、つづいて空からビラがひらひら
と落ちてきた。紙切れが一枚、至葵の頭上の枝に落ちた。彼女はそれを取ってちらと見たかと思
うと、足下に捨てた。飛行機がもう一度通りすぎると、もっとたくさんのビラが落ちてきた。彼
女はもうそのビラを相手にせず、足下で何度も踏みつけた。
しばらくすると、釜寝の母親が至萎のところを通りかかった。彼女は手に二羽の雄鶏をぶらさ
げており、王婆に言った。
「もう暮らしていけないよ! いったいどうやって暮らしていくつてんだい? 残ったのはた
った二羽の鶏だけ、それもはやいとこ売ってしまわないと!」
窒葵が尋ねた。「城内へ売りに行くのかい?」
「城内へ行かねえで、誰が買うのさ? 村中さがしても鶏は何羽もいなくなったよ!」
彼女は至藝に耳打ちした。
「日本人はひどく凶暴なのさ!村の娘たちはみんな逃げていなくなったよ! 若い奥さんた
ちもだよ。窒環電で十三歳の娘っ子が日本人に連れていかれたらしいよ! 真夜申にさらわれた
んだと!」
「ちょっと足を休めてからお行きよ!」と至葵が言った。
二人は木の下に座った。大地の虫は鳴かず、彼女たち二人だけが暗く悲しげに話していた。
雄鶏は手の下でときおり羽をばたつかせた。太陽がほぼ真上にきた! 木の影が円形になった。
村に異様な光景が加わった。日本の旗、日本兵。人々はやれ「王道」だの、やれ日「満」親善
だの、やれ「真言天子」があらわれるだのと言うようになった。
「王道」のもとで、村には廃田が多くなり、人々は空き地を憂欝そうにぶらついていた。
かみさんは最後まで話した。
「私はこの何年もの間、ずっと鶏を飼ってきたんだよ。それがいま鶏の毛一本も残ってねえ、
『朝を告げる』雄鶏さえ残しておけねえなんて、いったいどういうご時世なんだろうね?……」
・彼女は気でも触れたように袖をふると、立ち上がって、目の前の耕されていない廃田を踏みつ
けて歩いていった。病気にかかったような丁田で、短い草がかみさんの足下で不愉快に弾力なく
踏みつけられた。
遠くまで歩いていっても、ぶらぶらした手に二羽の雄鶏がさげられ、もうひとつの手でたえず
顔をこすっているのが、まだ見てとれた。
× × × ×
学究が眠っていたとき、遠くで甲高い女の叫び声が聞こえた。窓を開けて耳をすましてみた…
さらにしばらく聞き耳をたてていると、警笛が鳴りひびき、銃声がした。遠くの人家に悪魔で
一179一
も押し入ったのだろうか?
× × × ×
「誰かいるか?」
その夜、日本兵と中国人の警察が村中を捜索した。捜索が至萎の家にきた。彼女は答えた。
「誰かいるかって? 誰もいないよ。」
彼らは鼻をおおって家の中をぐるりとひとまわりして出ていった。懐中電灯の発する青い光が
あちらこちらで光っていた。門を出るとき.に、一人置日本兵が鉄帽の下から中国語を発した。
「この女も連れていけ。」
至藝は彼が何と言ったかを完全に聞き取った。
「どうして女も連れていくのだろうか?」と彼女は思った。「女もつかまえて銃殺するのだろう
か?」
「誰もこんな女をありがたがらねえよ、こんなばあさん!」と中国人の警察が言った。
中国人はみんな笑った! 日本人もつられて笑った。彼らはそのことばの意味もわからないの
に、ほかの人たちが笑ったので、いっしょに笑ったのだった。
どの家の女かわからないが、本当に彼らはしょっぴいてきた。女は背を曲げてブタのように彼
らに引っぱられていった。むやみやたらと動きまわる薄暗い懐中電灯の緑色の光の中で、その女
がいったい誰なのか見わけることはできなかった!
まだ門を出ないうちに、彼らはその女をもてあそびはじめた。しかもあの日本人の「鉄帽」の
手が女の尻を乱暴にさわったのを、窒萎は目にした。
十三、おまえは死滅したいのか?
また捜査のふりをして村に女をつかまえに来たのだろうくらいに滑子は思っていた。それで彼
女はべつに悪いほうへは考えもせずに、落ち着いて眠りについた。あの老いぼれの殖1豊もたいそ
う年をとった! 彼は帰ってくると、騒いで人を起こすこともなく眠ってしまった。
夜が明けると、日本の憲兵が戸口の外で静かにノックした。入ってきたのは、見たところ中国
人のようだった。彼の長靴は露でぐっしょりぬれていた。ポケットからハンカチを取り出し、泰
然とした態度でオンドルに座り、ゆっくりと長靴をふいた。訪問はこうして始まった。
「おまえのうちに昨晩、誰か来なかったか? 大丈夫だから、本当のことを言いなさい。」
籍磐は起きぬけで、頭がぼんやりしており、いったい何が起きようとしているのかわからなか
った。すると、その憲兵は手にもった帽子を力いっぱいふりまわし、それまでの温和で鷹揚な態
度が一変した。「ばかやろう! 知らないはずがあるか? 連行していけば、おまえにもわかるだ
ろう!」
そうは言ったが、彼は連行されなかった。至藝はボタンをとめながら、先を争って言った。
「誰のことを言ってるのさ? 昨夜は何人かの『兵隊さん』が来たけど、捜査して何もなかっ
たので帰っていったよ!」
あの将校のような人は、完全に至萎のほうに向きなおって、親しげな声で尋ねた。
一180一
「おばさん、話したらどうだね! ほうびがでるんだから!」
至葵はそれでも態度を変えなかった。その人がまた言った。
「私たちは匪賊をつかまえてるんだ。匪賊がいると、住民も同じように被害を受けるからな。
昨日、自動車が村にきて『王道』の宣伝をしているのを見なかったのか? 『王道』のおかげで
人は誠実になるんだ。おばさん、話したらどうだね! ほうびがでるんだから。」
至葵は、窓ごしに差しこんでくる赤い太陽の光のほうを向いて言った。
「私はそのことは知らないよ。」
あの将校はまた大声をあげようとしたが、今度は思いとどまった。彼の唇は困難そうに動きだ
た。
「『満洲国』は民衆に害をおよぼす匪賊を掃討しようとしているんだ。匪賊の居場所を知ってい
るのに、すすんで報告しなければ、見つかりしだい銃殺だぞ!」 そのとき、あの長靴の人が横
目で廼1望を侮辱した。それから彼は何も言わずに、返答を待ったが、とうとう彼は何の返答もも
らえなかった。
まだ昼にならないうちに、無縁墓地に死体が三つ増えた。そのうちのひとつは女の死体だった。
人々はみな、その女の死体が葺E詩の寡婦の家で見つかった「女学生」だということを知ってい
た。
楚蓬ノはほかの人が「女学生」は何々「党」だと言っているのを耳にした。しかし、彼は何々「党」
をどのように解釈すればよいかわからなかった。その夜、酒を飲むと、その秘密すべてを半鐘に
話した。彼自身、その「女学生」にどんな秘密があって、いったいなぜ死んだのかわからなかっ
た。ただ彼は言いふらしてはならないことはなんだか神秘的な感じがして、どうしても話したく
なったのだ。
ワンポ 二三はまったく聞く気がしなかった。なぜなら、その事件が発生してから、彼女は自分の娘の
ことが心配で、娘の運命があの「女学生」と同じになるのではないかと恐れていたからである。
讐のひげが白くなった! しかもいっそう少なくなった。酒を飲むと、顔がますます赤くな
り、好き勝手にオンドルの上に寝そべった。
ピンアル
平野が大きく束ねた緑の草をかついでもどってきた。それを干せばたきぎになる。庭の真ん中
に、彼は緑の草をしきつめた。家に入ってもすぐにはご飯を食べず、汗のしみこんだ半袖シャツ
をそばに脱ぎすてると、彼はまるで怒ったように、力をこめて肉付きのいい肩をパンパンとたた
き、口からフーッと息を吐いた。しばらくたって、父ちゃんが言った。
「おまえら若いもんはもっと度胸がなくてはならん。このままじゃあ、人に死ねというような
ものじゃねえか? 国が滅びるんだぞ!麦も植えられねえ、鶏や犬も皆殺しになるんだぞ。」
ワンボ ピンアル
年寄りの話しかたは、まるでけんか腰だった。三婆は平児のシャツにあいた穴を繕いながら、
気持ちがたかぶり、国が滅びることを考えて、シャツを縫いまちがえた! 彼女は二つの袖口を
完全に縫いあわせてしまった。
麓は老いた牛のようだった。若いときの力はすっかり消え失せ、「雪下会」のことばかり回
ピンアル
想して、また平児に言った。
「あのとき、おまえはまだ小さかった! わしと峯嘗苗たちとで「鎌刀会」を作ったんだ。そ
一181一
りゃあたいそう勇ましかった! だが、わしは痛い目にあわされ、それ以来八方ふさがりになつ
ちまった。おまえの母ちゃんが洋式鉄砲を借りてきたが、なんとまだその洋式鉄砲も使わねえう
ちに、棍棒で人の命を奪ってしまい、それからというもの災難つづきになったのさ! 年々悪く
なる一方で、いまになったってわけさ。」
「裏切り者の犬、けっきょく残忍な狼になれないんだから。おまえの父ちゃんはあの事件を起
こしてからというもの、『鎌刀会』に関心がなくなってしまったのさ! 黒牛はその年に売ったん
だよ。」
彼女がこうやって横やりを入れたので、殖磐は恥ずかしさと憤りを感じた。同時に、自分はあ
のときなぜあんなに卑屈だったんだろう? 心臓が一瞬カッと燃えあがったが、彼は自分を満足
させるようなことを言った。
「これで地主ももう地主ではなくなったな! 日本人がいては、地主にも何もできねえから
な!」
彼は充血した体を静めるために、林のほうへ散歩に行った。そこには林があり、林の枝先が青
い空のはてに、悠々と漂う雲のような美しい弧と線を描いていた。青い天幕が目の前にまっすぐ
降りてきて、曲がりくねったこずえが縁取りするかのようにその天幕にはめこまれている。畑で
は昔と同じ蝶が飛んでいた。野花はどれもまだ咲いていない。小さなわらぶき小屋があちらに一
軒、こちらに一軒とうちすてられていた。壊れた壁が立ったまま太陽に照らされているのもあれ
ば、おそらく爆弾で屋根をもっていかれたのもある6小屋の骨組みはそこにすっくと立っていた。
殖1聲は大きく胸を張って、畑の透明な空気を吸った。彼はもう歩きたくなくなり、荒れはてた
かつての麦畑のそばで足を止めた。そのまましばらくしないうちに、彼はまた気がくさくさしだ
した。なぜなら、彼はかつての自分の麦畑が、いまや砲火のもとで荒れはててしまい、日本兵の
足下ではきっともとどおりになることはないだろうと思ったからである。彼は麦畑での憂いをか
かえたまま、スイカ畑にやってきた。スイカ畑にもスイカを植える人はおらず、畑はすっかりヨ
モギでおおわれていた。去年スイカの見張りに使った小屋は、そのまま存在していた。鍵は小
屋の下の短い草の上に寝転んだ。彼は眠ってしまいそうだった! 朦朧とした中で、「高麗」人た
ちが林を突きぬけてくるのが見えた。視線は地面から発していたので、その「高麗」人たちがま
るで空のはてを歩いているようだった。
もしも地面のあちこちに差しこまれた家がなければ、麹磐は自分が空のはてに寝ころんでいる
ように感じたことだろう!
太陽の光で彼の目はくらみ、それ以上遠くを見ることができなくなった!村の犬がはるかか
なたで所在なげに吠えているのが聞こえた。
× × × ×
かくも荒涼とした広野は、野犬すらζこをうろつくことはない。しこたま酒を飲んだ鍵ノだけ
が広野をうろついていた。だが彼には目的がなく、足の赴くままに、無数のはげた畑を歩きまわ
った。彼はなんともったいないと思い、頭をふり、手をふって、しきりにため息をつきながら歩
いて家に帰った。
村に寡婦が増えてきた。前にいるのは三人の寡婦で、そのうちの一人はまだ子供の手を引いて
一182一
歩いている。
赤ら顔の麓は家の門の近くまで来ると、また向きを変えてしまった。彼はこのように足にま
かせて考えもなく歩くのだ! 憂いが前方で彼に手招きしていた。突然、大きなくぼみに足を突
っ込んだ。彼はそれに気づかずに、まるで一心不乱に長い道のりを歩きとおさねばならないかの
ように、前進しつづけた。そこにはさらに爆弾が落ちた穴もあったが、彼の行く手をさえぎるこ
とはできなかった。酒を飲んだために、壮年の血気が彼を奮いたたせていた。
一軒のあばら屋の中で、母猫が子猫たちに乳を飲ませていた。彼はそれを見たくなかったので、
さらに歩いた。一人の知り合いも彼に出会うことはなかった。西の空が雲を赤く染めるころ、彼
の血を滴らせた心、涙を流した目は、死んでしまった若い時分の仲間たちの墓へとやってきた。
彼らに供える酒ももたずに、友人たちの前に黙って座っているだけだった。
亡国後の殖磐は、ふと死んだ勇ましい仲間たちのことを思い出した! 生き残った年寄りは、
悲憤にかられるばかりで危険を冒すことはできなくなってしまった。老いた莚控はもう危険を冒
すことはできなくなってしまった!
× × × ×
それはたくさんの星がきらめく夜だった。拳署苗の気が触れた! 彼のつぶれたのどが、彼の
話しぶりに神秘的で張りつめた感じを与えていた。それは彼らの最初の大きな集会だった。順鞘
の家で、彼らはまるで何か盛大な儀式でも行うかのように、厳粛かっ静粛だった。人々は空気が
足りないと感じたようで、誰ひとり鼻をすする音さえたてる者はいなかった。屋内では灯りもと
もさず、人々の目が夜の猫の目のように、ぎらぎらと青白い光を発していた。
至萎の纏足した足が、しきりに窓の外を踏みならしている。彼女の静かな手にはおんぼろの西
ほ や
洋ランプの火屋がぶらさがっており、彼女はいつでもガラスの火屋を割れるように準備していた。
彼女は夜警のネズミで、猫が来るのをたえず警戒している。彼女は垣根の外を一周すると、垣根
の外に立って、彼らの話し声の大きさが危険でないか耳をそばだてた。手にしたランプの火屋の
ことを、彼女は一瞬たりとも忘れなかった。
家の中では峯害ン苗が不屈な太い声で話しつづけていた。
「この半月間で、人民革命軍はまるでだめだと思い知らされた。もし人民革命軍といっしょに
やったら、きっとひどい目にあうそ。やつらはみな『ハイカラ学生』で、馬に乗るにも人にかつ
ぎあげてもらわねば乗れねえんだ。やつらの口は『退却』と叫ぶことしか知っちゃいねえ。二十
八日の夜、外は小雨が降っていて、わしら十人の同志が飯を食っていると、茶碗が撃たれて割れ
てしまった!それで弾がどこから来たのか二人に調べにいかせたんだ。みんな、考えてもみな、
二人の『ハイカラ学生』が走って出ていって、まったく! 情けないったら、敵に追われて帽子
まで落として逃げまわって、『ハイカラ学生』たちときたらいつも敵にやられるんだ。……」
がにまた
ホンフヘツ
羅圏腿が口をはさんだ。「革命軍は紅詣子よりも役に新たねえってことかい?」
窓から差しこんでくる月明かりはあまりにも暗かった!羅菌礎が質問したときどんなにおか
しな表情をしていたか、そのとき気づいた者はいなかった。
峯智苗がまた始めた。
「革命軍の紀律は厳しいってもんじゃないそ、おまえらわかるか? 紀律って何か? つまり
一183一
決まりのことさ。決まりがとても厳しくて、おれたちには耐えられねえ。たとえばだな、村の若
い娘が見つめていても、行っちゃならねえんだ……バッハッハ! おれは一度こっぴどい目にあ
った。同志が銃の柄でおれを十回も殴るんだぞ!」
彼はそこまで話すと、話をやめて自分で笑いだした。が、大声でというわけにはいかなかった。
彼は話を続けた。
アルリ パン
ニ里半はこうしたことに対して、はじめからずっと興味がなかった。彼は片隅で居眠りしてい
た。楚1望はキセルの雁首で、政治思想に欠けた眠っている翌二二を突っついた。そして鍵ノは
大いに不満を感じた。
「ちゃんと聞けよ! 聞けったら。居眠りするなんて、いったいどんなご時世だと思ってるん
だ?」
ワンポ 王婆の纏足した足が地面をむやみに踏みならして音をたてた。人々は耳をすましたが、ランプ
の火屋の割れる音が聞こえないので、日本兵は来ていないのだとわかった。同時に人々は重苦し
い雰囲気を感じた。拳響苗の計画が重々しく発表された。
峯1寄苗は農民で、どのようにすればことを起こせるかはっきりわからないので、こう言うだけ
だった。
「村の若者を招集して、救国のために立ち上がろう! 革命軍のあの『学生』たちじゃだめだ。
ホンフ ツ
肝っ玉がすわってるのは紅二子しかいねえ。」
歪縫ノは火のついていないキセルを、オンドルの上にほうりすて、急いで手をたたいて言った。
「そうだ! 若者たちを招集して、革命軍と呼ぶことにしよう。」
じつは、殖磐はまったくわけがわからなかった。彼は革命軍とは何のことなのか聞いたことが
なかったからだ。彼はわけもなく慰めをえて、大きな手のひらで楽しそうにたえまなくひげをな
でていた。讃磐1ヒとって、これは十年前に「鎌刀会」を組織したときとまったく同じおもしろさ
だった。あのときも暗い部屋で、ひそひそと話しあったのだった。
避ノはうれしくて一晩中眠れず、大きな手のひらを一晩中いじっていた。
× × × ×
アルリ パン
同じとき、もし二里半の壁の外に立っていたなら、彼のいびきのリズムをはっきりと聞き取る
ことができただろう。
× × × ×
村では、日本人が汚い手段で農民をまるめこもうとしていた。つまり「大清国」を復興するた
めには、「忠臣」、「孝子」、「節婦」にならねばならぬ、というのだ。だが一方では、正反対の勢力
も増えてきていた。
空が暗くなると、塀を乗り越えて至萎の家に隠れる者がいた。その黒ひげの男は毎晩来て、至葵
と知り合いになった。至萎の家で晩飯を食べながら、その男は彼女に言った。
「あんたの娘はとても有能だよ。歩兵銃を背負ったまま、すばやく山を登ることができるんだ
から! だが……もう……」
ピンアル
三児はオンドルの下にしゃがんで、父ちゃんのキセルを吸っていた。かすかな嫉妬が心をよぎ
った。彼はわざとキセルをドアにぶつけて音をたてると、出かけてしまった。外はどんよりとし
一184一
て真っ暗な夜だった。彼は黒色の中に自分を消し去った。彼が憂馨そうにもどってきたとき、至藝
はすでに涙を流している状況だった。
その夜、楚1聲はとてもおそく帰ってきた。彼は人に会うたびに、亡国だの、救国だの、義勇軍
だの、革命軍だの、……こうした尋常ならざることばづかいをするので、それで帰るのがこんな
におそくなったのだった。まもなく一番鶏が鳴く時間だった! だが鍵ノの家に鶏はおらず、村
のどこからもかつての鶏鳴を聞くことはできなかった。色あせた月の光が窓から差しこみ、「から
すき星」11が見えなくなったので、まもなく夜が明けるのだとわかった。
彼は息子を夢から呼び起こして、意気揚々と宣伝工作一策將の寡婦が子供を実家にあずけて
義勇軍に入ろうとしていることや、若者たちが集合する準備をしていることなど一について話
した。この年寄りはまるでもう役所のお役人にでもなったかのように、演説をするときの姿勢で
体を揺り動かし、自分の感情をたかぶらせていた。彼の魂全体が闊歩していた!
ピンアル
やや落ち着くと、彼は平児に尋ねた。
「あの人は来たかい? あの黒ひげの男は?」
ピンアル
平温はまた眠りの中にもどっており、父ちゃんが生気を奮いたたせようとしたが、彼は眠って
しまった。父ちゃんの話は彼の耳元で、まるで蚊がプーンと音をたてるのと同じように無意味だ
った。二二はとたんに腹を立てた。彼の栄えある事業を受け継いでいく人がいないと感じて、こ
んな息子を育ててもむだだったと思い、失望した。
門門は物音ひとつ立てず、眠っているようだった。
× × × ×
ワンポ 翌朝、黒ひげの男が、突然やってきた。三婆が彼に尋ねた。
「あの子が死んだとき、いったいあんたは自分の目であの子を見たのかい?」
彼はペテン師のように言った。
「おばあさん、どうしてまだわからねえんだ? 前から言ってるじゃねえか? 死んだったら
死んだんだよ! 革命ってのは死を恐れねえんだ。そりゃあ立派な死にかたなんだ……日本の野
郎の奴隷になって生きるよりずっとましじゃねえか!」
ワンポ 湯婆は、この種の人が「死」や「生」について話すのをいつも耳にしていた……彼女も死は当
ロ せ
然だと思った。そして気持ちを落ち着けて、彼女の昨晩中心にぬれた目で、その知り合いの急い
た顔を観察した。とうとう彼女は受け入れた! その人が袋から取り出したすべての小さなノー
トと、黒い点のような小さな字がぎっしり書いてあるバラバラの紙も、彼女はすべて受け入れた!
さらにきらきら光る小銃一丁も至萎に手渡された。その人は急いで出ていこうとした。そのとき
至萎はこらえきれずに尋ねた。
「あの子も銃で撃ち殺されたのかね?」
その人はドアを開けるとあわてて出ていってしまった! あわてて出ていったために、その人
は至葵のことばに気がつかなかった。
かつての至萎は、恐れを知らなかった。よその人がもってきた小さなノートを厨房に置いてお
11原文は「三星」。オリオン座の真ん中の三つの星。参宿。みつぼし。
一185一
くこともたびたびあった。ぞんざいにござの下に置いておくこともあった。だが、いまの彼女に
そのような度胸はなくなっていた。もしもそうしたものが捜索されたら、自分は日本兵の銃剣で
突き刺されてしまうだろう、と彼女は考えた。とりわけ手にしている小銃が見つかれば、彼女は
自分も娘と同じ目にあうような気がした。彼女は怖くなってだんだんとふるえはじめた。娘もき
っと同じように撃ち殺されたのだ。彼女は考えるのをやめた。彼女は現下の情勢が急を告げばじ
めていることを知った。
麺嘗があわてふためいた顔をしてもどってきた。至藝は彼に見向きもせず、裏の薪置き場のほ
うへ行った。たきぎはいつもの年とちがって、もうすべて燃やし尽くしていた! 平らな土地に
スベリヒユがまばらに生えていた。彼女は地面に穴を掘りはじめた。村の犬がやたらに吠えるの
を聞いて、彼女は気が動転し、鎌の首が土に刺さったまま抜けなくなってしまった。彼女は倒れ
こみそうになった。全身が何かの圧迫を受けて、肉体がバラバラになりそうな気がした。しばら
く意識を失ったあと、彼女は走ってつれあいを呼びにいった。だが、戸口まで来ると、また急に
反対へ向きなおった。彼女はあの人たちの教えを思い出した。
一大事なことは誰にも言ってはならねえ。夫婦の間でも言ってはならねえぞ。
あの黒ひげの男が彼女に言ったことも思い出された。
一六1雪にも知られてはならねえぞ。あのじいさん、なんだって子供みてえだからな。
彼女が埋め終わったあとで、日本兵が次々と十何人かやってきた。大半は鉄帽をかぶっただけ
で、長靴もはかずにやってきた。人々は、彼らがまた女をつかまえにやってきたのだとわかった。
至芸はすっかり観察力を失ってしまった!思わず罐ノの背後にあとずさりして、至葵の家に
しょっちゅう捜査にやってくる、あのいつも笑顔を絶やさない日本人将校のことさえわからなく
なってしまった。帰りぎわにその人が至萎に「ツァイチェン再見」と言っても、彼女はただただ尻込みする
ばかりで返事のひとつも返せなかった。
× × × ×
パ パ 「抜」一「抜」とは、出発という意味である。かみさん連中が男たちのために服や靴、靴下
を探してやっていた。
峯二二が人をよこして、一軒一軒雄鶏がいないか捜させたが、見つからなかった。そこで誰か
が提案した。竺堕宰のヤギを殺せばいい1 ヤギはちょうど峯嘗苗の門の前にいた。涼をとって
いるのかもしれないし、もうこれ以上歩けなくなったのかもしれない! ヤギの一本角が垣根の
すきまにはさまってしまい、若者たちがヤギをかかえても、どうしても一本角を抜くことができ
なかった。
アルリ パン
ニ里半が門口を通りかかると、ヤギはあとを追って家へ帰っていった! =二里半が言った。「殺
アルリ パン
すんなら殺してくれ! どっちにしろ日本人に召しあげられるんだべ!」
拳竺嬉学が片隅から言った。「日本人はそんなのほしがらねえよ。こんな老いぼれヤギなんか。」
アルリ パン
湯里半が言った。「日本人がほしがらなくても、どうせ老いぼれて死ぬんだから!」
× × × ×
人々の宣誓する日が来た! 雄鶏を見つけることができなかったので、老いたヤギを代わりに
することに決まった。若者たちがヤギをかかえて、四つ足を棒に縛ってさかさにつるした。ヤギ
一186一
アルリ パン
は哀しそうに鳴きつづけた。二里半の滑稽な悲哀の表情がヤギについてやってきた。彼のびっこ
の足がまるで一歩一歩、地面にくぼみを作っているようだった。波状の歩行が、歩くほどにます
ます速まる。彼のかみさんが狂ったように彼を引きずりもどそうとしたが、引きずりもどすこと
アルリ パン
はできず、二里半はおどおどした様子でずっと歩きとおした。ヤギは山すその曲がりくねった小9
道をかっがれていった。そして庭の真ん中で赤い布のしかれた台の上にかつぎあげられた。
定置の寡婦もやってきた! 彼女は台の前にひざまずいて祈りをささけ㍉もう一度台の前にき
アルリ パン
て二本の赤いろうそくに火をつけた。ろうそくに火がともると、二里半はまもなくヤギが殺され
るのだと知った。
庭で歩きまわっているのは、離以外、みな若い男たちばかりだった。彼らは胸をはだけ腕ま
くりして、精桿で凶暴そうだった。
誕はずっと策応の寡婦と話をしていた。彼は彼女を見るなり宣伝を始めた。彼はひとたび事
件に出くわすと、以前のようにキセルを吸ってばかりではなくなった。話しかたには威厳がそな
わり、ひげさえもゆらゆら揺れなくなった。
「救国の日がまもなくやってくる。気概ある者は、たとえ日本の銃剣のもとで非業の死をとげ
ようとも、けっして亡国奴にはなるまいそ。」
讐が知っていたのは、自分が中国人であるということだけだった。誰がどんなに説明しても、
彼はどうしても自分が中国人の中でどのような階級に立っているかを理解することができなかっ
た。そうはいっても、讐だって非常に進歩したのであり、村人全体が進歩しつつあることを代
表させてもよいくらいなのだ。つまり以前の彼なら国家とは何かを知らず、おそらく以前なら自
分がどの国の国民であるかも忘れていたのだ!
彼は口を開かなくなった! じっと庭の真ん中に立って、雄壮で悲憤に満ちた儀式の到来を待
っていた。
三十人あまりがやってきて、重々しい大会となった。誕ノは心の底から感動した! 彼のひげ
さえもが、これは非常に重要であって、勝手にひげをさわっている場合ではないと感じた。
四月の晴れわたった空が山の尾根を照らしだし、家のまわりの大きな樹々は、直立したり湾曲
したりして正午の太陽の下に立っていた。明るい空の光が人々とともに宣誓していた。
寡婦たちと家族を失った独り身の男が、二野苗のスローガンに続いて、陽光のもとにひざまず
き完全にひれ伏した。羊の背を陽光が流れゆき、台の前の大きな赤いろうそくが沈黙した人の前
で燃えさかっている。拳チ書写の大きな体が台の前に直立した。「兄弟たちよ!今日は何の日か!
知っているか? 今日……我々は死を恐れずに……たとえ我々の首が村中すべての木の枝にぶら
さげられようとも本望だと……決意した。そうだな?……そうだな……? 兄弟たちよ……?」
まず寡婦たちから返事の声があがった。「そうだ! 八つ裂きにされても本望だ!」
甲高い声が心に刺さるように痛く、錐のように一人一人の胸をえぐった。一瞬にして強烈な悲
しみがうつむいた人々の頭をかすめ、青々とした空が落ちてきそうだった!
「国が……国が滅びた! わ……わしも……年をとってしまった! おまえらはまだ若い。お
まえらが国を救いに行け! わしのような老いぼれはもう……もう役に立たねえ! わしは老い
ぼれの亡国奴だ。わしはおまえらが日本の旗を引き裂くのを目にすることはないだろう。わしが
一187一
墓に埋められたら……中国の旗を墓の上に立ててくれ……わしは中国人だ!……わしには中国の
旗がいるんだ。わしは亡国奴にはならねえ。生きているときは中国人で、死んだときは中国の霊
だ……亡国奴には……亡国奴にはならねえ……」
重苦しく分解することのできない悲しみのために、木の葉がこうべをたれた。廼望ノは赤いろう
そくの前で力をこめて台を二度たたいた。人々はいっせいに青天に向かって実した! 人々はい
っせいに青天に向かって号泣した。大勢の人群れが叫び声をあげた1
× × × ×
こうして一丁のモーゼル銃が、弾をこめてみんなの前に置かれた。その銃口の前に歩みより、
一人一人ひざまずいて「宣誓」した。
「もし裏切りをはたらけば、天よ我を殺せ、銃よ我を殺せ。銃に魂あり、聖あり、目あり!」
アルリ バン
寡婦たちも宣誓した。やはり銃口を胸にあてて言った。二里半だけが、人々が宣誓を終えて、
ヤギを殺そうというときにようやくもどってきた。どこからか彼は一羽の雄鶏をつかまえてき
た! 彼だけがまだ宣誓をしておらず、国が滅びることに対して、彼は何も悲しみを感じていな
いようだった。彼はヤギを連れて》家へ帰っていった。
ほかの人々の目が、とりわけ殖望の目が彼を罵っていた。
「この老いぼれのびっこ野郎、おまえは、おまえは生きようと思わないのか?……」
十四、都市へ行く
出発の前夜、釜穫は水瓶のそばではさみを研いだ。それからそのはさみで死んだ子のおしめを
切り裂いた。若い寡婦はお母さんの家に身を寄せていた。
「どうしても明日行くのかい?」
横で寝ていた母さんが灯りに照らされて目を覚ました。限りない哀れみの表情を浮かべて、す
でに決められた運命の中に慰めを求めているようだった。
「行かないよ。二、三日してから行くさ。」と、釜穫は答えた。
しばらくたってまた、母親が目を覚ました。彼女はもう眠ることができなかった。娘が横にお
らず、深の真ん中で何かを洗濯しているのを見ると、彼女は体を起こして尋ねた。
「明日行くのかい? もう二、三日泊まることはできないのかい!」
釜衰が夜中に片づけをしているので、母親は彼女が出発しようとしているのだとわかった。釜穫
が言った。
「母ちゃん、二、三日出かけたら、すぐにもどってくるから。母ちゃん……心配しねえで!」
母親はまるで何かを探し求めているかのように、それ以上何も言わなかった。
太陽が高々と上った。釜穫は病気の母親のそばにまだ寄り添っていた。母親が言った。
「行かねばならねえのかい? 釜衰!行くんなら行きな! お金をかせいでくるんだよ!
母ちゃんはおまえを止めないよ。」 母親の声は痛ましさを帯びていた。
「しっかりやるんだよ。悪い人のまねをしねえで、男とつきあうんでねえよ。」
女たちはもう夫を恨んではいなかった。彼女は母ちゃんに向かって泣いた。
一188一
「全部、日本人のせいでこうなったんでしょ? 日本人め、八つ裂きにしてやる! 行かなけ
れば死ぬのを待つだけでしょ?」
釜寝が年寄りから聞いたところによると、女一人の道中では老けた格好か、醜い格好をしたほ
うがいいそうだ。彼女は腰ひもを一本しめて、油缶を体のわきにさげ、米を入れる小さな桶も腰
ひもにぶらさげて、三糸と端切れを包んだ小さなふろしきを米桶に突っ込んだ。物乞いの老婆の
格好をして、顔に灰をぬりたくって汚いあとをつけた。
出発するとき、母さんが自分の耳から銀の耳輪をはずして言った。
「これをもっていきな! ふろしきの中に入れておくから、人に奪われねえようにな。母ちゃ
んは一銭ももってねえから、おなかがすいたら、そいつさ売って、乾パンでも買って食べるんだ
よ!」 門を出てからも、まだ母親の言うのが聞こえた。「日本人にあったら、すぐにヨモギの下
に伏せるんだよ。」
釜寝は遠くまで歩いて来て、丘を下った。だが、母ちゃんの声がなおも耳元で響いていた。「乾
パンでも買って食べるんだよ。」 彼女の心は千々に思い乱れていた。どれだけ遠くまで歩いただ
ろうか、彼女はまるで家から外へ逃げ出すように、早足でふり返りもしなかった。小道にさえ短
い草が生えており、たとえ短い草でも道を急ぐ野望の足には邪魔だった。
日本兵が馬車に乗り、タバコを吸いながら、大きな道をやってきた。釜穫はぶるつとふるえた!
彼女は母親の話を思い出し、すばやく道ばたのヨモギの中にうつ伏した。日本兵が通りすぎると、
彼女は心臓をどきどきさせながら立ち上がり、おそるおそるあたりを見まわした。母親はどこに
いるのだろう? 故郷は彼女から遠ざかり、前にはまた見知らぬ村がやってきた。彼女は数えき
れないほどの世界を通りすぎたような気がした。
赤い太陽が空のかなたに沈もうとしていた。人影が地面に伸びて、さおのようにひよろ長い。
小さな川の橋を渡れば、もうたいした道のりではない!
塔観漬の 漠とした街並みの中、工場の煙突が曇り空に突き刺さっていた。
釜穫は川辺で水を飲み、ふりむいて故郷のほうをながめた。故郷ははるか遠くて見えなかった。
高々とそびえる山頂が見えるだけで、山の下は霞なのか木なのかはっきりしない。母親はその霞
の木陰の中にいるのだ。
彼女は故郷の山に対してかくも別れがたい思いがして、心臓が胸から飛び出しそうになった!
二二は自分の心がつまみだされて、どこかに放り投げられたように感じた! 彼女はもう歩きた
くなかったが、むりやり川の橋を渡り小道に入った。前方で硲褥漬の街が彼女を手招きしており、
背後では故郷の山が彼女に別れを告げていた。
小道にはヨモギが生えていない。日本兵がやって来たとき、彼女を地面の間に隠すことができ
るだろうか? 彼女は四方を見まわした。心臓が平衡を失ったために、顔面に大量の汗が流れた。
ついに彼女は日本兵に見つかった。
「おまえ! ……止まれ。」
華墨はあたかも銃弾にあたったかのように、小さな溝へ転がり落ちた。日本兵が近づいてきて、
彼女の汚らしい格好にちらりと目をやった。彼らは太ったアヒルのように、がやがや言って体を
揺らしながら、幽彼女のことは取りあわずに行ってしまった! 彼らが去ってから長いことたって
一189一
も、彼女はまだ起きあがらなかった。それから彼女は泣いた。木桶はひっくりかえり、ふろしき
包みは木桶から転がり出ていた。彼女が再び歩き出したとき、地面に映った影はますますやせて
長くなり、細い線のようだった。
釜穫は夜の蔭糠養の街で、小さな通りの排水溝のどぶ板の上に眠った。その通りは職人と人力
車夫たちの通りだった。めし屋があり、最下等の売春婦がおり、売春婦たちの大きな赤いズボン
がしばしば小さな日干しレンガ造りの家の門前にあらわれる。暇をもてあました人が、特別なし
ぐさをして、おもむろに大きな赤ズボンたちと談笑し、それから小さな家へ入っていったかと思
うと、しばらくしないうちにまた出てくる。だが、みすぼらしい釜衰にかまってくれる人は一人
もいない。彼女はまるでゴミ桶のように、病気の犬のようにそこにうずくまっていた。
その通りには警察もおらず、物乞いの老婆とめし屋のボーイがけんかをしていた。
満天の星、だがそれも疎ましいものになってしまった! 兜町とは縁もゆかりもないものなの
だ。夜半過ぎ、釜寝のそばに子犬が一匹やってきた。もしかするとその子犬は不幸な境遇の子犬
なのだろうか? この流浪の犬は木山の中に入って眠った。釜山が目を覚ましたとき、まだ太陽
は出ておらず、空はたくさんの星で埋めつくされていた。
たくさんの街の浮浪者が、めし屋の入り口にひしめきあって、最後の施しを待っていた。
釜穫は足の骨が折れるようなしびれる痛みを感じ、立ち上がることができなかった。とうとう
彼女も物乞いをする人ごみの中に分け入り、長いこと待ったけれども、ボーイがご飯をもって出
てくることはなかった。四月の野外で寝たために、体が芯からふるえていた。彼女はもし誰かに
見られたら、こんな格好ではみっともないと思い、空腹をこらえてもとの場所へもどっていった。
夜の街、それはどのような世界だろうか? 釜寝は小さな声で母ちゃんと呼んでみた。排水溝
のどぶ板の上に身を置いてたえずしゃくりあげていた。絶望して、泣いていた。だが、木桶の中
で眠っている子犬と同じように、彼女は誰にも気づかれることはなかった。まるで世の中に釜寝と
子犬など存在しないかのようだった。夜が明け、彼女は空腹を感じなくなり、むなしさだけを感
じていた。彼女の頭はすっかり空っぽになってしまった! 街路樹の下に、一人の繕い屋のばあ
さんがいた。彼女はそれを見ると、向かい側にわたって尋ねた。
「私は新しく来た者です。田舎から出てきたばかりなんです……」
彼女の困窮した身なりを見ると、繕い屋のばあさんは相手にもせずに、ひんやりとした朝に顔
から白い息を吐き出して去っていった。
しっぽを巻いた子犬は、まるでお母さんに寄り添うように、木上に寄り添っていた。朝の子犬
はきっとひどく寒かったのだろう。
マントウ
めし屋にだんだんと人の出入りが増えてきた。あつあつの白い饅頭がひと山、出窓から運びだ
された。
「おばさん、私は田舎から出てきたばかりなんです。……どこへでも行きますから、お金をか
せぐ仕事をください!」
二度目に、釜寝は成功した。ばあさんが彼女を連れていった。騒がしい通り、臭気を放つ通り
を、二人は通りすぎた。釜寝にもようやくわかったようだった。ここはもう村ではない。ここは
疎遠で、よそよそしく、冷淡なばかりだ。途中、料理屋の前の鶏と魚とおいしそうなにおい以外
一190一
のものはすべて、彼女が見たことも、嗅いだこともないようなものばかりだった。
「こんなふうに靴下を縫いな。」
金看板を掲げた「アヘン専売所」の前で、倒錯はふろしきをあけ、はさみで端切れを切って、
見知らぬ男の破れた靴下を繕った。ばあさんはまた彼女に教えた。
「さっさと縫うんだよ。できはどうでもいいから、縫いあわせさえずればいいのさ。」
平野にはわずかな力も残っていなかった。まるではやく死にたがっているようだった。どんな
にがんばっても、目を開けることができなかった。一台の自動車が彼女すれすれに走り去り、つ
づいて警察が来たかと思うと、彼女にさしずした。
「あっちに行くんだ! ここはおまえたち繕い屋の場所じゃないそ!」
釜穫はあわてて顔を上げて言った。「兵隊さん、私は田舎から出てきたばかりで、決まりを知ら
なかったんです。」
田舎で兵隊さんと呼び慣れていたので、彼女は警察のことも兵隊さんと呼んだ。彼女から見れ
ば、警察も同じように威厳のある格好をし、腰に銃をさげていたからである。みんなが彼女を笑
い、その警察も笑った。繕いばあさんがまた彼女に説教した。
「相手にするんじゃないよ。返事をすることもないからね。何か言ってきたら、おまえはうし
ろへ一歩下がれば、それでいいのさ。」
今春はたちまち恥ずかしさがこみあげてきた。自分の服がほかの人とちがうのを見て、彼女は
たちまち田舎からもってきたポロ缶がいやになり、足で缶をけとばした。
靴下を繕い終えても、おなかが空っぽの感覚は終わらなかった。もし要領がよければ、彼女は
どこかで何か食べるものを盗んだことだろう。長いこと彼女は針の手を止めて、街角で立ったま
まビスケットを食べている子供を見つめた。その子がビスケットの最後のひとかけらを口に入れ
るまで、彼女はずっと見ていた。
「はやく縫いな。縫い終わったら昼ご飯だよ。……でも、あんた朝飯は食べたのかい?」
三階はあまりの親切さに、まるでいまにも泣き出しそうだった。彼女は言いたかった。
「昨晩から何も食べず、水も飲んでないんです。」と。
昼になり、二人は「アヘン館」から出てきた幽霊のような人たちについていった。女工宿には
ある種特別なよどんだ空気があった。釜衰はまたここはもう村ではないのだと思った。だが、あ
のうつろな目、黄色い顔に彼女がようやく気づいたのは、食事を終えて、みんなが洗面器で顔を
洗い始めたときだった。全長十五メートルあまりの部屋に、しきりはなく、壁一面にナンキンム
シの血がこびりついて、下中に黒や紫の血の痕がすじを引いていた。不潔な発酵したふろしき包
みが壁ぎわに積み重ねられていた。ここにいる様々な干たちは、みんながみんな病気にかかって
いるように見え、ふろしき包みを枕にして話をしていた。
「うちの奥様は、私に親切にしてくれてねえ、食事はいつも同じものを食べるんだよ。欝を
食べるときには、私もいっしょに苞学を食べるんだよ。」
ほかの人はその話を聞くなり、彼女をうらやんだ。しばらくするとまた誰かが、お屋敷の使用
人にほっぺたをつねられたと言った。,彼女はひどく頭に来たと言い、さらにあれやこれや言いつ
づけた。こういつたややこしい話は、釜寝にはまだよくわからなかった。彼女はお屋敷って何だ
一191一
ろう、奥様って何だろうと懸命に考えていた。彼女はない知恵をしぼりつくすと、そばでタバコ
を吸っていた髪切り女に尋ねた。
「ri縦』って薯笑i夫のことだろう?」
その女は彼女に答えず、キセルを置いて嘔吐しに行った。その女は食事にハエが入っていたと
言った。だが、部屋の端から端までの長いオンドルの上に陣どった都会の女たちの笑いかたに、
釜寝はなじめなかった。彼女たちは体を前後にゆすって笑うのだ。彼女たちはこの田舎の女をあ
ざ笑って互いに肩をたたきあうほど興奮し、笑いすぎて涙を流す者までいた。釜衰はひっそりと
片隅に座っていた。夜、寝るときになって、彼女は最初に知り合いになったあのおばあさんに言
った。
「塔開智より田舎のほうがましだと思うわ。田舎の娘たちは仲がいいの。昼間、あの人たちは
私のことを笑って手をたたいていたでしょう!」
そう言いながら、彼女はふろしき包みをきつく縛った。ふろしき包みの中にはかせいだ二巴の
紙幣が入っていた。釜穫はふろしき包みを枕にして、都市のナンキンムシの中で眠りに落ちた。
× × × ×
釜衰はたくさんお金をかせいだ! ズボンの腰まわりに小さなポケットを縫いつけ、二元のお
札を中に入れて、ポケットの口を縫いあわせた。女工宿が彼女から町代を取ろうとすると、彼女
はその人に言った。
「何日か待ってくれないかい? まだお金をかせいでないんでね。」 彼女はしかたなく、もう
一度言った。
「夜、払うよ!私は田舎から出てきたばかりなんだからね。」
その人はどうしても立ち去らず、その手が釜寝の目の下に伸びてきた。女たちが集まってきて、
釜衰を取り囲んだ。まるで彼女が曲芸でも披露するかのように、大勢の観衆が集まってきた。そ
の中に三十過ぎの太った女がいた。髪の毛は完全にぬけおちて、ピンク色をしたてかてかの頭皮
が、つかつかと人前に進み出た。彼女の首はバネを取りつけたかのように、てかてかの頭を軽々
と自在に回転させ、振動させていた。彼女が釜穫に言った。
「あんたはやく払いなさいよ! お金がないはずないだろう? あんたがお金をどこにしまっ
たか、私はちゃんと知ってるよ。」
釜寝は怒って、衆人の目の前でポケットを引き裂いた。彼女のお札の四分の三は失ってしまっ
た! 人に奪われてしまった! 彼女には五角しか残っていなかった。彼女は思った。
「たった五角のお金じゃあ、お母さんに渡せない! また二元かせぐには、あと何日かかるだ
ろう?」
彼女は街へ行き、おそくまで働いた。夜、ナンキンムシがつぶされて、鼻をつく臭気を発した。
午寝は身を起こして全身をかきむしり、血が出るまでかきむしった。
二階から女どうしのけんかの声が聞こえてきた。それから女の泣く声、子供の泣く声も聞こえ
た。
× × × ×
母親の病気はよくなっただろうか? 母親は自分でたきぎを集めているだろうか? 雨が降る
一192一
と、家は雨漏りしているだろうか? だんだんと考えが悪いほうにいってしまう。彼女がもし死
んだら、ひとりオンドルの上で死んで、誰にも気づかれないのではないだろうか?
釜穫は道を歩いていた。自転車がベルを鳴らしながら彼女を追い越していった。たちまち心臓
が激しく鼓動しはじめ、自動車にひかれそうな気がして、彼女は幻想から我に返った。
釜穫はどうやったら金をかせげるか知っていた。彼女は何度か独身男の宿屋へ行ったことがあ
る。彼女がふとんの繕いものをしてやると、男たちは彼女に尋ねた。
「旦那は何歳かね?」
「死んだよ。」
「あんたは丸瓦かい?」
「二十七さ。」
一人の男がサンダルをつっかけ、ズボンの前を開いたまま、変な目つきで釜穫を見やると、唇
がいやらしげに動いた。
「若後家さんってわけか!」
彼女はそう言われたのを気にかけもせずに、繕い終わると、金をもらって帰っていった。ある
ときは、ドアを出ていくときに、呼び止められた。
「もどってこい、・・…・もどってこいつたら。」
人にいやらしい感じを与える切迫した呼び声に、急いで帰るべきだ、ふりむいてはいけない、
と二二にもわかった。夜、寝るときに、彼女はそばにいた箇ウ笑旗’に言った。
「どうして繕いものが終わって、お金をもらって帰るときに、あの人たちは私を呼び止めるの
かしら?」
1商ウ二二は言った。「あんた、人からいくらもらったんだい?」
「ふとんをひとつ繕って、五角くれたの。」
「あの人たちがあんたを呼ぶのも道理だね! さもなければ、どうしてあんたにそんなにたく
さんのお金をくれるかね? ふつうはふとん一枚で二角だよ。」
角ウ失霞はおっくうそうに、ひとことだけ言った。
「繕い屋は誰でも男たちの手から逃れられないんだよ。」
はげててかてかした頭の女が、向かい側の長いオンドルの上で、金切り声をあげた。彼女は釜穫
の生めがけて歩みよると、まるで釜寝の髪の毛を引き抜くようなそぶりをした。彼女は太った指
をいじりながら言った。
「あらまあ! 若後家さんったら、運が開けたんだよ! あれは金もうけにもなるし、気持ち
もいいしね。」
うるさくて目を覚ました人が、はげ頭を罵った。
「くたばりぞこないの、やり手のひとでなしめ。男百人でもへっちゃらなんだろ。あんたは男
百人でもまだ足りないんだよ。」
女たちが罵りながら互いに語りあい、大きな笑い声をあげる者もいた。誰かが片隅で何度もく
りかえして言った。
「へっちゃらだと! 男百人でもまだ足りないんだと!」
一193一
騒々しい蜂の群れが静かになっていくように、女たちのがやがや声もおさまり、彼女たち全員
が夢の中へ入っていった。
「へっちゃらだと! 男百人でもまだ足りないんだと!」 誰だかわからない女の声は、それ
を受け取る人もなく、むなしく部屋の中を一周して、最後は白い月が照らす紙窓の上で消えた。
× × × ×
釜穫はロシア菓子店の網戸の外に立っていた。店内の棚の上には、クリーム色の様々な菓子、
腸詰め、ブタの足、チキンといった食べ物が、つやつやと光っていた。やがて彼女は太った子ブ
タがまるまる一頭、耳を立てて長皿の上に伏しているのを見つけた。子ブタのまわりにはチンゲ
ンサイと紅トウガラシがならべてあった。彼女はすぐにも入っていき、皿ごとかかえて家に持ち
帰り、急いで母親に見せてやりたかった。だがそんなことはできない。彼女はまた日本人を恨ん
だ。もし日本人が村を滅茶苦茶にしていなければ、うちの雌ブタだってとっくに子ブタを産んで
いただろうに? 「端切れ包み」がひじからだんだんとずり落ち、彼女は知らないうちに店の入
り口の前でふらふらと立っていた6歩道を行きかう人が多くなり、彼女は通行人にぶつかった。
一人の美しいロシア人女性が菓子店から出てきた。女の赤く染めた足の爪がサンダルのすきまか
らのぞいているのに、嘘寝は目ざとく気づいた。女は歩くのが速かった。男よりも速くて、ii農寝は
もう二度とそれを見ることはできなかった。
歩道に、ザッーザッーという大きな音が響いた。大隊の通過する音だ。盗穫は鉄帽を見て、
すぐに日本兵だとわかり、大急ぎで菓子屋から走って逃げた。
彼女は街ウ突霞に出くわした。1周ウ失圏発は彼女に言った。
「ちっとも仕事にありつけねえ。私が着ているこの半袖には、替えがないんだよ。数尺の布を
買うお金もありゃしない。十日に一度払う宿代は、一元五角だろう。年をとり、老眼になり、針
仕事もおそいんじゃ、誰も私を家に呼んで繕い仕事をさせちゃあくれないよ。このひと月の飯代
も未払いのままなんだ。私はここに住んで何年にもなるがね! もし新入りなら、きっと追い出
されるに決まってる。」 彼女は横道へ曲がると、また言った。「新入りの躾婁は、病気なのに追
い出されちまった。」
肉屋を通りすぎると、二二は肉屋にも後ろ髪を引かれた。彼女は肉を一斤買って家に帰れば
それで満足だと思った。母親は半年以上も肉の味を知らないのだ。
樫糀の川の水は、休むことなく流れていた。朝はまだ観光客もおらず、船頭は川辺で退屈そ
うにふざけあっていた。
1商ウ雲門は川辺に腰をおろした。しばらく黙ったままで、それから涙をふいた。涙は彼女の最
期の日の運命のために流れていた。川の水がひたひたと川岸にうちよせていた。
釜寝は心を動かされなかった。なぜなら彼女は都市に来たばかりで、まだ都市のことを知らな
かったから。
× × × ×
二野はお金のため、生活のために、用心深く一人の独身男について彼の宿屋へ行った。ドアを
入るとすぐに、釜穫はベッドが目に入り、恐ろしくなった。彼女はベッドのふちには座らず、椅
子に座ってまずふとんを繕った。男はゆっくり彼女と話を始めた。ひとことひとことに、彼女は
一194一
心臓がどきどきした。だが何も起きなかった。釜穫はその人が自分に同情してくれているのだと
感じた。それから脚つきの服の袖を繕った。その裏つきは男の体からいま脱いだばかりのものだ
った。袖を繕い終わると、その男は腰ひものところの小さなポケットから一元を取り出して彼女
にやった。男は金をわたしながら、短いひげの生えた口を釜穫のほうへゆがめて言った。
「後家さん、誰かあんたに情けをかけてくれる人はいるのかい?」
釜穫は田舎の女だ。彼女はその人が同情したふりをしているということにまだ気づかなかった。
「情けをかける」ということばに少し感動して、心が揺れ動き、戸口で立ち止まって、ひとこと
感謝のことばを言いたいと思った。だが彼女は何と言ったらよいかわからず、そのまま帰ってし
まった! 彼女は道ばたの大きな湯沸しの笛が耳元でピーと鳴るのを聞いた。パン屋の前ではパ
ンを積みこむ車が道ばたに止まっていた。ロシア人のおばあさんの鮮やかな赤いスカーフが彼女
をかすめて通りすぎた。
「おい! もどってこい……おまえだよ、まだ繕ってもらいたい服がある。」
あの男が首を真っ赤にして、うしろから追いかけて来ていた。部屋にもどってみると、繕いも
のなどなく、男はサルのように毛むくじゃらの胸をはだけて、ぶあつい手でドアにかんぬきをか
けにいった! それから彼はズボンを脱ぎはじめ、最後に亭々を呼んだ。
「はやく来いよ……ねえちゃん。」 彼は酔倒が恐れて動けないのを見て、動かずに言った。「お
まえを呼んだのは、ズボンを繕ってもらうためさ。何を怖がってるんだ?」
繕いものが終わると、その人は彼女に一元札をくれた。だが、その紙幣を彼女の手にわたさず
に、ベッドの下に落として、彼女に腰をかがめて拾わせた。彼女が紙幣を拾うとまた奪って、も
う一度彼女に拾わせた。
釜寝は完全に男のふところに抱きこまれ、声にならないかすれ声で叫んだ。
「母ちゃんに申し訳がたたねえ!……母ちゃんに申し訳ねえ……」
彼女は救いのない悲鳴をあげていた。丸い目はカギのかかった開けることのできないドアを見
つめていた。彼女は逃げ出すこともできず、ことは起こるべくして起こった。
女工宿では夕食が終わっていた。釜寝はまるで涙の痕を踏み踏み歩いているようだった。彼女
の頭はひどく朦朧とし、心臓はどぶの中に落ちたようだった。彼女の足は力なく、くずおれそう
だった。オンドルにはいあがって古い靴と手ぬぐいを取り、故郷に帰って、すぐにも母ちゃんの
そばで横になって泣きたかった。
オンドルの端にいた病気のばあさんが、いまわのきわに宿主に追い出された。女たちはそのこ
とを議論するのをやめ、彼女たちの興味が釜寝に引きつけられた。
「いったいどうしたのさ? そんなに取り乱して?」 最初に篤ウ口車が彼女に聞いた。
「きっとひともうけしたのさ!」 次にはげ頭のでぶが当てずっぽうに言った。
1藺ウ失蚕もきっと釜穫がお金をかせいだことに勘づいたはずだ。どの新入りもはじめて「お金
をかせいだ」ときには、ひどい屈辱を感じるからだ。彼女は屈辱にさいなまれて、まるで突然、
伝染病にかかったかのようだった。
「慣れれば大丈夫さ! 恐れることなんかないよ! 金もうけになるのは本当だよ。私は金の
耳輪までかせいで手に入れたんだから。」
一195一
はげたでぶが善意で彼女をなだめ、手で耳を引っぱってみせた。ほかの人が彼女を罵った。
「恥知らず、あんたはいつだって恥知らずだよ!」
そばの女たちは釜穫の苦しみを目にして、自分の苦しみのように感じ、ゆっくりと四方に散っ
て、寝る準備を始めた。そのことに対してもの珍しさを感じたり注意を払ったりする者はいなか
った。
× × × ×
釜穫は勇敢にも歩いて都市へ行き、そして屈辱が彼女を郷里へ追い返した。村の入り口の大樹
の枝に人の頭を見つけた。ある種の感覚が骨髄を通りぬけ、彼女の全身の皮膚が寒気を感じた。
それはなんと恐ろしい、血に染まった人の頭だろう!
母親は昏昏の一元札を手にすると、彼女の歯が口の中におさまりきらずに、すっかり外に露出
してしまった。彼女は紙幣の模様をとくとながめながら、うれしくて自分をおさえることができ
ずに言った。
「うちで一晩泊まって、明日出発するがいい!」
野里はオンドルのふちで、しびれるように痛む足をたたいていた。母親は娘がなぜ喜んでいな
いのか気にもとめずに、一枚の紙幣に続いて次の一枚のことを考えていた。彼女は思った。もっ
とたくさんのお金を手に入れることもできるんじゃないだろうか? 娘を励ましてやらねば。
「服を洗って片づけなさい。明日は朝一番に出発だよ。村にいては、まともな暮らしのできる
日はねえんだから。」
彼女は気持ちをおさえることができずに、まるで娘を責めているかのようで、娘へのやさしさ
はまったく感じられなかった。
窓がひとつ急に開いたかと思うと、銃をもった黒い顔の男が飛びこんできて、釜穫の左足を踏℃
みつけた。その黒い男は屋根裏を見やると、もの慣れた様子で屋根裏へよじ上っていった。至葵も
あとからついてきた。何日も釜寝に会わなかったのにひとことも言わず、まるで何も目に入らな
いかのように、一目散に屋根裏へ上っていった。釜寝と母親もわけがわからないままに、ただは
いあがるだけで精一杯だった。夕暮れ時になっても悪い知らせば来なかったので、彼らは芋虫の
ように屋根裏からはいおりてきた。窒萎が言った。「軽繍養はきっと田舎よりましなんだろう。今
度行ったらもどってくるんじゃねえよ。村では日本人がますますひどいことをしている。おなか
の大きな女をつかまえて、『紅霜萎』(義勇軍の一種)への復讐におなかを裂いて、生きたままの
子供が腹から流れ出てきたのさ。その事件のために、拳嘗苗が日本人二人の頭を割って木の上に
つるしたんだよ。」
釜穫はフンと鼻を鳴らした。
「これまでは男を恨んでいたけど、いまは日本人が憎らしい。」 最後に彼女は悲しみのどん底
に沈んだ。「私は中国人が憎い? それ以外には恨むものはない。」
塗葵の学識は、釜穫にもおよばなくなってしまった!
一196一
十五、失敗した黄色の弾薬
出発した部隊が南の山道を曲がると、子供は母親のふところで父親に別れを告げた。並木道を
行き、川辺を進む彼らの服装と足取りは、部隊のようには見えなかったが、服の下には勇猛な心
が隠されていた。その心が彼らを連れだしたのであり、彼らの心は銅のようにひとつに凝縮して
出発した。最後の一人が大きな山で見えなくなってしまう最後の瞬間に、母さんのふところに抱
かれた一人の子が「父ちゃん」と叫んだ。子供の呼び声にこたえるものは何もなかった。父親は
手をふりもせず、子供の声はまるで岩にぶつかったようだった。
女たちが家に入ると、部屋は空っぽになったようだった! 家はまるで空中に建っているよう
で、白っぽい太陽の光が窓から差しこんでいたが、それは何の意味ももたらしていなかった。彼
女たちは男が帰ってくるのを必要とはせず、ただよい知らせだけを必要としていた。知らせが届
いたのは、五日後だった。鍵ンが骨と筋の浮きでた足をむきだしにして拳斐嬉学のところへ駆け
こんで言った。
「i害シ苗たちがやられたらしいそ!」 明らかに麓は手足のおきどころもないほどあわてふ
ためいており、彼のひげもガクガクとふるえて、まるで彼の口からふり落ちてしまいそうだった。
「誰か本当にもどってきた人がいるのかい?」
峯竺嬉孚ののどは細長い管に変わってしまい、出てきた声は多角形になっていた。
「本当さ、三門がもどってきたんだ!」と楚讐は言った。
× × × ×
厳粛な夜が、空からおりてきた。日本兵が行事詩、首籏篭、旧記を襲撃した……
皐難はいま至套簾の家にいた。彼は情婦の胸の中で休んでいた。外で犬が吠え、日本人の話し
ピンアル
声が聞こえると、二二は塀を越えて逃げていった。彼はヨモギの中に身をひそめ、カエルが足の
間で跳びはねた。
「あのガキはどうしてもつかまえろ。やつらは義勇軍とつながってるかもしれないからな。」
ヨモギの問で、彼は誰かが「裏切り者の犬たちめ。」と言っているのをはっきり耳にした。
ピンアル
彼の情婦が拷問され殴られているのも、平児ははっきりと耳にした。、
「男はどこへ行ったんだ?一はやく言え。言わないなら、銃殺だぞ,!」
彼らは罵りつづけた。「おまえら、メス犬ども、ブタの子め。」
ピンアル
平児は素っ裸だった。彼は遠くまで逃げた。彼が服の襟で汗をふこうとすると、襟がなかった。
足をかきむしってみてようやく、地面に映った自分の影が、丸裸の子供と同じだということに気
づいた。
アルリヘパン
がにまた
ニ里半のあばたのかみさんが殺された。三二腿も殺され、二人が死んで、村は二日ほど静かに
なった。三日目はまた人が殺される日だった。日本兵が村中をうろつきまわり、輩碓は釜穫の家
の屋根裏で夜を過ごそうとした。吟歩が言った。
「だめだよ! 屋根裏はさっき深蒐学が来て捜しまわったんだから。」
ピンアル
ピンアル
そこで平児は畑へ逃げた。銃弾が続けざまに彼をめがけて発射された。平児の目はまわりの様
子を見ることもできない。彼は近くで人の叫び声を聞いた。
一197一
「生け捕りにしろ、生け捕りだ。……」
彼がそう聞いたのは錯覚だった。目の前に見えた扉を押して中へ入ると、一一人のじいさんが飯
ビンアル
を炊いていた。平児の目から涙が流れそうになった。
「i箸予予、助けてくれ。おいらをかくまってくれ!はやく助けてくれ!」
じいさんが言った。「どうしたんだ?」
「日本人がおいらをつかまえようとしてるんだ。」
ピンアル
平児の鼻から血が出た。まるで彼が日本人と口に出して言ったために、血が出たようだった。
彼は家中の四方八方を見わたしたが、まるでひとすじのすきまも見つけられそうになかった。彼
が身を翻して逃げ出そうとすると、老人が彼をつかまえた。裏口から出ると、肥だめの長方形の
籠が戸のそばにあった。その肥だめの籠をとると、老人は言った。
「ここにもぐりこんで、息さひそめてろ。」
ピンアル
老人は紙切れにお粥をぬって裏口を封印すると、鍋のそばで飯を食った。肥だめの籠の中の平児
は、誰か来た人が老人と話をしているのを耳にした。それから誰かが戸のかんぬきをがちゃがち
ゃやっているのが聞こえた。戸はいまにも開きそうだ、自分は捕らえられてしまう!彼は籠か
ら跳びだしたいと思った。だが、まもなくその人たちは、その悪魔たちは行ってしまった!
ピンアル
三児は安全な肥だめの籠から出てきた。顔中が糞とほこりにまみれて、白い顔は赤い血の筋で
染まっていた。鼻からはまだ血が出ており、彼の姿は目もあてられない惨めさだった。
× × × ×
籍苗は今回、「革命軍」が役ヒ立つことを確信して、村へ逃げかえってきた。ほかの人たち
とはちがって、彼は落ちこんだ顔をしていなかった。彼は至葵の家で言った。
「革命軍のよいところは、でたらめなことをしないことだ。彼らには規律がある。今度わしに
わかったことは、轟浮はもうおしまいだということだ。内輪もめで、ごたごたやりあってばか
りだ。」
今回、聴衆は少なく、人々は讐「苗のいうことを信じていなかった。村人は生まれつき失望しや
すく、誰もがすぐに失望した。誰もがもうこれでおしまいだと思った1殖磐だけが、失望して
いなかった。彼は言った。
「それじゃあ、もう一度組織して革命軍になろうじゃないか!」
至萎は殖1望の話しかたが子供のように滑稽だと思った。だが彼女は彼を笑わなかった。彼女の
フ ツ
そばに、鼠子となって救国に参加したことのある女英雄が、男の帽子をかぶって座っており、言
った。
「死んだのは置いてきたとして、けがをした人はどうしたの?」
「軽傷の者はみんな帰ってきたじゃないか! 重傷を負った者はしかたがない。死ぬしかない
さ!」
ちょうどそのとき、葺E詩の一人の老婆が気でも狂ったように泣きながら走ってきて、拳響苗に
いどみかかった。彼女は頭をかかえて、まるで石をかかえるかのよう壁にぶつけ、口では短いこ
とばを発していた。
「拳響苗。……仇め……うちの息子はあんたに連れていかれて命を落としたんだ。」
一198一
人々が彼女を引き離そうとしたが、彼女がカー杯もがくので、狂った牛よりも力が強かった。
「このままでは気がすまない。私を日本人のところへやってくれ! 私は死にたい、……死ぬ
べきときが来たんだ!……」
彼女はこうしてたえず自分の髪の毛をかきむしっているうちに、ゆっくりと倒れ伏した。彼女
は息もたえだえに、至萎のひざをそっとたたいて言った。
「あんたなら、おらの気持ちがわかってくれるだろう。十九歳で後家となり、何十年も後家を
とおして、息子を育てあげた。……ひもじさに耐えたあの日々! 子供と山へ芝草を刈りに行っ
たとき、大雨にあい、鉄砲水で山から親子二人して流されちまった。おら、頭が割れたかと思っ
たが、どういうわけか、死ななかった……さっさと死んでいれば片がついていたのに。」
彼女の涙が至藝のひざを熱くぬらした。彼女は忍び泣きを始めた。
「これから先、何を頼りに生きうっていうんだい?……死んだほうがましだ! 日本人がいる
からには、茎幕も大人にはなれまい。死んだほうがましだ!」
× × × ×
果たして死んでしまった。家の梁に首を吊って死んだのだ。三歳の子・茎糀の小さな首が祖母
とならんでぶらさがり、ちょうど二匹のやせた魚のように高く吊りさがっていた。
死亡率が村でまた急速に上がりはじめた。だが人々はそのことに気づきもせず、伝染病にかか
ったかのように、村全体が意識を失った中でもがき苦しんでいた。
「愛国軍」が豊明を通りがからた。黄色い旗を掲げ、旗には赤い字で「愛国軍」と書いてあ
った。人々の中にはついて行く者もいた。彼らは何が愛国かも、愛国は何の役に立つのかも知ら
なかった。ただ彼らは食う飯がなかったのだ!
峯響苗は行かなかった。あれは奮芋が組織したものだと言った。廼磐は「愛国軍」のことで
息子とけんかした。
「おれの考えじゃ、おまえは行くべきだ。家にいることが、もしうわさで伝わると、おまえは
っかまえられるぞ。やつらについて行って、しまいに聖節蒐字を一人でも殺せば上出来だし、う
っぷんも晴らせるじゃねえか。若くて気概のある者が、うっぷんを晴らすのはいいことだぞ。」
平坦にはまるで見識がない。彼のこうしたむやみやたらな言いかたに、息子は感心しなかった。
睾冤が父ちゃんと話をするときは、いつも目をぐりぐりさせて斜にかまえるか、不格好に肩を二、
三度すくめるかして、相対するのだった。彼はそれがどうにも我慢ならなかった。麓はひそか
にこう思うこともあった。
「おれさま、薯嶺1望がもっと若い宗オi濱1豊ンであったらなあ1」
十六、尼さん
釜穫は尼さんになろうとしていた。
赤レンガの尼寺は山すそのむこう端にあった。彼女は戸を開けようとしたが、開かなかった。
スズメの群れが庭の真ん中でえさをついばんでいた。石段には緑色の苔がびっしり生えていた。
彼女が近所の婦人に尋ねると、婦人は言った。
一199一
「尼さんは事変のあと、いなくなったよ。寺を建てた大工といっしょに逃げたっていううわさ
だよ。」
鉄の柵から中をのぞくと、建物にはまだ窓が取りつけられておらず、長さもまちまちな材木が
庭に置きっぱなしだった。本堂には小さな泥造りの仏像がわびしく鎮座しているのが、はっきり
と見えた。
訓言はその女のおなかが大きいのに気づいた。釜穫は彼女に言った。
「そんなに大きなおなかをして、外に出るのが恐くないの? 日本人がおなかの大きな女を切
り裂いて、『紅霜萎』に復讐するっていう話を聞いたことがないの? 日本人は女の腹を切り開
いて、そのまま連れて戦場に行くんだよ。恐れを知らない蒙鰯萎も女だけは恐れる、と日本人は
言っている。やつらは『慧霜li婆』のことを『鉄のように不屈な子供』と呼んでるんだよ!」
その女はたちまち泣き出した。
「私はお嫁に行きたくねえって言ったのに、母さんが許さなかったんだ。日本人は小娘をほし
がるって、母さんは言ったの。それが、いまはどう? この子の父ちゃんは出ていったきり、も
どってこねえ。『義勇軍』になったのさ。」
誰かが寺の裏からはい出てきた。釜穫たちはびっくりして逃げた。
「幽霊でも見たみてえだな? おれが幽霊とでもいうのか?……」
かって若く美しかった若者は、死んだ蛇のようにはってもどってきた。i灘が出てきて、自
分の夫を目にした。彼女は昔けがをした馬のことを思い出した。鎌脚は彼に聞いた。「『義勇軍』
はやられたのかい?」
「全滅さ! 全員死んだよ! おれもおしまいさ!」 彼は片腕で草の葉をつかんで向きなお
った。
「このあばずれめ、おれがこんなになったというのに、やさしいことばのひとつもねえのか?」
撚は、眠ったヒマワリのように、うなだれた。おなかの大きな女は家に帰っていった!
釜衰はどこへ行くのだろうか? 彼女は出家しようと思ったが、尼寺はとっくに空っぽだった!
十七、不健全な足
「『人民革命軍』はどこにいる?」 竺董筆がいきなり讐ノに尋ねた。恩讐ノは「竺篁宰は敵の
手先になったんでねえか?」と思って、彼に教えなかった。墾董箪は害苗にも聞きに行った。害シ苗
は言った。
「おまえは聞かなくていい。何日かしたら、おれについて来ればいいんだ!」
アルリ パン
ニ里半はまるですぐにも革命軍にはせ参じたくて、いてもたってもいられないようだった。
著「苗がのんびりと彼に言った。
「革命軍は磐宕にいるが、おまえ行けるか? おれが見たところ、おまえは臆病者で、ヤギの
一頭も殺せないようだが。」 それから彼はわざと辱めるように言った。
「おまえのヤギは元気にしているか?」
アルリ バン
三里半は怒りのあまり、白眼がたちまち黒眼よりも多くなった。彼の情熱はたちまち心の中で
一200一
凍りついた。峯嘗苗はそれ以上彼と話さずに、窓外の空のかなたの木をながめて、小声で首をふ
った。彼は小唄を歌いだした。竺篁宰が出ていこうとしたとき、皆シ苗のかみさんが厨房で汗を流
しながら彼に言った。
「拳…1完寂、ご飯を食べてからお帰りなさいよ!」
警シ苗は翌董宰の憐れな格好を見ると、笑って言った。
「家に帰って何をするんだい、かみさんもいねえのに。飯を食ってから行けよ!」
彼は自分に家庭がなくなったので、他人の家庭が恋しくなった。彼ははしを取ると、またたく
問に麦飯を一一碗かきこむと、続けざまに大盛りで二杯たいらげた。ほかの人がまだ食べ終わって
いないのに、彼はもうタバコを吸っていた! 彼はスープは少しも飲まずに、ご飯だけ食べると
タバコを吸いに行った。
「スープも飲めよ。白菜汁、うまいそ。」
アルリ パン
「飲まねえ。かみさんが死んで三日、三日間、飯を食ってなかったんだ!」 二里半は首をふ
りふり言った。
害霜があわてて聞いた。「おまえのヤギは飯を食ったのか?」
アルリ パン
正忌半は腹いっぱい飯を食べると、まるですべてに希望が出てきたようだった。彼はもう怒ら
ずに、いつものように自分で笑いだした。彼は満足して著「苗の家を出ていった。小道でたえずタ
バコを吸っていた。 漠たる空も彼に悲哀を覚えさせることはなく、カエルが小川のほとりでグ
ワグワとしきりに鳴いていた。川辺の小さな木が風に吹かれてさざめいていた。彼はかつての自
分の畑を踏みしめながら、かつての記憶の波に身をゆだねていた。畑には野菜ひとつ生えていな
かった。
むこうの家のおばあさんと子供たちが、夕暮れの中、畑をはいずりまわっていた。畑の端で出
アルリヘパン
くわすと、二里半が言った。
「畑を掘っているのかい? 畑の中に宝物でもあるのかね? あるなら、わしもしゃがんで掘
ってみるか!」
一人の小さな子供が澄みきった声を出した。「麦の穂を拾ってるんだよ!」 子供は楽しそうだ
った。年取った祖母があちらでため息をついた。
「宝物があるかだって?……なんてこったい? 子供が腹をすかして泣くもんで、こいつらを
連れて麦の穂を何粒かでも拾いに来たのさ。家に帰って子供たちに何か作って食べさせようと思
ってね。」
アルリ パン
ニ里半はおばあさんにキセルを吸わせた。彼女はキセルを取ると、ぬぐいもせずに口にした。
彼女はキセルに習熟しており、しかも必要としていることが明らかだった。彼女は肩を高々とせ
り上げ、かたく目を閉じて、濃い煙をたえまなく口から、鼻から吐き出した。その吸いかたはと
ても危険で、まるで彼女の鼻に火がつきそうだった。
「ひと月以上にもなるよ、キセルをさわらなくなって。」
アルリ パン
彼女はまだキセルを手放したくないようだったが、理性がしぶしぶ彼女にそうさせた。二里半は
キセルを受け取ると、地面でコツコツたたいた。
世の中はかくも寂しくなってしまった! 空のかなたの赤い霞に飛ぶ鳥はおらず、人家の垣根
一201一
に吠える犬はいなかった。
おばあさんは腰からゆっくりとしわになった紙を取り出した。その紙をゆっくりと手の上で広
げ、それからまた折りたたんだ。
「家に帰ってから読んでみな! かみさんも、子供もみんな死んでしまったんだ! 誰があん
たを助けてくれというんだね。家に帰ってから読んでみな!読めばわかるさ!」
彼女は、まるで魔よけのお札を指さすように、その紙を指さした。
空はいっそう暗くなった! 天幕が人の顔をおおったように暗くなった。一番小さい子が、何
歩か歩くたびに、祖母の太腿に抱きつく。その子はずっと叫んでいた。
「ばあちゃん、籠がいっぱいで、もてないよ!」
祖母はその子にかわって籠をもち、手を引いてやった。幾人かの年上の子供たちは、護衛隊の
ように、前を駆けていた。家に着いて、祖母が灯りをつけて見ると、籠にはヨモギがいっぱいで、
ヨモギが籠のふちからはみだしそうになっていたが、麦の穂はなかった。祖母は子供の頭をたた
きながら笑った。
「これがおまえの拾った麦の穂かい?」 祖母の笑顔は憂いに沈んだ顔に変わった。彼女は思
った。「子供には麦の穂の見わけがっかねえんだ。子供たちはよくやってくれた!」
× × × ×
アルリ バン
端午の節句だ。夏とはいっても、秋風が吹いているようだった。二里半は灯りを消すと、凶暴
な格好で軒下にあらわれた。包丁を手にして、塀のすみ、ヤギ小屋から、庭の外のポプラの木の
下まで、くまなく捜した。彼は自分の足手まといになるものを片づけるために、なんとしてもす
ぐさまあの老いたヤギを殺さねばならないかのようだった。
アルリ パン
それは二里半の出発前夜であった。
老いたヤギがメーメー鳴きながら帰ってきた。ひげの問には草がはさまっており、それを柵で
アルリ バン
こするので、柵が音をたてた。二里半は手にした包丁を、頭より高く掲げて、欄干に向かって歩
いていった。
包丁が飛んでいった。ザクッと苗木を切り倒した。
アルリ バン
老いたヤギが歩みより、彼の足にすりよった。二里半は長い長い間、ヤギの頭をなでていた。
彼は深く恥じて、まるでキリスト教徒のようにヤギに祈りをささげていた。
朝早く、彼はヤギに話しかけているようだった。ヤギ小屋でひとしきりぶつぶつ言うと、小屋
の柵を閉めた。ヤギは柵の中で草を食べていた。
端午節は、晴れわたった青空だった。二二には、とても端午節とは思えなかった。麦は伸びて
おらず、麦の香りもしてこない。紙の瓢箪がぶらさがっている家はどこにもなかった。彼は思っ
た。すべてが変わってしまった! あっという問に変わってしまった!去年の端午節の様子が、
ありありと、目の前に浮かぶようだった。子供たちは蝶をつかまえていたじゃないか? 彼は酒
を飲んでいたじゃないか?
彼は門の前の倒れた木の幹に腰をおろして、失われたすべてを懐かしんでいた。
峯嘗苗の姿が彼のそばをよぎった。彼は「土方」の格好をして、裸足でズボンのすそを巻きあ
げていた。彼は楚趨ノに言った。
一202一
「おれは行ってくる! 城内で人が待っているから、すぐに出発だ……」
箸シ苗は端午節のことを口にしなかった。
アルリ パン
ニ里半がはるかかなたから、びっこをひきひき駆けつけてきた。彼の黒馬のような顔は、まる
で笑みを浮かべているようだった。彼は言った。
「あんたはここさ座ってるんだな。そのうちこの木の上で朽ちてしまうんだろう、……」
アルリ パン
ニ里半がふり返ると、柵の中に閉じこめておいたはずの老いたヤギが、なんとうしろについて
きていた。たちまち彼の顔が切なさにゆがんだ。
「この老いぼれヤギ……おれのかわりに面倒さ見てくれ! 籠響喜! 一日でも長く生きて、
おれのかわりに面倒さ見てやってくれよ1……」
アルリ パン
ニ里半の手が、ヤギの毛の上で別れを惜しんでいた。彼の涙を流した手は、最後のひとときま
でヤギの毛をなでていた。
彼は急いで出発すると、前を行く蓼蓄苗を追いかけていった。うしろでは老いたヤギが哀しげ
に鳴きつづけ、ヤギのひげがゆっくりと揺れていた……
拳響苗の不健全な足はびっこをひきながら、遠ざかっていった! かすんでしまった! 山と
林が、ますます遠くなった。誕ノに連れられたヤギの鳴き声が、はるかかなたから杏々と聞こえ
ていた。
一九三四年九月九日
一203一
【訳者付記】
本誌前号に引き続き、瀟紅(1911・1942)の小説「生死場」(1935)の後半部分を訳出した。
翻訳にあたり底本としたのは、『奴隷叢書二三 生死場』(上海:奴隷社[出版】,容光書局[発行】,
1935)を影印した1985年上海書店版である。あわせて、『二二二二』(北京:人民文学出版社,
1958)、および『斎虹全集』(吟ホ演:姶ホ演出版社,1991;1998)も参照した。
前稿で「日本語訳として発表されるものとしては初めてのもの」と記したが、豊田周子氏の未
公刊の学士論文「「生死場」考:筆致の特異性と内包された思想」(大阪女子大学,2001)に「生
死場」全訳が付録されている。
ここでは「生死の場」をめぐる批評をいくつか紹介しておきたい。なお、より完全な文献目録
は、平石淑子編『一門作品及び関係資料目録』(東京:汲古書院,2003)をご参照いただきたい。
1.a.魯迅「薫紅:作『生死場』序」(薫紅『生死場』上海:容光書局,1935;『魯迅全集』第6
巻,北京:人民文学出版社,1981;2005)
1.b.魯迅,今村与志雄訳「薫紅『生と死の場にて』序」(『魯迅全集』第8巻,東京:学習研
究社,1984)
2.胡風「『生死場』読後記」(薫紅『生死場』上海:容高書局,1935;『胡風評論集』上,北
京:人民文学出版社,1984;『胡風全集』第2巻,武漢:湖北人民出版社,1999)
3.a. Howard Goldblatt, Preface to The ITield ofLife and Dea th and Tales ofHulan River:
7Lvo Novels by Hsiao Hung (Bloomington: lndiana University Pre ss, 1979)
3.b.葛浩文「『生死場』与『呼蘭山伝』英訳版序」(葛浩文著,劉以圏主編『漫談申国新文学』
香港:香港文学研究社,1980)
4.a.平石淑子「薫紅『生死場』論」(『人間文化研究年報』第4号,東京:お茶の水女子大学
人間文化研究科,1981)
4.b.平石淑子,董学昌訳「論薫紅的『生死場』」(『北方文学』1981・12,二二濱:北方文学雑
志社,1981;孫延林主編『薫紅研究』第2輯,吟爾濱:吟爾濱出版社,1993;姜世
下主編r生死場研究』香港:天馬図書有限公司,2000)
4.c.平石淑子「再論『生死場』」(『大正大学研究紀要:人間学部・文学部』第88輯,2003)
くしd.平石淑子『二二研究:その生涯と作品世界』(東京:汲古書院,2008)、とくに「第三章
中期文学活動」の「二、「生死場」の世界」。
5.孟悦・戴二等「薫紅:大智勇者的探尋」(孟悦・戴錦華『浮出歴史地表:現代婦女文学研
究』鄭州:河南人民出版社,1989;北京:中国人民大学出版社,2004)
一 204 一
6.a. Lydia H. Liu, “Literary Criticism as a Discourse of Legitimation,” in 7}ranslingual
Praetiee: Literature, National Cuimre, and 7}ranslated Modernity−Cblna.
1900’1937(Stanford: Stanford University Press, 1993)
6.b.劉禾「作為合法性話語的文学批評」(劉禾著,宋偉傑等訳『跨語際実践:文学,民族文化
与被訳介的現代性(中国,1900−1937)』北京:生活・読書・新知三智書店,2002;修
訂訳本,2008)
6.c.野鴨「文本、批評与民族国家文学:『生死場』的啓示」(唐小兵編『再解読:大衆文芸与
意識形態』香港:牛津大学出版社,1993;増訂版,北京:北京大学出版社,2007)
6.d. Lydia H. Liu, “The Female Body and National Discourse: The Field of life and Death
Revisited,”in Inde叩al Grewal and Caren K:ap lan, eds., Sea ttered」eegernonies’
Postznodernity and 7}ransma tional Feminist Praetiees (Minneapolis: University of
Minnesota Press, 1994)
6.e.劉禾「重返『生死場』:婦女与民族国家」(李小江・朱虹・董秀玉主編『性別与中国』北
京:生活・読書・新知三聯書店,1994)
7.秋山洋子「薫紅再読:「女の表現」を求めて」(『世界文学』84,世界文学会,1996。のち
『私と中国とフェミニズム』東京:インパクト出版会,2004)
8.豊田周子「『生死場』考:筆致の特異性と内包された思想」(『女子大文学:国文篇:大阪
女子大学人文学科日本語日本文学専攻紀要』53,2002)
1,2は初版本に付された序文と後記で、以後「生死の場」を抗日文学として規定することとな
った。それに対して、3,4はアメリカと日本の研究者によるオルタナティブな読みで、抗日以外
の側面にも光をあてている。5,6,7はフェミニスト批評以降の読みである。8は文体論分析に加
えて、絵画や演劇といったコンテクストにも目を配った意欲作である。
なかでも、6のりディア・リウは、『生死場』が男性批評家のいうような国民国家の物語ではな
く、農村における家父長制的伝統と女性の生/性の葛藤を描いたものであることを、フェミニズ
ム批評の立場から論じ、現代中国文学の正典を転覆的に読み直すことに成功している。さらに文
学の正典が生まれるに際して作用する権力や制度を明らかにすると同時に、国民国家・国民文学
の成立によって抑圧された女性の声を救い出す画期的な批評である。
こうした批評とあわせ読むことによって、「生死の場」は植民地主義・国民国家・女性・身体と
いったトピックスが交差し、せめぎあう場であって、批評のプラクティスに格好のテクストであ
ることが理解されることと思う。本訳稿がこれらの批評とあわせて活用されることを、訳者とし
ては希望している。
本訳稿は、2003年度後期に九州大学大学院比較社会文化学府で開講した「アジア言語文化論II
1】V」での講読の成果である。受講生の間ふさ子、中尾健一郎、溝口喜郎(五十音順)の各氏に感
謝したい。
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