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新潟の庭園は文化の表看板 - 要松園コーポレーション

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新潟の庭園は文化の表看板 - 要松園コーポレーション
新潟の庭園は文化の表看板
庭園講座資料
2009.06
2009.07 改訂
2009.09 改訂
新潟の庭園は文化の表看板
土沼 隆雄
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新潟の庭園は文化の表看板
庭園講座資料
はじめに
世の中、迷走してくると、必ずコトの本質論を問う声がどこからともなく湧
き上がり、その真実や価値に立ち戻ろうとします。
庭園ではどうか。たしかに昨今の多種多様なライフスタイルや好みが新しい
庭園のイメージやデザインを生みました。しかし、いつからかそれらは偏重さ
れ、その結果、
「何でもあり」のような風潮も生まれ、庭園の攪乱状態を招いて、
そのさまはあたかも迷走しているかのようです。
そんな中、「これこそが本当の庭園であり、他は邪道だ…」とか、「日本庭園
とはこういうものだ」とか「樹木はこのように配植し、石はこういう風に組む
のが本当だ」、はたまた「庭園の文化財的価値とは」などと庭園の本質論議?が
交わされています。
しかし、このような議論は言わば庭園の形の議論であり、庭園の向こう側に
いる“庭園を楽しもうとする人”が傍らに追いやられ、庭園と人とがどんどん
かけ離れていっては困ります。
庭園の本質とは、庭園の形そのものではなく、
「人と庭園との関係の本質であ
る」と私は考えています。ここに重要な意味があります。
幸い、新潟地方には素晴らしい庭園が数多く残っております。歴史的にみて
も質の高い庭園文化を築いてきました。少々生真面目(きまじめ)な作風です
が、作り手も所有者も一生懸命に生きてきた足跡をみる気がします。自然を見
つめ、我(われ)を見つめ、究極的には自然と我を一体化させる。そんな崇高
な精神性と豊かな感性が、独特の「新潟の美の坪(にわ)」を表現してきました。
庭園には二つの所有形態があります。一つは庭園そのものを身近につくるこ
と、もう一つは庭園に出かけていくことです。これからの時代は、益々庭園に
出かけて行き、我が庭のように庭園を楽しむことが主流になるでしょう。
庭園とは、ゆったりとした気分で眺めることが楽しい、人と語り合うことが
楽しい、学ぶことが楽しい、育てることが楽しいなど、楽しいことがギュッと
凝縮して積み重なった「生きがい」や「やりがい」に連なっていく場であって
欲しいものです。庭園を通して豊かな人生とは何かを見つめてみたいと思いま
す。
庭園と我々人間との本当の関係とは何か、それを結ぶ手段としての庭園の発
見。今、もう一度このような観点から庭園を考えてみましょう。
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新潟の庭園は文化の表看板
庭園講座資料
1.日本の庭園の大きな流れ
図-1.庭園の系譜
その昔、狩猟から農耕へと生活のスタイルが変わると、人々は農作業をするため
の多目的な場=「にわ」を持つようになりました。後に、そこに好きな木や草花を
植えたり、池や流れを配して自分の身近に好みに合う美しいと思う自然を取り込ん
でいきました。こうして発祥した素朴な「にわ」がある一方で、平安時代には貴族
たちの政の舞台としての施設(寝殿造り建築)とそれに付随した庭園が現れました。
また、大陸からやってきた仏教の影響で、心深く祈る仏の世界をモチーフとした
庭園(浄土式庭園)も出現しました。室町・桃山時代には、能や茶の文化が花開き
ました。数寄者といわれる人々が茶に禅の精神を吹き込み、目に見えないものに高
い精神性を見いだし、侘びたもの、寂びたものに無常観やものの哀れを重ねた美の
世界と感性を育てました。これらは露地(茶庭)の精神的土台となりました。
日本庭園はよく「見立ての文化」と言われます。白砂を大海に、石を仏に見立て
る石庭(枯山水)。本来の使用とは違う用途を庭園に持ち込み,斬新な美と価値を発
見して育ててきました。
さて、時代が下り、江戸時代になると社会の安定が庭園趣味を生み、庭園の裾野
は庶民の生活の場にまで広がりましたが、このブームに乗って作庭の解説書やマニ
ュアル本が登場しましたが、庭の心は特定のマニュアルで表現できるものではあり
ません。日本人の精神と伝統、生活の仕方や美意識が折り重なった文化が土壌とな
り、形成された一つが日本庭園ではないでしょうか。
明治時代に入ると庭園は、伝統的日本庭園(個人領域)と公共造園(公共領
域)とに大きく分かれて歩くようになりました。そして、現代では、実に多様
な領域を抱えるようになりました。伝統形式の純粋日本庭園がある一方で、多
国籍庭園、風景や場所が持つ特色により大きな視点を置く(ランドスケープ※1)
、
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新潟の庭園は文化の表看板
庭園講座資料
自然基調・生物生態系などの領域(エコロジー)
、観る庭から使う庭=社交の場
(ガーデニング)への移行まで含め、これからも時代とともに、人とともに変
化していく庭園。その中で、日本庭園は時代の変化を吸収し、投影しながら、
未来へと受け継がれています。
2.新潟の庭園
2-1.新潟地方の庭園の始まりと特徴
新潟地方の庭園は、豪農と呼ばれる地主の暮らしと深い関わりを持ってきま
した。地主たちは江戸期の初めから米の収穫高を増やすために積極的に新田開
発を進め、稲作経済で多くの富を得ました。そして、その財力によって広大な
土地を所有し、建物を敷地の中央に構えて周辺に大庭園をつくりました。この
庭園の特徴として①面積が大きいこと。②水利用があること。③周りを木々で
取り囲むこと、などが上げられます。
これらの庭園は平野部(蒲原四郡)に集中して存在しており、その多くが池
を中心にして歩き廻りながら楽
しむ池泉回遊式庭園※2 でした。
当時、文化の中心は江戸(東京)
というよりも、むしろ京都であ
り、建物の大半は京都の伝統・
数奇屋造り、書院造りを参考と
したものでした。庭園の築造も
庭石、石灯籠などの材料はもと
より庭師を京都から招聘するな
ど、京の雅文化に強いあこがれ
を持っていました。そんなわけ
で、豪農の庭園は、自然を取り
込むというよりも石灯篭、飛石
、蹲踞(つくばい)、垣などの景
図-2.米収穫高と庭園数
物、茶室などの添え物による豪華趣味的な庭園でした。新潟の地主たちは、庭
園を持つことで格式や権威を得るなど言わば武士に憬れた側面もあり、その意
味では庭園は財力や格式、教養の象徴だったのかもしれません。また、豪農の
庭園は、飢饉や水害などで貧窮した農民を救済する目的でしばしば整備されて
おり、自主的な公共救農事業の一面も持っていました。
元禄期、経済活動の拠点となった新潟湊を中心とした商業地新潟町では、際
立った土地の生産や労力支配の構造はなかったものの、海運による流通基盤が
確立していました。そのため、金融、穀物取引、株式投資などの事業を中心に
高所得者層らが所有する屋敷、別宅、そして料亭などに付随した小規模な庭園
が多くつくられ、他の地域とはこの点で違いがありました。
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新潟の庭園は文化の表看板
庭園講座資料
さらに、この「違い」を決定づけたのに作庭家・田中泰阿弥氏の存在があり
ます。いかに傑出した人物であったかについては後段で記述することにして、
ここでは概略にとどめます。氏は刈羽郡の出身で本名は田中泰治。室町幕府の
同朋衆の阿弥号を冠し、銀閣寺湧泉石組を発掘したことで有名です。昭和初期
から新潟の名士や豪農の庭園整備を行い、高柳の貞観園、沢海の伊藤家、新発
田の清水園、関川の渡辺家などが代表作。生涯、弟子を持たず「孤高の庭匠」
と呼ばれています。
2-2.旧伊藤家庭園(北方文化博物館)
伊藤家は 250 年以上続く旧家で代々文吉
を名乗り、現在は 8 代文吉氏である。代々
百姓を受け継いできたが、4 代目辺りでは
すでに豪農の素養が見え始め、地租改正後
の 5 代目あたりから金融商家業の体裁も整
い、広大な土地を集積するようになりまし
た。明治 25 年に 630 町歩、34 年 1000 町
歩、大正 13 年には 1300 町歩の豪農となっ
写真-1.旧伊藤邸庭園(北方文化博物館)
ていました。庭園は田中泰阿弥によって改
修され、現在の姿になっています。鉄の灯篭「天正元年、与次郎作」や小町灯篭(鎌
倉期と推定)、織部灯篭、朝鮮灯篭、井筒、つくばい(加茂川石、佐渡看亭脇)鞍
馬御影石など名品があります。茶室は表千家の不審庵を模した積翠庵(与板から移
築)、是空軒、小亭いわのや、佐渡看亭など。庭園は伝統形式、池泉回遊式の京都
風の庭園で、昭和 28 年から 5 年の歳月をかけて作り上げた景観美豊かな新潟を代
表する庭園です。
2-3.清水園(旧新発田藩下屋敷庭園) -平成 15 年 8 月五十公野御茶屋庭園とともに国指定名勝新発田市街のほぼ中央に位置している清水園は、かつて十万石の大名新発田藩主
溝口家の下屋敷でした。新発田川にかかる小さな橋を渡り、すぐに威風堂々とした
表門を見上げる。目前につづく
敷き砂利の園路を進むとアカマ
ツの間から差し込む木漏れ日が
心地よい。直線的な園路を歩き
始めた中程に庭門があります。
これは京都・藤村庸軒、淀看の
席、庭内から移設されたもの。
ここを潜ると下界とは全く異な
る幽玄の世界。砂利敷きの分か
れ道を右手に折れ、小さな石橋
写真-2.清水園庭園
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新潟の庭園は文化の表看板
庭園講座資料
を渡ると書院表座敷前に出ます。ここ書院前からの眺めは驚くほど雄大で、しかも
静寂そのもので、目を見張る美しい風景です。
この庭園は、池を中心に配置されたさまざまな景色を歩き廻りながら楽しむ江戸
時代の大名庭園の形式・池泉回遊式庭園で、日本中の美しい自然や名勝を集めて理
想世界を演出したもの。池の形状は、草書体の「水」という字をなしているという
が、日本を代表する美しい風景・琵琶湖の形を模しており、唐崎の松、瀬田の唐橋
など近江八景をモチーフに庭園が構成されています。
庭園内には入り江、そこを通り過ぎると汀の線に沿って州浜、岬、島などがあり
ともに海の風景を表現しています。また、園路伝いに庭園の景色は徐々に深く暗い
渓谷の世界へと変化していき、心地いい滝の水音が聞こえてきます。庭園内には桐
庵、夕佳亭、翠涛庵、同仁斎、松月亭といった茶室があり、これらの風情がより一
層庭園を引き締め、秩序美を湛(たた)えています。
庭園は四代・重雄(1633~1708)によるもので下屋敷完成後、幕府庭方の縣宗
知(1656~1721)によって築庭されました。昭和 28 年から 31 年にかけて田中泰
阿弥により本格的な改修が行われています。
五十公野御茶屋庭園
新発田藩初代藩主・溝口秀勝(1548~1610)が入封(国替え)の際に仮住まい
を構えた場所。後に三代・宣直(1605~1676)は三万四千坪の敷地に別邸をつく
り、四代・重雄の時代に縣宗知によって庭が造られました。
その後、歴代藩主の参勤交代の行き帰りの休息の場として利用。庭園は裏山(御
腰掛山)を借景に取り入れ、心字池を中心とした廻遊式で、周りに緩やかな築山を
めぐらしたおおらかで趣のある庭園です。
2-4.旧小澤家庭園
小澤家(市中央区上大川前通)は江戸時代
後期から米穀商を営み、後に廻船問屋、運送
業、倉庫業なども手掛けた商都新潟でも屈指
の豪商でした。江戸時代中頃(ころ)、庶民
文化が盛り上がりをみせ、庭つくりも盛んに
なり、「築山(つきやま)庭造伝」「石組園生
八重垣伝」など庭園技法の秘伝書(教科書)
が出版されました。そこには事細かく植栽、
築山、飛び石の打ち方などが類型化されて解
写真-3.黒松を連山に見立てて、石灯籠は
説されている上に、徹頭徹尾形式美を主張し
その半分を隠す演出。鶴の置物は吉祥の意
たものも多く、この形式美をとことん追求し
で日本庭園が時々みせる遊び心です
た庭を「真の庭」と呼びました。
旧小澤邸庭園は、明治の末ころの作庭。作者は不明ですが真の庭に近く、庭園の
学習成果がよく表れています。庭園の地割り(構成)に自由さを感じますが、主庭
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新潟の庭園は文化の表看板
庭園講座資料
中央の七五三の石組み、三尊(さんぞん)石組み、飛び石の四三打ち、二三打ち崩
しなどの伝統手法には古典的な形式美の表現が見られます。廻船業を手広く営んで
いたため、紀州から船で庭石を運び、掘割を通って敷地内に持ち込み築庭されてい
ます。青石が中心ですが、佐渡赤玉石、中国の太古石もあります。石灯籠(とうろ
う)は十基余りで、清水六兵衛作の陶製灯籠は珍しいものです。植栽は黒松の主景
木を中心にして築山をつくらず、足元に低木のツツジ類を配した典型的な新潟町の
平庭手法が見られます。坪庭は灯籠を主景にして景石を据え、軒内につくばいを配
しています。主庭に張られた芝生が、当時、社交の場や生活の場として使うモダン
な庭園のはしりをうかがわせます。
特に座敷からの眺めは絶妙です。座敷部屋が懐(ふところ)の役目を果たす引きの空間
になっていて、建物柱が絵画のフレームの効果を上げており、まるで美しい日本画を観
(み)ているような高貴な気分になります。時代性や高い庭園技術、庭園美を余すところ
なく表現した貴重な庭園と言えるでしょう。
2-5.旧斎藤家別邸庭園
旧斎藤邸庭園(新潟市中央区
西大畑町)は、大正時代に豪商・
斎藤喜十郎氏の夏の別荘として
つくられました。自然の海岸砂
丘列を活(い)かし、小を重ね
て築山(つきやま)と見立てた
広大な庭園で、大きくは前庭と
主庭に分かれます。庭園内には
天空に枝を広げた老松が威風堂
々と林立し、その下で大小多数
のモミジが枝葉を重ねており、
市街地にもかかわらず、あたか
も深山に分け入ったかのような
趣があります。
作庭は、1917(大正 6)年か
ら 20(同 9 年)かけて約三年間
図‐3.建物から見える景色の違い
を要し、作者は成田山新勝寺の
庭園を手掛けるなど、東京で高名な庭師松本幾次郎氏と言われていましたが、最近
の資料から弟亀吉との説もあります。庭園内には江戸の大名屋敷にあった庭石が運
ばれました。中でも伊達屋敷にあった巨石は十三㌧もあり、当時は木の橋だった万
代橋が渡れず、新潟駅から一ヵ月がかりで運搬したとの逸話もあります。
主庭は茶庭と母屋前面の池で構成されています。
北斜面の軽快な石階段を登り切った平地には茶庭があり、表千家流の茶室・松鼓庵
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新潟の庭園は文化の表看板
庭園講座資料
が建っています。庭内には、強風で砂がえぐら
れ、根がむき出しになった珍しい二本の根上り
松が見られ、四方仏のつくばい、生け込み灯籠
、飛石なども品よくまとまっています。また、
池庭では大滝、小滝が心地よい水音を奏で、護
岸の石組みほか所々に組まれた景石に作者の精
錬された伝統技術と高い感性をみることができ
ます。
建物から見る美しい眺望は特に素晴らしく、
図のように1階、2階それぞれから違った眺望が
写真-4.旧斎藤邸庭園※3
堪能できます。水を感じることで蒸し暑い新潟の
夏を快適に過ごす工夫、常緑樹がつくる効果的な陰影による奥行き感、庭園を歩き
廻(まわ)る楽しさ・・・。これらはおそらく庭園の計画段階から織り込まれていた
ものでしょう。海岸に近いという立地環境を踏まえて、もともとあった黒松を多く
取り込んで自然と庭園を結び付け、しかも伝統要素を下敷きにしながら、さまざま
な発想で巧みにつくられている旧斎藤邸庭園。美しく気品漂う庭園は、静寂の中に
ゆったりと至福の時を刻んでいます。
2-6.旧日銀支店長役宅(砂丘館)庭園
旧日銀支店長役宅庭園(現・砂丘館)=
新潟市中央区西大畑町=は、西堀前通六番
町にあった役宅が柾谷小路の拡幅に伴い、
1933(昭和 8)年に当地に移転した際に、
樹木、庭石など庭園材料の一切が移設され
てつくられました。
設計は日銀技師、施工は地元庭師が行いま
した。平坦な敷地をそのまま利用して水平
な広がりを強調し、見る人の神経を細部に
まで集中させる工夫は巧みです。庭園は大
写真-5.砂丘館庭園
小合わせて五ヵ所あり、場所ごとに趣の違いがはっきりしていることも特筆すべき
点でしょう。
邸宅の顔である前庭は、玄関の風格や映りに注意を払い、正面に堂々としたサル
スベリが植栽されています。主庭はいくつかの景色を横長に繋(つな)いだ露地風
庭。背の高いクスやシイノキなどで敷地全体を囲い込み、視線を奥に引き込もうと
庭園の軸線である飛び石の右左に近景、中景、遠景など見るポイントをバランスよ
く配置しています。主景木の黒松を中心に据えて、その足元にツツジ類を配する新
潟の平庭スタイルが見られますが、黒松を一定方向に傾けて幹反りを合わせ、気勢
を強く意識して変化の中に統一感を出しています。これは空間に造形的な美を感じ
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新潟の庭園は文化の表看板
庭園講座資料
させようとするもので、当時、新潟にはなかった珍しい手法です。
奥庭は家族で過ごすための多目的な利用ができる芝生庭(現在は駐車場)、中庭
は鑑賞本位の黒松の庭で、残る一つは生活のための勝手庭です。部屋によって見え
る景色に変化もつけています。応接室からは落葉樹と常緑樹の二景、書斎からは黒
松や梅など常落混交の景、控室(茶室)からはつくばいと飛び石の露地の景、奥座
敷からは奥行きのある広々とした全景、そして、茶の間からは見越しの黒松の景が
楽しめます。
このように部屋の利用と庭園の景色が連動した作庭に、近代的庭園設計の極めて
質の高い構成技術と、庭園を見つめる洒脱で鋭い美意識を感じることができます。
2-7.旧新潟市長公舎(安吾風の館)庭園
新潟市長公舎(同市中央区西大畑町)は、新潟海岸にほど近い山の手に 1922(大
正 11)年築造されました。敷地内の後背斜面地(砂丘列)が大風の吹き抜けをさ
えぎり、高台で日当たりの良い地形を上手に活かした庭園は、92(平成 4)年に地
元の庭師によってつくられました。既存の大きな黒松やタブ、エノキなど自生種を
取り込んだ現代感覚の庭園で、前庭は駐車場機能を優先させ、洋館(会議室)脇に
はシュロやアメリカハナミズキが見られます。
主庭は三部構成。中央の明るい芝生庭は「屋
外の公的な社交場」として実用性を持たせた明
るい伸びやかな空間です。斜面の竹林を背景に
した場所には高低差のある滝石組みと枯山水の
庭があります。豪快な石組みは迫力があり、常
緑樹で覆われた滝周辺の暗さと芝生庭の明るさ
の陰影対比が風情ある眺めをつくっています。
もう一つは石灯籠、景石、垣根など景物を設
(しつら)えた書院庭です。趣の違う庭を飛び
写真-6.建物と庭園の接点部分は歩き安
石や延べ段でつなぎ、歩き廻(まわ)りながら
さやバランス感など作庭者が神経を使う
楽しむ構成は伝統的な形式です。庭園材料は地
ところですが、同時に卓越した腕の見せ所
元新潟をはじめ、京都、北海道、山形など広範
でもあります
な地域から集められ、植栽、滝石組み、流れ護
岸、石積みなどに使われています。特に石組みは関東・関西方面でよく見かける崩
れ積み、野面積みの手法で巧みに設えてあります。
この庭園が築造された昭和後半から平成の時代は、造園業も企業として組織的に
なり経営的にも徐々に安定してきた時期です。全国の優れた庭園に足を運び、直接
庭づくりを学ぶ機会が増えたほか、書物や作品集などで広く庭園技術を学習できる
ようになりました。流通が格段に発達して広範な地域から材料の調達が容易になっ
た半面、良質な自然材料が段々と少なくなったため、加工品が使われ始めるなど、
それまでとは違った作庭の新しい潮流が生まれ始めました。旧新潟市長公舎庭園は
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新潟の庭園は文化の表看板
庭園講座資料
このような時代の特徴をよく表現しています。
3.郷土の庭匠 田中泰阿弥
「庭という文字を見るに雨の下に王が居て、下に水が流れている。天地の間に人
が居る天地人の三昧(さんまい)境である。人間不在の天地なぞ無明の存在である。
天地の間に人間の心を清浄ならしむる妙境を造るというのが、庭の意義です」高柳
の貞観園、新発田の清水園、関川の渡辺邸と 県内の国指
定名勝庭園すべての修復整備を手掛けた庭匠、田中泰阿弥
氏は庭園をこう語っています。
1898(明治 31)年、刈羽郡の小作農の次男として生ま
れ、本名は泰治。20 歳の頃、兄の紹介で京都、南禅寺の
瓢亭庭園を手掛けた庭師中村萬次郎氏に弟子入りして庭
師人生がスタートします。その後、無鄰庵、對龍山荘の庭
園などで著名な植治こと小川治兵衛氏を慕い、庭職人とし
て勤めるかたわら茶湯、花、書、謡曲、俳諧など日本古来
の文化・美をわが身に染み込ませて 26(昭和元)年に 28 歳で独立しました。当
時、お茶稽古に銀閣寺へ通い、庭園を見続けていた田中氏は「銀閣寺ともあろう真
の位を持つ名刹(めいさつ)の庭であるならば、洗月泉には石組みがなくてはなら
ぬはずである…」との推察から同寺住職・菅憲宗師に庭園発掘を提言しています。
かくして 29 (同 4 )年に洗月泉滝石組み、31(同 6 )年には相君泉の石組み
も発掘・復元され、庭園史に偉大な業績を残すとともに、この歴史的偉業は大々的
に新聞報道され、田中氏は古庭園の発掘・復元のため全国を駆け巡るようになりま
した。この頃から豪農や名士たちからの依頼も増えはじめ、以後、貞観園を皮切り
に、渡辺邸庭園、伊藤邸庭園(新潟市江南区)、清水園など各地で本格的な庭園修
田中泰阿弥
復・築造を行うことになります。人智を超えた緑と石と水の芸術は、時を経て一層
美しさが増し、庭園をこよなく愛して、自ら質素を旨としたその生き方は多くの人
に深い感銘を与えました。
4.ニッポンの技
日本を美しい「庭園の島」にしようという 21 世紀の国づくりプランが、1998
年に第五次全国総合開発計画で示されました。今までのまちづくりでは日本の良さ
を消失してしまうという危機感から、日本独自の庭園思想を計画に導入し、国土保
全から地域の独自性、新時代の生活スタイルの創造まで見据えています。庭園は今
まで個人趣味で箱庭イメージが強く、技巧すぎてとてもまちづくりに応用できない
と言われてきました。しかし、旧伊藤邸庭園(新潟市江南区沢海)にみられる現代
人の心にジーンと染み入る日本の風景美など、伝統庭園が持つ、理想の美しい世界
をつくる「ニッポンの技」が、鉄、アルミ、ガラス、コンクリートで画一化された
人工環境を、それぞれの土地の固有性や自然を最大限に生かす環境再編の手段とし
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新潟の庭園は文化の表看板
庭園講座資料
て新たな価値を実証している例もあります。
わがまち新潟は言わずと知れた“米どころ”。豪農が稲作経済を基盤に百姓文化
を育(はぐく)んできた土地柄です。派手ではないけれど、大小多彩な庭園が、地
形や植生、気候、材料、施主の好みや考え、庭師の手技、伝統などの影響を受けな
がら人智(じんち)を凝らしてつくられてきました。
これらの庭園を、土地の風土性を的確に表現した新潟版モデルとみれば、まさに
新潟の貴重な社会ストックであり、身近でしかもこれほど時代史、生活史を伝える
文化空間は少ないはずです。「庭園の島」構想は、自然、歴史、文化が薫る地方地
域の知恵が下敷きになっていますが、残念なことに新潟に住む私たち自身がそのす
ばらしさに気づかず、その英知を身の回りの社会で活(い)かせないでいます。
ともすると自分自身すら見失ってしまいかねない現代社会の過渡期の今だから
こそ、もう一度、自分に合った環境、着慣れた普段着の生き方を見つけたいと考え
ています。戦後 60 年を経て、ようやく日本らしさの確立を目指した「21 世紀の
グランドデザイン」の発想を、身近な庭園の中に見出した識者に敬意を表したいと
思います。
(語句の説明)
※1 ランドスケープ:もともとの意味はその土地らしさ、広義には景観とか風景とも訳す。
「造園」に対して
特にアメリカ的発想を土台にしたものを「ランドスケープ」として区別する
※2 池泉廻遊式庭園:林泉庭園の一つのかたち。歩きまわりながら様々に違った景色を楽しむ伝統形式。視点
場の違いによって池泉定視式庭園と池泉廻遊式庭園に分類ができる
※3 写真提供:旧斎藤家・夏の別邸の保存を願う市民の会
(参考文献)
「豪農の館」角田夏夫著 北方文化博物館 1994、
「越佐の文化財 改訂版」新潟日報事業社 2005
「庭園を読む」 新潟日報連載 土沼隆雄 2008、
「史的庭園形成における地域性に関する研究」土沼隆雄 1998
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✻土沼 隆雄(どぬま たかお)
1953 年新潟市生まれ、新潟大学大学院修了、工学博士
小形研三氏に師事し、米国で日本庭園築造に従事して帰国
20 年以上にわたって海外の庭園を見つづけ、
あらためて日本庭園の素晴らしさに気付き、そして今、
新潟の文化が育んだ庭園に感動している。
1998 年 ~2003 年:新潟大学教育人間科学部 講師
2003 年 ~2007 年:新潟工科専門学校 講師
日本自然環境専門学校講師
㈱要松園コーポレーション代表取締役
(著書・論文など)
建築知識「住宅植栽マニュアル」共著
「新潟地方の史的庭園における地域性に関する調査研究」土木学会
「新潟地方の史的庭園における構成と環境要因に関する調査研究」土木学会
「史的庭園形成における地域性に関する研究」新潟大学学位論文
「ポートランド市ワシントンパーク日本庭園の成立過程の特徴に関する考察」建築学会
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