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白銀の聖騎士 - タテ書き小説ネット

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白銀の聖騎士 - タテ書き小説ネット
白銀の聖騎士
夜風リンドウ
タテ書き小説ネット Byヒナプロジェクト
http://pdfnovels.net/
注意事項
このPDFファイルは﹁小説家になろう﹂で掲載中の小説を﹁タ
テ書き小説ネット﹂のシステムが自動的にPDF化させたものです。
この小説の著作権は小説の作者にあります。そのため、作者また
は﹁小説家になろう﹂および﹁タテ書き小説ネット﹂を運営するヒ
ナプロジェクトに無断でこのPDFファイル及び小説を、引用の範
囲を超える形で転載、改変、再配布、販売することを一切禁止致し
ます。小説の紹介や個人用途での印刷および保存はご自由にどうぞ。
︻小説タイトル︼
白銀の聖騎士
︻Nコード︼
N7434BI
︻作者名︼
夜風リンドウ
︻あらすじ︼
ランドリオ帝国、ここに白銀の聖騎士と呼ばれる最強の騎士が
いた。誰からも尊敬され、畏怖されていた彼は二年前、﹁死守戦争﹂
と呼ばれる戦争後に行方をくらましてしまう。それから二年後、と
ある事件をきっかけに彼はまたランドリオ帝国へと戻って来た。し
かし聖騎士としてでなく、放浪騎士団シルヴェリアの﹁怠け者ゼノ
ス﹂として、不本意のままやって来たのだった⋮。聖騎士ゼノスが
織り成す英雄譚ファンタジーです。
1
ep0 聖騎士の再来︵改稿版︶︵前書き︶
2015年1月25日;ep1∼ep10までの改稿が完了しまし
た。その詳細については活動報告をご覧ください。
2
ep0 聖騎士の再来︵改稿版︶
︱︱白銀の聖騎士。
顔を覆い隠す白き兜を被り、重厚なる白銀の甲冑を身に着けた最
強の騎士。
彼の英雄譚は、このランドリオ大陸だけでは収まらない。
異世界に通ずる宮殿に君臨せし竜帝を滅ぼし、異世界への単騎遠
征に成功。世界に災厄をもたらすとされる始祖竜シルヴェリアを討
伐した上に、他にも多くの伝説を残し、世界にその武勇を知らしめ
た。
何よりも彼は、主君に絶対の忠誠を尽くし、このランドリオ帝国
の一将軍として恥じぬ正義と強さを示してきた。
3
⋮⋮出身不明、本名不明、人種不明の彼であるが、その英雄譚は
行方不明から二年の今でも語り継がれている。
︱︱彼ならもしや、あの忌まわしき﹃シールカード﹄を薙ぎ払う
べく、また我らを救ってくれるに違いない。⋮⋮この記事を書く私
は少なくとも、そう信じている。
あの悲劇を引き起こした張本人であっても、聖騎士は我等の英雄
である。私だけでなく、多くの民がそう思っているだろう。
歴史研究家 ジェラルド・モーキンス
4
その記事を読み終えると、ゼノスは新聞を破りたい衝動に駆られ
た。
ランドリオ港の桟橋に座り込む彼は異質な服を纏い、目元にまで
伸びるストレートの茶髪を掻き毟る。桟橋に視界が入った通行人は、
誰もがその不可思議な姿に奇異の視線を送っていた。
珍獣を見るような目を止めろ、と言いたい所だが、周りの人間が
態度を変化させる事はまず有り得ないだろう。
傍から見れば、その姿は確かに異様である。世界中のどこを探し
ても、こんな変な格好をした人間は見当たらないだろう。
⋮⋮といっても、この服は赤のジャケットに黒のカラージーンズ
というのだが、これが異世界の服だと訴えた所で、納得する者はい
ないだろう。あえて奇異の視線を気にしないことにしている。
とにもかくにも、今の問題はこの胸クソ悪い記事である。
5
いや、記事自体に問題はないのだが、正確に言えばこのような記
事が出回っているこの国に呆れていた。
︱︱だから戻りたくなかったんだ。
こんな記事を見てしまうから、人々の記憶にまだ聖騎士を頼る気
持ちを垣間見てしまうから、ゼノスはこのランドリオ帝国に戻りた
くなかった。
第一この記事に書かれている事は間違えている。異世界には行っ
たが、竜帝を滅ぼしてなどいない。奴とは死闘の末に引き分けで終
わったのだ。
それだけじゃない、確かに主なプロフィールは語っていないが、
まるで人間じゃないかのような言い回しには、いささか憤りを覚え
る。
﹁⋮⋮ちゃんと、ゼノスっていう名前があるのにな﹂
6
ゼノスは一人でそう訴えていた。外見からしてみれば、眉が少々
動いたという変化しかわからないと思うが。
そんな記事への不満にふけていた頃、後方から自分を呼びかける
声に気付いた。
それが自分の仲間のものだというのは、少し経ってから把握した。
﹁おーい、ゼノス!そろそろ宿舎に行くって、早く行くよ!﹂
聞き慣れた男の声。
ゼノスはもう時間かと思いつつ、広大な海を背に立ち上がった。
新聞はその場で破り捨て、前方の巨大な城下町、そしてさらに後方
にそびえ立つ壮麗な城を見上げる。
二年前と同じ光景、兜を通して見たあの懐かしい町が視界に映る。
それを見て、ただ一言だけ呟く。
7
﹁⋮⋮あーあ、面倒になりそうだなこりゃ﹂
彼はダルそうにあくびをしつつ、眠気眼のまま呟く。
聖騎士を知る者が見たら、とても同一人物とは思えない言葉を言
い放つ始末であった。
ゼノス・ディルガーナは、今年で二十歳になる。
現在の職業は、放浪騎士団シルヴェリアの騎士見習い。
8
元ランドリオ帝国六大将軍であり、﹃白銀の聖騎士﹄の名を冠す
る帝国屈指の最強。
だが現在の日課は、掃除に洗濯、そして主に居眠り。
あえて何を付け足すならば︱︱
ここ最近、武器を握った覚えがないボンクラ騎士である。
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ep1 堕落症の最強騎士︵改稿版︶
︱︱ここはランドリオ帝国。皇帝を主権者とする一方、騎士団を
中心に軍事的、政治面も含めて方針を決定付けている︱︱言わば騎
士国家である。
ランドリオ帝国の歴史はどの国家よりも古く存在し、建国期の歴
史は紙や石碑といった情報媒体で後世に残されていない。
古の歴史は口承という形で残され、その結果から歴史研究家は、
一万年前の人類創世記の時代に建国されたのではないか、という説
を有力視している。
⋮⋮この国の歴史は、正に波乱万丈である。
人類創世記には様々な災厄が巻き起こり、ガイアの大洪水、魔王
神による人類侵略、そして創世の神による天罰によって人類の九割
が死滅したと言われているが、その中でランドリオが生き残れたの
は何故か?
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それは言うまでも無く、﹃彼等の力﹄があったおかげであろう。
彼等︱︱六大将軍と呼ばれる皇帝に仕える騎士団の最高峰達は、
一万年後の現在でもその功績を称えられている。六大将軍は大洪水
から国を守り、魔王神を地獄の底へと封印し、挙句の果てには創世
の神をも打ち倒したのである。
戦の国ランドリオという異名はそこから由来し、一万年後の現在
でも六大将軍は健在している。その力は絶大であり、一人一人の存
在は全世界に知れ渡っており、恐怖と尊敬を集めている。
こうして、ランドリオ帝国は六人の英雄によって安寧を得てきた。
しかし、現在この国に新たな災厄が舞い起ころうとしている。
⋮⋮因果なものか。その時期に彼、ゼノス・ディルガーナは戻り
︱︱あの騎士の少女と出会ったのである。
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ゼノスは重たい瞼と足を何とか動かせながら大通りを歩いていた。
活気に溢れる大通り。その光景はこの貿易都市、娯楽都市として
近年名を馳せたランドリオ帝国の象徴とも言える。視線を彷徨わせ
ると、他大陸の服装やら人種やらがちらほらと目につく。
﹁いやあ、久しぶりだねえゼノス。ランドリオに帰ってくるのも二
年ぶりだよね?﹂
ふと、ゼノスの右隣を歩く一人の青年がほのぼのと呟く。
黒縁の眼鏡に整えられた黒髪、そして全身黒タイツに赤のバンダ
ナを首にかける、まさにゼノス以上に異質な姿だった。名はライン・
アラモード、ゼノスをさっき呼んだ同じ騎士団の仲間である。
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﹁⋮⋮二人は、ランドリオ出身だったものね﹂
今度は左隣からの女性の声。
普通の女性よりも比較的低めの声色で、平たく言えばダルそうな
声、その隠微な声と表情に似合う黒の動きやすいドレスを着飾って
いる。しかし髪は肩にまで行き届いた金髪であり、異様なコントラ
ストを放っている。
瞳も澄んだ翡翠色に彩られ、見る者全てを魅了する美しさを放っ
ている。とても放浪騎士団の騎士とは思えない高貴さも醸し出して
いるが⋮⋮まあそこは置いておこう。
微笑んでいればかなりの美少女なのに、これじゃ半減だと思う風
貌の少女がそこにいた。
名前はロザリー・カラミティ、同じく騎士団所属の団員である。
別に一緒に行動しようなどと言ってはいないが、同い年所以か、
はたまた気が合ったのか、寝るとき風呂以外はいつもこの三人で行
動している。
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ゼノスは二人の質問に答えるのも面倒だったが、答えなければさ
らに面倒なので素直に返答した。
﹁二度と来ないと思ってたんだけどな。あと二年も経ってたか?﹂
それに答えたのはラインだった。
﹁僕も数えてないから大体だけどさ。でも、それぐらいじゃない?﹂
﹁まあそうなる⋮⋮か?﹂
ロザリーは呆れたように嘆息する。
﹁⋮⋮自分の元いた場所なのに﹂
﹁まあ、あまりいい思い出はなかったからなあ。たとえば⋮⋮⋮⋮
うーん、思い出すのも面倒になってきたなあ﹂
﹁⋮⋮本当、ゼノスは面倒くさがり屋。だから他の団員に馬鹿にさ
れる﹂
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ロザリーは淡々とした口調で案外失礼なことを言う。これが真実
であり、彼女なりの忠告なのだから批判はしないゼノスであった。
﹁あれは団員共が固すぎるからだ。俺は清々しい汗水流して掃除洗
濯をやってやってるというのに、あの扱いは酷いものだ﹂
ゼノスが不満げに語ると、なぜか二人は静まり返った。
︱︱何だ?何か俺おかしいこと言ったかな?
ゼノスは二人の思惑を理解出来ないといった表情を浮かべる。そ
んな様子に、ラインは呆れ口調で言う。
﹁はあ。それはゼノスが、騎士団必須の剣を持たずに掃除洗濯ばっ
かりしてるからでしょう。今のところ計五十四回だよ、ゼノスが団
長命令無視で戦場に出ずに留守番するのは﹂
ラインは有りがたい事に、これまでのゼノスの怠惰っぷりを簡潔
にまとめてくれた。
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﹁このままじゃ解雇されちゃうよ⋮⋮本当に。というか、むしろよ
くここまで解雇されずに済んだよね﹂
そう、ゼノスはここ二年間まともに剣を握った覚えがない。自身
は現在騎士団というものに所属しながら、今も腰に剣などはたらし
ていない。
確か入団当初に安っぽいロングソードが配給されたが、今はこの
ロザリーにタダであげた。彼女は変わった剣を持っているが、普通
の剣も欲しいと言ってきたからだ。
あともちろん、騎士団にはゼノスの経歴を言っていない。だから
元は始祖竜を単独で滅ぼしたとか、その他多くの化け物を倒したと
か、そんな英雄譚を公に豪語していない。
しかも戦場にも赴いていないから、騎士団内でのゼノスの戦闘能
力は一般騎士レベルだと思われている。反対に今では弱者と馬鹿に
されてるほどだ。
そんな生活を送ってはいるが、ゼノスとしてはこれ以上にいい生
活はないと思っている。金は入るし衣食住も困らない、何よりこの
ランドリオから離れた大陸で仕事が出来る!そう思っていたのだが。
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こうしてランドリオに来た今では、その幸せも台無しである。
﹁⋮⋮そんな記録もあったなあ﹂
﹁今も記録してるんだよ!﹂
ラインは上手く突っ込んでくれた。わざと命令無視の件から離れ
ようとしたのに、ラインは本当に頭が固いやつだった。
ゼノスは内心そう思いながら、ふと周りの人々の視線が気になっ
た。
何だろうか、さっきからこちらを見ている人が沢山いる。こちら
というか、今大通りを行軍しているシルヴェリア騎士団全体を見て
いる気がする。騎士団、つまりはゼノスを含め八人の騎士たち。そ
の中でも注目を浴びているのは。
﹁きゃああああ!ニルヴァーナ様っ、こっち向いてえ!﹂
﹁す、すげえ。この目でリリスを見れるとは!﹂
﹁おい見ろよ、サナギもいるぞ!騎士団の主戦力が来てんのか!﹂
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やっぱり、とゼノスは納得した。
言い忘れていたが、このシルヴェリア騎士団は世界中の国々に雇
われる騎士団だ。しかも個々人の能力は突出し、数々の難解な依頼
をこなしている。だからこうしてその名はこのランドリオにも広ま
っているのだ。特にあの三人は。
先頭を闊歩する女みたいに髪が長く、鎧も少し豪奢で重厚、さら
に赤のマントをつけている。シルヴェリア騎士団の団長、ニルヴァ
ーナ・エロルド。若干二十六でしかもイケメン、さらに交渉や戦闘
におけるカリスマ性で有名だ。
次に奴の後ろを並列して歩く二人の女性、肩までたらしたセミロ
ングの金髪に、同じく重厚な鎧にマントをつけているのが副団長の
リリス。そして紅の短髪に身軽で露出の高い鎧を着ているのが戦闘
員のサナギ、どちらもその戦場での異常な活躍と、その美貌で有名
となっている。
﹁あーあ、相変わらず三人の評判はすごいね。特に団長の女性ファ
ンの多さと来たら。これは間違いなく後でリリスさんとサナギさん
の三人による痴話喧嘩が始まるね﹂
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﹁⋮⋮団長、すごいモテモテ。ねえ、ゼノス?﹂
ロザリーはまた抑揚のない声でゼノスに振り向く。
﹁まあ、いいんじゃないか?俺たちは物語でいう脇役、恋愛シミュ
レーションゲームで言うのなら生徒その一、というところだから考
えなくていいんだ﹂
﹁⋮⋮恋愛シミュレーションゲーム⋮⋮何それ?﹂
ああしまった、とゼノスは少々後悔した。
恋愛ゲームっていうのは聖騎士の頃に異世界へ行ったときにやっ
た遊びである。これを知る奴はゼノスしかいない。知ってたら、間
違いなくゼノスと同じくあの馬鹿でかい竜帝と戦ったということだ。
竜帝本人曰く、人間と戦ったのはゼノスで初めてだと断言してい
たので、人間である誰かが奴と死闘を繰り広げたという可能性はゼ
ロに等しいだろう。
ゼノスはこほんと場を執り成し、続ける。
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﹁まあとにかく、俺達が感化しなくともいいんだよ、それは。俺達
見習いは、洗濯し、掃除し、昼寝し、飯食ってればいいの﹂
﹁⋮⋮やっぱり戦うことは考えてないんだね﹂
珍しくロザリーは残念そうな表情で嘆息する。
途方もない内容の会話をしながら、ゼノス達は歓声の中を闊歩す
るのであった。
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ep2 皇帝からの依頼︵改稿版︶
大通りと直結する路地に入り、露店通りとなっている道をまっす
ぐ進む。その先にひっそりと、幾分か豪奢な造りの建物があった。
ゼノスと騎士団はその中に入り、今は一階の会議室に集合してい
る。ゼノスとしてはそのままベッドにダイブしたい気分だが、お堅
い彼等はそんなことを許してはくれない。
ゼノスは大きな欠伸をしながら、ふと団長の隣を見やる。
︱︱そこには一人の少女騎士が佇んでいた。
このお堅い連中の中でも、彼女は特に堅そうなイメージを作って
いる。しかし、彼女は騎士団の人間ではない。⋮⋮一体誰なのだろ
うか。
ニルヴァーナは全員を確認すると、よく通る声で宣言した。
﹁よし、皆そろったな。ではこれより、このランドリオでの依頼内
容を確認する﹂
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皆は真剣な表情でニルヴァーナを見つめる。ゼノスに関してはた
だ茫然としているだけ。いつもの事なので、誰もゼノスを咎める者
はいない。⋮⋮一名だけギロリと睨みつける奴はいるが、気にしな
いでおこう。
ニルヴァーナは一拍置き、続ける。
﹁我らはランドリオでの依頼は初めてだが、今回は警備の依頼では
ない。今回の依頼は⋮⋮帝国の皇帝直々のものだ﹂
かすかな歓声が響き渡る。だがゼノスだけは違った。
緩んだ表情から一転、苦虫を噛んだ様な顔を作る。
︱︱皇帝か。やっぱりロクでもない依頼のようだな。
しかしそんな彼の様子は気にされず、ニルヴァーナは粛々と会議
を進めていく。
﹁依頼内容についてだが、それに関してはこの娘から話した方が早
いな。では、よろしく頼む﹂
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﹁はい﹂
隣で静かにしていた少女が凛とした表情で返事をする。ニルヴァ
ーナの隣にいる少女だ。
見た目は凄く綺麗だ。長い藍色の髪は後ろで一括りにされ、甲冑
は一応付けているがあくまで急所部分に装備されている。後は短い
スカートなど、所々女の子らしい服装が目立つ。
そして穏やかな翡翠の瞳が、さらに美しさを掻き立てているよう
に見える。年齢は、おそらくゼノスより一つか二つ下だろう。
彼女はこほんと咳き込み、後ろに手を組みながら言う。
﹁皆さん初めまして、私はランドリオ帝国皇女直属部隊所属のゲル
マニアです。⋮⋮ああ、皆さんの紹介は結構ですよ、調べましたの
で。今回の依頼の件でしばらく行動を共にするでしょうが、どうぞ
宜しくお願いします﹂
少女、ゲルマニアはお辞儀をし、礼を尽くす。騎士道精神は理解
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しているようではあるが、堅苦しい雰囲気が露骨に表れている。
正直、今のゼノスにとっては苦手な部類だ。
﹁︱︱さて、今回あなた方シルヴェリア放浪騎士団を雇ったのは他
でもありません。強力な敵からある人物を護衛してほしいのです﹂
﹁ある人物?﹂
それに答えたのは、腕組みをして偉そうなサナギであった。
﹁はい。あなた方も十分知っていると思いますが、ランドリオ帝国
主城、ハルディロイ王城の地下に封印された、﹃シールカード﹄と
深く関わりのある者です﹂
その時、全員の表情が一変した。奇妙な単語もそうだが、ランド
リオに封印された人物と聞いて思い浮かぶものがあったに違いない。
実際、それを一番よく知っているのはゼノスだった。
そいつは二年前の戦争︱︱﹃死守戦争﹄で突如姿を現した災厄。
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奴のせいで、世界にシールカードという災厄の種が散りばめられた。
シールカード︱︱その存在は未だ多くの謎を秘めているが、現在
明かされている事実も存在する。
まず、それは人間や不思議な力が封印されたカードだということ
だ。世界中に数えきれないほどのカードが実在し、カードに封印さ
れた人々は多種多様である。名のある戦士や未知の力を有する魔術
師、他にも特殊な能力を持つ人間が封印されており、カードの数は
数百枚にものぼると言われている。
では、何故そのカードが災厄と呼ばれているのか?理由は簡単だ。
カードに封印された連中は、﹃ギャンブラー﹄と呼ばれる人間に
よって解き放たれる。何らかの方法で主従関係を結び、ギャンブラ
ーはカードを兵器として扱うことが出来る。実際問題、カードを使
った虐殺はここ二年間で頻繁に発生している。
そんな悲劇を生んだのは⋮⋮紛れもないそいつだ。
皆はそれを理解しているからこそ、緊張した面持ちでいるのだ。
25
﹁⋮⋮ゲルマニアさん。それって、あの人物ですね?﹂
ラインが率直に尋ねると、ゲルマニアは重々しく頷く。
﹁ご察しの通りだと思います、ライン殿。通説ではこの世の中にシ
ールカードという存在を残した元凶ともいわれている、災厄をもた
らした存在︱︱﹃始祖﹄。実は最近、この人物と拉致しようと企む
盗賊型シールカード所持のギャンブラーがいるのです﹂
始祖︱︱。嗚呼、懐かしくも思い出したくない。
圧倒的な力を持ち、人間に対して異常な程の怨みを持つ悪意の塊。
ゼノスはこいつをよく知っている。⋮⋮いや、知り過ぎている。
二年前の﹃あの戦争﹄を経験している故に、おぞましい記憶が甦
ってくる。
ゼノスがそんな過去の余韻に浸っている一方、ゲルマニアは平静
を保ちながら、一週間前に起きた惨劇を語り始めた。︱︱勿論、始
祖を盗むと知った経緯である。
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盗賊のシールカードを所持する者が現れたと知ったのは一週間前、
ランドリオ帝国の大貴族ガウゼン卿が暗殺された事から始まったら
しい。
ガウゼン卿はランドリオ貴族の中でも一二を争う程有力であり、
ランドリオ皇家とも密接的な関わりがあった。
しかしガウゼン卿は一週間前の朝方、自室にて腹にナイフを突き
刺された状態で発見された。それだけでなく、ガウゼン卿の机の上
に一通の後書きが残されていたという。内容はこうだ。
﹃彼の者は母を守っている。だから殺した、我等の宿願を邪魔する
が故に。さあ、次の狙いはハルディロイだ、念願のハルディロイだ。
必ずや帝国に災厄の花を咲かせ、母とその因子による破滅を呼び起
こそう。︱︱我は盗賊のシールカードを所持するギャンブラー、人
を憎む復讐者なり﹄
と、わざわざ正体を晒した文章が書かれていた。
彼等の次の狙いは、ランドリオ皇帝が住まう居城ハルディロイ。
近い内に襲撃を試み、始祖を奪おうとしている︱︱ゲルマニアの説
明は以上であった。
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その経緯を聞いて、ゼノスは何とも単純な連中だと思う。
わざわざ名前を明言した予告状、よほど腕に自信があるのか、文
面からそれがよく分かる。
﹁⋮⋮本当は我々ランドリオ騎士団だけで解決をしたいのですが、
我々の主力たる六大将軍には別件が控えている。なので、今回は彼
の有名なシルヴェリアの皆さんに依頼を頼みました。︱︱彼等と同
等の成果を期待していますよ﹂
ニルヴァーナは彼女の話を聞いた後、意を決したように彼女に微
笑みかける。
﹁よし、状況は大体分かった。多少の危険が備わった依頼のようだ
が、依頼相手はランドリオ帝国⋮⋮我が騎士団の武勲を上げるに相
応しいと見た。さっそく依頼を受けたいのだが、差支えはないだろ
うか?﹂
その表情と言葉を見聞きし、ゲルマニアは嬉しそうに答えた。
﹁いえ、こちらとしては何の問題もありません。逆に早急な対応を
嬉しく思うばかりです﹂
28
﹁なら先に聞いた通り、私は皇帝陛下と皇女殿下にお目通り願いた
い。案内してくれるか、ゲルマニア?﹂
﹁了解しました﹂
ゲルマニアは意気揚々に頷き、外出の準備をする。この少女騎士
は厳粛な態度とは裏腹に、所々で年頃の少女めいた態度を見せる。
実力は確かなようだが、よく隊長なんかになれたな、と呑気にゼノ
スはそう思った。彼から見れば、ゲルマニアの様相は騎士らしくな
いと感じている。
⋮⋮ま、自分にとってはどうでもいいことだが。
﹁さて、会議も終わったし寝るかな﹂
ゼノスは先ほどからの眠気に押され、団員の輪から外れ、二階に
あてがわれた自室に行こうとする。これはあくまで蛇足ではあるが、
この時間帯はゼノスの昼寝時間でもあるのだ。
⋮⋮当然、まともに仕事をする気はない。やるとするならば、汗
水たらして帰ってくる連中のために、ゼノス特製の料理を振る舞う
ぐらいだろう。 29
﹁よし、城へ行くからには最低一人護衛をつけなければな⋮⋮えっ
と﹂
ニルヴァーナが団員全員を見て、品定めをする。サナギやリリス
は自分を誇示するように団長を見つめていた。
ゼノスはふと足を止め、それを階段の途中から見守っていると、
なぜだかニルヴァーナがこちらを見つめていた。
皆もゼノスを見てくる。⋮⋮正直、嫌な予感がしてならない。
︱︱おいおい、まさか
﹁⋮⋮ゼノス、私とゲルマニアと来てくれないか?謁見までは必要
ないが、城までの供を頼む﹂
﹁えっ、俺ですか?﹂
︱︱珍しい、あのニルヴァーナが俺を頼るなんて。
30
そもそもニルヴァーナと会話したのも何か月ぶりというゼノスで
あった。
ゼノスが選ばれたのに腹を立てたのか、テーブルを叩く人物がい
た。むろん、ゼノスを集中的に嫌うサナギからのものだった。
﹁団長!納得出来ません!なぜこんな能天気で使えない奴にそのよ
うな雑事を頼むのですか!責任問題もあるゆえ、ここはリリスかあ
たしの方が﹂
﹁いや、たまにはゼノスにも頼みたくてな。それに、私はゼノスを
使えないと思ったことは無い。いいな、ゼノス。十分後に剣を携え
てこの宿舎の玄関前に集合だぞ﹂
﹁⋮⋮ふう、了解﹂
気乗りは全くしないが、こう皆の前で命令されては流石に逆らえ
なかった。
ゼノスは嘆息し、階段からロザリーを見下ろす。
﹁ロザリー、悪いが剣を一旦貸してくれ﹂
31
﹁⋮⋮うん。というかこれ、元々はゼノスのもの﹂
そういってロザリーは腰に掛けていたロングソードを外し、ゼノ
スに向かって放り投げる。ゼノスはそれに慌てることもなく、軽々
とキャッチする。
︱︱剣とか、触るのも数か月ぶりだ。
剣を抜いて手入れ具合を確認した後、ゼノスは慣れた手つきで腰
に垂れ下げる。
﹁団長、俺なら今すぐにでも行けますよ。そこのゲルマニアさんを
待たしても悪いし﹂
﹁む、そうか。では行くぞ。他の団員はこの場で待機だ﹂
サナギは睨むようにこちらを見てから頷き、リリスは意味深な表
情でこちらの顔を伺う。とりあえず、今の所喧嘩しなくても大丈夫
ってところだろう。
ゼノスは階段を下り、ドア付近に佇むゲルマニアに寄って握手を
32
求めた。騎士はほんのわずかの供でも信頼が重要だ。ゼノスはあえ
て騎士としての振る舞いを彼女に示した。
﹁シルヴェリア騎士団見習い、ゼノス・ディルガーナです。僅かな
時間ですが、宜しくお願いします﹂
﹁あ、はい。宜しく頼⋮⋮っ!﹂
握手をした途端、ゲルマニアは驚愕した。
そして確かめるように、ゼノスの手を握った手で触ってくる。
︱︱ほお、何かを見破ったのかな
剣を握る者は大抵がごつごつとして、それが熟練の者程皮は分厚
く、強固な手となってくる。騎士がどれほどか確かめる手法を、現
在この少女はゼノスにやってきている。
終えると、彼女は真剣な瞳をむけてくる。
﹁⋮⋮本当に、見習いなのですか?﹂
33
﹁⋮⋮それが如何なさいましたか?﹂
﹁いえ大したことじゃないのですが。ゼノス殿の手が、まるで圧倒
的な強さを誇ったそれに似てたもので⋮⋮私こそすみません﹂
ゲルマニアはそう言って、ニルヴァーナの後についていくように
退出する。
﹁⋮⋮少し軽率だったかな﹂
まさかゼノスが聖騎士だとは思っていないだろうけど、彼女は目
利きの良さは確かなようである。下手な行動を取ってしまうと怪し
まれそうだ。
面倒だけど、自分の正体が白銀の聖騎士だとは気付かれたくない。
そう思うゼノスであった。
34
35
ep3 主を求める少女︵改稿版︶
ハルディロイ城まではさして時間はかからなかった。路地を出て、
大通りをまっすぐ進んだ先に、巨躯な建物はそびえ立っている。
荘厳な雰囲気漂う白い城壁に、天高くそびえる尖塔。もう二度と
踏み込まないだろうと思っていたその敷地へと、ゼノスは踏み込ん
だ。
城門を入った先には、広大に広がる憩いの庭園が広がっている。
一般人の立ち入りは禁止だが、ここは一応騎士階層や貴族階層の人
間が談話や休憩に使うところの為、今でも庭園には人がちらほらと
見える。
ゼノス達の姿を見つけると、皆が一様にこちらを注視する。ある
者は興味深げに、ある者は粗末な人間が来たと。どちらにせよ、あ
まり歓迎はされていないようだ。
特に貴族階層の連中には⋮⋮。元々ランドリオ帝国は貴族を中心
36
に政治が行われ、貴族によって騎士団が束ねられていた。しかしそ
れは昔の話であり、数々の横暴を重ねた貴族は騎士によってその地
位を落とされ、今では形だけの存在となっている。
今では数も大分減り、残るのは名門だった貴族一家のみ。一応そ
れなりの役職は授けられているが、その監督は騎士が担っている。
もちろんプライドの高い貴族連中はそれに憤りを覚え、騎士に対
して尋常ならざる憎しみを抱いている。こうしてどこの馬の骨とも
知らない騎士が来れば、怨嗟の視線を送るのも当然である。
﹁⋮⋮何も変わってないな﹂
ゼノスは深く溜息をつき、慣れた様子でその視線を上手くやりす
ごす。ニルヴァーナも視線を合わせようとせず、ただゲルマニアの
後を付いて行く。
そして城の内部に入り、エントランスホールへとたどり着いた。
﹁ではニルヴァーナ殿、ここよりは向こうに控える侍女が案内いた
します。ですので、私とゼノス殿はここで待機となります﹂
ゲルマニアは感情を見せず、淡々と告げる。
37
﹁ああ、案内させてすまなかったな。ではゼノス、私はこれより皇
帝陛下に謁見してくる。軽率は慎めよ﹂
﹁ええ、了解しました﹂
ニルヴァーナは気品ある足取りでそのまま大廊下を突き進んで行
く。
皇帝陛下との謁見となると、時間はそれなりにかかるだろう。か
と言って場内を散策する時間もないだろうし、ここで知り合いと再
会するつもりもない。仕方ないが、ゼノスは大人しく待つことにし
た。
それから数分が経過。ゼノスとゲルマニアは無言のまま待機して
いたが、ゼノスはまた眠気に襲われる。
退屈なせいか、はたまた慣れない行動をしているせいか、いつ眠
ってもおかしくない状況だった。てなわけで、
︱︱今度こそどこかで昼寝しないとな
38
そういえば、聖騎士時代によく休憩に使っていたベンチがある。
ゼノスはそれを思い出し、おぼつかない足取りのまま庭園に行こう
とした。︱︱が
﹁あの⋮⋮﹂
﹁んっ?﹂
突如、ゲルマニアが話しかけてきた。今まで話しかけてこなかっ
たのに、こんな最悪な状況で来るとは思わなかった。
﹁⋮⋮少し、話をしませんか。ゼノス殿﹂
﹁話?﹂
せっかく昼寝をしようとしていたのに、ゲルマニアが静かに尋ね
てきた。何だか知らないが、ニルヴァーナといた時よりも若干テン
ションが下がっていた。
何の用かは知らないけど、とにかく眠い、怠い、帰りたい。どう
せ騎士同士の戦果の語り合いをするのだろう、と面倒な想像が込み
上がってくる。
39
だが、予想とは裏腹の答えが返ってきた。
﹁ゼノス殿は、白銀の聖騎士という方をご存じでしょうか?﹂
﹁⋮⋮﹂
まさかその話題が出てくるとは⋮⋮。
﹁名前だけは知っていますが、その方が一体どうしたのです?﹂
ゼノスはなるべく冷静を装って答えた。
ゲルマニアはしばし沈黙し、やがて次の言葉を打ち明けた。
﹁知っていたらでいいのです。どこかで、白銀の聖騎士らしき人物
は見かけませんでしたか?﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
40
これもまた意外な質問だった。白銀の聖騎士を見かけたらって、
ゲルマニアはもしかして、聖騎士を探しているのだろうか。
ゼノスが行方不明と公表されてから二年、やはり物好きはいるも
のだ。
﹁失礼ですが、なぜ俺にそのような質問を?﹂
﹁⋮⋮貴方方は世界中を回っている身ですので、もしやとは思った
のですが﹂
﹁残念ながら、そのような方は見かけてないですね。しかし、どう
してゲルマニアさんは聖騎士を探しているのです?﹂
ゼノスがその言葉を放った途端、ゲルマニアは口ごもってしまっ
た。
⋮⋮ゼノスはその様子を見て、先ほどから感じていたこの少女の
違和感に気付いた。口には出さなかったが、ゼノスはこの少女の心
臓の音を、耳を研ぎ澄まして先に確認したのだが。
驚くことに、ゲルマニアの心臓の鼓動が聞こえなかった。
41
ゼノスは最初もしかしたら不死者かもしれないと思っていたのだ
が、今の挙動でそれはもう一つの可能性へと移り、たった今確信し
た。
﹁⋮⋮シールカードだから、話せませんか?﹂
﹁っ!ゼノス殿、なぜそれを⋮⋮﹂
﹁しっ、ここだと怪しまれますよ﹂
ゼノスは静かにするよう人差し指を口先に当て、そう呟いた。シ
ールカードの存在は、人間にとっては害虫に等しいと考えられてい
る。︱︱特に、ここランドリオ地方に住む者達はそう思っているの
だ。
それは何故か?当然と言えば当然だが、始祖という災厄はランド
リオに大きな被害を与え、多大な犠牲を払った。始祖の因子を授か
ったシールカードは、犠牲者に関係する者達に例外なく恨みを抱か
れている。それが例え、友達や両親であっても⋮⋮。
しかし、ゼノスはシールカードだからと言ってその全てを拒むつ
もりはない。
42
シールカードに宿った人間とは何度か会ったが、始祖とは違い、
全員が好戦的ではない。むしろ戦いを嫌い、人里離れた場所に隠居
する者までいる。ゼノスはそんな彼等の境遇を知っているからこそ、
全てを憎むことは出来ない。
まあなぜシールカードがいるかはさておき、むやみにここで話す
内容ではないだろう。そして、彼女がシールカードだとここで公言
する事もしない。
ゲルマニアもそれを悟ったのか、周りを確認し、手で手招きをす
る。
﹁⋮⋮では、この先にある個室で話しましょう。都合の方は宜しい
でしょうか?﹂
﹁⋮⋮ええ﹂
ああ、また余計な事を言ってしまった、とゼノスはここで後悔し
た。
なぜだろうか。困った人がいると見過ごせない、そんな騎士とし
て染み込んだ精神が未だに根付いている。とても厄介で、面倒な癖
43
である。
ゼノスは自分のそんな性格を恨みつつ、黙ってゲルマニアの後を
ついていくことにした。
廊下にいくつものドアがあり、その中の一つにゼノスとゲルマニ
アは入室した。中は一般的な宿部屋よりも広く、ベッドや机も存在
する。ここはどうやら客室のようだ。
ゲルマニアはベッドに腰掛け、ポーチからカードを取り出す。そ
してそれをゼノスに示す。
﹁⋮⋮ゼノス殿、私は確かにシールカードに封印された者です。本
当ならギャンブラーの力なしには外にも出れない身ですが⋮⋮⋮⋮
どういうわけか、今の私はギャンブラーの力を借りずに顕現されて
います﹂
﹁⋮⋮﹂
ゼノスはじっくりとカードに描かれた絵を見る。そこには剣と盾
を携え、馬に乗って勇猛に戦う騎士の絵、どうやらこのカードは騎
士系統のカードのようだ。
44
一言で表すならば︱︱それは危険な存在である。
それほどまでに、このカードに宿る力は強力すぎる。
﹁このシールカード︱︱﹃騎士のシールカード﹄を手に入れた当初、
私は自分でカードを使えるかどうか試してみました。しかし結果は
使えず、反応すら見せてくれません。だから︱︱﹂
﹁ギャンブラーとなるに相応しい人物を探している、ですか﹂
﹁⋮⋮そうです。その候補として私が挙げていたのが、私が尊敬し、
憧れていた白銀の聖騎士だったのです﹂
︱︱なるほど
ギャンブラーは封じ込まれたカードの人々よりも強く、そして同
系統の強者でないと認められない。それは数少ない研究結果から確
認されている。
シールカードは、人間の何十倍もの強さを誇るイレギュラーな存
在、すなわちギャンブラーはその上を行くさらに異常な存在でなけ
ればならない。このゲルマニアも、相当苦労しているのだろう。
45
︱︱まあ、その聖騎士はゼノスなのだけれど
もちろん自分の方から、﹁私は探していた聖騎士ですよ﹂なんて
言う気は毛頭無い。これ以上この少女と関わらない方が利口だと、
ゼノスは素直に思っていたからだ。
﹁へえ、大変そうですね。俺も誠意を尽くして協力したい所ですが、
白銀の聖騎士となると⋮⋮﹂
﹁はい、それは分かっています。⋮⋮ですが﹂
ゲルマニアは部屋の窓を開け、茫然としたように空を見つめる。
﹁︱︱それでも、私は彼にギャンブラーとなってほしいのです﹂
見つめる瞳は、とても輝かしいものだった。想像するその聖騎士
を真に尊敬し、崇拝するような眼差し。
﹁私がまだ人間の村娘だった頃、私は毎日、聖騎士の英雄譚を聞き、
そしてその物語に惚れこんでいました。姿を見たことはありません
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が、白銀の甲冑に身を包み、弱きを救い、最強の道を行く彼は⋮⋮
とても素敵な方だと思いました﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だから私はあの日、彼が行方不明となったと聞いた時には涙を流
しました。多分、帝国民全てが泣いたと思います。⋮⋮ある人の話
ですが、北方の大地で戦争が行われ、そこで彼は消息を絶ったと聞
きましたが、そこからは何とも﹂
﹁⋮⋮﹂
彼女の話は半分は正解だった。自分が消えたのはその戦争の影響
でもあるし、的外れな推測では無い。
⋮⋮しかし、弱きを助けるというのは聞き捨てならなかった。
︿俺が弱者を助けた?何を言ってるんだこいつは。表沙汰はそう言
われているが、実際はそうじゃなかった。逆だったのに、何でこん
な俺を英雄視するんだ﹀
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聞いていて清々しい気分になれなかった。この国は、やはり聖騎
士に心酔している。だから、ゼノスは来たくなかった。
ゼノスはひとまず気を落ち着かせ、問いかける。
﹁で、ゲルマニアさんはこれからどうするのです?闇雲に探しても
見つかりませんよ﹂
﹁はい。ですから、今日はわざわざ隊長としての活動を休止し、あ
る話を聞きつけてこの依頼にご同行させていただきました﹂
﹁?﹂
ゼノスは今の言い方に疑問を抱いた。
︱︱ある話、何だそれは
と、ゼノスが質問しようとした瞬間、彼女は答えてくれた。
それは、理不尽なものだった。
48
﹁どうやらギャンブラーの言伝によると、白銀の聖騎士はとある最
強の騎士団とともに現れるそうです。嘘か真かは存じませんが、も
しかしたらシルヴェリアの関係者かと⋮⋮って、ゼノス殿?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それ、そいつが言ったのですか?﹂
﹁い、いえ。直接ではありませんが、例の予告と共に紙媒体として
残されていました。世間にはまだその情報は広がっていません﹂
︱︱どういうことだ、これは?
盗賊のギャンブラーが、ゼノスを白銀の聖騎士と断定していると
は信じがたい。
しかし、なぜ聖騎士の話を出したのだろうか?ゼノスを、白銀の
聖騎士をおびき出す理由があるというのか。
ゼノスは考えた。考えた末に、ゼノスは気付いた。
︿馬鹿か⋮⋮俺は。自分で干渉しないと言い張っていたのに、今に
なってこんなことに首を突っ込むのはおかしいだろ。そうだ、俺は
全てから逃げたんだ﹀
49
ゼノスは決めた。
もう、この少女とは面と向かって会わない方がいいと。
昔の自分に頼る少女の輝かしさが眩しくて、そんな純情がゼノス
の心を締め付けてくる。
だからゼノスは無言で立ち上がり、ドアに向かっていった。
﹁ゼノス殿?どうしたのですか⋮⋮﹂
﹁悪いが、これ以上は付き合ってられないな。⋮⋮あと白銀の聖騎
士を探すよりも、他の凄腕の騎士を頼った方がいいと思うがな﹂
﹁え⋮⋮?そ、それは一体どういうことです?﹂
﹁簡単な話だよ。︱︱お前は、本当の奴を知らない﹂
ゼノスは苛立ちのせいか、丁寧語を止めて吐き捨てるように言っ
50
た。
ゲルマニアは腹立てているか、それは別れを告げた後すぐに廊下
に出てしまったので分からない。
︿早く帰ろう。どうせもうあの子と会う機会なんて少ないだろうし、
この依頼も多分俺の出番はもうない。今のは忘れよう﹀
ゼノスは団長命令を無視して正門へと向かった。
今は即刻、この場所から立ち去りたかった。
51
ep4 リリスの思い︵改稿版︶
宿舎に着くと、そこには誰もいなかった。町の散策に出かけてい
るのか、または依頼に関する調査のために出掛けたのかもしれない。
いつも供にしているラインとロザリーの姿も見かけなかった。
少し寂しい気持ちもあるが、今のゼノスにとっては丁度いい。誰
かといるよりも、今は一人でいた方が落ち着く。
︱︱そういえば、一人は久しぶりだな
ゼノスは玄関口で溜息をつき、二階へと上がっていく。ゼノスと
書かれた名札が立てかけられた部屋のドアを見つけ、その前まで向
かう。
そういえば、部屋の中にはまだ整理していない荷物があるはずだ。
だが今日中にやるほどでもないと考え、もう寝ようとゼノスは思っ
た。
52
そのままドアを開け、ベッドに行こうとする。︱︱が、
部屋には意外な人物が佇んでいた。
﹁⋮⋮リリス副団長﹂
﹁⋮⋮やはり、途中で戻られたのですか﹂
リリス副団長は、寂しそうな表情でゼノスを見つめていた。
﹁ええ、そうですよ。城までの供は果たしました。帰りも、とは命
令されていませんしね﹂
リリスはゼノスの言葉に眉をひそめる。はっきりとは言えないが、
これは少し怒っているようだ。
﹁⋮⋮いつまで、こうしているんですの﹂
53
﹁はい?いつまでって⋮⋮何の話でしょうか﹂
﹁っ!だから、いつまで堕落しているかと聞いているのですわ!﹂
リリスは激昂した。ちなみに、この冷静沈着なリリスが感情を露
わにするのは珍しい。⋮⋮いや、二年前まではそうでもなかったか。
ゼノスは彼女の様子を見て、大体言いたいことを理解した。
仕方ないと思いつつ言葉を返そうとしたが、リリスの口から更に
言葉が出る。
﹁あと敬語はよして下さい、二人きりの場合は!二年前に約束した
じゃないですか、ゼノス将軍!﹂
ゼノスは悩ましい表情でこめかみを抑える。
正直、このリリスと話をするのはかなり面倒だ。昔のゼノスを知
54
っているが故に将軍呼ばわりするし、何かというと敬語は止めろと
言ってくる。今は立場が逆転しているというのに、リリスは今でも
ゼノスを六大将軍として敬っているのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮敬語じゃなきゃ、ここではまずいんじゃないか?リリ
ス﹂
﹁うっ!そ、そうですけど⋮⋮ずるいじゃないですか、切羽詰まる
と昔の口調で話されるなんて⋮⋮っ!﹂
リリスは口ごもる、ゼノスの急な口調と態度の切り替わりに戸惑
っているのだろう。
⋮⋮彼女の名前はリリス、シルヴェリア騎士団の副団長なのだが
⋮⋮
二年前までは聖騎士として、そしてランドリオの六大将軍だった
ゼノスの補佐として活動していた女性だ。年齢的には彼女の方が一
つ上だが、それでもリリスは未だに上司として慕ってくれている。
55
それは有り難い。しかし、今のお互いの立場は違う。
なのにリリスは、昔のように、ゼノスの部下として追言してくる。
﹁⋮⋮将軍、真面目に答えてください。いつまで堕落しているつも
りなんです?本当ならば我々はすぐにでもランドリオへと戻り、あ
の悪逆非道のリカルド王を一刻も早く引きずりおろす手立てを行わ
ねば!﹂
﹁それはできない﹂
﹁なぜですの!このままでは政略結婚をされる前王の娘、アリーチ
ェ姫はリカルドに蝕まれ、行く末はランドリオ自体も滅ぶのは確実
です!今のこの国には、将軍は必要な存在なのですよ!﹂
﹁⋮⋮﹂
皇帝リカルド︱︱彼はアリーチェ皇女殿下の父、バナディウスの
後継として即位された皇帝だ。
名門大貴族出身であり、騎士国家では珍しい貴族至上主義を掲げ
る男。
56
そのリカルドは、文字通り非道な人物だ。前王を暗殺し、その罪
を前六大将軍の一人に被せた。そして後に権力を支配した奴はラン
ドリオ帝国を一変させ、あらゆる手段を用いて国民の金を摂取して
いる。
土地税や物価税の値上がり、都市開発準備税や子供税といった理
不尽な税の配備。あとは軽犯罪における罰則金の跳ね上がり。ほん
の些細な行為でも罪として扱われ、払わなければ貴族お抱えの騎士
団によって拷問されるという結末が待っている。
ではその金はどこにいくのか?⋮⋮そんなのは決まっている。
公共事業への手当金と称し、徴収した金の大部分を貴族が中抜き
している。主な用途は貴族邸宅の改修資金、または貴族の生活費に
充てられている。後者に関しては恐らく、酒や食い物・娯楽・女の
ために使用していると思うが。
もちろんこれだけの行為をしていて、六大将軍や市民が憤らない
はずがない。おかげで貧困の差は一目瞭然となり、中枢都市以外の
地域の町村は金に困り、犯罪や飢えによる死が増大している。彼等
が一斉蜂起し、リカルドの強制排除が行われてもおかしくない。
しかし、リカルドには彼等を抑える最終手段が残っている。︱︱
57
それは自らの手で始祖をもう一度解き放つことであり、民はもちろ
ん、六大将軍でさえもその事態を恐れている。
︱︱そんな状況の中、果たしてリリスは聖騎士に何を期待してい
るのか?
実は聖騎士ゼノスが六大将軍にいた頃、リカルドは貴族至上主義
を唱えず、あくまで騎士を中心とした国家体制を敷いていた。何故
ならその時の彼の立場は弱く、国民的英雄である白銀の聖騎士が絶
大なる権限を有していたからだ。
自分がいたからこそ迂闊に行動を起こすことができず、今まで本
性を隠していた。⋮⋮が、聖騎士のいない今では、そんなことを気
にする必要もなくなったのだろう。
だから今のリカルドは、権力を盾にやりたい放題なのである。
更に、奴は最大の誤ちを二年前に冒している。
それが白銀の聖騎士を辞めたゼノスの最大の理由、現在このシル
ヴェリア騎士団の見習いをするために国外逃亡をした要因だった。
それは、リカルドが力を欲する余りに解放したあるカード、ハル
58
ディロイの地下に封印されていた始祖の解放によって引き起こされ
た始祖の暴走である。
始祖のカードとランドリオ帝国の戦争が、二年前に行われたので
ある。
多くが死に、多くが皇帝を妬み恨んだ。
奴の傍若無人な行為を止めたいという思いは、今のゼノスにもあ
る。しかし⋮⋮白銀の聖騎士が戻って来たからといって、リカルド
による圧政が終わるとは思えない。
可能性はあるだろうが、肝心のゼノスは復帰する気になれないの
だ。
﹁⋮⋮もうその話はよそう、リリス。如何にリカルドとて、収入源
である民を皆殺しにすることはないだろう。きっと、何らかの対策
を行うんじゃないか﹂
﹁⋮⋮将軍、何を、何を言っておられるのです﹂
リリスは肩を震わせ、切れ長の瞳でゼノスを睨んできた。
59
﹁あの様子を見てもまだそんな世迷言が入れるのですか!?リカル
ドは正真正銘の阿呆です!いつか帝国民全てを餓死させてしまいま
すよ!⋮⋮それに貴方が復帰しなければ、誰が姫様を守るというん
ですッ!﹂
﹁⋮⋮今の俺に守る力があると?はっ、冗談も止してくれ。きっと
アリーチェ様も、俺の不甲斐ない行動に深く失望しているさ﹂
﹁くっ⋮⋮!正義を重んじていた貴方が、何故そのような﹂
﹁︱︱俺に正義はなかった。あったとしても、それは自分を慰める
為の妄想に過ぎなかったんだよ﹂
ゼノスは二年前の戦争を思い出す。
﹃ランドリオ死守戦争﹄、二年前に行われた帝国と始祖による死闘。
あの戦争に参加した互いの人数は、およそ二万対一。
そして始祖を封印した時の生き残った人数は、たったの三人。
本当に最低な戦争だった。三カ月という短期間の戦争だったが、
始祖による姑息な手段、兵糧を初日に焼かれ、行軍中に始祖による
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奇襲を受け、半分もの兵を失った。
それだけじゃない、奴の奇怪な行動に精神をやつした兵が兵糧を
求め、近隣の村や町を襲い、略奪の限りを尽くした⋮⋮と聞いてい
る。
その時、ゼノスは果敢に少数の兵を連れて始祖に立ち向かってい
た時期であった。被害を最低限減らすために大半を駐屯軍として後
方に配置し、ゼノスは前線に赴いていた。
⋮⋮⋮⋮けれど、ゼノスとて仲間兵士と似通った行いをしている。
始祖との戦いは常軌を逸し、狂い咲く両者の刃は︱︱近隣の村を
滅ぼしている。
だから、あの時自分は思い知った。
英雄と呼ばれながらも、事実上全てを助けることは出来なかった。
世間に聖騎士の限界と評され、まがい物の英雄、なんて事も言われ
た。薄っぺらかった正義の、崩壊だった。
そして自分は逃げるように国外逃亡を行ったが、ある意味それで
良かったと思う。
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おかげで今の自分は、全ての責任から逃れたような幸福感に満ち
ている。
最低な考えなのは重々承知である。自分は責任逃れをした、その
おかげで姫を救えず、リカルドの支配が行われた。ああ、これで一
件落着⋮⋮なんて馬鹿な事を言うつもりはない。
けれども、それこそがゼノスの本音である。
英雄とは程遠い、弱者の生き様なのである。
﹁⋮⋮﹂
お互いは黄昏に包まれた部屋の中で、沈黙を続ける。
が、それもほどなくして終わり︱︱
リリスは消沈したように俯き、ぼそりと呟く。
﹁⋮⋮私の知る将軍は、目の前の悪を許さない、正義の象徴でした
62
わ。ですが、側近であった私の声も届かない程、堕落しましたか﹂
堕落⋮⋮確かに、そうかもしれない。
自覚しているからこそ、ゼノスはやけくそな態度で言い放つ。
﹁ああ、そうだよ。だからもう俺に構うな。お前もそろそろ自分の
道を歩めよ。知ってるんだぞ、お前が団長に好意を抱いている事を﹂
﹁︱︱なっ、ななっ何でその事を知っているんですの!﹂
﹁当たり前だろ?伊達にお前の上司をやってなかったよ。それに、
その事は皆にも知れ渡ってるから﹂
﹁⋮⋮うう﹂
リリスは呻き、顔を真っ赤に赤面させた。こんな表情を見るのは
初めてだった。
﹁⋮⋮どうしても、ニルヴァーナ様は振り向いてくれませんわ。や
はりサナギの方が好きなのでしょうか?﹂
63
今度は恋愛相談と来たか。
気変わりの激しいリリスであるが、こうも唐突だと付いて行けな
い。ゼノスは適当に相槌をした。
﹁さあ、疎い俺にはよく分からん。だが俺としては奴と早く結婚で
もして、幸せな家庭を築いてほしいと願っているよ。︱︱この国の
ことを忘れてな﹂
﹁⋮⋮それは、貴方が六大将軍として復帰してくれた考えますわ﹂
だからそれは無理だ、とゼノスは呆れたように言い足した。
リリスはどうやら聖騎士時代のゼノスに戻ってほしいらしい。確
かにあの頃のリリスは一心にゼノスに仕え、一方的ではあるがどこ
か誇らしげにも見えた。未練として、未だに断ち切れないのだろう。
﹁リリス、はっきりと言うがな、俺が一人加わったからと言って状
況は変わらないと思うぞ。人は所詮人でしかない、例えそいつが人
外の強さを誇っていても出来ることは限られていると、以前お前に
教えたはずだがな﹂
64
﹁⋮⋮﹂
﹁政治は専門外だ。リカルドを武力で粛清しても、その後の始末は
出来ない。⋮⋮それぐらい、お前にも分かるはずだ﹂
﹁⋮⋮﹂
リリスは俯き、無言でその場から立ち去ろうとする。ゼノスの言
葉が身に染みたのか、言い返せないようだ。
しかしドアノブに手をかけたところで動きを止め、こちらを振り
向く。
﹁⋮⋮それでも、私は貴方を頼りたいんですよ。あの勇猛で、皆か
ら尊敬されていたゼノス様に﹂
﹁⋮⋮﹂
そして、リリスは部屋を後にした。
﹁⋮⋮勝手に言ってくれるよ、全く﹂
65
皆は分かってくれていないが、自分はそこまで偉大でもないし、
はたまた尊敬されるような行いはしていない。
リリスにも、他の団員にも理解してもらいたい。
正義というのには、限界というものが存在する。
民を守る正義を行くにしろ、例え不本意であっても、守るべき民
を守りきれず、死に追いやってしまうのが現実だ。
その真理を把握していなければ、きっと後に後悔することになる。
ゼノスは、身に染みて体験したから良く分かっている。
﹁さてと、夜飯まで一眠りするかな﹂
66
今までの出来事がまるで無かったかのように、何も思案すること
なく、ゼノスはベッドへと横たわった。
67
ep5 謁見︵改稿版︶
ランドリオ帝国の主城、﹃ハルディロイ城﹄には現在、シルヴェ
リア騎士団を束ねる一人の団長が皇帝に謁見していた。
玉座に深々と鎮座する時の皇帝︱︱リカルドは男を一瞥し、厳格
な面持ちで話を始めた。
﹁よくぞ遠路はるばる参ってくれた、名高き戦士ニルヴァーナよ。
余の私用の為に苦労をかける﹂
ニルヴァーナは跪いた状態で首を垂れた。
﹁いえ。皇帝陛下直々の依頼、我が騎士団を代表して感謝申し上げ
ます﹂
﹁よい、そんなに畏まるな。顔を上げよ﹂
68
そう言われてニルヴァーナは顔を上げた。
皇帝リカルド。ニルヴァーナは直に本人について調べていたが、
彼の噂にはあまり良いものがない。
大きく挙げるならば二つ、まず一つは前代の皇帝を暗殺し、自ら
の地位をあげたこと。平和主義者であった前皇帝の考えに立腹し殺
したという噂が後を絶たない。
今後はさらに自分の尊厳を向上させるべく、七十という年齢であ
りながら前皇帝の愛娘、十六のアリーチェ姫と結婚をなさるという
話も出ている。
そして二つ目は、秘密裏に膨大な税を民から徴収している事実だ。
主な税の使用目的は公共事業の手当をメインとしているが、それは
一部の貴族によって中抜きされていると言われている。
そういった思惑を知りつつも、ニルヴァーナはこの皇帝の依頼を
引き受けた。
彼が望む願いは、ただ一つ。
それは、この騎士団をさらに大きくさせること。大帝国の皇帝の
69
任務を成功させれば更なる評価を期待できる。そう、ニルヴァーナ
には単純な野望しかなかった。
大きくさせ、徐々に騎士団の名が広がれば⋮⋮﹃奴﹄が姿を見せ
るかもしれない。
﹁⋮⋮さて、今回の依頼に関してなんだが、君たちには始祖の守り
を果たしてほしいと通達したはずである﹂
﹁ええ、そう知らされています﹂
﹁そうか。ならば良い﹂
⋮⋮始祖。
自らの事前調査とリリスから聞いた所によると、リカルドが自ら
の欲望故に解放したとされる災厄の象徴。現存する数多のシールカ
ードを生み出した故に、奴は始祖という名を与えられている。
これは噂であるが、そのカードよりランドリオの一部地域は大き
な被害を被り、三カ月もの戦争の末、やっとの思いで白銀の聖騎士
がその始祖の封印に成功したという。詳しい方法は明かされていな
いが、何でも聖騎士流に伝わる封印の秘技を用いたとか。
70
それはともかくとして、ニルヴァーナは率直な疑問を口にする。
﹁依頼の件は把握しましたが、その依頼は本当に我々が受けても宜
しいのでしょうか?ランドリオ帝国には偉大な六大将軍がいるはず
ですが﹂
﹁⋮⋮ニルヴァーナよ、何が言いたい?﹂
﹁はっ。つまり我々のような雇われ集団に大金をはたくよりも、そ
ちらの方が御国の名誉に繋がるかと思った次第です﹂
リカルドはそれを聞いて、微かに微笑む。
﹁ああそういうことか。確かに余としても、体裁を考えれば六大将
軍に守らせたいところである。⋮⋮が、残念ながら彼等は多忙の身
でな。そう易々とこの任務につかせることが出来んのだ﹂
彼は至極真っ当そうな理由を並べ立てる。
だが、リカルドは六大将軍を任務につかせることが出来ないので
はなく、つかせたくないというのが本音だろうとニルヴァーナは予
71
想する。
大衆には知られていないが、彼は様々な横暴を、始祖を解放する
という脅迫を盾に貫徹している。そんな史上最強とも言える盾を六
大将軍に守らせたら、間違いなくリカルドの絶対王政は潰える。
六大将軍と険悪な状態にある現在、彼は始祖と六大将軍を
なるべく遠ざけようとしているのだろう。
﹁そういうことだ。理由は分かっただろう?﹂
﹁はっ、失礼いたしました﹂
ニルヴァーナは適当に相槌をした。これ以上問い詰めたところで、
ニルヴァーナにとっては何の利益も残さないだろう。
﹁にしても、盗賊のギャンブラーはあまりにも愚かである。一度国
を滅ぼしかけた始祖を奪還するなど、一体を何を考えているのだろ
うか﹂
リカルドは苛立たしげに足を組み、声のトーンを更に低める。
72
﹁だからこそ、先日突き付けられた忌まわしき予告状には業を煮や
している。いつかは不明だが、そう遠くない内にやってくるだろう。
⋮⋮ニルヴァーナ、何としてでも始祖を守るのだぞ﹂
﹁お言葉ながら、一つ確認させて下さい﹂
﹁何だね?﹂
﹁予告状にも記されていましたが、相手はあのギャンブラーと聞い
ています。この帝国には、同じようにギャンブラーはいるのですか
?﹂
リカルドはそれを聞いて、即答した。
﹁いない。そもそもギャンブラーとシールカードは忌み嫌われてお
る。万が一彼等を雇用していると知られれば、帝国の沽券にも関わ
る。⋮⋮まあシールカードはいるが、彼女もあまり公に知られない
よう扱っているのが現状だ﹂
﹁⋮⋮そうですか。しかし我らのみで戦うのであれば、多少のお覚
悟を﹂
﹁無論だ。それに、これはある意味では君らを試してもいるのだ﹂
73
﹁試す⋮⋮?﹂
ニルヴァーナはその言葉に疑問を抱いた。
リカルドは、一体何を考えているのであろうか。
﹁ふむ、まあその件についてはそちらに一任する。⋮⋮そうそう、
あともう一つ頼みたい事があるのだが﹂
﹁はっ、何でしょうか?﹂
リカルドは近場の兵に顎で促す。兵士は少々前に出て、口を開い
た。
﹁僭越ながら、私が述べさせていただきます。一週間後の早朝、こ
のランドリオ騎士団内で模擬試合を実施します。皇帝陛下直々のお
考えで、シルヴェリア騎士団、そして我が騎士団の有力候補による
模範試合を行いたいと思います。どうでしょう、ご参加出来ますで
しょうか?﹂
︱︱試合、か
74
本当ならばギャンブラーとの対決に備えて温存したい所だが、こ
れはある意味ではランドリオの実力を見る機会かもしれない。何か
とその経験は役に立つだろう。ニルヴァーナはあくまで利益を優先
しつつ、それに答えた。
﹁⋮⋮ふむ、分かりました。こちらとしても良い経験となります。
喜んで、参加させて頂きます﹂
そう言うと、リカルドは満足そうに頷いた。
﹁すまぬな。こちらとしても、シルヴェリアの実力をぜひ拝見した
いものでな。当日は余は見られぬが、代行としてアリーチェが観覧
する。両者とも全力を尽くし、共に研鑽し合うがよい﹂
﹁はっ⋮⋮﹂
リカルドは下がっていいという合図を出し、ニルヴァーナは静か
に退出した。
︱︱模範試合、さてどうしたものか
75
一週間後とは急だが、今さら気にしても仕方ない。これは皇帝陛
下の評価を高めるという利点も含まれている。
誰を出そうか、ニルヴァーナにとってはそれが問題だった。
自分は出るとして、あとはサナギかリリス⋮⋮そして。
そこでニルヴァーナの脳内で、一人の青年が思い浮かんだ。
入団当初から剣を振るおうとせず、決して自分の実力をさらけ出
そうとしない団員。そのせいか団員内ではあまり良い評価を得てい
ない青年、ゼノス。
一部では辞めさせろという声も上がっているが、何故かニルヴァ
ーナは辞めさせようとしない。団員の給仕係としても重宝している
が、辞めさせない主な理由はそうじゃない。
︱︱彼には底知れない何かがある。
それは利益に繋がるとか、そういった現実的な探究心ではない。
ニルヴァーナを惹きつけてやまない、もっと単純な興味本位である。
76
⋮⋮もしかしたら、それを明日見せてくれるかもしれない。
﹁⋮⋮サナギに、また何か言われそうだな﹂
77
ep6 謁見2︵改稿版︶
リカルドはニルヴァーナ退出後、城に滞在する六大将軍二人の内、
その一人である女性を呼びつけた。
強靭なるランドリオ騎士団を支える六大将軍の一人︱︱モハヌデ
ィ・イルディエ・カラ・ハリヌは、静かに皇帝の話を聞いていた。
内容は当然、一週間後の模範試合についてだ。
南部民族アステナの踊り子が纏う衣装に身を包み、アステナ民族
特有の黒褐色の肌、そして艶やかな銀髪である彼女は、その要望に
答えた。
﹁⋮⋮なるほど。ではその模範試合に参加すればよいのですね?﹂
リカルドは首肯する。
78
﹁うむ、そうだ。相手は世界各国に名を知らしめている騎士団、シ
ルヴェリアだ。我が騎士団にとっても良い教訓となるだろう。お前
はその模擬試合を見届ける役目を果たして欲しい﹂
﹁⋮⋮はい、分かりました﹂
その為だけに呼んだのか、とイルディエは密かに憤っていた。
六大将軍とは、何千人といるランドリオ騎士団を束ねる最高位の
役職。常に外交、又はランドリオ大陸内外で起こる紛争鎮圧指揮に
も携わる。なのでこのような模範試合を頼むなど、とても珍しい事
だった。
しかし、彼等はそんな模範試合に付き合う程余裕がない。
特に現状は最悪だ。白銀の聖騎士は現在行方不明の為、今は空席
が目立つ。
イルディエは知らない六大将軍だが、﹃知られざる者﹄と呼ばれ
る隠密の仕事に従事していた将軍も二年前に失踪している。現在は
その席は埋められているが⋮⋮その者は一度も姿を見せていない。
事実上、現在この国を支えているのはイルディエ、アルバート、
79
そして今はこの国にいない他二名のみである。そんな多忙の時期で
あるにも関わらず、わざわざ呼ぶ理由は何なのだろうか?
⋮⋮この男の顔を見るだけでも嫌だというのに。
﹁︱︱ふむ、隠さずともよいぞイルディエ。お前はこの老いぼれを
疎ましく思っているのだろう?﹂
﹁⋮⋮﹂
沈黙を肯定と受け取り、リカルドは言葉を続ける。
﹁今さら敬わずともよい。何せ貴公ら六大将軍はあの戦争の原因を
知り、その上でこの私に反旗を翻してしまった者達。まあしかし、
使わせてもらっているだけ有難いと思え、などとは言わぬ。自身の
意見を述べよ﹂
︱︱この男⋮⋮
リカルドの言う通り、二年前のちょうど今頃、イルディエ達は一
度リカルドに反乱を起こした。
80
理由は極めて明白、死守戦争による皇帝への失望だった。
死守戦争は皇帝を契機として起こった事件、あの戦争により多く
の犠牲者を生んだ。
それだけではない。皇帝リカルドがその戦争で一人の六大将軍を
見殺しにした事が、六大将軍に反乱を起こす火種になった。
︱︱白銀の聖騎士。あの戦争ではなぜか彼だけを戦場に派遣させ、
始祖との死闘の末に何とか始祖を封じさせた。信じられないが、通
常のシールカード相手に生身の人間では刃もたたないというのに、
彼はシールカードの元凶である始祖を相手に、封印まで成し遂げた
のだ。
⋮⋮だが、彼はその後行方不明となった。現在でも捜索をしてい
るが、未だ見つからない。
何故聖騎士だけを行かせた?何故封印されていた始祖を復活させ
た?疑問は沢山残っているが、リカルドのたった一言により、イル
ディエ達の憤怒は頂点へと達した。
﹃聖騎士の捜索を打ち止めよ。これ以上の捜索は無意味である﹄
81
そう騎士団の前で公言したリカルドに対し、イルディエ達はリカ
ルドに矛を向けた。
しかし結局、反乱は失敗した。初めから勝負など出来なかった。
反乱を予期していたリカルドは即座に始祖の元へと行き、イルディ
エ達にこいつを解放するぞ、と脅して来たのだ。
⋮⋮悔しいけど、あの時は何も出来なかった。そして、今現在も
⋮⋮。
また反乱を起こせば、今度は国民にまで被害が及ぶかもしれない。
︱︱そう考えると、以前の反乱はあまりにも軽率だったと考えてい
る。皇帝の不条理な政策方針や前皇帝の暗殺疑惑に不満が募り、そ
の怒りを行動で示す⋮⋮それはあまりにもリスクが多い。
そう、その件に関してはそれまでだった。もはやこれ以上は成立
しない。
だから、成す術もなく奴に従事しているのだ。
唯一の悪あがきとしては、ただ反論を示すのみ。
82
﹁⋮⋮模擬試合についてだけど、そのくらい訓練指揮官に任せても
いいんじゃないかしら?﹂
イルディエは冷めた口調に切り替え、リカルドを睨む。
リカルドはその威勢に満足し、にやりと口端を上げる。皇帝に対
してこの口の聞きようであるにも関わらず、リカルドはまるで気に
も留めない。
﹁それではシルヴェリア騎士団の連中に失礼だろう。かの有名な放
浪騎士団をお迎えするのに、六大将軍が一人もいなくてどうする?﹂
﹁⋮⋮アルバート将軍の方がおあつらえ向きだと思うけど?﹂
アルバートという名を耳にし、途端にリカルドが不機嫌になる。
﹁奴は何かと反抗的だ。前皇帝バナディウスと親しい関係故に、ど
うも行動の一つ一つに謀略的なものが見られる。︱︱余は奴を信じ
られん﹂
﹁なら、私は信じられると言いたいのかしら?﹂
83
﹁無論。お前は既に反抗の意思を捨て、余の犬と化している。飼い
犬に疑念を抱くほど、余もそう忙しくはない﹂
まるで挑発するかのように、イルディエを蔑むように告げてくる。
頭の中で何かが切れる音がしたが、イルディエは何とか自制した。
震える右手を左手で押え、怨嗟のこもった瞳をリカルドにぶつける
だけであった。
﹁くく、そう睨むでない。それに、模擬試合に参加する意味もちゃ
んとあるぞ。むしろ、お前ににとっては興味深い話だと思うがな﹂
﹁何ですって?﹂
それを聞いて、イルディエは少々動揺した。
が、考えているうちにある記憶を思い出す。そこから大体の予想
を立てたが⋮⋮ほぼ当たっていたようだ。
﹁︱︱お前も知っているだろう?あの盗賊のギャンブラーの予告状
の追記を﹂
84
﹁っ⋮⋮﹂
勿論、イルディエは追記を知っている。
シルヴェリアと共にやって来る聖騎士。ほとんど嘘だろうと認識
しているが、対するリカルドは本気で信じているようだ。
﹁最強の騎士団と供に姿を見せるだろう白銀の聖騎士、と。それと
同時にあのシルヴェリアの到来、どうだ?なにかが引っかからない
か?﹂
リカルドは諭すように言ってきた。
確かに、シルヴェリアの話を聞いてからは少々疑問に思っていた。
﹁⋮⋮まさか、シルヴェリアに聖騎士殿がいると?﹂
﹁まだ分からぬ。しかしだ、それを確かめるに明日は絶好の機会だ
と思うのだ。お前らは、聖騎士のことを無我夢中で探しているらし
いからな﹂
85
やはり、この男には逆らえない。
リカルドの言うことは尤もだった。そして、イルディエはそれに
対して、嫌々ながらも答えるしかなかった。
﹁⋮⋮⋮⋮了解、しました﹂
﹁それが賢明だ。詳細に関しては当日に伝えよう﹂
そういって、リカルドは笑みを浮かべた。
全く理解できない。聖騎士を捨てておいて、なぜ今になってそん
な助言をするのかが。
イルディエにとって、いや、おそらくランドリオの人々のほとん
どが、このリカルドの考えを掴めていないだろう。
86
ep7 狂った皇帝の覚悟︵改稿版︶
皇帝リカルドは、ただ静かに玉座へと鎮座する。
イルディエが退出し、今この空間にいるのはリカルドだけである。
︱︱しかし、誰がいるいないにも関わらず、彼はただ沈黙を貫くば
かり。何を考えているのかさえ分からない。
相手に気取られず、堂々と圧政を繰り返していくそのさまは、貴
族勢力以外の非難を浴びるには十分な理由だった。
だがどんなに罵られようと、リカルドは屈しない。そしてこの横
暴な行動を変える気は毛頭ない。
明確な目的は存在する。あるからこそ、リカルドは盲進する。
﹃ふふ、中々強情ですね皇帝陛下。そこまでして始祖に近づけたく
ないのですか?﹄
87
突如、玉座の背後から奇妙な声が響く。
素性は愚か、男か女かさえ分からない声音であったが、その人物
はリカルド知る人物である。
リカルドは怒気を孕んだ声音で言い放つ。
﹁貴様か。もう二度と面を見せるなと言ったはずだが?﹂
﹃悲しいことをおっしゃいますね。私はただ始祖様を解放し、貴方
様の苦悩を和らげたいだけですよ﹄
﹁⋮⋮く、くく。よくそんなことが言えるな。知っているぞ貴様の
ことは。本当なら今ここで、この余を殺したいのではないか?﹂
すると、声は途端に黙り始める。
リカルドは漂う気配で分かる。声の主は必死に怒りを抑え、殺し
たいという衝動を自分で押し殺しているのを。
88
﹃︱︱ええそうですね。元々始祖様を解放する理由も、このどうし
ようもない愚かな皇帝に死を与え、争いの火種となるランドリオ帝
国を滅ぼすこと。だから始祖様が解放されるまで、貴方を殺すつも
りはありません。もっと相応しい時に⋮⋮残酷なまでに殺してあげ
ますよ﹄
誰もいない玉座の間に、その怨念の宿った言葉が響き渡る。
声は震えるリカルドを見て満足し、徐々に気配を消していく。
﹃⋮⋮では、私はこれにて。その場で存分に⋮⋮私の復讐劇を楽し
んで下さい﹄
そう言って、謎の人物は完全に気配を消した。
リカルドはいなくなったと同時に溜息をつき、ゆっくりと目を閉
じる。
余が愛すべき者を汚すとは︱︱許せん。
今のリカルドは、あの声に対してあることで怒りを覚えていた。
89
皆からは始祖と呼ばれる存在。だが、リカルドの認識は違う。
あれは︱︱死んだはずのわが娘。数年前に不治の病に陥り、世を
儚んで死んでいったあの子が⋮⋮こうして蘇ってくれたのである。
始祖ではない。あれは余の娘だ。︱︱かわいいかわいい、愛娘。
だから、あの子を利用しようとしている奴を許せない。⋮⋮そう
思っていた矢先、思いもよらぬ知らせは突然舞い降りた。
聖騎士の再来。
始祖の復活を知れば、聖騎士は必ずや止めに入るだろう。そうす
れば、始祖は奴に利用されずに済む。その代わりに白銀の聖騎士が
戻って来てしまうが、既に奴の信頼は地の底に沈んでいるだろう。
聖騎士への対策は色々とあるはずだ。
リカルドは笑みを深め︱︱ふいにこんな一言を漏らした。
90
﹁⋮⋮我が愛しき娘よ、父はお前を守って見せる﹂
これが誰も知らない、彼の異常な行動原理。
死んだ娘を追い求めた末に、狂い堕ちた皇帝の本音であった。
91
ep8 金に困る騎士︵改稿版︶
ニルヴァーナが皇帝への謁見を終え、イルディエが王の頼みを承
諾した一方。華やかな彼等とは裏腹に、地味なゼノスは空腹を誘う
通りを歩いていた。
既に空は黒く塗り潰され、城下町の家々からは夕飯の匂いがする。
ぐぎゅるるるる。
腹から響き渡る生理現象コーラス、何も好きで飯も食わず、ただ
ある目的地に向かっているわけじゃない。
﹁⋮⋮ちくしょう。誰も食材を買ってきてくれないから、結局町に
出て飯を食う羽目になったぞ﹂
眩暈を覚えつつも恨めしそうに呟くゼノス。
92
一応ゼノスは騎士団の給仕係を担当しているが、今日は全員揃っ
て誰もいない。それでは飯を作る意味がないので、こうしてゼノス
も町に繰り出しているわけだ。
⋮⋮二年ぶりの城下町。当時はゆっくり散策できなかったせいか、
こうして街中を歩くと新鮮に思えてしまう。
とても平和で、とても賑やかで、まるで六大将軍や⋮⋮白銀の聖
騎士なんていらないかのように。
﹁⋮⋮﹂
嗚呼、早くここから出て行きたい。
姫や仲間のことなんて忘れて、またどこか遠くに行きたい。過去
の自分の噂さえ聞かない、今の自分にとって楽な場所へと︱︱。
⋮⋮ぐぎゅるううう。
センチメンタルな気分に陥っていたにも関わらず、ゼノスの腹は
また鳴り響く。
93
﹁はあ⋮⋮。まあとにかく、今は飯を確保しなきゃな﹂
そう呟きながら、ゼノスはジャケットのポケットから小さい革袋
を取り出す。
一応これは財布なのだが、財布にしては硬貨の音が全く聞こえな
い。それどころか財布は細くしおれ、今にも風と共に飛び去りそう
な状態だった。
皮袋の口を結んでいた紐をほどき、反対の手の平を受け皿代わり
にし、硬貨を出そうとするが⋮⋮。
︱︱出てくるのは、一番価値の低い銅貨。しかも一枚だけである。
﹁はは⋮⋮やっぱないよな﹂
この儚い現実に直面した所で、ゼノスはある出来事を思い出した。
それはランドリオに来る前日のことだ。ラインとロザリーの三人
で酒場に行き、ゼノスの金で酒を水のように飲んだ記憶を。⋮⋮お
かげさまで、今は絶賛金欠中なのである。
94
あと三日で給料が入るのだが、残念ながら今夜分の食事代さえも
見つからない。白銀の聖騎士として名を馳せた時代とは大違いだ。
︱︱というわけで。
ゼノスは今から酒場に行き、依頼掲示板を見るつもりだった。
酒場なら定期的に依頼も見つかるし、それをこなせば相応の収入
が望める。現金は依頼をこなせばすぐもらえるし、正直これほど望
ましい金稼ぎはない。
﹁⋮⋮案外、こういうので生活するのも悪くないな﹂
そう言って楽な方楽な方へと考えていく内に、気付けば目的の酒
場へとたどり着いていた。
夜だけあって中はかなり騒々しい。陽気な客達が馬鹿笑いしなが
ら今日の疲れを発散させ、綺麗なウェイトレス達がセッセと働いて
いる。中には傭兵らしき戦士達もテーブル席に座っており、彼等は
難しい表情で依頼書と睨めっこしている。
95
酒場は民の憩いの場でもあり、同時に仕事を求めて尋ねる仕事斡
旋場でもある。それはここランドリオ帝国だけでなく、他の国も同
様。全く不思議なものだ。
﹁さて⋮⋮そんなことよりも掲示板掲示板っと﹂
ゼノスは血気盛んな野郎どもの間を通り、飄々と例の掲示板へと
向かう。
掲示板は奥のカウンター脇にあった。そこには自分と同じく、依
頼を受けようとする男女数人ほどがたむろしている。
依頼はレベル別になっていて、上からS、A、B、C、Dと区別
されている。実はシルヴェリア騎士団もこうした依頼を元手に活動
しているのだが⋮⋮確か連中は、Aレベルの依頼を積極的に受けて
いた覚えがある。
Aは特に団体登録を必要とする依頼が多い。主に賊や危険魔獣の
討伐、そして内紛や戦争への従軍も多く含まれている。騎士団や傭
兵団、または熟練のギルドパーティーが積極的に受けるのも当然の
話だ。
︱︱まあ、流石にAを受ける気はないけどな
96
そもそもAを受けるには人数が足りないため、ゼノスはAランク
のスペースから右にずれ、C、Dランクの依頼スペースへと赴くこ
とにした。
ゼノスは頬に手を当てながら、じっくりと掲示板を眺める。
やはりC、Dは手頃なせいか、紙はほとんど剥がされている。依
頼の紙は二枚ぐらいしか貼られておらず、しかもその依頼は長丁場
になりそうな物ばかり。もちろんボツである。
﹁エトラス山中腹に住む老人の介護に、ランドリオ漁港で見習い船
乗りを募集⋮⋮割に合わなすぎだな。⋮⋮仕方ないからBも見てみ
るか﹂
ゼノスは少し左にずれ、今度はBレベルの依頼を吟味する。
Bは数枚程あり、ちょうど今いる人達はこの欄に目を付けていた。
﹁確かBって、稀に猫探しとか楽な依頼もあったよな﹂
しかもBだけあって、報酬もそれなり。一つの依頼で三日分の食
事は間に合いそうだった。
97
ゼノスはよく注視して紙を見る。すると、ゼノスが想像していた
ような依頼が目に入り、その紙を取った。
緊急依頼!裏通りの痴漢魔撃退の勇士求む。
最近毎日、毎日裏通りで痴漢魔が出現しています!被害者の女性
たちは涙を流しています。
どうか痴漢魔をとっ捕まえ、私たち裏通り女子達の前に引っ張り
出してください!お願いします!
腕っぷし歓迎!
イケメン大歓迎
詳細はランドリオ城下町第七番地区のエリス宅まで。
98
報奨金 三千ゴールド
﹁⋮⋮ふむ、見事に条件が一致してる﹂
報奨金も悪くない、腕っぷしもある、自分はイケメンの部類に属
する⋮⋮はず。全く文句無しじゃないか、とゼノスは思った。
ロザリーが見たら怒り狂うんじゃないかと思うぐらいだらしない
表情を浮かべ、ゼノスはその可哀想な娘達の場所へと向かおうとす
る。
︱︱が、現実はそうさせてはくれなかった。
﹁うわ、こいつズルいぞ!俺がその依頼受けようとしたのに!﹂
99
﹁馬鹿、それは俺様のだ!おいガキ、その紙を寄越しやがれ!﹂
どっかの馬鹿がゼノスに突っ込んできて、無理やりにでも紙を奪
おうとする。やっぱりこの依頼は目星が付いていたか!
﹁くそ⋮⋮!何だよおっさん!これは俺のだ!﹂
﹁違えよ馬鹿野郎!てめえやっぱりあれか?俺のアイドル、マルテ
ィーニちゃん狙いなんだろ?そうなんだな!?﹂
﹁誰だよマルティーニって⋮⋮おい、シャツ掴むな!﹂
﹁こ、こんのクソガキぃ⋮⋮。マルティーニちゃん知らねえなんて、
他の奴が許しても俺だけは許さねええええええええ!!!﹂
男は目が血走り、今にも襲い掛からんとしている。
ああ面倒だ!ゼノスは無理やり紙をひったくり、そのまま逃走し
ようと企む⋮⋮が。
100
びりりいいいっ!
﹁﹁⋮⋮あ﹂﹂
︱︱何という、ことだ
馬鹿野郎が依頼書を引っ張り、ものの見事にちぎってしまった。
﹁⋮⋮やるじゃないか。まさかそんな策を使うとはなあ!﹂
ゼノスは血の涙を流さん勢いで馬鹿野郎を睨む。
歳相応とは言えない威圧感に飲まれ、おっさんは絶望的な表情に
変わる。
﹁ひっ⋮⋮わ、悪かったよ。だから、んな怖い顔をぶええええっ!﹂
ゼノスは間髪入れずに、相手の股間をおもいっきり蹴とばした。
相手は泡を吹き、苦痛と共に意識を失っていく。自業自得だクソ野
郎、と心を込めた一蹴りであった。
101
蹴りを入れてスッキリとした所で、ゼノスは再び破けてしまった
依頼書に目を落とす。
緊急依頼!裏通りの痴漢魔撃退の勇士
最近毎日、毎日裏通りで痴漢魔が出現していま
どうか痴漢魔をとっ捕まえ、私たち裏通り女子達の
腕っぷし歓迎!
イケメン大歓迎
詳細はランドリオ城下町第七番地区のエリス宅まで。
報奨金 三千ゴールド
102
﹁よ、良かった⋮⋮肝心な場所は何とか残ってるか﹂
一時はどうなる事かと思ったが、どうやら依頼の断念という心配
はなくなったようだ。例え依頼用紙が破れていても、当の依頼主が
困っている事に代わりはない。場所さえ分かれば十分なのである。
ゼノスは気分上々の状態で、依頼主の待つ場所へと改めて向かお
うとする。
︱︱だが、突如酒場に走り込んできた男がいた。
荒っぽい入店に驚く客達。そんな様子を意にも介さず、男は焦燥
しきった声音で言い放った。
103
﹁はあ、はあ⋮⋮だ、誰か助けてくれ!やたら強い賊に俺の商隊が
襲われちまった!﹂
それは唐突な発言であった。陽気な雰囲気から一転、酒場の皆は
一気に不安と恐れに襲われる。
しかし男にそれを察知する余裕も無く、一生懸命に事の顛末を物
語った。
男は地方からやって来た商隊の一員であり、仲間と共にランドリ
オ帝国へとやって来たという。泊まる宿も見つからず、商隊は路地
裏の広場にて許可を得て野宿をする事にしたらしい。
しかしテントを張ろうとした時に、賊とやらは現れた。商隊の中
には事前に護衛として雇われた傭兵が数名いたらしいが、その者達
も一瞬にして惨殺され、商隊の仲間は皆殺しにされたと言う。自分
は敵から察知されなかった場所にいて、その場面を目にしてすぐさ
ま応援を呼んだ。︱︱それが彼の言う顛末であった。
﹁ほ、他にも仲間の商隊が離れた場所にいるんだ。もし奴等が俺達
を標的にしているのなら⋮⋮た、頼む!誰でもいいから、奴等を倒
してくれ!﹂
104
男は必死に叫ぶ。︱︱だが、客と依頼を探していた傭兵の反応は
酷いものだった。
﹁お、おい。賊って⋮⋮例のガウゼン卿を暗殺した奴等じゃないか
?﹂
﹁そうに違いないわ!彼の助けは聞かない方がいいわよ﹂
﹁なぜだ?商隊というのだから、それなりの報酬はあるだろ﹂
﹁馬鹿、そういう問題じゃねえって。賊がもしガウゼンを暗殺した
奴等だとする。ガウゼン卿は剣の腕前に関しては一流の男だったら
しいぜ?俺達が助けようとしても、命を粗末にするだけだよ﹂
人々は例のガウゼンの噂と賊が重なったらしく、この男の救いに
手を差し伸べない。仕舞には見てみぬ振りをし、明らかに男を避け
ていた。
その正義の無さに対し、ゼノスとしては怒りを通り越して呆れを
示すばかりだった。
確かに己の力量を知り、その上で賊に立ち向かおうとしない。利
口な判断であるのは明らかだが、ゼノスは男の願いを聞き入れよう
ともしない、その意志に呆れていた。
105
見ていられない、遠ざけられてあたふたする男を。そんな思いが
過り、ゼノスは持っていた依頼用紙を、未だ蹴りの衝撃で倒れてい
るクソ野郎の腹へと置く。
﹁お前、運がいいな⋮⋮少々野暮用が出来たから、この依頼は譲っ
てやるよ﹂
そう言い残し、ゼノスは傭兵達の前へと出た。
﹁おいそこの!︱︱俺がその賊を退治する。勿論、報奨金は貰える
んだろうな?﹂
﹁ッ!あ、ああ当たり前だ!﹂
依頼成立、商隊に関する依頼の報奨金額は確かに高いと聞く。こ
れで美味い飯が食えて万々歳︱︱と、ゼノスは自分の余計な正義を
否定するのであった。
﹁場所は四番地区裏路地の広場だ⋮⋮頼む、仇を打ってくれ!﹂
﹁はいよ、承知した。⋮⋮さてさて﹂
106
客がゼノスに注目する中、ゼノスは平然と酒場から出て行こうと
する。賊が果たしてどんな連中かは定かではない。だがゼノスの長
年の勘からすると︱︱ヤバい奴等であると推測する。久しぶりに聖
騎士としての技量を発揮して倒そうか⋮⋮そう思っていた時だった。
﹁その依頼、私も受けて宜しいでしょうか?﹂
﹁︱︱なっ﹂
ゼノスは瞠目する。話を入口から聞き、言葉と同時に姿を見せた
少女騎士。
それは紛れも無く、ゲルマニアであった。
﹁ゲルマニア︱︱ッ!お前、何でまたこんな場所に!?﹂
普通、ランドリオ騎士団が酒場に行く事は滅多に無い。酒は城内
でも飲めるし、彼等の仕事にも酒場に行き当たる様な内容は存在し
ない。︱︱それにあんな辛辣な言葉を言った手前、ゼノスは何とも
気まずい気分であった。
107
だがゲルマニアはそんな事気にもしない様で、ゼノスへと近づい
てくる。
﹁ちょっとした私用で来たのです。⋮⋮しかし、とんだ事件が起こ
ったようですね﹂
﹁ま、まあな。⋮⋮でもいいのか?こんな依頼を受けて、明日の常
務に影響が出るんじゃないか?﹂
ゼノスはなるべくゲルマニアを刺激しない様、遠回しな言い方で
依頼に同伴しないよう勧める。彼女が来たんじゃ本気も出せないし、
ましてや迂闊に剣を抜く事も出来ない。
﹁いえ、明日に支障が出ないよう用心します。︱︱それに、少々気
になる事がありまして﹂
﹁気になる事⋮⋮?﹂
何だろう、気になる事とは?依頼を受けてまで知りたいものがあ
るのか⋮⋮?
108
﹁⋮⋮ゼノス殿、何を考えているのです?ほら、早く行きますよ。
ここから裏通り四番地区へは時間が掛かるのですから﹂
﹁って、ちょっ、まだ一緒にやろうとは!﹂
思案も空しく、ゼノスは了承する前に強引にゲルマニアに引っ張
られ酒場を出て行こうとする。
﹁ゼノス殿、私はこの依頼で二つの疑問を確かめなければなりませ
ん﹂
﹁ぎ、疑問?﹂
﹁はい、疑問です。その一つに、私は貴方に感じる違和感という疑
問があります。なので⋮⋮﹂
﹁な、なので?﹂
ゲルマニアは振り向き、笑顔で答える。
109
﹁今夜は、放しませんよ?﹂
﹁は、はあっ!?﹂
ゲルマニアからの爆弾発言に、周囲は盛り上がった声と口笛でひ
しめき合う。何を勘違いしているか知らないが、今のゼノスには彼
等を睨む事しか出来なかった。
﹁で、でもさ⋮⋮もし奴らがシールカードだったらさ⋮⋮危険じゃ
ないかなあ、と﹂
ゼノスは最後まで悪あがきをする。しかし、ゲルマニアは即返答
をした。
﹁大丈夫です、いざとなったら私が助けますし、シルヴェリア騎士
団にいる以上、貴方も実力はあるのでしょう?さあさあ、行きます
よ﹂
﹁ちょ、まっ﹂
110
ゼノスの反論は空しく、彼はゲルマニアに引き摺られる形で酒場
を後にした。
111
ep9 二年ぶりの戦い︵改稿版︶
酒場から大分歩き、ゼノスとゲルマニアは四番地区の裏通りの広
場へとやって来た。
﹁⋮⋮成程、これは酷い有様だな﹂
ゼノスは広場全体を遠目から見渡す。そこは既に血の海と化して
おり、商隊と傭兵らしき服装の死体がいくつか転がっていた。
﹁ちょっと失礼します﹂
そんな無残な様子を気にもせず、ゲルマニアは慣れた様子で死体
の一つへと近付く。まだ若いのに死体に慣れているとは⋮⋮まあラ
ンドリオ騎士団には必要なことではあるが。
彼女はじっくりと死体を観察し︱︱そしてあることに気付く。
112
﹁⋮⋮見て下さい。心臓を一突きされた痕があります﹂
﹁ああ︱︱暗殺の手法で殺されているな﹂
恨みや妬みで殺す場合、敵はもっと沢山斬り付けるはず。しかし、
この死体には心臓以外はどこも傷付けられていない。つまり相手は
商隊に恨みを抱いた素人でなく、計画的に殺した殺人のプロである
ことが分かる。
﹁となると、彼等は誰かの依頼によって暗殺者に︱︱﹂
﹁いや、それはないだろうな。⋮⋮胸に付けられたバッチ。実は以
前、こいつらと同じ組合の商隊と行動を共にしたことがある。決し
て他人を欺き、他人に恨まれるような行動はしなかった。身の潔白
は俺が保障するよ﹂
﹁ではどういった理由で殺したのですか?﹂
ゲルマニアに言われ、ゼノスはじっと考え込む。
暗殺者が敵を殺す場合、大体は二つの理由で行うことになる。一
つは依頼人から依頼を受け、計画的に行動した上で殺人に至る。
113
︱︱そして二つ目は、自らの目的を邪魔する人間を排除するため。
もし商隊の連中が邪魔な存在だったのなら、十分殺す理由へと繋
がるはずだ。
ゲルマニアにその二つ目の理由を聞かせると、納得がいったよう
に頷く。
﹁なるほど、確かにそうかもしれません。⋮⋮けど、この場所がそ
んなに大事⋮⋮⋮⋮︱︱ッ﹂
刹那、ゼノスとゲルマニアは気配を察知する。
ゼノスがその気配を探る。
︱︱およそ常人以上の力を秘めた者達がここいらを徘徊している
ようだ。遠くに逃げていると踏んでいたが⋮⋮彼等はすぐ近くにい
る。恐らく、もう一度ここを通る可能性も高いだろう。
更に、ゲルマニアが驚くべき発言をする。
114
﹁この気配は︱︱。やはり、シールカードのようですね﹂
﹁へえ、流石は同類。⋮⋮なら用心しないとな﹂
さっそく隠れるのに最適な場所へと息を潜め、奴等がやって来る
まで待機する。
﹁︱︱気配は段々と近づいてきますね。どうやら隠れた甲斐があっ
たようです﹂
﹁⋮⋮﹂
ゼノスは興奮を抑えた様子のゲルマニアを見つめ、ある思いにふ
ける。
自慢ではないが、自分が盗賊に対して引けを取る事は有り得ない。
おそらく盗賊が千人、万人でも勝利してしまうだろう。自分がここ
にいても何ら危険は及ばない。
115
しかし、このゲルマニアはどうだろうか?
シールカードは確かに常人以上の力を秘め、その力は神獣と互角
に渡り合えるほどだという。だが相手は同じシールカード。もしギ
ャンブラーが傍にいたら、勝てる見込みはゼロに近い。
ゼノスとゲルマニアが上手くタッグを組めば勝てるかもしれない
が⋮⋮果たしてそう上手くいくのだろうか。
何となく、ゲルマニアが先急いでいるように見える。
﹁⋮⋮何を焦ってるんだ。その調子じゃ死にに行くようなもんだぞ﹂
﹁⋮⋮やはり、そう見えますか﹂
﹁当たり前だ、そんな血走った目で分からない方がおかしい﹂
ゲルマニアは俯き、溜息をつく。
そして近場の木材の上に座り込み、静かに呟いた。
116
﹁⋮⋮先ほど、二つ確認したい事があると言いましたよね?﹂
﹁ああ。その一つは俺の違和感とか何とか、だっけか?﹂
︱︱それに関しては知ってほしくもないが
﹁そのもう一つの疑問なのですが、私の部下に関する噂を明らかに
したいと思いまして﹂
﹁部下⋮⋮?﹂
﹁はい。マルスという青年なのですが、実は数日前から彼の良くな
い噂を聞いたんです。あくまで噂ですが、彼が始祖を解放しようと
企んでいるとか﹂
﹁⋮⋮ああ、そういうことか。つまり、そのマルスという男が盗賊
との共同工作を行っているかもしれないと、そういうわけだな﹂
﹁察しがよろしいですね。ええ、その通りです﹂
117
可能性としては高い、一言で表せばそうなるだろう。マルスに関
してはよく知らないが、今の時期でそのような噂が流れているのな
ら疑いようがない。
﹁⋮⋮﹂
︱︱この調子だと、帰る気は無さそうだな
最後の悪あがきとして帰るよう促そうかと思っていたが、それは
不可能に近いことを悟った。
理由は簡単、このゲルマニアには何か強い信念を感じるからだ。
二つの目的に対する尋常ではないほどの使命感、ゼノスには同じ騎
士として微かに感じ取ったのだ。
﹁マルスは私にとって大切な部下です。そんな彼をこの私がほっと
くわけが⋮⋮っむぐ!﹂
何か話そうとしていたゲルマニアの口をゼノスが手でふさいだ。
﹁静かに⋮⋮どうやら、奴さんが来たみたいだ﹂
118
そう言ってゼノスは周辺の木箱の山に隠れ、路地からやって来る
複数の集団に見えない位置についた。
﹁す、すいません⋮⋮恩にきます﹂
﹁気にするな。︱︱にしても、まさか犯行現場にまた現れるとはな﹂
当然のことだが、犯行を犯した後に再び現場にくることはまずな
い。現場の証拠隠滅を図らない限り、犯人は現場から遠ざかるよう
に逃げていくはずだ。
捜す手間が省けてラッキーと言えば、ラッキーだが⋮⋮一体彼等
は何をしに来たのか。
ゼノスは視線を、路地からやってくる集団へと向けた。
人数としては数人規模だが、感じ取れる覇気や得体の知れない奇
妙な力は把握出来た。間違いない、奴らはシールカードだ。
集団は段々と近づいてきて、話声も明確になってくる。
119
﹃あーくそったれ!やっぱここしか補給出来ねえよ!﹄
﹃だから軽率は控えると言ったんだ!むやみな行動はギャンブラー
様の怒りを買うぞ!⋮⋮とにかく、早い所済ませよう、人が来たら
面倒だ﹄
﹃にしても⋮⋮ギャンブラー様の命令は退屈だなあ﹄
﹃仕方ねえだろ。こうして自分らの力を補給出来るこの場所で、敵
に対抗するための英気を養わねえと駄目なんだからな﹄
﹃でもよ∼、わざわざ夜はねえよ。早く酒場に行きてえ﹄
﹃馬鹿、お前そんなこと軽々しく言うなよ。あのギャンブラー様は
たださえ小言がうるせえんだ。聞かれたらヤバいぞ﹄
﹃ああ、そうだった。あの人、この国滅ぼすのに躍起になってるし
なあ。⋮⋮えーっと、またいつものようにここでじっとしてればい
いんだっけ?﹄
﹃そうだよ。⋮⋮ったく、血生臭くてしょうがねえ﹄
120
声達は雑談をし、一定の場所から離れる気配がない。警戒はして
いるようだが、恐らくゼノス達の存在には気付いていないだろう。
ゼノスは木箱と木箱の隙間から覗くのを止め、後方に控えるゲル
マニアへと向き直る。
﹁数はどうやら六人だな。厄介な事に、奴らはこの場所で何か力を
増大させる英気を蓄えているようだ⋮⋮﹂
﹁英気⋮⋮確かにこの場には、﹃光の源﹄が散布されているようで
すね﹂
﹁光の源?なんだそりゃ?﹂
初めて聞く固有名詞だ。ゼノスが知らないという事は、シールカ
ード自身にまつわる言葉なのだろうか。
﹁シールカードが本来以上に力を出すために使用する不可視の粒子
です。空気中に舞っていて、こうした英気を呼び寄せる場がここの
121
ようですね⋮⋮しかし、この濃度は⋮⋮異常ですね﹂
少々声を詰まらせ、息が荒くなっているゲルマニア。
﹁⋮⋮光の源は、無闇に吸うと意識が正常でいられなくなる効果が
あります。⋮⋮ある者は好戦的になり、ある者は身体のコントロー
ルが効かなくなる。⋮⋮私は⋮⋮⋮⋮後者⋮ですね﹂
﹁あー、まあ何となく言いたいことは分かる。つまり、シールカー
ドがこの光の源ってやつを吸いすぎると意識が狂うか、またはゲル
マニアみたいに意識が無くなってくると﹂
ゲルマニアは立っていられなくなったのか、その場に座り込み、
顔を歪めながら答える。
﹁は⋮い、そう、なんです。⋮⋮私としたことが、目的に囚われる
あまり、見過ごして、いまし⋮⋮た﹂
﹁もう喋るな。後は俺に任せて眠ってろよ﹂
﹁⋮⋮いけ、ません⋮⋮相手はあの⋮シール、カード⋮⋮﹂
122
言い終える前に、ゲルマニアは意識を失った。苦しそうではある
が、命に別状は無いだろう。ただこの場にいるかぎり、意識はしば
らく目覚めないと思うが。
﹁⋮⋮けどこれはこれで好都合、だよな﹂
誰にも見られないという安堵感を覚え、ゼノスはホッと胸を撫で
下ろす。
これで思う存分戦える。周りの目を気にすることもなく、剣を振
るえる。
ゼノスにとっては二年ぶりの戦いになる。が、今回は国を支える
騎士としてではなく、異国からやって来た放浪騎士として剣を抜く
ことになる。
何も責任を負う事はない。失敗しても仲間達が失望することもな
いし、民達からの罵倒も受けずに済む。相手もそこまで強くないし、
周りが迷惑かけることもないはずだ。
⋮⋮彼はふと、自分の持つ剣を見つめる。
123
これはかつて、白銀の聖騎士として共に駆けた相棒ではない。シ
ルヴェリアに入団して間もない頃、とある田舎の武器屋で購入した、
何の変哲もないロングソード。
多少こころもとないが⋮⋮大丈夫。これでもやれる。
ゼノスは柄に手を置き、鞘から剣を抜く。︱︱その時だった。
︿忘れないで。貴方が剣を振るう、それは災厄の始まりだという
事を﹀
﹁⋮⋮っ!﹂
フィードバックするある一言。剣を抜いた瞬間にゼノスはそれを
124
思い出し、異常な吐き気を催した。何とか木箱を支えに自らの身体
を押しとどめ、すくむ足を正した。
﹁⋮⋮くっ﹂
襲い掛かる不安、そして⋮⋮恐怖。
二年間もの間、何故剣を振るわなかったのか。それはこの現象が
起こるからであり、ゼノスは恐怖から逃れようと、必死に戦いから
退いてきた。
叶うならば、今ここから逃げ出したい。
︱︱だが。
﹁⋮⋮いいかげんにしろ、ゼノス・ディルガーナ。あの時から二年
も経っているんだぞっ!剣を持ったぐらいで⋮⋮思い出すんじゃな
いっ!﹂
ゼノスは太ももを叩き、全身に活を入れる。
﹁それに⋮⋮決めたはずだ。聖騎士はあの頃に死んだと。今いる俺
125
はゼノス・ディルガーナ、何も恐怖する心配はない﹂
まるで自分を励ますような言葉。そのせいか、剣を握る手は段々
と落ち着きを取り戻し、荒い呼吸も止んでいく。
今ならいける。ゼノスはそう確信した。
﹁⋮⋮よし﹂
ゼノスは剣を握りしめ、木箱を背にして、シールカード達の様子
を伺う。隙を突いて奇襲を掛けられるよう腰を低くし、両手で剣を
握る。
敵の数を確認。神経を研ぎ澄まし、その場にいる人間の呼吸を聞
き取る。
⋮⋮広場中央に五人、左右の屋根に二人ずつといったところか。
暗闇からの奇襲を行えば、恐らく屋根上の人間が遠距離で攻撃し、
体勢を崩した所で地上の人間が追撃してくるだろう。⋮⋮多勢に無
勢となるか?いや、そんなことは有り得ない。
白銀の聖騎士は、そこまで弱くない。
126
例えシールカードだとしても︱︱ゼノスはこの戦いの勝利を確信
している。 ﹃⋮⋮あー、気持ちいい。力が湧き上がって来るぜ﹄
﹃はは、これで人間共が襲ってきても返り討ちに出来そうだな﹄
﹃おいおい、人間如きと比べんなって。世の中でシールカードに刃
向う人間なんてまずいないだろうよ﹄
﹃まあそれもそうだな﹄
シールカード達は高揚しているようだ。光の源とやらを吸うこと
によって、異常な快感に浸っているのだろうか。まるで麻薬を吸っ
た後の症状に類似しているが︱︱まあそんなことはどうでもいい。
ゼノスは気配を殺し、大きく深呼吸をする。
姿勢をさらに低くし︱︱彼は行動に出た。
127
地面を滑るように走り抜け、手近にいた一人を背後から剣で突き
刺した。
﹁っっ!がっ、あああああ!﹂
﹁な、何だ!﹂
﹁きき、奇襲だっ!﹂
﹁ちくしょう、やはり人が来たか。総員戦闘態勢になれ!暗闇の中
だ、人数に気を配れっ!﹂
相手もようやく察したのか、残りの四人がナイフや剣を抜き、屋
根上の連中は吹き矢らしきものを構えてくる。その速さは、肉眼で
やっと追いつけるというところ。闇を利用して敵をじわりと痛めつ
け、確実に標的を殺す。簡単に言えばそういう作戦に出る気だと思
う。
︱︱弱者にしては上出来だ。
﹁こいっ!面倒だが倒してやるよ!﹂
128
ゼノスは叫び、最初に掛かってきた賊の剣を素早く受け、勢いよ
く押し返す。しかし敵は宙で体制を整え、地面へと降り立つ。
暗闇から飛来する無数の吹き矢。ゼノスは音の振動と勘を頼りに
流れるように身を躱し、仕留め損ねた盗賊の懐へと走り込む。
吹き矢の全てを避けられ、狼狽する眼前の賊。だが考える暇を与
える気はない。容赦なく敵を袈裟斬りし、また放たれる吹き矢をそ
いつの身体を使ってガードし、用済みとなった死体を左屋根にいる
一人に向かってぶん投げる。投擲された死体を避けることが出来ず、
死体と共に屋根から落ちていく。
﹁ひ、ひいッ!?な、なんだこいつ⋮⋮!﹂
﹁おいおい勘弁してくれ。この程度で普通怖がるか?﹂
軽口をたたきながら、ゼノスは地上で固まっている四人へと肉迫
する。
嗚呼、こいつらもう終わりだ。
そう結論付けたゼノスは、文字通りそうさせようと躍り出る。ま
ずは足払いをジャンプすることで回避し、空中から足払いした敵に
129
向け︱︱剣を脳天に突き刺す。剣を引き抜き、左足を軸に身体全体
を回転させ、後方の敵に向けて剣を横に一閃する。更に上空から仕
掛けてくる敵がいるが、ゼノスは避けることなく堂々と迎え撃つ。
﹁はあっ!!﹂
ゼノスは気合いと共に剣を突き上げる。
すると上空にいた敵は、触れてもいないのに身体を破裂させる。
まるで強大な何かに衝突したかのように、その身体は無残にもバラ
バラに飛び散る。
敵を三人も排除したが、それでもなお止まらないゼノス。
また新たな吹き矢の到来を感じ、ゼノスは踊るように回避してい
く。
﹁だ、駄目だ!は、早すぎて飛び道具が命中しないっ!﹂
﹁よく狙えっ!相手は恐らく一人だ、集中攻撃をしてゆけ!﹂
盗賊達の怒声にも気を取られず、ゼノスは地に立つ最後の敵へと
130
挑む。
﹁ひっ⋮⋮﹂
突如の出現に驚愕し、絶望に打ちひしがれる賊。様々な感情が出
つつも、敵は腰からナイフを取り出し、上段から斬りかかろうとす
る。
﹁う、うわあああああああ!﹂
﹁遅い﹂
無我夢中の突進をゼノスは横に体を移動し回避、そのすれ違い様
に盗賊の腹に拳を叩きつけ、余りの衝撃に盗賊は遥か後方へと飛ば
された。そして壁に勢いよく激突し、消沈した。
﹁⋮⋮﹂
まるで赤子を捻るかのような戦いに言葉を失い、唖然とする盗賊
達。
ゼノスは奴等が呆けている瞬間を狙う。人間であるゼノスだが、
131
とても常人とは思えない跳躍力で右屋根に向かって跳躍し、残りの
盗賊達が控える屋根へと降り立ち、距離を縮めた。
﹁⋮⋮な、何なんだよお前。俺達と同じ⋮⋮シ、シールカード?﹂
﹁いや、普通の人間だよ。︱︱ただちょっと、人間の領域を抜け出
しているけどな﹂
ゼノスは平然とそう答えた。人間には力の限界というものがある
し、例え潜在能力が高くても、それを最大限にまで引き出せる者は
そうそういない。
しかしゼノスは違う。彼は自力で潜在能力を最大限に引き出せる
ようになり、常人では有り得ない所業をこなすことも出来るように
なった。︱︱それはもう、シールカードさえも圧倒するまでに。
彼等はまだ分かっていない。
シールカードよりも上位に位置する存在が、世の中にはいるとい
うことを。
﹁︱︱さてと。どうやらギャンブラーはいないようだし、こりゃ楽
に終わりそうだな﹂
132
欠伸をし、ゼノスは眠気眼を敵に向ける。
意外にあっさりとしているが、まあ軽い運動にはなっただろう。
剣を振るって戦うつもりはなかったが、運動不足の解消にはいいか
もしれない︱︱と、ゼノスはかなり緊張感のない思いを抱いていた。
さあ終わりだ。と、剣を構えようとしたが︱︱
﹁⋮⋮ふっ。もしやお前、この程度で俺達が殺されたと思っている
のか?﹂
﹁なに?﹂
盗賊の一人が憤慨したように答える。それを合図として、殺した
と思っていた賊たちが立ち上がり、ゼノスを囲うように陣を作る。
斬られた箇所は⋮⋮魔法がかかったかのように修復されていく。
これは︱︱。
133
ゼノスが疑問を口にする前に、敵の統率者らしき男が話を続ける。
﹁⋮⋮我等はシールカード、永久不滅の存在。そして光の源さえあ
れば、貴様を殺す事など造作ないっ!﹂
途端に、空気の流れが変わった。
盗賊達からふいに放出される緑色に輝く粒子。それが風を巻き起
こし、周辺の領域を支配する。幻想的な世界とは裏腹に、恐怖と絶
望が混同していく。この場に普通の人間がいたのならば、そいつは
恐らく心臓麻痺を起こすかもしれない。
それほどまでに、負を纏う周辺領域の濃度が異常に高い。
﹁おおおお、気持ちいい⋮⋮力が、溢れる﹂
悦楽に浸り、光の源が与えた力に歓喜するその光景は奇妙なもの
だった。それを見て思った事は、もはや人の皮を被った悪魔のよう。
筋肉が異常なまでに膨れ上がり、全身の血管が浮き出ており、瞳も
赤く充血している。
134
﹁⋮⋮シールカード、やはり危険な存在だ。主がいないと自らを制
御出来ない、これ以上危険な存在はないな﹂
﹁ふふ、ほざいていろ人間。すぐに殺してやる!﹂
﹁︱︱哀れだな﹂
暴徒と化した盗賊達はゼノスに飛び掛かり、ナイフを床に叩きつ
けるかのように振り下ろす。その四人の同時攻撃をゼノスは冷静に
宙へと跳躍し、軽々と逃れる。
力のあるままに下ろされた剣やナイフは屋根を突き破り、恐ろし
い事に家をも倒壊させた。ゼノスは着陸地点を切り替え、すぐに隣
の屋根へと降り立つ。
しかし、一瞬の油断も許されない。降り立った瞬間、背後からお
ぞましい殺気を感じる。
振り返る隙なんてない。すかさず横へと跳躍しながら向きを変え、
地につくと同時に地面を蹴り上げる。流れに逆らい、ゼノスは無茶
苦茶な方向転換によって背後にいた敵へと接近する。
︱︱だが、背後にいた敵は既に姿を消していた。
135
また気配のある方向を振り向くと、まるでゼノスを嘲笑うかの如
く、敵共が平然と佇んでいた。
﹁へえ、そこまでの力を発揮させるとはな。ちょっとは見直したよ。
⋮⋮このまま戦闘を続けたら、関係のない人々までも巻き込んでし
まうかもな﹂
奴等を倒すには、もう少し本気を出すべきか。
ゼノスは大いに悩んだ。場所を変えれば気絶しているゲルマニア
を置いていく事になり、彼女の安全は保障されない。かといってこ
の狭い空間で戦うとしても、それ相応の破壊と損傷は免れないだろ
う。仕留めるのは容易いが︱︱今回は条件が悪い。
苦悩の末、ゼノスは剣をしっかりと握り、被害を最小限に抑える
のを前提に踏み込もうとする。
⋮⋮しかし、その必要はなくなった。
﹁おい、無駄な戦闘は止せと言ったはずだが?﹂
136
背後から聞こえる冷めた声。その声に反応し、盗賊達は表情を変
えてすぐさま緑色の粒子を抑えた。王にかしずくように片膝をつけ、
声の主へと頭を垂れる。
ゼノスは後ろを振り向き、声の主の姿を見る。
そこには全身をボロ布のマントで覆い、フードを被っている人物
がいた。男か女かはその外見と声質のみでは見分けが付かない。し
かし尋常ならざる力を有していることだけは、嫌と言うほど読み取
れる。
謎の人物は静かに歩み寄り、部下であろうシールカードに対し激
昂する。
﹁お前らは﹃守護のダイヤ﹄、来るべき時に備え、我が盾となる為
に光の源を収集していたはず。ここで無暗に力を解放させるな!﹂
﹁はっ⋮⋮申し訳、ありません﹂
謎の人物の一言で、盗賊達はたちまち冷静さを取り戻した。口答
えもせず、ただ言葉に従っていた。
137
唐突に現れたそいつはゼノスに対峙する位置に立ち止り、懐から
一枚のカードを取り出す。カードを額に当て、静かに呟いた。
﹁︱︱戻れ、在るべき場所に﹂
呟いた途端、盗賊達は砂のように全身が消えてゆく。一切の跡形
もなく、今までそこに存在していた賊はカードの中へと戻っていく。
砂が緑色の粒子となり、まるで引き寄せられるかのように。
﹁⋮⋮ふむ、二人ほど完全にやられましたか。⋮⋮流石ですね﹂
﹁そいつはどうも。︱︱それで、あんたがギャンブラーか?奴等が
シールカードだと鼻から分かってはいたが、まさかその持ち主がや
って来てくれるとはね﹂
ギャンブラーはフードごしから笑みを浮かべる。
﹁前段階には必ず私自身も動く主義でね。部下が勝手な行動に出た
件に関しては、素直に謝っておきましょう﹂
﹁謝るなら生き残ったメンバーにしろ。俺はそいつに雇われた人間
138
だし﹂
﹁おおそうですか。それはすいませんでした︱︱﹃白銀の聖騎士﹄
殿﹂
途端。ゼノスの雰囲気が変わり、異様な殺気をギャンブラーにぶ
つける。
何故こいつが俺のことを知っているのか。⋮⋮場合によっては、
こいつを生かして帰すことはできない。
ゼノスとギャンブラーは互いを睨み合う。しかし背を向けたのは、
他ならぬギャンブラーであった。
﹁⋮⋮楽しみにしていて下さい。ずっと憧れていた貴方様の為に、
私はこの国を滅ぼしてみせます。どこまでも愚かで非道な︱︱この
ランドリオ帝国をッ!﹂
不気味な言葉を言い残し、ギャンブラーは屋根から屋根へと飛び
去っていく。
辺りは途端に静寂と化し、ゼノスも自然と警戒を解く。
139
︱︱あのギャンブラー、まさか。
様々な疑問は残るが、それよりもマントの下から覗かせていた鎧、
ゼノスはあれに見覚えがあった。
﹁︱︱ランドリオ騎士団の鎧、か﹂
真偽は分からないが、可能性としては奴自身がランドリオ騎士団
に所属しているかもしれない。いや、そうに違いない。
この事を報告すべきか?ニルヴァーナか、またはランドリオ騎士
団かに。
﹁⋮⋮いや、もう首を突っ込まない方が身のためだな﹂
ゼノスは無視する方向で決心を固めた。
関わりたくなかった。あの帝国に関与することすべてに。
140
自分はもう、報告するのが正義かも分からなくなっている。だか
ら報告はしない、その方が何も起きなくて気が楽だ。
﹁⋮⋮ゼノス殿、奴らは?﹂
横から聞こえる声、それはゲルマニアだった。足を引き摺り、未
だ粒子の影響が残っていると見える。むしろよくぞこの短時間で目
覚め、この屋根上まで来れたものだ。
﹁ゲルマニア、もう動いても大丈夫なのか?﹂
﹁はい、大分慣れてきましたので。しかし、私は本当に不甲斐ない
⋮⋮肝心な所で気を失うなんて﹂
﹁⋮⋮﹂
ゲルマニアは儚い瞳で夜空を見上げる。
﹁⋮⋮ですが、この思い通りに行けない不快感も、騎士としての定
めなのでしょう。私も頑張らないと﹂
141
悲しい表情から湧き出る、それは希望に満ちた表情。それを見て、
ゼノスは昔の自分を見ているようだった。
﹁あっ、すっかり言い忘れていました。私が気絶している間、戦っ
てくれて感謝します。貴方が戦ってくれなければ、今頃私は﹂
そう言って、ゲルマニアはぺこりと頭を下げてくる。
﹁気にするな、夜飯の為にやっただけだ。それより、俺は商隊の仇
は取ったと、あの男に伝えて金を貰って来るよ。⋮⋮だから、お前
の為に戦ったわけじゃないからな?﹂
﹁ふふっ、そうしておきます﹂
⋮⋮全く信じていないようだ。
ゲルマニアは年相応の娘らしく微笑む。その表情にはゼノスも一
瞬見惚れてしまった。
ゼノスはハッとし、剣を鞘に納める。
142
﹁⋮⋮で、ゲルマニアはどうするんだ?自分の部下のこと﹂
﹁今日に関してはもう分かりそうにないですね。︱︱ですが、必ず
明白にしてみせます。だって、こんな私に付き従ってくれた部下の
一人ですから﹂
余程大事な部下なのか、心底心配そうな顔を見せる。
その思いが良い方向に進むかは、流石のゼノスでも予測出来ない。
﹁⋮⋮そうか、分かった。じゃあ俺は金を貰ったら帰るから、ゲル
マニアも遅くならない内に帰れよ﹂
ゼノスは空腹に堪えつつ、賞金から夕飯を食べようと早足気味で
その場を後にした。
143
ゲルマニアは去っていくゼノスを見つめ、ホッと一息ついた。
あの場に漂っていた源はもちろんだが、それよりも強く発せられ
ていた盗賊たちの殺気は異常だった。余程の強靭なる精神を持った
者でないとまともに意識を保てない、そんな空間があの時あの場を
支配していた。
それを、あのシルヴェリアの騎士見習いを名乗るゼノスは平気で
対峙していた。それも不敵な笑みを浮かべて。
事情は分からないが、本来の力を抑えて戦っていたのだろう。
別に昔はどういう人で、どんな経緯で力を隠しているのかは気に
しない。
⋮⋮ゲルマニアは、単にこう思った。
﹁ああいった人こそ、私のギャンブラーになってくれると嬉しいの
ですが﹂
144
まあ、それも叶わぬ願いだろう。
彼はもうシルヴェリアという団体に所属している上に、彼自身は
戦いに対して否定的な考えを持っている。そして、何故か自分を避
けているように見える。
それが今のゲルマニアに対しては、悲しくもあった。
頼られたくて騎士となった彼女にとっては、寂しかった。彼が悩
みを抱いているのならば、素直に打ち明けてほしいのに︱︱。
このような事はいくらでもあった。シールカードという存在だけ
で、最初は蔑視され、誰もが寄り付かなかった。不当な理由で同じ
騎士団の仲間に斬りかかられ、陰湿な悪戯も何度も経験した。
しかし、そんなつらい生活も一握りの仲間と、内に秘める信念の
おかげで今まで我慢出来た。
信念、それは聖騎士のような騎士を目指すこと。
強く、誇らしく、優しく、騎士道の真髄を極めた彼のようになる
ことだった。
145
自分のようなカードが尊敬するのもおこがましいと思うけど、そ
れでもこの思いは諦めたくなかった。
だから悔しい。身近な彼の悩みを救う事が出来ずに、こうして無
様に倒れる等⋮⋮騎士として失格だ。
﹁⋮⋮聖騎士様、私は頑張ってみせます。貴方の様な騎士になる為
にも﹂
ゲルマニアは両拳を握りしめ、そう小さく呟いた。
146
ep10 密かな思惑︵改稿版︶
﹁なっ⋮⋮なぜだ、ニルヴァーナ!﹂
シールカードとの戦いから約一時間後、ゼノスは急いて酒場へと
行き、賞金を貰ってきた。その金で近くにある露店でファストフー
ドを買い、それを部屋でゆっくり食べようと帰ってきたのだが⋮⋮
突然、サナギの怒声が耳に入ってきた。
玄関先の広間にはサナギとニルヴァーナがいて、何やら揉めてい
るようだった。
ゼノスは近くへと寄り、声を掛ける。
﹁団長、どうしたんですか?﹂
するとニルヴァーナは助かったと言いたげに安堵し、笑顔を向け
てくる。
147
﹁ああゼノスか。丁度いい所に来てくれた﹂
はて、何か自分に用でもあったのだろうか?
サナギはゼノスを物凄い形相で睨みつけてくる。
﹁⋮⋮ゼノス、お前一体何を企んでいるんだっ!﹂
﹁?⋮⋮良く分からんが、ただ俺は出店の照り焼き若鶏を買いに行
ってただけであって、別に深い意味はないぞ。︱︱って、もしかし
てお前も食べたかった?﹂
﹁︱︱ッ!この、殺してやろうか!﹂
何をとち狂ったのか、サナギは急にゼノスに刃を向けてきた。
サナギは昔からゼノスとは仲が悪く︵一方的に嫌われているだけ
だが︶、事あるごとにゼノスに対してちょっかいを出してくる。も
う見慣れたものだが⋮⋮今日はどこか様子がおかしい気がする。
ニルヴァーナもそれを承知しているのか、いつになく厳しい瞳で
148
サナギを睨む。
﹁⋮⋮サナギ、いい加減にしろ。仲間内で殺し合う事は許さない﹂
﹁くっ⋮⋮﹂
冷静さを取り戻したのか、静かに刃を鞘に納める。まだゼノスに
怨嗟の視線を向けてくるが、もう一度刃を向けようという気はない
ようだ。
歯軋りを立てながら、サナギは憎々しげに告げる。
﹁相変わらず気に喰わない奴だっ!なぜお前みたいな奴が⋮⋮﹂
一体何があったのだろうか。流石に興味がないとは言えず、ゼノ
スは真剣な表情でニルヴァーナを見据えた。
﹁︱︱何か、あったんですか?﹂
﹁いや何、皇帝陛下から直々に仰せつかった依頼で少しな﹂
149
ニルヴァーナは苦笑しながら、ゼノスに淡々と説明した。
今から一週間後︱︱ランドリオ騎士団内で模擬試合が行われ、そ
こにシルヴェリア騎士団が参加することになったようだ。
そこでシルヴェリア側から抜擢された三人の騎士は、
﹁団長とリリス副団長⋮⋮それに、俺が試合をするんですか?﹂
﹁そうだ。相手は紛れもない世界最強の六大将軍に鍛えられた騎士
だ。想像以上に苦戦するかもしれないが、頑張ってくれ﹂
﹁い、いや待ってくださいよ。そんな大層な試合に、見習いである
俺が出ても構わないのですか?団長だって知っているでしょう、俺
がどんな奴かを﹂
﹁知っている。だからこそ︱︱見せてくれ﹂
ニルヴァーナの発した意味深な一言に、サナギとゼノスは黙って
しまった。
150
︱︱これは、どう反論しても聞かないだろうな
この男はなぜゼノスに拘るのか?そう疑問符を付けても一般人と
しては不思議には思わないだろうが、ゼノスは違った。
間違いなく、ニルヴァーナはゼノスを知ろうとしていた。
﹁君が入団してから、私達は君の技量を拝見した覚えがない。丁度
いいから、当日は実力を発揮してくれ﹂
﹁⋮⋮﹂
そう断固な態度で言われてしまうと、さしものゼノスも断れない。
どうやら、無断で戦闘に参加しなかったツケが回って来たらしい。
ここで普通に断れば、ゼノスの正体について怪しまれる可能性が高
い。しかし、参加すれば技量を知れてしまう。それもランドリオ城
内となると、旧知の人物から正体を見破られるのは避けられない。
はて、どう断ろうかと悩むゼノスであったが、それはニルヴァー
ナの宣告により徒労に終わった。
151
﹁ちなみに、君の対戦相手はマルスという騎士だそうだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
あまり表立って表情に出さなかったが、内心では運命の恐ろしさ
というものを痛感した。
︱︱マルス、確かあの少女騎士の部下だったな。
彼はゼノスの予想が正しければ︱︱盗賊のギャンブラーと密接な
関係にあると推測できる。
もしかしたら、その試合で何かが繋がるかもしれない。
関わりたくないのに、どうしてこう一本道に話が進んでしまうの
か。運命とは、余程残酷な理念のようだ。
ゼノスは腹を括った。こうなれば、もう抗っても仕方ないと。さ
っさと自らの手で事件を終わらせ、即座にこの国を出ようと。例え
騎士団が滞在しようと言いだしても、ゼノスは賞金稼ぎの道を歩み、
152
騎士団を辞めて他大陸へと赴く覚悟でいた。
だからゼノスははっきりと言った。
﹁分かりました。出ますよ﹂
﹁﹁え、本当にっ?﹂﹂
⋮⋮意外だったのか、驚愕の声を漏らしてくる二人。
日頃の行いが悪いと理解しているものの、どうも虫の居所が悪い
ゼノスであった。
不機嫌オーラを出しつつ、ゼノスは試合の際にやるべき事を問う。
ニルヴァーナ曰く、試合ではこうあれと言ってきた。
﹁まず服装は奇妙なそれを禁ずる。しっかりとシルヴェリア見習い
騎士の鎧を装着する。そして剣は今所持するものでも構わんが、面
目を気にしてくれるのなら、過去に依頼で手に入れた名剣を装備し
てくれると助かる﹂
153
という事らしい。
この説明で八割方面倒だという気分が増してきたが、素直に従う
素振りを見せた。
そして隣のサナギは、珍しく神妙にこう伝えてきた。
﹁おいゼノス。お前の実力、見させてもらうぞ。本気で戦わなかっ
たら承知しないからな!﹂
と言って、そのまま二階へと上がってしまった。
これで九割面倒臭くなったゼノスであったが、やはりそうも言っ
てられない状況だった。
残り一割、ゼノスは何の違和感も無くマルスを打ち倒し、奴が何
者かを問い詰める事を決意していた。
154
155
ep11 姫と騎士の語らい︵改稿版︶
ゼノスが一週間後の模擬試合に思いを馳せている一方、とある少
女騎士もまた頭を悩ませていた。
﹁⋮⋮怪しいですよね。いや、絶対に怪しい﹂
その少女騎士︱︱ゲルマニアは就寝前の一仕事をする為に、皇族
が住まう離宮への回廊を歩いていた。だがリカルドはその離宮に住
んでいないため、実質アリーチェ皇女殿下の住居と化している。通
り過ぎる者にも下賤な貴族は存在せず、彼女に付き従うメイドや執
事ばかりだ。
彼等はゲルマニアを見かけると即座に立ち止まって頭を垂れてく
るが、彼女は意に介すこともなく、ただ悩み続けているばかりであ
る。
悩みとはもちろん、例のシルヴェリアの見習い騎士についてだ。
156
﹁見習いとは言っていましたが、あの雰囲気はどうも只者じゃあり
ませんね。⋮⋮有能な戦士を雇用した?いや、にしても扱いが下っ
端同然ですし⋮⋮﹂
率直な感想だが、あの男は普通ではない。
思い当たる節は沢山ある。握手をした時の感触、何気ない口調に
含まれる威圧的な覇気、そしてあのリールカードをも追い返した実
力。彼自身はあえて口を閉ざしているが、戦闘によって撃退したの
は間違いないだろう。
それも一人で。たった一人で、シールカードの集団に勝つなど常
軌を逸している。過去の事例でも、千人規模のランドリオ騎士が討
伐に赴いても勝てなかったものがある。結局そのシールカードは六
大将軍の一人が打ち倒したが、世間の批評は厳しいものであった。
幾ら六大将軍とはいえ、単体でシールカードに勝てるのか?奴等
は神獣などとは比べ物にならない。決して勝てるわけがない⋮⋮な
どと、実際見たことのない連中はそう結論づけている。
シールカードの恐ろしさは、ゲルマニア自身も承知している。
あれは人智を超えた魔物だ。ギャンブラーはそれ以上の存在であ
り、幾多もの英雄が既に敗北を体験している。
157
そんな危険な存在を︱︱彼一人が?いや有り得ない。
たとえ有り得たとしても、それはもはや人間としての基準値をは
み出している。そんな事が出来るのは、極限られていたはずだ。
例えば︱︱六大将軍とか。
ゲルマニアは今はいない六大将軍を思い出し、喉をごくりと鳴ら
す。
﹁⋮⋮いや、まさか彼なわけがない。実力を疎かに扱い、その身を
低くするなど考えられない﹂
ゲルマニアは今でも彼を︱︱白銀の聖騎士を尊敬している。
数年前までは聖騎士の人形劇を見て、英雄譚を聞いて、目を輝か
せながら彼の物語を待ち焦がれていた。他の子供たちも揃って聞き
惚れ、よく村では聖騎士と化け物を装って英雄ごっこなんて遊びが
流行ったほどだ。
158
白銀の聖騎士⋮⋮ランドリオ帝国の英雄にして、同じ六大将軍と
実力を連ねる圧倒的な存在。
普通の村娘は純情に彼を想い、彼の夢を見続けてきた。普通の男
たちは彼のようになろうと、ひたすら自分を研鑽してきた。
聖騎士は皆にとって、憧れの対象であった。この場にいるゲルマ
ニア自身も、彼を崇拝し、雲の上の存在として記憶していた。
︱︱しかし、今は違う。
現在はシールカードであり、ランドリオの騎士ともなった。
願わくば、彼のいた時期になりたかったが⋮⋮⋮⋮でもまだ、可
能性はあるに違いない。戻ってくれば夢は叶うのだから。彼に従う
騎士になるという︱︱淡い希望が。
﹁⋮⋮聖騎士様、何処におられるのですか﹂
その為にも探さなければならない。
159
国の未来のために、自分のために、そして︱︱︱︱
︱︱と、そんな考えを何度も繰り返している内に、ゲルマニアは
目的の部屋へと辿り着いた。
ここはランドリオが誇る皇女、アリーチェ姫の部屋である。
彼女はリカルドの正室に迎えられる予定のため、その身の安全を
保障すべく、ここ最近は離宮に軟禁状態となっている。故に彼女は
暇を持て余しており、皇女側近であるゲルマニアが、必然とお相手
しているのが現状である。
⋮⋮可哀想な話だが、こればかりは仕方ない。
暴君になりつつある彼を止められる者は、誰もいないのだから。
ゲルマニアは吸って、吐いて、吸って、吐いてと軽く深呼吸を行
う。
そして、自分に言い聞かせるように呟いた。
﹁⋮⋮いつ来ても慣れないですね。初めて来た時は、まさか姫様の
160
部屋に行くとは思わなかったから⋮⋮無理もないか﹂
ゲルマニアは元村娘であった。北のエトラス山にあるエトラス村
の出身で、今でも貧しかった頃の名残が抜けていない。今でこそ一
日三食、それもバランスの摂れた料理を食べているが、昔は一日パ
ン一個だけという日もあった。
だからこんなにも豪奢な部屋に来ると、どうしても心臓の鼓動が
早くなる。これは元々の性格所以かもしれないが⋮⋮貧しかった頃
と比べているのもまた事実である。
﹁ふう。ま、ずべこべ言っても何ですし﹂
ゲルマニアは気持ちを切り替える。ドアに近づき、コンコンと軽
くノックする。
﹁姫様、ゲルマニアで御座います。入っても宜しいでしょうか?﹂
間髪を入れずに、部屋から声が返ってきた。
﹁ええ、どうぞ入って来てください﹂
161
それでは、と遠慮を込めてゲルマニアは入室する。
豪奢な造りの部屋。天蓋付きのベッドが置かれ、如何にも高そう
な調度品があらゆる箇所に置かれている。
そんな目もくらむような部屋の窓辺に、孤独に座る一人の少女が
いる。窓を眺めていたその瞳をこちらに向けて、慈母の如き笑みを
浮かべてくれた。
⋮⋮いつ見ても、この人は美しい。
皇女アリーチェ・ルノ・ランドリオ。年齢は十六であるのに、発
せられるオーラは姫としての風格を大きく漂わせている。
器が広く、尚且つ心優しいお方でなければこのような感覚は感じ
もしないだろう。
そして、姫様は外見でも他者を圧倒している。
162
姫のイメージを感じさせる豪華なドレスではなく、公な行事以外
は純白のワンピースに身を包み、肩にまで行き届いた金髪をなびか
せている。蒼玉のような色の瞳は一点の曇りもなく澄んでおり、同
性であるゲルマニアでさえ息を呑む。
世間で﹃美姫﹄と呼ばれるのも無理はない、そう納得するしかな
かった。
彼女は微笑みを絶やすことなく、ゲルマニアに語り掛けてくる。
﹁⋮⋮今日も苦労をかけてすいませんでした、ゲルマニア﹂
儚い印象をこめた言葉に、ゲルマニアはしっかりと応じる。
﹁はっ、もったいなきお言葉。姫の要望に応えるのが騎士の役目で
あり、一寸の苦もございません﹂
ゲルマニアが片膝を付こうとすると、姫様はそれを止めた。
﹁ふふ、二人のみで堅苦しい話は止めましょう。なにせ、ゲルマニ
アとはそう歳も違わないのですから。⋮⋮いえ、むしろ貴方の方が
歳は上なのですから。気さくに語り掛けて下さいな﹂
163
﹁は、はあ⋮⋮。それよりも姫様、今日も始めましょうか?﹂
﹁あ、そうですね。︱︱では、今日は何を話してくれるのですか﹂
こうして、私の一日の最後の仕事が始まった。
内容は、とある騎士の話。
覇道を極めた男の︱︱壮絶なる人生。
﹁うーん⋮⋮、そういえば、炎獄の魔人討伐の話はしましたっけ?
南にある砂漠の国で起きた⋮⋮﹂
﹁ええ、それは一昨日聞きましたね。聖騎士様が砂漠大陸の活火山
に赴き、魔人を倒したあの話は、本当に胸が躍る気分でしたわ!﹂
アリーチェは目を輝かせながら答える。
164
﹁私もあの話は好きですよ。⋮⋮という事は、次はあれですね﹂
そう、ゲルマニアは聖騎士様の英雄譚を姫に話す約束をしていた。
全ては村で聞いたものばかりだ。それでも姫様は熱心にお聞き下
さり、終える度に彼の偉大さを噛みしめていた。
アリーチェは彼の英雄譚をあまりよく知らない。彼とは何か深い
関係があったらしく、こうして少しでも聖騎士の存在を記憶に書き
留めようと必死になっていた。
まるで、昔の自分のようだ。
﹁⋮⋮よし﹂
さて、今日も聖騎士の英雄譚を語ろう。
︱︱これは、多分今までで一番活躍した話だと思う。
ゲルマニアは詩人になった気分で語り始めた。
165
今から二年前のこと、ランドリオは存亡の危機にありました。
それは同時にシールカードの目覚めを示し、世界を滅ぼす者と人
類の戦争を意味する戦いの始まりでもありました。
聖騎士様はその事に対して嘆かれ、そして決心しました。
止めて見せよう、この地獄の始まりを。
我が祖国の為、我が敬愛する民と主君の為に。
166
この身が尽きようと、屈強たる魂は不滅の刃と化し、必ずや闇の
終焉を約束してみせよう︱︱と、彼は姫君の御前で仰いました。
聖騎士様は女神より与えられし神剣リベルタスを右手に、魔界の
王より簒奪せし盾ルードアリアを左手に携え、代々の聖騎士に受け
継がれてきた重厚なる鎧と兜を全身に帯びました。
そして︱︱皇帝より授かりし赤きマントを翻し、彼は戦場へと赴
きました。
敵は一にして万に値する史上最強の怪物、ランドリオ軍はわずか
にして大半が瓦解しました。
それから数日後には、ごくわずかとなったランドリオ軍だけが戦
場に立ち、聖騎士様は怪物と対峙していました。
所々に深手の傷を負いつつも、彼は仲間と共に戦場を駆け抜けま
した。
三カ月の死闘の末、彼はようやく怪物を封印させました。
167
しかしその頃には仲間を逃がし、一人で怪物を駆逐した後には自
らも瀕死の重傷を負っていたといいます。
︱︱それ以降、彼の消息は途絶えました。
聖騎士様を称える人々もいれば、戦場となった村人達の罵倒と怨
嗟の声を上げるものもありました。
⋮⋮それでも、聖騎士様はランドリオを救いました。
忠実なる騎士として、彼は単独で挑んだのです。
その忠誠心と強さは、今の騎士達の尊敬と伝説の対象となったの
です︱︱
白銀の聖騎士よ︱︱我らが、救国の英雄よ
168
﹁⋮⋮この話はもしや﹂
﹁はい、これはランドリオ死守戦争での英雄譚でございます。少々
叙事詩的ではあるものの、聖騎士様に付き従っていた吟遊詩人自ら
が語られた話です﹂
︱︱この話は、姫様にとって辛いでしょうけど⋮⋮
何せこの時期に起きた戦争を理由に、聖騎士様は行方不明になら
れたのだ。彼の身分からして、姫と交流があったのは言うまでもな
い。
現実的な話をすると、彼の評価はここで大きく分かれた。
169
民衆は国の災厄と謳い、一時期は聖騎士を死刑にしろという声ま
で上がった。騎士団も様々な派閥に分かれ、聖騎士に対して嫉妬を
抱いていた有力騎士たちは⋮⋮聖騎士を除名処分にしろと告げてき
たほどである。
もちろん未だに聖騎士を擁護する派閥も多く存在し、どちらかと
いうとそちら側の方が数を占めている。六大将軍を含めたランドリ
オ騎士達が必死に阻止を企てたが、やはりそれもリカルドに邪魔を
された。結果として白銀の聖騎士は六大将軍の地位を剥奪さている
が、それでも尚、国民の論争は収まらない。
本当ならばこの事実を話すべきだろうが⋮⋮ゲルマニアはそうし
なかった。
姫は今、悲しんでおられるだろうから。これ以上悲しませること
は出来なかったからだ。
﹁⋮⋮有難うございます、ゲルマニア。あの戦争のことを、少しで
も教えてくれて﹂
﹁いえ、これは当然のことです。リカルドの監視がなければ、もっ
と早くに告げるべきでした。⋮⋮それで、その、一つお聞きしても
宜しいでしょうか?﹂
170
﹁何でしょう?﹂
ゲルマニアは言おうとした瞬間、戸惑いがよぎった。
出過ぎた発言だというのは承知だ。一介の騎士が姫の私情に口を
挟むのは、従事する側の特権ではない。
しかし、しかしだ。
ゲルマニアの意志は抑えきれなかった。
聖騎士への思いにふけたかのように、アリーチェは恍惚とした表
情でぼうっとしている。︱︱今の彼女の中で、聖騎士という存在は
どの位置に佇んでいるのか?
単なる僕?それとも一緒にお茶を飲むような友達?⋮⋮そうでな
ければ?
まだ村娘としての少女めいた幻想が漂っているせいか、彼女は同
じ女として、聖騎士様との関係が知りたかった。⋮⋮本当に、本当
に出過ぎた真似かもしれないが。
171
それでもゲルマニアは迷いを断ち切り、言い放った。
﹁⋮⋮姫様は、昔聖騎士様とはどのようなご関係だったのですか?﹂
﹁関係、ですか?﹂
アリーチェに不思議そうに首を傾げる。
ああ、言ってしまった⋮⋮。
後悔はしていないが、無性に恥ずかしかった。
これではただの、野次馬か嫉妬する乙女ではないか、と。こんな
事、姫様が気軽に仰ってくれる訳がない、と。
︱︱しかし、予想とは裏腹の返答が返って来た。
﹁⋮⋮そうですね、例えるならば︱︱初恋の相手ですかね﹂
﹁︱︱ッ。そ、それは本当ですか?﹂
172
姫様は抑揚をつけて、嬉しそうに述べた。
その表情は、正に恋する純情な乙女のそれだった。姫様の笑顔に
は、普通の女の子と大差ないイメージを浮かび上がらせてくれる。
やっぱり、とゲルマニアは納得した。
この方も、聖騎士様に恋をしておられたのだ、と。
﹁⋮⋮とはいえ、私の片思いかもしれませんね。彼の周りには常に
少女達がいましたし、恐らく私を意識した事など、ないのかもしれ
ません。私は、引っ込み思案な性分がありますから﹂
﹁︱︱そ、それはないかと。姫様程の美貌の持ち主です。きっと聖
騎士様も見惚れていたと思いますっ!﹂
﹁ふふ、だと良かったのですが﹂
小鳥が囀るように言い、相も変わらず微笑んでいた。哀愁を秘め
た笑顔を⋮⋮。
173
︱︱ゲルマニアは決意した。
もしも、聖騎士様がこのランドリオにいるのなら、絶対に姫様と
再会させてみせる。これは絶対である。
そう思ったゲルマニアは、またいらん事を述べた。
﹁ひ、姫様!私、絶対に聖騎士様を見つけ出してみせます!﹂
﹁⋮⋮ゲ、ゲルマニア?﹂
﹁私は御身の為にあります!姫が困る事、それすなわち私の悩みで
もあります!ですから、ですから必ず見つけてみせます!それも早
急に!﹂
頭に思い浮かんだ言葉を羅列するゲルマニア、それに姫様はどう
答えようか戸惑っていた。
が、それも一時だった。
姫様は潤んだ瞳を向け、静かにゲルマニアの元へと歩んでいった。
174
﹁︱︱有難う。私を思って言って下さったのですね﹂
﹁⋮⋮吉報をお待ちください。近い内、先の言葉が虚言ではない事
を明らかにしてみせましょう﹂
﹁⋮⋮無茶だけは、しないでくださいね﹂
ゲルマニアは無言で頷き、騎士団独自の胸に手を押し当てる敬礼
を行った。これは騎士にとって最低限の礼儀である。
そろそろ姫様が就寝なされる時間だ。これ以上の長居は不敬に値
すると判断したゲルマニアは、姫様に背を向ける。
今日の仕事は終わった。
さあ︱︱明日は忙しくなりそうな予感がしてならない。
部屋を退出した後、圧迫されそうな心を何とか保たせるのに精一
杯であった。
175
なぜだかは分からない。︱︱ただ、
明日には何かが変わる。そんな気がしてならない⋮⋮。
176
ep12 宿命の立場︵改稿版︶
ゲルマニアが退出した後、アリーチェは軽くため息をついた。
別に疲れているわけではない。事実上の軟禁状態の今、アリーチ
ェが疲れる要素などどこにも見当たらない。
自分が溜息をついた理由は︱︱ゲルマニアのあの態度だ。
彼女が聖騎士に好意を抱いているのは、鈍感なアリーチェでも理
解出来る。⋮⋮いや、尊敬にも似た好意とでも言うべきだろうか?
しかしあんな夢心地の気分で語られては、どちらも同じようなもの
である。
聖騎士を語るゲルマニアの笑顔は、とても活き活きとしているの
だから。
︱︱アリーチェはそれが羨ましかった。
177
彼女がああやって感情を素直にを曝け出せること。今のアリーチ
ェにとっては、手の届きようがない願いである。例え神が許したと
しても、周りの人々がそれを許すことはない。
皇女はいつ如何なる時も、この笑顔の仮面を被らねばならない。
その姿はまるで道化のよう。淑女に相応しい体裁の裏には、一人
悲しく演じるアリーチェが見え隠れしている。泣きたい時も、怒り
たい時も、彼女は本心を出すこともなく⋮⋮偽り続ける。 アリーチェとてまだ少女である。どこにでもいる少女の如く、あ
のゲルマニアのようにに愛情をアピール出来れば⋮⋮どれだけ素晴
らしい事か。この胸の奥に潜む純情を開放できれば︱︱っ。
﹁⋮⋮苦しい﹂
彼女は押し殺すように呟きながら、自分で自分を抱き締める。
︱︱ああ、まるで何重もの鎖に縛られているようだ。鉄よりも強
固で、アリーチェの身体と心を延長線上に縛りつけているような。
178
身分という鎖が︱︱何重にも。
リカルドとの婚約、これが何よりもアリーチェを束縛している。
彼との結婚はすぐそこだ。準備が整い次第、彼は盛大な結婚式を
執り行うと宣言している。そこに愛というものは存在せず、ただ自
分の権力を誇示するために︱︱。
無論、アリーチェ自身もリカルドを好いてはいない。むしろ︱︱
大嫌いだ。
前王、つまりアリーチェの父を暗殺し、至上の地位である皇帝の
権利を独占。更に、民に多大な負担を強要している事実も知ってい
る。権力者として許されざる愚行であり、穏健派であるアリーチェ
は特にそれを許せなかった。
それに︱︱彼の真意はどこか狂気じみていて、叶わぬ願いを追い
求めるその姿が、その思いが怖くて仕方ない。
﹁⋮⋮う、うぅ﹂
すすり泣きながら、アリーチェは自分を更に強く抱く。
179
結婚なんてしたくない。︱︱嫌だ、嫌だと。何かの暗示にかかっ
たかのように、彼女は延々と本音を吐いていく。誰も居ないこの部
屋の中で、一人さびしく。
もはや日常茶飯事だ。
こうなる度に、アリーチェはいつも最後にこう独白する。
﹁⋮⋮聖騎士様、どこにいるのですか?かつて皆を救ったように⋮
⋮⋮⋮私を、助けて下さい﹂
悲壮の嘆きは、反響する事なく消えていく。
︱︱静寂。だがその世界が想像を膨らませてくれ、洗練された、
輝かしかった日々を思い起こさせる。
まだ父王が在位し、帝国が誇り高く繁栄していた頃の時代︱︱そ
して、とある騎士が六大将軍に就任した日。
記憶の登場人物は、とある姫と騎士の二人であった。
180
多くの武勲を上げた騎士は、地平線に沈む夕日を背に姫へと跪い
ていた。何の不快感も見せず、まるで絶対の忠誠を誓うかのように。
一方の姫は戸惑っていた。自身が彼に見合う主だと自覚できぬま
ま、立って下さい、顔を上げて下さい、と何回も叫んでいた。
それでも騎士は姿勢を改めることもなく、彼女に堂々と告げた。
﹃︱︱アリーチェ様。遅ればせながら、私は今日より貴方のしもべ
です。例えこの身がどこにいようと⋮⋮貴方に何かあったら、必ず
や参上しましょう﹄
騎士は宣言した。それすなわち、姫の平和を願って︱︱
それこそが姫の生きる支えとなり、大いなる希望と化した。
彼なき今も、姫は夢想する。
181
まるで恋する乙女の様に、彼を待ち続ける。
聖騎士が︱︱あの約束を果たしてくれることを⋮⋮。
﹁︱︱あの約束が嘘でないのなら⋮⋮私の元に、来て下さい⋮⋮ッ
!﹂
誰も居ない部屋の中で。
ついにアリーチェは、声を出して泣き崩れた。
182
ep13 手厳しくも優しい友人︵改稿版︶
ゼノス・ディルガーナの朝は遅い。商人達が朝市を開き、ランド
リオ騎士団が城下町の巡回を始める頃︱︱つまり、午前十時あたり
に起床するのが普通である。昔なら有り得ない事であったが、環境
がゼノスを堕落させたようだ。
カーテンも締めきりで、部屋には日差しさえも入らないはずだが
︱︱眠るゼノスの両目に、明るい日光が当たる。
﹁⋮⋮ん﹂
ゼノスは光から逃れようと、掛布団を頭まで被ろうと引く。
︱︱が、掛布団は何かに引っ掛かったかのように動かない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
幾ら引っ張っても、掛布団はびくともしない。それどころか自分
183
の身体の上に何かが乗っているような違和感を感じ、ゼノスの意識
は段々明確になってくる。
ただならぬ気配を感じたのは、その時だった。
﹁ん、んん!?﹂
ゼノスは思わず目を見開き、上半身だけを起こす。
視界に映ったのは︱︱ゼノスの⋮⋮その、大事な部分に馬乗りの
状態で跨るロザリーがいて、今から剣を振り下ろそうとしていたよ
うだ。
色々な意味で危ないシーンを見せつけられ、ゼノスは呆気にとら
れる。
﹁おいロザリー⋮⋮剣を使って何をする気だ?﹂
﹁︱︱ゼノス起きないから、目覚まし代わりにと思って﹂
184
﹁︱︱ッ﹂
ただならぬ殺気が放たれ、同時に剣が放たれる。剣先が向かう先
は︱︱ゼノスの眉間。この勢いだと、まともに受ければ脳を貫きか
ねないッ!
﹁うおっ!﹂
機転を利かせ、ゼノスは空いた両手で白羽取りをする事で剣を受
け止めた。
﹁⋮⋮どう、目が覚めた?﹂
ロザリーは眉一つ動かさず、小首を傾げながら問う。とてもさっ
きまで殺しにかかってきた人間とは思えない⋮⋮。
﹁お、お前。俺を殺す気かっ!しかも既に起きてたし!﹂
余りにも急な展開に混乱しつつ、率直な疑問を投げかける。
ロザリーはさも当然の如く答えた。
185
﹁⋮⋮ゼノスはいつも二度寝とか三度寝もする。だから⋮⋮保険と
して一応、ね?﹂
﹁ね?じゃない!お前の起こし方は余程の達人じゃなきゃ永眠にな
るぞ!?って、分かった、分かったから力を緩めろ!起きるから!﹂
﹁⋮⋮本当?ならやめる﹂
ロザリーは納得したように頷き、持っていた剣を鞘に納める。
しかしその場から退こうとはしない。
ふと気づいたように、彼女はしばし自分の座っている位置を確認。
︱︱そして、その顔は徐々に紅潮していく。嗚呼、ようやく自分が
跨っていた位置を理解したようだ。
︱︱ゼノスの股間に跨っているという事実を。
﹁⋮⋮こ、これは⋮その﹂
ロザリーは顔を更に赤らめ、頬に両手を添えながら言う。
186
﹁分かった。分かったから⋮⋮﹂
ゼノスとて男、それもロザリーとは同い年である。同年代の女性
にこんなことをされては⋮⋮これ以上の理性は保てない。
ロザリーは沈黙したまま頷き、どうにかその場から退いてくれた。
﹁はあ⋮⋮﹂
こうしてゼノスは、午前六時に起床する羽目になった。
187
﹁全く、朝からハードだな﹂
ゼノスはシルヴェリア騎士団宿舎の食堂にて、目の下にクマを浮
かべながらパンをかじっていた。対面に座るライン、隣に座るロザ
リーも朝食を摂っている。
︱︱午前六時半。既にロザリーとライン以外の騎士団員は出掛け
たらしく、食堂には三人以外誰も居ない。まあサナギに睨まれなが
ら朝食を摂る必要がなくなった以上、ゼノスとしては嬉しい限りだ
が⋮⋮素直に喜べないのも事実。
何故なら、今日はランドリオ騎士団主催による模擬試合が行われ
る日であり、ゼノスはそれに出場しなければならないからだ。
凄く面倒だし、心なしか身体も怠く感じる。このまま欠席します
と言いたい所だが⋮⋮許されるはずがない。サナギに絶対半殺しに
されるだろうし⋮⋮。
二年間の騎士団生活の中で、今日が一番最悪な日である。
188
﹁⋮⋮うん、ちゃんと目が覚めてる。よしよし﹂
苦悩するゼノスを他所に、隣に座るロザリーが誇らしげに呟いて
くる。まあ、いつもの無表情なままだが。
ゼノスは不味いスープ︵ロザリー特製︶を啜りながら答える。
﹁嬉しそうで何よりだ。それに、俺があの方法で目が覚めなかった
日があったか?﹂
﹁なかった。⋮⋮私って目覚ましの達人なんだね﹂
目覚ましの達人って何だよ。と、ゼノスは内心で答える。
ロザリーの猟奇的な起こし方は、実は過去何回も繰り返されてい
るのである。見目麗しく、可憐な外見なのに⋮⋮裏では恐ろしいこ
とばかりしているのである。
﹁あはは、いやあロザリーは良くやってくれてるよ。流石、一時間
に一回はゼノスの事を気にしてるだけあって︱︱ぐえっ!﹂
189
ラインは軽口を叩いた直後、ロザリーの投げ飛ばしたスプーンが
顔面を直撃した。ガンッ、という嫌な音がしたので、相当な力が込
められていたのだろう。
ロザリーは静かに居住まいを正し、無機質な表情をゼノスに向け
てくる。
﹁⋮⋮ゼノス﹂
﹁何だよ、ロザリー?言っとくけど、今日の朝飯はあげないからな。
こんな飯でも英気を養う分には﹂
﹁そうじゃない⋮⋮⋮⋮ゼノスの表情が険しい。何か思いつめてる
の?﹂
相も変わらない無表情、しかしゼノスを心配している様子が丸わ
かりである。ゼノスとしてはいつも通りにしていたつもりだったが、
如何せん彼女には見破られていたようだった。
︱︱盗賊のシールカードを操るギャンブラーの存在、その脅威が
ランドリオに襲来しているという現実こそ、ゼノスに異様な不快感
を募らせる。
190
断ち切ったはずのランドリオへの服従、自ら見限ったはずの主へ
の忠誠。
吹っ切れたと思っていたのだが、未だ払拭しきれていないのか?
勝手にいなくなっておきながら、後悔があるというのか?そんな複
雑な思いが胸中を交差していく。
これも⋮⋮半端者ゆえの宿命か。
﹁⋮⋮昨日の晩、何かあったようだね。ゼノス﹂
ラインは水を飲み干した後、真剣な目つきで問いかけてくる。
いつもなら笑って語り掛けてくるラインだが、この調子はとても
珍しい。いや、懐かしいと言ってもいいだろうか。
こういう時のラインに冗談を言っても仕方ない。ゼノスはスープ
に浮かぶジャガイモをスプーンで転がしながら、何気なく答える。
﹁まあな。最悪、ここランドリオ帝国の滅亡に関わることだよ﹂
﹁⋮⋮そんな大事なの?それってまさか、始祖と関係する事なのか
191
い?﹂
ゼノスは無言のまま頷き、昨晩あった出来事を手短に説明した。
﹁⋮⋮成程、そんな事があったんだね。盗賊のシールカードが実在
していた上に、彼等は始祖を解放しようと行動に出ているわけか﹂
これまた珍しく、今度は焦りを露わにするライン。
︱︱同じ﹃元六大将軍﹄とはいえ、穏やかでない気持ちになるの
も同情する。
ライン・アラモード。シルヴェリア放浪騎士団の騎士にして、元
六大将軍の男。
彼もまた二年前の死守戦争に参加し、ゼノスと共に始祖と死闘を
繰り広げた者だ。とはいえ、ラインの場合は皇帝に派遣された訳で
なく、ゼノスを助ける為に途中参戦してくれたわけであり、ライン
に関する死守戦争での貢献は世に知られる事は無かった。いや有り
得なかった。
192
彼の元の異名は︱︱﹃知られざる者﹄。敵は愚か、ゼノスと特定
の六大将軍以外にはその存在さえも知られなかった男であり、影の
仕事を生業としていた。恐らく知られざる者という六大将軍は皆理
解しているだろうが、ラインという六大将軍を知る者は中々いない
だろう。
ラインがゼノスに付いてきた理由はまた長くなるが、ラインとい
う男はそういう奴なのである。自分を曝け出さない、表現しようと
しないのだ。
ゼノスでさえも、彼の全貌は計り知れない。
ラインはそんなゼノスの思考に気付きもせず、本題に対して疑問
を突き付けてくる。
﹁この事は団長に言ったのかい?﹂
﹁言うわけないだろ。俺はもう白銀の聖騎士でもなければ、シルヴ
ェリア騎士団に絶対の忠誠を誓う立場でもないんだ。⋮⋮正直、面
倒事はもう御免なんだよ﹂
﹁⋮⋮ゼノス﹂
193
ふいに零れてしまったゼノスの本音。
これは信頼できる親友二人に打ち明ける、彼の弱さであった。
最強と呼ばれ、多くの人々の尊敬と畏怖を集めた白銀の聖騎士。
多くの戦場を駆け抜け、多くの強敵を打ち倒し、多くの出会いと別
れを重ねてきた。
だがその果てに待っていたのは︱︱人々を意味のない戦争に巻き
込み、沢山の命を奪ったという悲劇である。
ゼノスは誓ったはずのものを裏切った。それが弱かった心に追い
打ちをかけ、今もなお引き摺っている。
︱︱何が白銀の聖騎士だ。何が偉大なる英雄だ。
彼は二年もの間、ずっと弱さを恥じ続けている。
⋮⋮しばらく静寂の時が流れる。ゼノス達以外は皆とうに城へと
向かっているため、ざわめき声さえも聞こえはしない。市場の喧騒
が遠くから聞こえるだけで、それ以外の音は何もない。
194
だがふいに口を開いたのは、意外にもロザリーであった。
彼女はスプーンを握るゼノスの手に、自分の手を重ねてくる。
﹁⋮⋮私はそれでいいと思う。干渉もしないし、反論もしない。た
だ私は、貴方に付いて行くだけ。これまでもそうだったし、これか
らもそう。もしこの大事を伝えなかった罰則として、騎士団を追い
出されたら⋮⋮⋮⋮私も騎士団を抜ける。ただ、それだけ⋮⋮﹂
ロザリーはたどたどしく言い放った後、また無言になる。ただ真
摯な瞳だけは逸らさず、ジッとゼノスを覗きこんでくる。
⋮⋮いつも思うが、これはわざとだろうか。
浮世離れした端正な容姿。国一番の美女と呼ばれてもおかしくな
い彼女が、こうして男を誘うような仕草をとってくる。これが無自
覚なのだから、余計にタチが悪いものだ。
傍から見ればそれは、仲睦まじい男女の馴れ初めにも感じられる。
195
その第三者であるラインは少々戸惑うが、何とかいつもの調子で
口を挟む。
﹁あ∼⋮⋮まあつまりロザリーはね、ゼノスは無理してこの依頼に
関わるな、って言ってるんじゃないかな?﹂
ラインの補足に、黙って首肯するロザリー。どうやらそうらしい。
﹁僕も同感だよ。こう言うのも悪いけど︱︱ゼノスは精一杯頑張っ
て来たよ。その結果、それに見合った信頼は得られなかったんだ。
わざわざこの国の為に尽くすのは⋮⋮もう必要ないと思う﹂
ラインは既にゼノスの⋮⋮いや、白銀の聖騎士に対する世間の評
価を知っている。報われない事実を把握している故、ラインが言え
ることはそれだけである。
彼もまたランドリオ帝国の出身ではなく、遥か東方の島国出身だ。
別にこの国に関しては思い入れもないし、ゼノスのいない帝国なん
ている意味もない。ラインもロザリーと同じく、彼に付き合うだけ
である。
ラインがそこまでゼノスに執着する理由は⋮⋮まあまた別の話で
ある。
196
﹁⋮⋮そう、だよな。俺は十分に尽くしてきた。平和な世が築かれ
るなら⋮⋮もう休んでもいいよな﹂
ゼノスは幾多の経験を積んできた。喜ばしい出来事もあれば、絶
望に満ちた出来事も体験し、人並み以上の苦しみを味わってきた。
憧れの師、競い合った友、恋焦がれた少女、同じ誇りを持った同
志達、忌むべき多くの敵達︱︱その全てが過去の存在と成り果てて
いる。
泣いて、笑って、怒って、そしてまた泣いて︱︱
気付いた時には、彼は限界を超えていた。心も体も⋮⋮既にボロ
ボロだ。ラインとロザリーはそれを把握しているからこそ、更に心
配そうに見つめてくる。
そんな心配性な友人二人に対し、ゼノスは思わず苦笑する。全く、
いつもはずうずうしい奴等なのに、こんな時に限って優しくなるの
はずるいものだ。
嬉しい。ああ嬉しいよ。
197
だけど︱︱
﹁俺を心配してくれるのは確かに有り難い。⋮⋮でも、お前らもそ
ろそろはっきりさせないといけないんじゃないのか?﹂
ゼノスが唐突に言い放ったそれは、二人の図星を突くのに充分で
あった。
﹁ラインに関してはよく分からんが⋮⋮ロザリー、お前はそろそろ
自分の道を進んでもいいだろ?俺に付いて行くだけじゃなく、もっ
と他の﹂
﹁︱︱ゼノス。それは不可能﹂
ロザリーはゼノスの説得を遮り、そう断言する。
﹁⋮⋮私は既に存在しない筈の人間。幼い頃から未来が見えなかっ
た私にとって⋮⋮今の生きる目的は貴方の下にある。︱︱これ以上、
話す事はない﹂
有無を言わせない、はっきりとした口調。まるでそれが使命かの
ように呟くロザリーは、どこか必死であった。
198
これ以上の説得は逆効果だよ、とラインに目で促され、ひとまず
ゼノスは引き下がる。確かに、今話すべき話題ではなかったとゼノ
スも承知している。﹁分かったよ﹂と降参の態度を取り、元の話題
に戻る事にした。
﹁まあとにかく、余計な心配をかかせて悪かった。こんな依頼はと
っとと終わらせて、早いとこ別の大陸に行くとしよう﹂
﹁ああそうだね。早く他の大陸にある酒場でゼノスに奢って貰わな
いと﹂
﹁⋮⋮同意﹂
﹁お、お前ら⋮⋮少しは遠慮ってものを考えて欲しいんだが﹂
暗い雰囲気から一転、ゼノス達はまだ見ぬ今後の話に花を咲かせ
る事にした。
未だ拭えきれない不快感を、胸に抱きながら。 199
200
ep14 模擬試合︵改稿版︶︵前書き︶
※2015年5月2日に改稿
201
ep14 模擬試合︵改稿版︶
朝食を食べ終え、一同はハルディロイ城騎士団の棟へとやって来
た。
煌びやかな主城とは違い、騎士団の活動拠点たるここはお世辞に
も美しいとは言えない。外壁はゴツゴツとした鈍色のレンガに包ま
れ、周囲には彩る装飾や花壇さえ見かけない。ただ特徴的なのは、
物々しい甲冑姿の騎士達が徘徊しているだけであろう。
変わらない光景だ。ゼノスはここで多くの時間を築き、そして多
くの出会いと別れを繰り返してきた。
それだけではない。彼は数え切れないほどの英雄譚を残し、ここ
では憧れの存在として君臨していた。あの時の栄光を考えると、ゼ
ノスは感慨深く︱︱
︱︱は、ならなかった。
202
﹁ふわああああ⋮⋮あふっ﹂ ゼノスは堪えきれない欠伸と共に、眠気眼のまま騎士棟を見上げ
る。瞳から零れ出る涙は感動から来るものではなく、恐らく欠伸後
の自然発生したそれだろう。
どちらにせよ、全く懐かしがっていないのは確かである。
時刻は午前七時半前。ライン達と会話してた時は大丈夫だったが、
いざ到着した途端に眠気が襲い掛かってきたのだ。長年の不規則な
生活のせいで、早起きに適さない体質になっていたらしい。
ゼノスもう一度欠伸し、怠惰な声を漏らす。
﹁⋮⋮眠いし、重いし、面倒だ﹂
到着早々の文句に、同じく付いてきたラインとロザリーは呆れる。
﹁⋮⋮本当ならこれが日課。ゼノスは、毎日だらけすぎ﹂
﹁ロザリーの言う通りだね。全く、日頃のだらけ具合が仇となった
んだよ﹂
203
ゼノスはなるべく聞こえないように、手で耳を抑えていた。二人
の駄目出しが身に染みてしまうからだ。
﹁はあ、それでちゃんと戦えるのかい?試合途中で寝たりしちゃ駄
目だよ?﹂
﹁んなヘマはしないって。六大将軍の連中と戦うならともかく、相
手は単なる騎士団員だろ?本当なら剣さえ使う必要もない﹂
ランドリオ騎士団は確かに優秀である。武を重んじるだけあって、
入団試験は他国よりも圧倒的に難しい。生死を分ける試験に合格し、
尚且つ明確な成績を残し続けない限り、ここランドリオ騎士団内で
の出世は有り得ない。
ゼノス達がこれから対峙する相手は、恐らく騎士団の中でも上位
に位置する存在。そういった奴等は、侵略戦争や魔獣討伐を幾度と
なく勝利に導いた猛者であるのは間違いない。
しかしだからといって、彼等と六大将軍を比べるのも有り得ない
のだ。
侵略戦争?それは所詮人間との戦いだろう?六大将軍は人間以上
204
の存在︱︱神や悪魔、その他人間とは程遠い高位存在との戦いに挑
んでいる。
魔獣?奴等は六大将軍にとって、そこら辺の犬や猫と何ら変わり
映えしない。彼等にとっての危険な魔物は︱︱神獣である。
もはや六大将軍とランドリオ騎士団は、考えにも違いが生じてい
る。その時点で、ゼノスが連中に負ける理由などどこにも見つから
ないわけである。
﹁そんなのは分かってるさ。けどそれじゃ示しがつかない⋮⋮⋮⋮
よ⋮⋮﹂
ふいに、ラインの苦言が止まる。
目的の試合会場に着いた途端、ゼノスとロザリーも苦渋の顔を見
せる。
ゼノスは嫌々ながら、周りを見渡す。
模擬試合を目的とした楕円形の闘技区画が中央に設置され、その
周りを囲むように現在、早朝ながら大勢の人々で賑わっていた。
205
連中の恰好を見る限り、大半がランドリオ騎士団か物好きの貴族
一同だろう。その中に見慣れた者がちらほら見える。約二年ぶりに
お目通りする人々だが、ゼノスは気にもならない。むしろ辟易とし
た様子でこめかみを抑えていた。
﹁⋮⋮なにこれ?﹂
ロザリーもまたうんざりとしたように尋ねる。
﹁よくあることだ。騎士の方は義務で参加してる奴もいれば、興味
本位で観戦しているんだろうが⋮⋮貴族の方は違う。こうやって、
憎い騎士の揚げ足を取るネタを探しに来てるんだよ﹂
﹁⋮⋮趣味が悪い﹂
仰る通りで、とゼノスは心中で答えた。
けど貴族の揚げ足取りなんて、騎士国家であるランドリオ帝国の
前では無力にも等しい。せいぜい鬱憤晴らし程度のものだろう。こ
の場で貴族共を気にする騎士なんて、多分誰もいないに違いない。
三人は観客席を横から見下ろしながら迂回し、両騎士団の控室代
206
わりとなるテントへと向かう。
既にテント内には両騎士団が勢ぞろいしており、ニルヴァーナや
リリスは相手騎士団の代表と和やかに談笑している。
相手はここからでは見えない。⋮⋮が、どこかで見知った者かも
しれない。
何となく気になりながらも、テントの中へ入ると︱︱
ゼノスは意表を突かれてしまった。
﹁︱︱ッ﹂
まさかいるとは思わなかった。
テント内では、試合を行う両団の三名ずつが整列し、対面してい
るのだが︱︱相手側にはプラス何名かが付いていた。
彼等はゼノスが知っている所か、ランドリオ帝国では知らぬ者は
いない有名人である。
207
﹁中々骨のある団員ね、ニルヴァーナ団長。これはランドリオ騎士
団にとって、経験深いものになるでしょう﹂
﹁お褒めに預かり、感謝するイルディエ殿。かの﹃不死の女王﹄の
言葉、深く心に刻みました。﹂
まず一人、六大将軍であるイルディエだ。ニルヴァーナに感想を
述べながら、ちらりと入ってきたゼノス達を見やる。
そしてその顔が驚愕に包まれたが⋮⋮⋮⋮あえて気にしない事に
しよう。
更にもう一人、ゼノスを難しい顔で見てくる者がいた。
﹁⋮⋮そうじゃな、確かに﹂
返事も適当にこちらを凝視してくるのは、重厚な鎧を着ている白
髪の老人︱︱実はこの男も、六大将軍だったりする。
名前はアルバート・ヴィッテルシュタイン、将軍としては最も経
歴が長い人物でもある。六大将軍になる前は北の国の武装遊牧民族
の首長をしていたこともあり、極めて好戦的である。彼もまたゼノ
208
スに目を向けるが、こちらは毅然としている。
とにもかくにも、これでもうゼノスの存在が分かってしまった。
最初から見つからないよう行動できる自信はなかったが、こうも
あっさり見つかるとは⋮⋮。
ゼノスはげっそりとしながらも、あとの二人へと視線を移す。
﹁初めましてですね、ニルヴァーナ様。昨日はお会いできず、申し
訳ございません。ランドリオ帝国第一皇女、アリーチェ・フォン・
ランドリオです﹂
﹁こちらこそ、皇女殿下にお会い出来て光栄です。騎士団同士の模
擬試合、ぜひとも堪能下さい﹂
⋮⋮二人の会話を、ゼノスは達観的に見据えていた。
︱︱アリーチェ様。
209
二年前まで仕えていた主であり、ゼノスが最も敬愛する方。⋮⋮
嗚呼、相も変わらず美しい。
ゼノスは二人の戦友と主君を前に、思考が揺らいでいた。
再会は確かに嬉しい。彼等と過ごした日々は少なくなく、最も苦
楽を共にしてきた仲である。⋮⋮だが今のゼノスにとって、最も会
いたくない人達でもあった。
何も告げずにランドリオを離れた思い出が、否が応でもよみがえ
る。
﹁⋮⋮はあ﹂
もはや考えるだけ無駄だ。
朝方のライン達との会話を思い出し、なんとか胸の苦しさを和ら
げようとする。
210
そう、過去は過ぎ去ったのだ。今更思い悩んだ所で、取り返しは
つかないし、考えても徒労に終わるだけだと思う。
⋮⋮まあ、六大将軍の二人は絶対に後で話しかけてくると思うが、
要は当たり障りのない会話で済めばいいだけのこと。何か頼まれた
としても、それをきっぱりと断ればいい。簡単な話である。
悶々と頭の中を整理しているうちに、どうやら向こうも話が纏ま
ったらしい。形式的な挨拶も済み、アリーチェと六大将軍はニルヴ
ァーナから離れる。
﹁では、私達はそろそろ観客側に移らせていただきます。良い試合
を期待しておりますよ﹂
そう言い残し、アリーチェはイルディエとアルバートを連れて去
って行く。
同時に、相手の一人の騎士団員がゼノスへと近づいてくる。リリ
ス、ニルヴァーナにも団員が近づく。どうやら、両者の対戦相手が
言葉を交わす順番が来たらしい。
ゼノスの相手は、長身ながらに優男の容貌をした茶髪の男。
211
こちらに笑みを浮かべ、そっと握手を求めてきた。
﹁どうも、貴方の対戦相手となるマルスと申します。階級としては、
王女近衛部隊隊員です。どうぞ宜しくお願いします﹂
﹁⋮⋮ああ、宜しく。俺はゼノス、弱いなりに頑張ってみせるよ﹂
ゼノスは一切表情を緩ませることなく、相手の握手に応じる。
﹁おやおや冗談を仰る。シルヴェリア騎士団員は、個々人全員が強
いと聞き及んでいますよ?でしたらあなたもお強いはずで﹂
﹁︱︱なあマルスとやら、そろそろこんな三文芝居はやめにしない
か?﹂
飄々とした口調で喋ってくるマルスに対し、ゼノスはぴしゃりと
言い放つ。誰の耳にも届かないよう小さく、しかし覇気のこもった
一声を。
マルスは一瞬だけ目を見開き、やがて口端を曲げる。
﹁⋮⋮せっかちな人ですね。少しはランドリオ騎士団員、マルスを
212
演じさせてくださいよ﹂
彼は肩をすくめながら言う。傍目から見れば、マルスが冗談を言
っているようにしか見えない。
﹁︱︱何の真似だ。言っとくがお前、俺がここで化けの皮を剥がせ
ば終わるぞ。それを承知の上で、ここにいるんだよな?﹂
﹁おや、貴方はそういった面倒事には関わらないと思っていました
が⋮⋮?﹂
﹁なに、ちょっとつつけばすぐに終わるさ。この模擬試合でな﹂
戦えばすぐに判明するだろう。恐らく、六大将軍であるイルディ
エやアルバートも。
闘気に混じる邪気は、紛れも無く特異な力を持つ者の証拠だと。
常人には分からずとも、戦いに精通する者ならばすぐに読み取れる。
マルスはしばし怨嗟の念を向けてくる。
︱︱どうやら、正解のようだな
213
後は戦いの中で分かって来るだろう。
奴の本性が。
マルスは気を取り直し、元の優男の表情に戻る。
﹁ではゼノス殿、さっそく始めましょうか。どうやら僕とゼノス殿
が最初のようなので。⋮⋮それに王女様や将軍が見てる手前、早く
始めないと⋮⋮ね?﹂
﹁その点に関してはお前の言う通りだな。︱︱さて、と﹂
ゼノスは周りを確認する。
既にニルヴァーナとリリスは観客席に移り、静かに俺達の試合を
待っている。他の観客も、そして最前に立つ六代将軍とアリーチェ
も無言を貫いていた。
二人は観客席の合間に設置された階段へと向かい、何も言葉を交
わさないまま闘技場へと降りていく。突出した四方形の舞台へと登
り、互いが対峙する形をとる。
214
深呼吸し、ゼノスは外套代わりのマントを脱ぎ棄てる。
とても薄っぺらい、安物だとすぐ分かるプレートアーマーを普段
の服の上に身に着け、皮製のブーツと手袋を装着していた。どうや
らこれが見習いの正装らしい。
そして腰に吊るしていた安物の剣を抜き、直立の姿勢となった。
剣に関してはかなりいまいちだが、この戦いでは丁度いい。これで
勝てる自信は大いにある。
対するマルスも同じく剣を構え、下段の態勢となる。防御に特化
したその姿勢は、まさにランドリオ騎士団が使う構えそのもの。全
方位からの攻撃に反応できる隙のない構えだと、ゼノスはしみじみ
と思った。
さあ、両者の戦闘準備は整った。
ゼノスは構えという構えを見せず、マルスは下段の構えで。
﹁⋮⋮それで宜しいのですか、ゼノス殿﹂
215
﹁ああ問題ない。それよりもさっさと始めよう﹂
そう、それが開始の合図だった。模擬試合に号令など存在しない。
﹁︱︱ちえいっ!﹂
先手を繰り出したのはマルスだ。勢いのある掛け声と共に、滑り
込むようにゼノスの間合いへと踏み込んでくる。下段の構えをとっ
ていたにも関わらず、先攻をきる。
⋮⋮まんまと挑発に乗ったか。
普通人からすれば余程の速さなのか、周囲からは感嘆の声音が零
れる。
だが一方のゼノスはというと⋮⋮
︱︱遅すぎる。これだと刃ごと破壊して切り込めるぞ⋮⋮。いや
でも、それだと実力がバレちゃうしな⋮⋮。
216
と、余裕な面持ちであった。
結果として、ゼノスはこれを見送る事にし、何となく構えた剣で
マルスの剣と交差させ、鍔迫りという形で相対した。
︱︱ここで聖騎士流剣術を見せたら、間違いなくイルディエかア
ルバートが勘付くだろうなあ。
⋮⋮てか、もう気付いてるか。
彼等とはもう長い付き合いである為に、ゼノスは来なければ良か
ったと心の底から思う。
ゼノスは絶妙なリズムでマルスの剣撃を見事に受けていく。彼の
剣筋は洗練されているが、如何せん単調すぎる。そこに力強さがあ
れば別であるが、マルスは力で屈服させる程の筋肉を有していない。
だから必然的に瞬発的な剣捌きが要求される。
単純に彼を評するならば︱︱凡人だ。
217
だが油断は出来ない。相手があの晩に出くわしたシールカードの
持ち主︱︱ギャンブラーならば余計にだ。
﹁くっ⋮⋮やりますねっ!﹂
マルスは必死の形相でゼノスに切り込んでいく。優勢と見られが
ちだが、この場合はゼノスに遊ばれていると言った方が正しい。
それもそのはず、ゼノスには傷一つ付いていない。全ての剣撃は
ゼノスによって受け流され、良い所は突いているのだが、ほんの僅
かな差で避けられている⋮⋮⋮⋮それが周囲から見た現況ではなか
ろうか。
切磋琢磨する両者。今のゼノスはマルス同様︱︱凡人を演出して
いる。
﹁脇が甘いな。隙を作る原因になるぞ、それ﹂
なんて、ゼノスは簡単にアドバイスしながら獅子奮迅の激闘を繰
り広げる。
﹁ふ⋮⋮はは、余裕ですね!本気でないおつもりですか?﹂
218
﹁それはお前の想像に任せる。︱︱何にせよ、もう飽きたな﹂
ゼノスはようやく攻勢に移る事にした。
聖騎士流剣術は目立つゆえに使用しない。基本剣術で︱︱倒す!
マルスの猛攻を剣で跳ね返し、後手の反撃を開始する。
﹁はあっ!﹂
あたかも必死な形相を作り、同時に剣を横薙ぎする。マルスはそ
の剣撃をしゃがむ事で回避し、ゼノスの膝を斬り込みに掛かる。
しかしマルスの一撃は脆くも崩れ去る。ゼノスは後方へバック転
する事で致命傷を逃れ、そのアクロバットな動きに観衆は驚きの声
を漏らす。
マルスは追随しつつ攻勢を劣らせない。素早い振りはゼノスを防
戦一方の状態に陥れている︱︱ように観衆は見て取っている。
219
だが現実は反対である。ゼノスは必殺の一撃を狙うために、あえ
てマルスの疲労を誘っているのである。こうも激しく斬りかかれば、
いずれ相手は大きな隙を作る。
そして︱︱機は訪れた。
マルスが片足をよろけさせた瞬間、ゼノスは目にも止まらぬ速度
で急迫する。マルスの短い悲鳴を掻き消すように剣を振るう。
そのゼノスの攻撃がとてつもなく重い。何とか抑え込むが、徐々
に剣を持つ手が痺れ始め、同時にマルスは、自分が劣勢に立ってい
るのだと思い知らされる。
両者の刃が交わり、容赦ない鍔迫り合いがまた巻き起こる。
﹁ぐっ﹂
マルスは既に限界に近付いている。手も、足も、集中力も限界に
達しているせいか、身体を踏ん張ることもままならない。
﹁⋮⋮なあマルス、お前自分で分かってるだろうか﹂
220
ゼノスは有利にも関わらず、一切の余裕を見せない。寒気さえ覚
えるほどの視線を浴びせ、徐々に相手を追い詰めていく。
︱︱そこに、怠け者ゼノスは存在しなかった。
﹁な、なんでしょうかね﹂
それでも尚、誤魔化し続けるマルスに︱︱ゼノスははっきりと言
い放つ。
﹁︱︱道化の皮が剥がれているぞ、貴様。自分で気付いてるかは知
らないが⋮⋮段々とドス黒い気配が露出していってる﹂
逃しはしない、許しはしない。本能的なゼノスの正義が露わにな
り、目の前に存在する悪を睨み付ける。
しかし、ゼノスとて鬼ではない。ここで容赦なくマルスを断罪す
る方法もあるが、一応ゲルマニアの事もある。少々甘いかもしれな
いが︱︱
221
﹁けどまあ、ゲルマニアはお前の事を凄く心配している。⋮⋮悪い
事は言わないから、今すぐ厄介事から退け。それがお前のためにも
なるんだぞ﹂
ゼノスは説得する。このマルスのために。
だが、当のマルスは素直に応じようとはしない。反省する気がな
いどころか、静かな怒気を露わにしていた。肩を震わせ、獲物を射
止める狩人のようにゼノスを見据える。
﹁⋮⋮⋮⋮貴方に何が分かる。いや、分かってもらうものか!あの
苦しみは⋮⋮私だけの!﹂
﹁⋮⋮マルス﹂
どうやら深い事情があるようだ。
それが何かは分からない。しかし、マルスが愚行を止めないとい
う事実だけは分かった。
既に言うべき事は言い尽くした。問い詰め、さらに警告したのだ
から十分であろう。︱︱あとは、この試合を終わらせるだけだ。
222
﹁ふっ!﹂
ゼノスは均衡する競り合いを抜ける為に、そして目の前のマルス
を宙へと舞い上げる為に︱︱巨人にも劣らない力でマルスを斬り上
げる。
案の上、マルスは剣閃を剣によって防御したが、彼自体を地上か
ら切り離すことが出来た。彼は今、空中で無防備の状態になってい
る。
﹁︱︱ッ、何て馬鹿力っ!﹂
人間一人を軽々と投げ飛ばす、これが簡単なようで至難の業であ
る。強靭な肩は勿論、投げ飛ばす際のタイミングを間違えれば自分
にも被害が及ぶ。
だがゼノスにとって、そんな心配は杞憂に過ぎない。彼の身体は
やわに出来ていないし、これしきで壊れてしまうならば︱︱とっく
のとうに死んでいる。
ゼノスは宙高く舞い上がるマルスを見据え、自らもまた大きく跳
躍する。マルスへと急接近し、彼の胸倉を掴む。しかしマルスはそ
223
の手を無理やり剥がす。
空中で何度か剣を交わし、両者は突き飛ばされるように地上へと
落下する。
何とか体勢を崩さないまま着地し、ゼノスとマルスは最後の一太
刀を浴びせんと突っ込む。
︱︱そして、甲高い最後の音色が響き渡る。
結果は当然︱︱マルスの勝利である。彼が放った一撃は、容赦な
くゼノスのオンボロ剣を宙に打ち放ったのである。⋮⋮まあこれも
全部、ゼノスがわざと手放しただけなのだが。
僅かな静けさの後に訪れたのは、割れんばかりの歓声であった。
貴族連中は面白くなさそうに拍手するだけで、騎士達は自分のこと
のように席を立ち、マルスに対する歓喜の悲鳴を上げる。
﹁や、止めっ!この試合、ランドリオ騎士団の勝利!﹂
審判の号令により、ゼノス達の試合は粛々と幕を閉じる。
224
マルスは腑に落ちないとばかりに睨んでくるが、こちらとしては
どうでもいい試合。勝っても負けても嬉しくないし、悲しくもない。
︱︱後で誰も居ない場所で、マルスを殺せればいい。ゼノスは少
なくともそう思っていた。
﹁⋮⋮はは、どこまでも目立ちたくないと来ましたか。最悪、この
場で殺されると思っていたのですがね﹂
﹁皇女殿下の前でそんなことするわけない。⋮⋮まあどちらにせよ、
後で殺してやる。覚悟しろ﹂
ゼノスはなるべく殺気を抑えながら告げる。
﹁そうですか。︱︱けど、そう上手くいきますでしょうか?﹂
﹁なに?﹂
﹁そのままの意味ですよ。⋮⋮詳しいことは、貴方に教えるつもり
はありませんが﹂
225
そう言って、マルスは闘技場を後にする。彼は沢山の騎士に祝福
されながら、皇女アリーチェの前へと赴く。何かしたらのお言葉を
賜っているのだろう。
一方のゼノスは、マルスの言葉が頭を離れなかった。
まるでもう遅いと言わんばかりに、余裕綽々の言葉を放っていた
が⋮⋮一体どういうことだ?
ゼノスはその場で思案していた。︱︱が、それはとある一言で終
了した。
﹁こらああッ!!ゼノス!早く観客席に来い!!﹂
と、サナギからそんな罵声がかかってきたからである。
よく見れば次の相手同士がゼノスの退場を待っているようであり、
観客もまた同じのようである。早く失せろ敗者、とでも言いたげな
視線ばかりである。
﹁はあ⋮⋮﹂
226
まあいい、ひとまず一段落はついた。シルヴェリア騎士団の皆は
試合に集中しているようで、ゼノスに語り掛ける者は一人もいない。
かといって観戦するのも面倒だし、試合後の感想を熱心に言い聞
かせる性分でもない。後は時を待つのみなので、この場でゼノスが
果たすべき使命は何もない。
なので場外に出て、颯爽と人気の無い場所で寛ぎに行く事にした。
ゼノスは皇女と六大将軍の傍にある階段へと向かい、その先にあ
る昔利用していた休憩所へと行こうとする。︱︱が、
﹁あ、ゼノス様お待ちください!﹂
突如、階段の登り途中でアリーチェに呼び止められる。周囲がぎ
ょっとするのも気にせず、彼女は早足でゼノスの元へと近付く。
﹁あ、あの、先の試合は見事でした。惜しくも負けてはしまいまし
たが、ゼノス様の戦いはとても素晴らしかったです﹂
﹁⋮⋮恐縮です。これからはもっと強くなるよう、精進していきた
いと思います﹂
227
ゼノスは若干目を反らしながら答える。
何だってまた自分に⋮⋮。他の連中なら普通に話せる自信はある
が、アリーチェが相手だと、急に罪悪感というものが膨れ上がって
くる。
一刻も早く立ち去ろうとお辞儀をし、踵を返そうとするが⋮⋮ア
リーチェの驚いた表情に、すぐさま立ち去ることが出来なかった。
ほんの数秒間見つめ合った後、アリーチェから思いもよらぬ言葉
がやってくる。
﹁⋮⋮失礼ながら、もしかして貴方と私は⋮⋮⋮⋮その、どこかで
お会いした事とかは?﹂
﹁︱︱︱︱ッ!い、いえ、それは決してありません!ええありませ
んとも!﹂
我ながら素っ頓狂な声が出たと思いながらも、必死に否定するゼ
ノス。
228
それを聞いたアリーチェは残念そうに俯き、やがて小さく頭を下
げる。
﹁そ、そうですか。⋮⋮変な事を聞いて申し訳ありませんでした﹂
﹁だ、大丈夫⋮⋮です﹂
ぎこちない会話にそれで終わり、両者は離れていく。
とてつもない悲しさを秘めたまま、ゼノスも休憩所へと向かう。
さて、これでようやく落ち着ける⋮⋮と思ったが、そうもいかな
いようだ。
⋮⋮ゼノスは分かっていた。その後ろから、二人の六大将軍が付
いてきて、ゼノスに会おうとしている事が。
229
230
ep15 戦友との再会︵改稿版︶
模擬試合の会場から離れ、ゼノスは騎士団詰所の傍にあるベンチ
で一息つくことにした。
緑が多く、何よりもここは人気が少ない。昔はよく休憩に使った
思い出の場所でもある。どうやら今でも変わっていないようで、朝
にも関わらずひとっ子一人見当たらない。
しかし、それは好都合だ。
ゼノスはぼうっとしながら、目の前の柵の先に広がる城下町を見
据える。ハルディロイ城は城下町を見下ろせる場所へと建造されて
おり、ここはそれを実感できる位置である。
気分も安らぐし、心地良い風によって開放感にも満たされる。
このまま陽の光に当たり、まどろみながら寝たい所だが︱︱
231
悲しいことに、﹃彼等﹄の対処をしなければならないようだ。
彼等︱︱イルディエとアルバートは無言のままゼノスの眼前へと
佇み、こちらを直視している。
複雑な思いを巡らせているのだろうか。その顔は曇っていて、向
こうから話し掛けようとはしなかった。何の為に来たんだと言って
やりたくなるが、それでは旧知の戦友に失礼だろう。
深く嘆息し、不機嫌そうにゼノスは告げる。
﹁⋮⋮二年ぶりだな、二人共。元気だったか?﹂
ゼノスが問いかけても、イルディエとアルバートは答えない。
と、そこでイルディエの瞳から涙が零れ落ちる。
ゼノスの座る前で崩れ落ち、両手で顔を覆いながら⋮⋮盛大に泣
き始めた。
232
﹁良かった。本当に⋮⋮⋮⋮本当に無事で良かった!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮おいイルディエ﹂
ゼノスはバツが悪そうに俯く。まさかここまで号泣されるとは思
わなかったからだ。
まあそれは昔ながらの付き合い故か、至極当然の反応なのだろう
⋮⋮と、ゼノスはそう一人で納得するしかなかった。
あの戦いから行方をくらませば、死んだと思われても仕方ない。
感情豊かな彼女は、今度は怒ったようにゼノスを見上げてくる。
﹁今までどこにいたの?なんで私達にさえ行方を伝えてくれなかっ
たの?私とアルバートは、今までずっと貴方を心配してたのよ!?﹂
言いたい事を盛大に言い放ちながら、ゼノスをキッと睨みつける。
233
﹁⋮⋮落ち着けって﹂
﹁落ち着けるわけない!﹂
イルディエは泣きながら叫ぶ。
今まで溜めていた想いを爆発させたかのような勢いに、ゼノスは
反論する言葉が思いつかない。
このままでは埒が明かないと思い、今度は冷静に見つめるアルバ
ートへと目を向ける。
⋮⋮怒っているようには見えない。が、彼には計り知れない程の
借りを作っている。罪悪感に呑まれながら、ゼノスは戦々恐々とし
ながら尋ねる。
﹁⋮⋮アルバート、あんたも怒ってる⋮よな﹂
﹁いや、怒ってはおらんわい。正直な話、お前と似たような経験も
しておるしな﹂
散々罵倒されるかと思いきや、アルバートは溜息をつきながら述
234
べる。
その言葉を聞いて、ゼノスは一瞬だけ放心する。﹃戦場の鬼﹄と
称されるだけあって、彼はどの戦場でも鬼神のように戦果を上げて
いる。しかし、アルバートにもそんな経験があったとは⋮⋮。
﹁意外だな﹂
﹁当たり前じゃよ、小僧。一体何十年生きてると思う?⋮⋮まあい
いわい。とにもかくにも、こうして再会したんじゃ。事情くらいは
聞かせてもらってもいいじゃろ?﹂
逃がさないぞ、と言うようにアルバートがゼノスの肩を掴んでき
た。
︱︱面倒だが、ここで話さなければ更に面倒なことが起きるだろ
う。
後悔の念に駆られつつ、ゼノスはこれまでの経緯を余す事なく説
明した。この二人は六大将軍の中でも信用に値するので、多少気兼
ねなく話せた。
だが経緯とはいうが、ゼノスの送ってきた二年間は何もないと言
235
ってもいい。
シルヴェリア騎士団に入団し、ランドリオ大陸を離れて他大陸を
回っていたとしか言いようがない。
二年間も剣を持たず、何の目的もないまま騎士団と一緒に放浪し
てきたと言うと、二人は半ば呆然しながら反応する。
﹁⋮⋮一度も剣を振るってないなんて﹂
﹁儂もそう思いたいところじゃ﹂
マイナス面で評価されてしまったゼノスだが、さほど気にはしな
かった。
確かにあの頃と比べて外見どころか、内面までも変わったのは確
かである。自分から否定することは出来ないし、まさにその通りだ
と思う。
二人の落胆に機会を得たと感じたのか、ゼノスはあくびをしなが
ら言い放つ。
236
﹁さ、もういいだろ?今の俺に何を言ったって通用しないからな。
︱︱六大将軍に戻れって言われても、聞く耳は持たない﹂
あらかじめ釘を刺す事で、ゼノスはこれ以上二人に話させないよ
うにする。
案の定、イルディエは戸惑ったようにしどろもどろとなる。
﹁⋮⋮それは﹂
﹁第一、俺にはもう戦う意欲がない。誰が来ようと、もうあの頃み
たいに戦える自信はないんだよ﹂
ゼノスは断固とした口調で言い切る。
だがそれは、果たして本当なのか?自分で言い切ったにも関わら
ず、ゼノスは心のどこかでそう自分に問いかけてきた。
なら何で、この前現われたシールカードと刃を交えた?もし本当
に腑抜けたとしたら、そのような行動には出ないはずだ。
何故?どうして?︱︱あの時の行動は、今のゼノスの主張と大き
237
く矛盾している。
結局自分は何がしたい?どう生きていきたい?
怠惰な人生か?それとも︱︱聖騎士として戦い続ける、あの輝か
しい人生か?
思考が態度に出たのか、ゼノスは前かがみになり、暗い表情のま
ま俯く。
﹁⋮⋮悩んでおるようじゃな、小僧﹂
それに対し、アルバートは静かに言う。
﹁小僧の言うそれは、儂からすれば現実逃避しているようにしか見
えん。⋮⋮いや、正確には悩んでいる者の言葉、と言うべきかの。
どちらにせよ、それが本音ではないということは理解できる﹂
ゼノスは指摘されて、自重めいた笑みを浮かべる。
︱︱そう、今のゼノスは悩んでいる。
238
怠け者ゼノスと、聖騎士ゼノス。一体どちらの人生を歩めば、真
に納得できるのか?
アルバートの発言は、ゼノスにとって一番知りたくない事実だっ
た。
弱い、弱すぎる。自分はここまで弱いのかと⋮⋮そう感じさせて
くれる言葉だからだ。
﹁⋮⋮⋮⋮そうかもな。あれ以来、剣を握ろうとすると震えが止ま
らない。︱︱あの怪物の言葉が、今でも思い出される﹂
怪物、またの名を︱︱始祖のカード。
ゼノスの人生の中で、あそこまで強力にして凶悪な者を見た覚え
がない。
数多の奥義を、絶技を、秘術を惜しみなく発揮し尽くしても倒れ
ることなく、ゼノスと死闘を繰り広げていた。
あれは︱︱存在してはいけないモノだ。
239
どんな神獣よりも、いかなるシールカードよりも強大で、そして
凶悪なる魔物だ。
ゼノスにとってあの戦場で失った物は大きい。
地位、名誉、信頼︱︱戦える自信。自分にとって存在意義でもあ
った称号が、あの事件のせいで全て消え失せた。何年もかけて築き
上げたものが⋮⋮全て。
それ故に、ゼノスは思う。
﹁︱︱もう、疲れたんだよ。俺は﹂
旧知の戦友にまた本音を漏らす。⋮⋮紛れもない、聖騎士本人の
言葉で。
その聖騎士としての人生が、とてつもなく自身を疲弊させている。
英雄と謳われているが、それは守られたから言える言葉である。途
端に守られなければ⋮⋮彼等は一様に態度を変える。
240
︱︱ランドリオの面汚し。
どこか遠くの国にいた時、ゼノスが耳にした聖騎士への評価。
正しい答えだ。自分は非難を恐れるあまり、将軍という責任から
逃れるために行方をくらましたのだ。誰が見たって、将軍として最
悪な行為であろう。
⋮⋮だから自分は、もうこの国にいる資格さえないのだ。
﹁⋮⋮ほら、呆れただろ?だからもうッ!ほうっておいてくれ!!﹂
途端に放たれる、心からの叫びが周辺に響き渡る。
しばしの沈黙。
きっと驚き呆れているのだろう。
﹁⋮⋮ほうっておくわけないでしょ﹂
241
﹁うむ、儂もじゃ﹂
︱︱え
一瞬、何を言ったのか理解出来ずにいた。
ふと我に返り、今度はゼノスが問いかけた。
﹁ど、どういうことだ?﹂
﹁どうも何も、言葉通りの意味よ。︱︱もしかして、その程度で引
くとでも思った?﹂
﹁⋮⋮え?﹂
今までは人として認識されなかったのか、と不機嫌気味にゼノス
は思った。が、ここでそれを言っても仕方ないだろう。
242
イルディエは気にもせず、さらに言った。
﹁ゼノス︱︱それは人として当然の感情よ。そんな事で、私達は失
望したりはしない。逆に、この人は強くても人間として生きている
んだと思えて嬉しいわ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮イルディエ、お前﹂
呆気に囚われ、ゼノスはしばし沈黙した。
そして沸き起こったのは︱︱安堵の気持ち。自分を擁護する人が
いると知り、本能的に発していた緊張が和らいだ気がした。
﹁そう、イルディエの言う通りじゃ。失敗は誰にでもある。じゃが
そこで立ち直らねばいかん。⋮⋮小僧にまだ戦う気持ちがあるのな
らばのう﹂
﹁アルバート⋮⋮けど俺は﹂
﹁分かっておる、まだそこまで踏ん切りがついておらんのだろう?
だったらこの際、﹃あやつ﹄に会ってみるというのはどうじゃろう
243
?﹂
﹁︱︱ッ﹂
それが誰を示すか。ゼノスは即座に理解した。
思いもよらぬ提案だが、ゼノスは少し考えた後、アルバートの意
味深な提案に応じることにした。
﹁⋮⋮分かった。どちらにせよ、奴には聞きたいことが色々ある。
まだこの城の地下にいるんだよな?﹂
﹁もちろんじゃ。地下に続く扉は儂が開ける。ああそれと、イルデ
ィエはこのまま会場に戻れ。流石に二人の六大将軍がいないという
のも怪しまれるじゃろう﹂
イルディエは﹁そうね﹂とだけ呟き、彼女だけがその場を離れる。
﹁ゼノス⋮⋮気を付けてね﹂
彼女はそれだけ言い放ち、二人から遠ざかっていく。イルディエ
も状況を把握していたのか、心配そうな視線をゼノスに向けていた。
244
そんな大げさな⋮⋮とは口が裂けても言えない。
これから向かう先は、まさに生きた心地がしない場所だからだ。
﹁さ、行くぞ小僧。︱︱腰を抜かすなよ﹂
﹁分かってる﹂
アルバートから感じられる異様な緊迫感に触発され、ゼノスも神
妙に頷く。
どんな状況でも冷静な表情で対応するアルバートが、ここまで恐
れている。
︱︱戦場の鬼も恐れるその場所へと、二人は歩み始めた。
245
246
ep16 最強と最恐︵改稿版︶
城の居館に入るのは、ゼノスにとって二年ぶりとなる。
別館を抜け、緑豊かな庭園と厳かな教会の脇を通り抜ける。する
と途端に人の数も減り、使用人と騎士以外はほぼ見かけない。主に
皇族が使用するスペースであるからだろう。
他国の王城と比べても、その規模は言わずもがな。この国が歩ん
できた歴史を知れば、自ずとその理由に納得がいくであろう。
︱︱ハルディロイ城。戦の絶えない国に建設された、ランドリオ
帝国の本丸。
ランドリオ帝国の首都﹃ハルディロイ﹄は海と山の両方に挟まれ、
その環境でも十分に要塞として役目を果たしている。海には湾を切
り開いて海上防壁を形成させ、陸側にそびえるロイゼン山の頂上部
には常駐騎士部隊を配備させ、内陸部からの襲撃にも万全を期して
いる。
247
そしてランドリオ最強の防御壁と言えば、ここハルディロイ城だ。
ハルディロイは豪華絢爛を排し、質実剛健を基礎としている。外
壁のレンガは北部のマタニティ鉱山から発掘され、建国以前に存在
していたと言われる﹃ヒルデアリアの光魔石﹄で作られている。幾
多の神々が創造したと言われ、その強度はどんな攻撃をも耐えうる。
脆くなることもなく、その性質は一万年以上経った今でも健在であ
る。
まさに史上最強の城砦。光魔石が絶滅する四千年以上前までは、
戦争で得た富をこの城の増築に費やしたとも言われ、それがこの城
の壮大さの所以でもある。
だが内部は至って味気ない。見栄えは良いように塗装はされてい
るが、目立った絵画や調度品もあまり無く、風景画が所々に配置さ
れているだけだった。歴々の皇帝は揃って芸術に興味がなかったの
か、それともそうしてはならない決まりがあったのか、それはゼノ
スの知り得る所ではない。
︱︱それに、全く興味もないしな。
すっかりと調子を戻したゼノスは、そんな飄々とした様子でアル
バートの後を付いて行く。
248
しばらく歩いていると、行き交う人間が全くと言っていいほどい
なくなる。二人の靴底の音色だけが反響し、不気味なほどの静けさ
を物語る。
それもそのはず、今進んでいる狭い回廊は滅多に人も訪れず、主
に地下牢獄や宝物庫へと繋がっている。ここで人間を見るとすれば、
そういった場所に用事がある者だけだろう。
当然、ゼノス達の目的地はその両者ではない。
地下牢獄へと続く階段を通り過ぎ、宝物庫のある部屋をも無視し、
彼等はどんどんと回廊の奥へと向かう。心なしか回廊を照らす蝋燭
の灯りも減り、陰気な場所へと変わっていく。
⋮⋮そして、ようやく辿り着いた。
回廊の突き当たりに存在する、古い観音開きの扉へと。
アルバートは何も言わず、その扉を開ける。同時に地下へと続く
階段が姿を見せ、どんよりとした風が漂ってくる。
﹁行くぞ﹂
249
﹁ああ﹂
互いにそれだけ言い残し、階段へと足を踏み入れた。
階段を下りて、下りて、下り続ける。初めてこの階段を下りるが、
その先に待つものが何であるかは分かる。恐怖や緊張とは違う、ま
た別の感情がゼノスを襲う。
︱︱遺恨という感情が。
﹁⋮⋮アルバート、もうすぐで着きそうか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そうじゃな﹂
アルバートは固い表情のまま答える。
その肩は強張っていて、足取りもひどく重い。﹃戦場の鬼﹄と言
われたアルバートが恐れる理由は、きっとこの先にあるのだろう。
やがて最下層へと辿り着き、もう一つの重厚な観音開きの扉を開
250
ける。
﹁︱︱︱︱ッ﹂
迫り来る寒気。いやそれよりも、ゼノスは目の前の光景に瞠目し
た。
陰気な大部屋に似合わぬ花畑が中央を彩り、なぜだかその周辺だ
けに光が差している。ある種の幻想を醸し出していて、一瞬の感銘
を与えてしまう程に。
しかし、感銘を受ける気はない。ゼノスは瞳を細め、花畑へと目
を向ける。
花畑の中にある椅子。そこに一人の少女がいる。
透き通るような白い肌に簡素な無地の服を纏い、異質な翡翠色の
長髪を持つ儚い娘。
251
彼女もまた︱︱ゼノスを見つめていた。
﹁⋮⋮久しぶりだね、ゼノス﹂
乙女は無垢な笑みを見せ、座ったままそう述べてきた。
ゼノスは神妙な態度を取り、彼女の元へと歩んでいく。
﹁⋮⋮ああ、久しぶりだな。あれだけ暴れまわっていたお前も、今
じゃ籠の中の鳥か﹂
﹁ふふ、そうだね。でもそこまで退屈じゃないよ。最近はリカルド
皇帝が話かけに来るしね﹂
その言葉に、ゼノスは眉間に皺を寄せる。
252
﹁⋮⋮何の為に?﹂
﹁さあ、なんのためだろうね。リカルドは私の力というよりも、私
を誰かの生き写しのように扱ってるっていうのは分かるけど﹂
﹁生き写し?﹂
ゼノスは緊張感を保ちながら述べる。
リカルドが一体何を考えているのかは分からない。奴が貴族出だと
いうのは知っているが、それ以上の経緯は誰も知り得ない。
⋮⋮だが、重要なのはそれじゃない。
ゼノスは一旦心を整えた後、単刀直入に切り出した。
﹁︱︱始祖、今日はお前に聞きたい事があって来た。お前を復活さ
せようとしているギャンブラー、マルスについてだが⋮⋮知ってる
よな?﹂
253
﹁⋮⋮うん。ここ最近、私に語り掛けてくる声があったから。もち
ろん直接じゃないよ。脳内に響くようにね﹂
彼女は自分の胸に手を置き、瞳を閉じながら語る。普通ならば有り
得ないことだが、この始祖とギャンブラーには常識が通じない。そ
して彼女の声音から察するに、嘘ではないのだろう。
ゼノスとしても話す手間がはぶける。
﹁そうか。そのマルスは近いうちに、お前を解放するつもりでいる
らしい。けどここには六大将軍もいるし、屈強な騎士団が厳重に管
理している。なのに奴は余裕の態度でいたんだ。⋮⋮⋮⋮何故だか
分かるか?﹂
ゼノスは剣の柄に手を置きながら問う。
ここで知らないと言い張るのならば、脅してでも吐かせる。そう
段取りを決めていたのだが、始祖はあっさりと答えた。
﹁︱︱彼には罠がある。とても大きな、それこそ六大将軍を圧倒す
るぐらいの﹂
﹁なにッ!?﹂
254
声を上げたのはゼノスではない、アルバートだ。
彼は信じられないといった表情で続ける。
﹁儂は一度たりとて不審なものは見かけておらんぞ。奴がそれを仕
掛けているのならば、とっくのとうに気付いて⋮⋮﹂
﹁相手はギャンブラーだよ、アルバート・ヴィッテルシュタイン。
しかも隠密とトラップを得意とする盗賊のシールカードのね。幾ら
貴方と言えど、見破ることは難しいよ﹂
﹁ぬぅっ⋮⋮﹂
得体のしれない存在に、流石のアルバートも苦渋の顔を浮かべる、
神獣や悪魔、そして神々とは長年戦ってきたが、シールカードとい
う異質な存在はまだ未知数の世界である。始祖の封印と共に現れた
奴等は、まだ人類にとって侮れないものだ。
それに、アルバートは力づくでねじ伏せるタイプだ。暗躍する者
に対しては相性が最悪であり、彼の出る幕ではない。
255
自身もそれを理解しているようで、これ以上反論することはなか
った。
﹁その罠っていうのは一体何だ?危険なのは確かだが、罠の正体さ
え分かれば何らかの対処は打てるはずだしな﹂
﹁⋮⋮まあそうかもね。でもゼノス、貴方は今回の件についても首
を突っ込む気なの?﹂
その言葉に、ゼノスは表情を強張らせる。
﹁当たり前だ。一応これも、今所属している騎士団の務めなんでな﹂
﹁そうなんだ。⋮⋮でも六大将軍だったとき、貴方は騎士として役
目を果たせたのかな?その常人を遥かに超えた力で﹂
言われた瞬間、ゼノスの視界は真っ白になった。
強すぎる力、それによって犠牲となった人々、英雄とは程遠い過
去の所業。
256
あの凄惨な過去を思い出し、ゼノスは理解した。そうだ、自分は
一体何をやっているんだと。また二年前のような悲劇が起きれば、
今度こそ絶望に暮れてしまう。所詮自分には、守る力がないのだと。
始祖はゼノスの葛藤に気付いている。気付いているからこそ⋮⋮
まるで止めるかのように言ったのだろうか。かつてこの大陸を蹂躙
し、全ての生命を滅ぼそうとした彼女が。
⋮⋮確かにその通りだ。一度失敗を犯した自分が、こうしてまた
帝国のために働こうとしているなんて⋮⋮滑稽以外の何物でもない。
しかし、このまま黙って見ていろというのか。
二年前のあの日、ゼノスはこの国を捨てた。けどそれは突発的な
ものであって、未だに後悔や罪悪感に苛まれている。
アリーチェ様と戦友である六大将軍のために、もう一度戦いたい。
それが嘘偽りのない、ゼノスの本音である。
﹁⋮⋮⋮⋮それでも、今だけはこの国のために剣を振るいたい。お
前に言われて、改めてそう言える﹂
257
﹁︱︱そう﹂
始祖は悲しそうに呟く。
だが誰にも見られないよう、彼女はすぐに調子を取り戻す。
﹁ならゼノス、急いで﹃円卓の間﹄に向かって。そこにマルスは︱
︱﹂
﹁︱︱マルスが、何だと言うのか?﹂
第三者の声が響き、ゼノス達は一様に後ろを振り向く。
︱︱そこには完全武装を備えた騎士が数名いて、ゼノスとアルバ
ートにその鋭利な剣を構えてくる。⋮⋮歓迎されていないのは、見
ての通りだ。
今まで傍観していたアルバートも驚き、そして激昂する。
258
﹁何じゃお主等は!誰の許可があってこの場所へと﹂
﹁︱︱私だよ、アルバート六大将軍。妙に地下が騒がしいと思って
ね。こうしてやって来た次第だ﹂
騎士達の背後から響くしわがれた声、それでいて大いなる威圧を
漂わせる音色がゼノスの耳に届いた。
まさか、とゼノスは信じられない気持ちだった。
その声の主は紛れもない︱︱皇帝リカルドだ。
﹁リカルド陛下。何故このような所へ来たのですか⋮⋮?心配せず
とも、始祖をどうこうしようとは今更思いませんぞ﹂
﹁その点に関しては気にしておらんよ、アルバート。︱︱私は単に、
そこの不法侵入者を捕えに来ただけだ﹂
259
﹁ぐっ⋮く﹂
威光を含んだ視線を真に受け、アルバートは沈黙した。
一方のゼノスは、心なしか落ち着いていた。
厳重な罰則は当たり前だろうと覚悟したゼノスは、作り笑顔で騎
士達の前に立ち、リカルドにお辞儀をする。
﹁⋮⋮お目に掛かれて光栄です。シルヴェリア騎士団団員、ゼノス・
ディルガーナと申します。少々彼に道案内をしてもらっていたので
すが、興味本位でここも案内しろと言ったものでして﹂
苦しい言い訳だが、これ以外の文句は想像もつかなかった。
﹁⋮⋮ふむ。このような状況で社交辞令とは、ある意味で大物だな。
⋮⋮いや、諦め、とも言えるか?﹂
リカルドは意味深に微笑み、鋭い眼光でゼノスを見据える。心の
奥底まで見通されるような視線は徐々に強まり、次第にゼノスの感
情に変化を及ぼす程となる。
260
︱︱相変わらず、怖い爺さんだ。
目が笑っていないし、挙句の果てには殺気まで放っている。もう
うんざりだ。
﹁いえ、これはあくまで礼儀の基本。皇帝陛下の御前で、どうして
無様を見せましょうか?﹂
﹁ほう?なら聞こう、ゼノスよ。ここにお前に剣を向ける騎士達が
いる。さあ、お前はどうする?﹂
心理に問いかけるような物言いに、ゼノスは怖じけ付かない。
ありのままを言おう。そう︱︱まるで、
死守戦争前に言い放った︱︱あの言葉のように。
﹁︱︱罪なき者を斬るつもりはありません﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮そうか﹂
261
リカルドはつまらなさそうに呟く。
既にゼノスへと興味を失った彼は、始祖へと歩み寄る。花畑と石
畳の境に立ち、そこから始祖へと手を差し伸べる。
﹁嗚呼⋮⋮我が娘よ。すまないな、怖がらせてしまったか。何もさ
れてはいないだろうな?﹂
︱︱娘?
リカルドは一体何を言っているのか。始祖は決して人の親から生
まれた存在ではない。
始祖はリカルドをジッと見つめ、ただ沈黙する。
﹁どうした?父にその声を聞かせてくれ。もうずっと喋っていない
じゃないか。⋮⋮頼むから、またあの元気なお前を見たいのだ﹂ どう言い掛けても、始祖が口を開く事はなかった。ゼノスから見
れば、始祖の表情に若干の悲壮と哀れみが垣間見える。
262
何度も語り掛けるリカルドであったが、諦めたのか、やがて自分
から始祖へと離れていく。
その表情は何とも悲しげで、いつもの威厳は全く感じられない。
﹁︱︱そうだな、この場に知らぬ者がいれば話す事も出来まい﹂
マントを翻し、リカルドは部屋の出口へと歩んでいく。
その際に、臨戦態勢となっている騎士達に言い放った。
﹁⋮⋮ランドリオの騎士達よ。この不法侵入者を牢屋に閉じ込めよ﹂
リカルドの有無を言わせない命令に従い、騎士達は即座にゼノス
の周りを取り囲み、彼を拘束した。
この程度の包囲と束縛なら抜け出すのも容易いが、ゼノスはあえ
て抵抗しようとはしなかった。ここで抗っても意味はないし、始祖
のいる手前、下手な行動は禁物である。
263
﹁ぬうっ!こ、小僧﹂
﹁⋮⋮﹂
アルバートの苦悶に溢れた声と、リカルドの狂気めいた視線を背
に、ゼノスは騎士に連行された。
﹁⋮⋮またね、騎士様。いつでも待ってるから﹂
代わり映えのない始祖の口調が耳に入る。︱︱まるで、また再会
できることが分かりきっているかのように。
様々な思いを孕んだ視線を受け、ゼノスは牢屋へと連れて行かれ
た。
264
265
ep17 牢屋にて︵改稿版︶
地下から上がり、地上へ出たかと思えばまた地下へと降りる。
騎士たちによって強制的に連れて行かれ、ゼノスは広大な地下牢
屋へと送られることになった。
中央には大きな空洞が裂かれ、取り囲むように牢屋が幾多にも存
在する。螺旋階段を降りる時、そこには手すりも何もないので肝が
冷えるようだ。
途中、囚人たちのいる牢屋もちらほらと窺える。
牢屋はおよそ五、六人ほどを収容できるよう作られており、冷た
い石造りの床と壁で構成されている。そこにありとあらゆる人間が
閉じ込められている。
盗みを働いたであろう小汚い浮浪人、何の罪もなく捕まった町人、
不貞の罪に問われた貴婦人などなど、色々な階級の人間が存在する。
266
⋮⋮中には、拷問を受けたであろうほぼ裸の男女もいる。
そういった者達は、執拗にゼノスへと助けを求めてくる。格子の
隙間から手を出し、何でもしますから、お願いですからと︱︱。
﹁うるせえぞ囚人共!罪人の分際でよくそんな戯言を吐けるな!そ
れ以上騒ぐなら、皇帝陛下に直訴して処刑してやってもいいんだぞ
!?﹂
ゼノスを連れている騎士がそう叫ぶと、囚人は途端に大人しくな
る。
なるほど、やはりそういうことか。こういった拷問も、あのリカ
ルドが積極的に推進しているのだろう。
﹁︱︱おら、お前もとっとと歩け。こっちは暇じゃねえんだからよ﹂
﹁⋮⋮あーはいはい﹂
怠そうに返事をしながら、ゼノスはまた螺旋階段を下りて行く。
267
ちなみにこの騎士、他の騎士とは違い緑色のマントを身に着けて
いる。これは貴族側が採用したランドリオ騎士であり、いわゆる非
正規のランドリオ騎士である。正規はもちろんランドリオ騎士団が
採用した騎士のことを言うが、両者の仕事は殆ど変らない。
ただ貴族派の騎士は傍若無人な者が多く、しばしば問題を起こす
連中だ。
この粗野な態度も、まさに貴族派の騎士らしい。
しばらく歩くと、ようやく自分の入る牢屋の前へとやって来た。
連れて来た騎士はにやけながら、牢屋のカギを開ける。
﹁さあ入りな。一人先客がいるから、せいぜい仲良くするんだな﹂
ゼノスを収容し、また鍵を閉めた騎士は嫌みたらしく言い残し、
その場を去っていく。
もう一人の先客ねえ。
ゼノスは興味なさげにそう思いつつ、入口付近の床へと腰を下ろ
268
す。床は固く、そして居心地が悪い。更に照明が牢屋外の蝋燭だけ
ということもあり、自然と不安感を呼び起こさせる。
けど、流石にそれだけで不安を得ることはない。
今は不安というよりも⋮⋮驚きに満ちている。
﹁⋮⋮おいおい、何であんたがいるんだよ﹂
﹁︱︱貴方は﹂
暗い牢屋の奥に、その騎士姿の少女は座っていた。
少女とはもちろん︱︱ゲルマニアだ。もう二度と会う事はないと
思っていたが、まさかまた出会う事になるとは。 彼女は両膝を抱き、途方に暮れている。こちらを見つめる瞳も虚
ろで、まるで数か月も監禁されているかのようだ。とても昨日のゲ
ルマニアとは思えない。
⋮⋮ゲルマニアは何かを言おうとするが、また口を紡いでしまう。
269
恐らくここに来た理由を聞きたかったのだろう。それはこちらも
同じだが、まずはこちらから言うことにしよう。
﹁ちょっと立ち入り禁止の所に入っちゃってな。どうにも皇帝陛下
の怒りを買ったらしくて、こうして牢屋行きだよ。⋮⋮ゲルマニア
はどうしてここに?﹂
﹁⋮⋮私は独断行動を咎められ、牢屋に入れられたのです。ほら、
貴方と一緒にシールカードを追った時の⋮⋮﹂
﹁ああ、一週間前のか﹂
﹁はい。ですが当然のことだと思います。単独での行動は無謀だと
分かっていましたし、軽率だと言われるのも仕方ないことですから﹂
沈みがちなまま、ゲルマニアははっきりとそう述べる。
騎士団側から言わせれば、確かにその行動は軽率だっただろう。
シールカードとの戦いは危険を伴うし、最悪の場合は住民をも巻き
込む。
彼等の立場からすれば至極当然な処罰であり、頑なに非難するこ
270
とはできない。
︱︱だが、ゼノスは全てが間違っているとは思えない。
﹁⋮⋮まあでも、そこまで落ち込むことはないんじゃないか?規範
を守るのも大事だが、俺達は主君と国民を守る為に騎士をやってる
んだ。あそこで俺達が止めなければ、あいつらは暴走していたかも
しれない。違うか?﹂
﹁⋮⋮ええ、まあ﹂
ゲルマニアは絞り出すように答える。
﹁なら気にすることはない、それを貫いて見せろ。騎士は正義を実
行してこそ価値を宿す。ただ主君に媚びへつらうのではなく、刃を
振るってその戦果を捧げるんだ。︱︱少なくとも、俺達はそうして
きた﹂
現実味を帯びたその言葉に、ゲルマニアは呆気にとられた。彼か
ら伝わる言葉の重みを理解し、しばし脳内に反芻させていた。
それは騎士団の規範には存在しない。
271
だが、何となく真理を得ているように感じる。
こうした言葉は、数々の修羅場を潜り抜けた騎士にしか語れない。
ゲルマニアはそう確信し、同時にある思いが込みあがってくる。
見た目とは裏腹に、歴戦の騎士の風格を漂わせるこの青年に向け
て︱︱。
﹁⋮⋮⋮⋮貴方はもしや﹂
いやそんなはずはない。彼がここにいるはずがない。
︱︱けど、どうしても想像してしまう。
もしやゼノスこそが⋮⋮。
﹁︱︱なんて、白銀の聖騎士ならそう言いそうだよなあ﹂
﹁⋮⋮え?﹂
272
急に声のトーンを変えられ、ゲルマニアはつい間抜けな声を出し
てしまった。
そんなゲルマニアに苦笑し、ゼノスはおもむろに床へと寝転がる。
﹁悪いな、ちょっと奴の真似をしてみたんだ。⋮⋮俺はこれから一
寝入りするんで、ゲルマニアも今のうちに寝とくんだな﹂
ゼノスは意味深めいた言葉を言い残すが、言われたゲルマニアは
意にも介さない。
﹁む、むぐぐ⋮⋮⋮⋮ゼ、ゼノス殿!!こら寝ないでください!ち
ゃんと反省しなさいーーーーい!!﹂
喧しいゲルマニアは放っておいて、ゼノスは目を閉じる。どうや
ら憧れの騎士の真似をされて怒っているらしいが⋮⋮よもやその騎
士がゼノスだとは思うまい。
どこか悪戯っぽく笑み、ゼノスは段々と意識の底へと沈んでいく。
︱︱そして微かな頭痛を感じた。
273
⋮⋮こんな時は大抵、嫌な夢しか見れない。
特に、あの夢をだ。
274
ep18 英雄の夢︵改稿版︶︵前書き︶
275
ep18 英雄の夢︵改稿版︶
ゼノスは当時の夢を見ていた。
当時とは言うまでもなく、白銀の聖騎士として名を馳せていた頃
である。
白銀の甲冑を纏い、紅蓮のマントをなびかせ、愛剣リベルタスと
共に戦場を駆け巡る。その武勇伝は吟遊詩人によって語り継がれ、
凱旋の際にはいつも多くの国民の歓迎を受けていた。
ゼノスが夢見た時代は、亡霊王を倒して帰還したときである。
ネリフェン大陸にある、千年前に滅びたとされる古都アグネイア
ス。その古城に居座る初代国王の亡霊を打ち倒してきたのが、今回
の夢の始まりである。亡霊は覇王とも呼ばれ、数百年間誰も倒せな
かった化け物を、ゼノスは難なく倒して来たのだ。
ランドリオに帰れば、聖騎士という英雄は拍手喝采を浴びる。多
276
くの男達の憧れとなり、多くの女性達を虜にし、そして多くの子供
達に希望を与えた。
︱︱白銀の聖騎士に敗北はない
巷ではそう謳われ、実際ゼノスが負ける事はなかった。
⋮⋮負けることを、許されなかった。
凱旋パレードを終え、聖騎士は騎士団宿舎へとやって来た。
入口の門を潜った途端、彼は多くの騎士団員に囲まれる。それは
いつもの事であり、流石の聖騎士も慣れた仕草であった。
﹁せ、聖騎士様!先の敵はどうでしたかっ?﹂
277
ふと、大群の中から見知った声音が聞こえている。
聖騎士は兜の中で微笑み、言葉を返す。
﹁⋮⋮中々手強い相手だったよ、リリス。亡霊というだけあって、
異様な執着心で俺の刃を受け続けていた。留守中は何もなかったか
?﹂
﹁え、ええ!何もありませんでしたわ!このリリス、貴方様の役に
立とうと努めてまいりました!﹂
聖騎士の横に立つ部下、リリスは満面の笑みで答えていた。歳は
彼女の方が上だが、まるで子どものようにはしゃいでいる。
そしてリリスに続くように、聖騎士の知り合い達が声をかけてく
る。聖騎士と同じ六大将軍、イルディエとラインである。
イルディエは不敵にはにかみ、聖騎士の脇腹を小突いてくる。
﹁流石ね、ゼノ⋮⋮っと、今は聖騎士だったわね。また伝説を作る
なんて、私もうかうかしてられないわね﹂
278
﹁謙遜するなよイルディエ。﹃不死の女王﹄の伝説も沢山あるだろ
うに﹂
不死の女王とはイルディエの異名である。所以は話すと長くなる
が、彼女もまた聖騎士に匹敵する力を有している。知らない人はい
ない、まさに英雄の一人だ。
彼女の称賛が終わると、今度はラインが近寄ってくる。
﹁いやあ、流石は聖騎士だね。⋮⋮てか、こんな時くらい兜を外し
たらどうだい?今日は心なしか暑いよ﹂
ラインは苦笑しながら言ってくる。
﹁⋮⋮いや、脱ぐ気はない。この場にいる以上、騎士としての体裁
があるからな﹂
これもまたいつもの流れだ。彼が茶化すように言ってきて、ゼノ
スが困ったように返事を返す。長年の友人としての会話でもある。
こうして彼ら以外にも人は沢山やって来て、聖騎士と話をしよう
と集ってくる。皆が彼を慕い、彼にアピールしようと様々な話をし
279
てくる。
︱︱が、それもある人物の来訪によって終わる。
宿舎に響くヒールの音が聞こえると、騎士達は一斉に散り散りと
なり、その音の方へとかしづく。
甲高いヒールの音色を響かせるのは、一人の少女。
この国の皇女であり、絶世の美姫としても讃えられている︱︱ア
リーチェであった。彼女はゼノスに向けて軽く手を振り、緩やかな
足取りで近付いてくる。
周りの人間はもちろん、聖騎士もその美しさに見惚れていた。 ﹁︱︱聖騎士様、よく帰って来てくれました。お怪我はありません
でしたか?﹂
﹁ええ、この通り無事でございます。アリーチェ様もお変わりない
ようで何よりです﹂
﹁はい、私もまた元気ですよ。先日は街中を視察したほどですから﹂
280
その麗しい見た目とは裏腹に、快活な調子で応えてくるアリーチ
ェ。天真爛漫な皇女殿下を、一同は和やかに見守っていた。
⋮⋮だがふいに、彼女は寂しそうな瞳を向けてくる。
アリーチェは更に聖騎士へと接近し、白銀色に染まった兜へと手
を当ててくる。まるで欲するものに触れられないかの如く、名残惜
しそうに撫でる。
﹁⋮⋮この兜は、どうしても外せないのですね。直に見て、本当の
貴方と向き合って話したいのですが⋮⋮﹂
とっさの一言に、聖騎士は即答できなかった。
他の者ならはっきりと断れる。だが最も敬愛し、絶対に従う誓っ
たこの姫に言われると、流石にきっぱりとは断れない。
こんなことは、初めてであった。
﹁そ、それは﹂
281
申し訳ない、そう答える寸前︱︱
﹁いえ⋮⋮忘れてください⋮⋮。嫌だと分かっているのに、こんな
事を言ってしまいごめんなさい⋮﹂
アリーチェは申し訳なさそうに謝ってくる。
しばらくは何も発してこなかった。何故だか周囲も静まり返り、
辺りは異様な雰囲気に包まれる。最初こそ違和感はなかったが、や
がてそれが異常だと言うことに気付く。
兜の中で眉をひそめ、聖騎士は周囲を見渡す。
ここには多くの人間がいるのに、誰一人として言葉を発さない。
その代わり彼等はゼノスへと冷ややかな視線を向け⋮⋮にやにやと
微笑んでくる。
﹁み、みんな⋮⋮?ア、アリーチェ様、皆の様子が﹂
と、彼女の顔を見た時、聖騎士は更なる驚きに晒される。
282
悲しそうに俯き、所在なげに佇んでいたアリーチェもまた︱︱
︱︱静かに嘲笑していた。
﹃ふふ、ごめんなさい聖騎士様。あまりにも貴方が情けなく見えた
ので、ついつい笑ってしまいました﹄
アリーチェは見下すようにゼノスを見据え、吐き捨てるように呟
く。彼女の声ではあるが、まるで別人が話しているかのようだ。
ゼノスは震えが止まらず、一歩退く。
だがそれに呼応するように、彼女はまた一歩近づく。
﹃騎士としての体裁?よくもまあそう言えますね。⋮⋮理由はこう
でしょう?もし万が一、自分が敗北したら⋮⋮ああ怖い。顔を晒し
たら一生非難され続ける。だから兜で隠そう。そうすれば、逃れる
ことができると﹄
﹁や、やめろ⋮⋮違う﹂
283
すると、今度は横から手が伸びてくる。
細い手がゼノスの腕を掴み、その張本人︱︱イルディエもまた蔑
むように口ずさむ。
﹃なーにが違うのよ?臆病者。力はあるくせに、心はまるでガラス
のように脆いわね。六大将軍の恥さらし、人々の非難が怖くて逃げ
た弱者。⋮⋮私達は一生、ゼノスを軽蔑するわ﹄
﹁イ、イルディエ⋮⋮?﹂
違う、違うと心中で唱えるゼノス。
そこに、ラインの侮蔑が加わる。
﹃さあ皆、これで分かったよねえ?こいつが兜を脱がない理由をさ。
全く呆れちゃうよねえ。⋮⋮言っておやりよ、弱者は出て行けって﹄
ラインがそう言うと、周囲の騎士たちは一斉に声を張り上げる。
﹃出て行け腰抜け!﹄
284
﹃あんたにはがっかりだよ!弱虫が!﹄
﹃騎士の風上にも置けない奴め!﹄
怒りと怨嗟の念を込めて、彼等は聖騎士を非難する。
ゼノスが恐れていたこと、それは親しい存在に裏切られることだ。
永遠に続く罵倒の声。遂にゼノスは膝をつき、兜を脱ぎ捨てる。
そして耳に両手を当て、聞こえないよう完全にふさぐ。
しかしそれでも聞こえる。何故ならここは夢だから。
今度は脳裏に響いてくる。さきほどの罵声が、まるで悪魔のささ
やきのようにループする。
嫌だ、助けてくれ。
確かに自分は、皆が思っているような英雄じゃない。本当は弱い
んだ。だから︱︱もう!!
285
﹃だから言ったでしょう?貴方が剣を振るう事、それは災厄の始ま
りだという事を。︱︱相応の覚悟がなければ、こうなるんだよ﹄
最後の言葉は、ここにいる誰のものでもない。だが妙にはっきり
と聞こえ、吸い込んだ空気のように脳内へと浸透していく。
それを期に、ゼノスの意識は悪夢から解放されていく。
286
ep19 ゼノスの歩む道︵改稿版︶
﹁⋮⋮ッ﹂
予想通りの最悪な目覚めをしたゼノスは、何かに弾かれるように
して起き上がる。
首筋にはびっしりと汗が張り付き、服もすっかり汗で濡れている。
さらに呼吸も乱れており、静謐な空間にゼノスの苦しそうな息遣い
が木霊する。
⋮⋮原因はもちろん、さきほどの悪夢だ。
最悪なことに、あの夢は一ヶ月に一度は見る。その度にうなされ、
夜中にも関わらず声を上げて飛び起きたりもすることもあった。た
まにラインやロザリーに心配され、朝まで付き添ってくれた経験も
ある。
あれはまさに、ゼノスの本性を映し出したものである。
287
白銀の聖騎士として最強を謳い、何者をも恐れない英雄として君
臨する反面、ゼノスは一生懸命自分の弱い部分を隠し続けていた。
自分の素性や顔を隠していたのも、まさしくそこから来るものであ
った。不便な生活を強いられてきたが、自分の弱さを露見するより
はマシだと思っていた。
︱︱全く以て情けないな。
﹁⋮⋮ゼノス殿、大丈夫ですか?﹂
ふと、同じ牢屋の奥から声が聞こえてくる。
声の主はもちろんゲルマニアであり、彼女は膝の上に添えられた
食事に手を付けていた。食事とは言っても、ここは牢獄の中だ。固
いジャガイモの入ったスープであり、それは湯気さえも立っていな
い。まだ隣の牢屋でスープが配膳されている所を見ると、これはた
った今運ばれたものらしい。
ゼノスの傍にもスープがあるが、今は口にする気も起きない。
深く溜息を吐き、頭を掻きながら口を開く。
288
﹁ゲルマニア、俺はどのくらい寝てたんだ?﹂
そう言うと、ゲルマニアは少々唸りながら考え始める。先程とは
打って変わり、ゲルマニアの調子は既に戻っているようだ。表情も
凛としていて、言葉にも覇気が宿っている。
少し考えた後、彼女はおぼつかない感じで答える。
﹁えっと、四時間ぐらいは。今は時計も持っていないので、断言は
できませんが﹂
﹁四時間か⋮⋮。なら、まだ何とかなりそうだな﹂
﹁⋮⋮?一体どうしたのですか。何かあるのですか?﹂
そう問われ、ゼノスはしまったという風にこめかみを抑える。
そういえばまだ知らせていない。盗賊のシールカードを束ねる諸
悪の根源が、あのマルスだということを。そして彼はこの城の円卓
の間に罠をしかけ、この帝国に災厄を巻き起こそうとしていること
もだ。
289
どう伝えればいいものか。あれほど彼を信頼していた分、この事
実を知ればきっと悲しむことだろう。だからといって伝えないとい
う手段も好ましくない。
ゼノスがこうして踏み止まる一方、ゲルマニアは何かを察した。
それが何を意味するのか、気持ちの整理がついたことである程度
は理解出来た。ゼノスのことはまだよく分からないが、きっと自分
に対して言いづらい事実を話そうとしているのだろう。
なら、自分から切り出そう。
彼女はそう決意し、ゼノスが言わんとしていることを先に言う。
﹁⋮⋮マルスが何かをしようとしているのですね。シールカードと
手を組んで、この国を転覆させようと﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ああ﹂
ゼノスはただ一言、簡潔に答える。
その後、彼はゲルマニアに自分の知っている真実を告げた。マル
290
スが盗賊のギャンブラーとして君臨しており、この城に罠を仕掛け
たということを。今でこそ活発的ではないが、いずれ大きな危機が
やってくるであろうことも。
その為にも、ゼノスは一刻も早くその罠とやらを解除しなければ
ならない。始祖の言う通りならば、早急に済ませなければならない
のだ。
それが今の⋮⋮ゼノスの意思だ。
話を聞き終えると、ゲルマニアは思いのほか冷静であった。
大体予想できていたのか、彼女に絶望の色は見受けられない。し
かし相当落ち込んでいることは確かであり、あえて言う事ではない
だろう。
しばらくして、ゲルマニアははっきりと言う。
﹁︱︱ゼノス殿、私も手伝わせて下さい。彼は何か理由があって行
動を起こしているのでしょう。その理由を知るためにも、共に戦わ
せてほしいのです。もちろんやむを得ない場合は⋮⋮彼を成敗しま
すから﹂
291
﹁⋮⋮好きにしろよ。俺に拒絶する権利はないからな﹂
そう言って、ゼノスはまたその場に寝転がる。脱出する機会があ
れば行動に移すが、今はまだその機会ではない。奴等に動きがある
か、はたまた騎士団の警備が手薄になるまで待つ必要がある。
とりあえずは休む。これは怠惰な気持ちから出たものではなく、
正真正銘、戦前の小休止というやつだ。
ゼノスは何も言わないまま、静かに時を待つ。
⋮⋮十分、いや二十分が経過したころだろうか。
おもむろに、ゲルマニアが尋ねてくる。
﹁そういえば、ゼノス殿は何をうなされていたのですか?もしかし
て、昔あった嫌な出来事を思い出したとか?﹂
﹁⋮⋮まあそんなところだよ。内容は教えたくない﹂
嫌な話を振られ、ゼノスは早々に話を終わらせるような答えをす
る。
292
だが彼女も頑固であり、後ろで唸りを上げながら続ける。
﹁何も言わないというのは酷いです⋮⋮。これでも私はランドリオ
の騎士です。困っている者がいれば放ってはおけません﹂
﹁⋮⋮はあ。何であんたに話す必要がある?﹂
﹁今言ったでしょう、困っている者がいれば放ってはおけないから
です。漠然的でも結構ですので、話してみて下さい﹂
﹁∼∼ッ﹂
段々と苛立ちが募るが、今ここで腹を立てても仕方ない。
⋮⋮だが、こう言ってくれる人間は初めてだ。
ロザリーやラインは悪夢のことを知っているが、その内容を聞こ
うとはしなかった。
きっと、このお節介は彼女の性格から来るものなのだろう。純粋
293
な正義感から来るそれである。
⋮⋮不思議な奴だ。
苛立ちから一転、ゼノスは自然と親身な気持ちを抱き始める。彼
女に対する警戒が解け、このか弱い本音を曝け出してもいいと、そ
う思うようになった。
しばらく間を置いた後、ついに打ち明けることにした。
﹁⋮⋮迷ってるんだ、今の俺は﹂
ゲルマニアは若干首を傾げる。
﹁迷っている?﹂
﹁ああ。数年前、俺は皆の期待を背負って戦い、最後にはその期待
を裏切ったんだ。⋮⋮また皆のために戦いたい。けどまた期待を裏
切って、非難を浴びるのは怖い。踏ん切りがつかないんだよ⋮⋮今
の俺は﹂
涙を堪えながら、ゼノスはそう漏らす。
294
これが今の気持ち。戦いたいと思う反面、期待を裏切った時の非
難が怖い。
心の弱い英雄が言い放つ、初めての本音であった。
﹁⋮⋮貴方は独りで戦ってきたのですか?﹂
﹁そうだ。孤独の世界で、ずっと、ずっと戦ってきたよ﹂
白銀の聖騎士は仲間いない戦場を駆け巡って来た。それは六大将
軍全員に共通していることだが、特に聖騎士は特別な部隊も組織も
作っていなかった。
故に、いつも孤独だったのだ。
﹁なら話は簡単です。︱︱今の貴方には、同じ戦場に立てる仲間が
必要です。そうすればその苦しみも、きっとなくなるでしょう﹂
﹁⋮⋮仲間を?﹂
295
﹁はい。例え自分が過ちを犯し、人々から非難されたとしても⋮⋮
変わらず支えてくれる仲間です﹂
正直、考えたことがなかった。
その提案は新鮮で、心の奥底で何かがざわめいた。
﹁︱︱もし宜しければ、私が貴方を支えてあげます。心も体も⋮⋮
その全てを﹂
⋮⋮⋮⋮え。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
あまりにも突然で、ゼノスは素っ頓狂な声を上げる。
﹁き、急に何を言い出すんだ!?﹂
296
﹁⋮⋮た、確かに言葉にするのは急でしたが、心では既に誓ってお
りました。それに⋮⋮その⋮⋮⋮⋮嬉しかったのです﹂
﹁嬉しい?﹂
ゲルマニアは頬を染めながら、﹁はい﹂と言う。
﹁私にもよく分かりませんが、何故だか嬉しかったのです。まるで
認めてくれたようで、私は貴方に頼られているんだと思って⋮⋮。
そ、それに!貴方には私というシールカードを持つ素質があるよう
にも思えるのです。もし私が貴方のものになれば⋮⋮⋮⋮一緒に戦
えると⋮⋮⋮う、うう﹂
段々自分の言っている言葉が恥ずかしくなって来たのか、顔を真
っ赤に紅潮させ、最後は消え入るように小さく呻く。
実際、言われたゼノスも恥ずかしくてしょうがない。
これではまるで、新手の逆ナンパというやつだ。
﹁あ、あの⋮⋮あのこれは!これは恋愛的な意味じゃないですから
ね!ええ決して!ここ、これは騎士としてという意味であって、そ
ういう意味じゃないですからね!?﹂
297
﹁わ、分かった分かった﹂
目を白黒させながら必死に否定するゲルマニア。真面目な性格だ
からか、こういった話には慣れていないのだろう。⋮⋮ゼノスも同
様だが。
とても有り難い話ではあるが、現実問題、そう上手くいくのだろ
うか。
ゼノス自身もそれを望んでいるし、ゲルマニアという仲間が支え
てくれれば⋮⋮どんな非難も受け入れることが出来るかもしれない。
彼女だけでなく、ロザリーやラインも仲間だ。彼等が一緒ならば、
どんな困難をも乗り越えられる。
けどゲルマニアはランドリオ騎士団の騎士である。そもそもこの
一件が終わってしまえば、ゼノス達シルヴェリア騎士団はまた放浪
の旅に出てしまう。金輪際、彼女とは再会しない可能性もある。
︱︱いや、本当にそうなのか?
もしかしたら、自分と彼女はこれからも付き合っていくのではな
いだろうか。
298
⋮⋮分からないけど、そんな気がしてならないのだ。
と、有らぬ幻想に耽っていたその時だった。
地上から慌ただしい叫び声が聞こえてきた。
騎士たちの怒号と断末魔が牢獄にまで轟き、微かな地響きまで生
じる。牢獄にいる囚人たちもざわめき始め、地上の異常事態を察知
する。
ああ⋮⋮間に合わなかったか。
これはきっと、奴等シールカードとマルスの仕業だ。
﹁⋮⋮ゼノス殿、どうします?﹂
299
ゲルマニアも同じ考えに至ったのか、神妙な面持ちで尋ねてくる。
﹁早々に脱出した方が良さそうですが、これでは出られそうにない
ですし⋮⋮﹂
見た所、この格子はとても頑丈に作られている。牢屋だから当然で
はあるが、並大抵の力ではビクともしないだろう。
ゼノスは立ち上がり、改めて格子に触れてみる。
⋮⋮これならいけそうか。
﹁ゲルマニア下がってろ。ここは俺に任せな﹂
﹁任せるって︱︱︱︱ッ﹂
彼女が疑問を口走るより先に、甲高い悲鳴のような金属音が鳴り
響く。鼓膜が破れるほど大きく、ゲルマニアは即座に耳を抑える。
音の発生源は格子からであり、生みだした張本人はゼノス・ディ
ルガーナである。
300
彼は格子に向けて手刀を放ち︱︱横に亀裂を走らせたのだ。
﹁なっ⋮⋮!!え!?﹂
訳も分からないまま、格子は細切れとなって四散する。
有り得ない、普通なら考えられない結果だ。どんな達人でも、斬
鉄する時は必ず得物を使用するはずである。しかもその場合におい
ても高度な技術を要求され、ランドリオ騎士団内でも実現可能な者
はごく少数だと思う。
それをこの青年は、手刀だけでこなしてみせたのだ。
﹁⋮⋮す、凄い﹂
こんな技術、ゲルマニアは今まで見たこともない。
ゲルマニアは尊敬し、彼の異質さに高揚を感じていた。かつて聖
騎士に抱いていた気持ちと同じ⋮⋮熱い想いが込みあがってくる。
偶然なのだろう、とは決め付けられない。
301
﹁何してんだ、ゲルマニア。早く地上に出よう。幸い、見張りの兵
士は牢獄にいないみたいだ﹂
﹁あ、はい!⋮⋮分かりました﹂
ゲルマニアはそそくさと立ち上がり、パンパンと服に付着した埃
を払う。
⋮⋮大人しく付いて行こうと、ゲルマニアは密かに決意した。
今日この時において、何かが変わるのだろうと期待を胸に︱︱。
ゼノス達は戦いの舞台へと赴く。
302
地下の花園に座る始祖は、相も変わらず微動だにしない。
瞳を閉じ、祈るように胸に手を置く。天井からの光に照らされる
彼女は、とても災厄の対象とは思えない。現世に迷い込んだ天使の
ようであった。
彼女はぶつぶつと何かを呟いている。
﹁⋮⋮マルス、貴方はとんでもない罠をしかけたんだね﹂
これは誰でもない、単なる独り言。
しかし、まるで語り掛けるように言葉を紡ぐ。
﹁︱︱ゼノス駄目。今の貴方じゃ、彼には敵わないよ﹂
303
始祖は苦しそうに言う。
そして彼女は、ある行動に出ることを決意した。
304
ep20 シールカードの強襲︵改稿版︶
時を同じくして、ハルディロイ城はシールカードの奇襲を受けて
いた。
華やかに彩られた中庭も血塗れの海と化し、無残にもランドリオ
騎士達が絶命している。上手く急所をつかれており、一瞬の苦痛も
ない内に殺されたのは言うまでもない。
様々な場所で戦闘が繰り広げられているが、状況はランドリオ騎
士側の方が不利である。小細工なしの白兵戦を得意とする彼等にと
って、暗殺とだまし討ちを生業とする盗賊とは相性が悪い。防戦一
方の状態であり、このままではまずい。
そんな危険地帯と化した城内へと、シルヴェリア騎士団は急行し
てきた。
彼等は今、城門を過ぎた先の庭園へと足を踏み入れている。既に
中庭同様、ここも凄惨な光景に満ちていた。
305
﹁⋮⋮やはりシールカードの仕業か。くそっ、遅かったか﹂
ニルヴァーナは事前に阻止出来なかったことを悔やみ、歯軋りを
立てる。
﹁仕方ないよ団長、流石にこれは急過ぎたし⋮⋮。今はとにかく、
騎士団の応援に向かおうよ﹂
ラインにそう諭され、ニルヴァーナは深く頷く。そう、今は戸惑
っている場合じゃない。一刻も早く、奴等を始祖に近づけさせない
よう努めるしかないのだ。
ニルヴァーナは腰に差していた紅蓮の長剣を引き抜き、少人数の
シルヴェリア騎士団に号令をかける。
﹁︱︱皆、敵はハルディロイ城にあり!今より作戦を開始する!総
員、シールカードを討て!!﹂
﹃おうッ!!﹄
騎士団員はそれぞれの武器を手に取り、鬼気迫る勢いでダッシュ
する。
306
第一の目的はリカルド皇帝とアリーチェ皇女の身の安全の確保。
その次にシールカード勢力の殲滅を行うつもりである。とても大雑
把な作戦内容だが、この状況下では綿密なプランを作ることは出来
ない。ここは臨機応変に対応していかなければ︱︱。
﹁敵はそういないはずだが、個人の戦闘能力は極めて高い。まとま
った状態で各個撃破し、玉座の間へと向かうぞ!!﹂
﹁ならこのまま、全員で正門を突破した方が宜しくて?﹂
﹁リリスの言う通りだ。行くぞ、シルヴェリアの騎士達!!﹂
勢いを崩さないまま、騎士団は正門を抜け、エントランスへと突
入する。ここも酷い有様であるが、まだ全滅はしていないようだ。
生き残りの騎士達が激しく敵とぶつかり合い、何とか皇族の生活区
に通じる大回廊を死守している。
だが、やはりこちらも騎士団側の方が劣勢である。
ニルヴァーナもそれをすぐに理解し、自らが先陣を切る。
307
床を蹴って更に速度を早め、激戦区となっているエントランス中
央の階段へと向かう。時折、敵の飛び道具が飛来してくるが、ニル
ヴァーナは難なく叩き落としていく。
敵の盗賊たちが彼の存在に気付くと、その身軽さを用いて躍り出
てくる。
﹃死ねやあああっ、人間めえええっっ!﹄
﹃今までの屈辱、苦しみを倍にして返してやるっ﹄
狂気を孕んだ憎悪の雄叫びを放ち、シールカード達が容赦なくニ
ルヴァーナを殺しに掛かる。身体の周囲には緑色の粒子が付着し、
彼等の戦闘力を高める。
⋮⋮なるほど、噂に違わずといったところか。
ニルヴァーナは異様とも言える強敵を前に、ただ冷静に分析してい
た。
︱︱結果、予想内だという結論に落ち着く。
308
これならば、自分でも対処できそうだ。
﹁甘いな、盗賊のシールカード達よ。このニルヴァーナ⋮⋮貴様ら
よりは格上だぞ?﹂
彼は余裕の笑みを浮かべ、紅蓮の剣を振りかぶる。
剣先を天に掲げたと同時、とぐろを巻くように豪炎が剣の刃先全
体を包み込む。やがて炎は強さを増し、ニルヴァーナが通った道に
は火線が残る。
彼等とすれ違う瞬間︱︱ニルヴァーナは剣を横に一閃させた。
敵に直接刃を入れたわけではない。しかし、振り際に生じた爆炎
が敵へと襲い掛かる。悲鳴など上げさせないし、死の感触さえ与え
ない。彼の炎は、敵を一瞬で塵にさせた。
紅蓮の剣︱︱﹃シルヴェリア﹄。竜の能力を宿した剣でもあり⋮
⋮亡き恋人が遺した、形見でもある。
この剣によって、ニルヴァーナは人智を超えた敵と幾度も渡り合
えることが出来たのだ。シールカードだからと言って、全く通用し
309
ないわけではない。いやむしろ、圧倒さえ出来る。
六大将軍の一人である﹃不死の女王﹄の獄炎には到底及ばないが、
彼の炎もまた常軌を逸している。
﹃な、何だこいつ⋮⋮﹄
﹃聞いてねえぞ!まだこんな奴がいるなんて⋮⋮⋮⋮って、ぎゃあ
ッ!!﹄
敵のシールカードが戦々恐々とするタイミングを見計らい、その
怯えた面にクナイを突き刺した人物がいた。︱︱ラインである。
彼は軽く欠伸をしながら呟く。
﹁全く、随分と呑気じゃないか。団長以外にも、ここには君達より
格上が沢山いるよ?﹂
そう言い終えると、ラインは手に持っていたクナイを今度は心臓
に向けて投擲する。シールカードとはいえ、元は人間であった者達
だ。弱点も同じであり、そこを突けば一瞬にして絶命する。
彼だけでなく、他の団員も圧倒的な力を以てしてシールカードを
310
討伐する。
リリス、サナギ、ロザリー、彼女達もまた卓越した力でねじ伏せ
ていく。ニルヴァーナやラインほどではないが、それでも十分な戦
力となっている。他の団員たちも同様であり、流石はシルヴェリア
騎士団といったところだろう。
︱︱だが、やはり油断は禁物だ。
﹁!サナギ、後ろ!﹂
ニルヴァーナが何かに気付き、サナギに対して注意を呼び掛ける。
が、既に遅かった。
彼女の背後で倒れていた敵が、突如起き始めたのだ。自我はなく、
身体の周囲には粒子が纏わり付いている。それは他の連中より色濃
く、その異様な力によって突き動かされているのかもしれない。
︱︱危険。
その場にいる全員がそう悟った瞬間、敵のシールカードは霧とな
311
って霧散し、霧は数本のナイフへと姿を変えていく。
刃先をサナギの背中へと合わせ、ナイフが一直線に放たれる。
﹁ちっ⋮⋮!!﹂
サナギは状況を理解し、すぐさま振り返ろうとするが︱︱間に合
わない。
利き腕にナイフ二本が突き刺さり、ナイフ一本が脇腹を抉ってい
く。ナイフのくせにその威力は計り知れず、脇腹の肉が近辺へと飛
び散った。
﹁が⋮はッ﹂
あまりの激痛に、サナギはその場へと崩れ落ちる。出血の量も凄
まじく、こんな深手を負うのは想定外だった。
ニルヴァーナは即座にサナギの介抱を命じ、更なる追撃に備える
が⋮⋮もう来ることはなかった。他の遺体は完全にその役目を終え、
また動き出す素振りも見られない。
312
⋮⋮だが、窮地はまだこれからであった。
﹁団長、エントランスの下の階を見てごらんよ。︱︱敵がわんさか
いる﹂
ラインの言葉に反応し、一同は下の階へと目を向ける。
若干名のランドリオ騎士を取り囲むように、先程より二倍以上は
いるシールカード達が包囲している。状況は最悪であり、このまま
では本当に全滅してしまう。
﹁ぐっ⋮⋮この量は流石に厳しいか﹂
ニルヴァーナはこの危機を脱する方法を考えた。少なくとも各個
撃破は非常に難しく、ここは一斉に処理できる方法を編み出した方
がいい。
そんな芸当を出来るのはニルヴァーナとラインだけであるが、ニ
ルヴァーナは既に紅蓮剣シルヴェリアの能力を使い果たしている。
あれは使用者の体力を奪い、もう一度使える自信はないのだ。
ラインもまた全員を処理できるほどの力を有しており、その潜在
能力は騎士団の中でもトップクラスである。
313
素性は全く知れず、時にその強さに対して畏怖すら覚えたことも
ある。そんな彼だが、ここで無闇に力を使う気はないらしい。
以前に彼が言っていたが、自分の持つ力は制御が効かないらしく、
気を抜けば関係のない者達をも巻き込んでしまうようだ。今もシー
ルカードの近くには騎士達がおり、もしかしたら一緒に殺してしま
うかもしれない。
それ故に、ニルヴァーナとラインは力を使えない。
﹁どうすれば︱︱﹂
と、彼が諦めかけた時だった。
ふいにリリスがニルヴァーナよりも前に出て、自らの持つ細身の
レイピアを構える。刃を自分の眼前へと差し出し、まるで王に忠誠
を誓う騎士のような恰好を作る。
﹁︱︱団長、ここは私にお任せ下さいな。このリリスが、奴等を一
斉に排除してみせますわ﹂
314
﹁⋮⋮出来るのか?﹂
ニルヴァーナが眉を顰めながら尋ねると、彼女は薄く笑んだ。
﹁正直これは賭けに近いです。⋮⋮だって私は、これから聖騎士流
剣術を使うのですから﹂
﹁リリスそれは⋮⋮﹂
ニルヴァーナは目を見開き、驚きの声を上げる。
彼だけでなく、シルヴェリア騎士団全員が驚きに包まれた。それ
も当然のことであり、聖騎士流剣術はこの世界でたった一人︱︱白
銀の聖騎士だけにしか扱えない至高の剣術である。
代々白銀の聖騎士は、自分の後継者である者にしか技術を継承し
ない。何故なら聖騎士流剣術は、並みの常人では基礎さえ会得する
ことも出来ず、精神的な圧力を受けて自我を崩壊してしまう可能性
もあるのだ。彼等のそのために、この技術を公にしないよう努めて
きた。
よって、聖騎士流剣術は白銀の聖騎士︱︱今ではゼノスにしか扱
えない。
315
リリスには使えないはずなのだが⋮⋮。
﹁⋮⋮﹂
一同が驚く一方、ニルヴァーナは聖騎士という単語に⋮⋮難しい
表情を浮かべていた。
彼の中にどのような感情が渦巻いているかは、この場の誰にも分
からないが。
﹁とにかく!今は急を要するのですわ!︱︱多くの人間の技を簒奪
したリリスの実力、今こそ示す時です!!﹂
彼女は近くの手すりを飛び越え、自ら敵陣の中へと飛び込んで行
く。
シールカード達がにじり寄るのも構わず、彼女はレイピアを天井
へと掲げ、一心に乞い願う。傍で何十回も見てきたあの技を、どう
かこの私にも、一瞬だけでもいいから使わせて下さいと。
︱︱瞬間、世界は光に包まれた。
316
彼女の願いが叶ったのか、はたまた偶然なのかは知らない。しか
し現に、彼女は聖騎士流剣術の模倣に成功した。
この凄まじいまでのオーラに、相手は恐怖へと堕ちていく。そう
なるのも無理はなく、聖騎士流剣術から放たれる力の源泉は、あの
神獣でさえも畏怖させる。
リリスはそんな弱腰の敵に対し、情けをかけるつもりはない。
光の世界でリリスは叫ぶ。
驚き戸惑うシールカード達に向けて、レイピアで空を刺突する。
その剣先から純白の羽が生まれ、光の中を駆け巡る。
英雄の奥義。
希望の象徴。
そして︱︱揺るぎない死の宣告。
317
ありとあらゆる化け物達にそう呼称された奥義が、今解き放たれ
る。
﹁︱︱聖騎士流奥義、﹃天啓﹄!!﹂
﹃︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱﹄
エントランス中の壁が重圧でひしめき、敵は舞い散る羽に呑みこ
まれる。
痛みなど有り得ない、ただ待ち受けるのは一瞬の死。それは生き
るべき者と死を受けるべき者を選定し、後者には抗いようのない黄
泉への旅立ちを送る。
︱︱さようなら、死すべき者。
リリスは心の中でそう呟き、彼等へと背を向ける。
彼女はここにおいて、正義を全うした。
318
﹃ぎゃあああああああッッ!﹄
﹃こんなのって、こんな事って⋮⋮っ!﹄
かろうじて奴等の無念の声が響き渡るが、それも衝撃の余波によ
って無残にも消えていく。一瞬にして、敵は消失していく。
塵も残さず、彼等がいたという証拠を跡形もなく消し去っていく。
もちろん、仲間であるランドリオ騎士は無傷であり、彼等は茫然と
立ち尽くしていた。
騎士団に被害を与えることなく、リリスはそれをこなしてみせた
のだ。
﹁︱︱ッ!う、ぁ⋮⋮!!﹂
﹁リ、リリス!﹂
途端、聖騎士流剣術で力を使い果たしたのか、リリスはその場へ
と崩れ落ちる。
319
急いでサナギがリリスの元へと近付く。ゆっくりと彼女を抱える
と、その顔が蒼白となっており、身体中が小刻みに震えていること
に気付く。
リリスはサナギに対し、自重にも似た笑みを浮かべる。
﹁ふ、ふふ⋮⋮やはり聖騎士様は凄いですわ。私なんて本来の一割
も効果を発揮できないし、一発放っただけで⋮⋮こうなるなんて﹂
﹁気にするなリリス、お前も凄いよ⋮⋮﹂
サナギはそう言うが、心の奥底ではこう思っていた。
今のが一割にも満たないのなら、聖騎士が駆使する聖騎士流剣術
は⋮⋮一体どれほどの威力があるのだろうかと。もしサナギが想像
するものならば、恐らくここにいる全員が束になってかかっても、
聖騎士には勝てないだろう。⋮⋮絶対に。
軽い寒気が走るが、サナギは首を振ることでそれを紛らわせる。
そう、今やることは考えることじゃない。
﹁なあ団長。リリスについてなんだけど﹂
320
﹁分かってるさ、サナギ。ただ今戻ってはまた奴等と出くわすだけ
だ。このまま進み、リリスが休める場所を確保するぞ﹂
﹁了解﹂
ニルヴァーナの意見に、シルヴェリア騎士団総勢が賛同する。
﹁なら団長、このまま皇帝のいる間に行った方がいいと思うよ。あ
くまで僕の推測だけど⋮⋮あそこなら大丈夫な気がするんだ﹂
推測というよりも、これは確信とも言えるだろう。
ラインは戦闘だけでなく、こういった敵を察知する能力にも長け
ている。いわゆる隠密技術の一端であり、この事に関してはニルヴ
ァーナも全幅の信頼を置いている。
﹁分かった、それならこのまま作戦を遂行しよう。⋮⋮サナギ、リ
リスを頼む﹂
﹁ああ、任せてくれよ﹂
321
サナギはリリスをおんぶし、気さくに答える。彼女はゼノスと関
わらなければ、とても頼りがいのある存在なのである。
ニルヴァーナは全員を確かめると、また作戦を続行させた。
広い大廊下を突き進み、中庭を抜け、更にその先にある皇族エリ
アへと突入する。その際に多くの盗賊たちと遭遇したが、ニルヴァ
ーナとライン、そしてロザリーを中心としてテンポ良く処理してい
く。
ハルディロイ城上層部に位置する皇族エリアへとやって来ると、
そこは異様なまでの静けさを放っていた。皇族エリアに繋がる外橋
では多くの敵がいたのに⋮⋮。
ニルヴァーナはより一層警戒しつつ、仲間と共に皇族エリアにそ
びえる別棟へと向かう。下層部にある庭園や中庭とはまた雰囲気の
違う、どこか整然とした子庭を抜けると、そこに別棟が佇んでいる。
別棟の巨大な扉を開けると、目の前に礼拝堂が広がっていた。両脇
に厳かなステンドグラスが張り巡らされ、奥には初代皇帝の像が祀
られている。
一階の礼拝堂の両隣に階段が設置され、右は円卓の間へと続き、
そして左は玉座の間に繋がっている。ちなみに玉座の間の途中には、
皇女殿下が住まう小さな離宮に繋がる回廊もある。
322
ニルヴァーナ達はもちろん、左の階段を登っていく。
騎士団が闊歩する音だけが聖堂に響き渡るほど、辺りは不気味な
ほど静寂である。だがニルヴァーナはより一層神経を尖らせつつ、
警戒しながら奥の方へと向かう。
聖堂の祭壇の丁度上に、玉座の間へ通じる扉が控えている。豪華
な装飾が施されている以上、その事実は間違いないだろう。
ニルヴァーナは仲間全員と頷き合い、一気にその扉を開け放つ。
﹁皇帝陛下!!﹂
入ると同時、彼は声高くリカルドを呼ぶ。
︱︱が、皇帝陛下の姿は見えない。
ちなみに玉座の間は広く、まるでドーム状のような造りをしてい
る。何本もの石柱によって支えられ、柱の間は大きなガラス窓と紅
蓮色のカーテンが下ろされている。そして部屋の中央に玉座が悠然
と構えられている。
323
⋮⋮その部屋に、今は誰もいない。
⋮⋮⋮⋮いや。
玉座の前に、一本の剣が突き刺さっていた。
もちろん人ではない。︱︱だが何故だろう。
この剣を見た途端、ニルヴァーナは想像を遥かに超える存在と出
くわしたかのような⋮⋮そんな錯覚を起こした。
﹁⋮⋮そんな、まさか﹂
ふと、リリスが有り得ないといった表情で呟く。
それはラインも同様であり、それ以外の団員は全員意味不明の状
態である。
﹃︱︱嗚呼、主。主は一体どこに﹄
324
気のせいか⋮⋮いや、気のせいではない。
突如、剣から声が響き渡る。美しい少女の音色であり、一瞬誰も
が、その美声に心を奪われる。
しかしその感情を掻き消すように、剣は白銀の炎を帯び、形状を
変化させていく。炎は10代後半の少女を形作り、最後には人間同
然の姿を映し出す。
銀色の艶やかな髪、白く透き通った素肌。そしてその肌を覆うよ
うに、古の神々が纏ったというローブを艶めかしく着飾る。
︱︱そしてその右手には、先程の剣が握られていた。
﹁︱︱ッ!貴様、何者だ!﹂
咄嗟に、ニルヴァーナはシルヴェリアを構える。
他の団員も戦闘態勢に移ろうとするが、ニルヴァーナはそれを制
す。
325
﹁待て、ここは自分が引き受けよう﹂
﹁で、ですが団長!相手は未知の存在です!ここは総員で戦った方
が﹂
サナギは念を押すが、それでも彼は首を横に振る。
﹁危なくなったら上手く撤退するさ。それよりも皆は、一刻も早く
皇帝陛下と皇女殿下を救出するんだ。そして始祖も⋮⋮ッ!さあ、
行け!﹂
その言葉に圧され、一同は﹃了解!﹄と声を揃え、ニルヴァーナ
から背を向けて玉座の間を後にする。だがリリスだけは、心配そう
に佇んでいた。
﹁だ、団長。一応言っておきますわ。あれは⋮⋮﹂
﹁ああ分かっている。この心のざわめきが⋮⋮奴の関係者だと告げ
ている﹂
そう言って、ニルヴァーナは苦しそうに、そして恨めしげに少女
を睨む。
326
この苦しみは、今でも覚えている。
かつて始祖竜として恐れられ、人間から恐怖の対象として見られ
ていた︱︱ニルヴァーナの元恋人、シルヴェリア。
彼女が﹃奴﹄の手によって討伐された時にも、この痛みを感じて
いた。
︱︱シルヴェリア。
見ているか、我が愛しき恋人。
ようやく⋮⋮ようやくここまで辿り着いた。
リリスが見つめる中、ニルヴァーナはふいに︱︱激情を露わにし
た。
彼女は止めることが出来ない、いや止めるべきではないと理解し
た。とても口惜しいが⋮⋮ここは皆と同じように退くしかない。
327
リリスは後ろ髪引かれる思いながらも、その場から立ち去る。 彼女が退出したと同時、ニルヴァーナは激昂しながら突撃する。
あの憎き存在に関係する、少女へと。
﹁白銀の聖騎士の剣、リベルタスッ!!!︱︱聖騎士の居場所を吐
いてもらうぞッッ﹂
すっかり復讐に呑まれながら、彼は少女と剣を交わす。
軋む空間。激しく怒る男と、ただ冷静沈着に見据える少女。
この戦いの行く末を知る者は、彼等以外誰も知らない。
328
329
ep21 抗えぬ波動︵改稿版︶
﹁何で⋮⋮何で聖騎士様の剣が⋮⋮﹂
ニルヴァーナと別れ、聖堂二階の回廊でリリスは呟く。
あれは間違いなく、かつて聖騎士が使っていた神剣リベルタスで
ある。女神より授かり、聖なる力を大いに秘め、どんな邪悪な存在
をも滅ぼすとされている。あのような剣は、世界に二本も存在しな
いだろう。
︱︱何故、どうして今になってリベルタスが?
しかも人間に似た姿を模し、主であるゼノスを探しているように
見えた。⋮⋮ゼノスがこの国に戻って来たから?それともこの国の
危機を感じて?リリスの悩みは尽きなかった。
一人遅れたリリスは皆に合流すべく、玉座の間の扉から遠ざかり、
やがて聖堂の二階部分に当たる場所へと戻る。
330
⋮⋮そこで、リリスは驚愕の光景を目にした。
何となく一階の聖堂の様子を見ようと、二階の手すりから顔を出
して覗いてみたのだが⋮⋮そこには既に到着していた騎士団一行と
︱︱︱︱何十人ものシールカードの死体が転がっていた。聖堂には
戦の痕が夥しく残っており、鮮血があちらこちらに飛び散っている。
凄惨たる光景だ。リリスは急いで一階へと下り、茫然と佇むサナ
ギたちへと近付く。
﹁︱︱サナギ!これは一体なんですの!?﹂
サナギは覇気なく﹁ああ⋮⋮﹂と言った後、考え込むように答え
る。
﹁いや、あたしらがやったんじゃないよ。他の誰かがやったんだろ
うけど⋮⋮﹂
﹁もしそうだとしたら、これは相当の手練れが処理したんだろうね。
ほらサナギ副団長、こいつらの傷痕をご覧よ﹂
331
横から割って入ってきたラインが、おもむろに死体達の死痕を指
差す。
よく括目すると、それは確かに手練れの仕業と言ってもいいぐら
いであった。奴等は全員首元を掻っ切られており、それ以外の場所
には傷一つ残っていない。無駄なく、しかも正確無比な一撃を叩き
込まれたというのが分かる。
しかもこれを見る限り、殺ったのは一人だ。傷の形、傷の深さは
どれも一定しており、これを多くの人数がこなすのは有り得ない。
となると、シルヴェリア騎士団とランドリオ騎士団が束になって
も苦戦した相手を、その人間はこうも容易く処理してきたのだ。も
はや人間業とは到底思えない。
百戦錬磨を誇るシルヴェリア騎士団一行も、流石に戦慄を覚えた
のだろうか。一同は黙ったまま、この荒れ果てた様子を見つめてい
た。
しかし一方で、リリスとロザリー、ラインはある確信を見出して
いた。
彼等はここまでの芸当をこなす者を、一人だけ知っている。
332
もちろんアルバートとイルディエではない。彼等の獲物は戦斧と
槍であり、こんな切傷を作ることは出来ない。剣の使い手で、尚且
つ六大将軍と同等の力を有する存在というと︱︱彼しかいないだろ
う。
いつもだらけている、ゼノス・ディルガーナだ。
﹁⋮⋮ゼノス、ようやくやる気になったんだね﹂
ふと、リリスの近くにいたラインは笑みを深めながら呟く。
その一言に、思わずリリスはハッとする。しばしその言葉を脳裏
に反芻させ、彼の放った言葉の意味を理解していく内に⋮⋮彼女も
また、高揚とした気持ちが込みあがってくる。
ここ二年間、ずっと堕落していた英雄。かつてリリスが尊敬し、
舞い戻って来て欲しいと乞い願った存在。
︱︱白銀の聖騎士ゼノスが、再び立ち上がった。
333
⋮⋮リリスは感激を抑えきれなかった。ふいに涙が零れ落ちてく
る。
人目も憚らず、彼女はゼノスの復活に歓喜した。
﹁お、おいリリス?おーい⋮⋮﹂
サナギがいくら話しかけても、リリスは振り向こうともしない。
聞いていないのではなく、そもそも聞こえてさえいないのだろう。
当のリリスは、やがて両頬を手で叩き、気合いを入れ直そうとす
る。ゼノスがこの場所で戦っている以上、当然リリスもそのお側に
いなければならない。今は立場上、こちらの方が上だけれど⋮⋮リ
リスは今でも、ゼノスの役に立ちたいと思っている。
そうと決まれば、行動あるのみだ。
リリスは同じ感情を抱くライン、ロザリーと頷き合い、彼の後を
追うことにした。彼を追えば自分達の目的を果たせるかもしれない
し、ゼノスという戦力が増えれば余裕を以てこなすことが出来る。
そう説得すれば、サナギ達も納得はしてくれるだろう。
⋮⋮と、意気込んでいたその時だった。
334
突如聖堂の天井の一部が崩落し、そこから一人の人間が落ちてく
る。
漆黒のマントを全身に包んだ、禍々しい邪気を放つ男が。
﹁︱︱ほお、彼等以外にここまで来ることが出来たとはな。驚きだ
よ﹂
男は崩れ落ちた天井の瓦礫の上に降り立ち、緊張を走らせる騎士
団へと言い放つ。
間違いない、敵だ。シールカードよりも強大で、そして凶悪な敵
だ。
リリスは先制を図ろうと、腰に差す剣を引き抜こうとする。︱︱
が、
何故か、身体全体が麻痺したように動かなかった。
335
まるで全身が脱力したかのような感覚。手と足に全く力が入らず、
リリスだけでなく、騎士団全員がその場へと座り込む。
﹁こ、これは⋮⋮ッ!﹂
﹁ッ⋮⋮ぐ⋮⋮ぅ﹂
﹁はあ、まいったねえ﹂
サナギ、ロザリー、ラインそれぞれもまた驚きを隠せない。サナ
ギは悔しそうに床へと突っ伏し、ロザリーは息を荒げながら苦悶し、
ラインは額に汗を垂らしながら呻く。
一体全体、何が起きっているのか理解できない。
﹁後は彼と、あのニルヴァーナという男だけか⋮⋮。ふふ、全く素
晴らしい力だ。これさえあれば、始祖様を復活させることも難しい
ことではない﹂
男は高笑いをしながら、リリス達から背を向けていく。
336
もし今の言葉が本当ならば、無事なのはゼノスとニルヴァーナだ
け?皇帝陛下や皇女殿下、そして六大将軍までもが⋮⋮奴の手に落
ちたというのだろうか?
こうしてはいられない。すぐに立たないと︱︱
﹁⋮⋮くっ、やっぱり動けない﹂
どんなに動けと命令しても、身体が言うことを聞いてくれない。
彼等は指一本も動かせず、それどころか意識さえも曖昧になって
いく。こうなった経緯は全然分からないが、一つだけ分かったこと
がある。
自分達は敵に敗れ、そして敵に捕らえられたのだと。
恐らく死ぬことはないだろう。どうしても殺さずに生かしておく
かは分からないが、そこまで考える余裕はもはや存在しない。
﹁ゼ⋮⋮⋮⋮ノス⋮⋮様﹂
337
申し訳ございません。どうやらこのリリス、貴方の役には立てな
いようです。
無念と同時に、どうかこの国を救ってくださいという希望を抱き
ながら︱︱リリスは完全に意識を失った。彼女だけでなく、シルヴ
ェリア騎士団全員もだ。
⋮⋮こうして、今や残ったのはゼノスとニルヴァーナだけである。
ニルヴァーナが聖騎士の剣と対峙する一方︱︱
ゼノス・ディルガーナは、ゲルマニアと共に円卓の間へと急いで
いた。
338
339
ep22 誓いは果たされた︵改稿版︶
リリス一行が全滅を余儀なくされる少し前、ゼノスとゲルマニア
は無事牢獄を脱出した。
地下にはまだシールカードはおらず、変わらない静寂を放ってい
る。しっかりと騎士団が防衛しているのか、それとも既に⋮⋮と、
ゲルマニアは最悪の想像をしていた。
だがその予想を断ち切るかのように、ゼノスが呑気に呟く。
﹁ふう、まだ来てないようだな。騎士達はしっかりとやってるよう
だ﹂
﹁ど、どうして分かるのです?﹂
﹁どうしてって言われてもなあ⋮⋮。気の流れって言うか、シール
カードがここに来たんなら、ここの気はもっと乱れているはずなん
だよ。まあ気っていうのは観念的な意味合いだから、説明するのも
難しいんだが﹂
340
要するに、言葉で説明するには難しい感覚をゼノスは感じている
のである。
本人がよく分かっていないのだから、ゲルマニアが理解出来るわ
けがない。けどそれが本当だということは、何となく彼女にも分か
る。
ということは、未だ始祖は奪還されていないというわけだ。
﹁では⋮⋮これから始祖の間へと向かうのですね?﹂
﹁いや、全く逆だ。俺達はこれから︱︱円卓の間へと向かう﹂
﹁それって⋮⋮﹂
ゲルマニアはふと、牢屋で聞いた話を思い出す。
マルスがこの城に罠を仕掛けた場所、それは円卓の間である。始
祖の傍で迎え撃つのも悪くないが、それよりも先に罠を排除する必
要がある。
341
大袈裟かもしれないが、ゼノスにとってはゆゆしき事態である。
﹁罠の効果が何だか分からないが、どうにも嫌な予感がする。ここ
から感じ取れる限り、今城内ではランドリオ騎士側が不利だ。⋮⋮
⋮⋮六大将軍が二人もいるはずなのに﹂
﹁︱︱ッ!!﹂
そうだ、とゲルマニアは目を白黒させながら思う。
﹃戦場の鬼﹄、﹃不死の女王﹄。この二人の武勇伝は数多く存在
し、伊達や酔狂で語られたものではない、実話を元にしたものが殆
どである。
どれも過去の伝説を覆すものばかりで、今回の敵であるシールカ
ードよりも遥かに強い敵と対峙してきた。それが本当である以上、
ここまで苦戦を強いられることはないはずだ。
それなのに、ハルディロイ城は占拠される寸前である。
きっと、アルバートとイルディエはその罠に嵌ったのだ。なら今
度は、ゼノスがその罠を解きに行くしかないのだ。
342
﹁⋮⋮というわけだ。付いて来てくれるか?﹂
﹁勿論です。⋮⋮ですがその前に﹂
﹁分かってる、武器だろ?﹂
そう言いながら、ゼノスはふとある部屋の前へと立ち止まる。
牢獄への入り口とは異なり、大層な装飾が施された扉。そして幾
数もの施錠がなされている所を見ると、ゲルマニアはようやく理解
する。
ここは、王家と騎士団の宝が安置されている﹃宝物庫﹄だと。
﹁ま、まさか⋮⋮宝物庫の武器を使うつもりですか!?それは絶対
に︱︱﹂
﹁今は緊急事態だ。それに、落ちている武器程度で奴等に適うわけ
ないだろ。ここはもっと良質な武器⋮⋮六大将軍が簒奪してきたも
のを使うぞ﹂
343
ゼノスは不敵に微笑みながら、宝物庫の施錠を解いていく。当然
のことながら、これも彼の手刀によって実現していく。
真面目なゲルマニアは頭を悩ませるが、今回ばかりは仕方ないと
思い、溜息を吐きながら扉が開くのを待つ。
やがて扉が開かれると、そこには多くの物が丁重に置かれていた。
それは全て国の財産であり、そして歴史が遺してきた産物でもある。
どれも高価な代物であり、部屋の一角には多くの武器や防具も置
かれている。全て粗末な物ではなく、あらゆる伝説上の存在から奪
い取った宝だ。
︱︱ゼノス達は、その武器達に用がある。
﹁⋮⋮わあ、凄い﹂
ゲルマニアは思わず声を漏らす。
それもそのはず、こんな光景は普通の騎士でも見かけられない。
管理するのは主に財務官であり、これを眺められる人物は限られて
いるからだ。
344
﹁さてと、それじゃさっさと武器を探そう。俺はもう目処が立って
いるけど⋮⋮ゲルマニアは何を使うんだ?﹂
﹁え、私ですか?⋮⋮そうですねえ﹂
我へと返ったゲルマニアは、きょろきょろと周りを見渡す。
大体の武器は壁に立て掛けられており、そこにはちらほらとゲル
マニアも使えるものがある。﹃悪魔殺しディバイン﹄、﹃古代の聖
剣ラージフィル﹄、﹃亡霊王の魔剣セント・エリス﹄。どれも値の
付けられない一級品であり、正直使うのも恐れ多い。
だがそうも言ってられない。
意を決し、彼女は古代の聖剣ラージフィルの元へと歩み、その剣
を掴む。
﹁⋮⋮それではこれにしましょう﹂
﹁これって⋮⋮ラージフィルじゃないか。ゲルマニアと同じぐらい
の大きさの大剣だけど、ちゃんと使えるのか?﹂
345
確かに彼女はシールカードだが、その身体は華奢であり、とても
大剣を扱える気がしない。
一方の彼女は膨れっ面となり、﹁では見ていて下さい﹂とだけ言
う。そして大剣の剣先を地面に着かせ、肩の力を抜く。
︱︱ふいに、ゲルマニアは大剣を振り抜く。
一寸のブレもなく、体勢が崩れる事もなく⋮⋮。
ゼノスは予想外の光景に、目を見開く。
﹁︱︱どうです?これならば大丈夫でしょう、ゼノス殿﹂
﹁あ、ああ。⋮⋮それもシールカードの力というやつか﹂
﹁そんな所です。主がいないとはいえ、シールカード自身の力が消
えることはありませんよ。︱︱これで、皇女殿下の側近になれたよ
うなものです﹂
346
ゲルマニアは複雑な表情を浮かべながら答える。
その心中は何となく理解出来る。おそらく彼女は、その力を本来
の自分の力だとは思えないのだろう。更にシールカードは忌み嫌わ
れ、その力を表立って公表することは難しい。後ろめたい気持ちが
あるからこそ、この力を有していいものかと悩んでいるに違いない。
もちろん、今のゼノスには慰めることは出来ない。
彼女がその力を積極的に利用している以上、とやかく言う必要は
ないだろう。そう思ったゼノスは、今度は自分の剣を探すことに専
念する。
︱︱神剣リベルタスを。
それはかつて愛用していた剣であり、この国から逃亡する前に、
ゼノスが密かにこの宝物庫へと安置したものである。
あの時はもう使うまいと決めていたのだが⋮⋮今は意固地になっ
ている場合ではない。
﹁あ、あれ?﹂
347
宝物庫を歩き回っていたゼノスは、奇妙なことに気付く。
幾ら探しても、リベルタスが見つからないのだ。安置したはずの
場所は愚か、あらゆる武器が置かれている場所にも存在しない。
︱︱誰かが持って行ったのか。いやしかし、あの剣は人を選ぶ。
資格のない者が持てば拒絶反応を起こし、剣は元あった場所へと帰
還してしまう。
それとも資格を持った者が持ち去ったのだろうか。それは殆ど考
えにくいが、可能性はなきにしもあらずだ。
﹁⋮⋮仕方ない。今は別の剣にするか﹂
名残惜しい所もあるが、ない以上はあれこれと考えないようにし
よう。
ゼノスは付近にあった剣︵形状は世間一般のブロードソードと似
ているが、その切れ味は名剣を凌ぐものだろう︶を取り、ゲルマニ
アの元へと近付く。
﹁あ、ゼノス殿。もう使う剣を決めたのですか?﹂
348
﹁何とかな。⋮⋮リンドヴルム・ヘキサって言うのか。聞いたこと
ない剣だけど、使い勝手が良さそうだからこれにしたんだ﹂
柄に彫られた剣の名称を見て、ゼノスはそう言う。
とにもかくにも、彼にとって使えればそれでいい。簡単に折れな
ければ、自分の力を発揮することが出来る。
﹁さあ急ぐか。︱︱どうやら敵も待ちきれないようだし﹂
﹁⋮⋮そのようですね﹂
二人は察したように頷き合い、すぐさま宝物庫の扉へと張り付く。
そして耳をそばだて、外の様子に注意を払う。
扉の先から、ぞろぞろと足音が聞こえてきた。⋮⋮⋮⋮およそ十
人以上はいるだろう。
この気配は間違いない、シールカードのものだ。きっと奴等は、
始祖を目当てに地下までやって来たのかもしれない。いやきっとそ
うだ。
349
そうはさせてたまるか。ゼノスはさっそくリンドヴルム・ヘキサ
の鞘から剣を引き抜き、扉を背に剣を構える。
﹁ゼ、ゼノス殿⋮⋮どうする気ですか?﹂
﹁決まってる︱︱奴等を倒すんだよ!﹂
高々と宣言しながら、ゼノスは宝物庫の扉を荒々しく斬りつけ⋮
⋮木端微塵に破壊していく。
瓦礫は扉の前を闊歩していたシールカードへと直撃し、下敷きに
なった連中を踏み越えるようにしてゼノスが躍り出る。
﹁あ、と、扉が⋮⋮どう弁償すれば⋮⋮⋮⋮﹂
ゲルマニアは顔面を蒼白にしつつも、ゼノスの後を追うように回
廊へと出てくる。まあ確かにやりすぎた面もあるが、その件に関し
ては後で財務官と折り合いをつけよう。
﹃き、貴様ら!﹄
350
﹃何者⋮⋮ぐぎゃあッ!!﹄
驚く暇も与えず、ゼノスは踏み込むと同時に敵の一人を薙ぎ払う。
﹁ゲルマニア!始祖側の連中は俺が片付ける。お前は反対側の連中
を相手してくれ!!﹂ ﹁はい!﹂
彼の指示に従い、ゲルマニアはゼノスと背中合わせになりながら
敵と対峙する。自分が請け負った敵の数は大体五人から六人程度。
そしてゼノスはその倍以上を相手にすることになる。
果たして大丈夫だろうか。
不安は多々あるが、そう長くは悩ませてくれない。盗賊のシール
カードは一斉に殺気立ち、彼女へと襲い掛かってくる。
右から一人、左からももう一人。そしてその間を一人の盗賊が直
進してくる。計三人のシールカードが迫って来るが⋮⋮彼女に動揺
の色は見えない。
351
﹁︱︱素晴らしい踏み込みですが、馬鹿正直すぎますね!﹂
ゲルマニアは大剣ラージフィルを振りかぶり、横一直線に振り抜
いて見せる。
いとも容易く、力自慢を名乗る超人でさえも扱いが難しいその剣
を、ゲルマニアは完全に使いこなしている。一気に三人ものシール
カードに斬撃を浴びせ、今度はゲルマニアが攻勢に出る。
奴等は奇怪な行動で相手を翻弄してくるが、この狭い回廊の中で
はその選択肢も限られてくる。奴等の土俵は暗闇でかつ広い空間で
あり、ここはそれとは正反対である。
ここはそう︱︱圧倒的破壊力を持つ騎士、ゲルマニアの土俵だ。
﹁せいっ!!﹂
甲高い声と共に、大剣は軽やかに舞う。それは重力を半ば無視し
た動きであり、残りのうち一人ははその剣舞の餌食となっていく。
剣では処理できない間合いにいる最後の敵には容赦のない蹴りをお
見舞いし、これもまた中々の強さである。
肥えた豚のような鳴き声を放ち、最後の敵は地面へと崩れ落ちる。
352
﹁はあ、はあ⋮⋮⋮⋮これでもう﹂
彼女は剣を地面へと突き刺し、呼吸を整えようとするが︱︱
﹃おい、すぐに援護に向かうぞ!!第八小部隊、第九小部隊はこっ
ちに来い!﹄
息つく暇も与えられず、無慈悲にも新たな増援が一階に通ずる階
段から下りてくる。今度は先程の倍以上⋮⋮いや三倍はいるかもし
れない。
まずい。そう思ったゲルマニアは、すぐさまゼノスへと振り向く。
︱︱が、自分の背後にあるのは凄惨な死体の山だけであった。
﹁あ、あれ⋮⋮?ゼノス⋮⋮⋮⋮ど⋮⋮の﹂
ゼノスの行方を探そうと、また正面を振り向いた瞬間だった。
わずか一秒にも満たない速さで、何かに斬られたかのように⋮⋮
353
ぞろぞろやってきた敵部隊は血の花を咲かせる。赤い大量の鮮血が
宙を舞い、全ての敵が殲滅されたのだ。
︱︱ゲルマニアは一瞬、頭が真っ白になった。
何故、どうして?どうやって彼等は殺された?一体誰によって?
どういった手法で?
何もかもが謎だった。⋮⋮そこまでは。
﹁︱︱他にはいないようだな。これで全部片付いたか﹂
﹁え?﹂
ゲルマニアは驚き、また後ろを振り向く。
すぐ後ろにはあっけからんとゼノスが佇んでおり、彼はさも何事
もなかったように状況を分析する。ゲルマニアの驚愕にも気付いて
いないようだ。
⋮⋮全部片付けたということは、まさか全部ゼノス殿が?
354
いや、そうとしか言いようがない。だってこの付近にはゼノスと
ゲルマニアの二人しかいないし、気配を探ってもそれ以外の味方は
いないはずだ。消去法的に考えて、ゼノス以外に有り得ない。
だとしたら何て実力だろう。肉眼では追えない速度、相手をねじ
伏せるその制圧力、そしてそんな偉業を成し遂げたにも関わらず、
当然のように振る舞うその態度。英雄の類でなければ、およそ達成
できないことばかりであろう。
︱︱そう、英雄でなければ。
﹁あの、ゼノス殿⋮⋮﹂
﹁悪いが、今は会話している暇はない。このまま円卓の間まで駆け
走るぞ!﹂
﹁は、はい!﹂
ゲルマニアはとある疑問を打ち明けようと思ったが、確かにそこ
までの余裕はない。歯痒い気持ちを押し殺しつつ、彼女は素直に従
う。
355
こうして二人は地下から脱出し、円卓の間を目指して城の上層部
を目指す。
その間にも沢山のシールカードが襲い掛かって来たが⋮⋮ゲルマ
ニアの出る幕はなかった。ゼノスが疾走しながら、蚊を追い払うよ
うに斬り裂いていったからである。無駄など一切なく、彼は首元だ
けを狙っていく。
まさに獅子奮迅。彼はかつての英雄︱︱白銀の聖騎士のように、
たった一人で怒涛の剣撃を繰り出していく。
それから十分もしないうちに、ゲルマニア達は皇族エリアにある
別棟へと辿り着く。しかし敵は一向に減る気配もなく、外橋を渡っ
た先にある別棟の前にも敵が布陣を敷いている。
恐らく今までで一番多い。数は数十人以上⋮⋮いやもしかしたら、
百人以上はいるかもしれない。
開け放たれた扉の先にある大聖堂にも、敵がわんさかと蔓延って
いる。ゲルマニアはしまったとばかりに後退り、打開策を模索する。
﹁くっ⋮⋮どうしますゼノス殿。これは流石に強行突破では﹂
356
﹁いや、大丈夫だろう。これしきの程度なら﹂
またもやとんでもない事を言うゼノスに、ゲルマニアは素っ頓狂
な声を上げる。
﹁な、何言ってるんです!?確かに貴方の実力は凄いですが、幾ら
何でもこの人数相手では!!﹂
﹁平気だって。︱︱俺にとってこの状況は、もはや脅威ですらない﹂
今の彼女には分からないだろうが、ゼノスは白銀の聖騎士として
多くの困難を乗り越えてきた。
だから豪語出来る。こいつら相手に、敗北は有り得ないと。
ゼノスが剣を構えると同時に、敵は一斉に群がってくる。地響き
さえ聞こえそうなその勢いに、ゲルマニアは思わず目を閉じる。
﹁へえ、わざわざそっちから来てくれるのか!そいつは有り難い⋮
⋮なあッ!!﹂
そう言いながら、ゼノスは剣先を天へと掲げる。その間にも敵は
357
強襲してくるが、彼はその様子を見てほくそ笑む。︱︱馬鹿な連中
だと。
シールカードと謳いながら、所詮はこの程度かと。本物の強者な
らばこの感覚に気付き、何らかの回避行動をとる筈なのに。ゼノス
が戦ってきた真の化け物共は、少なくともそうしてきた。
こうなった以上、敵はもうお終い。︱︱敗北の二文字だけが浮か
べ上がる。
だが彼等は名誉の死を遂げる。
だってこれから、彼等は真の奥義に呑まれるのだから。
模造では得難い究極の剣技、どこまでも正義を追い求めるその極
意。
︱︱聖騎士流剣技を。
﹃︱︱︱︱︱︱︱ッ﹄
彼等がゼノスを串刺しにせんとする寸前、世界は光に包まれる。
358
眩くも美しい世界、慈愛の光は生きとし生ける者を抱擁する。︱
︱それが安穏を与えるのか、はたまた声にもならない激痛を与える
のかは敵次第。
だが恐らく、敵は後者の苦しみを得ているに違いない。
これは聖騎士流剣技﹃天啓﹄。正義に仇なす者に裁きを下す、奥
義なのだから。
﹃あ、があああああああッッ!!﹄
﹃助けて⋮⋮助けッ!!﹄
膨大な光の爆発に飲み込まれ、盗賊のシールカード達は苦痛の叫
びを残す。光の斬撃によって急所を斬り裂かれていく。
度重なる重低音の響き。聖なるかなを謳う大聖堂に響き渡る、人
々の慟哭。
光りはやがて一点へと縮小していき、まるで無かったかのように
掻き消える。後に残った光景は、見るも無残な死体の山々であった。
359
﹁⋮⋮嘘﹂
目を見開きながら、ゲルマニアは現実を直視する。
彼の実力には何度も驚かされている。⋮⋮だがこの技は、今まで
以上の驚愕を起こさせる。
一言で言い表すならば︱︱無茶苦茶だ。
これが人類の力?いや有り得ない。もはや人間が踏み込んでいい
領域を超えている。⋮⋮こんな技は、神や悪魔にしか許されないは
ずだ。もしくはシールカードをも超越し、伝説として名を残す英雄
しか。
⋮⋮英雄?
ゲルマニアは悠然と佇むゼノスを見つめながら、一つの答えに辿
り着こうとしていた。しかしまだ、確信には至っていない。
一方のゼノスは剣を鞘に収め、ある方向を凝視する。
360
大聖堂の二階にある、円卓の間へと通ずる扉。彼はそこから漂う
波動を感じ、ゲルマニアとはまた違った確信を抱いている。
︱︱いる。あの奥に、事の元凶が待ち構えていると。
﹁さて、決着をつけようか﹂
ゼノスはここにはいない誰かにそう告げ、円卓の間へと向かう。
361
ep23 万事休す︵改稿版︶
緊張と微かな悪寒を覚えながら、ゼノス達は円卓の間へと辿り着
く。
円卓の間は皇帝陛下と六大将軍たちが議論を交わす場であり、神
聖な境地として知られている。古代様式の柱が議論場を囲み、その
間からは雄大な空が眺める。柱の内側には溝があり、そこには清ら
かな水が流れていた。
︱︱だが、今は面影さえも見られない。
柱は天井ごと破壊され、無残な残骸となって辺りに散らばってい
る。闇夜の空は炎の灯りによって紅蓮色に照らされており、この世
の終わりを告げるような恐怖感を与えてくる。水は枯れ、陰鬱な空
気が辺りを支配していた。
原因は⋮⋮もはや考えるまでもない。
362
荒れ果てた状況を見終えたゼノスは、改めて元凶の姿を射捉える。
︱︱皇帝陛下の椅子に座す、盗賊のギャンブラーを。
﹁よお、随分ふてぶてしいな。そこは一応、この国のトップの席な
んだけどな﹂
﹁ええ知ってますとも。知った上で、ここに座っているのですよ﹂
相手の声を聞き、隣にいるゲルマニアは悲しそうな表情を浮かべ
る。
﹁⋮⋮信じたくはなかった。けどこの声は、聞き間違えるはずがあ
りません﹂
彼女は剣先をギャンブラーへと向け、堂々と言い放つ。
﹁盗賊のギャンブラー⋮⋮いえ、マルスッ!そのフードを取りなさ
い!!﹂
﹁ええいいでしょう。確かにこの恰好では、礼儀に反するでしょう
からね﹂
363
今更ながら礼儀云々を言い、彼は頭を覆っていたフードを外す。
もはや驚くことではない。そこからマルス本人の素顔が現れる。
ゼノスとゲルマニアはより一層緊張感を強め、マルスを睨みつける。
﹁︱︱ようこそ、お二人方。あの陣を切り抜けるなんて、普通の人
間じゃ到底こなせませんよ﹂
﹁御託はいい。それよりもアリーチェ様や皇帝陛下、六大将軍二人
は何処にいる?﹂
相手を圧迫するようなゼノスの物言いに、マルスはわざとらしく
両手を小さく上げる。
﹁おっと、そんなに捲し立てないで下さいよ。ちゃんと順を追って
説明致しますから﹂
マルスはにこやかに笑むが、目だけは笑っていない。表面上はや
んわりと繕っているが、その内に秘めるどす黒い邪念は、ゼノスと
ゲルマニアでもはっきりと分かる。
364
警戒を緩めることなく、ゼノス達はマルスの言葉に耳を傾ける。
﹁まあと言っても、彼等の現状は同じなのでまとめて言いましょう
か。⋮⋮今の所は殺してはおらず、私しか知らない場所に幽閉して
おります。これでご安心頂けましたかな?﹂
﹁︱︱そうですか。ではマルス、それでは次の質問に入ります﹂
間髪入れず、今度はゲルマニアが問いかける。
﹁何故貴方は、騎士団を裏切ってまでこのような愚行を起こしたの
です?⋮⋮貴方は言っていたじゃありませんか。この国を守る為に、
正義を尽くすと﹂
何時如何なる時も、彼は口癖のようにそう呟いていた。
ゲルマニアだけでなく、多くの騎士団員はその言葉に感動し、そ
して鼓舞されていたのだ。彼こそが真の騎士だと誰もが確信してい
た。
それだけに、この現状は信じられなかった。
365
﹁⋮⋮何を仰いますか。今も昔も、私はその信念を貫いております
よ?﹂
マルスは足を組み直し、言葉を続ける。
﹁ゲルマニア殿、そもそもこの国にとっての正義は何でしょうか?
︱︱皇帝陛下を守ること?それとも民を守ること?⋮⋮私は後者だ
と思いますがね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁国は民がいてこそ機能し、現に彼等はその使命を全うしています。
⋮⋮けど今の皇帝はどうですか?しかとその役目を果たし、民の為
に貢献していますか?﹂
﹁⋮⋮それは﹂
そうだ、とは断言出来なかった。
事実、皇帝陛下はその権利を悪用し、多くの横暴へと踏み切って
いる。あらゆる方面から不評を買ってきたし、それは今も変わらな
いだろう。
366
﹁︱︱そう、彼は良いことなど何もしていない。むしろ我々を虐げ、
自分だけの世界を創ろうとしている!これはおかしいことだ!⋮⋮
だから私は、反旗を翻したのです!!﹂
マルスは玉座から立ち上がり、悪意に満ちた笑みを浮かべる。
﹁その結果がこれ⋮⋮というわけです。王城を破壊し尽くし、我が
母に等しい始祖を救い出す。あとは皇帝とその家族を処刑し、私は
始祖を利用して絶対の権力を得る!⋮⋮ふふ、これこそが革命。民
が頂点に立つ歴史的瞬間なのですよ!!﹂
﹁マルス⋮⋮﹂
ゲルマニアは何も告げることが出来ないまま、ただ茫然と彼を見
据える。
馬鹿げた発想⋮⋮いや、彼の言い分も分からないでもない。
︱︱だが。
ゼノスは彼の勢いに気圧されず、淡々と言い返す。
367
﹁はっ、とんだ革命家だな。民を救いたいと言っておいて、やって
いることは真逆だぞ。︱︱それにマルス、始祖の解放だけは止めて
おけ。あれはお前が思っている程、危険極まりない存在だからな﹂
﹁それがどうしたというのです?この私に出来ないことがあるとで
も!?︱︱否、私は利用できますよ!例え始祖のシールカードであ
ってもね!!﹂
﹁⋮⋮やっぱり話し合いじゃ解決できないか﹂
ゼノスは剣を構え、戦闘態勢に移る。
﹁なあゲルマニア、もう気は済んだよな。︱︱こいつは更生する余
地なしだよ﹂
﹁⋮⋮分かっています﹂
ゲルマニアも観念したのか、自らもまた構えを取る。
それは彼に対する決別の証であり、戦いの予兆でもある。
368
﹁ふふ、ふふふ⋮⋮愚かですね。もはやこの勝負は決まったも同然
なのに﹂
﹁愚かは貴様だ!!マルスッ!!﹂
ゼノスは剣に自分の気を溜め込み、その剣波動をマルスに向けて
放つ。
甲高い激音を奏でながら、波動は円卓を斬り裂き、そしてマルス
をも一刀両断にしようとする。しかしそれを見越していたマルスは、
素早く上空へと舞い上がる。
彼は懐から数本のナイフを取り出し、それをゼノスに向けて投擲
してくる。
ナイフ程度で殺せると思うな。ゼノスはそう叫ぼうとしたが、ナ
イフは思いもよらぬ軌道を辿る。破裂したかのように散開し、高速
で辺りを飛び交う。
︱︱これも盗賊のギャンブラーが使役する力か!
ゼノスは即座に防御を構えへと移り、こちらに飛来してくるナイ
フを剣で斬り伏せていく。途中ゲルマニアにも襲い掛かって来るが、
369
彼女は彼女で防ぎきっているようだ。
﹁くっ⋮⋮!﹂
﹁どうしました?よもやあなたほどの方が、この程度で参ったので
しょうか?﹂
﹁甘く見て貰っちゃ困るな。︱︱行くぞ﹂
これしきの困難で、諦めるわけにはいかない。ナイフの乱舞を切
り抜け、ゼノスは足元に転がっていた瓦礫を思いきり蹴飛ばす。
もちろん標的はマルスだ。常人ならば足の骨が折れるはずだが、
彼はそこまでヤワではない。難なくマルスに向けて放ち、派手な壊
音と共に命中する。
マルスは露骨に舌打ちする。大したダメージはないが、僅かな隙
は生まれた。
そこを逃さず、更なる追い討ちに出るゼノス。リンドヴルム・ヘ
キサを手に宙へと舞い上がり、体勢を崩したマルスへ向けて幾多も
の剣撃を放つ。
370
目にも止まらない速さだ。もはや刀身さえも見えず、神速を超え
たスピードでマルスを圧倒していく。
︱︱はずだった。
﹁⋮⋮ッ!﹂
ゼノスは戦慄する。
何とマルスは、剣撃の全てを籠手で防御したのだ。彼自体にはか
すり傷さえも見受けられず、それどころか余裕の笑みを浮かべてい
る。
詰めが甘かったのか?いや、ゼノスの攻撃は全て洗練されており、
力の衰えを感じさせない見事な連撃であったはずだ。なのに何故、
マルスはその脅威を跳ね除けたのか。
⋮⋮答えはすぐに分かった。
﹁う、ぐっ⋮⋮﹂
371
ゼノスは身体の異変を感じ、苦しそうに胸を抑えながら地へと降
り立つ。
立つ力さえもなく、片膝をつきながら息を荒げていた。
﹁はあっ、はあっ⋮⋮!な、何だこれはッ﹂
﹁ゼ、ゼノス殿もですか?私も⋮⋮息が苦しい、です﹂
世界が反転したかのように眩暈が起こり、金具で殴られたような
激しい頭痛に襲われる。暑いか寒いかも分からず、視界は酷くぼん
やりとしている。
自分の身に一体何が起こったのか。何故このような状況に陥った
のか。歴戦の戦士たるゼノスでさえ、この不可解な現象に困惑を隠
せなかった。
︱︱マルスはその様子を見て、不遜な態度でうっすらと嗤う。
﹁ふふ、どうでしょうか。これが私の仕掛けた罠⋮⋮というやつで
すよ﹂
372
﹁これ⋮⋮が?﹂
﹁ええそうです。︱︱制約と呼ばれ、ドローマの枷とも呼ばれてい
ます。始祖に仇なす者を制す劫罰の象徴、無知傲慢なる者を律する
神の裁き。この制約は、定められた領域へと踏み入った者に病魔を
与え、苦しませるという願いを込めて作られております﹂
﹁病魔、だと⋮⋮ッ﹂
ゼノスは無理に起きようとするものの、抗いようのない気怠さに
は敵わなかった。⋮⋮なるほど、これも病状の一種というやつか。
既にゼノスとゲルマニアの体内には、制約というもので生成され
た病原体が潜んでいるのだろう。でなければ、ここまで身動きが取
れないはずがない。
きっとアルバートやイルディエも、この制約にかかったのだろう。
︱︱何て恐ろしい罠だ。
﹁さあてお二人共、これでもまだやりますかな?言っときますが、
これ以上下手に動けば命に関わりますよ?即死性はありませんが、
この病原菌は異様な熱の昂ぶりに反応して毒素を出しますからね。
373
それは身体全体を蝕み、終いには脳をも犯す﹂
脳に毒が達すれば、あとは死を待つばかりだ。如何なる英雄でも、
重い病気に打ち勝つ術はない。それはゼノスも例外ではない。
ならこのまま、何も出来ないまま死ぬのか?
覚悟を決めたのに、また立ち上がろうと奮起したのに。
今回も、守れないで終わるのか⋮⋮?
⋮⋮⋮⋮嫌だ。
ここで倒れたくないと、ゼノスの矜持が叫ぶ。
そうだ、まだ終われない。まだ倒れ伏す時ではない!
ゼノスは歯を喰い縛り、よろよろとしながらも立ち上がる。途中
また倒れそうになるが、既に気を失ったゲルマニアを見て、何とか
自分を奮い立たせた。
374
マルスはその様子を見て、哀れみにも似た悲愴の表情を見せる。
﹁⋮⋮無策のまま突っ込んだ結果がこれですか。少々がっかりしま
したよ﹂
﹁はあ、はあッ⋮⋮⋮⋮そうかよ、それは残念だった︱︱なぁッ!
!﹂
彼は全身全霊を以て、マルスに向かって突撃していく。
だが一方のマルスは臆せず、失望した様子のまま手を前へと出す。
﹁さようなら、過去の英雄よ。︱︱そして死ね﹂
もはやゼノスに勝機はない。
それでも尚、彼は刃向っていく。少しでも国の役に立つ為に、失
った自分を取り戻す為に。︱︱彼は無我夢中のまま、死地へと赴く。
もしこの瞬間を見た者がいるならば、誰もがこう思うだろう。
375
かつての英雄が死に絶え、新たな支配者が誕生したと。
⋮⋮けど運命は、そうはさせなかった。
﹁︱︱なっ﹂
ゼノスとマルスを遮るように、光芒を放った白の球体が舞い降り
る。
やがて球体は眩い光を放射し、瞬間的に辺り一体を光の世界へと
彩る。ゼノスとマルスが視界を奪われ、思わず後ろへと後退する。
段々と目が見えるようになると︱︱
︱︱光の球体は、かつての仇敵へと姿を変えていた。
﹁⋮⋮始祖﹂
﹃︱︱ごめんね、ゼノス。もう大丈夫だから﹄
始祖は薄く微笑みながらそう言い放つ。
376
それを見たゼノスは言い知れぬ安堵を覚え、その場で気を失った。
377
ep24 決戦は一週間後に︵改稿版︶
全ての希望が潰えた後、ゲルマニアは意識を取り戻す。
身体はぴくりとも動かず、自分が銅像になったかのような錯覚に
襲われる。動けと命じても身体は反応せず、ただ地面へと這いつく
ばっている。
⋮⋮そうだ、現状はどうなっている?
ようやく自分の置かれた現状に気付いたゲルマニアは、視線を巡
らせる。
周囲に移る光景に、彼女は目を見張った。
﹁ゼ、ゼノス殿⋮⋮⋮⋮それに貴方はッ!﹂
自分とゼノスを庇うように立ち、微かな光を帯びた少女。簡素な
378
白のワンピースに身を包み、翡翠色の髪をなびかせながら⋮⋮彼女
は存在感を見せつける。
ここに元凶が参上したと。そう宣言するかのように。
少女︱︱否、始祖はマルスをジッと見つめ、やがて口を開く。
﹁貴方がマルスだね。︱︱慈しむ心を知りながら、それを忘れた哀
しき人﹂
人間として生を受けながら、思いやる気持ちを芽生えさせながら、
それら全てを唾棄していく。始祖にとっては理解できない行為であ
る。
だがマルスは、その言葉によって意にも介さない。
﹁皮肉は通用しませんよ、我が母よ。⋮⋮これは全て、己が悲願を
達するためには仕方のないことなのです。尊い貴方様にならば、こ
の気持ちを分かって下さると思ったのですが﹂
﹁全くもって分からないね。だからこそ私は、こういう行動に出よ
379
うかなって思うんだ﹂
そう軽い口調で述べた始祖は、ふとゲルマニアへと近付いてくる。
不意打ちにも近いその行動にゲルマニアは身構えるが、始祖から
殺気というものが全くないと分かり、徐々に警戒心を解いていく。
背後にマルスという敵がいるにも関わらず、彼女はゆったりと腰
を下ろし、目前のゲルマニアと同じ目線に並ぶ。そして顔をゲルマ
ニアへと近付け、耳元で囁くように言葉を紡ぐ。
一生忘れることのない、彼女の人生を左右する言葉を。
﹁︱︱彼を、白銀の聖騎士ゼノスを支えてあげて。それが出来るの
は、騎士のシールカードとして再誕した君にしか出来ないから。⋮
⋮三日だけ稼ぐ。だからお願い⋮⋮⋮⋮ゲルマニア﹂
﹁⋮⋮聖騎士、ゼノス⋮⋮?﹂
380
ゲルマニアは驚愕する。しかしそれと同時に、数々の謎が晴れて
いく。
ゼノスが強すぎる理由、彼が孤独に戦い続けた理由。
その全てを分かってしまった。
彼女は急いでゼノスへと振り向く。が、既に彼の姿はなかった。
一瞬の出来事で目を白黒させるが、今度は自分の全身が光り輝いて
いることに気付く。特に腰のポーチに収められているシールカード
が熱を帯び始め、同時にゲルマニアの心臓も熱くなっていく。
突然のことに戸惑いを見せるゲルマニア。だがそんな彼女を落ち
着かせようと、始祖は包み込むようにゲルマニアを抱き締める。
﹁大丈夫﹂
そう一言だけ呟くと、ゲルマニアの身体は粒子となって消えてい
く。
⋮⋮不思議と恐怖は感じない。それどころか、妙な安心感さえ覚
える。
381
﹁始祖、貴方は何で﹂
︱︱私達にとっては敵のはずなのに、なぜこのような真似を?ゲ
ルマニアはそう言うつもりであったが、全てを言い切ることは出来
なかった。
穏やかな始祖の微笑みを最後に、ゼノス同様、彼女もまたその場
から姿を消していく。
二人は光の粒子となり、ランドリオ大陸の上空を舞う。
騒乱に満ちたハルディロイ城を超え、不気味なほどに静かな城下
町を見下ろしながら、二人の存在は北にそびえる山脈︱︱ロウゼン
山脈へと向かう。
⋮⋮ゲルマニアにとって、懐かしいあの山へと。
382
﹁⋮⋮ふざけた真似をしますね﹂
ゼノスとゲルマニアの姿が消えると同時、マルスは苛立ちを露わ
にする。
彼にとって二人は難敵であり、黙って見過ごせるほど容易い相手
ではない。ここで始末をする必要があったにも関わらず、自分は彼
等を逃してしまった。
⋮⋮いや、そうせざるを得なかった。
マルスは改めて始祖の恐ろしさを知る。︱︱もしあの場で一歩も
動いていれば、自分の命はその瞬間に絶たれていただろう。額から
脂汗が滲み出て、体も小刻みに震える。
そして今も尚、彼は恐怖の最中にいる。
﹁聞いていた話とまるで違いますねぇ⋮⋮。始祖は冷酷非道であり、
人間は見境なく殺し尽くす。死守戦争ではそういった印象を残され
383
ていますが﹂
﹁どうとでも思えばいいよ。⋮⋮それよりもマルス、私は彼等を助
けたよ?それでも私を連れて、このランドリオを支配しようなんて
思える?﹂
始祖は試すように、大袈裟に両手を広げながら問う。
﹁ふむ、確かに今の貴方では利用価値がありませんね。ならこちら
とて、相応の対処を致しますよ。︱︱少々手荒ですがねッ!﹂
マルスは地を蹴り、全力で始祖へと急迫する。
ここは彼の領域であり、制約の力を最大限に利用すれば、流石の
始祖とて無事では済まないだろう。そこで弱った始祖を捕え、無理
やりでも従わせる。
自分ならやれる。例え相手があの始祖だとしても、今の自分に出
来ないことはない。
︱︱それが甘すぎる判断だと知らずに、彼は突撃していく。
384
﹁⋮⋮その程度?﹂
﹁︱︱ッ!?がっ、ぁ⋮⋮!!﹂
突如、マルスはその場へと倒れ込む。
うつ伏せにされ、気付くと彼の両腕両足首に拘束具が施されてい
た。
いきなりの出来事に目を白黒させつつも、マルスは拘束具を解こ
うと暴れ始める。しかし拘束具はビクともしない。
その様子を見て、始祖は冷徹な一言を放つ。
﹁マルス、その拘束具は三日くらい貴方を拘束するよ。本当はここ
で息の根を止めたい所だけど⋮⋮今の私じゃそこまで出来ないから﹂
﹁はっ!だから奴等に託し、それを成すまでここに私を封印してお
くってことですか?馬鹿馬鹿しい!こんな所で死んでたまるか!!﹂
385
﹁⋮⋮いずれにせよ、それを決めるのは彼等と貴方次第。じゃあね
マルス﹂
そう淡々と言い残し、始祖もまたその場から消え去っていく。
僅かな希望を残し、邪悪を封じ込め︱︱
︱︱彼女は地下の花園で、この戦いの結末を見守ることにした。
386
ep25 エトラス村︵改稿版︶
ロウゼン山脈には一つの村がある。
ハルディロイ城下町の北口門から出て街道を通り、海側に面した
道を通りながら山道入口へと向かう。そして道なりに進んでいき、
中腹から更に上を目指すと見える村、それが﹃エトラス﹄という村
だ。
エトラス村は遥か昔、エタニティ鉱山よりも﹃ヒルデアリアの光
魔石﹄が発掘された事で有名な鉱山の村であったらしいが、それは
もう数百年どころか、二千年以上前の話だ。
現在の鉱山は既に閉鎖され、村はかつての栄華を失っている。だ
が死に絶えた村というわけでもなく、村は城下町に出荷する暖炉の
薪を作ったり、同じく城下町で売るために狩猟を活発的に行ってい
る。
それとエトラスは、北部地域と首都ハルディロイを繋ぐ中継点と
して役目を果たし、船を使わない商人や旅人は必ずエトラス村に訪
れる。村人は彼等のために宿を提供し、獲った獲物を売買していた
387
りする。⋮⋮まあ最近では海上貿易が発展し始め、その役割も徐々
に消失しているのだが。
村の構造はとても単純であり、比較的なだらかな緩傾地帯に木造
家屋がまばらに立ち並んでいる。大体の家屋は平屋であり、装飾や
色付けなどは一切行われていない。更に所々では豚や鶏、そして乳
牛などの家畜を飼育してあったり、こじんまりとした畑を耕し、色
とりどりの野菜を栽培している。それ以外にめぼしいものは見つか
らない。
︱︱そんなのどかな村で、ある珍事が起きていた。
それが果たして良いか悪いかはさておき、村ではその話題で持ち
きりだ。
現在も耳を澄ませると、あらゆる方面から聞こえてくる。
﹁やあねえ、まさかあのハルディロイ城が陥落しちしまうなんて﹂
﹁皇族はもちろん、あの六大将軍の二人も賊に捕まったそうよ。⋮
⋮全く、シールカードって奴等は危険極まりないねえ﹂
村の中央にある井戸付近で、中年の主婦たちがこそこそと話し合
388
っている。
その話題は当然︱︱二日前に起きた﹃ランドリオ首都陥落﹄につ
いてである。
﹁その通りよ。あーやだやだ、あんな連中が他にいると思うと気味
が悪いよ﹂
﹁しっ!⋮⋮奥様、忘れてますわよ。今は村長の家に﹂
﹁ああ、そうだったわ。にしても、村長は何を考えているのかしら
ね。︱︱いくら自分の孫娘とはいえ、シールカードを匿うなんて﹂
﹁きっと自分の身内のことしか考えてないのよ。村長らしくないっ
たらありゃしない﹂
井戸に集う主婦達は笑う。
シールカードという存在に対して嫌悪感を露わにし、尚も非難の
言葉は続く。
一方、大きな荷台を引き摺る男達の会話も聞こえてくる。
389
﹁ああ、どうすんだこの状況。これじゃ商売も出来やしねえよ⋮⋮﹂
﹁んだな。⋮⋮もしも聖騎士様がいらっしゃったら、こんな惨事に
もならなかっただろうにな﹂
男の一方は深く溜息を吐き、過去の英雄に思いを馳せる。
﹁いない人の話をすんな。それに聞いた話だと、あいつは戦場から
逃げたって話じゃねえか。そんな奴に期待するわけねえど﹂
﹁あん!?おめえ今なんつった!あん人はそんなお方じゃあねえ!
!﹂
﹁ああ分かった、分かったよ。⋮⋮けどおめえ、何でいきなり聖騎
士の話を出したんだ?﹂
なだめつつ、男は不思議そうに尋ねる。
﹁⋮⋮二日前の﹃アレ﹄のせいだ。若え奴等が繰り返し﹃聖騎士様
だ、聖騎士様だ﹄言うんだからよお﹂
390
﹁⋮⋮あのシールカードの娘っ子と一緒に倒れてた坊主だか?有り
得ねえ、あんなひょこっと出てくるか?﹂
﹁さあなあ。まだ眠ってる今じゃ何も質問出来ねえし、そもそも村
長が許すわけねえ﹂
﹁当たり前だ。村長は孫娘守るために、俺達を近づけない気だけん
の。⋮⋮⋮⋮いやいや、それよりも商売の話だ。はっきりしねえ噂
話をしても仕方ねえし、今はオラ達の生活が懸かってるんだ﹂
男達の話題は、やがて自分達の生活の話へと切り替わる。ハルデ
ィロイ全体が危険な状態にある以上、決して自分達の生活に支障が
及ばないわけではないからだ。
彼等だけでなく、多くの村民が同じような話題を繰り広げていた。
冗談めいた会話もあれば、真面目に談議する者達もいる。今の状況
を考えれば、仕方のないことだ。
︱︱偶然聞いたゲルマニアは、そう納得するしかなかった。
391
時を同じくして、ゼノスはようやく目を覚ました。
丁度いい涼風を感じながら、ベッドから上半身を起こす。
﹁⋮⋮⋮⋮ここは、どこだ?﹂
朦朧とした視界を頼りに周りを見渡す。自分は木製のベッドの上
にいて、そしてその向かい側には小さい机が置かれ、脇には本を収
納した小さい本棚がある。右を見ると窓があり、左を見れば扉が見
える。この部屋を言葉で説明するとこれくらいだろうか。他に特徴
的なものは見受けられない。
︱︱と、そこでゼノスはある事に気付く。
﹁⋮⋮何ともない﹂
392
ゼノスは両手両足を動かし、二回ほど深呼吸をした後に呟く。
記憶が正しければ、自分の身体は病魔に侵されていたはずだ。あ
の苦しみがないとなると、自分は一体どれほど眠っていたのだろう
か?
様々な疑問が浮かぶ。だが、とにかく起きよう。
ゼノスはそう思い立ち、﹁よし﹂と意気込んでから立ち上がる。
味気ない寝間着に裸足の状態で窓へと歩み寄り、風で揺らぐカー
テンを開ける。
窓から広がる光景に、ゼノスは目を見開いた。
︱︱目前に広がるのは、山間に構えられた小さな村。もちろんの
事、ゼノスはこの場所を知っている。
﹁⋮⋮ここはロウゼン山脈のエトラス村か。けどなんで、ハルディ
ロイ城からここまで来てるんだ⋮⋮﹂
393
疑問は更に深まる。この世界に﹃魔法﹄という便利なものは存在
しないし、聖者の説く奇跡というものも実在していない。だがあの
状況から自分達を救いだし、ここまで運んでくれる者などいるはず
がない。そうなると自然に、ゼノスは魔法や奇跡のせいか?等と思
ってしまう。
そう思案していた矢先︱︱
ガチャ、とドアの開く音がしたので、ふいにその方向へと目を向
ける。
そこには、ゲルマニアが立っていた。
﹁︱︱ッ!ゼノス殿、起きたのですね!?﹂
彼女は嬉しさの余り、持っていた桶を落としてしまう。中にはお
湯とタオルが入っていたようで、ゲルマニアは﹁あわわわ﹂と急い
で乾いたタオルで床を拭き始める。
ゼノスはその様子を、呆気にとられたように見つめていた。
394
ちなみに今のゲルマニアは騎士装束ではなく、ごく一般の村娘が
着るようなエプロンドレス姿であった。簡素な焦げ茶色のワンピー
スの上に、純白のフリルが付いたエプロンである。動きやすさを重
視しているのか、スカートは膝丈のものだ。
騎士姿だと気付かなかったが、ゲルマニアはこう見ると中々魅力
的であった。胸も豊かで、スタイルも良くて、尚且つ美人で⋮⋮⋮
⋮いやいやいや、何を考えている。
ゼノスが要らぬ感想を思っていると、既にゲルマニアは後始末を
終えていた。
﹁す、すいません⋮⋮﹂
﹁あ、ああ。大丈夫。⋮⋮それよりも、無事だったんだな﹂
ゲルマニアは儚げに微笑み、頷く。
﹁はい、おかげさまで。⋮⋮その、ゼノス殿は?﹂
﹁大丈夫だ。⋮⋮それよりも聞きたいことがあるんだけど﹂
395
ゼノスが言うと、彼女は急に暗い表情を浮かべる。壁に掛けられ
た時計に視線を合わせ、そっと溜息を吐く。
﹁︱︱聞きたいことが山ほどあるのは分かります。けどそのことに
関しては、後で私の祖父が答えてくれると思います﹂
﹁そ、祖父?﹂
﹁はい。ここは私の生家であり、今はエトラス村の村長である祖父
が住んでいます。⋮⋮驚かれましたか?﹂
不安そうに問われるが、ゼノスは答えることが出来なかった。
そうだ、シールカードも元は人間だ。世間では異質な存在として
扱われているが、本来の彼等はもっと素朴な存在で、なりたくてな
ったわけじゃない。
︱︱そしてそれは、ゲルマニアも例外ではない。
﹁⋮⋮それよりもゼノス殿、今はその⋮⋮私の疑問に答えて頂いて
も宜しいでしょうか?もちろん無理に、とは言いません﹂
396
彼女は遠慮がちに聞くが、言葉には強い興味心が滲み出ていた。
様々な感情が混合しているのか、ゲルマニアは無言のまま、ゼノ
スをジッと見つめてくる。エプロンを両手で掴み、俯きがちになっ
ているその姿は⋮⋮まるで小さな少女のようであった。
﹁ああ、構わない。⋮⋮もう隠し事はしない﹂
その言葉に、ゲルマニアは驚いたように目を見開く。だがすぐに
意を決し、辛そうな瞳をこちらに向けてくる。
ここまで来て隠し事をする、それは何の利益にも繋がらない。ゲ
ルマニアと深く関わった以上、彼女には自分を知る権利がある。
ゼノスはそっと目を閉じ、ゲルマニアの言葉を︱︱彼女の本音を
耳にする。
﹁︱︱ゼノス殿は、白銀の聖騎士。それは間違いない⋮⋮のですか
?﹂
ある程度予想していた疑問に対し、ゼノスは素直に答える。
397
﹁⋮⋮ああ。俺は元ランドリオ帝国六大将軍が一人、白銀の聖騎士
だ。かつてこの国で起きた死守戦争で、姿をくらました奴だよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮!﹂
改めて聞かされ、ゲルマニアは思わず口元を抑える。
﹁そう、ですか。聖騎士様って、もっと年を重ねた人だと思ってい
ました﹂
﹁正体を知った奴はみんなそう言うよ。けど実際の年齢は20歳だ
し、ゲルマニアとそう変わらない﹂
﹁はは、そうですね⋮⋮﹂
それっきり、ゲルマニアは口を閉ざしてしまう。
風になびくカーテンの音だけが耳を過り、静寂の時が流れる。彼
女はもっと大事なことを聞きたいのに、上手くそれを言葉にするこ
とが出来ない。
398
今までどんな戦いを繰り広げて来たのか。どんな出会いと出来事
を経て聖騎士となったのか⋮⋮⋮⋮いや、今聞きたいことはそうじ
ゃない。
︱︱何故二年前、彼はこの国を去ったのか。
ゲルマニアはその真実を、彼自身の言葉で聞きたい。
きっと彼にとっては辛いことかもしれない。しかしそれでも、ゲ
ルマニアは真意を知る必要がある。何故なら彼女にとって、この答
えこそが運命の分かれ道になるのだから。
﹁⋮⋮あの、ゼノス殿。何で二年前、行方をくらましたのか。教え
てもらっても⋮⋮いいですか?﹂
ゼノスは一瞬だけ顔を引きつらせる。
しかし、この場で答えないわけにはいかない。ようやく彼女が紡
ぎだした誠意を、ここで踏みにじるわけにはいかない。
399
深く呼吸をし、少し経った後、ゼノスは答える。
﹁牢獄でも言った通り、俺は二年前に皆の期待を裏切った。︱︱救
うべきはずの民達を、この手で奪ってしまったんだよ﹂
﹁⋮⋮話には窺っていましたが、あれを止めることは出来なかった
と思います。それにゼノス殿、貴方はあの戦争で多くの人々も救っ
てくれました。決して咎められるべき行為では﹂
﹁それでもッ!!⋮⋮⋮⋮例え不慮の事故だったとしても、命を奪
ったことに変わりはないんだ﹂
ゼノスは今でも覚えている。
一つの村が滅びるあの瞬間を。人々は逃げ惑い、恐怖と不安を撒
き散らし、しきりに助けを乞いていた。ゼノスは助けようとしたが、
始祖との戦いで実現出来なかった。
結果として一つの村は終わりを迎え、聖騎士は一部の民達から恨
まれることになった。
そして彼はその非難を恐れ、自分の弱さが上回り⋮⋮逃げ出した。
400
ゲルマニアに以上の出来事を話すと、彼女は何を言うこともなく、
ただジッとゼノスを見据えていた。今のゼノスでは、彼女が一体何
を考えているかまでは分からなかった。
︱︱ふと、下の階から玄関の扉が開く音が聞こえた。
恐らく、ゲルマニアの祖父が帰って来たのだろう。
﹃おーい、ゲルマニアや。ちょっと手伝ってくれんかのー﹄
﹁あ、今行くよ!⋮⋮すいませんゼノス殿、変なことをお尋ねして
しまって﹂
﹁気にするなって。それよりも帰って来たのか?﹂
﹁はい、そのようです。ゼノス殿はどうします?もう動けそうです
か?﹂
ゼノスはそう問われ、試しにもう一度両手両足をその場で動かし
てみる。身体は大丈夫なようで、これならもう完治していると言っ
ても過言ではないだろう。
401
﹁大丈夫だ。︱︱早く現状を聞きに行こう﹂
こうしているだけでも時間が惜しい。
そう言わんばかりに、焦る気持ちを抑えて急いで部屋を後にする
ゼノスであった。
402
ep25 エトラス村︵改稿版︶︵後書き︶
2016年3月18日現在、改稿を進めております。
403
ep26 騎士のギャンブラー︵改稿版︶
既に日が暮れた頃、ゼノスとゲルマニアは階下の居間へと向かう。
そこには丁度抱えていた農具を下ろす老人の姿があった。歳は六
十前後のようであり、短く刈られた髪と髭は白く染まっている。と
ても頑固そうな出で立ちであるが、見た目とは裏腹に、彼は相好を
崩す。
﹁ただいま、ゲルマニアや。それと⋮⋮よくぞお目覚めに。我等が
英雄、白銀の聖騎士殿。お加減の方はもう宜しいのですか?﹂
その老人︱︱いや、ゲルマニアの祖父でもある長老は深く頭を垂
れ、ゼノスに敬意を示す。
﹁この通り、もう大丈夫です。手厚い看護を受けて頂き、感謝する﹂
﹁いえいえ滅相もない!貴方様には過去何度も救われてきました故、
これしきは当然のことです。ささ、どうぞお掛けになって下さい。
404
色々と聞きたい事もございましょう﹂
お言葉に甘え、ゼノスは近くにある椅子へと腰を下ろす。ゲルマ
ニアは﹁何か温かいものを入れますね﹂と言って、お茶の用意をし
始める。
長老もゼノスの向かい側に座り、まずは深く深呼吸をし始める。
﹁ふう、年は取りたくないものですな。今更ではありますが、孫娘
のゲルマニアが羨ましく感じますよ﹂
﹁⋮⋮悪いが長老、今は一刻を争う。今は現状を教えて貰ってもい
いか?﹂
﹁ああ⋮⋮そうですな。少々長くなりますが、私の知る限りのこと
をお話ししましょう﹂
長老はゼノスに対し、ランドリオ帝国の現状を伝え始める。
まずは盗賊のシールカードが城を攻め入り、城を制圧したのは二
日前だと語った。この時点で自分が二日間も眠っていたことに驚き
を隠せないが、長老は尚も驚愕の事実を伝えてくる。
405
︱︱リカルド皇帝、そしてその妻になる予定である前皇帝陛下の
娘、皇女アリーチェ。
以上二人の公開処刑を、城下町の大広場で執り行うらしい。
﹁⋮⋮⋮⋮ッッ!!長老、公開処刑の予定はいつだ!?﹂
激しい動揺を露わに、ゼノスは激しい口調で尋ねる。
﹁あ、明日の夕刻にやるとだけ聞き及んでおります。さ、さきほど
盗賊が送って来た書簡によればでありますが⋮⋮﹂
明日の夕刻。
ゼノスはこめかみを掴み、歯を食いしばる。ここから山脈の麓ま
で下るだけでも半日、特に夜間の下山となると更に時間が掛かるだ
ろう。麓から街道に入り、ハルディロイ城まで駆け足で行けば⋮⋮
恐らく一日半以上は費やす。
もしそうならば、とても公開処刑には間に合わない。例え辿り着
いたとしても、そこで見るものは血塗れの処刑台、そして無残にも
切り落とされた二人の首だけだ。
406
そしてそれ以前に、ゼノス達には勝てる見込みがない。
あの制約とやらがマルスの手中にある以上、また病魔の餌食にさ
れるだけだ。その危険性を承知で突っ込むほど、ゼノス達は盲目に
なっていない。
︱︱だがどうする?
ただこうして、指をくわえたまま黙っていろというのか?
﹁⋮⋮くそ!﹂
ゼノスはやり場のない怒りに苦悩し、顔を俯ける。
その様子を見て、長老はそっと言い放つ。
﹁⋮⋮お困りのようですな。もし私の想像する通りならば、良い方
法がございますぞ﹂
﹁⋮⋮良い方法?﹂
407
﹁ええ。︱︱そうだろう、ゲルマニアや?﹂
長老は今まで黙っていたゲルマニアへと目をやり、問いかける。
彼女は一拍置き、強く返事する。
﹁︱︱はい。恐らくこれは、唯一にして絶対の方法であると思いま
す﹂
自信満々にそう返し、ゲルマニアは隣に座るゼノスへと向き直る。
﹁ゼノス殿⋮⋮⋮⋮私を、騎士のシールカードを使役するギャンブ
ラーになって下さい﹂
﹁なっ︱︱﹂
突然の提案に、ゼノスは思わず声を漏らす。
あの日、虚空に呟いていた言葉。それを彼女は︱︱ゼノスに向け
て言い放った。
408
﹁貴方ならば、きっとこのカードを受け入れることが出来る。いえ、
貴方以外は考えられない。私を使ってさえくれれば、絶対にマルス
を倒せます!︱︱だから!﹂
彼女の熱意に反し、一方のゼノスは複雑な表情を浮かべる。
⋮⋮嗚呼。確かに今考えられる方法はそれしかない。シールカー
ドの力に対抗するには、それと同じ力を有するシールカードを頼る
しかないはずだ。果たして病魔の脅威から避けられるかは定かでは
ない。しかしこれ以外の手段を探す暇はない。
︱︱ゲルマニアを終わりの見えない戦いに連れ出し、力を得る。
だがそれでいいのか?
ゲルマニアはあの時、牢獄の中で共に戦ってくれることを誓って
くれた。
彼女自身は覚悟を決めているようだが、それが彼女の幸せに繋が
るのだろうか?⋮⋮ゼノスはこれ以上、自分のせいで他人を犠牲に
したくない。
409
ついつい重ねてしまうのだ。彼女の選択した未来と、あの村で命
を失った人々のことを。
﹁⋮⋮ゼノス殿?﹂
﹁悪いゲルマニア。少し⋮⋮ほんの少しだけでいい。⋮⋮⋮⋮ちょ
っとだけ考えさせてくれ﹂
今のゼノスに言えることは、これだけであった。
時間が惜しいのは分かっている。ただそれでも⋮⋮心の整理が必
要だった。
﹁⋮⋮そんな、でも﹂
﹁ゲルマニア、すまんがちょっと買い出しに行ってくれんかの。ほ
ら、いつもお前さんが通っていた商店に﹂
﹁え?﹂
ゲルマニアの言葉を遮るように、長老は唐突に買い出しを頼んで
410
きた。
彼の意図を察したのか、ゲルマニアは﹁⋮⋮う、うん﹂とだけ言
って立ち上がり、入り口に掛けられた買い物カゴを持って外へと繰
り出す。
そして、しばし沈黙の時が流れる。
暖炉の中の薪が弾ける音、外の寒々しい風が窓を叩き付ける音。
今この場を支配している音はそれだけであった。
湯気立っていた目の前の茶もすっかり冷えた頃、長老から言葉を
紡ぎだしてきた。
﹁︱︱少しだけ昔の話をしても良いですかな﹂
﹁⋮⋮昔の話?﹂
﹁ええ、とはいえほんの二年前の話ではありますが。⋮⋮あの子が
シールカードという定めを負った時からの話ですよ﹂
そうして長老は、ゲルマニアという少女の記憶を辿り始めた。迷
411
う心に終止符を打たんと願いながら、彼は当時を物語る。
︱︱今から二年前、ゲルマニアはまだ村娘としてここに住んでい
た。
天真爛漫なその性格故、彼女は老若男女に好かれていた。一方の
彼女にとっても、幼い頃に両親を失っていたためか、村の人全員を
家族のように慕っていた。
これまでも、そしてこれからもずっとこの村で生き続ける。ここ
で結婚し、ここで子どもを産み、戦いも何もない生涯を過ごしてい
く。︱︱この頃のゲルマニアにとって、それこそが全てであった。
だがそんな未来も、あの日を境に叶うことはなかった。
二年前、ゲルマニアは空から落ちてくる光の物体と衝突し︱︱三
日三晩の昏睡から目覚めた時、彼女はシールカードとして覚醒した。
シールカードとして再誕した場合、普通ならそのカードに封じら
れるはずである。しかし彼女は何故かカードに封じられず、ただ騎
士のシールカードだけが一枚、その手に残っていたという。それは
今も同様であり、原因は未だ分かっていない。
412
最初こそ何かの間違いだと考えていたが、身体の変調がそれを否
定していた。細身でありながら尋常ならざる怪力を顕現させ、光の
源が多い場所では異様な眩暈と吐き気を覚えるようになった。
既にシールカードという存在が周知されているため、その異常な
力を見た村民はすぐさま確信した。︱︱あいつはシールカードにな
ったんだと。
それからというもの、ゲルマニアに対する村民の態度は一変した。
関わりたくない一心で彼女を避けるようになり、誰もがゲルマニ
アを化け物として認識するようになったのだ。もちろん一部の態度
は変わらなかったが、およそ大半の人間は恐ろしい対象として見て
いたに違いない。
彼女と親しかった友人も、子どものように見守ってくれた隣人も、
自分に想いを寄せていた者も、皆が彼女から離れていく。
あの瞬間から、ゲルマニアは生きる意味を失った。
﹃⋮⋮どうして私なの?﹄
413
彼女はいつも、そんな言葉を漏らしていた。陰鬱な表情を見せな
がら、いつも神を呪い続けていた。
村の子供達から石を投げられた時、村の婦女子達から陰険な嫌が
らせを受けた時、村の男達から直接的に罵倒を浴びせられた時⋮⋮
⋮⋮いつもいつも、自分の不幸を嘆いていた。
かくして、彼女にとっての転機はその時期に訪れた。
ある晴れた昼下がりの頃、村にしがない吟遊詩人がやって来たの
だ。彼は老いぼれていて、見た目も清潔ではなかった。薄汚れたと
んがり帽子を被り、よれよれのマントをなびかせ、錆び付いたハー
プを手に持っていた。当然の事ながら、彼の歌を聞こうとする者は
いなかった。
しかしゲルマニアだけは違った。彼女は少しでも癒しを求めよう
と、村の外れに座っていた彼に、歌を唄ってくれたと頼んだ。
彼は快諾し、自分が最も好む英雄譚を聞かせてくれた。
﹁⋮⋮それが貴方様の英雄譚、白銀の聖騎士の栄光を謳ったもので
す﹂
414
﹁⋮⋮俺の、英雄譚﹂
ゼノスはふと、まるで他人事のように唱える。
世間の吟遊詩人が自分の武勇伝を歌にしていることは知っている。
だが彼等は直接見聞きしたわけでもないし、大抵の歌は劇的なもの
となっている。妙に誇張された部分もあれば、決して存在しない部
分もある。だからゼノス含む六大将軍にとって、自分のことを語っ
ているように聞こえないのである。
しかし、吟遊詩人にとってはどうでもいい些末なことだ。
長老の話によると、彼は多くの物語を聞かせてくれたという。そ
の大いなる力を用いて、人々を救い、国を守り、栄光を掴んだ彼の
生き様を。
ゲルマニアはそれを聞いて、自分の中で何かが弾け飛んだと言っ
ていた。
自分など到底及ばないほど、白銀の聖騎士は多くの苦しみを味わ
い、沢山の挫折を経験してきた。しかしそれでも尚、彼は抗い続け、
英雄として功績を上げてきた。
415
とてもかっこよくて、時間の流れさえも忘れるほどに︱︱彼女は
彼の英雄に心酔した。
この力を用いて、彼のような英雄になりたい。そうすれば自分を
忌み嫌われなくて済むし⋮⋮何よりも、白銀の聖騎士と共に戦える。
彼の力になれれば、きっと自分の力も良い方向に役立つ。
それが、あの日決めた彼女の決意。
長老は知っている。⋮⋮その願いこそが、今のゲルマニアにとっ
て最高の幸せなのだと。今でも彼女の放った言葉は覚えている。傷
だらけになりながら、腫れ上がった顔を輝かせながら、
﹃おじいちゃん、私強くなる。強くなって、皆に認めてもらって、
争いの無い世の中を創りたい!⋮⋮できたら、聖騎士様と一緒に創
りたい﹄
そう、彼女は強い意思を以て宣言した。
﹁⋮⋮﹂
416
﹁如何ですかな聖騎士殿。これでも悩む理由がありますか?﹂
彼はにっこりと微笑みかけ、暖かいお茶が入ったポッドを見せて
くる。もう一杯どうですかという意味だと分かり、ゼノスは慌てて
冷えたお茶を飲み干し、もう一杯貰うことにした。
長老自身も暖かいお茶を湯呑につぎ足し、言葉を続ける。
﹁聖騎士殿︱︱いえ、ゼノス殿。こう言っては何ですが、私は貴方
様の下で戦うことこそが、今のゲルマニアの幸せに繋がると思って
いるのですよ﹂
﹁⋮⋮けど長老、俺が戦う相手は並大抵じゃない。それに今回だっ
て、正直勝てるかどうかも分からない戦いだしな﹂
﹁ええ、承知しております。もちろん昔のゲルマニアだったら、私
は間違いなく止めておりました。けど今は違う。あの子はランドリ
オ帝国の騎士であり、私もゲルマニアも相応の覚悟はしている﹂ 長老はまっすぐゼノスを見据え、真摯な瞳を向けてくる。
そこには一切の迷いも見られず、どこまでも透き通っていた。な
417
るほど、確かにゲルマニアとどこか似ている。
真面目で頑固で︱︱何よりも自分の意思を徹底的に貫き通す。
まるで今のゼノスが馬鹿のようだ。ここまでの覚悟を持つ者達に
対して、何を逡巡している。
ここで選択する道は、もう一つしかないというのに。
ゼノスが恐れていたら、何も始まらないというのに。
﹁︱︱︱︱﹂
ゼノスはまだ温かい茶を最後まで飲み、席を立つ。すぐそばのポ
ールハンガーに掛けられた自分の赤いジャケットを羽織り、玄関の
戸口へと歩み出す。
﹁ゼノス殿、どちらへ?﹂
﹁⋮⋮ゲルマニアのとこだよ﹂
418
一言だけそう言い残し、ドアノブへと手を掛ける。気持ちが急い
ているのか、心臓の高鳴りが止まらない。
⋮⋮すまない、ゲルマニア。悩んでいた俺が馬鹿だった。
そう心の中で反芻させながら、勢いよくドアを開ける。
﹁︱︱ぷぎゃッ!!﹂
と、何やら奇妙な悲鳴がドアの向こう側から聞こえてきた。
⋮⋮ん? 聞き慣れた声だったので、ゼノスは嫌な予感がした。ちょっとだ
け開いたドアの隙間から、青ざめた表情で覗いてみる。
するとやはり、戸口の前で仰向けに倒れているゲルマニアがいた。
⋮⋮その額には明らかにたんこぶが出来ていた。
﹁⋮⋮うぅ、痛いです﹂
419
﹁⋮⋮ごめん﹂
苦笑いを浮かべながら、ゼノスは素直に謝るしかなかったのだっ
た。
ゼノスとゲルマニアは家から出て、そのまま屋根上へと登ってい
た。
他の家と比べてなだらかな屋根の為、ゼノスは思いきって寝転が
ってみる。すると満天の星空が視界を覆い尽くし、天然の﹃プラネ
タリウム﹄が完成していた。⋮⋮まあ、この世界の人間は﹃プラネ
タリウム﹄なんて分からないだろうが。
420
そんな寒空の下で、ゼノスとゲルマニアは隣り合っていた。
ゼノス自身はここで決意を露わにするつもりだったのだが、
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ゲルマニアは膨れ面の状態のまま、無言で買ってきたマンゴーを
かじっていた。対するゼノスはその雰囲気に圧され、居心地の悪い
様子で同じくマンゴーを食べている。自分の為に買ってくれたらし
いが、お礼さえも言いづらい状況だ。
さてどうしたものかと悩むゼノスであったが、意外にもゲルマニ
アから切り出してくれた。
﹁⋮⋮痛かったです﹂
﹁わ、悪い。まさかあんなタイミングで来るとは思わなくて﹂
﹁ふん、どうでしょうか。聖騎士ともあろう方が、気配に気付かな
かったとは思えません﹂
421
強まるジト目がゼノスを射抜いてくる。
言い返す余地もなく、ただただ気圧されていた。
﹁⋮⋮ふふ、冗談ですよ。確かに痛かったのは事実ですが、そこま
で怒ってませんから﹂
﹁は、はあ﹂
突然態度が柔らかくなり、ゼノスは終始挙動不審であった。当の
ゲルマニアとしては、この状況を楽しんでいるようにも見える。
彼女はそっと微笑み、視線を満天の星空へと向ける。
﹁それで、決心はついたのですか?﹂
﹁ああ。まだ不安に思うことは沢山あるし、これが正しい決断なの
かは分からない﹂
きっといつか、この選択を後悔するかもしれない。
422
ただそれでも、今辿れる道は限られている。分かれ道などあるは
ずもなく、ゼノス達はただ突き進むしかないのだ。
ゼノスは今の気持ちを、本音を伝える。
﹁︱︱ギャンブラーになって、このランドリオを救ってみせる。だ
からその⋮⋮力を貸してほしい﹂
満天の星空を見仰いでいたゲルマニアは、強い瞳を以てゼノスを
見返す。
そこには揺るぎない、騎士としてのゲルマニアがいた。
﹁⋮⋮宜しくお願いします、ゼノス殿。絶対に⋮⋮絶対にこの国を
救ってみせましょう!﹂
﹁もちろんだ。ああそれと、俺のことはゼノスでいいよ﹂
﹁え、ですが⋮⋮﹂
﹁いやその、殿っていうのは何か堅苦しいからさ。昔からそう呼ば
423
れるのは苦手だったんだ﹂
ゲルマニアは目をしばしばさせるが、やがて理解に至ったのか、
ふっと口端を上げる。
﹁分かりました。︱︱それではゼノス、さっそくですがこれを﹂
そう言ってゲルマニアが取り出したのは、一枚のカード。それが
騎士のシールカードだということは一目瞭然であった。
シールカードを右手に持ち、彼女は祈るように念を送る。
そこに多くの願いを込めて、決して揺らぐのことない忠誠を誓う。
︱︱果たして思いが届いたのか、シールカードは眩い光を放った。
暗い夜の世界を明るく照らし、ゼノスとゲルマニアの周囲は白昼
のような空間に包まれる。とても仄かな暖かさであり、まるで日差
しを浴びているような感覚だ。
424
シールカードはゲルマニアの手から離れ、自らの意思で宙を舞う。
そして何度も横に回転しながら、カードはゼノスの胸元へとやっ
てくるが︱︱
まるで拒絶するかのように、カードは甲高い響きと共に弾かれる。
﹁きゃあっ!﹂
﹁うおっ!﹂
あまりにも突然な出来事に、二人は仰け反る。
気付けばシールカードはゲルマニアの手へと戻っていて、先程の
ような光は放っていなかった。
﹁⋮⋮失敗、したのですか?﹂
﹁い、いや分からない。けどギャンブラーは確か⋮⋮﹂
そう言って、ゼノスはマルスを思い出す。
425
奴は自らの手にシールカードを有しており、それを自在に扱って
いたはずだ。通常の例というものは知らないが、もしギャンブラー
となった場合、カードはギャンブラーに譲渡される。
しかし事実問題、カードはゼノスを拒むように弾き飛ばされた。
⋮⋮失敗?
﹁︱︱︱︱︱︱ッ﹂
そう思った矢先、変化は唐突に訪れた。
ドクン、と身体全身が跳ね上がるような心臓の鼓動が聞こえる。
それだけじゃない。ありとあらゆるエネルギーがゼノスの身体を
駆け巡り、言い表せない高揚感に満たされる。とても新鮮な感覚?
⋮⋮いやそうではない。初めての体験にも関わらず、ゼノスはこの
満たされた感覚を﹃懐かしい﹄と感じていた。
︱︱そう、二年もの間忘れていた感覚だ。
426
﹁⋮⋮ゲルマニア、どうやら成功したようだ﹂
﹁え⋮⋮そ、それは本当ですか!?﹂
﹁ああ。完全に成功したかどうかは分からないけど、なんかこう⋮
⋮力が溢れて来るんだ﹂
これは決して偶然ではない。
この出来事を以てして起こった、それだけは事実だと思う。
彼女はそんなゼノスの言葉にホッとし、嬉しそうにはにかむ。
︱︱こうして、二人は繋がった。
これから起こる戦いのために、いつか訪れて欲しい平和のために。
427
ゼノス・ディルガーナは、騎士のギャンブラーとなった。
428
ep27 戦地を目指して
新たな決意と力を手に入れたゼノスは、さっそく行動に移る。
村長の家に戻ったゼノスとゲルマニアは屋根上での経緯を話した
上で、今すぐハルディロイに向かうことを話した。
﹁⋮⋮なるほど、ならば具体的な移動方法をお伝えしなければなり
ませんね﹂
﹁そうだな。⋮⋮ギャンブラーになれば通れる道があるんだろ?﹂
﹁なればというよりも、本来の力を持った貴方様ならば⋮⋮と言っ
た方が良いでしょう。エトラス村は知っての通り、昔は鉱山の村と
して栄えておりました。村の外れには今も採掘所の跡があり、この
エトラス山脈全体に張り巡らされております﹂
長老は事前に用意した地図を取り出し、それをテーブルの上に広
げる。
429
インクの霞んだ地図には、採掘所全体の構造が描かれていた。村
の入り口から幾重に枝分かれし、その複雑な道を事細かに記述され
ていた。
﹁こ、こんなのあったんだ﹂
ゲルマニアは初めて見たのか、驚いた様子で呟く。
﹁ふふ、これは先祖代々受け継がれてきた地図だよ。本当ならばゲ
ルマニアに託す予定であったが⋮⋮っと、今はどうでもいい話です
な。つまりこの採掘所は、色々な場所へと繋がっているのですよ﹂
﹁⋮⋮ということは、ハルディロイの近くにも行けるのか?﹂
長老は頷く。
﹁先程確かめてみたのですが、首都ハルディロイの正門付近に抜け
られる道があるそうです。恐らく発掘した鉄鉱石を首都に運べるよ
う、輸入ルートを確保したのでしょう。その道を辿っていけば、ぎ
りぎり公開処刑には間に合うと思います﹂
それを聞き、ゼノスはほっと息を吐く。
430
﹁︱︱しかしゼノス殿、一つ問題があります﹂
﹁問題?﹂
﹁ええ、というのもこの道には沢山の魔獣が蔓延っているのです。
長年使われていなかったせいか、暗くてジメジメとした空間を好む
魔獣が居座ってしまったのでしょう﹂
長老の言葉に、そりゃそうだろうなとゼノスは思う。
ちなみに魔獣というのは、悪魔が精製した実験物だと言われてい
る。詳しい起源は分からないが、神獣や悪魔よりは遥かに劣る敵だ
が、人々の生活を邪魔する存在︱︱というのが世間一般の認識だ。
⋮⋮とはいえ、これが問題か。
長老たちにとっては大問題だろうけど、ゼノスにとってはさした
る問題ではない。しかも今のゼノスにはゲルマニアも付いている。
その様子を見て、長老は一人納得する。
431
﹁⋮⋮まあ、問題は解決済みですな。ならば今すぐご案内いたしま
しょう﹂
﹁それはいいけど、おじいちゃん無理しないでね?﹂
﹁おいおい。流石にこんな寒い中案内できるほど、私は若くないよ。
︱︱けど安心しなさい。もう案内をしてくれる人たちは呼んである﹂
村長は﹁きてくれ﹂とだけ言い放つ。
すると戸口から、若い青年が四人ほど入ってくる。
そして彼等は開口一番、ゼノスにこう言ってきた。
﹃お久しぶりです!聖騎士殿!!﹄
﹁お、おお⋮⋮﹂
突然の出来事に、ゼノスは生返事をする。
見た所、彼等はこの村に住む者達のようだ。ゲルマニアの呆気に
432
とられた表情を見る限り、間違いはないだろう。
しかし一体、何が久し振りなのだろうか。幾ら記憶を探っても、
ゼノスはどうしても彼等のことを思い出せなかった。
するとその心情を悟ったのか、一人の青年が気恥ずかしい様子で
答える。
﹁はは⋮⋮その反応は無理もありません。自分達は昔、この村の付
近で聖騎士様に救われた経験があるのですよ。魔獣に襲われていた
自分達を、一瞬の間に助けてくれたのです﹂
﹁魔獣⋮⋮⋮⋮ああ!﹂
ゼノスはようやく思い出した。
確かに自分は、昔この村の近くで魔獣を討伐した覚えがある。あ
まりにも一瞬の出来事だった故、すっかり忘れていた。
しかもその時は休憩中で、偶然にもゼノスは兜を脱いでいたのだ。
恐らくその時に、彼等はゼノスの素顔を見たのかもしれない。こう
してゼノスが聖騎士だと分かったのも、それが理由だろう。
433
⋮⋮さて、それはともかくとして。
ゼノスは長老へと向き直り、再度確認する。
﹁長老、この四人が案内してくれるんだな?﹂
﹁ええ。もちろん採掘所の入り口まででなく、ハルディロイ城下町
まで案内いたします﹂
﹁それは有り難いけど⋮⋮危険を承知の上でやってくれるのか?﹂
青年たちに問うと、彼等は即座に頷く。
﹁はい!あの日救われた恩を今返したいのです!︱︱聖騎士様とゲ
ルマニアさんが偉業を成す為にも、我々も命を懸けてお助けします
から!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮有難う﹂
ゼノスは感謝の念を込めて答える。
434
まだ自分を慕ってくれる者がいる。それだけで、ゼノスの心は満
たされていた。一方のゲルマニアは微妙な空気を放っているが、こ
こで何かを言うつもりはないのだろう。若干目を反らしつつも、事
の行方を見守っていた。
こうしてゼノス達は、必要最低限の準備を終えて村を後にした。
腰にロングソードを吊るし、片手にたいまつを持った状態のまま
採掘所へと向かう。そう遠くない距離にあると聞いた通り、採掘所
の入り口は村から約五分程度の場所にひっそりと佇んでいた。
両脇に豊かな針葉樹林が広がる中、不気味な様相を醸し出してい
た。
﹁︱︱それではお二人共、ここから採掘所の中に入ります﹂
一人の青年の言葉に、ゼノスとゲルマニアは剣を抜く。
ここから先は魔獣の巣窟であり、この案内人たちを守りながら通
る必要がある。自然と二人の緊張は高まり、重苦しい空気が辺りを
漂う。
435
︱︱さて、行こうか。
一刻も早く、公開処刑を止めなければならない。
国はもちろん、戦友と︱︱︱︱︱我が主君であるアリーチェ様の
ために。
436
ep28 聖騎士VS盗賊王︵改稿版︶
かくして、運命の時がやってきた。
ゼノス達の必死な抗いを嘲笑うかのように、公開処刑の時間であ
る夕刻が訪れる。茜色の空が果てまで広がり、黄昏色の太陽光が城
下町全体を照らす。それは希望の光にも見え、絶望の光にも見えた。
既に公開処刑の準備は整っており、中央の広場は多くの市民でご
った返していた。そしてそこには当然、盗賊のシールカードが警備
を行い、シルヴェリア騎士団一行に六大将軍二人、そしてアリーチ
ェ皇女殿下とリカルド皇帝陛下の身柄を捕えていた。
両手を特殊な縄で拘束され、何も抵抗できない状態でだ。幾ら六
大将軍といえど、病魔による疲労と未知なる力には敵わなかったよ
うである。
この状況に、町の皆は終始戸惑いを隠せない。最強と謳われた騎
士達が囚われ、今まさに主君たちが処刑されようとしている。誰も
が信じられないと思い、同時に深い絶望を植え付けられていた。
437
若い人間は強い憤りを堪え、年寄りは何度も祈りを捧げ、子供達
は不安と恐怖のあまり身を縮こませ、終いには泣き出す子まで出て
くる。
そんな重苦しい雰囲気が場を制す中、ある男の声が響き渡った。
﹁⋮⋮さて、これより始めようか。傲慢なる王政を廃し、輝かしい
民主主義を手に入れるために。今よりこの場で、皇帝リカルドと皇
女アリーチェの処刑を執り行う!﹂
その男︱︱マルスの宣言と共に、市民達はさらにざわめく。
市民達の視線は処刑台へと集まる。そこにはリカルドが喚きもせ
ず、ただじっとその時を待っていた。何も言葉を発することもなく
⋮⋮マルスを見据えていた。
この場で怒りを露わにしているのは、両手を両足を特殊な鎖で拘
束された者︱︱アルバートであった。
438
﹁貴様⋮⋮マルスっ!騎士として恥じるべき行為だと思わんのかっ
!﹂
アルバートの憤怒の叫びに、マルスは振り返り、下卑た笑みを浮
かべる。
﹁戯言は程々に願います。私の復讐は、その程度の言葉では終わら
ない。⋮⋮貴方ならば分かると思っていたのですがね﹂
﹁馬鹿を言うでないわ!確かに陛下の行いは間違っている!じゃが
こんな形で終わらせてはならん!これでは、守るべき民をも巻き込
む羽目になるぞ!!貴様は己が信念のために、恐怖をもって統率す
るつもりか!?﹂
﹁くははっ、それは当然のことでしょう?第二のリカルドが現れな
いよう、この私がしっかりと管理する必要があるのさ。︱︱多少の
犠牲があってでも、成し遂げる﹂
それこそが真の平和に繋がる。騎士国家といえど、この国はまだ
貴族主義という面を残している。あの残酷で傲慢な連中を排除し、
民の代表たる騎士こそが一番となる。
︱︱復讐と革命。彼は同時にそれを成そうとしていた。
439
﹁ぐっ⋮⋮き、貴様ァ!﹂
アルバートは怒りに身を任せ、後ろでに縛られた縄を解こうと身
悶える。
しかし縄はビクともしない。あの怪力で有名なアルバートでさえ
も、今の状態では動くこともままならなかった。
﹁武器を持っているのに抜く事も出来ず、そうして暴れている気分
はどうです?その拘束具は我がシールカードが編み込んだ特別な縄。
抗う術は愚か、動く事も出来まい﹂
﹁ぬ、ぬうっ⋮⋮!﹂
アルバートは一生懸命外そうと更にもがくが、全て徒労に終わる。
イルディエやニルヴァーナは既に分かっているのか、無駄な抵抗は
行わなかった。
マルスの目線はとうにアルバートを捉えていなかった。その代わ
り、彼はとある男を見下していた。
440
その男︱︱成す術もないニルヴァーナを見て嘲笑した。
﹁にしても、騎士団長殿は拘束される理由が分かりませんな。やれ
ば逃げられたかもしれないのに⋮⋮是非とも教えてほしいですね﹂
実際、マルスは茫然と立ち尽くすニルヴァーナを捕らえただけだ
った。必死に逃げれば助かったにも関わらず、自ら拘束される運命
を選択した。
マルスの問いに対し、ニルヴァーナはただ一言呟く。
﹁あえて言うならば、見定める為だ﹂
﹁⋮⋮何?﹂
ニルヴァーナの曖昧な一言に、マルスは神妙な面持ちを見せる。
それを意にも介さず、ニルヴァーナは俯きながら続ける。
﹁⋮⋮話は以上だ。今はそれだけしか言えない﹂
441
﹁︱︱訳の分からない男ですね。まあ抵抗さえしなければ、貴方は
生かして差し上げます。くれぐれも血迷った行動は慎むように﹂
そう言い終えたマルスは、すっと片手を天に掲げ宣告する。
﹁よし、まずはこのランドリオを破滅へと導いた現皇帝、リカルド
の処刑を行う!⋮⋮最後にリカルド、何か遺言はあるか?﹂
処刑人に断頭台の溝に首を入れられるリカルドに対し、平坦な口
調で唱える。
この異様な光景に、阿鼻叫喚に包まれていた市民達が押し黙る。
誰もがあのリカルドの独白を聞こうと、処刑台の方に耳を傾けてい
た。
︱︱そして彼の言葉は、意外なものから始まる。
﹁⋮⋮やっと、罪を償う事が出来るか。そして⋮⋮ようやくあの子
の元へと逝けるか﹂
442
それは誰もが予想できない一言であった。
絶対君主を唱えていた暴君が自らの罪を認め、そして自分の家族
に会いたいと願う。誰しもが想う願望ではあるが、まさかリカルド
の口から出るとは思わなかった。
マルスはその独白を聞き届け、おもむろに答える。 ﹁⋮⋮その感情がありながら、我が故郷を見殺しにしたのか。⋮⋮
本当に呆れましたよ﹂
マルスが冷徹に呟く中、皇帝リカルドは異様に冷静だった。
皇帝を知る者なら不自然に思えるだろう。だがこれが彼の本質で
あり、死を目前に己の弱さを自覚した本来の姿でもある。
何故今になって?
︱︱それは、今日まで牢獄にいたことが原因である。
443
リカルドはこの一週間、ずっと牢獄にいた。冷たい石畳の上に座
り、物思いに耽っていた。
今まで始祖の為に民から膨大な量の税を徴収し、始祖の為の研究
をしてきた。そして始祖と少しでも長く居られるよう、多くの罪を
背負ってきた。こうして皇帝として数年間居座り続け、全ては始祖
と自分の為に行動を起こしてきたのだ。
彼女が自分の娘であると信じて。
しかし︱︱それは全て無駄に終わる。
マルスによる自分とアリーチェの処刑を行うと告げられ、公開処
444
刑の前日に︱︱始祖は自分の牢屋の前へとやって来たのだ。
﹃おお⋮⋮娘よ。来て、くれたのか⋮⋮﹄
﹃⋮⋮辛そうだね﹄
初めて始祖は自分に語り掛けてきた。あの時は嬉しくて、一週間
の牢屋生活による疲労等、すっかり忘れていた。
﹃うむ、確かに辛い⋮⋮。だが、安心しなさい。我は死なぬ、お前
が生きている以上、我も死ぬわけにはいかぬ⋮⋮﹄
娘よりも先に死ぬわけにはいかない、自分が死んでしまったら、
一体誰が娘を養う?死ぬわけには⋮⋮今死ぬわけには⋮⋮。
そう思った矢先だった。︱︱彼女は、始祖は自分に言い放った。
知っている筈なのに、今まで知らぬふりを、自分に暗示を掛けて
まで逃避してきた事実を。知りたくも無い、認めたくも無い⋮⋮あ
の忌々しき出来事を、始祖は淡々と告げた。
445
﹃リカルド⋮⋮もういいよ。君の娘はね︱︱既に不治の病で死んで
いるんだよ?﹄
それは唐突だった。最初こそ何を言っているのか分からず、リカ
ルドはしばし沈黙した。
やがて、掠れた声で答えた。
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮な、何を言っているんだ娘よ。現にお前はこう
して﹄
﹃逃げないで、皇帝リカルド。今逃げたら、君は死んでも後悔する
事になる﹄
現実から逃避するな、事実を見据えろ。この哀れな皇帝に呆れ果
てた始祖は、彼の中に眠る真実を伝えた。
﹃さあ⋮⋮ゆっくりと目を閉じて。そして向き合いなさい、己の歩
んだ現実と。︱︱それが貴方を救い、この国を平和へと導くでしょ
う﹄
始祖の言い放つ平和とは何か、悪の元凶たる彼女の問うそれは⋮
446
⋮一体誰の為に言っているのか。今は誰も分からない。
しかし、今の始祖には確固たる意志が備わっていた。その意志が
彼の元へと近づかせ、こうしてリカルドを救おうとしている。
︱︱私の罪を償う為に、と呟きながら。
リカルドは促されるまま、瞳を閉じる。妙な心地良さを感じ、長
年見なかった夢へと誘い込まれる。舞台は自分がまだランドリオ大
貴族の一角を担い、ハルディロイ城から遠く離れた森の洋館である。
ぼんやりとした意識のまま、リカルドは当時の自分を見下ろして
いた。当時の自分は狼狽えた状態で、部屋のベッドに横たわる少女
の手を握っていた。少女はどことなく⋮⋮始祖と似ていた。
少女は苦しんでいた。その場には医者と看護婦も付き添っていた
が、彼等が何らかの処置を施す事は無かった。ただその苦しむ姿を
見据え、悔しそうに項垂れていた。
リカルドは泣き叫んでいた。少女はそんなリカルドに向けて無理
やりに笑みを作る。大丈夫、と言わんばかりに。
しかし少女の呼吸は次第にか細くなり、リカルドを見つめる瞳は
447
段々と閉じていく。リカルドがどんなに喚いても、死に行くという
現実からは抗えない。医者も匙を投げ、ただただ傍観しているのだ
から。
︱︱そして、少女⋮⋮いや、リカルドの娘は死去した。
リカルドは何度も娘の名を呼ぶ。何度も、何度も何度も何度も⋮
⋮声が枯れるまで呼んでいた。
﹃これ、は⋮⋮。わ、悪い冗談だ。我が娘は、我が娘は!﹄
リカルドの動揺もよそに、夢の舞台はまた切り替えられる。彼が
どんなに否定しても、走馬灯は展開されていく。彼の為にも、始祖
は自分の力で彼に真実の夢を見させる。
次の舞台は︱︱ハルディロイ城のとある地下室であった。
目の下にクマを浮かべ、先程の光景よりも痩せ細った状態のリカ
ルドは⋮⋮地下室に眠る始祖を見て⋮⋮歓喜の声を上げた。
娘が今目の前に︱︱我の前にいる!
448
始祖と娘は瓜二つだった。娘の死によって情緒不安定に陥ってい
た彼は、偶然迷い込んだ地下室にて彼女と出会い⋮⋮そして、彼女
を娘だと思いこんだ。
あの死は嘘だった!娘は紛れも無く生きている!
始祖は娘では無い。だが、その時からリカルドは彼女を娘だと信
じ切っていた。悲しみを払拭する為に、あの偽りの死の記憶を自己
暗示によって消し去り、娘を救おうと心に誓った。
⋮⋮それからまた、夢の光景は様々なビジョンを創り出していき、
未だ困惑するリカルド自身に見せていく。
自分が絶対の権力を得て始祖を手に入れる為に、前皇帝を暗殺し
た記憶。念願の始祖の復活を遂げ、死守戦争を起こした記憶。全て
は始祖の為に︱︱我が娘の為に⋮⋮⋮⋮。
しかし、夢を見終えたリカルドは⋮⋮分かってしまった。始祖が
見せた夢と、娘と似た声で告げられた真実に⋮⋮彼は理解してしま
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った。長年眠っていた記憶が目覚めた事で、始祖が娘でなかったと
悟る。
﹃⋮⋮我の、我の娘は⋮⋮⋮⋮﹄
﹃そうだよ、リカルド。君の娘は、この世にはもう存在しない。今
まで冒してきた愚行も⋮⋮君の自己満足でしかなかったんだよ﹄
﹃自己満足⋮⋮。は、はは⋮⋮そうか、自己満足﹄
いない人間の為に罪を冒し続けてきたリカルド。娘の為に生きよ
うとした彼の意志は⋮⋮脆くも崩れ去った。
あの死を思い起こし、涙を浮かべるリカルド。その姿を見届けた
始祖は、静かにその場から去って行く。
450
時はまた現実へと戻る。
あの日告げられた真実を思い起こした事で⋮⋮リカルドは正気に
戻っていた。今の自分は罪を償う立場にあり、こうして見つめてく
る民に対して⋮⋮死による償いが必要だと分かっていた。
今なら分かる。あのような愚行は、死んだ娘に対し無礼であると。
リカルドは静かに目を閉じ、皆に聞こえるよう告げる。
﹁⋮⋮私利私欲を抑圧できなかった私にとって、この最期はお似合
いだ。代償をここで払えるならば、この死は︱︱本望である﹂
静まり返る広場に響き渡るは、後悔の念。
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悪名高いと知りつつも、なぜか皆は涙をこぼした。騎士団達は罵
声を贈る言葉も見つからず、ただ沈黙と驚愕を示していた。
彼の気持ちが伝わったのか、はたまた偶然か。それは誰にも分か
らない。
だが、突き付けられる無情な現実からは逃れられない。
マルスの怒り狂った宣告が下され、審判の時が来た。
﹁⋮⋮処刑を執行する!全ての恨み、ここで晴らしくれるっ!﹂
無慈悲、且つ私情を露わにした暴言と共に処刑人の剣が振り上げ
られる。人々の阿鼻叫喚は頂点に達し、そこにいる誰もが目を伏せ
た。
一瞬だったが、皇帝はちらりとアリーチェを見る。
それに気付いた彼女は、確かにその言葉を聞き届けた。
﹁︱︱アリーチェよ、良き時代を創り上げよ。六大将軍と、そして
452
聖騎士と共に﹂
﹁⋮⋮え﹂
アリーチェが聞き返そうとしても、もはやリカルドに応える余裕
はない。
彼は果てなき黄昏を見据える。その瞳は今まで妄執から解放され
たかの様な︱︱とても清らかなものであった。
﹁嗚呼⋮⋮本当に、馬鹿な父親だったな。かような恐ろしい存在を
守ろうとしていたなんて⋮⋮。︱︱我が娘は、とうに天国にいるに
も関わらず、な﹂
それが、彼の最後の言葉だった。
剣は振り下ろされ︱︱︱︱皇帝の首は宙を舞った。
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そして地面へと落ちる。呆気なく︱︱飛んだ首は地面を転がって
行く。
﹁は、はは、あははははははははっ!皇帝、死すっ!﹂
マルスの高笑いが響き、盗賊のシールカード達は雄叫びを上げる。
二十一代皇帝リカルド、ランドリオ中心広場にてその命が絶たれ
た。
皇帝の死︱︱それはアリーチェにとって、嘆く出来事ではなかっ
た。
父を殺した張本人、結婚を強要してきた男。姫にとって最悪とい
う言葉が一番似合う皇帝であった。
しかし、今の言葉には衝撃を与えられた。
454
リカルドは死の直前で︱︱自分よりも国のことを想った。
もし彼が正常であったのならば、この国はもっと豊かになったか
もしれない。アリーチェはふと、そんなことを考えていた。
︱︱その時だった。
高らかな笑い声が、また広場に木霊する。
﹁ははッ!荒廃を生み出した元凶は地獄へと堕ちた!次は皇女アリ
ーチェ、お前が復讐の贄となる番だ!﹂
マルスは足早にアリーチェの元に近づき、足の拘束のみを解除し
て強引に手を引く。向かう場所は︱︱無論血塗られた処刑台。
﹁ひ、姫様!おい、姫様を離⋮⋮⋮⋮ぎゃっ!﹂
﹁アリーチェ様は関係ない⋮⋮のにッ!﹂
姫を助けようと駆け出す市民達は、待機しているシールカードに
455
殺されていく。
その様子に、アリーチェと六大将軍達の感情が大きく揺らぐ。
﹁見ろ、見てみろアリーチェっ!お前の愛する国民が無残に死んで
いく光景を!これが私の体験してきた地獄⋮⋮この世の無常だ!!﹂
﹁や⋮⋮やめて、下さい。これ以上⋮⋮これ以上はッ!﹂
怖い。︱︱怖くて、茫然と見ている事しか出来ない。
何て無力、愛する民が自分のせいで死んでいるというのに、こう
して処刑される為に在るなんて⋮⋮⋮⋮酷い現実だ。自らが死ぬよ
り辛い。
﹁アリ⋮⋮チェ、様。麗しの⋮姫、君﹂
﹁私達の命はどうでもいいわ⋮⋮。だから、皇女様だけは﹂
地べたを這いずり、血塗れになりながら懇願する市民達。
しかし赤い視界で見る世界は、ついに処刑台へと立ってしまった
456
皇女の姿。そして、その哀れな姿を嗤うマルスのみだった。
﹁⋮⋮さあ、死ぬ覚悟は出来たかな?︱︱弱い姫よ﹂
死神は残酷にも宣言する。
それに対しアリーチェは、諦めたかのように呟く。
﹁ふふ。そう⋮ですね。確かに弱いですよね、私は﹂
周りの悲劇を、自分はただ見ているだけだった。
救う力さえない権力者の娘。ただ周りに踊らされていた、無知な
る者。ただ美しい姫とだけ謳われる、それだけの存在だ。
故に聖騎士であった彼をも、救う事が出来なかった。
︱︱嗚呼、アリーチェは滑稽だ。
滑稽だからこそ、死を目前にしても平静でいられる。
457
いっそのこと、自分なんかが居ない方がいい。そう胸中で思いな
がら︱︱
﹁⋮⋮聖騎士様。今、私の罪を償います﹂
罪人の如く罪の意識を告白し、鮮血の様に染められた夕空を眺め
る。
一切の後悔がないと言えば、それは嘘になる。自分は今でも聖騎
士を想い、彼に助けてほしいと懇願している。しかしそれは叶わぬ
現実であり、死からは逃れられない。
⋮⋮そう、残るは死のみ。
彼女は自らの足で、断頭台へと進む。
震える足を無理やり動かし、嗤うマルスと嘆く市民達に見守られ
ながら登る。
⋮⋮⋮⋮。
458
⋮⋮。
周囲の音が聞こえない。
死を目前にしているから?それとも、もうこれ以上の悲しみを聞
きたくないから?
否、どちらとも違う。
絶望の闇を打ち払う、希望が現れた瞬間であった。
﹁︱︱させない。貴方を殺させることも、この国を滅ぼすこともッ
!!﹂
凛と張り詰めた空気が揺らぐ。
アリーチェが驚き、振り返る。すると群衆の後方から、二人の人
間が物凄いスピードで疾駆していた。︱︱紛れもない、ゼノスとゲ
ルマニアであった。
459
﹁ゼノスッ!ゲルマニアッ!﹂
群衆は思わぬ登場に呆ける一方、六大将軍とシルヴェリア騎士団、
そしてアリーチェは歓喜した。
﹁⋮⋮小僧、遅いわい﹂
アルバートは悪態を放ちつつも、表情はにやけている。
﹁ああっ、ようやく決心なさったのですね。聖騎士様!﹂
リリスが興奮気味に叫び、聖騎士の到来を素直に喜んでいた。
他の者達も驚きを隠せずにいる。ニルヴァーナでさえもこの予期
せぬ展開に目を見開き、やがて自分を嘲け笑うが如く微笑む。
その喜びと期待に応えるかの如く、二人は身近にいた盗賊のシー
ルカード達を悉く打ち倒し、雪崩れ込むように群衆の中を通り過ぎ、
剣を構えながらマルスと対峙する。
今の彼等に迷いはない。かといって、猪突猛進のまま立ち向かっ
460
ているわけでもない。
マルスはそれを見て、怪訝な表情で言い放つ。
﹁⋮⋮懲りないですねぇ。いい加減その顔を見たくないのですが﹂
﹁それはこっちも同じだよ。︱︱だから、ケリを付けに来た﹂
﹁へえ、どの口が言うのですかね。また制約の力が、貴方達を蝕み
⋮⋮⋮⋮んッ!?﹂
途中、マルスはある事に気付く。
おかしい。そろそろ症状が出るはずなのに、二人は平然としてい
る。︱︱制約の効果が切れた?いや、そんな馬鹿な話があってたま
るか。この力は絶対的であり、抗うことは叶わない。
なら何故、奴等は制約に抗える?
⋮⋮ふとそこで、マルスは一つの結論に行き着く。
461
怒りに震えながら、その結論を言い放つ。
﹁ふ、ふふ⋮⋮。まさか、貴方もギャンブラーになられたのですか。
可能性は否定しませんでしたが、よもや実際になるとはッ!!﹂
﹁⋮⋮ゲルマニア﹂
﹁はい!﹂
錯乱状態のマルスに対し、ゼノスは好機と見てゲルマニアとアリ
ーチェの救助に向かおうとする。
しかし、マルスはすぐに立ち直った。彼は咄嗟に二人の行動に気
付き、自分の怒りを表現するかのように、処刑人に合図する。
﹁アリーチェを殺せ!早く!﹂
未だ断頭台にまで来ていないが、こうなってしまっては仕方ない。
直立状態のアリーチェの首を刎ねようと、処刑人は彼女の元へと近
付く。
﹁い⋮⋮いや⋮⋮﹂
462
アリーチェは恐怖に身がすくみ、その場から動けない。
まずい、早く断頭台に向かわないと。ゼノスがそう思った矢先、
とある方向から何かが投げられる。風を切り裂くその音を頼りに、
ゼノスは剣を持っていない右手で︱︱その﹃剣﹄を取る。
︱︱﹃リベルタス﹄。
黄金色の意匠に彩られ、煌めく刃は恐ろしいほど洗練されている。
それはかつて、ゼノスが愛用し、共に戦場を駆け抜けてきた相棒で
あった。
﹁︱︱ゼノスッ!その剣を使い、全てを救え!!﹂
今まで冷静を貫いてきたニルヴァーナは、最後の力を振り絞って
叫ぶ。⋮⋮何と彼は、拘束された状態のまま、こちらにこの剣を投
げ放ったのだ。
何故彼がこの剣を?⋮⋮いや、今は考えている場合ではない。
ゼノスはニルヴァーナに頷き、今所持していたリンドヴルム・ヘ
463
キサを捨て、リベルタスの柄を両手で握り締める。
そして腰を落とし、勢いよく処刑台に向かって跳躍する。
︱︱︱既に処刑人は刃を振り上げ、恐怖に苛まれるアリーチェを
射捉えている。
間に合わない、誰もがそう確信していた。
ゼノスはとある人物を想像していた。
彼は誰よりも強く、多くの伝説を残してきた。常に紅蓮のマント
をなびかせ、身体は白銀の鎧に包まれていた。左手にはリベルタス
を、右手には魔盾ルードアリアを携えながら。
464
どれも聖騎士にとって、欠かせない存在だった。リベルタスは全
てを薙ぎ払い、ルードアリアは全てを守り︱︱そして白銀の鎧は、
聖騎士の象徴となっていた。
⋮⋮そして今、ゼノスはまたその力を欲している。
リベルタスは戻って来た。ルードアリアは今は必要ではないが、
いずれ必ず欲する時が来る。今本当に欲しいもの、それはゼノスの
力を最大限に引き出せるた白銀の鎧であった。
あれさえあれば、この刃は処刑人の元に届く。
頼む、今だけでいい。ほんの僅かな幻想でもいい。
もう二度と巡り合うことのない白銀の鎧を︱︱この手にッ!
﹃⋮⋮ゼノス。その願い、私が叶えて見せます!﹄
ふと、脳裏にゲルマニアの声が響き渡る。
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﹃︱︱私は貴方の鎧。全てを守る、最強の存在!!﹄
ゲルマニアは必死に唱え、やがて彼女の存在が希薄になる。
それと同時に︱︱彼は覚醒する。
ゼノスの全身は光に包まれ、やがて光は弾けるように霧散する。
そして、その場にいた全員が驚いた。跳躍し、今まさに処刑人の
首を斬り払ったゼノスの姿は︱︱︱白銀の鎧に包まれていた。始祖
との戦いによって失ったはずの、その鎧を。
重厚なる白銀の鎧、そして紅蓮のマント。しかし兜は付けていな
い。傍で戸惑うアリーチェを他所に、ゼノスは血に塗れたリベルタ
スの刃を振り払う。その勇姿は、まさに伝説の再来であった。二年
前まで、彼等が崇め、尊敬し、期待していた︱︱﹃白銀の聖騎士﹄
466
そのものであった。
民衆は驚きを隠せない。︱︱そしてそれ以上に、アリーチェの動
揺は凄まじかった。
﹃ゼノス⋮⋮ゼノス、聞こえますか?﹄
﹁ああ、聞こえてるよ﹂
脳裏に響き渡るゲルマニアの声を聞き、答える。
この鎧は言わばゲルマニア本人であり、事実、彼女の姿はどこに
も見えない。
騎士を司るスペードのシールカード。︱︱﹃主君を守りし誇りの
盾﹄。
ギャンブラーを認めたシールカードが成せる変化の奥義。彼女は
聖騎士の鎧となる為に身を捧げ、ゼノスに絶対の忠誠を誓う。
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﹃さあ、伝えるのでしょう?⋮⋮皆に、貴方の真実を。貴方の決意
を﹄
﹁⋮⋮ああ。それもまた、俺がここに来た理由だからな﹂
ゼノスは不気味な静寂を払うかの如く、アリーチェへと跪いた。
剣を自分の眼前に掲げ、騎士としての誇りと礼節を示す。
そしてアリーチェは、次の言葉に瞠目する。
﹁アリーチェ様。このような事態に対し、早急に対応出来なかった
私をお許し下さい﹂
﹁⋮⋮貴方は﹂
何かを紡ごうとするアリーチェだが、ふいにマルスが鬼気に満ち
た怒声を放つ。
﹁聖騎士、貴様⋮⋮今の状況が分かっているのですか。今更そんな
︱︱﹂
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﹁黙れ﹂
マルスが言い終わる前に、ゼノスは無造作に反論した。途端に空
気が振動を起こす。
﹁ぬ、ぐう﹂
奇妙な覇気と圧力にマルスは沈黙を強要され、それ以上の言葉は
出せなかった。武を極めた六大将軍やシルヴェリア騎士団でさえも
⋮⋮ゼノスに圧倒される。
一方のゼノスはマルスに目も向けず、平然とした物腰で続ける。
﹁失礼いたしました、アリーチェ様。さあ、どうぞ仰って下さい﹂
﹁は、はい。⋮⋮⋮⋮貴方は、白銀の聖騎士様なのですか?﹂
アリーチェはおずおずとした態度で、ゼノスに問いかける。
彼女は一度も素顔を見た事がない。それは民衆たちも同じであり、
誰しもが次の言葉を、ゼノスが放つ真実を待っている。
469
一方のゼノスは、覚悟を決め、胸を張って口にする。
﹁ええ。俺はかつてこの国に尽くし、六大将軍の地位を築いていた
者︱︱白銀の聖騎士、ゼノス・ディルガーナに間違いありません﹂
﹁ッ!⋮⋮どうして、今になって﹂
﹁⋮⋮決意したからです。もう一度、真の騎士になろうと。この覚
悟が二年も遅れてしまったことについては、本当に申し開きもござ
いません﹂
この雰囲気に似合わない振る舞いに少々の戸惑いを覚えつつも、
アリーチェは震える声で何とか答えた。
﹁⋮⋮謝るのは、こちらの方です。主君でありながら、貴方の苦し
みを理解し、助けてあげられなかったのですから﹂
﹁苦痛は騎士の宿命であり、超えるべき現実。俺はアリーチェ様を
一度も恨んではいません。むしろ貴方を敬愛していたからこそ⋮⋮
失望を恐れていたのです﹂
﹁聖騎士様⋮⋮﹂
470
ゼノスは一度騎士としての責務を捨てた。それは自分への処罰を
恐れたのではなく、自分を慕う者達に失念されたくなかったからだ。
︱︱それでも、ゼノスは戻って来た。
新たな決意を胸に、ゲルマニアと共に歩むと決めた。
自分の行くべき道は、
﹁⋮⋮アリーチェ様、そしてこの場に集いし騎士達、市民達よ。聖
騎士ゼノスは帰還した!今ここに、またこの国の為に尽くし、剣を
振るおう!﹂
ゼノスはリベルタスを天に掲げ、そう宣言する。
⋮⋮その雄姿に、人々に様々な思惑が過る。
471
ある者はその若さに驚き、ある者はその素顔に惚れこむ。またあ
る者は、自分と同じ年代でこの宿命を得たのかと憐れむ。
ただし、彼等を縛る感情はどれも同じだ。
聖騎士は、誰であろうと我等の救世主だと信じていた。
だからこそ民衆は︱︱鳴り止まない歓声を響かせた。栄光の勝利
を確信し、もう彼等の中に絶望という感情は存在しない。
ゼノスはもう一度アリーチェに向き直り、改めて自己紹介をする。
﹁白銀の聖騎士︱︱名を、ゼノス・ディルガーナといいます。⋮⋮
今度は本当の自分として、貴方に仕えさせて下さい﹂
これが我儘だというのは自分でも分かっている。
しかしそれでも、彼女は真摯に答えてくれた。
﹁⋮⋮⋮⋮また私に。こんな私の元に、また来てくれるのですか?﹂
472
様々な思いがアリーチェの思考を狂わせる。聖騎士が自分と大し
て歳も変わらないという驚愕も未だ残ったまま、またランドリオに
戻ってくれるのかという感動も含まれていた。
﹁⋮⋮俺を許してくれるのですか?﹂
アリーチェは何も答えず、ただ微笑んだ。
その無言の答えによって、ゼノスは全てを理解した。
︱︱有難うございます。こんな半端者を、また受け入れて下さり
⋮⋮。
馬鹿みたいだと思う滑稽さが込み上がり、深い霧を抜けたような
晴れやかさを感じる。姫の優しさは純粋に嬉しく、ゼノスの心を癒
してくれる。
となれば、ゼノスがやる事は残り一つだ。
改めて剣を強く握りしめ、麗しき姫君を愚弄し、皇帝を処刑した
マルスに剣先を向ける。
473
﹁待たせたな、マルス。︱︱リベンジといこうか﹂
ゼノスはランドリオの騎士として、マルスに宣告する。
﹁う、ぐっ。⋮⋮ま、待て⋮⋮何だ、何だその計り知れない気迫は
っ!こ、これが⋮⋮本来の白銀の聖騎士だというのか!?﹂
マルスは完全に読み違えていた。ギャンブラーの力さえ手に入れ
れば、かの聖騎士を圧倒する事が出来るだろうと高をくくっていた。
実際ゼノスはシールカードの力にひれ伏し、敗北を味わったのだか
ら。
だが、今目の前にいる奴は今までと違う。
ここでマルスは︱︱初めて本来の聖騎士と対峙しているのだと認
識する。
﹁その通り。⋮⋮そして迷いの消えた俺に、貴様は寸分の勝ち目も
残っていないだろうな﹂
474
﹁っ言わせておけば!﹂
マルスはすぐさま剣を構え、真っ直ぐゼノスへと飛び込んでくる。
傍から見れば瞬きする間の速さであったが、今のゼノスにとっては
止まっているに等しい。
ゼノスもまた跳躍し、マルスと相対する形となる。両者が限界を
無視した神速の限りを尽くし、互いに剣とナイフを構える。
マルスは単純にぶつかりに来ているわけでは無い。現に彼は相重
なる手前でギャンブラーの力を使用してきた。
﹁盗賊のカード、ハート。︱︱﹃暗躍の鴉﹄!﹂
途端、マルスは所持する一本のナイフをゼノスに投擲する。
ナイフは朧な雰囲気を漂わせ、気付けばナイフは幾千本に連なる
凶器と化していた。それが一斉に、ゼノスを集中して突き刺そうと
目掛けてくる。
475
だがこれで驚くなら、とうに聖騎士は歴戦の化け物に殺されてい
る。その上今はゲルマニアの加護が加えられている為、児戯と言っ
ても過言ではない。
﹁甘い。この俺に玩具で対抗しようという愚かさが!﹂
ゼノスは直撃する寸前に、剣を横に振り払う。
迫り来るナイフは︱︱彼のたった一振りの剣撃によって消滅した。
﹁っ︱︱うわああああああああああ!﹂
剣撃の余波は容赦なくマルスを襲い、反動として遥か後方へと吹
き飛ばされた。
かつて山よりも巨大なゴーレムを薙ぎ倒した一撃、その絶大な力
をくらったマルスは無傷では済まない。脆くも建物に接触し、派手
な破壊音と共に地面へと堕ちていく。
﹁がはっ!⋮⋮くそ、があっっ!﹂
476
﹁諦めろ。これこそが、経験の差だ﹂
その一言に、血反吐を吐きながらマルスが嗤う。
﹁はっ、経験?⋮⋮なら、その経験をギャンブラーの力で埋めるま
でですよ!﹂
天にまで響く咆哮と共に、マルスはゆっくりと立ち上がる。
戯言を抜かす、等とは言えなかった。言葉通りの嫌な予感がよぎ
り、ゼノスの緊張感を高めたのだから。
静まり返る広場に、光の源が集結し始めた。
シールカードの力の根源とも形容出来る粒子はマルスを包み、更
なる歪みと覇気を呼び起こす。︱︱マルスは、壊れた。
﹁あ、あは、あはははははははっっ!そうだこれだよ。これこそ、
我が求めた復讐の力!母なる力の証!あの憎き聖騎士を殺せる神の
力なのだなっ!﹂
477
高笑いは次第に低い嘲笑と化し、その肉体はもはや人間と判断で
きない程に巨大且つ異形の姿となっていく。
気付けば、図体は一軒家の二倍程の高さ、幅は処刑台を軽々と壊
せる程の巨漢ととなっている。︱︱その姿はまるで、伝承に伝わる
影の王に類似していた。
幸いな事に広場の空間に綻びが出たのか、拘束されていた者達は
解放され、姫もいつの間にか救出されていた。だが、この局面は宜
しくない。奴から放出される波動は、今までに遭遇した化け物共と
類似していた。
﹃⋮⋮これが、我が破滅の力。﹃盗賊王﹄の力ッ!!﹄
酔いしれた様に呟くマルス、否、盗賊王。広場にいたシールカー
ド達をも糧に、彼は異質なるギャンブラーへと昇格した。
﹃感じる、感じるぞ。母上の愛が込められた波動がなあ⋮⋮。村の
皆ァ、これでこの悪魔を殺せる⋮⋮復讐を果たすことが出来るゥッ
!!﹄
478
哀れ、ゼノスが思うのはこれだけであった。
一体何故、マルスはここまでしてこの国を滅ぼそうとしているの
か。こんな化け物に成り果ててまで、マルスが成そうとしている復
讐は何なのか。
これは率直な疑問であった。
﹃⋮⋮ゼノス、構わないで下さい。彼は道を踏み外した。帝国に仇
なす︱︱敵です。どんなに深い事情があろうと、彼はここで倒さな
ければなりません﹄
﹁ああ⋮⋮そうだな﹂
どうにも引っ掛かる所があるが、今はそれが最優先だ。
﹃︱︱さあ、また殺し合おうではないかァ!!﹄
狂乱に震えた怒声を響かせ、真っ向から立ち向かってくる盗賊王。
短刀ではなく、その手には巨大な曲刀が握られていた。
479
ゼノスは臆しない。数十倍もの体格差と武器の比率が圧倒されて
いても、彼は盗賊王の勝負を受けた。
﹁はああっっ!﹂
﹃でやあっ!﹄
互いの武器が競り合った時、辺りに爆風が生じる。
他者の目から見れば、両者は全く同じ力で鍔迫り合いを行ってい
る。盗賊王の破壊力も凄まじいが、何よりも小さな体で善戦するゼ
ノスの存在に、誰もが虚を突かれていた。
この戦いを見るとある女の子は思っていた。
まるで︱︱御伽話に出てくる竜殺しの騎士みたいだ、と。
誰もが聖騎士の英雄譚と現実を重ね合わせ、しばしの圧倒感に酔
いしれていた。
480
ゼノスが懐に入り込めば、盗賊王が剣で跳ね上げる。盗賊王が叩
き落とそうとした時、ゼノスは空中で舞うように避け、盗賊王の肩
に着地、それと同時に肩を斬り付ける。
﹃き、貴様あっ﹄
盗賊王は肩を思いっきり揺らし、ゼノスを降り落そうとする。
ゼノスとていつまでも居座るつもりは無い。すぐさま跳躍し、地
上へと降りる。対峙する盗賊王は目先に佇むゼノスを見据え、曲刀
を振るい落とす。
剣は大地を貫き、大地は地割れを起こし始める。地面は鳴動し始
め、全ての者に恐怖を感じさせる。
︱︱まずい、地割れが市民達にっ!
大いなる地割れが向かう先は、ゼノスが守るべき市民の方だった。
ゼノスは急いで市民達の前へとはだかり、自らの剣技、その一筋
を繰り出す。
481
﹁聖騎士流剣技︱︱﹃天地滅尽﹄!﹂
ゼノスの呼応と共に剣は大地を貫く。
彼の剣は盗賊王の放った地割れとは垂直の方向に地割れを起こし、
何とか地割れによる被害を食い止めた。ちなみに、ゼノスは大地を
切り開いたと同時に、真上に広がる雲をも斬り裂いた。
だが、これで終わる盗賊王ではない。ただならぬ殺気を感じ、ゼ
ノスは迎撃の態勢を取る。
﹃くそ、があっっっっ!盗賊のカード、ハート。︱︱﹃暗躍の鴉﹄
よ!﹄
下卑た叫びを響かせ、高らかにカードの力を唱える盗賊王。
また幾千本のナイフかと思いきや⋮⋮今度の数は恐らく一万を超
えるであろう数のナイフが出現していた。
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それらは躊躇なく、尋常でないスピードで一直線にゼノスへと向
かってくる。今度は市民を目標とせず、あくまでゼノスを殺す為に
放っている。
これを全て落とす為には︱︱
︱︱コンマ一秒を十等分した割合の時間で、切り刻む事だっ!
﹁はああああああああああっっっっ!!﹂
もはや聖騎士流剣術も関係ない。自らが成し得る身体能力とスピ
ードを頼りに、全身の筋肉がフル活用される。神速の斬り落し、斬
り上げ、横薙ぎ、縦斬り、常人ではもはや目視さえ出来ない速さで
ナイフを斬り落とす。
互いの切磋琢磨は衰えを知らない。盗賊王は限界までナイフを放
ち、ゼノスは怒涛の勢いで剣を振るい続ける。
今自分達の前で起こっている戦いは、本当に現実のものなのか?
少なくとも、一般市民達はそう呟く事しか出来なかった。
483
やがて、盗賊王のナイフは底を尽きた。
﹁︱︱ぐっ﹂
しかしゼノスもまた体勢を崩した。神の定める領域を侵した速さ
は、流石のゼノスでも平然としていられない。
︱︱そこを、盗賊王に突かれた。
﹃︱︱死ねえっっ!﹄
盗賊王はその巨躯な体格でゼノスへと近づき、その巨大な剣で︱
︱ゼノスを薙ぎ払った。
︱︱ゼノスは盗賊王の予想外な一撃を受けてしまった。
484
﹁が、ァッ⋮⋮!!﹂
ゼノスの身体は勢いよく吹っ飛び、やがて地面へと強く叩き付け
られる。鎧のおかげで致命傷は免れたが、全身にとてつもない激痛
が走る。
口から血を盛大に吐き、両膝を地面に付ける。両足は小刻みに震
え、激痛はゼノスの意識さえもおぼろげにさせる。
︱︱死。その言葉が、一瞬頭をよぎる。
﹁⋮⋮いや、死んでたまるか﹂
そう、ゼノスは死ねない。
ここで死ねば、それこそ全てが終わる。
もし自分が一人で戦っていたのならば、恐らくここで力尽きてい
ただろう。全てを諦め、ただ死神の誘いに身を任せていただろう。
﹃ゼノス、しっかりして下さい!︱︱皆も、そして私もいますか
らッ!﹄
485
朦朧とする意識の中、ゲルマニアの声がはっきりと聞こえてくる。
⋮⋮そう、今は一人じゃない。
ゲルマニアの声だけでなく、他の皆の声も聞こえてくる。皆が一
様に、ゼノスを応援し、一生懸命支えようと努力してくれている。
二年前までは味わえなかった感覚であり、溢れんばかりの闘志がゼ
ノスの中を渦巻いていく。
彼等の一言が、傷だらけの身体を立ち上がらせてくれ、リベルタ
スを握らせてくれた。
﹁⋮⋮うおおおおおおおおおっ!﹂
ゼノスは咆哮と共に立ち上がる。
︱︱リベルタス、俺に力を。
﹃ちっ、死にぞこないが⋮⋮ッ!﹄
486
盗賊王マルスは再び緊張感を募らせ、尋常でない殺気を向けてく
る。
だが、それに臆するゼノスではない。今の自分には、この剣とゲ
ルマニアが付いている。
﹁⋮⋮負けられない。この勝利だけは、絶対に譲れない!﹂
﹃それは我とて同じ事ッ!その思い上がり、今ここで打ち砕いてみ
せよう!﹄
盗賊王は迷う事無く、ゼノスに向って剣を振るう。
見る者を圧倒させるその一撃は、瞬く間にゼノスへと襲い掛かっ
て来るが⋮⋮彼は動揺する事無く、ジッとその刃を睨み付ける。
そしてリベルタスが、ゼノスの神経を研ぎ澄ませてくれる。
﹃︱︱︱︱な﹄
怒涛の勢いは空しく散り、盗賊王に微かな戦慄が過る。
487
ゼノスは何と︱︱容易に巨大な大剣を受け止めてしまった。リベ
ルタスを添える様に、宥める様に剣を遮ったのだ。
﹁⋮⋮はあっ!﹂
静かなる動きから一転、ゼノスは豪快にリベルタスを振り上げる。
大剣はその力に耐え切れず、盗賊王はその大剣を宙高くへと跳ね
飛ばされてしまう。
﹃ッ!?⋮⋮貴様、どこからそんな力が﹄
﹁御託はいい。︱︱真なる聖騎士の力で、果てろ!﹂
敵の言葉に相槌する程、ゼノスは優しくない。
すぐさま体勢を立て直し、リベルタスを二三回程振り払う。
半月型の鋭利な真空波が発生し、弧を描く様に宙を舞い、そのま
ま盗賊王目掛けて急接近してくる。
488
﹃ッ、ッッ!こ、こざかしい﹄
盗賊王は巨体に相応しくない、何とも軽快に跳躍する。⋮⋮だが
真空波は追尾する為に、舞い上がる盗賊王に容赦なく向かってくる。
黄昏の光を浴びる盗賊王。圧倒的不利を悟ったのか、彼は両手を
クロスさせ、真空波を受ける覚悟で身構える。
多少の傷は問題ない。例え片腕が無くなろうと、もう片方の腕で
奴を殺してしまえばよい。⋮⋮単純明快、わざわざ逃げる必要がど
こにある?
︱︱だが盗賊王のその考えは、余りにも浅はかであった。
ゼノスの真空波が攻撃する?⋮⋮そんな事、いつ誰が言った?
﹁︱︱︱︱︱︱馬鹿、なっ﹂
どうやら、まんまと獲物になってくれたようだ。
ゼノスの放った真空波は盗賊王の身体に付着した瞬間、光の輪と
489
なって盗賊王の両腕を拘束する。黄昏色の空に醜き全身を張り付け
てしまう。
﹁聖騎士流法技、グレイプニル。︱︱これを受けた先人達もまた、
貴様の様に対処していたな。⋮⋮だがその時点で、俺に勝つなど言
語道断だ﹂
黄昏に舞うもう一人の存在、それは正しく聖騎士ゼノス。
砲弾の如く跳び上がり、逆風を押しのけて盗賊王の元へとやって
来る。
リベルタスを両手で掴み、ぐっと力を込める。
﹁︱︱はああああああああっっ!﹂
夕陽に照らされ、茜色の背景に映し出される二つの影。
小さき影が︱︱大きな影を斬り裂いて見せる。
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﹃ぐ、お⋮⋮⋮⋮あ﹄
低い呻き声は、腹を斬られた盗賊王のものだった。
そこから流れ出て来るのは血︱︱︱︱いや、違った。
﹁⋮⋮⋮⋮ッ!﹂
ゼノスは抗う事が出来なかった。
流れ出る筈の鮮血は出てこず、代わりに緑色の粒子が滝の様に溢
れ出てくる。夕焼け空と入り交じった粒子はやがてゼノスを覆う。
桜吹雪の様に粒子は乱れ散り︱︱ゼノスとゲルマニアにある幻覚
を見せる。
⋮⋮夢か現実か。
未だ分からぬ粒子が見せるのは︱︱ある男の全てであった。
491
ゼノスの視界に映るのは、とある騎士の物語。
騎士は幼い頃から両親に虐待を受けていた。貧乏だった騎士の家
庭は重労働から疲弊し、その鬱憤を子供だった騎士にぶつけていた。
母の為に作った花のネックレスは暖炉に投げられ、二度とこんな
真似をするなと言われて殴られる。父の為に偉い人になろうと本を
読み続けた結果、仕事もしない屑めと言われ、また殴られる。
︱︱その後、騎士は遂に身売りに出されてしまった。安堵と不安
が入り交じる中、彼は長時間馬車に乗せられて、同じ境遇の子供達
と一緒に運ばれる。
⋮⋮声を上げて泣いた時は、奴隷商人に腹を蹴られた。喉の渇き
を潤そうと道端の泥水を啜っていた時に⋮⋮同い年の村娘達に嗤わ
れた。
492
絶望⋮⋮この酷い現実を味わった騎士は、ようやく買い取られた。
そう︱︱騎士は﹃奴隷﹄として村の領主に引き取られた。過酷な
労働と、辛い八つ当たりの日々が始まる︱︱ゼノスはそう思ったが。
実際の光景は違った。領主はとても寛容な人物であったらしく、
奴隷を酷使する事は無かった。⋮⋮それどころか騎士を家族として
扱い、同じ奴隷も騎士を兄弟として慕っていた。
嗚呼⋮⋮彼の顔にようやく笑顔が見えた。
騎士は幸せな日々を送る事となった。あの家にいた頃とは嘘の様
に気楽で、穏やかな生活を過ごる事とな
った。
同じ村に住む少女と恋をし、同じ境遇の友と友情を育み、確かな
絆を育んできた騎士。
続くと思った永遠の平穏。変わらぬと信じていたこの喜び。
493
︱︱しかし、ビジョンは残酷な光景へと移り変わる。
村は死守戦争と呼ばれる戦争の舞台となり、一人の偉大なる騎士
の過ちによって⋮⋮恋人が、友人が、皆が死んでいった。
自分の目の前で、炎に焼かれながら自分の名を叫ぶ恋人の少女。
騎士を逃がす為に盾となり、代わりに死ぬ友人。
︱︱近所のおばさん、いつもお世話になっていた店の主人、学校
の先生、親代わりだった領主⋮⋮⋮⋮全員が絶命していく。
騎士は泣き叫んだ。この世の不条理さを精一杯に憎み、妬み、そ
して生きる事に絶望をまた感じてしまった。
二度目のどん底、立ち直れぬ心。
だがそれでも、騎士は生きる事を諦めなかった。
このような戦争は二度と起こしてはならない、その一心で彼はラ
ンドリオ騎士団へと入団し、平和と秩序の為に帝国へと仕えた。
494
そして戦争から一年後の事だ。
︱︱彼の元に、ある一つのカードが舞い降りる。
不思議に思い、そのカードを取った瞬間︱︱脳裏から少女の声が
聞こえた。
﹃共に創りましょう、新たな世界を。人間を排除し、我等を主軸と
した世界を﹄
その声を聞いた瞬間、騎士の中に潜む悪意が芽生えた。
自分の全てを奪った騎士に復讐が出来る。騎士として生きるより
も簡単に、この世界を上手く変える事が出来る、と。
善意が悪意に変わる瞬間だった。
495
騎士は高らかに笑い、シールカードを我が物とした。
涙を流しながら⋮⋮もはや善か悪かの区別もつかぬまま、シール
カードという名の希望にすがる。
︱︱このビジョンを期に、視界はまた元の場所へと戻った。
気付くとゼノスは、ランドリオ城下町にある教会の屋根上に佇ん
でいた。
目前には当然の如く、腹を押さえて呻く盗賊王の姿がある。
496
﹃⋮⋮くく。人の人生を覗き見るとは⋮⋮感心しない、な﹄
﹁やはりお前の記憶だったか。︱︱焼き払われていた村は、間違い
なくセイク村だった﹂
そして、自分は彼等をよく知っている。
死守戦争後、途方に暮れながら茫然としていたゼノスはセイク村
へと訪れ⋮⋮今の人達の亡骸を垣間見た。
⋮⋮生き残った者達は、怨嗟を込めてゼノスを非難し、中には殺
そうと掛かって来た者もいた。覚えていない訳が無い。
﹃⋮⋮どうだ、思い出したか?あの時の絶望を⋮⋮貴様の犯した罪
を﹄
﹁思い出すも何も⋮⋮俺は鮮明に覚えている﹂
その言葉に、盗賊王は僅かに動揺を見せる。
﹃︱︱だったら、だったら何故まだ戦おうとする?懲りた筈だ、戦
497
いに。悟った筈だぞ、貴様の戦いは多くの犠牲を生むとッ!﹄
﹁⋮⋮戦う事でまた救われる者達がいるならば、俺は戦いを止めな
い。︱︱犠牲となった者達へ償う為にも、この業を背負っていくと
決めたんだ﹂
﹁︱︱ッ﹂
刹那、盗賊王の姿が消えた。
次の瞬間にはゼノスに斬り掛かって来ており、それを見切ってい
たゼノスは、リベルタスで素早く受け流す。
だがそれでも攻撃を緩める事は無かった。腹から異常な程に出血
していても、ある思いが彼を動かし続ける。
﹃貴様は、貴様はまた犠牲を出すつもりなのか?村の悲劇を帳消し
にして、まだ戦おうとしているのかっ!?ふざけるな⋮⋮ふざける
なああああああああああっっっ!﹄
﹁ふざけてなんていない!戦いから逃げれば、村での犠牲が無駄に
なってしまう⋮⋮⋮⋮俺は、彼等を只の犠牲者にしたくないだけだ
!﹂
498
自分は犠牲者に一生の時間をかけ、花束と祈りを捧げる資格など
無い。一生彼等の親族に謝り続けていくのは、どこか違う気がする。
それでは何も解決しないし、何も報われない。
︱︱そう、戦いこそゼノスの償い。それで得た平和こそが、彼等
への手向けとなる。
﹁これからの犠牲も、全て俺が背負おう。だがそれ以上に、人々を
救い続けてみせる。︱︱だから俺は戦うんだ、マルス!﹂
﹃⋮⋮⋮⋮﹄
ゼノスの必死な叫びに、盗賊王は何も答えない。
だが今の彼からは、怒りや憎しみ以外の感情が漏れ出していた。
﹃⋮⋮ふ、はは。⋮⋮⋮⋮あはは﹄
ふいに零しだす微かな笑い。
499
それを期に、盗賊王は幾分か冷静さを取り戻していた。下卑た嘲
笑をする事も無く、彼は瞳を閉じて沈黙に浸っていた。
そして気付けば、盗賊王︱︱いや、マルスは元の姿に戻っていた。
目線もゼノスと同じ位置に来て、その表情は狂気に彩られていなか
った。
マルスはゼノスから距離を離し、剣の構えを解く。
﹁⋮⋮⋮⋮嗚呼、貴方は本当に不愉快な存在だ﹂
彼は本来の口調、本来の声音に戻っている。沈み行く夕暮れを仰
ぎ見、溜息混じりに呟く。
今の彼を支配する感情は怒り︱︱︱︱否、﹃悲しみ﹄であった。
﹁⋮⋮この私にとって、貴方はとてつもなく憎い存在。全てを奪い、
この私に憎悪を植え付けた元凶。⋮⋮だがそれと同時に﹂
500
マルスは振り向く。
涙を零しながら、続きを言う。
﹁︱︱貴方は、私に勇気をくれた存在だった﹂
﹁⋮⋮⋮⋮マル、ス﹂
ゼノスは動揺も隠せず、驚愕の色を示す。
それは今のゼノスにとって、一番聞きたく無い言葉であった。
嘘を言っている様にも見えない。あの涙がそれを物語り、複雑な
気持ちは明確に伝わってくる。︱︱だからこそ、今までと違った態
度に驚いていた。
﹁何度も英雄譚を聞いて、何度も励まされていましたよ。⋮⋮そし
て馬鹿な事に、奴隷の身分でありながら将来は聖騎士の下で、正義
の騎士として国に仕えたいと⋮⋮よく親友と語り合っていました﹂
501
﹁︱︱ッ﹂
マルスの語る過去。
村が滅びる前の、まだ幸せだった頃の話。
そう⋮⋮マルスは聖騎士に対して憎悪だけ抱いているわけでは無
い。内に様々な感情を潜めていて、先程までは憎悪と絶望が先走っ
ていた。
本当の彼は︱︱尊敬と憎しみ、この相反した二つの感情に苛まれ
ている。
﹁⋮⋮運命とは、残酷なものですな﹂
マルスは泣き続ける。もうどうしたらいいのか、ただ分からずに
いた。
﹁⋮⋮⋮⋮ああ﹂
502
ゼノスは相槌するしか無かった。
同情、悲嘆、行き場の見つからない怒りを堪えながら、ただ聞き
流すしか無かった。
︱︱嗚呼ゲルマニア、お前も泣いているのか。
ゼノスの脳裏から響くすすり泣く声。彼女は自分と似た様な境遇
を聞かされ、深い同情に駆られているのだろうか?
⋮⋮だが、それは一番思ってはいけない。
今ここで対峙するゼノスとマルスは、既に理解している。
︱︱例え心情を分かち合ったとしても、それは無意味に過ぎない
と。
﹁うおおおおおおおおおおおおおおっっ!﹂
マルスは愚直なまでに前進し、ゼノスへと斬り掛かる。
503
シールカードの力を発揮する事も無く、ギャンブラーとして異様
な力を発さず⋮⋮在りのままの姿でだ。
ゼノスは苦渋の表情を崩さないまま、その剣舞を避けて行く。
﹁︱︱う、くっ。うう⋮⋮⋮⋮うああああああああああっっっ!!﹂
⋮⋮彼は、マルスはまだ泣いている。
情を殺そうと必死に叫び声を上げるが、まだ止まらない。
︱︱馬鹿野郎。
さっきのまでの勢いはどうした?あの吹っ切れた様な悪意は何処
にいる?
﹁︱︱マルスッ!﹂
耐えかねたゼノスは、怒声によってマルスを硬直させる。
504
騎士のマルス、復讐のマルスという相反した人格が渦巻く彼は、
尊敬するゼノスの喝によって止まってしまった。
その様子を見たゼノスは、更に厳しい態度で述べる。
﹁⋮⋮迷いは騎士の恥だ。敵を目前にして戦意を喪失させ、無我夢
中に剣を振り回す。それは一番やってはいけない行為だぞ﹂
︱︱復讐に駆られるのもいいだろう。情に動かされるのも仕方な
い。
それが人の性というものだ。⋮⋮⋮⋮しかし、
騎士はその感情を整理し、自分の信じる道を決めなければならな
い。
迷いは愚の骨頂だ。見逃せない我等の大敵だ。
だってそうだろう?もしも、もしも迷いを抱えたまま戦えば⋮⋮
505
⋮⋮絶対に、自分という存在が壊れてしまう。
﹁だから迷うな、潔く戦おう。︱︱俺の名は白銀の聖騎士ゼノス・
ディルガーナ。貴様を倒さんと願う者﹂
⋮⋮その一言は、決別を促すものだった。
自分をマルスの敵だと明確に認識させる為の誓い。騎士道精神に
則った礼儀を、目の前の﹃同志﹄に示した。
︱︱そう、もう後戻りは出来ないのだ。
マルスも分かっている筈だ。⋮⋮だからこそ、この思いが届くと
確信している。
︱︱結果は想像通りだった。
暫く沈黙を貫いていた彼は、遂に涙を振り払った。
506
そうだ、それでいい。
ただ剣を向けろ。信じるがままに、己の意志を貫け。
⋮⋮そうすれば、ずっと悲しまずに済むから。
﹁︱︱私の名はマルス・コルヴェッティオ。尊敬していた聖騎士に
裏切られ、復讐を誓った男!そして、貴方を殺さんとする者だ!﹂
⋮⋮誓いは交わされた。
様々な心残りはあるけれど、それは紛れも無い別れ。
マルスは彼を尊敬するのを止めた。ただ狂乱に身を任せて戦うの
を、自らの意思で止めた。
対するゼノスも取捨選択した。
彼への罪悪感を捨て、今やるべき事に全力を尽くすと。ゲルマニ
アとの約束の上に、その思いはこれを契機に強まった。
507
︱︱そして、彼等は再び剣を交える。
それは激しい攻防だった。
足場の悪い屋根上にも関わらず、足の踏ん張りを重視しながら攻
撃を避け、重心を意識しながら反撃を加えて行く。
剣閃は絶え間なく繰り出され、互いが一歩も譲らない、一進一退
の状況を展開させていた。
⋮⋮だが、マルスは熟知している。
これはあくまで前戯に過ぎない。聖騎士ゼノスの剣撃は、あの模
擬試合のそれよりも重くない。好機を見計らっているのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮ッ!﹂
その気迫に押されたマルスは、戦況を有利にしようと先走る。
両手で柄を持ち、溢れんばかりの力で頭部を叩き割らんとする。
508
剣刃は豪風を押し退け、凄まじい音を奏でる。
︱︱獲った。
マルスはそう確信した⋮⋮が、事はそう単純に行ってくれない。
次の瞬間、マルスは瞠目する。
頭を刈り取る筈だった剣は︱︱急遽出現した兜によって阻まれて
いた。
白銀の兜。ゲルマニアの力によって創造され、その形状は当時愛
用していた兜と全く同じである。
﹁⋮⋮⋮⋮ぬかったな﹂
ゼノスの言い放つその一言は、死神の宣告よりも恐ろしい。
額に冷や汗をたらし、マルスは咄嗟に距離を取る。死の悪寒が過
った彼にとって、これしか手段は見つからない。
509
しかし死から逃がす事を、ゼノスが許す筈も無く︱︱
﹁ぐ、ああっ!﹂
先程使用していた折れた剣を投擲し、見事マルスの左腿に的中さ
せる。深く突き刺さったのか、マルスはその場で転倒し、屋根から
転落する。
⋮⋮腿から血が吹き出し、落下の影響で全身を痛めるマルス。
もう限界だ。如何にシールカードの加護を受けたとしても、先の
戦いでとうに限界を超えている。だがそれでも、マルスは逃れよう
と⋮⋮目前の、アリーチェや民達がいる場所に向う。
⋮⋮一歩。また一歩。
足を引き摺らせながら、虚ろな瞳で⋮⋮当ても無いまま進む。
マルスを見つけた民達は、皆口々に非難する。﹁この悪魔﹂だと
か、﹁化け物﹂だとか⋮⋮散々な言われようだった。
そして遂に、マルスは処刑場の前にて膝をついてしまう。
510
︱︱今の彼は、既に周囲の雑音など殆ど聞こえなかった。
視界も狭まり⋮⋮いつの間にか目前にいるゼノスを、ただ見上げ
る事しか出来ない。
︱︱そうか、これが死の間際なのか。
周囲の罵倒も聞こえず、何も見えなくなり⋮⋮死んで行くのか。
それを悟ったマルスは、茫然とするしか無かった。
﹁⋮⋮もう、気は済んだか?﹂
ゼノスは最後に声を掛ける。
死期の近い同志に対して、優しい声音で。
﹁⋮⋮⋮⋮え⋮ええ。というか⋮⋮もう体が、動きません⋮よ﹂
511
マルスは血反吐を吐き散らし、酷く咳き込む。
身体に大きな負担が掛かっていたのか、もうボロボロだ。
そんな様子の彼に、ゼノスは言う。
﹁︱︱覚悟はいいか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ええ。お願い、します⋮⋮﹂
両者は全てを分かち合い、その上で淡泊な言葉を選ぶ。
これが騎士同志の決闘であり、その終焉だ。
⋮⋮さあ、マルス。
最後は苦しませずに、お前を倒してやろう。
﹁︱︱行くぞ。これが俺の、聖騎士流真の奥義だ﹂
512
ゼノスは剣を両手に握る。︱︱そして、
﹃︱︱私も、一緒に振るいます﹄
幻覚、あるいは妄想かもしれない。自分の手の上に重ねるように、
半透明の細い手が乗りかかる。︱︱ゲルマニアの手だ。
彼女と共に剣を振り上げる。ゼノスとゲルマニアは天を見上げる。
この技で初代の聖騎士は神を斬り裂き、二代目は魔王神を貫いた。
その剣技、正にどの奥義をも超越せし最強の一撃。未来永劫の果
てまでも、ただ主君と守りたい者を胸中に想い、守りたい一心を込
めて放たれる正義の技。
﹃天啓﹄︱︱それは確固たる正義の意志を持ってこそ、本来の力
を発揮する。
513
ここに、その力発動せし二人の騎士現わる︱︱
﹁﹃聖騎士流奥義、︽天啓のリベルタス︾﹄﹂
リベルタス︱︱それは自由。
振り下ろす剣先から、幾重の白き翼が舞う。
死は全ての者に平等と安息を与えてくれる。例え悪人だろうと聖
人だろうと、悲しき者にも下される。
マルスに︱︱︱︱偽りなき安らぎを
翼はやがて、世界を包む絶対回避不可能である死の息吹となり、
マルスの全身を容易く覆う。彼は抗う事も悲鳴を上げる事なく、﹃
世界で最も安らかな死﹄を受け入れた。
514
﹃⋮⋮⋮⋮私は、何かを残して死ねるでしょうか﹄
倒れ伏す直前、世界が遅くなる。
どこか和やかな表情を醸し出しながら、仇敵たるゼノスとゲルマ
ニアに問う。
﹃⋮⋮はい。貴方は世界に平和のきっかけを作り、死んでいきます。
︱︱マルス、名誉ある騎士として死ぬのです﹄
ゲルマニアの声音はどこまでも透き通り、明確なものだった。
マルスは一瞬だけ、そう一瞬だけ微笑んだ。
﹃敵わないですね、ゲルマニア殿にも。⋮⋮貴方だけは、こんな僕
の唯一の理解者でもありましたし﹄
先程とは嘘のよう、マルスは穏やかな口調だった。
﹃承知していました⋮⋮。聖騎士殿に復讐しても、意味が無い事を。
復讐しても⋮⋮皆は帰ってこないと﹄
515
マルスは細めた瞳で黄昏を見上げ︱︱呟いた。
﹃︱︱皆。僕も⋮そっちに⋮⋮いくよ⋮⋮。また一緒に⋮⋮くら、
そう⋮⋮﹄
その言葉を皮切りに、騎士マルスは絶命した。
表情は、最後まで微笑んでいた。まるで解放されたかの如く︱︱
この日︱︱哀れな騎士が死に絶えた。
516
広場は喜びと興奮の歓声に包まれる。
脅威は去り、人々は聖騎士の活躍を称えた。皇帝の死を嘆きつつ
も、彼らは新たな時代の幕開けに胸を躍らせる。
しかし、ゼノスとゲルマニア、それに騎士団一行と姫は素直に喜
べなかった。
特にゲルマニアは、涙を堪えながらマルスの亡骸を見つめる。彼
女は既に鎧化を解き、人間の姿となっている。
﹁⋮⋮マルスは、元々優しい方でした。国の平和を第一に考え、私
達騎士団の助けとなる為に精一杯従事していたんですよ⋮⋮。それ
がなぜ、こんな事に﹂
﹁膨大な力が、マルスを魅了したんだろう。⋮⋮苦悩の末に﹂
517
﹁⋮⋮何で、何で私達を頼らなかったのですか⋮⋮﹂
意固地になったのは、けじめと思っていたからだろうか?それと
も、頑固な性格からだったのだろうか?
少なくとも、根本から悪でなかったのは確かだ。
次にゼノスは、押し寄せてきそうな民衆を宥めるシルヴェリア騎
士団と六大将軍を見つめ、更にその視線をリカルドの遺体へと移す。
︱︱そして、ぼそりと呟いた。
﹁リカルド陛下。思想は邪悪だったが、貴方は確かに我が君主であ
った。⋮⋮どうか安らかに、お眠り下さい﹂
皇帝に猜疑心を持っていたのは事実、しかし幾分かの後悔を胸に
死んでいった者を蔑む程、ゼノスは腐っていない。後悔の念は分か
らずとも、虚ろなその瞳がその後悔を物語っている。
礼を正し、義を重んじる。︱︱紛れも無い主君の死を実感し、ゼ
ノスは自然と黙祷を捧げていた。
518
︱︱それを終えたゼノスは、城に向かって歩を進める。
﹁⋮⋮ゼノス?一体どちらへ﹂
と、そこでゲルマニアは言葉を止めた。
ゼノスから発せられる見事な怒気に、それ以上何もう言う事が出
来なかった。
﹁⋮⋮すまないがゲルマニア。今から城の方に向かう﹂
ゼノスはそう言い残し、城へと走る。
向かう先は︱︱勿論、この﹃悲劇を作り上げた者﹄の所だ。
519
520
ep28 聖騎士VS盗賊王︵改稿版︶︵後書き︶
2017年1月24日に改稿完了しました
521
ep29 平和を望む元凶
ゼノスが一人向かった先は、ハルディロイ城の地下だった。
延々と続く階段を下りていくと、ゼノスは目的の人物が例の椅子
に座っているのを見て、更なる緊張感を纏う。
﹁⋮⋮始祖。まさかまだ此処にいるとはな。⋮⋮正直驚きだよ﹂
先のマルスの行いにより、始祖を縛っていた結界は破られた筈、
何か始祖がしでかすんじゃないかと焦り、こうしてやって来たわけ
だが。
彼女は何もせず、ただジッと座り続けているだけだった。
﹁ふふ、気に入っちゃったんだ。だって快適なんだもん、ここ﹂
あっけらかんと答える始祖に、ゼノスは頭が痛くなってきた。
事の元凶がこうも拍子抜けだと、ここまで来た意味が薄くなって
くる。
﹁︱︱何が目的だ、お前は。お前はマルスを利用して何がしたかっ
522
た!?﹂
ゼノスはリベルタスの剣先を始祖へと向け、不可解極まりない彼
女の行動原理を追求する。正直な所、本当に思考回路が読めない。
シールカードという存在を創造し、マルスという犠牲者を作り上
げた諸悪の根源が、こんなにも穏やかで清純な体裁を保っているな
んて、とゼノスは抗えない疑問に苛まれる。
自分の知る始祖はどんな狂気よりも洗練され、純粋な悪意と脅威
を併せ持った︱︱所謂、この世の全ての闇を凝縮させた少女であっ
た。
それが裏を返し、今ではあの覇気が微塵も感じられない。それだ
けでなく、本来持っているだろう絶対の力さえ見極められなくなっ
ているのだ。
何故だ?始祖に何が起きている?
﹁⋮⋮そうだね。一体、何なんだろうね﹂
﹁︱︱は?﹂
深くため息をつき、静かに立ち上がる始祖。綺麗に咲く花畑を歩
きながら、光差す天井を眩しそうに見上げる。
まるで、全てに疲れているような⋮⋮そんな様子だった。
523
﹁私も、分からないんだ。マルスに力を与えたのは、平和を手にす
る為の力を与えたつもりだったのだけれど⋮⋮⋮⋮最悪な方向に進
んじゃったね﹂
﹁⋮⋮意外だな。あの始祖が良心で動くなんて﹂
﹁ふふ、褒め言葉として受け取ってもいいのかな?﹂
どこか楽しそうに呟く始祖。スカートを弄りながら、今度はゼノ
スを注視する。
可憐で美しく、どんなガラス細工よりも透き通った心の持ち主だ
と思う。ゲルマニアとはまた違うが、確固たる意志が内在している
様に見て取れる。貫き通し、守りたいという人間味が⋮⋮。
だが、犯した罪はそれだけでは消化されない。
シールカードの暴走、皇帝の死、神が死罪の免除を許しても、騎
士であるゼノスはそれを認めない。
ゼノスは花畑を優雅に歩く始祖をしっかりと見据え、怒涛の勢い
で接近し、いつでも彼女の首を刎ねられるよう、刃を首筋へと当て
る。始祖なら容易に距離を取れたはずだが、何も行動を起こさなか
った。⋮⋮いや、起こせなかったと言った方が正しいだろうか。
﹁︱︱で、死の覚悟は出来たか?⋮⋮同志マルス、そして我が国の
皇帝を死へと追いやった罪は、貴様の死を以てして償ってもらう﹂
524
﹁⋮⋮﹂
死の宣告に対し、始祖が抗う気配も感じられない。
単純に死を受け入れているのか?否、彼女の瞳は生気に満ちてい
る。
なら反撃の余地を窺っているのか?︱︱否、それも有り得ない様
相だ。
﹁ねえ騎士様。騎士様にとって、この世界はどう見える?﹂
﹁⋮⋮どうとは?﹂
﹁簡単な質問だよ。この世界に生きる生命は、特に人間達はどんな
思いで生きているのか。騎士様の率直な意見が聞きたいんだ﹂
要領を得ない投げかけであった。
命乞いとは別種の、とても抽象的な問い。まるで異世界で伝えら
れているイデア論に近い、何とも哲学的な問いかけである。
死の制裁は揺るがないにせよ、時間はいくらでもある。始祖の質
問に対し、ゼノスは思いのままを口にした。
525
﹁人間は何かを成し得る為に、又は何かを求めて走り続けている。
俺が騎士をめざし、敬愛すべき者を守る為に強くなったのと同様に
な。︱︱人は大切な何かを得ようと奮闘していると俺は思う﹂
あくまで経験から述べた見解だが、それこそがゼノスの信じる世
界の在り方。世界の真理だと推測する。
間違ってはいない︱︱始祖は静かにそう呟くが、やがて光に当て
られた素顔に曇りが生じ、絶望の眼差しは天へと注がれる。
﹁確かに騎士様の言う通りだよ。世界の秩序は全体的に人の意志で
動き、統率されていく。けれどもその意志は、騎士様の様な正義の
渇望があれば、同時に闇に堕ち、欲望に駆られる人も存在する。︱
︱そしてこの後者は、後に破壊と滅亡を企む﹂
﹁⋮⋮その後者が、マルスや皇帝陛下とでも言いたいのか?﹂
ゼノスは解き掛けた答えを導き出し、激しく後悔する。
﹁⋮⋮そうだよ。皇帝は私を死んだ実娘だと思い込み、横暴な行為
をしてまで私を守ろうとし、マルスは私を母と崇め、無差別に人を
殺してきた。︱︱そして私は、その争いの根源⋮⋮﹂
526
皇帝は娘を失い、マルスは大切な存在達を失い、両者は力を求め
てシールカードに手を染めたのだ。︱︱始祖が全てを叶えてくれる
と信じて。
結果、仮にゼノスがこの場で始祖を粛清すれば、生みの母を殺し
たゼノスを恨み、力の欲求に囚われたギャンブラーが破滅を呼び起
こす、と言っているわけだ。
﹁貴様⋮⋮ッ。多くを犠牲にしておいて生き残る事を望むかっ!﹂
﹁だって生き残らなければ、悲しみは再度連鎖するんだよ!私はも
う見たくないし罪を背負わなければならない!﹂
初めて自らの意志を主張し、金切り声を出す。
余りに予想もしなかった発言に、終始戸惑うしかないゼノスであ
った。そのせいか、剣を握るその手に若干震えが生じる。
ゲルマニアもそうだったが、自分の周りには意志の強い女性が多
い。その意志の強さはゼノスと同等、いやそれ以上かもしれない。
だから、始祖を殺そうという意志が揺らいでしまう。堅牢な心は、
聖騎士の使命に容赦なく釘を打ってくる。
﹁⋮⋮お願い、今は殺さないで。私にはまだやるべき事が残ってい
527
るの。シールカードの呪いを解放するという使命が⋮⋮﹂
﹁⋮⋮俺は﹂
答えに詰まるゼノス。
ふとそこで、思いもよらぬ助け舟がやって来た。
﹁︱︱その願い、この私が受け入れましょう﹂
張り詰めた雰囲気に広がる凛とした、それでいて小鳥が囀るが如
く清らかな声音が響き渡る。
その声の主は冷えた石畳をコツコツと足音を鳴らしながら、部屋
へと入ってくる。ゼノスが振り向くと、案の上そこにはアリーチェ
がいた。
﹁ア、アリーチェ様⋮⋮なぜここに﹂
彼女がこの場所を知っていて、しかもこの事態に限ってやって来
たのにも驚いているが、ゼノスは何よりもアリーチェの精神状態が
心配で仕方が無かった。
528
そんな不安を察知したのか、ゼノスの横を通り過ぎる間際に微笑
を見せ、この場は任せて下さい、と静かに諭してくる。ゼノスはそ
の意に従い、リベルタスを鞘へと納め、二人との距離を空ける。
対面するは、先刻より実質のランドリオ最高権力者となったアリ
ーチェ皇女、そして災厄をもたらした始祖。
緊迫した雰囲気︱︱と思いきや、ゼノスの想像とは全く違った状
況が展開された。
﹁⋮⋮始祖よ。貴方が過去に行った横暴を水に流そうとは申しませ
ん。身勝手な行動なのは百も承知ですが︱︱我が国は現在、シール
カードという脅威に晒されています﹂
﹁⋮⋮﹂
アリーチェの言動一つ一つをしっかりと聞き取り、始祖は今まで
以上に真剣な表情でアリーチェと向き合っている。
対するアリーチェは、正に一国を担う皇帝としての威厳を放ち、
ゼノスの知る儚い彼女は存在しない。
今は見守るしかない⋮⋮皇女殿下が一体どのような処置をするの
かを。
やがて、アリーチェはその右手を始祖へと差し出す。
529
﹁︱︱力を貸して下さい。互いにとって明るい未来を作る為に、我
等が望む本当の平和を手にする為にも。私は信じますよ。こんな綺
麗で純粋無垢な瞳を持つ女の子が、これ以上の愚行を犯さないとい
う事を﹂
﹁⋮⋮っ﹂
始祖は半ば意表を突かれ、しばし呆然とする。
相も変わらず優しい方だ。しかもただ慈愛だけで動く訳でなく、
全ての幸福を鑑みた上で言い放ったお言葉だと分かる。
﹁⋮⋮有難う、お姫様。勝手なのは重々承知だけど、私は二度と誰
かを苦しませたくない。︱︱共に戦うよ、世界の安定と平和の為に
も!﹂
ここに、また新たな歴史的変革が誕生した。
新皇帝陛下の誕生と同時に、ハルディロイ城の地下室にて密約が
交わされたのである。
かつてランドリオを滅亡の淵へと追いやった災厄。その根源が、
たった今ゼノス達と同盟を約束したのだ。ゼノスにとっては複雑で
あるが、主の取り決めた行い⋮⋮反対する気は無い。
530
だがこれから、更なる困難が立ち向かって来るのは間違いないだ
ろう。事実上、始祖を匿いながら助け合う事になるのだから。
﹁さて⋮⋮⋮⋮ゼノス、これより始祖は我等の同志であり、助け合
う仲となります。ですがこのままでは始祖の立場も無い上に、誓い
を守る事も叶わないでしょう﹂
﹁そこで﹂、と茶目っ気たっぷりに人差し指を立てた後、始祖の両
肩に両手を乗せ、ゼノスへと軽く押しやる。
﹁皇女の勅命です。彼女を︱︱貴方の側近として役立てなさい﹂
⋮⋮⋮⋮へ?
一瞬、アリーチェが何を言ったのか理解できなかった。それはど
うやら始祖も同様であった。
531
意味を知った途端、思わずゼノスは反論を口にした。
﹁ちょっ、待って下さいアリーチェ様!い、いくら何でもご厚意が
過ぎると思います!﹂
﹁あら、そうでしょうか?⋮⋮良く考えて下さい。今現在、私は始
祖を信頼したと申しました。それに⋮⋮仮に始祖が暴走した場合、
唯一それを阻止出来るのはゼノス、貴方だけなのですよ?﹂
﹁うっ⋮⋮⋮⋮それは﹂
﹁罪人には看守が必要なのと同様、貴方達は切っても切れない間柄
なのです。分かって下さい、ゼノス﹂
﹁⋮⋮は、承知しました﹂
言い返す言葉も見つからず、ゼノスは叱られた子供の様に項垂れ
る。
﹁よろしい、これから宜しくお願いしますね。︱︱私はまだまだや
る事がありますから、始祖の入団受理は頼みましたよ。そして勿論、
ランドリオの復興に関しても手伝って下さい﹂
532
﹁はっ、御意に﹂
動揺は隠せないものの、何とか返事だけは出来た。
聡明になられた皇女殿下を後ろから見守りつつ、彼女の成長に感
動を覚えるゼノスであったが⋮⋮今はそれ以上に度し難い不満が募
っていた。
ゼノスは思いっきり溜息を吐き、目前にて自分を見つめる始祖を
見やる。
﹁あ、あのう⋮⋮大丈夫、かな?﹂
有り難い事に、礼儀正しく心配してくれる始祖。
ゼノスは心中穏やかでないものの、数々の疑問を強引に封印する
事に努めた。
何故彼女はこうも変わってしまったのか、二年前の奴とは別人な
のか、始祖の本意は一体何なのか⋮⋮等々を、とりあえず記憶の奥
底へと放り投げておく。
今はとにかく⋮⋮。
ゼノスは彼女へと近づき、半ば強引にその右手を掴み、地下室の
出口へと引っ張って行く。
533
﹁わわっ⋮⋮ね、ねえどこ行くの?﹂
﹁決まってるだろ⋮⋮ここじゃ城の憲兵に見つかる。とりあえずラ
ンドリオ騎士団の正装を身に着けて、お前も復興作業の一員として
働くんだよ。そうすれば、まさかお前が始祖だとは誰も気付かんだ
ろ。⋮⋮皇女殿下、六大将軍、ゲルマニア以外にはな﹂
﹁⋮⋮﹂
捲し立てる様に言い放つゼノスに対し、唖然とした様子で引っ張
られる始祖。
﹁始祖⋮⋮ああそうだ、始祖という名前じゃこの先やって行けない
な﹂
ゼノスは彼女を振り返らず、ふと思い浮かんだ名前を口にした。
﹁これからお前は︱︱﹃アスフィ﹄だ。いいか、アスフィ?くれぐ
れも変な行動だけは起こすなよ﹂
﹁ア⋮⋮スフィ?アスフィ⋮⋮⋮⋮ふふっ﹂
534
﹁何だよ、いきなり微笑んで。気に喰わなかったか?﹂
始祖⋮⋮もとい、アスフィは笑いを何とか堪えながら返した。
﹁う、ううん⋮⋮だって、騎士様が変な所で優しいからさ。それが
可笑しくって﹂
⋮⋮何だか馬鹿にされている気がするが、名前はそれでいいらし
い。
数奇な出会いに始まり、これまた数奇な関係となったゼノスとア
スフィ。
アスフィはこれからの生活に期待と希望を膨らませているが⋮⋮
ゼノスはどうやってゲルマニアを説得するか悩むばかりであった。
535
ランドリオ帝国︱︱この年、皇帝はアリーチェとなった。
そして︱︱空席だった六大将軍の一つが埋まる事ともなった。
かつては全身を鎧で包む白銀の騎士。
そして現在は、赤のジャケットにジーンズという摩訶不思議な格
好の青年。
名を、白銀の聖騎士ゼノス・ディルガーナ。
騎士のシールカードであるゲルマニアのギャンブラーとなった騎
士である。
536
ep30 聖騎士ゼノス・ディルガーナ
シールカードの脅威から白銀の聖騎士が救った。もはやこの偉業
は三日間で世界中へと広まり、最強騎士の再来を歓喜し、大いに称
えられた。
それから更に二日後の今日、あらかたランドリオの復興作業を一
段落させ、ゼノスにとっての一大イベントが執り行われる。
︱︱そう、それは再叙任式である。
シルヴェリア騎士団との契約を終わらせ、晴れてゼノスはランド
リオ騎士団の六大将軍として復帰する事になるのだ。
不安もあれば期待もある。ただ自分の正義を貫く為にゼノスはこ
の場にいる。
そんな思いに明け暮れながら、ゼノスは一時間後に待ち受ける再
叙任式に備え、ハルディロイ城の控室のソファに座っていた。
﹁⋮⋮全く、結局こうなるとは思ってたよ﹂
苦言を漏らすのは、つい今さっき部屋に入って来たラインである。
537
今日は全身黒タイツの恰好では無く、式典用の甲冑に身を包んでい
た。
このライン、そして今はいないロザリーだが、二人もまたシルヴ
ェリア騎士団を抜け、ゼノスと同じくランドリオ騎士団へと入団す
る事になったのだ。まあ、ラインの場合は実際、再入団という形に
なるのだが。しかし彼はあえて新規入団という形で手続きを済ませ
たようだ。
﹁ライン。お偉いさん方との世間話はもういいのか?﹂
﹁いや、話をする前に社交場を抜け出してきたよ。六大将軍の頃か
ら慣れなくてね⋮⋮あ、ここ座ってもいいかな?﹂
﹁ああ、いいぞ。丁度俺も、暇を持て余してたしな﹂
じゃあ遠慮なくと言って、ラインはゼノスの対面に備えられたソ
ファに腰掛ける。
﹁⋮⋮なあライン。お前はもしかして、俺がランドリオに戻るって
分かっていたのか?﹂
ゼノスの突然の問いに対し、ラインは即答する。
﹁何となくはね。︱︱ゼノスは正義にどこまでも忠実だし、いくら
口で言っても、ランドリオの危機には必ず馳せ参じる。君は昔から
そうだったからね﹂
538
さも当然の如く答えるライン。旧知の友はあくまでゼノスの進む
道を阻まず、こうしてゼノスの良き理解者となってくれている。ロ
ザリーといい、二人はどこまでもゼノスを支えてくれるものだ。
だが︱︱
彼等を動かすモノは一体何なのか?ゼノスの為に相談に乗り、ゼ
ノスの為にシルヴェリア騎士団を辞めてまで行動を共にする。シル
ヴェリアに入団したのも、元はゼノスが入団したから入ったのであ
って、二人はどこまでも付いて来る。⋮⋮その真意は、ゼノスでさ
えもよく理解出来ない。
﹁⋮⋮まあ俺はいいとしてだ。俺は結果的にランドリオ騎士団へと
戻り、また陛下の下で忠誠を尽くそうと思う﹂
ゼノスは一拍置き、言葉を続けた。
﹁だが、お前達はどうするんだ?特にライン、お前は⋮⋮六大将軍
に戻るつもりは無いのか?﹂
﹁⋮⋮痛い所を突くね﹂
ラインは自嘲めいた笑みを見せる。
この男は六大将軍の中でも﹃影の存在﹄として扱われ、自らが成
してきた偉業を語られる事は無かった。︱︱しかし、それでもライ
ンは影なりの役目をしっかりと果たし、本人も充実しているとよく
言っていたものだ。
539
影の如く誰にも知られず、しかし誰とも接してきたライン。勿論、
その正体を隠したままである。ラインはそういった﹃影﹄と﹃光﹄
の面を持ち、帝国に居座ってきた。
それなのに、何故彼は六大将軍の座に戻ろうとしないのか?
陰りのある瞳から察するに⋮⋮色々と理由があるに違いない。なの
で、ラインがどのような返答をするかは大体見当がついていた。
﹁本当の所、僕やロザリーは迷っているんだよ。今の自分は何者で、
何の為に生きているのか?そんな、過去に縛られた亡霊なんだ。︱
︱そして恥ずかしい事に、僕等は君という存在が導いてくれると信
じちゃっているんだ﹂
やはりか、とゼノスは納得せざるを得なかった。
ゼノスだって、つい最近までは迷走していたのだ。自分は何者に
なりたいのか?このままでいいのか、と焦燥感を覚えていた。曖昧
な返答になるのも無理は無い。
結論的に言えば、ラインとロザリーはゼノスに頼っているのだ。
いつか救ってくれる。そう信じて、二人はゼノスと共に歩こうと
している。
﹁⋮⋮だから今は、六大将軍の座に戻るつもりは無い。それに、僕
の後釜も出来ているようだしね。今更、こんな中途半端な奴が六大
将軍になれるわけがない﹂
540
ラインはその事に関して、終始何の感情も見せずに答えた。友で
あるゼノスにさえも隠す理由︱︱恐らく、これ以上の追求は彼の心
に傷を付けてしまうだけだろう。それ程までに⋮⋮ラインは悩み苦
しんでいる、とゼノスは思う。
﹁そうか⋮⋮。分かった、これ以上の追求はしない。細かい話は抜
きにしようって、一年前に約束したものな﹂
﹁そうしてくれると有り難いよ。⋮⋮でも、いつか打ち明ける。自
分の心の整理がついた時には⋮⋮必ず﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
それを聞けただけで、ゼノスは納得した。
彼だって今は悩んでいる時期︱︱きっと、何かがきっかけで話し
てくれるに違いない、ゼノスはそう確信していた。
﹁⋮⋮そうだ。そういえば⋮⋮はい、これ﹂
何か思い出したように、ラインは突如ポケットから一枚の手紙を
取り出し、それをゼノスに差し出してきた。
手に取って差出人の名前を見ると、そこには﹃シルヴェリア騎士
団団長、及び副団長二名より﹄と書かれていた。
541
﹁これは⋮⋮﹂
﹁団長達がランドリオを去る前に渡してきたんだ。全く、直接渡せ
ばいいのにねえ﹂
そう、シルヴェリア騎士団は既にランドリオ帝国にいない。昨日
出立したと聞いた時は、つれない連中だなと思っていたが⋮⋮まさ
かの置手紙である。
ゼノスは手紙の封を切り、中から二枚の紙を取り出す。
一枚目には、リリスとサナギからのメッセージが書かれていた。
我が永遠の上司 ゼノス様へ
挨拶もせずにランドリオを出立した事、誠に申し訳ありませんわ。
ランドリオ騎士団へ戻るかどうか悩みましたが、私は団長と共に行
く事に決めました。
ゼノス様。どうかいつまでも、正義を重んじる騎士であって下さ
いませ。
遠い異国で、私達も精一杯見守っていますわ。
542
そして、何とか恋も頑張ってみようかと。こ、ここでは明言しま
せんけど!
では、またいつか。お元気で。
リリスより
ゼノスへ
手紙を書くのは苦手なので、手短く済ませる。
まずお前が白銀の聖騎士だと知って最初は驚いたけど、そんな事
はどうでもいい。
ただ今までサボった分、今度倍にして恩を返せ。それだけだ。
じゃあ、元気でやれよ。
サナギより
543
と、まあこんな内容が書かれていたのであった。
流石騎士だけあって、無駄な文章が省かれており、淡泊な内容で
締めくくられていた。⋮⋮いやそれでも、サナギは余りにも淡泊な
気がするが。彼女とは全く話した機会が無かったので、当然と言え
ば当然か。
ゼノスは少々微笑み、最後の一枚へと目を向ける。
だが最後の段落に刻まれた名前を見て、ゼノスの途端に真剣な表
情を作る。
なぜなら、シルヴェリア騎士団団長ニルヴァーナの直筆が書かれ
ていたからだ。
544
我が同志ゼノスへ
急な依頼が他大陸から入った故、急遽私達は旅立つ事となった。
だから、今の心情を手紙に書き記そうと思う。余りにも不躾なの
は百も承知・・・・・・しかし、どうかこの文章を最後まで見て欲
しい。
さて、お前は前から気付いていたかもしれないが、私は白銀の聖
騎士をずっと憎み続けていた。
ここで詳細を書くつもりはないが、その昔、私は一人の女性を失
った。
名はシルヴェリア︱︱この世で最も美しい竜の少女、そして私と
将来を約束したシルヴェリアは、二年前の死守戦争で死んでしまっ
た。
白銀の聖騎士が彼女を殺したと知った瞬間から、私はお前を恨ん
でいた。けれども、同時に分かっていたんだ・・・・・・お前を憎
んだ所で意味が無いのだと。
545
これは後から知った事なのだが、シルヴェリアは始祖の波動に狂
わされ、近隣の村を荒らし回っていたらしい。ゼノス、お前は村の
人々を守る為に、彼女を殺したのだろう?
道理としてはそちらが正しい。・・・けれども、長年私は現実逃
避をし続けてきたのだ。無我夢中にお前を殺す事だけを考え、それ
だけを考えて、馬鹿らしい人生を送って来た。
けれども、私はお前の正義と誇りを直に目にして、目が覚めたよ。
お前は立派な騎士だ。決して罪なき者を無闇に殺そうとしない、私
はあの場でようやく理解に至り・・・・・・今までの自分を恥じた。
これは推測だが・・・シルヴェリアもきっと許してくれていると
思う。
だから、これからも護る者であってほしい。自分を見失わず、ラ
ンドリオの守護者として在ってほしい。
今はお前と話せる程整理がついていないが、私は必ず、必ずお前
と向き合い、一言謝る事を約束しよう。近い将来︱︱絶対にだ。
・・・そして次に会う時は、良き友人として再会しよう。我が同
志︱︱聖騎士ゼノス。
ニルヴァーナより
546
﹁⋮⋮ニルヴァーナ﹂
ゼノスは手紙を読み終え、しばし感動の余韻に浸る。
白銀の聖騎士を憎んでいた。無論、ゼノスはこの事実を以前から
知っていた。シルヴェリアの討伐は鮮明に覚えているし、ある種の
後悔に暮れていた。
だがこうして、彼は許してくれている。
こんなに嬉しい事は他に無い。
それからゼノスとラインは、叙任式が行われる何分か前まで会話
に華を咲かせていた。
547
今までの旅路を語らい、これからの在り方を口にし合う内に、叙
任式の時間となり、ゼノスはゆっくりと腰を起こした。
黙って見送るラインを背に、ゼノスの足先は扉へと向く。
そして、最後に二人は言葉を交わした。
﹁⋮⋮さて、そろそろ行くか。直前だとゲルマニアに叱られるだろ
うしな﹂
﹁そうだねえ。でも彼女、この時間から行っても怒りそうな気がす
るけどね﹂
﹁⋮⋮まあ、そこはあえて考えないようにする﹂
その言葉を皮切りに、ゼノスは控室から出て行った。
途端に静まり返る控室で、ラインは軽く溜息をつく。
ラインは未来を予測する占い師でも無ければ、人生観を神妙に語
る哲学者でも無い。滅多に達観した言い方をしないが、自然と慣れ
ない言葉を口にする。
548
﹁︱︱はてさて、これからが試練だよゼノス﹂
今はいない友に呟く独り言。
言い知れない不安と期待が押し寄せてくる。
﹁⋮⋮これから先は、今までと勝手が違うんだ。君は騎士としてだ
けでなく、一人の人間としてランドリオに戻る。そして、シールカ
ードという存在が立ちはだかると思うと⋮⋮なぜだか分からないけ
ど、更なる悲劇を垣間見る気がしてならない﹂
あくまで仮定の話だが、ラインの独白には現実味が備わっている。
白銀の聖騎士に戻ったからと言って、彼の物語はまだ終わらない。
むしろ、これからだ。
聖騎士ゼノスの英雄譚は、まだ続くのである。
549
数え切れないざわめきが聞こえてくる。
皆が待つ謁見の間の扉前にて、ゼノスはゲルマニアと共に佇んでい
た。
これからゲルマニアは聖騎士の補佐官となり、彼女と二人で新たな
騎士部隊を形成する事になる。今日はゼノスの叙任式でもあり、二
人を中心とした騎士部隊が承認される日でもある。
新たな門出、そして︱︱聖騎士の英雄譚に紡がれる続きの一ページ
でもある。
さあ⋮⋮そろそろ扉が開門される。
この門をくぐれば、新たな出会いが、宿命が待っている。
﹁⋮⋮ゼノス、準備は宜しいですか?﹂
﹁ああ、まあ⋮⋮大丈夫、かな?﹂
ゲルマニアは若干緊張した様子で尋ね、ゼノスはそれに対し、悠
長に微笑み返す。
550
﹁全く⋮⋮ゼノスはいつも呑気ですね。私なんて⋮⋮し、しし、心
臓がバクバクなのにですよ?﹂
﹁駄目だなあ、それじゃ。本当の騎士ってのはな、常に平然として
なきゃ駄目なんだよ。そう、この俺みたいな﹂
﹁⋮⋮いえ、貴方は少々平然通り越してボンヤリとしている気がし
ます﹂
それじゃゼノスも駄目ですよ、とゲルマニアが軽口を言ってくる。
それがどこまで微笑ましく、ホッと出来る会話であった。
﹁︱︱では、行きましょう。皆が待っている場所へと﹂
﹁そうだな。︱︱行こう、ゲルマニア﹂
扉が徐々に開き、その先の眩しい光を頼りに歩みを始める。
ゲルマニアの能力が解き放たれ、重厚な鎧を身に纏い、赤いマン
トをなびかせる。強度を皆無にさせる代わりに、ゲルマニア自身は
鎧化はしなかった。
ただ勇ましく歩き続ける聖騎士ゼノスの横に侍り、歓声が沸き上
がる中、一緒に扉をくぐっていった。
551
白銀の聖騎士とゲルマニア。
二人の物語が、今始まる。
552
ep0 アルギナス
ランドリオ帝国から西に覆い広がる樹海を抜け、なだらかな平原
を抜けた先に巨大な牢獄が存在する。
牢獄都市アルギナス、都市全体が大きな牢獄となっており、その
規模は唯一無二の巨大さだ。上層に囚人を監督する警備部隊の居住
区、中層には通常の刑を持つ囚人達の集落。
そして地下にある下層は︱︱凶悪な囚人達が居座る危険区域とな
っている。
彼等は監視こそされているが、牢獄に生きる彼等は非常に自由奔
放である。囚人の中には懲役千年をも超える者達もいて、下層を統
率している状況にある程なのだから。
そんな猛者達を隔離するアルギナス、無論の事、巨大な力を持つ
彼等を制御する警備部隊もまた強力である。
553
アルギナスを統率するのは、警備部隊大隊長︱︱六大将軍ユステ
ィアラ。
﹃残酷なる剣豪﹄と呼ばれる彼女は世界的にも名が通っており、幾
多の英雄譚も残している。ある英雄譚では五千人規模の他大陸から
の侵略部隊に対し、たった一人で挑み︱︱わずか一夜にして五千人
全てを斬り尽くしたとか。またある話では、海底に住まう神話の怪
物、クラーケンを一太刀で滅ぼしたという逸話も残っている。
そんな彼女がいるからこそ統率がなされている場所に、今日は妙
な珍客がやって来ていた。
その者もまたユスティアラ同様六大将軍であり、赤のジャケット
にジーンズという奇抜な格好の青年。
名は︱︱ゼノス・ディルガーナ。
今からほんの三週間前に再叙任を受けた騎士である。
554
ep1 剣豪との面会
アルギナスの上層部、警備部隊本詰所の大隊長室にて、六大将軍
ユスティアラに対面する一人の少女騎士がいた。
少女の名前はゲルマニア、シールカードと呼ばれるカードに封印
されている少女であり、現在では白銀の聖騎士の側近兼従者として
活躍している。
ゲルマニアは、厳格な面持ちで佇むユスティアラに一礼する。
﹁お⋮⋮おお忙しい中、突然の訪問にもかかわらず面会をき、許可
して下さり、ま、まま誠に⋮⋮その﹂
﹁⋮⋮容易き要望、気にするな﹂
無機質な声音で答えるユスティアラ。
一方でゲルマニアは、高まる緊張に若干声が裏返ってしまい、肝
心な挨拶もロクに出来ていなかった。
555
︱︱ほ、本物のユスティアラ様だ⋮⋮
目前のユスティアラは、大体二十代前半だろうか。艶やかな長い
黒髪に、警備部隊の正装の上に漆黒のマントを羽織っている。切れ
長な瞳、真紅の唇、一般女性よりも高い身長である出で立ちは、六
大将軍の女性として美しく、尚且つ凛々しさを強調させていた。
ゲルマニアは高揚感で一杯だった。なぜなら、彼女もまた様々な
伝説を残し、人形劇や詩人の歌として語られている。白銀の聖騎士
や他の六大将軍と同じく、今や伝説の騎士となりかけている程だか
らだ。
﹁ゲルマニア、と言ったか?心を落ち着かせよ、それではまともな
会話も成せぬ﹂
﹁は、はいっ!﹂
尤もな指摘を受け、上擦った返事で返してしまうゲルマニア。
ユスティアラは盛大に溜息を吐き、ちらりと右横へと視線を移す。
﹁この状況、理解不能だ。⋮⋮故に、説明を要求する﹂
556
ゲルマニアは苦笑しつつ、こめかみをヒクつかせる。
彼女達の視線の先には、部屋隅に備えられたソファに座るゼノス
がいた。なぜだか知らないが、腹を押さえながら呻いていた。とて
もじゃないが、誰かと話す余裕は無いようだった。
﹁⋮⋮何故、聖騎士は苦しんでいる?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮昼食を食べ過ぎた結果です、あれは﹂
ゲルマニアの発言により、部屋の中に沈黙が訪れる。
ゼノスは﹁う、うう⋮⋮もう食えない﹂と呻きながら腹を押さえ、
今にも吐きそうな状態である。
決して、一緒に同行してきたラインとロザリーとの大食い競争であ
あなったとは口が裂けても言えない。不真面目は許せないと評判の
ユスティアラが事情を聞けば、間違いなくゼノスに斬りかかるだろ
う。
ゲルマニアの曖昧な理由に対し、ユスティアラはただ一言︱︱
557
﹁⋮⋮愚かなり﹂
旧知の戦友に言い放つ最初の言葉は、とても辛辣なものだった⋮
⋮。
ゼノスがトイレへと駆け込み、まともに話す事が出来るようにな
ってから数十分が経過した。
まだ気分が悪い様子だが、ゼノスの表情は幾分か和らいでいた。
その様子に安堵したゲルマニアは、自分は他にやる事があると言い、
部屋を退室した。
よって、今この場にいるのはゼノスとユスティアラの二人のみで
ある。
558
﹁⋮⋮久しいな、白銀の聖騎士﹂
﹁ああ、久しぶりだなユスティアラ。地獄の番犬ケルベロスを共に
討伐した以来じゃないか?﹂
﹁否⋮⋮正確に言うならば、異界より迷いし悪鬼を討伐して以来だ﹂
二人が挨拶代わりに話す昔話は、一般論とはかけ離れたものだっ
た。
そして、こんな事を語るユスティアラは非常に珍しい。部下の間
では﹃冷酷な将軍﹄と恐れられ、囚人達の間では﹃アルギナスの死
神﹄として名が通っている。そのせいか、彼女と普通に会話する者
はあまりいないのだ。
通常ならば、彼女がこんなにも語る事はないのだが、ゼノスに対
してはそうではなかった。
恐らくだが、ユスティアラはゼノスを実力者として認識しており、
同じ境地に立つ覇者として、つまり何のしがらみも無い状態で話せ
るのだろう。それに、世界中から恐れられ、尊敬されている彼女に
とって、対等に話せるゼノスを案外気に入っているのかもしれない。
559
言わば、これが彼女なりの信頼とも解釈できる。
﹁聖騎士、以前よりも大分変わったな。その外見、出で立ち、雰囲
気、波動、どれもが変化している﹂
﹁ま、色々とあったんだよ⋮⋮。この二年間⋮⋮色々とな﹂
﹁⋮⋮ふむ﹂
その意味深な呟きに、ユスティアラはこれ以上追求はしなかった。
野暮だという理由もあるが、彼女は現在仕事中の身である。余計な
事に時間は裂きたくなかった。その話はまたの機会に⋮⋮いや、始
祖に関する事も聞きたいので、空いている時間にでもまた問おう、
ユスティアラはそう思った。
﹁︱︱それよりも、今回アルギナスに来た理由を話したいんだが﹂
ゼノスも同じ意見なようで、今回の件以外の話に深く入る気は無
かった。
余程重大な事なのか、ゼノスは深刻な表情である。
560
﹁⋮⋮聞こうか。聖騎士自身が来たとならば、余程の事態がアルギ
ナスに迫っているのだろう﹂
最悪の状況を大体把握出来ているユスティアラに、ゼノスは察し
が良いと感心し、さっそく説明に入る事にした。
ゼノスが彼女に何の報せも送らず、緊急でアルギナスへとやって
来た経緯を︱︱。
再叙任式を経てから三週間が経過した今現在⋮⋮そう、六大将軍
としての事務仕事を片っ端から行っていた時だった。
突然ゼノスは現ランドリオ帝国皇帝、アリーチェ陛下に召集をか
けられ、六大将軍としての復帰初の仕事を賜ったのだ︱︱。
561
ep1 剣豪との面会︵後書き︶
画像掲載サイト﹁みてみん﹂にて、六大将軍ユスティアラのイラ
ストを投稿しました。
562
ep2 魔王ルードアリア
これは昨日の昼の事である。
ハルディロイ城謁見の間に向かう為の回廊にて、白銀の鎧に身を
包み、兜を外した状態のゼノスと、その横に付いて行くゲルマニア
の姿があった。
﹁はあ⋮⋮目が痛い。この世界には目薬が無いから、書類の処理が
楽じゃないな﹂
ゼノスは目頭を押さえながら呟く。その目は軽く充血しており、
しかも眠そうな表情であった。疲れもあるが、ここ二年間で培って
きた堕落症も出ているようだ。
ゲルマニアは尊敬する騎士の体たらくを見つめ、淡々と答えた。
﹁その目薬とやらは知りませんが⋮⋮シャキッとして下さいゼノス。
白銀の鎧に不相応ですよ﹂
563
彼女に指摘され、ゼノスの意気はとことん下がって行く。
だって仕方ないじゃないか。ここ最近のゼノスの仕事は、それは
もう激務だった。
まずは叙任後の披露公演、これがまた凄いもので、何と世界中か
ら人々が押し寄せ、復活した聖騎士の素顔を拝見しにやって来たの
だ。中には知り合いも沢山いたが、あの混雑では話も出来なかった
のが残念だった。後は事務作業、ランドリオ騎士団の訓練指南、そ
の他諸々で大変な日々を送っていた。
そして疲れが溜まる理由は、それだけでは無い。今身に着けてい
る鎧にも問題があった。
﹁⋮⋮なあゲルマニア、この鎧なんだけど⋮⋮﹂
鎧の話題を振ると、ゲルマニアはさも嬉しそうに微笑む。
白銀の鎧︱︱これはゲルマニアが作り出した鎧なのだが、その性
能は彼女自身が憑依していないと意味が無い。しかもこの鎧、憑依
していないとたった数十秒で解除されていたのだが。
﹁凄いですか?えへへ⋮⋮実は私、憑依しないで鎧を構築出来る時
564
間がかなり伸びたんですよ、この三週間で。強度は変わらず皆無で
すが、公共の業務にはぜひとも利用して下さいね﹂
という事らしい。そのおかげで一時間も前から暑苦しい鎧を着せ
られ、ゼノスは少々不機嫌になっていた。
けれども無理やりに脱ごうとすると、彼女はすぐ悲しい表情を浮
かべてくる。そんなわけで⋮⋮今のゼノスは、戦い以外は鎧などい
らないと言えない状況であった。
﹁はあ、そいつはどうも﹂
半ば適当に相槌しながら歩いていると、既に両者は謁見の間の前
まで来ていた。
荘厳な雰囲気の漂う場所にて、ゼノスは改めて深呼吸をし、騎士
としての表情に変える。
﹁よし、行くか﹂
﹁はい﹂
565
ゼノスは颯爽と歩み、謁見の間の扉に控える騎士達に声をかける。
﹁︱︱六大将軍が一人、ゼノス・ディルガーナ。皇帝陛下の命によ
り参上した。扉を開けてくれ﹂
﹁﹁はっ!﹂﹂
威勢よく騎士達は呼応し、双対する彼等は扉中央へと振り向く。
まもなくして、開門の言葉が告げられる。
﹁﹁白銀の聖騎士様、ご来場!﹂﹂
高らかな宣言と共に、かくして扉は重々しく開かれていく。
その先の玉座に控えるアリーチェ、なぜいるかは知らないが、玉
座の両脇にはランドリオ騎士団、聖騎士部隊所属のラインとロザリ
ーが控えていた。勿論、ゼノスが呼んだ覚えは無い。
とりあえず、ゼノスは麗しき皇帝陛下、アリーチェの御前へと近
寄り、ゲルマニアと共に頭を垂れる。
566
﹁白銀の聖騎士ゼノス・ディルガーナ、殿下の召集に応じ、参上仕
りました﹂
﹁同じく六大将軍ゼノスの側近、ゲルマニアも参上致しました﹂
二人の挨拶を聞き、玉座に座るアリーチェは頷き、顔を上げるよ
う合図する。
﹁よくぞ来てくれました、ゼノス様、ゲルマニア。お忙しい所申し
訳ありません﹂
﹁いえ、何よりも優先すべきは御身の御指示です﹂
ゼノスは何時如何なる時も主君を優先し、主君の為に在る。それ
即ち、相も変わらない聖騎士の教訓である。
そんな変わらない聖騎士の姿に、アリーチェの表情は満面の笑み
となる。
﹁有難うございます。⋮⋮こうして、また聖騎士ゼノスがいる帝国
となった事、今は皆の者が喜んでおられますよ﹂
567
﹁は、有り難き幸せ。︱︱して、今回はどのようなご用件でしょう
か?﹂
﹁ああ⋮⋮そうでしたね。ふふ、私ったらつい嬉しくなってしまっ
たもので﹂
眩しい笑顔に、自然とゼノスも喜ばしくなる。
誇り高き武勲と名誉を併せ持つランドリオ帝国、その国で先日即
位したばかりのアリーチェ皇女殿下。未だ不慣れの様子だが、こう
して公共の場に君臨する彼女は凛々しく、微かな気高さを感じる。
現に今も、純粋な翡翠の瞳は威光を放ち、厳正な態度であった。
この成長はゼノスだけでなく、イルディエやアルバートも感激した
ものである。
﹁⋮⋮さて、まずはゼノス様。貴方は牢獄都市アルギナスを覚えて
いますか?﹂
﹁勿論でございます。あの都市は世界でも唯一無二、S級罪人を収
容する事が可能な牢獄です。⋮⋮自らが他大陸にいた時も、アルギ
ナスの噂は何度も聞いております﹂
568
﹁⋮⋮そのアルギナスですが、単刀直入に言いましょう﹂
アリーチェは少し間を空ける。⋮⋮そして意を決し、続きを述べ
た。
告げられた言葉は、予期せぬ最悪の報せであった。
﹁︱︱昨日、アルギナス最深部にてシールカードの気配を感知した
という報せを受けました﹂
﹁︱︱ッ!?﹂
それを聞いて、ゼノスとゲルマニアは驚愕する。
思い起こすのは、三週間前の悲劇。マルスというギャンブラーが
シールカードを使って暴走し、沢山の犠牲を払ってきたあの事件。
あの嫌な出来事を思い出してしまう。
569
﹁シ、シールカードが⋮⋮また﹂
最悪の想定が脳裏をよぎり、微かな悪寒で身の毛がよだつ。それ
はゲルマニアやライン、ロザリーも同様のようだ。
﹁⋮⋮その証拠は彼女が見出しました。出てきてください、﹃占い
師のギャンブラー﹄よ﹂
アリーチェがその言葉を言い放つと、玉座の裏側からゆっくりと
黒衣のローブを身に着け、その下に露出の高い赤のドレスを着飾っ
た女性が姿を見せた。何となく気配は感じていたが⋮⋮ロザリーや
ラインは愚か、ゼノスでさえもその登場に驚きを隠せなかった。
ゼノス達は彼女を知っている。
︱︱名はミスティカ、新生ランドリオの誕生を期にゲルマニアと始
祖アスフィがシールカード所持者に限定し、秘密裏に募兵を募った。
その結果、このランドリオにやって来た志願者は三名であり、彼女
はその一人である。
ミスティカは妖艶で摩訶不思議な雰囲気を纏った美女で、﹃目に
見えないものを透視﹄するという能力を役立たせている。最初は物
静かそうな女性かと思ったが⋮⋮その性格は実に正反対である。
570
﹁うふふ、仰せのままに。姫王の為ならば地上全てを見透かし、天
を見透かし、そして姫王の恋心も見透かせてご覧にいれましょう﹂
﹁ちょ、ちょっと待って下さい!三つ目は却下です、却下!﹂
アリーチェは焦りを露わにする。そんな可愛らしい反応を見せる
皇帝に、ミスティカの笑みは更に深まる。
﹁あら何故ですか?このような好機にもったいない願いですよ?﹂
﹁だ、だだ、駄目です!ぜっったいに!ま、まだ⋮⋮心の準備が出
来ていないのですから⋮⋮﹂
﹁あらあら、それならば仕方ありませんね。では今は、所定の命令
を果たすとしますか﹂
訳の分からない会話がゼノスの前で展開され、最後辺りは少々付
いて行けなかった。だがそれはゼノスだけのようで、ゲルマニアは
少々不機嫌となり、ロザリーは無言の怒りを露わにしている。ライ
ンだけは愉快な調子でその状況を楽しんでいた。
ミスティカはゼノスへと向き、頭を垂れる。
571
﹁お久しぶりですね、騎士のギャンブラー。モテモテの所申し訳あ
りませんが、これより、アルギナスで発生したシールカードの様子
を記録した映像を出します。括目してご覧ください﹂
﹁あ、ああ⋮⋮頼む﹂
前半の意味深な言葉に疑問を抱きつつも返事をする。なぜか女性
達に睨まれるが⋮⋮理由は全く分からないゼノスであった。
ミスティカは懐から一枚のカードを取り出し、全神経をカードに
注ぐ。
﹁では︱︱︱︱占い師のダイヤ、﹃全てを見据えるレディシエ﹄!﹂
ミスティカの命と同時に、彼女はカードを頭上へと投げ飛ばす。
カードは眩い閃光を放ち、全員の視界は光によって奪われる。
︱︱そして、ゼノス達は見た。その異様で禍々しく、本当の闇を
572
垣間見た様な光景を。
闇夜よりも暗く、朝か夜かも不明な深淵の箱庭。恐らくアルギナ
スの最深部であろうが、視界調整によって見据えられるその先は、
牢獄と言うよりも魔界の王が住まう魔王城に類似している場所だっ
た。
﹁こ、これは⋮⋮﹂
ゲルマニアが驚きの声を漏らす、その反応は正常な証であろう。
ゼノスも初めて見るが、その光景は、一般の牢獄とかけ離れている。
﹁どうやら、これはミスティカのシールカードが透視した光景だろ
うな。全く⋮⋮凄い力だが︱︱ゲルマニア、今から細心の注意を払
えよ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
573
ビジョンは次へと移り、ゼノスが感知した嫌な予感は的中した。
闇を抜けた先、そこにはハルディロイ城の王座の間とは真逆の世
界が映し出されている。仄かな明かりによって照らされた薄暗い空
間、鮮血色の絨毯が地面を覆い⋮⋮その部屋の奥には、漆黒の玉座
が備えられている。
そしてその玉座に︱︱奴は退屈そうに座っていた。
﹁⋮⋮⋮⋮ッッ﹂
ゼノス以外の皆は途端に息が苦しくなり、床に膝をついてしまう。
無論の事、奴を直視する事が出来ない。異常な程の覇気が彼等を襲
い、精神的不安を引き起こしてくる。
ゼノスはこの存在を知っている。大層な漆黒の鎧を纏い、大きな
体躯に相応しい紅蓮の大剣を片手に持つ男は、嫌でも覚えている。
574
﹁︱︱魔王、ルードアリアか﹂ 苦言を発し、二度と見たくなかった仇敵を睨みつける。
魔王ルードアリア︱︱奴とは一度魔界の深層にて一騎打ちを果た
し、死闘の末に奴を倒して、ゼノスが牢獄に送ったのだ。以前使用
していた魔盾ルードアリアは奴から簒奪した物でもある。
その魔王が剣を持つ手の反対に所持しているカードを発見した途
端⋮⋮ゼノスに戦慄が走る。
それは紛れも無く︱︱シールカードだった。
透視されたビジョンはそこで終了し、場所は謁見の間へと戻る。
ミスティカの放ったカードも次第に光を失い、静かに彼女の手へて
戻っていく。
⋮⋮得も言われぬ光景を目にし、ゼノスとゲルマニアは険しい表
情を崩せなかった。アリーチェ達はどうやら既に拝見していたよう
だが、それでも魔王の覇気には抗えなかった様子、小刻みに身体が
575
震えていた。
﹁⋮⋮ゼノス様、今の映像で分かってくれましたか?﹂
﹁ええ⋮⋮嫌と言う程に理解出来ました。魔王が関わっている上、
しかも奴がシールカードを手にしているという事は︱︱この自分で
さえ恐怖する事態です﹂
魔王の力は絶大だ。世に蔓延る悪魔の支配者たる彼が、ギャンブ
ラーとして覚醒したのならば、恐らく始祖の襲来と同等の悲劇が待
っているだろう。
﹁アリーチェ様。アルギナスを現在管理しているのは、確か六大将
軍のユスティアラ殿でしたね⋮⋮。彼女から事態の通告は届いてい
ますか?﹂
﹁いえ、恐らくユスティアラもこの事態を認識していないでしょう
⋮⋮。魔王の存在はミスティカの力を以てして、初めて気付いたの
ですから﹂
﹁そうですか⋮⋮、なら殿下が自分を呼んだ理由も理解出来るとい
うものです。事態の深刻さを直接彼女に報告し、速やかに協力して
魔王の討伐へと挑む、という事でしょうか?﹂
576
アリーチェは首肯した。
﹁察しが早くて助かります。⋮⋮ですが相手は想像以上に凶悪な存
在です。万全な準備や対策をし、今日か明日にもアルギナスへと出
立してほしいのです﹂
﹁仰せのままに。⋮⋮さて﹂
﹁?﹂
アリーチェの疑問も他所に、ゼノスはジト目でロザリーとライン
へと振り向く。
﹁︱︱何でお前らがここにいるんだ?よもや何の意味も無く話を聞
いていたわけでも無いんだろ﹂
﹁⋮⋮当たり前。あとゼノスのその姿、とても気味悪い﹂
余計な一言にツッコミを入れたい所だが、アリーチェの手前故に
苦笑だけに抑える。︱︱だが、ゲルマニアはどうもその一言に憤り
を覚えたようだ。
577
﹁なっ!ロザリーさん、それは看過出来ない発言です!ゼノスは白
銀の聖騎士として恥じぬ、誠に素晴らしい恰好をなさっているでは
ないですか!﹂
﹁⋮⋮それが気味悪い。私の知るゼノスは、これまた風変りな格好
をしているけど⋮⋮そっちの方がゼノスらしい﹂
﹁お、お前ら﹂
互いは一歩も譲らないという態度を示し、ゲルマニアとロザリー
は無言の対立を露わにしている。ゼノスとしては意味不明な上に、
自分の恰好だけで喧嘩されて困ったものだが。
しかも陛下の御前でだ。ゼノスは止めようとしたが⋮⋮それより
も先に、ラインが代行して止めに入った。
﹁ま、まあまあ二人共落ち着いて。ゼノス、僕等も一応だけど、ア
ルギナスの件に関しては同行するつもりだよ﹂
睨み合う両者をラインが宥め、代わりに彼が事情を説明する。
﹁同行って⋮⋮陛下直々の命令でか?﹂
578
﹁うん、そうだよ。実力を買われて、戦闘補助と記録官の役割とし
て君に付いて行くつもりさ﹂
確かに、ゼノスが単身でアルギナスへと赴くわけにはいかない。
最低でも二人か三人の護衛が必要である。
だが︱︱ゼノスには少々不安がある。
﹁⋮⋮けどラインはともかくとして、ロザリーは大丈夫なのか?事
態を察するに︱︱お前の実力じゃ厳しいぞ?﹂
辛辣な一言だが、これは彼女を心配し、覚悟を問う発言である。
なぜなら︱︱今のロザリーの瞳は酷く血に飢えているからだ。無
感情な彼女がここまで燃え上がるという事は、余程尋常でない理由
があるに違いない。人間がこういう状態の時は⋮⋮必ず死に急ぐ時
だけである。
﹁⋮⋮私はゼノスに付いて行く。それに、これは陛下の勅命。ゼノ
スが口を挟む権利は無い﹂
579
︱︱陛下の勅命、か
ゼノスはアリーチェへと向き直り、彼女の様子を確認する。
一見アリーチェは平静を保ち、静かにゼノス達の会話を聞いてい
るが⋮⋮ロザリーをジッと見据え、不安そうにしていた。
何かを隠している、それは一目瞭然である。しかし今ここで陛下
に理由を追求しても時間の無駄だし、不敬に値する行いだ。
﹁⋮⋮今は、何を言っても無駄なようだな﹂
アリーチェだけでなく、今のロザリーに何を言っても、恐らく引
き下がる気配はないだろう。ここは大人しく黙っていよう。
若干の不安を帯びつつ、こうしてゼノス達は早急に身支度をし、
その日の夕方にランドリオを出立をしたのである⋮⋮。
580
581
ep3 ゼノスの追求
﹁⋮⋮というわけだ、ユスティアラ﹂
ゼノスが事情を簡単に説明した後、ユスティアラは深いため息を
つきながらソファの背によりかかる。その表情はいつもの気難しさ
を倍増させ、何とも苦い様相を示していた。
﹁⋮⋮成程な。下層は迂闊に監視員も配備できないし⋮⋮かといっ
て、私自身が直接監視する事も不可能だった。状況を掴めなかった
が⋮⋮⋮⋮とんだ失態を犯したものだな、私は﹂
自分が注意を払っていれば、大事にならなかったかもしれない。
だがゼノスから見れば、彼女がいてもいなくても⋮⋮状況は変わら
なかっただろう。未だ謎に満ちたシールカード相手に、どう予測を
立てれろいうのだろうか?
﹁後悔はまだ早い、ユスティアラ。これはあくまで予想だが、恐ら
く魔王は完全にシールカードに受け入れられていないと思う。カー
582
ドは主を選ぶらしいからな﹂
シールカードにも意志が備わっている。騎士のカードであるゲル
マニアが正義を求め、占い師のカードがミスティカの様な先見を求
めるのと同じく、カードはそれぞれの意志に沿って主を見定めてい
る。
この事実は道中にゲルマニアから伝えられたものであり、カード
が主だと認識すれば、その力は発揮される。
力さえ備えれば、例え世界一強固な牢獄だと謳われるアルギナス
さえも⋮⋮シールカードの前では脆く崩れるに違いない。
ミスティカの話では、シールカードの力は着々と増大していると
聞いた。だがそれは完全では無く、魔王はカードを掌握しきれてい
ないとも断言していた。
掌握中の期間︱︱そこが狙い目だ。
﹁今が好機だよ、ユスティアラ。奴がギャンブラーになる前に叩く
んだ﹂
583
ユスティアラはそれを聞き、少々困ったような表情を見せた。
﹁⋮⋮しかし、私がここを易々と離れるわけにもいかん。特にこの
事態に便乗し、脱獄を図る罪人も現れるかもしれないからな﹂
そう、この上層部に備えられた管理区域は脱獄防止の為に存在し
ている。凶悪な罪人がいる手前、最高責任者であるユスティアラが
離れるという事は、この管理区域の安全確率を半分以上も減らす事
になる。
さてどうしようか、とゼノスとユスティアラが悩んでいると、ふ
いに部屋のドアが開け放たれる。
この部屋に、見知った二人の人物が入ってきた。
﹁なら、ここは僕に任せてくれよユスティアラ﹂
開口一番にそう答えてくるのは、全身黒タイツ、首にバンダナを
巻き付けたラインであった。もう片方は黒のドレスに身を包み、無
愛想な表情を浮かべるロザリーである。
584
対するユスティアラはラインを凝視し、その登場に驚きを隠せな
かった。
﹁お前は⋮⋮⋮⋮ライン。︱︱お前までもがランドリオへと帰還し
ていたのか﹂
ユスティアラは明らかに不機嫌な声音で言い放った。
︵ああ⋮⋮そうだった︶
ゼノスは彼女とラインの関係を思い出した。
﹃知られざる者﹄と評されてきたラインであったが、実はユスティ
アラだけはラインが六大将軍であった事を知っている。
二人はゼノスが知り合う以前から見知りだったようだが⋮⋮異常
に仲が悪かった。いや正確に言えば、ユスティアラがラインを一方
的に嫌っていた。
それは今も変わらないらしく、ラインは彼女に対して嫌悪せずに
585
答えていた。
﹁はは、帰還というよりは⋮⋮⋮⋮成り行き、かな?僕もゼノスと
同じく、元よりランドリオへは依頼の為に、仕方なく戻ってきただ
けだからね﹂
﹁⋮⋮そんなの、私にとってはどうでもいい事だ。だがロクに権威
を持たないお前に、この場所を容易く預ける事は難しい。︱︱何よ
りも、六大将軍に戻らないお前を、私は信頼する事が出来ない﹂
﹁⋮⋮相変わらず厳しいねえ、君は﹂
ラインとユスティアラは互いを睨み合い、複雑な感情がぶつかり
合う。ああ見えて仲間意識の強いユスティアラであるが、彼女は今
でも六大将軍の座に戻らないラインに嫌悪しているのか?⋮⋮その
真意は、ゼノスでさえ理解し得ない。
﹁⋮⋮ふん、まあいい。今回ばかりは事が事だ。猫の手も借りたい
故に、私は一時的にお前を信用しよう。だがもし下手な真似をし、
このアルギナスの治安に影響を与えてみろ⋮⋮⋮⋮その時は我が刀
を以てして、お前の喉元を掻っ切る﹂
﹁あ∼分かったから、全然信用してないでしょ⋮⋮もう。というか、
それは六大将軍の時からそうだったか⋮⋮﹂
586
ユスティアラの断固たる拒絶に、優男のラインでさえも困り果て
たものだった。何か衝突し合えばユスティアラが愚痴り、ラインが
それを面倒そうに受け止める。最悪の場合は、何回か決闘をしてい
た時もあった。本当に仲が悪いのだ。
とにもかくにも、上層の安全管理は一時的にラインへと委ねられ
た。
﹁︱︱よし、では最下層へは明日の夕方に出向こう。魔王が相手と
ならば相応の準備が必要⋮⋮聖騎士達もそれまで旅の疲れを癒して
いてくれ。ここまでは強行軍で来たのだろう?﹂
その通り。ゼノス達は緊急事態であったから、足の速い馬を使い、
寝る間を惜しんで樹海を抜けて平原を突き進んできた。この状態で
牢獄へと行っても本来の力は発揮できない。
ここは焦らず、徹底的に体力回復に努めるべきである。
﹁そうさせてもらおうかな⋮⋮って、もう夕飯時じゃないか﹂
ゼノスが時計を見ると、時刻は既に午後六時過ぎとなっていた。
587
正直、凄く腹が減っている。腹の音も先程から止まらず、昼食吐
いた分も食えと要求している。
﹁夕飯なら会食があるよゼノス。一応ゲルマニアさんがお願いして、
ユスティアラと夕食を摂る形にした⋮⋮らしいけど﹂
ラインがまるで先を予測したかの如く、軽く苦笑いをしながら説
明する。
案の上、ゼノスはあっさりと答えた。
﹁いや、それはキャンセルするよ。俺は⋮⋮﹂
と、言いながらゼノスは席を立ち、無表情のまま立ち尽くすロザ
リーへと歩み寄り、その肩に手をポンと置く。
﹁ロザリーと二人で近くの酒場で食べるから。てなわけでライン、
ゲルマニアを上手く説得してくれ﹂
﹁だと思ったよ!はあ∼∼∼∼っ﹂
588
ラインは予想的中により︵嫌な予感が︶、その場でうずくまって
しまう。ロザリーは少々驚いた様子でゼノスを見つめる。
﹁⋮⋮なぜ私と二人?﹂
﹁そうしたい気分だから、かな。こんな事は何十回もあったじゃな
いか﹂
流石は白銀の聖騎士、とロザリーとラインは胸中で賛辞していた。
何せユスティアラ自らが執り行う会食なんて、歴史を紐解いても
全然存在しない。この世の中で会食を希望する者は数えきれない程
いるだろうに、ゼノスはそれを早急に断ったのだ。
だがユスティアラは不快感を示さないどころか、その態度に満足
していた。
﹁ふ⋮⋮聖騎士の思惑は理解したぞ。それならば断わる理由に足る﹂
﹁分かってくれたようで何よりだ。ささ、ロザリー行こうか﹂
589
﹁あ⋮⋮う、うん﹂
戸惑うロザリーを意にも介さず、そそくさと退出してしまうゼノ
スとロザリー。
⋮⋮静まり返る室内。
脱兎の勢いで去りゆく友人を見送ったラインは、頭痛を感じなが
ら呟く。
﹁⋮⋮ゲルマニアさん、ああ見えて怖いんだよなあ﹂
﹁むう⋮⋮﹂
自由奔放なゼノスを恨むラインと、聖騎士の変わり様に終始悩ま
されるユスティアラであった。
590
夕日も落ち、夜闇が支配する時間帯となった。
ゼノスとロザリーはいつも通り町の酒場へと行き、酒を飲みなが
ら食事をする︱︱という訳では無かった。
ロザリーの疑問は更に増すばかりであり、ゼノスは自腹でちゃん
としたレストランへと行こうと言い出したのだ。そしてゼノスは、
ロザリーを宿場通りのレストランへと連れて行った。
591
雰囲気も酒場とは違い静かで、活気溢れる雰囲気とは正反対であ
る。
ロザリーはメニューを見ながら、無機質な瞳をゼノスへと向ける。
﹁⋮⋮どういうつもり?ここ、結構高い﹂
いつも値段を気にするゼノスとは思えない太っ腹さに、疑問を抱
くロザリー。一方のゼノスはというと、その事に関しては全然気に
も留めていない。
﹁いやはや、たまにはこんな場所もいいだろ。それに昼間重いもの
食い過ぎたせいか、ここの薬草料理が食べたくてな﹂
﹁⋮⋮それだけ?﹂
﹁いや、それだけじゃないぞ勿論﹂
むしろ、本題はこの後だと言わんばかりに豪語するゼノス。何の
意味も無しにユスティアラとの会食を断ったわけでは無い。
592
﹁でもその前に腹ごしらえだ。腹が減っては戦は出来ぬ、とはよく
言ったものだよ﹂
﹁⋮⋮﹂
こうして、ゼノスとロザリーは夕食を摂る事にした。
ゼノスは薬草料理を中心とし、ロザリーは軽くパスタとサラダを
頼み、互いはほぼ無言のまま食べていく。
何故彼が自分を誘ってきたのか?その理由を何となく理解しつつ、
彼が話し出すまで、待つ事にした。
やがてゼノスが料理を平らげ、食後のお茶を飲んでいる時に、ゼ
ノスは咄嗟にロザリーへと話し掛けてきた。
﹁はあ、美味かったな﹂
﹁⋮⋮で、本題とは何?その為に私を呼んだんでしょ﹂
ゼノスはお茶を啜り、真面目な雰囲気を作る。
593
﹁ああ、まあちょいと昔話をしたくて呼んだだけさ﹂
﹁⋮⋮昔話﹂
そう、と付けたし、ゼノスは椅子の背もたれに腕を乗せる。幾分
か話しやすいのは、騒音が無いせいかもしれない。長話を前提に選
ばれたのも頷ける。
ロザリーが長話と分かった理由は、次の一言を聞いてから悟った
のだ。
﹁︱︱お前が、﹃王女様﹄だった頃の話さ﹂
594
595
ep4 王女の告白
﹁⋮⋮﹂
どういうつもり?とは既に言えなくなっていた。
ゼノスは熟知していたのだ。自分の思い悩む理由が、全て過去に
原因があるのだと⋮⋮。
王女⋮⋮そう呼ばれるのも久しいものである。
︱︱けれども、ロザリーは反論する。例えゼノスの頼みでも、そ
れだけは無闇に話せる領域では無いと。
世の中には知っていい事と良くない事がある。この話題は後者だ
⋮⋮この話を容易に語る事は、彼に対してさえも出来ない。
﹁⋮⋮一年前に約束したはず。﹃これから先、何があろうと⋮⋮お
互い、俺達の過去に深入りはしない。︱︱友達として在る為に﹄、
と。それを今ここで台無しにするつもりなの?﹂
596
いつものロザリーらしくない、手厳しい言葉だった。今までゼノ
スの言う事は全て聞き、ゼノスの願いを拒む事は有り得なかった。
そんな彼女が意固地になり、真実を語ろうとしないのは何故か?
⋮⋮いや理由なんて、彼女の顔を見ただけで分かる。
とても綺麗で、恐らくアリーチェ姫に匹敵するだろう美貌の持ち
主。しかしその類稀なる容姿は、普段の無表情以上に台無しだった。
暗い過去を一人で抱え込み、苦しんでいる表情。そして他人に余
計な迷惑を掛けたくないという思いが混同している。
確かに、ゼノス達はあの日約束した。自分達の過去は壮絶的であ
り、話してもロクな事にはならない。だから⋮⋮いつまでも友達で
いられるよう、話さないと。
しかし今はどうだろうか?
友達として在るなら、この苦しむ友達を見捨てろと言うのか?⋮
⋮いや、そんなの矛盾している。
597
聖騎士としてだけでなく、友人ゼノスとしても︱︱放っておく事
なんて出来る訳がない。
﹁⋮⋮お前の言う通り、今俺は約束を破ろうとしているな。ロザリ
ーの過去を知り、その上でロクな事にならない事態に関わろうとし
ている﹂
﹁だったら、ゼノスに話す事は﹂
ロザリーが強制的に締め括ろうとした途端、ゼノスが﹁でも﹂と
言い足し、彼女の言葉を遮った。
鋭い眼差しを向け、静かに言った。
﹁友達として在り続ける為に、俺はロザリーを縛る苦しみを取り払
いたいんだ。そんな悲しい表情を見たら⋮⋮放っておけないだろう
が﹂
﹁︱︱ッ﹂
598
嘘も偽りも無い、そんな正直な言葉を正面から聞き受け、ロザリ
ーはしばし呆気に取られた。
その清らかな眼差し、正義に満ち溢れた魂︱︱とても似ている。
自分を救ってくれた︱︱︱︱﹃姉様﹄に。
﹁⋮⋮﹂
もう何を言っても、ゼノスが引き下がる事は無いだろう。二年間
も付き合ってきた仲である為に⋮⋮こんな悪あがきは通用しないだ
ろうと、薄々分かってはいた。
それに︱︱話せば、ゼノスなら分かってくれるかもしれない。こ
の苦しみを共有し、真の理解者となってくれるかもしれない。
淡い期待︱︱彼はこんな自分を素直に受け入れ、共に行こうと言
ってくれた人。
599
⋮⋮あの凄惨な過去を、忌々しい出来事を⋮⋮話しても。
この時点で、ロザリーは意固地になる事を諦めた。これ以上の反
論は彼に対しても、そして︱︱まだ自分の中にある﹃王女﹄にも失
礼な行為である。
ロザリーは気持ちを改め、無機質な声音で言う。
﹁全く⋮⋮変態的な強引力﹂
﹁変態とは酷い言い様だな⋮⋮。ま、とりあえずだ。俺は直接お前
の口から過去を聞きたい。その上で救って見せる︱︱ただ、それだ
けだよ﹂
ゼノスの瞳は真剣そのものだった。例えるならば、剣術を乞う弟
子に対し、剣を学ぶ理由を問うかの如く、物事を本気で見据える姿
であった。
︱︱嗚呼⋮⋮段々と記憶が蘇ってくる。
走馬灯の様にあの頃の思い出が浮かんでくる。
600
悲しい現実、絶望の闇へと転落し、巨大な光によって抗う事を決
意した悲壮劇。
あの時からロザリーは笑顔を見せなくなった。それが所詮は無意
味だと悟り、全ての希望を捨ててきた。
ゼノスはまだ知らない。彼は絶望の淵に立った自分を震い立たせ、
生きる事を教えてくれた⋮⋮しかしそれ以前の過去は知らない。
別段教えなかっただけでは無い。ただ、彼だけには知られたくな
かった。
自分の過去を吐露してしまえば、今度は彼に不幸が訪れるかもし
れない。自分のせいで彼が、彼が︱︱と、恐れて極端に隠していた。
それでもゼノスは知りたがっている。今まで暗黙の了解だった過
去の話を、彼が要求している。
︱︱だからこそ、彼の願いに応えようと思う
601
﹁⋮⋮少し長くなるけど、それでもいい?﹂
﹁ああ、大丈夫だ。今日はゲルマニアもいないし、時間はたっぷり
とあるぞ﹂
この場でゲルマニアの名前が出たのには少々不満が募ったが、ゼ
ノスなりにロザリーを気に掛けている証拠だった。
﹁⋮⋮なら話す。後悔だけは⋮⋮しないでほしい﹂
﹁勿論だ⋮⋮安心して話してくれ﹂
ゼノスは笑顔を浮かべて答える。
未だ打ち明ける事に抵抗を感じるロザリーだが、話せば何かしら
得られるかもしれない、救われるかもしれない。そんな悲鳴を︱︱
ゼノスだけに話す事にした。
自分がまだ幼く、純情だった頃の話。
602
ギルガント王国第二王女、ロザリー・アリエスタ・ギルガントの
物語を。
603
ep5 memory① ︱忌み子︱
時は今から二十年前へと遡る。
ランドリオ帝国から西海を横断し、その先には﹃モルボンド﹄と
呼ばれる島大陸が存在する。
そこにはランドリオ帝国より遥かに規模が小さいけれど、モルボ
ンドを統治する国家︱︱ギルガント王国が君臨していた。
ギルガントは主に宗教国家として成り立ち、独自のラウメ教の意
向によって政治や経済方針を取り決めていた。⋮⋮断言は出来ない
が、神権政治による国王の絶対王政を展開していたという話も出て
いたという。
ラウメ教によって人々の生活は維持され、ラウメ教の教えが全て
であるギルガント⋮⋮どんなに異常な戒律があっても、彼等は常に
常識として受け入れる。
⋮⋮戒律に背けば、恐ろしい結末が待っているからだ。
604
例えばこんな戒律がある。戒律に従わない者は、それを目撃した
者が罰せなければならない。近親者であっても例外は認めない。
︱︱また、こんな戒律もある。
ギルガント王家の血筋は、銀色の髪を持つ者でなければならない。
仮に他色の髪を持った子が生まれたとする。︱︱その子は﹃忌み子﹄
として扱われ、大人になった歳に死を与えなければならない、と。
さもなくば⋮⋮その忌み子は大人となった歳に災害を引き寄せる
だろう、と。
生を持って生まれた人間は、規律によって人生を左右されるのか
?希望を持って生きてはいけないのか?
まだ見ぬ可能性を、求めてはいけないのか︱︱
︱︱雷鳴が轟き、激しい豪雨が降り行く中⋮⋮ロザリー・アリエ
スタ・ギルガントは生誕した。
605
甲高い産声と共に産まれ、王家と民に愛されたロザリーは⋮⋮そ
の数か月後に金色の髪である事が発覚した。
とても美しく、綺麗な金色で。︱︱しかし、王家はそれを許さな
い。
﹁⋮⋮忌み子が産まれるとは。おお神よ、私は約束します。この子
が成人した十八の歳︱︱私の手で、この子を殺めると﹂
国王ライガンは懇願する。
この娘が成人する前に、祖国に災厄が訪れないようにと。我が娘
を呪い、抱き締めるその手は、自然と強くなる。
︱︱ここに、生きる事を否定された王女が誕生したのである。
606
ロザリーは国中の者から否定された。
金髪であるからという理由で、王族から、貴族から、民から、ギ
ルガント王国に住まう全ての人々が彼女を嫌い続けてきた。
﹁このノロマッ!王族の娘がこれしきも出来ないのかいっ!?﹂
無理難題のあらゆる作法を数日間で徹底的に叩きつけられ、疲労
から集中力が落ちた辺りで、まだ七歳だったロザリーは教育係から
頬を叩かれ、お仕置きとして暗い地下室へと閉じ込められた事もあ
った。
﹁ほお、これが﹃忌み子﹄ですかな?哀れな娘ですなあ、嫌われる
為に生まれて来たとは﹂
607
社交界や舞踏会があった日には、必ずと言っていいほど貴族達か
ら怨嗟の声を聞かされてきた。
その子供達からはいつも不条理な憎みを買われ、陰湿な虐めがロ
ザリーを襲った。大事なぬいぐるみをボロボロにされ、大好きな本
を破られた。
﹁お前のせいで⋮⋮ウチの店は不幸続きだよ﹂
王城へと入ってくる民からも憎しみをぶつけられ、些細な不幸事
は全てロザリーのせいにされてきた。
何故?何故私はこんなにも否定されるの?
私は何もしていない︱︱ただ、普通に生きたいだけなのに。
608
ロザリーは毎日泣いていた。母の子守歌も聞けず、侍女からも嫌
煙され、彼女は孤独に枕を濡らす。
声を上げて泣く日もあれば、すすり泣きながらベッドの上で座り込
む日もあった。
死にたい︱︱いっその事なら、天国に行ければいいのに。
ロザリーはそう思っていた。僅かに残っている好きな本の中で、
主人公の少女が世を儚み、誰にも愛されずに天国へと昇る話がある。
その子は天国へと行き、死んだ両親とも会えた。︱︱そう、結果的
に幸せになった話を、ロザリーは知っている。
⋮⋮何度死のうとした事か。食事用の銀ナイフを首に当てたり、
五階にある自室から飛び降りようと思ったりと⋮⋮。
銀ナイフの時は、怖くて失敗した。でも︱︱飛び降りの時は本気
だった。
609
610
ep6 memory② ︱出会い︱
とある晩の事、ロザリーは自室に備えられた窓枠の上へと佇み、
真下に広がる光景を見下ろす。
とても高く、風もやや強い。寝間着の姿では非常に寒く、心の奥
底まで凍りつきそうだ。
でも⋮⋮これしきの寒さは、今までの寒さと比べれば生易しいも
の。
﹁⋮⋮うっ﹂
︱︱怖い。死ねば楽になれる筈なのに、どうして自分は死を恐れ
るのか?生きていれば、また母に叩かれる。また父に冷たい視線を
向けられる。
ロザリーはまだ九歳の少女である。けれども、体験してきた世の
不条理さは⋮⋮もはや一生分経験してきた。
611
死ぬ恐ろしさと生きる恐ろしさ、どちらを選べと言われたら⋮⋮
九歳のロザリーはこう答える。
﹁し、死んじゃえば⋮⋮本の中の子みたいに⋮⋮幸せに、なれるん
だよね?﹂
震える声を出しながら、彼女は死ぬ恐ろしさを選択した。
﹁早く行かなきゃ⋮⋮こんな所はもう嫌だ。︱︱もう生きたくない
っ!﹂
虚空に向かって叫び、思いの全てを打ち明ける。
﹁誰も私を見てくれない⋮⋮誰も私を愛してくれないっ!﹂
ロザリーは訴える。それが誰に対して発せられているかは分から
ない。
ただ、彼女は本気だった。本気で世の中に絶望し、孤独という世
界で生きる事を拒否した。
﹁︱︱私は、私は本気だよっ!今ここで、ここで死んでやる!窓か
612
ら飛び降りてやるんだからっ!﹂
ロザリーは尚叫ぶ。本気で死ぬつもりの彼女は、その最後に悲鳴
にも似た救いの願いを叫んだ。
もしかしたら、この声を聞きつけて誰かがやって来るかもしれな
い。まだ自分を必要としてくれる人がいて、その人が必至に私を止
めてくれるかもしれない。
そう、思っていたのだが︱︱
数分が経過しても、誰も来る気配が無かった。
この声の大きさならば誰かが気付く筈なのに⋮⋮事実上、ロザリ
ーの悲鳴を聞き流していたのである。
﹁⋮⋮う、ううっ﹂
嗚呼、また姫は泣いている。
613
自分が本当に孤独だと知り、ほんの微かな希望も⋮⋮今打ち砕か
れた。そうだ、例え救ってくれる人がいたとしても、その人に何の
利得がある?
今まで孤独を強いられてきた自分が⋮⋮よくもまあ、そんな馬鹿
な想像をしたものである。
ロザリーの足は、すり足のまま窓外へと近づいていく。ゆっくり
と、しかし止まることなく。
そして︱︱その身はグラつき、全身は一気に外へと放り出された。
死んだ、ロザリーは恐怖に抗い、必死に瞳を閉じる。
だが︱︱
﹁早まらないで、ロザリーッ!﹂
614
絶望の淵に堕ちようとしたロザリーは、有るはずの無い救いの手
によって腕を掴まれる。
幻想?否、これは現実だった。宙吊りの状態で顔を見上げると、
そこにはロザリーよりも五か六歳年上の少女が鬼気迫る表情で、自
分を助けようと努めていた。
でも⋮⋮何故こんな事をする?
﹁⋮⋮離して﹂
﹁えっ?﹂
﹁離してよっ!どうせ生きたって何も変わらない!私が金色の髪だ
から、皆と違うから意地悪されるだけ⋮⋮⋮⋮それ以外に楽しい事
なんて、無いんだよ!?﹂
ボロボロと涙をこぼしながら、彼女は初めて人に対して本音を吐
露した。
楽しい事なんて無い。友達も出来ず、家族からも愛されず、民に
615
も嫌われ、ロザリーに入り込む余地など存在しない。
物心ついた頃に父から死ねば良かったのにと言われ、母に関して
はロクに口さえも聞いてもらえない。兄や妹からも執拗な虐めを受
け、そんな自分を助ける理由が何処にある?
どうせこの人だって、何か裏があって助けているのかもしれない。
自分が嫌いで、これから生き地獄を見せようと企んでいるんだ。
そうだ、そうに決まっている。どうせ、どうせ、どうせ︱︱ッ
﹁︱︱楽しい事なんて、これから見つけていけばいいじゃないっ!﹂
﹁︱︱え﹂
彼女の冷静な言葉と共に、ロザリーは勢いよく宙吊りの状態から
救い出される。
そして︱︱その救った少女と対面する。
616
どこまでも凛々しい素顔、鮮やかな銀髪。どこまでも透き通った
翡翠の瞳。
他の人とは違う、ロザリーが初めて目にする顔だった。怨嗟の欠
片も無く、自分に向けるその顔は⋮⋮忌み子としてでなく、ロザリ
ーという少女に向けられたものだと分かった。
彼女はロザリーを抱き締めた。強く、そして優しく⋮⋮まるで子
供をあやす様な抱き方だった。
︱︱暖かい、これが⋮⋮人間の温もり?
﹁⋮⋮諦めたら、もう楽しい事なんて二度と見つからないわ。今は
思いっきり泣きなさい。思いっきり泣いて︱︱今は耐え忍ぶのよ﹂
それは凛々しい彼女らしい、前向きな助言だった。
死を選べば、明るい未来は存在しない。絶望を味わったのなら、
精一杯に思いと感情をぶちまけろ。そして⋮⋮⋮⋮前へと進もう。
617
その言葉に、ロザリーの涙は勢いを増す。
精一杯に声を張り上げ、彼女に抱かれながら、彼女の服に涙を滲
ませながら泣き続けた。
その様子を見守り、彼女はロザリーの頭をずっと撫でていた。
﹁⋮⋮どう、もう涙は止まった?﹂
618
しばらくして、ロザリーは彼女のおかげで落ち着き始めた。彼女
の質問にこくりと頷く。
彼女は笑みを見せ、そっとロザリーを離す。
﹁良かった⋮⋮一時はどうなる事かと思ったわ﹂
﹁⋮⋮あの、貴方は一体﹂
ロザリーは震える声音で、彼女が何者かを問う。まだ信用しきれ
ていないせいか、自然と身構えてしまう。
銀髪︱︱その髪のおかげで、ロザリーは彼女がギルガント王家だ
という事は分かっていた。しかし、ロザリーは今まで彼女を見た覚
えがない。
彼女はそうだった、と呟き、問いに対して答えた。
﹁私の名前は︱︱ノルア・セレウコス・ギルガント。今さっき五年
ぶりにギルガントに帰って来たのよ。︱︱第一王女として、ね﹂
619
﹁第一⋮⋮王女?﹂
ノルア︱︱聞いたことも無い名前だった。
ロザリーは身内と話す機会が全く無かったので、第一王女がいた
という事実にさえ瞠目していた。
驚いた理由はそれだけでは無い。ギルガント王家は、ロザリーに
とって全てが恐ろしく、人の皮を被った悪魔だという認識である。
自分に向けられる視線も冷たく、自ずと恐怖を覚える存在︱︱。
しかし、ノルアに対しては違った。
初めて知る感覚⋮⋮その手は暖かくて、発せられる声は優しい音
色で⋮⋮凄く落ち着く、ノルアといると。
︱︱これが⋮⋮安らぎ?これが、人と触れ合うという感覚?
620
今まで感じた事の無い経験に、ロザリーは終始戸惑うしかなかっ
た。
そんな妹の様子に、ノルアは最上の笑みを見せる。
﹁怖がらなくても大丈夫よ。私はロザリーを嫌わない⋮⋮絶対に、
絶対にね﹂
例え全ての人が嫌おうと、自分だけはロザリーを見捨てない、嫌
悪しない。ノルアは何があろうと⋮⋮ロザリーだけは守って見せる。
ノルアの決意を込めた表情は、ロザリーの記憶に一生留まる事に
なる。
自分を救ってくれた姉︱︱こんな自分を守ってくれると約束した
家族の言葉が、心の寒さを吹き飛ばしてくれる。
﹁あ⋮⋮ようやく﹂
﹁⋮⋮え?﹂
621
ノルアが発した驚きの声に、ロザリーは疑問符を浮かべる。
﹁ロザリー、今微笑んだわよ?とても綺麗で︱︱そっちの方が可愛
らしいわ﹂
﹁⋮⋮﹂
自分が⋮⋮微笑んでいた?
⋮⋮でも、それは不思議な事じゃないのかもしれない。だって今
の自分は嬉しいのだから、悲しくないのだから。あの絵本の子みた
いに、誰かと触れ合うという事が出来た。
︱︱ノルア姉様、私を救ってくれた⋮⋮恩人
その微笑みが眩しくて、その笑顔を曇らせたくなくて︱︱。
ロザリーはもう、泣かないと誓った。何があっても微笑んでいる
と誓った。
622
ノルアには嫌われたくないから⋮⋮ノルアには、ずっと笑って居
て欲しいから。
623
ep7 memory③ −真実ー
ロザリーはノルアとの出会いから一変した。
罵られ、煙たがれ、虐められても、ロザリーが涙を見せる事は無
かった。ただ曖昧に笑みを見せ、その場を耐え忍ぶ毎日が続き︱︱
数年が経った。
今までは泣きじゃくり、ただ心の悲鳴を上げていた自分。
⋮⋮けれども、今は違う。決してその不条理から目を背けようと
せず、必死に受け入れようと奮起している。
ノルアの言う﹁耐え忍ぶ﹂という言葉を信じ、いつか訪れる﹁奇
跡﹂を待ち続けて⋮⋮⋮⋮ずっと、ずっと。
︱︱ノルア・セレウコス・ギルガント。自分に光を与えてくれた
恩人。
624
どうして彼女は自分を支えるのか?戒律に浸透しきっている皆が
忌み子と信じる中、何故彼女だけはその戒律を信じないのか?
その理由が知りたかった。⋮⋮何となくだが、ノルアがこの国の
現状に何度も不満を漏らし、この国の理念に抗っているように見て
取れたから。
十七歳のあの日、ノルアから何も事情を聞かされなかったロザリ
ーは、遂にある行動を起こす事にした。
ギルガント王国の記述家が執筆したという、現王室に関する記録
書。以前王家専用の図書館にて、古代ギルガント語で記されたその
記録書を見た事がある。十七歳までに古代ギルガント語をマスター
したロザリーは⋮⋮その本を手に、一ページずつ丁寧に読んでいっ
た。
あの日︱︱それは十八歳の誕生日を迎える日の事である。
625
ロザリーは記録書を熟読していく。
今日は予定されていた地理の勉強も潰れ、数学も先生の都合によ
り中止された。︱︱そう、今日は特にやる事が無く、同時にやりた
い事が出来る日だった。つまりは、記録書を読む絶好の機会である。
この数年間、ロザリーはノルアによって助けられ続けてきた。無
力だった自分を精一杯に救ってくれ、自分は今までその力に頼って
きた。
︱︱でも、なぜ自分を助けてくれるのだろうか?
こんな事をしても何の特にもならない筈だ。逆に国の教えに反し、
彼女もまた罰則を与えられてしまうかもしれない。
ロザリーは、ノルアの優しさを何度も拒んできた。彼女の笑顔を
絶やしたくない、傷付けたくない⋮⋮こんな自分の為に、姉様が不
幸を背負う必要等無いと。
626
それでも⋮⋮それでも彼女は傍にいてくれた。
理由を話さず、ただロザリーの姉として接していたノルア。
︱︱しかし、それでもロザリーはノルアを知りたい
自分は何度も救われてきた。⋮⋮もしノルアにも悩みや苦しみが
あるのなら、分かち合いたいと単純に思っている。︱︱それさえ分
かれば、何か出来る事があるかもしれないから︱︱。
そして⋮⋮これはまた別の事だが、
﹁私は⋮⋮これからどうなるのかも知らなきゃ﹂
ギルガントの戒律、ラウメ教という国教の教えに則して考案され
た独自の法律。何でも神の啓示によって伝えられた言葉が、そのま
ま使われているらしい。そしてその中に、銀髪以外の髪を持った王
族を忌み子として扱われる事も知っている。
︱︱しかし、ロザリーにはまだ知らない事がある。それこそが今
後の自分の行方であり、戒律に反した者の罰則である。
627
王族に対しての罰則⋮⋮それが一体どんな恐ろしいものか?
﹁⋮⋮﹂
罰則という概念を考えた途端、ロザリーの背筋が凍る。
まだ見ぬ罰則に対する恐怖⋮⋮例え気丈に振る舞っていても︱︱
怖いものは怖い。
﹁︱︱でも、それでも知りたい﹂
ロザリーは震える声を噛みしめ、独白する。恐怖を押し殺し、ま
た本をめくり始める。
ノルアの真実、自分の末路⋮⋮そして、もう一つ調べる事がある。
それは︱︱この腐った国の真相を知る事だ。
ラウメ教とは何か、国が狂信するその実体を知りたい。このまま
628
悲劇の姫を演じる程、ロザリーは弱くない。
何度でも言える、自分は全てを知りたいと。
知った上で︱︱起こり得る現実を受け入れたいと︱︱。
﹁⋮⋮あった﹂
ページをめくる手を止め、ロザリーは目的の項目を見つける。
ギルガント現王家の一覧。そこにはライガン王と王妃に始まり、
次のページには兄弟達の出生、経歴などが書かれている。毎年加筆
を施し、こうして丁寧に王家の歴史を書き記しているのだろう。
勿論︱︱そこにはノルアの詳細も書かれていた。
ノルア・セレウコス・ギルガントのページへと辿り着いたロザリ
ーは、記された文章を見通していく。
629
一文一文⋮⋮⋮⋮どこも見逃す事無く。
そして︱︱ロザリーは見てしまった。
ノルアの歴史を、歪んだ過去の記録を読んでしまった。
﹁⋮⋮⋮⋮え﹂
ロザリーは驚きの事実を知り、思わず口に手を当てる。
このページを見て、ノルアが何故ここまで自分に良くしてくれた
のか⋮⋮少しだけだけど、理解出来た。
でも︱︱これは自分に科せられた劫罰よりも重いだろう。
630
第一王女ノルア︱︱。九歳の時にギルガント王国の戒律に疑念を
抱き、ライガン国王本人に対し、戒律を非難する。
その事に激昂したライガン国王は、ギルガント戒律に違反すると
判断し⋮⋮わずか九歳のノルアに、ギルガント騎士団の駐屯部隊へ
と連行し、五年間の入団義務を課した。
その騎士団での主な業務内容は⋮⋮あまりにも酷いものだった。
ノルアの配属された駐屯部隊は、毎度原住民との抗争が絶えない
と聞く、南部関所を本拠地とする部隊であると聞いてはいるが⋮⋮。
﹃ノルア王女は南部駐屯部隊の慰安婦として配属され、およそ五年
間、騎士団員の肉体的・精神的回復に努める﹄
631
その文章の末尾には⋮⋮ギルガント戒律の教えに従い、これを遂
行したと記されていた。
⋮⋮何だこれは。これが︱︱一国の定める法律だというのか?
狂っている、何もかもが。正しい事を述べただけで、何故ノルア
がこんな仕打ちを受けなければならなかった?どうして実の父は⋮
⋮こんな恐ろしい事を命じたのか?
⋮⋮そうだ、ノルアはいつも怯えていた気がする。
五年間の歳月を経て城へと戻って来た後、ノルアが一人でいる時
は⋮⋮いつも何かを恐れて、自分の肩をそっと抱いていた。泣いて
いた時もあったし、茫然自失の状態の時もあった。
見ず知らずの男に抱かれ、訳の分からない戒律に踊らされる。こ
んな辱めを受けるなんて⋮⋮正気の沙汰じゃない。
﹁⋮⋮くっ﹂
自分が恥ずかしく思えた。こんな事実を知らずに、のうのうとノ
632
ルアに頼って来たなんて。
どうしてノルアが真実を話さなかったのか⋮⋮ようやく分かった
けれど、何とも後味が悪かった。今後はノルアとどう接すればいい
のかも考えてしまう。
︱︱いや今は考えないようにしよう。
まだ知る事はあるのだ。今度は自分の末路について調べないと。
﹁⋮⋮次は、自分のページへと﹂
と、呟いた時だった。
コツ、コツ、コツ⋮⋮
﹁︱︱ッ﹂
633
突如、図書館の外から足音が聞こえてきた。
今いる場所は図書館の二階にいるのだが、一階の図書館前から聞
こえる足音は、大理石を踏んでいるせいか音が異様にでかく聞こえ
る。
そしてロザリーは無断に図書館へと入り、こうして国の重要図書
を漁っている。もし見つかれば⋮⋮戒律に違反し、殺されてしまう
かもしれない。
ロザリーは急いで隠れる場所を探す。︱︱すると、
﹁⋮⋮むぐっ!﹂
声を紡ぐ暇も無く、ロザリーは後ろから伸びてきた手によって口
を封じられる。一体誰だと思い、視線を後ろに向けると︱︱そこに
はノルアがいた。
居ない筈の彼女に驚きを隠せず、ロザリーは何とか小声で言う。
634
﹃ノ、ノルア姉さま。何故ここに﹄
﹃シッ、静かに。︱︱とりあえずこっちに来なさい﹄
何故ノルアがいるかは分からない。唐突の出会いに衝撃を隠せず
にいたが⋮⋮確かに今は思案する余裕は無い。
ロザリーはノルアに従い、一階からは死角となって見えない本棚
の裏手へと回る。ピッタリと本棚に張り付いた。
靴音は徐々に近付いてくる。よく聞いてみると、足音が無秩序に
鳴り響いている。恐らく二人か三人はやって来るのだろう。
緊張がロザリーとノルアに襲い掛かってくる。どうか二階にだけ
は来ないように、見つからないようにと祈りを捧げる。
︱︱やがて、足音は止んだ。大理石の廊下を抜け、絨毯の敷かれ
た一階図書館へとやって来たのだろう。
﹁︱︱ライガン国王陛下、恐れながら、こちらの方で会話を進めて
635
も宜しいでしょうか?﹂
ふと、一階から男の声が聞こえた。一階と二階は吹き抜けとなっ
ている為、声ははっきりと聞き取れる。反響しているせいか、その
距離感はまるで掴めないが。
しかしそんな事はどうでもよかった。ロザリーとノルアは男の発
した名前に驚愕する。
﹁ああ、例の書物を見なければ話は進まぬ。︱︱今宵の儀式は、か
の天啓に従いし試みである。教典を精読せねばな﹂
﹁左様でございます。︱︱では、その教典を持って来ます﹂
宰相と思しき人物はそう一言だけ言い放つ。
そして、階段を上がる音が響き渡る。宰相は階段を上がり、二階
の本棚に向かうようである。
636
﹃⋮⋮﹄
ノルアはロザリーを精一杯に抱きしめ、ロザリーは体をこわばせ
る。神経を尖らせ、どうか見つからないようにと懇願する。
ふと、宰相の影がロザリー達の真横に現れる。二人が身を潜める
本棚の後ろに⋮⋮宰相が佇んでいるのだ。
﹁⋮⋮ふむ、あったぞ﹂
本棚から本を取り出す音が聞こえ、同時に宰相が納得したように
呟く。
宰相はロザリー達に気付かず、そのまま下の階へと去って行く。
高鳴る心臓の鼓動も収まり、ロザリーとノルアは安堵の溜息をつく。
ひとまずだが、バレずに済んだのは確かなようである。
﹁陛下、これが﹃アリアの経典﹄でございます。ここに儀式の執行
方法が記述されていますので、どうぞご覧くださいませ﹂
637
︱︱アリアの経典?
ラウメ教ならば理解に及ぶが、ロザリーはアリアの経典など聞い
たことが無い。ライガン王が他宗教に手を染めるとは思えないし⋮
⋮経典とは一体?
⋮⋮⋮⋮何だか胸騒ぎがしてならない。アリアという響きは禍々
しく、邪悪な音色だと、ロザリーは感覚的に察知する。
触れてはいけない、知ってはいけない。底知れぬ恐怖が込み上が
って来るのは、気のせいではないだろう。
﹁⋮⋮嗚呼、これで私の悩みが消える﹂ 眩しい木漏れ日が当たる静寂の図書館にて、ライガン王は独り言
を呟く。
﹁長かった、そして苦しかった。⋮⋮私はこの日を喜び、祝福の祈
りを捧げよう﹂
638
この先、王が果たして何を述べるのか。何を思い、何を安心して
言葉を紡ぐのか⋮⋮分かりたくなかった真実が、語られる。
その事実の一言は、ロザリーに衝撃を与える。
﹁︱︱ロザリー。十八歳の誕生日である今日この日⋮⋮⋮⋮神の贄
となり、死ぬがいい﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮え。
ライガン王の言い放つ言葉、その意味が分からなくて、ロザリー
は残酷な現実を受け入れられなかった。
639
ノルアは知っていたのだろうか⋮⋮。顔を歪ませ、ロザリーを抱
き締めるその手は強みを増している。
︱︱私が、殺される?⋮⋮父様、に?
嘘、だ⋮⋮これは、何かの冗談だ⋮⋮。
⋮⋮精一杯この現実を受け入れて⋮⋮どんな罰則にも耐えていこ
うと思っていたにも関わらず⋮⋮この事実はあまりにもショックだ
った。
いつか報われると思っていた。自分が希望を捨てなければ、いつ
か皆がその努力を認めてくれる、許してくれる。
⋮⋮そうだ、そうに違いない。きっと父様達は、ラウメ教という
教えに仕方なく従って⋮⋮嫌々⋮⋮。
︱︱なら、なぜライガン王は今⋮⋮こうして高笑いをしている?
640
まるで邪魔な虫を取り払ったかのように、憎しみに満ちた笑い声
を上げる実の父。
⋮⋮そう、ロザリーに仕方なく八つ当たりをしていたわけじゃな
い。ライガン王は本当に彼女を憎み、妬み、国の汚点として扱って
きた。
﹃生まれてこなければ良かったのに﹄
あれは、本音だったというのか。毎日の如く言い放ったその言葉
は、紛れも無いロザリーに対する感想だった。
そして︱︱今日は確かに、ロザリーが成人を迎える日。
今日⋮⋮⋮⋮⋮⋮自分は、実の父親に殺されるというのか?
﹁では陛下、急ぎ儀式の間である大聖堂へとお越しくださいませ。
ロザリー姫は夕食後、兵士共に案内させますので。︱︱勿論、姫様
641
には事の事情を説明致しません﹂
﹁良い判断だ。大衆の面前で泣き叫ばれては⋮⋮世間体にも関わる
からな。では、頼んだぞ﹂
﹁はっ﹂
ライガン王と宰相は、そのまま図書館を後にした。
⋮⋮図書館の中は、またもや静寂に包まれる。
ロザリーとノルアは︱︱しばらく呆然としていて、言葉を発する
事は無かった。
642
ep7 memory③ −真実ー︵後書き︶
643
ep8 memory④ ︱夢︱
しばらくして、ロザリーはようやく落ち着きを取り戻してきた。
⋮⋮しかし、待ち受ける死への恐怖には抗えない。今でも小刻み
に身体が震え、微かだが吐き気もする。ただただノルアのドレスを
掴み、怖がる事しか出来なかった。
一方のノルアは、昔と同じようにロザリーの背を擦ってあげてい
た。
異様な程に冷静に︱︱いつもの慈愛を込めて。
﹁⋮⋮今はこれぐらいしか出来ないけど、安心してロザリー﹂
﹁⋮⋮⋮⋮姉、さま?﹂
ロザリーは顔を上げ、ノルアを見つめる。
644
ノルアの表情はどこまでも穏やかだった。穢れ無き微笑みをロザ
リーに向け、精一杯に慰めようと努めているように窺える。
﹁⋮⋮貴方を、絶対に死なせはしない。︱︱姉さんは最後まで抗っ
て見せるから⋮⋮⋮⋮この国に、この運命に﹂
強固な意志を秘めた決意を示し、ノルアはギルガントの不条理に
立ち向かうと宣言した。その決意が果たしてどれだけ強いのかは、
尋常ならざる雰囲気だけで分かってしまう。
呪われし五年間がノルアを変えたのか、はたまた他の事情がノル
アを豹変させたのか?⋮⋮今のロザリーには、理解が出来なかった。
﹁︱︱ロザリー、今すぐ逃げる事は不可能だけど、儀式が行われた
時なら⋮⋮逃げる事が出来るからね﹂
﹁ね、姉様。それは一体﹂
ロザリーは追求しようとするが、ノルアはそれを制した。
﹁⋮⋮今は逃げる事だけを考えて、ロザリー。これは無闇に話せる
645
ものじゃないの。私なら大丈夫だから⋮⋮﹂
﹁じゃ、じゃあ⋮⋮⋮⋮これだけは約束して﹂
何も教えてくれない、何も知らせてくれない。
ならそれでもいい。ただ︱︱︱︱ある﹃普通の約束﹄を実現して
くれるなら、それで。
﹁︱︱絶対、絶対一緒に逃げよう姉様?こんな所から離れて、もっ
と素敵な場所に暮らそうよ。⋮⋮それが私の、唯一の我儘だから﹂
﹁⋮⋮ロザリー﹂
呆気に取られるノルア。
そして⋮⋮その瞳から涙が零れ落ちた。
646
﹁⋮⋮そうね。この国では出来なかった事をしたいね。︱︱一緒に
買い物して、近所の人達と世間話でもして、家に帰ったら一緒に夕
飯を作って⋮⋮たまに好きな男の子の話をする。王女とか戒律とか
関係無く︱︱どこにでもいる、普通の姉妹みたいに﹂
最後は、もはや涙声となっていた。激情を抑え込んでいて、自分
の言い放った願望に感化されていた。
ノルアはまたロザリーを抱き締める。
この温もり、この心地良さ︱︱これが最後になるかもしれないと
認識しつつも、ロザリーはしばし、その余韻に浸っていた。
647
その日、ギルガント王国は今宵行われる儀式を歓迎し、華やかな
祭りが町を彩っていた。
人々は歌い、騒ぎ、踊り、あらゆる娯楽に勤しみ、高らかにある
一言を叫んでいく。
﹃呪われし王女の死に︱︱乾杯﹄
人々は全ての不幸を、王女ロザリーに押し付けてきた。不幸の種
が消えれば、国も平和になる、自分達も楽になれる。⋮⋮そんな有
り得ない幻想に酔いしれ、無我夢中に今を楽しみ、今を喜ぶ。
そんな街が盛大に祭りをする中、ギルガント国の貴族、市民代表
者、そして王族達は黒のローブを羽織る。
全ての灯りが消された城内︱︱闇に満ちた廊下にて、儀式を見届
ける彼等は蝋燭を手に持ち、列を成して行進する。
648
目指すは儀式の間となる大聖堂。そこで彼等は神聖なる祈りを捧
げ、同時に王女に対する怨嗟を吐き続ける。
そして最後に︱︱ライガン王自らが剣を持ち、地面に描かれた六
芒星の紋章の上にて⋮⋮ロザリーを斬殺する。
全てはあの日告げられた啓示に沿って行われる。王女を儀式とい
う形で殺せと。
そう︱︱全ては、神のお告げと⋮⋮この﹃シールカード﹄の為に。
王女を殺せば、ライガン王達が崇拝していた神に会わせてくれる
と、確かにその啓示は言っていた。
649
シールカードはその為の道具であり、その願いに応えてくれるだ
ろうとも言っていた。
なら殺そう。すぐ殺そう。
王女を殺して⋮⋮恒久たる平和をこの手に。
全身をローブで覆い、両手を縄で縛られたロザリーを引き連れ、
ライガン王はずっとそんな考えを脳内で反芻させていた。
650
ep8 memory④ ︱夢︱︵後書き︶
画像掲載サイト﹁みてみん﹂にて、また新たにイラストを追加し
ました。宜しければ拝見してみて下さい。
651
ep9 memory⑤ ︱唐突な別れ︱
大聖堂には黒のローブを羽織った信者達で溢れ返り、皆が高々に
ラウメ教の教える呪詛を唱えていた。⋮⋮その合唱は、ロザリーに
とって酷く苦しく、聞くに堪えなかった。
後にパイプオルガンの音色が大聖堂を包み込み、呪詛の合唱はそ
れに沿って奏でられる。︱︱まるで終焉を告げるオラトリオの様に、
神聖な音楽が響き渡る。
ロザリーは大聖堂の中央に描かれた六芒星の上に佇み、ただ茫然
と時を待っていた。
⋮⋮だが不思議と、怖くは無かった。
今から実の父親に殺される筈なのに。この金色の髪が原因で殺さ
れる︱︱そんな不条理な死が待ち受けているのに。
652
何故だろう⋮⋮未だに、ノルアが言った言葉に妙な安心を感じ、
気味悪い程に落ち着いている自分がいる。
﹃貴方を、絶対に死なせはしない。︱︱姉さんは最後まで抗って見
せるから⋮⋮⋮⋮この国に、この運命に﹄
そう、あの時確かにノルアはそう断言した。
今ノルアは信者達の中に加わり、静かにロザリーの姿を見据えて
いる。彼女が一体どんな表情で見届け、何を思っているのか⋮⋮⋮
⋮ここからではローブが邪魔で見る事が出来ない。
でも⋮⋮何かが違った。いつものノルアは優しい雰囲気を醸し出
しているが、今は例えるならば︱︱怒りと執念に満ちた雰囲気だと、
ロザリーは感じた。
﹁︱︱皆の者、合唱を止めよ﹂
653
突如、信者達の音色を制する者が宣言した。
その声の主は、ロザリーの正面に立つライガン王だった。彼は黒
いローブでは無く、漆黒のマントを覆い、その手には銀色の剣が握
られていた。
﹁⋮⋮⋮⋮ロザリー・アリエスタ・ギルガント、お前はこの十八年
間、不幸と災難をこの国の皆に振り撒き、あらゆる不運を呼び寄せ
てきた。⋮⋮今この時において、ラウメ教の戒律に則り︱︱異端者
であるお前を、殺す﹂
最後の言葉と共に、周囲から拍手が巻き起こる。
やがて拍手が鳴りやむと、ライガン王は左手に持っていた﹃カー
ド﹄を掲げる。
654
﹁︱︱神は仰られた。啓示に従い、忌み子である娘を儀式で殺せと。
さすればこの国に平穏が訪れ⋮⋮我々は、更なる神の恩恵を受けら
れると!﹂
ライガンは剣を構えたまま、ロザリーへと近づく。
そして剣を振りかざし、その状態で実の娘に最後の問いを投げか
ける。
﹁⋮⋮ロザリーよ。死ぬ前に何か言い残す事はあるか?その邪悪な
る音色を解き放ち、本性を晒すが良い﹂
﹁⋮⋮﹂
言いたい事、か。
655
︱︱なら、最後に言いたかった事を言おう。例え邪悪と言われよ
うと、殺されるとしても︱︱これだけは知りたかった。
国王の娘とか、忌み子とかでは無く︱︱父ライガンの娘として。
﹁⋮⋮⋮⋮父様の本音を聞きたいです﹂
﹁何だと?﹂
ライガン王はロザリーのか細い問いに対し、疑問の意を露わにす
る。
﹁⋮⋮父様は、ラウメ教の教えに沿って儀式を行ってる。⋮⋮けど、
父様の本音は聞いた事がありません﹂
これが国王としての義務であるならば、父という存在はどう感じ
ているのか?娘を殺そうという気持ちに偽りは無かったのか?
656
自分がお人好しなのは承知である。殺される相手に﹁本当は殺し
たくないのだろう﹂と断言しているようなものだから。
﹁⋮⋮下らん質問だな。忌み子は裁かれるべき存在であり、父ライ
ガンにはそれを成し遂げる義務がある。それ以外の感情など有り得
ぬ話だ﹂
﹁で、でも!﹂
ロザリーが反論しようとした瞬間、彼女は周囲の殺気と怨嗟の念
に気付いた。
誰もがロザリーの態度に嫌悪を表し、口々から彼女を嘲る発言が
漏れる。﹁浅ましい﹂だとか、﹁哀れで醜い﹂とか⋮⋮。
もう聞きたくなかった。ロザリーは周囲のざわめきを両耳を抑え
る事で、一生懸命聞き逃そうとする。
悪魔のような囁き声、ロザリーの人生を全否定する非難の声。
657
助けて︱︱誰か、誰か。
︱︱ノルア姉様⋮⋮⋮⋮助けて
苦悶に満ちた表情を浮かべるロザリー。そんな娘の様子に満足し、
狂気の笑みを見せる国王ライガン。
﹁さあ死ぬがいい、ロザリーッ!戒律に則り、ラウメ教を創造せし
者︱︱︱︱︱︱我等の神﹃ルードアリア﹄の天罰を受けるのだッッ
!﹂
ライガン王の怒声が大聖堂に響き渡る。
658
ロザリーの死を見届ける為に、一同は沈黙を貫き、ライガンが剣
を振り下ろす瞬間を期待して待ち続ける。
︱︱しかし、それは叶わぬ夢であった︱︱
﹁ようやく、その名を口にしたわね。︱︱父上﹂
静寂の中にて発せられる女性の声。それはノルアのものだった。
パリンッ!
659
彼女が言葉を発した途端、大聖堂のステンドグラスが割られてい
き、そこから何人かの人々が大聖堂内部へと侵入してきた。
﹁なっ⋮⋮何だ﹂
侵入してきた者達は、一人を除いて全員が深緑の正装服姿に身を
包んでいて、その手には漆黒の武器が添えられている。
ライガン王はその出で立ちを一目見て、彼らが何者かを悟る。
﹁⋮⋮き、貴様らは﹂
彼が言うより前に、侵入してきた一派の中から甲冑に身を包んだ
男が前に出て、剣先をライガン王へと向けた。
﹁︱︱ギルガントの王よ、よく聞け!私はシルヴェリア騎士団長の
ニルヴァーナ。そしてここにいる者達は︱︱アルギナス牢獄連行部
隊の精鋭達である!﹂
660
高らかな宣告に対し、信者達に動揺が走る。
アルギナス牢獄連行部隊、その名を知らぬ者はおそらくいないだ
ろう。戦の国ランドリオが統括するアルギナス牢獄。罪人を独自に
拘束し、連行する事が彼等の存在意義である。
連行部隊個々人の実力は常軌を逸している。その実力は、六大将
軍に数分間程立ち向かえるだけの力を備えているのだ。
﹁ギルガント王国のラウメ教は、今この場にて﹃魔王崇拝の邪教﹄
である事が判明した。よって我等シルヴェリア騎士団、アルギナス
連行部隊は共同戦線を張り︱︱ノルア王女の命によって貴様等を連
行する!﹂
﹁ぐっ⋮⋮ノルアぁ、貴様あああ!いつの間に、いつの間にこのよ
うな真似をおおおぉぉッ!!﹂
ライガン王は怒りの矛先をノルアへと向ける。だがライガン王は、
身柄を連行部隊に拘束され、地面へと叩きつけられる。その衝撃で
言葉を続けることが出来なかった。
661
ロザリーはその事態を茫然と眺め、ある思いが過る。
︱︱これは⋮⋮姉さまが?
様々な展開が巻き起こる中、ロザリーはノルアの命という言葉に
だけ反応する。難しい事はよく分からないけれど⋮⋮これはノルア
が起こした事なんだ。
﹁何、をしている兵士どもっ!早くこの愚か者共を打ち倒す為に応
援を呼ばんか!﹂
ライガン王はアルギナス部隊と交戦する兵士達に命令を下す。増
援を呼ぶ為に、高い音色の笛が鳴り響く。
大聖堂はすっかり戦場と化していた。もはやロザリーを殺す余裕
など無く、信者達は逃げ惑い、連行部隊にどんどんと捕らわれてい
く。
情けない事に、ロザリーは初めて見る戦いと血の匂いに怖気づき、
上手く立ち上がる事が出来なかった。
662
自分はどうすればいい⋮⋮と思った矢先に、ノルアが必至の形相
でこちらへと近付いてきた。腰の抜けていたロザリーを無理やりに
立たせる。両肩に手を乗せ、面と向かって言い放った。
﹁ロザリー、大丈夫!?﹂
﹁う、うん⋮⋮姉様は?﹂
﹁私は大丈夫よ。︱︱さあ逃げて、ロザリー。父上が堕ちたといっ
ても、まだ城内には沢山の兵士がいるわ。さあ早く!﹂
﹁でも⋮⋮でも姉様も一緒じゃないと!﹂
ロザリーを先に行かせようとするノルアに、彼女は必死に疑問を
投げかける。何故一緒に来ようとしないのか。
何故︱︱そんな悲しい表情を向けるかを。
663
剣と剣が鳴り響き合う。そんな中で、ノルアはロザリーの頭を撫
でて上げた。
いつもと変わらないノルアの行動。悲しい表情から一転、ノルア
は無理やりに笑みを見せる。
﹁⋮⋮ロザリー。どんなに辛くても、どんなに死にたいと思っても
⋮⋮最後まで諦めないで。︱︱姉さんが地獄の五年間を耐え抜いた
ように﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮え?﹂
彼女が何を言っているのか、ロザリーはまるで理解出来なかった。
﹁そうすれば⋮⋮いつか希望はやって来る、幸せが舞い降りてくる。
⋮⋮有り得ないと思った願いも、絶対に叶うから﹂
664
最後に、ノルアは最上の微笑みを浮かべる。
大切な妹を守る為に、自分と同じ境遇にいるロザリーを助ける為
に︱︱彼女は、ロザリーと共に逃げる事を諦めていた。
やがてシルヴェリア騎士団長、ニルヴァーナと名乗る騎士がやっ
て来る。
﹁ノルア姫、こちらがロザリー・アリエスタ・ギルガント姫ですか
?﹂
﹁ええ、そうよ。ここは私に任せて、貴方達シルヴェリアは、ロザ
リーを連れて森まで逃げるのよ﹂
ノルアの命令に、ニルヴァーナは意味深な瞳を彼女に向ける。
彼は何か言いたそうであった。しかし反論する事も無く、ロザリ
ーを抱える。血生臭い大聖堂を駆け抜け、ノルアから離れていく。
665
﹁な、何をするの?まだ姉様が、姉様が大聖堂に!﹂
﹁⋮⋮ロザリー姫、申し訳ございません﹂
ニルヴァーナは大聖堂を抜け、中庭を走りながらロザリーに謝る。
﹁︱︱ノルア王女は、貴方を逃がそうと決死の覚悟でした。⋮⋮そ
の覚悟を、無下に扱う事は出来ません⋮⋮﹂
︱︱そんな⋮⋮そんなッ!
その瞬間、強烈な眠気がロザリーを襲い、意識が段々と遠のいて
いく。彼女を抱き上げる前に、ニルヴァーナは蒼白い花をロザリー
に嗅がせていた。恐らく、それは眠り花だったのだろう。
︱︱待って、よ。今ここで眠ったら⋮⋮姉様を助ける、事が
666
約束したのに⋮⋮。絶対ここから逃げて、普通の姉妹としてどこ
かで暮らそうと。笑いながら暮らせる日々を⋮⋮創ろうと誓い合っ
たのに。
姉様︱︱︱︱︱︱なん、で︱︱︱︱
︱︱そして、ロザリーはしばしの眠りについた。
667
ep10 memory⑥ ︱さらば、我が故郷よ︱
﹁⋮⋮う﹂
ロザリーは呻きを漏らし、意識を取り戻していく。
ぼんやりとした感覚は未だ続くが、それでも彼女は目を徐々に開
かせていく。自分で今いる場所を知る為にも。
︱︱目を開けると、目の前は薄暗い森の中だった。
﹁⋮⋮ここは、どこ?﹂
深い闇が森を覆っていて、その先は、裸眼では見通す事が出来な
い世界が広がっている。一歩進むだけでも躊躇してしまう、そんな
闇夜が映し出されていた。
﹁︱︱ッ﹂
668
そして座り込むロザリーの前に、一人佇む青年がいた。
彼を前にし、言い知れぬ恐怖がロザリーを襲う。
また自分を殺そうと企んでいるのか、こんな人気も無い場所で⋮
⋮と、強い猜疑心を込めて言い放つ。
﹁⋮⋮だ、れ?﹂
恐怖のあまりに、ロザリーは上手く声が出せなかった。だがそれ
でも声を絞り出し、青年に声を掛ける。
青年はそれに気付き、ロザリーへと振り向く。
﹁ああ、起きたか。⋮⋮ちょっと待ってくれ、今は忙しい所なんで
な﹂
669
その声音は︱︱ロザリーとは真逆の呑気なものだった。
言葉少な目に返答をし、青年はまた視線を正面へと向ける。
⋮⋮訳が分からない。一体どれだけ自分は眠っていたのだろうか。
ノルアに命令された騎士に抱えられ、眠らされたまでは覚えてい
る。騒動の行方は?城はどうなった?⋮⋮ノルアは、無事なのか?
疑問が尽きる事は無かった。突然の出来事はロザリーの思考回路
を混乱させ、絶望の波が押し寄せてくる。
絶望に浸る彼女の前にいる青年も、今では恐怖の対象でしかなか
った。
彼の持つ剣と殺気が、その感情を更に助長させていく。
﹁︱︱全く。強引にリリスに誘われ、騎士団に入ってみたけど⋮⋮
こんなに面倒な仕事があるなんてな。⋮⋮⋮⋮剣なんて、もう使い
たくないのに﹂
670
青年は心底嫌そうに剣を睨みつける。ロザリーは何の事情も分か
らないが⋮⋮まるで彼は長年の戦いに疲れ、全てを放棄したがって
いるような⋮⋮そんな様子に見えた。
それでも青年は剣を構える。
彼から湧き出る様々な感情は一瞬にして消し去り、全神経を周り
に集中させていく。
﹁⋮⋮まあいいか。こういう仕事だって事は大体分かったし⋮⋮こ
れからは適当にサボって行くかな⋮⋮﹂
愚痴を零しながら、青年は剣を振るう。滑らかに剣の軌跡を描い
ていき、剣の舞は素早い速さでこなされていく。
どこまでも鮮やかに、且つ一寸の乱れも無いその動きは⋮⋮一体
何の為に行っているのだろうか?
671
︱︱しかし、その理由はすぐに理解した。
その場で剣を振るい終えた後︱︱青年は剣を鞘に納める。
﹁⋮⋮情けない連中だな。まさか俺の殺気に、身動きさえも取れな
くなるとは﹂
青年は興味を失い、颯爽と後ろを振り返る。
︱︱その瞬間、森の奥から血しぶきの音や悲痛に叫ぶ声が鳴り響
いてくる。姿形は闇夜のせいで見えないが⋮⋮森の奥で何十人もの
人が殺されたのは確かだった。
しかも一瞬にして全員が斬り伏せられたのだろう。断末魔の連鎖
は五秒程で鳴り止み、また静寂の森へと返る。
﹁︱︱聖騎士流剣技、﹃月下強襲撃﹄。⋮⋮姑息な手段でしか殺せ
ぬ貴様等には、闇夜での死がお似合いだよ﹂
672
非道を憎み、悪意を持つ者に死の制裁を喰らわせた青年。どこか
優雅なその物腰もさることながら、ロザリーはその剣技に驚愕して
いた。
⋮⋮信じられないが、先程の青年の動きは、数十人も潜んでいた
兵士を斬り倒していた動作だったようだ。直に肉を削ぐ事も無く、
しかも最小限に抑えられた動きで⋮⋮全員を殺した、と見ればいい
のだろうか?
とにもかくにも⋮⋮その圧倒的強さを前にし、ロザリーは呆気に
取られていた。
﹁︱︱待たせたな、王女様。俺はシルヴェリア騎士団員の一人︱︱
ゼノス・ディルガーナ。団長の命により、今からあんたを保護する
⋮⋮いいな?﹂
青年︱︱ゼノスは面倒そうに自己紹介をし、自分の使命を簡単に
説明する。
673
シルヴェリア騎士団⋮⋮そういえばあの時ロザリーを抱えた男も
騎士団を名乗っていた気がする。恐らくその団員、なのだろう。
﹁あ、あの⋮⋮ここは一体何処ですか?それと城は⋮⋮父様や姉様、
それに他の方々はどうなったんですか!?﹂
なら知っている筈だ、あの大聖堂で起きた事件の末路を。ロザリ
ーは取り乱しながら、彼に答えを求める。
﹁あ∼、そんなに質問されても困る。⋮⋮てか俺も、そんなに知ら
ないし﹂
ゼノスは森を見渡しながら、だるそうに呟く。
﹁⋮⋮ここはギルガント王城の裏手に覆い茂る森林地帯だよ。城門
前で団長から王女様を引き取って、詳しい事情も分からないまま⋮
⋮今はこうして街道目指して突き進んでいる所だ﹂
そう言って、今度はロザリーを両手で抱え、軽々と彼女を持ち上
674
げる。俗に言う、お姫様抱っこというやつだ。
﹁︱︱てなわけで、城の事情とか、あんたの詳しい経緯は知らない
んだ。⋮⋮変な追求は勘弁してほしいね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そう、ですか﹂
ロザリーは絶望的な表情でそう呟き、以降彼女が口を開く事は無
かった。
自分がどうなるかさえも分からない状態のまま⋮⋮⋮⋮彼女はゼ
ノスという青年に抱き抱えられ、城から離れていくのであった。
ロザリー・アリエスタ・ギルガント第二王女。
675
その日、彼女は運命の死から逃れる事となった。
右も左も分からない未知の世界へと抜け出した所で︱︱シルヴェ
リア騎士団員、ゼノスによって城から出て行くのであった。
暗い森を抜けて、人の闊歩がまるで見受けられない夜の街道を歩
いて行く。ゼノスは疲れを一切見せず、ロザリーを抱えながら歩き
続け︱︱約三時間程で小さな村へと到着した。
深夜の時間帯故に、勿論外を出歩く村人はいない。だがゼノスに
とっては好都合だったらしく、身を潜めながらも、警戒を若干緩め
ながら目的の場所へと向かっていく。
目的の場所︱︱それは村の一角にある少々大きめの建物であり、
今はシルヴェリア騎士団の本部、宿ともなっている所だ。
ゼノスはロザリーを連れて中に入り、ロザリーはあてがわれた部
屋で休息を取る事となった。
676
ep10 memory⑥ ︱さらば、我が故郷よ︱︵後書き︶
長かった過去話も、あと二話か三話ほどで終了します。
677
ep11 memory⑦ ︱選択︱
﹁⋮⋮﹂
馴染みの無い光景ばかりを目にしたせいか、ベッドに横たわった
ロザリーは一気に力が抜けるのを感じた。
誰の監視も受けず、誰からも罵倒されない一日なんて初めてだが
⋮⋮今日はそれ以上に疲れた。
ノルアの安否が未だ分からない今は⋮⋮凄く不安で、自分の世界
が無くなりそうで⋮⋮凄く怖い。
﹁姉様⋮⋮私はこれからどうすれば﹂
そんな弱音を吐いていた時だった。
トントン、とドアを叩く音がし、ドアが開け放たれる。
678
ロザリーが返事をする暇も無いまま、あのゼノスと名乗った青年
が部屋へと入って来た。
その手には二人分の紅茶を乗せた盆を持っていた。
﹁ふぁあ∼あ⋮⋮⋮⋮。部屋の灯りがまだついてたんで、眠れない
のかと思ってな。ほっと一息つく為に紅茶でも飲むか?﹂
﹁⋮⋮﹂
これまたロザリーが返答する事も無く、ゼノスはそれを肯定と受
け取ったのか⋮⋮ドサリとベッド脇の椅子に座り、テーブルの上に
紅茶を置く。
﹁夜更かしは乙女にとって肌に毒なんだろ?騎士団員も全員眠りに
ついたし⋮⋮奴らより遅く寝るなんて嫌だろ?﹂
﹁⋮⋮騎士団員全員?﹂
679
ロザリーはそれに反応し、がばっとベッドから起き上がる。
﹁ならあのニルヴァーナという方もいる筈ですッ!教えて下さい⋮
⋮⋮⋮あの後、大聖堂でどんな事が起きたのかを!皆がどうなった
のかも!全部!﹂
﹁⋮⋮それなんだがな﹂
ゼノスは言いづらそうに間を空ける。
やがて、その怒涛の質問に簡潔に答えた。
﹁︱︱団長も、今回の件に関してはアルギナス牢獄の情報規制の対
象にかかってるらしい。その大聖堂の事件とやらの結末も⋮⋮団長
は最後まで見れなかったと報告していたよ﹂
その一言に、ロザリーは凍りついた。
680
唯一の希望が打ち砕かれたように⋮⋮彼女の瞳は、一気に絶望の
色へと染め上げられていく。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮そん、な。じゃあ、ノルア姉様はどうなったの?⋮
⋮姉様と約束したのに⋮⋮一緒に逃げて、平和に暮らそうって。そ
れなのに⋮⋮最後にこんな事って!﹂
ロザリーはベッドの上で、顔を手で覆いながら泣いてしまった。
彼女は様々な苦痛に耐えてきた。物理的な痛みも、精神的な打撃
も、あらゆる絶望を体験してきたが⋮⋮彼女はたった一つの思いを
胸に、今日まで生きてこれた。
ノルアという姉の存在。同じ苦痛を味わってきた女性の支えがあ
ったからこそ、ロザリーは希望を抱けたのだ。
681
いつか︱︱一緒に逃げて⋮⋮普通の暮らしをする。
⋮⋮それだけだった。それだけが唯一の願いだった。
でも神は許してくれなかった。ロザリーは最後にノルアと離れ離
れになってしまい、本当の孤独となってしまったのだ︱︱。
⋮⋮そんな絶望に満ちた様子のロザリーを見て、ゼノスは彼女に
何も問う事はしなかった。
682
この姿はどこかで見た事がある︱︱いや、体験したことがあるか
らだ。
今から約一か月前ぐらいだろうか⋮⋮死守戦争という始祖との死
闘を終えた後、無駄な命を葬ってしまった自分はリリス、ラインと
共に祖国を離れた。
︱︱世間からの罵倒を恐れて、全てから逃げてきたんだ。
他大陸へと逃亡するその日の夜⋮⋮⋮⋮ゼノスは船の自室にて、
こうして膝を抱えながら泣いたものだった。
情けない、弱い、やりきれない︱︱そんな絶望が彼を襲い、そし
て生きる意味を失わせた。
それは今でも続いている。果たして自分は、これから何の為に生
き続けなければならない?白銀の聖騎士以外の道を見つけるなんて
出来るのか?
683
⋮⋮残念だが、今の自分が彼女を慰め、奮い立たせる事なんて出
来ないだろう。それは単なる傷の舐め合いにしかならないからだ。
︱︱だが、選択肢を与える事は出来る筈だ
例え今の彼女がどう思っていようと、自分と同じく生きる目的を
失っている事は確か。⋮⋮深い同情の気持ちが先走り、どうにも他
人事とは思えなかった。
しばらくして、彼女は泣く事を止めた。泣き疲れたのか、その表
情は一様に暗く、どこまでも虚ろな瞳だった。
ゼノスはそれを期に⋮⋮口を開いた。
静寂な部屋の中で、まるで時が止まったかの様な空間の中で。
684
﹁︱︱なあ王女様。そうやって泣き続けるのは勝手だがな⋮⋮⋮⋮
結局の所、あんたはこれから自分の足で歩かなきゃならないんだよ﹂
﹁⋮⋮﹂
あえてゼノスは厳しい言葉を言い放つことで、ロザリーに耳を傾
けさせる。そうでもしなきゃ、彼女は一生人の話を聞かなくなるだ
ろうから。
ここは誰かが言わなきゃいけない。︱︱誰かが手を差し伸べなけ
れば、彼女は一生迷う事となる。
死よりも苦しい⋮⋮後悔という世界で。
﹁このまま地にへたり込んで泣くか。それとも、行き先も分からな
い未来に向けて抗うか。⋮⋮箱入り王女様にはまだ分からないと思
うが︱︱世界中の人間は、この枠の中で生きている﹂
685
そして今のロザリーは、その前者の人間になりかけている。
⋮⋮それだけはさせない。そうゼノスの中の正義が訴えかけてき
て、この少女を救おうとする心が芽生えてしまう。
ゼノスは腰に下げていた剣を持ち、ロザリーに差し出す。
﹁︱︱さあ、選んで見せな。剣を取って突き進むか、又はこの場で
のたれ死ぬかを﹂
﹁⋮⋮えら、ぶ?﹂
ロザリーは剣に視線を送り、ジッと見つめる。
686
今は鋭利な刃は見せていないが⋮⋮それは紛れも無く、ロザリー
がいた世界には存在しなかった﹃抗う武器﹄であった。
弱い自分を補う為の道具︱︱この不条理な世界で生き抜く為の必
需品。
王族の一般教養として剣の稽古はやって来たけど⋮⋮模擬刀では
なく、実物の剣を見るのは初めてだった。
﹁⋮⋮﹂
その剣に手を差し伸べようとするが、か弱い心がそれを塞いでし
まう。
懸命に動かそうとしても、その剣に手が触れる事は無かった。心
のショックから立ち直れず、未だ前に進む事に抵抗を感じているの
だと悟る。
﹁⋮⋮急には決められない、か﹂
687
そう呟き、ゼノスは剣をベッド脇に立て掛ける。
自分の分の紅茶を全て飲み干し、彼はその場から立ち上がる。
﹁︱︱明日の夕日が落ちる頃。もし決意が固まったら、村の裏手に
ある墓場にて、団長が王女様の入団試験を行ってくれるらしい。⋮
⋮逃げるも良し、向かうも良し⋮⋮⋮⋮決めるのは、王女様だ﹂
ロザリーの優柔不断さに呆れたわけでも無く、怒ったわけでも無
い。ただそうなる事が分かっていたかの如く、ゼノスはロザリーに
悩む時間を与え⋮⋮そのまま部屋から出て行ってしまった。
688
⋮⋮決めるのは、自分次第。
⋮⋮⋮⋮そうだ。こんな場所でただ泣きじゃくっていては何も進
まないし、何も明かされない。
ノルアの生死、自分を苦しめてきた邪教ラウメ教の全て。
知らなければいけない事は⋮⋮沢山あるのに。でも、それでも︱︱
︱︱嗚呼、また涙が零れてしまう。
689
﹁うっ⋮⋮うう⋮⋮ノルアぁ﹂
今日だけでいい。
今日だけでいいから⋮⋮泣かせてほしい。
それが終わったら、また立ち上がるから。いつもみたいに抗って
見せるから。
今だけは⋮⋮弱い王女で居させてほしい。
690
ep12 memory⑧ ︱入団︱
ゼノスは退出後、ロザリーの泣き声を背に廊下を歩いていた。
ああして強制的に選択しろと迫り、明日の夕方には答えを出せと
言ってきたが⋮⋮あの王女は今日一日で自分の世界が崩壊し、茫然
自失となっている時である。
⋮⋮やはり、今の彼女にとっては酷な話だったか。当然の如くそ
う感じ、後悔の念に駆られる。
﹁︱︱それは違うと思うね、ゼノス。君のやった事は敬意に値する
よ﹂
ゼノスはいつの間にか目の前に立っていた青年に気付き、足を止
める。
691
﹁⋮⋮ラインか。盗み聞きに心を読む行為は、あまり感心しないぞ﹂
﹁はは、ごめんごめん。でもちょっと、気になってさ﹂
ラインはゼノスへと歩み寄り、意味深な瞳を向けてくる。
﹁君は一か月間ずっと死んだような目をしていたけど⋮⋮あのロザ
リーって子に関わった途端、目の色が変わったね?﹂
﹁⋮⋮別にそんな事は﹂
と、否定をしようとした瞬間だった。
自分でも彼女に対して熱心になる様子を思い出し、言葉を続ける
ことが出来なかった。
そんなゼノスの様子に、ラインは不思議と嬉しさが込み上がる。
彼はこの一か月間、まるで魂が抜けたように自堕落な生活を送っ
ていた。シルヴェリアという騎士団に入団したのはいいが⋮⋮ゼノ
スは一切戦闘には参加しようとせず、仕事を強要されれば掃除や洗
濯ばかりをし、暇さえあれば自室のベッドで昼寝を繰り返していた。
692
そんな様子にリリスとラインは心底心配したものだが⋮⋮偶然彼
が王女を連れ出すという任務に協力してくれたおかげで、若干の生
気が戻っているような気がするのだ。
︱︱その結果、ゼノスは先程行われたロザリー王女の今後につい
て議論が交わされた時⋮⋮自分から提案してきたのだ。
﹃︱︱ロザリー姫を騎士団に入れる、というのはどうでしょうか?﹄
その言葉には皆が驚き、勿論ラインとリリスも同様である。
議論では懇意にしている諸侯に奴隷として献上し、信頼を得よう
だとか、見世物として売り出し、騎士団の運営費にあてようだとか
⋮⋮そんな意見が出ていた。
だがゼノスはその意見に酷く立腹し、誰もが想像しなかった意見
を唱えた。
⋮⋮今まで何の関心も示さなかったゼノスだが、ロザリーの為に
わざわざ明日の夕方まで待ってあげ︱︱もし彼女が来たら、その時
693
に入団試験を行おうとわざわざ念入りに提案してきた。
⋮⋮かつての親友が戻ってきたようで、ラインは凄く喜んでいる。
﹁でもゼノス⋮⋮皆の前で入団試験を明日行うって提案しちゃった
けど⋮⋮彼女、試験に受かると思う?﹂
ラインはある不安を口にし、ゼノスの言う案が上手く行くとは限
らないと考える。
なぜなら、入団試験とは武力を試すものだからである。
騎士団員から一人を選び、その者と戦い⋮⋮勝つか互角へと追い
込むかをしないと試験は合格しない。
しかも、ロザリーは戦闘経験が皆無な王女である。
受ける受けないにしても、結果は変わらないのではないか?
﹁︱︱いや、やってみる価値は十分にあると思うぞ﹂
694
しかし、ゼノスは自信に溢れた様子で断言する。
﹁⋮⋮何か根拠があるようだね﹂
大抵ゼノスがこう言う時は、何かしらの確信を得ているのだ。白
銀の聖騎士時代では、彼が判断を誤った事はまず無かった。
﹁⋮⋮ただし、あの王女様がちゃんと自分の意志で来ない限りは、
俺の自信も意味を成さないけどな﹂
﹁まあ、それもそうだね﹂
どちらにせよ、入団試験の結果は彼女に掛かっている。
ここでいくら論議を費やしても無意味であり、逆に寝ている騎士
団員に迷惑を掛けるだけである。
695
悪夢の様な一夜が過ぎ去り、眩い朝日が天高くへと昇って来る。
ロザリーは遅めに起床し、まだ寝ぼけている意識を叩き起こそう
と村の近辺を散歩していた。
穏やかなそよ風が吹き、川のせせらぎと小鳥の囀りを聞きながら
⋮⋮ロザリーはどこまでも続く草原を見つめる。
⋮⋮不思議な感覚だった。
昨日の出来事がまるで嘘の様に思え、初めて見る外の世界は美し
く、その景色は自然と彼女の心を癒してくれる。
696
︱︱しかし、その美しさで事実を変える事は出来ない。
あの日⋮⋮あの時⋮⋮あの一夜でロザリーは紛れも無く父親に殺
されそうになり、ノルアとも離れ離れとなってしまったのは、実際
に起こった出来事である。
報われない現実、失ってしまった望みと願い。
いっその事、あの場で死んでいれば良かったのに。そうすれば悲
しまずに済む、こうして複雑な感情に苛まれる必要も無くなる。
⋮⋮でも、現実はそれを許してくれない。
﹃︱︱さあ、選んで見せな。剣を取って突き進むか、又はこの場で
のたれ死ぬかを﹄
697
あのゼノスという青年が言い放った言葉は、この世界で生きる人
間達の宿命を表している。⋮⋮それはロザリーでさえも分かってい
る。
知りたければ抗え、救いたければ戦え。人生は戦場であり、そこ
で悲劇の王女を演じているままでは︱︱本当にのたれ死ぬ。
世界は優しくない。優しくないからこそ⋮⋮自分で歩かなければ
いけない。
思い出せ、ロザリー。別れたあの瞬間、ノルアは自分に何を言っ
た?
﹃⋮⋮ロザリー。どんなに辛くても、どんなに死にたいと思っても
⋮⋮最後まで諦めないで。︱︱姉さんが地獄の五年間を耐え抜いた
ように﹄
︱︱ノルアは確かにこう言った。
⋮⋮さあ、ロザリー。お前は何を望む?何を知りたい?
698
﹁︱︱私は知りたい⋮⋮ノルアの行方を、そしてギルガントの全て
を﹂
ロザリーは渇望し、呟く。それ即ち︱︱弱い王女との別れ。
さらば、我が浅ましき意志よ。お前はこの未来から吹き荒れる風
に飲まれ、ロザリーの強固な決意によって︱︱永遠に見える事は無
いだろう。
⋮⋮もう、自分が泣く事は二度と無い。自分はもう十分泣き続け、
耐え抜いてきた。
﹁⋮⋮﹂
ロザリーは無機質な表情のまま、朝日を背にその場を後にする。
699
決めたからには、夕方に行われる入団試験を行わなければならな
い。目的を達成させる為には⋮⋮騎士という肩書きは必要に違いな
い。
そう︱︱弱い自分を捨てる為にも。
時刻は刻々と過ぎていき、時間は既に夕方を迎える。
700
整然と建てられた墓場の中で、茜色に染まった石畳の上に立つシ
ルヴェリア騎士団員達がいた。その光景はとても異様であり、醸し
出される雰囲気はどこまでも静謐であった。
﹁⋮⋮﹂
皆は静かに佇み、やって来るだろう人物を待っている。
果たして来るのかと、誰も疑問を口にする事は無かった。逆に絶
対の確信と、淡い期待を胸に⋮⋮彼等はその人物を心待ちにする。
︱︱そしてそれは、現実のものとなった。
墓場の入り口から入ってくるのは、鮮やかな金髪に、その腰に剣
を垂らした無愛想な少女。
701
その少女︱︱ロザリーを確認したニルヴァーナは、彼女が近づい
て来てから口を開いた。
﹁︱︱よくぞ恐れずやって来た、ロザリー・アリエスタ・ギルガン
ト王女殿下。その勇敢なる意志に、まず騎士団総勢は⋮⋮貴方に敬
意を表する﹂
そう言って、ニルヴァーナが先に右腕を胸に押しつけ、軽く低頭
する。他の者達もそれに倣い、彼と同じ行動を取る。
ロザリーはその様子を無表情のまま見据え、言葉を紡ぐ。
﹁⋮⋮頭を上げて﹂
短くそう言うと、皆は低頭を止める。
ニルヴァーナは間を空け、言葉を続けた。
702
﹁さて、これから入団試験の説明⋮⋮といきたい所だが、念の為そ
の意志を確認しておこう﹂
彼女の瞳に潜む確固たる信念を見抜いてはいるが、それでもニル
ヴァーナは意志の揺らぎが無いかどうか試してみる。
試す︱︱それはごく簡単な事である。
今現状のギルガント王国について、彼女に語るだけだ。
﹁︱︱あの昨夜の事件以降、ギルガント王家はアルギナス連行部隊
に捕えられ、生死は不明。及びギルガント市民も捕まり、信仰に深
く染まった民間人はその場で斬殺されたそうだ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
成程、それがギルガントの現状か。ロザリーは単にそう思い、そ
れ以外の感情は極力殺す事にした。
703
そのせいか、衝撃の事実を知っても尚⋮⋮ロザリーの表情に変化
が現れる事は無かった。
それが彼女なりの覚悟の現れ。雑念は全て消し去り、思いの全て
をただ前進する為だけの活力に切り替えさせる。⋮⋮ギルガントと
いう過去の故郷など、今のロザリーには興味の湧かない話である。
﹁さあ、ロザリー・アリエスタ・ギルガント。お前はこれを聞き、
泣き崩れるか?それとも︱︱前へと突き進むか!﹂
ニルヴァーナは声を張り上げ、彼女の意志の真偽を見定める。
︱︱ロザリーは即答する。
迷う事無く、彼女は宣言する。
﹁⋮⋮もう、私は下を向かないと決めた﹂
704
あの日々の絶望を糧に、自分に降りかかってきた不幸を教訓に、
自分は全てを乗り越えてみせる。
﹁⋮⋮ここに誓う。私は王女ロザリー・アリエスタ・ギルガントを
殺し⋮⋮﹂
彼女は剣の柄を持ち、勢いよく鞘から刃を引き抜く。
剣を構え、シルヴェリア騎士団に言い放つ。
﹁︱︱﹃ロザリー・カラミティ﹄として、全てに抗うと﹂
⋮⋮冷たい秋風が頬を撫で、忌み嫌われていた金色の長い髪は、
705
綺麗な輝きを放ちながらなびく。
その姿はとても勇ましくて、怯える姫の面影は全く無かった。
ニルヴァーナはふっと微笑み、自分がつまらぬ質問をしたものだ
と恥じ、高らかに手を上げる。
﹁︱︱その心意気、しかと聞いた。お前を改めて騎士に相応しい人
物と認識し、入団試験を始めようと思う。︱︱︱︱︱ライン・アラ
モード。彼女と対峙する位置に移動せよ﹂
﹁了解、団長﹂
騎士団の中に埋もれていたラインが軽く返事をし、身体中に無数
の暗器を装備した状態で前へと出る。
ライン・アラモード︱︱この男が、これから自分と戦う相手。
見た目は飄々としているが、その中身は凄まじいものだ。溢れる
闘争心は勢いを緩めず、他者から見れば⋮⋮今のラインは伝説級の
706
怪物に匹敵する殺気と力を秘めている。
︱︱でも、ロザリーは恐れない。
ここで恐れたら⋮⋮これから先、生きてはいけないだろうから。
ロザリーとライン、互いは睨み合う形となる。
﹁︱︱入団試験の説明を簡単に行う。試験内容は我が騎士団員ライ
ンの撃破、又は互角と判断した場合のみ合格とする﹂
ニルヴァーナの至極簡略化された説明に、ロザリーは納得する。
つまり︱︱騎士団に入るに相応しい力を示せと、彼は言っている
のだ。
﹁では︱︱始めよ!﹂
707
ニルヴァーナがそう宣言し、同時に試験が始まった。
708
ep12 memory⑧ ︱入団︱︵後書き︶
画像掲載サイト﹁みてみん﹂にて、始祖アスフィのイラストを掲載
しました。もし興味がありましたら御覧下さい。
709
ep13 memory⑨ ︱ロザリーVSライン①︱
団長の宣言があっても、両者がその場を動くことは無かった。
聞こえていなかったのか、それとも様子見をしているのか。そう
誰かに問われたら、この場にいる全員はどちらも違うと断言するだ
ろう。
︱︱そう、ロザリーとラインは相手の集中の揺らぎ、死角、そし
て踏み出す一瞬の好機を死に物狂いで探しているのだ。既に戦闘は
始まっており、今はその心理戦へと突入していると言ってもいい。
﹁⋮⋮へえ。君は案外やるようだね﹂
ラインは微笑み、ロザリーに偽り無き称賛を送る。
﹁自分で理解しているかは分からないけど、その隙の無さは鍛錬と
かで鍛えられるものじゃない。︱︱天性の才能、と言うべきかな﹂
710
直に分析してみて、ラインは初めてゼノスの自信の根拠を理解す
る。
元王女だけあって、多少剣の習い事はやって来たようだが、それ
だけでこの気迫と用心深さは習得出来ないだろう。
⋮⋮少しは面白い戦いになりそうだ、とラインは考えた。
﹁︱︱さあ、そろそろ行こうか﹂
ラインの何気ない一言。
︱︱その時、辺りの空気が変わり始め、ロザリーの額から異様な
冷や汗が垂れてくる。
そして直感した。この一瞬を上手く見切れないと︱︱自分の心臓
に鋭利な何かが刺さってしまうと。逃げなければ︱︱呆気なく殺さ
れると。
711
その判断は正しかった。ラインは無駄な動作を一切省き、数本の
ナイフを一気にロザリー目掛けて放ってくる。
﹁︱︱くっ﹂
苦し紛れに横へと回避していく。しかしラインはその場から一歩
も動かず、柔和な笑みのままナイフをロザリーに投擲していく。ロ
ザリーは近付くどころか、ラインから距離を離す一方となってしま
った。
﹁⋮⋮ならば﹂
ロザリーは後退の足を止め、迫り来るナイフに対し⋮⋮堂々と待
ち構える事にした。
着々と数本のナイフは接近してくる。︱︱だが、
﹁⋮⋮!?﹂
騎士団の皆は一様にロザリーの行動に驚く。
712
何とロザリーは間近に迫ったナイフを、僅かに身体を横に反らす
事で回避し、そのすれ違いざまに⋮⋮見事な反射神経を用いてナイ
フを二本程掴み取ってしまった。
それだけでは済まない。彼女は前のめりになりながらも、そのナ
イフを思いっきりラインへと投げ返す。
﹁︱︱ッ﹂
ラインは飛んできたナイフを仕込み刀で斬り落し、怒涛の勢いで
ロザリーへと接近していく。
﹁やるねえ、ロザリー。今度は接近戦へと持ち込ませてもらうよ﹂
﹁⋮⋮望む所!﹂
ロザリーは剣を中段の位置へと構え直し、ラインの圧倒的威圧感
を放った一撃を受け止める体勢に入る。
713
︱︱ガキンッ
鈍い鉄と鉄の音が大きく鳴り響く。ラインの素早くも重い一撃を
受け止め、ロザリーは少々体勢を崩す状態となった。
だがラインは即座に思う。︱︱自分はこれでも﹃六大将軍﹄とい
うランドリオ帝国の最上地位についていた時もあり、大抵の戦士を
その驚異的な一撃で葬って来た。
⋮⋮なのに、この少女はそれを防いで見せた。
︱︱その天才的な戦闘センスに、ラインは不思議と笑みをこぼす。
ラインとロザリーは絶え間ない剣戟の嵐を展開させ、両者は無傷
のまま刃と刃を重ねていく。
高度な戦闘は過激を増していき、互いは段々と体力の限界と、筋
肉の疲労を感じてくる頃︱︱ラインがまた新たな動きに出た。
﹁⋮⋮なっ﹂
714
ロザリーは驚愕する。ラインの胴体を斬り裂こうと横薙ぎに剣を
振ったのだが、一瞬の瞬きの間にラインの姿が消失した。
どこだ︱︱と思うのは一瞬だった。
振り切ったロザリーの剣先に、何とラインはその上に絶妙なバラ
ンスで立っていたのである。
﹁︱︱爪が甘いねえ﹂
ラインは狂喜に満ちた笑みを見せ、その手に長い鎖が巻かれてい
た。
その鎖を投げ、鎖は剣を持つロザリーの手を捕える。
ロザリーを捕まえたラインはそのまま宙へと舞い上がり、彼女も
また力の法則に従って空へと放り投げられる。
﹁ちょっと痛いだろうけど⋮⋮我慢するんだよ﹂
715
鎖を大きく振るい、鎖に縛られたロザリーは抗う事も出来ずに地
面へと叩き伏せられる。
余りにも強い衝撃に、ロザリーの表情は苦痛に歪む。
﹁⋮⋮ぐっ、く⋮⋮﹂
身体中を激痛が走り、立ち上がろうとするが動けなかった。
⋮⋮それでも、ロザリーは落とした剣を拾おうと一生懸命に這い
ずり、近づこうとする。
︱︱しかし、それをラインは立ち塞がる事で止め、ロザリーを見
下ろす。
﹁⋮⋮その程度かい?もっと白熱した戦いを期待してたんだけど﹂
彼は無傷のまま、変わらぬ表情で言い放つ。
⋮⋮強い。伊達に騎士を名乗っていないだけあって、その実力は
段違いであった。今のロザリーがどう足掻こうとしても⋮⋮恐らく
716
勝ち目は皆無だろう。
これは推測だが、ラインは実力の半分以下︱︱いや、もしかした
ら一割も引き出していないのかもしれない。
⋮⋮それでも、自分は立ち上がらなければ。
例え勝てなくとも、例え互角が難しいとしても⋮⋮。
︱︱もう、逃げたりはしない。負けたくない。
﹁おや⋮⋮﹂
ロザリーは体を震わせながらも、息を荒げながらも立ち上がる。
不安定な足取りのまま剣の元へと歩んでいく。
そして剣を持ち、無言でまた構える。
717
﹁︱︱まだ勝負は、終わっていない。⋮⋮まだ、まだ戦える!﹂
﹁⋮⋮その言葉を待っていた。さあ、掛かってきなよ﹂
﹁︱︱はあああああっっっ!!﹂
ロザリーは甲高い声で叫び、ラインへと立ち向かっていく。
譲れない執念が彼女を奮い立たせ、諦めない意志が彼女に剣を持
たせる。恐れを知らない猪突猛進、諦めを忘れた脅威の踏込み。
小細工の欠片も無い、真っ直ぐな戦法で掛かってくる。
﹁︱︱ふふ、これじゃ馬鹿の一つ覚えだね。この勝負はもう﹂
718
ラインが勝利を確信し、突っ込んでくるロザリーをしっかりと見
据える。
その時だった、僅かな彼女の変化に気付いたのは︱︱
︱︱何と、彼女はラインの目の前で⋮⋮消失した。
﹁⋮⋮え﹂
ラインは動揺を隠せなかった。そして獰猛な気配を後ろから感じ、
危険を察したラインはすぐさまその場から離れる。
案の上、ロザリーは一瞬でラインの後ろを突いていた。ラインは
自分のいた場所を見やると、丁度彼女はその場で剣を振るっていた。
もしあの場所に留まり続けていたら⋮⋮今頃剣の餌食と化していた
だろう。
︱︱今の動き。あれはまさしく、先程ラインが剣の上に一瞬で動
719
いたのと同じ動作であった。
ラインは一瞬にして把握した。今のロザリーの動きは、全く同じ
動作で、同じタイミングで瞬間移動を成し遂げていた︱︱。
まさか⋮⋮⋮⋮自分の動きをコピーしたというのか。
しかし、ラインに思考する時間は無かった。
空中にいるにも関わらず、またもや後ろから殺気がする。彼女は
既に地上から姿を消していた。
⋮⋮まただ、またロザリーが瞬間移動をし、自分の背後に迫って
いる。もはやラインは笑顔を見せる余裕も無く、必死の形相で無理
やりに体勢を変え、背後のロザリーの強襲に立ち向かう。
先手必勝︱︱ラインは剣を振り下ろそうとするロザリー目掛けて、
仕込み刀を両手に持ち⋮⋮秋風と共に彼女の胴体を斬り裂く。
誰もがロザリーの死を感じただろう。その場の誰もが︱︱いや、
その場にいる二人の強者を除いては。
720
ライン、そして見守るゼノスは︱︱彼女の真髄が開花されたと認
める瞬間だった。
﹁⋮⋮⋮⋮はは、こいつは⋮⋮天才の域だね﹂
⋮⋮嗚呼、浅はかな自分が愚かしい。
胴体を斬り払った筈の人物、それは静かに﹃残像﹄として霧散し、
彼の視界から完全に消え去る。
完璧な不意打ち⋮⋮⋮⋮そして、洗練された﹃ラインの技の真似
事﹄。
そして、ラインは潔く悟る。今対峙する少女は、自分やゼノスと
同じ境地に立つ人物だと。
721
︱︱神の領域を侵し、途方もない力を手に入れる者だと。
﹁︱︱これが、私の覚悟よ﹂
本物のロザリーはラインの頭上から姿を見せ、彼女は落ち行く形
で声を発する。
油断したライン、その意表を突いた一撃は完全に逃れる事も出来
ない。反逆者の魔の手はすぐ近くへと迫り来て⋮⋮全ての想いが込
められた刃先が、ラインの脇を掠める。
してやられた︱︱ラインはそう心の中で思い、地面へと墜落する。
722
ep14 memory⑩ ︱ロザリーVSライン②︱
ラインは脇を抑え、ロザリーは身体が技術に付いて行けず、過度
な負担が押し寄せて来る。体全体が軋むのを感じ、その綺麗な素顔
を歪ませる。
﹁⋮⋮⋮⋮ふふ、ふふふ﹂
そんな疲弊をもろともせず、ラインは不気味な笑いを零す。
﹁⋮⋮何が可笑しいの。⋮⋮私を、馬鹿にしているの?﹂
﹁︱︱いや、逆だよロザリー。僕は喜んでいるんだ⋮⋮。この嬉し
き出会いにね﹂
ラインは最上の笑みを放ち、今この瞬間を最高に楽しみ、この少
723
女に偽りの無い感謝を示す。
﹁くく⋮⋮くふふ。全く酷い世界だよねえ⋮⋮。僕達は好きでこん
な力を手にしていない、僕達は好きで戦っていないのに⋮⋮⋮⋮分
かる、分かるよロザリー。僕らの辿ってきた過去がそうさせてくれ
ないんだよね﹂
﹁⋮⋮﹂
この男、ラインは世界に対して怨嗟の嘆きを露わにし、抽象的な
言葉をロザリーに投げかけてくる。
だが言っている意味は⋮⋮ロザリーも何となくは分かる。
﹁︱︱君も、ゼノスも⋮⋮そして僕もまた似た者同士。本当に理解
し合える、心の奥底までも見据えてしまえる⋮⋮そんな仲になれる
と思わないかい?﹂
﹁⋮⋮﹂
ラインの瞳が語る。︱︱自分もまた、悲惨な過去を乗り越えてき
724
た。愛すべき全ては一瞬にして崩れ去り、こうして亡霊の如く⋮⋮
今を彷徨っていると。
ラインの笑みが語る。自分達は本当にそっくりであり、この気持
ちは誰にも知り得ないし、知って欲しくも無い。⋮⋮ただ三人を除
いては。
﹁⋮⋮もしここで君が合格したら、僕達三人は良い友達になれるか
もしれないねえ。それを想像すると、何とも奇妙な関係だなあと⋮
⋮ついつい笑みが零れてしまうよ﹂
﹁⋮⋮そうかもしれない。︱︱でも、それは早とちり﹂
ロザリーは鋭い眼光を放ち、殺気を膨張させる。
そう、今の自分達は敵同士。
悠長な考えは通用しない舞台で、今ロザリーは戦いに身を投じて
いる。友人になろうだとか、これから奇妙な関係を築くだろうだと
か⋮⋮そんな事を考える余裕など、今のロザリーにあるわけが無い。
﹁⋮⋮ふふ、そうだね﹂
725
それはラインとて同じ事である。一切の気も抜けず、ロザリーと
いう天才に勝つには⋮⋮少々力を出さないといけない。
ここで本来の力を使えば、ロザリーの命を保障する事は出来ない。
けれども、友人を希望するラインは、せめてもの助言代わりとして
︱︱これから酷い戦いに向かう前の洗礼を与えなければと考える。
︱︱さあ、もう無用な会話は終いにしようか
今から繰り広げられる戦闘は、ロザリーが知り得ぬ未到の世界。
本物の強者だけが観る事を許される︱︱元六大将軍の実力。そこに
余計な会話を挟む事は、例え当事者たる両者でも許されない。
﹁⋮⋮ロザリー・カラミティ。僕等の友人となる為にも、今後の死
闘を生き延びる為にも︱︱この﹃知られざる者﹄の一撃を食い止め
てみろ﹂
︱︱そう言って、ラインは腰に吊るしていた﹃夜叉の面﹄を手に
726
取り、それを自分の顔に被せる。
途端︱︱周りの世界が一気に捻じ曲げられたかのような錯覚に襲
われ、邪悪な気配がラインの周囲を包み込む。⋮⋮その異常な光景
を見て、さしもの騎士団達も息を呑み、騎士団の中でも弱い存在は
その場に膝を付いてしまう。
⋮⋮ロザリーは、あの面が怖くて仕方がない。
まるで幾千人もの怨念が宿っている様で、対峙する相手の心を闇
色へと浸食させるような⋮⋮そんな禍々しい邪念に満ち溢れている。
ロザリーの本能が告げる。︱︱あれは見てはいけない、戦っては
いけない。逃げなければ、さもなくば虫けらの様に死んでしまうっ!
怖い︱︱今のラインが、とてつもなく怖い。
⋮⋮これが、神々の意志に反し、強さだけを求め続けた男の末路
なのか。
727
﹃︱︱イクヨ﹄
先程とは打って変わり、低い声音で呟くライン。
その両手には何本ものクナイが握られていて、ラインはそれを持
った状態で、ロザリーの前から瞬時に消え去る。
︱︱音速、光速、神速⋮⋮どれも当てはまらないスピード。
﹁⋮⋮ッ!?﹂
速さなど関係も無く、ラインは本当に消え去ったのだ。僅かなブ
レも見せず、走り去る音さえも起こさず︱︱一瞬にして消失した。
﹃︱︱影中ノ暗殺術、第六式︱︱︽天魔ノ注ギシ血雨︾﹄
728
圧倒的な身体能力を見せられた後、遥か頭上から響き渡る呪詛の
叫びが聞こえてくる。︱︱それは、彼の持つ奥義の名称である。
聖騎士流剣術が﹃光﹄ならば、ラインの暗殺術は﹃闇﹄の技であ
る。轟く音色はどんな魔の者でさえも恐れる。純粋な悪意は、生き
とし生ける者全てを混沌へと貶める。それが彼の極めた︱︱﹃影中
の暗殺術﹄。
彼はその一端、十から成り立つ奥義の一つを発動する。
︱︱天魔の注ぎし地雨。ラインの故郷にて君臨する波洵と呼ばれ
し魔物の王、その魂を吸い取ったラインは、奴の力をクナイに込め
︱︱瘴気を纏ったクナイを天高くから降り注いでいく。
光への報復、闇の念が朱色の瘴気となってクナイを覆い、クナイ
の五月雨は容赦なくロザリーへと襲い掛かってくる。
729
﹁︱︱ッ!﹂
ロザリーは己の限界まで高速移動を繰り返していき、クナイの雨
から必死に逃げていく。
⋮⋮だが、天魔の一撃は容赦なくロザリーを掠めていき、避け終
えた頃には体中に傷が生じ、ロザリーは立つ事さえもやっとの状態
であった。
⋮⋮いや、もはや意識さえも虚ろだった。天魔の瘴気がロザリー
の体内へと浸食し始め、全身が激しい痛みによって悲鳴を上げる。
﹁ぐっ⋮⋮く⋮⋮はあっ⋮はあ⋮⋮う、ああああっっ!!﹂
﹃⋮⋮﹄
そんな苦しそうなロザリーを、夜叉の面を通して見据えるライン。
730
さて⋮⋮ロザリーは耐えられるのか?この圧倒的な洗礼を耐え抜
き、その足で、その手で、その精神でまだ立ち向かって来るか?
第六式の奥義は、かつての異世界で暴れ狂い、その末にこの世界
にまで進行し始めた大蛇の主、八岐大蛇をその瘴気の毒で狂わせ︱
︱三日三晩苦しみ喘ぎ、その末に絶命させた残酷なる技である。
﹁う⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹃⋮⋮﹄
僅かな空白の時間。ロザリーは気絶したのか、もはや苦しむ声さ
えも出していない。
⋮⋮耐えられなかったか、この一撃に⋮⋮。ラインは心中でそう
思い、同時にニルヴァーナもまたこちらに近付いて来ようとする。
勝負の終わり。その幕が⋮⋮
731
︱︱︱︱︱︱いや。
一刃の刃が、ライン目掛けて飛んでくる。
﹃︱︱ッ﹄
ラインはそれを容易に止める。⋮⋮そして面を取り外し、狂喜に
満ちた笑みを、目の前にて倒れ崩れるロザリーへと向ける。
︱︱彼女は生気の無い瞳をこちらに向け、それでも自分の持つ剣
を投げ飛ばしたのだった。
最後の一撃を放ったロザリーは⋮⋮そのまま完全に意識を失った。
732
⋮⋮ラインやニルヴァーナはおろか、その場にいる全員が彼女の
精神力に驚き、声を発せずにいる。
﹁⋮⋮⋮⋮やっぱ君は凄いね。流石、ゼノスに見込まれただけある
よ﹂
これが本当の幕引き。ロザリーは倒れ伏し、ラインも少なからず
身体に被害が出ている。だが幸いな事に、ラインは軽傷で、ロザリ
ーも傷自体は左程酷くは無い。
︱︱肝心の毒だが、ラインは上手く自分の力を制限させ、毒を瘴
気から殆ど抜いた状態で放ったのだ。⋮⋮命に別状は無いし、毒も
自然治癒で回復していくだろう。
︱︱こうして、入団試験は終わりを告げた。
733
734
ep15 memory⑪ ︱王女の旅立ち︱
ロザリーが目を覚ました時、そこはまた暗闇に満ちた世界であっ
た。
⋮⋮あの悲劇の夜と違う所は、そこが村の裏手にある小川の近く
であるだけ。他は全く同じ状況であり、ロザリーの隣には小川で釣
りをするゼノスが座っていた。
彼はカンテラを頼りに小川をジッと見つめ、獲物を探していた。
⋮⋮が、ロザリーの起床に気付くと、彼はちらりと彼女を見やる。
﹁⋮⋮よう、やっと起きたか﹂
そう言って、ゼノスはまた釣り糸に視線を戻す。
﹁⋮⋮私は一体﹂
言い掛けて、ハッと自分が倒れてしまう迄の経緯を思い出す。
735
そうだ、自分はシルヴェリア騎士団の入団試験を受け、あのライ
ンと名乗る青年と戦いを繰り広げ⋮⋮戦っている内に気絶してしま
ったんだ。
ラインが強すぎて、彼の放つ奥義によって倒れ伏してしまった。
ロザリーは自分の身体を確かめる。⋮⋮傷はまだ残っているが、
その箇所にはしっかりと包帯が施されている。動かしても極度な痛
みは感じない為、普通に動かしても大丈夫そうだ。
⋮⋮それはいいが。
ロザリーはあの戦いで勝利しておらず、互角とも言い難い勝負を
繰り広げてしまった。
結果、こうして無残にも敗れ、やっとの事で起き上がった今であ
って︱︱
⋮⋮多分自分は、入団試験に⋮⋮
736
だが︱︱その予想と裏腹の答えが返ってきた。
﹁︱︱合格おめでとう、ロザリー騎士団員﹂
⋮⋮え。
彼が言い放ったその一言に、ロザリーは瞠目する。ゼノスへと振
り向き、何食わぬゼノスの顔を見つめる。
﹁⋮⋮今、何と?﹂
ゼノスの言葉が余りにも衝撃であり、ついロザリーは疑問を投げ
かけてしまう。
﹁そのままの意味だが?先程の入団試験︱︱満場一致でロザリーの
戦いぶりが認められ、見事合格したんだ﹂
737
﹁⋮⋮﹂
︱︱自分が、合格した。
圧倒的な差を見せられ、それでも抗い続け⋮⋮最終的にはその化
け物じみた力に成す術も無かったのに⋮⋮。
ロザリーは現実味の無い告白をされ、戸惑うしかなかった。
﹁⋮⋮まああの戦いを見て、互角とは言えなかったけど⋮⋮団長は
お前の才能を考慮し、これからに期待するって意味で合格を許した
らしい﹂
﹁⋮⋮そう、なんだ﹂
﹁︱︱それに、ラインにあの夜叉の面を出させたんだ。⋮⋮本当、
大したもんだよ﹂
ゼノスは適当に称賛を送り、大きく欠伸をする。
⋮⋮一見全然気にしているように見えない。しかしロザリーから
見れば、その挙動は不自然に感じた。
738
何だか若干嬉しそうな様子なのは⋮⋮ロザリーの気のせいだろう
か?
︱︱いや、多分気のせいでは無いだろう。
幼少時から人の感情を読み取るのに慣れているせいか、ゼノスの
現在の感情が手に取る様に分かってしまう。
何となくだが⋮⋮その感情には祝福の意が込められている気がす
る。
まるでノルアが傍にいる様な感覚、何気ない優しさが⋮⋮ロザリ
ーの心を満たしていく。
﹁⋮⋮本当、不器用な人﹂
﹁む⋮⋮何だよ唐突に。︱︱てか、いつになったら俺の夜飯は釣れ
るんだろうなあ⋮⋮くそ⋮⋮ラインとリリスの奴等、せっかくの初
給料なのに、俺の金で酒を飲みやがって⋮⋮﹂
739
ゼノスはぶつぶつと文句を言い、ロザリーはその様子を無表情に、
しかし心の中では穏やかな気持ちで見守っていた。
そんなロザリーを横目で見るゼノス。⋮⋮何だかその視線には様
々な感情が込められている様な気がして、ゼノスとしてはあまり落
ち着ける状況では無かった。
﹁⋮⋮はあ﹂
ゼノスは溜息を吐き、釣りを続けても獲物は来ないだろうと悟り、
釣竿とバケツを片付ける。
まあお金も底を尽いているわけでも無いし、無闇に飲み食いをし
なければ来月まで持つかもしれない。⋮⋮それに、ロザリーにこん
な醜態を晒し続けるのも嫌だなとは感じていた。
ロザリーがきょとんとする中、ゼノスはその場から立ち上がり、
ロザリーに手を差し伸べる。
﹁⋮⋮どうせ魚も釣れないし、入団祝いとして飯屋で何か奢ってや
るよ。戦いで腹も減ってるだろうし⋮⋮立てるか?﹂
740
﹁⋮⋮うん﹂
嗚呼⋮⋮この人は本当に不器用で、それでいて優しい。
自分を奮い立たせ、道を作ってくれたゼノス。こうしてシルヴェ
リア騎士団に入団出来たのも⋮⋮全て彼のおかげだ。
ロザリーはその手を握り、自分もまた立ち上がる。
﹁︱︱あ、待って﹂
ふと、そこでロザリーはある疑問が思い浮かび、先を行こうとす
るゼノスを呼び止める。
ピタリと彼はその場に止まるが、こちらを振り向く素振りは無い。
﹁⋮⋮一つ、聞きたい事があるの﹂
﹁何だ?﹂
741
﹁⋮⋮あのラインと言う男、彼は自分の事を﹃知られざる者﹄と呼
んでいた﹂
知られざる者︱︱そのような異名を持ちながら、その存在を知ら
ないという者はいないだろう。
なぜなら、知られざる者は六大将軍の一人。︱︱そして、一か月
前にランドリオで勃発したという死守戦争以降、消息を絶った一人
とも呼ばれている。
もしラインが六大将軍であり、その者であるならば⋮⋮更にもう
一人、死守戦争にて姿を消した六大将軍も付き添っている筈である。
︱︱白銀の聖騎士が。
﹁⋮⋮確証も無いし、これは偏見かもしれない﹂
ロザリーは⋮⋮彼に本音を告げる。
ゼノスにとっては邪魔なものでしかない︱︱その言葉を。
742
﹁︱︱貴方は、白銀の⋮⋮﹂
﹁よせよ、ロザリー。⋮⋮その質問に対する答えは、互いに心を傷
付け合うだけだ﹂
彼女の言葉を打ち止めさせるゼノス。
︱︱ロザリーの言いたい事は大体分かる。それは結局の所、皆が
思う当然の疑問なのだから、ゼノスは自然と理解出来る。
⋮⋮察するに、ロザリーは困惑しているのだろう。
仮にゼノスが白銀の聖騎士だとしたら、何故貴方は﹃最強﹄を貫
いてきたにも関わらず⋮⋮そのような弱さを握っているのだ、と。
世界を知らないロザリー、人間を知らないロザリー。彼女は詩や
本で活躍する聖騎士に尊敬を抱き、何の不安や絶望も知らない人間
だと認識しているのだろうか?
743
︱︱そんな人間、いるわけが無い。
現にゼノスは苦悩し、絶望と不安の中で生きている。彼女の幻想
を壊す気はないが⋮⋮これもまた現実である。
﹁⋮⋮﹃あいつ﹄の時代は、もう終わってるんだ。だからそんな卑
怯者には頼らず、お前は自分の力で生きるしかないんだよ﹂
﹁⋮⋮﹂
そして、彼はまた歩き始める。
何の感情も無く、ただただ歩を進めていく。
ロザリーはその背中に言う言葉が見つからず⋮⋮彼女もまた、ゼ
ノスの後を付いて行った。
744
ロザリー・カラミティ。
この日を境に、過去の自分を捨て⋮⋮ノルアと祖国の真実を探る
為に旅立って行った。
先も見えなければ、具体的な道も分からない騎士団での人生。
︱︱けれど、自分にはゼノスがいる。ラインという友達もいる。
彼等のおかげで⋮⋮今自分は生きていて、こうして歩んでいける。
745
⋮⋮だがそれ以上に、絶望に暮れるゼノスを見守ろう、この恩を
返し続けていこう⋮⋮そして、ノルアを救おう。そんな感情があっ
たからこそ、自分は前に進めているのかもしれない。
︱︱ロザリー・アリエスタ・ギルガントの物語は幕を閉じ︱︱こ
こに、ロザリー・カラミティの物語が始まったのである。
746
ep15 memory⑪ ︱王女の旅立ち︱︵後書き︶
画像掲載サイト﹁みてみん﹂にて、ゼノス︵聖騎士ver︶を掲載
しました。興味がありましたら、どうぞ拝見して見て下さい。
747
ep16 牢獄街
時はまた現在へと戻る。
およそ一時間は掛かったであろうロザリーの過去を聞き終えた後、
ゼノスとロザリーは少々沈黙していた。
⋮⋮何と言えばいいのだろうか。その経緯が余りにも壮絶で、上
手い言葉が見つからない。それ程までに、ロザリーの過去は酷過ぎ
た。
店内は食事を終えて帰る人で目立っていき⋮⋮気付けば静かな話
声さえも聞こえなくなった。
⋮⋮ゼノスはすっかり冷めてしまった薬草茶を啜り、脳内で話を
一通り整理する。それから衝撃の話に対する感想を口にした。
﹁あの国でそんな事があったのか⋮⋮。確かに邪教国家という噂は
748
耐えなかったが、それ関連でアルギナス牢獄連行部隊が動いていた
のか﹂
ゼノスは二年前のあの日、シルヴェリア騎士団から何の事情も知
らされず、ただ団長の命令で門前にて待機していろと言われていた。
⋮⋮まあ騎士団の会議にも参加せず、ずっとすっぽかしていたので、
その事実を知らなかったのは当然なのだが。
︱︱ライガン国王、及びノルア第一王女の行方。
⋮⋮そうか、やっと話が繋がった。
何故ロザリーがここまでアルギナス牢獄に拘り、無理やり付いて
来たのか?どうしてそんな必死の形相を醸し出しているのかを。
﹁︱︱ロザリーお前⋮⋮アルギナス牢獄で父親と姉を探す気なのか
?﹂
そんな辛い過去があったにも関わらず、それでも過去と向き合お
うとするロザリー。
非常に危険な行いだし、更なる精神的苦痛の展開が待ち受けてい
749
るかもしれない。ラウメ教信者であるライガン王がルードアリアを
崇拝しているとなれば⋮⋮大体最悪の予想が出来る。
︱︱魔王ルードアリアはギルガント王国と精通していて、ロザリ
ーの血族は間違いなく奴の侵略下にあったのだろう。⋮⋮いや正確
には、奴を信仰対象にしていた、だろうか。
ゼノスが心配なのは、その醜悪なる意志を剥き出しにした家族や
民を見て、ロザリーが狂ってしまわないかどうかだ。⋮⋮これは長
年の勘だが、牢獄の地下は凄惨な光景に満ち溢れていると思う。
﹁⋮⋮それでも、私は行く。その為に今日まで生きて来たのだから﹂
ロザリーは恐れも見せず、堂々とした態度で言う。
嫌な予感が尽きる事は無いが⋮⋮かと言って、今のロザリーを抑
える事も出来ないだろう。
︱︱過去との対決。それが果たしてロザリーにとって吉と出るか、
はたまた凶と出るか⋮⋮今の段階では分からない。
﹁⋮⋮ゼノスがそんなに思い悩む必要は無い。これは私自身の問題
⋮⋮貴方に迷惑を掛けさせない﹂
750
﹁いや、そういう事を心配してるんじゃない⋮⋮。第一ロザリーの
話を聞く限り、どうにも気になる点がある﹂
﹁⋮⋮気になる点?﹂
そう、ゼノスが悪寒を感じる原因は他にあった。
︱︱ライガン王は﹃シールカード﹄を手にしていて、啓示と称し
た声の主はロザリーを殺せと言っていた。
⋮⋮ゼノスはマルスに秘められた記憶を思い起こす。マルスもま
た不思議な声を聞き、それと同時にシールカードが舞い降りたとい
う⋮⋮。ライガン王の一件と妙に一致するのだ。
そして今回、魔王ルードアリアがシールカードを手にし、こうし
てランドリオ王国の新たな脅威となって襲い掛かって来た。
︱︱もしも、ライガン王が未だにアルギナス牢獄の地下に囚われ
ており、シールカードを持っていたとするならば⋮⋮⋮⋮ロザリー
にとって、最悪の真実が待ち受けているのは確かだろう。
751
﹁⋮⋮いや、やっぱり何でもない。根拠の無い話だし⋮⋮今のは忘
れてくれ﹂
﹁?﹂
だが今この事を彼女に話しても意味が無い。どちらにしても、彼
女は真実をその目で垣間見るまでは信用しないだろうし、ゼノスが
断言する権利も無い。
⋮⋮しかし、やはり危険過ぎる。
ゼノスは何とか彼女を踏み止まらせようと、あらゆる口実を画策
しようと︱︱
⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮そう思って、いたのだが。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮あ、あれ?﹂
752
嫌な冷や汗をかき、そんなゼノスを不思議そうに見つめるロザリ
ー。
一方のゼノスはというと⋮⋮ロザリーの遥か背後にある店の玄関
前、そこに仁王立ちし、怒りを露わにしている人物を発見し、恐れ
慄いていた。
組んでいた腕を解き⋮⋮ゼノスに向かって﹁こっちに来い﹂と手
招きしてくるのは︱︱︱︱紛れも無い、ゲルマニアであった。
ラインがしくじったのか、恐らくゲルマニアに脅迫されて店を教
えたに違いない⋮⋮じゃなきゃ、何故彼女がここにいるか説明が付
かない。
﹁あ⋮⋮あの、ロザリー?ちょ、ちょっと⋮⋮俺は、これにて失礼
するよ。会計は済ませておくから⋮⋮じゃあまた明日!﹂
﹁⋮⋮ゼノス?﹂
慌てふためくゼノスの挙動に対し、初めて見るゼノスの動揺に驚
きを隠せないロザリー。彼は青ざめた顔のまま、ロザリーと別れた。
753
︱︱ゼノスはその後、ゲルマニアの明朝にまでわたる説教と、ど
んな怪物の一撃よりも痛い拳骨を喰らったのだった⋮⋮。
︱︱時刻は午後四時前後、ゲルマニアの説教の後に軽く睡眠を摂
754
り、ゼノスはユスティアラ、ゲルマニア、ロザリーと共にアルギナ
ス牢獄へと向かっていた。
上層部の町を下り続け、その先には巨人の全長以上の高さを誇る
壁が広がり、その先にアルギナス牢獄は存在する。壁は牢獄全体を
覆う形となっており、壁の内側に入るには一つの大門を潜って行か
なければならない。
⋮⋮さて、この場所でどんな事態が起こるのか。ゼノスは嫌な予
感を拭い去れぬまま、例の大門前へとやって来た。
﹁︱︱ッ。これはユスティアラ様、ご足労を掛けます﹂
ユスティアラの姿を確認した門前の警備兵達は姿勢を正し、ユス
ティアラに敬礼を取る。
彼女は楽にしろ、と手で合図した。
﹁警備兵よ、事は急を要する。︱︱この門を開け放て﹂
﹁ははッ!﹂
755
彼女の威圧的な命令に従い、警備兵の一人はすぐさま上に向かっ
て大きく声を掛け、門を開けるよう指示する。
どうやら上にいる者達が人力で歯車を回し、その力によって門が
開かれる仕組みらしい。⋮⋮異世界の最先端技術を見てきたゼノス
にとっては、何とも古典的なものだと思ってしまう。
︱︱扉は徐々に唸りを上げ、開門していく。ゼノスはその間、自
分の後ろに付いて来るロザリーを見る。
昨日はあれで終わってしまったが、ロザリーはそれを気に掛けて
いる様子は無く、ただ沈黙を貫いている。
⋮⋮自分が予想する、最悪の事態が起きなければいいのだが。
そんな心配をよそに、大門は盛大に開かれる。ゼノス達は敬礼を
続ける警備兵の横を過ぎ、壁の内側へと入って行く。
﹁︱︱ここがアルギナス牢獄、ですか﹂
756
初めて見る牢獄の中に、ゲルマニアは意外だという表情を見せる。
牢獄の風景︱︱というよりも、これは一種の町に等しかった。
ゼノスもゲルマニアと同意見である。出店で商売をする人々、そ
れを買いに来る人々⋮⋮居住する為の家屋も存在している︱︱この
光景を一目見て、牢獄だと言う者は恐らくいないだろう。
ゼノス達が驚愕を示す中、先頭に立っていたユスティアラは後ろ
を振り向き、自分達に簡単な説明をしてきた。
﹁︱︱ようこそ、アルギナス牢獄へ。聖騎士共々、この光景に驚く
のは無理も無い話だ。⋮⋮だが無論の事、ここにいる者は全て囚人。
罪を課せられた愚か者共の巣窟だよ﹂
ユスティアラは牢獄全体を見回しながら、話を続ける。
757
﹁ここはアルギナス牢獄でも、軽い刑に処された者が住まう地区。
強盗、詐欺、傷害、その他諸々の軽度の罪を侵したものがいる場所
だが⋮⋮我々はただ牢獄に縛るだけでは更生の余地は無いだろうと
判断し、こうして一般人と変わらぬ生活を送らせている﹂
囚人は確かに罪を侵し、牢獄に閉じ込められるのは当然の報いで
ある。
しかし無用な犯罪を食い止めるには、牢獄の中で職を与え、経済
を築き、釈放された際にその力が発揮され、およそ犯罪から遠ざけ
ようという目論見で行っている。
︱︱この世界での犯罪者は、主に貧困者、又は戦争や内乱で職を
失った人々が大半を占めている。純粋に罪を重ねる者もいるが、そ
のような連中は当然の如く重い刑を科せられ、アルギナス地下牢獄
へと投獄される。
こうして自分や家族の為に犯罪を行った囚人は更生の余地有りと
判断され、隔離されながらも一般生活を送っているのである。
﹁へえ⋮⋮流石は世界最大の牢獄、﹃牢獄都市﹄と呼ばれるだけあ
るな﹂
758
邪教の取り締まりでは容赦無く悪人を捕える一方、貧困等から犯
罪へと走った囚人には福祉的措置を施す。ゼノスは聖騎士時代から
その施策を知っていたが、実際に見ると、その行いは素晴らしいも
のだと改めて認識する。
﹁︱︱で、俺達はこれからどうすればいいんだ?このまま地下牢獄
へ赴くのは愚の骨頂だぞ、ユスティアラ﹂
﹁無論⋮⋮そのような真似はせぬ。主な内部状況も何とか取得出来
たらしい為、我々はアルギナス牢獄内詰所へと直行する。そこで現
場監督兵長である私の部下から状況を報告させ︱︱そして地下牢獄
へと潜入する﹂
今後の概要に対し、ゼノス一行は素直に首肯する。当然、この事
に対して誰も異論を挟む者はいない。
﹁⋮⋮それに、ランドリオ本国から二名の客がやって来ていると聞
く。ゆったりと話す余裕は無いが、本国側からは必ず面会せよとの
通達を受けている﹂
﹁客、ですか?﹂
ゲルマニアは当然の疑問を投げかける。
759
客⋮⋮このような事態に、一体誰がやって来たと言うのだろうか
?ランドリオ本国から派遣されたというからには、相当な重要人物
だと思うが⋮⋮それが一体誰なのかは特定出来ない。
イルディエは最近ランドリオ近海に出没している大海賊、ワルシ
ャプラの掃討に出向いている最中だし、アルバートは村を荒らし回
っている神獣の討伐へと勤しんでいる。他の六大将軍も多忙な身で
あるし⋮⋮彼等で無いのは確かである。
⋮⋮何だか別の意味で嫌な予感がするゼノスであった。
﹁とにかく、実際に行くしかない。我々は強制を強いられていない
が、これは必須事項だ﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
ユスティアラの言う通り、こんな入口付近でいつまでも会話して
いる暇は無いし、まだ見ぬ者にいらん予測を立てる必要も無い。百
聞は一見にしかず、という言葉が今は相応しい状況だ。
ゼノス達は活気溢れる牢獄の町を通り、アルギナス牢獄内詰所へ
760
と向かう。
761
ep16 牢獄街︵後書き︶
画像掲載サイト﹁みてみん﹂にて、新たに﹁おまけ①﹂を掲載し
ました。勿論白銀の聖騎士に関係するイラストです。
762
ep17 状況把握
詰所へと到着したゼノス達は、現場監督を行っている人物と会議
室にて面会を果たした。
⋮⋮そこでゼノスは、予想していた現場監督兵長とは大いにかけ
離れている、とても変わった人物を目にする。
﹁あ⋮⋮あ、あのあの⋮⋮わ、私が⋮⋮その、現場監督兵長である
⋮⋮⋮⋮キ、キャリー・レミナと申しますっっ!﹂
﹁あ、ああ⋮⋮宜しく﹂
ゼノス一行を憧憬の眼差しで見つめ、戸惑った様子で自己紹介を
する女性︱︱キャリー・レミナ。彼女は特にゼノスを凝視し、はあ
∼という甘い吐息をつく。
見た目は⋮⋮ゼノスよりも一つか二つ年上だろうか。アルギナス
牢獄兵の正装に身を包み、片方の目には貫禄ある傷痕が残っている。
763
外見はユスティアラ以上に硬派であり、まさしく牢獄を束ねるに
相応しい出で立ちなのだが⋮⋮ゼノスの前では、とても挙動不審で
頼りない感じだった。
⋮⋮まあとにかく、自己紹介をされたからには、ゼノスも代表し
て自己紹介をしなければ。
﹁︱︱俺は六大将軍が一人、ゼノス・ディルガーナだ﹂
﹁は、はい!勿論存じております!﹂
キャリーはゼノスへと急接近してくる。
﹁わ、私ことキャリー・レミアは、貴方様の武勇に憧れ、村娘から
騎士へと成り上がった者でございます!聖騎士英雄譚の詩集、あ、
あれは特にお気に入りでして⋮⋮ッ!﹂
キャリーはまるで幼子の様に目を輝かせ、ゼノスに猛アピールを
繰り返す。
⋮⋮どうやら彼女はゼノスの大ファンらしく、本人と会えて心底
764
嬉しそうであった。
その反応を気に入ったのか、後ろで見届けるゲルマニアも若干誇
らしげだった。
﹁うんうん、分かりますよその気持ち。誰だってゼノスの英雄譚を
聞いてしまえば、悩殺確実ですからね。それにあの詩集に目を付け
るとは⋮⋮やりますね﹂
﹁ま、待て待て⋮⋮てか何だ、その詩集って﹂
ゼノスは自分の行ってきた出来事が、全て紙芝居や吟遊詩人の歌
として語り継がれている事は知っている。⋮⋮が、詩集が出ている
とは思わなかった。
別に嫌な気はしないが⋮⋮まあ今は状況が状況だし。
﹁︱︱キャリー、私情は慎めとあれほど言ったろう。それに今は勤
務中だぞ﹂
﹁⋮⋮はっ!そ、そうでした!申し訳ございませんっっ!﹂
765
ユスティアラに注意を促され、キャリーは過剰に頭を下げてくる。
﹁このような非常事態に私は何という事を⋮⋮。聖騎士様、このよ
うな愚かな部下を後でお仕置きして下さいっ!牢獄を百周とか、詰
所のトイレを手で磨けとか⋮⋮何でしたら、聖騎士様直々の鞭打ち
百回というアブノーマルなお仕置きも﹂
﹁だ∼もういいからっ!お前はドMかっ!?なぜそんな涎を垂らし
ながらお仕置きをねだって来るんだ!?﹂
つ、付いて行けん⋮⋮いくら許容範囲の広いゼノスでも、キャリ
ーの危ない申し出には頷く事も出来ない。
⋮⋮しかも、今の会話に何か不満を感じたのか、ロザリーが冷め
た目でゼノスを見つめてくる。
﹁⋮⋮ゼノス。もしこのアホ女にそんな事したら⋮⋮一生軽蔑する
から﹂
﹁しねえよっ!何だこの展開、お前達はこんなノリじゃないだろう
にっ!﹂
そうだ、いつもならゲルマニア達は冷静、且つ常識的な判断を行
766
った上で会話を進めてくれる。
なのに、この変な展開と来た。いつも日常的に鬱憤が溜まってい
るのか、今日の皆はいつになく本音を吐露している気がする。⋮⋮
残念ながら、ゼノスはそんな疲れそうな事に最後まで付き合う義理
は無い。
﹁︱︱も、もう面倒だから強引に話を進めるぞ。キャリー、俺達が
ここに立ち寄った理由は二つだ。一つ目はアルギナス地下牢獄の状
況、二つ目はここにいるという本国からの来客者、その方との面会
だ。さあ、一つ目はお前の役目だ。さっさと話してくれ﹂
﹁は、はは、はい!了解しました﹂
ゼノスはこれ以上変な出来事が起きない様、強引に話を要求する。
キャリーは詰まりながらも答え、精一杯に深呼吸をする。
﹁え、えっと⋮⋮ではさっそく、地下の状況について説明したいと
思います﹂
やっと本題に入り始めた。相変わらずキャリーは挙動不審である
が、多分これは性分なのだろうか。いかつい顔とは裏腹に、かなり
767
のギャップである。
キャリーは机の上に丸まった大きな紙を手に取り、それを会議室
に備えられたボードへと貼り付ける。
︱︱その紙には、アルギナス牢獄全体を模した断面図が描かれて
いた。
アルギナス牢獄街が上部に、そしてその下に広大な地下牢獄が展
開されており、地下の規模は牢獄街の二倍以上であった。
ゼノスも詳しい事は知らないが、アルギナス地下牢獄に連行され
る囚人は、軽犯罪を侵した者よりも数段多く、地下牢獄の収容率は
地上の倍だと聞く。⋮⋮この断面図では、それが顕著に表されてい
る。
キャリーは長細い木の棒を持ち、その先端をアルギナス牢獄街の
すぐ下、つまり地下牢獄の最上部を示した。
﹁今の所地上に大きな被害は出ておりません。⋮⋮しかし昨夜の事
ですが、地上から監視を続ける者の報告によると、この地下最上部
に﹃異形の形をした化け物達﹄が多発し始めたようです﹂
768
﹁⋮⋮化け、物?︱︱まさか﹂
ゲルマニアは途端に顔面が蒼白となり、事の重大さが如何に深刻
化しているかを体現している。
︱︱化け物。そいつらの正体こそ未だ不明であるが、牢獄にその
ような存在は収容されていない筈である。
⋮⋮考えられる事はただ一つ。魔王がシールカードを完全に掌握
し、その力を解き放った。その結果、異形の化け物が放たれた⋮⋮
こう解釈した方が納得がつくというものだ。
﹁それで、地下牢獄入口の守りはどうなっている?事と次第によっ
ては⋮⋮すぐにでも這い上がって来るぞ﹂
ゼノスの質問に対し、答えたのはユスティアラだった。
﹁入口の守りは万全⋮⋮だが相手はあのシールカード。いつ強襲し、
その勢力がどれほどかはまだ分からぬ。警備は完璧でも、奴らにと
っては脆弱かもしれん。なので上層部から兵士を可能な限り派遣し、
周辺の牢獄分所からも応援を頼んでおいた﹂
769
ユスティアラの推理、及び行動は素晴らしいものであった。伊達
に六大将軍を務めていないだけあって、相手を上手く見図り、相応
の態度を取っている。
︱︱本物の強者。それは恐れを知らず、果敢に強敵へと突っ込む
ような馬鹿では無い。それは無謀と言い、強さとは冷静な判断と気
丈な心から生まれてくる。
特に彼女は、その特色が色濃く出ている。迅速な行動、保障を積
み重ねた万全体勢、その方面に関してはゼノスも完敗を認めざるを
得ない。
﹁︱︱キャリーよ、最上部の詳細は把握した。次は中間、そして最
奥部についてだが⋮⋮何か報告はあるか?﹂
﹁い、いえ⋮⋮それは私達も把握出来ていません、ユスティアラ様。
先遣隊も送れない現状では何とも﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
確かに、先遣隊を送ればすぐに全滅となるだろう。それに、無闇
770
に入口の扉を開け放ってしまえば、地上の危険も更に上がってしま
う。
とはいえ、内部全域の詳細が分からなければ行動も起こしづらい。
最奥部まで丸一日というパターンも有り得るだろう。
はて⋮⋮どうしたものか。
﹁︱︱まあとにかく、先に二つ目を済ませておくか。ここに来客が
来ていると言う話だが、その方達と至急面会を﹂
と、ゼノスが言おうとした時だった。 ﹁⋮⋮ん?﹂
ゼノスは段々と近づいてくる声を察知し、耳を扉外へと傾ける。
771
﹃あ∼つまんないよお。ゼノス、早く来ないかなあ﹄
﹃あらあら。これでもう百二十四回目ですよ、その言葉は﹄
﹃だって⋮⋮。はあ、暇で仕方ないね⋮⋮また会議室のボードでお
絵描き勝負でもしよっか?﹄
﹃ふふ⋮⋮いいですよ。貴方様の命令には逆らえませんからね﹄
⋮⋮という聞き覚えのある声が聞こえ、足音が徐々に会議室へと
近づいてくる。
︱︱そして、威勢よく扉が開かれた。
﹁よ∼し、次こそ負けないよミスティカ!今度は⋮⋮⋮⋮って、あ
れ?﹂
﹁﹁﹁﹁⋮⋮﹂﹂﹂﹂
772
その二人の人物が入って来た瞬間、キャリー以外の四人の時間が
止まる。
﹁あ、丁度いい所に⋮⋮。み、皆さん、この方達が例の客人ですよ﹂
客人⋮⋮。
ゼノスは目の前に佇んでいる知り合い二人を見つめ、さっきから
感じていた嫌な予感の一つ、その正体が何だったのかを悟った。
一人目は先程名前で呼ばれていた通りの人物、ミスティカだ。
そしてもう一人︱︱綺麗な蒼色の長髪に、動きやすい女性用の旅
装に身を包んだ少女。
﹁あ∼やっと来たね、ゼノス。もう遅いよお。私、待ちきれなかっ
たんだからね?﹂
773
﹁⋮⋮⋮⋮アスフィ。お前、来ちゃったのか﹂
ゼノスは疲れ切った声で呟き、深く溜息をつく。
三週間前まではゼノスの宿敵であり、ランドリオと敵対する敵の
親玉でもある彼女︱︱始祖アスフィが目の前にいて、満面の笑みを
見せていた。
774
ep18 開戦
ゼノス達はキャリーを抜いて、アスフィとミスティカを連れてユ
スティアラの執務室にやって来た。
キャリーを省く理由は勿論、アスフィが始祖だと気付かせない様
にする為である。彼女が来たという事は、恐らくそれに関連する話
だと思うから。
⋮⋮で、ミスティカから大体の経緯を聞き、彼女等を遣わしたの
は皇帝陛下自身、アリーチェの命令だと分かった。
アリーチェは念には念を入れ、ミスティカの持つ能力が牢獄の侵
入に役立つだろうと判断し、内密に派遣したらしい。︱︱その判断
はゼノス達としては喜ばしい事であり、彼女の透視を以てすれば深
部の状況把握も可能となる。この際、ギャンブラーである彼女が暴
れ出すかもしれないという危惧は、ミスティカを信頼した上で棚に
上がるしかない。
ミスティカがやって来た理由は把握したゼノス達。
775
︱︱だが、もう一方の人物については⋮⋮
﹁⋮⋮で、お前が来た理由は何なんだアスフィ?俺はここに来る前、
絶対に付いて来るなと言いつけた筈だが?﹂
﹁えへへ⋮⋮だって気になって仕方ないんだもん﹂
﹁気になって⋮⋮⋮⋮はあ。もう少し自分の立場というものを理解
してほしいものだな﹂
アスフィ︱︱もとい始祖は、三週間前に皇帝アリーチェと密約を
交わし、共にシールカードを打倒しようと共同戦線を張っている。
その事実は勿論公式で発表はせず、密約に関しては皇帝陛下、六
大将軍、一部関係者のみにしか伝えられていない。⋮⋮もし始祖が
仲間になった、なんて豪語してしまえば、あらゆる勢力が猛反対を
しかねない。
とどのつまり、本来アスフィは自由奔放に城を出れる立場ではな
い。始祖の外見は一般民に知られてはいないが、僅かな事で正体を
知られる可能性もある。
776
﹁まあまあ聖騎士殿、アスフィ様は何の意味も無くここまで来たわ
けではありませんから⋮⋮。ね、アスフィ様?﹂
﹁勿論だよ!てなわけでゼノス、ちゃんと私の話を聞いてよ?﹂
と、アスフィは頬を膨らませながら言ってくる︵ちょっと可愛い
と思ってしまったゼノス︶。
⋮⋮いつもの事ながら、アスフィと話すとどうも調子が狂う。
二年前の始祖、現在の始祖︱︱あまりにも似つかなくて、まるで
あの死闘が嘘だったかのように錯覚してしまう。
しかもこの笑顔が、声が、話し方が、何だか心地良いと思ってし
まう自分がいるのだ。⋮⋮何故だかは全く分からないが。
﹁ゼノス、呆けてるけど大丈夫ですか?昨日はその、私も配慮の足
りない行いをしてしまいましたし⋮⋮﹂
ゲルマニアは申し訳なさそうに言う。︱︱昨日とは、恐らく説教
777
が長引いた事を言っているのだろう。
﹁ああいや、それに関しては気にしてない。もう眠くないし、会食
をサボった俺にも原因があるしな﹂
﹁そう、ですか⋮⋮﹂
やはり罪悪感があるのか、終始落ち込み気味なゲルマニア。
⋮⋮まあいいや。とにかくアスフィに関して気にしてても仕方が
ない。
﹁悪いなアスフィ。話してくれ﹂
﹁う、うん。︱︱でね、私がここに来たわけなんだけど﹂
アスフィは右手の人差し指を微妙に動かし始める。
﹁わ、わわっ﹂
ゲルマニアが焦りの声を出し、ゼノスは彼女に視線を向ける。
778
︱︱すると、ゲルマニアの眼前に﹃騎士のシールカード﹄が浮遊
していた。これはゲルマニアのポーチに入っている筈だが⋮⋮どう
やらアスフィはその力でカードを出したようだ。
﹁ほう、これがシールカードという代物か。⋮⋮とてつもなく危険
な匂いを放っているな﹂
﹁⋮⋮ユスティアラにも分かるか、この圧倒的な力を﹂
このシールカードは何度も見ているが、カードから発せられる力
にはどうも慣れる気配が無いゼノス。⋮⋮いや、別に慣れたくもな
いが。
騎士のシールカードに関して何を言いたいのか。一見何もなさそ
うに見えるが⋮⋮当のアスフィは難しい表情をしていた。
﹁⋮⋮ねえゲルマニア。この三週間、一度でもシールカードが光り
出した事ってある?﹂
﹁へ?いえ、そんな事は無かったですけど﹂
779
﹁⋮⋮やっぱりね﹂
アスフィは独り納得する。
﹁︱︱ゼノス。本来シールカードというのはね、ギャンブラーを見
出した場合は主の魂へと宿る物なんだよ。⋮⋮でもこのシールカー
ドは宿るどころか、光り輝く事もしない⋮⋮この意味、分かるかな
?﹂
アスフィの鋭い指摘に、思わずゼノスは唸りを上げる。
そういえば⋮⋮そうだ。盗賊のカードを所持していたマルスも、
自分の意志でカードを出現させ、自由自在にカードを操っていた。
彼に従属するシールカードの戦士もいなかったし、たった一人でカ
ードを支配していた事になる。
しかし、ゼノスには未だその権限が存在しない。
⋮⋮おかしいとは思っていた。ゲルマニアの鎧も時間制限が厳し
く、上手く使いこなせていないと感じてはいたんだ。
﹁もしかして俺は⋮⋮まだカードに主だと認識されていないのか?﹂
780
ゼノスがそう言うと、アスフィは首を横に振る。
﹁いや、それは無いと思うよ。使用制限は恐らく同調が不具合を起
こしているせいだろうし、ゲルマニア本人がゼノスを認めている以
上、貴方は間違いなく騎士のギャンブラーだよ﹂
﹁そ、そうですよゼノス!私もシールカードについてあまり存じま
せんが、きっと何か理由があって⋮⋮っ!﹂
ゲルマニアが必死にゼノスを擁護する。
彼女がそこまで言ってくれるのは嬉しいが、ならどうしてカード
は反応せず、ゼノス自身と同体化しないのだろうか?
﹁⋮⋮私も推測でしか言えないけど、ゼノスはもしかしたら⋮⋮何
か不安を抱えているんじゃないかな?自分でも把握出来ない⋮⋮底
知れない不安に。主の感情がシールカードに影響する事もあるから
ね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮不安、か﹂
不安なんて沢山あるに決まっている。
781
戦いに対する恐怖、果てない未来に潜む衝撃の事実、数え切れな
い程の負の感情が込み上がるのは⋮⋮人間として当然の事である。
︱︱でも、確かに嫌な予感を継続的に感じ続けている。
上手く言葉では表せない⋮⋮戦いに躊躇を持つような何かが待ち
潜んでいるような⋮⋮そんな感覚が。
﹁⋮⋮ゼノス﹂
﹁ふう⋮⋮ま、今は深く悩み込んでも仕方ないよ。とりあえず、シ
ールカードを完全に扱えきれない今、魔王に挑むのは困難を極める
かもしれない﹂
そこで、とアスフィは快活な笑みを浮かべ、ぎゅっとゼノスの腕
に抱き着いてくる。
︱︱そして、アスフィは爆弾発言をした。
782
﹁てなわけで︱︱私も付いて行くからね!﹂
⋮⋮その瞬間、全員の思考が止まった。
特にゼノスは口をあんぐりと開き、何か聞いてはいけない事を聞
いた、という表情である。
﹁⋮⋮お、お前⋮⋮ほ、本気?﹂
﹁勿論本気だよ!こう見えても私、強いんだから!ゼノスはよく知
っているよね?︱︱それに、カードに関する力の補助も出来るし﹂
それは確かに有り難い事であるが、いくら何でも唐突過ぎる。⋮
⋮あと知っているどころか、ゼノスはアスフィと死闘を繰り広げた
仲である。
﹁って、待て待て。まさかアスフィ、お前も闘う気なのか?﹂
﹁当然!だって言ったでしょ?シールカードの暴虐を止める為に、
私自身も協力するって﹂
783
それはそうだが⋮⋮アスフィ自身が動く、それには幾つかの弊害
が存在するに違いない。︱︱始祖だと他人に気付かれないか、彼女
の力が僅かな出来事で暴走しないか⋮⋮そして何よりも、残虐非道
な始祖に戻ってしまわないか。
難点は沢山ある。なのでここは止めなければ︱︱
﹁︱︱ふむ。許可するぞ、始祖よ﹂
﹁なっ⋮⋮ユスティアラ。分かっているのか、こいつが動けば⋮⋮
っ﹂
﹁⋮⋮それは承知している。だが今は一人でも戦力が欲しい。それ
が例え、災厄の根源たる始祖であってもな⋮⋮﹂
﹁⋮⋮くっ﹂
どうやらユスティアラは、酔狂でアスフィを使おうとしているわ
けでは無いらしい。確かに人目に関しては左程気にする心配も無い
が⋮⋮。
784
﹁⋮⋮でもやはり﹂
﹁ゼノス、考える暇は無いよ。︱︱どうやら、魔王も動き始めたよ
うだね﹂
﹁え?﹂
アスフィが途端に真剣な表情をし始める。彼女の言い放った疑問
符を浮かべる一同であったが︱︱その理由はすぐに分かった。
会議室の扉が荒々しく開けられ、そこから血相をかいた兵士が入
って来た。
﹁どうした、何事だ?﹂
ユスティアラが冷静に質問すると、兵士は姿勢を正し、早口で告
げた。
785
﹁はあ、はあ⋮⋮ご、ご報告いたします。今先程地下牢獄への扉が
打ち破られ、大多数の化け物共が地上へと飛び出してきました!﹂
﹁︱︱︱︱ッ﹂
兵士の報告に、ゼノス達は一様に緊迫感を持ち始める。
遂に始まったか、最悪の事態が。まさか自分達が行く前に現れる
とは⋮⋮。
﹁現場の状況は?﹂
﹁はっ、只今駐屯兵が交戦中です。扉付近に住まう囚人達は至急壁
側に避難させています!﹂
﹁⋮⋮宜しい。化け物の掃討については我々の到着まで死守せよ、
配備した大砲や爆弾の使用も許可する。そして非難させた囚人の中
に怪我人、及び精神異常を起こす者もいるかもしれん⋮⋮至急、上
層部から医療部隊の派遣も要請しろ。分かったか?﹂
﹁はっ、お任せください!﹂
786
ユスティアラの適格な指示に頷き、兵士は早々と立ち去って行く。
⋮⋮あの兵士の言った事は本当のようだ。外から戦闘の音が聞こ
え、囚人達は悲鳴を上げている。
﹁︱︱よし、参るぞ聖騎士。向かうは争いの権化⋮⋮魔王ルードア
リアの元へ﹂
﹁ああ。ゲルマニア、ロザリー、アスフィはすぐに戦闘準備を。ミ
スティカはすまないが、最深部の情報に関しては地下牢獄内にて聞
かせてもらう。遠距離からの連絡も⋮⋮確か出来たよな?﹂
﹁ええ出来ますとも。では、連絡についてはアスフィ様を通じて行
って下さいませ﹂
﹁分かった。︱︱では、行こう!﹂
ゼノスは、ゲルマニア、ロザリー、そしてアスフィを連れて詰所
を出ていく。
正直、ロザリーとアスフィには不安な面もあり、出来るならばこ
787
の場において行きたいという念に駆られてしまう。
⋮⋮いや、もう考えるのはよそう。
短絡的な考えだと思うが、その場の勢いでなんとかなるかもしれ
ない。
そう︱︱信じたい所だ。
788
ep19 残酷なる虐殺劇
ゼノス達は全速力で駆けつける。
悲鳴の叫びを上げながら逃げていく囚人達、それらを何とか掻い
潜りつつ、一刻も早く、早くという気持ちで走り抜ける。
そして︱︱ゼノス達はその圧倒的な光景を目にする。
﹁︱︱ぐっ、耐えろ。耐え抜くんだ!ユスティアラ様達が来るまで
持ち堪えるんだ!﹂
﹁く、くそおおおっっ!何なんだ、こいつ等はっ!!﹂
現場は壮絶なものだった。
地下牢獄前の広場はとても広く、およそ大貴族の屋敷を一件建築
出来る程である。そこで化け物共と兵士の対戦は繰り広げられてい
るが⋮⋮兵士は既に疲弊し尽くし、半分が血の海に飲まれており、
もう半分は血だらけになりながら対抗している。
789
そして対する化け物共⋮⋮こいつ等を一目見た途端、ゼノスとユ
スティアラに動揺が走る。
﹁⋮⋮やはり悪魔か﹂
﹁⋮⋮⋮⋮メドゥーサにインプ、イフリートに⋮⋮ケルベロスやベ
ヒーモスまでいるのか﹂
ユスティアラが述べた悪魔の名称は、全てが上級ランクに属する
悪魔達である。通常ならば数年に一回、闇が渦巻く地にて一匹のみ
が降臨される存在だが⋮⋮さしものゼノスも、ここまで多くの悪魔
を見た事が無い。
﹁成程な⋮⋮流石は魔王ルードアリア、と言っておこうか。だが、
少々やり過ぎだな﹂
⋮⋮そんな六大将軍の冷静さを見て、ゲルマニアやロザリーは思
う。
自分達はこの圧倒的な光景に畏怖を感じ、先程から足の震えが止
まらない。なのにこの二人は⋮⋮まるで悪戯をする子供を見咎める
様な、そんな軽い気持ちでいるのだ。︱︱通常ならば有り得ない感
790
覚である。
﹁ふむ、悪魔の数は⋮⋮ざっと三百⋮⋮いや、三百と五十か。聖騎
士、悪魔の鎮圧を︱︱このユスティアラに任せてもらえないか?﹂
﹁⋮⋮え?で、ですがユスティアラ様。この数はいくら何でも﹂
︱︱と、ゲルマニアは止めようとする。しかしそれをゼノスが手
で抑制してきた。大丈夫だ、とゲルマニアに言い聞かせ、ユスティ
アラに視線を移す。
その表情は⋮⋮不敵な笑みに満ちていた。
﹁⋮⋮﹃肩慣らし﹄をしたいんだな?﹂
﹁その通り。ここ最近は人を斬らず、化け物を斬らずの日々であっ
た。⋮⋮故に、目の前にいる﹃弱者﹄で調整を行おうと思っている﹂
﹁ああ∼確かに調整はやった方がいいしな。俺達はこの場に待機っ
てことでいいのかな?﹂
﹁そうしてくれ。︱︱では﹂
791
ユスティアラは短くそう答え、ゼノス達を置いて戦争の最前線へ
と赴いて行く。
その後ろ姿を見守るゼノス達。⋮⋮ふとゼノスがゲルマニアを見
やると、彼女は心配そうにユスティアラを見据えていた。
ゼノスは溜息をつき︱︱彼女の頭を軽く小突く。
﹁あいたっ。⋮⋮な、何するんですゼノス?﹂
﹁お馬鹿、そんなにユスティアラの心配をしなくても大丈夫だって。
⋮⋮何せあいつ、俺と何度も手合せをしてきたが、その内何回かは
引き分けだった程だからな﹂
﹁そ、それは凄い事ですけど⋮⋮相手はあの悪魔ですよ?しかも何
百匹もの数ですよっ!?﹂
これはゲルマニアの故郷、エトラス村で語り継がれてきた話だが
⋮⋮悪魔は一匹で何百人もの人間を一瞬にして屠り、その邪悪な力
は世界を滅ぼす力を有しているとさえ言われてきた。
792
そんな化け物をたった五百人で対抗しているのは凄い事だが⋮⋮
いくら六大将軍であっても、一人の力で戦局が変わるとは到底思え
ない。
﹁⋮⋮だから心配するなって。今から行われる戦いを見ていれば、
そんな事も言えなくなるから﹂
﹁え⋮⋮?﹂
ゼノスはそれ以上言葉を発さず、静かに戦場を見据える。愛剣の
リベルタスには手も添えず、自分の戦場はここで無いという態度で
あった。
そこまで言われてしまっては、流石に言い返す事も出来ない。隣
のロザリーも無言を貫いている為、ゲルマニアもそれに従う羽目と
なる。
︱︱さあ、虐殺劇の開幕だ。
血も涙も無ければ、一切の妥協も許さない。ただ目の前の獲物を
斬り裂き、痛ぶり、激痛の果てに絶命させる。
793
六大将軍が一人︱︱ユスティアラの﹃狩り﹄が始まる。
ユスティアラは一歩、また一歩と戦場に向かう。
戸惑いはしない、恐れはしない。苛烈する悪魔と兵士達の戦︱︱
その目前の様子を鋭い目つきで睥睨し、冷静沈着を何とか保たせる。
794
我が同胞をこんなにも殺した恨み、憎しみ、願わくば悪鬼の如く
攻め入り、あの醜い化け物共を皆殺しにしたい気分だ。
⋮⋮だが、それは彼女の流儀に反する。
ユスティアラが六大将軍の座に着き、様々な化け物共を打ち倒し
⋮⋮そして、聖騎士ゼノスとの手合せで引き分けにまで追い込んだ
所以︱︱それは彼女の冷静さと深い関わりがある。
静と動、この相反する原理を一体と考える。大自然と一体になり、
己が力として吸収する。
︱︱そう、例えばこんな風に。
ユスティアラは繰り広げられる戦場を前にして歩みを止め、持っ
ていた刀を頭上高くに持ち上げる。
⋮⋮そして、その刃に微かな冷気が宿る。
795
﹁⋮⋮新春を待ち望む、それは貴様等の様な愚者が望んで良い事で
は無い。︱︱真冬の息吹に飲まれ、永久に眠れ﹂
放たれる言葉と同時に、ユスティアラの剣閃が舞う。
兵士達は戦いを止め、肌で感じる微かな寒気に息を呑む。外的な
寒さもあるが、精神を凍り付かせる様な雰囲気が彼等を襲う。
⋮⋮しかし、それは彼等にとって救いの予兆である。
振り下ろされた彼女の刀、その刃に刻まれた冷気は空を走り抜け、
容赦なく悪魔達の全身を通り過ぎていく。
︱︱それは一瞬だった。
796
気付けば三百以上いた悪魔の半分は、一瞬して氷の牢獄に閉ざさ
れ、絶対零度の死が化け物共に降りかかった。
﹃ナ、ナンダコレハ⋮⋮﹄
﹃サムイ⋮⋮クルシイ⋮⋮アア、イタイ、イタイ、イタイ⋮⋮ッ!﹄
﹃ダレダ⋮⋮イッタイ、ダレガ﹄
何とか生き永らえた悪魔共は動揺の呻きを上げる。
絶対の恐怖を人間に与える筈の悪魔が、一人の人間が放つ氷の剣
閃によって恐れ慄き、震え上がっている。
︱︱その一方で、アルギナス牢獄兵達は歓喜の言葉を放っていた。
我等が仕える誉れ高き将軍が来てくれた。化け物共よ、ユスティ
アラ様を前にして生きて帰れると思うなよ、等々⋮⋮彼等は声高々
に叫ぶ。
797
そんな兵士達に、ユスティアラは戦場に響き渡る程の声で宣言す
る。
﹁︱︱我が同胞よ、よくぞ耐えてくれた。此度の戦、今よりこのユ
スティアラが調停する。お前達は牢獄内全域に散らばり、牢獄街に
放たれた少数悪魔の個々撃破に向かえ!﹂
﹁︱︱はっ、了解!﹂
こうして、悪魔達がユスティアラの殺気に動揺している隙を狙い、
兵士達はすぐさま散開していく。
それを合図としたのか、悪魔達は標的をユスティアラに定め、喧
しい奇声を上げながらユスティアラへと襲い掛かる。ここでやらね
ば、一瞬の間にて全滅してしまう。やらねば⋮⋮今すぐに!そんな
思いが焦燥と化し、無謀な突進を展開させる。
﹁︱︱愚かなり。己が力量を図れぬとは⋮⋮うつけ以下よ﹂
どこまでも冷静なユスティアラ。だが目の前には悪魔の大群が襲
撃していて、その先頭を仕切るキマイラが炎の吐息を吐き出す。
798
﹁微々たる哉、この児戯に等しい一撃。︱︱払え、風よ﹂
彼女はただ一閃する。︱︱静かに、ゆったりと。
それだけで彼女の周囲に竜巻が発生し、業火の炎は竜巻の盾に衝
突して霧散してしまう。幾千人もの人々を焼き殺したキマイラの炎
を、一瞬にしてだ。
ユスティアラは左足をバネに、自らが創り上げた竜巻を突き破っ
ていく。そのまま全速力で敵軍の懐へと潜り込んだ。
﹃︱︱グ、ギ?﹄
キマイラの目前にて抜刀の構えを取るユスティアラ、その姿を認
識したキマイラは、その猛き爪を振り上げようとする。
しかし︱︱彼女にとっては既にどうでも良い事であった。
﹁⋮⋮狂い咲くは鮮血の花﹂
799
ユスティアラは抜刀する。刃はキマイラの肉を斬り裂き、一秒も
経たない内にそいつを十六等分の肉塊へと変化させる。
﹁⋮⋮咲き誇れ、どこまでも紅く﹂
彼女は疾風と共に消え去り、疾風と共に悪魔共の目前へと現れる。
血塗られた刀身は更に血を欲し、脆弱な弱者共を殺戮していく。
三⋮八⋮⋮十七⋮⋮⋮⋮三十二。
止まらない。刀の舞が、ユスティアラの虐殺劇が。
﹁⋮⋮狂おしき花弁は荒々しく散り﹂
800
地上の悪魔達はその凶器に斬られ、その全身から生暖かい血を噴
出させていく。
残るは空中に潜む悪魔共。奴らもまた空から猛攻を繰り返してい
るが⋮⋮残念な事に、その攻撃が彼女を掠める事も無かった。
﹁⋮⋮天には紅蓮の花火が立ち上がる﹂
ぐっと柄を握る手に力を籠め、上半身を軽く後ろに反らす。血染
めの刃を天空にいる悪魔共に向かって︱︱投擲。
刃の切先から異様な光を放ち、ユスティアラの刀は無数の氷柱と
化す。数多の氷柱は悪魔の反撃をも許さず⋮⋮鋭利なそれに貫かれ
る。
一切の悲鳴も、嘆きの念も、許しを乞う事もさせぬ。ユスティア
ラの裁きが具現化され、天にいた悪魔共はその原型を留める事は無
かった。
801
ただ宿主を失った血液が血の雨となり︱︱静寂と化した戦場に降
り注ぐ。
﹁︱︱風情ある終焉。これ即ち、卑しき悪魔にはお似合いよ﹂
総勢三百程の悪魔達。
それらは一人の六大将軍によって、僅か数十秒で全滅した。
﹁︱︱どうやら、全部片付けたようだな﹂
粗方始末した事に気付いたのか、ユスティアラの背後にはゼノス
達が佇んでいた。ゼノスは軽いノリで声を掛けてくる。⋮⋮だがゼ
ノス以外は、すっかりユスティアラの華麗且つ残酷な戦いを見せつ
けられ、畏敬の念を込めた表情でいた。
802
投擲したはずの刀を自身特有の力によって新たに復元させ、それ
を柄に納めるユスティアラ。長い黒髪を手で払い、涼しげな様子で
答える。
﹁ふむ、丁度良い肩慣らしにはなった。⋮⋮しかし安心はまだ出来
ん。これだけの悪魔がいるとならば、地下牢獄には更に多くの悪魔
がいると考えた方が無難だ﹂
﹁そうだな⋮⋮。だが一体、あれほどの悪魔をどうやって召喚した
んだ⋮⋮﹂
いくら魔王といえど、悪魔の召喚にはそれなりの代償を要する。
命、金、人間、財産等⋮⋮種族によっては大いなる代償を払わなけ
ればならない。
︵⋮⋮これも、シールカードの力なのか︶
詳しい原理こそ定かではない。しかしそれ以外に有り得ないとい
うのも事実。
侮れない。恐らくユスティアラも同じ考えであろう。圧倒的勝利
を収めたにも関わらず、その表情に余裕は見られなかった。
803
804
ep20 王家の宿命
深き混沌の闇。もし世界が夜闇に満ちていたら、これ程までに陰
気で、悪寒と恐怖しか感じられない空間と化していたのだろうか⋮
⋮。
︱︱ここはアルギナス地下牢獄、その最深部に位置する階層。
元々牢屋だったこの場所は、今蔓延る主によって作り変えられ、
牢獄街同様⋮⋮もはや牢獄とは思えない光景であった。
漆黒の石壁、改装されたその空間は、王座の間と言っても過言で
は無い。紫色の炎が灯るシャンデリアが辺りを隠微に照らし、その
元に数十もの悪魔が玉座を前に頭を垂れている。
どれもが神話や伝説に名を連ねる猛者ばかり。玉座に座る一人の
男に対し、彼等は否応なく膝を付いている。
﹃⋮⋮魔王様、身体の具合は如何でしょうか?﹄
805
悪魔の一人が玉座に座る彼︱︱魔王にそう尋ねると、魔王は右手
をぐっと握り、そして開く。その行動を何回も繰り返した上で、彼
は短く答える。
﹃︱︱上出来である﹄
﹃左様ですか。⋮⋮しかし、御身はまだ転生されたばかりの身。無
理な行為は慎まれますよう﹄
﹃ああ、分かっている。神が授けてくれたこの身、一つの傷も付け
ぬ。貴様等を従え⋮⋮魔の蔓延りし世を築いてみせよう。︱︱それ
こそが神の願望であり、恒久の平和を導く﹄
魔王はその場から立ち上がり、大剣を正面に向ける。
その禍々しき声音で、全悪魔に宣言する。
﹃︱︱いざ進め。向かうは忌々しき最強の救世主⋮⋮六大将軍の元
へ赴き、我の面前にその首を示せ﹄
806
﹃仰せのままに︱︱魔王様﹄
悪魔共は一斉に呼応する。
進め、そして殺せ。あの憎たらしい人間共を。我等が願う悪魔の
世界を創造する為に、我々はこの化け物の姿で戦う。
後悔も無ければ、悲壮も無い。
︱︱もう、﹃人間﹄だったあの頃を懐かしむ事は⋮⋮有り得ない。
807
全ての悪魔が部屋から消えた後、魔王は一人でに笑う。
⋮⋮何て自分は、強運の持ち主だろう。
あの日、この牢獄を管理する者共に捕えられ、牢屋に入れられた
時には絶望し、悲しみに暮れたものだった。
何の為に神を信じたのだ?こうして無残に捕えられる事こそが、
我等の信じてきたものの結果なのか?
それは自分だけでなく、同じ運命を歩んできた者も同様であった。
︱︱だが、奇跡は唐突に訪れた。
808
すっかりと憔悴し、意識が遠のく中で⋮⋮自分の目前に誰かが佇
んでいたのだ。
勿論、牢屋の中には自分一人しかいなかった。しかし、その頃の
自身はそれさえ考える気すら持っていない。
⋮⋮もしや、貴方様は。そう口にすると⋮⋮その男はこう答えた。
﹁⋮⋮ええ、そうですよ。私はギルガントの戒律を創造し、貴方達
の祖先にその教えを授けた者です﹂
嗚呼⋮⋮アア⋮⋮こんな事があっていいのか。
今目の前にいるのは、我等が長年崇めてきた︱︱神そのもの。
待っていた、ずっとこの日を待ち望んでいた。
809
﹁⋮⋮可哀想に。こうして何の見返りも無く、ただ私を崇めて衰弱
していく。︱︱そのカードを扱えないばかりに、真の力があるにも
関わらず﹂
男は片膝を付き、横たわる自分の頭を撫でてくる。
とても愛おしく、愛する我が信仰者に最上の慈しみを与える。
その顔に︱︱狂気に満ちた笑みを浮かべて。
﹁でも安心しなさい、我が僕よ。︱︱もしその力を行使したくば、
もし世界に我が教訓を知らしめたくば⋮⋮この身を授け、その力を
開花させてみせましょう﹂
御身をこの自分に授ける。自分はそれを聞いた瞬間、失いかけて
いた野望が再臨し、潔く答える。︱︱任せて下さい、と。
810
嗚呼⋮⋮どんどんと自分の身体が消えて行く。これは夢か現実か、
はたまた魔術の類なのか、それは自分の知り得る事では無い。
⋮⋮でも、心が離れていく。古き体と別れ、新たな体として生き
ると、それだけは分かっていた。新たな体︱︱すなわち、我等が神
である彼として、世界にその素晴らしさを教えていくのだと。
﹁⋮⋮さようなら、ライガン王。この私︱︱﹃ルードアリア﹄と共
に生きよう﹂
そして︱︱ギルガント国王ライガンは、ルードアリア本人の意志
811
によって魔王となった。神身はカードに光を宿らせ、長い日数を経
て⋮⋮ようやくこの﹃悪魔のシールカード﹄の力を発揮させる事に
成功した。
︱︱﹃悪魔のハート、魔の行軍﹄。
カードに封じられた悪魔達はその身を露わにし、世界を貪る為に
大群と成し、人々を喰らっていく。
その素晴らしき力に、魔王ライガンは自然と笑みがこぼれてしまう。
﹁︱︱悲しい姿ね、父様。戒律に囚われた⋮⋮哀れな人﹂
ふと、玉座の後ろから哀れみの声が響き渡る。
とても凛としていて、この闇に満ちた空間には合わない声音。
﹁⋮⋮何とでも言うが良い、裏切り者。本当ならば貴様⋮⋮とうの
昔に骸と化しているのだぞ﹂
812
魔王ライガンは不満そうにそう述べ、ちらりと後ろ向く。
壁には人間を束縛する拘束具が備えられていて、そこには既に縛
られている者がいた。
︱︱埃に塗れた銀髪、美しかったであろうその肢体は痩せ細って
いる。恐らく数年の歳月を掛けてこの牢屋に住まい、精神的苦痛が
彼女を襲ったのだろうと⋮⋮その身が如実に表していた。
だが、魔王ライガンに向ける眼光は誰よりも鋭く、生気に満ち溢
れていた。
︱︱ギルガント第一王女、ノルア・セレウコス・ギルガントの成
れ果てた姿であった。
﹁⋮⋮なぜ今殺さないのかしら。私は国の邪教信仰を、シルヴェリ
ア騎士団を介して密告した身よ?この世に未練が無い今⋮⋮いっそ
のこと、殺してくれた方が幸せなのに﹂
813
﹁くく、早まるでないノルアよ。この日、この時⋮⋮私がやり残し
た事を貴様は見守らなければなるまい﹂
﹁⋮⋮やり残した、事?﹂
ノルアはハッとし、震える声音で呟く。
﹁ま、まさか⋮⋮﹂
彼女は思い起こす。︱︱二年前の惨劇、宿命に従った妹の処刑。
それは行われる筈だったが、その野望は呆気なく崩れ去った。
︱︱ライガン王が後悔し、宿命に駆られる理由⋮⋮ある一点以外
は考えられない事である。
﹁ロ、ロザリー⋮⋮が﹂
妹が、ロザリーが今この場に来ているとでも言うのか?
814
もしそうだったら、何て因果なのだ。何て宿命の深さなのだ。運
命はそこまでして、ギルガント王家同士の争いを望むのか?
⋮⋮馬鹿げている。自分は妹に自由になって欲しくて逃がしたの
に⋮⋮こんな運命は、余りにも酷過ぎる。
﹁にしても⋮⋮お前の姉妹愛には恐れ入る。︱︱二年前のあの日、
自らも邪教に加担していたにも関わらず⋮⋮⋮⋮妹の為に、その身
が連行される事を覚悟した上で密告するとはな﹂
ノルアの滑稽さに、魔王ライガンは高々と嘲け笑う。
彼女がこうして牢獄にいる理由⋮⋮そう、二年前の話である。
王女ノルアは所属していた駐屯騎士団を利用し、牢獄都市アルギ
ナスに邪教崇拝の真実を密告しようと動いていたのだ。
⋮⋮王国の真実を証明する為に、ノルアは自分の身体を汚し続け
てきた騎士を頼った。邪教と確証させる為に、ノルアはライガン王
の許可を得て邪教徒の一員にも加わった。
全ては自らの復讐⋮⋮そして、愛しい妹を救う為にやって来たの
だ。
815
︱︱それなのに。
﹁とんだ浅知恵だったな、ノルアよ。⋮⋮娘ロザリーは、ああ見え
て執念深い性格よ。私を殺す為ならば、地獄の果てまでも追い駆け
てくるに違いない。⋮⋮父娘共々、正気の沙汰では無いなぁ。くく、
くくく﹂
﹁︱︱ッ。知った風な口を⋮⋮貴方にロザリーの何が分かると言う
の!﹂
ロザリーは体全体を前へと押し出し、激昂する。
妹は好きで執念を燃やしているわけでは無い。あの子はどこまで
も純粋で、優しい子だった。
そんな妹を復讐鬼に変えたのは︱︱この外道のせいだ!!
﹁はっはっはっ!醜い、誠に醜いものだ!貴様は我がギルガント家
の恥であり、戒律を破りし愚か者⋮⋮悲痛に叫びながら、そこで妹
の死を眺めているが良い﹂
816
﹁⋮⋮ライガンッ。貴方と言う人は⋮⋮ッ!!それでも実の父親な
の!?﹂
ノルアは憎悪に満ちた声音で叫ぶ。
ロザリー来ては駄目、来たら死んでしまう。自由よりも復讐を取
るだなんて、それは貴方の望む人生では無いでしょうっ!と、心の
中で強くそう思いながら。
﹁さあ、早く来いロザリー。呪われし我が娘よ。⋮⋮今の私は魔王。
それでも臆さぬと言うのなら⋮⋮あの時の宿命に決着を付けようじ
ゃないか﹂
ライガンはまた深々と玉座に座る。
地上から鳴り響く戦いの讃美歌。人が死ぬ、悪魔が死ぬ、全てが
死ぬ時の嘆きを聞きながら、彼は浅い眠りに入る事にした。
817
818
ep21 死神
地下牢獄内に潜入すると、ゼノス達を迎えるのはやはり悪魔の大
群だった。
妙な奇声と殺気を放ちながら襲い掛かってくる彼等だが⋮⋮六大
将軍の前では赤子に等しい存在である。
ゼノスは先陣を切り、襲い掛かる悪魔を一薙ぎしただけで打ち滅
ぼし、その余波は後方の悪魔にまで影響を及ぼす。今は力の温存の
為に、白銀の鎧は装着していないが、その力は修羅をも凌駕する程
である。
ユスティアラだって負けてはいない。彼女の剣舞はゼノスの殺し
損ねた悪魔をひっ捕らえ、容赦なく斬り裂いていく。もはや飽きた
という表情を見せながら、作業じみた調子で悪魔を亡き者にしてい
く。
﹁あはは、さっすがはゼノス!敵がバタバタと死んで行くね!﹂
819
﹁ア、アスフィさん不謹慎ですよ!今は笑っている場合じゃ⋮⋮き
ゃっ!﹂
﹁よそ見をするな、ゲルマニアよ。⋮⋮こいつ等は間違いなく神話
の怪物達。生半可な気持ちだと︱︱命を落とすぞ﹂
﹁す、すみません﹂
悪魔を斬り殺しながら注意を投げかけるユスティアラ。確かに敵
の猛攻は凄まじく、ゲルマニアは一瞬の油断によって掠り傷を負っ
てしまった。一歩間違えれば、取り返しの付かない致命傷となって
いただろう。
ロザリーも必死の形相で剣を振るい、尋常で無い六大将軍のスピ
ードに何とか付いて行く。アスフィはまた余裕の表情で敵の攻撃を
躱しているが⋮⋮ゲルマニアとロザリーにとって、ここは余りにも
危険な場所だ。
︱︱もしゼノスとユスティアラがいなかったら⋮⋮とうに二人は
死んでいるだろう。
820
﹁ユスティアラ!さっきから螺旋階段をずっと下りているんだが、
その地下処刑場とやらはもうすぐなのか!?﹂
﹁ああ、すぐそこだ!このまま押し切るぞ!﹂
現在いる場所は地下牢獄への入り口を抜け、そこからずっと続く
螺旋階段。地下牢獄の中心は大きな円形の空洞となっていて、螺旋
階段は壁側に沿って作られている。その途中には勿論牢屋があるの
だが、そこに収容された囚人達の姿は見えない。
⋮⋮恐らく、悪魔共の餌食となったのだろう。
ユスティアラの話によると、螺旋階段を下った先には地下処刑場
という、言わば死刑を宣告された囚人達がその場で狩られ、死んで
行く為の場所があるらしい。
そこはとても広く、ゼノス達が存分に戦うのに相応しいと聞いた。
ここで迂闊に技を展開させれば︱︱この脆い階段はすぐに崩れ落ち
てしまう。こいつ等を全滅させるには、そこに行くしかなかった。
︱︱悪魔との激しい戦闘を繰り広げてから約数分、一同はようや
く地下処刑場らしき階層が視界に入る。拷問器具が並べられた不気
821
味な階層だったが、何とかまともに戦う事は出来そうだ。
ゼノス達はお互いの背を守り合い、四方八方からジワジワと迫り
来る悪魔共に武器を向ける。⋮⋮緊張と不安が彼等を襲い、壮絶な
死闘の始まりを告げる︱︱
︱︱はずだった。
﹃⋮⋮久しぶりですな、姫様﹄
﹁⋮⋮え?﹂
その歪な声は、悪魔達の中から聞こえてきた。
それは人の声では無い。禍々しく、邪気を孕んだ低い声音。人間
でいうと初老の男性が放つ音色に似ている。
︱︱急に立ち止まる悪魔達。荒々しい唸り声を上げる奴等の中か
ら、声の正体は姿を見せる。
822
ボロ絹のマントを羽織り、その身には錆びれた鎧を着こんでいる。
素肌などもはや存在しない⋮⋮顔も体も骸骨で出来た戦士がその身
を晒してきた。さしずめ、骸骨騎士という所か。
﹁⋮⋮貴方、誰?﹂
胸中に渦巻く不穏な感情を抑え、ロザリーは静かに尋ねる。
﹃おや、分かりませんかな?⋮⋮まあ無理も無いですな。このよう
な姿では、当時の面影は一切存在しない﹄
﹁はぐらかさないでっ!貴方は一体︱︱︱︱﹂
と、ロザリーが問い詰めようとした時だった。
途端に空気の流れが変わり、嫌な気配が漂ってくる。
﹁︱︱ロザリーさん、危ないッ!﹂
823
ゲルマニアが咄嗟に何かを察知したのか、ロザリーへと近寄り、
その体を抱き寄せる。
︱︱次の瞬間、ロザリーとゲルマニアは何かの衝撃波をくらい、
その全身は遥か後方へと飛ばされ⋮⋮⋮⋮突如背後に出現した黒い
渦によって、二人はその渦に呑まれた。⋮⋮あっという間の出来事
であった。
﹁なっ⋮⋮。ゲルマニア、ロザリーッッ!﹂
ゼノスは焦り、一瞬にして消え失せてしまった二人の名を叫ぶ。
︱︱情けない。恐らく今の現象は、シールカードによる力か何か
だろう。同じシールカードであるゲルマニアは即座に反応し、何と
かロザリーを単独にさせずに済んだが⋮⋮どちらにせよ、最悪な状
況だ。
ゼノスは鋭い眼光で骸骨騎士を射抜き、怒りを露わにする。
︱︱それは、神々をも震え上がらせた怒声である。
824
﹁︱︱貴様、覚悟は出来ているんだろうなっ!﹂
ゼノスは咆哮する。︱︱すると、余りにも強い覇気に当てられて
しまい、骸骨騎士以外の悪魔共は軽い悲鳴を上げながら後退する。
⋮⋮その時、彼等は悟った。
白銀の聖騎士には絶対に勝てない。この身が神話上の怪物であっ
ても、幾千人もの英傑を滅ぼしたとしても︱︱彼の前では意味を成
さない。それは静かに闘志を増大させるユスティアラも同様だし、
彼等の母、アスフィにも言える事である。
︱︱だが、それでも骸骨騎士だけは憶さなかった。
彼は不気味な笑いを放ち、静かに答える。
﹃これはこれは、誠に申し訳ない事をしましたな。⋮⋮しかしこれ
は魔王様の意向故に、姫様は早急に対面せねばなりませぬ。︱︱最
も、余計な娘も飛ばされてしまいましたが﹄
825
﹁ッ。魔王の⋮⋮所に﹂
⋮⋮嗚呼。最悪の予想が、ついに現実のものとなってしまった。
こうなっては駄目なのに⋮⋮自分の不甲斐なさが、楽観的な考え
がこの事態を呼び寄せたのだ。
﹁︱︱そこを退いて貰おうか、邪悪なる悪魔よッ!さもなくば、こ
のリベルタスで﹂
﹁待ってゼノス。⋮⋮ちょっと、この人達に聞きたい事があるから﹂
突如、アスフィがいきり立つゼノスを抑え、ゼノスとユスティア
ラの前に出る。その姿は堂々としていて、ふざけた様子は一切見ら
れなかった。
﹁アスフィ、正気か!?このままだと二人の命が危ないんだぞ?悠
長に会話なんて出来るか!﹂
﹁安心して。今はまだ戦闘の気配は無いし、場所もここからそう遠
くないみたい。⋮⋮それに、少しは相棒の強さを認識したらどうか
826
な?一応はシールカードなんだよ、あの子も﹂
﹁ぐっ⋮⋮く﹂
言葉に詰まるゼノス。だがアスフィはそれを意にも介さず、全神
経は骸骨騎士へと注がれていた。
﹁ねえ、そこの骸骨さん。⋮⋮いえ。﹃ギルガント王国宰相﹄さん、
の方がいいのかな?﹂
﹁⋮⋮く。やはりか﹂
ゼノスは一旦心を静め、アスフィが言い放った衝撃の事実に対し、
妙に納得した表情を浮かべる。
⋮⋮奴が姫様と言った時点で勘付いてはいたが、どうやら本当だ
ったようだ。彼︱︱宰相は醜い悪魔の姿となり、ゼノス達の前に立
ちはだかっているというわけだ。
﹃ほほ、そう呼ばれるのも懐かしいですな﹄
宰相は郷愁に浸る様に言葉を紡ぎ、静かに微笑む。
827
﹃⋮⋮で、何を聞きたいのですかな?魔王様の一部となり、シール
カードとなったこの私に﹄
⋮⋮そう、やはりそうなるか。
彼が悪魔となった理由、それはシールカードと化す事によって、
悪魔のカードによって具現化に成功したのだろう。
かの騎士マルスが盗賊王になった様に、ミスティカが占い師とな
った様に、そしてゲルマニアが騎士となったと同じく︱︱奴は悪魔
となった。
そして⋮⋮恐らくこの場にいる悪魔達も。
ゼノスは悪魔共が呟く微かな声に気付き、そっと耳を傾ける。
﹃⋮⋮コロ、サナケレバ⋮⋮ヒメ、モ⋮⋮カイリツ、二、ハンスル、
モノモ﹄
﹃コロス。アノアワレナ、ヒメヲ⋮⋮ナニモカモヲ﹄
828
と、何度も呪詛めいた言葉を口にし続けていた。
察するに︱︱この悪魔共はギルガントの民、又は騎士だった者達
だろう。宰相と同じく、彼等もまた二年前にシールカードとして取
り込まれ、カードの一部と化したに違いない。
⋮⋮だがそうなると、一つ疑問が残るわけだが。
二年前、ロザリーが入団試験を受ける前の話だ。シルヴェリア騎
士団長であるニルヴァーナは確かにこう言った。
﹃︱︱あの昨夜の事件以降、ギルガント王家はアルギナス連行部隊
に捕えられ、生死は不明。及びギルガント市民も捕まり、信仰に深
く染まった民間人はその場で斬殺されたそうだ⋮⋮﹄
と、言っていた筈だ。
829
なのに、奴等はこうして悪魔となり果てている。シールカードと
いう存在は二年前にて一斉に出現されたのにも関わらず︱︱何故ニ
ルヴァーナの報告では拘束、又は斬殺となっていたのだろうか?
﹁︱︱聖騎士よ、何を思っているかは察しがつく﹂
宰相もアスフィも口を開かない中、ユスティアラがそっと語り掛
けてくる。
﹁⋮⋮ギルガント王国の関連者、だったか?私が閲覧した囚人登録
表には、ギルガント関係者は国王ライガン、及び第一王女ノルアし
か記載されていなかった﹂
﹁⋮⋮大体予想は出来るがな﹂
ユスティアラが人の心を読んだ事はさておき⋮⋮一つ蛇足がある。
⋮⋮二年前のアルギナス牢獄を統括していたのは、実はユスティ
アラでは無い。彼女はゼノスが国を去った後に引き継いただらしく、
ゼノスがその事実を知ったのもつい最近の事である。
当時アルギナス牢獄を統括していたのは︱︱﹃ランドリオ貴族﹄
である。
830
勿論の事だが、ランドリオ帝国にも貴族や諸侯は存在する。一時
は貴族が政治主権を握っていた事もあったらしいが、様々な横暴を
繰り返した末に、市民革命まで起こされてしまい、彼等の主導権は
永遠に失った。
その後、ランドリオ帝国は騎士国家へと戻ったわけだが、貴族は
今現在でも国家の命令によって重要機関の管理、又は地方政治にも
少々関わっている。
理由は簡単だ。貴族はとても横暴で、そしてプライドが高い。何
かしらの名誉を与えないと、彼等は国に多大な被害を及ぼすだろう
と判断したのだ。
アルギナス牢獄の統括がその典型的な例であるが⋮⋮先も言った
通り、貴族はとても横暴で、尚且つプライドが高い。
﹁︱︱これは前任者の補佐を務めていた現場監督兵長の話だが⋮⋮
その貴族は自らの貢献を披露する為に、公共には嘘の報告を行った
らしい。︱︱愚かな話よ﹂
そう、結局はそう行き着くわけだ。これは昔から発生している問
題であり、騎士であるゼノス達でも、力でどうこう出来る話では無
い。
831
⋮⋮さて、ゼノス達が様々な疑問を思案する中、沈黙を貫き続け
てきた両者に動きがあった。
﹃︱︱どうしたのですかな。一応言っておきますが、貴方様が我等
の始祖でなければ⋮⋮もうとうに襲い掛かってますぞ?﹄
﹁ああ、ごめんね。ちょっと、言葉に悩んでいたものだから﹂
宰相の冷静な言葉に、アスフィは悲しそうな笑みを浮かべる。ど
うやら、向こうはアスフィが始祖だと気付いているようだ。
﹁︱︱ねえ。今からでも遅くないよ⋮⋮もうこんな酷い事は止めよ
うよ。こんな事は何の意味も成さないし、誰も喜ばない﹂
﹃それはとんだ偏見ですな。戒律は全てを正当化させ、統率を極め
た世界を誕生させる。︱︱言わば、人類の希望﹄
宰相は両手を高く伸ばす。自分の言葉に酔いしれながら、その饒
舌は尚も言葉を紡ぐ。
﹃︱︱我々は正しい行いをしている。無価値な人間は殺され、正し
832
い人間は生き永らえる。⋮⋮それの何がおかしい?神の定めた法律
こそが至上、それに違反せし者は⋮⋮万死に値する。我々はその意
義を示す為に、革命を起こしているのだよ?﹄
﹁⋮⋮狂ってるね、その思想﹂
その考えに、アスフィは唖然とする。
彼等の理想は、ゼノスから見れば何もかもが的外れである。生き
るべき者が死に、苦しんでいく。︱︱絶望という闇の中で。
﹃⋮⋮だから、この行軍は貴方様でも阻止出来ませぬ。︱︱いや、
させぬ﹄
宰相は指を鳴らす。それと同時に、周囲の悪魔達が一斉に攻撃態
勢へと移る。
﹃残念ですが、例え生みの親であっても容赦はしませんぞ。ここで
六大将軍と共に散り︱︱栄光の礎と化せ﹄
﹁︱︱ッ。本当に⋮⋮戦わなければいけないの?﹂
833
アスフィの苦言にも、宰相は一向に耳を貸そうとはしなかった。
もはや貪欲な亡者、もはや狂いに狂った人間の成れの果て。
言葉など通じないとならば⋮⋮。
アスフィが戸惑う中、ゼノスとユスティアラが無言のまま彼女の
前へと出る。
﹁だから言ったろ。︱︱悠長に話をしても、奴等の信念を曲げる事
は出来ないんだよ﹂
﹁⋮⋮﹂
優しいアスフィ、お前は争いをしたくなくて、話し合いで解決を
しようと試みたのだろう。
⋮⋮けれど、それは叶わぬ願い。時には戦い、時には傷つく。そ
れがゼノスの歩んできた修羅の道であり⋮⋮この世の道理である。
834
ゼノスはリベルタスを、ユスティアラは刀の柄に手を添え、互い
は同時に武器を抜く。
そして︱︱騎士道精神に則った、最上の礼儀を尽くす。
﹁︱︱六大将軍である俺達は、今を以て、ギルガント国宰相に決闘
を挑む。⋮⋮というわけで﹂
両者は刃を構え、その場から二人の姿が消失する。
﹁﹁邪魔者は︱︱滅べ﹂﹂
激しい斬撃の音色、響き渡る絶叫のコーラス。宰相率いる上級悪
魔達はことごとく絶命していき、抗う余地すらない。
ゼノスとユスティアラは元の位置に戻り、攻撃のモーションを終
835
える。
﹃⋮⋮っ!?⋮⋮な、何と⋮⋮こ、これは﹄
気付いた時には、宰相以外の悪魔は全員死んでいた。
凄惨に殺され、宰相の説く希望を掴めなかった弱者。ただ悪道を
貫き、正義の使徒たる六大将軍によって、その命を絶たれた。
多くの神を、多くの悪魔を殺してきた六大将軍にとって︱︱これ
しきの行いは造作無い。その事実を知らない宰相は、見事不意を突
かれた。
﹁残念なのはこっちだよ、悪魔のシールカード。⋮⋮貴方は﹃絶対
の死﹄と敵対してしまった。︱︱平和の為にも、始祖と六大将軍は
貴方を殺さなければならなくなった﹂
アスフィは光り輝く。どこまでも荘厳に、闇夜を照らす太陽の様
に。
彼女の不思議な力によって純白のローブ姿となり、その左手には
836
黄金色の剣を携え、生と死を模る片翼が肩に生えている。
︱︱その姿は、ゼノスの知る最恐の真の形態。﹃始祖﹄の戦闘衣
である。
﹁さあ来なさい、愚かな息子。力に溺れた可哀想な子よ﹂
﹃ぐっ⋮⋮くう﹄
宰相も流石に劣勢と感じたのか、焦燥に満ちた声音を発する。
相手は世界最強の六大将軍二人に、始祖アスフィ。誰もが戦慄す
る存在が三人もいる⋮⋮この事実は、宰相の心に恐怖を植え付ける。
﹃⋮⋮分が悪いのは、確かなようですな。︱︱だが、ここで退くわ
けにはいかんのですよ⋮⋮⋮⋮例え、この身が滅びようともっ!﹄
ぴしっ、と何かが軋む音がした。
それは空間に僅かな亀裂が生じた音。宰相の苦し紛れの一言と共
837
に、威圧めいたオーラが周囲を漂う。
︱︱宰相の身体全体を、異様な程の粒子が覆っていく。
間違いない⋮⋮この現象は何度か見てきた光景だ。﹃光の源﹄と
呼ばれるシールカードの力の根源が、彼に多大なる力を与えようと
している。
﹁︱︱ほお、やれば出来るじゃないか﹂
ユスティアラはシールカードの真価を初めて拝見し、静かに称賛
の意を述べる。
︱︱ゼノス達の目前には、既に骸骨騎士は存在しなかった。
図体は先程の数倍以上に膨れ上がり、その身には漆黒のボロ布を
羽織る。闇色の長い鎌を両手に携え、宙を浮遊する禍々しき者。
生と死を刈り取る神︱︱﹃死神﹄がその場に君臨していた。
838
﹃⋮⋮魔王様。この力、対峙する輩共を葬る為に使いましょうぞ﹄
歪な光の籠った瞳をゼノス達に向け、鎌を構える。
⋮⋮どうやら見た目もそうだが、秘められた力も尋常無く増大し
ているようだ。恐らくは盗賊王と同等⋮⋮いや、それ以上の強さを
誇っているかもしれない。
ゼノスとアスフィが臨戦態勢に入ろう⋮⋮としたのだが、
﹁待て、聖騎士と始祖。︱︱お前達は早急に最下層を目指せ﹂
﹁⋮⋮一人でやる気か?﹂
ゼノスの問いに、ユスティアラは即答する。
﹁⋮⋮無論。このような者に、わざわざ六大将軍が二人掛かりで挑
む必要は無い。⋮⋮それに、ロザリーとゲルマニアを助けたいのだ
ろう?﹂
839
⋮⋮確かに、今は一刻を争う事態だ。
六大将軍は単独での戦いでこそ、その本領を発揮させる。共闘は
彼等にとって邪魔なものでしか無く、思う存分に戦えない。
ここは、彼女の意見を汲んだ方が適切だろう。
﹁︱︱分かった。だが気を付けろよ、奴等の力は底知れない﹂
﹁⋮⋮ふっ、珍しいな聖騎士、お前が臆するとは﹂
ゼノスの助言をしっかりと理解し、ユスティアラは刀を片手に持
ち、羽織っていたマントを脱ぎ捨てる。︱︱本気の姿だ。
﹁安心しろ、死にはせん。︱︱またあの頃の様に、好敵手である聖
騎士と戦いたいからな﹂
840
彼女は不敵に微笑み、刃を片手に死神である宰相へと特攻する。
ユスティアラの何倍もの大きさを鎌を振るう宰相だが、彼女はそ
の刃を刀で受け止める。
﹁︱︱くっ、早く行け!私が注意を引いている隙に!!﹂
余程の力だったのか、余裕の無い叫びを上げる。
﹁⋮⋮恩に着る、我が同志よ。︱︱アスフィ、行くぞ!﹂
﹁う、うん!﹂
ゼノスはアスフィと共に宰相の不意を突き、その脇を一瞬の速さ
で通り過ぎていく。⋮⋮だが、
﹃逃がすかっ!﹄
841
何と宰相は鎌を持たない左手をゼノスへと差し出し、その手から
暗黒のブレスが吐き出される。
執念深き死神の一撃。︱︱だが、それに戸惑うゼノスとアスフィ
では無い。
ゼノスは後ろを振り向き、暗黒のブレスと対決する形を取る。
﹁聖騎士流法技︱︱﹃ホーリー・ベール﹄!﹂
ゼノスは光を放つ剣先で円を描く。
すると︱︱ゼノス達の眼前に光の壁が出現し、聖なる守護が闇の
一撃を大らかに包み込んでいく。⋮⋮だが流石はシールカード、ゲ
ルマニアの加護が無いと、容易に打ち消す事も出来ない。
しかし上手く死神の魔の手から逃れ、二人は最下層へと続く階段
へと辿り着いた。
842
ユスティアラと宰相が死闘を繰り広げる中︱︱ゼノスとアスフィ
は魔王の間へと走って行く。
843
ep22 狂戦士の戸惑い
ユスティアラの助力を得て、ゼノスとアスフィは下層へ通じる階
段を駆け下りていく。
先程の悪魔達で全てだったのか、もう強襲を仕掛けてくる敵は存
在しない。二人の足音だけが鳴り響き、木霊するだけだった。
﹁︱︱アスフィ、ミスティカと交信は取れるか?﹂
﹁ちょっと待ってね。⋮⋮⋮⋮うん、大丈夫みたい。妨害も無いみ
たいだし、問題なく会話出来るよ﹂
﹁⋮⋮よし、ならさっそく頼む﹂
ユスティアラがいなくなった事により、この牢獄の詳細を知る者
はこの場にいない。アルギナス地下牢獄は複雑怪奇だと聞くし、初
めて訪れる者が決して案内も無しに入る所では無い。
︱︱それに、微かに空間が歪んでいる様にも感じる。
844
空間の歪曲は時として物理的変化を引き起こし、本来とは違った
場所が完成してしまうのだ。⋮⋮そうなってしまっては、一生魔王
の元へは辿りつけない。
だが︱︱一つだけ進む方法がある。⋮⋮それがミスティカの案内
だ。
﹃あ∼テステス⋮⋮聞こえますか、聖騎士殿。私です、ミスティカ
ですよ﹄
ミスティカは相も変わらない穏やかな声音で電波を発信させ、ゼ
ノスの脳裏に響き渡る様に聞こえてくる。⋮⋮﹁マイク調整かよ﹂
と言おうとしたが、恐らくこの二人には異世界の事情等知る由も無
いだろうと思い、言うのは止めた。
﹁︱︱ミスティカ、事態の様子は大体把握出来てるか?﹂
恐らく遠視によって、ゼノス達の行動を見ていたと思うが⋮⋮。
845
﹃ええ、ちゃんと見ていましたし、最下層までの道のりに関する現
状も把握していますよ。⋮⋮⋮⋮にしても、随分と改造されちゃっ
てますねえ﹄
ミスティカはふむふむ、と言いながら少々思案する。
ゼノス達は足を止め、目前を睨み付ける。
階段を下り終え、その先には狭い回廊が広がっている。一見真っ
直ぐ進めば良い様に見えるが⋮⋮この先は不思議な力によって空間
が捻じ曲げられ、迂闊に入り込められない状況であった。
﹃⋮⋮成程、どうやらこの現象はシールカードの力によって発動さ
れたようですね。常人ならば見えない真実の道︱︱この占い師が導
いて見せましょう。あと恐らくですが、この現象は真実を誰かが辿
ると元の空間に戻る様です⋮⋮ユスティアラさんが迷う事は無いと
思います﹄
﹁すまない、ミスティカ。⋮⋮⋮⋮ロザリー、ゲルマニア、どうか
無事でいてくれ﹂
846
そして勿論、ユスティアラもだ。
果たして彼女等は無事に生還する事が出来るだろうか?この絶望
に満ちた状況の中で⋮⋮ロザリーは、確固たる意志を貫く事が出来
るだろうか?
生きる事を否定され、復讐と宿命に束縛されるロザリー。
負けるな⋮⋮そして打ち勝て。己の過去に⋮⋮終止符を打て。
今のゼノスには、こう願うしか方法が無かった︱︱。
847
一方、ユスティアラは死神と激しい攻防を繰り広げていた。
ゼノス達が無事に階下に向かった事にひとまず安堵し、遠慮なく
死神との戦いが出来る。︱︱孤独の中でこそ、六大将軍は真の力を
発揮する。
彼女は刀で死神の鎌を跳ね返し、若干の距離を置く。彼女の剣術
を披露するには、間合いが肝心である。⋮⋮その真髄を繰り出す為
にも。
﹁天千羅刀術︱︱﹃風吹雪﹄﹂
地面を掬い上げるが如く、刀を逆手に持って振り上げる。
刃から零れ出るカマイタチが洗練され、その矛先は死神へと向か
う。
848
⋮⋮だが、それは呆気なく霧散していく。
死神の鎌はカマイタチを容易に切り崩し、ユスティアラを瞠目さ
せる。
﹁⋮⋮これがシールカードの力か﹂
微かな笑みを見せ、彼女はその場から消え去る。いや消え去った
のでは無く、驚異的な速さで跳躍した。
﹃︱︱そこですかな!﹄
死神は上を見上げる。︱︱案の上、ユスティアラが一瞬の速さで
死神の頭上へと移動していて、死神を一刀両断しようとしていた。
死神とユスティアラは空中で交差する。その際に互いは刃をその
身体に斬り込もうとする。ユスティアラは死神の横腹を、死神は彼
女全身を斬ろうとする。
﹁︱︱ッ﹂
849
﹃ぐ、おお⋮⋮ッ﹄
ユスティアラは地面に着地する。しかし右腕を斬られてしまい、
顔を歪ませながら苦痛に耐える。一方の死神も斬撃を左肩にくらい、
呻きを漏らす。⋮⋮骨だけになったとはいえ、痛覚は存在するよう
だ。
⋮⋮互いが互いを譲らない状態であった。生と死を掛けた血肉を
争う死闘、久方振りの緊張感に⋮⋮ユスティアラの高揚は更に昂ぶ
る。
彼女は幾度も死線を潜り抜けてきた。あくまで冷静に、そして冷
酷に⋮⋮あらゆる化け物を駆逐してきた。
そんなユスティアラにとって︱︱この戦いは少々の新鮮さを与え
てくれている。
自分が傷を負わされたという事実。⋮⋮この程度の相手ならば、
自分が極めた剣道を披露するに相応しい︱︱ユスティアラはそう確
信した。
850
﹃⋮⋮とても邪悪な表情ですな。まるで血に飢えたハイエナ、戦い
に全てを捧げる闘神の出で立ち⋮⋮おお怖い﹄
﹁︱︱的を射ている、死神よ。⋮⋮で、それが悪であると⋮⋮そう
結論付けたいのか?﹂
﹃勿論⋮⋮アルギナス戒律第五十四条﹃アルギナス王家、及び重要
職の者に悪意を向けた者は、その場にて死刑を執行する﹄と。現に
貴方様はそのような口を聞き、刃を向けていますからな。︱︱死を、
与えるしかございませんよ﹄
それが本当ならば、何て不条理な法律なのだろうか。
不純たる正義、貪欲な悪の塊。︱︱この類の者は、ユスティアラ
が最も嫌う人種の一つである。
彼女は悪を嫌う、不条理を妬む。
︱︱遠い過去に経験した悪夢が、彼女の闘争心を駆り立てる。
851
﹁⋮⋮不愉快だ。貴様等の様な輩がいるから、全てが壊れる。弱き
者の人生が狂ってしまう⋮⋮⋮⋮この気持ちが分かるか、貴様に?﹂
憎々しく吐き捨て、憎悪に満ちた瞳を向けるユスティアラ。
六大将軍︱︱それは名誉、地位、力の全てを得た者だけがなれる
栄光。⋮⋮しかしその背景には、数々の苦悩と絶望、そして生き地
獄を味わってきた。
彼女とてその一人︱︱可憐だった少女が、修羅の道を歩む事にな
ったのには、深い深い理由が存在する。
それ故に彼等は⋮⋮最初から強かったわけでは無い。
だからこそ︱︱彼女もまた他の六大将軍と同様⋮⋮弱音を零す。
﹁⋮⋮もう戦いたくないのに⋮⋮⋮⋮叶うならば、平和な世界に住
みたかったのに⋮⋮現実の我等は、六大将軍は最強の戦人として在
り続けなければならない﹂
852
平和は夢のまた夢の話。︱︱世界はこうも戦いに満ち溢れ、誰も
が意味の無い戦争を繰り返し、苦しみ、そして死んで行く。⋮⋮こ
れが滑稽と呼ばずして、何と言うのだろうか。
恐らくこの愚か者は一生分からないだろう。争いの根源であるが
故に、彼等は平和を知らず、善と悪の区別がつかない⋮⋮そんな悲
しい存在とし生き続ける。
⋮⋮粛清せねば、この惨劇を止める為に。
﹁︱︱余興は終いだ。⋮⋮悪なる者に、死の祝福を﹂
ユスティアラは度重なる負の感情を抑え込み、改めて闘争心を剥
き出しにする。
これ以上このような下種を拝みたくない。今の自分は六大将軍、
全ての悪を薙ぎ払う者︱︱ユスティアラである。
﹃⋮⋮何だ、この悪寒は﹄
853
死神は震え上がり、恐怖の念が押し寄せてくる。
ユスティアラから放たれる闘気⋮⋮果てしない力を放ち、彼女の
周囲を冷たい冷気が流れている。
﹁⋮⋮怖いか?⋮⋮それはそうだ。如何に死を司る神と言えど、森
羅万象には逆らえまい﹂
水も、空気も、この世界に潜むあらゆる生命を操る剣技。ユステ
ィアラの天千羅刀術は⋮⋮﹃神を愚弄した力﹄。
これが彼女の本気。︱︱彼の有名な天千羅流創始者、世界中から
約二十万人もの門徒を集め、最強の剣術集団を作り上げ︱︱そして
六大将軍であった男、﹃ロア・レディオ﹄の一番弟子の真髄。
﹁︱︱参る﹂
彼女は静かに歩み寄る。
854
先程の様な俊敏さは見られないが⋮⋮その物腰はどことなく流麗、
且つ一切の感情が見受けられない。ただただ刀を握り締め、切れ長
の瞳を死神に向け続けている。
⋮⋮だが、死神は直感した。
今の彼女は、まるで隙だらけであると︱︱
﹃︱︱馬鹿な娘よ!その程度で本気など甚だしいわっ!﹄
死神は激昂し、闇色のマントをなびかせる。
マントから幾千本もの骸骨の手が伸び、威勢よくユスティアラの
元へと迫ってくる。その役目を終えた人間達の欲望、絶望、貪欲な
魂が具現化され、生者を疎ましく思うが故の一撃。
恐ろしい力の籠った一撃。⋮⋮⋮⋮だが、
︱︱何とも愚かで、浅はかな技である。
855
﹁⋮⋮天千羅剣術奥義、﹃氷魔神双手﹄﹂
﹃︱︱ッ!?﹄
その時、死神は目前の現象に絶句する。
闇の亡者共が解き放った呪われし腕⋮⋮その猛威を、彼女が刀を
突き出す事で防いで見せた。︱︱否、
︱︱彼女の腕を覆う様に、全く同じ動作で﹃巨大な氷の手﹄が完
全に防ぎ、いとも容易く跳ね除けてしまったのだ。
氷の手⋮⋮それは氷魔神が大気中の水分に憑依し、ユスティアラ
の意志によって具現化された。⋮⋮その力は、正に全てを司る神の
権利を奪った奥義である。
﹃な、何と⋮⋮。に、人間が、たかが人間が何故そのような力をッ
856
!?﹄
﹁︱︱黙れ。天千羅剣術、﹃風姫刀﹄﹂
敵に一切の妥協も許さない。怯えた声を発する死神の意も介さず、
ユスティアラは更なる追撃を始める。
氷魔神の手に持たれた風に包まれた大きな刃。かつてその刃の一
撃は、聖騎士を窮地にまで追い込み、苦しめた秘伝の奥義。⋮⋮こ
れを使うのは、聖騎士、クラーケン戦以来だ。
︱︱風姫刀を振りかぶり、盛大に刀を死神の頭上に振り落とす。
回避する、受け止める、跳ね除ける︱︱そのどれもを不可能とした
絶対の一撃が、死神へと降り注ぐ。
︱︱そして、死神は一瞬の瞬きも許されずに一刀両断された。
呆気なく、無残な最期である。
857
﹃が⋮⋮あ、あ﹄
体を二等分にされてもまだ声を発する死神。しかし、風姫刀から
吹き出る暴風が巻き起こり、それはヒルデアリアの光魔石で造られ
た牢獄の壁を軋ませ、死神の全身は粉々に崩れ去って行く。
﹃ば、馬鹿な⋮⋮⋮⋮ま、魔王様⋮⋮ライガン、様⋮⋮︱︱﹄
﹁⋮⋮冥土で主の帰りを待っていろ、弱者め﹂
ユスティアラは霧散していく死神に背を向ける。
そのまま階下に向かう︱︱と思っていたが、ユスティアラは奇妙
な気配に気付き、静かに進む足を止める。
858
新たな敵でも無ければ、仲間とも言い難い。
この世で最も大嫌いな人間の存在を察知し、憎々しげに吐き捨て
る。
﹁⋮⋮そこで私の様子を窺っていたのか?︱︱︱︱︱ライン﹂
﹁あらら、やっぱりバレちゃったか﹂
そう軽々しい声音と共に、天井から全身黒タイツの男︱︱ライン
が飛び降り、ユスティアラの目前へと着地してきた。
何時からいたのか、等は聞く気にもなれない。﹃知られざる者﹄
は隠密を得意とし、彼が本気になれば、六大将軍でさえ気付くのに
時間が掛かる。⋮⋮本人もいつからいたか自覚していないだろうし、
その事実を知る事は不可能だろう。
﹁何しに来た?私は確かに上層部の警護を頼むと言った筈⋮⋮﹃ま
859
たあの頃のように﹄、私の期待を裏切るのか?﹂
﹁いやいや、そういうつもりじゃないんだけどなあ⋮⋮。上層部は
絶対に安全だよ。僕にはその確証を持っているし、僕がこっちに来
た方がより安全になるかな、と思ってね﹂
ユスティアラの意味深な言葉に、ラインは少々焦りながらわけを
説明する。
⋮⋮静寂に満ちた牢獄の中で、両者はしばし沈黙し、彼女は怨嗟
の瞳をラインに向けている。
︱︱その闇は先程の死神よりも深く、恐ろしい。
﹁⋮⋮とりあえず最下層に向かおうか?ゼノス達も心配だし、僕は
先に行かせて貰うよ⋮⋮﹂
そう言って、ラインは苦笑しながら階下に繋がる階段へと向かお
うとする。
860
﹁⋮⋮待て﹂
しかし、ユスティアラは去り行く背中を呼び止める。
ラインが彼女に振り向くと⋮⋮そこには怨嗟とは正反対の、悲し
そうな表情を浮かべるユスティアラが佇んでいた。
﹁⋮⋮⋮⋮もう逃げずに答えてくれ。⋮⋮何故あの日、祖父を⋮⋮
ロア・レディオ師範を裏切ったのかをな﹂
彼女らしくない、困惑した様子を露わにする。
︱︱過去に起きた事件。それがユスティアラとラインの関係を繋
ぎ、そして今現在も⋮⋮昔の因縁に苦悩する両者。
⋮⋮ラインはジッとユスティアラを見据える。怒りも、悲しみも、
861
あらゆる感情を抑えた瞳を向けるが⋮⋮また階段へと歩み行く。
﹁⋮⋮ユスティアラ。僕は君に死闘を挑まれても、殺しに挑もうと
も、それは君の勝手だし、僕も受けて立つ﹂
﹁⋮⋮﹂
だが、とラインは言葉を付け足す。
それは確固たる意志の象徴。︱︱全てを背負い込んだ者の言葉。
﹁︱︱あの惨劇の事実だけは⋮⋮僕だけが知るべき記憶だ。⋮⋮こ
れだけは譲れない。︱︱例え、﹃実姉﹄であっても⋮⋮話せない﹂
ラインは実の姉︱︱ユスティアラにそう断言し、今度は振り向か
ずに階下へと駆け足で進んで行く。
862
⋮⋮また逃げ出すライン。彼女は幾度と無くその問いを口にして
きたが、ラインが言葉を紡いでくれる事は⋮⋮無かった。
言い知れぬ疎外感がユスティアラを苛立たせるが、現状を疎かに
する事は好ましくない。この思いを心の奥底に放り投げ、彼女もま
たラインの後を追って行く。
ラインとユスティアラ。
互いを嫌煙し合う姉弟の物語は、また別の話である。
863
ep23 それぞれの意志
ロザリーとゲルマニアが行き着いた先は、漆黒の魔王の間に繋が
る長い回廊、その中央に位置する場所である。
転送されたと同時に、二人はその場で尻餅をつく。
﹁い、いたた⋮⋮だ、大丈夫ですか。ロザリーさん﹂
﹁⋮⋮大丈夫。⋮でも、ここは﹂
ロザリーは此処が何処なのかを口にしようとするが、ゲルマニア
がそれに対し、即座に応える。
﹁︱︱どうやら、私達は親玉の所まで転送されたようです。⋮⋮う
ん、光の源も濃くは無いし、普通に行動出来そうですね⋮⋮﹂
ゲルマニアはよし、と呟き、その場から立ち上がる。
864
﹁ゼノス達がいないのは心許ないですが⋮⋮とにかく先に進みまし
ょう﹂
今この二人だけで魔王に挑む︱︱それは自殺行為に等しいし、危
険要素しか存在しない。
⋮⋮しかし、ここに留まっていては埒が明かない。魔王を倒せな
くても、ゼノスとユスティアラがやって来るまでの時間稼ぎが出来
ればいい。そんな思いを胸に、ゲルマニアはロザリーに進むよう求
める。
ロザリーも首肯し、彼女は剣柄に手を添え、二人で長い回廊を歩
み始める。
長く⋮⋮そして深い混沌に包まれた闇の世界。歩いてから約数分
が経過しても、一向に辿り着く気配が無い。
﹁⋮⋮あの、ロザリーさん﹂
﹁⋮⋮何?﹂
865
互いはしばし無言を貫いていたが⋮⋮ふいにゲルマニアが尋ねて
きた。
とても申し訳なさそうに、小さい声で言葉を続ける。
﹁急な話ですみません⋮⋮。あ、あの⋮⋮昨日の食事処で会話され
ていた話⋮⋮実は私も耳にしていたのです。盗み聞きするつもりは
ありませんでしたが⋮⋮﹂
シールカードの聴力は、一般人の聴力よりも数段優れている。意
識はそちらへと向かえば、数十メートル離れた先の会話でも容易に
聞き取れてしまうのだ。
しゅんと項垂れるゲルマニアに、ロザリーは無関心な様子で答え
る。
﹁⋮⋮別に平気。隠すような話でも無いし⋮⋮他愛も無い話だから﹂
﹁で、でも⋮⋮今から立ち向かう相手は⋮⋮恐らくロザリーさんの
過去に﹂
866
ゲルマニアが言おうとしている推測に対し、ロザリーはそれを手
で制する。
﹁⋮⋮心配しなくてもいい。例えどんな結末が待っていようとも⋮
⋮私はそれを受け入れる覚悟があるし︱︱もしかしたら、とうに受
け入れているのかもしれない﹂
もうあの頃とは違い、自分は精神も、肉体も強靭となっている筈
だ。
⋮⋮それに、何となく事の結末が予想出来てしまう。ロザリーの
心がそう訴えかけてきて、細心の注意を払えと警告してくる。
高鳴る鼓動がロザリーの意志を押し殺そうとしているが⋮⋮そん
な事に気を使う余裕は無い。
だからこそ、彼女は堂々と構えるしかなかった。
﹁⋮⋮意志が固いのは分かりました。でも⋮⋮無理だけはしないで
下さい﹂
﹁⋮⋮うん﹂
867
ロザリーは短く答える。無表情だけれども、穏やかな気持ちにな
りながら⋮⋮
⋮⋮だが、その思いは一瞬にして消え失せる。
薄暗い回廊の燭台に、突如紫色の炎が灯る。怪しくも隠微な雰囲
気が周囲を漂い始め、オルガンの音色が回廊中に反響する。
絶望を告げるメヌエット。⋮⋮これが、宴の始まり。
二人はその場から走ってもいないし、歩いてもいない。回廊自身
が徐々に狭まり、回廊の果てにある玉座の間へと誘われる。
永遠に広がる回廊の終着点⋮⋮。ロザリーとゲルマニアの前に、
尊大な様子で玉座に座る男︱︱魔王が存在していた。
重厚な漆黒の鎧、片手には紅蓮の大剣を携える男⋮⋮間違いなく、
ミスティカのカードが見せた姿そのもの。
868
ロザリーとゲルマニアは高まる緊張感と共に、攻撃態勢を取る。
﹃⋮⋮よくぞ来た、醜き金髪の娘よ﹄
﹁⋮⋮魔王⋮⋮﹂
出会い早々、魔王とロザリーは闘志をむき出しにした一言を放つ。
⋮⋮これが魔王。
ゲルマニアはロザリーの好戦的な意志とは対照的に、彼の放つオ
ーラに息を呑んでいた。
︱︱魔王から溢れ出る光の源の量、そして根本的な素質も六大将
軍までとはいかないが⋮⋮膨大な力を誇っている。
ハルディロイ城で既に感じた力と言えど⋮⋮この覇気に慣れる事
は出来ない。ゲルマニアは勇猛果敢であっても、決して力の差も知
らずに突き当たる程馬鹿では無い。︱︱そう思ってしまうぐらい、
869
魔王とゲルマニアの力差は歴然としている。
⋮⋮ふとそこで、ゲルマニアは魔王の背後に誰かいる事に気付く。
特化された視力を頼りに目を凝らすと⋮⋮ボロボロの布服に、薄
汚れた銀色の髪の女性が束縛されているではないか。
魔王はゲルマニアの視線の行く先に気付き、微かな鼻笑いを漆黒
の兜から漏らす。
﹃よく気付いたな、若き騎士よ。⋮⋮どれ、これも余興だ。この哀
れな娘を素直に見せようじゃないか﹄
そう言って、魔王はパチンッと指を鳴らす。
彼の合図と共に玉座脇の燭台に火が灯り、仄かにその周囲を照ら
す。
⋮⋮そして、束縛された女性の姿が露わとなる。
870
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ノルア、姉様?﹂
﹁⋮⋮え﹂
ロザリーの瞳に映るのは、疲れ果てた様に気を失い、無残な姿で
項垂れるギルガント第一王女の姿︱︱ロザリーの姉であるノルアで
あった。
⋮⋮あまりに唐突な再会に、ロザリーはしばし呆然となる。
やがて正気を取り戻したロザリー、心の奥底から溢れる感情は嬉
しさよりも、幸せよりも先に︱︱︱︱ドス黒い憎悪が芽生えていた。
溢れんばかりの殺意は魔王に⋮⋮⋮⋮いや、
﹁⋮⋮父様⋮⋮⋮⋮ッ﹂
871
﹃ほう?⋮⋮素晴らしい。この心がライガンであると、よくぞ見破
った﹄
素直な称賛を口ずさむ魔王︱︱否、魔王ライガン。
⋮⋮実の所、ロザリーはミスティカの見せた映像から薄々勘付い
てはいた。
確証も無く、誰から聞いたわけでも無い。
その疑いは近付く毎に強まっていき⋮⋮今この場にて、ロザリー
はようやく父ライガンであると気付けた。︱︱なぜなら、
︱︱ノルアをこうまで憎み、理由があって痛ぶる事が出来るのは
ただ一人。ライガンしか考えられないからだ。
﹁⋮⋮姉様に何をしたのですか﹂
﹃いや何⋮⋮お前が来たと聞いて金切り声を上げ始めてな。⋮⋮お
前の最期を見て貰う為にこうして我が王座の間に連れて来たのだが
⋮⋮叫び続けた末に気絶してしまったよ﹄
872
﹁⋮⋮﹂
ロザリーは思う。人間が叫び声を上げただけで気絶する筈が無い
と。
ノルアの身体は汚れていて認識しづらいと思うが、彼女の全身に
は妙な痣がちらほらと見受けられる。
その痣が何を物語っているかは分からない。⋮⋮だが恐らく、ノ
ルアは最後の力を振り絞って声を上げ、そのまま気を失ったに違い
ない。
﹃⋮⋮色々と聞きたい事があるのではないか、娘よ。答えてやるぞ、
死の世界に行く前にな﹄
魔王はその場から一歩も動かず、ただジッとロザリーを見据える。
⋮⋮二年前とは違って、全てを打ち明けるつもりのようだ。自ら
の願望が叶った故の振る舞いかどうかは皆目見当が付かないが。
873
だが丁度良かった。
︱︱ロザリー自身も、ずっと聞きたかった事が沢山ある。
﹁なら聞かせてください。⋮⋮私達を散々苦しめてきた﹃ラウメ教﹄
とは何かを⋮⋮簡潔に、そして詳しく﹂
二年前のあの事件で、ラウメ教の信仰対象が何であるかは分かっ
ている。
しかし⋮⋮ラウメ教が存在する所以、ああも人々が狂信する所以
⋮⋮その全てが知りたい。
﹃ふふ、そうか⋮⋮お前はラウメ教が何たるかを把握出来ていなか
ったな﹄
魔王ライガンはそう呟き、足を組みながら言葉を続ける。
﹃︱︱ラウメ教。二年前のあの儀式、そしてこの身で分かったと思
うが⋮⋮ラウメ教は我等王族の祖先が魔王ルードアリアを慕い、彼
874
を信仰対象としたのが始まりである。⋮⋮後に戒律と呼ばれるルー
ドアリアの教えが誕生し、人々はラウメ教こそが全てだと享受され
たのだ﹄
ギルガントの歴史、文化、宗教、習慣はラウメ教を基準とし、皆
はそれが正しいものだと教えられてきた。
それが︱︱邪教国家ギルガントの本質である。
﹃⋮⋮いつしか人々もラウメ教こそが正しいと認識し、あらゆる不
条理は当然の報いだと信じてきた。︱︱私もまた、その中の一人に
過ぎん﹄
だからこそ、ライガンは戒律に従ってきた。あらゆる意志を投げ
捨て、ギルガント王国が信じるルードアリアを尊敬してきた。
⋮⋮そうだ。ライガン王は自己の意志を捨て、ギルガント王とし
て⋮⋮ラウメ教を広げようと、ルードアリアの願いに応えようとし
て魔王となった。
︱︱これがギルガント王の言う真実。
875
⋮⋮だが、まだ重要な事を聞いていない。
二年前は勿論⋮⋮幼い頃からずっと疑問に思い、あの儀式でライ
ガンに投げかけた彼女の本音。
今この場で、ロザリーはもう一度あの言葉を言い放つ。
﹁⋮⋮本当に、本当に父様はそう思って信仰を尽くしているのです
か?﹂
﹃⋮⋮⋮⋮何?﹄
ライガンはまたもや疑問の声を漏らす。二年前と同じく⋮⋮
以前の自分ならば、ここで言葉を止めていたのだろう。自分の意
志よりも弱さや怯えが先に出てしまい、更なる本音を口に出せなか
った。
876
⋮⋮しかし、今ならば言える。
二年の時を経て、身も心も強くなったロザリーならば︱︱
︱︱二年前に言えなかった、言葉の続きを︱︱
﹁︱︱なら何故、父様はいつも⋮⋮⋮⋮﹃悲しそうな表情﹄でいた
のですか?﹂
﹃なっ⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹄
⋮⋮⋮⋮ライガンはその言葉に、思わず動揺の呻きを漏らす。
﹃⋮⋮な、何を言うか。私はいつでもお前を憎み続け、戒律に従っ
てお前の死だけを待ち続けてきたのだ!そのような感情など﹄
877
﹁なら何故!あの図書館の中で笑いながら⋮⋮⋮⋮笑いながら涙を
零していたのですか!?﹂
﹃ッ⋮⋮お、お前⋮⋮何でそれを⋮⋮ッ﹄
言い掛けて、ライガンはハッとした様子で言葉を打ち切る。
⋮⋮ロザリーはあの時、ライガンの死刑宣言に絶望に暮れ、ただ
茫然と笑い声を聞いていたわけだが⋮⋮⋮⋮あの日の出来事を何度
も思い起こしていたロザリーは、ライガン王の哄笑に⋮⋮微かな涙
声が混じっていた様にも感じた。
︱︱その確証を得ようと鎌をかけた結果、予想は見事に的中した。
嗚呼、やはり⋮⋮あの時ライガン王は泣いていた。ライガン王は
いつもロザリーに悲しそうな表情を向けていた。
その現実が、ロザリーに衝撃と困惑を与える。
878
﹁父様。⋮⋮⋮⋮⋮⋮もう、ギルガント王国は滅んだのです。体裁
も何もありません⋮⋮。だから、どうか本当の⋮⋮父としての言葉
を﹂
と、ロザリーが言い終える前だった。
ライガンが突如玉座から消え去り、今まで傍観していたゲルマニ
アがロザリーの前へと躍り出る。
激情と共にゲルマニアの前に現れたライガンは紅蓮の大剣を振る
うが、間一髪の所でゲルマニアも自前の大剣で受け止める。
﹁︱︱ぐっ、く﹂
何て重い一撃なのだ。ゲルマニアは自らの大剣に護りの祝福を込
めたにも関わらず、たった一太刀でその祝福は崩れ去ってしまった。
︱︱一方のライガンは、戸惑うロザリーを見据えて激昂する。
879
﹁私に⋮⋮この私にそのような感情など有りはせぬ!今の私は魔王
!戒律に従い、魔王を崇拝する男であるぞ!﹂
ライガンは表情の見えない兜を通し、そう答える。
あくまで意志は存在しない。あったとしても、他人には絶対見せ
ぬ。断固たる崇拝者を貫き、娘ロザリーの願いを強引に振り払う。
﹁と、父様⋮⋮﹂
ゲルマニアはちらりと後ろを向き、ロザリーの様子を窺う。
⋮⋮その表情は絶望的だった。自分は本当にいらない存在だった
のか、何故何も言ってくれない⋮⋮親の愛情を欲する、か弱い子供
の様相である。
︱︱これは戦うしかない。ゲルマニアは素直にそう思った。
﹁⋮⋮はあっ!﹂
880
細腕に似つかわしくない腕力で、ゲルマニアは魔王の大剣を何と
か押し返す。素早く体勢を整え直すライガンに一切の余裕を与えず、
彼女は両手で大剣を振り下ろし、ライガンを一刀両断にしようとす
る。
⋮⋮だが、ライガンはそれを籠手で受け止める。
﹁⋮⋮っ﹂
﹃邪魔だ、若き騎士よ!私はロザリーを処刑せねばならぬ⋮⋮戒律
の為に、民の為にもな!!﹄
﹁くっ⋮⋮いい加減にしなさい!何故実の娘と向き合おうとしない
のです?世間為ですか?︱︱それとも、怖いからですか!?﹂
﹃︱︱ッ。五月蠅い⋮⋮⋮⋮五月蠅いぞ小娘があっっ!﹄
魔王は大剣を持たない手でゲルマニアの刃を鷲掴みにし、ゲルマ
881
ニアの全身ごと横へ放り投げる。
﹁うっ⋮⋮!﹂
その動作があまりにも早くて︱︱いやそれだけで無く、圧倒的な
覇気が襲い掛かり、ゲルマニアは成す術も無いまま壁へと打ち付け
られる。
﹁ゲ、ゲルマニア⋮⋮﹂
激痛に顔を歪ませながら倒れ込むゲルマニア。それを見たロザリ
ーは、目前に迫ってくるライガンへと振り向く。
︱︱情けない事に、身体が思うように動かなかった。
先程から動け、動けと命令しているのに⋮⋮様々な戦いを潜り抜
けてきたロザリーは、魔王ライガンの存在に震えていた。
﹃さあ、今度こそ死ぬが良いロザリーよ。︱︱その方が、お前の為
になるのだから!!﹄
882
ライガンは大剣を振り上げ、自分の剣を抱えて震えるロザリー目
掛けて振り下ろそうとする。ロザリーはきゅっと目を閉じる。
⋮⋮死ぬのか?結局何も抗えず⋮⋮何も解決しないで。
弱い自分として死んで行くのか?︱︱このまま恐怖と怯えに従い、
死という恐怖を受け入れるのか?
⋮⋮⋮⋮嫌だ、死にたくない。
⋮⋮助けて。⋮⋮⋮⋮助けて⋮⋮⋮⋮助けてっ。
ロザリーは懇願する。︱︱それは果たして、誰に向けられた想い
なのか?
彼女を待ち受けるのは、永遠の闇か?それとも、虚無の世界か?
883
︱︱いや。どちらでも無かった。
﹁⋮⋮おいおい。娘相手にそれは無いんじゃないか、ギルガントの
王様よ?﹂
⋮⋮絶望の淵に立たされたロザリーに、光の声が囁いてくる。
﹁⋮⋮え﹂
︱︱振り下ろされない大剣。ロザリーがそっと目を開くと⋮⋮そ
こには異質な服装をした青年が佇んでいた。
884
青年︱︱ゼノスはライガンの大剣を素手で受け止め、不敵な笑み
を見せる。
ロザリーが信じられない表情で凝視する中、ライガンが驚愕の声
を発する。
﹃その剣は⋮⋮。貴様︱︱白銀の聖騎士か!﹄
﹁ちょっと違うな⋮⋮。俺の名はゼノス・ディルガーナ。﹃白銀の
聖騎士ゼノス﹄だよ!﹂
ゼノスはリベルタスで大剣を跳ね除け、ライガンの腹へと蹴りを
入れる。⋮⋮それだけで、彼を遥か後方へと押しやる。
︱︱瞠目するロザリーを守る体勢に移り、改めてリベルタスを構
えるゼノス。
885
︱︱聖騎士と魔王の戦いが始まる瞬間だった︱︱
886
ep24 再臨・ルードアリア
ゼノスは周囲の様子を確認し、事の状況を粗方分析してみる。
壁際でぐったりと気を失っているゲルマニア、神話上の悪魔共を
従わせる程の迫力に怯え震えるロザリー。そんな彼女を殺そうと剣
を振り下ろしていた魔王。
⋮⋮良かった、間に合って。
あれからミスティカの導きによって、迷路と化した道中を無事に
潜り抜けてきた。一切迷わなかったのは幸いで、彼女には感謝した
い所である。
﹁︱︱大丈夫ロザリー?どこか怪我した所とかはないかな?﹂
ゼノスが魔王と対峙する一方で、後から駆けつけて来たアスフィ
がロザリーの横に立ち、崩れ落ちそうなその身体を支える。
﹁⋮⋮だ、大丈夫⋮⋮﹂
887
ロザリー本人はそう言うが、傍から見れば真逆の印象である。顔
面は真っ青で、まるで緊張の糸が切れた様な状態だ。
⋮⋮余程、無理をしていたと見受けられる。
彼女は二年前⋮⋮いや生まれた頃から緊張と焦り、絶望を持って
生きて来た。科せられた宿命が、突き付けられる現実がロザリーを
今まで後押しして来た。
人は長時間集中力を保てるわけがない。ほんの些細な出来事でそ
れが途切れ、今までの奮起がガタ落ちする等⋮⋮当然の摂理である。
︱︱だからゼノスはその弱々しい姿に対し、こう告げる。
淡々と⋮⋮しかし、救いたいという意志を込めて。
﹁︱︱任せてくれロザリー。⋮⋮この宿命、俺が終わらせて見せる﹂
ゼノスはロザリーへと振り向き、柔和な笑みを見せる。
888
⋮⋮その笑顔、その固い意志がロザリーの胸を熱くし、誇り高き
聖騎士に尊敬の念を送る。
どこまでも優しい騎士。壮絶たる人生を抜けても尚、己だけでは
無く他者までも救おうとする⋮⋮⋮⋮ロザリーの愛しい友人。
﹁⋮⋮﹂
この感情は、果たして何なのだろうか?
心臓の鼓動が激しくなり、自らの顔が火照るこの感覚は⋮⋮今ま
で感じた事の無い何か。⋮⋮ゼノスを直視すると、その昂ぶりは更
に増大する。
︱︱だが、これだけは言える。
素直じゃないのか、それとも純粋な思いなのかは分からないけれ
ど⋮⋮この言葉だけは。
﹁︱︱有難う、ゼノス﹂
889
﹁⋮⋮﹂
ゼノスは振り向かない。⋮⋮だが、妙に心温まるのを感じ、ふっ
と微笑を浮かべる。
⋮⋮さて、仲間の心配はここで一端終いだ。
ライガンに絶大なる闘気を向けつつ、アスフィに言い放つ。
﹁アスフィ、悪いがゲルマニアとロザリーを部屋の端に待機させて
やってくれ﹂
﹁分かった⋮⋮。でもいいの?ロザリーだけは地上に返した方が﹂
﹁いや、それじゃ駄目だ。︱︱この戦いは、ロザリーが立ち会って
こそ価値がある﹂ ロザリーは知りたがっている。魔王ライガンの本当の意志を、皆
が知らない本当の事実を欲している。
890
︱︱結局の所、ゼノスはその事実を吐かせる為に戦うだけだ。こ
の宿命を終わらせるには、魔王ライガンを倒さなければならない。
そう、たったそれだけの事。
﹁︱︱来い、ライガン﹂
﹃ぐっ⋮⋮い、いいだろう。ロザリーよりも先に、まずは聖騎士か
ら仕留めようでは無いか。︱︱おおおおおっっっ!!﹄
ライガンは紅蓮の大剣を両手で握り絞め、ゼノス目掛けて高く跳
躍する。大剣でゼノスを串刺しにする気らしい。
魔王となったはいいが⋮⋮ゼノスからすれば、魔王ルードアリア
よりも遥かに弱く、戦いに慣れていない様に窺える。ルードアリア
が何を思ってその身をライガンに託したかは定かで無いが⋮⋮聖騎
士にとって、今の魔王は敵では無い。
ゼノスは上空から迫り来る魔王を見上げもせず、動じもしない。
魔王の大剣がゼノスの頭蓋骨を抉ろうとする瞬間、ゼノスは極僅
かに身体を逸らす事で回避する。⋮⋮力任せの一撃程、躱し易いも
のはない。
891
﹃なっ⋮⋮﹄
地面に剣を突き刺し、空振りした魔王は動揺と共にゼノスへと振
り向く。
﹁⋮⋮何を驚いている?ルードアリアならば、ここで俺に向かって
剣撃の嵐を振り撒く所だぞ﹂
﹃ぐ、ぬぬ⋮⋮わ、若造が﹄
魔王が何か言おうとするが、ゼノスはそれを許さない。
何とゼノスはリベルタスを鞘に納め、間近にいる魔王の大剣の腹
に向かって回し蹴りを放つ。︱︱紅蓮の大剣をいとも容易く折って
しまった。
﹃!?﹄
驚きの余り、言葉を失うライガン。
892
もし対峙する相手がルードアリアだったならば、紅蓮の大剣には
冥府の死者達の怨念を込めており、とても蹴り一発で折る事は出来
ない。
だが相手はライガンである。彼は力の使い方を熟知していないし、
恐らくシールカードの力を全て使う事も出来ないのだろう。
︱︱そんな相手に、剣を使うまでもない。
﹁ふっ!﹂
ゼノスは戸惑う魔王ライガンに向けて拳を放ち、ライガンの鎧に
めり込ませる。
ヒットした鎧の部分は派手に砕け散り︱︱ゼノスの重い一撃は容
赦なく彼の生身へと撃ち付ける。
﹃︱︱ごほっ﹄
兜の隙間から滴り落ちる鮮血。魔王ライガンは吹っ飛ばされ、そ
の場にて崩れ落ち、咳き込みながら腹部を抑える。
893
その様子を冷ややかな目で見据え、ゼノスは言い放つ。
﹁⋮⋮弱い、何もかもが。力も、スピードも、戦闘能力も皆無⋮⋮
⋮⋮何よりも、曖昧な意志がお前をそうさせている﹂
﹃な⋮⋮んだと⋮⋮﹄
魔王ライガンは起き上がろうとするが、激痛故に動く事もままな
らない。聖騎士の拳は大地を突き破り、天をも穿つ。この程度はま
だ序の口であるが、大抵の者ならば致命傷を与えられる。︱︱まあ
そんな事よりも。
ゼノスは服の埃を払いつつ、更に追求する。
﹁⋮⋮お前が統べる国は滅び。お前の民も先程死に絶えた。︱︱な
のに、何故全てを曝け出さない?隠す相手もいなければ、隠す程の
地位にいるわけでも無いのに﹂
今のライガンは肩書だけの魔王。ギルガント国王の地位でも無け
れば、民を統べる統治者という権限も存在しない。
ならば︱︱今の彼は、何者でも無い。
894
彼はそれを自覚せず⋮⋮今も世間の鎖に縛られている。
﹃⋮⋮貴様に、何が分かる。一体私の何を知って、そんな戯言を呟
く﹄
魔王ライガンは息を荒げるも、不屈の闘志を帯びたまま立ち上が
って見せる。
彼はふらつきながらも、ゼノスに近づいてくる。⋮⋮もはやゼノス
と戦える状態ではないというのに、それでも魔王は諦めを示さない。
﹃この身は⋮⋮ギルガント王家の嫡男として生まれて来た。⋮⋮生
まれた頃から、戒律と⋮⋮それに浸透した皆の中で、自由も無い生
活を強いられてきた﹄
彼は呟く。定められし宿命を、朦朧とした状態で打ち明ける。
﹃⋮⋮私とて、一人の人間。確かに戒律は不条理だと⋮⋮この国は
おかしいと⋮⋮何度も何度も思った。︱︱ッ﹄
895
と、そこで限界を果たしたライガンは、前のめりに倒れていく。
いくら魔王の身体とはいえ、ゼノスの一撃はライガン本人の魂にと
って、深刻なダメージだったのだろう。
⋮⋮だが、これしかなかった。
ライガンの本心を明かすには、結局打ち勝つしかなかったのだ。
﹁︱︱ッ。父様!﹂
それは本能故か、ロザリーが焦燥に駆られながらライガンの元へ
と走り寄る。ゼノスはそれを止めはしない。
ロザリーはライガンを仰向けにし、呼吸を整えさせる。
﹃⋮⋮⋮⋮は、はは。何とも惨めな様よ。⋮⋮戒律第二条﹃戒律に
反した者を処罰出来なかった場合、その者を罪人と同等の扱いに処
する﹄に反する⋮⋮な﹄
﹁父様、もう喋らないで!お願いだから⋮⋮もう﹂
896
ロザリーが涙を零す中、ライガンはその顔をジッと見つめる。
そして︱︱漆黒の籠手を、彼女の頬にあてる。
﹃⋮⋮ロザリー。既にお前と同じ罪人となった身として⋮⋮言わせ
て、貰おう﹄
彼は優しくロザリーの頬を撫で⋮⋮涙声になりながらも呟く。
﹃︱︱私は愚かだった。本心ではお前を愛し、ノルアを愛し⋮⋮幸
せな家族でいたいと⋮⋮心の奥底から願っていた。だ、だが⋮⋮私
は、過去のトラウマと⋮⋮王としての責務を優先し⋮⋮⋮⋮お前ら
に、酷い仕打ちを行った﹄
ライガン王の過去もまた、壮絶だった。
彼もまた抗い続けた。兄妹を救う為に、相思相愛だった少女を助
ける為に、若きライガンは王国の戒律に反抗してきた。
結果は悲惨なものだった。
897
世間は冷たく、戒律に染まりきった両親や貴族達は容赦なく懲罰
を下してきた。兄妹達は不条理な戒律によって罰せられ⋮⋮相思相
愛だった少女も、王族に関わった罪として目の前で処刑された。
⋮⋮ライガンはそれ以降、抗う事を諦めた。
受け入れるしかなかった。魔王ルードアリアの戒律に⋮⋮そうす
れば、苦しまずに済むと。
光と闇が同居し始め、ライガンは国王となった。
娘を罰する悲しみと、戒律に従えば苦しまずに済むと言う狭間に
囚われながら、ライガンは今日この日まで生き続けてきた。
﹃⋮⋮私はね、もう分からぬのだよ。何が正義で⋮⋮何が悪か⋮⋮
⋮⋮戒律の前では、盲目となるしかなかった。⋮⋮すまぬ⋮⋮本当
に、すまぬ⋮⋮﹄
﹁⋮⋮父様﹂
898
ロザリーとライガンは、互いに涙を流し合う。
⋮⋮そう、結局はライガンも人間である。
環境は時として人の条理を壊し、自己の意志を支配してしまう。
何とも恐ろしく、怖い話であろうか。
初めて分かち合った親子。
それは幸福の始まりか?それとも、未知なる生活の到来か?
︱︱どちらでもない事は、既にゼノスとアスフィは知っている。
ゼノスは深く深呼吸をし⋮⋮ロザリーに語り掛ける。
﹁⋮⋮ロザリー。︱︱今すぐライガンから離れろ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
899
と、そこでロザリーもライガンの急変に気付け始めた。
彼の身体中から黒い瘴気が立ち籠り始め、ライガンの身体に触れ
ていたロザリーは手の痺れを感じる。ロザリーはすぐに手を離した。
次第に瘴気は彼を包み込み始める。
﹁と、父様⋮⋮?父様、父様!﹂
﹃ぐ、おお⋮⋮は、離れろロザリー⋮⋮⋮⋮この身は既に消滅し、
ルードアリアの身体を拝借している立場⋮⋮ま、おう⋮は、私に⋮
⋮失望なされた⋮ようだ﹄
ライガンは低い呻きを上げながら、事の顛末が当然だと受け入れ
る。
ロザリーは切羽詰まった表情で、闇に染まっていく父を傍観する
事しか出来なかった。
分かり合えたと思ったのに⋮⋮叶うならば、皆が平和に生きる道
があったのではないかと模索し、それが実現すると渇望していたの
に。
900
︱︱この現実は、余りにも酷である。
﹃⋮⋮ロ、ザリ⋮⋮今まで⋮⋮⋮⋮本当、に⋮⋮ぐ、おおおおおお
おっっ!!﹄
﹁父様!父様ぁ︱︱︱︱︱︱ッッ!﹂
父の傍に向かおうとするロザリー。だがこれ以上の接近は彼女に
も大きな被害を与えかねない。ゼノスはロザリーを無理やりに抱き
抱え、安全な位置まで後方へと跳躍する。
不穏たる魔の不協和音。絶望と怨念の渦がライガンの身体中を覆
い尽くし、暗黒の繭を形成していく。
それは古き死の誕生。月光の下で猛々しく猛威を振るい、深淵の
魔界を統一した最強の悪魔が芽吹く瞬間︱︱。
繭は宙へと浮遊し︱︱︱︱黒き羽となって霧散していく。
901
神々しさとは裏腹の禍々しき波動。邪気が空間全てを振動させる。
その忌々しい旋律に冷や汗をかきつつ⋮⋮ゼノスは問いかける。
﹁二度とその面を拝みたくなかったよ。︱︱悪趣味な遊びは終わり
か?﹂
﹁ええ、十分に楽しみました。⋮⋮そして、またお会いしましたね、
聖騎士﹂
繭から出てきたのは、黒衣のローブに身を包む華奢な男。
青白い頬には漆黒の刻印が刻まれ、その容姿、身体はどんな女性
をも魅了し尽くす。魔王と呼ぶには相応しくない柔和な微笑みを見
せ︱︱魔王ルードアリアは敬語で答えてくる。
︱︱嗚呼、こいつだ。
902
ゼノスの知る魔王の姿は、漆黒の鎧に包まれた姿だけでは無い。
何もかもを曝け出し、まるで自分を縛る足枷を外したような力の
鼓動。それは全てを圧倒し、生きとし生ける者に多大なる恐怖を与
える。アスフィは平気な様子だが、ロザリーに限っては恐怖に身を
委ねるしかなかった。
⋮⋮これこそが魔王ルードアリアの真の姿、その真髄である。
﹁︱︱貴様を殺す前に、まずは答えて貰おうか。その目的を⋮⋮こ
の惨劇を起こした理由をな!﹂
ゼノスは激昂する。尊い犠牲を無下に扱い、そうして微笑んでい
られるルードアリアに怒りを覚えながら。
ルードアリアは微笑し、軽やかに言い放つ。
﹁ふふ、相も変わらずですね。⋮⋮なに、とても単純な理由です﹂
そう言いながら、彼は細腕を天井へと伸ばす。
﹁︱︱私の願いは、魔の蔓延る世界の創造。その為に魔王を崇拝す
903
るギルガント王国の信者を従えただけの事⋮⋮それの何に怒ってい
るかが、私にはさっぱりですね﹂
﹁ふざけるな!貴様はギルガント王国に不条理な戒律を与え、今ま
で何度もそれに苦しんできた者達がいたんだぞ!?︱︱お前に魂を
預けたライガンも、ロザリーもだ!﹂
ギルガント王国の犠牲者は、皆このルードアリアの気まぐれによ
って苦しみ、悲しみ、そして死んで行った。
⋮⋮だが、それでもルードアリアは笑みを絶やさない。
﹁︱︱私はそれを見たいが為に、ギルガントに戒律を与えたのです
よ?そして勿論、ライガンにこの身を貸した一つの理由も⋮⋮その
娘と父の﹃喜劇﹄を見たくてやった事ですから﹂
⋮⋮その言葉に、ゼノス達は絶句する。
彼は何の悪気も無く、純粋な気持ちを暴露してきた。ギルガント
に戒律を与え、苦しみを授けた理由は⋮⋮ただ見たいから、と言っ
たのだ。
904
﹁それだけじゃない。︱︱これもまた、私がライガンを欲した理由
です﹂
ルードアリアは両手を胸に近付け、手と手との間から異様な光が
漏れる。
念じ続けて現れたのは︱︱ライガンが持っていた﹃魔のシールカ
ード﹄だった。
﹁︱︱ッ。⋮⋮もしかして﹂
そう言葉を紡いだのはゼノスじゃない。壁際にてゲルマニアを介
抱するアスフィものだった。彼女は素直に驚き、苦虫を噛んだ表情
である。
ルードアリアは愛おしそうにカードを撫で、言い放つ。
﹁⋮⋮そう、魔とは私にこそ相応しい。ライガンがシールカードの
所持者だと気付き、これを私の物にしたいと思ったのです。その為
に彼と融合を果たし、シールカードの所有権を強制的に私の物とし
た︱︱そんな所です﹂
905
⋮⋮それは可能なのか。未だに信じられない思いでいるゼノス。
だがアスフィから詳しい事情を聞けない今では、その事実をあり
のまま受け取るしかない。
魔王は饒舌のまま、言葉を続ける。
﹁彼は︱︱ライガンはよくやってくれました。私に父と娘の﹃喜劇﹄
を見せてくれ、私の想像通りの結末で幕を下ろしてくれた。︱︱と
ても面白かったですよ﹂
⋮⋮狂っている。
あくまで人の不幸を糧にし、それを喜劇と謳う魔王ルードアリア。
ロザリーはそれを耳にし⋮⋮冷めきった闘志がふいに湧いてきて、
闘志は魔王への殺意と移り変わる。
﹁⋮⋮貴方が、全てを壊した。私の人生を︱︱家族の人生を弄んだ
ッッ!﹂
906
剣を握り締め、ロザリーは果敢に魔王へと立ち向かっていく。
﹁︱︱よせっ、ロザリー!﹂
ゼノスが制止を要求するが、既に彼女の耳には届いていなかった。
魔王はニコリと笑み、彼女に向かって手の平を向ける。その手か
ら暗黒の黒い塊が派生し、濃密な波弾を精製する。
間違いなく、彼はロザリーを殺す気だった。
波弾から異様な回転音が響き渡り、発射される。この距離からで
は間に合わない︱︱とゼノスが思った瞬間だった。
ロザリーの前へと誰かが咄嗟に現れ、その暗黒の波弾を大剣で跳
ね返す。
︱︱それは、先程まで昏倒していたゲルマニアだった。
907
﹁ふふ、少しはやるようですね。騎士のシールカード﹂
﹁う、ぐ⋮⋮﹂
ゲルマニアは片手で大剣を振るって跳ね返したが、同時に異様な
痺れを片手から感じる。余りにも強い力に、ゲルマニアは苦悶の表
情を浮かべる。
﹁ゲルマニア、大丈夫か!?﹂
﹁は、はい⋮⋮何とか。や、やっと来てくれたのですね、ゼノス﹂
そう言って安堵の表情を浮かべたゲルマニア。だがそれも一瞬の
事で、すぐさま連続の波弾を放ち始める魔王に気付き、ロザリーを
抱え、回避しながら後退していく。
ゲルマニアとロザリー、そしてゼノスが並び合う形となった時、
魔王は突如大きく笑い出す。
908
﹁ふふ⋮⋮足りない、まだ足りませんね。︱︱けど残念です。念願
の魔のシールカードを手にした今⋮⋮⋮⋮君達を相手にする暇は無
いのですよ﹂
魔王は意味深な言葉を放ち︱︱彼の背後に黒い渦が出現する。
あれは察するに︱︱どこかに繋がる扉の様なものだろうか。
﹁どういう事だ?﹂
﹁⋮⋮とても素晴らしい喜劇が始まるのですよ、聖騎士。もし見た
ければ、付いて来ても構いませんよ?ふふ、ふふふ⋮⋮ふはははは
っっっ!!﹂
まるで付いて来いと言っているかの様に、魔王は高笑いしながら
渦の中へと飛び込んでいく。
﹁︱︱ゲルマニア、追い駆けるぞ!﹂
﹁はいっ!﹂
ゼノスは魔王の奇妙な行動に嫌な予感を感じつつ、ゲルマニアと
909
共に渦に飛び込もうと決断する。
﹁ゼ、ゼノスッ﹂
︱︱だが、そんな二人を引き留める者がいた。
その人物は、弱々しい表情を浮かべるロザリーであった。
﹁⋮⋮わ、私も⋮⋮行く﹂
﹁⋮⋮﹂
ゼノスとロザリーはしばし見つめ合う。彼は見定める様に、彼女
は懇願する様に互いを見る。
⋮⋮ロザリーの心は確かに強くなった。だがゼノスから見れば、
実力はまだ開花しておらず、魔王との戦闘では確実に足手まといと
なる。
910
その気持ちは分かるが⋮⋮死に急ぐ友を放っておけるゼノスでは
無い。
ゼノスは溜息をつき︱︱ロザリーの頭をぽんぽん、と叩く。
﹁︱︱言ったろ、俺がその宿命を終わらせるって。単なる復讐は身
を滅ぼし、大切な者も悲しませる原因となる﹂
﹁で、でも﹂
彼女が何か反論しようとする。⋮⋮その前に、ゼノスは玉座の後
方、そこで気を失っているノルアへと目を向ける。
﹁あの人がロザリーの姉さんなんだろ?⋮⋮ロザリーが死んだら、
お前の姉さんに一体どう説明したらいいんだ?﹂
﹁︱︱ッ﹂
彼女はまだ全てを失っていない。
911
この宿命は荷が重過ぎる。友として⋮⋮ゼノスはその宿命を共に
背負いたいと思うばかりだ。
︱︱ゼノスはゲルマニアと頷き合い、彼女はその身を輝かせ、光
の粒子となって周囲に溶け込んでいく。光の粒子はゼノスの身体全
体を覆っていく。
⋮⋮戦う気だった。ロザリーの為に、その命を賭してまで宿命を
背負うと豪語してきた。
︱︱何故、貴方はいつも私を助けてくれるの?
ロザリーは何の役にも立っていなかった。何の意味も無く生まれ
て⋮⋮誰かの為になる存在では無かった。
そんな自分を⋮⋮何でこうも救ってくれるの?
﹁どうして⋮⋮どうしてそこまでしてくれるの⋮⋮⋮⋮﹂
彼女の心配に満ちた声を耳にするゼノス。
912
﹁どうしてって⋮⋮そんなの、簡単な理由だよ﹂
光の粒子が明確な形を形成する中、彼はロザリーを見ずに前へと
進んで行く。
その身は白銀の鎧に包まれ、赤きマントをはためかせる。重厚な
白銀の鎧は、後ろで困惑する友の為に生まれ、全てを救う為に具現
化された。
白銀の聖騎士ゼノスは、背後で見守ロザリーに⋮⋮たった一言だ
け言う。
﹁︱︱俺を絶望から救ってくれた、恩人だからさ﹂
そう言い残し、ゼノスは渦へと走り去って行く。
その場にロザリーとノルア、そしてアスフィを残し、彼は魔王の
913
元へと立ち向かう。
⋮⋮ゼノスの後ろ姿を見据えるロザリー。もはや、彼女は懇願す
るしか無かった。
﹁⋮⋮お願いします、神様。どうか⋮⋮どうかゼノスを死なせない
で﹂
彼女は願う。愛しい友を、いやそれ以上の何かとなったゼノスに
祝福を、と。
914
ep25 始まりの闇
ゼノスが渦へと飛び込んでいくと、その先には床が存在しなかっ
た。
重力の法則に従い、渦の先に待っていた深い深い混沌の穴へと急
降下していく。周囲には様々な瓦礫がゼノスと同じく落下していて、
歪曲した異空間の底へと沈みゆく。
︱︱そこで、ゼノスは瓦礫の上に佇む魔王に気付く。
ゼノスもまた彼と対峙する位置にある瓦礫へとわざと落ちて行き、
何とかその場へと着地する。
﹁おや、とても懐かしい姿ですね。⋮⋮そして、やはり付いて来ま
したか﹂
﹁当然だ。騎士は国の危機に、主の危機に、そして友の危機に必ず
馳せ参じる。貴様の様な外道を滅する事︱︱それが皆の為にもなる﹂
915
⋮⋮そしてゼノスにとって、この魔王の討伐は特別な意味を持つ。
魔界の更なる研究材料として彼を生け捕りにしたが、その判断は
間違っていたと後悔している。あの時は単身で魔界へと繰り出し、
彼が率いる九人の悪魔貴族を撃破した後に挑んだ。実際、本領を発
揮し尽くせなかったわけだが︱︱
︱︱こうして罪悪感を覚えるぐらいなら、死ぬ覚悟で戦えば良か
った。
そうすれば、ライガンは完全なる悪にならなかった筈。⋮⋮あん
なに苦しんでいるロザリーを、見ずに済んだ筈だ⋮⋮。
⋮⋮しかし、後悔先に立たずとは良く言ったものだ。
今は後悔よりも先に、魔王が企む何かを阻止しなければならない。
︱︱その思いが、彼を奮起させるのだ。
916
﹁おやおや、何やら色々な感情が混ざっていますね。︱︱後悔、不
安、焦燥⋮⋮そして私への疑念。⋮⋮およそ聖騎士らしくないです
ね﹂
魔王は嘲笑する。それではまるで弱き人間だと、死をも恐れぬ白
銀の聖騎士は既に死んだのかと馬鹿にする。
﹁⋮⋮何度でも嗤えばいい。そんな事よりも、今は貴様を殺す方が
︱︱優先だっ!﹂
ゼノスは何の前触れも見せず、瞬時に他の瓦礫に向かって跳躍す
る。
刃の腹部分を使い、その巨大な瓦礫に撃ち付ける。凄まじい轟音
が鳴り響き、瓦礫の塊は怒涛の勢いで魔王へと放たれる。
﹁ふふ、ふははっ!面白いですね!⋮⋮いいでしょう。素晴らしき
宴の前に、以前のリベンジマッチといきましょうか!﹂
魔王は飛来する瓦礫に憶さず、瓦礫に向かって高く舞い上がる。
917
何も無い場所から紅蓮の大剣を取り出した魔王は、すぐさま瓦礫
を一刀両断する。その勢いを保った状態で加速し、魔王とゼノスの
刃が重なり合う。
ほぼ互角の力量だった。
ゼノスは騎士の加護を、魔王は魔の加護を受けて強化されている。
圧倒的有利だとか、不利などは存在しない戦況である。
﹁力は大体同じですか⋮⋮。ですが、シールカードの力はどうでし
ょうかね!﹂
突如、紅蓮の大剣を片手に持ち、もう片方の手にカードを出現さ
せる。
﹁では聖騎士⋮⋮かつて滅ぼした敵に苦しんでみて下さい。︱︱﹃
悪魔のダイヤ、魔性の幻影﹄ッ!﹂
魔王の持つカードは黒い球体となり、一気に周囲へと拡散してい
く。一つ一つの個体は大きな集合体と成す。
その集合体は︱︱九匹の悪魔﹃魔界貴族﹄と化した。
918
﹁︱︱こいつ等はッ﹂
ゼノスはその者達に見覚えがある。九つの層から成り立つ魔界、
層毎に統一する魔界貴族が存在していて、彼等はその統治者︱︱要
するに、魔王直属の臣下に値する。
彼等はゼノスが殺した筈だ。生き返ったとは言い難いが、相応の
形で顕現されたのは確かなようだ。
九匹の魔界貴族は物言わず、虚ろな瞳でゼノスへと強襲してくる。
ゼノスは危機を感じ、遥か後方へと飛び退く。
﹃︱︱ッ。ゼノス、避けて!﹄
脳裏からゲルマニアの声が響いてきて、注意を投げかけてくる。
ゼノスが飛びながら後方を見やると︱︱槍を投擲してくる魔界貴
族がいた。あの槍は﹃ブリューナク﹄、一度貫かれれば一生抜き取
る事が出来ないと云われる魔槍であった。
919
﹁くっ!﹂
ゼノスは空中で腰を捻り、数ミリの差でブリューナクを回避する。
だがそれだけでは彼等の猛攻は収まらない。ゼノスが着地した先
には既に三匹の魔界貴族が待機していた。剣、棍棒、鎌がゼノスに
向かって振るわれる。
﹁うおおおおおおおおおおっっっ!﹂
雄叫びを上げ、リベルタスと素手で三匹の攻撃を執拗にこなして
いくゼノス。もはや人智の領域を遥かに逸脱した技量で相手を圧倒
し、終いには三匹をいっぺんに後方へと下がらせる。
しかし、相手は九匹と一人。
ゼノスが息を切らせる中で︱︱瓦礫の下から声が発せられる。
﹁爪が甘いですよ、聖騎士﹂
920
﹁ッ!﹂
ゼノスが足場としていた瓦礫が崩壊する。それは自然にそうなっ
たのではなく、魔王自らが紅蓮の大剣によって打ち砕いたのだ。
眼前へと姿を見せる魔王。邪気を孕んだ魔の拳がゼノスの鎧を叩
きつける。
﹁︱︱がはっ!﹂
﹃うぐっ!﹄
ゼノスとゲルマニア、両者は同様のダメージを受ける。ゼノスの
身体は吹っ飛び、歪曲した空間へと追いやられる。
向かう先は途方も無い異次元⋮⋮生き残る保障など全く以て無い。
このままでは空間の狭間を迷い、一生出られなくなるかもしれない。
そんな絶対絶命の中で焦燥に駆られる。
︱︱死ぬ。ゼノスがそう確信してしまった時だった。
921
黄金に輝く羽が舞い散り、残光がゼノスの視界を奪う。
光のカーテンが光景を覆い、それが徐々に視界から消え去って行
くと⋮⋮九匹いた魔界貴族がいつの間にか全て消滅し、ゼノスは誰
かに支えられながら宙を浮遊していた。
支えているその人物は︱︱始祖アスフィであった。彼女は敵を一
瞬にして全て滅ぼし、ゼノスの窮地に駆けつけてくれた。
﹁⋮⋮アスフィ﹂
﹁遅れてごめんね、ゼノス。ちょっとロザリー達を逃がすのに時間
が掛かっちゃって﹂
そんな軽口を放ちながら、アスフィは近くにある瓦礫へとゼノス
922
を下ろす。
始祖本来の姿であるアスフィは、その姿に相応しい鋭い眼光を魔
王へと向ける。その威圧は魔王を、ゼノスさえも畏怖する睨みであ
った。
﹁魔王ルードアリア。︱︱もし私の想像通りならば、今すぐにシー
ルカードを手放した方が良いよ。⋮⋮それは何の意味も成さないか
ら﹂
アスフィは魔王の意図を掴んだ上で、神妙な面持ちで語り掛ける。
﹁おや、何故でしょうか。私は在るがままの秩序を復活させようと
しているのですよ?﹂
﹁⋮⋮君は勘違いしてるよ。あれは⋮⋮もう﹂
アスフィはそれ以上言わなかった。消え入る様な声となっていき、
在ってはならない未来に震えるだけだった。
魔王はその様子を訝しむが、その態度もほんの一瞬だった。
923
また微笑を浮かべ直し、紅蓮の大剣を掲げる。
﹁⋮⋮何を知っているかは存じませんが、要するに私の願望を阻止
する気でいらっしゃるようだ。︱︱本当に面倒なので、すぐに片を
付けましょう。聖騎士諸共、死んで下さい﹂
魔界貴族を葬られても動じない魔王。大剣から生じる凄まじい闇
の波動は全てを振動させ、垣間見る者に圧倒的恐怖を与える。
⋮⋮彼は本気だった。微笑は狂喜の笑みと化し、聖騎士と始祖を
一撃必殺で破滅に導こうと企む。
︱︱魔王の奥義。それは聖騎士との死闘の末に発揮し、彼を極限
にまで追い詰めた至高の技であった。死に行く亡者の魂は技の糧と
なり、彼を敬う悪魔はその身を魔王に捧げる。
闇の真髄が︱︱紅蓮の大剣に集約されていく。
924
﹁くっ⋮⋮﹂
ゼノスは苦渋の表情で魔王を見据える。
あの技は危険過ぎる。リベルタスでも斬れず、全身全霊を掛けて
もうち滅ぼせない驚異である。
唯一の対抗策は︱︱無い。
否、昔は存在していた。幾多の戦場を共に駆け抜け、聖騎士の﹃
盾﹄として彼を守って来た史上最強のそれが⋮⋮。
だが、あれは既に存在しない遺物。︱︱﹃ルードアリアの盾﹄は、
始祖との戦いで失ってしまったのだ。
⋮⋮なら諦めろと言うのか?
⋮⋮いや、そうはいかない。
925
この身がどうなろうと構わない。例え朽ち果てようとも、騎士に
相応しくない醜態を晒そうとも⋮⋮友の為に、死んで行った犠牲者
の為にも。
︱︱死ぬわけには、行かないッ。
﹁︱︱恒久の平和を築くまで、無様に死んでたまるかああっっっ!﹂
ゼノスの覚悟。ヒルデアリアの光魔石よりも固く、どんな存在よ
りも気高き騎士の中の騎士。
人の為に戦う。人の為に死んで行く。それがゼノスの生きるべき
道であり、定められし宿命。
︱︱その心が、﹃騎士のシールカード﹄に反応する。
ゼノスの心臓部からシールカードが現れ、驚愕するゼノスの目前
926
を浮遊する。
﹁⋮⋮⋮⋮これは﹂
仄かな明かりが辺りを照らし、周囲の時間が遅くなったような錯
覚に襲われる。静寂な雰囲気が漂い始め、あろうことか魔王のモー
ションも遅くなっている。
だがそれ以前に⋮⋮何故、何故カードが突然輝き始めたのか?
﹁それはゼノスの意志に反応して出現したんだよ﹂
アスフィの声が聞こえたと思いきや、彼女はゼノスへと近づきシ
ールカードに自分の手の平を当てる。
﹁よくやったね。︱︱君は騎士のシールカードに相応しい意志を、
また一つ得た。その意志がカードを呼び寄せたけど⋮⋮これはまだ
不完全の状態﹂
アスフィの言葉と共に、シールカードは段々と光を伴い始める。
927
暖かい光。どんな闇にも対抗し、迷える者達を導く正義の塊が正
体を見せる。
﹁︱︱始祖の力は災厄の象徴だけれど⋮⋮私はこの力を、平和の為
に使いたい。そして平和を築きたいと願う君に︱︱︱︱始祖の祝福
を与えたい﹂
⋮⋮これが、始祖の力。
ゼノスは光り輝くシールカードを見つめ、自分の鼓動が早くなっ
ていくのを感じる。まるでシールカードと同調している様な⋮⋮何
とも不思議な感覚だ。
︱︱騎士のシールカードは、光の粒子となって霧散する。
﹁さあ、願ってゼノス。︱︱君は今、何がしたいの?﹂
928
﹁⋮⋮俺は﹂
ゼノスが瞳を閉じて思案する中︱︱時の流れはまた普遍となる。
魔王は溜めに溜めた魔力を最大限にまで蓄え︱︱絶大なる奥義を、
遂に解き放った。
﹁聖騎士、始祖ッ!下らぬ茶番と共に、地獄の業火に焼き尽くされ
なさいっっっ!﹂
魔王が紅蓮の大剣から放つのは、黒き炎獄の集合体。
その炎は過去何千年、何万年にも渡って悪意に満ちた生命を焼き
払い、その身に憎悪を溜め込んできた。炎から聞こえる嘆きは哀れ
なる生命の叫びであり、炎から流れ出る負の感情は、全ての強欲。
彼等は生者を妬んでいる。故に彼等は︱︱聖騎士と始祖が羨まし
い。
闇の荒波は︱︱容赦なくゼノス達を飲み込んでいく。
929
﹁ふふ⋮⋮⋮⋮さらば光の権化。我が闇と共に在れ﹂
魔王は確信する。憎き宿敵は滅び、我が願いは成就されると。無
残にも埋もれていくゼノスとアスフィを見下ろして勝利の余韻に浸
り始める。
︱︱だが、それは思わぬ勘違いだった。
﹁︱︱ッ﹂
魔王はふいに表情を歪ませる。︱︱なぜなら、地獄の業火が四方
八方へと吹き飛んでしまったからだ。絶対と謳われた洗礼の炎は、
いとも容易く消失していく。
そして黒き炎の中から飛び出てくる二人の影︱︱それは始祖と、
片手にリベルタスを︱︱もう片方に﹃ルードアリアの魔盾﹄を携
えたゼノスが、魔王目掛けて舞い上がる。
外装は黒光りし、過去の主たるルードアリアによって邪盾を称さ
れた悲しき盾。しかし聖騎士が使用する事によって、彼の盾は﹃闇
を払う邪悪なる盾﹄として世に評される事となった。
930
︱︱かつての所有物を目にし、魔王は意表を突かれる。
そこまで驚く理由はただ一つ。その盾は自分の身を守る為に造ら
れた物であり、同時に諸刃の刃と化す。
つまりは︱︱魔王唯一の弱点であった。
﹁⋮⋮⋮⋮聖騎士⋮⋮何故、何故その盾を持っているのですか!?
それは始祖との戦いで失った筈では︱︱ッ﹂
そう、確かに魔盾ルードアリアはその身を滅ぼし、永遠に亡き物
となってしまった。
言うなれば、これもまたカードが見せし実体ある幻想。
﹃騎士のクローバー、全てを払いし守護者﹄である。
﹁や、止めなさい⋮⋮。そ、その盾を、向けないで下さいッ!﹂
931
魔王は一心不乱のまま闇の波弾を何個も投げてくる。
だが魔盾の前では蚊程に等しい。ゼノスは跳躍しながらも巧みに
波弾を盾で防ぎ、払い返し、相殺していった。
かつてと同じ状況。魔盾を簒奪したゼノスはこうして魔王を苦し
め、その身柄を生け捕りにした。
︱︱そして今回もまた、ゼノスの前で羞恥に溢れた表情を見せる。
﹁ば、馬鹿な⋮⋮これもシールカードの力だと言うのですかっ!?
私は成すべき事が︱︱果たさなければならない宿命がっ!﹂
﹁もう黙れ、魔王。︱︱これで何もかもを終いにする﹂
何もかも⋮⋮そう何もかもだ。
聖騎士との因縁も、魔の蔓延る時代も、そしてギルガント王国に
巣食う呪われし宿命も︱︱今ここで断ち切る!
932
﹁よ、寄るな⋮⋮寄るなあ︱︱︱︱︱︱︱︱ッ!﹂
魔王は苦し紛れに紅蓮の大剣を振り下ろす。かつての戦いを再び
思い出してしまったのか、彼の瞳には恐怖しか映っていなかった。
ゼノスが魔王の懐へと入った瞬間に、大剣を魔盾で防いで見せる。
無駄な抗いであった。︱︱闇の象徴たる紅蓮の大剣は、皮肉にも
ルードアリアによって創造された盾によって刀身を折られてしまっ
た。
﹁くっ⋮⋮くそ⋮⋮お﹂
﹁︱︱聖騎士流妙技、﹃瞬﹄﹂
瞬︱︱死は唐突に来る一瞬の出来事。
リベルタスが奏でる剣舞の音色は聞こえず、だが幾十もの一撃が
詰め合わさった細かい芸当である。
その剣撃は死の到来よりも早く︱︱魔王の全身を斬り裂いた。
933
全身から鮮血の飛沫を吹き出し、苦しみ喘ぐ言葉も発さずに血だ
まりへと倒れていく。
⋮⋮終わった。
ゼノスは一息つき、魔盾を消失させてリベルタスを鞘へと納める。
相変わらずの薄気味悪い歪曲した空間ではあるが、もう敵の気配
は残っていなかった。後はゼノスと⋮⋮
と、そこでゼノスがアスフィを見やると︱︱
﹁⋮⋮どうしたんだ、アスフィ?そんな険しい顔をして⋮⋮もう相
手するような奴はいないぞ﹂
何と、アスフィは全身を震わせていた。さしものゼノスもその様
子に戸惑いを隠せなかった。
934
敵の気配は既に無ければ、戦う相手も存在しない。
なのに、始祖である彼女がそこまで恐れる何かとは⋮⋮?
﹁⋮⋮もう、手遅れだったんだね﹂
﹁え⋮⋮?﹂
ゼノスが疑問の声を出すと、ゲルマニアも怯えた様な声音で語り
掛けてくる。
﹃ゼ、ゼノス⋮⋮な、何だか物凄く嫌な予感がします。どこまでも
深く⋮⋮どこまでも暗い何かが⋮⋮あ、ああ⋮⋮﹄
﹁ゲルマニア?おい、大丈夫か!﹂
ゼノスは訳が分からなかった。自分では何の気配も感じられない
のだが、どうやら二人は絶大なる何かに怯えているのだ。
935
壮大で⋮⋮魔王よりも遥かに偉大な⋮⋮⋮⋮
﹁︱︱︱︱︱︱ッッ﹂
そして、ようやくゼノスも感じ始めた。心臓が跳ね上がる様な錯
覚に陥り、呼吸さえも出来ない状態でその場へと膝を付く。
﹁ハア、ハア⋮⋮何だ⋮⋮この、圧力は⋮⋮⋮⋮?﹂
肺機能が上手く働かず、締め付けられる様な痛みがゼノスを、ア
スフィとゲルマニアに襲い掛かってくる。
⋮⋮こんな感覚、久しぶりだった。ゼノスがまだ最強と謳われる
以前は、こうして自分よりも上の存在に畏怖し、身体を怖ばせてい
た。
まさしく今がその状況だ。︱︱正直の所、死守戦争での始祖との
戦闘以上の緊張感がひしひしと伝わってくる。
936
ピシッ⋮⋮ピシッ、ピシッーー
歪曲した空間に亀裂が走り、それは空間全体に行き渡る。
亀裂はやがて大きななり︱︱パリンッ、とガラスの様な割れ方で
世界が弾け飛んでいく。
︱︱ゼノス達は、凍える様な寒さの湖畔に佇んでいた。
湖の全長は軽くランドリオ城下町と同等の広さを有している。し
かし薄暗い森林に囲まれ、深い霧に囲まれているせいか、実感は余
り感じられないが。
空には太陽も無ければ、月も見えない。ただ幻想的な世界が辺り
を包み込み、その中でゼノス達はぽつんと突っ立っているだけであ
った。
937
何の変哲もない、何処かも分からない世界。
︱︱その湖の中央にいる、﹃ゼノスが恐れる存在﹄を除いては︱︱
﹁⋮⋮な、んだ⋮⋮こいつは⋮⋮⋮⋮﹂
その巨大な体躯を持った化け物は、湖の真ん中で氷漬けにされて
いた。
黒き体毛に覆われた、例えるならば漆黒の獣⋮⋮獣と言っても、
世の中に存在するどんな動物とも似通っていない恰好をしていた。
その全身からは溢れ出る闘気が、発せられる禍々しい覇気は⋮⋮
あのゼノスでさえも震えるしか無かった。
﹃な、何ですか⋮⋮これは。ア、アスフィさんっ!﹄
ゲルマニアはすっかり混乱し、何かを知っていると見てアスフィ
に疑問を投げかける。ゼノスもまた同じ心境だった。
938
アスフィは息を呑み⋮⋮一生懸命言葉を紡ごうした。
︱︱その時だった。
﹁ふ⋮⋮ふふ⋮⋮⋮⋮まだ、分からないのですか⋮⋮馬鹿、ですね
⋮⋮﹂
﹁︱︱ルードアリアッ。貴様⋮⋮まだ生きていたのか!?﹂
ゼノス達が後方振り向くと、そこには息を切らし、死を間近にし
た魔王ルードアリアの姿があった。
その場に倒れ伏し、血反吐を吐きながら笑っている魔王。困惑す
る様子をさも楽しそうに見届けながら⋮⋮彼はあの化け物へと視線
を移す。
﹁ここ、は⋮⋮九つの層から成る魔界の⋮⋮更に深い層⋮⋮⋮深淵
の層と呼ばれる⋮場所⋮⋮。ふ、ふふ⋮⋮ここまで言えば⋮⋮既に
分かるんじゃ⋮ないですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ま、さか﹂
939
ゼノスは背筋を凍らせ、血の気が引くのを感じる。
深淵の層⋮⋮。魔王を生け捕りにした後にどれだけ捜しても、そ
の存在を見つける事が出来なかった。︱︱カルト信者が吹聴した単
なる噂であって、所詮は伝説でしかないのかと思っていた。
︱︱それはこんな伝説だった。
今から一万年前の時代、ランドリオ帝国が創設されたばかりの時
世に災厄が巻き起こり、地獄の底から神を憎みし者が誕生した。
そいつは当時の六大将軍、そして二代目聖騎士が死闘の末に封印
を施し、地獄の底に在りし深淵の層へと追いやったと伝えられてい
る。
⋮⋮もしも、その伝説が正しくて、この場所が本当の深淵だった
のなら、
940
﹁︱︱︱︱︱︱こいつが魔王神⋮⋮なのか?﹂
﹁ええ⋮⋮そう、ですとも⋮⋮⋮⋮この方こそ⋮⋮私の神⋮⋮⋮⋮﹂
そう言って、ルードアリアは震える手でシールカードを掴み取る。
カードを頭上に上げてみせる。
﹁⋮⋮お願い魔王。その行為は何も得ないし、お互いにとって何の
意味も成さないものだよっ!?﹂
アスフィが賢明に問いかけるが、魔王はカードをしまおうともし
ない。
﹁ふ、はは⋮⋮理解に、苦しみますねえ。︱︱それとも、そうまで
して⋮⋮魔王神様を復活させたくない⋮⋮理由があるのですか?﹂
﹁⋮⋮復活?﹂
ゼノスは意味不明の意志を露わにし、アスフィへと振り向く。
941
だが、アスフィは口を閉ざしたままだった。複雑な感情が入り交
じっているのは確かであったが⋮⋮今はそんな事に気を使っていら
れない。
︱︱魔王神が復活する。察するに、今ルードアリアが持っている
シールカードが鍵で⋮⋮それを使えば、実現してしまうのか?
理由は分からない。︱︱しかし、
ここで殺さねば、最悪の事態になる事は確かだった。
﹁ちいっ!!﹂
ゼノスはリベルタスを引き抜き、全速力でルードアリアへと接近
する。
﹁もう⋮⋮遅い、ですよ﹂
魔王は目前にいるゼノスを嘲け笑い⋮⋮カードは黒き粒子となっ
942
て拡散していく。ゼノスの追い打ちは間に合わず、魔王の意志に従
ってシールカードが発動されてしまった。
粒子は風に乗って魔王神の身体全身へと纏わり付き、増殖してい
く粒子は魔王を覆う竜巻となっていく。
︱︱死を超越せし者、悲しき闇に囚われし神々に反逆する王。
創世記に存在した闇の神が、シールカードという謎に満ちたもの
によって、凶悪で醜いその姿を︱︱氷の牢獄から解き放つ。
﹃グ、オオオオオオオオオ︱︱︱︱ッ!﹄
復活した魔王神は、誇り高き咆哮を鳴り響かせる。振動は世界全
体を揺るがし、大地の上に立つゼノスとアスフィは、呆気なく後方
へと吹っ飛ばされる。
943
ひたすら地面に縋り付く魔王は、その姿を見て高らかに笑う。
﹁は、ははははっ!お久しぶりです、魔王神様っ!このルードアリ
ア、感動の極みでございますっっ!﹂
︱︱嗚呼、果たしてこれは現実なのだろうか。
ゼノスとアスフィは、ただその姿を見つめる事しか出来なかった。
二代目聖騎士を苦しめ、世界の人口を一瞬にして半分以上減らし
てしまった脅威の悪夢。
時代を超え、遥かなる眠りを経て︱︱
︱︱聖騎士と魔王神は、また巡り合う︱︱
944
945
ep26 古き者の遺言
目覚めたばかりの魔王神は、その巨大な瞳をぎょろりと動かして
いく。獰猛な眼差しは森林を見据え、空を見上げ⋮⋮そして遂に、
ゼノス達を見下ろして来る。
﹁ああ⋮⋮ああ、魔王神様。⋮⋮相も変わらずですね⋮⋮。覚えて、
らっしゃいますか?私、です⋮⋮ルードアリア、です﹂
さも愛しい主に敬意を抱き、掠れた声音で自分の名を上げる魔王。
既に死を目前に控えているにも関わらず、何とも奥深い忠誠心だ
と思うゼノスであったが。
感動の再会は、唐突の言葉によって崩れ去る。
﹃⋮⋮ダ、レ⋮⋮ダ﹄
946
魔王神から発せられる言葉に、ルードアリアは瞠目する。
﹁だ、誰って⋮⋮わ、私でございます。貴方と共に⋮⋮悠久の過去
にて戦場を共に⋮⋮共に駆け抜けたルードアリアでございますっっ
!﹂
﹃⋮⋮ソ、レ⋮⋮ハ、ボク⋮⋮ノ⋮⋮ゥゥッ﹄
もはやルードアリアの声さえも届かないのか、魔王神は唸りなが
ら意味の分からない言葉を呟く。
明らかに様子がおかしかった。それはルードアリアどころか、ゼ
ノスでさえも把握出来た事だった。
﹁⋮⋮ど、どういう事ですか⋮これは。覚えていない⋮⋮いや、そ
もそも⋮⋮⋮魔王神様から⋮⋮魂の気配が感じられない⋮⋮?﹂
と、ルードアリアが必死に原因を探している最中だった。
947
﹃タマ⋮⋮シイ⋮⋮⋮⋮カエセ⋮⋮⋮カエセッッ!﹄
魔王神の身体から漆黒の蔦が生えてきて、その蔦は大地を伝って
ゼノス達の方向へ目掛けてやって来る。
ゼノスとアスフィはふいに身構えたが⋮⋮その蔦は二人を通り過
ぎ、魔王ルードアリアを捕えた。
﹁なっ⋮⋮。ま、魔王神様⋮⋮これは、一体⋮う、うあああああッ
!﹂
︱︱それが、魔王ルードアリアの最期の言葉だった。
ルードアリアは蔦によって魔王の口元へと引き寄せられていく。
大きな口を開き⋮⋮魔王は呆気なく魔王神によって食われてしま
った。嘆く事も、叫ぶ事も出来ずにだ。
﹃⋮⋮ゼ、ゼノス﹄
948
ふいに聞こえてくる、ゲルマニアの戸惑った声。
彼女は指示を待っていた。今起こっている現状に理解が及ばず、
一体自分達は何をすればいいのかと⋮⋮。
︱︱こんな化け物に、勝ち目はあるのかと。
﹁⋮⋮ッ﹂
もはやここまで来てしまったら、逃げる事など不可能だ。
ゼノスはリベルタスを正眼へと構え、額に汗をたらしながら魔王
神と対峙する態勢を取る。
﹁⋮⋮アスフィ。この際色々な疑問は後回しにさせて貰う。今はと
りあえず⋮⋮こいつを倒すしか無いんだろ?﹂
﹁︱︱うん。でも倒す事は考えなくていい。ただ⋮⋮相手に傷を与
えるだけでいいから﹂
949
傷を負わせる、か。
果たしてこれ程の相手にどこまで通用するか⋮⋮しかも二人で、
恐らく援軍も来ないであろう。この空間に行き着く事は、例えユス
ティアラやラインでも非常に難しい事である。
︱︱ゼノス達は、無事に生き残る事が出来るのか?
聖騎士と始祖の共同戦線、この組み合わせはこれ以上にない最強
で最悪なペアだけれど⋮⋮⋮⋮いや、これ以上の弱音は禁物か。
弱音を吐いている場合ではない。魔王神が地上へと出てくると思
うと、こいつはこの場で食い止めなければならない。始祖の言う事
は未だに信用に欠けるが⋮⋮今は弱らせるという事だけを考えるし
かない。
︱︱その為にも、本気で掛からねばならない
白銀の聖騎士が極めてきた経験を生かし、その技量に秘められた
全ての力を発揮し︱︱始祖戦以来の全力で挑む。
950
じゃないと︱︱こっちが殺される。
﹃ゥ⋮⋮タマ、シイ⋮⋮⋮⋮ボクノ⋮⋮ドコ、ダアアッッ!!﹄
遂に、魔王神がゼノス達に攻撃を仕掛ける。巨人よりもでかい手
を盛大に振りかぶり、ゼノスとアスフィに目掛けて放ってくる。
﹁ゼノス、来るよっ!﹂
﹁分かってる!﹂
ゼノスとアスフィは目にも止まらない速さで拳を回避し、互いは
高く宙へと跳ね上がる。
その際にアスフィは両手に憐憫たる弓を出現させ、黄金の矢を精
製する。光芒のような弦をぐっと引き︱︱魔王神の心臓に向けて放
ち、
︱︱見事、心臓を射抜いたはずだった。
951
﹁︱︱ッ!?﹂
輝く矢は寸前で受け止められてしまい、魔王神は世界を滅ぼす程
の力を持った矢を、何と素手で握り潰した。
﹁始祖の矢を⋮⋮。くそっ、なら今度は俺が﹂
ゼノスもまた攻撃の機会を逃さなかった。リベルタスに聖なる祈
りを込め、刀身からは眩い光が立ち籠る。
リベルタスは聖剣と化し、彼は剣を大上段から振り下ろす。
﹁聖騎士流、滅技︱︱﹃白銀の聖炎﹄!﹂
振るわれる剣、その軌跡から白銀色に染められた聖なる炎が発生
し、光り輝く豪火の猛威は魔王神へと寄せられる。
952
絶大なる力を込めて放たれた極限の奥義。その威力は世界中の人
間が対抗しても敗北を余儀なくされるであろう最強の一撃である。
︱︱だが︱︱
それは人間の領域内での話。︱︱神々に相当する魔王神の前では、
児戯に等しかった。
ゼノスの聖なる炎は魔王神の周囲に発せられるバリアによって防
がれてしまった。何の前触れも無く、聖騎士奥義の一つを打ち破っ
た。
﹁︱︱ッ。おいおい、あれ一応俺の奥義だぞっ!?何て耐久力なん
だッ!﹂
こうして聖炎を破られたのは、過去数回の中でも初めての事だっ
た。それは始祖の技も同様だったようで、彼女を遠目から見る限り
では相当悔しそうだ。
︱︱だったら
953
ゼノスは着地を魔王神の肩へと変更し、風に身を委ねてその場へ
と落ちて行く。気付いた魔王神がしつこく引き剥がそうと蔦の脅威
が襲うが、ゼノスはそれを掻い潜りながら剣を魔王神の身体へと押
し立て、肩から右腕まで一気に斬り裂いた。
甲高い悲鳴を上げる魔王神。ゼノスは急いで体から離れようと跳
躍する。
一瞬魔王神と目が合った時︱︱不可解な現象に直面した。
⋮⋮⋮⋮何だ、この感覚は。
奴は確かに悪の結晶体であり、本物の闇そのもの。しかし、その
瞳には様々な思いが貼り廻らされていて⋮⋮微かな光が垣間見えた。
有り得ない現象を目にし、ゼノスは困惑するしかなかった。
954
﹃ジャ⋮⋮マ、ヲ⋮⋮スル、ナッ﹄
途端、ゼノスはゾクッと身体全身を震わせた。
その咄嗟の恐れが不幸を呼び、動けなくなったゼノスを狙うかの
ように反対の拳が飛んで来て︱︱ゼノスに直撃した。
﹁︱︱︱︱︱う、ぐっ﹂
その一発はとてつもなく重かった。勢いよく地面へと叩きつけら
れたゼノスの鎧は破壊され、血反吐を盛大に吐いた。利き手で無い
右腕は変な方向に曲がり、肋骨も何本か折れたようだ。⋮⋮戦う事
は愚か、もはや立ち上がる事さえも出来ない。
一方で鎧を解除されたゲルマニアも、直接的ダメージは無いが身
体全身が麻痺した感覚に襲われる。
﹁︱︱ッ。ゼノス⋮⋮しっかり、ゼノス!﹂
﹁ぐ、あぁッ。⋮⋮⋮⋮⋮⋮ち、くしょう⋮⋮。⋮な、何て力⋮⋮
だ﹂
955
﹁そ、そんな⋮⋮﹂
あの聖騎士が、最強と謳われたゼノスが重傷を負ってしまった。
それだけでも重大な事だが⋮⋮次の瞬間、ゲルマニアに更なる驚愕
が襲い掛かる。
上空から始祖が飛来してきて、受け身も取れないままゼノスの様
に地面へと落ちてきたのだ。
アスフィさん⋮⋮﹂
﹁が、はッ。や、やっぱり⋮⋮強い﹂
﹁ア、
万事休すとはこの事であろうか。ゼノスも、そしてアスフィもま
た魔王神の覇気によって身動きが取れなくなり、不意を突かれて反
撃されたのだ。
︱︱強過ぎる。こんなの⋮⋮規格外だ。
抗う余地さえも与えない、攻撃する機会など存在しない。ゼノス
達は敵だと認識されず、無様にも倒れ伏した。
956
﹁くっ⋮⋮ア、アスフィまずいぞ。このままじゃ⋮⋮三人ともッ﹂
と、ゼノスが叫んだが、返って来た返事は意外なものだった。
﹁あ、安心してッ!もう魔王はかなり弱っている!あの体は既に一
万年も使用されてなかった身体だから⋮⋮もうこれ以上はっ﹂
﹁な、何だって⋮⋮﹂
そんな馬鹿な、とゼノスとゲルマニアは信じられない様な表情を
浮かべたが、果たしてそれは現実となった。
アスフィの言う通り、魔王神は低い唸り声を上げながら⋮⋮ふら
ついた状態で、何と湖畔へと頭を倒して来たのだ。︱︱確かによく
見れば、魔王神は疲弊しきっている様にも見て取れる。
ゼノスはゲルマニアの力を借り、アスフィは自力で魔王の顔へと
近づいて行く。
957
そして近距離に来たが、それでも魔王神は攻撃してくる気配を示
さなかった。
﹁⋮⋮で、これからどうするんだ。アスフィ?︱︱う、ごほっごほ
っ!﹂
﹁ゼノスッ!﹂
正直な所、ゼノスはもう戦える身体では無い。今の状態では奥義
どころか、聖騎士流剣技さえもまともに繰り出せないだろう。⋮⋮
何日かの療養生活は覚悟した方が良さそうだ。
だが、命拾いをした。もしあのまま戦っていたら、間違いなく三
人共死んでいたに違いない。⋮⋮情けない話だが。
﹁大丈夫、任せて﹂
アスフィはただ一言そう呟き、武器を伏せて更に魔王神へと近寄
る。
958
﹃⋮⋮タ、マ⋮シィ﹄
﹁⋮⋮もう休んで。魂は、貴方の魂はちゃんと存在するよ⋮⋮﹂
慈しむ様に答えるアスフィ。
その声音に反応した魔王神は、憎しみに満ちた瞳を向ける。
﹃⋮⋮﹄
﹁過去一万年間の定めは⋮⋮全部この始祖が請け負っている。全て
は私の中に、あらゆる元凶は⋮⋮私と共にある﹂
自らの胸を抑え、神妙に言葉を紡ぐ。
まるで痛み苦しむように、全ての責任を背負っているような面持
ちであった。
959
﹁⋮⋮だから、もう憎しみに駆られなくていいんだよ?例えこの世
の誰もが貴方を恨み、妬んでも⋮⋮﹃私達﹄だけは、分かっている
から﹂
アスフィは呟く。優しく、慈悲を抱きながら。
闇の深淵で紡がれる言葉。それは悠久の眠りについていた彼を安
心させ、永遠の憎しみから解放出来た瞬間。
︱︱彼は、魔王神は一瞬微笑んでいた様に見えた。
﹃⋮⋮アリ⋮⋮ガ、トウ。⋮⋮⋮アス、フィ﹄
︱︱︱︱え。
ゼノスは驚愕した。
960
何で⋮⋮何で一万年前の存在が、アスフィという名前を知ってい
るのか?あれは自分が浮かんだ名前を付けただけなのに⋮⋮⋮⋮い
や、待て。
⋮⋮何かが引っ掛かる。
それは、果たして本当に偶然から浮かんだ名前なのか?
どこかで聞いたような、幾度もその名を呼んだ記憶が︱︱
﹁︱︱ッ﹂
思い出そうとした瞬間、頭痛がゼノスを襲った。
彼は知らない、絶対に分からないはずなのに。単なる疑問で終わ
れば、どれほど良かったものか。
961
そうすれば、この胸のつかえは消え失せるのに︱︱ッ
自分は︱︱何を知っている?
﹁ゼノス⋮⋮だ、大丈夫ですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
ゲルマニアの心配に対し、ゼノスは何も答えられない。魔王神の
存在が、始祖の存在に対しての疑問で、今は頭が一杯だった。
白い霧が脳内にかかった様で、訳の分からない魔王神とアスフィ
の会話が嫌で仕方なかったのだ。
︱︱魔王は不可解な言葉を残し、巨体は砂となって散り行く。
アスフィの言った事は本当だった。魔王神の身体は既に限界を超
えていて、動くだけで崩壊していく程やわとなっていた。
962
こうして魔王ルードアリアが死に、魔王神も消え失せた。
深淵の世界から遠のいていく彼等。
多くの謎を残したまま、ゼノスは現世へと戻って来た。
魔王の騒動は、アルギナス牢獄に多大な影響を及ぼす事となった。
963
地下牢獄の囚人は全て殺され、牢獄自体も半壊状態。地上の牢獄
街にも多少の被害が出てしまい、牢獄の駐屯部隊は忙しない復興作
業をする羽目になるようだ。
︱︱で、一方のゼノス達も同様であった。
本当ならば事件解決の当日に城へと帰還する予定であったが、ゼ
ノスとアスフィの負傷により、ゲルマニアが独断で一日滞在を決め
込んだのだ。素早い報告を直々に皇帝陛下へと伝えたかったが、幸
いにも無傷であるラインがその役を一任してくれた。
⋮⋮さて、肝心のロザリーとノルアについてだ。
ロザリー自身は無事であったが、ノルアは救出された後も気絶し
たままであった。
余程の疲労が溜まっているだけであって、大事には至らない。彼
女は姉を心配する一方、安堵していた。
964
皆が騒動解決に安心し、心を落ち着かせる。
︱︱ただ一人、ゼノスを除いては。
965
ep27 儚き想いを心に秘めて
魔王を討伐したその日の夜、ゼノスは警備部隊本部詰所の医務室
にてゲルマニアに看護されていた。
全身には不器用な手つきで施された包帯が巻かれていた。別にど
うでも良い所までグルグル巻きにされ︵ゲルマニアに︶、身動きの
取れない彼は、ジト目でリンゴの皮を剥くゲルマニアを見つめてい
た。
﹁ふんふん、ふっふふ∼ん♪待っていて下さいねゼノス。今リンゴ
を食べ易く斬ってますからね∼﹂
⋮⋮食べ易く?
ゼノスはリンゴへと目を移す。果たして殆どの身を皮ごと剥かれ、
殆ど芯しか残っていないそれをどうやって食えと?
いやいや、食えないだろ。てかそもそも、口部分は四重にも包帯
966
で巻かれているし︱︱ッ!
⋮⋮本当なら上層部に待機していた医療部隊に頼みたかったが、
彼等は牢獄街に住まう囚人の手当に人員全てを用いており、ゼノス
やアスフィの面倒までは見きれないらしい。
てなわけで⋮⋮こうしてゲルマニアの介護を受けている始末なの
である。
︱︱いや、正確にはゲルマニアだけでは無い。
実はもう一人、ゲルマニアの反対側にてお湯を入れた桶にタオル
を浸している奴がいるのだ。
無表情でゼノスの身体を拭こうとする⋮⋮ロザリーが。
﹁⋮⋮ゼノス、お願いだから服を脱いで。それじゃ体を拭けないか
ら﹂
﹁⋮⋮﹂
967
どうやって脱げって言うんだ?
この二人は冗談でやっているんじゃないか、と疑いたくなるぐら
いゼノスの状態を見ていない。両手も固定され、両足も固定され、
更には口も封じられているんだけど。
﹁んん、んぐっ!んぐぐっっ︵これを外してくれ!これを!︶﹂
ゼノスがロザリーにそう訴えると、何故か彼女は頬を染める。
﹁⋮⋮ゼノス。お、女の子に⋮⋮下半身を拭けって言うのはどうか
と思う﹂
言ってねえよ、そんな事!
何をどうすればそんな受け取り方が出来るのかが理解不能だ。⋮
⋮それを聞いたゲルマニアは、急激に冷えた目つきでゼノスを見る
始末だし。
﹁うぐぐっ!ぐぐ、ぐぐぐっ!﹂
968
﹁ゼノス!い、いい加減にして下さい!一応私達は、その⋮⋮お、
女の子なんですよっ!﹂
︱︱だ、だからそんな事言ってないっての!
ゼノスと女性二人の押し問答は続き、やっとゼノスの言っている
意味が理解されたのは約五分後の事であった。
口と両手と片足の包帯を外された後、はあはあと息切れしながら
ゼノスは言う。
﹁⋮⋮お、お前ら⋮⋮何がしたかったんだ一体﹂
﹁な、何って⋮⋮単なる看護ですよ。ねえ、ロザリーさん﹂
﹁⋮⋮うん﹂
真面目くさった表情で即答するゲルマニアとロザリー。その誠意
は有り難い事だが、変な所で鈍いのは勘弁してほしい所である。
969
ゼノスは深く溜息をつく。
﹁⋮⋮ま、まあいいやもう。︱︱で、だ。ちょっと聞きたい事があ
るんだが﹂
﹁?どうしたんですか﹂
﹁いや大した事じゃないんだが⋮⋮アスフィはまだアルギナスにい
るか?﹂
ゼノスは真剣な表情でゲルマニアに問いかける。
そう、彼女には聞きたい事が山程あった。ゼノスは先程まで仮眠
を取っていたので、アスフィが今はどうしているか分からない。
ゲルマニアはゼノスの意図を察したのか、言いづらそうに答える。
﹁⋮⋮いえ、アスフィさんは既にライン、ミスティカと共にハルデ
ィロイ城へと帰還しています﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
970
﹁あ、あの。ゼノスはやっぱり、深淵での出来事に疑問を持たれて
いるのですね?﹂
その言葉に、ゼノスは首肯する。
﹁ああ。︱︱あいつは絶対何かを隠している。魔王神の事や自分の
名前の事⋮⋮そして、シールカードについてな﹂
どうして何も語ろうとしないのか?これは自分にとっても、そし
て彼女の願う世界平和にも関わる問題だ。皇帝陛下との密約にも反
する。︱︱決して内密にして良い話では無い。
そうだ、ゼノスは未だに何も知らない。シールカードはどうして
存在するのか、どうやって生まれたのか?始祖とは一体何者で、ど
うして平和を願うのか?
悩みは尽きるどころか、増える一方だ。直接本人に問い詰めたい
のに、それが出来ないとは口惜しい。
971
そんな思いつめた様子に、ゲルマニアはただこう答えるしかなか
った。
﹁⋮⋮と、とにかく今は休んでください。明日にはハルディロイ城
へと帰らねばなりませんし⋮⋮その時に聞けば大丈夫ですよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮まあ、そうだな﹂
今ではもう叶わない事を、確かに物々と嘆いても仕方ない。
疑問は払拭し切れないけれど、ゲルマニアの言う通り、この状態
から早く直さないといけない。明日には騎士として、国を守る為の
責務を果たさなければならないのだから。
﹁分かった、もうこれ以上は何も言わないよ。だったらほら、お前
も早いとこ寝床につきな。疲れた顔してるぞ﹂
﹁は、はい⋮⋮。ではロザリーさん、後の事はお任せしても?﹂
﹁⋮⋮大丈夫。私も少ししたら寝るから﹂
ゲルマニアはすみませんと言い、剥き終えたリンゴを置いて医務
972
室を出ていく。その足取りは重そうで、彼女も戦いに疲れていたよ
うだ。
︱︱さて、医務室にはゼノスとロザリーの二人だけとなった。
ゼノスはただ白い天井を見上げ、ロザリーは絞ったタオルでゼノ
スの腕を拭いていた。何も話さず、何も言わずのまま。
⋮⋮だがロザリーが体を粗方拭き終え、タオルを置くと同時に、
ゼノスから口を開いた。
﹁⋮⋮どうだ、姉の様子は?もう目を覚ましたか?﹂
﹁⋮⋮ううん、まだ目覚めてない。かなり衰弱していたみたいで、
今は点滴を打っている所﹂
ロザリーは無機質な声音で答える。だが眉は少々垂れ下がり、至
極心配そうな様子で話してくれた。
973
﹁成程な⋮⋮という事は、ロザリーはしばらくここに滞在するよう
になるな。名残惜しいが、こればっかりは﹂
﹁⋮⋮いえ、明日になったら私もここを出る。それは変わらない﹂
﹁なっ!﹂
ゼノスは驚きの余り、ベッドから身を起こそうとする。が、急な
動きに身体が痛み、苦悶の表情を浮かべる。
ロザリーは落ち着いてと呟き、ゼノスをゆっくりと寝かせる。
﹁⋮⋮どうしてだよ。だって、ようやく再会したのに⋮⋮⋮⋮ノル
アとまた一緒に暮らせるんだぞ?もう⋮⋮戦う理由なんて無い筈だ
ろ?﹂
ロザリーはギルガントの宿命に抗う為に、この二年間を戦い抜い
て来たのだ。苦しくて、悲しくて⋮⋮勝っても負けても辛い目にし
か合わない戦いに、もう身を投じる必要は無い。
974
ゼノスはもう彼女を戦わせたくない、傷付かせたくない。だから
必死に彼女を止めようとする。
⋮⋮しかし、ロザリーの意志に揺らぎは無かった。
その表情は復讐とは違う、強い光の意志を込めた様子だった。
﹁⋮⋮そうね、確かにノルア姉様とこのまま何処か遠くに行って、
小さな村でも、小汚い城下町でもいいから一緒に住みたい﹂
﹁だったら︱︱ッ﹂
﹁⋮⋮でもねゼノス。私はそれ以上にやりたい事が出来たの。それ
は未だ縛られた私の宿命と関わる事だから﹂
宿命?もうそれは終わった事では⋮⋮
と、ゼノスが言おうとする前に、ロザリーは話を続ける。
975
﹁︱︱知りたいの。父様を歪ませたシールカードの正体を、この世
界で起こっている大きな戦争の結末を。⋮⋮そうじゃなきゃ、私は
納得出来ない。父様も浮かばれないし、姉様もその事実を知りたい
のだと思う。だから貴方と共に進むの、だから戦おうと思うの。︱
︱その真実を知るまでは、姉様に会わす顔が無いから︱︱﹂
﹁︱︱ッ。それが例え、最悪な結果であっても⋮⋮知りたいのか?﹂
勿論、と彼女は頷く。
ロザリーの意志は強固だった。到底ゼノスが言葉で説得出来るわ
けが無く、絶対にゼノスから離れないと言う意志を露わにしていた。
﹁⋮⋮どうなっても知らないぞ﹂
﹁⋮⋮余計なお節介。それよりも、そろそろ寝たらどう?傷に障る
し、健康にも悪い、成長作用に狂いが生じる、騎士としてだらしな
い、不衛生、それから﹂
﹁わ、分かった分かった。⋮⋮俺ももう寝るよ。そろそろ眠ろうと
思ってたし⋮⋮⋮⋮というか、それを考えたら眠くなって来た⋮な﹂
976
あれ、段々と眠気が。
この唐突に来た睡眠欲に抗えなかったゼノスは、ロザリーを前に
して深い眠りについてしまった。
︱︱ロザリーが眠り薬を水に入れたと知らぬまま、彼は熟睡した。
ロザリーはふう、と息をつき、すやすやと眠るゼノスを無表情の
まま見つめる。
眠り薬入りの水をあげたのは一時間ぐらい前なのに、ゼノスの強
977
靭な精神に対して中々聞かなかった事に驚くロザリー。こうなった
ら様々な手を使ってでも眠らせようと思ったが、結果オーライであ
った。
︱︱今のゼノスは考え過ぎだ。さっきまで仮眠を取っていたと豪
語していたが、実際は何度も目を覚まし、その度に難しい顔をして
いた事は知っている。
なのでロザリーは考えた。眠り薬で強制的に眠らせ、一時でもい
いからゼノスに安らぎを与えようと。
⋮⋮子供の様に純粋な顔で眠り続けるゼノス。
彼女は誰もいない医務室で、誰も来ないこの空間の中で⋮⋮そっ
とゼノスへと顔を近づける。
︱︱そこには、優しく微笑むロザリーがあった。
978
﹁⋮⋮有難う、ゼノス。今日までずっと、私の為に悩んでくれて﹂
その純粋な気持ちは、恥ずかしくて誰にも晒せない。無論、ゼノ
スにもだ。
今はこうして⋮⋮独り言のように呟く事しか出来なかった。
﹁︱︱何も恩返しは出来ないけど、一方的な行為だと自覚している
けど⋮⋮⋮⋮今の気持ちを、貴方に示します﹂
そう言って、ロザリーはゆっくりと顔をゼノスの顔へと近付けて
いく。ゼノスの寝息とロザリーの吐息が聞こえ合う中で︱︱
︱︱ロザリーは自分の唇を、ゼノスの唇へと触れ合わせた。
979
優しく、愛おしく⋮⋮。︱︱数秒後、それが本能から出た行動と
自覚する。
ロザリーは顔を真っ赤にさせながら、自分がやった行為に驚きす
ぐにゼノスへと顔を離す。
まるで初心な乙女のよう、初恋を抱く可憐で誠実な少女のよう︱
︱いや、正に今のロザリーはそれだった。
ゼノスを見る度に高鳴るこの想いは︱︱そうか、﹃恋心﹄だった
のかと気付く。
自分は確かに全てを知りたいが⋮⋮それと同時に、いつまでもゼ
ノスと一緒にいたいんだなと、今更ながらに認識する。
ロザリーは自分の指で、自分の唇をなぞる。
⋮⋮柔らかかったゼノスの唇。それが忘れられなくて、また味わ
980
いたいという儚い衝動に駆られる。
⋮⋮でもそれじゃ駄目だと、自分の中の自我が制止する。
ゼノスはまだ忙しい身だ。これから待ち受ける更なる困難に立ち
向かい、全ての者達の為に、苦しむ人々を守るために戦い続ける。
そんな人にこれ以上の悩みは植えつけたくない。⋮⋮そう、ロザ
リーがここでゼノスを好きだと言ってしまえば、彼は戦いに揺らぎ
を生じさせてしまう。
⋮⋮だから、この事実は自分だけの物にしよう。
誰にも知られてはいけない。この想いは︱︱この悲しい恋だけは、
自分だけの支えとして残しておこうと。
﹁⋮⋮﹂
そうして、ロザリーはまた無表情を作る。
981
︱︱これが今の自分。⋮⋮一生懸命に本性を隠す、仮の仮面。
ロザリーは医務室の灯りを消し、颯爽と部屋を出て行った。
時刻は午前七時三十分、ぐっすりと眠ったおかげで元気となった
ゼノス一行。⋮⋮正確には心だけ元気になり、身体は相変わらず負
傷状態で、松葉杖をつくゼノス以外は元気という意味だ。
982
彼等は現在アルギナス牢獄上層部を更に上へ登り、外へと通じる
入口付近にいる。
そう、今日はアルギナスを離れてハルディロイ城へと帰る日だ。
ゼノスが負傷している為、帰りは馬車で帰還する事となった。
﹁⋮⋮ロザリー、どうしたんだ?俺の顔に何か付いてるのか?﹂
﹁⋮⋮何でもない﹂
ロザリーは素っ気なく答える。とはいえ、彼女は今日ゼノスと会
ってからずっとこちらを覗いているのだが。何か熱っぽいような、
どことなく羞恥に満ちたように。
﹁ゼノス、余計な考えは禁止﹂
﹁え?あ、ああ﹂
何だか知らないが、自分の思い凄しだったのだろうか?
983
よく分からないまま、ゼノスは負傷した足に気を使いながら馬車
へと乗り込み、その後にゲルマニア、ロザリー⋮⋮⋮⋮⋮⋮ん?
と、そこでゼノスはもう一人場所に乗り込んでくる存在に気付く。
その一人とは⋮⋮紫色の着物を纏う、清楚な衣装に包まれたユス
ティアラであった。
﹁⋮⋮何でお前も行こうとしてんだ﹂
﹁むっ、妙な言い草だな聖騎士。︱︱﹃例の報せ﹄があっただろう
に、その為に自分も帰還するというのが不服か?﹂
⋮⋮﹃例の報せ﹄?
﹁あっ⋮⋮しまった。す、すいませんゼノス。昨夜言うのを忘れて
ました﹂
984
ゲルマニアが焦った様子で謝ってくる。勢いよく頭をぺこぺこと
下げた後、昨日報されたという報告を口にする。
﹁これは本国の、しかもアリーチェ皇帝陛下が直接仰られた事なの
ですが⋮⋮本国以外の地域にいる六大将軍は全員城へと戻り、一か
月後に控えた行事に参加せよとの事です﹂
六大将軍全員?
その言葉に少なからず驚きを隠せないゼノス。彼等六人が集結す
る時は、必ずと言っていい程重大な出来事がある時だけだ。
﹁⋮⋮その行事って何だ?﹂
﹁そ、それなんですが⋮⋮﹂
ゲルマニアは少々間を置いてから︱︱その事実を口にした。
985
﹁一か月後︱︱アリーチェ皇帝陛下の婚約披露パーティーを執り行
うそうです﹂
⋮⋮⋮⋮へ?
ゼノスは唐突の打ち明けに、足の痛みを忘れてその場から立ち上
がる。一体誰ととか、何故急にという言葉を告げるよりも、今はそ
の報せ自体に驚くしかなかった。
我が麗しき皇帝陛下の御結婚発表。こんな時期に︱︱何故?
︱︱ゼノスの疑問が、また一つ増える瞬間であった。
986
987
ep0 妙な一日の始まり
ランドリオ騎士団の朝は早い。
早朝四時には騎士見習いが起床し、朝支度を即座に済ませた後、
上官の指導によって朝稽古を行う。六時には騎士団全員が目を覚ま
し、大隊長達を筆頭に騎士の仕事を果たすという形になる。
それは約千人規模の騎士を従える大隊長の上司、六大将軍もまた
同様である。例え高位の職に就いているとはいえ、彼等は一般兵と
は違った重大な任務に備える為に誰よりも早く起床し、活動する。
⋮⋮だが、彼だけは違った。
二年間の放浪生活によって培われた堕落症で誰よりも早く起床し、
誰よりも凄まじい鍛錬を行い、そして誰よりも多くの武勲を残して
きたその青年は⋮⋮⋮⋮午前八時になっても起きる様子が全く無か
った。
988
︱︱騎士団が寝泊まりするハルディロイ城別棟の最上階、六大将
軍だけが使用する部屋の一室にて、大きな口を開けて爆睡するその
青年︱︱ゼノス・ディルガーナは一人の少女に身体を揺さぶられて
いた。
﹁⋮⋮ゼノス、起きて下さいゼノス。︱︱もう八時ですよ?﹂
﹁ん⋮⋮むむ⋮⋮ゲ、ゲルマニア⋮⋮あと二時間⋮⋮﹂
﹁駄目ですよ、それでは皆が心配してしまいます。⋮⋮あと、私は
ゲルマニアでは無いのですが﹂
と、苦笑いを浮かべながらそう言う少女。
989
その後に︱︱部屋の扉を荒々しく開ける者がいた。
﹁︱︱ゼノスッ!何度も言ってるじゃないですか!平日は午前六時
前に起きるのが騎士団の鉄則、上に立つ者ならば当然の義務である
と⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮え、ええ?﹂
ふと、いつもの様に起こしに来る少女︱︱ゲルマニアの声が響き
渡るが、途中からそれは困惑の声と化す。
ゼノスは不審に思い、少女二人の声が聞こえる方へと体を向け、
ゆっくりと目を開ける。
扉に立つ紫髪の少女は、白銀の聖騎士ゼノスの補佐を務めるゲル
マニア。これに関しては何の問題も無い。
⋮⋮で、ゼノスのベッド脇に座る少女はというと。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
﹁お早う御座います、ゼノス。ですが余りにも遅い起床は⋮⋮この
990
私が許しませんよ?﹂
その少女は驚きの余り固まるゼノスとゲルマニアを他所に、にっ
こりと微笑んでくる。
肩にまでかかった金色の髪、清楚で純白なワンピースに身を包ん
だその少女は、この国の者ならば誰もが知っている人物である。
ゼノスはそそくさとベッドから起き上がり、青のナイトキャップ
に水色のパジャマを着た状態のまま片膝をつき、その少女に頭を垂
れる。
﹁お、おはようございます︱︱アリーチェ皇帝陛下ッ。白銀の聖騎
士ゼノス・ディルガーナ、只今起床しました!﹂
﹁︱︱はい、お早う御座います﹂
その少女︱︱ランドリオ帝国を統べるアリーチェ皇帝陛下は、臣
下であるゼノスに包容ある笑みを浮かべる。
991
アルギナス牢獄での騒動から三日が経過した今日この日。
︱︱新たな災難が始まろうとしている。
992
ep1 聖騎士部隊
ゼノスとゲルマニアは、騎士団詰所前にて広大に広がる騎士団専
用の鍛練場、そこで整列する部下達を見つめていた。
三日前のアルギナス牢獄騒動を終え、魔王神との戦いで傷を負っ
たゼノス⋮⋮だが彼の強靭的な回復力が素晴らしく、僅か二日の療
養で片足の骨折が癒えてしまった。⋮⋮これもまた常人を逸する所
以の一つであろう。
︱︱この回復にはゼノス本人も驚きだ。昔はよく怪我をしていた
が、最近は滅多な怪我をしなかったので、まさかこれ程まで自分の
身体が強くなっていたとは思わなかったのだ。
⋮⋮⋮⋮まあ、それはともかくとして。
ゼノスは今日から六大将軍として本業を行う身であるが、一か月
に行われるというある行事の為に、彼等六大将軍はしばらくの間、
993
主に城内での仕事を全うする身になる。
⋮⋮アリーチェ様の婚約披露パーティー。
ランドリオ皇族が婚約を発表する際、その場には六大将軍全員が
出席しなければならず、一か月前には城で待機をしなければならな
い。将軍とは基本遠征を基本業務とする立場であるが、この時限り
は致し方ない。
という訳で、ゼノスは聖騎士人生初めての城内待機を強いられる
事となった。
それは他の六大将軍も同様であるが⋮⋮ただ一つ問題があった。
︱︱如何せんやる事が少ない。必要な書類作業は一通り終了して
いるし、今の所怪物や外国からの侵略者が来たという報告は無い。
いやあったとしても、その任はランドリオ騎士団の大部隊が処理し
てくれるだろう。
内政に関しても出番が無いのが常である。この面ではランドリオ
騎士団政治指導部隊というものが存在しており、彼等を中心として
政治を動かしている。将軍はあくまで法律案の可決を決める立場に
あるだけだ。
994
そんなわけで、結局ゼノスはゲルマニアの希望により、午前中は
聖騎士が管理する大部隊の鍛練見学、及び指南を行う事にした。前
々から騎士団員から聖騎士直々の指導訓練を要求されていたのは事
実だし、絶好の機会である。
︱︱だが
﹁⋮⋮指南って、これじゃあ⋮な﹂
﹁⋮⋮す、すみません﹂
ゼノスは騎士団員全員分の視線を浴びる中、苦笑しながら呟く。
︱︱聖騎士部隊。実はゼノス自身がその目で見るのは初めてだっ
たりする。
ここ何週間は多忙の身だったし、それ以前に六大将軍という立場
は基本、自分が統括する部隊とあまり関わらない。
何とも不思議な話ではあるが、六大将軍は常に単独で戦場へと赴
995
き、神話上の怪物や人智を超えた者達と死闘を繰り広げる。安寧秩
序を求めるならば、逆に誰も近くにいない方が良い。
⋮⋮さて。今集まっている総勢は、大体三千人を超えているだろ
うか。
鍛練場はとても広いが、幾ら何でもこの人数では快適に使用する
事が出来ないだろう。本来ならば聖騎士部隊はおよそ一万人程であ
り、恐らく地方部隊は召集させなかったのだろうけど⋮⋮それでも
多過ぎる。
﹁︱︱ごほんっ﹂
﹁うっ。⋮⋮こ、これからは気を付けます﹂
聖騎士部隊副将軍及び聖騎士補佐︱︱ゲルマニアはゼノスの咳き
込みにしゅんとなり、潔く自分の不手際を認める。
﹁今度からは気を付ける様にな﹂
﹁は、はい⋮⋮了解です﹂
996
⋮⋮とりあえず、集まったからにはこの状況で何かやるしかない。
なるべく動かず、且つ皆が満足する指南をだ。
このゼノスに対して感激、尊敬、対抗心の眼差しを向けた約三千
人に対して⋮⋮。
いや︱︱あともう一人、興味津々な眼差しを向ける者に対しても。
﹁⋮⋮あ、あのアリーチェ様。何か御用がありましたら、後で王座
の間にて聞きますが﹂
︱︱そう。ゼノスとゲルマニアの後方には、朝起きてからずっと
一緒に居るアリーチェが佇んでいるのだ。
彼女は相変わらずの微笑のまま、答える。
﹁いえ、気になさらないで下さい。今はただ拝見したいだけなので﹂
﹁は、はあ﹂
997
何だかよく分からないが、つまりは続けろという意味なのだろう
か。
引っ掛かる思いはあるが、とりあえず部下を待たせてはいけない
と思い、ゼノスは大衆へと目線を変える。
全体に行き渡るように大きく、しかし怒声とは違う落ち着いた声
音で話を始めた。
﹁さて、待たせてすまないな。諸君らとは初対面なので自己紹介を
しておこう。︱︱私の名は白銀の聖騎士ゼノス・ディルガーナ。今
回は所定の事情により、この場にて指南を行う事にした。⋮⋮とは
いえ、これでは何も出来ないな﹂
ゼノスはあえてアリーチェの婚約式を明かさない。多少は訝しむ
だろうが、まだ行われていない事を無闇に晒す必要も無い。
案の上騎士達は途端にざわつき始め、﹁何故聖騎士様が﹂とか﹁
他の六代将軍様もいるし⋮⋮一体何事なんだ?﹂等と呟いていたが、
気にしない気にしない。
998
それにそんなざわめきもすぐに止んだので、ゼノスは注意せずに
話を続ける。
﹁︱︱というわけでだ、騎士達よ、今日は何もせず、何も武器を持
つな。今から展開される戦いを括目し、しかと見届けよ。今日の鍛
練はそれとする﹂
その一言に、全員が呆気に取られる。
そんな中から全員の意見を代表するつもりなのか、ゼノスに最も
近い位置にいる騎士が前へと出てくる。
﹁聖騎士様。ご質問があります﹂
﹁︱︱貴公は?﹂
﹁はっ。私は聖騎士部隊第二大隊長、フィールド・ガンダスタです﹂
正義感溢れる雰囲気に身を包み、誰よりも身嗜みが優れたその男
︱︱フィールドはそう自己紹介し、はっきりと言葉を続けた。
999
﹁御言葉から察するに、将軍自らが戦いを行う様子⋮⋮そして、そ
の相手は副将軍であるゲルマニア様ですね?﹂
﹁そうだ。鍛練は何も日々の積み重ねだけでは無い。その目で他者
の技量を知り、それを会得する事も重要だ。︱︱だが、それがどう
した?﹂
ゼノスの問いに、フィールドは明確に答える。
﹁僭越ながら述べさせて頂きます。確かに御二人の戦いは壮絶で、
それはもう目を見張る戦闘を繰り広げてくれましょう。⋮⋮しかし
ながら、我等にとっては余りにも高レベルな戦闘技術を見せられ、
真似出来ない技術もありましょう﹂
言葉巧みにそう斬り出したフィールドは、自分の隣にいる少女に
目を向ける。
﹁︱︱なので、この者と戦ってみては如何でしょう?彼女は聖騎士
部隊第一大隊長であり、実績、技量共々が優秀であり、我等にとっ
ては参考に出来る人物で御座います﹂
1000
﹁⋮⋮ふむ﹂
その言葉を聞き、ゼノスは何となく彼が考えている事に気付く。
だがあえて確信は持たず、フィールドの横に立つ⋮⋮いやだらし
なく座り込んでいる少女に目を向ける。
その少女は大体ゼノスと同い年、それか一つ年下だろうか。かな
り露出した服装をし、魅力的な肢体は騎士達の視線の的となってい
る。
瞳は鋭く、髪は粗雑に後ろへと括られている。まるで野生児を彷
彿とさせ、明らかに騎士像とはかけ離れていた。
ゼノスはその好戦的な態度を気にせず、少女に問いかける。
﹁名は何と言う?﹂
﹁あ?誰あんた⋮⋮上から目線で物申してんじゃないよ﹂
その時、周囲がざわっとした。
1001
大半の騎士は聖騎士に対する侮辱に怒りを覚える。⋮⋮だが彼女
もまた自分等の上司であったので、言葉を挟めずにいた。
しかしゼノスの隣に佇んでいたゲルマニアは怒りを露わにし、彼
女を叱る。
﹁︱︱口を慎みなさい、ラヤ!この方は六大将軍の一人である白銀
の聖騎士ゼノス・ディルガーナです!?事前に知らせましたし、そ
の態度を直しなさいとも散々言いつけた筈ですよ!﹂
﹁あ∼うっさいねえ。あたしは強い奴と戦えればいいの⋮⋮興味無
い事は知りたくも無いし、そんな面倒な事やってられないわ﹂
﹁︱︱ッ。あ、貴方と言う人は﹂
ゲルマニアが激昂し、ラヤという少女に近付こうとした時だった。
ゼノスが彼女を手で制し、落ち着くよう合図する。
﹁アリーチェ様の御前だ、お前こそ行動に注意しろ﹂
1002
﹁で、ですが﹂
﹁何、気にするな。⋮⋮まずは彼等の簡単な説明をしてくれ。それ
によって対応を変えるから﹂
あくまで冷静に分析し、目の前の二人に笑みを浮かべるゼノス。
そこまで言われてしまっては何も反論できないので、大人しくゲ
ルマニアは簡潔に説明する。
﹁⋮⋮男の方はフィールド、女の方はラヤと申します。二人は聖騎
士部隊の大隊長であり、過去何度も世界中の猛者を相手に戦い、部
隊に多大なる功績をもたらしています。⋮⋮ただ見ての通り、少々
態度に難がありますが﹂
﹁⋮⋮なるほどな﹂
ゲルマニアの説明に、ゼノスはようやく納得した。
別に自分とゲルマニアが分かる程度で戦えば、騎士達にとっては
良い教訓となるし、今後の参考にもなる。
1003
けれども彼、フィールドはどうしてもラヤと戦わせたいようだ。
だからあえて聖騎士部隊一の騎士を抜擢し、戦わせようと企んでい
ると見た。⋮⋮戦いになるとは思えないが。
⋮⋮ああ、そうか。
そういえば彼等は、ランドリオ騎士団は六大将軍の実力を完全に
把握していないんだった。一度模擬試合で戦う姿を見せた事があっ
たが、あれだって本来の千分の一程しか発揮していなかった。
それに加え、六大将軍と一般騎士の戦場は全く異なり、一切戦場
で出くわす機会は設けられない。
︱︱だから彼等は噂でしか知らない。六大将軍はだれよりも強い、
白銀の聖騎士は多くの敵を打ちのめした︱︱そう、たったそれだけ
の情報しか仕入れていない。
フィールドの考えは未だ読めないが、他の騎士達は完全こう思っ
ているだろう。︱︱良い戦いをするかもしれない、もしやラヤとい
う少女はゼノスを打ち倒すかもしれない⋮と。
1004
︱︱面白い考えではある。だが、まだ彼等は世界を知らない。
教えなければ⋮⋮この弛んだ精神を持った騎士達に。
﹁⋮⋮よし、いいだろう。このような機会は滅多に無いからな﹂
﹁よ、宜しいのですか?﹂
﹁勿論だ。部下に対する教育も、上の立場がするべき義務だろ?﹂
ゼノスはゲルマニアの心配を払い除け、大丈夫だと付け足す。
そして今度はアリーチェへと振り向き、一礼する。
﹁多少お見苦しい面があるかと思いますので、もし拝見なさる場合
はお覚悟の程を﹂
﹁え、ええ分かりました﹂
ゼノスの真剣な声音に、アリーチェは面食らったように頷く。
1005
それを見届けたゼノスは、練習用の剣を手に取り、大隊長二人の
前へと歩み寄って行く。何とも不機嫌そうなラヤは彼を見据えてみ
る。
⋮⋮その時、彼女は背筋を凍らせた。
﹁︱︱ッ﹂
その寒気はラヤだけでなく、フィールドも、この場にいる全ての
騎士達が悪寒を感じていた。
恐怖︱︱彼等はゼノスが剣を取り、自分達の前へと立ちはだかっ
てから自覚し始める。
見慣れぬ波動、自分達の戦場には無かった新鮮味がそこにあった。
﹁⋮⋮あんた、もの凄い迫力だね。あたしは幾多もの戦場を駆け抜
けて来たけれど、こんなに恐ろしい感覚は初めてだよ﹂
ラヤは震え声でそう言う。
1006
ランドリオ騎士団は多くの戦いを経験し、才能溢れる力を発揮し
て敵を打ち倒して行った。⋮⋮何時だったか、部下達は主に下級か
ら中級の化け物、又は侵略部隊の討伐を請け負っていると聞いた覚
えがある。
︱︱だが、それでは甘い。甘すぎる。
だからゼノスは教えてやろうと思う。長年放置していたお詫びと
して、自分達が生きて来た世界が如何に﹃温室﹄だったのかを、し
っかりと叩き込んでやろうと思う。
ゼノスは挑戦的笑みを浮かべ、ラヤに答える。
﹁ほお、そうか。︱︱ならもう既に分かっているな。この場合、自
分はどうするべきか⋮⋮どうやってこの戦場を潜り抜けるかを﹂
その挑発に、ラヤは血気盛んな瞳を向ける。
﹁⋮⋮気に入ったよ、その意気。正義をただ振り翳すだけの馬鹿騎
士共とは違う⋮⋮⋮⋮現実を知る者の証だね﹂
1007
興味が湧いたのか、ラヤは重い腰を上げた。
地面に置かれている鍛練用の短剣をその手に、刃先をゼノスに向
けてくる。とても将軍に対する態度とは思えないが⋮⋮ゼノスはそ
の闘志を高く評価し、世の条理を弁えていない少女に困り果てるば
かりであった。
﹁︱︱部下共の教訓になる為の戦いはしないけど⋮⋮それでもいい
のかい?﹂
﹁⋮⋮ああ、大丈夫だ﹂
ゼノスは間を空け、冷静に答える。
﹁場所を変えよう、ここでは皆が見づらいだろう﹂
﹁なら鍛練場の近くに備えられた小闘技場で行いましょう。あそこ
ならば聖騎士部隊全員分の観客席もあり、ゆとりある戦いも出来ま
すので﹂
ゼノスが言う前に、フィールドが的確な提案を出してくる。異存
は特に無く、それは聖騎士部隊も同様であった。逆に彼等は期待を
寄せ、憧れの聖騎士の戦いに胸を弾ませていた。
1008
︱︱かくして、彼等は小闘技場へと向かった。
1009
ep2 世界は広く、そして険しい
小闘技場は程よい規模で、且つ実践的戦闘を行うには最適の場所
だった。
構造は楕円形であり、天井部分は大きく開放されている。戦士達
が刃を交差する場を囲う様に観客席が広がっていた。
︱︱その観客席最前列にゲルマニアとフィールドが座っていて、
そして案の定アリーチェもゲルマニアの隣席にいる状況であった。
騎士達は静かに時を待つ聖騎士とラヤを見つめる。一方のゲルマ
ニアは、鋭い瞳で隣に座るフィールドを見やる。
﹁⋮⋮どういうつもりです、フィールド。私から見れば、貴方は聖
騎士の実力を信用していない⋮⋮これは無礼な行為ですよ﹂
﹁弁解の余地も御座いませんね、ゲルマニア様。⋮⋮ですが、これ
だけは言わせて貰います。︱︱私は将軍の強さを確信してこそ、こ
のような機会を設けたのです﹂
1010
ゲルマニアは沈黙を貫く中、フィールドは異質な格好をするゼノ
スに視線を集中させる。
︱︱その瞳は、憧憬に駆られたものだった。
﹁つい何週間か前に創設された聖騎士部隊。此処に派遣され、任命
され、自ら志願した者皆が聖騎士を尊敬し、聖騎士に憧れを抱き入
団した者も少なくありません。⋮⋮私とて、その一人なのは知って
いましょう?下剋上が本意で無いのは事実です﹂
﹁⋮⋮﹂
ゲルマニアはその言葉に少々驚きを見せる。そんな様子を気にも
咎めず、フィールドは更に言葉を続ける。
﹁だからこそ、私は証明してほしいのです。︱︱陰で聖騎士様を愚
弄する者に、彼は本当に強いんだという事を﹂
﹁⋮⋮フィールド、貴方﹂
悔しそうに呟く彼を見て、ゲルマニアは思い違いをしていたと自
覚した。
1011
︱︱聖騎士に対する愚弄。それは言わずもがな、死守戦争を期に
消息不明となった事に対しての罵倒を意味しているのだろう。
ゲルマニアだって何度も何度も聞いた事がある。突然消えたかと
思えば、突然六大将軍の座へと復帰したゼノスを忌み嫌い、死守戦
争での失踪を材料に悪い噂を垂れ流す一部の騎士が。
それを聞いたフィールドは酷く悲しみ、激しい憤りを感じていた
のだ。
⋮⋮そして、もう一人怒っている者がいた。
﹁許せない⋮⋮誰です、ゼノスを馬鹿にする愚か者は﹂
﹁お、落ち着いて下さいアリーチェ様。後で私が叱り付けますので、
今はどうかお控えを﹂
ゲルマニアは隣で激怒するアリーチェを宥めるが、彼女は涙目に
なりながら反論した。
1012
﹁これが落ち着いていられますかっ!ゼノスは誰よりも優しく、誰
よりも聡明な方⋮⋮なのに、なぜ!﹂
﹁︱︱ゲルマニアの言う通りですぞ、皇帝陛下。今は他の騎士共も
いる故、ご自分の立場を理解なさいますよう努めて頂きたいですな﹂
と、ふいに野太い声が後ろから聞こえてきた。
ゲルマニア達が後ろを振り向くと︱︱そこには三人が呆気に取ら
れる人物達がいた。
﹁⋮⋮ア、アルバート様にイルディエ様。それにユスティアラ様ま
で⋮⋮何時からいらっしゃったのですか!?﹂
突拍子に現れた三人に当然の疑問を投げかけるゲルマニア。それ
に対し、イルディエが眠そうに答えた。
﹁そうね⋮⋮えっと、貴方達が席に座った直後だったかしら?何だ
か面白そうな事やってるわね。⋮⋮あ∼こんなに暇なのは久しぶり
1013
ねぇ﹂
イルディエが欠伸をしながら答える。
そう︱︱彼等は正真正銘、聖騎士と同じ地位につく者であり、六
大将軍達である。既に後ろの騎士達は気付いていたようだが、未だ
に驚きを隠せないようだった。
﹁夜まで暇だったものでな⋮⋮久しぶりにアルバート達と歩きなが
ら会話していたら、丁度聖騎士が何かやっていたと。興味が湧いて
やって来た次第だ﹂
﹁はは、そういうわけじゃよゲルマニア。六大将軍は戦い以外は手
持無沙汰なもの⋮⋮儂等は単に暇を持て余しに来ただけじゃて、気
にするでないわ﹂
アルバートは豪快に笑い飛ばし、ゲルマニアの頭をポンポンと叩
く。
﹁⋮⋮それとアリーチェ様、あの小僧に余計な心配は無用ですぞ。
六大将軍は嫌われて当然⋮⋮むしろ敵の方が多いという現実じゃわ
い﹂
1014
その言葉に、両側に座るイルディエとユスティアラは沈黙の同意
を示す。
六大将軍は戦いに生き、多くの血と涙を流させてきた。忌み嫌わ
れるのは自然の摂理であり、堪えるべき使命なのだ。
この現実を受け止めてこそ真の覇者。ランドリオ帝国が最強であ
り、誇り高くある為の必須事項である。
﹁︱︱小僧はよう分かっとる。だから姫様、奴はフィールドの要求
に応え、ああやって自分の宿命と向き合っているのじゃ⋮⋮儂等が
口を挟んで良い事では無い﹂
﹁⋮⋮うぅ、すみません⋮⋮﹂
何だかアルバートに説教をくらった気分になり、アリーチェはし
ゅんとしながら落ち込む。⋮⋮例え皇帝陛下と言えど、自分より数
倍も生きているアルバートには逆らえる気がしなかった。
﹁はっはっはっ!まだお父上の様にはいかんですな。⋮⋮じゃが安
心なされよ。皇帝とは日々の教訓を経て成長するものじゃ。政治や
臣下への振る舞い、そして恋愛などを経てこそ⋮⋮⋮⋮うぐっ!﹂
1015
と、アルバートは両脇に座る女性二人に横腹を叩かれる。
その時、アルバートはイルディエに促されてアリーチェへと目を
向ける。⋮⋮すると彼女は、自嘲の笑みを見せ、とても悲しそうな
微笑みを浮かべていた。
﹁あ、いや⋮⋮その﹂
﹁いえ、良いのですアルバート。悪気があって言ったのではないと
承知していますから﹂
アリーチェはそう言って、またゼノスを見下ろし始める。まるで
今までの事が無かったかの様に。
⋮⋮そうだった。今の彼女には、﹃恋愛﹄という言葉は正にタブ
ーであった
﹁︱︱あ、そろそろ始まりそうですよ皆さん。その話は試合後⋮⋮
という事に致しましょう﹂
ふいにフィールドが場の雰囲気を正そうと、ゼノスとラヤを指差
す。皆はハッとし、指差す方向へと見やる。
1016
ゼノスは剣を構え、ラヤもまた両手に短剣を備えた状態で腰を若
干落とす。それは試合が始まる瞬間であった。
ゼノスは対峙するラヤに対し、軽く微笑みかける。
︱︱彼女は極限の緊張中にあった。聖騎士という存在を前にして、
感じた事の無い威圧感に当てられていた。
まあ確かにこれは戦いで、少々の緊張感は必要である。だがそこ
まで固くなる事も無いし、あくまでこれは模擬試合だ。
﹁さっきまでの威勢はどうした、ラヤ。そんなに怯えて﹂
1017
﹁⋮⋮あんた、異常だよ。人間がそこまでの覇気を備えるなんて⋮
⋮有り得ない﹂
﹁有り得るさ。世界は広い上に、何百何千もの強者が巣食っている。
お前達が暮らしていた﹃温室﹄を抜け出せば︱︱この聖騎士が常識
の範疇にいると思い知らされる﹂
﹁︱︱ッ﹂
ラヤ達が戦ってきた相手は、人限定にして強者と謳われた猛者な
のだろう。その実力は人の中でこそ発揮されてきた。
⋮⋮だが、ここは人間だけの世界ではない。
悪魔や神々、そして人の限界を超えし超越者達がいるのも現実。
ラヤの言う強い奴とは⋮⋮ゼノスにとって、どこまでも弱い者だっ
たのだろうか?
﹁俺がこの場で教えたいのは、ただ一つ。︱︱世界は甘くないとい
う事だ!﹂
1018
ゼノスは皆に聞こえるよう声を張り上げ、形容し難い圧倒感が騎
士達の全身を震わせる。
彼は騎士達が誤った認識をし、ランドリオ騎士を名乗っている事
に腹を立てる。彼等と顔を合わせて初めて知った。⋮⋮自分達の強
さに酔いしれ、我等こそが史上最強の騎士団だと、そう確信してい
た事を。
﹁自惚れるな、現実を知れ!誇り高き騎士はどこまでも強きを求め、
敬愛する主と民を守るために限界を超える⋮⋮今の地位と功績にし
がみ付くな!﹂
﹁⋮⋮﹂
その時、誰もがその言葉に心を打たれた。
騎士達はこれまで様々な戦を抜け、生きて来た。その功績、その
地位は確かに相応の強さを模した勲章であろう。
しかし、そこで踏み止まってはいけない。お前達はどうして騎士
1019
になりたいと思った?何の為に強くなりたいと思った?
︱︱もし金や自らの利益の為だけに入団したのならば、それこそ
思い知る事であろう。
︱︱騎士として大切な誇りがあれば、もっと強くなっていた筈な
のに。⋮⋮強くなっていれば、どれだけ後悔せずに済んだのだろう
かと。
﹁⋮⋮死守戦争。あの時何故多くの騎士達が命を落としたのかを⋮
⋮どうして俺が、儚い命を失って後悔したかを⋮⋮今のお前達に理
解出来るか?﹂
そう、全ては己の弱さを知ったからこその結末。自分の強さを過
信した騎士達は始祖を目前に、茫然自失となりながら死んで行った。
何も守れないまま⋮⋮何も得られないまま。
自分は罵られようと構わないが⋮⋮現実を知らない上での発言は、
死んで行った彼等に失礼であり、自分の盲目さを晒す羽目になるの
だ。
1020
ゼノスは呆気ない表情を見せるラヤを見据える。
﹁︱︱お前もだ、ラヤ。ランドリオ騎士団に入ったからには、アリ
ーチェ様をどんな魔の手からも救える実力と意志が必要だ。⋮⋮こ
んな温室で強者を求めるな﹂
﹁⋮⋮なら、それを証明してみせなよッ!﹂
ラヤは一心不乱になり、獰猛な瞳でゼノスを捉え獣の如く地を駆
け走る。
獲物を射抜く視線は小国の剣王を恐怖させ、驚愕の戦闘センスは
幾百人もの兵士を葬って来た。
﹃ランドリオの狂犬﹄と謳われた聖騎士部隊第一大隊長・ラヤ。彼
女は部下達から純粋な尊敬と称賛を経て今の地位へと上り詰めた。
︱︱騎士達が見た中では最強である彼女。
⋮⋮だがしかし、皆は初めて知る事になる。いや正確には、改め
てその凄まじさを実感する事となった。
1021
我らが六大将軍の︱︱その力を
﹁︱︱ぐ、ああっ!﹂
見えない何か、物理的現象とは違った圧力が疾駆するラヤを押し
寄せ、その全身を軽々と後方へと吹っ飛ばす。
当のゼノスは一歩も動かず、剣も振るわずの状態だった。
ただ目前を見据え、ラヤを射捉えただけだ。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
その場にいる騎士達は静まり返る。
強敵を倒し、どんな相手にも屈しなかったラヤ大隊長。その彼女
が経った今容易に跳ね飛ばされ、ゼノスに近付けさえもしなかった。
1022
強い弱いの問題では無く⋮⋮もはや自分達と比べるのは妥当では
無い。彼等は一瞬にして把握し、英雄と謳われた彼に畏怖する。
﹁⋮⋮これが答えだ。何度も言うが、世界は広い。騎士として在り
続けるならば、より一層の鍛練に励めよ。︱︱俺のように、弱腰に
ならぬようにな﹂
﹁︱︱っ﹂
ラヤは返す言葉も無かった。それは勿論、他の騎士達もだ。
そんな様子に、ゼノスは溜息をつき⋮⋮いつもの調子で問いかけ
る。
﹁︱︱へ、ん、じ、は?﹂
ゼノスの言葉に、皆は緊張しその場から立ち上がる。
一斉に皆が﹁はっ!﹂と呼応する。この場にいる者の殆どが部下
1023
を持ち、それなりの実績を重ねた騎士達であるが⋮⋮聖騎士の前で
は、その体裁さえも通じない。
⋮⋮彼の前では、皆が一介の騎士でしかなかった。
圧倒的な試合を見て、ゲルマニアは感極まった様子でゼノスを見
つめていた。
流石は白銀の聖騎士ゼノス。普段は堕落した生活態度を行う青年
であるが、肝心な場では騎士の鑑として君臨し、迫力ある説得力で
1024
皆を従える。
それは紛れも無い、ゲルマニアの憧れる騎士像であった。フィー
ルドも言葉には表現しなかったが⋮⋮彼の威厳に最上の敬意を表し
ていた。
誰もがゼノスの叱咤に驚き、不意を突かれた。しかしそれと同時
に、彼を弱い等と認識する者もいなくなったようだ。
﹁⋮⋮良かったですね、アリーチェ様。この場の雰囲気から察する
に、ゼノスを馬鹿にする者はいなくなったと見受けられます。です
からアリーチェ様も⋮⋮⋮⋮⋮⋮って、アリーチェ様?﹂
ゲルマニアの疑問符に、六大将軍三人も不思議に思って彼女の顔
を確認する。
︱︱アリーチェは、頬を紅潮させながらゼノスを見つめ続けてい
た。茫然としながら、まるで片思いを抱く乙女の様に。
これはもしや、と驚愕の表情で皇帝陛下を見定めるゲルマニア。
︱︱その反応に答えたのは、苦笑いを浮かべるイルディエだった。
1025
﹁あ∼らら⋮⋮。ゲルマニアちゃん、今はそっとしておいてあげま
しょ。姫様は⋮⋮ね?﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
多分今の彼女に何を言っても、後で聞き返されるのがオチであろ
う。それほどまでにアリーチェは、ゼノスの行動に心酔しきってい
た。
⋮⋮その様子に、ゲルマニアは心の痛みを感じる。
アリーチェは約一か月後に婚約披露宴を行い、我等がまだ知れぬ
相手と結婚しなければならない。相手が誰で、何故こんな時期に行
うのかは分からない。
︱︱ただ、ゲルマニアは知っている。
彼女はゼノスに恋心を抱き、その想いを打ち明けないまま現在に
まで至る事を。
今の立場が彼女を縛り付け、まだ十六歳という年齢にも関わらず
自由を奪われている身だ。
1026
とても悲しく、とても切ない想い。
アリーチェはゼノスが舞台から退くまで、ジッと彼を見つめてい
た。
1027
ep2 世界は広く、そして険しい︵後書き︶
追記︶画像掲載サイト﹁みてみん﹂にて、ゲルマニアのドレスv
erを掲載しました。興味のある方はどうぞご覧下さい。
1028
ep3 ゼノスを知りたくて
ゼノスによる鍛練指南、もとい教訓指南を教えてからというもの、
騎士達は揃いも揃って聖騎士に戦闘訓練の指導を要求してきた。
誰も彼もがゼノスの言葉に心を打たれ、己自身が何故騎士団へと
入団したのかを再認識したらしい。全員というわけではないが、大
半の者が初心を思い出した。
ゼノスは勿論その要望に応え︵別段やる事も無かったから︶、な
るべく部下達が付いてゆける様、丁寧に享受した。⋮⋮驚いた事に、
敗北したラヤも目を輝かせながら指導を受けていた。
⋮⋮さて、そんなこんなで夕方となった。
鍛練を終えた騎士達は夜間警護やそれぞれの主務に備えて解散し、
ゼノス自身も鍛練場を後にした。
1029
夕焼けも地平線の彼方へと沈み、労働を終えた市民達が家路を辿
るその頃、彼とゲルマニア⋮⋮そして相変わらず付いて来るアリー
チェの三人は、ハルディロイ本城に備えられた聖騎士専用の執務室
にいた。
﹁︱︱お疲れ様です、ゼノス。今日は素晴らしい立ち振る舞いでし
たよ﹂
﹁ん、ああ⋮⋮まあやる気になってくれた事は嬉しいけど。説教な
んてガラじゃないし、奴等もまあ鍛練してくれと言って来るし⋮⋮
⋮⋮あぁ、湿布が欲しい。マッサージ器が欲しい⋮⋮ついでに栄養
ドリンクが欲しい﹂
ゲルマニアは呆れながら腰に手を置く。
﹁また変な用語を使わないで下さい、ゼノス。それにほら⋮⋮皇帝
陛下の面前ですよ﹂
﹁うっ﹂
自分が言った言葉をそのまま言い返され、ゼノスは僅かに呻く。
やはり日頃の堕落具合が彼を怠けさせたのか、先程まで体裁を保っ
ていたにも関わらず、今は執務机に突っ伏し、口を半開きにしなが
1030
ら項垂れていた。
以前は平気だった聖騎士としての体裁⋮⋮だがそれも今では時間
制限付きであった。
ゼノスはきょとんとしながら椅子に座るアリーチェへと振り向く。
﹁ほ、本当に申し訳ございません⋮⋮。何分放浪生活が長かった故
に、騎士らしからぬ行動が増えてしまいました⋮⋮﹂
放浪生活でそういった態度になるかは疑問だが、堕落症になった
のは本当の事なので素直に打ち明ける。
余りにも申し訳なさそうで、しかし怠そうな表情を見て⋮⋮アリ
ーチェはくすりと微笑んだ。
﹁いえ、よいのですよ本当に。⋮⋮今日一日見ている限り、根本的
に自堕落となったとは思っていませんから﹂
﹁はあ⋮⋮それは有り難いですが⋮⋮﹂
︱︱そういえば、何でアリーチェはゼノスを観察しているのか?
1031
別段緊急の用事でも無さそうだが、かといって何の用事も無いわ
けではなさそうである。
何故?どうして?⋮⋮全く不可解な様子に、ゼノスは終始タジタ
ジであった。
﹁ふふ、大体何を言いたいのかは察しがつきますよ。︱︱ただ私は、
﹃本当の聖騎士﹄を見たくて観察していただけです﹂
﹁⋮⋮本当の聖騎士?﹂
ゼノスは問い返す。
はて、自分は表裏の激しい性格ではないと思うが。
﹁︱︱はい。兜を被っておらず、そして偽りの態度を取った素顔⋮
⋮そんな臣下の一面を知るのも、皇帝陛下の務めだと思っていまし
た﹂
アリーチェはまたもや微笑む。今度は自重めいた様子で。
1032
﹁⋮⋮ですが、私は見誤ってました。聖騎士様の本心は変わらない
⋮⋮あの頃の様に勇ましく、そして誇らしい人なのだと。兜が有っ
ても無くても、貴方は変わらないと気付きました﹂
︱︱嗚呼、そう言う事か
ゼノスが単なる白銀の聖騎士として名を馳せていた時代、自分は
とある理由によって顔を晒すのを拒み続け、挙句の果てにはアリー
チェにまで見せたくないと豪語してきた。
そんな様子を見て、彼女はきっと知りたかったのだろう。
もしや自分の知らない聖騎士がいるんじゃないかと、偽りの人格
で接してきたのだろうかと思い悩んでいたに違いない。
﹁⋮⋮お褒め頂き光栄です。例えこの身が変わろうと、私の意志は
そのままでございます﹂
﹁ええ、そのようですね。⋮⋮今後は私も忙しい身ですから、今日
の内にその真実が知れて良かったです﹂
その言葉に、ゼノスとゲルマニアは途端に難しい表情となる。
1033
︱︱二人は察知したのだ。次に彼女が何を言い出すのかを、確実
に。
アリーチェは深く深呼吸し、瞳を閉じる。⋮⋮そして、威厳を放
った皇帝の眼光でゼノスを見据える。
﹁⋮⋮聖騎士ゼノス、及び他五名の六大将軍を招集した理由は他で
もありません。︱︱私の婚約式についてです。深い詳細は明日の午
前中にて、私自らが円卓会議を執り行い、全て説明致しましょう﹂
﹁⋮⋮承知しました﹂
ゼノスは内なる疑問を奥底にしまい、ひとまずは従う事にした。
焦らずとも、アリーチェはその場にて全てを話してくれる。単独
で聞いても何もならないし、他の六代将軍に失礼なのは確かだ。
﹁しかしアリーチェ様、一つ聞きたい事がございます﹂
﹁?何でしょうか﹂
1034
﹁いえ、大した事ではないのですが⋮⋮もう既に、六大将軍は全員
ハルディロイへと帰還しているのでしょうか?﹂
これは数日前から疑問に思っていたが、果たして全員が揃い、直
に総勢を見渡す事が出来るのだろうか?
ゼノス、ユスティアラ、イルディエ、アルバート、この四人は確
実にいるが⋮⋮あとの二人が見受けられない。
アリーチェはゼノスの疑問に対し、素直に答える。
﹁ええ、ちゃんといますよ。お二人の帰還報告は既に承っておりま
す﹂
﹁そう⋮⋮ですか﹂
正直な所、ゼノスは六大将軍全員と会うのはこれで初めてである。
一人は知っているが、残るあと一人はまだ見ぬ人物であり、ライ
ンの後釜として任命された者だ。
1035
それが一体どんな人物か⋮⋮ゼノス達と相性の合う者なのか。今
のゼノスは不安で一杯だった。
﹁⋮⋮以上、私の用事はこれで終いです。今日一日、お邪魔しまし
たね﹂
また朗らかな笑みに戻ったアリーチェは、およそ皇帝らしからぬ
謙虚さを示す。
︱︱その裏に複雑な心境を抱えつつ、尚も笑顔を見せてくれる。
それ以降アリーチェは一言も言葉を発さず、ゼノス達に手を振り
ながら部屋を出ていく。⋮⋮ゼノス達はその後ろ姿に声を掛ける事
も出来ず、ただジッと彼女が立ち去る姿を見つめるだけであった。
⋮⋮しばらくして、ゲルマニアが口を開いた。
﹁︱︱何だか、苦しそうでしたね﹂
﹁そりゃそうだろうさ。立て続けに起こる環境の変化⋮⋮地位がア
リーチェ様を縛っているんだからな﹂
1036
彼女は先代皇帝の娘として誕生し、その死後はリカルド皇帝の妃
になる予定となった。
⋮⋮しかし彼の死後、状況は一変した。
元々皇帝は男性のみが継承される地位であって、元来から女性が
皇帝になる事は無かった。先王の子供はアリーチェただ一人⋮⋮リ
カルドの場合は先王に認められた皇位継承者であった為に、貴族か
ら皇帝へと上り詰めたのだ。
だが今回は王位継承権を持つ貴族は存在せず、極めて異例の形で
あるがアリーチェが皇帝となった。
帝王学を幼少期から学ばないで急遽任命された皇帝即位。勿論の事、
あらゆる一派から批判の声を浴びた。
特に歴史を重んじ、女皇帝即位に猛反発したのはランドリオ貴族
だった。
もし六大将軍がいなければ⋮⋮きっと謀反を起こしていたに違いな
い。今でも猛烈な批判は続いており、アリーチェは精神的にも追い
詰められている。
︱︱そして、今回の婚約披露宴である。
1037
平気な筈がない、嬉しいわけがない。気丈に振る舞っていても⋮
⋮彼女はゼノス達が知る気弱で、しかし心優しい姫なのだ。
﹁わ、私達騎士団で何とか対処出来ないのでしょうか?今回の婚約
に関しても時期外れ過ぎます。⋮⋮何とか六大将軍の力で﹂
﹁そうしたいのは山々だが⋮⋮詳細を聞かずにそのような行動に出
るのは駄目だ。もしかしたらアリーチェ様の想い人かもしれないし、
国家を安定へと導ける程の実力を兼ね備えているかもしれない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
苦い表情でゼノスを見るゲルマニア。それに気付いたゼノスは、
首を傾げながら尋ねる。
﹁⋮⋮どうした?何か変な事でも言ったか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ゼノス、前々から思っていたのですが⋮⋮鈍感だとか散
々言われませんでしたか?﹂
﹁へ?い、いやそんな事は言われてない⋮⋮いや、言われたような﹂
1038
何だ、どうしたんだ?ゲルマニアの視線が嫌に痛い。
ゲルマニアはずいっとゼノスへと接近し、まるで子供を叱り付け
るかのように言う。
﹁ならもっと女の子について勉強して下さい。勉強すれば、先程の
ような発言は二度と出来ませんからね﹂
最後に﹁分かりましたか?﹂と念を押してくるゲルマニア。ゼノ
スは訳の分からないまま気迫に促され、こくりと頷いた。
彼は理解しているかどうか疑問だが、別段問い詰める場面でもな
い。軽く溜息をついたゲルマニアは渋々納得した。
︱︱これにより、ゼノスの仕事は一段落ついた。それはゲルマニ
アを同様であり、引き締まった表情は柔和なそれへと変化する。騎
士ゲルマニアとしてでなく⋮⋮ごく普通の少女の素顔だった。
﹁⋮⋮さて、これで粗方済みましたね。私はこれから夕食を摂るつ
もりですが、良ければこちらまでお持ちしましょうか?︱︱何分、
レクチャーするべき点がありそうですから、それについて語りまし
ょうか?﹂
1039
微笑みながら物騒な雰囲気で言ってくるゲルマニアであったが、
ゼノスは少々引き気味になりながら答える。
﹁え、遠慮しときます、はい。⋮⋮というか俺は、これからちょっ
と行く所があるんだ。悪いがまた後日な﹂
﹁はあ、そうですか。あまり遅く帰らないで下さいよ?明日は円卓
会議があるのですから﹂
﹁ああ分かってる。︱︱ただ、﹃ある奴﹄と話すだけだ﹂
﹁⋮⋮?﹂
初冬を迎えた季節のせいか、はたまた部屋の雰囲気がそうさせて
いるのか⋮⋮今日はいつになく肌寒い。
ゼノスはポールハンガーに掛けていた赤ジャケットを取り、それ
を羽織る。
溢れ出る高揚感、背筋を過る微かな寒気が異様な感情を引き立た
せる。恐れか好奇心かは定かで無い。
1040
向かう先はハルディロイ城の地下。それは牢獄でも無く、食料を
備蓄する為の倉庫でも無い。
常人ならば恐怖に駆られ、発狂しかねない禁忌の領域︱︱始祖ア
スフィが根城にしている地下部屋へと足を運ぶ。
1041
ep4 始祖、真実を告げる者に在らず
ゼノスは一歩、また一歩と階段を下って行く。
相変わらず薄気味悪い、且つ冷気が漂うその領域は慣れたものじ
ゃない。本当ならばこんな場所、すぐに壊したい所だが⋮⋮始祖を
他者に知られない最適な場所なのもまた事実である。
そこは始祖の聖域。かつての死守戦争を期に封じ込められ、以来
自由が効かなくなっている始祖アスフィ。
基本用事がある時は、自身がこうして始祖の間へと訪問するわけ
だ。
︱︱長い階段を下ったゼノスは、目前に控える観音開きの扉に手
を置き、ぐっと押し付ける。
1042
さあ、その先は世にも奇妙な光景だ。地下には相応しくない花畑
が広がり、天井から日の光が差し込む。光と闇が同居し、その花畑
の中心には簡素な椅子が備えられている。それは聖騎士と始祖の対
面を祝福する⋮⋮
︱︱と思っていたのだが。
その光景を目にして、ゼノスはその場で硬直する。
﹁⋮⋮﹂
﹁あ、ゼノス!数日ぶりだねえ、身体の方は大丈夫?ほらそんな所
に突っ立ってないでおいでよ。中は温かいよお∼﹂
﹁⋮⋮⋮⋮お前、これ﹂
あの日見た幻想的な風景は、これを以て崩壊した。
︱︱何とアスフィのいる場所は、すっかり彼女が居心地良く過ご
せる快適な空間と化していた。
1043
シックな家具が配置され、部屋中には香しいオレンジの芳香が充
満している。とても落ち着いた空間で天井からの日差しとマッチし
ていて、正しく理想のマイホームに⋮⋮じゃなくて。
どう反応して良いのか分からなかったが、まずは率直な感想を口
にした。
﹁な、何で部屋を改造してるんだ!?﹂
ゼノスのツッコミに、アスフィはソファの上で寝転がりながら呟
く。ちなみに彼女の脇にはミスティカも控えており、主の頭を微笑
みながら撫でていた。
﹁だってぇ∼、あんな閑散とした自室は嫌なんだも∼ん。つい最近
までは封印状態でそんな事気にする余裕も無かったけど⋮⋮今じゃ
ミスティカに頼んで改造三昧よ!ね、ミスティカ?﹂
﹁ええ、その通りですわアスフィ様。この占い師ミスティカ、しっ
かりと風水を取り込んだ模様替えを試みましてよ﹂
二人は呑気にそう誇張する。
1044
破天荒というか何というか⋮⋮せっかく真面目な話をしようと来
たのに、彼女達の雰囲気で若干萎えてしまった。
﹁⋮⋮全く、アリーチェ様が見たら何と仰るか。何々⋮⋮ソファに
ベッド、キッチンやバスルームまで⋮⋮⋮⋮⋮⋮って、おい待て﹂
ゼノスはある事に気付く。
気付いたと同時に︱︱驚愕の色を示した。
﹁よく見れば⋮⋮⋮⋮キッチンはIHクッキングヒーター搭載、床
暖房⋮⋮⋮⋮え、液晶テレビに⋮⋮ア、アロマディフューザーまで
あるじゃないか⋮⋮⋮⋮ッ!﹂
意味が分からない。
何故︱︱何故異世界の最先端技術がここにあるんだ!?
1045
しかも全部機能してるし!床は温かいし、テレビは何故かついて
るし、オレンジの香りの正体も、このアロマディフューザのおかげ
だし⋮⋮てか全部電気が必要な筈だぞ!?
︱︱ゼノスは冷や汗をたらしながら、アスフィへとずかずかと接
近し、その両肩に手を置く。
﹁アスフィ⋮⋮これ全部どうしたんだ?﹂
﹁へ?ああ、この変な家具の事かな?詳しい事は私もよく分からな
いんだけど、ミスティカが城にいた大工っぽい人を連れて来てこう
なった⋮⋮感じだったっけ?﹂
ゼノスはミスティカへと振り向く。
彼女はその眼光にビクッとなるが、すぐにおっとりとした口調で
答える。
﹁え∼っと、実は私もよく知らないんです、その方については。単
に改造について呟いてたら声を掛けられて、後は赴くままに改造し
てもらったんですよ﹂
1046
﹁⋮⋮分かった、深くは追求しないよ。それに関してはまた後で考
えるから﹂
耐え難い疑問に苛まれながらも納得するゼノス。
彼女達もこの機会に関しては本当に分からないようだった。別段異
世界の物を知られてはいけないという規則は無いので、あえて何も
言わないでおく。
﹁いや∼でも凄いよねこれ。テレビとやらには人間が沢山入ってる
し、おまけに部屋が暖かいって良いよねえ⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
穏やかに話していたアスフィだったが、次第にゼノスの異様な心
境に気付いてしまい、口を紡ぐ。
彼女の察する通り、ゼノスはそんな事を聞く為にやって来たので
はない。確かにこの機械に対して話したい面もあるが⋮⋮今は当初
の目的の方が重要だ。彼の表情は硬く、険しいそれへと変化してい
た。
﹁⋮⋮俺が何でここに来たのか、既に把握しているよな?﹂
1047
ゼノスの前置きに対し、アスフィは間を置いてから答える。
﹁⋮⋮うん、何となくはね。そこに座りなよ。多かれ少なかれ、君
は話を聞かない限り納得出来ないのでしょう?﹂
﹁当然だ。︱︱色々と、知りたい事がある﹂
敵意こそ有りはしないが、アスフィは様々な事実を隠しているに
違いない。こうしてゼノスが問い詰めるのも無理はない。
だが彼女は、ゼノスの要望に対し、素直に受け答えするかは明確
でない。
余裕の態度を示すアスフィに促され、ゼノスもまた異世界から取
り寄せたと思われる白ソファに座る。アスフィと向き合う形となっ
た。
先程とは打って変わり、一切表情を見せないゼノスとアスフィ。
⋮⋮これから語られる事に、余計な感情は必要ない。
﹁さて、と。君は一体何を聞きたいのかな?﹂
1048
﹁⋮⋮シールカードとは何か?を聞こうか。細かい疑問よりも先に、
まずは大まかな疑問を問わせて貰う﹂
︱︱シールカード。ゼノスは騎士のギャンブラーであり、ゲルマ
ニアというシールカードの主である。そして幾度となくその目でカ
ードの力を目にし、体感してきた。
しかし未だに不明だ。彼等の本質を、生まれた経緯を⋮⋮。
自分はゲルマニアを知っているようで︱︱何も知らないんだ。
﹁ふむ⋮⋮随分根本的な所を突いて来たね。シールカードはこの私、
始祖によって誕生した意志を秘めしカード⋮⋮って説明じゃ物足り
ない?﹂
﹁ああ、物足りないね。そもそもお前は何だ?俺の知る始祖はどこ
までも凶悪で執念深く、且つ条理を弁えない奴だった。⋮⋮奴とお
前が同一人物かも疑いたくなる程に﹂
アスフィ。お前には悪意が無い、闇が存在しない。
1049
お前はどこまでも明るくて華やかであり、眩しい光の下で生きる
様な存在である筈だ。ゼノスは分かっている⋮⋮元気に振る舞うそ
の裏に、深い宿命を孕んでいる事を。
﹁⋮⋮﹂
アスフィはしばし黙り込む。それをゼノスとミスティカは何も発
さず、ただただ次の言葉を待っていた。
何を考えているか、どのような思いでいるかはさておき⋮⋮彼女
は何を言えばいいのか迷っているようだ。
︱︱やがて、彼女は決心したように口を開く。
﹁⋮⋮⋮⋮私は私であって、私では無い﹂
﹁⋮⋮は?﹂
1050
余りにも抽象的な表現に、ゼノスは首を傾げる。
﹁︱︱そのままの意味だよ。私は始祖⋮⋮﹃始祖の片割れ﹄として
生きている﹂
﹁︱︱︱︱それって﹂
アスフィは自分の胸に手を置く。
命の鼓動を肌で感じつつ、彼女は瞳を閉じる。
﹁⋮⋮あの死守戦争では、私の中に眠るもう一人の始祖が暴走して
いたの。言わば始祖の闇であって、その意志は今の私ではない﹂
﹁な、なら奴は何者だ?お前は︱︱アスフィ、お前は一体﹂
と、ゼノスが言おうとした途端だった。
激しい頭痛が彼を襲い、眩みを感じながら頭を押さえる。
1051
⋮⋮あの時と同じだ。魔王神とアスフィの会話を耳にした時も同
じ症状に出くわした。まるで⋮⋮無理やりに記憶が引っ張られるよ
うな感覚に。
﹁⋮⋮やっぱり、今の君に言っても無駄なようだね﹂
﹁なっ、おい!﹂
﹁それに、君はもう全部知っている筈。︱︱そう、シールカードの
存在やもう一人の始祖の存在をね﹂
﹁︱︱俺が、全てを?﹂
という事は⋮⋮この頭痛はやはり、記憶障害を起こしているとい
う証拠なのか?
いつからだ?一体どの時期から⋮⋮自分は記憶を失っている?
アスフィは思い悩むゼノスに対し、微かな微笑みを見せる。
1052
﹁⋮⋮それを知りたくば、今は密約通り暴走したシールカードを倒
すしかないよ。始祖はシールカードに自らの記憶を分け与えている。
ただそれは一部のカードに限られるけどね。︱︱君はもう、体験済
みじゃない?﹂
﹁⋮⋮﹂
記憶︱︱それはきっと、マルスが見せたあの光景を言っているの
だろう。
彼の場合は自らの生い立ちであったが、特定のカードだと重要な
場面が見れるのだろうか?肝心な魔のシールカードはあやふやな形
で消失したせいか、カードの示すビジョンは出現しなかった。
⋮⋮だとしたら、やはり打ち倒すしかないのか。
始祖の復活を目論見、あるいは野望を掴み取ろうと企むシールカ
ードを片っ端から討ち取り、徐々に真実へと近付くしかないのだろ
うか。
︱︱アスフィは、どうしても言いたくない様だ。
﹁⋮⋮無用な追求はもうしない。だが、最後に一つだけ言っておく﹂
1053
ゼノスはアスフィを睨み付ける。もはや仲間に向けるそれではな
く、警戒と猜疑心に満ちた眼差しであった。
﹁︱︱もしその隠し事のせいで、ランドリオに更なる被害が被った
としたら⋮⋮俺は密約よりも姫や民を守るために貴様を殺す。⋮⋮
例え、真実を知れなくてもな﹂
その言葉に、アスフィとミスティカは怒りを示す様子は無かった。
彼にも立場というものがあり、果たすべき忠誠もある。むしろそう
考える方が道理であると納得する。
だが、それでもアスフィの表情は悲しそうであった。
何を意味するかは、全くもって分からない。
﹁⋮⋮うん、それでいいよ。どちらにせよ、この事実は君自身の手
で思い出さなければならない。⋮⋮いや、いっそのこと﹂
彼女は何かを紡ごうとしたが、やっぱり何でもないと言い始める
始末。
1054
ゼノスは拭いきれない疑問を胸に秘めるが、同時にやるべき事は
明確となった。用事が済んだ彼は、ソファから立ち上がる。
︱︱何も言い残す事無く、始祖の部屋を後にした。
アスフィは深い溜息をつき、コーヒーを啜る。余程精神的に疲れ
たのか、全身は脱力している様子だった。
その様子に、ミスティカは心配そうに聞く。
﹁宜しかったのですか?何も頑なに隠さずとも⋮⋮素直に打ち明け
1055
れば﹂
﹁⋮⋮ミスティカ、君は何も分かってないよ﹂
鋭い声音に、ミスティカは息を呑みながら黙り込む。
普段のアスフィからは想像できない程、今の彼女は不満と戸惑い
で一杯だった。
﹁この事実は⋮⋮本当ならば知って欲しくない。あれは悲惨なもの
だから、彼が知ればきっと絶望してしまう⋮⋮⋮⋮そんな次元の問
題だから。今の彼はただ剣を振るい、国を守る騎士で在ってほしい
⋮⋮それが、私のささやかな願い﹂
なら何故ランドリオ帝国側と固い協定を結んだのか?それならば
彼女が単身でシールカードの問題に取り組み、解決すれば良かった
のではないか?
⋮⋮嗚呼、それは今の彼女にとって痛い質問だった。
密約は失敗した。これ以上巻き込みたくないと豪語したにも関わ
1056
らず、アスフィの選択とは真逆の方向へと進行するのだから。
そう、彼女は単純に︱︱
﹁⋮⋮ゼノスと一緒にいたいと⋮⋮まだ思ってるんだ、私は﹂
﹁あら⋮⋮あらあらまあ﹂
と、ふいに零した本音にミスティカが食い付く。
げっ、と思ったアスフィはすかさず彼女へと振り向く。⋮⋮案の
上、ミスティカは意味深な表情を浮かべていた。
﹁これは面白いですわ、まさかアスフィ様まで彼を﹂
﹁⋮⋮ッ。そ、そんなわけないじゃんミスティカ!だって私とゼノ
スは二年前の死守戦争で初めて会って、それ以降は特別な付き合い
なんて﹂
1057
﹁︱︱嘘ですね﹂
突如、ミスティカが断言してくる。アスフィに有無を言わさず、
はっきりとした口調で。
﹁こう見えても私、幾千人もの恋愛相談を受けた身で御座いますわ。
だから分かります⋮⋮貴方様は聖騎士殿を、まるで﹃幼馴染﹄のよ
うに見ていると﹂
﹁そ、それは﹂
虚を突かれ、アスフィは狼狽える。
﹁そちらがどのような思いで、どんな経緯があったかは存じません。
しかし、彼も紛れなくシールカードと深く密接していますわ﹂
ミスティカは指摘する。今更隠す理由も無いし、彼を慕うならば
尚の事真実を告げるべきだと。
︱︱﹃幼馴染﹄。それがゼノスとアスフィをどう結び付けている
1058
かは不明だが、あながち間違ってはいないようだ。
﹁アスフィ様⋮⋮彼と親しい仲であったのならば言うべきかと﹂
﹁︱︱ごめんね、ミスティカ。それでも⋮⋮自分の口から言いたく
ないんだ﹂
尚も拒み続けるアスフィ。
⋮⋮さしものミスティカも、それ以上反論する気にはなれなかっ
た。
﹁それに、私がどう思おうと運命の針は留まらない。刻一刻と彼の
針は歩を進め︱︱ゼノスに真実を突き付ける日へと導いてしまうか
ら﹂
誰も食い止める事は出来ない。
彼が知りたい現実は、いずれやって来る。そう遠くない未来に、
起り来る新たな悲劇の舞台にて⋮⋮それは明かされるに違いない。
︱︱端的に彼女が打ち明けるよりも、余程納得がいくかもしれな
1059
いのだ。
時間はさして変わらない。彼等に迫る更なる悲劇は⋮⋮多分真実
を知ったその直後に現れると思うから︱︱
けれど
話さないという事実は、自分の我儘でもある。ゼノスを悲しませ
たくないという⋮⋮淡い衝動に駆られた結果の行動なのだろうと思
う。これらの感情が混ざった上での決断なのだ。
﹁⋮⋮そして、運命は既に築かれている。真実を報せる警鐘は鳴り
響いているから﹂
アスフィは間を置き、言葉を続ける。
﹁そう、私の子供であるシールカード達が織り成す⋮⋮災厄がね﹂
﹁⋮⋮また、始まるのですね﹂
1060
ミスティカがみなまで言わずとも、その場にいる二人はとうに理
解している。
憂いに満ちた瞳を浮かべつつ、詩的な言葉を紡ぎ始める。
﹁︱︱喜びなさい、そして悲しみなさい、ゼノス。皇帝陛下を取り
巻く出来事に巻き込まれ、貴方はそこで新たなる災難に出会う。⋮
⋮私は知っている、もう分かっている。その場にて︱︱貴方はまた
一歩、真実へ近づくと﹂
アスフィは両手を握り締め、さも神に祈るが如く祈りを捧げる。
﹁︱︱嗚呼、﹃呪われし運命﹄を持つ騎士に⋮⋮導きが有らん事を﹂
誰も訪れる事の無いハルディロイ城の地下部屋。その場にて、全
1061
てを知るアスフィはただそう呟くだけであった。
1062
ep5 会議の朝
翌日の早朝五時。
当然の事ながら、ゼノスは自室にて爆睡していた。
昨夜はアスフィの話を聞いた後、すぐさま夕食を食べ終えて眠り
についたのだ。大体十時前後に就寝したので、流石に起床出来るだ
ろうと思われたが⋮⋮そんな気配は全く無かった。
円卓会議は早朝七時の予定であるが、ゼノスは口を大きく開けて
熟睡モードとなっている。
そして例の如く、ゲルマニアが強く扉を開けて起こしに来るので
あった。
﹁さあゼノス!今日は規定通りに起きて貰いますからね!円卓会議
は午前七時に開始しますし、前段階の準備も沢山あります!そもそ
も騎士団は毎日この時間に起床するのが基本ですのに、貴方という
1063
⋮⋮方⋮⋮⋮⋮は⋮⋮﹂
ずかずかと眠るゼノスに歩み寄り、無理やりに布団を剥ぐゲルマ
ニア。
その中を見た彼女は、一瞬にして脳内が凍り付いた。
﹁ん、ぐぐ⋮⋮や、やめろロザリー⋮⋮これ以上、俺の金で⋮⋮﹂
﹁⋮⋮んふふ。早くあたしと⋮⋮鍛練を⋮⋮﹂
前者は嫌な夢にうなされ、苦い表情で眠るゼノス。そして後者は
︱︱
︱︱薄い下着姿で幸せそうに眠る、ラヤであった。
﹁あ、ああ⋮⋮貴方と言う人は⋮⋮﹂
1064
ゲルマニアは顔を紅潮させ、怒りで我を忘れる寸前であった。怒
りもそうだし、今の彼女には様々な感情が膨れ上がった。
結果︱︱ゼノスは叩き落とされる始末となった。
ゼノスは何故か床に正座をされ︵ラヤも同様︶、仁王立ちしなが
ら憤慨するゲルマニアの詰問に付き合わされていた。
どうしてラヤと共に寝ていたのか、今まで一瞬でも気付かなかっ
たのか等々、ゼノスにとっては理不尽な問いかけが続いている。
実際の所、本当に身に覚えが無い。
というかだ。会って一日目の部下とそんなふしだらな真似をする
訳が無い。こう見えてもゼノスは硬派な面が多々あり、幾度も女性
と交際する機会もあったが全て断っていた。軟弱な精神は騎士道精
神を揺るがし、戦場で振るう刃にも狂いが生じるからだ。
1065
だから絶対にそんな事はしません、とゼノスはまるで独裁領主に
懇願する農民の様に説得し続けた。
その甲斐あってか、ゲルマニアは納得せずも追求は止めてくれた。
代わりにジロッと瞳を細め、ラヤへと問いかけ始める。
﹁︱︱で、何故貴方は此処で寝ていたのでしょうか?ゼノスは知ら
ないと言った手前、残る確信犯がいるとしたら⋮⋮﹂
﹁あはは、ごめんごめん。あたしが自分から床に入ったんだよ﹂
﹁⋮⋮な、何故でしょうかねえ。り、理由を聞かせて貰っても?﹂
額に青筋を立てるゲルマニアに対し、ラヤはあっさりと答える。
聞く所によると、ラヤはゼノスの指導があまりにも気に入ったら
しく、日も上らない時間帯にゼノスの自室へと忍び込み、密かに個
人指導を受けて貰おうとしたとか。
だが生憎、ゼノスは就寝中であった。
1066
仕方ないと思い一時は帰ろうとしたが⋮⋮何を考えたのか、ラヤ
はゼノスのベッドが気持ち良さそうなので入り、そのまま熟睡した
らしい。
それを終始聞いていたゲルマニアは、途端に脱力し始める。
﹁はあ⋮⋮まあ何はともあれ、やましい気持ちでないのは承知しま
した﹂
﹁そんなのありゃしないって!それよかさ、ゼノス将軍。これから
鍛練付き合ってくれるか?なあくれるのか?﹂
爛々と目を輝かせながらねだってくるラヤ。
しかしながら、ゼノス達は後に円卓会議を控えている。まだ二時
間の猶予があるが、懇切丁寧に教えている暇等ありはしない。
ゼノスはぽんぽんとラヤの頭を叩き、申し訳なさそうに述べる。
﹁悪いな、ラヤ。俺達は今から会議の準備をしなきゃならないんだ。
俺も一将軍として部下の指導はしたいが⋮⋮﹂
1067
﹁会議って、いつもフィールドが月一で出席してるやつか?あれっ
て副将軍とか代理が出るもんじゃないの?﹂
その言葉に、ゲルマニアが呆れ顔を示す。
﹁⋮⋮あれは総会の苦手なラヤの為に、フィールドが特例として出
ているだけです。今回の円卓会議は国家の安全に関わる重大な議題
が含まれますから、本人が出ないと意味が無いのですよ?﹂
﹁ええ∼そりゃないよ﹂
﹁言い訳は受け付けません。それに、鍛練など滞在期間中ならばい
つでも出来るでしょう⋮⋮﹂
﹁ちぇっ、相変わらずクソ真面目な奴だな。⋮⋮一応承知はするけ
ど、絶対鍛練に付き合ってよ?約束だからね﹂
ゼノスは正直に頷く。騎士としての素質はともかく、その向上心
は極めて優秀であり、見た目とは対照的に忠誠心も備わっているよ
うだ。
まあ彼女の場合は、騎士の基礎概念を丸っきり無視しているが。
1068
﹁ふふ、にしてもその目は本当に良いよ。︱︱ゼノス将軍、あんた
騎士になる前は傭兵の類をやっていた口かい?そうじゃなきゃ、そ
んな複雑な感情を孕んだ目つきは出来ないさ﹂
﹁⋮⋮さあな。って、とにかくお前は何か羽織れ!顔に似合わずネ
グリジェなんて着るな!﹂
﹁え∼とんだ偏見だなあ﹂
ゼノスとラヤはじゃれ合い︵?︶、ラヤの恰好について言い争い
をする。
何の変哲も無い流れであったが⋮⋮ゲルマニアだけは敏感に察知
した。
︱︱ゼノスに潜む陰りを。
﹁⋮⋮﹂
1069
一見彼が適当に相槌をし、感情の起伏が無い様に思える。
しかし、これはあくまで彼女なりの私見だが⋮⋮ゼノスは一瞬、
ラヤの一言で辛そうにしていた様に窺えた。
それが一体何を意味するかは分からないが、とても穏やかで無い
のは事実である。
﹁⋮⋮どうしたんだ、ゲルマニア?﹂
﹁⋮⋮いえ、何でもありません﹂
ズキッと心臓を貫く痛み。
ゲルマニアは彼が無理に平常を保たせている事に、不満を感じて
いた。それと同時に、微かな悲しみが滲んでいた。⋮⋮この自分に、
何も告げてくれない。
︱︱時々、彼女は思う。
1070
⋮⋮自分は、本当の相棒になっているのだろうかと。
朝日が燦々と照り輝き、日差しは城を包み込んでいく。
午前六時三十分。城内の庭園では小鳥が美しく囀り、草木は風に
よってなびき、まるで朝の訪れを祝福するかの如く舞う。光と緑の
コントラストは、城内にいる全ての者達に癒しを与える。
だがそんな事も束の間、城内の使用人や騎士達はそれぞれの仕事
に追い遣られてしまい、今でも庭園脇の渡り廊下ではせっせと働く
者達がいる。
1071
メイドは洗濯物を運び、雑用係は清掃に汗をかく。料理人は急い
で全員分の食事を運んでおり、庭師は器用に庭を整えていく。
いつもと変わらない日常。ありふれたハルディロイでの光景。
︱︱しかし、ある者達の登場を除いては。
皆は一様にして凝視し、ある者は驚きの余りその場に立ち尽くし
てしまう。
荘厳たる雰囲気を持つ庭園の渡り廊下。その場にて優雅、且つ堂
々とした態度で歩を進める⋮⋮白銀の鎧を着る騎士がいた。
言わずもがな、その人物は白銀の聖騎士である。
だが彼の登場のみで驚く程、彼等使用人は田舎者に非ず。六大将
軍の滞在期間中で必ずその一人は姿を目にし、とうに驚いている。
では何故、彼等がこうまで呆気に取られているのか?
1072
︱︱それは、神々をも恐れぬ覇者達の行軍であった。
光を斬り裂き、闇をも葬る。主と民に仇なす者ならば悪人を、例
え善人であっても容赦はしない。
天におわす者共がその異名に震え、地におわす者共はその姿を見
て逃げまどう⋮⋮限界を知らぬランドリオの将軍達。
彼等︱︱六大将軍一向は、列を成して円卓の間へと歩いて行く。
1073
ep6 六人の英傑
円卓の間︱︱ハルディロイ城最上階に設置されたこの部屋は、城
内でも至高の美と荘厳さを誇る。
円卓を取り囲む堀には清らかな水が流れ、立ち並ぶ円柱より先は
空色の世界が広がっている。開放的な空間はどこか神話時代の建築
様式を思い起こさせ、神秘的な雰囲気を忠実に再現している。
⋮⋮さあ、ここに役者は揃った。
円卓を囲むのは帝国屈指の騎士達。そしてランドリオ皇帝その人。
最重要たる議論を交える場合、常に平等と平穏な進行、決定を重要
視する。円卓会議には騎士と皇帝という地位よりも、一人の有力者
として扱われる場所である。
⋮⋮ここに集う七人は対等の立場で席へと座す。
それを見届けた現皇帝、アリーチェは静かに開幕の言葉を紡ぐ。
1074
﹁よくぞ集ってくれました、我等が同志⋮⋮天と地を支配する正義
を担いし騎士達よ。︱︱我が名はアリーチェ・ルノ・ランドリオ。
さあ、皆もその名を口にせよ。本名と異名を共に!﹂
決まり文句の言葉に従い、彼等は席を立ち、順々に言う。
﹁︱︱﹃白銀の聖騎士﹄、ゼノス・ディルガーナ。誓いましょう、
我が主の為に﹂
ゼノスは右拳を胸に当てて宣言する。
﹁︱︱﹃残酷なる剣豪﹄、アマギ・ユスティアラ・レンカ。誓おう、
我が国の統率の為に﹂
ユスティアラは刀の刃先を天へと掲げ、絶対の約束を呟く。
﹁︱︱﹃戦場の鬼﹄、アルバート・ヴィッテルシュタイン。誓うぞ、
我が弱き民の為に﹂
アルバートは瞳を閉じ、重々しく告げる。
1075
﹁︱︱﹃不死の女王﹄、モハヌディ・イルディエ・カラ・ハリヌ。
誓うわ、我が国に生きる全ての生命の為に﹂
イルディエに不敵に微笑みながら、堂々たる宣告を放つ。
以上は馴染み深き四人の将軍の挨拶。⋮⋮そして今日、更に二人
の六大将軍がその場にて姿を現し、初めて公の場に姿を示す。
まずは一人、イルディエに続くのは赤髪をオールバックにし、大
層な貴族服に身を包んだ若き青年であった。
彼は何とも爽快な笑みを放ち、高らかに言う。
﹁︱︱﹃戦略の貴公子﹄、ホフマン・ガイ・ノイディクス。嗚呼、
誓いますとも!我が麗しき姫君の為に、ここに集う友の為に!﹂
芝居がかった調子で言う彼は、これはまた大袈裟に身振り手振り
を使いながらそう公言する。
1076
⋮⋮そうか、彼がホフマン。
ゼノス達は愚か、世界中の者ならば誰もが聞き及ぶ名だろう。
彼は十九の若さで貴族達の社交場、つまりギャンブル場にて特別
待遇栄誉市民として参加を許され、類稀なる知識と勘で巨万の富を
得た青年だ。
平民だった彼はある大貴族に目星を付けられ、後に貴族の称号を
受け賜り、その才能は後に軍事的・経済的面において発揮されたそ
うだ。
ランドリオは勿論の事、経済に対しても他国から強い圧迫を強い
られており、そこにはやはり知略家なる存在が必要だった。⋮⋮こ
れは英雄譚に似た噂であるが、ホフマンが関わった外交や財政問題
は的確な対処によって安定的な方向へと進んでいるらしい。
︱︱初対面であるが、ゼノス達はその名を聞いて納得した。武力
の面では遥かに劣るが、彼もまたこの国の最重要地位につくに値す
る存在である。
﹁おほんっ!⋮⋮というわけで、前任の﹃知られざる者﹄に代わり
まして⋮⋮この才覚溢れた貴公子、ホフマンが座につきました。以
後、お見知りおきを﹂
1077
キランッ、と眩い光を放った白い歯を見せ、ナイスガイな追言を
してくるホフマン。
⋮⋮何と返事を返せばいいのか、この場にいる全員が戸惑ってい
た。
﹁おやっ?おやおや⋮⋮何を白けているのですか!そのような雰囲
気はこの華麗なる舞台には相応しくないですよ!?︱︱さあ、この
私にその猛き風格を示して!﹂
﹁⋮⋮姫よ。これが本当にあのホフマンか?﹂
ホフマンの隣に座るユスティアラが耳を抑え、心底目障りな様子
で問う。
﹁え、ええ⋮⋮。そうです⋮よね?﹂
アリーチェが苦笑しながらホフマンに聞く。
すると彼はバンッと立ち上がり始める。アリーチェ本人はビクッ
としながら体を仰け反らせる。
1078
﹁無論です、我が敬愛せし美姫よ!このホフマン、どれほどこの時
を待ち焦がれていた事か!⋮⋮嗚呼、嗚呼!この三日三晩の苦闘が
思い出されます⋮⋮。幾度も苦しみ、果たしてどれほど耐えてきた
事かっ!﹂
﹁ぬぅ、分かった。分かったからホフマン、少しは静かにせんか﹂
余りにもでかい声に、アルバートも困り果てていた。
遠回しな表現といい、抒情的な言葉で話を進めるといい⋮⋮ゼノ
スから見れば典型的な貴族だなと思う次第であった。まあ、良い意
味であるが。
続いて一同はホフマンからもう一人の六大将軍へと目を向ける。
いや正確には︱︱三人である。
ゼノス以外の皆は、その余りにも逸脱した衣装と雰囲気に唖然と
1079
していた。
﹁ねえ父さん∼、いつになったら帰れるの?あたし、まだ夏休みの
宿題全然終ってないんだけど﹂
﹁同感⋮⋮つか俺、明日打ち上げあるのに、何でまた﹃異世界﹄で
こんな事すんだよ?﹂
円卓に座る最後の六大将軍の後ろに侍る二人の青年と少女。⋮⋮
その恰好は、ゼノスだけが知り得るそれであった。
少女は紺色のブレザーにチェック柄のスカートを履いており、そ
の手にはしっかりと﹃スマートフォン﹄が握られている。人工的に
染めた茶髪を弄りながらスマフォに夢中である。⋮⋮一方の青年も
同様の異質さだ。カジュアルな服装は﹃大学生﹄らしさを強調して
おり、この世界の住民から見れば何とも変わった髪型をしている。
︱︱そして、円卓の席に座る六大将軍も同じである。
﹁こ、こらソフィア、ロブ。これは滅多に無い機会なんだぞ!この
﹃異世界近代化計画﹄を優位に進める会談でもあるんだから!⋮⋮
た、頼む!父さんが前の事業に失敗した事はよく知ってるだろ!?﹂
1080
半泣きの状態で後ろの二人に懇願するのは、約三十代前後の男で
あった。
この世界に相応しくない濃紺のスーツ姿。着慣れていないのか、
赤のネクタイはやや曲がっていて、茶色の髪はボサボサである。ガ
タイはややアルバートに劣るけれど、他者から見れば圧倒的に大き
い。
まるで死線を幾度も潜り抜けてきた猛者の様な顔つきであるが⋮
⋮かしこまった態度とは明らかに不釣り合いである。
⋮⋮で、だ。
長々とこの三人の説明をしてきたが、多分これを理解出来るのは
ゼノスだけであろう。
ゼノスは顔を巡らせ、皆がやはり困惑している事に気付く。
︱︱仕方ないので、ゼノスが助け舟を出してやった。
1081
﹁⋮⋮見慣れない恰好だと思うが、この者達の恰好は古代民族が着
ていたとされる伝統衣装の一つだ。俺は前にこの恰好をした者達が
住む集落に行った事がある﹂
冷静に説明するゼノス。
﹁⋮⋮私はそんな集落見た事も無いわね。それとも、聖騎士だけが
到達出来た秘境の地⋮⋮なのかしら?﹂
う∼ん、と唸りながら自分の記憶を辿り始めるイルディエ。いや
多分、どんなに模索しても、絶対にここだ!という言葉が出る事は
有り得ない。
﹁え、えっと⋮⋮失礼ですが、名前を申し上げてくれると﹂
アリーチェがそう言うと、スーツ姿の男は焦りながら平謝りをし
てくる。
﹁あ、こいつは申し訳ない!え∼異名は特に無いんですが、名前は
阿部⋮⋮いやジハードという者です。はは、どうか宜しくお願いし
ます﹂
1082
その男︱︱ジハードはゼノスをチラ見しながら答える。
⋮⋮彼等の正体。語るには長い説明が必要となるが、先程の会話
を聞けば事足りる事であろう。
︱︱そう、それは今から三十分程前の事である。
1083
ep6 六人の英傑︵後書き︶
追記1月19日午後11時44分=新作﹃Black
Brav
e﹄を投稿いたしました。興味がありましたら、どうぞご覧になっ
て下さい。
1084
ep7 竜の王
円卓会議を控えるゼノスは、その場で硬直してしまった。
場所は円卓の間で会議する者達の控室となる部屋。何の特徴も見
受けられない、何の変哲も無い部屋に待機しているのはいいのだが
⋮⋮彼と同室に待機する人物達に驚きを隠せなかった。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮何やってるんだ、﹃竜帝﹄﹂
﹁あ、はは⋮⋮よ、よおゼノス。そんな怖い顔すんなって、な?お
前とは一時期、同じ屋根の下で暮らした仲じゃねえか⋮⋮な、なあ
子供達よ?﹂
︱︱竜帝。漆黒の鱗に覆われ、赤眼の瞳を有する史上最強と謳わ
れたドラゴンの名称である事は言うまでもない。その時代を生きた
英雄達は屈強たる精神と共に竜帝へと立ち向かったが⋮⋮生き残っ
1085
た者はいなかった。
この世界では疫病神の化身とも言われ、絶対に出会ってはいけない、
彼の住まう竜宮殿には足を運んではいけない。奴は︱︱恐ろしく傲
慢で、人の血肉を欲する竜帝なのだから︱︱と、語り継がれている。
しかし、だ。
︱︱はっきり言おう。⋮⋮竜帝は、そんな奴ではないと。
確かに過去の英雄達は竜帝に挑んだが⋮⋮彼等が戦い敗北したの
は、竜帝が従える好戦的な竜であり、決して竜帝本人では無い。
更に言うと、ゼノスはこの竜帝とまともに戦った事ないというの
が事実。
六大将軍として過去に竜討伐を命じられ、単身で竜宮殿に侵入し
て竜達を退治し⋮⋮その時に竜帝と出くわしたのである。
1086
最初は死を覚悟して戦いを挑んだが⋮⋮戦いは不燃焼の形で幕を
下ろした。
︱︱それどころか、何らかのトラブルを以てしてゼノスは異空間
へと吸い込まれてしまい、その先の世界で竜帝の家族と生活をする
羽目になったのだ。
竜帝ジハード、その娘ソフィアと息子ロブと一緒に⋮⋮﹃地球﹄
という所でだ。
﹁⋮⋮まあ、ゼノス兄が言いたい事は分かるよ。てか、自分も父さ
んが六大将軍だって知ったの、さっきだったから﹂
﹁俺もなんだよ⋮⋮。つうか親父、何で俺達も会議に参加しなきゃ
いけないんだ?んなの親父一人で充分だろうが﹂
子供達からの批判を受けて、ジハードは何とも気恥ずかしそうに
もじもじし始める。
﹁だ、だってよお。母さんは海外に赴任中だし、お前達だけじゃ寂
しいだろ?こうして父さんが連れて来たのは、お前達を思ってこそ
︱︱ぐはっ﹂
1087
まあそんなこんなで、ジハードはソフィアとロブからのタコ殴り
に遭い、数十秒間ゼノスの前で親子喧嘩︵?︶が展開される。
ようやく終着を迎えたが、ジハードは腫れ上がった顔を晒してい
た。二人はジハードから目を背けている⋮⋮暫くジハードに話し掛
ける事は無いだろう。
﹁︱︱で、何でここに来たんだ?あんたが六大将軍だって事は分か
ったが⋮⋮随分と急に現れたものだな﹂
﹁⋮⋮﹂
ジハードは色々と理由をつけて丸く収めるつもりだろうが、本心
は恐らく他にあるのだろう。現に彼はゼノスの指摘に対し、緩んだ
表情は途端に厳格なそれへと変化し始める。
︱︱竜帝としての威厳を放ち、冷静な態度でゼノスの言葉を待つ。
﹁話してくれ。例え人間の姿に化けているとしても、竜族が滅多に
人前に姿を見せない事は承知している⋮⋮。余程の理由があって来
たんだろ?﹂
1088
﹁⋮⋮ちぇ、冗談の通じない奴め﹂
足を組んでソファへと寄りかかり、ジハードは煙草を一本咥えて
火を付ける。
白い煙草の煙を吐いた後、厳粛な面持ちで呟く。
﹁⋮⋮まあな。本当ならば誰にも言いたくなかったんだが、お前に
なら言っても大丈夫か。事は急を要するしな﹂
先程とは打って変わり、拳を握る力を増すジハード。これにはソ
フィアやロブも少々面喰っていた。
かの竜帝がここまで怒るとは、聞く前のゼノスでさえ予想不可能
だ。
﹁⋮⋮聞いて驚くなよ、ゼノス。俺の忠実な部下であり、﹃四竜﹄
と恐れられていた奴等が︱︱︱︱何者かに殺されちまったんだ﹂
1089
﹁︱︱︱︱ッ!?。あ、あいつらが?﹂
ゼノスの驚きは尋常では無かった。
﹃四竜﹄と言えば、この世界では竜帝の次に恐れられていて、尚
且つ温厚なジハードとはまるで正反対に凶暴な性格である。確かい
つの時代か、白銀の聖騎士と幾度も渡り合ってきたという伝承も存
在する程だ。
︱︱そんな竜達が、何者かによって殺された。
これは驚愕すべき事態であり、不吉の前兆と言っても過言では無
い。
現に竜帝自身が行動を起こしている時点で、それが露骨に表れて
いる。
﹁犯人は大体特定出来ているのか?﹂
﹁いや、恥ずかしながら全く手掛かりを掴めていない。我等竜族を
欺いて殺す等⋮⋮いやはや中々の手練れじゃねえか。︱︱俺の知る
限り、六大将軍以外の奴が四竜を倒せるとは思えねえなぁ﹂
1090
ジハードは憤怒の表情で、しかし極力抑えた状態で答える。ソフ
ィアとロブは久方振りに見せる父の怒りに、ただならぬ気配を感じ
る。
﹁なあゼノス。単刀直入に聞かせて貰うが⋮⋮この世界で今、何が
起きてるんだ?﹂
﹁⋮⋮その根拠は?﹂
﹁俺達竜族は、どの種族よりも気の流れを敏感に感知しちまう。感
情の機微や思惑、精神的な何かを全て読み取れる。だから分かるん
だ﹂
ジハードは視線を窓へと移し、憎々しげに言う。
﹁︱︱この世界に蔓延る胸くそ悪い邪気が、徐々に増大していく様
子がな。そしてお前はその理由を既に知っていると見たが?﹂
1091
﹁⋮⋮ああ。会議が迫っているから手短に話すが、恐らくこの話も
話題に出るかもしれない。よく聞いておいてくれ﹂
ゼノスは自分が知る限りの情報を、ジハード達に余すところ無く、
そして簡潔に説明した。
始祖と名乗る少女が現れ、彼女の力によってシールカードという
災厄を担う者達が出現し始めていき、ギャンブラーはそのカードを
支配している事を。
それを聞き終えたジハード達の様子は⋮⋮酷く曖昧なものであっ
た。
﹁始祖、か。それはもしかして、先程からこの城の地下から感じる
波動の持ち主がそいつか?﹂
﹁まあ、な。詳しい経緯はまた今度言うが、今は秘密裏に共同戦線
を張っている状態だ。⋮⋮得体の知れない奴と、共に過ごしている
のさ﹂
ゼノスの疑心暗鬼は尤もである。それは竜帝も認識しており、あ
えて宿敵たる始祖を仲間に加えているかは問うまい。
1092
﹁⋮⋮残念だが、この俺も始祖やシールカードに関してはよく分か
らねえ。今の俺は一時期ランドリオの皇帝に君臨してた身として、
一応この国を守る為に馳せ参じたわけだ﹂
﹁それは本当に有り難い事だ。まさか六大将軍の一人だとは思わな
かったが⋮⋮竜族の王が仲間だと心強いよ﹂
﹁まあそこら辺は安心してくれて構わねえが⋮⋮油断も出来ねえな。
察するにそのシールカードとやら、相当危険な存在だと見受けるぜ﹂
確かに奴等は危険な存在である。ランドリオは二度も連中によっ
て帝国崩壊の危機に晒されたし、その実力も尋常では無い。
ジハードは異常に神妙な面持ちで、ゼノスを見据える。
﹁︱︱︱︱このままだと、大きな戦争が起こり始める。それを食い
止める為に、世界を調停せし竜帝は降臨した。⋮⋮ま、それだけは
肝に銘じておいてくれよ、ゼノス?﹂
﹁⋮⋮﹂
1093
ジハードの言葉は、余りにも現実味のあるものだった。
⋮⋮恐らくその話題も会議に出るだろう。この控室で余計な邪推
はせず、口に出す事もしないゼノス。
いずれにせよ、ジハードが何故六大将軍として今更推参し、ラン
ドリオ帝国の運命を決定付ける会議に出席する気になったかが分か
った。色々と理由づけてはいるが⋮⋮本性が分かっただけでも十分
である。
︱︱これは会議から三十分前の話であり、近い将来に有り得るだ
ろう出来事を語った時だった。
1094
ep7 竜の王︵後書き︶
白銀の聖騎士以外にも﹁Black
Brave﹂という小説を
投稿致しました。興味がございましたら、どうぞ読んでみて下さい。
1095
ep8 円卓会議 前半
かくして、円卓会議が始まった。
稀に見ぬ最強の集いは傍に侍る兵士二名を緊張させ、お茶を汲み
に来たメイドを驚かせる。それだけこの者達の集合は異例の事態だ。
一通り挨拶を済み終えた一同。アリーチェはそれをしっかりと把
握した上で、皆に着席するよう求める。
着席後、アリーチェは重々しく呟く。
﹁⋮⋮では始めましょうか。まずは本日の議題を提示した上で議論
を重ねていきましょう﹂
全員が首肯すると、彼女は会議のテーマ⋮⋮つまりは議論の中心
となる話題を宣言する。
﹁今回貴方方を集めたのは、他でもありません。︱︱議題は二つ、
1096
一つはシールカードと呼ばれる者達について。もう一つは私、アリ
ーチェの婚約について議論致しましょう﹂
︱︱やはりか。
ゼノスは愚か、その場の皆が納得する議題であった。この国の運
命を左右し得る二つは、自然と六大将軍に緊張と不安感を与えてく
る。
﹁︱︱さて、皆も既に存じている事でしょう。我がランドリオ帝国
は古の時代から他国の侵略を受け続け、幾多もの困難を乗り越えて
きました。⋮⋮しかし最近ではその秩序が崩壊しようとしています﹂
そう、今やランドリオ帝国は存亡の危機に関わっている。
マルス率いる盗賊のシールカード達は、その類稀なる罠と裏切り
によって帝国崩壊の直前まで押し寄せていき、魔王ルードアリアの
強襲は事前の対処によって外部への被害は出ていないが⋮⋮下手を
すれば甚大な被害を受けていたに違いない。
﹁彼等の素性や目的、果たして彼等は﹃団体﹄であるのか﹃個人﹄
なのか?未だ不可解な部分が多いというのが現実です﹂
1097
﹁⋮⋮確かに奴等の情報は少ないけれど、推定出来る部分はあるわ。
実際マルスと対峙した私からしてみれば⋮⋮彼等シールカードはギ
ャンブラーという主によって動かされ、当のギャンブラーも個人的
な恨みを以てして強襲していた⋮⋮団体という可能性は低いのでは
無いかしら?﹂
発言したのはイルディエである。だがそれに対して、ユスティア
ラが冷静に反論する。
﹁しかし、それはあくまでマルス個人の場合。彼が独断専行を行っ
ていたという事も十分有り得る話だ。現にルードアリアの事例では
曖昧な点も多々ある⋮⋮﹂
二人の意見にはそれぞれ理解出来る点があるが、やはり抽象的で
ある存在に対しては、憶測で意見を交わすしか無かった。
︱︱ある六大将軍を除いては。
﹁⋮⋮しっかりせい、六大将軍の名が泣くぞ﹂
静かな声音で、しかし重みのある口調で介入してきたのはアルバ
1098
ートであった。彼は腕を組み、六大将軍最高齢としての威厳を改め
て発揮させる。
﹁奴等が徒党を組むなぞ分かりきった事であろうに﹂
﹁何故そう言いきれるのかしら?可能性はあるにせよ、これは本格
的対策を練らねばならない大事な話し合いよ。⋮⋮もし明確な根拠
があるならば、遠慮なく言って欲しいわね﹂
﹁珍しく突っかかってくるのう、イルディエ。⋮⋮無論、根拠はあ
る﹂
そう言って、アルバートは言葉を続ける。
﹁︱︱いや根拠というよりは、確信じゃな。仮に騎士マルスの行動
が独断であったにせよ⋮⋮奴はランドリオを崩壊の危機にまで追い
込んだ。勿論、ルードアリアの一件も同じ事よ﹂
彼等の共通の目的、それは破壊と滅亡をランドリオに呼び寄せた
事である。
アルバートは確信する。
1099
﹁簡単な話じゃて。ミスティカやゼノスの様に、ゲルマニアの様に
争いを好まぬ者もいて、互いに結束し合っているのは事実。じゃが、
逆説的にも考えられる。︱︱破壊と滅亡を求む者達も、結束し合う
可能性がな﹂
その言葉に、皆は息を呑む。
人の真理とは何とも浅はかな物であり、人生経験の長い者はその
仕組みをよく存じている。
そうだ。人は同じ意思の下にて協力し合い、一つの目標に向けて
共に進んで行くのが人の定めであり、条理である。
我等ランドリオ帝国の騎士達が集うのと同じく、彼等シールカー
ドやギャンブラーとて、同じ意思を持った人間であるのは間違いな
い。
︱︱悪の意思を持った者達がいるならば、彼等が組み合う事も有
り得ない話では無く⋮⋮むしろ現実的な考えだと思われる。
それは確信でも無ければ根拠でも無い。だが彼から放たれる一言
1100
は、自然とその場にいる皆に妙な合理的な納得感を与えてしまう。
﹁儂が言えるのはここまでじゃ。⋮⋮もし更なる根拠が欲しいなら
ば、そこのホフマンに聞くがいい﹂
ふいに向けられた言葉に、ホフマンが感心した表情で呟く。
﹁⋮⋮ほお、ほおほお。アルバート殿はよく分かっておられますね、
流石は﹃始原旅団元首長﹄だけあり、広い視野を持っておられる﹂
﹁⋮⋮ふん、昔の話じゃ。妙な褒めや称えは逆に印象を悪くさせる
ぞい?﹂
アルバートは心底嫌な様子で吐き捨てる。
︱︱始原旅団。ここで深く語る事は無いだろうが、その名は全世
界に住まう者ならば一度聞いた事ある名称であろう。
とどのつまり、辺境の草原に住まう部族が一変し、僅か数年もの
歳月を経て国滅ぼしの旅団と呼ばれた団体であり、アルバートはそ
の時の首長であった。⋮⋮だがそれはまた長い物語、アルバートの
1101
劇的半生を描いた長い長い話である。
﹁おっと、これは失礼をば。︱︱ええ、確かに私は根拠たる所以を
重々と把握していますとも!神に誓います、我が麗しき姫君に誓い
ます!嗚呼、嗚呼!﹂
﹁⋮⋮五月蠅い、黙れ。貴様は要点のみを語れない愚か者なのか?﹂
ホフマンと正反対の性格を持つユスティアラが、やはり予想通り
苛立たしい様子で言う。⋮⋮それはゼノスも同意見であるが、彼女
の様に口に出す事は出来なかった。
だが、ホフマン自身は何食わぬ顔で礼儀正しくお辞儀をし、言葉
を続ける。
﹁︱︱この私、ホフマンは外交や政治方面、財政面に関しては多少
の知識があります。⋮⋮⋮⋮故に、つい耳にしてしまうのですよ﹂
ホフマンは急に立ち上がる。
自分を自分の両手で抱き締め、何とも迫真な演技で言い捲し立て
る。何とも残念な光景であるが⋮⋮
1102
彼は驚きの一言を放つ。
﹁嗚呼、悲しき哉。私と面会した財界の役人も、国王も、その国に
立つトップは口々に告げているのですよ!⋮⋮﹃我が国を懐柔しよ
うとしている組織がある。︱︱その奇跡が、我々を虜にする﹄と﹂
﹁⋮⋮奇跡とは何でしょうか?無論、貴方ならば聞いているのでし
ょう?﹂
アリーチェは六大将軍達が神経を尖らせる中、淡々とした口調で
問いかける。
︱︱嫌な予感がする。
胸の奥底からざわめく感情は、六大将軍全員に突き付けられる。
特にゼノスは、吐き気と悪寒に苛まれる。
﹁ええ、勿論聞き及んでおります。︱︱奇跡とは即ち、その国が願
う事。流行り病に侵された国は奇跡によって安寧を取戻し、戦争で
滅亡の危機に立たされた弱小国家は、その奇跡のおかげで無敗の国
1103
家と成り立ったとか﹂
それは何故か?ホフマンはそう言い足した後、狂喜に満ちた笑み
を浮かべる。
﹁︱︱そう、皆は口々にこう仰るのです。﹃シールカードを持ちし
救世主に、我等は従おう﹄と。それは個人単体という規模では無く、
秘密裏に、しかも広範囲にその傾向は広がっているそうですよ?﹂
⋮⋮その言葉に、皆はしばし黙り込む。
シールカードは烏合の衆では無く、統率の取れた組織だというの
か?それも綿密に国家と提携し、何を企んでいるのか?
奇跡とは恐らく、シールカードによる能力を表しているのだろう。
全く、散々シールカードの脅威に震えていた者達が、自らの利益を
勝ち取った瞬間に囃し立てるか⋮⋮。
︱︱それはともかく、これで事の重大さが大分露わとなった。
﹁⋮⋮世界が、シールカードの勢力に加担しているというのかしら
?﹂
1104
イルディエは額に嫌な汗をたらしつつ、慎重に言葉を紡ぐ。
﹁そう認識した方が良いじゃろ。︱︱そして、奴らの目的が何なの
かも大体予想がつくものよ﹂
アルバートも神妙な面持ちで、自分の予想する最悪な予想に恐怖
する。如何に強心臓たる彼でも、この未来は余りにも怖くて肝が冷
える。
⋮⋮そうだ。もしマルスの様な意思を持った者達がいるならば、
彼等は即座にある目的を果たしに来るだろう。
﹁⋮⋮⋮⋮始祖を奪還する為に、ランドリオへと攻めて来るかもし
れないと﹂
ふいに、今まで口を閉ざしていたゼノスが語る。
1105
⋮⋮シールカードは恐れられている。世界中の人間から忌み嫌わ
れ、あらゆる苦難と絶望を噛み締めてきた。
彼等の唯一の救いは、母たる始祖を手中に収める事かもしれない。
何か引き寄せられる魅力があるのかもしれない。︱︱理屈上では判
断出来ないが、自然とそう思ってしまう。
﹁愚かなり。奴等は世界をも巻き込む戦争を起こそうと言うのか?﹂
﹁⋮⋮一体、始祖の何に惹かれて奪おうとしているのかしら。こん
な馬鹿げた真似をするなんて⋮⋮どうかしているわね﹂
まるで正気の沙汰とは思えない、そんなユスティアラとイルディ
エの意見には賛同し得ない点がある。
余りにも抽象的な話だが、彼等シールカードが各国のトップを掌
握するのには訳があるに違いないが、それが善か悪かは定かでは無
い。
一括りにシールカードと言っても、ゲルマニアの様な心優しく、
争いを好まない者もいるのが現状だ。
⋮⋮百聞は一見に如かず。正にゼノス達は、途方も無い証拠無き
1106
推定や推論を述べているに過ぎないのだ。
﹁⋮⋮ホフマン、他に有力な情報は無いのですか?これでは流石に、
シールカードが侵略目的で他国を掌握しているか判断が出来ません﹂
﹁ふむ、確かに。⋮⋮⋮⋮⋮⋮まあ情報というわけではありません
が、これからそれを突き止める好機はございますよ﹂
ホフマンはニヤリと嫌な笑みを浮かべてくる。
﹁︱︱これは本当に恥ずかしい限りですが、我等ランドリオ貴族の
一部もシールカードの誘惑に敗れ、始祖奪還を企てる者もいるよう
ですね﹂
その言葉に、アリーチェ以外の全員が怒気を露わにする。
貴族には国を守ろうとする誇りが無いのか?如何に傍若無人な行
為が許されても、それにも限度がある。
﹁誰かは特定出来たか、ホフマン?﹂
1107
ゼノスが問うと、ホフマンは首を横に振る。
﹁いえ、残念ながら特定は出来ませんでしたね。貴族の秘密主義は
伊達では無く、一枚岩ではありません。⋮⋮しかし、絶好の機会が
あるではないですか﹂
ホフマンはアリーチェを見据える。
﹁︱︱嗚呼姫君よ、結婚披露宴は忙しくなりますねえ。単なる祝福
の儀だけでは無さそうですよ?﹂
﹁⋮⋮そのようですね﹂
ゼノス達は事情も知らず、その一連の会話を黙って見送る。
大体予想はついているが、アリーチェ皇帝陛下自身の口からそれ
は告げられる。
﹁⋮⋮皆さん、ここで次の議題も提示致しましょう、私アリーチェ
と︱︱ランドリオ大貴族ヘストニス侯爵家の長男、マーシェル・ヴ
1108
ォル・ヘストニス様との婚約披露宴の詳細を⋮⋮﹂
姫は悲しげな口調で宣言する。
円卓会議は第一の議題を含んだ上で、後半へと移り行く。
1109
ep8 円卓会議 前半︵後書き︶
1月28日午後12時前後にて、﹁Black
8を投稿する予定です。
Blave﹂ep
1110
ep9 円卓会議 後半
マーシェル氏との婚約は、突然もたらされた取決めだったそうだ。
リカルド皇帝が死亡し、アリーチェが急遽皇帝陛下へと即位した
のは良いが⋮⋮先日、ヘストニス侯爵家からある要求が来たのだと
いう。
︱︱﹃我が一族は、前皇帝陛下から直々に皇位継承権を賜った。
例え一時の対応と言えど、皇女殿下の即位は許されざる事態である。
⋮⋮よって、我はマーシェルを婿養子としてアリーチェ陛下との婚
約を要求する。これが最善たる対処であり、当然の責務である﹄、
と。
ヘストニス侯爵家は財政面に対して大きくランドリオ帝国に貢献
し、他貴族と一線を画した功績を踏まえている。そして多大なる威
厳もあるせいか、貴族勢力は誰もこれに反対はしなかった。
︱︱他方の皇族家としても、ヘストニス家の要求を無下には出来
なかった。それどころか彼等は前皇帝陛下直筆と称した契約書を送
り付けて来ている。⋮⋮帝国再建期を狙って、自らの地位向上を図
1111
っているのだろうか?
そんな分かりきった事であるが⋮⋮皇族家は断れなかった。
アリーチェの親戚一同は、彼女の意志に関係無く⋮⋮婚約を承認
したのだ。
いくら六大将軍と言えど、ゼノス達は騎士である。
一部政治的判断や戦争指揮系統に参加出来ても、皇族家と貴族間
で執り行われる決定には抗えない。
これが望まぬ結婚だとしても⋮⋮ゼノス達は歯痒い思いで、ただ
その事情説明を清聴しているしか無かった。
﹁︱︱という訳です。私は素直にその要求に応じ、彼と結婚を前提
に婚約を発表致します。婚約披露宴は一週間後から更に一週間、ヘ
ストニス侯爵領内に建てられた﹃ヴァルディカ離宮﹄にて開催され
ます。⋮⋮六大将軍総勢は、一週間程屋敷に待機して貰います⋮⋮
⋮⋮何か質問はありますか?﹂
質問等⋮⋮幾らでも存在する。
1112
その疑問を代表して答えるのは、アルバートだった。
﹁⋮⋮解せんのう。今や様々な面において揺らぎがある中で、貴族
との結婚は洒落にならんわい。それこそ別の方面で問題が発生し、
殿下の印象に悪影響を及ぼすだけじゃぞ﹂
﹁同感ね。この私から見ても、彼等には私欲と悪意にしか存在しな
い⋮⋮⋮⋮まさに最低な男との結婚かしら﹂
アルバートとイルディエが妥当な意見を述べる。︱︱だが、
﹁よせ二人共。今更言った所では、後の祭りだ。⋮⋮これはあくま
で皇帝陛下の決断であり、我が主が望む事だ﹂
ゼノスが拳を握り締めながら念押す。
⋮⋮とはいえ、皇帝陛下の決断に欠点が存在する事は言うまでも
ない。
シールカードの出現は今や世を騒がせており、彼等の暴動は他国
1113
の耳にも入っている。ホフマンの情報もある故、今は内政面に大き
な支障を来したくない。
貴族と皇族が結婚するとならば、反貴族勢力を掲げる民間組織や
騎士階層が黙っていないだろう。更には貴族を支援する上流階級と
も衝突を起こし⋮⋮最悪の場合は内乱も覚悟した方が良いだろう。
︱︱実の所、ゼノスもこの結婚に反対だった。
だからゼノスは、アルバート達が反論する前に言葉を続ける。
﹁⋮⋮⋮⋮ですが、一つ進言させて頂いても宜しいでしょうか?﹂
﹁っ!⋮⋮な、何でしょうか﹂
この会議で初めてゼノスが意見を述べようとする。それは当のア
リーチェを困惑させ、不安へと導く。
しかし、それでも彼ははっきりと言う。
1114
﹁︱︱アリーチェ様、私はこの婚約披露宴には反対です。如何に貴
族からの申し出とはいえ、この件に関しては素直に断った方が賢明
かと﹂
﹁で、ですが⋮⋮彼等は有力貴族であり、無下に断ってしまえば色
々と問題が﹂
﹁そうなるかは皇帝陛下の態度次第です。貴方様が気丈な態度で命
令すれば、我々も含め全員が了承するでしょう。⋮⋮要は、貴方様
はご自分の意思で決断しなければなりません﹂
と、ゼノスは再度アリーチェにその本意を確かめる。
貴族がシールカードと接触し、帝国に仇なすという噂の調査は披
露宴以外でも出来る機会は幾らでも作れる。様々な問題等、所詮は
武力による衝突であり、それもまたゼノス達騎士が単に収めれば良
い話だ。
⋮⋮結果的に言うと、アリーチェはまだ弱い。
どんなに皇帝としての威厳を繕っても、まだ即位したばかりの、
しかも齢十六の少女にこの選択は酷というものだ。
1115
己の欲望と企みを孕んだ貴族との関係向上を取るか、現実問題と
して山積みされた問題に立ち向かう為に、敢えて皇帝として君臨す
るか⋮⋮二つに一つ。
︱︱どちらが正しいかは一目瞭然なのに、今のアリーチェはまだ
幼く、周囲の決断に流されるまま⋮⋮。
しばしの静寂が訪れる。
誰もがアリーチェ自身の言葉を待ち焦がれ、誰もがその本意に従
いたいと願うばかりであったが、
﹁⋮⋮やはり、運命は変えられません。弱い私には⋮⋮⋮⋮ヘスト
ニス家の政治戦略が必要だと心得ています﹂
決意は揺るがなかった。
1116
アリーチェの意思では無い、アリーチェの決断を聞いたゼノスは
心を落ち着かせ、また改めて言葉を口にする。
﹁致し方、ありませんね。⋮⋮では、そのように理解しておきまし
ょう﹂
﹁︱︱ッ﹂
ゼノスの異様なまでに冷静な返答は、アリーチェに微かな憤りを
覚えさせる。ガタッとその場から立ち上がり、懇願の眼差しでゼノ
スを見据える。
その目が訴えている。⋮⋮私は本当にこのままでいいの?お願い、
私を導いて下さい⋮⋮聖騎士様、と。
︱︱だが、ゼノスは無情にも目を背けた。
皇帝陛下自身が助けを求めているにも関わらず、この中で一番忠
誠心が高いゼノスが、彼女の懇願を無視した。
余りにも唐突な態度に、アリーチェは困惑する。
1117
﹁⋮⋮⋮⋮あ、あの。その⋮⋮﹂
主君としてあるまじき態度であった。自らを偽り、未だ皇帝とし
ての決断力に欠けている。
ゼノスはあえて、アリーチェの選択肢に対して否定も肯定もしな
かった。ただ理解したとだけ呟き、保留という形で認識する。
﹁⋮⋮我々騎士は、貴方様の本音を聞くまでお待ち致します。そし
てそれが聞けた時に、我等六大将軍は行動しましょう﹂
押し黙るアリーチェを尻目に、ゼノスは他の六大将軍を見回す。
﹁シールカードと貴族の調査に関しては、結婚披露宴期間内にて勢
力を上げて追及しよう。無論、我々もそれを惜しまない事にする。
⋮⋮いいな、貴族達に何か変な行動が見られたらすぐさま捕えろ﹂
六大将軍達は誰も反対しなかった。首を縦に振る者もいれば、沈
黙の了解を示す者もいる。現状では、これしか出来ないのが事実だ。
1118
ゼノスはまたアリーチェへと向き直り、一瞥する。
﹁時間はまだあります。︱︱どんな困難な選択が待ち受けようと、
今の貴方が﹃皇帝陛下﹄だという事は、お忘れなきよう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ランドリオ皇帝は、ただ優しさだけでは務まらない。時には無情
なる決断も必要であり、曲げぬ屈強な意思が必須である。
︱︱円卓会議はまだ早かったかもしれない。皆がそう思う中、ア
リーチェに代わってゼノス達が結婚披露宴での詳しい調査方法につ
いて議論し合い、彼女はそれを茫然と静観するだけであった。
1119
円卓会議は粛々と執り行われ、そして中途半端な状態のまま幕を
下ろした。
シールカードが団体として組織されている可能性、彼等が徒党を
組んで他国と絡み合い、何か良からぬ企みを持っている事。どれも
が﹃確定﹄という段階に踏み込めぬまま、結婚披露宴にてその事実
を解き明かす結果となった。
果たして真相が見つかるかはともかく、今は披露宴まで待つしか
ない。
⋮⋮ランドリオ中枢と深く関われるその好機に、貴族側が何かし
でかすかもしれない。
1120
︱︱それをゼノス達は、皇帝陛下が望まぬ披露宴を利用して突き
詰める⋮⋮。
﹁⋮⋮本当に良かったのですか、アリーチェ様﹂
会議が終わり、ゼノスは廊下の窓から外を眺めつつ呟く。
自分は皇帝陛下に対して冷たい態度を取り、アリーチェ自身で強
くなるべきだとあの場で無言の主張をした。とどのつまり、自分は
選択については何も助力しないと決断したのだ。
⋮⋮だが、本当にあれで良かったのだろうか?
もっと気の利く方法があった筈だと、今では後悔の念に駆られる
ばかりであった。例えばアリーチェが思う意思をゼノス達が述べ、
その気にさせるとか⋮⋮⋮⋮いや駄目だ、それでは彼女は何も成長
しない。
しかしあの悲しそうな表情を見せられると⋮⋮ゼノスは自分がす
べき行動に苦悩していた。
1121
こんな時は誰かに相談した方が良いのかもしれないが、ゲルマニ
アは他の用事に追われているし、六大将軍達だって城内ですべき用
事がある。
︱︱と、そんな時だった。
﹁あらら、まだ小難しい悩みを抱えているのかしら?﹂
ふいに声を掛けて来たのは、イルディエだった。
相も変わらずの踊り子衣装の上に外套を羽織り、不敵な笑みを浮
かべてゼノスへと歩み寄って来る。
﹁⋮⋮イルディエか﹂
珍しい事もあるものだ。彼女は人懐っこく接する様な性分だと思
えるが、実際はそうでは無く、滅多に彼女から人と話す事は無いの
だが⋮⋮。
1122
ゼノスが訝しむ様子を見せたせいか、イルディエはくすりと笑う。
﹁勘違いしないでよ、別に深い意味は無いわ。ただちょっと、今晩
城下町で飲みに行きたいなって思って⋮⋮⋮⋮どうかしら?﹂
﹁どうって⋮⋮急な用事は無いけど、この時間に外出するとゲルマ
ニアが五月蠅いんだ﹂
現在の時刻は午後五時を過ぎた頃、黄昏色の夕焼けは徐々に地平
線の彼方へと沈み行き、人々の忙しない労働も終了しようとしてい
る。
つい数日前もこの時間帯付近にて余裕が見つかり、ロザリーやラ
インに無理やり酒場に連れて行かされたが⋮⋮その翌日に、ゲルマ
ニアから一時間以上もの説教をくらったものだ。
何か含みのある誘いなのは承知しているが、残念ながら行けそう
に⋮⋮
﹁︱︱うおっ﹂
1123
断る前に、イルディエがゼノスの手を掴んできた。
﹁ならゲルマニアちゃんも誘いましょ?どうせ今日の仕事なんて明
日も出来る事でしょうし、きっと来てくれるわよ﹂
﹁⋮⋮だといいがなあ﹂
ゼノスは彼女に引っ張られながら思う。
多分ゲルマニアを誘っても、﹃今日の仕事は今日に済ませるべき
です。それを持ち越しては何事も成し遂げられません﹄と、強く断
られそうな気がする。
﹁な、なあイルディエ。やっぱ無理だって﹂
﹁それはどうかしらねえ。︱︱案外、行けば色々な面で大助かりだ
し、彼女も素直に来てくれるかもよ?﹂
﹁?それってどういう⋮⋮⋮⋮って、そんな勢い良く引っ張られる
と転ぶ転ぶ!﹂
イルディエは一体何が目的なのだろうか。
1124
彼女の誘いによって、ゼノスは城下町へと繰り出すのであった。
1125
ep9 円卓会議 後半︵後書き︶
2月4日午後十時にて﹃Black
稿致しました。
Brave﹄の最新話を投
1126
ep10 色香の漂う酒場
⋮⋮というわけで、ゼノス達は城下町へとやって来た。
昼間に眠った者達が夜店を開き、それが集合した歓楽街。妖艶な
雰囲気漂い、派手なランプ灯に飾られたその区画は、正に眠らない
街と形容出来よう。
露出度の高い服装をした娼婦が道行く男を誘惑し、違法ギリギリ
の商売をする露店主は下卑た笑みを浮かべて客引きを行う。⋮⋮勿
論、この繁華街にある酒場に行くのは初めてだ。
そんな怪しげな夜の街を、ゼノス、イルディエ⋮⋮あともう一人
は闊歩する。
﹁⋮⋮ふしだらですね。年若い女の子がこんな仕事をしているなん
て﹂
その少女︱︱ゲルマニアは心底憤慨した様子で町中を見渡す。
1127
﹁仕方ないわよ、ゲルマニアちゃん。皆が皆裕福じゃないのだから
⋮⋮お金の無い家は、逆に両親が娘を娼婦に仕立て上げるのよ?﹂
﹁︱︱ッ。それは本当ですか?﹂
ゲルマニアとイルディエは話しながら、街中を歩く。そしてその
二歩後ろを歩くゼノスであったが⋮⋮。
⋮⋮まさか、あのゲルマニアを連れ出せるとは思わなかった。
夜間外出を嫌うあの彼女が、イルディエに歓楽街の酒場に誘われ
て、あろうことか行くと自分で言い出したのだ。
﹃⋮⋮ええ、構いませんよ﹄
別段嬉しそうな様子は見られなかったが、それでも意外だ。
一体イルディエは、どんな説得をして許可を貰ったのだろうか?
1128
﹁う∼ん、やっぱり娑婆の空気は良い∼。ついつい六大将軍になる
前の頃を思い出すわねえ。⋮⋮あの時は苦労したけど、その分色々
な経験が出来て面白かったわ﹂
﹁そういえば⋮⋮イルディエ様は騎士団に入る前まで、何をなさっ
ていたのですか?﹂
ゲルマニアはふとした疑問をぶつける。
︱︱基本、六大将軍の過去は壮絶たるものである。それは無闇に
打ち明けていいものでは無いし、自身も気軽に話せない⋮⋮そんな
黒歴史。
しかし、イルディエだけは違った。
﹁ん∼、私?私は⋮⋮⋮⋮まあ、傭兵団に所属してたけど?﹂
﹁え⋮⋮傭兵だったんですか?いつも踊り子衣装でしたので、てっ
きり大道芸の類をやっていたのかと﹂
﹁うふふ、まあそれは傭兵前の職業かしら。︱︱ま、傭兵時代の私
1129
に関しては、そこのゼノスが一番良く知ってるわよ⋮⋮⋮⋮っと、
着いた着いた﹂
﹁︱︱ちょっ、そ、その話を詳しく聞かせて下さい!イルディエ様
!﹂
イルディエは話を打ち切り、ゲルマニアの訴えも聞き流す。それ
と同時に、ゼノスとゲルマニア︵彼女は立腹した様子で︶も彼女と
同様立ち止まり、目前の店に視線を向ける。
一見何の変哲も無いただの酒場。中からは活気に満ち溢れた声達
が聞こえ、適度な喧騒に包まれている。ゼノスがよく行く酒場と何
も変わりはしない。
﹁時間は⋮⋮⋮⋮よしよし良い時間ね。さ、今日は倒れるまで飲む
わよ∼﹂
﹁で、でも明日はまた騎士としての仕事があります!倒れるまでと
いうのは﹂
そう言うと、イルディエが呆れた様子で答える。
1130
﹁べ∼つにいいじゃない、ね?どうせ六大将軍と副将軍の仕事は当
分お預けなんだし、やるとしても部下の雑務ぐらいでしょうに。さ
さ、ゼノスからも言ってやりなさいよ﹂
﹁おいおい、ここで俺に振るのかよ⋮⋮ったく﹂
誠実な騎士としてならば、ゲルマニアの言い分は尤もだ。ここは
上官として、潔く付き合いを断るべきだろう。
⋮⋮だが、今のはゼノスは沢山の悩みを抱えている。
今にも張り裂けそうで、寝ても覚めてもその思いが解消する事は
無い。生真面目故か、いつまで経っても気持ちの整理が出来ない。
いっそ酒に逃げてしまおうかと思っていたが⋮⋮今が絶好の機会な
のかもしれない。
酒に逃げて、泥酔して、そして翌日には気分もリセットされる。
それを夢想してしまうと⋮⋮⋮⋮ゲルマニアの言葉は、今は無意味
に等しい。
だから、ゼノスはゲルマニアの肩にぽんっと手を置く。
1131
﹁⋮⋮ま、今日ぐらいはいいんじゃないか﹂
﹁ゼ、ゼノス!?﹂
その言葉に驚愕を示すゲルマニアであったが、ゼノスは気にしな
い。
﹁お、ゼノスは分かってるわねえ∼。やっぱ真面目な聖騎士より、
素のゼノス・ディルガーナの方が好感持てるわよ?いっその事、仕
事でもその素振りでいなさいって∼﹂
﹁あのな⋮⋮誰だって仕事の顔とプライベートの顔を持ち合わせて
るだろ?てかお前は、もうちょっと将軍らしい面を見せて欲しい所
だよ﹂
ゼノスとイルディエは愚痴と称賛を言い合い、自然と店の中へ入
って行く。一区間遅れたゲルマニアも、慌てて二人の後を付いて行
く。
三人が扉をくぐると、そこには見慣れた光景があった。
1132
どこの酒場も変わらない。給仕の女の子達がセッセと働き、日々
の疲れを癒しに来た市民達が憩いの場として共有し、楽しく酒を酌
み交わす。店の端に備えられた依頼の看板前には、多くの冒険者や
賞金稼ぎが依頼用紙に釘付けになっている。
まあ別段珍しい光景でも無いので、ゼノス達は空いている席へと
座り始める。
⋮⋮とは言え、一つ違う点があるようだ。
座って見てゼノスは気付いたのだが⋮⋮⋮⋮ここの酒場、異様に
男性客が多い気がする。
更に彼等の視線を辿ると⋮⋮行き着く先は働いている給仕の女の
子達。よく見れば彼女等の恰好も、中にはウェイトレスにしては露
出の高い服装をしている女性もいる。
︱︱多分ここは、地球で言う﹃メイド喫茶﹄と似た形式なのだろ
う。あれほど過剰な奉仕は無いだろうけど、彼女等を見る為に来た
客も少なくないだろう⋮⋮いや、多分それが目的で来るのだろう。
1133
ふと、そこで一人のウェイトレスが歩み寄って来る。村娘の恰好
で、頭には純白のナプキンを被っている。しかし胸元は大分開いて
おり、一般の村娘装束とは異なる。
﹁いらっしゃいませ、ご主人様お嬢様!今日はごゆるりと⋮⋮って﹂
どこかで聞いたような決まり文句を言う途中、強気そうな女性は
瞳を丸くする。どうやら、イルディエを見て驚愕しているらしい。
イルディエは気さくに答える。
﹁やっほ∼、久しぶりねカルナ。店は繁盛してるかしら?﹂
﹁イ、イルディエ様じゃないですか!?ど、どうして⋮⋮﹂
と、そこでカルナと言うウェイトレスの女性ははっとした表情で
言葉を打ち止める。
1134
⋮⋮案の定、今の言葉に店内全員が会話を打ち切る。
ある者はビール瓶をうっかりと落としてしまい、ある者は茫然と
したんがらも、注意深くイルディエを見定める。
﹁ほ、本当だ⋮⋮ありゃイルディエ様じゃぞい﹂
﹁有り得ねえ、何だってこんな酒場に六大将軍様が﹂
⋮⋮ああ、これは騒ぎそうな予感だぞ。
カルナはゼノス達の面子を見渡していき⋮⋮そして、ゼノスへと
視線を集中させる。なるべくなら一番止めて欲しかった、それだけ
は。
﹁︱︱え?て⋮⋮てことは⋮⋮⋮⋮まさかこの方は﹂
カルナが失神寸前の顔になりながらゼノスを見つめる。
1135
一方のイルディエは、さも面白そうに⋮⋮本当の事をさらっと言
う。
﹁ええ、白銀の聖騎士ゼノスよ。今は仕事終わりだから私服だけど
ね﹂
﹁あ⋮⋮そ、の⋮⋮⋮⋮⋮⋮︵きゅう︶﹂
︱︱何故か、カルナは失神してしまった。ゼノスを三回程チラ見
しただけで、顔を紅潮させながら倒れてしまったが⋮⋮大丈夫なの
だろうか?
慌てて店の女の子達がカルナを担ぐ一方、他の女の子達は一斉に
黄色い悲鳴を上げたり、熱っぽい眼差しでゼノスを見てくる。入店
時からその兆候はあったが、聖騎士と聞いて更に色めき立つ。
﹁ふふ、やっぱ駄目だったか。⋮⋮この子達はねゼノス、昔から聖
騎士を応援しているファンクラブに所属しているのよ?﹂
1136
一体何事かと思うゼノスとゲルマニアであったが、既に事の成り
行きを把握しているイルディエが解説してくる。
ファンクラブ⋮⋮まさかそんなものがあったとは。
これはどうでもいい蛇足であるが、ファンクラブの活動は案外本
格的らしい。勧誘は勿論、聖騎士が公に現れる舞台には必ず駆けつ
けて応援︵?︶をする事。聖騎士関連の品物は絶対に購入し、吟遊
詩人の語る英雄譚は十回以上聞く事等々⋮⋮どんだけ好きなんだよ
という話である。
店の女の子達はファンクラブの会員であり、ゼノスの来店は人生
史上最高の喜びであった⋮⋮と、ウェイトレスAは後々友人に語る
事となる。
︱︱正に一触即発。ゼノス達にほんの些細な動きが見られれば、
店内全員の人間が集まり寄る寸前だった。
ガンガンガンッ、とフライパンをオタマで叩く音が響き渡る。
1137
﹁ほらあんたら、何やってんだい!お客さんほったらかしてんじゃ
ないよ!﹂
威勢の良いおばさんの声は、ウェイトレス達にまた新たな緊張感
を与える。誰もが我に返り、今は仕事中である事を認識する。
﹁は、はい!マダム・サザリア!﹂
皆は口々にそう言い、それぞれが本来の仕事へと戻って行く。何
人かは名残惜しそうな瞳でゼノスを見るが、あえて気にせずにいる。
客も徐々に奇異の視線を向けず、また話に華を咲かせる。
⋮⋮良かった。どうやらこの人のおかげで、面倒な事態は起こり
そうにない。
サザリアと呼ばれた小太りのおばさんは溜息をつき、こちらへと
歩み寄って来る。
﹁困りますよ、イルディエ殿。聖騎士様を連れてくるのであれば、
事前に連絡をして下さいな﹂
﹁ごめんなさいね、サザリア。⋮⋮ふふ、どうしてもこの娘達が驚
愕する姿を拝みたかったのよ﹂
1138
﹁⋮⋮イ、イルディエ様。⋮⋮申し訳ありませんサザリア、六大将
軍様の戯れに関しては、どうか容赦のほどを﹂
ゲルマニアが素直に謝罪すると、サザリアは柔和に微笑みながら
答える。
﹁ま、いいのよ。この子の悪戯には慣れているからね﹂
サザリア達は他愛の無い会話を繰り広げる。︱︱が、ゼノスは一
抹の疑問を感じ取った。
︱︱何だか、三人共見知った様な口ぶりだな
イルディエはともかく、あのゲルマニアまでもが慣れた調子で話
しているが⋮⋮気のせいだろうか?
﹁︱︱そう言えばサザリア。例の﹃新入り﹄はちゃんと働けている
かしら?﹂
1139
﹁︱︱ああ、あの子かい?まだ不慣れな様子だけど、一生懸命に仕
事をやってくれてるよ。⋮⋮ほら﹂
そう言って、サザリアはせっせと働くある一人の少女を指差す。
その少女は周囲と比べると若干小柄で、お客の注文をメモする様
子も何だかぎこちない様子。艶やかな金髪を後ろに一括りし、ナプ
キンを被っている。格好は若草色のエプロンドレス姿であり、一見
他の少女達と変わりない。
⋮⋮だが、ゼノスは妙な違和感を感じるわけだが。
と、そこでゼノスとその少女はばっちりと目が合う。
すると少女は顔を赤らめ、顔をあえて見せようとせず、そそくさ
と厨房へと戻ってしまう。
︱︱随分と恥ずかしがり屋な子だな
﹁⋮⋮というかだイルディエ。今の会話、全く容量を得ないんだけ
1140
ど﹂
﹁え、ああ。すぐ理解出来るわよ。⋮⋮けど、今はまだ無理そうね﹂
﹁は、はあ﹂
本当はゲルマニアにも問いかけたい所だが、多分彼女も同じ答え
をするだろう。何を隠しているかは知らないが、別段悪い事でも無
いと思われる。
ゼノスは気分を改め、テーブル上のメニュー欄に目を落とす。
﹁⋮⋮ま、とりあえず何か頼もう。あとサザリア、先程の件に関し
ては俺からも謝ろう﹂
﹁いえいえ、良いんですよ。このサザリア、かの有名な聖騎士様に
来てもらえて逆に喜ばしい限り⋮⋮⋮⋮今日はごゆるりと寛ぎ下さ
いませ﹂
﹁ああ、そうさせて貰おう。じゃあ俺はこの﹃強香酒﹄を一杯と⋮
⋮﹃高原鶏の手羽先唐揚げ﹄を。︱︱ゲルマニアとイルディエは?﹂
1141
﹁えっと⋮⋮﹃ビール﹄と﹃キノコソテー﹄を下さい﹂
﹁私は﹃ギスカレイド﹄。ビンごと冷やしたやつを頼むわね﹂
ゼノスは香り高く、上品な味わいの酒を頼み、ゲルマニアは一般
的な酒を所望する。イルディエはアルコール四十%以上の蒸留酒を
ストレートで注文する。
⋮⋮常人ならば一杯でぶっ倒れる事が出来る酒を、何の躊躇なく。
そして最初の酒が来て、三人は様々な視線を浴びながら乾杯する
事となった。
1142
ep10 色香の漂う酒場︵後書き︶
2月12日追記;一章﹁最強騎士の帰還﹂ep23﹁万事休す﹂を
改稿しました。
1143
ep11 ウェイトレスの正体
酒が進むと口の滑りも良くなるものだった。
最初こそ事務的な会話が多かったが、徐々にイルディエが快活と
なり始め、次にゲルマニアが酒に酔い始めた。ゼノス自体はそこま
で酔っていないが、それでも幾分か饒舌になっている気がする。
﹁でねでね、私ったら何の生活知識も無いまま故郷を飛び出したか
ら、ほんっと料理には困ったものよ∼。傭兵団に入る前は色んな人
に頼んだわねえ⋮⋮﹂
﹁ど、どんな人達ですか⋮⋮?﹂
﹁ん∼っと⋮⋮傭兵団に入る前は踊り子やってたんだけど、その仲
間からとか、後は一部のお客さんから⋮⋮⋮⋮あ、あとゼノスもよ
く頻繁に作ってくれたわよねえ?﹂
イルディエは何だか意味深な表情で、妙ににやけながら言う。
1144
﹁︱︱あ、ああそれ、それです!ゼノス!わ、私だって一応貴方の
相棒なのですから⋮⋮⋮⋮は、話ぐらいは聞かせて下さい!﹂
また随分と酔っぱらっているようだ。ゲルマニアは大声で、しか
も包み隠さず本音をぶちまけてくる。しかも顔を至近距離にまで寄
せて来るから、尚タチが悪いと言っても過言では無い。
﹁ま、まあ別に構わないけど﹂
﹁⋮⋮本当ですか?﹂
何故かジト目になるゲルマニア。日頃の中途半端な対応がいけな
いのか、明らかに疑っている。
﹁ほ、本当だって⋮⋮これに関しては、特に隠す話でも無いしな﹂
そう前置きし、すっかり聞く態勢に入るゲルマニアとイルディエ
を相手に、簡単にあの頃の事を話す。
自分が六大将軍になる前、ランドリオ騎士団に入る前だから⋮⋮
大体五年前の事だろうか。
1145
ゼノスはある理由によって故郷を去り、金を稼ぐ為に傭兵となっ
ていた時代があった。⋮⋮学も無く、何かになる為の名誉や金銭さ
え無かったゼノスにとって、傭兵以外に出来る事は無かったのだ。
︱︱あの頃のゼノスは荒れていた。ゲルマニアには詳しく話さな
いが、当時の彼の戦いを間近で見てきたイルディエは、その全貌を
知っている。だから﹃荒れていた﹄という単語だけで、彼女は暗い
表情となる。
⋮⋮まあとにかく、イルディエとはある砂漠のオアシスの町で出
会ったのだ。
当時の彼女もとある理由で踊り子をやっていたが⋮⋮妙な巡り合
せから始まり、イルディエもまたゼノスと同じ傭兵団に入団した。
今思えば、腐れ縁と言っていい程の関係である。
要点をまとめるならば、こんな所だろう。最も重要な部分はイル
ディエの為に省いてあげたが、本人としては有り難かったのだろう。
ゲルマニアが見ない隙をつき、軽くゼノスに詫びを入れてきた。
﹁⋮⋮というわけだ。あの時代に関しては特別変化も無かったし、
単なる人生の通過点だよ﹂
1146
﹁あ、ちょっとそれ酷い言い草ね。通過点って言うなんて⋮⋮泣い
てもいいかしら?﹂
﹁拗ねんな、あとどさくさに紛れて頬をつまむな。⋮⋮おいゲルマ
ニア、まだ何か言いたい事があるのか?﹂
ゼノスは納得いかないのか、頬を膨らませるゲルマニアに問う。
﹁⋮⋮あります、一杯あります。特に抽象的な面が多々あって、そ
れが納得いきません。⋮⋮本当は問い詰めたい所ですが、ゼノスは
またはぐらかすのでしょう?﹂
﹁⋮⋮それは﹂
何だろう、今日はやけにはっきりと言う。
酒が入っているせいか、彼女は本心を露わにする。憤慨というよ
りも、悲壮めいた感情の方が大きいと見える。
﹁う、うぅ⋮⋮酷いです、あんまりですゼノス。お互いをよく理解
してこその相棒なのに⋮⋮私は⋮⋮えぐっ、私はそこまで信用に足
らない女なのでしょうか?﹂
1147
﹁お、おい泣くな。⋮⋮って、お前どんだけ飲んでんだ!?﹂
気付けば、ゲルマニアは事前に頼んであったビール瓶を何本も飲
み干しており、全てが空になっていた。当のゲルマニアはすっかり
泥酔していて、しかも泣き上戸である⋮⋮何とも面倒な酔い方だ。
果たしてその言葉が虚言なのか。⋮⋮または本音なのか。もし後
者ならば、ゼノスは言うべきなのだろうか?
︱︱彼の人生を。美しくも残酷で、希望を辿って歩み続けてきた
絶望の日々を、今この場で、ありのままを吐露すべきなのか?
あれは自分だけの記憶。笑い話として、又は着飾った詩として語
られるべきもの。⋮⋮その真髄は余りにも悲しいから、言うだけで
心を抉られる気分になるから⋮⋮そして、皆に余計な心配を掛けさ
せてしまう。
︱︱と、そこでまた頬をつままれた。今度は結構強い。
﹁い、いふぁい⋮⋮﹂
1148
ゼノスが涙目でイルディエを見ると、彼女は少々怒った様子だっ
た。
﹁ほんっと、昔から変わってないわねえゼノス。⋮⋮そうやって自
分の記憶を秘密にして、一体何人の女の子を泣かせたのかしらね﹂
﹁⋮⋮よせよイルディエ。大体な、お前だってそういうタイプだろ
?﹂
案外、ゼノスとイルディエは似た者同士である。
過去を引き摺りながらも、それを糧として未来へと突き進んでい
く。時折見せる悲壮の表情は周囲の者を心配させ、それを誤魔化し
続ける。
だから二人は意気投合したわけだ。
﹁ふふ、確かにそうね。︱︱でも、今日はそうはいかないわよ?そ
の為にこんな﹃機会﹄を用意したのだし⋮⋮⋮⋮ふふ、うふふ﹂
イルディエは不気味な笑みを浮かべる。
1149
何事だと訝しむゼノス、おぼろげな瞳で酒を飲み続けるゲルマニ
ア︵多分何も聞いていないと思う︶。
そんな彼等を他所に、イルディエは周囲を確認する。
﹁⋮⋮うんうん、皆もう私達を無視出来るぐらい酔っ払ってきてる
わね﹂
イルディエは納得しながら頷く。
確かに既にこちらをチラ見する者もいなくなり、今は大声で歌う
者もいれば、話に集中する者しかいない。
⋮⋮にしても、一体イルディエは何を考えているのか。
︱︱すると、彼女は突如手を振って一人のウェイトレスを呼ぶ。
その人物はというと、先程ゼノスと目が合った若草色のエプロン
1150
ドレスを着た少女であった。
呼ばれて驚いたのか、身体を一瞬ビクつかせ、恐る恐るこちらへ
と振り向く。何故か顔を俯かせ、こちらから見えない様精一杯に配
慮している。
︱︱もしかしてあの子、顔を知られたくないのか?
﹁あらあら⋮⋮お∼い、こっちよこっち!﹂
﹁は、はは、はいっ!﹂
⋮⋮⋮⋮⋮⋮。
イルディエが声を掛けると、ウェイトレスの少女は上擦った声音
で返事をする。そそくさとゼノス達の席へとやって来て、赤面しな
がら佇む。
⋮⋮おい、ちょっと待て。
1151
ゼノスはウェイトレスを間近で見て、思わず持っていた手羽先を
落とす。
口をあんぐりと開けながら⋮⋮暫く無言を貫く。
﹁え∼っと、確かここの店って女の子を指名して、尚且つ選んだ子
を自分の席に座らせる事が出来るのよね?﹂
﹁あ、は、はい。今はフリーの状態なので大丈夫です。⋮⋮とはい
え、今の所指名は皆無ですけどね﹂
﹁あらそう、じゃあ私達が最初の相手という事ね。ほらほら、座っ
て座って∼﹂
言われるがまま、ウェイトレスは頷いてゼノスの対面へと座る。
整った容姿は見る者をうっとりさせ、どこか気品さを感じさせる
少女。美しい声色はまるでどこかで聞いたような︱︱︱︱というか、
知ってる。
1152
これは幻覚なのかと思いつつ、ゼノスは目をごしごしと拭き、も
う一度少女をジッと見つめるが⋮⋮見間違いようが無かった。
﹁おやあ?もうゼノスは分かってるようね﹂
イルディエはにやにやとしながら言う。
﹁⋮⋮⋮⋮な、んで﹂
ゼノスはイルディエと少女が苦笑する中、思わず席を立つ。
︱︱そして、裏返った声で当然の疑問を口にする。
﹁な、なんでアリーチェ様がここにいるのですかっ!?﹂
⋮⋮嗚呼、もう訳が分からん。
1153
ゼノスは頭を抱えながら、この現状を精一杯受け入れようと努力
する。
1154
ep12 姫の為に騎士は動く
﹁⋮⋮つまり、こういう事ですか﹂
すっかり酔いが冷めたゼノスは、今目前にいるウェイトレスの少
女︱︱否、ランドリオ帝国皇帝・アリーチェから聞かされた事の現
状を整理する。
アリーチェは皇帝即位後、ある日突然﹃城下町で普通の女の子﹄
として働きたいと言い出したらしい。今同席するイルディエにその
事を打ち明けると、彼女はある場所を勧めた。
それがこの酒場である。酒場の店主であるサザリアはイルディエ
と親しく、彼女自身は元メイド長だったらしい。絶対の安全が保障
される仕事場であると豪語している。仕事の内容からしてセクハラ
や強要が頻繁に起こりそうであるが⋮⋮サザリアの尽力によって、
何と一度もそのような事件は発生してないと言う。
ゲルマニア
こうしてアリーチェは他の六大将軍に内密の上、公務終了後には
市民に変装した兵士を伴って通っているそうだ。
1155
国の現状を身近に知りたい一心で、そのような要望をしたそうだ。
⋮⋮大体の流れは理解出来た。そして、言うべき言葉はただ一つ。
﹁⋮⋮⋮⋮そうですか。それが皇帝陛下の仰る事ならば﹂
﹁ちょ∼っとストップ、ゼノス﹂
ゼノスが言う瞬間、イルディエが強い口調で打ち止める。
﹁⋮⋮ねえゼノス。言っとくけどここは﹃酒場﹄なのよ?それに目
の前にいる子は⋮⋮今は単なる酒場の従業員、だからね?﹂
﹁ああ、それは分かっているが⋮⋮﹂
﹁なら︱︱︱︱敬語や気遣いは止してあげなさいよ。それが彼女の
為でもあるの、オーケー?﹂
1156
彼女の⋮⋮為。
ゼノスをジッと見つめるアリーチェの瞳は、必死に懇願するよう
な、助けてと言わんばかりの眼差しであった。
⋮⋮彼女等が何を求めているかは察し付く。
だが本音を言った所で⋮⋮⋮⋮果たしてそれが彼女の為になるの
か?
自分の一言が彼女を狂わせるかもしれない。迂闊に発言してしま
えば、またランドリオの平和に亀裂が入るかもしれない。
︱︱それが怖かった。戦いに対する迷いが消えたとしても、それ
とこれとは訳が違う。言葉とは時に優しく⋮⋮時に凶器と化す。
進言は出来ても、断固として主張出来る気概は皆無だ。︱︱それ
ならばいっそ、アリーチェ自身が考え、悩み、そして結論を出した
方いいに決まっている。
1157
﹁⋮⋮はは∼ん。なるほどね﹂
何を思ったのか、また困った様な笑みを見せるイルディエ。
すると彼女は、隣に座るアリーチェに語り掛ける。
﹁ねえアリーチェ。これは例えの話だけど⋮⋮貴方の前に飢え死に
寸前の人がいたとしましょう。ある者は根拠の無い対処法を貴方に
言って来るけど⋮⋮それを鵜呑みにするかしら?﹂
﹁え⋮⋮そ、それは﹂
アリーチェは最初何を言っているのか分からない様子であったが、
次第に状況を掴めたのか、ハッとした表情になる。
何かを承知した彼女は、引き締まった顔となる。
﹁⋮⋮⋮⋮いえ、鵜呑みはしません。自身でよく吟味し、必要と判
断した情報だけ抜き取り、後は自分の判断と掛け合わせていくでし
ょう﹂
1158
﹁︱︱ッ﹂
﹁うふふ、良い答えね﹂
ゼノスが呆気に取られる中、イルディエはあたかも答えを予測し
ていたかの如く納得する。
一方のゼノスはというと⋮⋮雷に打たれた気分だった。
﹁ほらね、そこまで悩む事じゃないわよ。︱︱それに、今日話す相
手はランドリオ皇帝陛下では無く、アリーチェという女の子なのよ。
もっと気楽になりなさいな﹂
﹁∼∼∼ッ﹂
ゼノスは頭を掻き毟りたい衝動に駆られるが、どうにか自制する。
イルディエに上手く言いくるめられている気がするけれど、反論す
る気にもなれない。
策士というか⋮⋮配慮が徹底していると言うべきか。
1159
ゼノスは散々悩んだ。アリーチェが心配そうに見る中、イルディ
エがにやにやしながら事の成り行きを窺う中、ゲルマニアが気持ち
良さそうに眠る中で︱︱
大きく溜息をつき︱︱堕落したゼノスとして、アリーチェと向き
合う。
﹁⋮⋮いいか、今から見せる俺は﹃白銀の聖騎士﹄じゃない。これ
はあくまで﹃ゼノス・ディルガーナ﹄としてだ。︱︱分かったか、
アリーチェ?﹂
﹁︱︱ッ。は、はい!宜しくお願いします!﹂
不思議な事に、臣下に呼び捨てされた筈のアリーチェは満面の笑
みで答える。とても嬉しそうで、こんな表情を見るのは久し振りだ。
そんな様子を見てしまうと、返って自分の悩みが馬鹿らしく思え
てしまう。
1160
⋮⋮さて、話題はもう聞くまでもないだろう。
イルディエがわざわざこのシチュエーションを準備し、自分とア
リーチェを引き合わせたのかを。
﹁単刀直入に言うぞ、アリーチェ。︱︱この婚約披露宴は、お前に
とって嬉しい事なのか?﹂
ゼノスの問いに、アリーチェは一瞬暗い表情を見せる。
だがそれも僅かな事で、すぐさま威厳ある態度を示してみせる。
﹁⋮⋮国が更なる安定へと導かれるならば﹂
﹁︱︱そうじゃない。﹃アリーチェにとって﹄嬉しい事なのか、だ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮わ、私にとって⋮ですか?﹂
まさか自分の心配をされていないだろうと思っていたせいか、不
1161
意打ちに近いその言葉は、アリーチェの心臓の鼓動を早くさせる。
それは嬉しさと同時に︱︱︱︱憤りから来る症状でもあった。
﹁そうだ。安寧の為に尽くすのも重要だが、皇帝自身の自分を労わ
るのも大事な事だよ。⋮⋮皇帝が病めば、自然と国全体も瓦解して
いくものだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮私が病む根拠があるのですか?﹂
震える声で呟く彼女に、ゼノスははっきりと頷く。
﹁︱︱ヘストニスの、特にマーシェルの妙な噂は尽きない。無類の
女好きで、気に入った女の為ならばどんな手段を使ってでも手に入
れる。政治や戦争に対する思想もどこか偏見的で、浪費癖が激しい
と聞く。⋮⋮アリーチェを愛し、支えて行けるとはとても思えない
っ!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
本音を口にしたせいか、迫真の勢いで捲し立てたゼノスはひとま
ず落ち着きを取り戻そうとする。精一杯に深呼吸をし、間隔を空け
る。
1162
だがその間に、アリーチェが俯きながら言葉を発した。
﹁知っていましたよ、そんな事は。ですがそれを聞くまでも無く⋮
⋮⋮⋮私は、結婚などしたくありません﹂
﹁⋮⋮だったら、だったら何故断ろうとしない?アリーチェの権限
さえあれば、こんな馬鹿げた話は無くなるんだぞ?それなのに︱︱﹂
ゼノスが言葉を紡ごうとした瞬間、アリーチェは涙を浮かべなが
ら、泣きながら顔を上げる。
﹁︱︱今の私に、そんな力があると思いますか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
アリーチェは静かに、しかし強みのある口調で反論する。
断れば、何か貴族側がしでかすかもしれないという恐怖を帯び、
皇帝としてあるまじき失態なのでは無いかという不安に襲われる。
1163
︱︱今の彼女は、孤独だった。
﹁結婚なんて嫌ですよ⋮⋮嫌に決まっています!ですが今の私には
⋮⋮⋮⋮それを公然と発言出来る度胸も無いのです⋮⋮ッ﹂
⋮⋮可哀想な姫君だ。
今の彼女は泣く事しか出来ない。皇帝という立場でありながら、
彼女は周囲に流され、とことん苦悩と決断を迫られる。
一言間違えれば、皇帝として反感を食らう。そしてその影響は自
分だけで無く、自分の身の回りの者達をも苦しませる。︱︱結果、
アリーチェは本音を言う事すら叶わない。
これは政治的な問題であり、彼女を取り巻くランドリオ騎士団に
関与する権限は持ち合わせていない。それがアリーチェの本音を妨
げる要因として拍車をかけたのだろう。
︱︱︱︱︱︱だが。
1164
﹁⋮⋮⋮⋮よく言った。そして、しかと聞いた﹂
﹁え⋮⋮?﹂
ゼノスの言葉に、アリーチェは呆け気味となる。
当の彼は真剣な様子で、どことなく距離を置いていた態度であっ
たが⋮⋮それは一変し、柔和な笑みを見せる。
﹁︱︱今回の件に関しては本意では無く、自身は中止を求めている。
しかし周囲への体裁もある故、中々切り出せないのが現状⋮⋮⋮⋮
それがお前の希望と受け取っていいんだな?﹂
ゼノスは確認する。︱︱それが円卓会議で言えなかった本音であ
るかと、彼女に問いかける。
それに対し、アリーチェは焦る様子で答える。
﹁⋮⋮ッ。で、ですが⋮⋮これは政治的問題でもあります。六大将
1165
軍が迂闊に介入出来る余地は無いのですよっ?﹂
﹁分かってる。︱︱けど、それがどうした?﹂
政治的問題故に?立場上故にゼノス達は成す術も無い?
いくら皇帝陛下の心配と言えど⋮⋮それは余り嬉しくないものだ。
黙って聞いていたイルディエも同感なのか、若干怒った顔になり
ながら答える。
﹁ええ、そうね。私達はやろうと思えば何でも出来るわよ?﹂
その通り。六大将軍には何の縛りも効かない。ただ主の要望を聞
けば、例えどのような障害があろうとも⋮⋮絶対に行動してみせる。
﹁⋮⋮危険過ぎます﹂
﹁不安か?︱︱︱︱今の俺はゼノス・ディルガーナだ。白銀の聖騎
士として、主の命令に従うわけでは無い﹂
1166
﹁⋮⋮?﹂
アリーチェは訳が分からない様子でいる。しかしイルディエは既
に意味を把握したのか、くすりと楽しげに微笑む。
﹁︱︱俺はアリーチェという友達の為に、自分の気が済む様行動す
るだけ。⋮⋮誰にも迷惑を掛けず、その希望を叶えてみせる﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ゼノ、ス﹂
アリーチェが更に何かを言おうとするが、これ以上の議論は何も
意味を成さない。隣で泥酔するゲルマニアに肩を貸してあげ、席を
立つ。
﹁⋮⋮じゃあ俺はゲルマニアを連れて帰るよ。イルディエは無事に
アリーチェ様を送り届ける事⋮⋮⋮⋮あと翌日、六大将軍を招集さ
せて今後の事について、改めて議論を交わそう﹂
﹁ふふ、了解。そう生き生きした調子で言われれば、断れないわね﹂
1167
ゼノスは片手だけ上げ、その場から立ち去ろうとする。
すると、後方からアリーチェの心配そうな声が聞こえてくる。
﹁⋮⋮⋮⋮無茶だけはしないで下さい。二年前の死守戦争の様な事
だけは⋮⋮想像したくもありませんから﹂
酒場の喧騒が鳴り止まぬ中、清らかな音色がゼノスの耳を過る。
︱︱何としてでも、彼女の願いを達成させてみせる。
一度は躊躇したが、もう迷う事は無い。自分は聡明な彼女の為に
も⋮⋮彼女の道を阻む者を退けてみせる。
我が麗しの主の為に⋮⋮⋮⋮自分は前に突き進むだけだ。
1168
1169
ep13 誰も知らぬ、過去の誓い
ある夜の事である。
この日、アリーチェは懐かしき思い出の夢を見た。
前々皇帝が存命だった時代、つまりアリーチェの父が未だ君臨し
ていた頃の話である。⋮⋮という事は、約五年前の事だろうか。
当時十一歳であったアリーチェは大変遊び盛りで、まだ帝国の内
政や外交の事など何も知らなかった。ただ無邪気に笑い、上流騎士
階級の子供達と城内を遊び回り、内緒で城を抜け出し城下町で遊ん
だ事もあった。
︱︱夢の始まりは、城下町で鬼ごっこをしていた時からだった。
父王が会議を開いていた時を狙い、最も警備が少ない時間帯に秘
1170
密の抜け穴から外へと繰り出し、アリーチェは鬼ごっこをし、精一
杯鬼から逃げていた。
慣れぬ路地裏を駆け巡り、人混みの多い通りを走り抜けていくと
⋮⋮彼女は鬼ごっこの範囲内から抜け出してしまい、城門前へと直
通している大通りへとやって来てしまった。
何やらパレードが行われているのか、大人達が道の中央を空けて
いて、その両脇に沢山の人混みが出来上がっていた。
この道を来た事がないアリーチェは他の子供達とはぐれてしまっ
た事を悟り、不安に包まれながら、大人達の間を潜り抜けていく。
泣きそうになるのを堪え、心の中で父親の名を叫びながら進んで
行くと⋮⋮アリーチェはいつの間にか最前列へと出ていた。
︱︱そこで見たのは、想像を絶するものであった。
華やかに、そして盛大に行われているパレード。花吹雪が宙を舞
い、鼓笛隊による演奏と共にゆっくりと行進する騎士達、華麗なる
ダンスを踊りながら進む踊り子達、パレードを盛り上げる為に様々
な衣装を着こなした人々⋮⋮⋮⋮それらを見る度に、アリーチェは
1171
心躍っていた。
︱︱そして次に目が行ったのは、
﹁︱︱おお、来たぞ!我等が英雄の凱旋だ!﹂
﹁新たなる六大将軍様⋮⋮とても凛々しい方ですわ﹂
誰もがその人物の登場を目にして、一斉に盛り上がりが増す。あ
る者は称賛を、またある者はうっとりとしながら⋮⋮大きな軍馬に
乗る彼を見つめる。
︱︱全身を白銀の鎧で包み込み、赤きマントをなびかせて民衆に
手を振る彼を見た瞬間⋮⋮アリーチェに衝撃が走った。
快晴の下、燦々と降り注ぐ太陽の日差しに照らされて輝く鎧。合
唱隊が彼の為に美しいコーラスを響かせ、彼はそれと共に剣を天へ
と掲げる。
︱︱正に、それは正義の象徴であった。誰もが憧れを抱き、誰も
がその気迫に明るい将来を夢見ていた。
1172
それはアリーチェとて同じである。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
幼い彼女は、純粋に一目惚れをしていた。
恰好だけで判断したのではない。その雰囲気から発せられる覇気
は、自然と歴戦の戦いを通過して来たのだろうと感じさせる。それ
だけでも素晴らしい事なのに、尚且つ彼には、真っ直ぐとした優し
さと意思を併せ持っている。
﹁︱︱聖騎士様、白銀の聖騎士様!﹂
⋮⋮嗚呼、彼は聖騎士というのか。
︱︱多くを物語るその様相が、アリーチェの心を射抜いた。
1173
夢はまた違う場面を映し出す。
今度はそのパレードから数日後の事、アリーチェがお気入りのベ
ンチで本を読もうと中庭を抜け、騎士団詰所の脇を通ってその場所
へ向かった時だった。
いつもその場所には人もいないのだが︱︱今日は先客がいた。
﹁︱︱︱︱﹂
後姿しか見れないが、その姿を見れば一目で誰かが分かってしま
う。
1174
﹁⋮⋮すう﹂
静かに寝息を立てるのは、正しく白銀の聖騎士本人であった。
︱︱兜を脱いだ状態で、茶色の髪がそよ風でなびく中⋮⋮陽だま
りの中でぐっすりと眠っていた。
あまりの唐突さに困惑し、あたふたするアリーチェ。
だが彼を見て、一つの興味が湧いた事でそれは静まった。
︱︱そういえば彼は、どんな顔をしているのだろう?年齢は、容
姿は、どんな人種で、どんな勇ましい風貌をしているのだろうと⋮
⋮段々幾つもの疑問が浮かび上がって来た。
聞けば誰も聖騎士の素顔を知らないというじゃないか。巷でもそ
れは評判となり、更に彼を手の届かない英雄として祀り上げている
という話だ。
1175
⋮⋮知りたい。もっと彼を、手の届かない英雄の真実を。
いけないと分かっているのに、アリーチェはそっと彼へと近付い
て行き、気付かれない様に⋮⋮そっと距離を縮めていく。
﹁︱︱いけませんよ姫様。淑女たる者、もっと堂々とした足取りを
しないと笑われてしまいます﹂
﹁⋮⋮ッ﹂
どうやら、彼は既に起きていたらしい。
アリーチェが驚きの余り硬直する最中、聖騎士は兜を被り、その
場から立ち上がる。勇猛たる騎士の姿のままベンチを空ける。
﹁ほら、ベンチで本を読むのでしょう?私はこれで去ります故、ど
うかこの最高の場所で御寛ぎ下さい。︱︱では﹂
﹁︱︱ま、待って下さい!﹂
1176
聖騎士が去ろうとする前に、アリーチェは彼を止める。
何事かと不思議そうに姫君を見る聖騎士。一方のアリーチェはも
じもじとしながら、精一杯の勇気を振り絞って言葉を紡ぐ。
﹁⋮⋮⋮⋮よ、よかったら一緒に座ってお話をしませんか?少しだ
けでもいいですから⋮⋮﹂
﹁はあ、別に構いませんが。私の様な一介の騎士と話しても、何も
楽しい事は﹂
﹁︱︱そ、そんな事ありません!﹂
アリーチェは思わず声を張り上げる。
一介の騎士等とんでもない。今目の前にいる彼は、紛れも無いこ
のランドリオ帝国の英雄であり、謎多き孤高の六大将軍である。
﹁⋮⋮知りたいのです。だから、私と共にいてください﹂
1177
﹁⋮⋮⋮⋮仰せのままに﹂
何か真剣な、含みのある真っ直ぐな意志を悟ったのか。聖騎士は
ただ一言そう呟き、またベンチへと座り直す。
しばし二人は沈黙していた。
だが気まずい雰囲気でも無かった。癒しを誘う小鳥の囀りを聞き、
一時の平和を感じさせる幻想的なこの場所が、気まずさを吹き飛ば
す。
⋮⋮嗚呼、こんな時がずっと続けばいいのに。
アリーチェは自分で誘っておきながら、聖騎士とただ無言で過ご
す時間を望んでいた。心がこうして安らぐならば⋮⋮このままで居
たいと、瞳を閉じながらそう思っていた。
何故こんなにも落ち着くかは分からない。
1178
分からないけれど⋮⋮⋮⋮そう感じてしまうのだ。
﹁︱︱ここは良い所です﹂
ふいに、聖騎士が微睡みながら呟く。
﹁はい。⋮⋮ここにいると、何もかも忘れてしまいますね。悲しい
事も、辛い事も⋮⋮⋮⋮ふふ、たまに嬉しい事も忘れてしまいます﹂
﹁そうですか⋮⋮実は、私も同感です﹂
聖騎士は天を仰ぎ見る。どんな表情をしているかは定かで無いが、
幾分か達観した様子でいるのは確かだ。
︱︱それは、疲弊しきった騎士の姿であった。
﹁⋮⋮⋮⋮聖騎士様も、何か辛い事を抱えているのですか?﹂
1179
﹁ええ、勿論ですよ﹂
その返答は、アリーチェにとって予想外の事であった。
彼は英傑として活躍し、迷いの無い意志を以てして戦い続けて来
たのかと⋮⋮どんな苦難も振り払って来たのかと思っていた。
﹁⋮⋮姫様、私はあらゆる困難と絶望を体験してきました。ある時
は目指していた物を見失い、目標としていた人達も死んで行きまし
た。︱︱それから自分は様々な死を見届け、死を与え⋮⋮⋮⋮悲し
くも、時には幸せだった人生を歩んで行きました﹂
︱︱その人生の中で、聖騎士は泣いた。怒り、楽しみ、喜び合い
⋮⋮⋮⋮そして最後には、何もかもが無くなってしまう。
辛いに決まっている。一体何度の死を垣間見、どれほど友人の亡
骸を抱きながら泣いた事か⋮⋮⋮⋮何回怒り狂い、意味無き戦いを
続けてきた事か。
その圧倒的スケールの大きい話を聞いて、アリーチェはある疑問
を言う。
1180
﹁⋮⋮死にたいと、思った事は無いのですか?﹂
それを聞いて、聖騎士は初めてアリーチェへと振り向く。
﹁ありますよ。⋮⋮はは、でも不思議でしょう?何でこいつは今も
生きているのだろうと。実際私も理屈では説明出来ないのですが⋮
⋮いつも、こう思っていたのです﹂
そう言って、聖騎士は手甲で覆われた右手を天へと掲げる。太陽
は愚か、木々にさえも届かない手を⋮⋮何かを掴みたがる様に、た
だ上げ続ける。
﹁⋮⋮希望を捨ててはいけない。きっと進み続ければ、自分の行き
着く場所が在るはずだと⋮⋮⋮⋮信じていました﹂
自分が何色に染まろうとも、幼少時から抱き続けてきた目標だけ
は失わなかった。唯一の意志は彼を慰め続け、奮い立たせてきた。
︱︱聖騎士はベンチから立ち上がり、突如アリーチェの目前へと
移動する。
1181
﹁⋮⋮⋮⋮え、え?せ、聖騎士⋮⋮⋮様?﹂
あろう事か聖騎士はその場で跪き、アリーチェに頭を垂れていた。
それは正しく主に絶対の忠誠を誓う証であって、他には有り得ない。
その体勢のまま、聖騎士は言う。
﹁そして、私は辿り着きました。︱︱騎士として﹃主﹄に仕えると
いう目標を、掴み取る事が出来ました﹂
彼はどこまでも優雅に、どことなく劇的に告白する。
今までの過去を思い出して感極まったのか、改めて事の実感を噛
み締める事が出来たのか、喜びが露わとなっていた。
﹁だから安心して下さい。︱︱この白銀の聖騎士、皇帝陛下と姫様
を守り抜くまでは⋮⋮絶対に死を願いません。絶望や後悔も顧みず、
全身全霊を尽くして貴方様に仕えていきます﹂
1182
⋮⋮果たしてその言葉は、誰に向けられたものなのか。
自分への戒めとも受け取れるし、ただ純粋に仕えたいという意志
とも認識出来る。⋮⋮いや彼の場合、どちらも入り交ざってしまっ
ているのかもしれない。
アリーチェは彼を身近に感じてしまい、更に愛しくなってしまう。
﹁⋮⋮平和を目指して、共に頑張っていきましょう。私と共に⋮⋮
⋮⋮この身が朽ち果てるまで⋮⋮﹂
︱︱彼女は、慈愛の笑みを浮かべて答える。
彼は最強の称号を得て、勇猛果敢に立ち向かう。だがその心はと
ても弱く、儚く⋮⋮誰よりも人間味に溢れている。
自分に尽くす事でその弱さが補われるのなら⋮⋮アリーチェは喜
んで、彼を侍らせようと思った。
︱︱嗚呼、この時自分は恋い焦がれる事となったのだ。
1183
この忠実さに、この優しさに満ちた聖騎士に⋮⋮恋をしてしまっ
た。
︱︱︱︱だが、それと同時に︱︱︱︱
﹁⋮⋮心配なのです。私なんかの為に尽くし続けて、いつか自らを
滅ぼす結果を生んでしまわないかと⋮⋮⋮⋮そう思ってしまうので
す﹂
︱︱夢から目覚めたアリーチェは、朝日が差し込む部屋の中で独
1184
言する。
彼はどこまでも、愚直なまでに突き進んで行く。過去がどんなに
凄惨で、絶望的なものだったとしても、ゼノス・ディルガーナは精
一杯それを押し殺そうと努力している。
⋮⋮叶うならば、今日から始まる婚約披露宴に何も起こらない事
を。
そうすれば貴族達の疑いも晴れるだろうし、王家としても貴族と
の連携は頼もしい限りであろう。
︱︱そして何よりも、ゼノスが苦しまずに済む。
戦いに生き続ける彼に⋮⋮僅かばかりの休息を与えられる。
婚約披露宴はきっと華やかな舞台となるだろう。貴族達を集めた
盛大な舞踏会、色鮮やかな高級食に包まれた立食パーティー等⋮⋮
例え厳重な警戒で臨んでいても、少しはその余興を楽しんでくれる
だろう。
1185
⋮⋮それでいい。
自分が犠牲となり、彼が安らげば⋮⋮⋮⋮これ以上の幸せは無い。
﹁⋮⋮では参りましょう。運命の鎖に縛られ、好きでも無い男の為
に、この身を捧げる為に⋮⋮⋮⋮﹂
︱︱静寂に包まれた自室で、儚い印象を持つ少女は呟く。
自分以外の者が傷付かない未来を願い、純白の寝間着に身を包ん
だ彼女。まるで運命を司る女神の如く、全ての定めを受け入れる。
⋮⋮今日の婚約披露宴に何があっても、アリーチェは動じないと
心に誓い、その部屋を後にした。
1186
1187
ep14 ゼノス、使用人になる
婚約披露宴当日、ゼノス達はヴァルディカ離宮へと足を運ぶ。
ランドリオ帝国から馬車で街道を進み、幾つかの貴族領を抜けて
行く。それらの領地はさほど広大なものでは無く、馬車だと約数分
程で領内を横断出来てしまう。
︱︱だが、ヘストニス領だけは広大な領地を有している。
元々ヘストニス家は約三百年前の皇族家の親戚であり、当時は宰
相という形で皇帝陛下を支え、政治主導権を握っていたらしい。更
に皇帝陛下の妹と結婚したと言う事実も歴史書に刻まれている為に、
このような広大な領地を有する理由も納得がいく。
いくら貴族主体の時代が終わったとはいえ、このヘストニス領内
では未だにヘストニス家の権力が主体となっている。
1188
実際に統治方針を下すのは皇帝陛下であり、又はランドリオ帝国
文官の役割であるが⋮⋮最終決定権を持つのは、あくまで領主本人。
︱︱︱︱馬車の車窓から見える世界が、それを物語っている。
﹁⋮⋮くそったれ﹂
ゼノスは憎々しげに、怒りを押し殺した声音で呟く。
︱︱外の世界は、まさに世紀末と言うべき光景であった。
放牧された家畜達は痩せ衰え、道行く村民達はどこか虚ろで、空
腹に堪えながら労働に勤しんでいる。ある農夫はふらつきながらク
ワを持ち、ある母と子は街道脇へと跪き、馬車へと向かって精一杯
に物乞いをする。
だがそれはまだ良い方だ。ある場所では平然と子供の死体が横た
わり、それを母親が泣きながら抱き抱える。
1189
⋮⋮⋮⋮そして、まだ年端もいかない少女を連れ去ろうとする領
内騎士達を見た時は、流石のゼノスも目を覆った。
恐らく領主の権限を利用して、自分の性欲を満たす為に少女を誘
拐しようとしているのだろう。本当ならばすぐにでも駆け付けて少
女を助けたい所だが⋮⋮⋮⋮その際に多くのリスクを伴う事になる
だろう。
︱︱嗚呼、やはり噂通りだった。
シールカードと陰謀を模索しているのを抜かしたとしても、ヘス
トニス家は外道に値する存在⋮⋮六大将軍に粛清されるべき悪だ。
その証拠に、行き着いたヴァルディカ離宮は豪華絢爛であった。
救貧制度によって仕送られた社会保障金をふんだんに利用し、自
分の欲を満たし、周囲の貴族達に自慢する為だけに創設された離宮。
⋮⋮待っていろ、ヘストニス。
1190
騎士道精神の名の下に、必ずやこの行為を後悔させて見せる。そ
して後に起るだろう惨劇を食い止めて⋮⋮アリーチェを救ってやる。
その為にもゼノスは騎士として、友人として︱︱︱︱︱︱そして、
﹁︱︱本日から緊急の使用人として配属されたゼノス・ディルガー
ナと申します。至らぬ面も多々あるかと思いますが、どうぞ宜しく
お願いします!﹂
﹁おお、君しっかりとしてるねえ。うんうん、最近の若者にしては
珍しい態度で感心だよ﹂
⋮⋮ヴァルディカ離宮に着いたゼノスは、何故か燕尾服の恰好で
初老の先輩使用人に自己紹介をしていた。
﹁さて⋮⋮じゃあそちらの娘さん達も、ちゃんと自己紹介してくれ
るね?﹂
1191
先輩使用人が見定めるかの如く、ゼノスの隣に立つ二人の少女を
見やる。
すると︱︱二人のメイド服に身を包んだ少女達が答える。
﹁はい。︱︱私もゼノス同様、緊急の使用人として配属されたゲル
マニアと申します。農家の娘ですが、礼儀作法はしかと弁えている
つもりです﹂
﹁はいは∼い!私はアスフィ!持ち前の元気さで頑張りたいと思い
ま∼す!﹂
と、二人は対照的な挨拶をする。
﹁ふむ⋮⋮宜しい。披露宴は夕方、まだ時間はあるが準備すべき事
は沢山ある。後に担当の者が来るので、それに従う様に﹂
そう言って、先輩使用人はそそくさと去って行く。
﹁⋮⋮⋮⋮ゼノス﹂
1192
﹁い、言うな、分かってるから。ちゃんと事情は説明する﹂
ジト目で睨んでくるゲルマニア。苦笑いをしながら、ゼノスは何
故こんな状況になっているかを説明する。
︱︱事の発端は一週間前。アリーチェが働く酒場で飲んだ翌日⋮
⋮ゼノスは六大将軍を集めて、皇帝陛下を除いて円卓会議を再度行
った。
議題は勿論、婚約披露宴当日の際、シールカード対策の為の警戒
を見直す事である。
︱︱︱︱ここで、ゼノスはある決断をした。
﹃⋮⋮俺は六大将軍としてで無く、当日は離宮の使用人として潜入
する﹄
この発言は、どの六大将軍も動揺を隠せなかった。
ゼノスとしては単独で調査も出来るし、尚且つアリーチェに余計
1193
な不安をかけさせる心配も無い⋮⋮筈だ。
六大将軍達は最初こそ戸惑ったものの、すぐさま聖騎士不在の根
拠たる証拠を構築し、ホフマンはその地位を使ってゼノス達に使用
人の資格を与えてくれた。
ゼノスが簡潔に事情を説明すると、ゲルマニアは深く嘆息する。
﹁大体の流れは理解出来ましたけど⋮⋮﹂
彼女はちらりとアスフィを横目で見やる。
﹁⋮⋮アスフィさんまで連れて来る必要はあったのですか?﹂
﹁勿論だ。今回の調査でシールカードが関わってくる以上、なるべ
くアスフィを傍に置いておきたい。⋮⋮となるとだ。六大将軍とい
う地位で彼女を連れて来てしまえば、間違いなく素性などについて
質問される可能性が高い﹂
出来る限り面倒事は避けたい。仮にも始祖だという事がバレてし
まえば、貴族達は揃って皇族の弱みを握ったと確信し、国内情勢を
揺るがしかねない事態を引き起こすかもしれない。
1194
﹁それに、アスフィは色々と役立つ。分かってくれ﹂
﹁⋮⋮分かりました﹂
ゲルマニアは何故か不機嫌な様子だが、どうにか理解してくれた
らしい。
一方のゲルマニアの心情はと言うと⋮⋮
︵︱︱アスフィさんは役立って、私はどうでも良いのかな。⋮⋮
⋮⋮ああもう!聞きたいけど聞きづらいよ⋮⋮︶
ゲルマニアは更に悩んでいた。その悩みとは、彼女は本当にゼノ
スから頼りにされているのかと、自分は本当は必要無いんじゃない
かと思ってしまう。
ゼノスは強い。例え聖騎士の鎧を付けていなくても、その実力は
容易に他者を圧倒させ、素顔のままでも六大将軍としての威厳は兼
ね備えている。
1195
⋮⋮自分は、本当に必要な存在なのだろうか?
﹁︱︱ふふ、悩むぐらいだったら聞いてみればいいのになあ﹂
﹁⋮⋮ッ。な、何をですか﹂
突如アスフィにそう言われ、ゲルマニアは慌てふためく。
﹁べっつにぃ、私は何について悩んでいるか分からないし。⋮⋮あ、
でも予想で良ければこの場で言い当ててあげよっか?﹂
﹁ぐっ、ぬぬ⋮⋮⋮⋮け、結構です!﹂
明らかにからかわれている様で、すっかりゲルマニアは拗ねてし
まった。
アスフィは薄く笑んだ後、ゼノスの方へと振り向く。
﹁ま、ゼノスの判断は間違ってないよ。それにゲルマニアだって⋮
⋮そこの所は薄々理解出来てるよね?﹂
1196
﹁⋮⋮ええ、まあ﹂
ゲルマニアは周囲を見回し、不快感を露わにする。
﹁この﹃光の源﹄の濃度。それと何でしょう⋮⋮⋮⋮まるで誰かに
見られている様な感じがします﹂
﹁⋮⋮見られている?﹂
光の源に関してはゼノスも分かっていた。ギャンブラーとなって
から、目で見えずとも肌で察知出来る様になっているのだ。
光の源とは、シールカードが本来以上の力を発揮するのに必要な
粒子であり、それは自然から発生される要素である。
︱︱だがシールカードが意図的に吸収しようとすれば、光の源も
自然と一か所に集中するらしい。前者の時点でシールカードと関与
している可能性は大となったが⋮⋮ゼノスは後者の言葉が気になっ
た。
1197
ゼノスの疑問に答える前に、アスフィが感心した様子で言う。
﹁うんうん、妥協点だけど悪くないよ﹂
﹁⋮⋮誰かにって、それはシールカードなのか?﹂
﹁今は確信出来ないけど⋮⋮十中八九そうだろうね。ゼノスが見抜
けないとするとその確率の方が高いよ﹂
それを聞いて、ゼノスは噂が現実だという事実を噛み締める。
この中にシールカードがいる。それはつまり、貴族と共に何かを
共謀している可能性が出てくる。
何となくだが⋮⋮この視線を放つシールカードは、自分達に敵意
を抱いている、それだけは僅かに伝わってくるのだ。
﹁そんなこんなで、万が一の事があったら私に頼るといいよ﹂
アスフィは誇らしげに言ってくる。
1198
奴等の事に関しては何も話さないのに、ゼノスの補助はやるつも
りでいる。本当に敵か味方なのか、正直はっきりと区別が出来ない。
だがシールカードは何をしてくるか分からない。以前の様にこち
らの力を封印する罠を仕掛けてくるかもしれない。⋮⋮彼等の祖た
るアスフィがいれば、多分そのような事態を回避出来るだろう。今
は何も言わず、彼女を利用するしかない。
﹁あ、いたいた。君達が新人ね。それぞれ仕事が決まったから、私
に付いて来てね﹂
と、そこでようやく担当のメイドがやって来た。
﹁えっと⋮⋮そこの紫髪の子は会場まで料理を運び、その後は調理
場の手伝い。蒼髪の貴方は来場する貴族達の案内係。で、燕尾服の
君はパーティー会場でウェイターをやって貰うわよ﹂
メイドは早々と説明し、付いて来るよう合図する。
⋮⋮という事は、今から実質単独行動という事になるのか。
1199
﹁︱︱よし、調査開始だ。念の為にもう一度言うが、貴族の会話、
又は彼等に関係する者達の会話は聞き逃さない事。彼等の中に不審
な行動を取る者がいたら、勘付かれない程度に尾行して意図を把握
する事。いいな?﹂
﹁了解しました﹂
﹁おっけ∼、任せてよ﹂
二人は確認に対し、短くそう答える。
︱︱長い一週間が始まる予感を感じつつ、三人は行動を開始した。
1200
ep15 愚かなる貴族 マーシェル
婚約披露宴一日目、午後七時。
この日の夜に多くの貴族、騎士、皇族関係者がヴェルディカ離宮
へとやって来る。男性は気品溢れる礼服で、女性は華麗なるドレス
に身を包み、皆がこの婚約披露宴を楽しむ姿勢でいる。
一日目はマーシェル氏の婚約発表から始まり、その後は立食形式
のパーティーが催される。彼等にとってパーティーとは社交場であ
り、資産家や企業主が多い貴族としては大いに有意義な舞台だ。
恐らく披露宴を欠席する者はいないだろう。⋮⋮なので、調査す
るには絶好の機会である。
一方のゼノスが会場に入ったのは、午後七時半。丁度マーシェル
氏の婚約発表が終わり、本格的にパーティーが実施された時からだ
った。ゼノスは今からウェイターとして入り、酒やその他の飲み物
を配給する役目を務める。
1201
無論ただ仕事を果たすだけでは無い。その間に様々な貴族の会話
に聞き耳を立て、僅かな情報でも得る事だ。⋮⋮特に、マーシェル
に関しては重点的に見ていくつもりだ。
そう心に誓ったゼノスは深呼吸をし、トレイを持ちながら使用人
専用の入り口から入場する。
︱︱薄暗い廊下から一転、そこは煌びやかな場所だった。
一言で言うならば⋮⋮富と名誉が集う、華の舞台。シャンデリア
の灯りが会場全体を黄金色に染め上げ、豪華絢爛さを醸し出す。広
い空間には沢山ものテーブルが置かれ、その上には豪勢な食事が並
ぶ。
弦楽四重奏の音色が優雅に響き渡り、それを聞きながら沢山の貴
族や騎士達が会話に華を咲かせる。
淑女の纏う鮮やかな色のドレスは、会場に更なる彩りを加える。
⋮⋮悲しき哉。このヴァルディカ離宮より外では飢えに苦しむ人
々がいて、今も地獄の様な生活を送っているのだろう。
この相反する世界を比べると、ゼノスは心が痛くなる。
1202
﹁⋮⋮いや、今は考えないでおこう﹂
一人呟くゼノスは気分を改め、周囲を見渡す。
成程、流石にパーティー開始からそんな経っていない為に、他の
貴族達は真っ先に開催主であるマーシェルへと群がっている。この
様子だと彼等全員が挨拶し終えない限り、まともに調査する事は出
来ないだろう。
ここはひとまず距離を取るべきか⋮⋮と、思った時だった。
ゼノスの目先に、丁度メイド姿のゲルマニアが料理を配膳台で運
んでいて、あるテーブルにて作業をしていた。
あまり疑問に思われない様、何気ない足取りでゲルマニアへと近
付き、一緒に手伝う。
その最中に、ゼノスは目配りせずに言う。
﹁︱︱他の使用人から何か聞けたか?﹂
1203
﹁いえ、シールカードに直結する情報は特に。⋮⋮ただ﹂
﹁ただ?﹂
途端に声の調子を変えた彼女に、ゼノスは訝しげな様子で問う。
するとゲルマニアは⋮⋮まるで壊れた機械人形の様に、ぎこちな
い動作で顔を向けてくる。︱︱冷や汗をたらしつつ、青ざめた顔だ
った。
﹁こ、ここ⋮⋮⋮⋮出るらしいのです﹂
﹁出るって⋮⋮何がだ?﹂
ゲルマニアにしては珍しい態度だ。一体何が彼女を怖がらせてい
るのだろうか?︱︱と、彼女は続いて言う。
﹁あ、あれですよ。⋮⋮⋮⋮﹃幽霊﹄です!﹂
1204
﹁幽霊って⋮⋮そんなのいるに決まってるだろう﹂
﹁何故断言出来るんですか!?﹂
ゼノスは嘆息し、周りに貴族がいない事を確認する。
まあ大丈夫そうなので、彼女に断言する理由を述べる。
︱︱ヴァルディカ離宮。ここは元々ヘストニス領となる前から存
在する建物であり、歴史ある建物である。
今現在はこうしてヘストニス家の避暑地でもあり、別荘と化して
いるわけだが⋮⋮それ以前、ここは﹃拷問施設﹄として活用されて
いたのだ。
しかもタチが悪い事に⋮⋮魔女裁判が流行していた時代にだ。な
のでここで死んで行った者は殆どが無害な者達であって、怨念が宿
るのも無理は無いと思う。
︱︱それを聞いたゲルマニアは、全身を震わせながら瞠目してい
た。
1205
﹁な、なな⋮⋮何でそれを先に言わないんですか﹂
﹁言った所で状況は変わらないと思うんだが。⋮⋮もしかして、怖
いのか?﹂
ゲルマニアは頷く。
﹁当たり前ですッ。てか皆さん、よくこの離宮に泊まる気になれま
すね⋮⋮り、理解出来ません﹂
﹁⋮⋮ま、恐怖より利益の方が上回ったんだろう。それよりゲルマ
ニア、俺達が気にするのは幽霊じゃなくて、あくまでシールカード
だからな?﹂
﹁分かってます⋮⋮⋮⋮うう、けど﹂
ああ、何となく彼女がまだ怖がる理由が分かった。
使用人は狭い一室ではあるが、各一人ずつに﹃個室﹄が宛がわれ
る事になっている。他の使用人達は纏まって一角に集中しているが
⋮⋮ゼノス達は特別使用人として雇われた身だ。
1206
部屋の位置も彼等よりも離れていて、ヴァルディカ離宮三階の端
っこ。︱︱つまり、ゼノス・ゲルマニア・アスフィ以外は誰もいな
い階で寝る事になるのだ。︱︱確かに心細いし、怖くもなるだろう。
ちなみに、ゼノスは幽霊など全く怖くない。
以前にも古都アグネイアスという亡霊しかいない国に行った事も
あるし、もし幽霊が出たら、その場で斬り伏せればいい事⋮⋮全然
大丈夫だ。
﹁ああ⋮⋮出ませんように、出ませんように﹂
﹁いやいや、拝んでも仕方ないだろ。⋮⋮⋮⋮っと、そろそろ挨拶
も一通り終わりそうだな﹂
気付けば来賓達はまばらに散り、既に他の者達と会話をし始めて
いる。ここで長々と話をする暇も無いようだ。
﹁じゃ、後は頑張れよ。引き続き調査の方を宜しく﹂
﹁⋮⋮﹂
1207
ゲルマニアは頷くだけで、何も言ってこなかった。ただ涙目で、
子犬の様に弱々しい瞳を見せてきた。︱︱酷いです、と心中で思っ
ているのかもしれない。
だがゼノスとて構っている場合では無い。今この場で何かしらの
会話をして以上、聞き漏らす事は許されない。
︱︱そこからゼノスは、様々な会話を盗み聞きする。
と言っても、その内容は大した事ないものばかりだった。例えば
商談の話だったり、自分の子の自慢話だったり⋮⋮平和的なもので
ある。
﹁流石にボロは出さないか。⋮⋮いや、というよりも﹂
︱︱彼等貴族から、殺伐とした雰囲気をまるで感じない。
例え表面には出さずとも、僅かばかりの殺気や緊張があってもい
いはずだ。もし彼等がシールカードを用いて革命を起こすつもりな
ら⋮⋮このような機会に、必ずや黒い意志が蔓延っていてもおかし
く無い。
1208
⋮⋮となると、他の貴族達は無害なのか?
﹁⋮⋮なら、すべき事はあと一つだな﹂
ゼノスは飲み終えたグラスを回収しながら、ある方向を睨み付け
る。
視線の先には︱︱赤い貴族服に包まれた青年がいた。傍らには暗
い表情で佇むアリーチェ皇帝陛下がいて、対面にはゼノス以外の六
大将軍が存在している。
赤い貴族服の青年は︱︱マーシェルであった。
⋮⋮好都合と言うべきか、絶好の機会だ。
ここからでは会話も聞こえないので、六大将軍達のグラスを回収
しながら拝聴しようと接近する。
そして、テーブルを挟んだ先付近でようやく聞き取れた。
1209
﹁︱︱ようこそお越し下さいました、将軍方。このマーシェルとア
リーチェ様を祝福する為に、よくぞ来てくれました﹂
﹁招待して頂き、誠に感謝しますぞ。我等六大将軍を代表して、こ
のアルバートが感謝の意を述べる﹂
丁度挨拶に来た所らしい。マーシェルが慇懃な態度で言葉を発し、
それをアルバートが受け応える。
⋮⋮ちなみにアルバートは騎士の正装服、イルディエはいつもの
踊り子衣装、ユスティアラは赤の着物姿、ジハードは紺のスーツ、
そしてホフマンは貴族の正装姿である。
︱︱実はこの時の為に作戦を用意したのだが、今は実行すべきで
は無い。ゼノスは様子を見るべく、近場にある配膳台を脇に置き、
食器を片しながら会話を聞き続ける事にする。
﹁にしても、今回の婚約披露宴は盛大ですな﹂
﹁お褒めに預かり光栄です。⋮⋮皇帝陛下との婚約は、我がヘスト
ニス家の念願でもありましたからね、これぐらいの規模は当然です
よ﹂
1210
﹁左様ですか。⋮⋮じゃが次期皇帝陛下となられた際は、このよう
な戯れは控えて欲しい所⋮⋮そうは思われないか、マーシェル殿?﹂
アルバートの鋭い指摘は、正にマーシェル自身を非難する言葉だ
った。
確かにこれだけの催しを行ったからには、それ相応の出費が伴っ
てくる。如何にヘストニスと言えど、私産のみで開催出来るもので
は無い。
︱︱そう、このパーティーは税金として徴収された金を使ってい
るのだろう。あのような状態にある領民から金と農作物を奪い⋮⋮
まるで独裁者の如く振る舞っていると言っても、過言じゃない。
それを指摘されたマーシェルだが⋮⋮彼は余裕の笑みを見せる。
﹁はは、これは痛い所を突かれましたな﹂
悪びれもせず、ワインで口を湿らせる。
﹁ええ確かに。皇帝陛下ともなれば、国の資産を無闇に使う訳には
1211
まいりませんからね﹂
﹁その通りじゃ。分かってくれたようで﹂
﹁︱︱︱︱なら、更に税負担を強いる必要がありそうですね﹂
その言葉に、ゼノス含め六大将軍全員が唖然とする。
⋮⋮何を言っているんだ、こいつは。ただでさえ前皇帝の悪政策
で民が疲弊し尽くしているというのに⋮⋮彼等を飢え死にさせるつ
もりか?
﹁ふふ、そうすれば様々な面で活用出来ますよ。外交面での賄賂、
国内有力者達の支持を集める為の舞踏会も開く事が出来るし⋮⋮何
よりも、皇族家の私腹を満たすものとなります﹂
それは本気で言っているのか、ゼノスは我が目を疑う。
一方のアルバートも同様であり、眉間に皺を寄せながら沈黙する。
1212
﹁⋮⋮別に体裁を気にする必要はありませんよ、アルバート殿。今
は周囲に貴族達もいませんし、思う存分本音を述べて下さい﹂
﹁ふん、言った所で何も変えるつもりは無いのだろう?⋮⋮不満は
大いにあるが、今この場でそれを晒す気は無いわい﹂
﹁そうですか。︱︱ならこれからもその姿勢でいて下さいよ。これ
が我々の流儀であり、ランドリオ帝国本来の考え方なのですから。
⋮⋮⋮⋮まあ、経験の浅い騎士風情には理解が及びませんか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮貴様﹂
明らかに挑発した様子に、ユスティアラが激怒を露わにする。
一歩前に出る彼女だが、それをアルバートが抑制させる。
﹁無知蒙昧も程々にして欲しいものじゃな。それとも⋮⋮それは貴
族特有のジョークと取っても良いのか?﹂
ジョーク、そう言われたマーシェルはくすりと嗤う。
それは馬鹿にした様な嘲笑だった。
1213
﹁︱︱僕は本気ですよ。何も冗談のつもりで言ってはいない﹂
﹁⋮⋮何じゃと﹂
彼から発せられる異様な雰囲気に気付いたのか、アルバートが体
を強張らせる。目を細め、警戒心を強めた。
しばし睨み合う両者。静かなる闘志が辺りを一変させていく。
︱︱だが
﹁⋮⋮無用な争いは慎んで下さい。ここは祝いの場ですよ﹂
終止符を打ったのは、ずっと静観していたアリーチェであった。
彼女はマーシェルを一瞥し、それ以降はまた黙ってしまう。
﹁ああ、そうでしたねアリーチェ様。何とも配慮に欠けていました﹂
1214
そう言って、律儀に頭を下げるマーシェル。
︵︱︱冗談では無い、か︶
ゼノスは一部始終を聞き終え、確信に似た答えを見出し始める。
傍若無人とも言える態度⋮⋮だがそれを臆面も無く断言し、まる
で頼れる何かがある様な、自信に溢れた様相である。
︱︱探りを入れる必要がありそうだ。
片付ける手を止め、ゼノスは瞳を閉じる。
﹃聖騎士流法技︱︱心音派生﹄
⋮⋮刹那、周囲の音が全て消え失せた。
だがゼノスとアルバートの息遣いだけが聞こえ始め、二人の音だ
けが世界を支配する。
1215
これは誰も聞こえない、聞いてはならない。聖騎士の隠密技を駆
使して、ゼノスはテーブル向かいに立つアルバートに語り掛ける。
﹃︱︱アルバート﹄
﹃小僧か。先程から気配は感じていたが⋮⋮上手く溶け込めている
ようじゃな﹄
脳裏に過る声音、実際に声を出してはおらず、心の声で返ってく
る。
この技はラインの隠密技を参考に創造したものだが⋮⋮成程、か
なり役立つ技だ。
﹃⋮⋮何が言いたいかは分かるか?﹄
﹃無論じゃ。︱︱こいつは黒の可能性が高い。探りを入れる手伝い
をすればいいのじゃろ?﹄
﹃ああ⋮⋮頼む﹄
1216
ゼノスの言葉を最後に、世界にまた音が戻る。
﹁⋮⋮いかがなさいましたかな、アルバート殿?﹂
﹁おお、すまんすまん。疲れのせいか呆然としてたわい﹂
アルバートは豪快に笑う。だが他の六大将軍達は彼の変化、及び
ゼノスの存在に気付いたのか、事の状況を理解する。
﹁⋮⋮おっと、そうだった。マーシェル殿に渡す物があった﹂
ごそごそと胸ポケットから一枚の手紙を取り出し、それをマーシ
ェルに手渡す。
﹁これは?﹂
﹁いや何、今日来れなくなった聖騎士の祝電じゃよ。⋮⋮奴は発生
した神獣の討伐に向ってしまってな、残念な事よ﹂
﹁成程⋮⋮では、在り難く頂戴しましょう﹂
1217
︱︱よし、今だ
マーシェルが手紙を受け取ったのを見計らい、ゼノスは自然な動
きで彼等へと歩み寄る。マーシェル自身はゼノスの素顔を知らない
と思うが、気休めとして伊達メガネを付ける。
﹁マーシェル様。宜しければその手紙、私が自室に置いて来ましょ
うか?﹂
﹁ん⋮⋮そうだな。鍵を渡すから、僕の執務机に置いてくれ﹂
﹁は、畏まりました﹂
ゼノスは鍵を貰い、自分が書いた手紙を持つ。
⋮⋮どうやら成功したようだ。これは会議の時に立案した策の一
つであるが、タイミングも良かったし、おかげで計画通りに行く事
が出来た。
後は彼の部屋で証拠を漁るだけだ。
﹁⋮⋮﹂
1218
ふと、ゼノスに気付いたアリーチェがこちらを見つめる。
不安な様子で、とても心配している。
︱︱ゼノスは軽く微笑み、その場を後にした。
1219
ep16 亡霊の出迎え
パーティー会場から抜け出したゼノスは、怪しまれずに何とかマ
ーシェルの自室がある五階へと辿り着いた。
⋮⋮恐ろしく静寂で、不気味にすら感じるこの階層。
廊下は酷く冷え冷えとしていて、背筋を過る悪寒には逆らえない。
流石幽霊屋敷と称されるだけあって、常人に恐怖と不安を植え付け
る光景だった。
⋮⋮だが、ゼノスにとってそんな事はどうでも良かった。
今はとにかく気を引き締め、マーシェルの自室に向かうしか無い。
そこで隈なく調査し、シールカードと協力しているという証拠を見
つける⋮⋮それが今の使命だ。
︱︱こうして、ゼノスはマーシェルの部屋へと到着した。
1220
幸いな事に、ヴァルディカ離宮はヘストニス家の催事場であると
同時に、マーシェル氏自身が私有する場所だ。
当然の事ながら自室も存在する。⋮⋮この目前に控える扉の先に、
何かが見つかるといいのだが。
﹁⋮⋮﹂
無言のまま、ゼノスは扉を開けて入る。
⋮⋮中は勿論の事、静寂に包まれていた。
見事な調度品の数々が置かれ、クラシックな本棚には沢山の書物
が置かれている。
如何にも幽霊屋敷に相応しい雰囲気。更に壁に掛けられた貴婦人
の肖像画、その他沢山の人物画が⋮⋮まるで暗闇からこちらを見て
いる様な錯覚を、ゼノスに与えてくる。
﹁⋮⋮こりゃゲルマニアだったら卒倒してたな﹂
1221
ゼノスは噂話だけで震え上がる相棒を思い出し、ふと笑みが零れ
てしまう。
︱︱しかし表情は一転し、真剣なそれへと変わる。
時間も限られているし、すぐに調査を始めないといけない。そう
意気込むゼノスは、さっそく部屋の調査に移る。
部屋の構成としては、どうやら寝室と書斎を兼ねているらしい。
同部屋に執務机と天蓋付きベッドから設置されており、部屋は広大
だ。
しかし目立った家具は余り無く、調度品・ベッド以外の日用家具
はタンスが一つ、執務机が一つ、あとは本棚が三つ等々⋮⋮それ以
外の家具を探る必要は無さそうだ。
⋮⋮タンスを漁ってみるが⋮⋮あるのは小物やアクセサリー。
裏をかいて額縁の裏やベッドの下も探ってみたが、目立った書類
やシールカードも存在しない。
1222
いや、シールカード自体は恐らく無い確率が高いだろう。あれが
もしギャンブラーを見つけているならば、ギャンブラー自身が離さ
ず所持しているに違いない。
ゼノスが欲しいのは︱︱シールカードとの密約書だ。
もしホフマンが言う通り、ランドリオ貴族と手を組んでいて、大
規模な形でランドリオ帝国と争うつもりならば⋮⋮何かしらの書簡
が送られてきても可笑しくは無い。︱︱いや、絶対にある筈だ。
⋮⋮部屋を粗方調べ終えたゼノスは、最後に執務机へと赴く。
まあ大体想像はつくが、ここに重要書類が保管されていると見て
もいいだろう。丁寧に引出しが施錠されている辺り、確率が高い。
︱︱栄えある騎士将軍が盗人紛いの行為をするのもどうかと思う
が、背に腹はかえられない⋮⋮⋮⋮ここは堕ちるに堕ちて。
﹁⋮⋮ピッキング作業を行うか﹂
︱︱ランドリオ帝国六大将軍が一人、白銀の聖騎士ゼノス。
1223
全ての代に渡って築き上げた誠実さを⋮⋮今ここで捨てたいと思
います。
そう心中で呟いたゼノス。
⋮⋮⋮⋮開錠を試みた、その瞬間だった。
﹃︱︱ミテハ、イケナイ﹄
⋮⋮刹那、そんな低い声音が部屋に響き渡る。
﹁︱︱ッ﹂
ゼノスは咄嗟に後方を振り返るが、そこには誰も人は存在しない。
︱︱だが、﹃人ならざる者﹄はいた。
1224
先程まで沈黙していた筈の貴婦人の肖像画がガタガタと動き出し、
それにつられて他の肖像画達も動き出す。
﹃ソコハダメダ﹄
﹃ミレバ、オマエはシヌ﹄
﹃シヌ、シヌ、ゼッタイシヌ﹄
﹃ノロワレロ⋮⋮ノロワレロ﹄
肖像画の紳士が、淑女が、様々な怨嗟を露わにしながら呪詛を口
々に唱えている。
挙句の果てに床から、壁から、天井から⋮⋮全方向に半透明とな
っている者達が顔を覗かせ、恨みの視線をゼノスに突き付けてくる。
﹁ちっ。まさか本当に幽霊がいるとはな!﹂
1225
状況を詳しく分析する暇も無い。証拠探しはひとまず諦め、ゼノ
スはその左手にリベルタスを呼ぼうとする。相手は幽霊だが、リベ
ルタスは女神より与えられし剣︱︱これでアグネイアスの亡霊共を
全て薙ぎ払っている。
⋮⋮だが、一歩遅かった。
﹃︱︱ムダダッ!﹄
﹁⋮⋮ぐ、おおっ!﹂
突如体全体に負荷がかかり、勢いよく吹っ飛ばされてしまう。
開かれた部屋の扉を抜け、ゼノスは廊下へと押し戻されてしまう。
﹁︱︱くそっ!﹂
何とかまた部屋に入ろうとしたが、時すでに遅し。
バンッと閉められてしまい、いくらドアノブを回しても開く気配
は全く無かった。
1226
⋮⋮それどころか、何か不思議な力によって封印された様だ。
﹁⋮⋮⋮⋮シールカードか亡霊かは知らないけど、そう簡単には行
かせてくれないのか﹂
ゼノスは歯ぎしりを立てる。
だがこの場で何をしても、証拠を掴む事は出来ないだろう。
手元の腕時計を見ると⋮⋮時刻は八時を過ぎていた。
確か八時半には自分達夜の使用人は仕事を終え、一旦エントラン
スホールに集合する予定だ。
︱︱仕方ないが、今日は調査を断念しよう。
1227
1228
ep17 寝る時は共に
午後九時を少々過ぎた頃。
パーティーはどうやら早々に終了したらしく、貴族や騎士達は明
日の舞踏会に備えて、それぞれが既に与えられた部屋へと戻ってい
る。
それはゼノス達も例外では無く、常駐している使用人以外の臨時
使用人達も早朝仕事に備え、早めの就寝を言い渡された。
⋮⋮という訳で、今ゼノスはヴァルディカ離宮三階にある自室に
いる。
隣室のゲルマニアとアスフィも呼び、三人は今日一日目で収集し
た情報を提供し合う事にした。
﹁︱︱さて、じゃあ揃った事だし本題に入ろうか﹂
1229
﹁そうですね⋮⋮。ではまず誰から報告しましょうか?﹂
ゲルマニアが神妙に切り出す。
﹁はいは∼い!じゃあまず私から話すよ!﹂
そう快活に答えたのは、まだメイド服姿のアスフィであった。
﹁アスフィは確か⋮⋮到着した貴族達を会場に案内してたな﹂
﹁うんうん、もうそればっかりだったよ。スケベな貴族親父は尻を
触ってこようとするし、どさくさに紛れて抱き着こうとしてきた人
もいたし⋮⋮疲れたよ∼﹂
﹁⋮⋮そんな報告はどうでも宜しいです。まあ、同情はしますが﹂
ゲルマニアも同じ様な事があったのか、怒りの籠った様子で答え
る。
1230
﹁あ、ごめん⋮⋮えへへ﹂
いつもの調子で、舌を出して謝るアスフィ。
そんな和やかな雰囲気のまま、彼女は続ける。
﹁えっと⋮⋮一応案内してる最中に漏らしてた話を盗み聞きしてみ
たけど、誰も革命を起こそうという話題は出してなかったね。今の
皇族家の不満や騎士階級に対する罵詈雑言は言ってたけど⋮⋮﹂
﹁成程。やはりそうか﹂
という事は、他の貴族はランドリオ撲滅に直接関わっていないと
判断出来る。
まだ確証は得ていないが、貴族達は案外思った事を口にするタイ
プが多い。帝国撲滅という旗を掲げていれば、誰かがそれを誇張す
る筈⋮⋮しかしそれが一切無いとなると、彼等は関与してないと認
識出来るのだ。
﹁となると、更にマーシェル様が怪しくなってきますね⋮⋮。彼に
関してはゼノスが調べていた様ですが、何か分かりましたか?﹂
1231
﹁ああ、実はそれなんだが﹂
ゼノスは躊躇しながらも、簡単に先の内容を説明する。
マーシェルの自室に入る機会が与えられ、自分は鍵を入手して入
る事が出来た。そこで何とか書類を掴もうとしたが⋮⋮突如現れた
幽霊共に阻まれてしまったという事をだ。
⋮⋮案の定、ゲルマニアはそれを聞いて顔が真っ青となる。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮あ∼、よく聞こえませんでした。え?何が出て来た
んですか?ユレイ?ああ∼、あの南大陸に栽培されている独特の野
菜ですね。もう∼ゼノスったら、変な想像をしてしまったのですね﹂
﹁⋮⋮﹂
こいつ、今の話を帳消しにしようとしている。
捲し立てる様に早々と別の解釈をするゲルマニア。
1232
だが︱︱
﹁⋮⋮残念ながら本当なの。ほら、お前の左肩見てみ﹂
﹁へ?﹂
嘆息しながらゲルマニアの左肩を指差す。
そこで、ゲルマニアは初めて悪寒を感じてしまった。
先程から重苦しかった左肩。⋮⋮嫌な予感が漂うが、勇気を振り
絞って振り向くと、
︱︱肩には、女性の手が添えられていた。
1233
手より先の腕も無く、手だけが露わとなっていた。
﹁∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼∼ッッ。い、いやあっ!﹂
混乱しきったゲルマニアは跳ね上がり、ベッドに座るゼノスへと
素早く抱き着いてくる始末。
ゼノスの顔に胸を押し付け、泣きじゃくる。
﹁も、もう嫌ですこんな所!帰りたい!帰りたいです!﹂
﹁まあまあ落ち着けって。⋮⋮にしても、この屋敷全体が幽霊の巣
窟となっているようだな﹂
今の幽霊には害が無かった様だが、ゲルマニアにとってそれも怖
かったようだ︵アスフィは全然気にしてない所か、この状況を楽し
んでいる様子︶。
﹁ゼ、ゼノス⋮⋮今日は一人で寝たくありません!だから帰らせて
いただきます!﹂
1234
﹁そ、そりゃ無いだろ。俺一人でやれってのか﹂
﹁別に大丈夫でしょう⋮⋮ゼノスは強いのですから﹂
何やら棘のある言い方だった。
妙にふてくされた様子で答えるゲルマニアを見て、途端にアスフ
ィの目が光った様に感じた。
﹁︱︱じゃあさ、今日は二人で寝るっていうのはどうだろう?﹂
⋮⋮突如、アスフィが良からぬ提案をしてきた。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ふえ?﹂
ゲルマニアは変な声を出し、顔面が紅潮し始める。
一方のゼノスはというと、至極真面目な表情で何度も頷く。
1235
﹁⋮⋮成程。確かに俺がいれば簡易式の結界も張れるし、そうすれ
ばゲルマニアが怖がる事も無い筈だ﹂
﹁そ、その結界は隣の部屋まで伸ばせないんですか!?﹂
﹁う∼ん⋮⋮難しいな。元は自分の身を守る為に作り出す物だし。
⋮⋮まあ異性と共に寝たく無いのは分かるが﹂
ゲルマニアとて騎士であると同時に、まだ十八の少女だ。
好きな男と寝たいという気持ちもあるだろうし、ゼノスだって強
要はしない。アスフィと一緒に寝ても大丈夫だし、その点に関して
彼女が悩む事も無いだろう。
⋮⋮と、思っていたのだが。
﹁︱︱いえ。別にゼノスと寝るのが嫌という訳ではありません。仕
方ないですが⋮⋮一緒に寝る事にしましょう﹂
﹁はあ。⋮⋮でも本当にいいのか?アスフィの所に行っても大丈夫
だと思うがな﹂
1236
﹁残念ですが、むしろそちらの方が嫌ですよ﹂
そう言って、ギロリとアスフィを横目で睨み付ける。
﹁貴方は始祖であり、多くの同胞や民を葬って来た。同盟を結んだ
とはいえ、そこまで気を許す事は出来ません。⋮⋮するつもりもあ
りません﹂
﹁⋮⋮ふふ、そうだね。その方がいいかも﹂
彼女はゲルマニアの拒絶に落ち込む所か、むしろ納得している。
ゼノスも彼女の言う通りだと思い、これ以上は何も言わないと決
めた。
﹁そうか。分かった、じゃあ今の内に結界を張るんで、ゲルマニア
は寝間着に着替えて来な﹂
﹁あ、はい分かりました。ですが明日の予定も決めた方がいいので
1237
は﹂
﹁それは必要無いだろう。明日の昼は離宮から離れた森での鴨狩り
で、夜は使用人も参加する仮面舞踏会だ。⋮⋮調査再開は明後日に
なるしな﹂
方針はまた明日の夜に話し合えばいいだろう。明日も早い為、今
日はなるべく早めに就寝したいのだ。
﹁そうですか。では、その通りにしましょう﹂
ゲルマニアは頷き、そそくさと部屋を退室する。
彼女は終始赤面してたが⋮⋮もしかして風邪でも引いたのだろう
か?
﹁ゼノス、今日は楽しめそうだね﹂
心配するゼノスをよそに、アスフィが気味悪い笑みを浮かべなが
ら言う。
﹁⋮⋮いや変な事はしないから。てかお前も早く寝ろ、明日は早い
1238
んだ﹂
﹁ちえ。分かったよ∼﹂
何が不満なのか分からないが、渋々とアスフィも退室しようとす
る。
しかしふと足が止まり、こちらを振り向く。
﹁あ、そうだ。寝る前に一つだけ忠告しておくよ﹂
﹁⋮⋮何だ?﹂
首を傾げるゼノスに、彼女は重々しい空気の中答える。
﹁︱︱今回の敵は、想像以上に厄介だと思うよ﹂
彼女はたった一言、そう宣告してくる。
1239
今更何を言うのだろうか?戦いに身を置いている以上、危険や苛
む気持ちは百も承知だ。
ゼノスが黙って頷くが、それでもアスフィの気は晴れない様子だ。
﹁⋮⋮⋮⋮負けないでね。過去に⋮⋮昔の自分に﹂
最後に一言、そんな呟きが聞こえてきた。
1240
ep18 悪夢への誘い
さて、結界を張り終えた所でゲルマニアが戻って来た。
結界は簡易式のものだが、部屋全体に張り巡らせたそれは翌日の
朝まではもつだろう。とにかく、安眠出来る環境には仕立て上げた。
ゼノスは異世界で買った青いパジャマ一式を着て、ナイトキャッ
プを被る。そして広々としたベッドに横たわり、手元のランプを消
そうとするが⋮⋮
﹁⋮⋮ゲルマニア?﹂
﹁⋮⋮﹂
ベッド脇で立ち尽くすゲルマニアに声を掛けるが、彼女は一向に
来ようとしない。若干緊張気味の様子で、ようやく口を動かす。
﹁ま、まさかこんな事になるとは⋮⋮。うう、聖騎士様と同衾⋮⋮
1241
⋮⋮同衾、ドウキン⋮⋮﹂
︱︱かなり緊張しているようだな。
﹁おいおいゲルマニア。寝る時ぐらいは気楽にいこうぜ?﹂
﹁気楽と言われましても⋮⋮具体的にどうすれば﹂
そこまで悩む必要は無いだろうに。
気楽と言われると、確かに広義的で容量を得ないだろう。
だが例えるとなると⋮⋮そうだな。
﹁︱︱じゃあこうしよう。敬語は無しで、今だけは騎士の心を捨て
るってことで﹂
その提案に、しばし考え込むゲルマニア。
1242
何とも真面目な事に⋮⋮こんな時でも騎士としての振る舞いを重
視し、聖騎士ゼノスを軽視した見方は出来ないらしい。表情からそ
れが露わとなっていて、至極不満そうだ。
だがこのままで居ても、一向にベッドに入る事は不可能だろう。
そう悟ったのか、ゲルマニアは三回程深呼吸をする。
覚悟を決めた彼女は、途端に頬を膨らませる。
︱︱彼女本来の、年頃の少女らしい豊かな表情だった。
﹁⋮⋮もう、ゼノスは酷い人ね﹂
頬を膨らませるその素顔は、どこにでもいる少女のそれだった。
﹁ああ⋮⋮もうそれでいいから﹂
彼女は失礼します、と呟いてベッドに入る。
﹁じゃ、灯り消すぞ﹂
1243
﹁あ⋮⋮ちょっと待って﹂
灯りを消そうとするゼノスを止めるゲルマニア。
﹁今度はどうしたんだ?﹂
﹁いやその⋮⋮⋮⋮せっかくだし、ゼノスともう少し話したいなっ
て﹂
︱︱うおっ
気付けば、ゲルマニアは急接近していた。
先程の態度はどこへやら⋮⋮覚悟を決めたゲルマニアは、ゼノス
の目と鼻の先にまで近づき、寄り添う形となる。
長い髪を下ろした彼女に対して⋮⋮ゼノスは心臓の鼓動が早まっ
ていく。
﹁⋮⋮話っていっても、何の話だ﹂
1244
﹁︱︱今しか言えないと思う事。私がずっと思っている事でいい?﹂
心なしか、その言葉はとても真剣な様子だった。
彼女が思っている事、それもずっと?彼女は思いを引き摺らず、
もっと淡泊な性格かと思っていたが。
⋮⋮何だか知らないが、妙な空白が生まれる。
年頃の男女が同じベッドで寝ていて、更に見つめ合う。さしもの
ゼノスとて、心臓が昂ぶってしまう状況だ。
思わず視線を逸らそうとした⋮⋮その時だった。
﹁⋮⋮⋮⋮ゼノスは、私を信用しきれていないの?﹂
﹁⋮⋮え﹂
1245
それは不意打ちだった。
重苦しい一言が、ゼノスの心を締め付けてくる。
﹁⋮⋮貴方はいつも苦しそう。まるで自分の過去を悔やみ、嘆いて
いるようで⋮⋮それを一人で抱え込んでしまっている﹂
﹁お、おいゲルマニア⋮⋮何を言って﹂
﹁話して欲しい、貴方の全てを。︱︱私は、貴方と悲しみを共有し
合いたいから。この長い夜の中で、教えて欲しいの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
︱︱そうか。彼女は、ずっとそんな事を思っていたのか。
彼女は誰も気付かない所を突いてくる。ゲルマニアだけはゼノス
の真髄を見極め、的確に指摘してくる。
物憂げな態度、どこか陰のある反応。その挙動が彼女の心を傷付
1246
け、相棒として何も出来ていないと感じてしまったのだろう。
︱︱私だけは知りたい、貴方の全てを。
言葉に発せずとも、その瞳が物語っていたのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
誰も明かしたくない過去の惨劇。
あれは自分だけの記憶。例え懇願されても、例えその相手が主君
だったとしても⋮⋮今まで秘密にしてきた歴史。
︱︱でも、何故だろう。
ゲルマニアに言われると⋮⋮その信念が揺らいでしまう。
どこまでも親身になってくれる彼女。どこまでもゼノスを理解し、
ゼノスを労わってくれる優しき少女。
⋮⋮⋮⋮ゲルマニア、お前は変わった奴だ。
1247
﹁⋮⋮ん?﹂
ふと、視界が急に歪んで行く。
いや正確には、急激な睡魔が襲い掛かってくる。
﹁どうしたの、ゼノス⋮⋮⋮⋮って、あれ﹂
ゲルマニアも同様らしく、次第にうとうととし始める。
如何に疲れていたとはいえ、この突然な眠気は異常だった。まる
で誰かに眠らされているかの如く、抗う事も出来ない。
何かが変だ。︱︱これは。
﹁⋮⋮ゲル、マニア﹂
︱︱嗚呼、もう駄目だ。
1248
抵抗も空しく、二人は眠りに落ちて行く。
﹃では、眠りの世界で見せて貰うがいいわ。︱︱悪夢にうなされ、
ずっとね﹄
1249
皆が寝静まり、ヴァルディカ離宮は静寂に包まれる。
虫の鳴き声も聞こえず、ただ夜風が窓を叩く音だけが木霊する。
﹁⋮⋮首尾はどうかね。聞こえているのだろう?﹂
ヴァルディカ離宮の自室にて、ただ一人を除いて︱︱。
その声を発したのは、紛れも無いマーシェルである。不気味な部
屋にて灯りも付けず、月光に照らされながら赤ワインを嗜む。
彼は自分以外誰も居ないはずの自室で、誰かに向けて尋ねていた。
それは独り言?⋮⋮いや、どうやら違うようだ。
﹃︱︱ほぼ順調ですわ、私の愛しきマスター﹄
刹那、部屋全体が暗転する。
1250
また元の明るさに戻った時、マーシェルの目前に一人の女性が佇
んでいた。
肌は色白で、その色素は異常に薄い。だが病的な肌とは相反して、
紅色の唇が、漆黒のドレスが活動的な印象を与えてくる。
美しく整えられた容姿や金髪、且つ怪しげな雰囲気を纏うその女
性は、マーシェルに向かって頭を垂れる。
﹁アリーチェ姫以外の離宮にて眠る者は、今頃永遠に続くであろう
悪夢に晒されている事でしょう。⋮⋮うふふ、さっそく呻き声を上
げる者もいらっしゃいますわ﹂
その女性は、嫌味な笑みを浮かべて言う。
だがそれも一瞬の事、女性はふっと笑みを消す。
﹁ですが、そう事は上手く運ばないでしょう﹂
﹁⋮⋮例のシールカードと始祖か、エリーザ﹂
女性︱︱エリーザと呼ばれたその人は、黙って首肯する。
1251
﹁恐らくですが、彼女達自身は直に目覚めてしまう可能性が高いか
と。︱︱特にゲルマニアと名乗る騎士のシールカード、その圧倒的
な意志は伊達ではありません﹂
如何にエリーザが能力を駆使しても、彼女に精神的ダメージを与
える事は不可能だろう。
︱︱﹃亡霊のギャンブラー﹄、エリーザ・グランバート。
カードに宿された怨霊を従え、標的に恐怖と悪夢を見せつける能
力を持った、そんな特殊なシールカードを有している。
特殊︱︱そう、カードの中に封じられた者達は既に死んだ者達だ。
シールカードに物事の条理など通じない。その異質さ故に、封じ
られた者に制限など存在しない。
話は戻るが、エリーザの忠告に対してマーシェルは余裕の態度で
答える。
1252
﹁︱︱まあそれでもいい。相手がシールカードだろうと始祖だろう
と、所詮は主無き小娘と、何も仕掛けようとしない愚か者だ。エリ
ーザが魅せる死者の世界に飲まれ⋮⋮死ぬ運命であろうな﹂
マーシェルの目的は、ゲルマニアやアスフィの殺害では無い。
⋮⋮彼は大貴族の息子マーシェル。敬愛せし父より、彼は幾度と
無く自分の果たすべき使命を押し付けていた。
︱︱貴族社会の復活。凡俗たる騎士風情を社会的に、且つ存在を
も抹殺させる事が、マーシェルの望みであった。
本来のランドリオ帝国は、そう在るべきだった筈だ。貴族が最上
位の立場につき、貴族至上主義が築かれるべきだったのだ。
民は貴族の私腹を肥やす道具でしか無く、騎士達も戦争をする為
の駒でしかない。
⋮⋮何故だ。何故ランドリオ帝国は騎士を主軸とする?
1253
マーシェルの疑問は尽きない。騎士の在り方、皇帝陛下の在り方、
民への扱い、彼から見れば何もかもが理解不能であった。それは在
るべきランドリオでは無いと、貴様等の行うそれは⋮⋮何もかもが
間違っていると。
だからマーシェルは行動した。
たった一人で、誰の手も借りずに革命を起こさんと企み⋮⋮彼は
自分が皇帝陛下になろうと奮起した。大貴族という古き名誉を利用
して皇族に脅しをかけ、現皇帝陛下との婚約にまで結び付けた。
︱︱アリーチェとの結婚は通過点に過ぎない。愛など微塵も無け
れば、彼女を傍に置く気も更々ない。多少の素直さがあれば、少々
の寵愛を与えようとは考えていたが⋮⋮それも無理なようだ。
まあ要するに、マーシェルの目的は極めて単純だ。
自分が皇帝へと上り詰め、貴族を主軸とした国家作りをする事。
その後でじっくり騎士や要らない貴族の排除に取り掛かろうという
計画⋮⋮﹃だった﹄。
ある日突如現れた彼女、エリーザによって計画は変更された。
1254
︱︱これを期に、騎士の要たる六大将軍を殺してしまおう。騎士
に媚びへつらっていた貴族も殺してしまおう。
言い訳は幾らでも用意できる。このエリーザの力さえあれば、容
易にこなす事が出来るのだ。
出来過ぎた計画に、思わず歪な笑みが零れしまう。
それと同時に、マーシェルは一抹の不安も感じていた。
﹁⋮⋮しかし、解せぬ事もある﹂
﹁何か不満点がございますか、マスター﹂
淡々と述べる彼女に向かって、当然の疑問を口にする。
﹁︱︱根本的な疑問だよ。僕は衝動的に君を受け入れたが⋮⋮その
真意や意図がまるで掴めない。⋮⋮信用に足らないのが現実だね﹂
﹁ふふ、予想外の言葉が聞けましたわね。⋮⋮﹃僕は君達シールカ
1255
ードをも利用するよ﹄、というのは嘘だったのかしら?﹂
エリーザに微笑し、甲高いハイヒールの音を鳴らしながら歩み寄
る。
その眉目秀麗なマーシェルの顔に、自分の美麗な顔を間近まで近
づける。細長い人差し指を彼の頬に這わせ、優しく撫でる。
﹁︱︱信頼なんて、あって無いような産物。何の意味も成さない無
用の物⋮⋮そんな事は貴方が一番よく存じている筈ですわ。⋮⋮違
いまして?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ふ、まあそうだ。結局の所、僕と君の関係は﹃取引相手﹄
であるわけだ。僕とした事が、つい本音が出てしまったよ﹂
﹁あら、それってつまり⋮⋮私に惚れたという意味合いかしら?﹂
﹁⋮⋮どうだろうね﹂
互いは不敵に微笑み合う。
1256
至近距離にあった彼女の顔は、更に近づき︱︱
マーシェルとエリーザは、濃厚で狂おしい口づけを交わす。
彼の舌が彼女の舌を求め、それはエリーザ自身も同様であった。
互いが互いを求め合い、息もロクに出来ぬ一分間が続く。⋮⋮果た
してそれが愛からなのか、またはビジネスなのかは分からない。
唇を離したエリーザは、火照った顔のまま舌なめずりをする。
﹁⋮⋮いけない人ですわね。婚約者がいながら、他の女とこんな事
が出来るなんて﹂
﹁それが貴族の特権というものだ。⋮⋮それに、どうせあの小娘も
後に用無しとなる。︱︱騎士風情に惚れた女皇帝なぞ、僕はいらな
い﹂
﹁うふふ、あの娘が可哀想になってきますわ﹂
そんな事は全く思っていないだろうに、彼女はあっけからんと呟
1257
く。
マーシェルから身体を離したエリーザは、軽くウィンクする。
﹁ま、とにかく⋮⋮﹃私達﹄もそれなりの事情があって動いている
身。互いの利益が損なわれない以上⋮⋮機密ぐらいは許して欲しい
わ﹂
︱︱どうやら、彼女は頑なに話す気は無いそうだ。
だが確かに、両者の利益はしっかりと獲得できるし、マーシェル
とてそこに不満を感じる事は無い。
余計な問題にも関わりたくない以上⋮⋮ここは黙っておくのが正解
だろう。
⋮⋮さて、夜はまだ長い。
皆が﹃永遠の眠り﹄についている故に、今後の予定である舞踏会
やらは中止になる。早寝も惜しい所だ。
︱︱なので、マーシェルは目前に控えるエリーザに来るよう手振
1258
りする。
﹁⋮⋮さあエリーザ。悪夢に苛む愚者共の上で、僕達はこの夜を楽
しんでいよう﹂
﹁⋮⋮それが貴方の望みとあらば﹂
マーシェルは彼女の手を取り、ベッドへと向かう。
︱︱悪夢に苦しみ、発狂して死んで行くゼノス達を想像し、余韻
に浸りながら⋮⋮二人は嗤い合った。
1259
ep19 ︱︱ガイア・ディルガーナ︱︱
ゲルマニアは知らぬ場所で佇んでいた。
︱︱白い粉雪が降り落ち、素朴な石畳に雪化粧を施した小さな街。
曇天故に太陽の光も差し込まない街は、とても淀んでいて⋮⋮人々
もまた暗い印象を以て闊歩していた。
皆が一様に疲れ切っている様で、ただ前を見て歩く事しか出来な
い。
道端の何をも見ず⋮⋮そして、
﹁⋮⋮﹂
ゲルマニアの目前に座り込む、小さな少年をも見ずに⋮⋮。
1260
︱︱少年は大体六歳ぐらいだろうか。寒空の中、その身を震わせ
ながら、小さな街の小さな路地裏にいる。全身は薄汚れていて、薄
い麻布の服は灰色に染まっていた。
⋮⋮どう見ても、少年は死にかけていた。
全身は痩せこけていて、およそ三日以上は食事を摂っていないの
だろう。更にこんな服装で居れば⋮⋮間違いなく凍死してしまうか、
その前に餓死するかの二択だ。
ゲルマニアは急いで少年を保護しようと、手を伸ばす。︱︱だが、
﹃⋮⋮あ、あれ﹄
︱︱何故か、自分の手は少年を貫通してしまう。
気付けば自分の身体は半透明となっており、少年もゲルマニアの
1261
存在に気付いている様子では無かった。
⋮⋮変な感覚だ。
これは夢なのか?自分は確かに眠りに落ちた筈だが、ここまで明
確な夢が見られるものか。いやそもそも、こんな場面は体験した事
も無い。
︱︱これは、誰の夢?
ゲルマニアは気を取り直し、改めて少年を見下ろす。
嗚呼、もう少年の体力は限界だ。
このままでは死んでしまう。道行く人々にも声を掛けられず、誰
にも気付かれないまま息絶えてしまう。
誰か︱︱︱︱誰かッ。
1262
この子に救いの手を︱︱この可哀想な運命から。
﹁︱︱︱︱これは﹂
⋮⋮そのよく通った声音は、救済の兆しだろうか。
ゲルマニアの懇願と共に、まるで図ったかのように告げられる。
その声は道行く馬車の音よりも、ざわめく人々の雑音よりも明確に
聞こえてくる。
灰色の雲に覆われた陰気臭いこの街。石畳はとても冷たく、立ち
並ぶ建造物は明るみに欠け、暗い雰囲気を更に助長させているこの
世界。
そんな中で、声を掛けてきた老人だけは違った。
ゲルマニアが見る限り、その老人は既に齢六十を過ぎているのか
もしれない。白髪の長い髪、しわがれた声音に痩せ衰えた身体付き。
1263
︱︱だが老人は、その貧弱な外見を覆す覇気に満ちている。
少年を見下ろす眼は真っ直ぐで、全身から放たれるオーラはどん
な英傑よりも激しく、眩しささえ感じるそれだった。
⋮⋮生気に満ちた老人と、気力を失い欠けている少年。
この追憶は⋮⋮ゲルマニアに一体何を見せたいのだろうか。一体
誰の、そして何の為に︱︱。
ふと、老人はしゃがみ込む。
少年と同じ目線となり、皺のある顔を綻ばせる。
﹁大丈夫だよ。私は君にとっての死神でも無ければ、肉に飢えた野
犬でも無い。そんなに怖がる事はない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮おじいちゃんは⋮⋮誰⋮⋮なの?﹂
1264
少年は初めて、その枯れた声を響かせる。
疑心暗鬼に満ちた問いかけ。⋮⋮恐らくだが、老人の言う例え以
前の問題であるのだろう。少年にとって、目前の光景全てが畏怖の
対象なのだ。
﹁⋮⋮これはまた。この歳で、一体どれほどの体験をしたのだろう
か﹂
さしもの老人も、少年の反応に哀れみを覚えていた。
身体を小刻みに震わせ、紫色の唇を噛み締める小さき存在。心を
打たれたのは老人だけでなく、ゲルマニアも同様だ。
︱︱胸の底から湧き上がる不快感、だが老人はそれを押し殺し、
尚も笑顔を保ち続ける。
この運命から救う為に、老人は優しく答える。
1265
﹁︱︱私の名はガイア。この身は既に老い朽ちてしまったが⋮⋮志
すものは未だ果てておらず。故に、君に対して誓おう﹂
どこまでも明白で、衰えを知らない老人。
彼はその場にて片膝を付き、握りこぶしを胸に当てる。その姿勢
はゲルマニアの知る⋮⋮最も馴染み深いものだ。
﹁騎士道精神において、私は君を助けようと思う。悪は忌むべき存
在であり、私はそれを滅してきた。それに準じ⋮⋮⋮⋮元ではある
が、この騎士ガイア。君を救う光となりたい﹂
︱︱偽りの無い、正義感に満ち溢れたその生き様。
これが騎士の鑑といわずして、一体何を言うのだろうか。絵に描
いた様な誇らしい騎士の姿を、今この老人︱︱ガイアは示している。
⋮⋮少年は心打たれた。その正直な意志に、面喰っていた。
この子は何を経験したかは知らない。仮に知り得たとしても、ガ
1266
イアにはどうしようもない。
⋮⋮むしろ、ガイアはどうでも良かったのだ。
少年の過去や、少年に刻まれた複雑なる思いを気にするよりも⋮
⋮ガイア自身は彼をただ救いたかった。純粋に少年を路頭の冷床か
ら立ち上がらせ、一刻も早く暖かい茶と食事を摂らせたかった。
そんな思いを察知したからこそ、少年は驚き戸惑っていたのかも
しれない。
﹁ここは寒いし、何も無い所だ。⋮⋮だが強制はしない。君の行き
たい所に行くが良い﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
少年は無言だったが、その小さな手を伸ばしてくる。
何かを求める様に、純粋無垢の眼差しをガイアに向けたまま⋮⋮。
1267
﹁⋮⋮そうか。君は強いんだな﹂
そう言って、ガイアはニコリと微笑む。
︱︱今まで曇天が拡がっていた空の合間に、小さな光が差し込む。
光の行く先は、少年とガイアの元へ。まるで二人の出会いを祝福
するかの如く、天におわす神々が称え喜んだかの様に⋮⋮⋮⋮神々
しくも厳かな一面だ。
﹁立てるかな、少年⋮⋮っと。そういえば君の名前をまだ聞いてい
なかったな。言えるかな?﹂
名前︱︱少年の名前。
ゲルマニアは次の言葉で、全てをを察する。
何故こうも、この出会いが特別なのかを。⋮⋮何故この少年とガ
イアの出会いを、ゲルマニアに見せるのかを︱︱︱︱
1268
﹁⋮⋮⋮⋮僕の名前は⋮⋮ゼノス﹂
﹃⋮⋮⋮⋮ゼノ、ス?﹄
その名前を耳にした瞬間、戸惑いと同時に理解する。
ここが何処で、今自分がどのような立場にいるのかを把握した。
この体験の理屈や云々はともかく⋮⋮嗚呼そうか、そう言う事だっ
たのか。
﹁︱︱じゃあゼノス。共に行こうか﹂
ガイアは少年を立ち上がらせ、ボロ絹のマントを翻す。
正義の騎士はその場の陰気な空気を押し退け、威風堂々たる足取
りで少年の手を引く。
1269
﹁︱︱神よ、今は亡き主よ。老いたる白銀の聖騎士、ガイア・ディ
ルガーナにまた新たな使命を下さった事⋮⋮⋮⋮誠に感謝申し上げ
ます﹂
白銀の聖騎士︱︱ガイア・ディルガーナ。
ゲルマニアはこれから目にし、そして見届ける事となる。
︱︱ゼノスが白銀の聖騎士となる所以を。美しくも悲しき英雄の
半生を、不可思議な力によって映し出される⋮⋮彼の過去を。
︱︱︱︱ゼノス・ディルガーナの、悪夢を。
1270
1271
ep20 ︱︱騎士道精神との出会い︱︱
ゼノスは、ただ茫然とその光景を眺め続けていた。
軽快に素振りをこなし、汗水を垂らしながら剣の鍛練に勤しむ者
達を、興味津々と観察していた。
︱︱ガイアに拾われて、既に二週間が経過した今日この頃。
最初は栄養失調に陥った身体を養う為、自分がいた街から少々離
れた民家︱︱つまりガイアの家で看護される形となった。
ガイアは栄養のつく食事を与えてくれ、毎日たった一人でゼノス
を看護してくれた。そのおかげか、今では外出も出来るし、言葉も
発せられる程に回復していた。
⋮⋮だから、ゼノスは思いきってある願いをガイアに打ち明けた。
1272
それは毎日ガイアが三時間程出掛ける時間帯に、自分も連れて行
って欲しいという素朴なものだ。
﹁⋮⋮本当は連れて行きたくないが、無理な話だったか﹂
意外な事に、ガイアは珍しく難色を示していた。ゼノスの好奇心
に負け、渋々と許可した様に見て取れる。
︱︱こうして、ゼノスは興奮を抑えながらガイアと共に出掛けた。
家沿いの道を街とは反対方向に進み、広大な草原と大海原に挟ま
れた小道をひたすら歩いて行く。⋮⋮歩いてから一時間が経過した
けれど、ゼノスは遠足気分で楽しんでいた。
そして辿り着いたのが︱︱この岬に位置する鍛練場だ。
﹁⋮⋮﹂
ゼノスが興味津々に彼等を眺めていると同時に、素振りを続ける
彼等もゼノスの存在に疑問符を浮かべていた。
1273
﹁︱︱よし、素振りを終えよう﹂
だが疑問も束の間、ガイアの一言で我へと返る。
彼等︱︱否、ガイアに剣の稽古を付けて貰っている門下生達。そ
の中の一人が、息を切らせながら挙手をする。
﹁何だ、どうした?﹂
﹁あ、あの⋮⋮先程から気になっていたのですが⋮⋮この子は一体﹂
﹁⋮⋮⋮⋮いや、大した事は無いんだがな。これは⋮⋮その﹂
弟子の問いに痛い所を突かれ、少々口ごもるガイア。
この鍛練場で血生臭い戦闘は起きないが、やはりこの鍛練は人殺
しの為に行う行為だ。地方によって異なるが、ここに住まう者達は
子供に剣技を見せる事に躊躇を覚えているようである。
だからゼノスがいる時点で、門下生達は訓練に身が入らないのだ
ろう。ガイアもそれを危惧していたのだが⋮⋮案の定だった。
1274
さてどうしたものか。
正直に付いて来てしまったと言うべきか。しかしそれだと厳格な
印象が崩れる可能性が高いし、甘く見られてしまうかもしれない。
⋮⋮そう悩む事でも無いのに、生真面目なガイアは唸り声を上げ
る。
﹁︱︱︱︱全く、精神が弛んでるな。お前達は何の為に此処に居る
のだ!﹂
﹁︱︱ッ。は、はい!﹂
突如一喝された門下生達は慌てふためき、急いで指定の位置へと
戻る。
それが誤魔化しだったのか、はたまた本気で言ったのかはともか
く⋮⋮ガイアは深く溜息をつき、ゼノスを見やる。
1275
﹁⋮⋮家に帰る気はない、みたいだな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮うん。これ見てたい﹂
どうやら何を言っても、ゼノスは帰る気がない様子だ。
あれこれ説得しても意味が無いし、純粋無垢な子供の願望を妨げ
るわけにもいかない。仕方ないと思ったガイアはゼノスを抱き抱え、
近場に置いてあるタルの上に座らせる。
﹁ふう。いいかお前達、今は紛う事なき稽古中だ。目先の事に気を
使わず、その意思を全て集中に切り替えろ。︱︱この子は私が一時
的に預かっているゼノスだ、それだけ言えば文句はあるまい?﹂
﹁は、師匠!﹂
門下生達は一様に姿勢を正し、はっきりと返事する。
﹁⋮⋮分かればいい。だが、この雰囲気はどうもいかん﹂
ガイアは一区間置き、張り詰めた空気を作る。
1276
幼きゼノスにはまだ理解出来ない事だが、この稽古は単なる剣術
の訓練とは訳が違う。
︱︱この鍛練場の名称は、﹃グラナーデ騎士養成学校﹄。巷では
﹃岬にある稽古場﹄とだけ言われているが、実際は未来の騎士を育
てる場である。勿論の事正式に国が認定している養成場だ。
今ここに集う数十人もの門下生達は、このグラナーデ王国に将来
仕える為に励む者達ばかり。
⋮⋮だが、今この場に臨む若者たちは未熟だ。
この時間帯に集まる騎士候補生は、まだガイアの指南を数回も受
けていない。故に騎士としての基礎剣術は愚か、騎士道精神さえも
完全に理解出来ていない。
﹁そういえば、お前達に騎士道精神の何たるかを記した書物を渡し
たな⋮⋮⋮⋮丁度いい。また素振りをしながら、暗記したであろう
教訓を暗唱せよ﹂
厳格な体裁は崩さない。目前の門下生達に対して、一切の妥協や
1277
慈愛を許さない様子でいた。終わった筈の素振りを再度強要させる。
それは、単なる怒り?⋮⋮いや、違う。
﹁︱︱答えよ、未来の騎士達!我等が志すものは何だっ!?﹂
﹁類稀なる勇気!純粋たる誠実!穢れ無き寛大な心!貫き通せる信
念!我らが主を想う意思!それら無くして、騎士とは呼ばずッ!﹂
⋮⋮この気持ちは、何だろう?
ゼノスを昂ぶらせるのは、この暗唱なのか。まだ意味を分からな
い言葉が羅列しているのに⋮⋮何故心躍る?
﹁その通りだ︱︱なら更に問おう!我等は何を捨てればいい!?﹂
﹁余計な雑念です!邪念も然り、野心も然り!我等は純粋であれ、
1278
どこまでも純潔であれッ!﹂
︱︱騎士。
未だ不明な存在。⋮⋮されど、どこか惹かれる存在。
そこには悪意も無い。誰も嫌々やらされておらず、むしろ清々し
い思いのまま騎士道精神とやらを暗唱していく。
﹁︱︱そうだ、我等の在るべき姿は正しくそれだ﹂
ガイアは手に持つ粗末な剣を掲げ、断言する。さも敵国に挑む英
雄たる佇まいで、貫禄ある圧力を容赦なく門下生達に突き付ける。
誰もが素振りをしながら思う。
⋮⋮嗚呼、これこそが我等が師。
︱︱最強たる騎士、﹃白銀の聖騎士﹄なのだと。
1279
門下生達は揃って気持ちを引き締め、相対するガイアだけを見据
える。既に部外者であるゼノスを意識していないようだ。
﹁励め、そして目指すんだ!恒久たる平和を⋮⋮その手で掴む為に
ッ。﹂
ガイアは彼等を鼓舞する。程よい叱咤と共に、騎士道の何たるか
を教え込む。
全ては若き者達を鍛え上げる為に、彼と門下生達は日が沈むその
時まで特訓に勤しむ。
⋮⋮ゼノスは、興味津々に鍛練を見続けていた。
1280
ゲルマニアは新たな夢の軌跡を辿り、そして様々な事実を知って
いく。
屈強な老人・ガイアは白銀の聖騎士。そしてその傍に居る少年は
⋮⋮ゲルマニアの知るゼノスである。
白銀の聖騎士︱︱その称号は継承されていくのか。
この頃のゼノスは、間違いなく普通の少年。彼が聖騎士の名を冠
する事になるのは数年後⋮⋮ガイアと名乗る者から受け継がれるの
だと思う。それは確信に近い推測だ。
︱︱ガイアは、限りなくゼノスと似ている。
1281
きっとこの後にゼノスが弟子となり、立派な聖騎士へと成長して
いくのだろう⋮⋮⋮⋮何の迷いも無く、栄光の架け橋を渡って行く
のだろう。
1282
ep21 ︱︱聖騎士の使命︱︱
夜の帳が下り、闇夜が蔓延る時刻となった。
鍛練場を夕方にて立ち去ったガイアとゼノスは、夕食の食材を町
で購入し、今は家でガイアが料理を作っている。
今日の夕食は、どうやらビーフシチューにポテトサラダのようだ。
食欲をそそる上に、外では雪が深々と降っている。寒い中で食べる
ビーフシチューは⋮⋮さぞ美味しいだろう。
まだかまだかと待ち焦がれて約数分、ついにガイアが声を掛けて
きた。
﹁これでよし、と。︱︱ゼノス、夕食にしようか﹂
﹁うんっ!﹂
満面の笑みを浮かべ、読んでいた絵本を置いて食卓へと向かう。
1283
﹁⋮⋮うわあ﹂
﹁ふむ、今日は上手く出来た方だな。ただ少々まろやかさが足りな
いかもしれないが⋮⋮まあいい、冷めない内に頂こうか﹂
ガイアは味の方を気にしていたが、ゼノスにとってはどうでも良
い事だった。
食事前の祈りを捧げた後、ゼノスは無我夢中に食べ始める。
﹁⋮⋮﹂
その様子を見て、ガイアはどこか穏やかな気持ちになる。
︱︱騎士として生きて来たガイアは、子どころか妻すら存在しな
い。
結婚する機会は沢山あった。英雄として世間を賑わせていた彼の
周りはいつも女性で溢れ、幾数回も求婚されてきた。⋮⋮貴族の娘、
戦場を共に駆けた戦友、仕えていた主など⋮⋮様々な女性にだ。
1284
しかしガイアは、彼女達の誰とも契りを結ぶ事は無かった。
︱︱その結果として、今は独り身だ。慣れ親しんだ祖国を離れ、
親友と呼べる者が一人もいないこの国で、寂しく過ごしてきた。
⋮⋮だからだろう。ゼノスという少年と居ると、まるで孫と共に
過ごしている様で、今までの孤独感も晴れて行く。
やがて食事を終えた二人は、暖炉の前で食後休憩を取る。
これでゼノスも大人しくなるだろうと思いきや、食事の次は質問
攻めにあったのだった。
その内容は︱︱騎士についてだ。
騎士とは何か?それは何の為に戦う者達なのか?そして、誰の為
に剣を振るうのか?幼い子供の興味心によって、容赦ない難しい質
問が投げかけられる。
多分だが、上手い答えは出来なかったと思う。
1285
ガイアが噛み砕いて説明したそれを聞くゼノスは、時々首を傾げ
ながら、唸りながら清聴していたのだ。
⋮⋮だが、それでいいのかもしれない。
騎士の人生はとても苦しく、責任と罪悪感に苛まれる職業だ。そ
れを自分が一番良く知っているから、分からない方が幸せかもしれ
ない。
内心ホッとしつつ、ガイアは次の質問に身構える。
﹁︱︱じゃあ、次は白銀の聖騎士について教えてよ!﹂
⋮⋮それは不意打ちだった。
ある程度覚悟していたが、まさかゼノスが聖騎士について聞いて
くるとは、夢にも思わなかった。
1286
流石のガイアも、どう答えればいいか悩んでいた。
︱︱白銀の聖騎士。その詳細については、先代からの教えによっ
て固く禁じられている。その歴史を、存在理由を⋮⋮聖騎士自らが
素質ありと認める者以外には、容易に教える事が出来ないのだ。
ましてやこんな幼い子供に⋮⋮聖騎士の宿命を語るなど⋮⋮
﹁⋮⋮﹂
いや、待て。
この感覚は何なのだろうか。
あの日ゼノスを拾った時と似た様な感じだ。これが運命なのだと、
避けられない宿命なのだと、自分の奥底からそんな声が反芻してく
る。
今までどんな人に問われても、決して話す事は無かった。親しい
戦友にも、愛し愛された人にも⋮⋮なのに。
1287
︱︱今自分は、聖騎士について話したいと思っている。
よりにもよって、戦無き世界に生きさせようとしたこの少年にだ。
自分はこの純粋無垢な笑顔を、苦痛と絶望の表情に塗り替えようと
している。
⋮⋮⋮⋮これを、先代達は続けてきたというのか。
ガイアは揺り椅子に深く座り直し、表情を一気に強張らせる。
﹁⋮⋮聖騎士とは、世間一般の騎士と違って、主から賜る地位とは
大きく異なる。⋮⋮叙任式等では手に入らぬ、とても歪な称号だよ﹂
﹁いびつ?﹂
ゼノスはまたもや首を傾げる。分からない言葉だったのだろう。
1288
﹁ああ、つまりは変わった存在だという事だ。︱︱聖騎士の全ては
先代から引き継がれ、どこかの国で最強の騎士として崇められるべ
き者。⋮⋮軽い気持ちでは務まらないんだ﹂
現聖騎士は候補となる者を厳選し、その者がいずれ最強となり、
仕える国で英雄として君臨する素質があるかどうかを見極めなけれ
ばならない。︱︱未だ見ぬ将来は、絶対そうでなければならない。
更にその過程は険し過ぎる。ガイアの場合は、先代が死ぬ直前に
聖騎士流剣術の秘伝書を授かり、後は幾多もの戦場を渡り歩き、そ
の技術を徹底的に磨いてきたものだ。
︱︱そして、自力で聖騎士たる証である白銀の鎧を見つける。先
代が自分の試練の為に、わざわざ飛竜が巣食う火山の頂上に置いて
あった事は、今でも記憶に残っている。
以上の経緯を分かりやすく説明すると、ゼノスもまた真剣な面持
ちで耳を傾けていた。
恐怖とは違う︱︱使命感に燃えた瞳だった。
1289
﹁⋮⋮怖くないのか、ゼノス。今の話は、お前が想像する騎士とは
大きくかけ離れている筈だ﹂
聖騎士は全てを救わなければならない。王や領主から騎士階級を
賜った者とは違い、華やかで抒情的な騎士人生を送れるわけが無い。
︱︱しかし、それでもゼノスは引かなかった。
まだ詳しい事は分からないだろうに、まるで全てを受け入れるか
の如く、強い意思を示していた。
その心意気は素晴らしい事だ。
この聖騎士の﹃表上の存在理由﹄を聞いただけでも、大人でさえ
怖気づく程のものだから。
﹁⋮⋮でもな、聖騎士の宿命はそれだけでは無いのだよ﹂
1290
ガイアは椅子から立ち上がり、ゼノスの元へと歩み寄る。
片膝を付き、床に座り込むゼノスの頭に手を置く。
﹁︱︱白銀の聖騎士が、なぜ最強で無ければならないか分かるか?﹂
﹁⋮⋮﹂
ゼノスは首を横に振る。
今のゼノスにとって理解出来ない話でも、ガイアは話を続けた。
﹁⋮⋮聖騎士は、遥か古から存在する。まだ善と悪が区別されてい
ない時代から⋮⋮⋮⋮約一万年前の﹃創世記﹄からだ﹂
まだ神々が地上に住んでいて、人間達に文明の英知を教え伝えて
いた時代。
人は闇を知らず、悪意という存在さえ無かった。ただ神々に従っ
1291
ていれば、自分達は救われるし、平和に過ごせる。そう信じ続けて
きた。
︱︱しかし、その考えが脆くも崩れ去る日が来た。
ここからは口伝での言い伝えであるが、ガイアは更に続ける。
当時の聖騎士⋮⋮つまり初代聖騎士はある日、神々の成す行いに
疑問を抱き始めたのだ。
︱︱自分達は、神々に踊らされているのでは無いか?と。
どうしてそう思い始めたのかは、口伝では伝えられてはいない。
だがそう思った聖騎士に、ある感情が芽生えたという。
⋮⋮⋮⋮悪意だ。
神々の使徒という名目の奴隷、天罰という名の都合良き独裁⋮⋮
1292
そして初代聖騎士は、愛していた少女を神に奪われた。
初代聖騎士は神々との戦争を仕掛けた。その戦いは壮絶なものだ
ったそうで、神の斬撃は大地を半壊させ、明ける事の無い夜が到来
した。
︱︱だが、それでも聖騎士は戦い続けた。
人々を救う為に⋮⋮ずっと、その身が朽ち果てるまで。
戦いの結末を知る者は、誰一人として今は存在しない。このガイ
アでさえも、先代から何も聞かされていない。いやそもそも、先代
もそのまた先代も教えられていない様だ。
⋮⋮⋮⋮けれども、口伝の最後はこうだった。
﹃聖騎士は人々を救い︱︱︱︱重大な過ちを犯した﹄
1293
それが何を意味するかは、ガイアも全く分からない。
分からないが⋮⋮代々の聖騎士はこの言葉を深く噛み締め、初代
の罪を償う日が来るだろうと確信していた。
どういう形でその日が来るかは、知る由も無い。
ただ最強を手にし、罪を清算する為に待ち続ける。そんな聖騎士
の宿命が、今でも引き継がれている。
︱︱あまりにも、未知で過酷なる世界だ。
﹁⋮⋮⋮⋮いやすまない、私も焼きが回ったようだな﹂
ガイアはハッとし、自分の言った言葉を後悔する。
1294
時間は既に十時を過ぎ、そろそろゼノスが眠る時間帯である。
﹁もう夜も遅い。今日の話はこれでやめよう﹂
眠気眼のゼノスを立ち上がらせ、二階の寝床へと連れて行こうと
する。しかしゼノスは、不満げな様子でガイアに振り向く。
﹁僕まだ眠くないよ。もっと話が聞きたい﹂
﹁はは、中々強情だな。⋮⋮でもこのまま遅くなると、健康にも良
くない。将来騎士になりたいんだったら、早寝は基本だぞ?﹂
﹁⋮⋮分かった﹂
ゼノスは渋々と頷く。
1295
⋮⋮今日話した事を、出来れば思い出して欲しくない。そう願う
ガイアは、胸中で二度とこの話をしないと誓った。
1296
ep21 ︱︱聖騎士の使命︱︱︵後書き︶
4月28日追記;画像掲載サイト﹁みてみん﹂にて、皇女アリーチ
ェ︵ウェイトレスVer︶のイラストを掲載しました。http:
//6886.mitemin.net/i73683/
1297
ep22 ︱︱愛しきガイアの弟子達︱︱
ガイアはグラナーデ王国騎士教育指揮官にのみ支給される正装を
着こみ、城へと入城する事となった。
今日は年の初め、元日である。
ここグラナーデ王国は毎年、国を挙げての元日祭を催している。
今年一年の豊穣を願って、人々は酒を酌み交わし、朝から深夜まで
踊り歌う。そうする事で豊穣神の機嫌を取り、喜ばせる意味がある
らしい。
⋮⋮だが、ガイアは酒を飲みに王城へと来たわけでは無い。
それは市民の話であって、王家や王家に関係する者達は城へと集
まり、国王から激励の言葉を賜る日である。昨年の功績を称えられ、
今年一年も精進せよ⋮⋮そんな至上の褒美を貰いに行くのだ。
︱︱ふと、ガイアは隣にいるゼノスを見やる。
1298
﹁いいか、ゼノス。くれぐれも粗相の無いように⋮⋮いや、大人し
くしてるんだぞ﹂
﹁うん、分かった﹂
そう言って、ゼノスは素直に頷く。
ゼノスを連れて来た理由は一つだけだ。今日は国王陛下への謁見、
その後には大々的な舞踏会も開かれ、恐らく夜通し付き合う羽目に
なるだろう。まだ六歳程度の子供に対し、深夜まで留守番を任せる
事は出来ない。
⋮⋮かと言って、ゼノスを行事に付き合わせるのも酷だ。
勿論、ガイアはちゃんと考えてある。
ゼノスを退屈にさせず、安心して任せられる場所。ガイアは入城
した後、ゼノスの手を引いてその場所へと連れて行く。
今の時刻は午後四時を過ぎた所、城下町は大いに賑わっているに
1299
も関わらず、城内は依然として厳格な雰囲気が漂っている。通り過
ぎるメイドや騎士達も普段通り働いており、とても元日祭の日とは
思えない。
まあとにかく、ガイア達は城内を抜け、本城の裏手に佇む騎士団
詰所へと赴く。詰所は本城とは違って質素な造りであり、王国騎士
団の宿舎が備えられ、更に訓練施設も充実している。
︱︱ガイアは迷う事無く、詰所へと足を運ぶ。
すると詰所入口には、一人の騎士が佇んでいた。恐らく警備兵の
者だろう。
﹁待て、そこの者。今は騎士団の総合訓練の最中だ。また後で⋮⋮
⋮⋮ッ!?﹂
途端、騎士は驚愕の色を示す。
﹁仕事熱心なのは良い心掛けだが⋮⋮まずは訪れる者を認識してか
ら言う事だな﹂
1300
ガイアはニヤリと笑み、恐縮する騎士に言い放つ。
﹁こ、これはガイア殿。失礼しました﹂
慌てて頭を下げる騎士。⋮⋮ちなみに、この騎士は昨年に養成学
校を卒業した新米騎士である。未だガイアには頭が上がらないらし
く、先程とは打って変わって低い姿勢だった。
﹁⋮⋮私はこの場所に用があって来たんだが、話は聞いているか?﹂
﹁はッ!確かに聞き及んでおります。⋮⋮ですが先も仰った通り、
今は総合訓練を執り行っています。ガイア殿と面会の約束をしてい
る騎士団長と副団長は、恐らく模擬試合を繰り広げているかと﹂
その言葉に、ガイアは興味を駆り立てられる。
﹁ほう、模擬試合か。では久々に、グラナーデ騎士団の稽古を拝見
するとしようか。︱︱教育指揮官が訓練を見守る事に関しては、何
も問題はないだろ?﹂
﹁はは⋮⋮ですな。ならばご案内しましょう、こちらです﹂
1301
ガイア達は騎士の後を付いて行く。
詰所内へと入り、エントランスホールを抜けて細長い廊下を突き
進む。
⋮⋮すると、廊下の先から剣戟の響きが聞こえてくる。
ゼノスは一瞬身体を硬直させ、繋いでいた手に力がこもる。初め
て聞く鉄剣の音色に恐怖を示しているようだが⋮⋮それは致し方な
い。ガイアはゼノスの頭を撫でてやり、大丈夫だと呟く。
さて、ガイア達は王国専用の室内鍛練場前へと辿り着く。
騎士が躊躇なく扉を開けると︱︱︱︱
﹁︱︱はあッ!﹂
﹁でやあっ、おらぁ!﹂
1302
二人の騎士が、激しい攻防を繰り広げていた。
漆黒のジャケットとスカートを身に纏い、洗練された動きで相手
を翻弄していく銀髪の女性。
対する大男は、自らの身長よりも巨大な大剣で彼女の攻撃をいな
し、隙を見ては大振りで攻撃を仕掛けている。
どちらも一進一退の戦闘をしているが、一歩狂えばどちらかの命
が瞬時に奪われるだろう。怒涛の勢いは周囲の騎士達をも圧倒し、
戦いという名の舞踏を垣間見、見惚れている。
両者はほぼ互角の力量を持ち合わせ、その実力はグラナーデ王国
屈指の騎士達とも称されている。
﹁⋮⋮相変わらず凄いですね、ドルガ団長とコレット副団長﹂
ガイア達を案内してきた騎士は、戦いを傍観しながら言ってくる。
コレットとは銀髪の女性であり、ドルガとは大男の事である。
1303
﹁確かにな。以前と比べてコレットの瞬発力も増し、ドルガも冷静
に対処できている。⋮⋮⋮⋮成長したな﹂
ガイアは誇らしげに両者を見つめ、静かに微笑む。
︱︱と、ここで勝負がついたようだ。
甲高い鉄音と共に、両者は動きを止める。
⋮⋮結果は引き分けだった。
ドルガ、コレットの手には剣が握られていなかった。その剣はと
いうと、両方とも鍛練場の隅の方に飛ばされていた。
﹁⋮⋮やるじゃない、ドルガ。また腕を上げたのかしら?﹂
﹁へっ、お前もなコレット。伊達に副団長を務めてはいないぜ﹂
模擬試合を終えた両者は握手を交わし、ドルガが騎士達へと振り
向く。
1304
﹁おーし、今日の訓練はここまでだ。この後は何も予定は無いし、
各自元日祭を酒飲みで楽しむなり、てめえの女連れて楽しむなり好
きにしな!﹂
﹁はっ!有難うございました!﹂
ドルガは豪快な口調で騎士達に終わりを告げる。
騎士達は揃って呼応し、速やかに訓練場を後にしていく。
︱︱ドルガとコレットが彼等を見送っていると、ようやくガイア
達に気付いたらしい。
﹁︱︱ッ。師匠!﹂
﹁おお、ガイアの爺じゃねえか!何だよ、来てたならすぐ声かけて
くれよ﹂
二人は満面の笑みでガイアを呼んでくる。
1305
﹁はは、訓練の邪魔をしたくなくてな﹂
ガイアは訓練中の騎士達に声を掛ける程、無粋では無い。まして
やあれほどの気迫を見せられては尚更だ。
ドルガとコレットがガイア達の傍に近付いて行くと、二人の目線
はゼノスへと向けられる。
﹁⋮⋮こちらが預かって欲しいという、ゼノス君ですか?﹂
﹁ああ、急な頼みですまない。こんな事を頼めるのは君達ぐらいだ
し、聞いた所によると、元日祭に参加しないのだろ?﹂
﹁はい。部下達はともかく、私達はまだ書類作業がありますから⋮
⋮そうよね、ドルガ?﹂
﹁う⋮⋮まあそうだけど。⋮⋮それ、今日やらなきゃならねえのか
?﹂
あまり気乗りしない様子のドルガに、コレットは腰に手を当てて
答える。
1306
﹁当たり前でしょ。⋮⋮それとも何、気に入った女の子と一緒に祭
りを楽しみたかったのかしら?﹂
コレットは意味深な笑みを浮かべ、ドルガに詰め寄る。
対するドルガは顔を真っ赤に染めて、コレットから一歩退く。
﹁⋮⋮何だよ、人の気も知らねえで﹂
﹁何か言った?﹂
﹁∼∼∼ッ。い、いや⋮⋮別に﹂
ドルガは苦い表情で、その性格に相応しくない態度で押し黙る。
彼がどうしてそうなのかは、ガイアは昔から知り得ている。
︱︱コレットとドルガ。この二人もまたガイアの養成学校を卒業
している。それもコレットは十六歳、ドルガは十七歳という若さで
だ。
1307
実力や精神面に関しては問題無いのだが、この二人、特にコレッ
トは﹃恋愛﹄というものに凄く鈍感だ。
なのでこうしてドルガの片思いが続き、コレットはそれを知らず
過ごしているわけだが⋮⋮まだ続いているようだ。
ガイアとしては、今年二十になるコレットが早く良い相手を見つ
けてくれれば嬉しいのだが。
﹁︱︱とにかく私が戻ってくる間までいい。ゼノスを宜しく頼むぞ﹂
ガイアは話を切り替える。残念な事に、色恋沙汰の面に関しては
何も言う事が出来ない。むしろ居心地が悪くなりそうなので、用件
だけを済ませようと思う。
﹁はい、分かりました。ゼノス君は私達が責任を持って預からせて
頂きます。⋮⋮ドルガ、貴方もいいわね?﹂
﹁勿論構わねえよ。俺はよくゼノスぐらいの弟達と遊んであげてい
るし、子供の付き合いには手馴れてる﹂
﹁そうか、それなら大助かりだ﹂
1308
ガイアは一安心し、二人に対して軽く会釈する。幸いな事に、ゼ
ノスは信頼出来る相手ならば怖がる事もせず、初対面の相手とも上
手く付き合える。
二人はその信頼足り得る存在らしく、既にゼノスはコレットのス
カートに掴まり、ジッとこちらを見つめている。
ゼノスの目前でしゃがみ込み、ガイアはその頭を撫でてやる。
﹁⋮⋮しかし師匠。預かる条件とまではいきませんが、私達からも
お願いがあります﹂
突如、コレットが神妙な面持ちで切り出してくる。
それを聞いたガイアは笑顔を引き攣らせ、真剣な顔へと変化する。
﹁⋮⋮内容は大体想像出来る﹂
﹁そうか、なら話は早え。︱︱ゼノスを引き取る際に、そろそろ白
黒つけようぜ、爺﹂
1309
﹁⋮⋮⋮⋮一端な事を言う﹂
ガイアの返答は肯定とも取れず、否定とも取れない。
︱︱それ以前に、ガイアは何故急に﹃例の頼み﹄を打ち出して来
たのか、それについて疑問を抱いていた。
何か急ぐべき事があるのか⋮⋮意図が全く掴めないガイアであっ
た。
1310
ep22 ︱︱愛しきガイアの弟子達︱︱︵後書き︶
5月4日追記;画像掲載サイト﹁みてみん﹂にて、﹁ゼノスの休日﹂
のイラストを投稿致しました。興味がありましたらどうぞご覧にな
って下さい。リンク↓http://6886.mitemin.
net/i74056/
1311
ep23 ︱︱聖騎士を望む者達︱︱
グラナーデ元日祭における最高最大の催し、それが国王謁見式と
言っても過言では無いだろう。
グラナーデ王家は義を重んじ、礼を尽くす。建国者である騎士王
トリノレは実力至上主義の元に家臣を登用し、多大なる功績を遂げ
た者には最上の褒美をとらせていた。
その慣習の名残なのか、実力主義的な面は国王謁見式という行事
として残り続けている。戦争、文化、宗教、学問、様々な分野にて
活躍する者達が集まり、国王から称賛を浴びる︱︱それが国王謁見
式の主たる内容だ。
実はガイアは、毎年この謁見式に招待されている。
功績は戦争面︱︱グラナーデ騎士団の教育に尽力し、毎年数多く
の騎士を育て上げているという事で、現国王から大変感謝されてい
るのだ。
1312
︱︱余生を過ごす場所として、このグラナーデ王国以上に最適な
国は存在しないと思う。
﹁⋮⋮さて、皆集まったかね﹂
と、今まで玉座に鎮座していた国王が立ち上がり、玉座の間に彼
の声が響き渡る。
現国王レオン四世は前へと出て、目前に佇む家臣達を見やる。
﹁︱︱今年も名誉ある者達が多く揃った事、大変嬉しく思う。全国
民、グラナーデ王家を代表して、個人ごとに礼を述べたい﹂
国王は厳格な表情から一変、皺ある顔を綻ばせる。﹃慈愛の老王﹄
と言われるだけあって、一挙一動に嫌味が全く存在しない。
⋮⋮こうして、国王に呼ばれた者は前へと出る。
多くの民を守って来た騎士には栄誉ある赤いマントを授けられ、
知力に富んだ物理学者には、可能な限りの研究資金を提供すると約
1313
束する。
そんな皆が歓喜し、国王に絶大なる感謝を送り続ける中︱︱よう
やくガイアの出番が来た。
名前を呼ばれたガイアもまた前へと赴き、皆と同じように片膝を
つく。
﹁ガイア殿、去年はよく我が国に優秀な騎士達を送ってくれた。こ
の恩は、感謝してもしきれぬ。⋮⋮だが貴殿は、今年も我が褒美を
受け取ってはくれぬのだろう?﹂
﹁はっ、左様でございます。国王陛下のお気持ちを無下にするのは
心痛みますが⋮⋮その褒美、どうか貧しい者達に贈る援助金として
役立たせて下さい﹂
﹁ふふ、相変わらずで何よりだ﹂
国王はガイアがこの国に来てからの知り合いであり、彼の性格は
熟知しているつもりだ。これは形式的に言っただけで、褒美を受け
1314
取らない事は分かりきっていた。
その騎士の鑑とも言える行為に、同じ騎士たる者達は一様に賛美
する。
﹁︱︱時にガイア殿。我如きが言うのも何だが⋮⋮聖騎士候補はも
う決まったのかね?﹂
﹁⋮⋮いえ、今は決めかねている最中です﹂
ガイアは驚きを表情に出さず、正直に答える。
﹁そうか。失礼を承知で言わせて貰うが、老いたる次に待ち受ける
死は、唐突にして予知できぬ。その類稀なる技術と地位を、目の黒
い内に継承した方良いぞ﹂
﹁は、承知しました。ですが、一つ申し上げても宜しいでしょうか
?﹂
﹁何かね?﹂
1315
﹁⋮⋮私は俗世間を離れた身。なので政情や外交問題について把握
出来ておりません。しかし、何となく思うのですが⋮⋮⋮⋮この国
に、何か不穏な出来事が起ころうとしているのでしょうか?﹂
その言葉に、国王の顔が真っ青となる。
どうやら図星のようだ。
﹁⋮⋮少し近寄るがいい﹂
国王は手招きをしてくる。この場では言い難いのか、小声でその
事実を教えてくれるらしい。
ガイアは更に近づき、国王と同じ目線に立つ。
﹁︱︱これは口外してはならぬ、王家と騎士団内での最重要機密な
のだが⋮⋮ガイア殿も決して関係の無い話ではない。詳細を省いて
言おう﹂
突如襲い掛かる、重苦しい雰囲気。
1316
周囲の者達は耳を傾けようとするが、両者の声が彼等に届く事は
有り得なかった。だが聞こえない程度で話す会話に対して、いささ
か疑問と不安を抱き始めていた。
︱︱話を聞き終えたガイアは、瞠目する。
﹁⋮⋮⋮⋮なる、ほど。そういう⋮⋮事でしたか﹂
事実を伝えられ、ようやく合点がいった。
何故国王が次の聖騎士の選定を急がせるのか、そしてコレット達
どうして突然﹃例の頼み﹄をお願いしてきたのかを。
﹁もう一度言うが、これは他言無用に願う。民を混乱と絶望の渦に
晒したく無い﹂
﹁⋮⋮騎士団だけで解決なさるおつもりですか﹂
1317
ガイアの問いに、国王はただ頷くだけだった。
それ以降、国王が詳細について説明する事は無かった。最後に去
年の苦労を労い、ガイアを後ろに下がらせた。
その後に華やかな舞踏会が開かれ、人々は元日祭を心ゆくまで楽
しむ。
︱︱︱︱ガイアと王家、グラナーデ騎士団を除いては。
1318
舞踏会を終え、ガイアは騎士団詰所へと向かう。
まだグラナーデ国民は歌い踊り、夜が明けるその時まで就寝する
事は無いだろう。しかし城内の者達は既に寝静まり、騎士達は普段
通り城内の警備を行っている。
︱︱そんな中、ガイアはコレット達がいる場所へと辿り着く。
先と変わらぬ騎士団専用の室内訓練場。今は訓練も行っておらず、
ただ灯りが灯されているだけだった。
部屋の中央に⋮⋮コレットとドルガが佇んでいた。
﹁⋮⋮もう来ていたのか。ゼノスはどこに?﹂
﹁今は遊び疲れて、私の自室で寝かせています。⋮⋮ふふ、ドルガ
1319
と城内で鬼ごっこを始めてしまって苦労しましたよ﹂
﹁おいおい、あれを提案したのはコレットじゃねえか。⋮⋮にして
もゼノスの体力は凄かったなあ。ありゃいつか大物になるぜ、爺﹂
﹁⋮⋮﹂
二人の気楽な言葉に対し、ガイアが返す事は無かった。
その雰囲気を感じ取ったのか、二人は表情を一気に引き締める。
﹁⋮⋮話は聞かせて貰った。この国の現状を、そして何故お前達が
突然﹃例の頼み﹄を打ち出して来たのか⋮⋮⋮⋮ようやく納得出来
たよ﹂
ガイアは国王から聞いた事実を、脳内で思い出す。
︱︱グラナーデ王国は、今未曾有の危機に晒されている。
1320
かの有名な﹃始原旅団﹄が、グラナーデ王国に対し宣戦布告して
きたのだ。
始原旅団と言えば、その名を知らぬ者はいない筈だ。ガイアも若
き頃、始原旅団の首長・アルバート・ヴィッテルシュタインと何度
も一騎打ちを果たし、その仲間とも刃を交えた。
奴等は化け物だ。一体ガイアは何度死にかけ、何千人もの仲間を
奪って行ったか⋮⋮。
現在の首長はアルバートでは無いが、それでも始原旅団の脅威は
凄まじい。︱︱北の草原大陸を支配する彼等に、グラナーデ王国騎
士団が立ち向かえるとは到底思えない。
⋮⋮しかも、始原旅団は半年後に攻めて来ると宣言したらしい。
たかが小国に奇襲をする気も起きない、そう思っているのだろう
か?いや、多分そう思っているのだろう。
ガイアの自慢の弟子であるドルガとコレットとて、始原旅団相手
にどこまで保つか⋮⋮一週間?もしかしたら⋮⋮半日でグラナーデ
王国は滅ぶかもしれない。
1321
︱︱ある一つの可能性を除いては。
﹁︱︱国の為に、白銀の聖騎士になるつもりだな?﹂
ガイアは辿り着いた結論を、簡潔に述べる。
始原旅団に対抗する為、ドルガとコレットはどちらかが聖騎士に
なる事を望んでいる。この際白銀の聖騎士という地位と鎧はいらな
い、聖騎士流剣術だけ教えて貰うだけでもいい⋮⋮そう思っていた。
⋮⋮だが、ガイアの答えは辛辣なものだった。
﹁私は何度も言ったつもりだ。︱︱残念だが、お前達には聖騎士流
1322
剣術を扱う事が出来ないだろうと﹂
﹁︱︱ッ。だから、やってみねえと分からねえだろうが!﹂
突如、ドルガが感情を剥き出しにする。
﹁あんたはいつもそうだ!そうやって言葉一つで終わらせて、何も
教えちゃくれなかった!⋮⋮でもな、今は祖国の危機だ。あんたが
どう言おうと、今回は無理やりにでも聖騎士流剣術を教えて貰うぞ
ッ!﹂
﹁⋮⋮コレット、お前も同意見なのか?﹂
ガイアの問いに、コレットもまた頷く。
﹁はい。このグラナーデ王国を守る為に、今は聖騎士流剣術が必要
なのです。⋮⋮お願いします、師匠。どうか私達に、その神技を﹂
二人は懇願する。
1323
思えばドルガとコレットは、聖騎士たるガイアに憧れて騎士にな
ろうとしていた。毎日の様にその技術を教えて欲しいと言われ、ガ
イアは毎回断ってきたのものだ。
︱︱それは、今回も例外では無い。
﹁⋮⋮⋮⋮ならん﹂
﹁⋮⋮どうして。どうしてだよ、爺ッッ!?﹂
遂に、ドルガがガイアの胸倉を掴んでくる。そして同時に、コレ
ットも涙を零しながらガイアへと近付いてくる。
﹁私の⋮⋮私達の何がいけないんですか?技量ですか、意思ですか
?私達の⋮⋮何がいけないんですかッ!?﹂
二人は激昂し、ショックを隠し切れない。
自分達はガイアに認められていない。今まで頑張って来たのに、
ガイアの様な立派な聖騎士になろうと、血の滲む鍛練を行ってきた。
1324
︱︱それでも、認めてくれない。
何故、どうして、何がいけなかったの?
ドルガとコレットはそう訴えかけていた。ガイアは勿論その訴え
を承知した上で、剣術を教える気は無かった。
﹁私達は師匠が大好きだった!だから師匠の望む聖騎士後継者にな
ろうと、今まで頑張って来ましたッ!⋮⋮⋮でも師匠は、私達が嫌
いだから⋮⋮聖騎士にしようとしなかったのですかッ!?﹂
その理由は、単に彼等を愛していなかったから?
⋮⋮⋮⋮違う。そんな事は有り得ない。
ガイアは弟子である二人を心から愛し、かけがえのない者として
接している。それは今でも変わらない⋮⋮変えられない。
二人の嘆きの叫びが部屋を木霊する中︱︱
1325
︱︱ガイアは二人を引き寄せ⋮⋮ぎゅっと抱き締める。
二人は叫びを止め⋮⋮ガイアの行動に驚愕していた。
﹁︱︱あまり悲しい事を言うな。私はお前達を心底愛し、立派な騎
士にしようと育ててきた﹂
それは偽りの無い、正直な答え。
でも、今のドルガ達には納得出来なかった。
﹁だったら⋮⋮ッ。だったら何で﹂
﹁何でかって?︱︱そんなの決まっているッ!﹂
今度はガイアがドルガ達の言葉を遮り、怒声を上げる。
1326
﹁聖騎士流剣術は、確かに最強を謳う剣術だ。その極意を取得すれ
ば、始原旅団を追い払う事も可能だろう。⋮⋮だがッ!﹂
ガイアは二人を引き離し、二人の顔を見据える。
︱︱彼の双眸から、涙が零れ落ちていた。
﹁⋮⋮お前達の死に関わる剣術を⋮⋮喜んで教えると思うか?﹂
﹁⋮⋮え﹂
二人は衝撃の事実を聞いて、唖然としていた。
聖騎士流剣術は最強の力を得るが、その膨大な力に耐える素質と
1327
力が必要だ。もし素質無き者が剣術を使用すれば⋮⋮⋮⋮死ぬ。
聖騎士流剣術は諸刃の剣だ。だからガイアは、今まで彼等に技術
を教えてこなかったのだ。
︱︱愛する弟子達を、そんな理由で死なせない為にも。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
二人は何も言い出せなかった。
ただジッと地面を見つめ、複雑な思いにふけていた。
﹁⋮⋮すまない﹂
ガイアは他に言葉が見つからず、そう言うしかなかった。
1328
︱︱この日、聖騎士ガイアは二人の弟子の希望を奪い去った。
1329
ep24 ︱︱次なる世代へ、受け継ぐ為に︱︱
記憶は走馬灯の様に流れて行く。
今までゼノスの記憶を辿って来たゲルマニアは、元日祭の記憶を
期に追憶の流れが速まった様に感じる。
︱︱始原旅団の到来。半年という短い時の中で、ゼノスという少
年は彼等の複雑な関係に晒されず⋮⋮祖父の様なガイアに育てられ、
兄姉の様なドルガとコレットに、休みの日はずっと遊んで貰ってい
た。
⋮⋮これが自分の知らないゼノスの思い出。
暖かくも美しい、彼等にとっては一番平穏だった日常。
1330
︱︱だが
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
世界は変革する。
まるで陽光が閉ざされたかの如く、光と記憶のコントラストは脆
くも崩れ去っていき⋮⋮戦場の戦火が視界を埋め尽くす。
それは一瞬の出来事。炎は次第に弱くなり、ゲルマニアにその悲
惨な光景を映し出す。
聞き慣れた戦場の音。鉄と鉄が重なり合い、鈍い音と共に血飛沫
が巻き起こる。荒れ狂う怒号と絶望のコーラスが鳴り響き、生と死
を掛けた戦いを繰り広げる。
⋮⋮嗚呼、そうか。もう辿り着いてしまったのか。
1331
記憶は全てを見出してくれない。あくまで重要な部分を、まるで
誰かが図ったかのように、劇的な場面だけを映す。
︱︱ゲルマニアは確信する。
恐らくこの夢も、もう終わりに近づいているのだと。
1332
ガイアは雨風が窓を叩く音によって、ハッと目を覚ます。
ゼノスに絵本を読ませて寝かせる最中に、どうやら自分も眠りこ
けていたようだ。︱︱時計を見やると、夜中の一時を過ぎていた。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ベッド脇からゼノスを覗き込むと、既に寝息を立てながら就寝し
ていた。この穏やかな表情を見ていると、自然と心が安らいて行く。
ガイアはそっとゼノスの頭を撫でながら、微かな雷鳴と豪雨が鳴
り響く窓外を見据える。
﹁⋮⋮もう、始まっているようだな﹂
ぼそりと呟くガイア。
何が始まっているのか?︱︱それは恐らく、グラナーデ王国民の
中で知らぬ者は存在しないだろう。
1333
︱︱そう、今日は始原旅団が強襲を掛けてくる日だ。
グラナーデ国王は戦争を避けるべく、あらゆる手段を用いて始原
旅団側と平和交渉を訴えてきたが⋮⋮今ではもう水の泡だ。彼等は
単に占領地域を増やしたいだけであって、同盟には興味を示さなか
ったらしい。
ガイアの勘だが、戦争は既に始まっている。
場所は⋮⋮ここから道なりに進み、城下町とは正反対の方向かも
しれない。ガイアの騎士養成学校がある岬をも通り過ぎ、その更に
向こうの森林地帯⋮⋮常人離れした聴覚を持って戦場の音を聞く限
り、恐らくそこだ。
夜戦の上、森の中では視界もかなり遮られる。始原旅団とグラナ
ーデ騎士団の戦力差を含めると⋮⋮状況は圧倒的にこちらが不利だ。
⋮⋮⋮⋮あと数時間もすれば、グラナーデ王国は始原旅団に占領
されるだろう。それは避けられない事実であり、ガイアも受け入れ
たくなかったが、こればかりは仕方ない。
1334
︱︱始原旅団の連中は、野蛮で見境なく人を殺し尽くす。
占領する為ならば国に住む者達を皆殺しにし、その国の王でさえ
も⋮⋮躊躇いも無く殺すだろう。
⋮⋮そう、全ては必然だった。
誰が悪いわけでも無い、全ては在るべき運命。⋮⋮ガイアは半年
前から、それを予期していた。
しかし、だからと言って何もしない訳がない。
グラナーデ王国は滅び、国王や親しかった城下町の人々、育て上
げた騎士達の死は免れないかもしれない。そしてガイアは、全てを
救える程の力を有してはいない。︱︱︱︱老いとは怖いものだ。
︱︱だがそれでも、自分の愛しき弟子達だけは生き残れるだろう。
確証は無いが、そう感じていた。︱︱否、そう感じるしか⋮⋮こ
1335
の不安を拭い去る事は出来なかった。
自分は何も出来ない。︱︱しかし。
﹁⋮⋮ゼノス、お前だけは死なせない。私が何としてでも⋮⋮﹂
ガイアは決意の籠った眼差しを、ゼノスに向ける。
︱︱死なせない。その言葉を脳裏に反芻させながら、ガイアはす
っと瞳を閉じる。
﹁︱︱聖騎士流法技、伝心の理﹂
彼は久々の聖騎士流法技を発動させる。
1336
伝心の理︱︱それはガイアが編み出した、遠距離の相手との会話
方法でもある。効果は極めて短いが、用件を話すだけならば困る事
も無い。
ガイアは自分の法技が届いているであろう相手に、静かに語り出
す。
﹁⋮⋮⋮⋮聞こえているか、私が認めた好敵手よ﹂
﹃聞こえ取るわい﹄
ガイアの問いに、野太い声音が聞こえてくる。
﹁⋮⋮そうか。君はもう陸地に到着しているのか?﹂
﹃いや、まだじゃよ。天候も荒れているし、波も猛々しく荒れ狂っ
ておる。全く、人遣いの荒いお前といい⋮⋮﹄
﹁すまない。︱︱だが、これは君の罪滅ぼしでもある筈だ。今グラ
ナーデで起こっている現状を知っているならば⋮⋮理解出来るだろ
う?﹂
1337
﹃⋮⋮⋮⋮そう、じゃな﹄
相手は間を置き、弱々しく呟く。
一方のガイアはその場から立ち上がり、焦げ茶色のコートを羽織
る。
﹁⋮⋮待ち合わせ場所は変わらない。ゼノスを連れて、今からそち
らへと向かう。そしてその後は﹂
﹃分かっとる。後の事は任せい﹄
相手はガイアの言葉を遮り、察していると告げる。
﹃︱︱じゃが、お前はそれでいいのか?仮にもゼノスの育ての親じ
ゃろうに⋮⋮⋮⋮きっと悲しむぞい﹄
﹁ああ、そうかもしれないな。ゼノスは私にも、コレットやドルガ
にも懐いていた。⋮⋮だが、その悲しみを埋めるのも君の仕事だ﹂
1338
ガイアのその言葉を期に、両者は暫く沈黙する。
伝心の理の効果がきれたのでは無い。単にお互いは、返す言葉も
見つからないまま、無駄な時間を費やしていた。
﹃︱︱︱︱最後に、一つだけ言っておくぞい﹄
ふいに、相手が言ってくる。
﹃⋮⋮⋮⋮このアルバート・ヴィッテルシュタイン。まだお前との
決着を着けとらん。︱︱死ぬなら、儂との一騎打ちで死ねい﹄
会話の相手方、アルバートは皮肉にもそう告げてくる。
何度も刃を交わし、そして奇妙な友情が生まれた二人。その励ま
しに、ガイアは頬を緩ませる。
1339
﹁⋮⋮ああ﹂
長年の友にそう返し、寝ているゼノスを抱き上げる。
﹁︱︱︱︱さあ、行こうか。新たなる希望を⋮⋮この手で送り出す
為に﹂
1340
ep25 ︱︱守る為に、生き続ける︱︱
闇夜が支配する森の中で、その死闘は繰り広げられていた。⋮⋮
死闘⋮⋮いやこれは、一方的な虐殺と言ってもいいだろうか。
グラナーデ騎士団前衛部隊、総勢300百人。
森に潜み、始原旅団に奇襲攻撃を掛けたその数十分後︱︱現在は
ドルガを含めて、総勢30人程へと減少した。
奴等は奇襲を察知し、迅速に対応してきたのだ。野生味溢れるそ
の身体能力を駆使して、野蛮な殺戮を展開してきた。
︱︱まるで月とスッポンだ。
相手が悪過ぎる。かの有名な始原旅団と聞いて覚悟はしていたが、
実際刃を交えると⋮⋮その覚悟は絶望へと変化していった。
1341
﹁︱︱︱︱ちえいッ!﹂
しかし、ドルガは尚も抗い続けていた。
迫り来る複数の旅団員を目にしても怖気づかない。大剣を大振り
し、一気に殲滅していく。
﹁前衛部隊、決して散開するな!俺の近くに密集し、味方を背にし
て戦い続けろッ!﹂
ドルガは的確に指示しつつ、この絶対絶命の状況を切り抜ける光
明を探し続けていた。
⋮⋮しかし、何も手立てが見つからなかった。
敵の誘導は見事なものだった。当初ドルガ率いる前衛部隊は、始
原旅団が降り立つであろう浜辺へと待機し、そこで一戦を交える予
定だったのだ。
1342
だが見ての通り、始原旅団はそこまで甘くなかった。
迅速かつ隊が乱れる事なく彼等は森へと逃げ込み、圧倒的不利な
状況を作ったのだ。︱︱敵は森での戦いに優れているらしく、こち
らの勢力は一気に瓦解した。
強すぎる。一人一人の戦力が計り知れず、その戦法は狂気に満ち
ている。一種の殺戮兵器と言ってもいいだろう。
退路は既に塞がれ、ドルガ達前衛部隊は敵に囲まれている。
雨脚も強くなり、視界も鈍くなっているせいか⋮⋮敵がどの辺り
にいるかさえも明確に掴めない。
︱︱絶体絶命の状況だ。
﹁⋮⋮こんな所で死んでたまるかよ﹂
ドルガは敵の攻撃を受けながら、そう愚痴る。
1343
そうだ、自分はまだ死ねない。ここで死んだら祖国グラナーデが
陥落し、生まれた時から世話になった人々を苦しませてしまう。
︱︱まだ死ねない。
自分が死んだら、誰がガイアから聖騎士流剣術を教わる?
自分が死んだら、誰がゼノスの遊び相手になってあげられる?
⋮⋮自分が死んだら、一生彼女に⋮⋮コレットに自分の想いを告
げる事が出来ないだろう。
そんなのは嫌だ。自分はまだ生きる理由がある。
だから戦う。皆を守る為にも⋮⋮グラナーデ王国騎士団の団長と
してッ!
1344
﹁てめえら、調子に乗るのもいい加減にしやがれええええええええ
えッッ!﹂
どこから出たのか分からない、絶叫に似た叫び声。
始原旅団が一瞬動揺を示すのを計らい、ドルガは捨て身の状態で
前進していく。何も恐れず、何も考えようともせず︱︱
︱︱斬る。殺す。斬る。殺す。
胸中に刻まれた言葉は、たったそれだけ。
驚く程のスピードで敵を薙ぎ倒し、蠅を叩くかの如く全てを殺し
尽くす。
獣の様に荒れ狂うドルガ。だがその立ち振る舞いには、どこか騎
士たる気品と勇猛果敢さが入り交じっている。⋮⋮その姿を見た騎
士達は、誰もがそう思うしかなかった。
1345
⋮⋮そして、敵は残り一人となった。
如何に始原旅団と言えども、ドルガの実力は更にその上だった。
流石聖騎士に鍛え上げられただけあって、常人離れした強さを誇っ
ている。
﹁︱︱らあッ!﹂
ドルガはその最後の一人と剣を交わし、激しい攻防を織り成す。
どうやらこの男は、始原旅団部隊の一隊長らしい。他の旅団員と
は違う青のバンダナを被り、その実力も部下以上だ。
相手は巧みに剣を振るい、急所を狙ってきている。とてもやりに
くい戦法だが⋮⋮相手の戦い方は、どこかコレットの戦法と似てい
た。
だがコレットの方が実力は上回るし、相手には大きな隙がたまに
生じる。
1346
︱︱だから、この勝負は勝てる。
﹁ここだッ!﹂
﹁︱︱ッ。ぐ、ふ⋮⋮ッ﹂
ガイアは敵の甘い斬り返しを読み、大剣でその剣と共に相手を一
刀両断する。
⋮⋮森にて、始原旅団の一部隊を残らず撃退した。
﹁くそッ。おい、何人生き残っている!?﹂
﹁はっ、少々お待ちを﹂
近くにいた騎士に対し、荒々しげにそう尋ねる。
周囲を確認し終え、その数を聞く。
1347
﹁⋮⋮たった五人、か﹂
﹁⋮⋮それに調査隊からの報告によると、第二部隊が既に浜辺に到
着していると⋮⋮言ってました﹂
騎士達はおろか、ドルガもまた絶望に暮れる。
︱︱そう、先程のは第一部隊だ。始原旅団の中でも捨て駒として
投入され、いわば特攻隊として攻めてきた者達。
次の部隊が来れば、ドルガ達前衛部隊は間違いなく全滅するだろ
う。
﹁⋮⋮後退しよう。城門を塞いで後衛部隊と連携し⋮⋮あとは﹂
﹁︱︱ド、ドルガ団長ッッ!﹂
ふいに騎士の一人が駆け寄ってくる。
1348
﹁どうした、また何か⋮⋮⋮⋮⋮⋮ッ!?﹂
振り向くと、そこには有り得ない人物が立っていた。
全身に返り血を浴び、自らもまた重傷を負い、騎士達に肩を借り
ている女性。⋮⋮艶やかな銀髪を血に染めたコレットが、そこにい
た。
﹁⋮⋮よ、よかった。生きてたのね﹂
﹁コレットッ!﹂
ドルガは急いで彼女の元に寄り、その身体を支える。
彼女の全身を確かめると、腹部は抉られていて、左腕を骨折して
いるようだった。⋮⋮それに、出血も多い。
﹁お前何でまた⋮⋮⋮⋮こ、後衛部隊は!?﹂
ドルガは率直に問うが、コレットはすぐに答えなかった。
1349
目尻に涙が溜まり、嗚咽を漏らし始めるコレット。その様子を見
た途端、ドルガは全てを悟る。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮まさ、か﹂
﹁⋮⋮ごめん、ごめんね。私が未熟なばかりに⋮⋮⋮⋮始原旅団に
裏を取られて⋮⋮皆⋮⋮殺されちゃった﹂
︱︱国王も、グラナーデの民も、共に戦ってきた騎士達も
始原旅団は本気だった。コレットの話によると、始原旅団の別動
隊がグラナーデ王城裏手にある崖を登り、直接城内に侵入してきた
らしい。
しかもその中に始原旅団副首長もいて、破壊の限りを尽くしたの
だ。抵抗も空しく、騎士団員達は残酷な殺され方をして⋮⋮国王含
む王家も全て虐殺された。
1350
コレットはその事実を知らせる為に、ここまで生き延びてきた。
︱︱この先には、絶望しかないのにも関わらず︱︱
﹁⋮⋮ねえドルガ。これから私達⋮⋮どうなるの?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
二人はもはや、何も考える事が出来なかった。
守るべき祖国は死に絶え、帰るべき故郷は始原旅団に占領された。
もうここに留まる事は出来ないし、第一ここから逃げる延びる事が
出来るかさえも分からない。
⋮⋮だが。
1351
それでもドルガには、まだやるべき事が残されている。
﹁︱︱皆。今から言う事に従ってくれ﹂
生き残った騎士達が俯く中、ドルガははっきりとした声音で言う。
絶望と諦めが交差するこの雰囲気の中で、ドルガだけは諦めの色
を示さなかった。それどころか、生気に満ちていた。
そんな態度を見せられて、騎士達やコレットは自然と耳を傾ける。
﹁⋮⋮聞いての通りだ。俺達の祖国は今日を以て崩壊し、俺達が帰
るべき場所も見失った⋮⋮。けど、俺達はまだ生きているッ!まだ
死を受け入れる時じゃねえぞ!﹂
ドルガは皆を叱咤する。しっかりしろと、そんな態度でどうする
1352
と。
悲しむのは当然の事であり、ドルガも例外では無い。生まれた時
からこの国に居て、死んで行った人々によってドルガは今日まで生
きて来た。
︱︱悲しいのは当たり前だ。だからこそ︱︱
﹁︱︱俺達にはまだやるべき事があるだろう?一体誰がこの事実を
伝える?一体誰が⋮⋮この歴史を伝えるんだ?︱︱俺達だろう?﹂
﹁⋮⋮ドルガ⋮⋮団長﹂
﹁だから死ぬな、生き続けろッ!敵から逃げて、この国から出ろ!
⋮⋮そして、吟遊詩人になったつもりで⋮⋮この国で起きた惨劇を、
歴史を伝えて来い!﹂
それがドルガの最後の命令。
1353
もしグラナーデ王国を想う気持ちがあるならば、この事実を世界
中の人々に伝え続けるしかない。
在りのままの現実を⋮⋮この祖国で育った皆でだ。
︱︱騎士達は泣いていた。皆が泣いていた。
ようやく実感が湧いたのか、皆がこの現実を嘆き、苦しんでいた。
親を失い、友を失い、妻と子を失った者達の涙は⋮⋮止まらない。
﹁何してやがる⋮⋮早く逃げろ!泣くのは後だッ!﹂
﹁﹁﹁﹁﹁︱︱はっ!今まで⋮⋮今まで有難うございましたッ!﹂﹂
﹂﹂﹂
1354
騎士達の言葉に、何の揺らぎも無かった。
全てを失ったとしても、自分達には成すべき事が存在する。
︱︱嗚呼。一人、また一人とこの場から消えて行く。
残されたのは、ドルガとコレットの二人だけであった。
﹁⋮⋮行こうぜ、コレット﹂
﹁行くって⋮⋮どこに﹂
﹁︱︱決まってんだろ。爺とゼノスを探しに行くんだ。爺は簡単に
死ぬタマでもねえし、ゼノスも爺の傍に居る筈だ﹂
﹁︱︱ッ﹂
1355
コレットはようやく理解し、一気に思考が戻る。
そうだ。まだ自分達には守るべき大切な存在が残っている。
︱︱小さい頃から剣術を教えてくれ、自分達に様々な英雄伝を聞
かせてくれたガイア。親を早くに亡くした二人からすれば、彼は自
分達の親同然でもあった。
︱︱そして、ゼノス。
たった半年間だけれども、彼もまた切っても切れぬ存在となった。
時には成功を祝い、時には叱ったりもした。悲しい時は一緒に泣
いてあげて、嬉しい時は一緒に喜び合った。
⋮⋮二人にとって、ゼノスは弟同然の存在だ。
1356
﹁俺達も簡単には死ねないんだ。⋮⋮そうだろ、コレット?﹂
﹁⋮⋮うん。そうね﹂
コレットは強い意思を抱き、頷く。
二人は傷を忘れ、森の出口に向かって疾駆した。
1357
ep26 ︱︱例え死が確実だとしても︱︱
ガイアは雨具を着こみ、ゼノスを抱き抱えながら歩を進める。
自分の家を出て、歩き慣れた街道を進んで行くと⋮⋮目前に誰か
が佇んでいる事に気付く。
立ち止まり、その誰かと対峙する。
︱︱始原旅団特有の戦闘衣、それを着崩し、何とも艶めかしい服
装でいるその女性は⋮⋮ガイアの知る人物だった。
﹁⋮⋮奇遇だな。こんな所で昔馴染みの貴殿と出会うとは⋮⋮⋮⋮
散歩か?﹂
﹁うふふ、出会い頭に失礼な事を言う。︱︱今のあたしの立場を理
解しているならば、大体想像がつくだろうに﹂
1358
その女性は不気味に微笑みながら、持っている大きなナタを肩に
乗せる。そのナタは既に血塗れであり、血が肩を伝うが⋮⋮女性は
嬉しそうに血を拭きとり、舐める。
﹁全く想像つかないな。︱︱始原旅団副首長であるお前が、何故前
線を離れてこんな場所にいる?⋮⋮今の私は、お前に関わる程価値
の無い人間だぞ﹂
﹁く、くく⋮⋮あは、あははははははッッ!全く、そのくそ真面目
な性格は治ってないようだねえ?﹂
彼女は嗤う。腹の底から響かせ、さも愉快に⋮⋮。
嗤い続けた後に、舌なめずりをしながら近寄ってくる。
一歩、また一歩と。まるで獲物を狩ろうとしている蛇の如く、相
手を魅了するかの如く、ガイアを見据える。
1359
﹁︱︱それを決めるのは、あたしの勝手だ。ただ来たかったからこ
こに来た⋮⋮普通の男なら、それでイチコロなのだけれど?﹂
﹁生憎、私は色気に惑わされる歳でも無い。⋮⋮ではな、人殺しも
程々にしとけよ﹂
そう言って、ガイアは何事も無かったかの如く過ぎ去ろうとする。
⋮⋮だが副首長の隣を横切る瞬間、
﹁︱︱待ちなよ、冴えない男。せっかくあたしが来てやってんだ⋮
⋮話の一つぐらいは聞いてくれよ?﹂
﹁⋮⋮﹂
ガイアの首元に、鋭いナタの刃が当てられる。
一瞬でも動いてしまえば、ガイアはナタの餌食になるだろう。
1360
﹁⋮⋮私は忙しんだ。手短に願おうか﹂
ガイアの冷たい突き放しに、副首長の笑みは更に増す。
﹁おや、本当につれないねぇ。⋮⋮あんたはもう分かっているんだ
ろ?このグラナーデ王国は︱︱︱︱あたし達の手により、既に崩壊
したって事ぐらいはさ?﹂
﹁⋮⋮﹂
分かっている、そんな事は。
国王や民達の気配も消え失せていて、始原旅団がグラナーデ王城
を占領した事も⋮⋮全て分かっている。
無言を肯定と受け取ったのか、副首長は更に言葉を続ける。
﹁でもさあ、ほんっとこの国の武人達は弱いねえ。あたしの太刀を
受ける者も無く、呆気なく死にやがったッ!せっかく熱い戦いをし
たかったのに!あたしの血液が誰かの手によって噴出したいと、心
から願っていたのにッ!﹂
1361
﹁⋮⋮狂人よ。何を望む?﹂
ガイアが神妙に尋ねると、副首長は目を剥き出しにして振り向い
てくる。
もはや、人としての理性を失い欠けている表情だ。
﹁︱︱ねえ、あたしを満たしてよ。あんたなら、このあたしを満た
せると思うんだ⋮⋮﹂
副首長はナタをそのままに、ガイアへと抱き着いてくる。
甘い吐息をガイアの頬に吹き、その手をガイアの胸に押し当てる。
さながら恋人の様な仕草だ。
1362
﹁⋮⋮嗚呼、楽しみ。こうして互いが感じ取っている血の温かみが、
互いの皮膚にかかり合うんだね⋮⋮。嗚呼、どきどきする⋮⋮あた
しはあんたに恋をしたのかもしれないッ!あは、あははッッ!﹂
それが愛ならば、何とも歪んだ恋心なのだろうか。
彼女は初めて出会った時と同じままだ。幾年かの時を経て、こう
して美しい少女へと成長したにも関わらず⋮⋮異様な言動と態度は
直っていない。
︱︱始原旅団で育ったのだから、当然の結果⋮か。
﹁⋮⋮哀れだな、副首長セラハ。祖父アルバートに愛情を注がれず、
遂に気でも狂ったか﹂
﹁そうかもしれないなあッ!でも、今はそんな事どうでもいい!さ
あ楽しもう、二人で、鮮血で繋がった愛を示そう!さあ⋮⋮さあ!﹂
副首長︱︱セラハは狂気に満ちた笑みで迫る。
セラハのナタは一度ガイアの首元を離れ︱︱勢いよくナタを振り
下ろす。今度は寸止めでは無く、間違いなくガイアを斬る覚悟でい
1363
る。
戦闘は免れない。︱︱そう思った瞬間だった。
ガインッッ!
︱︱何と、ナタは横からの受けによって防がれた。
ナタを抑える剣と大剣︱︱その持ち主は言わずもがな、
﹁⋮⋮よお。爺を痛ぶるのも大概にしとけよな﹂
﹁︱︱師匠、間に合って良かった﹂
1364
そう、ガイアを守ったその二人は⋮⋮ドルガとコレットだった。
﹁︱︱お前達﹂
二人が生きていたのは知っていたが、まさか自分を助ける為に来
るとは思ってもいなかった。
ガイアは困惑しながらも、どうにかセラハから距離を離す。
﹁⋮⋮誰、あんたら?﹂
セラハは気が削がれ、憎々しげに両者を見つめる。
﹁はっ、てめえに語る名はねえよ。⋮⋮それよか聞いたぜ。あんた、
始原旅団の副首長なんだろ?﹂
ドルガの大剣に力がこもる。ぐっとナタを押さえ付け、今にも折
らんとする勢いで。
セラハはコレットの胸元、ドルガの肩当てに刻まれたグラナーデ
1365
紋章を見て、合点がいく。
そして、また下卑た笑みを見せる。
﹁ああ、成程ね。⋮⋮さしずめ国を失い、怒りの矛先をこのあたし
に向けている⋮⋮それが今の状況かねえ﹂
﹁その通りよ。︱︱祖国を屠ったその罪、万死に値するわ!﹂
コレットは隙を見て、裾から仕込み刀を取り出す。
剣を持つ反対の手で逆手に持ち、セラハの心臓目掛けて刺突する。
しかし、相手の反応は更にその上を行く。セラハは後ろに跳び退
り、その攻撃を軽く回避する。
﹁おっと危ない危ない。⋮⋮うふふ、まあいい。そんなに死にたけ
れば、まずはあんた達から殺してあげる。︱︱ガイア、あんたとの
逢瀬はまた後に﹂
1366
ガイアを見つめるその瞳は、殺意に満ち溢れている。
まるでこの二人は眼中に無いと言わんばかりに。いや実際、二人
とセラハの実力差は歴然としている。
﹁⋮⋮お前達、ここは引け。今のお前達では、このセラハには太刀
打ちできないぞッ!﹂
ガイアは必死に彼等を止める。
太刀打ちすら許してもらえず、このままでは弄ばれて殺されるだ
けだ。アルバートの孫娘だけあって、その実力は愚か⋮⋮潜在能力
も底知れない。
絶対に勝てない。︱︱だから頼む、お前達だけでも︱︱
︱︱お前達だけでも、逃げて欲しいんだ︱︱
こんな老害の為に死ぬなど、在ってはならない事だ。
1367
⋮⋮こんな何も守れない人間に、若い命を絶やす必要は無いはず
だ!
ゼノスだけでなく⋮⋮お前達二人も大切な存在。
︱︱だから、だからッ!
﹁⋮⋮そんな泣きそうな面すんなよ、爺﹂
﹁⋮⋮え﹂
ガイアの唖然とした表情を他所に、ドルガは振り向かずに告げる。
﹁ゼノスを逃がすつもりなんだろ?だったら手伝ってやるから、さ
っさと逃げろよ。︱︱ここは、俺達が死んでも止めてやる﹂
﹁︱︱ッ。お前達が死ぬ必要は無い!私は死んでも構わないが、お
1368
前達にはまだ未来がある!⋮⋮それに、私は﹂
ガイアは何かを言おうとしたが、その続きは口に出せなかった。
ドルガとコレットから発せられる殺気に、これ以上口を挟む事が
出来なかったからだ。
﹁⋮⋮ごめんなさい、師匠。私達も出来る事なら、ゼノスが立派に
成長するまで見届けたかった。⋮⋮⋮⋮けど﹂
二人は、セラハに切先を向ける。
収まらない殺気と、気高き意思を胸に︱︱その言葉を紡ぐ。
﹁﹁︱︱騎士の誇りにかけて、祖国と大切な者達を救いたい﹂﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
1369
⋮⋮嗚呼、そうか。
ここでガイアは、改めて確信した。
例え何を言っても、二人が思いとどまる事は無いだろう。今彼等
が持っている感情は、騎士として当然の物。ガイアもよく知ってい
る馴染み深い意志。
︱︱今彼等は、ガイアとゼノス、そして祖国を守る為に⋮⋮戦お
うとしているのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮ッ﹂
ドルガとコレットに対して、告げる言葉は何もない。
︱︱と、ガイアが去ろうとした瞬間だった。
1370
﹁ん⋮⋮⋮⋮あれ。ここどこ?﹂
眠気眼のまま、ゼノスが起きたのだ。
ゼノスは周囲を見渡し、視界にドルガとコレットの背中を見つけ
ると、笑顔で手を振る。
﹁あ⋮⋮ドルガ兄ちゃん、コレット姉ちゃん!今日も遊びに来たの
?﹂
ゼノスはただ無邪気に彼等を呼ぶ。
何も知らず、何も考えず⋮⋮。
﹁︱︱ッ。よ、よおゼノス。いや悪いな、今日はそれどころじゃね
えんだ﹂
ドルガはセラハに意識を集中させながら、ゼノスに対して微笑み
ながら答える。⋮⋮驚いた事に、セラハからは何も仕掛けてこない。
1371
まるでこの悲劇を楽しんでるかの如く、不気味な笑みを浮かべなが
ら傍観していた。
﹁そうなんだ⋮⋮。じゃあコレット姉ちゃんはっ?また歌を教えに
来てくれたの?﹂
今度はコレットに尋ねるが、彼女からの返答も素っ気ないものだ
った。
﹁ごめんね、ゼノス。⋮⋮今日はお姉ちゃん達、忙しいんだ﹂
コレットもまた曖昧な笑みを浮かべ、すぐにセラハへと向き直る。
ゼノスは悲しげな表情をする。また何かを言おうとしているが、
これ以上は時間が惜しい。
︱︱全てを決断し終えたガイアは、ゼノスを抱えてその場から走
り去る。
﹁おじいちゃん?﹂
1372
﹁ゼノス、しっかり掴まっているんだッ!﹂
切羽詰まったガイアは、ゼノスの疑問を跳ね除けて疾走する。
ゼノスは何が何だか分からないまま⋮⋮どんどん小さくなってい
くドルガとコレット達に、大きな声で叫ぶ。
﹁︱︱ドルガ兄ちゃん、コレット姉ちゃん、お仕事頑張ってね!そ
れが終わったら⋮⋮また今度遊ぼうよ!﹂
果たしてその声が、二人に届いたかどうかは分からない。
︱︱だが最後に彼等は、慈愛に満ちた微笑みを浮かべていた様に
見えた。
1373
1374
ep26 ︱︱例え死が確実だとしても︱︱︵後書き︶
画像掲載サイト﹁みてみん﹂にて、﹁ドルガ﹂のイラストを投稿い
たしました。参考までにどうぞ↓http://6886.mit
emin.net/i74956/
1375
ep27 ︱︱戦の先にあるものは︱︱
﹁⋮⋮別れは済んだのかい、お二人さん?﹂
静寂が世界を埋め尽くす中、セラハの歪な声が静寂を打ち破る。
二人にとってその響きは、悪魔の誘いと同じ。形容し難い恐怖が
込み上がり、微かな吐き気を催させる。叶うならば脱兎の如く背を
向けて逃げ出したいぐらいだ。
︱︱しかし、彼等は決して逃げない。
逃げるぐらいなら死を選ぼう。セラハと言う悪魔に戦いを挑み、
呆気なく死んで行こう。
ガイアとゼノスの為になるならば、喜んで。
1376
あの笑顔を絶やさない為にも⋮⋮⋮⋮戦う事を選ぼう。
﹁⋮⋮よおコレット。覚悟は出来たかよ?﹂
﹁とうに出来てるわよ。でかい図体しといて、心の弱いドルガと一
緒にしないでほしいわ﹂
﹁はは⋮⋮そいつは酷い言い草だぜ﹂
互いは言葉を交わし合う。
いつもと変わらぬ口調。コレットは強気でいて、ドルガはそれを
心配する。⋮⋮ああ、いつも通りだ。
今から死ぬかもしれないのに︱︱︱︱驚く程落ち着いている。
﹁⋮⋮じゃあ、ちょっくら行くか﹂
1377
何気ない一言。
変わらぬ声を発しつつも、彼は地を駆け抜ける。
タイミングはほぼ一緒だった。コレットもまたスカートを翻し、
その場から大きく跳躍をする。
向かう先はただ一点︱︱セラハのいる場所だ。
﹁⋮⋮ほう、早い﹂
セラハが言い終える頃には、既にドルガが彼女の目前へと立ちは
だかり、腹を斬らんと、大剣を横薙ぎにしようとする。一方のコレ
ットは宙からセラハを身下ろし、彼女の頭蓋骨を粉砕しようと剣を
構える。
二方向から襲い掛かってくる死の一撃。セラハの見る限り、始原
旅団の幹部クラスと同等⋮⋮いやそれ以上の力を秘めているかもし
れない。
このスピード、この覇気、そしてこのコンビネーションは素晴ら
しいとさえ思ってしまう。
1378
﹁︱︱だが、それでも甘い﹂
セラハはそう呟く。
そう、全てが甘い一手である。
幹部クラスの連中はどう感じるか分からないが、このセラハにと
っては⋮⋮児戯にも等しい。
まず彼女は、迫り来るドルガの大剣を片手で受け止める。
﹁︱︱なにッ﹂
﹁おいおい、この程度かい。⋮⋮なら、上にいるお嬢さんはどうだ
ろうかねえ﹂
今度は上を見上げ、今にも突き刺さんとするコレットを見据える。
突き下ろされる切先。愚直なまでに、しかし迅速な刺突が降り下
1379
りてくる。
⋮⋮しかし、尚もセラハは受け止める。
その口で、読んで字の如く﹃食い止めてみせた﹄。
﹁⋮⋮え?﹂
﹁⋮⋮はッ﹂
セラハは嘲け笑う。
所詮はこの程度か、グラナーデ騎士団。今まで沢山の戦場を彷徨
ってきたが、今日ほど楽な戦いは無い⋮⋮そう雰囲気が物語ってい
た。
︱︱今度はセラハの番である。
彼女はナタを持つ手に力を込め、思いっきり振り上げる。
1380
﹁くっ!﹂
コレットは苦悶の声を上げ、自らの剣を見捨ててその場から飛び
退る。振り上げられたナタは容赦なくコレットの利き腕を斬りつけ
ていた。
﹁ぺっ。鉄の味は上手いけれど、それは血の話だけだね﹂
セラハはコレットの剣を吐き捨てる。
﹁⋮⋮ねえ、色男。この後はどうしてくれるんだい?﹂
﹁ちっ。んなの知るかよッ!﹂
そう、知った事では無い。
ドルガは本能のままに、大剣を一旦手放す。
何も剣術だけが取り柄なのでは無い。ドルガは拳術に関しても騎
士団の中で群を抜き、正直剣術以上に秀でている。
1381
ぐっと拳を握り締め、片足を軸に裏拳の体勢を取り︱︱放つ。
剛腕に見合った力強い一撃がセラハの顔面を射止めるが、しかし
セラハはそれさえも受け止める。
﹁うふふ⋮⋮はずれ﹂
﹁︱︱化け物みてえな女だな﹂
﹁ありがと、褒めてくれて。⋮⋮おっと﹂
セラハは一瞬で見切り、飛来してくるナイフをかろうじて避ける。
ナイフを投げたコレットは更に投擲を繰り返すが、全ては空を切
るだけであった。優雅に、そして踊る様にセラハは回避していく。
﹁あはは、まるで曲芸師だねえ!これで金でも取るつもりかい!?﹂
﹁⋮⋮そうね、それもいいかもしれない。︱︱けど﹂
1382
コレットは冷静に答える。
冷静沈着のまま、両手をくいっと後ろに引く。
﹁︱︱それは、貴方を殺してからにするわ﹂
途端、飛ばした筈のナイフ達が立ち止まる。
そしてバネの様に弾け、見えない何かによって操られるように動
く。
ナイフは方向を切り替え、再度セラハに襲い掛かってくる。
﹁へえ、白い糸か何かで操っているわけか﹂
後方から飛んでくるにも関わらず、それでもセラハは余裕の表情
である。
﹁ふふ⋮⋮残念だけど、こんなのいらないよ!﹂
1383
ナタを団扇の様に仰ぐセラハ。
そこから生じる剣風がナイフの軌道をあっさりと変更し、持ち主
であるコレットの元へと向かう。
︱︱避ける暇も無し。無数のナイフが、コレットの全身を貫く。
﹁︱︱︱︱か、は﹂
﹁コレット!⋮⋮てめえッ!﹂
ドルガは逆上し、大剣を拾って再びセラハへと斬りかかる。
今度はセラハもナタを構え、ドルガの大剣と切り結ぶ形をとる。
両者の力はほぼ互角であり、放たれる一閃が両者の全身を痺れさせ
る。
しかし、これで終わりでは無い。
両者は血を求め合い、自分の刃に潤いを与えようと挑み続ける。
火花が飛び散り、甲高い鉄音が何度も響き渡る。
1384
呼吸よりも早く、彼と彼女は剣閃を重ね合う。
﹁あははっ、何だやれば出来るじゃないか!その力は怒りから来る
ものなのだろう、苦しみから来るものなのだろうッ?﹂
セラハは興奮しながら問いかける。
︱︱狂喜乱舞。そこには上品さの欠片もありはしない。
獣の様に暴れ狂い、憎悪と怒りを抱く。目前のドルガがその全て
に当てはまるので、セラハは非常に歓喜していた。
こうして刃を重ねられるだけで⋮⋮至高の喜びに駆られてしまう。
﹁てめえ⋮⋮へらへらと笑ってんじゃねえぞッ!﹂
他方のドルガは、怒りに身を任せていた。
1385
荒い太刀筋ながらも、どこか洗練された剣術はどこに行ったのか。
振るわれる全てに覇気が籠っておらず、まるで棒を振り回すかの様
だ。
セラハはナタを振るうのを止め、防御態勢に切り替える。
一体何を考えているのか⋮⋮不気味な笑みを浮かべながら、ドル
ガの剣を受け止め続ける。
どんなに激しい一撃も、ただジッと。
﹁︱︱てめえのせいで、どれだけの人達が死んだと思っている。俺
の親父を、母さんを、弟達を⋮⋮⋮⋮てめえはぁッッ!﹂
﹁あはははははははッッ!何を怒る必要があるんだい、そんなの当
然の摂理だろう?︱︱強きが生き残り、弱きは死ぬ。赤ん坊でも知
っている事だよ!﹂
じゃあドルガの大切な存在は、そんな理由で死んだと言うのか?
だとしたら、何て酷な話なのだろう。
1386
それではまるで⋮⋮ゴミを駆除された事と、何も変わらないじゃ
ないか。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮正気か?﹂
ドルガからすれば、頭がおかしいとしか言い様が無い。
彼女の一挙一動が摩訶不思議で、全く以て想像がつかない。
﹁︱︱いや正気じゃないよ?あたしは最初から狂っている。子供の
頃から、いや生まれた時からねえ﹂
セラハは彼の一撃を受け止め続けながら、口の端を吊り上げてみ
せる。
ナタを押し出し、ドルガの体勢を崩しに来た。
1387
﹁︱︱ッ﹂
慌てて体勢を直そうとするが、ぬかるみに足を取られ、反撃に移
れる状態では無い。
﹁ねえあんた。もし生まれた頃から﹃縦社会﹄の苦しみを味わされ
たらさ⋮⋮あんたはどう思う?﹂
冷静な口調ながらも、ナタを振るうその手は止まらない。
ガイアは答える事も出来ず、ただ防戦一方の状態を強いられてい
た。
﹁⋮⋮⋮⋮あんたには一生分からないだろうねえ。あたしのこの苦
しみが⋮⋮あのアルバートと比べられた、あたしの苦しみがなああ
ああああッッッ!﹂
﹁︱︱くッ、あ﹂
彼女の追撃が、急に激しさを増す。
ナタを大振りに振るったかと思えば、今度は巧みな動きで最小限
1388
に急所を突いて来る。あまりにも唐突な変貌に、ドルガは成す術も
無い。
そしてドルガの大剣が弾き飛ばされ、彼方森の奥へと消えて行く
始末︱︱
手持無沙汰の彼に対し、無慈悲なナタが振るわれようとする。
これは避けられない。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ああ、もう終わりか。
このまま死んで行くのだろうか。︱︱何も成せずに。
世界が遅く感じる。感覚的な回路がイカレたのか、はたまた死の
訪れを予兆していると受け取っていいのか。
1389
分からないが⋮⋮全てが遅くなる。
セラハの行動も、地に落ちる雨粒達も︱︱
︱︱そして、見たくなかった光景も︱︱
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
⋮⋮刹那、視界が真っ赤に染まる。
混じり気の無い純粋な紅色の液体が、ドルガの頬へと飛び散る。
⋮⋮⋮⋮⋮⋮鈍重なる世界で。
⋮⋮⋮⋮彼女は薄く微笑む。
1390
銀髪を鮮血で染め上げ、漆黒のドレスに紅色が刻まれる。
﹁⋮⋮あ、ああ﹂
︱︱ナタの脅威からドルガを守ったコレット。
最後の力を振り絞って⋮⋮ナタの餌食となった。
﹁⋮⋮コレッ⋮⋮ト⋮⋮﹂
見たくなかった光景︱︱それは、愛しい女性の無残な姿。
泣き叫びたかった、すぐに彼女の元へと走り寄り、泣きながらそ
の身体を抱き締めてやりたかった。
︱︱︱︱でも
1391
それは彼女の望む事では無い。何故彼女が自分の為にその身を犠
牲にし、死を選んだのか?
⋮⋮それを考えると、泣く事は許されない。
ドルガは唇を噛み締める。様々な思いを押し殺し、コレットとい
う女性から授かった希望を︱︱セラハへとぶつける。
倒れ伏す直前のコレットの手から、彼女がずっと愛用し続けてき
た剣を拝借する。
剣を握る手に力を込め、茫然と佇むセラハへと突撃する。
﹁︱︱うおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!﹂
叫ぶ。声が枯れる程叫び上げる。
遅い世界を打ち破り、時はまた元の速さを取り戻していく。
1392
あの二秒か三秒かの世界で味わった苦しみを糧に⋮⋮今、ドルガ
とセラハは激突する。
激しい剣戟の音色が鳴り響く。目まぐるしい攻防は止む事を知ら
ず、二人の殺意が止む事を知らず。
憎む。悲しむ。あらゆる負の感情が、二人を渦巻く。
このまま終わらないかもしれない。この戦いは、双方が引くまで
止まないかもしれない。
⋮⋮しかし、それは幻想に過ぎない。
終わりは唐突にやって来る。
肉を貫く音︱︱それを期に、世界は静寂に包まれる。
1393
﹁⋮⋮⋮⋮ごふッ﹂
極限なるせめぎ合いの末に⋮⋮先に吐血したのは、セラハであっ
た。
ドルガの持つコレットの剣は、見事彼女の腹部を貫いている。大
量の血がセラハの腹から吹き出て、当のセラハは苦痛に顔を歪ませ
る。
︱︱だが、ドルガもまた同様。
セラハとの同士討ちという形で︱︱彼もナタで斬り裂かれていた。
﹁ごほ⋮⋮⋮⋮く、くく⋮⋮やる、じゃないか﹂
﹁ぐっ⋮⋮あ⋮⋮あああッ﹂
ドルガは激痛に駆られ、その場でのたうち回る。
1394
﹁⋮⋮でもさ、あんたはこれで終わりだよね?⋮⋮ふ、ふふ⋮⋮仲
良く死んで行くんだねえ﹂
一方のセラハは何とか立っているが、それでも腹の傷は致命的だ
ったらしい。腹部を手で押さえ、余裕の無い笑みを見せる。
この時点で、勝敗は決していた。
﹁︱︱ッ。ま、て⋮⋮待て⋮⋮え﹂
セラハは足を引き摺らせ、その場から立ち去ろうとする。
待て、逃げるなセラハ。
ドルガは追いかけようとする。その足で、その意思で︱︱
1395
⋮⋮もう、死の間際に立っているというのにも関わらず。
﹁⋮⋮⋮⋮ぐ、ああッ!﹂
ドルガは転倒する。
泥の水溜りに落ちて⋮⋮そして熱が冷める。
悟る。悟ってしまった。
︱︱自分は負け、もう死ぬ運命にあるのだと。
1396
1397
ep28 ︱︱安らぎの眠りへ︱︱
世界は残酷で非道だ。
いつまでも続くと思っていた日々、皆が愛しいと感じていた充実
感。
⋮⋮それは気付かぬ内に築かれ、気付かぬ内に崩壊していく。
まるで走馬灯の様に。
何の遠慮も無くやって来る。
抗う事も出来ず。
ただただ︱︱
1398
︱︱死を受け入れるしかない。
﹁⋮⋮よお、コレット。まだ⋮⋮生きてる、かよ﹂
ドルガは、最愛の彼女に声を掛ける。
倒れ伏すコレットに、何度も⋮⋮何度も。
腕の力だけで全身を引き摺らせ、彼女の元へと近寄る。
﹁⋮⋮なあ、答えてくれよ。いつもみたいによ⋮⋮強気な声を、聞
かせて⋮⋮くれよ﹂
涙声になりながら、ドルガはコレットの身体を抱く。
1399
もう体温さえも感じない。コレットの身体は冷え切っていて、ま
るで美しい人形の様だった。
自分に笑顔を見せてくれない。
何も⋮⋮話してくれない。
ドルガは抱き締める。強く抱き締める。
﹁⋮⋮う、うう。コレット⋮⋮⋮⋮コレットぉ﹂
彼はすすり泣く。
コレット自身がどう思っていたのかは分からない。ただ友として、
好敵手としてドルガと接してきたのかもしれない。
︱︱しかし、ドルガは違った。
1400
小さい頃から彼女の強さに憧れ、尊敬を抱き⋮⋮同時に恋心を抱
いていた。
どんなに悲しい時も、どんなに苦しい時も、彼女が傍にいてくれ
たからこそ、自分は生きてこれた。
⋮⋮そう、ずっと一緒だったのだ。
だから泣くしかなかった。だから⋮⋮絶望するしかなかった。
﹁う、ああ⋮⋮あぐッ⋮⋮う⋮⋮くッ⋮⋮﹂
涙がぼろぼろと零れる。
情けない声は、雨音と共に消える。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
1401
泣いても。泣いても︱︱
それでも、コレットが口を開く事は無い。
どんなに彼が嘆いた所で︱︱もう﹃死んでしまった彼女﹄が、言
葉を発する事は有り得ない。現実的では無い。
︱︱思い出の中の彼女とは、もう会えない。
﹁⋮⋮﹂
ドルガは最後の力を振り絞って、彼女を抱き上げる。
出血がより一層増すが、そんな事は関係ない。虚ろ眼のまま、た
だ正面だけを見据えて⋮⋮無言のまま歩き始める。
歩いて、時々転んで、それでも彼女を抱え直して歩く。
1402
︱︱歩いて、歩いて、歩き続けて。
無我夢中に突き進み。
ドルガは、街道沿いにそびえ立つ大樹の下へと辿り着く。
﹁ぐっ⋮⋮﹂
遂に力を失ったドルガは、大樹へと寄りかかり、崩れ落ちる様に
座り込んでいく。
︱︱もう出る血さえ存在しない。
隣には相も変わらずのコレット。雨のおかげで付着していた血は
洗われ、大樹のおかげで、彼女が濡れる事は無い。
︱︱そう、たったそれだけ。
1403
死んだ彼女の為に、ドルガはここへとやって来たのだ。
﹁⋮⋮⋮⋮何がしたかったんだろうな⋮⋮俺。⋮⋮これじゃ、ただ
馬鹿みたいに歩いて来ただけじゃねえか﹂
力なくそう呟き、漆黒の夜空を見上げる。
⋮⋮気付けば、雨が止もうとしている。
曇り空から眩い満月が姿を現し、ドルガとコレットを仄かに照ら
す。今まで真っ暗だった世界が、鮮明に見え始める。
︱︱ふと、コレットの顔がドルガの肩へと乗る。
1404
﹁︱︱︱︱﹂
その表情を見た瞬間、ドルガは僅かに動揺した。
⋮⋮コレットは、微笑みを浮かべていたのだ。
まるで好きな人と共に過ごしているかの様に、愛しい余り想い人
の傍に寄り、甘えてくるかの様に⋮⋮彼女は微笑していた。
﹁⋮⋮﹂
ドルガは彼女の手を握る。
1405
しっかりと、絶対に離さないという勢いで。
﹁⋮⋮⋮⋮なあ、コレット。お前はもうさ⋮⋮天国に行ってるのか
?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁俺も⋮⋮行けるかな。⋮⋮⋮⋮行けたら⋮⋮⋮⋮いつものお前に
⋮⋮会える、かな﹂
彼女は返事をしないが、それでもドルガは問いかける。
1406
自分達が行き着く場所は、争いも憎しみも無い⋮⋮本当の平和が
存在する世界なのだろうか?
︱︱自分達は、もう戦わなくてもいい世界なのだろうか?
だとしたら⋮⋮何て素晴らしい世界なのだろう。
﹁⋮⋮ああ、やばい。⋮⋮何か、眠くなってきたよ⋮⋮⋮⋮﹂
ドルガもまた笑みを浮かべ、コレットに寄り添う。
安らかな心のまま。
ただ眠気に誘われて。
1407
彼もまた、眠りにつく事にした。
︱︱二人は愛し合いながら、まだ見ぬ楽園を夢見て
1408
ep29 ︱︱継承の時︱︱
ガイアは走り続ける。
自分の出せる最大限の力を振り絞って︱︱走り続ける。
既に雨は止み、地平線の彼方から朝日が立ち昇りかけている。ド
ルガとコレットと別れて、もう二時間以上が経過しているようだ。
歩み慣れた岬へと辿り着き、そのまま海岸沿いをひたすら走り続
け、目的の桟橋へと向かう。
︱︱疲労はもう限界に達している。
世間を賑わせた英雄も、歳には勝てないものだ。こうして走った
だけでも息切れを起こし、心臓が張り裂けそうなのだから。
⋮⋮だが、あともう少しだ。
1409
桟橋はすぐそこだ。あの崖下の壁を曲がれば、桟橋は︱︱︱︱
ザシュッ
﹁︱︱ッ。ぐ、は⋮⋮ぁッ!﹂
突如、ガイアの背中に激痛が走る。
あまりの痛さに態勢を崩してしまい、浜辺へと倒れ込む。
﹁ガイアおじいちゃんッ!?﹂
身を投げ出されたゼノスは泣きもせず、激痛に苦しむガイアの傍
へと寄る。
1410
︱︱その背中から、大量の血を流していた。
背中にはあの女が⋮⋮セラハの持っていたナタが刺さっていた。
﹁鬼ごっこはそこまで⋮⋮ご苦労様。うふ、うふふふ﹂
︱︱案の上、後方にはセラハが佇んでいた。
全身は真っ赤な鮮血に染められ、始原旅団の持つ戦闘衣は純白の
色から一転、紅色になっていた。
⋮⋮その鮮血は、セラハのものだけでは無い。
鮮血はとある勇敢な騎士達のものであり、混じり気の無い純潔を
帯びた血。猛き証であって、その血はどこまでも紅く⋮⋮生暖かい。
1411
血はセラハの全身を塗りつぶし︱︱そして、
︱︱彼女が両手に持つ長い銀髪と、短い金髪をも染め上げる。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮ッッ!﹂
ガイアの視界は一気に歪む。
今垣間見える光景が信じられなくて、信じたくなくて⋮⋮これは
夢だと。これは嫌な夢だと、目前の現実を否定しようとする。
その髪は間違いなく︱︱愛しき弟子達の髪であった。セラハはあ
えて髪を見せつけ、ガイアを絶望の淵へと落とそうとする。
信じたくない。信じたくないが︱︱
⋮⋮事実は事実なのだ。
1412
絶望に苛まれるガイアを見て、セラハはニヤリと笑む。
彼女にとって、人の絶望は蜜の味。人が悲しむ姿は、彼女に至高
の喜びを与えてくれる。
﹁︱︱あの二人、中々の腕前だったよ。特にあの男、しぶとく食い
下がってさあ⋮⋮⋮⋮。結構時間は掛かったけど、何とか殺してあ
げたよ﹂
詩人が悠長に語る様に、ありのまま全てを語る。
﹁⋮⋮⋮⋮貴様。貴様ぁッ!︱︱ぐっ﹂
ガイアの怒りは空しく、激痛には勝てなかった。
⋮⋮無念だ。今日ほどこの老体を恨んだ日は無いだろう。こんな
傷一つで、満足に立ち上がれもしないなんて⋮⋮。
立ち上がれ⋮⋮あの頃の自分は何処に行った!?
冥界の覇王と一騎打ちをした時も、最高神との死闘の時も苦戦し
た。けれども、それでも自分は立ち上がり、勝利してきたではない
1413
か!
何故立てないッ。何故⋮⋮何故ッ!
﹁ふふ、動けない?︱︱でもさ、﹃あんた﹄はこれで終わりじゃな
いよね?私はまだ満たされていない、まだあんたに恋い焦がれてい
る。⋮⋮さあ、全てをぶちまけよ?﹂
セラハはゆらり、ゆらりと近づいてくる。
まるで悪鬼の如し。その言動と行いは、およそ人間の所業とはか
け離れている。⋮⋮流石、始原旅団の﹃忌むべき悪魔﹄と言われた
だけある。
﹁ち、近寄るな!おじいちゃんに何をしたんだよッ!﹂
﹁⋮⋮おやあ﹂
ゼノスの叫びに反応し、セラハはガイアの傍にいる小さな少年を
見る。
その少年はガイアにすがり付きながら、涙目の状態でセラハを睨
1414
みつけている。勇ましさとは程遠いが、内には秘めたる強い何かが
存在している。
その何かを悟り、セラハはある事に気付く。
﹁⋮⋮⋮⋮その目、ガイアと同じ目だねぇ。⋮⋮あたしが世界で一
番大嫌いな瞳だよ⋮⋮⋮﹂
セラハは憎悪を込めて、ゼノスとガイアに呟く。
﹁⋮⋮そうか。嗚呼、そうか。ガイアはよく分かっているねえ⋮⋮
このあたしの為に、美味しい犠牲を一つ追加してくれたわけか﹂
﹁⋮⋮﹂
ガイアは息を荒げたままで、答える気は無かった。
彼はどこまでも冷静に、そして強固な意志をセラハにぶつけてく
る。
1415
﹁︱︱︱︱何だよ、その態度。ねえ、何で襲ってこないのさ?⋮⋮
⋮⋮ああ気に入らない。気に入らないねえ。⋮⋮まさか、老いがそ
こまで体を弱らせているなんてね﹂
セラハは顔を歪ませる。
彼の全てに幻滅し、思い描いていたガイアとは違ったらしい。
戦いに全てを委ね続けてきたセラハ。喜びも、苦しみも、その全
ては戦いから生まれていく。
だから、聖騎士であるガイアに期待していたのに。
⋮⋮がっかりだ。
最強の騎士も、今では名ばかりか。
﹁⋮⋮⋮⋮そんなお前に飽きちゃったから、そのガキ諸共すぐに殺
してやるよ﹂
1416
途端、セラハの声質が下がる。
恐ろしい程の殺気が周囲を包み込み、セラハは腹立たしげな様子
で首を鳴らす。
︱︱そして、一直線にこちらへと向かってくる。
﹁⋮⋮シネ﹂
セラハは拳を握り締め、ガイアとゼノスを殴り殺さんと掛かって
くる。
早い。傷を負っているにも関わらず、何て速さだ。
今のガイアは深手を負っていて、その速さには付いて行けない。
どう抗った所で、このまま行けば殴り殺されるだろう。
1417
⋮⋮だが、ガイアは恐れない。
まるで勝利を確信したかの様に、薄く笑む。
⋮⋮⋮⋮セラハ。お前には分からないのか?
お前の背後に︱︱︱︱お前にとっての﹃死神﹄がいる事を。
⋮⋮ようやくセラハもその殺気を感じ取った。
そして振り返ろうとする直前︱︱︱︱
﹁︱︱死ぬのはお前じゃよ、セラハ﹂
1418
﹁⋮⋮は?﹂
セラハはその声を聞き、呆気に取られる。
それはガイアとはまた違った、しわがれた声。しかし抗いきれぬ
覇気が含まれており、セラハの殺気はその覇気によって掻き消され
る。
⋮⋮その現象は一瞬だった。
かの声音と共に、セラハの両腕は瞬時にもぎ取られる。
﹁︱︱︱︱︱︱ッッ。あ、あああああああああああああああああッ
ッ!﹂
1419
さあ、今度はセラハが苦しむ番である。
絶叫を鳴り響かせ、彼女の血潮は白き浜辺に舞い散る。
﹁い、痛い⋮⋮痛い、よお⋮⋮⋮⋮﹂
セラハの声は一変、年頃の少女らしき声音に変わる。
︱︱だがそれでも、しわがれた声の主は容赦などしない。
ドルガ以上に大きな体を持つ声の主︱︱アルバート・ヴィッテル
シュタインは、怒涛の勢いでセラハへと接近し、その脇に蹴りを入
れる。
﹁ぐ、あ⋮⋮⋮⋮﹂
重い。とてつもなく重い。
セラハの脳が揺れ、肋骨を何本も折られる。
その身体は吹っ飛びそうであったが、アルバートは更なる攻撃を
1420
加える。
彼女の首を掴み、力強く締め上げる。
﹁かッ⋮⋮は﹂
本当に容赦がない。
心を鬼にしたアルバートに、孫娘への思いやりは皆無であった。
﹁⋮⋮⋮⋮これも運命じゃ。︱︱死んでくれ﹂
︱︱アルバートは、何の感情も出さないままそう告げる。
﹁あ⋮⋮⋮⋮お、おじい⋮⋮ちゃ⋮⋮⋮⋮︱︱︱︱ッ﹂
1421
彼女は何かを言おうとする。
︱︱だが、はっきりとは言えない。口に出せないと分かったセラ
ハは、乞う様な瞳をアルバートにぶつけてくる。
﹁ッ。︱︱︱︱はあああああああああああああッッ!﹂
アルバートは慈悲を投げ捨てる。
セラハが言い終える前に、アルバートは残酷にも彼女の心臓を手
で貫く。
それで終わりだった。あのドルガやコレットでさえ弄ばれ殺され
たのに⋮⋮アルバートはセラハを他愛も無く仕留めた。
﹁⋮⋮⋮⋮全く、相変わらず⋮⋮非道な男、だ﹂
1422
︱︱そう、全ては必然。ガイアは最初から分かっていた。
この親友が来てくれると理解した上で、勝利を確信していた。
⋮⋮⋮⋮しかし、
﹁うっ⋮⋮ごほッごほっ。⋮⋮はあ、はあ⋮⋮﹂
セラハの死体を打ち棄て、アルバートがガイアの容態を見る。
﹁⋮⋮傷が深い。聖騎士であろうお前が⋮⋮なぜ﹂
アルバートは変わり果てた友の姿を見て、愕然とした思いで呟く。
彼の知るガイアは、それはもう気高く素晴らしい騎士の一人であ
った。どんなに傷付いても立ち上がり、意にも介さず敵へと向かっ
ていく。
1423
それこそが白銀の聖騎士、ガイア・ディルガーナ。
だが今目の前にいる老人は⋮⋮アルバートの知るガイアでは無い。
これではただの老いぼれだ。
︱︱認めたくない。これが宿敵の末路など⋮⋮断固として。
﹁⋮⋮老いには勝てぬものだよ。⋮⋮⋮⋮というか、お前の方が⋮
⋮異常だよ﹂
ガイアはその思いを察したのか、静かに答える。
薄々感じてはいた。
1424
日々自分の身体が衰えている事を。ここ最近では剣を振るう所か、
歩く事さえやっとなものだった。
すぐに息切れを起こし、事あるごとに古傷が疼く。
︱︱そして最後に、セラハの一撃。
老人を殺傷する力としては、十分なものであった。
﹁⋮⋮もういい、話すんじゃない。とにかく傷の手当だけでも﹂
と、アルバートが手当をしようとした瞬間。
ガイアは震えるその手で彼の腕を掴み、首を横に振る。
﹁⋮⋮無駄だよ。傷は思ったよりも⋮⋮深いようだ。⋮⋮⋮⋮それ
に、私がこうなる事ぐらい⋮⋮君も分かっていた、だろ?﹂
1425
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
アルバートは無言のまま、荒い溜息を吐く。
ああそうだ。そんな事、話を聞いた時から承知していた。
﹁︱︱じゃが、お前はまだ生きとる!何を死に急ぐ必要があるッ!
?﹂
﹁⋮⋮死に急ぐ、か﹂
ガイアは朝焼け空を見上げる。もはや視界は霞んでいて、その雄
大で美しい光景を堪能する事は叶わないが、それでも見上げ続ける。
﹁⋮⋮⋮⋮なあ友よ。⋮⋮これは、﹃必然﹄なんだよ﹂
﹁必然、じゃと?﹂
﹁ああそうだ。⋮⋮私が死に行く時は、今ここに。︱︱そして、次
なる世代が活躍する時が、今ここから⋮⋮始まるのだよ⋮⋮﹂
1426
そう言ってガイアは懐を漁り、ある古びた書物を取り出す。
﹁⋮⋮ゼノ、ス。どこに⋮⋮いる?﹂
﹁ここだよ⋮⋮うぐっ。ちゃんと目の前に⋮いるよ﹂
ゼノスは涙声のまま、小さな手でガイアの手を握り締める。
一方のガイアは、既にゼノスの姿も見えていない。だがその手の
温もりを感じ、近くに居るのだと認識する。
︱︱生の灯が消える直前。まだ幼いゼノスでも、ガイアという大
切な存在が死ぬのだと分かっていて、嗚咽を漏らし続ける。
涙が止まらない。悲しみが消えない。
1427
⋮⋮でも、ここで泣き叫ぶ事は出来ない。
今ガイアは、ゼノスに何かを渡し、何かを伝えようとしている。
⋮⋮ゼノスはぐっと堪える。ガイアの期待に応える為にも⋮⋮ジ
ッと。
書物を持つガイアの震える手は、ようやくゼノスの胸元へとやっ
て来る。渡し終えたガイアの手は、そのまま地面へと落ちる。
一刻、また一刻と。
彼の生命が、段々と消えて行く。
﹁⋮⋮⋮⋮いいか、ゼノス。⋮⋮これから先、お前は様々な困難に
出会うだろう。⋮⋮喜びもあれば、苦しみもある。そして⋮⋮人生
に迷う時が、必ずやって来る筈⋮⋮。その時はこの本を、その目で
1428
括目するがいい⋮⋮﹂
人生は長い。長ければ長い程、辛い事は沢山ある。
ゼノスは騎士になりたいと言った。あの誇り高くも、どんなに苛
酷な運命をも跳ね除ける、あの悲しき存在に。
結局の所、ガイアはゼノスに何も教える事が出来なかった。勿論
幼いからこそ教えなかったという理由もあるが、重要な所はそこで
は無い。
︱︱出来る事ならば、ゼノスには普通の人生を歩んで欲しかった。
ガイアには分かるのだ。この少年の本質が⋮⋮手に取る様に分か
ってしまったのだ。
⋮⋮ゼノスは戦いに向いていない。彼は優し過ぎる。
1429
この先過ちを犯したら、ゼノスという騎士は間違いなく壊れるだ
ろう。
ガイアはそんな騎士の人生を歩んで欲しくない。︱︱それは今で
も思っている事。
⋮⋮だが、やはりこれも必然なのだ。
聖騎士ガイアの死により、ドルガとコレットの死により⋮⋮ゼノ
スはこれから、一人で生きていかなければならない。
︱︱そうなれば、いつか必ず騎士になってしまうだろう。
だから、ガイアはこの書物を託した。この書物には騎士道精神の
何たるかを自身の手で執筆し、書き上げた物だ。
騎士道精神、剣術の心得、騎士としての基本的な作法。
1430
︱︱そして、﹃聖騎士流剣術の心得﹄と﹃聖騎士の鎧の在り処﹄
も︱︱
⋮⋮今ここに、聖騎士ガイアは全てを託し終えた。
﹁︱︱ッ。はあ⋮⋮はあ﹂
駄目だ、もう何も見えない。何も感じない。
死の恐怖が、ガイア・ディルガーナに襲い掛かってくる。
﹁ッ。おじいちゃん、しっかりしてよ!﹂
ゼノスは一生懸命ガイアの身体を揺さぶる。一方のアルバートは、
友の死をただジッと見据えていた。
1431
﹁⋮⋮⋮⋮は、はは﹂
ふと、ガイアは微かな笑いを零す。
罪悪感で満ち溢れるこの心。ドルガとコレットの死を悔やみ、聖
騎士としての宿命を果たせなかったこの自分を笑う。
何と情けない事か。
︱︱自分の人生は、呆気なくも寂しいものだった。
﹁⋮⋮すまないなあ、ゼノス。⋮⋮⋮⋮聖騎士としての宿命を⋮⋮
⋮⋮どうか、どうかお前の手で⋮⋮終わらせて⋮⋮く、れ⋮⋮﹂
1432
⋮⋮⋮⋮。
⋮⋮。
その瞬間、一つの生が消える。
眩い朝日と共に、その魂は天へと召されていく。
1433
﹁おじいちゃんッ!おじいちゃんッ⋮⋮⋮⋮うあああああああああ
ああああああああッッッ!!﹂
ゼノスの絶叫が、浜辺中に響き渡る。
⋮⋮嗚呼。
1434
白銀の聖騎士ガイア・ディルガーナの人生が、今幕を閉じた。
1435
ep30 ︱︱役目を果たした者達︱︱
アルバートは隙を見て、始原旅団が﹃元﹄グラナーデ王城に集結
している間に﹃ある人物達﹄を探していた。
現在は一人。あれからゼノスは精一杯泣き叫び、そのまま崩れる
様に倒れ伏してしまったので、舟に置いてきたのだ。あそこまで始
原旅団共が襲ってくる心配は無いだろう。
⋮⋮ゼノスは、相当ショックだったのだろう。⋮⋮無理も無い。
それはアルバートとて同じだ。︱︱例え多くの同胞を殺した憎き
相手だったとしても、心の中には確かに奴と友情が芽生えていた。
死闘を繰り広げていたかと思えば、途端に共闘し合ったり。いが
み合ったかと思えば、直後に杯を交わしたり。
1436
大切な者を失った時は、共に泣いてくれた。
思えば、いつもガイアが傍にいたかもしれない。始原旅団を抜け
た後は、それはもう毎日の様に。
馬鹿をやったり、泣いたり、笑ったり。
殺すとか死ねとか言いつつも⋮⋮あいつを親友として見てきた。
何年も⋮⋮何十年もだ。
ゼノスのみならず、自分だって悲しい。
﹁⋮⋮﹂
ふと、アルバートはある場所で足を止める。
浜辺から街道へと歩き続け、街道を少し行った先。誰かが植えた
のであろう美しき花々が咲き誇る花畑にて⋮⋮⋮⋮ある場所を見据
える。
1437
街道から離れ、その花畑へと足を踏み入れる。
朝日と共に花弁が舞い、涼しい海風が辺りを漂う。
花畑の中央にそびえ立つ、どの木々よりも大きい大樹の前へと、
アルバートは辿り着く。
﹁⋮⋮これは﹂
そこで見た光景に、アルバートは呻きを漏らす。
︱︱︱大樹には、血塗れの男女が横たわっていた。
その有様だけで、彼等が如何なる激闘を繰り広げたかが分かって
1438
しまう。余程の苦しみを味わい、激痛の果てにこのような結果にな
ったのだろう。
⋮⋮だが彼と彼女の顔は、どこか幸せそうだった。
互いが互いの手を握り合い、寄り添う様にして⋮⋮まるで眠って
いるかの様に、死んでいる。
アルバートは両手を添え、祈りを捧げる。
⋮⋮果たして、彼等はあの世で幸せに過ごしているのだろうか。
生という苦しみの無い天国で、互いに愛し合うこの二人は⋮⋮永
遠の愛を築けているのだろうか。
それは誰も分からない。
死んだ者に何を語り掛けても、意味が無い。
1439
︱︱しかしそれでも、彼等に伝えたい事があった。
その為に足を運び、この者達に会いに来たのだ。
アルバートは彼等の前で片膝をつき、今度は握りこぶしを胸に当
てる。
それは同じ騎士に対する、尊敬の意を表する姿勢。
そして、彼等に伝えたかった言葉を紡ぐ。
﹁⋮⋮⋮⋮若き騎士らよ。お前達の守り抜いた者は、確かにこのア
ルバートが預かった。︱︱だから友と同様、安心して眠られよ﹂
⋮⋮風は強みを増していく。
1440
花々はより一層花弁を飛ばし、世界に豊かな色彩を与える。
まるで二人の死を受け入れ、祝福するかの如く⋮⋮舞い続ける。
1441
ep31 ︱︱夢の終焉︱︱
壊れる、嗚呼全てが壊れて行く。
見慣れた風景は灰色に色褪せ、心優しかった人々は砂となって散
る。下卑た笑い声と勝鬨を叫ぶ怒号が交差し⋮⋮全てを略奪し尽く
す。
これは単なる侵略であり、この世界ではよくある出来事だ。
大国が小国を占領し、強者が弱者を狩る。
弱肉強食の連鎖に、ただグラナーデ王国という小国が犠牲になっ
たに過ぎない。
それは世界にとって、些末な出来事。
1442
︱︱だがゼノスという子供の人生は、ここで大きく変化した。
⋮⋮夢は激動を描く。ゲルマニアに、断片的ながらもその真実を
曝け出す。
幼きゼノスは全てを明かされる。アルバートと名乗る老騎士から、
あの日起きた出来事を⋮⋮全て。
﹃⋮⋮嘘だ。ドルガ兄ちゃんが⋮⋮コレット姉ちゃんが死ぬなんて
ッッ!﹄
﹃︱︱現実じゃよ。⋮⋮⋮⋮お前を、守る為にの﹄
﹃嘘だ⋮⋮⋮⋮嘘だああああああああああああああああッッッ﹄
1443
ゼノスは絶望し、この世を憎んだ。
育ての親であるガイアが死に、自分を弟の様に面倒掛けてくれた
二人も死んで行った。⋮⋮そして、故郷と化したグラナーデ王国も。
孤独の旅が、始まる瞬間︱︱。
︱︱︱︱時は移ろい行く。
少年期を迎えたゼノスは、最年少でとある傭兵団へと入り、そこ
で壮絶なる人生を送る事になる。
騎士を目指し始めた彼に襲い掛かるのは⋮⋮度重なる不幸と現実。
1444
﹃ありがと、ゼノス。⋮⋮そして、さようなら﹄
ゼノスは旅先で出会った街を救えなかった。
幼く弱いという理由で戦場に駆り出されず、結局言う事を聞かず
に戦場へと出て⋮⋮⋮⋮結局、自分を好いてくれた少女と街を救え
なかった。
﹃それでも騎士になりたいのかよ⋮⋮あんな誰も救わねえ連中みた
いにッ!﹄
ゼノスは親友の家族を救えなかった。
1445
奢り高ぶった領主の騎士達が村を破壊し尽くし、村娘が犯され、
男たちが斬殺される光景を⋮⋮ただ傍観する事しか出来なかった。
騎士になると言うと、よく傭兵団の仲間から笑われたものだ。
⋮⋮⋮⋮人間の屑である騎士に、ならない方がいいと。
︱︱︱︱時は移ろい行く。
⋮⋮一体自分は何人、大切な存在を無くしたのだろう。
殺され、犯され、虐殺され、奴隷にされ、敵にされ⋮⋮⋮⋮そう
した光景を、ずっと見てきた。
1446
騎士の汚職も、仕える筈の主の醜さも、その目でしかと見据えて
きた。
泣いて、悲しんで、頭がおかしくなる様な出来事が多くて︱︱い
つしか、自分さえも見失った。
︱︱騎士とは何だ?
段々とゼノスは、その意味さえも分からなくなってきた。
これは仕方ない事であった。だってゼノスが見てきた騎士達は、
全て傲慢で欲深い⋮⋮あのガイアやドルガ、コレットの様な騎士が
全くいなかったからだ。
⋮⋮だから、彼は彷徨い続けていた。
1447
︱︱騎士になる筈だった少年は、単なる殺人狂と化していた。
この世の全てに絶望し、あらゆる人間が汚く見える。
全てを救えなかったという思いが自暴自棄を呼び起こし、その捌
け口は戦場へと向けられる。
﹃⋮⋮俺は⋮⋮⋮⋮俺はッ。どうすれば︱︱︱︱ッ!﹄
︱︱殺し尽くした、醜き人間達を。
1448
騎士になるという夢も潰え、ゼノスは剣を振るい︱︱殺す。
とにかく殺した。身近な人々を奪った奴等を、権力を無用に振り
翳し、暴挙に出る権力者達を⋮⋮沢山、沢山。
彼の人生には︱︱色々ありすぎた。
﹁⋮⋮やめて、ゼノス﹂
ゲルマニアは一生懸命に手を伸ばし、彼の背中を掴もうとする。
しかし届かない。
どんなに彼の名を呼んでも、振り向いてくれない。
1449
笑い叫び、涙を流し続ける彼の殺戮を⋮⋮止める事が出来ない。
︱︱ゼノス、ゼノスッ⋮⋮⋮⋮ゼノ、ス
ゲルマニアは何度も呼び続ける。
ぼやけていた思考が鮮明になっても、何度も、何度も。
この夢が終わる、その時まで︱︱
1450
1451
ep32 皇帝とは何か
﹁︱︱︱︱ッ。ゼノスッ!﹂
ゲルマニアはがばっと起き上がる。
隣に眠っているだろう彼を見ようと振り向くが⋮⋮彼は愚か、そ
こは自分とゼノスが寝ていたベッドでは無かった。
冷え切った石畳の上で、格子の付いた牢屋でゲルマニアは目を覚
ました。
﹁⋮⋮ここは﹂
﹁︱︱見ての通り、牢屋ですよ。ゲルマニア﹂
1452
突如声が聞こえ、聞こえた方へと振り向く。
⋮⋮自分と同じ牢屋の隅っこに、いつもの簡素な服装をしたアリ
ーチェが座り込んでいた。
﹁ア、アリーチェ様⋮⋮。という事は、ここは現実世界⋮⋮﹂
何故アリーチェがここに、と疑問に思うよりも前にその言葉が口
に出る。
最後の一言に、アリーチェが敏感に反応する。
﹁⋮⋮やはり貴方も夢を体験していたのですね。⋮⋮ある一人の騎
士の夢を、ずっと﹂
﹁︱︱ッ。⋮⋮まさか、アリーチェ様も?﹂
ゲルマニアの問いに対し、アリーチェは若干俯いたまま頷く。
﹁⋮⋮そんな﹂
1453
これは一体どういう事なのだろうか。
何故ゼノスの夢を、ゲルマニアとアリーチェは垣間見る事が出来
たのだろうか?
︱︱いやそもそも、あれは本当に夢だったのか?
ゼノスの夢であるならば、彼自身が見てきた記憶しか見れなかっ
た筈。⋮⋮しかしあの夢は、第三者の視点も存在した。
⋮⋮理解不能。と、言いたい所だが。
先程から発せられる気配に対し、ゲルマニアはその方向を睨みつ
ける。
﹁︱︱隠れてないで、出てきたらどうですか。一般人を欺けても、
私を欺く事は出来ませんよ﹂
1454
﹁えっ﹂
アリーチェが驚きの声を漏らしたと同時、
﹃⋮⋮あら、もうバレてしまったのね。残念ですわ﹄
麗しき声音は、格子の向こう側から聞こえてきた。
今まで何も無かったそこに、人型の影が生まれる。その影は徐々
に色を含み、やがて赤いドレスの女性が現れる。
彼女は仰々しく、不気味な笑みを浮かべながら低頭してくる。
﹁おかえりなさい、悪夢より脱出せし者達。︱︱そしてようこそ。
この私、エリーザが織り成す﹃死の世界﹄へ﹂ その身体から発せられる雰囲気に、ゲルマニアは確信を持つ。
﹁エリーザ、貴方はギャンブラーですね。⋮⋮この騒動を引き起こ
1455
した張本人﹂
ゲルマニアは憎々しげに問う。
﹁うふふ、左様ですわ。︱︱今の主、マーシェル様の命令によって
ね﹂
﹁⋮⋮マーシェル﹂
やはりか。
ホフマンの言う通り、貴族とシールカード勢力は手を組んでいた。
⋮⋮いやこの場合は、マーシェル単体が彼等と競合している事にな
るかもしれない。
﹁⋮⋮目的は何ですか?﹂
﹁ふふ、そんな事分かっているじゃないの。シールカードは始祖を
奪還する為に戦う。それだけの事ですわ﹂
1456
さも当然のように答えるエリーザ。
確かにその通りだ。結局の所、シールカードという連中はそれだ
けの為に活動している。
﹁⋮⋮そうですね、では質問を変えましょう。︱︱貴方達は、組織
として形成されているのですか?﹂
核心を突いたその言葉に、周囲の空気は一変する。
ゲルマニアは心の奥底を探るかの様にエリーザを凝視し、エリー
ザもまた見定める様に、値踏みするかの如く見据え続ける。
一触即発とまではいかないが、両者は警戒し合っていた。
﹁さあ、どうでしょう。私が言った所で、それが嘘か真かの見分け
がつかないと思いますわ﹂
﹁なら、その証拠を出して貰いましょうか。︱︱さもなくばッ!﹂
1457
ゲルマニアは太ももに仕込んでいたナイフを取り出し、それを投
擲する。ナイフは格子の間をすり抜け、エリーザ目掛けて飛来する。
しかしエリーザの姿は失せ、ナイフは空を切る結果となった。
﹃︱︱あら、随分と野蛮な行為に出ますわね。それでは淑女として
失格ですわよ?﹄
﹁黙りなさい!それに皇帝陛下へのこのような侮辱、決して許され
るものではありません!﹂
更にエリーザの作る悪夢は、屋敷内の人間全てに与えられている
事だろう。
貴族や騎士達はおろか、あの六大将軍達でさえも術中に嵌ってい
る。そう捉えた方が現実的だろう。
⋮⋮皆が今、自らの過去を体験しているのだ。
1458
苦しみながら、このエリーザの手によって。
﹃威勢がよろしい事で⋮⋮。面白い、特別に機会を与えてあげまし
ょう﹄
静寂の中、指を鳴らす音だけが鳴り響く。
﹁⋮⋮な﹂
ゲルマニアは驚きを露わにする事になる。
何と、エリーザはゲルマニア達のいる牢を解放したのだ。
﹃丁度退屈をしてましたの。皆を救いたければ、せいぜい抗ってみ
なさいな。⋮⋮この混沌とした幽霊屋敷で、可能な限り。⋮⋮ふふ、
うふふ⋮⋮﹄
最後にエリーザは高笑いをし、気配も徐々に消して行く。
1459
気付けば、牢の隅っこにゲルマニアの大剣が置かれていた。恐ら
くエリーザがこの余興を盛り上げようと、わざわざ配慮して置いて
くれたようだ。⋮⋮全く、ふざけている。
だがこの場で待っているだけでは、この絶望的な状況は打破され
ない。
﹁⋮⋮くっ﹂
自らの大剣を持ち上げ、背中に担ぐ。
︱︱今は六大将軍を頼れない。白銀の聖騎士を頼れない。
ゲルマニアだけが唯一戦える存在であり、同時に皇帝陛下を守れ
る唯一の騎士だ。
自分がやらずして、誰がやるのか。
⋮⋮ゲルマニアは深呼吸をし、覚悟を決める。
1460
髪をいつもの様に一括りにしながら、牢屋を出る。
﹁⋮⋮さ、アリーチェ様。とにかく牢屋から出ましょう。ここも安
全とは言えませんし、一刻も早くゼノス達を⋮⋮⋮⋮⋮⋮アリーチ
ェ様?﹂
声を掛けても、手を伸ばしてもアリーチェは反応を示さなかった。
暗い表情のまま地面を見つめ、その手は僅かに震えていた。
﹁⋮⋮⋮⋮先に行ってて下さい、ゲルマニア。今の私では、足手ま
といなので﹂
﹁⋮⋮﹂
ゲルマニアは手を引っ込める。
アリーチェは明らかに怯え、苦悩していた。
1461
﹁ですが、それではアリーチェ様の身が心配です。⋮⋮さ、お手を﹂
と、ゲルマニアが再度手を伸ばした時だった。
︱︱パンッ。
甲高い叩く音と共に、ゲルマニアの手に微かな痛みが過る。
そのか細い手を叩いたのは⋮⋮アリーチェだ。
﹁︱︱だから、私では足手まといだと言ってるのですッ!﹂
﹁⋮⋮アリーチェ、様﹂
彼女が怒鳴るなんて、生まれて初めてじゃないだろうか。
1462
息を荒げ、ゲルマニアを睨むアリーチェ。
だがそれも束の間、その目尻に涙が溜まり、涙腺を伝って零れ落
ちて行く。もう耐え切れず、嗚咽を漏らし始める。
﹁⋮⋮⋮⋮私は、この短時間で見てきました。⋮⋮ランドリオ帝国
に仕える、最強の六大将軍⋮⋮その全員の過去を﹂
﹁⋮⋮え﹂
アリーチェは思いも寄らぬ真実を打ち明ける。
︱︱彼女は聖騎士ゼノスだけではなく、六大将軍全員の過去を見
てきた。あの壮絶で、悲しき物語を⋮⋮。
1463
彼等が最強たる所以、彼等がどうして人智を超えてしまったのか。
⋮⋮それは紛れも無く、凄まじい絶望を味わってきたからだ。
︱︱アリーチェは見てきた。
︱︱祖父の様な存在と、兄と姉の様な存在を失った少年を。
︱︱弟に、師と門下生達を皆殺しにされた少女を。
︱︱人種差別に遭い、奴隷という宿命を担った少女を。
︱︱妻を奪われ、怒り狂って覇者へと上り詰めた青年を。
1464
︱︱貧困の家族を救う為、貴族の裏社会へとのめり込んだ少年を。
︱︱竜の王を務め、千年以上も人間から虐げられてきた男を。
皆、苦しんでいた。泣いていた。とても弱かった。
でもそれでも、彼等は進んで行った。
負けない思いを心に秘め、いつか訪れる平和と希望を夢見て、自
分こそがその体現者になろうと努力し⋮⋮いつしか最強と呼ばれる
ようになった。
1465
⋮⋮⋮⋮だけど、アリーチェはどうだろうか?
彼女は今でも弱いままだ。皇帝という六大将軍を従える身分にあ
りながら、未だ自分の意思で動く事が出来ない。挙句の果てにはマ
ーシェルという貴族に翻弄され、それでも口を挟む事も出来ない。
⋮⋮悔しい。
彼等は頑張って乗り越えたのに、何故自分は出来ない?
何故自分は⋮⋮この少女騎士に、本音を漏らす事しか出来ないの
か。
﹁︱︱助けて。助けて⋮⋮よおッ﹂
彼女は涙を流しながら、誰かも知らぬ者に助けを乞う。
1466
その人物が目前の少女に対してなのか?⋮⋮それとも、今はいな
いゼノスに対してなのか?
⋮⋮きっと、後者であろう。
アリーチェは今、ゼノスしか考えられなかった。
彼は憧れの対象、彼は正義の騎士。そしてアリーチェにとって、
頼れる人間でもあり、想いを寄せる唯一の人。
弱い自分をどこまでも支えてくれるはずだ。
いつでも、如何なる時でも⋮⋮
だから自分は、頑張らなくても︱︱
1467
﹁甘えないで下さい、アリーチェ﹂
凛としたゲルマニアの叱咤が、アリーチェの耳に入る。
ハッとし、彼女の顔を見上げると⋮⋮そこにはいつもと違う、険
しい表情をしたゲルマニアがいた。
﹁⋮⋮ゲルマニア﹂
﹁︱︱今の貴方は皇帝陛下です。例えどんなに拒絶しようと⋮⋮例
えどんなに助けを乞いても⋮⋮⋮⋮誰も助けてはくれません﹂
﹁︱︱ッ﹂
1468
結局、弱い皇帝は見放される。
アリーチェは自分の意思で即位したわけでは無い。十六歳の少女
にとってその地位は半端では無い事ぐらい、ゲルマニアも分かって
いる。
⋮⋮だが、このままではいけない。
遠回しにそう告げるゲルマニアだが、それは見損なったとか、も
う付き合いきれないだとか、そういった意味合いで告げたのでは無
い。
皇帝は誰も頼ってはいけない。強く在るしかない。
それはゲルマニアなりの、彼女に対する問いかけでもあった。
﹁⋮⋮道中で考えて見て下さい。︱︱貴方の後ろに、誰がいるのか
を﹂
1469
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ゲルマニアは強引に彼女の手を掴み、共に牢屋を出る。
行く先は死霊共がうろつく世界。頼れる者は誰もいないその世界
に、今二人の少女が立ち向かっていく。
一方のアリーチェは、今度は抵抗しなかった。
ゲルマニアに引かれるまま、ただ茫然としていた。
考えていた。
1470
︱︱自分の後ろに、誰がいるのかを。
1471
ep33 不死の女王
死の舞踏会は開幕していた。
ゲルマニア達が牢屋を出ると、辺り一面は異様な雰囲気に包まれ
ている。どこからともなく怨嗟の嘆きが反響し、複数の視線が疾走
するゲルマニア達を見送る。
生と死の狭間。現実とは程遠い感覚に、自然と二人の脳裏に恐怖
という言葉が過ってしまう。
特に幽霊の苦手なゲルマニアは、さっきから冷や汗をかきっぱな
しだ。
﹁︱︱ゲ、ゲルマニアッ!今私達は、どこを走っているのですか!
?﹂
﹁⋮⋮そ、それが﹂
1472
アリーチェの疑問に、ゲルマニアは言葉を詰まらせる。
昼間はそう長くないと感じていた廊下が、今はどこまで走り続け
ても突き当たりが見えず、延々と同じ場所を走っている様な錯覚に
襲われている。
いや、これは錯覚などでは無い。
事実上︱︱この廊下は長くなっているのだ。
それが誰の仕業かなんて、大体予想がつくというもの。
﹁ゲルマニアッッ!﹂
突如、アリーチェが悲鳴にも似た声を上げる。
彼女が一体何に対して怯え、ゲルマニアに忠告を放ったのか。
1473
⋮⋮分かっている。後ろに︱︱﹃異形の何か﹄が迫っている事は。
注意深く後ろを振り向くと、案の定︱︱
多くの死者達が、恨めしそうな表情で追い駆けてくる。
胸を斬り裂かれた男、両目を抉り取られた女、血塗れのまま泣き
叫ぶ子供、それ以上にもっと酷い怪我を負った者達が、二人を捕え
ようとする。
﹁︱︱ひっ﹂
ゲルマニアは恐怖に顔を歪ませる。
如何に平静を装うとしても、怖いものは怖い。勇敢な意思よりも、
今は恐怖に彩られていた。
1474
﹁︱︱ッ。あッ﹂
と、そこで思わぬ事態が起きた。
あろうことか、アリーチェは余りの恐怖に腰を抜かしてしまった。
ゲルマニアの手を離してしまい、その場に座り込んでしまう。
亡霊共は好機と見たのか、呪詛にも似た叫び声を上げながら、真
っ先にアリーチェ目掛けて突進する。
﹁アリーチェ様ッ!﹂
しまった。自分が迂闊だったばかりに。
ゲルマニアは自分の失態を後悔し、彼女へと近付こうとする。⋮
⋮だが、亡霊共の猛威から免れる術は無いと悟る。
﹁く⋮⋮⋮⋮アリーチェ、様﹂
1475
︱︱絶対絶命。
亡霊の恐怖に勝てなかった自分を恥じ、ゲルマニアはこの先起き
る最悪の事態を想像し、思わず目をギュッと瞑んでしまう。
⋮⋮⋮⋮最悪の事態を覚悟してから、一秒。
二秒。
三秒。
⋮⋮十秒以上経った所で、ある異変に気付く。
1476
﹁︱︱︱︱えッ﹂
ふと目を開けると、そこには思わぬ光景が広がっていた。
現実か、はたまた幻想なのか。それさえも区別出来ぬ世界の中で
︱︱その女性は存在する。
﹁︱︱あら駄目じゃないの、ゲルマニア。﹃この程度の連中﹄に怯
えちゃ、騎士として失格よ?﹂
その呑気な声音は、二人が知る人物のもの。
先程まで陰湿だった空間を紅蓮の炎が包み込み、炎獄の海にて舞
い続ける一人の踊り子。
1477
︱︱彼女が舞い踊ると、新たな炎が生まれる。
狂おしい程に激しく燃え盛り、見る者全てに炎の雄大さを思い知
らせる。しかしその炎は恐怖を植え付けず⋮⋮ゲルマニア達に確か
な温かみと、絶対なる安心感を与えてくれる。
とても優しくて、美しい紅蓮の火。
それは紛れも無い、かの有名な﹃不死の女王﹄が手に入れたとさ
れる︱︱不死鳥の炎。︱︱モハヌディ・イルディエ・カラ・ハリヌ
が魅せる、﹃槍の炎舞﹄だ。
﹁⋮⋮イルディエ様。イルディエ様ッ!﹂
﹁ふふ、喜んでくれて何より。⋮⋮でもごめんなさいね、まずはこ
の哀れな者達を片付けるから⋮⋮ね?﹂
﹁は、はい!﹂
ゲルマニアの返事に、納得を示すイルディエ。
1478
彼女は自分の身長よりも長い黄金の槍を胸に抱き、やがてその槍
を巧みに振り回す。
﹁︱︱さあ、お逝きなさいな。私の舞踊を見て、盛大に成就しなさ
い﹂
イルディエは妖艶に微笑む。
大半の亡霊は、その炎に苦しみ悶え⋮⋮その末に安らかな顔で、
天国へと昇天する。だが一部の霊はなおも立ちはだかり、イルディ
エに襲い掛かってくる。
その哀れな魂を︱︱槍で薙ぐ。
大地に祝福され、アステナ民族もまた大地をこよなく愛する。
1479
彼女はその中でも山に愛され、活火山の王たる不死鳥に力を授け
られた。ほとぼしる火は、その恩恵と言ってもいい。
︱︱彼女は火そのものだ。
火は全てを包み込む。例えそれが何者であっても、彼女は炎を槍
に纏わせ、どんな存在をも葬る︱︱否、救って見せる。
華麗にリズムを取り、情熱的なダンスと共に︱︱槍もまた踊るか
の様に、縦横無尽に矛先が飛び行く。
行く先は⋮⋮無論、可哀想な者達の元へ。
貫かれた亡霊は輝く炎に導かれ、在るべき場所へと還って行く。
その一連の行為は、見る者全てを魅了する。永遠と続いて欲しい、
この豪華絢爛なる舞台が終わらないでほしい︱︱。ゲルマニアやア
リーチェは、そう思わずにはいられなかった。
1480
⋮⋮だが、始まりあれば終わりも在り。
どんなに楽しい一時も、永遠に続くわけがない。
だから彼女は最後まで堪能する。
荒れ狂い、アステナの血が煮えたぎり、彼女に更なる高揚感をも
たらす。
炎も踊る。火の粉が舞い散る。愚者を燃焼させ、嬉々としてイル
ディエと共に楽しむ。
︱︱何度も、何度も。その意気が尽き果てるまで。
あの懐かしき律動を思い起こし、心行くまで︱︱全てを燃やし尽
くす。
1481
そして、彼女の舞踏は終焉を告げた。
コツッ
イルディエの甲高いヒールの音だけが目立つ。⋮⋮なぜなら、炎
は一気に消え失せたからだ。燃え盛る音は愚か、周囲の些細な音ま
で聞こえない。
元の雰囲気へと逆戻り。
︱︱亡霊達は、跡形も無く消失していた。
﹁ふう⋮⋮。お待たせ、二人共﹂
1482
イルディエは何事も無かったかのように、いつもの調子で言う。
﹁あ、有難うございます⋮⋮⋮⋮って、違う違う。イルディエ様、
何で動けるんですかッ!?﹂
﹁何でって⋮⋮さあ、何でかしら?﹂
イルディエは疑問符を浮かべ、うんうんと唸り始める。
ゲルマニアの疑問も尤もだ。だってエリーザの言う通りならば、
今は屋敷中の人間が悪夢にうなされている筈だ。
なのに彼女は起きている。︱︱何故?
﹁⋮⋮というか、状況さえよく把握出来てないのよねえ。過去の夢
にうなされ、目を覚ましたかと思えば、屋敷がこんな状態になって
るし。ゲルマニアちゃん達は原因を知ってるのかしら?﹂
﹁いえ、詳しくは知らないのですが⋮⋮現状だけは分かっています﹂
1483
ゲルマニアは気持ちを改め、経緯を粗方説明する。
屋敷内の人々は悪夢にうなされ、エリーザと名乗るギャンブラー
がその原因であった事。やはりマーシェルはシールカードと結託し
ていた事。⋮⋮そして恐らく、イルディエを除く六大将軍は、覚め
ぬ悪夢にうなされているかもしれないという事。
全てを簡潔に言い終えると、イルディエは合点がいった様に頷く。
﹁なるほど、ね。⋮⋮さっきユスティアラやアルバートを起こして
も起きない理由は、そういうわけと﹂
﹁︱︱確実とまで言えませんが、その様に判断した方が妥当かと﹂
﹁⋮⋮全く、六大将軍ともあろう者達が仕方ないわねえ。特にゼノ
ス、アリーチェ様を守るとかいいながら⋮⋮﹂
﹁あ、あのイルディエ様ッ﹂
ふとそこで、アリーチェが彼女の名を呼ぶ。
1484
﹁⋮⋮⋮⋮私は見ました、貴方の過去も。それは壮絶なもので、尋
常ならざるものでした。⋮⋮なのに何故、悪夢から脱出出来たので
すか?﹂
その瞬間、妙な間が生じる。
聞かれたイルディエは、ただジッとアリーチェを見据える。⋮⋮
まるで、全てを悟ったかの如く。
﹁︱︱︱︱さあ、分からないものは分からないわ﹂
イルディエは﹁さっさと敵を倒しましょう﹂と言って、先へ進も
うと歩み始める。
しかし、歩はすぐに止まる。
﹁⋮⋮あ、でもこれだけは言えるかも﹂
1485
ふと何かを思いついたように、彼女は振り返る。
相も変わらず、美しい微笑を浮かべながら。
﹁私の場合、過去の事はもう全部区切りを付けているから。︱︱だ
から、悪夢から逃れられたんじゃないかしら?﹂
﹁⋮⋮区切り?﹂
﹁そう、区切りよ﹂
窓から差し込む月明かりを浴びながら、イルディエは瞳を閉じる。
﹁⋮⋮アリーチェ様は勘違いをしているわ。私達は確かに最強を名
乗っているけれど⋮⋮心は未だ弱いまま。現に彼等は、悪夢という
1486
鎖に縛られている﹂
アリーチェは、六大将軍は過去を克服した存在だと思っている。
だが、それは大きな間違いだ。
﹁︱︱私達はね、弱さを補う為に﹃区切り﹄を付けようとしている
の。⋮⋮区切り、つまりは﹃自分の生まれてきた意味﹄を見出して
ね⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮生まれて来た、意味﹂
﹁そうよ。⋮⋮⋮⋮そしてアリーチェ様もまた、その意味を知らな
ければならない。自分の生まれて来た意味を⋮⋮今の自分の立場を
ね﹂
﹁⋮⋮﹂
その問いかけは、ゲルマニアの質問と似通っていた。
一体彼等が、アリーチェに対して何を求めているのかは、現段階
では全くと言っていい程理解不能だ。
1487
理解は出来ない。︱︱けれど、
何かが分かるような⋮⋮そんな気がする。
﹁⋮⋮さてと。それじゃあ、自分の仕事を始めようかしら﹂
イルディエは持っていた槍を背に担ぐ。
﹁︱︱六大将軍が一人、このイルディエがいる限り⋮⋮皇帝陛下に
指一本も触れさせないわよ?﹂
イルディエ達以外は誰もいない廊下。そこで彼女は、ある人物に
対してその言葉を投げかける。
1488
すると廊下の先にて、エリーザが再度姿を見せる。
﹁⋮⋮不死の女王。まさか⋮⋮貴方まで起きるとは予想外でしたわ﹂
言葉の端々から苛立ちが滲み出るエリーザ。
無理も無い。彼女が今対峙しているのは、紛れも無い六大将軍の
一人。始祖は別として、ゲルマニアやアリーチェならば他愛も無い
と思っていた為に⋮⋮焦りを感じずにはいられなかった。
﹁ふうん。⋮⋮どんな奴かと思ったけど、案外大した事なさそうね﹂
﹁⋮⋮なんですって﹂
イルディエの煽りに対し、エリーザは怒りを露わにする。
﹁おまけに品性の欠片も無いし、女としての魅力にも欠ける。︱︱
1489
話にならないギャンブラーね﹂
﹁ッッ⋮⋮⋮⋮ふ、ふふ。口が達者のようですわね。でも⋮⋮それ
がいつまで保つのか、楽しみですわ﹂
﹁随分と強気ね。︱︱言っとくけど、さっきみたいな小細工は通じ
ないわよ﹂
彼女にとって、亡霊など敵にもならない。
悪夢も通じないとならば、まずエリーザには勝ち目がないだろう。
しかし、エリーザは口を吊り上げる。
﹁うふふ、何とも浅はかな女。︱︱あの程度の力が、私の本気だと
誤解しないでくれませんこと?﹂
︱︱刹那、嫌な予感が脳裏をよぎる。
1490
エリーザはまたもや指を鳴らす。
すると周囲の景色が変化していく。世界を歪曲させ、不快な音を
立てて⋮⋮目に見える光景を変えて行く。
廊下だった場所は︱︱イルディエ達の知る場所へと移り変わる。
﹁⋮⋮ここは、披露宴の会場﹂
華やかだった雰囲気は消沈し、今ではシャンデリアに灯りさえつ
いていない。だが広大な空間に沢山のテーブルが置かれている為、
一目でそこだと分かった。
⋮⋮だが、様子がおかしい。
ここに移動されてから、イルディエの悪寒は尚も止まらない。
﹁ふふ、何かを感じ取っているの?﹂
1491
﹁⋮⋮⋮⋮ええそうね。まるで、死神に睨まれているような感覚を﹂
﹁︱︱なら、自分の目で確かめてみなさいな!﹂
バッ、とエリーザは両手を大きく広げる。
シャンデリアに火が灯り、会場は一気に明るさを増す。
⋮⋮そして、イルディエ達は瞠目した。
﹁︱︱︱︱︱︱これは、やばいわね﹂
1492
イルディエが六大将軍になってからの、初めての弱音。
彼女達を囲むように︱︱五人の騎士が佇んでいた。
一人は深緑色の軍服を、一人はボロ絹のマントに使い古された甲
冑を、一人は貴族の服を、一人は濃紺のスーツを。⋮⋮そしてもう
一人は、赤のジャケットを。
彼等︱︱ユスティアラ、アルバート、ホフマン、ジハード、そし
てゼノスは虚ろな眼のまま、それぞれの武器を構える。
その矛先は、イルディエ達に。
1493
﹁︱︱さあ、小細工は無し。思う存分この一時を楽しみなさいな﹂
1494
ep34 操られし六大将軍
状況は一気に悪化した。
それは逃れる事は愚か、対等に戦う事さえも許されない。
︱︱この状況は、抗う事さえも不可能な状況だ。絶望さえも抱け
ない、正にどうする事も出来ない。
敵が六大将軍、しかも五人全て?冗談にも程がある。
﹁⋮⋮エリーザ。これもシールカードの力なのかしら?﹂
﹁ご明察。︱︱亡霊のクローバー、﹃憑霊の輪廻﹄。私のカードの
中に潜む霊が悪夢の最中にある人物に憑り付き、自由自在に操らせ
る。⋮⋮例え六大将軍であっても、容易い﹂
﹁︱︱くっ﹂
1495
イルディエは苦虫を噛んだ様に、顔を歪ませる。
今日ほどシールカードの脅威を味わった日は無いだろう。カード
の力は恐ろしい物だと認識していたが、改めて実感された気分だ。
⋮⋮正直な所、イルディエは六大将軍の中でも弱い部類に属する。
速さではユスティアラに劣り、力ではアルバートにも劣る。更に
総合力に関しては、ゼノスの方が圧倒的に卓越している。
勝てる見込みは︱︱ほぼゼロだ。
﹁︱︱ッ。ゼノス、ゼノス︱︱ッ!しっかりして下さい、ゼノス!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ゲルマニアがゼノスに呼び掛けても、一向に反応を示さない。
1496
彼はまだ悪夢の最中にいるのだ。ゲルマニアが見てきた過去の様
に、あの絶望的な記憶を、何度も何度も繰り返している。
それは他の六大将軍も同じだ。
彼等もまた、絶望を体験し続けている。
﹁無駄ですわ。幾ら呼びかけても、彼等が意識を取り戻する事は有
り得ない。既に彼等は⋮⋮私の奴隷ですわ﹂
﹁︱︱︱︱許さないッ!﹂
激昂したゲルマニアは、大剣を持ってエリーザへと急迫する。
しかし。
︱︱ガキンッ
1497
﹁⋮⋮ッ!?﹂
エリーザを庇う様に立ちはだかり、大剣を抑えたのは⋮⋮ゼノス
であった。
ゲルマニアは戦慄する。
今すぐ退かなければ︱︱斬り裂かれると。
﹁⋮⋮はあッ!﹂
ゲルマニアは強引に後退する。そして案の定、ゼノスの剣は容赦
なく振るわれていた。
あのままその場所に留まっていたら、首を持って行かれただろう。
﹁︱︱ゲルマニアちゃんッ!﹂
と、イルディエが何かに反応した。
1498
ゲルマニアが慌てて周囲を見渡すと︱︱自分を囲う様に、ユステ
ィアラ、アルバート、ジハードが強襲してくる。
何も抵抗出来ないゲルマニアであったが、イルディエだけは何と
か反応し、行動に出る。
瞬時にゲルマニアの元へと接近し、まずはユスティアラの刃を跳
ね返す。そして間髪入れずに槍を両手で構え、アルバートによる豪
快な大斧の一振りを逸らす。︱︱つまり、絶妙な槍捌きによって軌
道をずらしたのだ。
だがそれだけでは無い。尋常ならざる反射神経を用いて、イルデ
ィエはジハードの正拳突きを蹴りで相殺させる。余りの衝撃に激痛
が走るイルディエであったが、何とか阻止出来た。
この間、一秒も経過しない。六大将軍同士の戦いに際して、一秒
という世界は余りにも遅い。彼等の戦いは素早く、且つ躍動感に溢
れている。
三人を相手にしたイルディエは、息つく間も無く次の攻勢に備え
る。
1499
流石は武の達人と言うべきか。彼等は既に体勢を直し始め、更に
そこにゼノスが襲来してくる。
︱︱六大将軍、その内四人の同時攻撃。
﹁洒落に︱︱ならないわねッ!﹂
イルディエは死に物狂いに回避していく。
まるで激しい雑踏の中を潜り抜けるかの如く、怒涛の攻撃を何と
か躱し続ける。⋮⋮かすり傷を負いながら、微かな痛みを伴いなが
ら。
攻撃する事は愚か、タイミングを見計らう事さえも叶わない。
例え操られているとしても、実力はそのまま。⋮⋮いくらイルデ
ィエとはいえ、彼等を倒す事など不可能。
1500
だが死ぬつもりも無いし、後ろには皇帝陛下もいる。
自分が守らずして︱︱誰が守るか。
﹁︱︱多少、死ぬ覚悟でいなきゃかしらね﹂
そう、これはもはや死闘だ。
今目前にいる者達は、自分の知る仲間では無い。
自分の実力を発揮しなければ︱︱勝機は見えないッ!
﹁⋮⋮⋮⋮さあ、踊りましょうか﹂
彼女はのらりくらりと揺れる。
全身の力を抜き、脱力した身体は今にも崩れ落ちそう。
1501
︱︱だが、騙されてはいけない。
翻弄するその動きは、まさに舞踏の始まり。
炎の真髄が、目覚める時。
﹁﹁﹁﹁﹁︱︱ッッ!?﹂﹂﹂﹂﹂
五人の騎士達は、イルディエの気配を察知する。
底知れぬ殺気を間近に感じ、彼等は戦々恐々とする。例え自我を
失っているとしても、恐怖という観念は健在のようだ。
今、彼女が身に纏うは︱︱殺気に満ちた闘気の衣。
1502
闘気に溢れた不可視の衣は、やがて沸々と煮えたぎり、激しい豪
炎を吹いて周囲全体を包み込む。
イルディエの全身は、炎に飲まれて行く。
しかし、彼女は薄く笑む。
通常の人間ならば、その炎に焼き殺されている筈だ。⋮⋮最も、
イルディエは別だが。
彼女は炎と共に在り、炎と共に生きる。
それが彼女と、不死鳥フェニックスとの誓い。
彼女達の絆が︱︱炎を支配する。
﹃⋮⋮⋮⋮この姿で勝てるかどうかは分からないけど﹄
イルディエは平然と呟く。
だがそれは当の本人だけであって、彼女の姿を見ている者達は、
1503
誰もがその神々しい姿に威圧感を覚える。
︱︱炎は渦を巻き、徐々に形作り。
彼女は闇全てを葬る聖なる獣︱︱不死鳥フェニックスとなってい
た。
一回り大きく変化し、炎の羽毛を散らばせる。轟々と燃え盛る炎
の身体に、黄金色の嘴を覗かせる。
その御姿は、正にアステナ民族達が崇拝していた不死鳥。
創世記よりも遥か以前︱︱世界を築き上げた創始者の一人の出で
立ち。
その姿は⋮⋮強者を圧倒する。
﹁⋮⋮﹂
1504
彼等は焦りを覚えたのか、すぐさま武器を構える。
最初に飛び出してきたのはユスティアラだ。彼女は無言のまま、
自分の持つ刀を突き出す。
そして巨大な氷の腕が出現し、彼女と同じ動作を取る。
氷魔人双手︱︱更に、その手には風姫刀が握られている。
﹃︱︱ッッ!?﹄
自分が知る限り、ユスティアラが持つとされる至高の奥義。かつ
て聖騎士を苦しめ、クラーケンを一撃で葬ったとされる究極の技だ。
濃色された自然の力は、何と恐ろしい事か。同じ自然を操る身と
して、言い知れぬ圧迫感を身に染みて感じてしまう。逃れたいと願
うのに、逃れようと避けるのに︱︱逃げられない。
清らかで洗練された刀が、容赦なくイルディエを斬り裂く。
1505
﹁イ、イルディエ様!﹂
呆気なく一刀両断されたその姿を見て、思わずゲルマニアが悲鳴
を上げる。
ユスティアラの刀術に、不可能は無い。
斬り裂かれた者は︱︱必ず断たれる。
⋮⋮けれどもそれは、あくまで物理的な面での話。
彼女が絶対の矛だとするならば、イルディエは絶対の盾。両者は
矛盾しているが故に︱︱︱︱。
﹃⋮⋮効かないわねえ。その程度じゃ、私を殺せないわよ﹄
一刀両断された筈のイルディエが、平気な様子で言う。
1506
彼女の身体は断たれたが、その生命までは失っていない。やがて
体も元通りとなる。
それでも六大将軍の攻撃は止まらない。
次に先陣を切ったのは、ジハード。彼はスーツを脱ぎ捨て、その
場から大きく跳躍する。
不気味に蠢くジハードの全身。
⋮⋮彼の全身から、黒の波動が溢れ出る。
波動は世界を飲み込み、会場を埋め尽くす。もはや人の手で造ら
れた建造物は無くなり、周囲は暗黒に包まれる。
1507
だがそれは真の闇に在らず。ジハードが織り成す世界は、この天
より彼方に存在するそれ︱︱宇宙だ。
数多に輝く星。雄大な流星群となりて、広大なる宇宙を駆け巡る。
﹃な⋮⋮なによ、これ﹄
イルディエはこの世界を体感し、言い知れぬ恐怖に襲われる。
自分が知らない所か、ここはまだ人類が触れてはいけない境地⋮
⋮そんな気がしてならない。どんなに強き者でも、この世界の前で
は無に等しい。
︱︱しかし、そこにジハードは佇んでいた。
イルディエ以上に巨躯なる身体となり、立ちはだかる。
1508
漆黒の鱗に包まれ、鋭利な牙を剥き出しにする。更に小惑星より
も大きな翼をはためかせ、金色の大きな眼をぎょろりと動かす。
獲物を射捉えた彼は︱︱咆哮する。
これこそが彼の真の姿。
過去に何千回も、その時代の英雄達を葬った黒龍。
︱︱竜帝、ここに参上。
﹃何で⋮⋮何で六大将軍の一人が、竜帝なのよッ!?﹄
流石のイルディエも、この姿を見せられれば理解出来てしまう。
そして、絶望のどん底へと落とされる。
1509
何故。どうしてここに。様々な疑問が浮かぶ一方であったが︱︱
竜帝の殺気が増大された事に気付き、ハッと正面を向く。
︱︱気付けば竜帝は、口からあらゆるエネルギーを吸収していた。
物体、概念、感情、あらゆる万物の理を自分の力に変換させる。
今彼の口元に集まっているのは、正しく全知全能。
世の条理を逸脱した彼だけが成せる、破滅の力。
世界の創造主たる不死鳥に相反するエネルギーが︱︱七色のブレ
スとなって放出される。
天駆ける虹が、宇宙を飲み込む。
1510
﹃︱︱ぐっ、くうううッ!﹄
イルディエは紅蓮の翼を広げ、この宇宙を駆け巡る。
七色のブレスから逃れようと、無限なる世界を突き進んでいく。
しかし七色の炎は徐々にイルディエへと切迫してくる。
﹃だ、駄目だ。︱︱このままじゃ!﹄
全身へと纏わり付く七色の炎。
それだけでも全身に激痛が走り、気が狂いそうになる。
今の自分は不死鳥。不死の女王と呼ばれる所以は︱︱どんな一撃
をも耐え抜き、生き延びたという功績から与えられた故に。
そんな彼女でも︱︱この一撃は耐え難い。
1511
﹃⋮⋮⋮⋮ッ﹄
もう駄目かと思った瞬間だった。
︱︱前方に、微かながら亀裂が生じていた。
幾ら宇宙と言えど、ここは竜帝が織り成す創造の世界。彼が魅せ
る幻想も完璧では無いという事か。
﹃一か⋮⋮八かッ!﹄
視界が霞む。竜帝の炎が彼女を包み込み、その存在さえも消し去
ろうとする。
それでも彼女は突き進む。
1512
翼を折りたたみ、速さだけを意識する。
鋭い弾丸の様に亀裂へと向かい︱︱そして、
バリンッ!
金属音に似た音と共に、イルディエの嘴が亀裂を貫く。
広大な宇宙の世界から抜け出し、元の場所へと戻って行く。
﹃がっ⋮⋮は⋮⋮ッ!﹄
無理をしすぎたか。既に限界を超えている。
しかし、彼等は容赦などしてくれない。
1513
﹃ぐうっ!?﹄
彼女の翼に何かが突き刺さる。
それは︱︱ユスティアラの風姫刀であった。
﹃う⋮あああああッッ!﹄
更なる苦痛がイルディエに襲い掛かる。
刀から風が巻き起こり、傷口を開かせる。血飛沫が紅蓮の身体に
染みつき、地面へと堕ちる。
﹃⋮⋮⋮⋮ふ、ふふ。ここまでダメージを受けたのは⋮⋮久しぶり、
ね﹄
1514
もうイルディエには、戦う力さえ残っていない。
彼女の身体は徐々に縮み、元の人間へと戻る。目立った傷は不死
鳥の力によって再生しているが、精神的ダメージは大きい。竜帝の
炎は⋮⋮想像以上だった。
﹁⋮⋮ぐ﹂
周囲を見渡す。
どうやらアリーチェは無事のようだが、ゲルマニアもまた派手に
やられている。六大将軍の誰かに挑んだのだろう。
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮アリーチェ、様︱︱︱︱﹂
イルディエは意識を失う。
1515
その先の顛末を、自身の目で見届ける事は無かった。
1516
ep35 ランドリオの皇帝
あのイルディエがいとも容易く力尽きる。
これは驚くべき事態だ。⋮⋮いや、当然の結果と言ってもいいか
もしれない。相手は同じ六大将軍の地位につきし存在。しかもその
全員が相手となれば、例えイルディエでも勝ち目など無い。
﹁あら、所詮はこの程度でしたの。⋮⋮六大将軍のくせして、何と
も情けない話ですわ﹂
イルディエを見下ろし、今まで傍観していたエリーザがせせら笑
う。
他にもゲルマニアが意識を失っている状態で、事実上アリーチェ
だけが一人残されている。
1517
︱︱彼女を取り巻くのは、敵。
ギャンブラーであるエリーザ、忠実なる六大将軍⋮⋮そして、あ
のゼノスでさえも、アリーチェに対して刃を向けている。
自分が情けないばかりに、自分が弱いばかりに⋮⋮最強の資格を
持つ彼等を、苦しめる結果となった。
自分があの時、披露宴を断ってさえいれば︱︱こんな事には。
全ての責任は⋮⋮この自分にある。
﹁⋮⋮う、うう﹂
もう何も考えたくない、何も見たくない。
自分の後ろにいるのは︱︱︱︱﹃虚無﹄だ。
1518
何も存在しない、誰も味方してくれない。こんな弱い皇帝に、誰
も付き従ってくれる者はいない。
泣いても叫んでも⋮⋮⋮⋮孤独。
﹁︱︱︱︱ほう、素晴らしい光景じゃないか﹂
と、エリーザとは違う男の声が聞こえてきた。
アリーチェが顔を見上げると、エリーザの横にマーシェルが佇ん
でいた。
﹁マーシェル様、ようこそ来て下さいましたわ。⋮⋮ふふ、壮観で
ございましょう、この光景は﹂
﹁ああ、よくぞやってくれた。少々華やかな革命を期待していたが
⋮⋮まあこれも良かろう﹂
1519
二人は不気味に微笑み合う。
彼等に侍る六大将軍の姿、悪夢に苦しむ屋敷の者達、情けない醜
態を晒すアリーチェを見て、興奮を抑えきれないようだ。
﹁⋮⋮いかがでしょうかな、皇帝陛下。自分の弱さに取り入れられ、
呆気なくその体制を崩された感想は?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そ、それは﹂
マーシェルの問いに、何も返す事が出来ない。
﹁ふふ、何を言っても無駄なようですわ。彼女は皇帝陛下としての
器に欠け、自分が何者かさえも理解出来ていない。⋮⋮正真正銘の
愚者ですわね﹂
愚者︱︱確かに的を射ている。
自分は皇帝陛下という地位に即位しながら、今まで皇帝らしから
ぬ態度を取り続けてきた。
1520
円卓会議では自己の主張を貫けず、普通の女の子になりたいと願
って酒場で働き、挙句の果てには六大将軍に頼りきる。愚者と呼ば
れても仕方ない事だし、反論する気にもなれない。
それを聞いたマーシェルは、鼻で笑う。
﹁下らぬな、アリーチェ皇帝。貴様は皇帝どころか、人間としても
劣る存在よ。そして、貴様を選んだ世間もまたどうしようもない。
⋮⋮次期皇帝となる私の妻になど、なれるわけが無い﹂
マーシェルはエリーザを促す。
すると彼女は、自分のカードを天へと掲げる。
カードの周囲に闇の霧が発生し、それは渦となって上昇していく。
︱︱響き渡る音色は、竜巻の風切り音だけではない。
あらゆる怨念の声が耳をつんざく。その声を発する亡霊共は、こ
の部屋全体へと蔓延り、アリーチェを見下ろしている。
1521
世にも恐ろしい光景だ。
﹁︱︱では、これにてお別れ致しましょう。エリーザの魅せる亡霊
共によって、全てを蝕まれてください﹂
マーシェルの邪悪な宣告。
すると︱︱六大将軍が反応を示す。
彼等が少し呻いた後、猛烈な勢いでアリーチェへと接近する。
洗脳された彼等は主など関係無い。例え敵が主君であっても、彼
等六大将軍が思い留まる事は無い。
迫る︱︱。どんどんと、着々と。
1522
死を目前にして思い起こされる記憶は、数週間前の出来事。
ランドリオ皇帝リカルドが処刑され、アリーチェもマルスの手に
よって殺されかけたあの日。自分はあの時、死を前にしても怯えず、
どこか達観した様子で現実を受け止めていた。
でも、今は違う。
今こうして危機に陥っているのは、全て自分のせいだ。
不甲斐ない失態続きで、全てを失っていく。
⋮⋮皇帝とは何か?
こんな状況の中でも、未だにその疑問が解決されない。
⋮⋮自分の後ろには、一体誰がいるのか?
1523
分からない。皇帝が何なのかさえも分からない自分にとって、そ
の質問はどんな問題よりも難しい。
全てが謎に包まれている。その全てに対し答えを見つける事など
⋮⋮出来るわけがない。
視界が真っ暗になる。
それは自分で閉ざして、全てを見ない様にする為。
目を瞑り、現実から逃れようと。
あの幸せだった日々を思い起こす。
1524
幼いアリーチェは、笑顔で父の居る王座へと駆け寄る。
今では無い何年か前の話。まだアリーチェが物心を覚え始め、父
と母が存命だった頃の記憶。
アリーチェの意識は、過去の記憶へと浸っていた。
﹁父様!﹂
﹁おおアリーチェか。丁度公務も終わった所だ、もっと近くに来な
さい﹂
父の優しい言葉に甘え、アリーチェは父の目前にまでやって来る。
1525
そして中庭で摘んできた花々を、父の前に差し出す。これはいつ
も公務で疲れている父の為に、先日から行っている行為。いつも父
が喜んでくれるので、今日も花を集めてきた。
﹁はい父様、また花を摘んできました!﹂
純粋無垢な笑みで、彼女は父を喜ばせようとする。
それを見た父は頬を綻ばせ、その花々を受け取る。花の香りを堪
能し、公務の疲れを癒す。
﹁⋮⋮いつもすまないな、アリーチェ﹂
﹁うん!⋮⋮⋮⋮あれ、父様﹂
﹁どうした?﹂
何かを察したアリーチェは、疑問に思った事を素直に口にする。
﹁⋮⋮泣いていたのですか?﹂
1526
彼女の不安めいた言葉は、父に強張った表情を作らせる。
花の香りを吸うのを止め、彼の視線は床へと落ちる。誰にも見ら
れまいと努力しているようだが⋮⋮アリーチェからは丸見えだ。
︱︱父は、涙を零していた。
﹁あ、ああ。⋮⋮⋮⋮少々、悲しい事があってな﹂
﹁⋮⋮悲しい事。父様でも、そのような事があるのですか?﹂
いつもと違う父の様子に、アリーチェは困惑を隠しきれない。
自分の知る父とは、皇帝の鑑であった。周りから信頼され、その
期待に応える素晴らしい態度を示している。時に優しく、時に厳格
な面持ちで接する⋮⋮それが父である。
父は涙を拭いた後、アリーチェの頭を撫でる。
﹁⋮⋮アリーチェよ。お前が思っている程、この父はそこまで強く
1527
ない﹂
﹁え?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮私は弱い存在だ。幾ら体裁を繕おうと、ボロが出れば自
然と失敗を繰り返してしまう。⋮⋮全く、情けないな﹂
初めて聞く、父の弱音。
なら何故その地位から逃げ出さないのか。全てを投げ捨てて、皇
帝という身分から離れればいいではないか。
⋮⋮幼いアリーチェは思う。
父を支えている意思は、一体何なのかを。弱音を吐いているにも
関わらず、涙を零しているにも関わらず︱︱どうしてそこまで真っ
直ぐな瞳でいられるのかを。
︱︱︱︱そもそも
1528
︱︱これは⋮⋮本当に自分の記憶なのか?
︱︱こんな光景、全く覚えていない
﹁⋮⋮え﹂
幼いアリーチェは、ふと周囲を見渡す。
ここは確かにハルディロイ王城の中であるが⋮⋮現実とはどこか
雰囲気が違う。更に言えば︱︱今の自分は、何故か幼い姿でいる。
これは自分の記憶じゃない。これは︱︱︱︱︱︱
﹁これは︱︱君の父親の記憶だよ、アリーチェ﹂
1529
瞬間、世界が停滞する。
色を失い、時が止まった世界。そんな世界の中で︱︱ 幼いアリーチェの横に、一人の少女が佇んでいる。
シルクのローブ姿に、どこか幼さを併せ持った少女︱︱始祖アス
フィが、自分の横に存在していた。
﹁⋮⋮どういう、事?﹂
﹁今現実世界では、エリーザが無数の亡霊を召喚している。⋮⋮そ
の中に君の父親がいて、君に自分の記憶を見せているらしいね﹂
﹁⋮⋮自分の記憶、を?﹂
1530
そんな⋮⋮どうして?
有り得ない。そんな非現実的な事が、あっていいのか?
父があの場所にいた、それだけでも驚きなのに︱︱
︱︱父は何を伝えたいのか。こんな自分に、死んでもなお伝え残
したい事があるというのだろうか?
⋮⋮だとしたら、自分の事を蔑むに違いない。
﹁︱︱大丈夫だよ。君の父親は、そんな事を伝えに来たんじゃない﹂
﹁⋮⋮なら、父は何を伝えたいのですか。こんな、こんな私にーー
ッ﹂
1531
と、そこでアスフィが静かにと口に人差し指を当てる。
﹁⋮⋮アリーチェ。君の生きるべき世界を︱︱父親が教えてくれる
んだよ﹂
﹁︱︱︱︱ッ﹂
アリーチェは息を呑み、そっと前を向く。
すると、横にいた始祖アスフィが霧散する。停滞していた世界が
また動き出し、父もまた色を取り戻す。
自分が忘れた記憶。しかし、父は覚えている記憶。
記憶の中の父は︱︱厳格な表情であった。
1532
﹁よいか、アリーチェ。⋮⋮皇帝はとても弱い存在だ。周りの協力
無しには生きていけない、頼らなければいけないのだ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁︱︱しかし、皇帝は弱く見せてはいけない。己の宿命を受け入れ、
全てを従えなければならない。その豪気な振る舞いが、例え様々な
反感を買ったとしても⋮⋮⋮⋮時として、国を救う力ともなる﹂
﹁︱︱﹂
皇帝は弱い。しかし、弱く見せてはいけない。
父の言葉は重かった。ひどく疲れていた。
皇帝は優しさだけでは務まらない。条理を切り捨て、不条理を貫
く事もまた必要であり、それが国を救う事もある。
1533
⋮⋮皇帝は、どんな辛い判断をも下さなければならない。
﹁アリーチェよ。⋮⋮いつか皇帝という地位を纏うならば、全てを
支配する意思を備えよ。︱︱︱︱それが、弱い我等の宿命である﹂
﹁⋮⋮父様﹂
嗚呼、また世界が停滞する。
全ての景色が色褪せ、白黒の世界と化していく。それは記憶の終
焉であり、現実世界へ戻ろうとする兆候だ。
1534
︱︱記憶の父は、微笑んだまま止まっている。
それが果たして遺言なのかは、未だに分からない。
アリーチェは踵を返し、無言のまま王座から離れる。様々な思い
を孕みながら、静々と。
﹁︱︱決心はついたかな、弱いアリーチェ﹂
﹁⋮⋮正直、まだ分かりません﹂
脳内に過るアスフィの問いに、潔く返事する。
﹁⋮⋮⋮⋮でも父様の仰る言葉が本当ならば、それに従ってみまし
ょう。本当の意味で皇帝になれるならば︱︱︱︱︱︱﹂
1535
その言葉を皮切りに、アリーチェは後ろを振り向く。
既に玉座は消え、何も無い真っ白な空間が広がっている。
だがアリーチェの視線の先には︱︱二人の夫婦がいた。
紛う事なき、亡きアリーチェの父親と母親。彼等二人は寄り添い、
暖かな目でアリーチェを見つめていた。
そんな二人に、はにかんだ笑みを見せる。
﹁︱︱皆を救えるならば、この宿命を受け入れてみようと思います﹂
⋮⋮アリーチェはそう言い残し、もう振り返る事は無かった。
1536
固い決心と共に、思い出に浸る事を止めた彼女。
そのまま、眩い光を放つ扉の先へと歩んで行った。
1537
迫り来るはランドリオの六大将軍達。
過去の記憶から目覚めたアリーチェは、ただジッとその場に立ち
尽くす。ふと上を見上げ⋮⋮スッと目を閉じる。
無言。冷静沈着。⋮⋮且つ、言い知れぬ雰囲気を放ち始める。
そして、今までのアリーチェとは違う。
慈愛に満ちていたその表情を︱︱︱︱厳格なそれへと急変させる。
﹁いるのでしょう、アスフィ。︱︱早く私を守りなさい﹂
1538
その時だった。
神風の如く過ぎ去る連撃⋮⋮目にも止まらぬ速さ。
それが間近に迫っていた彼等の武器を跳ね返し、それぞれの武器
は宙を舞う。六大将軍達は驚愕して距離を離す。
︱︱アリーチェの前には、始祖アスフィがいた。
﹁ふうん⋮⋮中々良い風格を帯びているじゃない。それもまた、王
者たる資質を持つ証なんだろうね﹂
﹁⋮⋮﹂
アスフィの言葉は聞いているが、今は返すつもりは無い。
余りに唐突な出来事に、一方のマーシェルとエリーザは唖然とし
ていた。
1539
﹁⋮⋮始祖、アスフィッ!﹂
﹁︱︱くっ。何をしているエリーザ!早く六大将軍を使って、奴等
と戦わせろッ!﹂
﹁しょ、承知しましたわ﹂
エリーザは気を取り戻し、アリーチェと始祖を殺すよう心中で命
じる。
しかし、六大将軍が動く気配は無かった。
﹁な、何故ですの。この⋮⋮亡霊共、さっさとしなさいな!﹂
幾ら声を掛けても、彼等は反応しない。
たたジッと虚ろな眼のまま、アリーチェを見ていた。
彼等は葛藤していた。目前にいる少女が、自分達の主なのか、ま
たは殺すべき敵なのかを。
1540
悪夢から、目覚めかけていた。
﹁⋮⋮⋮⋮今まで申し訳ありませんでした、皆さん。私が不甲斐な
いばかりに、こんな事態を引き起こしてしまった。︱︱ですが﹂
アリーチェはそんな彼等に、冷静に言葉を投げかける。
今自分が出来る事はそれだけ。
だが普通に声を掛けるだけでは、変わる事は出来ない。
⋮⋮そう、アリーチェは全てを思い出した。
幼き頃、自分は父である前皇帝からあらゆる事を教わってきた。
皇帝とはどうあるべきか、皇帝が成すべき事は何なのか⋮⋮一生懸
1541
命に説いてくれた。
父の記憶のおかげで、アリーチェに固い決意が芽生えた。
︱︱もう泣かない。もう助けを乞わない。
弱音を吐くぐらいならば︱︱︱︱強く在ろう。
どんな苛酷な状況でも、虚勢を張って見せよう。
﹁⋮⋮⋮⋮いい加減、目を覚ましなさい。貴方達は六大将軍なので
しょう?民を、そしてこの皇帝を守る為に在るのでしょう?︱︱な
ら、自らの責務を全うしなさい!﹂
1542
刹那、アリーチェの叱咤が全てを圧倒する。
青天の霹靂、エリーザとマーシェルに衝撃が走る。
﹁⋮⋮そんな、馬鹿な﹂
エリーザがその顛末を見て、思わず目を見張った。
六大将軍達に憑りついていた亡霊達が憑依を止め、急いで抜け出
る。その様子はもがき苦しんでいて、必死に這い逃れようとしてい
た。
しかし、それは叶わぬ夢。
アリーチェの声が、六大将軍達を目覚めさせた。
﹁︱︱︱︱︱︱ここは﹂
1543
困惑した声音が響く。
その瞬間亡霊達は、彼等によって斬り裂かれていく。甲高い悲鳴
を上げて、現世から消失していく。
︱︱亡霊を斬り裂いたのは、他でも無い。
意識を取り戻した︱︱ゼノス達であった。
﹁⋮⋮ようやく起きましたね。全く、イルディエやゲルマニアも苦
労したのですよ?﹂
それを聞いても、ゼノス達はまだ状況を飲み込めなかった。
﹁⋮⋮⋮⋮アリーチェ、様?﹂
だがそれだけでは無い。
1544
ゼノス達は、アリーチェに対しても驚愕していた。
逆らえないオーラが彼女を包み、およそ慈悲深さとは相容れない
何か⋮⋮皇帝として相応しい態度だ。
一体何が彼女をそうさせたのか、それは分からない。
しかし周りの状況から判断するに、自分達はギャンブラーによっ
て操られ、そしてアリーチェの叱咤によって覚めたのだろう。⋮⋮
流石のゼノスでも、それぐらいは大体判断出来る。
今が危機的状況だと分かったゼノス。そして、他の六大将軍も把
握しつつあるようだ。
﹁⋮⋮不覚。これ以上の失態は存在しない﹂
﹁じゃな、ユスティアラよ。⋮⋮全く、嫌な夢を見せられたわい﹂
﹁頭いてえ。くそ、一体どこのどいつがやってくれたんだ?﹂
1545
﹁⋮⋮嘆かわしい事ですが、今この場にいる我が同族がやってくれ
たのでしょう。嗚呼、恥ずべき事です﹂
完全に元通りとなった彼等は、鋭い目つきでマーシェルを睨む。
今まで平静を装っていたマーシェルは、冷や汗をかきながら後退
る。
﹁な、何だこれは⋮⋮。ア、アリーチェ貴様⋮⋮一体どうやって彼
等を目覚めさせたんだ!?﹂
﹁これが在るべき姿ですよ、マーシェル。ただ皇帝として振る舞っ
ただけ⋮⋮ランドリオは、最強でなければいけません﹂
アリーチェはゆっくりと歩を進める。
ユスティアラ、アルバート、ホフマン、ジハード、そしてゼノス
の脇を通り過ぎ、彼女は一番前へと出る。
1546
﹁⋮⋮⋮⋮ゲルマニア。ようやく分かりましたよ。自分の後ろに︱
︱一体誰がいるのか﹂
皇帝とはただ守られる存在。しかし、弱い姿を見せてはならない。
彼女は六大将軍に、ゼノスに助けられるだけの姫では無い。
今それを悟った。
だからこそ、堂々と言える。
﹁私の後ろにいるのは︱︱︱︱従えるべき騎士達。さあ六大将軍
よ、その地位に見合うだけの力を振るい、あの逆賊を倒しなさい!﹂
1547
猛々しく、そして優雅に。
皇帝として在るべき姿を知った少女は、自分を捨てる。
ただ優しいだけの自分を捨てて︱︱
今ここに、気高くも美しい皇帝陛下が誕生した。
1548
ep36 野心家とギャンブラーの末路
ゼノスは、今この時を非常に喜んでいた。
彼女は優しかった為に、あらゆる事に関して自分を主張出来なか
った。人間として見れば最も魅力的なのだが⋮⋮皇帝として見れば、
酷く小さな存在になってしまう。
︱︱それがどうだろうか。
あのアリーチェが自らを主張したのだ。
これを喜ばずして、何がランドリオ騎士か。この感情はゼノスだ
けで無く、皆が素直に歓喜していた。
⋮⋮⋮⋮ようやく、この剣を捧げる時が来たと。
1549
思う存分、彼女に尽くす事が出来ると。
﹁﹁﹁﹁﹁仰せのままに。我が麗しき皇帝陛下﹂﹂﹂﹂﹂
彼等は頭を垂れ、アリーチェの命令に従う。
先程とは違い、今の彼等は生気に満ち溢れている。その力は先の
数十倍以上⋮⋮いや、もっとかもしれない。
これこそがランドリオ六大将軍の本来の力。
エリーザが勝てる見込みは︱︱ほぼゼロに等しい。
1550
﹁ふ、ふふ。そうやって意気込むのも今の内⋮⋮ここは私の領域で
すわ。例えどんな敵がいようと、さしたる問題では︱︱︱︱ッ!﹂
と、強気な態度を見せる寸前だった。
大量の亡霊が漂っていた筈が、その全てが光の炎によって消え去
って行く。
一瞬でだ。跡形も無く、奴等は成仏していく。
﹁︱︱白銀の聖炎。ここが貴様の領域だとしても、俺達には関係の
無い事だ﹂
﹁くっ、戯言を!亡霊は無限に召喚する事が出来る⋮⋮⋮⋮行きな
さいな、我が忠実なる霊達よ!﹂
彼女は指をパチンと鳴らす。
1551
その音に呼応するかの様に、この場所全体を埋め尽くす程の亡霊
達が発生していく。だがその亡霊達は、どこか雰囲気が違う。
およそ素人連中では無い事は、容易に察知出来る。
﹁⋮⋮ふふ、どうでしょう。古い文献や歴史書、英雄伝を聞いた者
ならばすぐに分かる者達ですわ﹂
﹁⋮⋮﹂
確かによく見ると、資料上の人物によく似ている者がちらほら存
在する。
隙も見えないし、纏う覇気も尋常じゃない。更に言えば、彼等が
持っている武器もまた伝説上の名剣や名刀ばかり。彼等が英雄であ
る事をよく物語っている。
︱︱しかし、臆する気は毛頭ない。
1552
﹁おいアルバート。あまり派手に暴れるなよ⋮⋮この屋敷は民の血
税、いずれは金に換えて民衆の保障に当てなければならないからな﹂
﹁んな事は分かっとるわい。お前も気を付けるんじゃぞ﹂
こんな状況でも、ゼノスとアルバートは力を出し過ぎるなと注意
し合う。
﹁⋮⋮下らぬ。所詮は戦死した弱者であろうに﹂
﹁嗚呼、ですがこれは素晴らしい一面ですよ。⋮⋮美しく戦い、そ
して死んで行った過去の英雄。そしてそれに仇なすのは、現代の若
き英雄達。これほど戦いに闘志が宿る事は無いでしょうに!﹂
﹁ホフマンさん。あんたそれじゃ自分が蚊帳の外だぜ⋮⋮﹂
彼等からすれば、過去の英雄なぞ強敵とは思えない。⋮⋮これが
最高の対策だと思っているならば、とんだ思い上がりだ。
﹁︱︱︱︱ッ。︱︱︱︱ッ﹂
1553
エリーザは遂に堪忍袋の緒が切れた。
声にならない叫びを上げ、その美しい容姿を醜く崩していく。
いつも高貴に振る舞い、多くの者を相手に優雅に去なしてきた彼
女。自分よりも強い敵とは出くわさなかっただけに⋮⋮今宵の彼等
との出会いは、エリーザ自身を追い詰めていく。
﹁︱︱過去の英雄共、あの愚か者達を殺しなさい!﹂
激しい怒りと共に、彼女は亡霊と化した英雄達にそう命令する。
今まで沈黙していた英雄達は、一気に行動を始める。
それぞれが武器を手に、雪崩の様に突撃してくる。猪突猛進に見
えて、ココの動きには一切の無駄が存在しない。
1554
﹁何とも馬鹿な連中じゃ。己の力量を図れず、こうして突っ込んで
来るとは⋮⋮恥を知れい!﹂
まず先陣を切ったのはアルバートであった。
なるべく力を抑え、彼は自慢の大斧を掬い上げる。大斧から衝撃
波が生じ、目の前の英雄達をことごとく斬り裂く。
だがそれだけでは無い。衝撃波による振動は大地を鳴動させ、そ
の場にいた英雄達の大半の体勢を崩して見せた。
﹁今じゃ!﹂
﹁︱︱無論、心得ている﹂
アルバートの合図に、ユスティアラが答える。
彼女もまた刀を腰に添え、走りながら抜刀の構えを取る。
1555
﹁︱︱天千羅剣術、﹃山崩斬﹄﹂
抜き身のまま、ユスティアラは抜刀する。
刀身から放たれるのは、アルバートと似た衝撃波。しかしそれは
単なる衝撃波では無く⋮⋮研ぎ澄まされた覇気が含まれている。
絶対不可避の波動が、容赦なく群衆へと流れ込んでいく。︱︱だ
が、
爆音と共に弾け飛んだのは、僅か五名の英雄だけ。
弾け飛んだ連中はとても高度な魔術で、自己を犠牲にして後方を
守り抜いたのだ。
﹁⋮⋮烏合の衆では無いと見受ける。更に、身体が異様に怠い⋮⋮
これは悪夢の影響か?﹂
1556
流石のユスティアラも苛立ちを露わにする。
よく見ると、群衆の中には高位に属していたであろう魔術師が点
在している。アルバートの一撃は運良く入ったが、それが何度も続
くとは思えない。
そして通常のユスティアラならば、魔術防壁を貫通させる事など
容易かった筈。悪夢による影響で弱体化しているのは、言うまでも
ない。⋮⋮それは皆も同じだ。
自分達の後ろにはアリーチェや、傷付いたゲルマニアとイルディ
エもいる。消耗戦はこちらの不利に繋がるだけだ。
﹁ちっくしょ∼。調子こいてたけど、いざ竜化出来ねえ状態で戦う
となるとやりづれえな。ゼノス、何か打開策はねえのか!﹂
﹁あったら今頃やっている!﹂
ゼノスは相手と剣を交えながら答える。
状況は最悪とまで行かないが、場所的に考えてもやりづらい。こ
の屋敷の破壊は、皇帝陛下や自分達が望む事ではない。ジハードが
竜化出来ない要因は身体の怠さ同時に、そういった原因も含まれて
1557
いる。
それに英雄達の人数も膨大だ。この場を埋め尽くす程だから⋮⋮
ざっと百人はいるだろう。
我武者羅に戦うだけでは、彼等を駆逐する事は出来ないだろう。
﹁⋮⋮嗚呼、私に良い考えがあります。ゼノス殿﹂
﹁良い考えって⋮⋮うおっ!﹂
ゼノスが横を振り向くと、いつの間にかホフマンがいた。
こんな戦場の中で、しかも何の武器も無しに。
﹁お前下がっていろ!ここじゃ奴等に殺されるぞ!﹂
﹁分かっていますとも。しかし、これは一刻を争う事態⋮⋮。どう
かこの私めに、ある打開策を提案させて頂きたいのです!﹂
1558
﹁む⋮⋮﹂
ホフマンのその言葉に、それ以上口を挟む事が出来なかった。
彼は経済的側面で活躍する他に、軍事戦略においても多大なる貢
献を果たしている。その実力を知っているからこそ、彼の言葉が偽
りではない事を理解する。
﹁くっ、言ってみてくれ!﹂
﹁勿論ですとも。︱︱では、手短に﹂
そう言って、ホフマンは概要を粗方説明する。
﹁⋮⋮危険な策だな﹂
﹁ええ、そうですとも。⋮⋮しかし、これを可能にするのが六大将
軍の責務だと、私めは思います﹂
﹁⋮⋮分かったから、その変態じみた笑みはよしてくれ﹂
1559
言い終えると、ホフマンは満足げに後退していく。
多少の危険は伴うが、背に腹は代えられない。
︱︱決心したゼノスは、聖騎士流法技、﹃心音派生﹄を発動させ
る。そして仲間達に、今の策を言い渡す。
﹃⋮⋮というわけだ。協力してくれるか?﹄
﹃ぬう⋮⋮儂は構わんが﹄
﹃⋮⋮しかし、姫はどうする?その作戦は、姫に大きな被害が及ぶ
ぞ﹄
﹁⋮⋮﹂
ああ、ユスティアラの言う通りだった。
ゼノスの心配は、主にアリーチェにある。ホフマンの作戦は、今
アリーチェの傍に居るアスフィを引き剥がす結果となる。上手く自
分達が立ち回れば問題ないが、保障はまず無い。
1560
やはりアリーチェの近くに誰かが欲しい。でなければ、彼女が死
んでしまう可能性がある。
⋮⋮しかし、一体誰がいるというのか。
﹃︱︱皇帝陛下を守る任は、この私に任せて下さい!﹄
と、凛とした声音が脳裏に響き渡る。
﹃ゲ、ゲルマニア。お前大丈夫なのか!?﹄
ゼノスが後方を振り返ると、そこには満身創痍のゲルマニアが立
ち上がっていた。苦しそうな表情ながら、それでもアリーチェを守
ろうとしている。
﹃大丈夫も何も⋮⋮私は、貴方の足手まといにはなりたくない。共
1561
に戦うと決めた以上、これぐらいでへこたれる気はありませんッ!﹄
﹃⋮⋮ゲル、マニア﹄
彼女の強固な意志が伝わってくる。
不安で一杯だった気持ちが、何故か一気に無くなっていく。
﹃決まりのようだな、ゼノス﹄
﹃だ、だがなジハード。今のゲルマニアはまともに立てない状態だ
ぞ。安易に任せるわけには﹄
﹃馬鹿野郎、ああいう女を侮っちゃいけねえよ。俺の嫁さんもそう
だがな⋮⋮あのタイプの女は、しっかりとやってくれるぜ?﹄
﹃⋮⋮﹄
﹃なあ、任せてみようぜ。その方が、あの子にとっても良い選択だ
ろうに﹄
1562
﹃⋮⋮⋮⋮そう、か﹄
ゼノスは不承不承に頷く。
本当はゲルマニアも心配だ。あんな傷付いた状態で、一体どれほ
ど耐えられるものか。
⋮⋮しかし、ゼノスは彼女の意思を汲む事にした。
それが、彼女の為でもある気がした。
﹃︱︱よし。ならさっそくやるぞ!﹄
危機は刻一刻と迫ってくる。
その中で、ゼノス達はホフマンの作戦を実行した。
激しい攻防の中、まずゼノスはその間を縫いながらアルバートの
元へと近寄ろうとする。
1563
しかし、敵もそう簡単に通してはくれなかった。
真正面から飛んでくる正拳突き。格闘家らしき英雄がゼノスとの
タイマンを望んでくる。⋮⋮しかしゼノスの四方八方から、英雄達
が攻めてきている為、それに応える事は出来ない。
﹁くそ、聖騎士流剣術も容易に使えないのか。⋮⋮だったら﹂
ゼノスは腰を低くし、その場にて全身を一回転させる。それと同
時に剣を振るい、四方八方の敵に回転斬りを浴びせる。運良く剣撃
は迫る者全てに当たり、霧散していく。
好機。ゼノスは低い姿勢のまま、そして敵を斬り付けて、道を開
きながら走り抜けて行く。
あちこちに傷を作っても、無我夢中に走る。走る。走る︱︱︱︱
アルバートの姿を発見したゼノス。しかし目の前の英雄達が邪魔
で、迂闊に進む事が出来ない。
機転を利かせ、こちらに背中を見せる英雄に向かって疾駆する。
その背中を台にして、アルバートの元へと跳躍する。
1564
﹁遅いわい、小僧!﹂
﹁すまない待たせた!﹂
合流を果たしたゼノスは、ちらりと全体を確認する。
この作戦の始まり。それは今までアリーチェを守護していたアス
フィが前線へと出て、自分達が死守している側の反対へと回り、た
った一人で守りきる事。どうやら、彼女は何とか抑えているようだ。
そして反対側のゼノスは、アルバートと共闘して⋮⋮ある一点に
向かって突撃しなければならない。
ある一点を見据え、ゼノスとアルバートは互いに頷き合う。
機を見て、二人はその先︱︱多数の重騎士が立ちはだかる場へと
駆け走る。
﹁︱︱随分と重厚な鎧を着た連中じゃな。なるほど、この儂が選ば
れた理由がよく分かったわい﹂
1565
アルバートはニヤリと笑み、大斧を両手で持ち始める。
重騎士達も彼等の接近に気付き、斬りかかろうとするが⋮⋮。
﹁踏み込みが甘いわあッッ!﹂
アルバートは叱咤と共に、その大斧を威勢よく振り回す。
重厚な鎧は見るも無残に砕け散り、全身はどこかへと吹っ飛ばさ
れる。作業的に重騎士を薙ぎ倒していくその様子は、正に鬼そのも
の。
例え肩に剣がめり込んでも、身体に無数の傷を負わされても⋮⋮
アルバートは咆哮を上げながら前進する。
﹁ぬっ、いたぞい。︱︱あれがホフマンの言っていた奴じゃろ?﹂
﹁そのようだな⋮⋮。よしっ﹂
1566
ゼノスはまた腰を低くし、アルバートによって切り開かれた道を
突き抜けて行く。
その先に居るのは︱︱大タルを抱えた小太りの男。
ゼノスの狙いは、正しくそいつだった。
﹁悪いが、その樽を貰うぞ﹂
タルを抱えた男が奇妙な呪文を唱えてきたが、ゼノスは発動され
る前に男の頭に踵落しをくらわせる。︱︱そして、昏倒。
﹁︱︱野球は苦手だけど、四の五の言ってられないかッ!﹂
ゼノスは異世界の言葉を使いながら、リベルタスを肩に置く。
そして剣を大きく振りかぶって︱︱樽に向かって剣の腹をぶつけ
る。
1567
普通の剣ならば折れてしまうが、リベルタスはそこまで脆くは無
い。剣は折れる事なくタルに当たり、樽は空中へと吹き飛ばされる。
一体何をする気なのか?この計画的な行動を見て、エリーザは何
か良からぬ雰囲気を味わう。
樽は宙を飛び、やがて群衆の中心部上へとやって来る。
⋮⋮それを見計らったかの如く、ユスティアラが大きく跳躍した。
﹁⋮⋮⋮⋮斬る﹂
彼女は刀を構え、宙にある樽を一刀両断する。
すると︱︱その樽の中から金属粉が姿を現す。
﹁︱︱天千羅剣術、﹃風吹雪﹄!﹂
1568
彼女は刀を振るい、周囲に豪風を巻き起こす。
それによって金属粉は周囲一帯に飛び散り、やがて空間全体を埋
め尽くす。
⋮⋮これが意味するもの。
それを理解した瞬間、エリーザに衝撃が走る。
﹁ま、まさか﹂
﹁⋮⋮そう、そのまさかですよ。汚らわしい淑女﹂
ホフマンは嘲け笑う。
それと同時に、ジハードが背中から巨大な竜の翼を出す。急いで
一点へと集まった仲間達を取り囲む様に、その翼で包み込もうとす
る。
1569
︱︱︱︱しかし、ゼノスだけはそうもいかなかった。
﹁︱︱ッ。お、おいゼノス!何してるんだ、早くこっちに﹂
﹁俺の事はいい!早く翼で皆を包み込め!﹂
何とゼノスは、ジハードとはかなり距離が空いていた。敵の猛攻
によって苦戦させられ、このような結果となったのだ。⋮⋮勿論、
翼で包み込める範囲では無い。
︱︱これから起きる事を考えると、翼の中にいなければ間違いな
く死んでしまう。しかし自分を救おうとして、皆が死んでしまって
は元も子も無い。そう結論に至り、ゼノスは翼に入る事を諦めた。
﹁︱︱くそったれ。どうなっても知らねえぞ!﹂
1570
翼で皆を囲み終える寸前。ジハードは、口から僅かながらの炎を
吹き出す。
それを契機に︱︱世界が光に包まれる。
それは爆発の光であって、金属粉の数だけ爆発が生じる。
⋮⋮ゼノスの視界は光に呑まれる。
﹁くっ﹂
何か方法は無いのか?そうあらゆる回避方法を模索していた︱︱
その時だった。
﹁︱︱︱︱︱︱ゼノスッ!﹂
1571
ふいに、目前にゲルマニアが現れた。
ゼノスは彼女に何も言う事が出来ず、ただ彼女に抱き締められ︱︱
︱︱共に、爆発へと飲み込まれた。
1572
ep37 カードに絶望を込めて
盛大な爆発の連鎖は終わった。
冷や汗は止む事を知らず、心臓の鼓動はまだ早いまま。だがそれ
は未だ生きている証であり、自分はまだ死んではいないようだ。
爆発後、辺りは一気に静かになる。
⋮⋮ゼノスはそっと目を開け、目前の状況を見てみる。
会場は見る影も無く、豪華なシャンデリアや調度品の類は炭と化
している。テーブルや椅子は原型を留めておらず、それらしき物が
存在している。窓ガラスは割れ、窓からは光が差し込んでくる。そ
ろそろ夜が明ける時間なのかもしれない。
一方のゼノスはと言うと⋮⋮全くの無傷だった。
1573
無傷でいられたのは⋮⋮きっと、ゲルマニアのおかげだろう。
彼女はあの一瞬でゼノスが入れないと気付き、急いで抜け出して
ここまで来てくれた。そしてシールカードの力で助けてくれたのだ。
﹁⋮⋮ゲルマニア、大丈夫か?﹂
ゼノスは傍で倒れているゲルマニアに声を掛ける。
﹁は、はい⋮⋮。ゼノス、は?﹂
﹁俺は大丈夫だ。︱︱どうやらも皆も平気なようだな﹂
ゼノスが指差す方向には、皆がいた。
ジハードの翼が爆発から守っていたので、皆も大した怪我は無い
ようだ。
﹁お、おいゼノス。大丈夫だったか!?﹂
1574
﹁ああ、平気だ。⋮⋮⋮⋮さてと。後はやる事を片付けようか﹂
ゼノス達はある方向を見る。
そこには︱︱エリーザとマーシェルが無残に倒れ伏している。
﹁う⋮⋮⋮⋮ぐっ。く⋮⋮まさか、あんな事をするとは⋮⋮夢にも、
思いませんでしたわ⋮⋮⋮⋮﹂
エリーザは火傷だらけの身体を引き摺りながら、怨嗟の瞳を向け
てくる。
その言葉に対応すべく、ホフマンが一歩前へと出る。
﹁︱︱如何でしょうか、﹃粉塵爆発﹄の味は?﹂
﹁ふ、ふふ⋮⋮⋮⋮何て、機転の回る策士かしら。あの状況で、ま
さか錬金術師の持つ金属粉を見つけて⋮⋮それを粉塵爆発の材料に
しようなんて⋮⋮﹂
1575
﹁単なる偶然ですよ。⋮⋮そして単に経験を生かしたまでです。以
前に小麦粉農家を視察中、自分を殺そうとした暗殺者がいましてね。
︱︱まああの時は、倉庫にあった小麦粉を使わせて貰いましたが﹂
ホフマンはそう言いながら、また後退する。
彼の作戦は完璧だった。
気体中に可燃性の粉塵が浮遊した状態で、尚且つ一定の濃度と引
火を引き起こす火さえあれば、粉塵を爆発させる事が可能となる。
咄嗟に彼は錬金術師を見つけ、タルには錬金術の代償となる金属
粉がある事も知っていた。しかし錬金術師は重騎士に阻まれていて、
その上である考えが浮かんだ。
それは屈強な力を持つアルバートを先行させる事。更にタルを器
用に吹っ飛ばせるであろうゼノスを付かせる事。
その後にユスティアラの風を利用し、全体に金属粉を撒き散らす。
そしてあらかじめジハードが竜帝だと知っていた上で、ジハードに
1576
爆発を引き起こさせたのだ。
一瞬で爆発の程度を理解し、樽分の金属粉であれば最小限の被害
で済ませられる。⋮⋮ずさんな計画だったが、結果としてエリーザ
の意表を突いて屈服させた事になる。
彼の作戦は、全て現実のままとなった。
瞬時に大胆且つ現実性のある作戦を作り出す男。それこそが六大
将軍、ホフマンの戦い方だ。
﹁︱︱結果はこの通りだ、エリーザとやら。俺達はお前の悪夢から
抜け出し、ここまで追い詰めた。⋮⋮⋮⋮覚悟は出来ているか?﹂
ゼノスは彼女へと近付き、倒れ伏す彼女の腹にリベルタスの刃先
を置く。複雑な表情でアスフィがそれを見るが、そんな事は気にし
ない。
︱︱こいつは、してはならない事をした。
1577
皇帝陛下を殺そうとした挙句、自分達の過去をまた追体験させた
のだ。あの苦しくて、悲しい現実を⋮⋮また思い出させた。
ゼノスは見てしまった。そして、あの時は知り得なかった真実も、
この目で見届けてしまった。
コレットとドルガの死の直前。そして、ガイアの日々の葛藤も⋮
⋮全部だ。
﹁⋮⋮醜い顔を、していますわよ⋮⋮﹂
﹁黙れ。それ以上口を開くな﹂
ゼノスは怒りを示すが、彼女は尚も不気味な笑みを放ち続ける。
﹁ふふ⋮⋮そう怒ってはいけませんわ。⋮⋮⋮⋮それでは、次の悪
夢に⋮⋮苛まれますわ⋮⋮よ?﹂
﹁⋮⋮次の悪夢、だと?﹂
1578
ゼノスの疑問をよそに、エリーザは自らのカードを手に持つ。震
える手のまま、カードを掲げる。
朝日と共に、カードは霧散していった。果たしてカードに何があ
ったのかは、エリーザにしか分からない。
﹁ふふ、うふふ⋮⋮⋮⋮。嗚呼、楽しみですわ⋮⋮。今この時から、
貴方達の運命が私の手によって狂ったかと思うと⋮⋮⋮⋮胸が高鳴
る気分﹂
﹁⋮⋮皇帝陛下。この女を殺しても宜しいでしょうか?﹂
ゼノスの怒りは限界に達していた。
アリーチェもまた咎めず、コクリと頷く。
1579
﹁うふふ、良い悪夢を﹂
﹁⋮⋮それはこちらの台詞だ。亡霊のギャンブラーよ!﹂
剣に力を込め︱︱腹にリベルタスを突き刺す。
﹁︱︱︱︱ッッッ﹂
彼女は声を上げるまでも無く、瞳孔を開かせる。大量の血反吐を
吐いて、彼女は呆気なく絶命した。
その全身は光の源となって、空気中に溶け込んで行く。マルスの
時は何かしらの記憶が見れたが⋮⋮今回は何も無いようだ。
始末を終えたゼノスは血を振り払い、リベルタスを消失させる。
彼女が死んだ以上、もう必要無いだろう。
⋮⋮後は、もう一方の始末だけだ。
1580
﹁⋮⋮マーシェル。まだ生きていますか?﹂
アリーチェが前に出て、黒焦げのマーシェルにそう尋ねる。
マーシェルは全身をビクつかせ、醜く染まった火傷顔を露わにす
る。そして情けない事に、軽く悲鳴を上げながら後ずさり始める。
﹁アリーチェ様﹂
﹁分かっていますよ、ゼノス。︱︱ユスティアラ、後にこの男をア
ルギナスへと収監して下さい。⋮⋮じっくりと、聞く事があります
からね﹂
﹁承知。彼を拷問した上で、シールカードとの関連性、又は奴等の
情報を可能な限り吐かせます﹂
﹁⋮⋮ま、待ってくれ⋮⋮いや待って下さい!わ、私は何も知らな
いッ!本当に奴等については分からないんだ!だ、だから⋮⋮助け
てくれ!﹂
1581
拷問と耳にして、マーシェルは錯乱した状態で助けを乞う。
愚かな。結婚披露宴と称し、ランドリオの運命を、そしてアリー
チェの人生を狂わせようとした張本人が何を言うか。
お前は拷問だけでは済まないだろう。何か証拠となる物が見つか
り、反逆罪として罪を問われれば︱︱間違いなく処刑となる。
今のアリーチェならば、それを臆せず下す事だろう。
﹁︱︱連れて行きなさい﹂
﹁待って⋮⋮私は無実だ!あ、あああの女に惑わされて⋮⋮決して
貴方様を裏切るつもりなど無かったんですよッ!だから、だから︱
︱ッ﹂
どんなに言い訳を繕っても、アリーチェが耳を貸す事は無い。
ユスティアラとアルバートに連行され、ただ醜い叫び声を上げる
だけ⋮⋮とても革命を起こそうとした人物とは思えない。
1582
︱︱マーシェルの野望は、エリーザの死と共に潰えた。
1583
真夜中の騒動から翌日。
ヴァルディカ離宮での出来事に関して、各方面において様々な処
理が行われていた。
大貴族マーシェルの企みを知り、一部の貴族は猛烈に嘘だと批判。
これは皇帝陛下の虚言だとまで主張し始め、騎士達はそれの鎮圧に
手を焼いていた。⋮⋮貴族のこういった姿勢は、徐々に鎮静化させ
る必要があるだろう。
一方の六大将軍は、悪夢から目覚めても休む暇さえ無い。
ユスティアラはすぐさま牢獄部隊を呼び寄せ、マーシェルの身柄
をアルギナスにまで護送した。ジハードは人手不足である離宮破損
部の修復作業に貢献し、アルバートは周辺領民に対して説明会を行
っている。ホフマンは前々から予定されていた外交会議の為、既に
外国へと向かっている。
⋮⋮さて、一方のゼノスであるが。
1584
彼はゲルマニアとアスフィと共に、重傷を負っているイルディエ
に集中治療を受けさせる為に、医療技術に特化したレディオの街へ
と旅立っていた。
馬車に揺られながら、ゼノスは茫然と窓を眺めていた。
あれから皇帝陛下の命を受け、ゼノス達は二台の馬車を借りてレ
ディオの街へと向かっている。ヴァルディカ離宮からレディオの街
へは相当な時間を有する。
1585
一年を通して霧が立ち込める谷を越え、臆病な妖精が住まうと噂
される森を抜けて、その先にレディオがある。⋮⋮ゼノスの勘では
あるが、恐らく五日か六日はかかる距離だろう。
先頭の馬車にイルディエを乗せた馬車が、そしてその後ろにゼノ
ス・ゲルマニアが乗り合わせた形となっている。あの事件の直後か
らか、彼等は無言のまま時間を持て余している。
︱︱静寂。何よりも、空気が重く感じる。
⋮⋮ゲルマニアはもう限界だった。
﹁あ、あの⋮⋮ゼノス﹂
﹁⋮⋮どうした?﹂
勇気を振り絞って、彼に声をかける。
顔を上げたゼノスは、やはりどこか浮かない様子だった。何に関
して思い悩んでいるのかは⋮⋮大体見当がつくが。
1586
﹁過去を思い出して、後悔の念に駆られる気持ちは分かります。⋮
⋮ですが、今悩んでも仕方ない事だと思います﹂
﹁⋮⋮そうか。アリーチェ様から聞いているが、お前も俺の過去を
見て来たんだっけか﹂
ゼノスは深く溜息をつき、窓枠に肘を置く。
しばし沈黙した後、重々しく口を開く。
﹁︱︱ああ、そんな事は分かってるよ。あれはどうしようも無かっ
たって、あの頃の俺が、三人を救える筈が無いとな。⋮⋮⋮⋮しか
しそれでも、悔やみきれないんだ﹂
﹁⋮⋮ゼノス﹂
ゲルマニアは何かを言おうとするが、口には出せなかった。
1587
何を言った所で、今のゼノスを元気付ける術は無い。例え言った
としても、かえって彼の心を傷付けるだけだ。
﹁⋮⋮私では頼りないかもしれませんが、相談があれば仰ってくだ
さい﹂
﹁頼りない?いや、お前はそうじゃないと思うぞ﹂
﹁え?﹂
ふいに紡がれた言葉に、ゲルマニアは意表を突かれた。
﹁︱︱エリーザとの戦いの時、お前は必死にアリーチェ様を守って
くれた。あれで俺はかなり負担を掛けずに済んだんだ。⋮⋮⋮⋮そ
れに、俺を爆発からも守ってくれた﹂
そこまで出来て、ゲルマニアを頼りないと思う方がおかしい。
彼女が自分の実力に関してコンプレックスを抱いていた事は知っ
1588
ている。自分はゼノスの役に立っていないんじゃないか、と日々思
い悩んでいたのだろう。
しかし、そんな事は無い。
そう思うからこそ、ゼノスは深く頭を下げた。
﹁︱︱あの時は助かった。本当に有難うな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮あ、あの。その⋮⋮﹂
初めて、ゲルマニアは彼に感謝された。
それが嬉しくて、どこか照れ臭くて⋮⋮。
心臓の鼓動が昂ぶり、何故かゼノスを見つめる事が出来なかった。
1589
︱︱この気持ちは、一体何なのだろうか。
﹁⋮⋮どうしたんだゲルマニア?﹂
頭を上げたゼノスが、こちらの顔を覗いてくる。
あまりにも突拍子に来たので、素早くゲルマニアはそっぽを向く。
﹁なな何でもありません!いいから私を見ないで下さいいいいいい
!﹂
﹁お、おい⋮⋮一体全体どういうことだ?﹂
﹁うるさいうるさ∼∼∼∼∼い!ゼノスの馬鹿、変態!馬鹿馬鹿馬
鹿︱︱︱︱ッ!﹂
﹁な、何なんだ急に。変な事でも言ったのだろうか⋮⋮俺﹂
1590
先程の暗い雰囲気はどこへやら。
ゲルマニアのそんな態度に、ゼノスは徐々にいつもの調子へと取
り戻していく。
彼女の言う通り、今更悩む事も無いだろう。
もう十年以上前の話だし、過去をやり直す事も不可能だ。それに
気付かせてくれたゲルマニアには、本当に感謝している。
⋮⋮⋮⋮そう、あれはもう終わった事なんだ。
まだ一抹の不安を未だ残しつつ、ゼノスはそう思うしか無かった。
1591
1592
ep38 勇士達の再来
ゼノス達の物語に一区切りついたその頃。
西方大陸最西端の半島にてそびえる宮殿のテラス。
そこでとある少女が、雄大な海を眺めながら紅茶を啜っていた。
︱︱ゴシック調なドレスを着飾り、前髪を切り揃えた長い黒髪の少
女は⋮⋮大体十五歳かそこらだろうか。大人びた容姿とは裏腹に、
どこか幼さが残っている。
蒼天に浮かぶ雲の狭間から、太陽の光が差し込む。光は海を照ら
し、黄金の海を表現させる。⋮⋮それが何とも美しくて、少女はこ
の一時を大事にしていた所だった。
︱︱しかし、それも長くは続かなかった。
1593
今まで人気の無かった後ろに、誰かが佇んでいる事に気付く。そ
れが誰なのかは分かっているので、振り向こうとはしない。
﹁⋮⋮お嬢様。報告したい事がございます﹂
背後から聞こえるそれは、とてもしわがれた声だった。
てっきり新しい菓子か紅茶を持って来たのかと期待していたが、
それを聞いて少女は途端に不機嫌となる。
﹁知っているわ、そんな事ぐらい。この私を誰だと思っているの?﹂
﹁は⋮⋮失礼をば。ただお嬢様は、以前に昼寝をしていたせいで知
りそびれた事がございましたので﹂
﹁⋮⋮あ、あれは偶然よ。そう偶然だわ﹂
ばつが悪かったのか、少女は不貞腐れた様子で頬杖をつく。
だがそうしていては彼にも悪いので、少女は静かに立ち上がり後
ろを振り向く。後ろに控える燕尾服姿の老人を見据え、腰に手を置
1594
く。
﹁︱︱にしても、エリーザが死んだのね。あれは組織にとって厄介
な存在だったけど⋮⋮有用な人材でもあったわ﹂
﹁左様で。しかしながら、今回の件は彼女の独断の行動から発生し
たものです。⋮⋮彼奴の死は、素直に喜んでも宜しいかと﹂
﹁⋮⋮ふん。大人しそうな顔して、相変わらず非道な考えね﹂
だが現実問題、エリーザの死にデメリットは無かった。
亡霊のギャンブラーたる彼女は、霊を操ると同時に⋮⋮この世の
道理を覆す特殊な能力も兼ね備えていた。
彼女が一度それを使えば、全てがややこしくなる。
死んで良かったという感情も、分からないでも無い。
﹁はあ。で、あんたは﹃それだけ﹄を伝えに来たんじゃないのでし
ょう?﹂
1595
﹁⋮⋮勿論で御座います。口で説明出来る範囲ではありません故、
実際ご足労願います﹂
﹁⋮⋮分かったわ﹂
少女は髪を払い、背後に控えていた燕尾服の老人に付いて行く。
テラスから自室へと入り、自室を出て延々と続く廊下を歩き続け
る。
やがて辿り着いたのは︱︱花と木々に囲まれ、清らかな川が流れ
る大規模な庭園。海が見え、開放的な空間である為に、ここも少女
が憩いの場としている場所でもある。
︱︱その庭園の奥に進むと、何やら花畑に誰かが横たわっていた。
人数は⋮⋮三人。死んだ様に眠っている彼等を見つけた少女は、
途端に難しい表情を作る。
1596
﹁⋮⋮エリーザめ。死ぬ直前に、またとんだ贈り物を寄越してくれ
たわね﹂
庭園の芝生を踏み歩き、少女は三人の近くにいる鳩を見つける。
細枝に止まる鳩は一枚の手紙を咥えていたので、少女はそれを手
に取る。すると鳩は飛び去って行く。
内容を確認した少女は、深く嘆息する。
﹁全く、食えない女ね﹂
﹁お嬢様、手紙には何と⋮⋮?﹂
﹁大した事では無いわ。ただこの者達を使ってくれと言う、彼女な
りの厚意を受け取っただけよ﹂
﹁左様でございますか﹂
1597
少女は手紙を破り捨て、踵を返す。
﹁⋮⋮大分戦力が揃いましたな、お嬢様﹂
﹁そうね。⋮⋮始祖をこの手に掴む日は、そう遠くない﹂
少女は口を吊り上げる。
近い将来起こるであろう﹃戦争﹄を夢見て、興奮を抑えきれない。
﹁︱︱世の真理を知るこの私、ジスカが動く日は⋮⋮すぐそこに在
り﹂
少女︱︱ジスカはあらゆる感情を胸に、そう呟く。
1598
﹃親愛なる我が主、ジスカ様へ
私の最後の力を、その結晶体を貴方に送りますわ。
⋮⋮この三人は彼を苦しめる。始祖を取り戻す為にも、まず彼を
何とかしなければなりません。
1599
きっとお役に立つ事でしょう。︱︱﹃第二次死守戦争﹄にて、
︱︱この生き返った先代白銀の聖騎士と、その愛弟子二人がね 奇跡を呼ぶ者 エリーザより﹄
1600
主要登場人物紹介︵1︶︵前書き︶
︵1︶主要登場人物のみの掲載となっています。
︵2︶残りの登場人物に関しては、順次追加していきたいと思いま
す。
︵3︶みてみんに投稿されている画像はこれだけではありません。
これもまた後々追加していく予定です。
1601
主要登場人物紹介︵1︶
ゼノス・ディルガーナ︵20︶ 身長=175㎝ 武器=両刃剣 好き=寝る、食う、テレビゲーム︵異世界限定︶ 苦手=無意味な
殺し、ゲルマニアの小言
ランドリオ帝国六大将軍の一人。﹃白銀の聖騎士﹄の名を冠する
者。
二年前に勃発した死守戦争を期にランドリオの地を去るが、ある
因果を以て再びランドリオ帝国へと訪れる。本来の性格は生真面目
で誠実だが、堕落した生活で堕落症となっている。
・奥義﹃天啓﹄=神聖なる天の裁判官、アストリアの力を借りた裁
きの息吹。
・滅技﹃白銀の聖炎﹄=光の理を具現化させた聖なる炎。
・妙技﹃マドリガル﹄=闇を斬り裂く聖剣・聖槍・聖斧・聖弓を巧
みに駆使する超絶技巧。
・法技﹃ホーリー・ベール﹄etc=全てを防ぐ光の壁。
︵経歴︶
・15才=グライデン傭兵団からランドリオ騎士団へと入団。僅か
数か月で六大将軍へと上り詰め、白銀の鎧を身に纏い始める。
1602
・16才=﹃白銀の聖騎士﹄の名を継承する。同時期に戦女神ヴィ
ルへルから聖剣リベルタスを授かり、魔王ルードアリアから魔盾ル
ードアリアを簒奪する。
・17才=世界各国に潜む神々、魔族、神獣を倒した事により名が
知れ渡る。英雄譚が広まり、憧れの英雄として世間に伝わる。
・18才=死守戦争を期に行方をくらます。後に放浪騎士団シルヴ
ェリアへと入団し、目的の無い旅を続ける。
・20才=再びランドリオ騎士団へと復帰し、六大将軍の任に就く。
ゲルマニア︵18︶ 身長=162㎝ 武器=大剣 好き=鍛練、
家事全般、英雄譚を聞く事 苦手=幽霊、不正義、ネズミやゴキブ
リ等々
アリーチェ皇女殿下に仕える親衛部隊隊長。シールカードという
忌み嫌われし存在となってから村で虐めを受け自暴自棄となるが、
聖騎士英雄譚を聞いてから自分も騎士になると決意した。性格は真
面目だが、お茶目な一面も存在する。
︵経歴︶
・16才=シールカードとなった後、ランドリオ騎士団へと入団。
その類稀なる実力を買われ、皇女近衛部隊へと配属される。
・18才=白銀の聖騎士ゼノスの側近兼聖騎士部隊副将軍に任命さ
れる。
1603
ロザリー・カラミティ︵20︶ 身長=164cm 武器=片手
剣 好き=ゼノス観察、ゼノスと酒飲み、ゼノスについて考える 苦手=自分の金髪、ゼノスに無視される事、甘い物
シルヴェリア騎士団員の女性。ある日を境に騎士となり、普段は
ゼノスと共に行動している。無感情で無愛想、しかし他者を圧倒す
る程の美しさを兼ね備えている。
アリーチェ︵16︶ 身長=157㎝ 好き=読書、音楽鑑賞、
劇 苦手=人前に出る、野菜全般
ランドリオ帝国の皇女。先王の娘であるが、先王の死後、リカル
ド皇帝に婚約を強いられる形となった。リカルドの死後は自らが皇
帝となり、未熟ながらも精一杯努めていく事となる。ゼノスに対し
て憧れ、淡い恋心を抱いている。
始祖アスフィ 身長=155㎝ 好き=太陽の光、快適な部屋、
ゼノス 苦手=戦争、汚い部屋
この世にシールカードという存在を生んだ元凶。二年前の死守戦
争とは違い、その性格は大きく変化している。その真相は謎に包ま
れている。
1604
ライン・アラモード︵20︶身長=180㎝ 武器=暗器 好き
=文房具集め、眼鏡集め、バンダナ集め 苦手=戦い、姉
元六大将軍の一人であり、現在は聖騎士部隊の騎士となっている。
普段は温厚であるが、戦闘時は暗殺の使徒となりて瞬殺する狂人と
なる。ゼノスの親友という一面もある。
︵経歴︶
・13才=故郷が滅びた事により、極めた暗殺術を駆使して生計を
凌ぐ。
・15才=聖騎士ゼノスに興味を覚え、ランドリオ騎士団へと入団
する。
・18才=死守戦争後、六大将軍の位を捨ててゼノス、リリスと共
にランドリオ帝国を後にする。その後、シルヴェリア騎士団に入団
する。
・20才=再びランドリオ騎士団に入団する。後に聖騎士部隊に配
属される。
アマギ・ユスティアラ・レンカ︵23︶ 身長=169㎝ 武器
=刀 好き=瞑想、生け花、和食全般 苦手=騒音、おしゃべりな
人間、たぬき
1605
六大将軍の一人、本名は﹁天城
蓮香﹂。ユスティアラという名
は将軍就任時に与えられたものである。遥か東方の大陸出身であり、
﹃天千羅流剣術﹄の免許皆伝者。その実力はゼノスとほぼ互角であ
り、素早さに関しては六大将軍中最強を誇る。
天千羅剣術﹃風吹雪﹄=素早い振りによって生じるカマイタチの
舞。氷魔人双手発動時の場合は﹃風姫刀﹄となる。
﹃林緑の業﹄=森の生命の力により、その場にいる全
ての精力を吸い尽くす。
﹃火蝶﹄=火の粉を纏った蝶達が天を飛び、火の粉は
紅き雨となって地へと降り行く。
﹃山崩斬﹄=抜刀によって繰り出される一撃必殺。氷
魔人双手発動時は﹃輪廻灰燼﹄となる。
︵経歴︶
・16才=故郷を出てしばし放浪の旅を続ける。
・17才=旅先で出会った六大将軍アルバートに勧められ、ランド
リオ騎士団に入団する。僅か二カ月という史上最短で六大将軍へと
昇り詰める。
・18才=ユスティアラ部隊にゼノスとイルディエが配属され、二
人の上司となる。
・21才=聖騎士の行方不明後、リカルドの勅命によりアルギナス
牢獄部隊へと配属される。
1606
モハヌディ・イルディエ・カラ・ハリヌ︵19︶身長=166㎝
武器=槍 好き=踊り、恋する乙女を弄る、女子会 苦手=自分
の肌、真面目な空気
六大将軍の一人。古代民族アステナの末裔であり、幼少期は民族
独自の踊り子として活躍する。しかしとある理由によって故郷を抜
け出し、ある理由で知り合ったゼノスと共にランドリオ騎士団に入
団する。性格は陽気であり、且つ妖艶な印象を絶やさない。肌はア
ステナ特有の黒褐色である。
・炎の祝福=癒しの炎を発生させる事で、死以外の症状を全て回復
させる。
・不死鳥の転生=その身に炎を纏う事により、どんな攻撃を受けて
もすぐに再生する。彼女が不死の女王と謳われる所以。
・業火円舞=炎と共に舞い、炎と共に敵を薙ぐ技。
︵経歴︶
・14才=故郷を抜け出し、ゼノスと出会う。そしてランドリオ騎
士団に入団する。
・16才=前任の六大将軍が殉職した事により、六大将軍の座へと
着く。
1607
アルバート・ヴィッテルシュタイン︵63︶身長=198㎝ 武
器=大斧 好き=酒、肉類、筋トレ 苦手=自分の過去、腰痛
六大将軍の一人、﹃始原旅団﹄の元首長であった男。六大将軍の
長も務めており、リーダーシップが極めて高い。戦闘能力も異常で
あり、力に関しては六大将軍中最強。そして戦場では慈悲無き殺戮
を行う事から﹃戦場の鬼﹄という異名を名付けられる。
メギド・クラッシュ=地面に大斧を強く叩きつける技。本気だと
国の領土全ての大地を崩壊させる力を有する。禁忌の技として封印
している。
アース・クライシス=地団駄を踏む事で、範囲内に巨大な地震を
発生させる技。
︵経歴︶
・15才=始原旅団を結成し、大陸制圧の旅へと出る。
・23才=大陸制圧を完了させ、他部族の統一後は始原旅団を中心
として﹃パステノン王国﹄を建国、その国の王として君臨する。
・29才=身内の裏切りに遭い、国が分裂し始める。アルバートは
国王の座を奪われてしまう。
・35才=若きランドリオ皇帝バルド︵アリーチェの父︶と出会い、
意気投合した後、ランドリオ騎士団に入団する。
・36才=六大将軍の地位にまで上り詰める。
1608
ホフマン・ガイ・ノイディクス︵27︶身長=167㎝ 武器=
なし 好き=抒情的な出来事・美しきもの全般、家族 苦手=金、
美しくないもの全般
六大将軍の一人。前任であったラインの後継者として二年前に将
軍となり、外交と経済活動の面において帝国を支え続けている。多
くの商人や貴族、他国の王族とも深い繋がりを持っており、知略に
関して右に出る者は存在しない。平民出だが、その才覚によって現
在は公爵の爵位を得ている。
︵経歴︶
・17才=貴族御用達のカジノで才能を発揮し、大貴族の目を引く。
・19才=貴族の爵位を得る。
・25才=﹁知られざる者﹂失踪後、後釜として六大将軍の座につ
く。
ジハード︵異世界;安部 健一︶身長︵人間時︶187㎝ 好き
=自分の子供と妻、平和な日本、アスパラサラダ 苦手=竜を狩る
人間、肉類︵特に牛肉は苦手らしい︶、妻の小言、子供に罵られる事
六大将軍の一人。竜の頂点に立つ竜帝として千年以上生きる一方、
異世界﹁日本﹂では運送ドライバーとして家族を養っている。竜種
1609
はブラックドラゴン、妻はホワイトドラゴンで、娘と息子はリトル
グレードラゴンである。
︵経歴︶
・千年前=かつてのランドリオ帝国を支配する。
・982年前=ランドリオ皇帝を退位し、竜宮殿にて竜帝の地位へ
とつく。
・19年前=長男ロブが生まれた直後、異世界へと住み始める。
・18年前=運送会社﹃川崎運送﹄に就職。長女ソフィアが誕生。
1610
主要登場人物紹介︵1︶︵後書き︶
登場人物画像集↓http://6886.mitemin.ne
t/
1611
登場人物イラスト︵1︶︵前書き︶
※1=要望があったのでこちらにも掲載しました。
※2︵2014年9月30日更新︶=新しくしたイラストがござい
ます!
1612
登場人物イラスト︵1︶
ゼノス・ディルガーナ
<i122147|6886>
ゲルマニア
<i122150|6886>
ロザリー
<i127351|6886>
ユスティアラ
<i122176|6886>
イルディエ
<i116479|6886>
アルバート
<i122595|6886>
ホフマン
<i79475|6886>
1613
ジハード
<i80111|6886>
ラヤ
<i80596|6886>
始祖アスフィ
<i123920|6886>
アリーチェ
<i85700|6886>
1614
登場人物イラスト︵1︶︵後書き︶
自作イラストその他はこちら↓http://6886.mite
min.net/
1615
ep0 砂漠の町トル︱ナ
ランドリオ大陸から遥か南の大陸。
そこでは砂漠地帯が大陸の大半を占めている。灼熱の大地が旅人
を苦しめ、広大な砂漠で遭難する者は数知れない。
しかし、この大陸を横断する者は非常に多いのも事実。何故かと
言うと、大陸よりも南に位置する諸島であらゆる原料が栽培されて
いるからだ。勿論、他大陸には存在しない貴重な資源も存在する。
その為、貿易商達は大陸を抜けて原料を確保しに来る。船で迂回
という手もあるが、時間も掛かれば頻繁に嵐が発生する海域を渡ら
なければならない。明らかに砂漠を渡る方が利口と言える。
だから彼等は砂漠を横断しなければならない。
汗水垂らし、ラクダに乗って数日間も歩き続けなければならない。
苛酷で命を懸けた横断だ。
1616
⋮⋮だから彼等は、必ずある場所に滞留する事になる。
砂漠の中心に位置し、唯一オアシスが存在する街︱︱﹃トル︱ナ﹄
。
トル︱ナはこの砂漠大陸を統治する﹃マハディーン王国﹄の統制
下にある。街の建造物の至る所に幾何学的模様が刻まれたマハディ
ーン様式が、それを如実に表現している。
昼は様々な貿易商達で賑わい、中途貿易の街として栄える。南の
諸島で取れた資源や作物を露店で販売し、それを用いて製造された
絨毯や絹織物、手工芸品はこの街唯一の伝統品だ。その為、トル︱
ナを目的地として旅する商人も少なくは無い。
更に夜は、旅人達を癒す歓楽街と化す。
トル︱ナは物だけで無く、人身売買が盛んな裏市場も存在する。
奴隷として買われた者の一部は、ここで客をもてなし、心身共に安
らぎを与える職業に就いている。⋮⋮その身を犠牲にしても、だ。
正にそこは旅人達のオアシス。
1617
⋮⋮そして、奴隷にとっては地獄よりも恐ろしい街だ。
︱︱今から約五年前。とある月明かりの夜の出来事。
旅の疲れを癒す酒場にて、一人の少女がそこで舞い踊っていた。
酒と煙草の匂いで溢れ返り、情熱のこもった拍手喝采に応え、彼
女は情熱と大胆溢れるダンスで全てを魅了する。
彼女の全てが可憐で、とても奇妙であった。
何故なら︱︱彼女は古代民族アステナの末裔であり、今はもう珍
しい人種となっている存在。
奇異の視線を浴びながら。あらゆる差別を受けながら。
アステナの少女︱︱イルディエは、奴隷としてその町で生き続け
ていた。
1618
1619
ep1 奴隷の主
イルディエの人生は、ある時を以て崩壊した。
アステナ民族の長・ガルハンドの娘として生誕した彼女は、部族
内では﹃踊り姫﹄として非常に慕われていた。幼少期から踊りに興
味を持ち、毎年開かれる不死鳥生誕祭には必ずイルディエも舞を披
露していた程だ。
幸せだった。あの頃は、全てが眩しかった。
︱︱しかし、アステナ民族は尋常ならざる迫害に会う事となった。
肌が違うという理由だけで忌み嫌われ、イルディエが8歳の時に
大規模なアステナ狩りが行われた。
複数の国が共同し、古代民族アステナを﹃悪の一族﹄と名付けた。
⋮⋮肌が違うというだけで、彼等アステナ民族は人として扱われな
1620
かった。
村の若い男は労働力として他国に連れて行かれ、年老いた者達は
その場で斬首されるか⋮⋮アステナ活火山に放り込まれるかのどち
らかだった。更に年若い娘に関しては、どこぞの商人に奴隷として
買われる始末。
︱︱イルディエもその一人だ。
目の前で父ガルハンドを殺され、母を凌辱した兵士達に攫われ、
僅か九歳という若さで奴隷市場へと売りに出された。
⋮⋮市場での生活は、今でも思い出したくない。
奴隷と言われる者達の大半は、イルディエと同じく攫われた者達。
商人に対して牙を向き、大規模なデモを起こす可能性がある。
それを防ぐ為に市場で毎日行われたのが⋮⋮調教だ。
実際商人に刃向った人がいれば、その者は皆が見ている前で水責
めを受け、意識を失う寸前に助け出される。⋮⋮そして、商人を前
1621
にして土下座をしなければならない。
無害な奴隷もまた調教の対象だ。商人に逆らわなければ仕置きを
されないと約束され、客に気に入られる行動を取れば優遇される。
些細な事で失態を犯せば、問答無用に鞭打ちをくらう。
そのような生活を続けて、ようやく売りに出される事となる。
︱︱自分の意思を捨て、まるで人形の様な態度で主に尽くす。奴
隷精神というものを叩き込まれ、何も考えずに奴隷として在る。
今のイルディエはその状態である。華麗に舞う彼女の瞳はどこか
薄暗く、光が宿っていない。無情のまま⋮⋮日々を生きている。
十四歳を迎えた今日、イルディエはいつもの仕事を終えた。
1622
踊りを披露し終えたイルディエは、無機質な表情のままある場所
へと向かう。
酒場を出て、眠らぬトル︱ナの大通りの先にある屋敷︱︱自分を
奴隷として買った主の屋敷へと帰る。
屋敷内に入れば、そこには自分と同じ奴隷の少女達が沢山いる。
皆もまた生気を感じられない。ある銀髪の少女は無言のまま屋敷
の清掃をし、ある黒髪の少女は、腕を骨折した状態でふらふらと自
室へと戻って行く。⋮⋮恐らく、主の﹃ストレス解消﹄に付き合わ
されたのだろう。
しかし気にも咎めず、イルディエは仕事の報告をしに主のいる部
屋へと入る。
︱︱途端、強い香水の匂いが鼻をつんざく。
1623
それは純金製の装飾家具に包まれ、赤いカーペットの上に座り込
む太った男︱︱自分の主から放たれる匂いだ。⋮⋮いやこれは、傍
に侍る裸同然の恰好をした少女のも含まれている。
主は傍に居る少女の全身を撫で回しながら、にちゃりと笑みを浮
かべる。
﹁おお⋮⋮ようやく帰って来たかイルディエ。待ちかねたぞ⋮⋮へ
へ﹂
﹁⋮⋮今日も言いつけを守って、踊りを披露しました﹂
﹁そうかそうか。⋮⋮ほれ何をしている、ワシの膝元に来なさい﹂
﹁はい、分かりました﹂
言われるがまま、イルディエは主へと近寄る。
自分の横に座ったのを確認して、主である男は下卑た笑いを零し
ながらイルディエの頭を撫でる。
1624
﹁ああ、可愛いイルディエや。お前はワシのコレクションの中では、
特に気に入っているのだぞ?アステナ民族の肌といい、成長したお
前の身体は⋮⋮客に金を出させる良い商売道具だ﹂
主は唾液を垂らしながら、舐め回す様にイルディエの身体を見る。
このように嫌らしい目を向ける様になったのは、丁度半年ぐらい
前からだ。身体の成長は、どうやら彼にとって至高の喜びらしい。
⋮⋮イルディエはふと思う。
いつの日か、自分はこの男に弄ばれてしまのかと。
自分よりも年上の奴隷少女は、既に主によって犯され、鬱憤晴ら
しの道具として扱われている。自分はこの目で、何度もそれを見て
きた。
﹁︱︱あッ﹂
突如、短い悲鳴が聞こえる。
1625
その声を発したのは、反対にいる少女のものだった。
彼女はワインをグラスに注ぎ、それを主に飲ませようとしていた
らしい。
しかし手が滑り、グラスは主の膝へと落ちる。
︱︱主のズボンが、ワイン色に滲んでいく。
﹁あ、あの。これは⋮⋮ッ。うぐっ!﹂
少女は顔面を思いっきり殴られ、鈍い音と共に鼻血を吹き零す。
殴ったのは勿論、主だ。脂肪だらけの顔に皺を更に作り、激昂の
余り目を充血させていた。
﹁き、さま⋮⋮。覚悟は出来ているんだろうなあっ!?﹂
﹁ご、ごめんなさい!ごめんなさい!もうこのような事は致しませ
ん!ですからお情けを︱︱ッ﹂
1626
しかし、その訴えは無駄だった。
間髪入れず、主は少女を殴り続ける。
遂には立ち上がり、地面へと叩きつけ︱︱その腹を何度も、何度
も何度も蹴り続ける。
⋮⋮主は笑っていた。
﹁へへ、へはは⋮⋮悪い子にはお仕置きだ。今はこれで勘弁してや
るがなあ。今日の夜伽はお前だあ。お前を散々犯し続けた上で、そ
の細い手足を全部折ってやるよお⋮⋮⋮⋮ッ!﹂
︱︱もはや人間の所業とは思えない。
主の行動は常軌を逸している。奴隷を性的道具として扱い、痛め
付けるという性癖を露わにするその姿は⋮⋮何とも哀れなものか。
しかし、これもまた日常。
1627
イルディエはその様子を、ただ無表情のまま眺めているだけ。
変わらぬ日々。見慣れてしまった狂気。
毎日毎日、昨日もそうだったし、今日もそれは変わらない。
﹁︱︱ッ。︱︱ッ。たす︱︱けて︱︱ッ﹂
﹁⋮⋮﹂
例え手を差し伸べて来ても、イルディエは掴もうともしない。
そうして仲間を助け、一体何人もの子達が犠牲になったのだろう
か。幾ら数えても、数え切れない。
罪悪感を残したまま、イルディエは下を向く。
次は自分の番かもしれない。
恐怖が沸々と湧いてきて、イルディエの全身は震える。
1628
﹁へひゃはっ!お仕置きだッ、お仕置きだッ!﹂
﹁ごめ︱︱んなさいッ!︱︱ごめんな︱︱さいッ﹂
殴られる音が反芻し、イルディエの恐怖は更に膨れ上がる。
少女を殴る音が怖い。少女の悲鳴が怖い。下卑た笑い声が恐怖を
増長させていき、正視する事が出来ない。
何も出来ない、何もする事が出来ない。
一体自分達が何をしたの?何故こうも苦しめられなければならな
いの?
ただずっとその音を聞き続けるだけ。ずっと、ずっと︱︱︱︱
︱︱しかし、恐怖を掻き立てるその音が止んだ。
1629
﹁⋮⋮⋮⋮え﹂
音は血肉を抉るかの様な不快音と共に消え去った。
大量の血飛沫がイルディエにも降りかかる。
その血は︱︱主のものだった。
1630
ep1 奴隷の主︵後書き︶
※1.全体図・アルバートとホフマンを投稿しました。↓http:
//6886.mitemin.net/ ※2.7月12
日午後5時26分追記=ジスカの画像を投稿しました。↓http:
//6886.mitemin.net/i79623/ ※3,
7月15日午後8時5分追記=アグリムの奴隷少女の画像を投稿
しました↓http://6886.mitemin.net/i
80004/
1631
ep2 出会い
﹁う、うぎゃあああああああッッ!﹂
主が急に悲鳴を上げる。
イルディエが見上げると、そこには手の平をナイフで刺され、悶
え苦しむ主の姿があった。吹き出る血を反対の手で抑えるが、それ
でも止む事は無い。余程強い勢いで串刺しにされたのだろう。
散々奴隷を痛ぶっておいて、自分は声にならない絶叫を上げ続け、
床を転げ回る。傍に置かれた酒は絨毯に零れ、果物は皿から飛び出
る。
約数十秒後。ようやく落ち着きを取り戻した主は、鼻息を荒くし
ながら周囲を見渡す。もう二人に構う暇などあらず、ナイフを投げ
つけた者を探す。
そして彼は、窓枠に座り込む人物を見つけた。
1632
﹁き、きき、貴様かあッ!ワシの、ワシの手を刺した奴はッ!?﹂
﹁⋮⋮その通りだ、変態野郎﹂
窓枠に座っていた人物はそう言い放ち、ゆったりと降り立つ。
全身をボロマントで覆い、中は一体どういう出で立ちなのかが分
からない。ただ低い声からして、恐らく男には違いない。⋮⋮正確
には少年、だろうか。
少年は腰に吊るしていた剣を抜き、正眼に構える。
﹁砂漠王国マハディーンの騎士団副団長、アグリム・メヘビトだな
?不当な奴隷商売への介入、そして奴隷の所持︱︱グライデン傭兵
団はマハディーン女王の依頼により、貴様の暗殺を仰せつかってい
る﹂
﹁じょ⋮⋮女王が﹂ 1633
主︱︱アグリムは顔面を蒼白させる。
よもやこの男は、何の危機意識も無く日々を過ごしていたのだろ
うか。マハディーン王国では奴隷制度を禁止し、人身の自由を保障
している。最も重要な国法をアグリムは犯し続けて来たのだ。
それも騎士団の副団長がだ。事実を知った女王はどんなに嘆き悲
しみ、そして強い怒りを感じた事か。
﹁ま、待て。はは、話をしようじゃないか。な?﹂
﹁⋮⋮話?何の話だ﹂
少年は問い返す。
どうせ命乞いをするのだろう。こう言った連中は、自分が知る限
りいつも助けてくれとか、金と引き換えにだとか⋮⋮そういう救い
ようの無い言葉が真っ先に出てくる。
きっと、こいつもまたそうなのだろう。
1634
アグリムは両脇に控える少女とイルディエを引き寄せ、醜い笑み
を浮かべてくる。
﹁ほら見ろ⋮⋮ワシが買った奴隷の娘達だ。この金髪の娘は、元は
どっかの国の貴族の子供だったそうだ。そしてこっちの娘はアステ
ナ民族の末裔。⋮⋮へ、へへ⋮⋮どっちもまだ手を付けてないぞ?﹂
﹁⋮⋮それがどうした﹂
﹁︱︱ワシを見逃してくれれば、お前にこの二人をやろうじゃない
か。貴族の娘とアステナの少女の初めてを⋮⋮お前が奪えるんだぞ
?ぐふ、ぐふふ﹂
﹁⋮⋮﹂
アグリムの言葉を聞いた後、少年は無言のまま歩み寄る。
ただ怯えながらジッと見つめる少女達と、下卑た顔のアグリムの
前へと立ち︱︱手を差し出す。
﹁お、おお。分かってくれたか。よしよし、お前は利口だ⋮⋮⋮⋮
1635
ぐっ!?﹂
突如、アグリムが首を抑え始める。
少年が手の平を上に上げると、その動作にならってアグリムの全
身も宙へと浮く。アグリムは足をジタバタさせ、首を抑えながら苦
しんでいる。
﹁︱︱が、は︱︱い、息が︱︱ッ﹂
⋮⋮一体何が起きているのか、イルディエには全く理解出来なか
った。
しかし少年がアグリムを殺そうとしているのだけは、はっきりと
分かるが。
﹁何が初めてをくれてやる、だ。︱︱お前の様な屑が騎士なんて、
世も末だな。さっさと死んでくれ﹂
冷淡な一言を期に、少年は手を握り締める。
1636
﹁︱︱聖騎士流法技、﹃アストリアの裁き﹄﹂
言葉と同時に、首の骨が折れる音がした。
宙に浮遊するアグリムは目を引ん剝き、首はあらぬ方向に向く。
少年が手を横に振ると、アグリムはその方向に向かって投げ飛ばさ
れる。
アグリムは、そのまま絶命した。
﹁⋮⋮⋮⋮この姿は暑いな。もう脱いでもいいか﹂
そう言って、少年はそのマントを脱ぎ捨てる。
茶髪の髪に、鋭い紅色の瞳。まるで全てに絶望しているかの様な
双眸を、イルディエに向けてくる。
互いに話し掛ける事は無いが、ただ見つめ合っていた。
1637
少年は何を思っているかは知らないが⋮⋮一方のイルディエは、
頬を赤らめながら、熱い何かを込み上げながら。
しかしそれはすぐに終わった。
部屋の扉が強く開かれ、少年と同じ傭兵風の恰好をした男達が続
々と入ってきたからだ。
︱︱いや男だけじゃない。その中には、中年の女性もいた。
傭兵姿の女性は男達の前に立ち、素早く拳を構える。だが事の状
況をすぐに把握すると、鋭い瞳は一気に和らぐ。
﹁ふう、何だいもう終わっていたのか。相変わらず仕事が早いねえ﹂
女性は少年にウィンクをするが、少年は気にも掛けず剣を収める。
それよりも、疑問に思う事があった。
﹁⋮⋮レイダ団長、まだ屋敷内には人がいたはずだが﹂
少年は目前の女性︱︱グライデン傭兵団団長レイダに疑問をぶつ
けた。
1638
そう、先程まであった人の気配が消え失せているのだ。幾ら気を
集中させても、気配が見つからない。
﹁ああ、あの奴隷の子達か。⋮⋮残念だけど、あたし達が来た瞬間
に襲い掛かって来てさ。ありゃもう更生の見込みは無いと思ってね﹂
﹁⋮⋮殺したのか﹂
レイダは首肯する。
﹁まあね。それに女王様からも、完全に自我を失った奴隷は殺すよ
う言われている。仮に一人の人間として社会に出ても、その人間は
何をしでかすか分からないからねえ﹂
彼女の言う事は尤もだった。
奴隷は売られる前に人心掌握術を施され、身も心も主に委ねる人
形と化す。無論、自分の意思など有る筈が無い。
いっその事、殺した方が幸せなのかもしれない。
1639
﹁さて、じゃあそっちの子達も片付けようかね。ここの奴隷達は奴
隷精神が板に付いているし⋮⋮⋮⋮きっとこの二人も﹂
と、レイダが近付こうとした時だった。
少年とレイダにとって、思いも寄らぬ事が起きた。
﹁︱︱なっ﹂
少年は驚きの声を上げる。
何と金髪の少女は少年のズボンを掴み、イルディエに関しては全
身で少年の足にしがみ付いて来たのだ。瞳は生気を宿し、自我を持
っている。
二人は全身を震えさせ、少年に頼りきっていた。もしレイダ達が
襲い掛かってくれば、きっと彼がまた何とかしてくれる。︱︱得体
の知れない少年だが、もう彼以外に頼れる者はいない。
それを見た傭兵団の連中は口笛を吹き、または余計な一言を言い
1640
合う。﹁はは、また女が寄り付いたな﹂とか﹁羨ましいねえ、畜生
!﹂等々。
レイダもまた思わず苦笑した。
﹁へえ、相当気に入られたみたいね﹂
茶化す様なレイダの言動に、少年は不満を露わにする。
﹁⋮⋮俺は気に入られる様な事をしていないけど﹂
少年は嘆息し、丁寧に彼女達を引き剥がす。
そしてしゃがみ込み、二人に問いかける。
﹁︱︱俺の名はゼノス。まだ人としての自覚があるならば、答えて
くれ﹂
少年︱︱ゼノスはジッと見据える。
1641
しかし一方のイルディエは、まだ言葉を出すのに躊躇していた。
幾ら少年に頼っているとはいえ、自分が何をされるか分かったも
のじゃない。自分から危険に飛び込みたくは無いからだ。
それを察したレイダは、ゼノスの肩に手を置く。
﹁そう急かす必要は無いよ。⋮⋮二人にはまだ自我があるみたいだ
し、こっちもわざわざ殺そうとはしないさ﹂
﹁⋮⋮そうか。ならいい﹂
意外にもゼノスはあっさりと引き下がる。
表情を一切変えず、無愛想な顔で部屋から出て行こうとするが。
︱︱複数の殺気を感じ、歩を止める。
﹁ちッ。レイダ団長!﹂
1642
ゼノスが振り返って叫ぶ前から、レイダは既に行動を起こしてい
た。
窓から大胆に侵入してくるターバンを巻いた戦士達。しかしレイ
ダは迅速に接近し、先陣を切っていた男の顎にアッパーをくらわせ
る。
﹁ふ∼ん、まだ残党がいるじゃないの。⋮⋮でも、これ以上事を荒
立てたくは無いね!﹂
女王はグライデン傭兵団に﹃暗殺﹄を依頼してきた。アグリムの
屋敷に騒動があると知れば、それだけで町の住民達の評判は悪化す
る。それだけは、どうしても避けたい事だからだ。
なら無理に戦う必要は無い。レイダは瞬時にそう判断した。
﹁お前達、さっさとこの場から去るよ。あとゼノス、あんたはその
子達を連れてあたしに付いて来なさい﹂
﹁⋮⋮分かった。二人共、死にたくなかったら手を握れ﹂
1643
イルディエ達は最初こそ戸惑ったが、彼に手を差し伸べた。
ゼノスはイルディエ達の手を掴み、立ち上がらせる。喧騒渦巻く
中、ゼノスとレイダ、そしてイルディエと金髪の少女だけが部屋を
出て行く。
廊下には、イルディエと同じ立場にあった奴隷達が殺されている。
彼女達に対して特に思い入れは無かったが⋮⋮。
もし自分がこうなっていたらと思うと、吐き気が止まらなかった。
それは金髪の少女も同じだったようで、口元に手を置いている。
ただ死体を見ただけでなく、様々な状況の変化が彼女に不安を与え
ているのかもしれない。
︱︱やがて、イルディエ達は外へと出た。
﹁逃がすなッ!何としてでも奴等を殺せ!﹂
追手は全員ではないが、約四人程の戦士達が追い駆けて来ている。
恐らくだが、アグリム直属の兵士だと思われる。
1644
主を殺された恨みか、はたまた別の理由があって自分達を殺そう
としているのか?それは分からないが、今逃げなきゃ殺される事だ
けは分かった。
﹁しつこいな⋮⋮﹂
﹁そうだねえ⋮⋮。これは憶測だけど、今町を出ようとすれば包囲
される可能性が高いと見た﹂
レイダは確信めいた口調で告げる。
確かによく見れば、サーベルを持った連中が裏通りから現れて来
ている。四人程の敵は、いつの間にか着実に増え始めている。
アグリムの死を何らかの方法で伝達し、町全域にいる兵士達が一
斉に動き出したようだ。⋮⋮よくよく考えれば、トル︱ナはアグリ
ム率いる騎士部隊が駐屯地として在留している場所だ。
無暗に町から出てしまえば、その先は大いなる砂漠。つい先日こ
の大陸にやって来たばかりのグライデン傭兵団と、土地勘のある敵、
どちらが有利かと言えば⋮⋮間違いなく敵だろう。
1645
﹁︱︱全く、暫くこの町に厄介になりそうじゃないの﹂
不利な状況にも関わらず、レイダは微笑を浮かべる。
そして何故だろう︱︱さっきから胸騒ぎが止まらない。
それは嫌な予感とか、そういう類では無い。⋮⋮今抱える問題が、
この地で解決しそうな、そんな気がするのだ。
﹁ゼノスッ、目の前にあるバザールを抜けるよ!しっかりとその子
達をエスコートしてやりな!﹂
﹁⋮⋮﹂
ゼノスから返事は無いが、了承はしてくれたらしい。
イルディエ達の手をしっかりと握り、彼等は人混み溢れるバザー
ルの中へと入って行く。
1646
︱︱何処へ行くかは、レイダしか知らない。
1647
ep3 黒の暗殺者
沢山の人々が行き交うバザール。夜にも関わらず、昼間よりも人
が混み合っているかもしれない。
その中を、ゼノス達一行は死に物狂いで突き進んでいた。
後ろを振り返ると、まだ敵達は追い駆けて来ている。手に持つサ
ーベルを振り回し、市民達を脅して道を開けているようだ。
この町を守る身でありながら、何と横暴な事か。
距離は段々と狭まっていく。縮まる毎にゼノス達の焦燥感は高ま
り、出来る限り先へ進もうとする。
しかし︱︱
1648
﹁︱︱きゃっ﹂
﹁はっはーッ!捕まえたぞ、奴隷め!﹂
何と、金髪の少女が戦士の一人に手を掴まれてしまった。
夜のせいか、直前までそれを把握出来なかった。情けない失態を
犯したものだと、ゼノスは嘆く。
﹁くそっ!﹂
ゼノスは一瞬二人の手を離し、後方へと向く。
腰の鞘から剣を抜き、少女を掴んで離さない戦士の首筋に向けて
刺突する。
﹁ぎゃっ!﹂
剣先は見事命中し、敵の首から鮮血が吹き出す。
1649
金髪の少女は絶句し、悲鳴さえも出せない。鮮血が自分の身体に
付着した時には、それはもう恐怖の感情で一杯だった。
しかし、ゼノスは気にも咎めない。茫然と佇む少女の手を取り、
更にイルディエの手も握る。待ってくれたレイダと相槌を交わし合
い、また疾駆する。
﹁い、いやあああッ!﹂
﹁何だ何だ、殺しかっ!?﹂
﹁逃げろ、俺達まで殺されちまうぞ!﹂
幸か不幸か、周囲に居た人々が逃げ惑い始める。
しかしそのおかげで道が開け、周辺がどのような構造になってい
るか大体把握出来るようになった。
⋮⋮しかし、問題は行き先だ。
まさか闇雲に逃げているのではないか?そんな悪寒が過ってしま
う。
1650
﹁レイダ団長、目的地はまだなのか!﹂
﹁そう焦るんじゃないよ。⋮⋮う∼ん、確かこのまま進めば⋮⋮⋮
⋮あれ、違ったっけか﹂
﹁⋮⋮﹂
果てしなく不安だ。
そうこうしている内に、また新たな敵が迫ってくる。今度戦いを
挑めば、イルディエ達の無事は保障出来ない。
⋮⋮今のゼノスにとって、﹃守る﹄という行為は至極難しいのだ。
﹁くっ⋮⋮⋮⋮レイダ団長ッ!﹂
﹁お︱︱見えて来た。あの路地に入るよ、ゼノス﹂
1651
ゼノスの言葉に応えるかの様に、レイダがタイミング良く行き先
を指示してくれる。
そうと決まれば、善は急げだ。
ゼノスは一度大きく深呼吸をし、両腕に力を込める。
先行くレイダが道を曲がったその時︱︱ゼノスは二人の少女を自
分の傍へと引き寄せる。
﹁えッ?﹂
﹁わ、わわ!﹂
戸惑いを隠せないイルディエと金髪の少女。
その反応は尤もだ。︱︱一体どこの誰が、このような状況で二人
の少女を担ぎ上げ、怒涛の勢いで加速するだろうか?
1652
ゼノスは勢いを止めず、一気に敵から距離を離す。
﹁なっ!こいつ、急に⋮⋮﹂
﹁追え、追えッ!絶対あの奴隷達を逃がすなよッ!﹂
しかし、それは無理な話だ。
ゼノスが道を曲がる寸前に、彼は露店付近にあったリンゴの樽を
蹴倒す。
リンゴが道中に転がり、追ってきた敵は足を取られて横転する。
﹁馬鹿野郎!何をやっているんだ!﹂
﹁畜生⋮⋮ッ。奴隷を逃がせば、俺達が殺されちまうぞ!﹂
敵同士が喧嘩を始めるが、ゼノスは気にせず路地へと駈け込んで
行く。
1653
路地裏へと入り、一行はまたひたすら走り続ける。
ゼノスとレイダはともかく、イルディエと金髪の少女は既に限界
に近い。
息を切らし、足もおぼつかない様子だ。
それを見たレイダは、速度を落としてゼノス達と並行に走り始め
る。
﹁あとちょっとの辛抱だよ、嬢ちゃん達。このまま進んで更に入り
組んだ通路を抜ければ、グライデン傭兵団の隠れ家があるからさ﹂
﹁︱︱隠れ家?﹂
1654
代わりに疑問を投げかけたのはゼノスだった。
﹁そう。以前トル︱ナに来た時、ちょいとヘマをやらかしてね⋮⋮
あの時は苦労したもんだよ。︱︱だから万が一の事態に備えて、自
前の隠れ家を作ったわけ。全く、実際使う事になるなんてねえ﹂
成程、そういう事か。
敵が追って来ない今、その隠れ家は確かに機能するだろう。先程
から迷路の様な道を通っているのだから、まず見つかる事は無いは
ずだ。
そう皆が思っていた。
イルディエも金髪の少女も、あのレイダさえも。
⋮⋮しかし、ゼノスだけは違った。
﹁ゼノス?﹂
1655
突如立ち止まるゼノスに、レイダもまた走りを止める。
その場で立ち尽くし、一生懸命辺りを窺う。
レイダやイルディエ達が耳を傾けても聞こえない。かと言って周
囲を注視しても、誰かが潜んでいるわけでも無い。何の変哲も無い、
ありふれた光景だけが映っている。
だが、胸騒ぎが収まらない。
この感覚は今まで何度も味わってきたものだ。殺されそうになっ
たり、殺伐とした雰囲気の時は、いつも体感してしまう。
これは警告。だからゼノスは、誰にも見抜けない︱︱﹃凄まじい
程の殺気﹄に気付いてしまった。
﹁⋮⋮っ﹂
今まで相手にして来た連中とは違う。
1656
何十、何百⋮⋮いやもしかしたら、何千人もの雑魚が相手にして
も勝てない誰かが近付いてくる。
のらりくらりと、完璧なまでに気配を殺した状態で。
闇の暗殺者が来訪してくる。
﹁︱︱そこか!﹂
一瞬の感情のブレを感じ、ゼノスは動き始める。
訳の分からぬまま呆然と立つイルディエの前へと躍り出て、素早
く剣を振るって見せる。
それは誰も居ない方向に︱︱いや。
いつの間にかゼノスと対峙していた男に向かって、刃が振るわれ
る。
1657
﹁ッ!﹂
全身を漆黒のマントで覆っている男は、無言のまま刃を交差させ
る。だが動揺を覚えたらしく、若干後ずさる。
その好機は逃したくない。ゼノスは見事な急所突きを行うが、男
はそれを避け、鋭い短剣で逆にゼノスの喉元へと突き刺そうとする。
しかしその短剣を瞬時に弾き飛ばしたゼノスは、隙を突いて男の
腹を蹴飛ばす。一瞬よろめく男だったが、すぐに体勢を立て直し、
遥か後方へと後退する。
何とか間が空いた所で、レイダがゼノスの前へと出る。
﹁⋮⋮ゼノス、よくやったね。あんたが対処しなければ、今頃この
子達は死んでいたよ﹂
事の状況を察したレイダは、ようやく攻撃態勢へと移る。
ゼノスとはともかく、レイダは今の先制攻撃に付いて行けなかっ
た。これでも幾多の戦場を駆け巡り、あらゆる暗殺者を殺して来た
が⋮⋮⋮⋮自分より上を行く敵に出会ったのは初めてかもしれない。
1658
力の波動、抗えぬ殺気︱︱まるで神話上の化け物と対峙している
気分だ。
﹁⋮⋮﹂
男はジリジリと間を空け、攻撃の隙を狙っている。
こちらが気を抜けば、一瞬で殺されるかもしれない。
﹁くっ。あんた、一体何者だい?あたしらを邪魔するって事は⋮⋮
アグリムの部下って所かい?﹂
﹁⋮⋮﹂
男は答えない。
しかし先程、この男はイルディエ達に襲い掛かって来た。何の迷
いも無く、イルディエ達を標的としていた。
目的が彼女達の殺害だって事は、この場の誰もが分かっただろう。
1659
﹁あくまで沈黙、か。︱︱ならば退いてほしい所だな﹂
ゼノスの要望も空しく、男は再度ナイフを構える。
あくまで自分達を殺す気なのか?ゼノス達の声さえも聞き入れず、
ただこちらがどう出るかだけに意識を集中させている。
︱︱隙の無い構えだ。
生半可の状態で挑めば、こちらが全滅しかねない。
﹁⋮⋮レイダ団長、先に逃げろ﹂
﹁逃げるたって⋮⋮あんたは隠れ家の場所を知らないだろう?ここ
は死に物狂いで逃げるしか﹂
﹁いや心配無い。何とか団長達の気配を探って行くから﹂
﹁いやけどね︱︱﹂
1660
言い掛けた所で、レイダはゼノスの急変に気付いた。
半ば虚ろだった表情が打って変わり、ゼノスは獲物を狩る獣染み
た笑みを浮かべていた。
この顔はよく知っている。
戦い苦しみ、死の境界線を幾度も彷徨った末に滲み出たものだ。
味方にも裏切られた彼が見せる、見境なく戦う前の表情。
⋮⋮こうなってしまっては、レイダ達の身も危険だ。
﹁そうかい⋮⋮。無理するんじゃないよ﹂
レイダは心配そうに見守るイルディエと金髪の少女を連れ、素早
い動きで男の横を過ぎ去る。
しかし男は追おうとはしなかった。今のタイミングならば、レイ
ダ諸共殺せたにも関わらず。
1661
︱︱だがそれも、ゼノスとレイダにとっては計算済みだ。
﹁⋮⋮⋮⋮中々やるね﹂
初めて男が声を出す。物腰は低く、鋭い殺気とは裏腹の柔和じみ
た声音であった。
だが騙されてはいけない。彼はまだ闘争心を露わにしたままだ。
男は更に続ける。
﹁僕は今の行動で正気を疑ったけど、すぐに納得したよ。あのまま
彼女達を殺そうとすれば⋮⋮君が僕を殺していたから﹂
﹁ほう、よくそこまで分析出来たな。なら俺が、今からどうするか
も予想が付くか?﹂
男は僅かに肩を揺らす。
1662
男の口から、籠った笑い声が聞こえる。
﹁⋮⋮僕を殺す気かい?﹂
﹁勿論、邪魔する奴は全て殺す﹂
ゼノスもまた臨戦態勢に入る。殺気を増大させ、彼に無言の挑発
を突き付ける。それは殺し合いの合図と言ってもいい。
何の兆候も無しに、ゼノスが瞬時に消え去る。
気付けば彼は建物の壁を蹴り、また反対方向の壁を蹴って上へと
登って行く。洗濯物を吊るしているロープを掴み、一回転。そこか
ら体勢を変えて男の直下に落ちようとする。
﹁身軽だねえ。でも見えている﹂
男は薄く笑み、バックステップで軽く回避する。
彼もまた俊敏に動き、且つ体運びに一切の無駄が存在しない。常
1663
人ならばゼノスの突発的な行動に驚き、しばし呆然とする筈なのに。
しかし意にも介さず、彼は余裕を見せる。⋮⋮成程、あの殺気に
見合うだけの実力を伴っている。
ゼノスは地面へと着地した途端、すぐさま地を駆け走る。
男が放つ飛びナイフを前転で回避し、僅かな動きで無駄なく急接
近する。
﹁へえ!﹂
男は意表を突かれ、ゼノスの剣を受け止める。あと数ミリ迫られ
ていれば、剣が男の脳天を貫いていただろう。
まさに九死に一生を得た男。⋮⋮だが、それさえも動じていない
ようだ。
ふいに強い風が二人を過り、その影響で男のフードが剥がされる。
︱︱銀縁の眼鏡を掛け、漆黒の髪を有する少年がそこにいた。
1664
﹁⋮⋮良い目をしている。君もまた、様々な経験を積んできたよう
だねえ。この僕と同じく⋮⋮狂気の刃を振り翳している﹂
﹁⋮⋮﹂
男はヘラヘラと笑いながら、軽く舌なめずりをする。
外見は飄々としているが、その中身はゼノスと同様、激しい絶望
感と怒りに満ち溢れている。
一言で言うならば︱︱世界に呆れ果てている。
﹁ああ、残念だなあ。もし立場が違ったら、君と僕は仲良くなれた
だろうに⋮⋮。本当、残念だね﹂
﹁⋮⋮御託はそれだけか?悪いが、敵にかける言葉は無い﹂
ゼノスははっきりとそう断言する。
1665
清々しいまでに拒絶を受けても尚、男は表情を崩さない。だがし
かし、突如男の闘気が消え失せる。
男はナイフを下ろし、皮袋にしまい込む。
﹁⋮⋮何のつもりだ﹂
﹁何って、僕は今ここで戦うつもりは無いんだよ。こうして来たの
も、僕の標的がどんな者か確かめに来ただけだからね﹂
そう言って、男はゆったりとした足取りでゼノスの脇を通り過ぎ
る。
納得がいかなかった。ゼノスは後ろを振り返る。
﹁待てッ!貴様!﹂
ゼノスは一気に距離を縮め、男の背後を取る。
1666
このまま剣を横薙ぎしてしまえば、男の胴体は両断される。軌道
に狂いは無く、およそ一秒も経たない内にそうなるだろう。
だがその確信は︱︱やがて脆くも崩れ去る。
胴体は砂と化し、男の全身も霧散していく。剣は空を切る結果と
なり、ゼノスは動揺を隠せない。
﹁︱︱ッッ!﹂
動揺が生じると同時、歪な悪寒を感じた。
背後を取った筈のゼノスが、逆に背後から殺気を放たれる。井戸
の底の様に暗く、後ろめたい闇の波動が全身へと絡み付く。
抗う事さえも出来ない、あのゼノスでさえも。
﹁︱︱影中の暗殺術︱︱﹃綺羅の末路﹄﹂
1667
刹那、ゼノスの世界がブレる。
⋮⋮この世界は美しい筈なのに。
あらゆる景色も、生命も、この世に蔓延る全ての理が綺麗であろ
うに。まるで、水に浸した絹の様に⋮⋮。
しかし、男はその美しさを許さない。世界に蔓延る光を許さない。
それは闇に生きる彼の願い。永遠の常闇を夢見て、いつかその世
界を実現したいと願って︱︱
︱︱ゼノスにもその世界を見て欲しくて、両目を潰そうとナイフ
を振るった。
尋常では無い速さで、ゼノスの光を奪おうとするが。
1668
﹁ぐ︱︱くッ!﹂
ゼノスは彼の攻撃に反応し、即座に回避を心がける。
常闇の誘いから逃れた人間は、多分ゼノスで初めてかもしれない。
﹁ほう!僕の暗殺術を崩すなんて!でも残念だけどねえ︱︱ッ!﹂
男の狂気じみた叫びと共に、ゼノスの額から血が噴き出る。
何とか目は免れたが、代わりに額を斬り付けられた。血が目にも
こびり付き、視界が一気に奪われる。
これ以上の戦いは無理だった。額の傷が痛み、ゼノスはその場で
うずくまる結果となった。
﹁くそぉ⋮⋮ッ!どこに、どこにいるッ!?﹂
1669
辺りを見渡すが、男を見つける事は出来なかった。
﹁︱︱ごめんよ。今は忙しい身でね⋮⋮君との戦いはまた今度だ。
次会ったその時には⋮⋮ゆっくりと会話に華を咲かせようね﹂
相変わらず呑気に言い放つ男。
ゼノスは不甲斐なさで一杯だった。闘争心は欠けていないのに、
何故自分は敵を逃さなければならない?
⋮⋮逃せば、また悲劇が起こるかもしれない。
そうなってしまえば、自分はまた失ってしまうのか?
身近にいる人々を、下劣で野蛮な馬鹿共の手によって⋮⋮救う術
も無く見守り続ける羽目になるのか?
1670
⋮⋮それを考えただけで、吐き気が止まらない。
﹁待て⋮⋮貴様⋮⋮⋮⋮貴様あぁぁぁぁッ!!﹂
幾ら叫び続けても、既に男は立ち去ってしまっている。
ゼノスの絶叫は、ただ空を木霊するだけだった。
1671
ep4 復活の強欲人
斬殺された死体で溢れたアグリムの屋敷。
血の匂いが周囲を漂わせ、月光によって露わになるのは、無残に
も殺された奴隷達の死骸。彼女等は虚ろな眼を天井に向け、息絶え
ていた。
屋敷が静寂に包まれる中、ここの主であったアグリムの部屋に一
人の男が佇んでいた。
銀縁の眼鏡をくいっと上げ、その男は深く溜息をつく。
男の視線は︱︱あらぬ方向に首を曲げ、絶命しているアグリムの
方に向けられていた。
﹁⋮⋮全く、仕方のない人だね。一応僕の依頼主なんだから、勝手
1672
に死なれちゃ困るよなあ﹂
男は柔和な表情を崩さないまま、アグリムの死体に触れる。
一見すると、死後からそんなに経過していない様子だ。
⋮⋮これならば。
男はマントの内側から、一枚の仮面を取り出す。
仮面は鬼の形相で、怨嗟の念を沸々と放出させている。微かな邪
気が持つ手を刺激させ、軽い眩暈を起こさせる。
そんな危険な仮面を、男は迷う事なく被る。
顔面に電撃の様な痛みが走るが、彼は平静を保とうとする。
﹃⋮⋮影中ノ⋮⋮禁術⋮⋮ッ﹄
1673
男はアグリムの心臓部分に手を置き、一心に乞い願う。
影中の暗殺術とはまた違う、禁じられた古の術。
男の故郷に伝わる禁じられた秘術であり、その術は使用された者
に、そして使用者にも多大なる負担を与える。
死が到来するか、または死よりも恐ろしい劫罰が待ち受けている
か。それは誰も分からないし、記述にも詳しい事は残されていない。
⋮⋮しかし、男だけは別だ。
この仮面がある限り、自分には負担が来ない。
だからこそ、容易く禁術を行う事が出来る。何も躊躇う事も無く、
何の罪悪感も無く︱︱。
﹃⋮⋮甦レ⋮⋮⋮⋮愚者ヨ⋮⋮ッ!﹄
1674
アグリムの死体は浮遊し、まるで吊るされた状態で留まる。
不快な間接の不協和音がアグリムの身体から鳴り響く。彼の致命
傷であった首の角度も徐々に戻って行く。
﹁お⋮⋮⋮⋮ご⋮⋮⋮⋮﹂
低いアグリムの呻きが聞こえ始める。先程まで死んでいた人間が、
声を発する⋮⋮通常では有り得ない事だ。
しかし、この禁術はそれをも成し遂げる。
かつての故郷で、報われぬ恋を嘆いて水浸自殺をした少女。その
少女を救うべく、男が狂気に飲まれて完成させた蘇生術。
今世では誰も知り得ない禁術が、今解き放たれる。
哀れな男︱︱アグリムを実験体として。
1675
アグリムの身体は浮くのを止め、重い音を立てて地面へと落ちる。
男は仮面を脱ぐ。やはりこの仮面を用いると、多大なる疲労を感
じてしまう。金術の代償よりは遥かに軽い症状だが、それでも不便
なものだ。
﹁⋮⋮ん、む﹂
﹁ようやく目を覚ましましたか、アグリム殿﹂
男は目を覚ましたアグリムに対し、慇懃に頭を垂れる。
アグリムは訳の分からないまま、キョロキョロと辺りを見回す。
﹁こ、これは一体⋮⋮確かにワシは死んだ筈じゃ﹂
﹁細かい事は宜しいですよ。とにもかくにも、僕が分かりますか?﹂
﹁⋮⋮お前はワシが雇った⋮⋮⋮⋮ライン・アラモードだな?﹂
1676
男︱︱ラインは首肯する。
﹃蘇生の禁術﹄は初めて扱ったが、どうやら記憶や感情に影響は
無いようだ。
﹁そうだ思い出してきたぞ⋮⋮。ワシは女王が雇った傭兵に殺され
⋮⋮そしてワシの奴隷を⋮⋮ッ﹂
そこでようやく、アグリムは屋敷中に放たれた異臭に気付く。
死体特有の不快な匂いを嗅いで、眉間に皺が寄るアグリム。
﹁気付かれましたか。その匂いは屋敷で働いていた奴隷少女達のも
のですよ﹂
﹁や、やはり⋮⋮。くそッ、くそッ!女王の犬め、ワシの大事なコ
レクション達を壊しおってッ!﹂
大事な所有物を壊されて激昂するアグリム。ラインもまた非情な
心の持ち主だが、この男も負けてはいない。人間を道具としか扱わ
1677
ず、そこには奴隷に対する悲愴の手向けも存在しない。
アグリムは息を荒げながら、ラインへと向き直る。
﹁︱︱ワシの経営する奴隷市場は?﹂
﹁まだ女王の手は及んでいませんねえ。⋮⋮でも、時間の問題かと。
彼等傭兵団は中々の手練れ、すぐに市場を破壊するでしょうね﹂
﹁ぬ、ぬぬ⋮⋮それだけはさせんぞ。何年、いや何十年もかけて築
いた宝玉を⋮⋮こんな事で手放す訳には!﹂
﹁ですが、ここの市場も既に限界ではないですか?女王の刺客が来
る前から、あの市場は教会連中の救済対象になりましたでしょう。
⋮⋮聡明な貴方ならば、事はそう単純で無いと察しがつくかと﹂
ラインの言葉に、アグリムは口を紡ぐ。
彼の経営する奴隷市場は大規模であり、奴隷を購入する客も近年、
様々な人物が存在する。
自国の富裕層は勿論、ここ最近では他国の貴族、挙句の果てには
1678
大国の王が臣下を通して買付に来る事もある。幅広い人種を奴隷と
して扱い、その豊富さが起因となったと言えよう。
⋮⋮しかし、この市場は遂に﹃教会﹄に知られる事となった。
人身売買に反対し、その解消の為に教会は人権保護団体を組織し
ている。彼等はアグリムの徹底した情報隠蔽を掻い潜り、市場の存
在を嗅ぎつけたらしい。
更に教会の裏には︱︱あの﹃ランドリオ帝国﹄もいる。
もし教会組織に危害を加えれば、間違いなくランドリオ騎士団が
派遣されるだろう。そして六大将軍という戦人が来てしまえば⋮⋮
確実に市場及びアグリム一派は排除される。
﹁ぬ⋮⋮ぐぐぐ。なら一体どうすればいいッ!?﹂
﹁︱︱良い考えがありますよ、アグリム殿。とても単純明快で、す
ぐやり直せる方法がね﹂
﹁⋮⋮言ってみろ﹂
1679
ラインは口を吊り上げ、その方法を告白する。
それを聞いたアグリムは、呆気に取られる。
﹁⋮⋮⋮⋮ほ、本気か?﹂
あのアグリムでさえも、ラインの方法に恐怖を覚えた。それほど
彼の提案は恐ろしく、およそ人間が考え付くとは思えない。
﹁ええ、本気ですよ。⋮⋮おやおや、貴方ともあろう御方が怖気づ
いたのですか?幾人もの奴隷少女を壊した貴方が?﹂
ラインはアグリムの前髪を掴み、顔を近づける。
一方のアグリムは怒鳴る事も出来ず、何も反論する事が出来ない。
今の彼は、目前の男に威圧されている。表面上は優男を演じなが
ら、その中身はドス黒く、自分をゴミの様に扱っている。
1680
⋮⋮最悪だ。今の自分は、この男を雇った事を後悔している。
自分の身を案じ、凄腕の暗殺者を護衛として雇用したというのに
⋮⋮逆に自分の首を絞める羽目となった。
そもそも、何故ここまで執着するのか?
﹁⋮⋮ライン。お前、何故ここまでこの依頼に拘る?﹂
﹁拘る?⋮⋮ああそう言われれば、確かにそうなるんでしょうかね﹂
ラインは顎に指を添え、悩む素振りをする。
改まってそう言われると、返す言葉が見つからない。依頼主の為
に蘇生の禁術を使うなんて初めてだし、ここまで面倒な依頼はすぐ
に放棄する所だ。
金払いも悪いし、人遣いも荒い。むしろメリットの方が少ない。
1681
なのに、何故彼の護衛を続けるのか?
﹁う∼ん、僕にもよく分からないなあ。何はともあれ、こうして僕
が協力しているんだし、そちらに危害は無い。むしろ助けたぐらい
だ。⋮⋮あまり問い詰める必要も無いんじゃないですか?﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂
冷めた声で言われ、アグリムは押し黙る。
﹁∼∼ッ。もういい下がれ!とにかく、女王の犬共はワシの奴隷を
連れて行ったのだ!あの二人の捜索も怠るなよ!﹂
﹁仰せのままに。ふふ、万が一彼女等が国外から逃げてしまえば⋮
⋮それこそ教会に市場の在り処を突き止められかねない、ですから
ねえ﹂
ラインは微笑する。
禁術によって復活したアグリム︱︱いや。
1682
︱︱禁術の負荷によって、近い将来に凄惨な死を遂げるだろう愚
者に対し、哀れみの念を向けながら。
⋮⋮どうか自分が満たされるまで、死なないでくれと祈りながら。
1683
ep5 理想と現実
あの日々は素晴らしかった。
今から数年前。ゼノスがまだ世界を知らず、ある三人の騎士に憧
れていた時代の事だった。
︱︱先代の聖騎士、ガイア・ディルガーナ。その弟子であるドル
ガとコレット。今は亡きグラナーデ王国の騎士で、誰よりも騎士道
精神に従順だった騎士達。
⋮⋮あの日々は忘れない。三人がくれた平和な日常は、今のゼノ
スにとって何よりもの宝物だから。
勿論ガイアの説いた騎士道精神も、ドルガが魅せる騎士としての
勇姿も、そしてコレットが示す騎士としての慈愛心も、絶対に忘れ
たくはない。
1684
だって彼等の生き様こそが、騎士である証なのだから。
弱き者には救いの手を差し伸べ、時として在るべき道を示してく
れる。守りたい世界を守る為に、彼等は決死の覚悟で剣を振るう。
そう思っていた。皆がそうであると確信していた。
︱︱だけど、それはとんだ勘違いだった︱︱
︱︱︱︱これは夢なのだろうか?
ゼノスは動悸を抑えながら、最悪最低の光景を目にする。
死体がそこら中に転がり、真っ赤な鮮血は海の様に広がっている。
血生臭い独特の匂いが鼻をつんざき、更には死体の腐臭までも漂う。
しかし、この世界は死体だけの世界では無かった。
1685
ゼノスの目前には、まだ生きている人間がいる。⋮⋮いるのだが。
その人物達は、常軌を逸した行動を行っている。
誰もが甲冑を着こみ、腰には剣を帯びている。しかし中には独特
な格好をした騎士もいて、その場にいる者全員が同じ国の騎士とは
限らない。
だがそんな事はどうでもいい。人々を守り、人々の盾となるべき
存在であり、国や恰好で彼等を一緒くたにしてはならない。
守護こそが騎士の本懐であり、果たすべき正義の筈。
︱︱なのに︱︱
︱︱何故あの騎士は、老婆の髪を掴んで殴っているのか?
︱︱何故あの騎士達は、年端もいかない少女を無理やり襲ってい
1686
るのか?
︱︱何故かの有名な騎士が、守るべき民を虐殺しているのか?
︱︱何故信頼されていた騎士が、主を裏切っているのか?
他にも沢山の騎士達が、下種な行動を繰り返している。傍目から
見れば、人間とは思えない所業ばかりだ。
騎士という建前を翳し、横暴な態度を取る。何とも醜くて、何と
も残酷な行動に、自然とゼノスは眉をひそめる。
﹃はは、ははは!見ろよ、こいつ良い女だぜッ!犯せ!殺せ!﹄
﹃散々税を払って来てもう払えねえだあ?なら村の奴等全員、皆殺
しだな﹄
﹃所詮自国の民なんて、俺達騎士と領主様の奴隷でしか無いんだよ
!﹄
1687
⋮⋮暴虐が横行し、あの騎士達は下種な事を口走る。
そうだ。これはゼノスの見てきた騎士達だった。ガイアやドルガ、
コレットの様な騎士とは違う︱︱﹃ありふれた騎士﹄の姿だ。
自らの利益の為に騎士となり、民の事など意にも介さない。自分
の欲を満たすだけの奴隷として扱い、騎士同士も疑心暗鬼に駆られ
た醜い争いを続けていた。
全部自分の為、そこに﹃他者を守る﹄という思考は存在しない。
結局の所︱︱ガイアの言う騎士は幻想なのか?現実はそんな絵空
事とは違って、とても醜い有様だ。
⋮⋮⋮⋮その現実が全てを狂わせた。
1688
鮮血の海に巨大な空洞が生じ、ゼノスは抗う事も出来ずに飲み込
まれる。
思わず目を閉じ、息を止める。
しかし息が出来ると分かった途端、双眸を開かせる。⋮⋮得も言
われぬ後悔に苛まれ、ゼノスは﹃何度目﹄かの悪夢を目の当たりに
する。
いつも見る︱︱現実を。
ゼノスを待ち受けていたのは︱︱裏切り。死の恐怖。怨嗟。嫉妬。
支配。虐殺。惨殺。苦悩。絶望。後悔。悲愴。大切な存在の死︱︱
︱︱ッッ!
自分は全てを経験した。全てを受け入れてきた。
気が狂いそうだ。一体何故、どうして自分だけが苦しまなければ
ならない?
騎士道精神なんて偶像の塊だった。守るべき民を持てば、今の自
分が必ずしも護れるとは言い難い。
1689
︱︱自分もまた、あの騎士達と同じなのだろうか︱︱
︱︱教えてくれ、ガイア︱︱
ガイア達こそが本当の騎士なのか。それとも今まで見てきた連中
が騎士なのか?⋮⋮そして、理想の騎士は現実に存在する事が出来
るのか? 分からない。全く分からない。
︱︱このまま生きて行けば︱︱自分は人間を信用出来なくなるだ
ろう。
絶対そうだ。いや、そうに違いない。
︱︱現に、そうなりつつあるのだから。
1690
﹁︱︱︱︱ッッ!﹂
額から汗を吹き出しつつ、ゼノスは目を見開く。
⋮⋮夢だったのだろうか。あの忌々しい光景は消え、視界には素
朴な一般家庭の一室が広がっている。今の自分は部屋のベッドに横
たわっていて、律儀に掛布団も掛けられていた。
至って平穏な空間。︱︱しかし、
咄嗟に彼は気配を感じ、脇に置いてあった剣を抜く。気配の正体
1691
が何であろうと、今のゼノスには関係無い。寝覚めが悪いせいか、
今は全ての存在が恐ろしく、敵であった。
剣刃を首筋に添えられた人物は︱︱ベッドに横たわるゼノスを介
抱していたイルディエだった。
﹁⋮⋮⋮⋮あ﹂
一瞬の出来事で、イルディエは一体自分が何をされているか分か
らなかった。恐怖よりも先に、微かな吐息を漏らす。
ハッとしたゼノス。するとそこで、誰かが部屋のドアを開けた。
﹁︱︱落ち着きなゼノス。その子はあんたが救ってあげたお嬢ちゃ
んだよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ゼノスは虚ろな双眸をイルディエに、そして更に後ろに控えるレ
イダへと視線を移す。
レイダの意思を汲み、剣を下ろす。
1692
﹁はあ。まずは頭部を触って、自分がどういう状態なのかを確認し
な﹂
彼女に促され、ゼノスは額に手を置く。
そこには純白の包帯が三重程度に巻かれている。試しに頭を軽く
揺らすと、額部分に若干の痛みが走る。確かに自分は、あの男に斬
られて⋮⋮。
﹁⋮⋮そうだ。レイダ達の元に向かう途中で⋮⋮俺は気を失ったん
だ﹂
﹁そうさね。そして心配したイルディエが隠れ家から飛び出した途
端、隠れ家の前であんたが倒れていたと。重傷ではないが、出血の
影響で失神したんだろうね﹂
﹁⋮⋮追手は?﹂
﹁安心しな、あれから来てないよ。今の時間帯は午前十時前後⋮⋮
つまり、既に半日が経過してるからねえ﹂
1693
半日。自分はそこまで気絶していたのか。
窓を見ると、確かに明るい日光が差し込んでいた。路地裏だとい
うのに、この場所は偶然にも日が当たるらしい。
⋮⋮それはともかくとして、連中も昼間から動く事は無いだろう。
昼は行商人が行き交い、更に王国の監視官が騎士団を偵察している
かもしれない。余程の事が無い限り、彼等は武力行使には出ないだ
ろう。
レイダは盛大に欠伸をしながら、面倒そうに言う。
﹁まあ、詳しい事情は後にしようかね。今は︱︱イルディエお嬢ち
ゃんの御好意を無駄にしないように。いいかい?﹂
﹁あ、ああ﹂
そう言って、レイダは部屋を後にする。
かくして、ベッドとテーブルしかない簡素な部屋には、ゼノスと
イルディエだけが残る事となった。
1694
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
いざ二人になると言葉が出ない。両者はただジッと互いを見つめ
合うだけだった。イルディエは野菜スープと水を乗せたトレイを手
に、ゼノスはただ茫然としているだけ。
だがこのままでは何も始まらない。
それにイルディエは、この無愛想な少年に言いたい事がある。
﹁その⋮⋮ゼノス様﹂
﹁ゼノスでいい。俺はお前の飼い主でも無いし、もう自由の身だ﹂
その一言に、イルディエは目頭が熱くなる。
自分の奴隷人生は、昨日で終わった。もう二度と鞭で打たれる事
も無く、二度と恐怖に縛られずに済むのだ。
1695
︱︱この方のおかげで。
彼女はトレイをテーブルに置き、大仰に頭を下げてきた。
﹁あ、有難うございます。私とエルーナを救ってくれて⋮⋮⋮⋮本
当に﹂
エルーナとは、イルディエと共にいた金髪の少女なのだろう。
イルディエは今いないエルーナの分まで、涙を零しながら頭を下
げてくる。
﹁よ、よせ。別に俺は、救おうとしたわけじゃ﹂
﹁ですが、結果的に私達は助かりました!﹂
﹁⋮⋮﹂
そう言われては何も言い返せない。
1696
真っ直ぐな気持ちで感謝されては、二の句も告げられなくなる。
﹁はあ﹂
ゼノスは憂鬱な気分になりながら、テーブルに置かれた野菜スー
プに手を付ける。一刻も早く、この話題から離れたい気持ちがあっ
たからだ。
さて、こうして朝食を頂くわけだが。
⋮⋮得体の知れない味のスープだった。
レイダは料理が出来ないので、恐らくこのイルディエかエルーナ
が調理したのだろう。見た目は⋮⋮悪くないのだが。
これは塩?いや、この舌が熱くなる様な感覚からすると唐辛子の
類だろうか。こういった料理を初めて食べる人間ならば、口に含ん
だ途端吐き気を催し、吐瀉物を吐きかねん程の産物だ。
不味い。そう言ってやりたかったが︱︱
1697
﹁⋮⋮﹂
黙々と食べるゼノスに、イルディエはニコニコとしながらその様
子を眺めている。⋮⋮美味しそう︵?︶に食べている姿を見て、と
ても嬉しいようだ。
残念ながら、満面の笑みを浮かべる人間に対して罵詈雑言を浴び
せる事は出来ない。これはもう性格上の問題だ。
なので迅速に食事を終えようとスープを一気に飲み干し、すぐさ
ま水を飲む。多少眩暈が来たが⋮⋮問題ない。
﹁あの、もっと食べますか?まだおかわりがありますので﹂
死神の誘いに対して、ゼノスは即座に対応する。
﹁いや、今はこれぐらいにしておこう。⋮⋮それに﹂
ゼノスはちらり、と部屋のドアへと目をやる。
1698
ドアが若干開かれていて、そこから頬を染めながら覗き見る人物
がいる。
⋮⋮それは紛う事なくレイダなのだが。
﹁⋮⋮何か用か﹂
﹁い、いやさね⋮⋮。あんた達を見てたら、自分と旦那の新婚生活
を思いだしてさ⋮⋮。わ、若さっていいねえ﹂
﹁⋮⋮﹂
頬を紅潮させるレイダ。それに加え、隣のイルディエもまんざら
でも無い表情なので始末に困る。特に、今年四十を迎えるレイダに
関しては。
こんな様子じゃ落ち着けない。ベッド下のブーツを履き、居住ま
いを正す。
﹁で、何か用があるんじゃないか?﹂
レイダはハッとし、照れ臭そうにしながらドアを完全に開け放つ。
1699
﹁ま、まあそうなる。べ、別に照れてたわけじゃないからね!﹂
年甲斐も無く片足を上げ、両手で顔を覆うポーズを取ってくる。
もう一回言うが、彼女は今年四十を迎える。
﹁はいはい、分かったから﹂
﹁む、つれない反応だね。⋮⋮まあいいさ。朝飯が終わったんなら、
ちょいと応接間まで来てくれよ。︱︱大体予想がつくだろう?﹂
﹁⋮⋮ああ。承知した﹂
彼女は途端に真剣な様子となり、ゼノスもそれを察する。
他に痛む箇所は無い。ベッドから容易に起きる事が出来たゼノス
は、上着を羽織ってレイダの後を付いて行く。
1700
︱︱イルディエの料理に関しては、一旦忘れる事にしよう。
1701
ep6 弱き自分
他部屋より多少広い応接間に入ると、既に二人の人物が待機して
いた。
一人は依頼を受ける際に出会った、マハディーン王国騎士団総部
隊長・ウズファラ。精悍な顔立ちと紅蓮のターバンが特徴的で、年
齢は二十代後半と推測出来る。﹃鷹の眼光﹄と言われるだけあって、
その瞳は鋭い刃物の様だ。
何故彼がここにいるのか?⋮⋮大方、事前にレイダが隠れ家の場
所を教え、彼はアグリム暗殺の報告を聞きに来たのだろう。依頼主
代理の癖に、わざわざご苦労な事である。
ウズファラに関しては大体予測はついていた。
⋮⋮しかし、もう一人はゼノスの想像を遥かに上回っていた。
百戦錬磨の武人だけが有する屈強な図体。ボロボロのマントを羽
1702
織り、自慢の戦斧を背中に担ぐ大男は︱︱ゼノスがよく知る人物だ。
﹁︱︱アルバート﹂
﹁久しぶりじゃなゼノス。⋮⋮ふん、相変わらずつまらん顔をして
おるの﹂
その大男︱︱アルバートは苦笑しながら言う。
ランドリオ帝国六大将軍が一人、アルバート・ヴィッテルシュタ
イン。将軍としての顔は知らないが⋮⋮自分の剣の師匠という顔は
よく覚えている。
同時にグラナーデ王国からゼノスを無事に救出させ、ガイアの様
に育ててくれた恩人でもある。
⋮⋮しかし、今は最も会いたくない人だ。
﹁レイダ。何でアルバートがここに?﹂
1703
﹁あ∼まあ⋮⋮アルバートの旦那に関してはあたし個人の件でね。
こうしてこの場に立ち会っているが、今回の件では全く関与してい
ないよ﹂
﹁レイダの言う通りじゃ。ほれほれ、さっさと仕事しろ﹂
﹁おいおい⋮⋮﹂
特に用事も無いのに、ゼノスの仕事を見守るのは今回ばかりでは
無い。アルバート曰く、ヘマをしないか付き添っているつもりらし
い。
もう子供という年齢じゃないのに、お節介な老騎士である。
だがそう促されてしまえば、ゼノスのやる事は一つだ。
アルバートが来た理由は不可解だが、ここにはまだウズファラが
いる。ゼノスがアグリムを暗殺した以上、報告するのもゼノスの任
だ。
気を取り直し、ウズファラに対して軽く頭を下げる。
1704
﹁ウズファラ殿。多少手荒でしたが、アグリムはこのゼノスが暗殺
致しました。この事を女王陛下にお伝え下さいますよう︱︱﹂
﹁︱︱待て﹂
と、唐突にウズファラがゼノスを制止する。
﹁⋮⋮何かご不満でも?﹂
ゼノスは眉をひそめ、静かに問い返す。自分の仕事は完璧だった
筈なのに、これ以上何か不満があるのだろうか。⋮⋮他の騎士と同
様、この男が妙な事を言うとは思えないが。
ゼノスは卑屈な予想を立てるが、どうやら外れの様だ。
﹁いやそれ以前の問題だ。︱︱今朝、我々の監視団がアグリムの生
存を確認したのだよ﹂
1705
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮ッ!?﹂
それを聞いた瞬間、ゼノスは言葉を失った。
何故、どうして?確かに自分はアグリムの首をへし折り、絶命し
た姿までその一部始終を垣間見たはずだ。イルディエだってエルー
ナだって⋮⋮レイダもその姿を確認したのだ。
動揺するゼノスに、ウズファラは﹁案ずるな﹂と付け足す。
﹁アグリムの生存は確認したが、君がアグリムを殺した事も分かっ
ている。グライデン傭兵団の中に、我々騎士団員を混ぜていたから
ね﹂
﹁誤解が晴れたのは嬉しいが⋮⋮問題はアグリムだ。死者が甦るな
んて、邪教の類でも成し得ない事だぞ﹂
一般人が聞けば、さも当然の如くホラ吹き呼ばわりする始末だろ
う。
しかし、ウズファラはその事実を真剣に受け止め、この有り得な
い現象を打ち明けてくれた。
1706
⋮⋮多分、本当なのだろう。
﹁監視団の話によると、アグリム本人は別邸へと向かったそうだ。
しかし別邸付近はアグリム派閥の部下で固められ、厳戒態勢を敷い
ている。⋮⋮暗殺は様子を見てから﹂
﹁︱︱いや、俺がすぐに行こう﹂
ウズファラの言葉を遮り、殺気を放ちながら答えるゼノス。
思い立ったが吉日、彼は部屋を出ようとするが。
﹁待ちなッ!あんた話を聞いていたのかい?依頼者の命令に背く行
為は許されないし、血流して帰って来たのはどこのどいつだい!﹂
﹁けどッ!あいつを野放しにしたら大変な事になるぞッ!?﹂
﹁それはあたしだって承知している。けどね、物事には順序っても
んがある。無闇やたらに行動するのは︱︱自殺行為だ﹂
1707
﹁はっ。自殺行為だって?たかが一端の騎士が数十人いるだけだろ
う?⋮⋮そんな連中、聖騎士流剣術で一掃してやるよ!﹂
血走った眼を向け、ゼノスはそう言い放つ。
それは紛れも無い⋮⋮力を過信した者の放つオーラだ。
さしものレイダも頭に来たのか、ゼノスの頬を叩こうとする。︱
︱が、後ろから伸びる大きな手で止められる。
﹁待つのじゃ、レイダ﹂
﹁⋮⋮旦那﹂
﹁力で解決出来るほど、この問題は簡単ではない。お前は下がれ﹂
﹁⋮⋮分かったよ﹂
まだ荒々しい感情が残っているが、レイダは拳を下ろす。如何に
グライデン傭兵団の副団長と言えど、夫の友人である彼に刃向う事
はしない。
1708
アルバートはゼノスの前にはだかる。ゼノスは相手を射殺さんば
かりの視線を浴びせるが、アルバートはそれに臆しない。
それどころか、呆れた表情を浮かべる。
﹁相変わらずじゃなあ。儂が付いていた頃も、そうして無謀に立ち
向かっていたな﹂
﹁⋮⋮悪いかよ﹂
不貞腐れた返事に、アルバートは鼻息を鳴らす。
﹁いや?むしろその勇気は素晴らしいものじゃよ。⋮⋮だけど、冷
静さと誠実さが欠けておるな。﹃騎士﹄たる者は、何時如何なる時
でも状況を冷静に判断せねばならん﹂
︱︱騎士。
その言葉に、ゼノスは歯軋りする。
1709
﹁⋮⋮また絵空事の、騎士道精神ってやつか?馬鹿馬鹿しいッ!そ
れを守って来た連中がどこにいたよ!?勇猛なグングダルの騎士団
か?気品高いイレイティスの騎士団か?神の恩恵を授かったとほざ
くヒースガルドの騎士団か?︱︱それとも、誉れ高いランドリオ帝
国の騎士団にいるってのかよッ!﹂
﹁⋮⋮全く﹂
アルバートは溜息を吐き、ゼノスの肩に手を置く。
おどけた表情から一転︱︱険しい猛虎たる顔つきに変わる。
﹁︱︱︱︱まだ逃げるのか、ゼノス﹂
﹁ッ!﹂
ゼノスは図星を付かれ、無理やり手を払おうとする。しかしアル
バートは力を強め、離そうとしない。
1710
﹁弱いの、ガイアに育てられた癖に。︱︱奴はお前のように、他の
騎士とは比べなかった。他の騎士とは違う騎士になろうとした。奴
にそれが出来て、何故お前が成し遂げられない?﹂
﹁そ、それはッ﹂
﹁それは自分が弱いからか?︱︱じゃがその弱腰精神で、お前は一
体何人もの人々を見殺しにしてきた?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
ゼノスは絶句する。
ふいに思い浮かんだ光景は、大切な者達の死の瞬間だった。
どれもゼノスが勇猛果敢に立ち向かい、そして敗北し︱︱地面に
頬を擦りつけながら、涙を流しながら見てきた。
血の惨劇を、断末魔のコーラスを。
1711
アルバートはそれを知っている。あの情けない姿のゼノスを、そ
れはもう幾度も幾度も。
だから、今のゼノスに言ってやる。
この腑抜けた若造に、在るがままの現実を突き付ける。
﹁︱︱今のお前じゃ、すぐに死ぬだけじゃ。騎士の何たるかを知ら
ん者に、聖騎士の加護は付いて来んよ﹂
﹁⋮⋮﹂
悔しい。
目尻に涙が溜まる。服の袖で涙を拭うが、それでも止まらない。
不甲斐ない自分を曝け出していると思うと、情けない気持ちで一杯
になる。
自らの力量を誤ってはいけない。それはアルバートが四六時中言
い聞かせてきた言葉だ。ゼノスは幾度もその教えを破り、力を過信
してきた。いつもアルバートに抑制されてきたが、それでも感情を
1712
優先してきた。
だが敗北後に諭されると⋮⋮自分の愚行に気付いてしまう。
︱︱そう、馬鹿丸出しだ。
こんなどうしようもない自分を知ったら、ドルガとコレットは⋮
⋮ガイアは何と言うだろう。
⋮⋮。
途端に部屋が静まる。何とも言えない空気が漂い、居心地の悪い
状態がしばし続く。
と、そこで部屋のドアがそっと開かれる。
ドアを開けたのは⋮⋮小刻みに震えるイルディエであった。
1713
﹁イルディエ嬢ちゃん⋮⋮話を聞いてたのかい﹂
レイダは頭を抱えながら問う。
案の上、イルディエは小さく頷く。
﹁あ、あの⋮⋮盗み聞きするつもりはありませんでした。ですがそ
の⋮⋮つい偶然と﹂
皆の視線に委縮しながら、しかしそれ以上に恐怖を抱きながら答
える。
彼女をそこまで怯えさせる理由は、大体予想出来る。
﹁⋮⋮アグリム様が生きているって、本当なんですか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
沈黙を肯定と受け取ったのか、イルディエの顔が蒼白となる。
当然の反応だろう。自分達を苦しめてきた元凶が生きていると知
1714
り、そこで感情を露わにしない方がおかしい。
イルディエは深々と低頭する。
﹁その⋮⋮戻らなきゃ。でないと⋮⋮叱られるので﹂
そう言って、イルディエは走って出て行く。
虚ろな眼で行く先は、多分アグリムの屋敷だろう。しかし今行け
ば、確実にアグリムの部下に捕獲されるのがオチだろうに。
﹁はあ、また面倒な事に⋮⋮。彼女をどうしようかね﹂
苦悩するレイダに、ウズファラが即答する。
﹁無論、彼女もまた依頼の一部に入っている。もし君達が彼女を追
わないならば、我々が彼女の保護に向かうが︱︱﹂
﹁いや、ここはゼノスに任せるんじゃな。それで構わなんだろうレ
1715
イダ?﹂
何か含みのある言い方で、アルバートはそう指示してくる。
レイダは暫く考え込んだ後、彼の意見に同意する。
﹁そうさね、ゼノスの頭を冷やすには丁度いいかもしれない。今後
に関しては、ゼノスが嬢ちゃんを連れ帰って来てから話そうかね﹂
そう言って、レイダはゼノスの背中を叩く。どうやら行って来い
という合図のようだ。
面倒事を任された気分だが、ゼノスとしてはむしろ願ったり叶っ
たりだ。イルディエには大変申し訳ないが、彼女に対する心配より
も、この雰囲気から脱出できる事に安堵している。
誰かに急かされる前に、ゼノスはイルディエを追い駆けた。
1716
﹁⋮⋮旦那、何か名案でも浮かんだのかい﹂
ゼノスが居ないこの部屋で、レイダはふと本音を漏らす。
そう言われたアルバートは神妙な面持ちで答える。
﹁良い案かはまだ分からんわい。⋮⋮単に儂は、騎士として当然の
意思を宿して欲しい、そう思っての﹂
﹁騎士として当然の意思?﹂
レイダは小首を傾げる。幼少時代から傭兵稼業に身を置いていた
彼女としては、騎士道精神の何たるかを余り理解出来ていないのだ
ろう。
1717
しかし、同じ騎士であるウズファラは納得した。
﹁なるほど、そう言う事か﹂
﹁え、え?分からないのはあたしだけかい?﹂
いくら試行錯誤しても分からない。
やがてアルバートは、肩当てに刻まれた紋章に手を置く。蔦に巻
かれる剣と盾の紋章は、紛れも無いランドリオ帝国の国章だ。
﹁お前がグライデン傭兵団を愛おしく思い、団員を守ろうとする心
意気と同じじゃ。⋮⋮今の奴に必要な物と言えば、正しくそれじゃ
ろう﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ようやくレイダも合点がいった。
守る。︱︱誰かの為にその身を捧げ、誰かの為に戦おうとする行
1718
動。
︱︱騎士として欠かせない大事な行いだ。
そしてアルバートは期待する。
霧の中を彷徨い続けてきた少年に、ようやく見えてきた出口。
希望を持って現れたイルディエとの出会いが、ゼノスを良い方向
へと変えてくれると。
1719
1720
ep7 守護の誓い
トル︱ナの町は広大だ。
唯一のオアシスを町の最西端に置き、オアシスの水が流れる水路
に沿うように民家が展開されている。大体の面積は統計で確認され
ていないが⋮⋮その規模は一大国の城下町にも匹敵する。
更に町の構造も複雑多様である。古い建造物も存在すれば、全く
新しい様式の異なった建造物もあるのだ。道も変に舗装され、よほ
ど土地勘がないとすぐに迷ってしまう。
そんな迷路に似たトル︱ナを、ゼノスは歩き続けていた。
鋭い日照がゼノスの意識を朦朧とさせる中、あらゆる場所へと行
き、イルディエを捜索している。
相変わらず人混みの激しいバザール地区、貧困層が集う集落地帯、
旅人の憩いの場となる歓楽街⋮⋮。そして勿論、アグリムの屋敷と
1721
彼が保有する別荘へも赴いた。
︱︱しかし、それでも彼女は見つからない。
念入りに気配を探っているが、イルディエらしき波動の持ち主は
存在しない。彼女は﹁戻らきゃ﹂と言っていたのにも関わらずだ。
彼女は既に殺されたのか?そんな想像もしてしまう。
﹁⋮⋮ったく。何処にいるんだ﹂
イルディエを探し始めてから、もう数時間が経過している。
太陽は沈み、また夜が訪れる。砂漠の夜は非常に冷え込んでいて、
外套を着込まないと肌寒い程だ。
だが弱音を吐ける立場ではない。
イルディエを見つけなければ、グライデン傭兵団の沽券にも関わ
る。自分の所属する団の評価が下がるのは嫌だし、また叱責をくら
1722
うのは御免だ。
⋮⋮⋮⋮そう、その筈だ。
如何に広大な町と言えども、粗方の場所を探し尽くしたゼノス。
元奴隷の身分の上に、彼女はトル︱ナ出身の者ではない。どこかの
民家に泊まっているという可能性はないだろう。
なら一体どこにいるのか。
寒空の下で、ゼノスは考え込む。
だがすぐにある場所を思いつき、ゼノスは歩を進める。
﹁︱︱オアシスにいるかもしれない﹂
可能性は大いに低いが、それでも捨て切れない。
例えオアシス自体には何も無く、普段は誰も立ち入らない場所だ
としても⋮⋮。
1723
進む。前進する。無我夢中で歩き続ける。
オアシスは最西端に位置する。今歩いている大通りはトル︱ナの
最東端にある為、ここからだと軽く二時間は掛かってしまうだろう。
利口な人間ならば、一旦戻って明日に備えるかもしれない。そこ
まで彼女に固執する必要はないかもしれない。
︱︱だが気持ちが焦る。
ゼノスにとって、イルディエは無力な存在だ。
過去数回にわたって見てきた。非力で哀れな少女達を。彼女は無
残に殺され、畜生に犯され、女だからと言って虐げられてきた少女
達によく似ている。ふと、彼女達とイルディエを重ねてしまう。
⋮⋮いつの間にか、ゼノスは走っていた。
最初こそイルディエを意識しなかったが、今は違う。
1724
通り行く人々にぶつかりながら、そして痛烈な罵倒をも無視して、
トル︱ナの夜を駆け抜ける。 頭の中はイルディエで一杯だった。生きていてくれ、死なないで
くれと祈りながら⋮⋮⋮⋮走る。
やがて人通りの多い地区を抜け、閑静な住宅街を突き進む。次第
に建物さえも点々と散らばる程度となり、砂塵が体全体へと付着し
てくる。景色も大きく変化し、広大な砂漠が見えてくる。
﹁はあ⋮⋮はあ⋮⋮﹂
息を切らしながら、ゼノスはオアシスへと辿り着いた。
雲に隠れていた満月が姿を見せ、淡い月光を放つ。月光は目前に
広がるオアシスの水面を照らし、水面は幻想的な光を反射させる。
周囲を覆う草木はなびき、心地良い自然の音楽を演奏する。オア
シスはさながら、一つの大きな舞台。
誰も居ない⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮いや。
1725
一人の少女︱︱イルディエだけが舞う、孤独の舞台だ。
﹁⋮⋮﹂
ゼノスは疲労も忘れ、息を呑んだ。
彼女はゼノスの存在さえも認識せず、ただ踊り歌う。月光という
名のスポットライトを浴びながら、軽やかに跳ねる。優雅に腰をひ
ねる。魅惑の足が軽快なリズムを作る。
彼女が踊れば、草木も踊る。彼女が美しい姿を晒せば、月光がそ
れを綺麗に、そして艶めかしさを助長させる。
イルディエは美しい。容姿や肢体だけでなく、その雰囲気も。全
ての男を虜にする姿は⋮⋮ゼノスさえも魅了する。
先程まで怯えていた彼女とは違う、本来在るべき姿。
大地を祝福する為に踊り、空を喜ばせる為に歌う古代民族︱︱ア
1726
ステナの民だけが有する特徴なのかもしれない。
⋮⋮絢爛華麗、且つ激甚の想いを乗せたこの踊りは、彼ら以外に
は真似できない。
こうして華麗な舞踏が終わった頃。
ようやくイルディエは、ゼノスの存在に気付く。
﹁⋮⋮あ﹂
彼の姿を見つけ、意表を突かれる。
﹁よう。こんな寒い所で、よくもまあ踊り子衣装で居られるな﹂
ゼノスは咳払いをし、何とか平静を保つ。そのおかげで、彼女に
対する個人的な想いは消え去る。
1727
一方のイルディエは、申し訳なさそうに口を開いた。
﹁⋮⋮私を探しに来たのですか?﹂
﹁まあな、あちこちを探し回ったよ。⋮⋮まさか、こんな場所にい
るとは思わなかったが﹂
﹁ここはお気に入りの場所なんです。何か嫌な事があったり、不安
な事があった時は⋮⋮いつもここで踊っています。そうすれば、何
とか忘れる事が出来ますから﹂
また弱々しい態度で答えるイルディエ。この様子からすると、恐
怖でアグリムの元に戻れなかったのだろう。
﹁︱︱俺達の元に戻るつもりは?﹂
イルディエは首を横に振る。
﹁ありません﹂
﹁何故?﹂
1728
﹁⋮⋮命の恩人達を巻き込みたくないからです。特に、貴方を﹂
心臓を締め付けられるような思いに駆られ、恩人に対する罪悪感
に囚われる。
アグリムの勢力は強大だ。彼が本気で潰しに掛かれば、ゼノス達
の傭兵団は瞬く間に壊滅し、恐ろしい劫罰が待ち受けている。知見
から得る事ではなく、トル︱ナに住まう誰もが常識とする範疇であ
る。
奴隷の救済︱︱それ即ち禁忌であり、アグリムはそれを許さない。
しかしゼノスが酷い仕打ちを受ける姿なんて、イルディエは見た
くもない。
それ故に、彼女は拒絶する。
﹁だから関わらないで下さい。⋮⋮弱い私には、この運命に従わな
ければなりませんから﹂
﹁⋮⋮﹂
1729
悲哀を抱いた背を向け、イルディエは銀髪をなびかせ離れ去ろう
とする。
︱︱運命、か
全てが神によって定められ、思うがままに操作されて来たのか?
イルディエは自分の不幸を運命と決め付け、観念している。奴隷
という身分に束縛され、それこそが自分の役割だとしている。
︱︱ならゼノスは?
ゼノスもまた、彼の運命とやらに振り回されているのか?
傀儡の様に操られ、何も変えられないのか?一生弱いままで、一
生大切な者達を奪われ、それを静観するだけしか出来ないのか?
⋮⋮だとしたら、何て不条理な世界だろうか。
1730
しかし、そう思えたら幸せだという自分も存在する。複雑な感情
に苛まれず、才能が無いと分かれば、他に行く道が開かれるかもし
れない。
あるいは崩壊への一途も、あるいは平和への道筋を。
⋮⋮願う物を捨てれば、救われるかもしれない。
イルディエは奴隷からの解放を捨て。
ゼノスは騎士になる夢を捨てれば。
⋮⋮でも。
﹃︱︱奴はお前のように、他の騎士とは比べなかった。他の騎士と
は違う騎士になろうとした。奴にそれが出来て、何故お前が成し遂
げられない?﹄
1731
ふとゼノスは、アルバートの言葉を思い出す。
才能以前の問題として、ゼノスは単に逃げているだけであり、向
き合おうとしていない。結局は意思の問題で、揺るがぬ希望を追い
求めてこそ真の結果が見えてくる。
要はそう言ったのだ。諦めの早い人間ほど幸が薄く、生涯夢を叶
える事は不可能であると。
進まねば、始まらぬ。
切り開かねば⋮⋮夢物語のまま終わってしまう。
﹁⋮⋮﹂
それは自覚しているつもりだ。︱︱否、今自覚した。
ゼノスも、イルディエも。体験してきた悲劇を繰り返したくなけ
れば、やれるだけの努力をしないといけない。
1732
鏡に映る自分のように、ゼノスはイルディエの生き様を見て、イ
ルディエはゼノスの在り方を見て︱︱。
︱︱閉ざされた想いを、曝け出す。
無意識に近い状態で、ゼノスはイルディエの手を掴む。
突拍子の行動に、彼女は目を丸くする。
﹁⋮⋮⋮⋮離して下さい。覚悟を決めて、今から主の元に行くので
すから﹂
﹁⋮⋮自分の意思に反してでも、か?﹂
﹁︱︱当然ですッ。他にどうしろと、弱い癖に抗えと?﹂
無理に決まっている、と付け足すイルディエ。
ああやはり。彼女とゼノスは酷似している。
1733
似ているからこそ、彼女の全てに共感する事が出来る。これ以上
苦しい世界を見たくないから、現実に従う。巨大な壁に立ちはだか
ろうとせず、悲劇のヒロインを気取る。
何も変えようとしない、ゼノスと同じ考え。
けれども、﹃変える事﹄は可能だ。
﹁イルディエ。︱︱自分が弱いと思うなら、強くなろう﹂
﹁強⋮⋮く?﹂
﹁そう。実は俺も、お前と同じなんだ。そうして弱い自分に絶望し、
夢さえも諦めかけていた。︱︱騎士になろうという夢を。けれども
ッ!﹂
イルディエの手を両手で握り、懇願する様に続ける。
1734
﹁︱︱イルディエと共に強くなれば、変われるかもしれない﹂
﹁⋮⋮ゼノス﹂
真摯な瞳に覗き込まれ、イルディエの心に揺らぎが生じる。
月夜の下で告白された言葉により、一抹の思いが瞬時に張り巡ら
される。
︱︱この人と共に行けば、変われるかもしれないと
﹁俺はイルディエをアグリムから守って見せる。そしてイルディエ
は、奴隷から抜け出せる程の力を付けてみろ。⋮⋮心も体もな﹂
﹁⋮⋮自信が、ありません。それに私が居れば、迷惑に︱︱ッッ!
?﹂
言葉を紡ぎ終える前に、イルディエの視界が虚ろになる。異様な
眠気に誘われ、意識がはっきりと機能しない。
1735
少々手荒だが、無闇にアグリムの前へと現れ、無残に殺されるよ
りはマシだ。こんな時の為に、眠り花の花粉を持参した甲斐があっ
た。
ゼノスは倒れる寸前のイルディエを抑え、小さく呟く。
﹁大丈夫。迷惑なんて思っていないし、答えに関しては急を要する
必要もない。⋮⋮⋮⋮俺はその言葉を絶対守るから、それを見てか
ら答えを出してくれ﹂
静かな寝息を立てるイルディエに対し、決意を述べる。それは弱
い自分との決別であり、誓いでもある。
完全に意識を失ったイルディエを抱えて、ゼノスは隠れ家へと戻
る事にした。⋮⋮⋮⋮言葉通りの覚悟を示す為に。
1736
1737
ep8 決意の末に
イルディエを連れ戻してから、既に三日が経過した。
あれからレイダ達と話し合った結果、グライデン傭兵団は引き続
き依頼を続行する事となった。
アグリムの殺害、及び比較的正常な状態にある奴隷の解放。しば
らくは相手の出方を図りつつ、このトル︱ナの町に滞在するわけだ。
本当ならイルディエとエルーナは王国に保護される予定だったが、
本人の意思によりゼノス達の元に居住まう事となったのだ。
グライデン傭兵団員、イルディエ。奴隷という素性が知れないよ
う、一時的に仲間となり、一方のエルーナは、傭兵団に雇われたハ
ウスメイドとして身を置く事となった。
︱︱まあそんなわけで、今はこうしてイルディエ達を守りつつ、
傭兵団と王国が共同でアグリム潰しを行っている途中である。
1738
⋮⋮さて、そんな大事の最中。
隠れ家の裏方にある庭にて、激しい剣戟の協和音が聞こえてくる。
﹁はあッ!﹂
﹁ぬっ。今のは良いが⋮⋮じゃが隙も多い!儂をそこいらの素人と
一緒にするでないわぁッ!﹂
精の出る掛け声に、野太い喝が素早く反響してくる。そのやり取
りだけで空気が振動し、大地が震える。
︱︱ゼノスとアルバートは、依頼の合間を縫って激しい稽古を行
っているのだ。
何故アルバートがいるかというと、これも少々込み入った事情が
ある。
周知の事実だが、この老騎士はランドリオ帝国の騎士であり、そ
の中でも最強を誇る六大将軍の一人だ。
1739
彼はランドリオ皇帝と教会組織の命により、単独で奴隷市場の殲
滅を指示されたらしい。六大将軍は基本、隊を引き連れず独断で仕
事を遂行する。今回はその大任を、アルバートに預けたのだ。
レイダの所に来たのは、同じ目的を有するグライデン傭兵団と協
力関係を結ぶ為だと言う。
なので、こうして当然の如くいるわけである。
﹁⋮⋮ちッ、相変わらずタフな爺さんだな﹂
﹁わはは、それが取り柄じゃからな!儂の防御を砕けば、守る者も
守れるぞ!﹂
﹁︱︱なら、打ち砕いて見せる!﹂
ゼノスは剣を両手で持ち、アルバートに向かって突進する。
彼は自慢の戦斧の代わりに、今は身の丈に合っていない剣を握っ
ている。仮に戦斧だったとしたら、力勝負では到底勝てない。
1740
だが剣が相手ならば別である。戦斧と比べて、安物に近いあの剣
は非常に折れやすい。無理に負荷を加えれば、容赦なく剣刃が破壊
されるだろう。
⋮⋮アルバートに勝つには、それしか勝機が見えない。
剣を頭上へと持ち上げ、アルバートの間合いに入るとすぐさま剣
を振り下ろす。
だが、それは甘い考えであった。
﹁⋮⋮⋮⋮ッ﹂
﹁⋮⋮考えが浅いのう。儂は自滅する程、衰えてはおらん﹂
アルバートは絶妙な力加減でゼノスの一撃を防ぐ。しかも剣は折
れておらず、ましてや一寸の刃こぼれもしていない。
だがこれは序の口だ。力の加減など、ランドリオ騎士団員でも容
1741
易に出来る。
最も恐ろしいのは︱︱次の手だ。
﹁ぬうんッ!﹂
先程までの手加減は嘘のように、今度は全身全霊の力を剣に込め
る。ゼノスの全身はその覇気に飲まれ、背筋が凍る。
既に折れる段階にあるにも関わらず、アルバートの剣は彼の力に
耐えている。⋮⋮一体どうやれば、こんな芸当が出来るのだろうか。
計り知れない力に圧され、ゼノスは剣を弾かれる。
﹁くっ⋮⋮﹂
﹁馬鹿正直に突っ込むのはいかんな。それは英雄と呼ばず、愚か者
と呼ぶのじゃよ。もっと相手の力量を見定め、自分の特性を生かし
た戦略を築け﹂
アルバートは汗を拭い、剣を鞘に納める。溢れる闘志も引っ込ま
せ、稽古の終わりを告げる。
1742
こうなった経緯は、もちろん三日前の出来事に由来する。
ゼノスがイルディエ達を守ると決めた以上、彼もまた相応の力が
必要だと理解している。現状のままでは、あの黒づくめの青年には
勝てない。むしろ呆気なく殺されてしまうかもしれない。
自分はこの力を、聖騎士流剣術を過信していた。それではガイア
も浮かばれぬし、騎士の本懐には辿り着けないと悟った。
だからゼノスは、もう一度基礎から鍛えようと思ったのだ。
これが正しいのかは分からない。この過程が、自分を騎士たる存
在に染め上げるかも分からない。
分からない尽くしだ。だが迷っていては、何も解決しない。
ゼノスはもう後悔したくない。だから自分なりに、騎士として⋮
⋮聖騎士に見合う力と精神を身に着けたいのだ。
﹁⋮⋮久しぶりじゃな、その目は﹂
1743
光を帯びた瞳を見て、アルバートは嬉しく思うばかりだ。
完全に腑抜けたわけでは無い、かつての表情。ガイアの希望は潰
えていないと分かり、微かな安堵を覚えた。
この姿を見れば⋮⋮きっとガイアも、その弟子達も喜ぶだろう。
﹁なあに満足した様子で剣を納めてんだ。俺はまだやれるぞ!﹂
剣を構え、アルバートに対して威勢よく言い放ってくる。
好戦的なのは結構だが、今回ばかりは呆れるしかない。アルバー
トは盛大に嘆息する。
﹁焦るでないわ小僧。これ以上戦っても、余計な疲労をもたらすだ
けじゃて。⋮⋮それに、後ろを振り返ってみろ﹂
﹁後ろ?﹂
そう促され、ゼノスは後ろを振り返る。
1744
そこには、丁度やって来たイルディエとエルーナがいた。二人は
マハディーン特有の色鮮やかな民族衣装の姿で手を振っている。
﹁ゼノス様∼。朝食が出来ましたよお∼!﹂
間延びした口調で、エルーナが声を掛けてくる。
︱︱もう朝食の時間か。早朝四時から稽古を始めたのに、既に三
時間以上も経過したという事になる。
このまま意地を張ってでも稽古を続けたい。しかしアルバートは
愚か、エルーナとイルディエに猛反対されるだろう。彼女達はゼノ
スと一緒に食事を摂らないと嫌らしい。
ゼノスは不本意だが、剣を腰の鞘にしまう。
﹁⋮⋮後でまた頼む﹂
﹁分かっとる。全く、その往生際の悪さもガイアそっくりだわい﹂
1745
﹁そりゃどうも。⋮⋮って、何処に行くんだ?﹂
アルバートも朝食を摂るのかと思いきや、彼は中庭の先にある小
さな門へと向かう。
﹁敵の視察じゃよ。一挙一動を監視し、何か不審な行動を取れば、
すぐさま何かしらの行動を行えるようにな﹂
﹁⋮⋮な、なるほど﹂
納得するゼノスをチラ見し、アルバートは小さく笑む。
﹁儂も大変じゃが、小僧は小僧であの娘達を守るんじゃろ?⋮⋮ふ
ふ、精々気張れよ。色々な意味での﹂
﹁は⋮⋮?﹂
意味深な言葉を残し、アルバートは颯爽と行ってしまう。
朴念仁のゼノスには、その言葉の意味が分からない。
1746
⋮⋮が、約数分後。
何となくだが、言葉の意味を否応なく理解する事になる。
1747
ep9 余暇の出来事
﹁ふふん、どうやら決着がついたようねえ﹂
﹁ぐ、ぬぬ⋮⋮﹂
睨み合う二人の乙女。彼女達︱︱エルーナは不敵に微笑み、イル
ディエは悔しそうに涙を浮かべる。
今は朝食の時間で、ゼノスとレイダを交えた四人は仲睦まじく食
事を摂り、平和且つ穏便に過ごす⋮⋮筈だった。
現実はそうも簡単に行かない。何を思ったのか、今日はエルーナ
とイルディエが朝食を作ると願い出たのだ。勿論断る理由もないの
で、ゼノスは快く厨房を預けた。
だが、そこで気付くべきだった。あそこで火花を散らす両者を止
めておけば良かった。
1748
二人は﹁ゼノスを射止める?エルーナが?﹂とか、﹁何よお、文
句ある?人の恋路を邪魔するなんて⋮⋮ヤキモチ?﹂とか、﹁ち、
違う⋮⋮いや違わない!何でゼノスに惚れたのよ!?﹂等々。⋮⋮
とまあ、ゼノスを前に言い合っていたのである。
結局、二人は料理対決をする形で、どちらがゼノスに相応しいか
勝負をする事になった。
︱︱結果は見ての通り。イルディエは黒ずんだ物体の乗る料理皿
を持ち、エルーナは完食された皿を誇らしげに掲げている。
﹁⋮⋮うぅ。ゼノスが食べてくれなかった、ゼノスが食べてくれな
かった⋮⋮﹂
﹁当たり前でしょう∼、そんなの食べたらゼノス様が失神すると思
うよお。ね∼ゼノス様?﹂
甘えた声を出し、エルーナが隣に座るゼノスに抱き着いてくる。
あからさまに胸を押し付け、誘惑している。
﹁あ∼!ちょっと、ゼノスから離れて!﹂
今度はイルディエが反対側から雪崩れ込み、ゼノスの腕を引っ張
1749
ってくる。こちらは意識していないが、その豊かな胸が腕に直撃し
ている。
⋮⋮言っておくが、ゼノスもまだ思春期の少年である。そんな彼
が左右同時に、しかも同年代の綺麗な少女達に抱擁されているのだ。
顔が真っ赤で、心臓がドギマギして仕方がない。
﹁あっはっは!いやあいいねえ、ゼノス。両手に花なんて⋮⋮将来
嫁さんには困らないねえ﹂
﹁お⋮⋮お嫁さん﹂
その言葉に反応したのは、案の定イルディエとエルーナだ。
頬を極限にまで紅潮させて、しばし愉悦に浸る乙女達。その間、
彼女達は自分が純白のドレスを着て、ゼノスと永遠の愛を誓う夢で
も見ているのだろうか。時折、唾を飲む音が聞こえる。
やがて二人は強固な眼差しをゼノスに注ぐ。
﹁⋮⋮ゼノス。もし私がその、ゼノスの⋮⋮になったら⋮⋮⋮⋮料
1750
理、一生懸命頑張りますね﹂
﹁私は何もかも頑張りますよお。掃除洗濯料理、旦那様の朝のお世
話や⋮⋮夜のお世話もね∼﹂
﹁んなッ!そ、それぐらい⋮⋮私だって!﹂
エルーナが挑発し、それに乗ってしまうイルディエ。
まだ食事中のゼノスを引っ張り合い、両脇で喧嘩を繰り出す中⋮
⋮ゼノスは大きく溜息をつく。
﹁⋮⋮勘弁してくれ﹂
1751
長く辛い食事を終え、ようやく一息つくゼノス達。
無事朝食が済んだ所で、今は丁度今日の予定を組んでいる最中だ。
本当ならばやる事は沢山ある。敵の観察、町外部に滞在する傭兵
団員との情報交換、日々の鍛練。これらは欠かせない仕事だ。
なら何故やろうとしないのか?それには何通りかの理由がある。
まず敵の観察に関しては、現在アルバートに一任されている。六
大将軍は常に単独で行動し、協力は原則断っているらしい。むしろ
本人にとっては邪魔であり、レイダもそれを重々承知している。
次に情報交換についてだが、これも控えるよう忠告されている。
外部とのやり取りが出来れば、アグリム勢力が町から逃亡した事が
明確に分かり、その動向をもっと詳しく知れる。
しかし、それは同時に大きなリスクを伴う。アグリム勢力に知ら
れれば、傭兵団の隠れ家を晒す結果となるだろう。
1752
最後に鍛練だが⋮⋮これは早朝の鍛練だけで十分だ。無理に身体
を動かせば、それだけ余計な疲労も付加される。
⋮⋮というわけで、アグリム勢力に大きな動きがあるまで、実質
ゼノス達は休暇を余儀なくされている。だからこうして、食卓で予
定に悩んでいるわけだ。
﹁さあて、どうしよっかねえ﹂
﹁⋮⋮考えてみれば、戦いのない日なんて久しぶりだな。俺は特に
思いつかないが﹂
﹁あたしもだね。こう、何て言うの。傭兵にとって休暇は、死を意
味しているもんだしねえ﹂
レイダの言う通りである。
傭兵は戦争や戦いを生業とし、生計を稼ぐ。もし休暇なんて存在
したら、それは仕事が無いのと同義だ。⋮⋮まあ、今回みたく依頼
が継続していれば大丈夫だが。
1753
しばし沈黙が部屋を過る。
だがそこで、エルーナが何かを思い出し両手を叩く。
﹁そうだ!なら今日は、この町に来ている大道芸団を見に行きませ
んか?﹂
﹁⋮⋮大道芸か﹂
ゼノスはレイダを見やる。
それに気付いたレイダは、快く承諾する。
﹁いいんじゃないかね。無駄に時間を過ごすよりはマシだと思う﹂
﹁おいおい、いいのか?﹂
あっけからんと答えるレイダに、ゼノスは自分なりの不安を打ち
明ける。
1754
いくら白昼堂々に襲われないと分かっていても、それが確実とは
断言できない。もしアグリムの手下に見つかれば、また一騒動起こ
るかもしれないし、イルディエ達の無事も保障出来ない。
﹁ま、言いたい事は分かるよ。あたしだって、これ以上の面倒事は
避けたいからねえ﹂
﹁なら︱︱﹂
﹁けどね、お嬢ちゃん達のストレスを溜めるのも良くないんだよ。
なら、これを口実にストレス解消をさせるのも悪くないだろ?﹂
レイダはにやりと笑み、ゼノスを指差す。言葉には出さないが、
勿論お前も同行しろよという意味を含んでいるのだろう。
一気に気を引き締めるゼノスだが、その様子をレイダに鼻で笑わ
れる。
﹁まあ出掛ける時は、顔隠しのフード付きマントを身に着けるとい
いさ。⋮⋮それに、町にはアルバートもいる。今日ぐらいは、安心
して出掛けてもいいさね﹂
1755
﹁⋮⋮﹂
ゼノスはしばし考え込む。一方のイルディエとエルーナは、不安
と期待を込めて彼をジッと凝視する。
その誠意に観念し、静かに肩を落とす。
﹁⋮⋮分かった。確かにアルバートがいれば、目立った問題が起き
る事も無いだろう﹂
﹁︱︱それじゃあ!﹂
満面の笑みを見せる二人の少女に、ゼノスは優しく微笑みかける。
そうだと決まれば、すぐ出掛ける準備をする必要があるだろう。
大道芸団というものは、朝早くから来て昼には退散してしまう一団
もいる。トル︱ナに来ている一団がそうなのかは不明だが、早く行
くに越した事はない。
﹁よし、なら支度をして行こう。レイダはどうする?﹂
﹁ん、あたしはいいや。三人で楽しんできな﹂
1756
そう言って、レイダは台所へと向かい、ごそごそと何かを漁り始
める。
戻って来たその手には、埃の被った赤ワイン。レイダはそれを見
せつけてくる。⋮⋮今日は酒を飲みながら過ごすつもりのようだ。
三人︱︱それを聞いた瞬間、エルーナはつまらなさそうに呟く。
﹁む∼、レイダさん来ないのかあ。それじゃあイルディエの話し相
手がいなくなるじゃないのさ﹂
﹁⋮⋮そ、それはどういう事だろうね。まさかエルーナ⋮⋮自分は
ゼノスと仲睦まじく並んで、私だけは⋮⋮﹂
﹁そ、レイダさんと一緒にいる予定だったんだけどね∼﹂
悪戯っぽく笑んで、ゼノスの右腕へと抱き着くエルーナ。
﹁ささ、行きましょ∼ゼノス様。こんな地味娘は放っといて、私達
は愛を育みましょ∼﹂
1757
﹁あ、あ∼ッ!そんなの駄目、駄目ったら駄目ッ!﹂
今度はイルディエが左腕に抱き着いてくる。これでは朝食時の再
来であり、また二人の喧嘩に付き合わなければならない。
⋮⋮前途多難。
ゼノスはふとガイアの言葉を思い出す。
﹃ゼノス。この世に生きる限り、男と女の触れ合いは大事だ。⋮⋮
だが、時として女性達は野獣になる。私みたいに⋮⋮振り回されぬ
ようにな﹄
ガイアは苦笑しながら、幼いゼノスにそう言い聞かせていた。
あの頃はどういう意味だか分からなかったが、今なら痛いほど理
解出来る。
1758
ガイア、確かに女性は積極的だ。⋮⋮怖い意味で。
1759
ep9 余暇の出来事︵後書き︶
9月10日午前0時10分追記;さ、最初の一部抜けていましたの
で追加しました⋮⋮。
1760
ep10 ヴェルネイルの祭り
ゼノス一行は静寂な路地裏を通り、メインストリートへと出る。
︱︱すると、一転して雰囲気が変わる。
このトル︱ナに来てから数日も経っていないが、今日は特に活気
があるような気がする。その証拠に空には花火が上がり、メインス
トリートには多くの露店が並び、多くの人々で賑わっていた。
⋮⋮よく見ると、露店には様々な種類がある。食べ物屋は勿論、
中には芸を披露したり、客も楽しめるゲームを催す露店も存在する。
そして露店の看板には全て、紺色のハットとステッキを模ったマ
ークが添えられており、町の一角には﹃ヴェルネイル一座・来訪﹄
と書かれた垂れ幕が下がっている。
︱︱どうやらこれ全部、今日来ている大道芸団が出店しているら
しい。
1761
﹁ほう、これは凄いな﹂
﹁は、はい∼!﹂
その光景を見て、隣のエルーナが目を輝かせて感嘆する。ゼノス
を誘惑する時の態度とは違い、年頃の少女らしい反応だ。
対するイルディエも、興奮を抑えきれない様子で周りをキョロキ
ョロと見渡し始める。
﹁エ、エルーナ。見て見て、あれ!﹂
﹁わあ⋮⋮!イルディエ見てみよう!﹂
﹁うん!﹂
喧嘩する所か、イルディエとエルーナは仲良く露店の方へと走っ
て行く。
二人の表情は明るい。露店に並ぶ商品を見つめるその顔には、奴
隷の頃の面影は残っていない。
1762
天真爛漫、そこに偽りは存在しない。心から喜んでいる彼女達を
見て⋮⋮自然とゼノスの顔も綻ぶ。
それは一時の休息かもしれない。先に待つ未来は、三人にとって
酷なものかもしれない。⋮⋮しかしそれでも、今だけは普通の少年
少女として祭りを楽しんでいた。
ショーを見せるピエロで笑ったり、火の輪をくぐる獅子を見て驚
いたり。他にも沢山の芸や催しを見て体験し、何もかも忘れてはし
ゃいでいた。
︱︱そして気付けば、町は夕陽に包まれていた。
それでも尚、祭りの熱気は収まらない。むしろ昼間よりも人気に
溢れ、特に外国からの観光客で埋め尽くされている。
一方のゼノス達は遊び疲れ、出店の郷土料理店で夕食を味わって
いた。
﹁はあ∼、楽しかったぁ!こんなに楽しんだのはいつ振りだろう!﹂
1763
エルーナは瞳を輝かせ、昼間の余韻に浸っていた。
﹁そうだねえ。⋮⋮でもエルーナ。幾ら楽しいからって、ゼノスの
有り金を全部使おうとしちゃ駄目だよ﹂
﹁えへへ、ごめんなさい﹂
そう言って、照れ笑いを見せるエルーナ。
⋮⋮しかし、その表情が一変し始める。
それは唐突だった。笑みがどんどん消えて行く。
﹁あ⋮⋮でもその。これはわざとじゃなくて⋮⋮⋮⋮﹂
突如エルーナは小刻みに震え始め、怯えた瞳でゼノスを見つめて
くる。顔は恐怖で歪み、何か失態を犯しかの様に、深い罪悪感に包
まれている。
それを見て、ゼノスとイルディエは一瞬でその理由を把握した。
1764
⋮⋮⋮⋮そう。エルーナは快活に振る舞っているが、つい数日前
までは奴隷の身分だったのだ。
失礼を出せばアグリムに殴られ、失敗をすれば鞭で叩かれる。幸
い性的な虐待は受けなかったが、暴力のトラウマは刻まれている。
その習慣は簡単には離れない。今のエルーナはゼノスに殴られる
と思い、瞳をキュッと閉じていた。⋮⋮ゼノスはそれを見て、動揺
を隠せなかった。
﹁⋮⋮ゼノス﹂
イルディエは最悪の事態に備え、ゼノスを宥めようとする。
しかし、それはとんだ杞憂である。
﹁︱︱︱︱ッ﹂
刹那、エルーナは瞠目する。
1765
何とゼノスは、隣のエルーナを引き寄せ、彼女を優しく抱擁し始
めた。咄嗟の行いに、周囲の客から熱いエールが飛び交うが⋮⋮こ
れは下心でやったのではない。
﹁ゼ⋮⋮ゼノス、様?﹂
赤面するエルーナを他所に、ゼノスは彼女の頭を撫でる。
優しく、慈しむように。ゼノスの鼓動を聞き、ゼノスの手の温も
りを直に感じ、次第にエルーナは安らぎを覚える。
彼女が恐れる心配など無い。ゼノスはそんな些細な事では怒らな
いし、手を出す気など更々無い。︱︱本当の騎士は、そのような愚
行を許さない。
エルーナが落ち着いたのを見計らい、ゼノスは微笑を浮かべなが
ら問う。
﹁もう大丈夫か?﹂
﹁は、はい⋮⋮。すみません、取り乱してしまって﹂
1766
未だ赤面しつつも、どうにか平静を保つエルーナ。真っ青だった
その顔も、徐々に色を取り戻していく。
ゼノスは不器用だ。年頃の少女を口説く力も無ければ、大胆不敵
に自分は何もしないと豪語する事も出来ない。そもそも彼女に対し
ては、言葉による解決は難しいだろう。
だから︱︱抱擁した。
深い意味は無い。ただそうすれば、安らいでくれると思った。結
果的にそうなってくれたので、とても嬉しい限りだ。
イルディエも安堵したのか、胸を撫で下ろす。
﹁︱︱ゼノスなら大丈夫。アグリムみたいに、私達には絶対暴力を
振るわないから﹂
﹁⋮⋮うん、そうだよね。こんな事をしてくれる人に⋮⋮悪い人は
いない、よね﹂
エルーナは頬を緩め、自分の頭に手を置く。ゼノスの感触がまだ
残っているのか、それがまた心地良く感じるようだ。⋮⋮奴隷にな
る以前にも、こうして撫でられた事があるのだろうか。
1767
︱︱ふとそこで、周囲の人々が途端にざわめき始める。
その原因は、愉快にラッパを吹くピエロであった。
彼は軽快にステップを踏み、詩的な口調で高らかに言い放つ。
﹁さあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい!我等ヴェルネイル一座、
時として大道芸を、時としてサーカスを!そして次に開催されるメ
インイベントはあっと驚き!それは︱︱︱︱﹂
ピエロが紡いだ先の言葉に︱︱ゼノスは唖然とした。
上手く聞き取る事は出来なかったが、ある単語だけは明確に聞こ
えた。思わず手に持つフォークを落としてしまう。
﹁⋮⋮ゼノス?﹂
イルディエが問いかけても、ゼノスは反応しなかった。
1768
ただ茫然とし、ぼんやりとした調子で正面を見据えていた。⋮⋮
まるで、過去の記憶に浸るかの如く。
やがて口を開くと、そこから震え声が響いてくる。
﹁なあ二人共。⋮⋮後で見たいものがあるんだけど、いいかな﹂
﹁⋮⋮見たいもの、ですか?ゼノス様がそう仰るなら、何処へでも
付いて行きますよ∼﹂
﹁すまない、エルーナ。イルディエは大丈夫そうか?﹂
ゼノスが尋ねると、イルディエははたと思う。彼女もまたピエロ
の言葉が聞こえたのか。そして更に、ゼノスの素性を僅かに知った
上で⋮⋮答える。
﹁︱︱ええ、構いませんよ﹂
二人の同意を得たゼノスは、勢いよく夕食を掻っ込む。
1769
ヴェルネイル一座の祭りは佳境を迎え、皆は言い知れぬ高揚感に
当てられていた。
1770
ep10 ヴェルネイルの祭り︵後書き︶
※9月21日午前5時追記;投票バナーを付け忘れていましたので、
貼り付けました。︵詳細は記事にて︶
1771
ep11 サリノート英雄叙事詩
老若男女問わず、あらゆる人間が広場に集っていた。
既に日は落ち、昼間のような暑さは失せている。しかし人々の熱
気は収まる事を知らず、彼等は目前の舞台に視線を集中させていた。
放たれた光虫に照らされ、闇夜にて一際目立つ舞台。そこには数
名の役者達が檀上に上がり、劇的な演技を披露する。華麗且つ大胆
に、役者はその登場人物に感情移入する。
⋮⋮これはある騎士の物語。
古代文化を尊重し、後世にまでその繁栄を維持してきた王国︱︱
サリノート王国。古き良き伝統に則り、選ばれた者だけが国の統一
に携わる。だからこそ、身分や血族には囚われない。
︱︱騎士は奴隷だった。
1772
不幸な家庭に生まれ、その家族に売られ、日々を生きるのに苦労
していた。⋮⋮こうして一生を奴隷として過ごし、哀れに死んで行
くのだろう。騎士は毎日そう思っていた。
しかしある時を以てして、騎士はその力を買われる。
奴隷から剣闘士として成り上がり、やがてサリノート王国の騎士
団に入団する。
そこから、彼の物語は激変する。
英雄の如く参上し、騎士は戦場を駆け巡った。
︱︱白銀の鎧を身に着けて。
白銀の聖騎士と謳われた騎士は、サリノートの英雄として成り上
がる。⋮⋮この劇は、騎士の英雄譚を描いたものだった。
ゼノス達は、その劇をジッと見つめていた。
1773
それぞれ違った思いに駆られ、彼の生き様を見届ける。⋮⋮ここ
にいる全ての者達が、息を呑んで魅入っていた。
美しくも気高い騎士の鑑。
彼もまた苦悩していた。自分の理想だった騎士像が、実は幻想論
だという事を。純粋なる心に容赦なく現実を突き付けられ、何度も
何度も馬鹿げた目標だと揶揄されてきた。
⋮⋮所詮、騎士に正義はいらないと。
しかしそれでも、それでも騎士は認めなかった。
劇中。白銀の鎧を纏った役者が、剣を高々と掲げる。後ろには傷
付き、怯えた表情をする村娘、そして目前には侵略国の騎士達が立
ちはだかっている。
これはサリノート王国が戦時中の頃。国に放棄された村の住民を
救う為に、騎士が単独で赴いた話である。
1774
﹃はは、一人で来るとは愚かなものよ!サリノートの騎士は哀れな
酔狂揃いと見た!﹄
﹃⋮⋮吠えるがいい。例え何を向けられようと、私は退かない!﹂
全身全霊を込め、聖騎士の役者は叫ぶ。
その言葉を聞いて、敵の騎士達が一歩後ずさる。
﹃︱︱私は他の騎士とは違う。助けられる民を助けないで、何が騎
士かッ!﹄
⋮⋮聖騎士は戦い狂う。
彼が有名たる所以は、この戦いに在り。何故なら単独で村を救い、
戦局を大きく揺るがした要因にもなったから。
劇はこれにて終焉を迎えた。
1775
しかしこの物語は、ほんの一部に過ぎない。それでも客達は、聖
騎士の英雄伝に感銘し、拍手とエールを劇団員に送る。
勿論、ゼノス達も例外ではない。
﹁か、かっこいい騎士様ですねえ∼。何だか惚れ惚れしてしまいま
した∼﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
エルーナの意気揚々とした声音。一方のゼノスは、それに相槌を
打つだけであった。
呆然とした様子のゼノスに、傍目から覗き見ていたイルディエが
問う。
﹁⋮⋮ゼノス。この聖騎士って人は⋮⋮貴方の﹂
言葉を紡ぎ終える前に、ゼノスが答える。別に包み隠す事でもな
いので、極めて簡潔に、分かりやすく述べる。
1776
﹁︱︱恩師でもあり、祖父でもあった人だよ﹂
﹁⋮⋮﹂
打ち明けられた真実に、二人の少女は驚愕する。
聖騎士は歴史上、何人もの人間が務めている。彼等はその時代に
巣食う悪を駆逐し、何度も祖国を救済してきた。
白銀の聖騎士、その存在の英雄伝は何百も存在する。歴史研究家
でない限り、一つの英雄伝を聞いてどの聖騎士の偉業かなど、分か
る筈がない。
だがこの英雄伝に関しては、ゼノスはよく知っている。
幼少期、自分はいつもこれを子守歌替わりに聞いていた。だから
こそ、ゼノスは断言できる。
︱︱これは、聖騎士ガイアの物語だと。
1777
﹁⋮⋮あの人らしい生き様だ。堅固な精神を持って、己が正義を貫
き続ける⋮⋮。劇を見て、また再確認出来た気がする﹂
ゼノスがこれを見たかったのは、同時に自らの本音を知る為でも
ある。
あのオアシスで誓った約束は、果たして本心から来るものだった
のか?それとも、あれは虚言だったのか?
⋮⋮結果、答えを見つけた。
やはり自分は、本当の意味での騎士道を行きたい。その為にも、
一刻も早く騎士になりたい。
︱︱自分が望む騎士に。他とは違う、正義の味方に。
ガイアもまた、犠牲を増やさない為に戦い続けて来たのだから。
劇も終わり、広場にいた者達が散らばり始める。この後もヴェル
ネイル一座の催しは続くので、そのまま家に戻る事は無いだろう。
1778
しかし、イルディエとエルーナは眠そうだった。
それもそうだろう。朝からあれだけ遊び回っていれば、例え誰で
あっても疲れてしまう。⋮⋮アルバートの様な六大将軍は別だろう
けど。
﹁二人共眠そうだけど、今日はもう帰るか?﹂
﹁え、え∼。私はまだ大丈夫ですよ∼!マジックショーもあるし、
まだ眠るつもりはありません∼ッ!﹂
目は既に閉じ掛かっているが、エルーナは眠るつもりは無いらし
い。
﹁ならイルディエは⋮⋮⋮⋮って、もうフラフラじゃないか﹂
﹁はい。エルーナはとにかく、私は⋮⋮あ、でもちゃんと付いて行
きますので、気にしないで﹂
イルディエはそう言うが、彼女の足元はおぼつかない。体力の無
いイルディエにとって、これ以上歩く事は出来ない筈だ。
1779
無理をしようとするイルディエに、ゼノスはその頭に軽くチョッ
プする。
﹁いたっ。⋮⋮ゼノス?﹂
﹁あまり無理するな。︱︱俺がおぶって一旦帰るから、お前はもう
寝てろ﹂
そう言って、ゼノスはイルディエに背中を貸す。
勿論、無下に断る事は出来ない。むしろその厚意が嬉しくて、心
が満たされた様な気分になる。
イルディエは何も言わず、ゼノスにその身を委ねる。
﹁というわけで、エルーナ。祭りの続きは、イルディエを隠れ家に
送ってからな﹂
﹁は∼い!﹂
微笑ましい表情で、エルーナが元気よく答える。
1780
その頃には既に、イルディエは眠りに落ちようとしていた。
⋮⋮祭りで賑わうトル︱ナ。眠らぬ町の喧騒を子守歌に、彼女は
ある思いを抱いていた。
︱︱奴隷から英雄にまで上り詰めた聖騎士。
彼は一体、どのような決意を持っていたのか。奴隷の身分で、何
故そこまでの意思を抱けたのか。
⋮⋮もしそれが出来たのならば、イルディエも可能なのだろうか?
彼の様に強く︱︱そして、ゼノスの役に立てるだろうか。
イルディエの心は、その事で一杯だった。
1781
1782
ep11 サリノート英雄叙事詩︵後書き︶
アルファポリスの投票バナーを貼りました。
9月23日午後4時42分追記:みてみんにてアリーチェの全体図
をUPしました。登場人物イラストからも閲覧できます。
1783
ep12 苦悩を選ぶ乙女
ヴェルネイル一座の祭りが終わり、翌日を迎えた。
とはいえ、日はまだ昇っていない。外は薄暗く、空気は未だ冷え
ている状態だ。眠らない町とは言われるが、流石に午前四時となれ
ば町も静かである。
︱︱そんな誰もが寝静まる中、イルディエは目を覚ました。
別に早起きして料理をしようだとか、早朝の空気を吸いたいだと
か、決してそのような理由で起きたわけでは無い。しかし、単に寝
覚めが悪かったわけでも無い。
理由はある。それも、極めて重大な理由が。
眠気も失せた所で、イルディエは表情を引き締めて隠れ家の中庭
1784
へと向かう。
⋮⋮そして案の定、中庭には先客がいた。
﹁はっ!せいっ!﹂
気合の籠った声を上げ、小刻みに槍を振るう女性。
それは紛う事なくレイダであった。拳闘士である筈の彼女だが、
今日は槍を使って稽古しているらしい。
これは先日知った事だが、レイダはゼノス達よりも早い時間に朝
稽古を行っている。⋮⋮拳術、剣技、ナイフ術、弓術、そして今日
は槍術を磨いているらしい。
とても洗練され、動きに無駄が無い。力任せに槍を振るわず、全
身を使って穂先を突き出す。⋮⋮それはまるで、舞踏のようだ。
﹁⋮⋮ん?あれ、イルディエ嬢ちゃんじゃないの﹂
1785
と、そこでイルディエの存在に気付き、レイダは稽古を止める。
﹁あ、そのすいません。盗み見るつもりは無かったんですが﹂
﹁いいの、いいの、気にしないでくれよ。⋮⋮んで、どうしたんだ
い?寝付けなかった⋮⋮というわけでも無さそうだね﹂
﹁⋮⋮はい﹂
イルディエは神妙に頷く。
彼女の異様なまでの気迫を感じ、レイダもまた真剣な表情をする。
﹁あの、レイダさん。実は折り入って相談が﹂
﹁︱︱あたしに武術を教えて欲しい。そんな所かい?﹂
苦笑しながら言うレイダに、イルディエは面を食らう。まさか即
座に読み取られるとは思わなかった。
1786
レイダは手ぬぐいで汗を拭き取り、イルディエへと近付く。
⋮⋮近くに立つレイダは、とても背が高い。イルディエは彼女を
見上げ、一瞬だが委縮してしまった。
その様子に、レイダは溜息を漏らす。
﹁⋮⋮生憎、戦いは教えられないね﹂
﹁ッ!で、ですが覚悟は出来ています!もう弱いだけの自分は嫌だ
⋮⋮力が欲しい!自分で生きていけるだけの力を!﹂
﹁気持ちは分かる。いずれこうなるとも予想が付いていた。⋮⋮ま
あ今回の場合は、あの劇を見て感化されたのだろうねえ﹂
レイダは祭りには行っていないが、ゼノスから昨日の出来事は全
て聞いている。だから、彼女がどうして態度を急変させたのかも理
解出来る。
把握した上で、彼女は静かに語り出す。
1787
﹁白銀の聖騎士、か。確かに彼は、奴隷という身分でありながら英
雄にまで上り詰め、幾多もの戦果を残してきた。他にも何人かの英
雄が、元は奴隷だったという記録もある。︱︱けどね﹂
奴隷もまた人間だ。苛酷な環境の中でも、天賦の才能を発揮して
下剋上をする者もいれば、哀れにもすぐに朽ちる奴隷も多い。いや
むしろ、後者の方が圧倒的な数を占めるだろう。
更にレイダは、イルディエに武術を教えたくはない。それには幾つ
かの理由が存在する。
﹁⋮⋮嬢ちゃんは、あたし等にとっちゃ保護対象の人物だ。まず無
暗に戦場へと駆り出す真似はしたくない。そしてこれは⋮⋮優しい
お姉さんからの老婆心だが﹂
︱︱瞬間、レイダの顔から笑みが失せる。
それは彼女本来の素顔。刃物の如く鋭い瞳、そこから発せられる
絶対零度の視線。獲物を捕らえる狩人⋮⋮もしくは、全てを殺戮す
る鬼の出で立ち。
威圧的な空気に呑まれ、息をするのも忘れる。
1788
そんな中、レイダは顔を近づける。そして囁くように⋮⋮告げる。
﹁︱︱あんたに、﹃血の歴史﹄を歩む覚悟があるか?﹂
たった一言、彼女はそう呟く。
だがそれだけなのに、イルディエの背筋が凍る。その言葉は余り
にも重くて、現実味を帯びているからだ。
﹁⋮⋮聖騎士の成した栄光を掴むなら、あんたは体験しなければな
らない。
私の様に、そしてゼノスの様にね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ゼノスの様に?﹂
﹁そうさ。⋮⋮ああ丁度いいから、一つ昔話を語ってあげようか。
これは嬢ちゃんの聞いた英雄譚とは程遠い話だけどね﹂
1789
レイダは慈しみ、そして雄弁に語る。
血の歴史を歩み続けた⋮⋮ゼノスの物語を。
彼の人生は、グラナーデ王国の辺境に位置する寒村から始まる。
それ以前の記憶は無く、ただ浮浪児として冷たい石畳に横たわって
いた。
そこで彼は、ガイア・ディルガーナという老騎士と出会う。
老騎士は彼を保護し、ゼノスを孫のように育ててきた。二人の弟
子と共に、彼は幸せな一時を過ごした。
︱︱しかし、運命とは何と残酷な事か。
突如、始原旅団を名乗る侵略者に国を襲われ、ゼノスはそこで老
騎士と弟子達を失う。⋮⋮アルバートに連れられ、彼はグラナーデ
を後にした。
1790
もうこんな悲劇を繰り返したくない。いずれガイアの説く騎士と
なり、聖騎士の名を継承するつもりだった。その為に剣を取り、ゼ
ノスは戦いに身を投じた。
レイダがゼノスと出会ったのは、丁度その始まり。旧知の仲であ
るアルバートに頼まれ、団長であるレイダの夫はゼノスを傭兵団に
入れた。
団長の手ほどきによって剣を学び、ゼノスは着々と技術を伸ばし
ていく。飲み込みの速さは人一倍であり、僅か入団二カ月にして戦
場へと駆り出される事となった。
だがそれは、同時に苦悩の始まりでもあった。
騎士の現実、罪無き者達の報われぬ最期。不条理な事実が怒涛の
勢いで襲い掛かり、ゼノスの心を病ませた。
戦とは常に人の心を変え、人間の醜悪さを露わにさせる。
英雄はそんな世界で生き延び、絶望と苦痛を伴いながら自分の意
思を貫く。⋮⋮常人ならば、すぐ音を上げるというのに。
1791
﹁あんたが求める世界というのは、単純に言うならば地獄。相当な
覚悟があったとしても、生き抜ける保障は無い。大人しくマハディ
ーンに保護されるのが、あたしとしては利口だと思うけどねえ﹂
﹁⋮⋮つまり、一生弱いままで在り続けろと?﹂
震える声で問うイルディエに、レイダはしばし間を置いてから答
える。
﹁そうさね、その方が平穏に過ごせる。︱︱人殺しも、貴族の計略
も、傭兵の野蛮さも、何よりも死を毎日見ずに済む﹂
﹁⋮⋮﹂
彼女は嫌味で言っておらず、本音を以てそう示している。
多少遠回しな言い方だが、要はイルディエを戦場に出したくない
のだ。自分達と同じ道を行かなくても、それ以外の輝かしい道は存
在する。
レイダとしては、違う道に走って欲しい。
1792
︱︱だが、そんな願いも次の一言で打ち砕かれる。
﹁全て覚悟しています、レイダさん。⋮⋮今の私は、ゼノスや聖騎
士に感化されている。︱︱この決意は、何よりも固いです﹂
﹁⋮⋮﹂
てっきり折れるかと思ったが、事もあろうにイルディエはそう反
論する。
しばし絶句した後、神妙な面持ちで尋ねる。
﹁⋮⋮⋮⋮それは理解した上で言っているのかい?﹂
﹁当然です﹂
即答するイルディエ。
1793
そこに迷いはない。そんな彼女の豹変ぶりにも、レイダは十分驚
かされていた。
﹁⋮⋮勿論、人を殺したくはありません。誰にも自由を奪われたく
ありません。ですがそれ以上に、私は確信しているのです﹂
﹁⋮⋮確信?﹂
訝しむレイダに、イルディエは断言する。
﹁︱︱強くなれば、その先で今以上の平和が掴めると。私とゼノス
が共に強くなれば⋮⋮罪なき者が死なず、争いのない世界が創れる
と﹂
﹁⋮⋮﹂
突拍子に紡がれたその一言に、思わずレイダは思考を停止させる。
だが次の瞬間には、彼女は豪快に笑っていた。
1794
腹を抱え、笑い過ぎて涙が止まらない。静粛たる空間の中で、彼
女の声だけが響き渡る。
﹁ふ、ふふ⋮⋮随分と面白い答えじゃないか﹂
﹁⋮⋮都合の良い答えなのは分かっています。馬鹿にされても不思
議では無いと思います﹂
﹁い、いや何、別に馬鹿にしているわけじゃない。︱︱むしろ、素
晴らしい答えだと思う﹂
予想もしなかった言葉だけに、今度はイルディエが拍子抜けする
番だった。
レイダの意図が掴めないが、その疑問はあっという間に消え去る。
彼女は愛嬌ある微笑みを見せ、イルディエからまた距離を離す。
そして自分の持っている槍を彼女の足元へと放り投げる。
突然の事に、槍とレイダを交互に見るイルディエであった。
1795
﹁︱︱気が変わった。その覚悟と高い理想に免じて、イルディエ嬢
ちゃんに槍術を教えてやろう﹂
﹁⋮⋮え﹂
﹁ふふ、どうしたんだい?言っとくけど、気が変わらない内に槍を
取った方がいいさね。⋮⋮それで、ゼノスと同じ願望を掴みたいの
なら﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
︱︱願望。
それは全てを救う事。善を愛し、悪を滅ぼすという単純な願い。
もしゼノスと同じ道を歩むならば、槍を手に取れ。彼女は単純に、
そして明確にそう促していた。
イルディエは躊躇せず、槍を拾う。
1796
︱︱イルディエはそのまま、レイダから稽古を受ける形となった。
1797
ep13 妙な胸騒ぎ
﹁⋮⋮うぅ﹂
﹁⋮⋮眠いよぉ、疲れが取れないよぉ﹂
朝食を待ちながら、イルディエとエルーナはテーブルに突っ伏し
ていた。
二人は何故疲れ切った様子でいるのか?まあ深く考えずとも、昨
日今日の行動を見れば、自ずと察しが付くものだ。
エルーナは昨日の祭りを夜遅くまで堪能し、その結果として今日
まで疲労を引き摺っている。⋮⋮しかも興奮を抑えきれなくて、ま
ともに夜も眠れなかったとか。
一方のイルディエは、レイダとの訓練で体力を使い果たしていた。
最初は基礎鍛練から始まり、槍を持って素振りをこなしたが⋮⋮
1798
⋮⋮一体何十回槍を振るっただろうか。
腕が上がらず、先程から溜息が止まらない。槍は凄く重いのに、
よくレイダは軽々と振るえるものだ。
⋮⋮しかもレイダ本人は疲れなど微塵も見せず、朝から優雅にワ
インを飲み、寛いでいる。
﹁⋮⋮レイダさん、よく疲れませんね﹂
﹁ふふ、そりゃあ鍛え方が違うからねえ。あと基本は慣れだよ、慣
れ。あれを毎日繰り返してれば、嫌でも疲れないもんだ﹂
﹁そ、そういうものなんですか﹂
当然の如く言われても、まだイルディエには理解出来ない。
﹁そういうもんさ。⋮⋮ま、今日言った事が本当なら、すぐにでも
疲労知らずになるかもね﹂
﹁⋮⋮ん?今日言った事って?﹂
1799
レイダの言葉に疑問を持ったのか、エルーナが項垂れながら尋ね
る。
どう言ったものか、困った顔をレイダに示す。しかし彼女は口笛
を吹きながら、素知らぬ顔で目を見合わせようとしない。
要は、イルディエの判断に任せるという意味だろう。
︱︱なら、エルーナにも話そう。ゼノスにも既に話したし、彼女
だけ仲間外れというのも気が引ける。話すタイミングとしては、今
がベストだろう。
﹁で、なになに。もったいぶらずに教えてよ∼﹂
﹁う、うん。まだ正式には決まっていないんだけど︱︱﹂
イルディエは包み隠さず、自らの決意を述べる。
︱︱今日の鍛練後、グライデン傭兵団に入りたいと願い出た事を。
1800
﹁え、え∼ッ!?嘘、イルディエ正気なの?﹂
案の上、エルーナは飛び起き、信じられないといった表情で見て
くる。
その反応は当然だろう。誰が好き好んで傭兵となり、戦う道を選
ぶというのだろうか。
しかし、イルディエは決めた。
奴隷だったこの身でも、価値が無いと揶揄された存在でも、平和
の為に役立てられるのなら︱︱喜んで戦場に身を投じよう。
ゼノスと一緒ならば⋮⋮何だって出来る。
﹁⋮⋮イルディエ﹂
エルーナは彼女の固い意志を垣間見、思い直せと提案する事が出
来なかった。
イルディエは友達でも無ければ、血の通った縁族でも無い。元は
1801
同じ主に仕える奴隷であり、よもや関係さえも在りはしない。
⋮⋮しかし今は違う。
たった数日だけど、イルディエとの関わりは自分の意識を変え、
彼女との関係も大きく変化した。
イルディエ本人がどう思っているかは知らない。けどエルーナに
とって、彼女はかけがえのない友人だと認識している。
本当ならば止めたい。だが何を言っても、イルディエは言う事を
聞かないだろう。
﹁⋮⋮﹂
二人は平然としているが、複雑な心境に違いない。
妙な空気が流れる中、そこにゼノスが現れる。
彼は両手に銀色のトレイを添え、トレイ上にはシーザーサラダや
1802
ハムエッグ、バスケットには何種類かのパン。そして豆から挽いた
淹れ立てのコーヒーが人数分置かれている。
﹁すまない遅くなった。少々手軽だが、これで勘弁してくれ﹂
ゼノスは申し訳なさそうに述べ、テーブルに朝食を置いていく。
﹁いやいや、十分だよ。あたしなんてワインだけでもオッケーなく
らいさ﹂
﹁⋮⋮レイダさん、それはどうかと思うよぉ﹂
すっかり出来上がったレイダに対し、エルーナが尤もな突っ込み
をする彼女曰く、傭兵の朝は酒飲みから始まると豪語しているが⋮
⋮グライデン傭兵団では、レイダしかそんな事はしない。
︱︱さて、駄目な大人への感想はともかくとして。
一通りを置き終え、席に着いたゼノスは⋮⋮対面に座るアルバー
トへと目を向ける。
1803
彼はムッとした表情で腕を組み、無言のまま目を瞑っている。
明らかに機嫌が悪そうだ。
﹁︱︱で、何かあったのかアルバート。不機嫌オーラ丸出しだぞ?﹂
﹁⋮⋮ふん、今話す気はないわい。飯を食ったらちゃんと説明する﹂
苦い表情を崩さず、アルバートは黙々と朝食を摂り始める。
一体何があったかは分からないが⋮⋮この男が不機嫌になる以上、
何か良からぬ出来事があったのだろう。
朝食を終えたゼノス達は、さっそくアルバートの話を聞く事にし
た。
1804
彼は唸りを上げながら、昨夜起った忌々しい出来事を語り出す。
粗方聞き終えたゼノスは、苦虫を噛んだような顔を作る。
﹁⋮⋮それは本当なのか?﹂
﹁嘘なぞ言わん。全て事実じゃよ﹂
アルバートは心を落ち着かせようと、また新たに淹れたコーヒー
を啜る。
彼は昨夜︱︱丁度ヴェルネイルの祭りが終盤を迎えた頃だ。
その時もアルバートはアグリム一団を監視し、妙な動きがないか
調査していた。特に、祭りのような行事は人々で混雑している。雑
踏に紛れて行動を起こす絶好の機会でもあるのだ。
⋮⋮そして、アルバートの読みは当たった。
1805
時刻は午後十時前後、場所は活気に満ち溢れていたトル︱ナの噴
水広場。
そこで彼は、麻布のローブに身を包んだ修道女の列を見かけた。
祭りの際に現れる修道女、その点に関しては問題ない。彼女達は
よく人の集まる場所にやって来て、お布施を頂戴しようとする。そ
してトル︱ナには、小規模だが修道院もある。
単なる一般人ならば、彼女達の存在を訝しむ事はない。
しかしアルバートだけは、ランドリオ帝国に関わる彼は直感した。
これはおかしいと。彼は元々、教会との協力を得て奴隷市場の掃
討に出向いている。教会側は修道女の安全の為に、奴隷市場の掃討
までは外出するなと勧告している。
そして、彼女等には違和感があった。
修道女は神にその身を捧げ、清める為に労働と健康管理を欠かさ
1806
ない。彼女等は主に均整の取れた肢体で、肌はその身の純白さを示
すような白さである。
︱︱だが彼女達には、どれも当てはまらなかった。
生気は抜け、足元はおぼつかなかった。日々の労働をこなしてい
るならば、そんな調子にはならない筈だ。
⋮⋮怪しい。そう思って、アルバートは彼女達を尾行する事にし
た。
隠密行動は性に合わないが、その時は頼れる者もいなかった。気
配を出来るだけ殺しつつ、噴水広場を抜ける彼女等へと付いて行っ
た。
噴水広場から大通りを抜け、トル︱ナの西エリアへと向かう。閑
静な住宅街をひっそりと歩き、やがて彼女達は、オアシスと直結し
ている地下水道への階段を下りて行った。
地下水道への入り口付近は人気も無く、とてもお布施を乞う為に
向かうような場所ではない。
1807
もしや。そう思い、彼女達を止めようとした瞬間だった。
︱︱黒き暗殺者が、ガイアと彼女達を阻むように参上した。
暗殺者は、﹁ごめんね﹂とだけ言い放ち、音のない走りでアルバ
ートの懐へと潜り込んできた。
⋮⋮恐ろしい速さの持ち主だった。
思えば、不意打ちを受けたのは人生で初めてかもしれない。過去
何度も暗殺者には殺されかけたが、黒き暗殺者は誰よりも流れるよ
うに、一切の無駄なく強襲を仕掛けてきた。
ローブ姿の少女達はそそくさと地下水道へと入り、アルバートは
暗殺者と戦う羽目となったが、それも僅かな出来事だった。
少女達を完全に逃がし終えたのか、暗殺者はすぐに逃げ去ったの
だ。⋮⋮いや、消えたと言った方がいいか。
︱︱結果、アルバートは失敗をして帰って来た。
1808
﹁まさか、あんたでさえも仕留められないとは﹂
﹁ぐっ、言うでないわ小僧。儂とてあんな失態は久し振りじゃて﹂
アルバートは歯軋りを立て、親指と人差し指でつまんでいたカッ
プの取っ手を粉々に砕いた。それを見て、イルディエとエルーナの
顔が真っ青になる。
﹁⋮⋮しかし、その修道女を装った少女達は何者なんだ?あの男が
関わっているとなると、アグリムに関係する誰かなんだろうが﹂ ﹁⋮⋮⋮⋮﹂
アルバートとレイダは何か思う所があるのか、互いの顔を合わせ
る。
両者は頷き合い、アルバートが席を立つ。
﹁⋮⋮何はともあれ、本格的に調査する必要がありそうじゃ。小僧、
共に奴隷市場へと向かうぞ﹂
1809
﹁え⋮⋮場所は分かるのか?﹂
﹁勿論、伊達に監視をしてはおらん。︱︱レイダ、儂は小僧を連れ
て奴隷市場を探ってみる。お前はイルディエとエルーナと共に、こ
の隠れ家に待機しておれ﹂
レイダは即座に頷く。
﹁了解した、旦那。くれぐれも気を付けて﹂
﹁分かっておる。⋮⋮お前も気を付けるんじゃぞ﹂
そう言い残し、アルバートは壁に立て掛けていた戦斧を持ち、肩
に担ぐ。早足で行こうとしているのは、時間が惜しいからであろう。
ゼノスも同じ気持ちだ。あの黒き暗殺者が関わっているとなると、
嫌な予感がしてならない。一刻も早く奴等の真意を探り、良からぬ
事ならば阻止しなければ。
自分も席を立ち、愛剣を腰に吊るす。
1810
踵を返し、部屋を出ようとするが⋮⋮。
﹁︱︱ゼノス﹂
﹁ん、何だイルディエ?悪いが、用事なら後に﹂
﹁いえそうではないんです。⋮⋮無茶はしないでと、そう告げたか
っただけです﹂
﹁⋮⋮﹂
ゼノスは呆気に取られるが、やがて微笑を見せる。
彼女達に背中を向け、一言だけ呟く。
﹁︱︱もう迷わない。守る者の為に⋮⋮戦うと決めたんだ﹂
彼の言葉は、紛れも無い自分の意志。
1811
騎士たる存在になる為に、彼は剣を持って戦場へと赴く。
守る者︱︱イルディエとエルーナの為に。
ゼノス達の会話を、遥か遠くから盗み聞く者がいた。
全身黒タイツに、赤いバンダムを首に巻いた男︱︱ライン・アラ
モード。
彼はとある民家の屋根上にて、尋常ならざる視力で数十メートル
先の民家、その窓辺にいるゼノス達を見据え⋮⋮くすりと微笑む。
1812
﹁全く、君は本当に面白いな。︱︱どん底に佇んでいた君を這い上
がらせたのは、一体どんな存在なのだろう?﹂
ラインは知りたい。
自分と同じ境遇にあった者が、どうしてそこまで希望を持てるよ
うになったのかを。あの無限の闇を、どうやって乗り越えたのかを。
⋮⋮何となくこの依頼を受け続けなければならない。何の理由も
無しに、そうした感覚に囚われていたが⋮⋮この出会いの為に、ラ
インはアグリムの依頼を継続させていたのかもしれない。
﹁嗚呼、君を知るにはきっかけが必要だね。︱︱少々阿漕な手段だ
が、あの少女達を利用させてもらおうかな﹂
彼はバンダナを口元に寄せ、屋根を蹴って跳躍する。
1813
ラインの視線の先には︱︱イルディエ達がいた。
1814
ep14 ラインの策略
トル︱ナの町は非常に複雑な構造だ。
中央市街に展開されるバザール地区は網目状に広がり、住宅は不
規則に乱立していて、まるで迷路の如く立ち並ぶ。
地下には水路が張り巡らされ、地元住民でさえもトル︱ナ全体の
地形を把握できていない。彼等が知らない場所もあり、そこは悪党
の巣窟と化しているだろう。
無論、奴隷市場もその一つだ。
市場は公に出ておらず、奴隷商人や各国の貴族、そして王族関係
者と繋がる仲介人が多く出入りしている。よって、目立たぬ場所に
置く必要があるのだ。
1815
そうした闇取引が行われる場所は︱︱水路の更に地下深くに存在
する。
ゼノスとアルバートはトル︱ナ西部の住宅街区、そこにある区長
邸宅の門前へとやって来ている。
一見、何の変哲も無い邸宅だが⋮⋮。
﹁アルバート、ここが奴隷市場の入り口なのか?﹂
﹁そうじゃ。本当ならここに門番が立っている筈なんじゃが⋮⋮﹂
妙な事に、今日は一人も門番がいない。
それどころか、邸宅内から人の気配がしない。重要な用事で出払
っているとしても、使用人の一人か二人は居てもおかしくない。
﹁どうする、このまま潜入するか﹂
﹁⋮⋮当然じゃ。嫌な予感がしてならない、さっそく入るぞ﹂
1816
アルバートは肩に担いでいた戦斧を取り、肩の力を抜く。
大きく振りかぶり︱︱正門の施錠を一閃する。
微かな風切り音と共に、施錠は脆くも両断される。
﹁小僧、大体の手順は把握しとるな?﹂
﹁ああ。奴隷市場に着いたら、まずは奴隷の確認、及び残存奴隷の
保護。アグリム一団を捕虜とし、昨夜の件を聞き出す⋮⋮だったよ
な﹂
﹁⋮⋮じゃが、後者の方は叶わんかもしれん。残された情報を頼り
に、昨夜の一件について調べ上げなきゃならんかもの﹂
彼はその言葉を皮切りに、全力疾走で邸宅内部へと向かう。ゼノ
スもそれに付いて行き、神経を研ぎ澄ます。例え内部に人がいなか
ったとしても、暗殺者のように気配を殺す者もいるかもしれない。
二人は物音を立てず、俊敏な動きで邸宅の中庭を突っ切る。豪奢
な玄関扉を蹴破り、即座に戦闘態勢へと移行する。
1817
だがやはり、ゼノス達を迎え撃つ輩はいない。
より一層静けさが増し、更なる不安を抱かせる。
﹁で、奴隷市場への入り口は?﹂
﹁こっちじゃ、付いて来い﹂
アルバートは一切気を抜かないまま、ゼノスを奴隷市場の入り口
へと案内する。
広々としたエントランスの階段を上り、迷わず二階のとある扉を
開け放つ。
部屋奥に執務机が置かれ、部屋周辺には高価な調度品が整然と置
かれている。多分、ここは区長の執務室なのだろう。
ゼノスが辺りを警戒する最中、アルバートは本棚のガラス戸を開
け、顎鬚を撫でながら一冊ずつ本を確かめる。
⋮⋮そしてある一冊の本に違和感を感じ、彼はその本を取り出す。
1818
すると、目の前の本棚が突如後ろへと動き出す。
重低音を鳴らし、本棚は壁へと埋め込まれていく。本棚の後ろは
空洞となっているのか、本棚の動きを遮るものは無い。
︱︱そして、本棚の下から階段が現れた。
﹁⋮⋮よくここが分かったな、アルバート﹂
﹁ふふ、奴等の一部がここの在り処を漏らしておってな。少々盗み
聞きさせて貰ったんじゃよ﹂
アルバートは得意気に言い、階段を見据える。
ここで躊躇している暇は無い。ゼノスとアルバートは頷き合い、
階段を下る事にした。
階段の幅は狭く、そして薄暗い。足元に気を付け、二人は奴隷市
場へと続く階段を着実に降りて行く。
1819
無言のまま、慎重に。暗闇の空間にて、両者は疑念と悪寒を抱き
つつ︱︱ひたすら進んで行く。
⋮⋮やがて、その先に古い観音式の扉が見える。
扉を開け、二人は奴隷市場へと入る。
﹁︱︱︱︱こ、これは﹂
目前の光景に、ゼノスは驚愕する。
﹁⋮⋮やはりか﹂
一方のアルバートは、眉間に皺を寄せながら呟く。
奴隷市場︱︱広大な空間の中に、人間四五人程度が収まる檻が沢
山存在する。だが檻の中には、奴隷らしき者が一人もいない。ただ
干からびた汚物と、酸化して黒ずんだ血がこびり付いているだけだ
った。
1820
空気も淀み、鼻をつんざくような刺激臭が漂っている。
このような環境で、イルディエとエルーナは奴隷として売られて
いたのか。
︱︱いや、今考えるのはよそう。
ゼノスは目前の異常に対し、ある確信を抱き始めた。
﹁⋮⋮なるほどな。あの暗殺者が護衛していた少女達は、ここにい
た奴隷達だったわけか﹂
﹁そう捉えた方が無難じゃな。⋮⋮しかし、アグリムは何を企んで
おるのか﹂
﹁⋮⋮﹂
その辺りは未だ見当もつかない。教会とランドリオ帝国の動向に
気付き、別の市場に移そうとしているのか、はたまた別の思惑があ
るのか。情報不足のゼノス達には、まだ分からない。
1821
﹁⋮⋮とにかく、この場所に残る証拠を探してみよう。そうすれば、
奴隷達の居場所が﹂
﹁︱︱いや、その必要はないよ。お二人さん﹂
ゼノスの言葉を阻む第三者の声。
聞き覚えのあるその声に、ゼノス達は瞬時に声のする方向へと向
く。
大部屋の端に積み上げられた檻の山。その頂上にて、ゼノス達を
愉快そうに見下ろす黒づくめの少年。
︱︱ライン・アラモードが、そこにいた。
﹁貴様⋮⋮ッ!﹂
咄嗟の登場に不意を突かれたが、ゼノスはそれでも剣を抜く。
しかし、ラインはそれを手で制した。
1822
﹁まあ落ち着いてって。正直、こんな臭い場所で戦いたくないんだ。
君たちだってそう思うだろ?﹂
﹁何を寝ぼけた事をッ。ここで貴様を下し、奴隷達の居場所を吐か
せてやる!﹂
ゼノスはラインへ急迫しようとする。
が、そこでアルバートに肩を掴まれ、今度は彼に制止させられた。
﹁⋮⋮無駄な戦闘は控えろ。ここでやり合っても、双方には何の得
もならん﹂
﹁⋮⋮ッ﹂
納得がいかない。ここで奴を捕虜とすれば、もしかしたら奴隷達
の居場所を吐くかもしれないのに。
だがゼノスの考えは、アルバートの一言で打ち壊される。
1823
﹁︱︱暗殺者よ。今のお主には殺意というものが感じられん。しか
も、何かを言いたそうな口ぶりじゃな﹂
﹁ふふ、かの有名な六大将軍様はお見通しか﹂
ラインは口を吊り上げ、足を組み直す。
﹁あ、あと僕にも名前はあるからね。貴様だとか、暗殺者だとかで
は無く⋮⋮ラインという立派な名前がある﹂
﹁⋮⋮ならラインとやら。儂らを待って、何を伝えようとする?﹂
この場で待っていても、ラインには何の意味すら存在しない。ア
グリム勢力に加担した罪として、彼にはゼノス達の粛清、そしてマ
ハディーン王国からの厳しい劫罰が待ち受けている。
優越感に浸るその態度が、何とも気に入らない。
ラインは笑みを深くし、頬杖をつきながら答える。
﹁そんなの決まっているじゃないか。知りたいんだろ、ここにいた
奴隷達の行方をさ﹂
1824
彼の問いに、アルバートは無言の肯定を示す。
勿体ぶった言い方に、事実を言おうか悩むその仕草。ゼノスから
すれば、絶対に口を割る筈がない。話しても彼等には何のメリット
もない。
そう確信していた。敵ならば話さまいと。
しかし、彼は予想外の言葉を発した。
﹁︱︱フレイジュ火山地帯。トル︱ナ西部方面にある出口から出て、
ラクダではなく馬で行けば一時間弱で到着出来る場所。そこに君達
の求める奴隷達と、あの卑しいアグリムがいるよ﹂
﹁⋮⋮フレイジュ、火山地帯じゃと?﹂
予期せぬ地名に、アルバートは驚嘆する。
フレイジュ火山地帯は、文字通り活火山が広がる危険な場所であ
1825
る。月に一度は噴火する活火山が人の立ち入りを拒み、カルデラと
呼ばれる自然のバリケードが周辺に張り巡らされている。
現在は勿論、フレイジュへの立ち入りは古来から禁じられている。
だがある部族の巡礼時には許されるが、それも極めて稀な話だ。
確かフレイジュ火山地帯の活動時期は、今週がピークだった気が
する。火山ガスが噴き出て、火口から覗けるマグマは沸々と煮えた
ぎっている頃合いだ。
そんな最も危険な時期に、アグリムは何故奴隷を引き連れて行っ
たのか?
今のアグリムの現状と照らし合わせれば、自ずと理解出来る。
﹁⋮⋮まさか﹂
アルバートの額から、一筋の汗が零れ落ちる。
その反応に対し、ラインは涼しげな顔のまま述べる。
﹁そう、彼は教会とランドリオ帝国の市場介入を恐れ、僕のとある
1826
提案を実行した。︱︱奴隷市場の存在を消去する為に、奴隷を⋮⋮
ふふ、ふふふ﹂
ゼノスはその先を言わせなかった。
怒りは臨界点に達し、檻山の頂上にいるラインへと急接近し、そ
の喉元に刃を突き立てる。
﹁︱︱奴隷達を火山に放り込む、そう言いたいのか貴様は?﹂
﹁くく⋮⋮沸点が低いね君は。まあ正解だけれど﹂
彼は鬼畜の所業を、アグリムに何の迷いもなく提案した。
狂っている。果たしてそのような行いを、どんな悪魔が実行する
のだろうか。時折、人間は悪魔よりも非道だと思わせてくれる。
﹁でもさ、これだけじゃ君達の本質を見れないよね?所詮、奴隷達
は他人であり、人間は他人というものには至極疎い。⋮⋮よって、
僕は更にある事をやってみたんだ﹂
1827
ラインは嫌味のある微笑みを続けながら、ゼノスの刃をそっと逸
らす。
そして口をゼノスの耳元へと近付け、微かな吐息と共に⋮⋮⋮⋮
衝撃の事実を漏らす。
﹁君の副団長と麗しき二人の乙女も、奴隷達と同じ運命を歩ませよ
うと︱︱僕が君達の隠れ家から連れ去ったから﹂
刹那、ゼノスの頭が真っ白となる。
紡がれたその言葉を、しばし理解する事が出来なかった。
﹁⋮⋮急がないと、間に合わないかもよ?﹂
﹁︱︱︱︱ッッ!﹂
思考停止から目覚めたゼノスは、激しい怒りと共に剣を振り上げ
る。
1828
声にならない絶叫を上げ、ラインの全身を両断する。
︱︱だが、ラインは黒い霧となって霧散する。
霧は周囲へと散らばり、もはやラインの実体は存在しない。そも
そも、彼はこの場にはおらず、別の場所で分身を具現化させていた
のだろう。
﹃さあ猶予はないよ。走れ、足掻け、そして絶望しろ。︱︱この僕
を、心底から喜ばせておくれ﹄
脳内にラインの変態じみた言葉が過り、それ以降、彼が喋る事は
なかった。気配も完全に失せ、市場にはゼノスとアルバートの二人
しかいない。
ゼノスはその場へと崩れ落ち、勢いよく地面を殴る。
﹁くそっ⋮⋮!まただ、また守れなかった!何故⋮⋮何故いつも俺
は﹂
1829
悔し涙がぼろぼろと零れ、水滴が地面を濡らす。
情けない話だった。あれほどイルディエ達を守ると豪語しておき
ながら、呆気なく敵の手中へと連れて行かれたのだ。
騎士として失格だし、改めて自分の弱さを思い知らされた。
その様子を見つめるアルバートは、何も言葉を発しない。
しかし彼は、ゼノスに対して憤慨していた。
泣き崩れるゼノスの元へと歩み寄り、その肩に手を置く。慰める
つもりかと思ったが、それは大きな間違いだった。
アルバートはゼノスの服を掴み、近くの壁へ向けて彼を投げつけ
る。
﹁︱︱がッ!﹂
1830
背中から叩きつけられ、ゼノスは激しい痛みを感じる。地面へと
倒れ伏した後、血の混じった咳き込みをする。
アルバートは、腕を組みながら平然と問う。
﹁どうじゃ、それで腑抜けた感情は抜けたかの?⋮⋮儂はレイダと
違って厳しい故、次は手加減などせぬぞ﹂
﹁⋮⋮﹂
ゼノスとアルバートは睨み合う。さして時間が経過したわけでも
ないのに、両者にとっては長い時だった。
アルバートはゼノスの落した剣を拾い、ゼノスへと差し出す。
﹁この世界で生きる限り、泣き言は通用せん。騎士として生きる覚
悟を決めたのならば、簡単に諦めるでないわ﹂
﹁⋮⋮﹂
沈黙を貫くゼノスの手に、アルバートは無理やり剣を持たせる。
1831
﹁︱︱さあ行くぞ小僧。過去を悔やむくらいなら、今を成し遂げろ。
その剣を以てして、悲劇を塗り替えて見せろ﹂
﹁⋮⋮ああ、分かっている﹂
ようやく覇気を取り戻したゼノスは、ゆっくりと立ち上がる。
そうだ。絶望を重ねる事は、過去何度も経験してきた。そうして
自信とやる気を失い、どこか後ろめたい気持ちで一杯となった。
けれども、ゼノスはそれを望まない。
⋮⋮天国にいる、あの三人もそう思っているはずだ。
﹁待っていろ。レイダ、エルーナ⋮⋮イルディエ。すぐに助ける!﹂
負の感情を押し殺し、ゼノスはすぐさま奴隷市場を後にする。
1832
アルバートを引き連れて、急いでフレイジュ火山地帯へと向かう。
1833
ep15 炎獄の魔人
意識を失っていたイルディエは、肌を焼く様な感覚に囚われ、よ
うやく目を覚ました。
⋮⋮自分は一体、何をされたのか。ゼノス達を見送り、エルーナ
と共に洗濯物を干そうとした事までは覚えている。しかし屋上に出
た途端、急に意識が遠退いたのだ。
それ以降の記憶は乏しい。だから、視界に映り込む光景に驚き戸
惑っていた。
イルディエは今、灼熱の地獄にいる。
地上を見下ろせる程の高さを誇る山の頂上。そして正面には、煮
え繰り返ったマグマが潜む壺状の穴がある。そこから発せられる熱
気が、イルディエの視界を歪曲させる。
1834
だが、その光景を見る者はイルディエだけでは無い。
イルディエ以外にも、レイダが、エルーナが、数十人もの奴隷達
が⋮⋮そして、あの憎きアグリムもいる。
﹁ほう、ようやく目が覚めたか﹂
アグリムがイルディエの目覚めに気付き、邪な微笑を浮かべる。
既に起きていたレイダは、疲れ切った表情を向けてくる。
﹁イルディエ嬢ちゃん⋮⋮身体の方は大丈夫かい﹂
﹁は、はい。私は大丈夫⋮⋮⋮⋮ですが﹂
イルディエはレイダの全身を見て、おもわず言葉を失う。
彼女の肌には痛々しい青あざがあり、右肩には深い切傷が残って
いる。出血が止まらず、レイダは苦悶に満ちていた。
1835
﹁⋮⋮なに、大した事はない。ちょいとまあ反骨精神を示したら、
そこのお偉い騎士様に⋮⋮ね﹂
﹁そこの女が妙な真似をするからだ。︱︱だからワシが、二度と武
器を振るえない様にしてやったのさ﹂
甲高く笑い叫び、近くにいたレイダの頬を叩く。
怨嗟を込めてアグリムを睨むが、彼女は何も抵抗する事が出来な
い。暗殺者の不思議で全身の筋肉に力が入らず、更に右手はもう使
えない。武器を持つ事は愚か、立ち上がる事さえもままならない。
それはイルディエ達も同様であり、抗う術を持たない。奴隷達に
関してはもはや論外である。
︱︱彼女達はクレーンのロープによって持ち上げられた檻の中で、
真下に潜むマグマに戦々恐々としていた。
泣き叫び、格子を叩く奴隷達。阿鼻叫喚の地獄絵図が展開され、
必然とイルディエは血の気を引く。
1836
最低な真実に辿り着き、イルディエは歯軋りを立てる。
﹁︱︱アグリム。こんな事をして楽しいですか?私達奴隷を痛めつ
け、苦しめ⋮⋮その末に殺す。貴方に良心というものは無いのです
か!?﹂
﹁アグリム、だと?このワシを呼び捨てにするとは、とんだ身分に
なったものだな﹂
癪に障ったのか、額に血管を浮き立たせるアグリム。恐ろしい形
相でイルディエを睥睨する。
だがこの場で殴る気は無いらしい。軽く深呼吸をした彼は、また
余裕の表情で仁王立ちする。
﹁⋮⋮まあ良い。どちらにせよ、お前達はここで死を迎える。ワシ
が手を下さずとも、この煮え滾ったマグマが浄化してくれよう﹂
﹁はっ、怖気づいたのかい?自分の市場が狙われ、奴隷全てを殺し
て隠蔽しようなんてねえ⋮⋮﹂
﹁だ、黙れッ!捕らわれの分際がッ!﹂
1837
アグリムは激昂し、地団駄を踏む。
﹁お前達が来てから、奴隷市場は一気に信頼性を失った。︱︱そし
てマハディーン女王に捕まれば、間違いなくワシは異端審問を受け
るだろう!﹂
そうなれば、アグリムは審問で異端者と断定され、処刑されるだ
ろう。そんなのは御免だし、もっと人生を謳歌したい。
ここで死ぬわけにはいかないのだ。
﹁︱︱だからワシはやり直す。今から奴隷を殺し、奴隷市場を隠蔽
すればお咎め無しで済むに違いない。またここで、ここでワシは新
たなる奴隷市場を築き上げるのだぁッ!﹂
﹁⋮⋮馬鹿が﹂
奴隷という存在が彼を満たし、狂わせる。様々な欲がアグリムを
取り巻き、人としての理性を失っている。
どちらにせよ、彼の説く未来は夢物語で終わるだろう。マハディ
ーン女王陛下がアグリムを許す筈も無く、先に待ち受けているのは
1838
死だけだ。トル︱ナは王国直下の管理に置かれる為、奴隷市場は二
度と展開されない。
だがこの男は、もはや現実が見えていない。
焦点が定まらないまま、助けてと懇願する奴隷少女達へと振り向
く。マグマから放出される熱気をものともせず、アグリムは一歩、
また一歩とクレーンへと近寄る。
アグリムは剣を抜き、息を荒げながら︱︱クレーンと檻を繋ぐロ
ープに、刃を当てる。
﹁︱︱ま、待ちなッ!﹂
﹁は、はは⋮⋮もう遅いわッ!この一振りで⋮⋮ワシの、ワシの未
来を﹂
と、アグリムが剣を振ろうとした瞬間だった。
ロープを切る寸前の所で、彼は剣を止める。
1839
﹁⋮⋮⋮⋮は?﹂
途端、アグリムの全身が震え始める。
その突然の兆候に、皆が疑問符を浮かべる。イルディエやエルー
ナは勿論、レイダも困惑を隠せなかった。
﹁な、なんだ⋮⋮⋮⋮身体が⋮⋮﹂
アグリムは両手で自分の身体を抱き締め、震えは徐々に増してい
く。終いには剣を落し、その場でうずくまる。
タイミングを見計らったかの如く、乾いた拍手の音が聞こえる。
﹁︱︱いやあ、お勤めご苦労様。君は十分役目を果たしてくれたよ﹂
この場に相応しくない呑気な声が響く。
声を発したその男︱︱ラインは、吊るされた檻の上に座っていた。
1840
﹁ラ、ライン!お前、これはどういう事だ!?ワシは元通り復活し
たのではないのか!﹂
軋む心臓を手で抑え、必死に訴えかけてくる。それがもう滑稽で、
ラインは自然と笑みが生まれる。
﹁ふふ、そうだね。確かに復活はさせた﹂
ラインは軽やかに飛び、皆のいる地へと降り立つ。
優男の見せる笑みを崩さぬまま、アグリムの肩に手を置く。
﹁⋮⋮けどね、人間は万物の理を凌駕出来ない。君は一度死に、そ
の事実は誰も覆せない。例え僕の秘術でも⋮⋮理には抗えないのさ﹂
﹁なっ︱︱﹂
ふいに、アグリムの表情が絶望に染まる。
1841
死の恐怖を肌で感じたのか、涙を零しながら地面を這いずる。
﹁い、嫌だ。ライン⋮⋮何とかしろ。お前はワシの護衛だろ!何と
かしろ!何とかしろおおおおおおおッッ!﹂
先程までの威勢はどこへやら。
苦しそうに嘆き、ラインの足に掴まるアグリム。死の寸前にも関
わらず、まだ人に頼る元気があるらしい。
ラインは嫌悪の念を覚える。
﹁悪いけど、僕は君に幻滅しているんだ﹂
﹁⋮⋮ッ?﹂
泣き腫らした顔を見上げ、そこでアグリムは更なる恐怖に襲われ
る。
1842
ラインの表情が、憤怒のそれへと豹変していたからだ。
﹁僕はあれほど言ったよね?僕の指示があるまで、奴隷には手を出
させないって。︱︱そして﹂
言う前に、ラインはアグリムの胸倉を掴み、持ち上げる。細身の
腕とは信じられない程の腕力で、巨体のアグリムをだ。
声にならない絶叫を放つが、アグリムは逆らう事が出来ない。そ
の場にいる全員が沈黙する中、アグリムをマグマ上へと持って来る。
悪魔の微笑と共に、哀れな彼に死の宣告をする。
﹁︱︱金を貰った以上、君のような屑に用はない。あの世で一生、
殺してきた奴隷達と宜しくやっていなよ﹂
﹁ま、待ってくれ。た︱︱助け︱︱︱︱﹂
下劣な言葉を最後まで聞く程、ラインは優しくない。
1843
冷めた瞳を送りつつ、掴んでいたその手を離す。醜い彼はそのま
ま落下し、マグマの中へと吸い込まれる。
汚い絶叫が木霊する。心の淀んだ人間が死んだ事で、ラインは晴
れやかな気分となる。苛立ちも収まり、元の柔和な顔へと戻る。
非業の死を見届けた後、今度はイルディエ達の方へと向き直り、
深々と頭を下げる。
﹁申し訳ない、淑女達。アグリムは君達を殺そうとしていたが、僕
にその意思は無い。安心してくれ﹂
ラインは三本のクナイを放つ。
すると、イルディエ達を拘束していたロープが切れる。
﹁な、何の真似ですか﹂
﹁別に?深い意味はないよ。僕は差別主義者じゃないし、個人的な
恨みを抱いているわけでもない。単純に、無意味な殺しは好きじゃ
ないんだ﹂
1844
﹁⋮⋮﹂
両手を上げ、降参の態度を取るライン。
それが本意なのか、イルディエとエルーナは疑る。自分達を攫い、
尚且つアグリムに不思議な術を施した罪は重い。幾ら本人に殺意が
無くとも、容易に信用する事など有り得ない。
が、レイダは違った。
彼女は肩傷を気遣いながら、その場から立ち上がる。一切殺意を
向けず、ただラインを吟味する。
﹁⋮⋮敵意が無いってのは理解した。けど、一つ質問してもいいか
ね?﹂
﹁⋮⋮ん、何だい?﹂
次の言葉は大体予想付くが、それでも聞き返す。
レイダは服の裾を破り、それで肩の出血を抑えながら続ける。
1845
﹁あたしは正直、あんたの目的が分からない。アグリムを生き返ら
せ、アグリムを殺し、終いには手の平を返してあたし達を救う。一
体、あんたは何がしたい?道化の様に振る舞って、何を望む?﹂
﹁⋮⋮言い得て妙だね﹂
道化、その表現は間違っていない。
彼はアグリムを裏切り、殺した。まるで自分は忠実なる僕である
と振る舞い、最後の最後に絶望を与えた。それを臆する事なく遂げ
たのだから、信用しろと言う方がおかしい。
ラインとて、それは重々承知しているつもりだ。
﹁︱︱そして、あんたは何かに執着している。それは何さね?﹂
﹁へえ、流石はグライデン傭兵団副団長。君も全てお見通しってわ
けだね﹂
ラインは本当に観念した様子で呟き、肩をすくめる。
1846
アルバートといい、中々の曲者が多いようだ。別に隠す内容でも
無いので、ラインはありのままの事実を述べる。
﹁まあアグリムの件に関しては、単に事務的なものだよ。僕はアグ
リムに護衛を頼まれ、その一方である組織からアグリムの暗殺を依
頼されたんだ﹂
﹁ッ。ま、まさか﹂
レイダの動揺をよそに、ラインは淡々と答える。
﹁そのまさか︱︱教会からね。一応アルバート将軍は僕の正体を知
っていると思うけど、君達には教えなかったようだ﹂
﹁⋮⋮旦那。そういう重要な事を隠さないでくれよ﹂
今はいない男に苦言を漏らすレイダ。
怪しいとは思っていた。彼の実力ならば、いとも容易くイルディ
エ達を攫えるのに、何故数日経って攫い始めたのかと。
1847
だが、それだけではレイダの答えにはならない。
レイダが本当に知りたいのは︱︱何故アグリムを蘇らせてまで、
何故自分達を攫ってまでこの件に執着するのか?
こちらの意図を察したのか、ラインは話を継続させる。
﹁さて、次は僕が執着する理由だったね。それについては僕自身も
曖昧だけど⋮⋮執着の対象だけは分かっている﹂
﹁︱︱ゼノスの事かい?﹂
ラインが言うより早く、レイダが確信を突く。
彼は面食らうが、それは一瞬の事であった。くすりと微笑み、二
三回程頷いて見せる。
﹁⋮⋮そう、その通りだよ。僕は彼に固執し、今日この日までアグ
リムの依頼を受けていた。と言っても、執着し始めたのはつい数日
前からだけどね﹂
1848
﹁⋮⋮﹂
ゼノスに執着する、その詳しい理由までは明かさない。
だがそれは悪を纏わず、決して卑しいものでは無い。これはレイ
ダの憶測だが、ラインは強い興味を示しているのかもしれない。
それが何かは分からないが、ここで問い詰めても仕方ないだろう。
今はとにかく、優先すべき点がある。
﹁⋮⋮それについては後でやっておくれ。あたし等に敵意が無いな
ら、次は奴隷達を解放してやりなよ﹂
﹁ああそうだったね。僕の立場が知れた以上、このシチュエーショ
ンはもう意味を成さない。⋮⋮う∼ん。これを見れば、彼の強さを
知れると思ったんだけどなあ﹂
半ば残念そうに唱え、ラインはクレーンの制御装置へと歩み寄る。
これで奴隷達を救い、今回の依頼は達成する。イルディエ達もま
た死の危険が去り、アグリムが死んだ事で安堵する。
1849
危機は去った。
そう思った矢先だった。
﹁︱︱︱︱︱︱ッ﹂
マグマの中から、紅蓮の炎を帯びた﹃何か﹄が出てくる。
︱︱炎の鎧を身に纏い、レイダ達の三倍以上はある大きさ。そい
つはラインの目前へとやって来て、彼の腹に炎の鉄拳を浴びせる。
﹁︱︱ご、ああッ﹂
ラインは不意打ちをくらい、地面に叩きつけられながら吹っ飛ぶ。
安堵は一転して、深い絶望と化す。
1850
炎獄の魔人を前に、誰もが恐れ慄くしか無かった。 1851
ep15 炎獄の魔人︵後書き︶
イルディエ少女期のイラストを投稿しました↓http://68
86.mitemin.net/i87621/
1852
ep16 刻まれし戦い
﹁⋮⋮﹂
絶句。誰もが皆、茫然と立ち尽くす。
いとも容易くあのラインを殴り倒し、悠然と佇む魔人。炎の吐息
を吐き、低い呻き声を鳴らすそいつは、化け物以外の何者でも無い。
獣の様な牙に、轟々と燃え盛る炎の爪。それはまるで、人狼を彷彿
とさせる。
奴から発せられる闘気は異常で、必然とイルディエ達を委縮させ
る。
一体何者か?純粋な疑問を抱く彼女等をよそに、一方のレイダは
目を細めながら魔人を凝視する。
﹁︱︱成程、そういう事か﹂
1853
冷静沈着にそう呟き、レイダは後ろを振り返る。
そこには腹を抑え、苦し紛れの笑みを浮かべるラインがいた。 ﹁⋮⋮原型は留めていないけど、あれはアグリムだろ?あんたのそ
の不思議な能力によって、化け物に変えられた姿と見たが⋮⋮﹂
﹁ふ、ふふ⋮⋮みたいだね。初めての経験だけど、恐らく僕が与え
た邪気を利用し、自分の欲望だけで身体を形成したんじゃないかな。
⋮⋮このお面、相も変わらず底知れない﹂
ラインは腰に吊るした面に触れ、苦笑いをする。彼もまたこの状
況に驚き、自分の持つ能力に対して畏怖を覚えているようだ。
︱︱夜叉を模った禍々しい面。それを何処かで見た様な気がした
が、あえてレイダは口に出さない。曖昧な記憶を詮索した所で、今
の状況じゃ悩んでいる隙に殺されてしまう。
躊躇は許されないのだ。一刻も早く魔人を排除しようと、レイダ
は右足を踏み出し、拳を握り締める。︱︱が、
1854
﹁︱︱ッ﹂
踏み出した途端、全身がよろける。今更ながら肩の激痛を感じ、
その場で倒れ伏す。
﹁レイダさんっ!?﹂
傍目で見ていたイルディエとエルーナは、揃ってレイダの名を叫
ぶ。
﹁ち⋮⋮くしょう。無理か⋮⋮﹂
体たらくな自分に毒づくレイダ。そうしている間にも、魔人の視
界内にレイダが映り込み、獣じみた雄叫びを上げる。
雄叫びと同時に、周囲の地面にヒビが入る。魔人アグリムは四つ
ん這いとなり、息を荒げながらレイダへと疾駆する。裂けた口から
鋭利な炎の牙が覗き、彼女を八つ裂きにせんと欲する。
﹁︱︱くッ!﹂
1855
自らの死線を垣間見、絶対の窮地に立たされるレイダ。幾ら足掻
いた所で、この状況を自身で覆すなど不可能だ。
魔人の口が大きく開かれ、レイダへと向けて飛び出す。
レイダと魔人の差が縮まる中、確かな死を予感する。︱︱愛する
夫と、慈しむべき傭兵団の仲間を思い浮かべる最中、
前触れも無く、奇跡が舞い降りた。
﹁︱︱させるか!﹂
凛とした声音。
声の主は、投擲した剣を見事魔人の頬へと貫く。魔人は奇声を上
げ、苦しみながらレイダから離れ、距離を取る。
﹃グ⋮⋮オオ﹄
1856
呻き声を発する前に、声の主である少年が瞬時に魔人の懐に入り、
自らの剣を勢いよく引き抜く。魔人の頬から盛大に炎が漏れ、悶絶
寸前にまで追いやられる。
少年︱︱ゼノスはすぐさま後退し、レイダ達の前へと陣取る。後
からアルバートも参上し、巨大な戦斧を魔人に向ける。
﹁ゼ、ゼノス様⋮⋮アルバート様!﹂
最後の希望の到来に、エルーナは感嘆の声を発する。檻の中にい
る奴隷達も最初こそ驚いたが、アルバートの恰好から騎士であると
理解し、必死に助けを求めてくる。
周囲の状況を一瞬で把握したアルバートは、皺枯れた声で命令す
る。
﹁レイダ、お前はクレーンを操作して奴隷達の保護を!イルディエ
とエルーナは保護した奴隷達を誘導して山を下るがいい!﹂
﹁了解した、旦那!﹂
﹁﹁は、はい!﹂﹂
1857
それぞれが即座に呼応して、魔人から離れる様に迂回し、クレー
ンへと向かう。
それを見届けた後、アルバートは魔人を正面から睨み付ける。
﹁⋮⋮状況は大体把握出来るか、小僧?﹂
﹁何となくは。奴の気配から察するに、恐らくアグリムなんだろう
な。⋮⋮そうだろ、ライン・アラモード?﹂
ゼノスは右横に視線を送る。そこにはラインが、いつの間にか平
然とした様子で並んでいた。
﹁うん、まあそんな感じ。︱︱って、これに関しては故意じゃない
から、そんなに睨まないでくれよ﹂
﹁⋮⋮まあいい。事情がどうあれ、あれはお前が創り出した化け物
だ。勿論、奴の掃討を手伝うよな?﹂
彼の問いに、ラインは苦虫を噛んだ様な表情を取る。
1858
﹁はいはい、承知したよ。⋮⋮それに、君の根本を知るには良い相
手かもしれない﹂
ラインはふと思う。
絶体絶命では無いにしろ、この状況は不利だ。守るべき者が窮地
に立たされ、一歩間違えれば皆が死んでしまうだろう。
果たしてゼノスはどう行動し、どこまで忠実に意思を貫けるのだ
ろうか?絶望の淵に生きて尚、彼は正常でいられるだろうか?
ライン・アラモードは、純粋に彼を知りたかった。本当ならば関
わりたくない戦いだが⋮⋮それを間近で知ろうと、自然にラインは
ナイフを握りしめている。
︱︱さあ、ここに役者は出揃った。
中央にゼノス、右横にライン、そして左横にはアルバート。
1859
後の白銀の聖騎士が紡ぐ、英雄叙事詩に連なる一番最古の伝説。
︱︱炎獄の魔人の討伐劇が始まる。
﹁︱︱来るぞ!﹂
ゼノスが叫ぶと同時、魔人は空高く舞い上がる。
宙で何度も回転しながら、炎に包まれた鉄拳を振り下ろし、三人
の戦士目掛けて繰り出す。
ラインは屈みながら横へとずれ、ゼノスは地面を蹴り上げて後方
へと逃れる。しかしアルバートだけがその場に止まり、上空の魔人
を見据える。
魔人が接近する中、アルバートは鼻息を盛大に吹く。
﹁ふん。力任せの一撃とは、儂も甘く見られたものじゃなぁ!﹂
アルバートは逃げない。彼が逃避するという事は、それ即ち彼自
身の戦闘スタイルを全否定する事になる。
1860
彼が思い描く戦いは、絶対に退かない。
正面から研鑽し、攻撃によって相手の全てを防ぐ。例え満身創痍
であろうと、アルバートは山の如く立ちはだかる。始原旅団初代首
長であり、北の草原大陸の元支配者︱︱﹃覇王アルバート﹄とは、
そういう男である。
﹁⋮⋮ふーッ﹂
深呼吸し、地面に足を押しつけ、戦斧に両手を添える。悠然と控
えるその姿は、覇王たる存在に相応しい。
身体中からほとぼしる闘気が凝縮し、体内を伝って戦斧へと流れ
込む。尋常ならざる蒼いオーラが斧を取り巻く。
力を大いに溜め込み、歴然たる一撃を浴びせんとする。
﹃︱︱グ、ギ﹄
﹁今更恐怖を抱くかッ!浅はか、そして時既に遅し!我が極限なる
一撃に、もがき苦しむがよいわぁッ!﹂ 1861
老いとは程遠い、生気に満ち溢れた波動。
その一振りは、かつて世を震撼させた偉大なる奥義。薙ぎ払えば
大国が滅び、振り下ろせば辺り一帯の大地が地の底まで割れる。北
の草原王国を支配した覇王は、その力で軍神をも滅ぼした。
力の概念を凌駕したそれは、容赦なく魔人の脳天に叩き込まれる。
﹃グ、オ⋮⋮オオオオオオッッ!﹄
戦斧の刃が脳天に落ちた瞬間、蒼きオーラが一斉に弾け飛ぶ。し
かし地面に叩き付けられた魔人に、壮絶なる激痛が襲い掛かる。
だが、それでも魔人は生きている。アルバートは更に戦斧の刃を
めり込ませ、戦斧の取っ手を逆手に持つ。
魔人の頭を真っ二つに引き裂こうと、彼は勢いよく戦斧を掬い上
げる。
いとも容易く、魔人の頭は断絶された。
﹁やったか!?﹂
1862
遠目で状況を窺っていたゼノスが言う。
しかし、一方のラインは眉を顰めながら答える。
﹁⋮⋮いや、まだだね﹂
ラインが言うやいなや、魔人は即座に立ち上がる。
﹁むうっ!﹂
顔が消滅した今でも活動し、鋭い回し蹴りをアルバートに与える。
不意を突かれたが、何とか手甲で防御し、戦斧を横に一閃させる。
しかし魔人は軽快に身をよじらせ、回避する。
何と恐ろしい生命力か。ゼノスは苦渋の色を見せ、即座にアルバ
ートの援護に向かう。
刺突の構えをし、その体勢を維持しながら魔人の背後を突こうと
する。
1863
軌道はぶれず、剣先は真っ直ぐに放たれる。魔人が気配を察して
振り向いた時、ゼノスの剣によって心臓部を貫かれる。
︱︱が、それでも苦しむ気配がない。
﹁くっ、化け物が!﹂
悪態をつきながら、ゼノスはある存在に気付く。
ゼノスより遅れてやって来たラインが、両手に何本ものナイフを
携えている。嫌な予感を感じ、剣を引き抜いてその場から離れる。
﹁︱︱はっ!﹂
案の上、ラインはナイフを一斉に投げつける。
ナイフ群は正確に標的を見つけ、吸い込まれる様に魔人へと向か
う。目にも止まらぬ速さで、魔人の全身を射抜く。
全身は風穴だらけとなり、炎の身体は火の粉となりて霧散する。
木端微塵に斬り裂かれ、最早原型さえも残らない。
1864
⋮⋮その筈だった。
奴の死を期待する暇も無く、火の粉はすぐに集約する。計り知れ
ない再生力により、魔人は復活を遂げる。
﹃グッ⋮⋮フ⋮⋮フフッ﹄
妙な事に、身体を形成した魔人が嘲笑を示した。
未だ思考が残っているのか、はたまた本能から来るものか。それ
は誰も分からない。
︱︱が、次の瞬間。
魔人は視線を変え、クレーンの方へと振り向く。
そこにはまだ、奴隷達、そしてイルディエとエルーナ、レイダが
いる。
1865
﹁︱︱まずいッ!﹂
アルバートが事態の深刻さを理解し、迅速に魔人の動きを封じよ
うとする。けれども魔人は四つん這いとなり、動物じみた動きで加
速し、一気に距離を離す。
向かう先は︱︱奴隷達を幽閉する檻。牙を曝け出し、檻を支える
クレーンを噛み砕かんとする。
﹁おい⋮⋮や、やめろ!﹂
咄嗟の行動に、ゼノス達は対処する事が出来ない。ゼノスの頭は
真っ白となり、ラインとアルバートはそれでも尚追い駆ける。⋮⋮
間に合わない、そう心中で悟りつつ。
奴は、魔人は最初からこれを狙っていたのか。理性が無い振りを
して、ゼノス達に微かな隙を与える。どこまでも狡猾な相手に怨嗟
の念を送り、三人の戦士は自らの無力さを嘆く。
﹁︱︱︱︱︱︱ッ﹂
1866
絶体絶命。皆が悲劇を予想する。
希望の無い世界。儚き存在が無残にも殺され、狂者だけが生き残
る。ゼノスが思い浮かべる未来は、今迄と変わらぬ血塗られし世界。
また刻まれる。また嘆かなければならない。
そう諦めていた⋮⋮⋮⋮なのに。
ゼノスが瞬きをした後、空想する未来が変わる。
︱︱レイダが自ら躍り出て、魔人の餌食となった。
1867
1868
ep17 不死鳥と古の英霊達
心臓が引き締まる思いだ。
苦しいから、悔しいから起こる不快感。イルディエは衝撃の瞬間
を目にし、絶句するしかない。全身を震わせ、事実を受け入れるし
かない。
クレーンを操作し、ようやく檻を地面に下ろした所で、レイダは
魔人の殺気
に反応した。魔人の目標がこちらへと移り変わり、イルディエ達を
死に追いやろうとした魔人と相対し︱︱彼女は右腕を丸ごと食い千
切られた。
絶叫を無理やりに堪え、レイダは魔人の首元を残った左手だけで
拘束する。尋常ならざる熱さが手に宿るが、それを気にしている暇
さえ無い。
1869
﹃︱︱ッ!?グ、ギギ⋮⋮ィ﹄
﹁だ、旦那ぁッ!は、早くこいつを⋮⋮!﹂
レイダが言い終えるよりも早く、アルバートは魔人の背中に戦斧
の刃を落とす。魔人は甲高い悲鳴と共に、うつ伏せの状態で地面へ
と叩き付けられた。
﹁ぐっ、儂とした事が⋮⋮。レイダ!お前は一旦退け!後の事は儂
とゼノスで何とか︱︱ッ﹂
と、そこでアルバートは魔人の異変に気付く。
魔人は震える手で地面に触れ、その部分だけ徐々に赤みを帯びて
いく。
次の瞬間︱︱魔人の目前の地面に大きな亀裂が入る。亀裂は丁度、
イルディエとエルーナ達が佇む場所にまで及ぶ。
レイダは既に離れ、奴隷達は未だロープに吊られた牢にいる。⋮
⋮しかし少女二人は、恐れていた運命から逃れる事が出来なかった。
1870
亀裂が走った事によって地面は崩れ、雪崩の様にマグマへと転げ
落ちる。
﹁︱︱﹂
このままでは二人同時に落ちてしまう。
もうこれ以上、身近な人が傷付くのは御免だ。⋮⋮そこで、イル
ディエは咄嗟の行動に出た。
﹁⋮⋮え﹂
地面が完全に崩れ去る前に、イルディエはエルーナを思いっきり
押し出す。
エルーナが押し倒された先は、ギリギリ地面が残っている。だが
その代わり、イルディエ本人が犠牲となった。
1871
彼女だけが、奈落へと導かれる。
﹁イ⋮⋮イル、ディエ?イルディエ︱︱︱ッッ!?﹂
泣き叫ぶエルーナ。彼女が最後に見たイルディエの表情は、何故
か安らいでいた。
良かった、無事で。最後に役立てて嬉しいと⋮⋮そう物語ってい
たかの如く。彼女はマグマの海へと墜落する。
﹁︱︱小僧!死ぬ気で嬢ちゃんを助けろッッ!﹂
アルバートは魔人を押さえつけながら、必死の形相で張り上げる。
言わずもがな、ゼノスは既に行動を起こしていた。
軽快な動きで落ちて行く瓦礫の上へと飛び乗り、イルディエの近
くまで自ら降りる。マグマの熱気で視界が霞むけれど、ゼノスは躊
躇するつもりはない。
1872
理由は簡単、彼女を助けると決めたからだ。
ただ必死に抗い、ただ生きて欲しいから。⋮⋮あの美しく可憐な
笑顔を、安らかに死ぬその時まで持ち続けて欲しいから、ゼノスは
臆しない。
マグマの熱気にも負けず、ゼノスは墜落するイルディエへと手を
伸ばす。
︱︱しかし、現実はそう簡単に上手く行かない。
﹁くそっ⋮⋮届け⋮⋮届いてくれ!﹂
幾ら手を伸ばした所で、気絶しているイルディエを捉える事は出
来ない。
例え捕まえたとしても、もはや掴まる場所さえ存在しない。イルデ
ィエがいる場所は、あまりにも岩壁から離れ過ぎている。
﹁くそっ!くそ⋮⋮ぉ﹂
1873
⋮⋮⋮⋮万事休すか。
朦朧とする視界。誰かを助ける以前に、ゼノス自身が既に限界だ。
伸ばしていた手の平も萎み、全身から力が抜ける。
真っ逆さまに落ちて行き⋮⋮死を待つその時まで︱︱
︿汝、もう諦めるのか?﹀
⋮⋮声がする。
意識が遠退く中、幻聴めいた言葉が聞こえる。
︿答えよ。汝の説く騎士道は⋮⋮その程度か?﹀
1874
声は諭すように、その言葉を投げかける。
ふと、世界の時間が遅くなる。身体はゆっくりと動くのに対し、
思考だけははっきりとし始める。
これも幻覚なのか。死ぬ間際のゼノスには、現実か妄想かの区別
がつかない。
︱︱だが、もはや馬鹿馬鹿しいと突っぱねる気力さえも起きない。
自分でも訳が分からないまま、ゼノスは口を開いていた。
﹁⋮⋮まだだ。まだ、イルディエが助かる道はある。⋮⋮俺が切り
開くんだ⋮⋮⋮騎士として、俺が⋮⋮ッ!﹂
︿夢物語。されど、その心に偽り無し﹀
1875
未知の声は、どこか嬉しそうに呟く。
突如、煮え滾るマグマから一線のプロミネンスが表出する。茨の
様にゼノスとイルディエの全身に絡み付くが、熱さは感じない。
むしろ落ち着く様な、陽だまりの様な暖かさがゼノス達を包容す
る。
︿︱︱認めよう。汝が、彼の神域に立ち入る事を﹀
声による誘い。それに呼応して、ゼノスは聖なる炎に焼かれる。
︿そして古の民の末裔よ。汝には、我の祝福を与える﹀
イルディエもまた炎の茨に抱かれ、燃え盛る炎となり、やがて灰
1876
と化す。
案ずる事は無い。これは宿命であり、新たなる門出。
選ばれし子供達がここに来たのは必然であり、逃れられぬ定め。
いずれ来る災厄に備え、声の主は力を与えんとする。
それが声の︱︱否、
︿︱︱我、不死鳥の劫罰。見果てぬ罪を作りし、哀れな神の懺
悔﹀
世界を創造せし神は嘆く。
自らの過ちの為に、今から二人の人間を導く。何とも身勝手で、
何とも横暴な行いかと⋮⋮不死鳥は恥じる。
だが、それでも二人の人間は誘われる。
1877
イルディエは、崇め奉っていた自分の力を得る為に。
そしてゼノス・ディルガーナは︱︱
︱︱真の意味で、白銀の聖騎士となる為に︱︱
1878
ゼノスは見知らぬ場所に佇んでいた。
不死鳥と名乗る者に導かれた先は、とても神秘で歪な場所。白銀
の城がそびえ、城を覆うように広大な湖が広がる。
湖の先を見渡すと⋮⋮その先にあるのは空。湖の水は浮遊する大地
から湧き出て、そして滝の如く空へと流れ落ちる。
白銀の城は浮遊する大地に立つ唯一の建造物。ゼノスはその光景
を、城のバルコニーから眺めている。
﹁⋮⋮﹂
ふと、後方の大きな窓が勝手に開かれる。
⋮⋮入れ、という意味だろうか。内部には何があるか分からない
のに、自分から侵入する必要が何処にあるのだろうか。
だがそれだと、この世界から抜け出せないかもしれない。例え罠
だとしても、踏み入るしかない。
1879
︱︱それに、ゼノスの警戒心は次第に薄れていった。
むしろ懐かしささえ感じるこの城に来た事で、少なからず安堵感
を覚えている自分がいるのだ。我が家に帰って来たような⋮⋮そん
な感覚を。
迷う事なく、大窓を潜り抜けるゼノス。その先に待っていたのは、
煌びやかなるダンスホール。
広いダンスホールに入ると、そこでは沢山の人々が踊っていた。
優雅に奏でられる四重奏の音色と共に、人々は舞い続ける。創世
記に着ていたとされる純白のローブに身を包みながら。
楽しそうに笑い、嬉しそうに歌い続ける彼等。しかし突如窓から
入ってきたゼノスに対し、誰も気付く者はいなかった。
自分が思念体か何かなのか?それとも、彼等自身が幻想の世界の
住人なのか⋮⋮まあこの事実により、確かな答えを得る事となった。
1880
﹁⋮⋮ここは、現実世界じゃないのか﹂
ゼノスはそう呟く。
創世記の人間が着ていたローブを纏って、城で舞踏会を開く催し
など聞いた事もない。
それに、この城は全てヒルデアリアを素材として建造されている。
彼の素材はもはや現在では採れず、あのランドリオ帝国にて建造さ
れたハルディロイ王城でしか使われていないはずだ。
ゼノスはこの場所を見た事がないし、空に浮かぶ城など聞いた事
もない。⋮⋮だとすれば、そう結論付けるしかないだろう。
﹁⋮⋮とにかく、この場所を離れるか。早くイルディエを見つけて、
あの魔人を倒さないと﹂
幻想に浸る余裕はない。ここが創世記の時代だろうと、単なる幻
覚だろうと、それに関して推測するつもりはない。
戻ろう、現世へと。愉快に踊る彼等の合間を縫うように進み抜け、
ゼノスは豪奢な扉へと向かう。
1881
だが異様な気配を背中から感じ、足を止める。
﹁︱︱﹂
嫌な汗をかくと同時、今まで踊っていた者達が霧散する。
四重奏も聞こえなくなり、辺り一帯は静寂に包まれる。窓から入
る風の音だけが支配し、ある気配だけがゼノスの警戒心を奮い立た
せる。
⋮⋮誰かいる。そう確信したゼノスは、気配のする方向へと駆け
る。
剣を抜き、気配のする箇所に向かって︱︱刃を一閃。
﹃︱︱見事です。この私を見破るとは﹄
1882
﹁なっ⋮⋮!﹂
剣は突如現れた細い手によって受け止められる。逆に剣を取られ、
ゼノスの喉元に突き立てられる。
一連の動きに、ゼノスは全く対応できなかった。
﹃⋮⋮ですが、まだ甘い。敵を見極める事も、騎士として重要です﹄
声の主は徐々に姿を見せる。
剣を受け止めたのは︱︱シスター服を着た少女。だが右半分は継
ぎはぎの鎧で固められ、とても世間一般のシスターとは思えない。
更に言うなれば、彼女から発せられる覇気は計り知れない。まる
で神々の頂点に君臨する者と対峙しているような、常人の精神を狂
わせる程のオーラを放っている。
彼女の瞳を覗くだけで、身震いが止まらない。
﹃ふふ、そう怯えなくても宜しいです。君に危害を加えるつもりは
ありませんから﹄
1883
﹁⋮⋮なら、剣を返せ﹂
﹃分かりました﹄
少女は顔を綻ばせ、ゼノスに剣を返す。
少女の放つものは、確かに殺気とかの類ではない。それ以上に強
大な、そして相手を威圧する波動を放っていたに過ぎない。
例えるならそれは︱︱神の威光。
⋮⋮いや、もはや神すら超えているかもしれない。
少女は慇懃に礼をし、歓迎の意を表す。
︱︱刹那、風景が変わる。
ダンスホールだったそこは、一瞬にして違う場所へと移り変わる。
1884
少女を中心に、世界が塗り替えられる。
黄昏色の夕空。黄金色に染まりし花々は美しく咲き誇り、地平線
上にまで広がる。⋮⋮これではまるで、神世界の終焉を迎えている
かのような光景だ。
そこにゼノスと少女を取り囲む様に︱︱白銀の鎧に身を包んだ騎
士達が、男女問わず数十人もいる。それぞれ違った形式の鎧だが、
鎧の性質は同じ⋮⋮神の祝福を受けた神聖なる鎧。
異様な光景に、ゼノスは呆気に取られる。
﹁こ、これは一体﹂
﹃︱︱驚く必要はないです。それに、分かっているのでしょう?こ
こが何処で、彼等が一体何者であるかを﹄
﹁⋮⋮﹂
嗚呼、何となく理解している。
戸惑いはしたが、ようやく心の整理が出来た。
1885
︱︱ゼノスはこの光景を待っていた。かつてガイアに託された書
物の内容に、聖騎士の鎧の在り処が書かれている。それは、このよ
うなものだった。
︵道を違えぬならば、いずれ宿命がお前を導くだろう︶
︵歴代の聖騎士達が現れた時︱︱真の継承が行われる︶
︵︱︱そして我等の祖先が、聖騎士への叙任式を執り行うだろう︶
そう、ゼノスはこの場面を待ち望んでいた。
周囲に控える彼等は、過去の聖騎士。かつてその鎧と名剣を携え、
多くの化け物を屠って来た誉れ高き英雄。新たなる聖騎士の誕生を
見届けようと、わざわざ生と死の狭間へと降り立ってきた。
1886
⋮⋮そして、ゼノスと相対する少女。
約一万年前の世界で剣を取り、魔王神を封印したとされる伝説の
聖騎士。
少女は一歩前へと踏み出し、己が胸に手を当てる。
神に祈りを捧げる形で︱︱告げる。
﹃︱︱私は二代目聖騎士。白銀の聖騎士カスタリエ。新たなる聖騎
士を生み出す為に、不死鳥の力によってこの場へとやって来ました﹄
不死鳥の加護により、偉大なる英雄が再臨するこの世界で。
ゼノスと歴代の聖騎士達は、運命の出会いを果たした。
1887
1888
ep18 初代聖騎士の正体
夢か幻か⋮⋮いや、この際どうでも良い疑問だろう。
現にゼノスは、この世界を肌で感じている。全てが色鮮やかに体
現され、吹き抜ける風も頬を撫でる。全てが忠実に再現される等、
幻想世界では有り得ない事だ。
︱︱そして勿論、押し寄せる聖騎士達の波動も。
かつてないほど、ゼノスはその身を震わせる。特に、カスタリエ
と名乗る二代目聖騎士に関しては、その姿を見ただけで軽い眩暈が
生じてしまう。
これが魔王神を封じた聖騎士。可憐な見た目とは裏腹に、底知れ
ない力を秘めている。
1889
恐ろしくて⋮⋮とても怖い。
﹃もう、そんなに怯える事はないのに。血族ではないけれど、私と
貴方は家族も同然、同じ宿命に生きる仲間です。命を取るような愚
行には走りませんよ﹄
﹁そ、そんな事は分かってる。俺が感じているのは、カスタリエ自
身の純粋な覇気。これが殺気じゃないのは百も承知だ﹂
﹃ふふ、なるほど。ならもう平気ですよね?﹄
ゼノスは、﹁ああ﹂と短く答え、心を落ち着かせる。
恐れもそうだが、彼女は創世記に生きた伝説の英雄だ。何度もガ
イアから御伽話として英雄譚を聞かされ、何度もその活躍に酔いし
れた。言わば憧れの対象であり、自然と緊張してしまうのだ。
ようやく平静を取り戻したゼノスは、正面からカスタリエと見つ
め合う。
﹁⋮⋮まずは説明してほしい。俺がこの場に来れた所以を。言っと
くが、俺はわけも分からないままここに飛ばされて来たからな﹂
1890
自分はマグマに落ちるイルディエを救う為、自らの命を張ってマ
グマへと落ちた。それから意識を失う直前、不死鳥と名乗る者の囁
きが聞こえ、気が付けばこのような場所にいたのだ。
カスタリエはしばし沈黙した後、天空を見仰ぐ。
﹃簡単な話です。貴方は運命に導かれ、不死鳥という仲介人の手に
より参った。この一連の出来事は、ここにいる聖騎士達も体験済み
です﹄
﹁⋮⋮そうか。なら俺は、今から聖騎士になれるのか?﹂
﹃⋮⋮聖騎士たる加護を与える前に、もう一度聖騎士の責務につい
て問いましょう。よろしいですね﹄
カスタリエは有無を言わせぬまま、責務とやらを問い直す。それ
は歴代聖騎士達は愚か、ゼノスも何となく把握し、あの言葉を思い
出す。
遠い過去にて聞いた、ガイアの苦言を。
1891
﹃︱︱ゼノス・ディルガーナ。聖騎士はその時世にて活躍する正義
の救済者。しかしそれは表向きの言われであり、実際は違う。それ
は︱︱﹄
﹁それは初代聖騎士の過ちを清算する為に⋮⋮だろ?﹂
カスタリエは瞠目し、やがて唇を噛む。
﹃⋮⋮ええ、恥ずかしい事に。来るべき初代の罪に対抗するべく、
各時代の豪傑が聖騎士という初代と同じ力を得るのです﹄
それもガイアから聞いた話だ。
聖騎士は初代の罪を浄化するべく、強く在らねばならない。何年、
何十年、何百年、何千年も、この場にいる聖騎士達はその意思を継
いできた。
︱︱しかし、ゼノスはどうにも納得出来ない。
根本的な疑問が、脳裏にこびり付く。
1892
﹁なあカスタリエ。あんたは何故、初代の罪を後世に伝えていない
んだ?こんな叙任式を行い、聖騎士の宿命を担わせるならばそれく
らい⋮⋮﹂
﹃︱︱彼女がこの場に来たのは、今日で初めてなのだよ。若き後継
者﹄
﹁︱︱︱︱なッ﹂
唐突に、聖騎士達の中からそのような声がした。
それを皮切りに、聖騎士達が次々に言葉を紡ぎ出す。
﹃そう、だからあたし達は知らないのよ﹄
﹃初代の罪を、その真相を。⋮⋮けど、ようやくこの時が来たぜ﹄
﹃罪の代償が、まもなく到来するから。カスタリエはそれを察知し、
1893
初めてここを訪れたの﹄
﹃︱︱我々に、そして君に真実を伝える為に。彼女は初代から直接
聖騎士の称号を賜った身⋮⋮全ての事実を知っている﹄
故に、聖騎士達は強い興味心を抱いている。
好奇なる視線に晒されているカスタリエは、静かに息を吐く。
﹃⋮⋮というわけです。三代目聖騎士が誕生したのは、私の死後半
年が経過した辺り。彼もまた直接私と会っていないので、私以外は
知らないのです﹄
﹁ちょ、ちょっと待て!そこは理解したけど、罪の代償がまもなく
到来するって⋮⋮どういう事だよ一体!?﹂
ゼノスの問いに、カスタリエは整然とした面持ちで返す。
﹃そのままの意味です。⋮⋮⋮⋮それと申し訳ない事に、私は事実
を全て語るつもりはありません﹄
1894
その言葉に、一同が驚愕する。
﹃な、何故です。罪を知らねば、我々は勿論、若き後継者も納得で
きない!﹄
﹃見果てぬ目的を頼りに生き、私達は息絶えた。⋮⋮せめて、在る
べき事実を﹄
歴代聖騎士達が反論するが、それは一瞬だった。
カスタリエが目を向けた途端、彼等は押し黙る。幾ら聖騎士とは
いえ、二代目の覇気はそれ以上の凄みがあったのだろう。
だが当の本人は、黙らせたという自覚がない。ふいに深く頭を下
げてくる。
﹃ごめんなさい。この事に関しては、ゼノス自身が見るべきだから
です。⋮⋮ですが、少々の事実ならば打ち明けられますが﹄
﹁⋮⋮ならそれだけでもいい。じゃないと、歴代の聖騎士達が不憫
でならない﹂
1895
ゼノスは後に知る事となる。だが過去の聖騎士達は、一生知らぬ
まま過ごす事になるだろう。報われぬまま、自分が何の為に尽くし
て来たのかも分からぬまま。
⋮⋮カスタリエは瞑目する。
彼女の心中は、未だ整理がついていないのだろうか。僅かだが眉
間に皺を寄せ、何から話せばいいのか戸惑っているようだ。
時間は刻々と過ぎていく。
聖騎士達は真実の一端を語られるまで、静かに待つ。
ゼノスは逸る気持ちを抑え、成り行きを見守る。
︱︱そして、ようやくカスタリエの口が開く。
﹃⋮⋮⋮⋮後世の人々が創世記と呼ぶ時代、まだ善と悪が区別され
ていなかった。世界は神々で満たされ、人間達はその奴隷⋮⋮そこ
1896
までは分かりますか?﹄
﹁ああ、俺は先代の聖騎士に聞かされた﹂
﹃⋮⋮そうですか。なら、無駄な前置きは必要ありませんね﹄
ゼノスと聖騎士達は頷く。
カスタリエが述べた話は、聖騎士となる者ならば誰もが知ってい
る。語り継がれた物語の一部分であり、今更驚くべき事実ではない。
﹃ならこれはご存じですか。︱︱何故この世に、善と悪という区別
が出来てしまったのかを﹄
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮それは﹂
答えようとするが、ゼノスは二の句を告げられない。
1897
分からない。そう認識したカスタリエは、﹃なるほど﹄と呟く。
﹃今まで感じた事はありませんか?遥か古の創世記には区別されな
かった善と悪。ではどうして、今の時代には悪が存在するのか。と
ても不思議で、何だか妙な現実ですよね﹄
﹁⋮⋮悪の定義とは何だ。あんたの時代にも、悪意の思想を持つ者
はいなかったのか?﹂
ゼノスの問いに、カスタリエは首を横に振る。
﹃いいえ、悪意の持ち主は確かにいました。しかし私が言う悪とは、
具現化された大いなるもの。心には思えど、私の時代にはそれを成
し遂げる者は存在しませんでした。︱︱ある人物を除いては﹄
﹁⋮⋮ッ﹂
創世記の人間は、神々に反抗するという行為を知らなかった。た
だ平然と奴隷としての立場を全うし、苦しみや不条理も当然として
受け入れた。
⋮⋮だが、ガイアは言った。
1898
初代の聖騎士は、そんな不条理な世界に疑念を抱き、神々に初め
て反抗した。その偉大なる力を用いて、たった一人で神々に戦争を
挑んだ。
︱︱心臓が跳ね上がる。
ゼノスは俯き、想像したくもない真実に辿り着こうとしている。
この世に悪という存在を作り、未来永劫まで続く悲劇を生んだ張
本人とは⋮⋮⋮⋮初代聖騎士なのだろう。
︱︱しかし、それだけではないはずだ。
初代聖騎士が起こした反乱。そして口伝に伝えられて来た史実の
一つを組み合わせると⋮⋮⋮⋮もっと恐ろしい真実が、待ち受けて
いる。
その史実とは、︽魔王神︾の出現だ。
1899
﹁︱︱俺はガイアから聞かされた。創世記の頃、魔王神と呼ばれる
﹃始まりの闇﹄が現れたという事を﹂
﹃⋮⋮なら、もうお気づきでしょう。それは私が言える範疇の事実
であり、初代聖騎士の︽罪の一つ︾﹄
⋮⋮刹那、空気の流れが変わる。
吹き起こる風も止み、同時にカスタリエの表情が消える。無音の
世界にてひしめくのは、壮絶なる緊張感。息つく間もなく、吐き気
を催すような時間だけが過ぎていく。
彼女は聖騎士達とゼノスに目も暮れず︱︱告白する。
﹃︱︱︱︱初代聖騎士は、神々と戦う為に魔王神となったのです︱
︱︱︱﹄
1900
1901
ep19 罪悪感
⋮。
⋮⋮。
⋮⋮⋮⋮知りたくない事実だった。
だが不思議と、ゼノスは取り乱さない。何故ならこれは自分が行
き着いた結果であり、彼女はそれを先走って言ったに過ぎない。他
の聖騎士達も、恐らくこの事実に辿り着いていただろう。
︱︱魔王神の正体が、初代聖騎士。
実感が湧かない話であり、にわかに信じ難い。
1902
﹁つまり聖騎士が償うべきものとは⋮⋮いずれ来る魔王神の復活を
食い止める為に⋮⋮なのか?﹂
﹃︱︱いえ、魔王神に関しては既に終わった話です。彼自身をこの
手で封印した私が保障しましょう﹄
その事実に、ゼノスは言葉を失いかける。
しかしここで踏み止まるわけにはいかない。彼は更に問い詰める。
﹁なら、聖騎士が未だに負っている使命とは何だ?彼等は何の為に
︱︱ッ﹂
と、そこでゼノスは言葉を打ち切る。
突如、ゼノスの全身が光に包まれ、神々しく光り輝く。それは自
分という存在が薄れている証拠であり、すぐに理解出来た。
﹃⋮⋮残念ながら、これ以上の問答は不要です。この世界は言わば
生と死の狭間であり、生者と死者が巡り合えるのは極僅かなのです。
貴方はもう、現世に帰らねばならない﹄
1903
﹁⋮⋮﹂
光の粒子が空を舞い、幻想的な風景を描く中、カスタリエはゼノ
スへと歩み寄る。
ゼノスの両手を、彼女は自分の両手で包み込む。一回り大きい故
に、カスタリエはゼノスを見上げながら問う。
﹃聖騎士の負う罪は、貴方が思う以上に深刻です。彼が魔王神とな
り、世界にもたらした罪の芽生えは⋮⋮もうじきでしょう﹄
だからこそ、ゼノスは覚悟を決めなければならない。
正義を担い、そして聖騎士の罪を清算しようとする強い意志を。
魔王神が遺した闇を葬る為に、孤軍奮闘しなければならない。
﹃︱︱故に、質問しましょう。貴方はこれから、様々な事情に苛ま
れます。それでも尚、聖騎士という地位を望みますか?﹄
﹁⋮⋮﹂
心はとうに決めている。
1904
例え初代聖騎士︱︱否、魔王神の罪を清算する為だとしても、ゼ
ノスの決意に揺らぎはない。
ゼノスは聖騎士として、多くの人間を救いたい。魔王神の罪が人
を殺すならば、自分は彼等を救う力となりたい。
どんなに辛い現実が待ち受けようと、どんなにそれで絶望しよう
と⋮⋮最後には、必ず使命を遂げて見せる。
故に、ゼノスはこう答える。
﹁︱︱俺は、誰かを救う為に聖騎士となりたい。悪いけど、過去を
清算する為だとか、罪を償うだとかで生きるつもりはない。ただ護
る為に︱︱ただ忠実なる正義の騎士として⋮⋮使命を全うする﹂
その言葉に、カスタリエは呆気に取られる。
だがやがて、彼女の表情が綻ぶ。
1905
﹃⋮⋮そうですね。その気持ちさえあれば、どんな困難にも立ち向
かえる事でしょう。今はいない先代の聖騎士は、良き後継者を選び
ました﹄
何と誠実で、どこまでも純粋な少年だろうか。カスタリエは素直
にそう思い、長々と告げたのが馬鹿らしく思えてきた。
きっと、彼は真実の全てを知り得ても臆さないだろう。
⋮⋮魔王神となる前の、まだ人間であった頃の初代聖騎士によく
似ている。
﹃︱︱なら、貴方には聖騎士の証を授けましょう。これは形を成し
ているが、例え壊れても、ある運命を以てして再び舞い戻ってくる
優れもの。⋮⋮白銀の鎧を、ゼノス・ディルガーナに﹄
そう言って、カスタリエは強く念じる。
すると、彼女の両手が輝く。眩い光はどんどんとゼノスの手へと
引き寄せられ、最後にはゼノス自身の両手に更なる光が帯びる。
1906
仄かな暖かさを纏い、確かな重みを実感する。現実世界に戻った
その時、光はゼノスの全身を覆い⋮⋮白銀の鎧となりて実体化する
だろう。
︱︱ゼノスは浮遊する。重力に逆らい、彼は遥か天空の彼方へと
飛ばされようとしている。今のゼノスを支えているのは、カスタリ
エの手だけである。
﹃⋮⋮さあ、これより先はもう手助け出来ません。後は貴方自身の
力で、聖騎士となり生きて下さい﹄
﹁⋮⋮有難う、カスタリエ。そして歴代の聖騎士達も、わざわざ見
届けてくれて申し訳ない﹂
﹃ふふ、これが役目ですから。︱︱ですが、最後に一つだけ言わせ
て貰ってもいいですか?﹄
﹁?﹂
ゼノスが了承する前に、カスタリエは片手を空け、彼の額に何か
を押しやる。
1907
︱︱︱︱それは、一枚のカードであった。
﹁⋮⋮え﹂
﹃︱︱催眠師のシールカード、ダイヤ。⋮⋮︿忘却﹀﹄
途端、ゼノスの意識が遠退く。
それと同時に、記憶の中の何かが割れたような、そんな錯覚に襲
われる。
﹃⋮⋮ここで話された事は、現実世界に戻ってしまえば忘れる。し
かし、このシールカードという存在と深く関わったその時⋮⋮⋮⋮
ここでの出来事を全て思い出すでしょう﹄
﹁⋮⋮なん、で⋮⋮﹂
﹃簡単な事です。今の貴方に、この知識は余計だと判断したから。
︱︱今はただ、正義の騎士として活躍して下さい﹄
1908
﹁カス⋮⋮タリエ﹂
彼女はゼノスの手を離す。
ゼノスは支えられる力を失い、空へと飛んでいく。見上げるカス
タリエと先代の聖騎士達は、段々と小さくなっていく。
︱︱ゼノスは、この幻想的な世界を後にする。
彼が見えなくなっても、カスタリエは空を見上げていた。
1909
歴代の聖騎士達がその役目を終え、一人、また一人と霧散してい
く。それでも尚、彼女が言葉を発する事は無かった。
⋮⋮しかしただ一人。一人の聖騎士は、未だこの世界に留まって
いる。
カスタリエは振り向かないまま、彼に問う。
﹃︱︱もう皆が旅立ちましたよ、三代目聖騎士。それとも、私に用
事でもあるのですか?﹄
﹃おう、そのつもりよ﹄
男気溢れる調子で、三代目聖騎士は答える。
彼は深く溜息をつき、半ば呆然とするカスタリエを見据える。
﹃⋮⋮んで、いいのかカスタリエ。お前さん、あの坊主に話すべき
事がまだあったんじゃないか?﹄
1910
﹃⋮⋮﹄
カスタリエは沈黙を貫く。
だがその肩は、若干震えていた。
﹃ったく、同情と優しさは同じじゃねえんだ。確かにいっぺんに教
える事じゃねえが、事は急を要する。⋮⋮必要な知識ぐらい、隠さ
ず話した方が良かったと思うけどな﹄
﹃⋮⋮⋮⋮すいません。こればかりは、情が湧いてしまったもので﹄
﹃情ねえ。︱︱あの坊主の出自に、関係がある事かい?﹄
﹃︱︱ッ!﹄
瞠目し、三代目聖騎士へと振り向くカスタリエ。
彼は顎鬚を撫でながら、口を吊り上げる。
1911
﹃甘くみなさんな、カスタリエ。俺はお前さんに憧れて聖騎士にな
ったんだぜ?あの時代の人間が常識としていた事実を、俺が知らな
いとでも?﹄
﹃⋮⋮そうでしたね。貴方もまた、創世記を生きた者の一人でした。
さっきも言った通り、今全てを明かすつもりは無かった。その事実
は、いずれ彼自身が知る事ですから﹄
カスタリエはそう結論づけ、また空を見上げる。
一方の三代目聖騎士は、彼女の隣へと並ぶ。そしてポケットから
葉巻を取り出し、口に据える。
﹃︱︱この先、あの坊主は色々な事で思い悩むだろうなあ。初代の
罪は愚か⋮⋮⋮⋮あんたの武器であった、シールカードに対しても
な﹄
﹃全部知っているような口ぶりですね﹄
﹃いや、ただの予想さ。だから後世には伝えなかった。⋮⋮だがそ
の調子からすると、シールカードも初代の罪に関わっているようじ
ゃねえか﹄
1912
今まで飄々としていた三代目聖騎士だが、途端に真剣な目つきへ
と変わる。
彼の波動は素晴らしかった。威圧するかの様なそのオーラに、カ
スタリエは鳥肌を立たせる。
⋮⋮仕方ない。
一歩も引かない彼に対し、カスタリエは意固地になる事を諦めた。
﹃⋮⋮関わるも何も、私も同罪なのです﹄
彼女は拳を握り締め、吐き捨てるように呟く。
それは三代目聖騎士にでなく、単なる独白。所在なく流れ行く言
葉を、三代目がただ拾い聞くだけであった。
﹃⋮⋮初代聖騎士を封印する時、私もまた大きな過ちを犯した。こ
の力のせいで、あの子に⋮⋮アスフィに迷惑をかけてしまった!﹄
1913
﹃⋮⋮アスフィって、確かお前さんの﹄
そこで、三代目はようやく理解する。
あの創世記に起きた出来事を思い出し、彼は苦渋の表情を浮かべ
る。
﹃⋮⋮⋮⋮俺は最悪な未来を予想しているんだが、これは果たして
実現してしまうんかね﹄
﹃⋮⋮恐らくは﹄
カスタリエは両手を添え、胸に当てる。
そう遠くない未来を案じつつ、強く祈りを捧げる。
﹃︱︱どうかこの先、私の可愛いゼノスとアスフィが争わないよう
に。例えそれが叶わぬ願いだとしても⋮⋮⋮⋮どうか、どうか﹄
1914
彼女は乞い願う。
既にこの世界には、崇拝するべき神は存在しない。けれども、今
の自分にはどうしようもないから、祈る事しか出来ない。
⋮⋮ただ、ゼノスに託すしかないのだ。
︱︱二代目聖騎士。シールカードを創造した彼女は、死後もなお
罪悪感に襲われていた。
1915
ep20 白銀の始動
⋮⋮不思議な感覚だ。
意識は朧げなのに、ゼノスの身体は突き進む。自らの足で、はっ
きりと歩み続けている。
空白の世界で。果てしなく伸びる螺旋階段を。
︱︱隣で並ぶ、イルディエと共に。
⋮⋮イルディエもまた、同じ感覚に包まれていた。
激しい痛みはもう感じず、恐怖という概念は抜け落ちた。そして
1916
ある一つの走馬灯が、イルディエの脳裏へと広がる。
それはもう数年前の出来事。まだ幼少期の話であり、物心がつい
た頃の記憶だ。
彼女はアステナ一族の末裔として生誕した。アステナとは創世記
から在りし古代民族の一種であり、﹃火﹄という理を崇めてきた。
火は生活の基礎であり、文明を築く為の礎。アステナは火を与え
て下さった不死鳥を信仰対象とし、舞踏という形で祈りを捧げ続け
た。如何に時代が変化しようと、その意思だけは忘れない。
︱︱イルディエは一度、その不死鳥の聖地たる火山地帯へと連れ
て行かれた。何でも我等が神を間近で崇め、アステナ一族の繁栄と
持続を乞う為だとか⋮⋮人種迫害を受けるまでは、それが叶うもの
だと信じていた。
幾人もの大人達が先導し、その後を子供達が付いて行く。やがて
辿り着いた火山の頂上で、彼等は美しく、そして気高く舞う。
未だ見ぬ不死鳥の存在を夢見て⋮⋮。
1917
⋮⋮⋮⋮その事実を、今ようやく思い出す事が出来た。
奴隷に身をやつしてからは、神などいないと思っていた。神がい
るならば、何故我々は虐げられたのかと。神がいるならば、こんな
屈辱を受けなかったと⋮⋮日々そう念じていた。
︿⋮⋮神とて全能ではない、娘よ﹀
そう、不死鳥は神であるが、我等を救う程の力はない。全知全能
という言葉は、所詮人間が創り出した妄念。
不死鳥を恨む理由など、あるはずがない。
︿けれど、我は娘の先祖と、ある血約を交わした﹀
彼は独白する。静かに螺旋階段を登るイルディエに対して。
1918
︿︱︱世界が危機に陥るその時、我は姿を見せようと﹀
︿我が真髄を、聖地に誘われし末裔に託そう⋮⋮と﹀
﹁︱︱︱︱︱︱﹂
刹那、心臓の鼓動が高鳴る。
確かに脈動が聞こえ、イルディエを昂ぶらせた。
それは夢現でなく、本当の現実。
刹那の衝動は終わりを告げ、やがて聖なる炎が全身を焦がす。今
のイルディエにとって、炎は安らぎであり、母に抱かれたも同然。
不死鳥の鼓動と、イルディエの鼓動が重なる。
﹁⋮⋮﹂
1919
イルディエは無言のまま、隣を振り向く。
︱︱眩い光に照らされ、颯爽と歩く者がいた。
だがイルディエとは正反対だった。彼女が原始を担うならば、彼
という存在は文明の結晶体を培っている。
白銀の胸当て、白銀の肩当て、白銀の籠手、白銀のすね当て。そ
のどれもが美しい装飾によって彩られ、全てを魅了する。紅蓮のマ
ントがなびき、救国の英雄を彷彿とさせる。
彼は闇を切り開き、光を与える正義の騎士。
一方のイルディエは、不死鳥の力を与えられし踊り姫。
彼等は登り続ける。未だ見果てぬ螺旋階段を、その先に終着点が
ある事を願い続けて。
⋮⋮彼等はまだ知らない。
1920
この節目が、後の世界にどれほどの影響を与えるかを。最強の名
を冠し、大いなる力となり得る事を。
︱︱英雄、白銀の聖騎士叙事詩。第一章一節︱︱
﹃白銀の聖騎士、再臨﹄
新たなる英雄達が、現世へと舞い戻ろうとしている。
アルバートは苦境に立たされていた。
1921
ゼノスとイルディエがマグマへと落ち、レイダは瀕死の状況にあ
る。奴隷達も未だ牢屋に閉じ込められ、不安と絶望の色を見せてい
る。
更に目前の魔人は、想像以上に手強い。アルバートとラインで畳
みかけようとするが、どうにも致命の一撃を加えられない。一進一
退の攻防だけが空しく展開され、精神的にも限界を来している。
アルバートは魔人の正拳を戦斧で受け止め、舌打ちする。
﹁ぬぐっ⋮⋮流石にピンチじゃな。しかしこいつを野放しにすれば、
間違いなくトル︱ナへと強襲してくる﹂
﹁だろうねえ。お爺さん、そろそろ本気を出してみれば?﹂
ラインが横から蹴りを入れながら尋ねる。魔人は側頭を蹴られて
も動じず、ラインの全身を右腕で薙ぎ払おうとする。
しかし彼は素早く腕を飛び越え、回避する。
﹁馬鹿言うでない、儂が本気を出せば皆が死んでしまうわ﹂
1922
即答され、ラインは嘆息する。
﹁大言壮語⋮⋮というわけでもなさそうだね。事実、貴方から一寸
の覇気も感じられない。︱︱まるで、惰性で戦っているような﹂
﹁惰性などではない。⋮⋮極限にまで加減しているのじゃよ!﹂
素直にそう告白するアルバート。
だが奴隷達やレイダに何かあった場合、それなりの覚悟は必要だ
ろう。地理的条件は最悪だが、本来の力を発揮するしかない。
唾を飲み、戦斧の柄を強く握りしめる。
だがそのとき、アルバートは思わぬ瞬間に出くわした。
火山の淵からマグマが勢いよく上昇し、火柱となってアルバート
達の目に焼き付ける。魔人も驚いて背後を振り向き、一同は茫然と
立ち尽くす。
﹁な、なんじゃ一体⋮⋮﹂
1923
﹁噴火⋮⋮?いや違う、これはまた別の﹂
アルバートとラインが驚く最中、炎獄の魔人は火柱を睨み付ける。
火柱からほとぼしる神聖な力に触発され、彼の危険意識が高まった
のか。
魔人は躊躇なく飛び、火柱に向かって拳をふりかぶる。
彼の正拳は見事火柱にクリーンヒットするが⋮⋮。
﹃ごっ︱︱ぁ、アア!﹄
苦悶の叫びを露わにし、火柱から放たれる業火に焼かれる。
何故火柱が⋮⋮と思った矢先、アルバート達は驚きの光景を目に
する。
天空を穿つ火柱は途端に威力を抑え、縮まっていく。そして、同
時に火柱は火山口から切り離される。
独立した火柱は、やがてある形へと変化していく。
1924
淡い橙色の火の粉を散らし、猛々しく羽ばたかせる焔の両翼。甲
高い咆哮と共に、火山地帯全域にその覇気を轟かせる。
紛う事なき伝説。
原始の空を舞い、地上に生命の息吹をもたらした神様。
︱︱かの不死鳥の化身が、皆の前に現れる。
﹁お、おお⋮⋮何と神々しい。この山には不死鳥が住むという伝説
は聞いていたが⋮⋮まさかこれが﹂
と、アルバートが感嘆の声を漏らした時︱︱
﹃︱︱いえ、アルバート様。確かに不死鳥の恰好をしていますが、
イルディエです﹄
1925
不死鳥の化身から放たれるのは、まだ年端もいかない少女の声音。
それがイルディエだと確信したのは、もはや言うまでもない。ア
ルバートやライン、そしてエルーナも唖然し、この現象に戸惑いを
隠せなかった。
﹁イルディエ⋮⋮よ、良かったぁ﹂
エルーナは安堵し、力が抜けてへたり込む。唯一無二の友がどん
な姿になったとしても、そんなのは関係無い。
彼女は素直に、生きているという事実に歓喜していた。
﹁な、なら小僧は。ゼノスは⋮⋮﹂
﹃ちゃんといますよ。︱︱ゼノス、貴方の怪我は私の体内で全快し
ました。これでまた、魔人と戦えます!﹄
不死鳥となったイルディエが断言する。
すると不死鳥の腹を突き抜け、暴風の如く魔人へと突進する者が
いた。
1926
魔人はその尋常ならざる速さに付いて行けず、体当たりによって
吹き飛ばされる。
﹃グギッ⋮⋮﹄
ようやく反応を示した魔人は、崖に落ちる寸前で踏み止まる。怨
嗟の籠った視線を、体当たりしてきた人物にぶつける。
白銀の鎧に身を包み、紅蓮のマントをはためかせる少年。
︱︱白銀の聖騎士ゼノスもまた、炎獄の魔人を見据えていた。
﹁⋮⋮イルディエ。もし叶うならば、その姿のまま奴隷達、レイダ
やエルーナを連れて安全な場所まで避難させてくれ﹂
﹃はい、分かりました。⋮⋮どうか気を付けて﹄
心配そうに呟くイルディエに対して、ゼノスは右手だけを振る。
これは大丈夫だという合図であり、彼女にも伝わったようだ。
1927
不死鳥となったイルディエは翼を丸め、奴隷達へと飛来する。彼
女達は悲鳴を上げるが、逃げる間もなく、不死鳥へと飲み込まれる。
また飛翔し、不死鳥は空高く飛んでいく。
それを見届けたゼノス。今度はアルバート達に言葉を投げかける。
﹁アルバート、遅れてすまない﹂
﹁⋮⋮いや、いいんじゃよ。詳しい経緯は分からんが﹂
アルバートはゼノスの恰好を一目見、ニヤリと微笑む。
この姿は正しく、かつての親友が着飾っていた白銀の鎧。どうい
う条件で手に入れたかは知らないが、ゼノスの瞳には一瞬の揺らぎ
が存在しない。
透き通った瞳だ。アルバートは恰好よりも、ゼノス本来の意志が
目覚めた事に喜びを隠せなかった。
﹁それで、儂等はどうすればよいかの。手伝おうか?﹂
﹁心配無用だ。︱︱俺が聖騎士として必要な力を有しているかを、
1928
こいつで試してみたい﹂
﹁⋮⋮ふっ、よかろう。ラインも構わんな?﹂
ラインは嫌がる事なく、むしろ嬉しそうに頷く。
﹁僕としては願ったり叶ったりさ。︱︱ゼノス。君の力の真髄、し
かと見させてもらうよ﹂
二人の意見は一致し、黙してゼノスを見守る事にした。
ゼノスは、﹁有難う﹂とだけ言い、すぐさま剣を腰のところに引
き寄せて、切先を相手に向ける。
ここまで、魔人から大きな動きは見て取れない。奇襲する機会は
幾度となくあったのにも関わらず、彼は距離を保っていた。単なる
狂人かと思いきや、意外にも相手の隙を窺っていたようだ。
︱︱炎獄の魔人。
奴こそが、白銀の聖騎士に仇なす最初の敵。これから繰り返され
るであろう戦いの序章だ。
1929
﹁︱︱行くぞ、魔人﹂
﹃ガ、アアアアッッ!﹄
ゼノスの声に呼応したかの如く、魔人が奇声を上げながら突撃し
てくる。右手を握り締め、大きく力を溜め込む。
一瞬の余裕さえ見せられない。ゼノスもまた息を吐きつつ、切先
を相手の喉元に照準を合わせ、左手を剣の腹に添える。無駄な動き
を排除し、鈍い鎧の音と共に駆け走る。
これが聖騎士の鎧の重み。歴代の聖騎士達が愛用していた鎧は、
多くの希望と責任で重みが増している。
⋮⋮慣れなければ、聖騎士の戦いに。
両者は激しく衝突しようとする。
魔人は拳を振り上げ、ゼノスに向かって撃ち放つ。力の宿った一
撃は爆炎を呼び寄せ、轟音を鳴り響かせる。
1930
しかしゼノスは爆炎に飲み込まれる寸前、咄嗟に屈みこむ。その
まま滑り込む形で魔人の股下を潜り抜ける。無論、剣を構える体勢
は絶対に崩さない。
﹃ぐ⋮⋮ォ?﹄
魔人の反応は遅かった。
周囲を見渡すが、ゼノスは背後へと回り込んでいた。立ち上がっ
た彼はすかさず魔人の心臓部を射捉え、刺突を放つ。
肉を鋭く穿つ音。
やったかと確信したが、それは思い上がりだった。
﹃⋮⋮ア⋮⋮マイ﹄
﹁ッ!?﹂
ようやく人間の言葉を紡いだ魔人は、裂けた口先を吊り上げる。
1931
身体全体を盛大にくねらせ、瞬時に一回転させる魔人。寒気を覚
えたゼノスは剣から手を離す。
心臓を突き刺しても、奴は苦しむ素振りを見せない。それどころ
か、ゼノスの剣は魔人の炎によって焼かれ、液体状の鉄となってし
まった。
﹁むっ、いかん!ゼノス⋮⋮儂の戦斧を!﹂
﹁必要ない!俺にはまだ、最高の武器がある!﹂
ゼノスは断言する。
⋮⋮そう。ゼノスにはまだ、武器がある。
それは見えざるもの。聖騎士が形ある武器を失い、危機に立たさ
れた時のみ使用できる異色の奥義である。
⋮⋮今なら発動できる。聖騎士の鎧を授かり、聖騎士として生き
ると決めた今なら︱︱ッ!
1932
魔人はゼノスを頭から喰おうとする。口を開き、覆い被さろうと
する。だが一方のゼノスは、極めて冷静沈着であった。
︱︱最高の武器。
聖騎士の織り成す斬撃のオペラを奏でる為に。
淡い光の武器達となりて、美しいハーモニーを生み出す。
﹃︱︱︱︱︱︱﹄
開幕。ゼノスの瞳に、より一層鋭さが増す。
まずは序章。
舞台の主人公を演じる聖騎士ゼノスは、闇の使者たる魔人から距
離を取る。真後ろに下がったゼノスは、両手で光の武器を掴む。⋮
⋮何も無い場所から、光を帯びた聖槍を出現させた。
1933
彼は聖槍を投擲する。光の槍は一迅の流星となり、容赦なく魔人
の腹部を貫く。
﹃お、ご⋮⋮オオッッォ!﹄
激痛に苛む魔人。
しかし、オペラの幕を下ろす事はない。まだまだ奏で足りない、
未だ完結には至らない。
二章。
自分の背丈よりも巨大な双対の聖斧を両手に持ち、魔人へと向け
て投げ放つ。
聖槍の投擲はオペラの始まり。聖斧は物語を助長すべく、軽快に、
そして滑稽且つコメディ溢れる動作で魔人の全身を斬り裂いていく。
ブーメランの様に手元へと戻って来るが、再度ゼノスは聖斧を放
つ。まるで大道芸人の如く、あくまで自分を滑稽且つ華麗に魅せる。
1934
﹃タ⋮⋮タズッゲ⋮⋮ッッテ!﹄
何とも哀れな姿か。物語の悪役よ。
だが、本番はこれからだ。
三章。
穏やかな川は激流と成し、それは物語の展開を覆す意味と捉える。
次なる役者は聖剣。今度は聖騎士自身が舞台に立ち、聖剣を手に
悪役たる魔人の元へと疾駆する。
絶叫する魔人の懐へと踏み込んだゼノスは、がむしゃらに剣を振
り抜く。
狂おしく、どこまでも相手を憎み続けて。激しい怨嗟を剣に宿し、
相手を突き刺す。薙ぐ。叩き伏せる。圧倒的な力を以てして、炎獄
の肉体を徹底的に斬り裂き続ける。
1935
怒涛のコーラス。残酷な結末を後に控えた魔人を他所に、ゼノス
は終焉へと導く最後の武器を出現させる。
終章。
ここに、魔人は果てる。
最後の武器である聖弓を構え、弦を精一杯に胸へと引き寄せる。
爛々と輝く弓矢を、魔人の脳部へと合わせる。
﹁︱︱消えろ、魔人。貴様のような悪者は、世界平和にとって障害
でしかない!﹂
ゼノスの叫び。
弓矢は無慈悲にも放たれる。光の粒子を零しながら、物語を幕引
きへと誘う。
︱︱命中。
1936
透き通る程よく聞こえる的中音。魔人の眉間を貫き、魔人は呻き
声を上げながら⋮⋮⋮⋮崩れ落ちる。その身体に、聖槍・聖斧・聖
剣・聖弓の弓矢を突き刺されながら。
﹃⋮⋮バ⋮カッ⋮⋮⋮⋮ナ﹄
それでも尚、炎獄の魔人は死なない。
全身を引き摺り、悪魔じみた手を伸ばしながら、ゼノスへと近付
こうとする。害虫にも勝る生命力だ。
ゼノスは怯まない。鋼の意志を受け継いだ以上、これしきで臆す
る事は許されないのだ。
﹁⋮⋮これは始まりに過ぎない。俺が聖騎士として生きる限り、悪
を滅ぼす行為は日常と化すだろうな﹂
自分に言い聞かせるように呟き、踵を返す。
1937
奴隷商人であったアグリムに︱︱死を。
アルバートとラインの元へ戻る途中、ゼノスは指を鳴らす。
﹃ッッ!﹄
魔人は悶え苦しむ。全身に突き刺された光の武器が輝き出し、大
きく膨張し始める。一生懸命抜こうとするが、簡単には取れない。
神に懺悔する事もなく、光の武器が破裂する。
魔人︱︱否、アグリムの全身は肉の破片となって飛び散る。一切
の再生を許さず、細胞一つ一つを残さず殲滅した。
嗚呼、めでたしめでたし。
これにて、オペラは大団円を迎える。
﹁︱︱聖騎士流妙技、﹃マドリガル﹄。舞台役者に踊らされ、恥辱
に満ちたその姿は⋮⋮とても哀れだったよ﹂
1938
ゼノスはそれ以上告げる事もなく、ある思いに耽る。
この白銀の鎧を装着してから、自分の力が飛躍的に上がった様に
感じた。現に今まで成功しなかったマドリガルを、容易に使用する
事が出来たのだ。意識の向上のおかげかもしれないが、この鎧は不
思議なオーラを纏っている。
⋮⋮二代目聖騎士から貰った鎧。
だがあの場所で話した内容は、一切思い出せない。
︱︱複雑な思いに駆られながら、聖騎士の初陣は終わりを告げた。
1939
1940
ep21 それぞれの行く先
アグリムの死亡後、その後処理は淡々とこなされた。
生きている奴隷達は解放され、マハディーン王国が彼女達を保護
する事となった。幸い、生き残った奴隷は精神崩壊を来しておらず、
今後社会復帰の可能性が期待できるだろう。
更にトル︱ナに関しても、王国側は大胆な動きに出た。
王国は騎士団を派遣し、ウズファラの指揮下で残存部隊の掃討を
行った。アグリムが死んだと聞き、降伏する者もいれば、その場で
自害した者もいた。
これからのトル︱ナは、王族直属の親衛部隊の下、マハディーン
王国唯一のオアシス都市として厳重な管理がなされるだろう。奴隷
売買の規制も本格化され、町の治安も変化していくかもしれない。
あとこれは蛇足かもしれないが、ラインという暗殺者について。
1941
彼はアルバートに、ランドリオ騎士団入団を希望したらしい。ゼ
ノスが傭兵団を抜け、騎士団に入る事も知っていたようだ。
ゼノスやイルディエは反対したが、何故かアルバートは彼を受け
入れた。
理由は⋮⋮よく分からない。ラインとは何度か話し合ったそうだ
が、何度聞いても内容を教えてくれなかった。
しかし、ラインはランドリオ帝国に向かう前、ゼノスにこんな一
言を残して行った。
﹃僕は君から色々と学んでみたい。過去の過ちを清算する為にも、
君と言う正義から享受させて貰うよ。⋮⋮力の使い方というやつを
ね﹄
その言葉が何を意味するかは、おおよそだが分かる。
暗殺者として生きて来た彼。自分の生き方を変える為に、そうし
た大きな決断をしたのだろう。
1942
ラインという男とは、長い付き合いになるかもしれない。
⋮⋮さて、最後はレイダについてだ。
フレイジュ火山地帯での死闘で、レイダは片腕を失った。
利き腕の損失は、傭兵としての生命を絶たれたも同然。しかも医
者に尋ねた所、彼女は集中治療を受ける必要があると言われた。適
切な処置をしなければ、いずれレイダはその傷が原因で死ぬかもし
れない。
︱︱死闘から三日が経過した頃、話し合った結果、レイダはレデ
ィオの町で治療をする事になった。レディオの町には優秀な医師団
体がおり、その名声は世界中に広まっている程だ。
きっと、そこでならレイダも助かるかもしれない。
一同がそう願いつつ⋮⋮レイダと別れる時が来た。
1943
もはや慣れ親しんだグライデン傭兵団の隠れ家。
しかし、この隠れ家はまたもぬけの殻となるだろう。
照り輝く日差しの下、隠れ家の門前には幾人かの人々がいる。ゼ
ノスやイルディエ、エルーナ、アルバートは勿論⋮⋮車椅子に座る
レイダと、数人のグライデン傭兵だ。
︱︱今日、レイダはレディオへと旅立つ。
﹁⋮⋮しけてんねえ﹂
1944
ふと、レイダが苦笑まじりに言ってくる。
ゼノス達が俯いていたせいか、その場の雰囲気が暗くなっていた
のかもしれない。彼女はそういう空気が大嫌いだった。
﹁心配しないでおくれ。このあたしが、こんな傷で死ぬと思ってん
のかい?﹂
﹁⋮⋮でもレイダさん。トル︱ナのお医者さんの話だと、例え手術
しても⋮⋮成功する確率が限りなく少ないって⋮⋮﹂
言いかけて、イルディエは自分の口を押える。
だがそんな事は気にせず、レイダは笑いながら答える。
﹁ま、なんとかなるさね。⋮⋮それに、﹃未来のお医者様﹄もご同
行なさるんだ。むしろ直ると確信してるよ﹂
そう言って、横に佇むエルーナの頭をポンポンと叩く。
イルディエは心配そうに、エルーナへと振り向く。
1945
﹁⋮⋮エルーナ﹂
﹁もう、心配性だなあ∼イルディエは。言っておくけど、これは私
が決めた事だよ?﹂
彼女は愛嬌ある笑みで、イルディエを納得させようとする。
︱︱昨日、エルーナは急に医者になりたいと言い出した。
レイダが傷付いたのは自分のせいだし、自分の手でレイダを直し
てあげたい。様々な恩を返す為に、レディオで医学を学びたいよう
だ。レディオでは医療専門学校も設置されているので、その夢も叶
うだろう。
ゼノスは反対しない。むしろ彼女の意思で選んだ事に喜びを覚え、
素直に応援したいと思う。
しかし、イルディエは複雑なのだろう。お互いは何かと喧嘩して
いたが、いつしか親友という関係に至った。離れがたい存在故に、
分かれるのが一層辛かった。
1946
共に行きたいという気持ちもあるが⋮⋮それは出来ない。
エルーナはイルディエへと近寄り、その手を握る。
﹁︱︱イルディエも、やりたい事が出来たんでしょ?だったらお互
い頑張って行こうよ。ね?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
イルディエは零れ落ちそうな涙を拭い、笑顔で答える。
﹁ふふ、その調子だ。まあ名残惜しい面もあるけど⋮⋮あんたはゼ
ノスと共に歩むと決めたんだ。遠くから応援してるよ﹂
﹁有難うございます﹂
イルディエは深々と頭を下げる。
︱︱彼女はアルバートの勧めにより、ランドリオ騎士団に入団す
1947
る事にした。
不死鳥の力は勿論、彼女自身に宿る潜在能力は非常に素晴らしい。
ゼノスと同様、才能有りと判断したアルバートは、躊躇なく誘って
みたのだ。
返事は早かった。ゼノスもまた聖騎士として入団する以上、イル
ディエの居場所もそこしかない。⋮⋮ランドリオ騎士として、多く
の人々を救っていくつもりだ。
だからこそ、レイダやエルーナと別れなければならない。
﹁⋮⋮っと、そうだ。イルディエ、あんたに渡したいものがある﹂
﹁渡したいもの⋮ですか?﹂
疑問符を浮かべるイルディエを他所に、レイダは後ろの団員に軽
く目配せをする。団員は静かに頷き、布に包まれた長い何かを持っ
て来る。
イルディエにそれを渡す団員。﹁布を解いてみな﹂と促すレイダ
1948
に従い、イルディエは布を解いていく。
﹁これは⋮⋮槍?﹂
﹁そ、練習の時に使ったやつさ。実はこいつ、ちょっとした優れも
のでね⋮⋮。あたしの相棒でもあるから、大事に使ってくれよ﹂
﹁え、でも⋮⋮⋮⋮﹂
反論しようとするが、レイダはそれを止める。
﹁細かい事はいいさ。︱︱あんたに使って欲しいから渡す。不死鳥
の力は確かに便利だが、頻繁には使えないだろう?人としての武器
はあるに越した事はない﹂
レイダの意図を聞き、イルディエは感極まった様子で立ち尽くす。
﹁⋮⋮レイダさん﹂
イルディエは何度も何度も頭を下げてくる。今度は涙をぼろぼろ
1949
と零しながら、感謝の念に包まれる。
﹁さてと⋮⋮そろそろ行こうかね。ウチの旦那が心配する前に﹂
レイダは後腐れもなく、団員に車椅子を引かれて遠ざかる。
そしてエルーナも行くかと思いきや、彼女はゼノスの前に立つ。
唐突に、深くお辞儀をしてきた。
﹁︱︱ゼノス様。本当に、本当に有難うございました。こんな私を
救ってくださって⋮⋮⋮⋮このご恩は、いつかきっと返します。必
ず﹂
﹁気にするなよ。けどもし恩返しを願うならば、俺はエルーナの幸
せを望む。︱︱立派な医者になって、お前なりの方法で人々を救い
たいんだろ?﹂
﹁は、はい﹂
1950
﹁ならそっちを頑張ってくれ。⋮⋮平和を望む者同士、頑張って行
こう﹂
彼女は頬を染め、頷く。
奴隷という経験から、エルーナという少女は医者になりたがって
いる。
ゼノスと別れる事は死ぬほど辛いが、仕方ない。
エルーナは涙を見せまいと顔を背け、去りゆくレイダの後を追う。
ゼノスは後ろからジッと見つめ、やがて自らの剣を胸元で掲げる。
これはグライデン傭兵団でのしきたりであり、武運を祈る時によく
使われる。
言葉にするより、ずっと分かりやすい。そしてゼノスから別れを
言うつもりは無い。いつか再会できると信じて⋮⋮今は二人を見送
るのだ。
レイダ達が見えなくなった所で、ようやくアルバートが口を開く。
1951
﹁よし、では儂達も向かうとするか。︱︱武を極めた者達が集う、
ランドリオ帝国へとのう﹂
﹁⋮⋮ああ!﹂
勢いよく返事をし、白銀の鎧を入れた布袋を担ぎ、一歩を踏み出
そうとする。
が、イルディエに後ろから襟を掴まれる。
﹁ちょっと待って下さい、ゼノス﹂
﹁ごほッ⋮⋮ど、どうした?﹂
少々喉を絞められたゼノスは、咳き込みながら尋ねる。
イルディエは恥ずかしそうにしながら、しばし赤面状態でいる。
深呼吸を重ねた後︱︱彼女は唐突に妖艶な笑みを見せ、彼女らし
くない雰囲気を醸し出す。
1952
﹁︱︱ふふ、これからも宜しくねゼノス。貴方の足手まといになら
ないよう、精一杯努力するつもりよ﹂
﹁⋮⋮あ、ああ。でも何で口調を変えたんだ?﹂
﹁そ、それはあれよ。臆病な性格じゃ騎士はやってられないし、丁
寧口調だと馬鹿にされるかもしれない。うん、これなら大丈夫そう
ですね。⋮⋮じゃなくて、大丈夫そうね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
何がしたいかよく分からないが、彼女には彼女なりの決意がある
のだろう。とても似合わないが、今は何も言うまい。
︱︱奴隷だった少女は、不死鳥の力とレイダの相棒を手にする。
1953
これから彼女を待ち受けるのは、人種差別という問題だけではな
い。騎士団に入る以上、戦争は避けられない。
戦争では人が死ぬ。恨みもない人間を殺す機会が増える。例え理
不尽だと思う所業でも、素直に受け止めなければならない。
⋮⋮とても辛い世界だ。
だから戦争が終わった時は、アステナの教えを守るようにしよう。
アステナ民族は、踊りをこよなく敬愛する。どんなに辛い事があ
っても、彼等は踊る事で鬱憤を晴らす。
⋮⋮そうして生きて行こう。
これから先、どんな運命が待っていたとしても。
︱︱もう、立ち止まらないようにしよう。
1954
1955
ep22 再会と別れ
時は現在に戻る。
深い森林に覆われ、穏やかな川が村の中央を流れる。昼夜問わず
七色虫の色鮮やかな発光に包まれ、幻想的な風景を創り出す。
ここはレディオの町。険しい谷と森を超えた先にある小さな町で
あり、人口の殆どが医者だという珍しい場所だ。レディオには日々、
世界中から患者が集まり、独特の医療技術が備わっている。
町の沿革を辿ると、始まりはとある医者の隠居から始まる。
今から数百年前。大陸一の医者が老齢に達した時、自らの隠居先
を探して旅をしていた。長い旅路を経て、到達したのが今のレディ
オがある森だったらしい。
最初こそ静かで平和な場所を求めていただけだったが、ここには
患者の回復速度を速める空気が流れ、川の水には癒しの効果がある
事が判明した。
1956
医者はここを治療に最適な場所として認め、いつしか多くの医者
たちが集う様になった。これがレディオの町発足の起源とされてい
る。
そんな町の患者療養施設にて、イルディエは目を覚ました。
﹁⋮⋮あら、ここは﹂
彼女は寝ぼけた状態のまま、ベッドから下りて部屋窓のカーテン
を開ける。
﹁⋮⋮レディオの町じゃない。でも何でこんな所に﹂
と、そこでイルディエは全てを思い出す。
自分がヴァルディカ離宮で六大将軍と戦い、不死鳥の力を使って
敗北した事を。恐らくヴァルディカの事件が解決し、イルディエは
このレディオへと連れて来られたのだろう。
1957
そうに違いない。イルディエはジト目で、後方を見やる。
﹁よおイルディエ。調子はどうだ?﹂
イルディエに対し、同じ部屋にいる青年︱︱ゼノスが問う。
ゼノスだけではない。両脇にはゲルマニアとジハードも控えてい
る。
彼等は一心に目前の⋮⋮箱?箱のガラス状部分から映し出されて
いる映像に釘付けとなり、更には手に持つ何かで画面上の人物を操
作していた。
﹁⋮⋮ねえ、それ何なのかしら﹂
﹁ああ、これか。これは⋮⋮あっ、てめ!﹂
ゼノスは焦燥しながら、懸命に手に持つ何かで操作する。
﹁ふふん、ゼノス甘いですね!例え貴方が六大将軍でも、こちらの
1958
私は史上最強です!﹂
﹁はっはーッ!その意気だぜゲルマニア!格闘ゲームは力じゃなく、
操作力と知性が問われるからな!﹂
ジハードは豪快に笑い、ゲルマニアは得意げに鼻を鳴らす。
﹁やっぱりこの世界に持ってきて正解だったぜ。どうよゼノス、こ
れで一稼ぎ出来ると思わねえか?﹂
﹁それは構わないけど、まず揃えるべき物が沢山あるだろう。⋮⋮
更に言えば、完成品を世に知らしめても意味が無いと思う﹂
﹁うぐっ!⋮⋮へへ、そんなの百も承知だぜ。イエロードラゴンの
連中に頼んで、技術提供も行おうと思ってたんだ﹂
ジハードの言葉に、感心したようにゲルマニアが呟く。
﹁へえ、凄いですね。⋮⋮⋮⋮ところでこれ、どんな妖術の類で構
成されているのですか?﹂
﹁﹁⋮⋮﹂﹂
1959
ゼノスとジハードが沈黙する。
この世界に﹃機械﹄という概念がない為、ゲルマニアには一生理
解出来ない代物だろう。
﹁⋮⋮ジハード。まずは機械の概念から教えてかないと﹂
﹁そ、そのようだぜ﹂
一連の会話には、他方のイルディエも付いて行けない。
どこから突っ込んだらいいか分からないし、これに関しては口を
挟まない方がいいのかもしれない。多分、理解出来ない領域だ。
イルディエは嘆息し、ベッドの上に座る。
﹁単刀直入に聞かせてもらうけど、ヴァルディカでの事件の経緯を
話してもらえるかしら?まあその様子だと、結果は大体予想出来る
けど﹂
1960
ゼノスはゲームに夢中になりながらも、イルディエに今までの経
緯を簡潔に述べる。
イルディエが気絶した後、アリーチェの助けにより意識を取り戻
したこと。その後、ゼノス達はエリーザを倒し、マーシェルをアル
ギナス牢獄に連行。彼からシールカードについて詳しい情報を聞き
出す間、ゼノスは傷付いたイルディエをレディオに連れて行ったこ
と。
一通り話し終えると、彼女は頭を悩ませる。
﹁はあ、私の傷ってそんなに深刻だったの⋮⋮﹂
﹁まあな。何せ竜帝の炎に触れ、ユスティアラの風姫刀をまともに
くらったんだ。ここの医者が直さなきゃ、今頃お前はあの世行きだ
よ﹂
﹁⋮⋮そう。体調は万全だし、どうやら良い医者に治療してもらえ
たようね﹂
﹁ああ。何せ、最高の医者に見てもらったんだからな﹂
手に持っていたそれを置き︵ゲルマニアが名指ししていたが、コ
1961
ントローラーと言うらしい︶、ニヤニヤとするゼノス。
最高の医者⋮⋮。
﹁へえ、なら礼を言わなきゃね。私が起きた以上、もうじきランド
リオ帝国に帰還しなきゃでしょ?﹂
﹁そうなるな。イルディエの看病にかれこれ一週間もかかったし、
アリーチェ様も心配なさるだろう。⋮⋮それに、シールカードに動
きがあったようだ﹂
﹁⋮⋮﹂
自分が一週間も寝込んでいた。その事実にも驚いたが、イルディ
エの関心は後者にあった。
シールカード、謎めいた集団に動きがあったとなると、帝国の安
全も気になる所だ。
早急に帝国へと帰還する為にも、今すぐ医者に礼を言う必要があ
るだろう。
1962
﹁ちょっと行って来るわ。お医者様は何処にいるのかしら?﹂
﹁この施設の一階にある医務室にいる筈だ。言い終わったらさっそ
く出立⋮⋮って、ゲルマニア!お前いつの間にかそこまで︱︱ッ﹂
ゼノスはまたもや焦り始め、もはやイルディエに語り掛ける余裕
もない。ゲルマニアの猛攻に苦戦を強いられていた。
⋮⋮ゲーム。よく分からないものだが、イルディエとて暇では無
い。
子供の様にはしゃぐ三人を置いて部屋を抜け出し、軋む廊下を歩
いて行く。相当古い建物のせいか、全体の造りが老朽化している感
じがする。
﹁⋮⋮にしても、最高の医者ねえ﹂
ゼノスの言葉を思い出し、くすりと微笑む。
そういえば昔、レイダがエルーナの将来をそう決め付けていた気
がする。
1963
︱︱あれから五年の月日が経過した。
レディオと言えば、エルーナが医者になる為に向かった場所だ。
そしてレイダが集中治療を受ける所でもある。
二人は元気にしているだろうか。エルーナは無事に医者となり、
レイダは⋮⋮完治しただろうか。
今更になって、五年前の不安が突如甦る。
﹁っと、ここのようね﹂
イルディエは一階にある医務室前へと辿り着く。部屋の扉は他の
扉とそう大差ないが、看板に医務室と書いてある。ここで間違いな
いだろう。
とんとんと扉を小突く。
すると中から、﹁どうぞ∼﹂という間の抜けた声が響く。
1964
﹁失礼するわ。私の治療をしてくれたようなので、礼を言いたくて
︱︱﹂
イルディエが部屋に入り、言葉を紡ぐ途中。
金色の長い髪が、イルディエの意識を奪う。
惚れ惚れする程美しい髪であり、純白の白衣がそれとマッチして
いる。天使と言われれば、一瞬でもそうだと信じてしまうかもしれ
ない。
呆然とする中、椅子に座る医者がこちらを振り向いてくる。
彼女は眼鏡を上げ、ニコリと微笑む。
︱︱その顔を見ると、五年前の少女・エルーナと重ねてしまう。
﹁⋮⋮⋮⋮もしかして⋮エルーナ⋮⋮なの?﹂
1965
﹁ふふ、そうだよ∼。当たり前じゃない∼﹂
彼女は相も変わらず、呑気な口調でそう答える。
五年ぶりの親友を前に、イルディエは言葉を失っていた。
﹁どしたの、イルディエ?もしかして緊張してる?﹂
﹁そ、そんなわけないわよ。ただその⋮⋮突然だったもので﹂
﹁あ∼イルディエはそうだね。けど私は、かれこれ一週間もイルデ
ィエの治療担当にあたってたんだよ?どう、凄いでしょ∼﹂
それを聞いて、イルディエは更に驚かされる。
自分の傷が竜帝やユスティアラから受けたものならば、相当有能
な医者でない限り、治療は不可能だ。
たった五年の歳月で、エルーナはここまで成長したというのか。
1966
﹁⋮⋮でも、イルディエも成長したよね。噂は愚か、今じゃ不死の
女王として、多くの英雄叙事詩に出ているわけだし。むしろ私の方
が驚いてる﹂
﹁⋮⋮色々な経験をしただけよ。戦争とか、人殺しとかね﹂
﹁⋮⋮﹂
エルーナはしまったと思い、自分の発言に後悔する。
イルディエがここまで上り詰めた理由は、単純に戦場での功績で
ある。
神話の化け物を殺し、侵略国の兵士を殺してきた。殺戮を知らな
ったあの頃と比べれば、良くも悪くも成長はするものだろう。
しかし、自分の生き方を恥じた事はない。
イルディエは軽く笑む。
1967
﹁気にしなくてもいいわ。確かにこの手を汚してしまったけど、反
対に多くを救ってきたと自負している。︱︱騎士の誉れってやつね﹂
﹁そう。⋮⋮相変わらず、前向きに生きてるんだね﹂
エルーナは心底嬉しそうに答える。
彼女とて同じ道を歩む者だ。医者として手術を行い、命を救えな
かった場面もある。だが反対に、命を救ったケースも少なくない。
患者の命を救う︱︱それこそが医者の誉れ。イルディエの気持ち
は重々理解出来るのだ。
﹁︱︱それで、私に何か用かな?﹂
﹁ええ、まあ。私の意識も戻った事だし、今日中にはレディオを出
ると思うの。私を治療してくれたお医者様に、一言お礼を言いに来
たのよ﹂
﹁ああそういうこと。ふふ、どういたしまして﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あと、もう一つ聞いておきたい事があるわ﹂
1968
イルディエは暗い表情となり、俯き加減のまま言う。
エルーナは首を傾げる。
﹁どしたの?﹂
﹁⋮⋮その、レイダさんに関してなんだけど。あの人は⋮⋮元気か
しら﹂
勇気を振り絞り、思い切って尋ねてみる。
レイダが利き腕を失い、かれこれ五年以上が過ぎた。当時は回復
の余地も見えず、近い将来には死を迎えるだろうと宣告された程だ。
例え彼女が既に死んだとしても、エルーナはレイダの闘病生活を
目視してきた筈だ。ありのままの事実を、一度でいいから聞いてお
きたかった。
エルーナは無表情となり、やがて眼を閉じる。
1969
﹁⋮⋮エルーナ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮傷は思った以上に深刻だったよ。レディオの医療技術な
ら再生治療も可能だと思ったけれど、腕の損失は免れなかった。結
局の所、レイダさんは傭兵に復帰する事は出来ないよ﹂
﹁⋮⋮﹂
やはりそうか。
だが彼女は視線を部屋の窓に向け、窓を開け放つ。
爽やかなそよ風が頬をなでる。
それと同時に、イルディエはある光景を目にする。
遠く離れた先には、患者専用の休憩所がある。一面を森に囲まれ、
眩しい陽の光が当てられた憩いの場所。清らかな小鳥の音色を聴き
ながら、幾人かの患者達は心地よさそうに、芝生の上で眠る者もい
れば、楽しそうに遊ぶ者もいる。
1970
︱︱彼等の中に、ある中年の夫婦もいた。
簡素なワンピースに包まれ、片腕だけの女性は、穏やかな表情で
編み物を行っていた。その横で、夫が編み物の手伝いをしている。
夫婦を見たイルディエは、言葉を失った。
五年の歳月を経て、外見は衰えてしまったけれど。妻の方は間違
いなく、あのレイダであった。
﹁ふふ、最近ようやく外出出来るようになったんだ。︱︱戦士には
戻れないけど、一般人としては生きられる。レイダさんも納得して
いたよ?﹂
﹁え⋮⋮ッ!﹂
イルディエは驚愕する。
1971
彼女は傭兵こそ自分の人生の全てであると言っていた。戦いこそ
が人生、戦争の出来ない自分など、自分ではない。彼女が自ら断言
していた。
そんな彼女を変えたものは⋮⋮一体。
﹁レイダさんは言ってたよ。︱︱﹃あたしの意思は、確かにイルデ
ィエに受け継がれたと思うんだ。⋮⋮あの子を見守る事、それが今
のあたしの生きがいさね﹄、と﹂
﹁⋮⋮⋮⋮そう、なんだ﹂
声を震わせ、小さく呟くイルディエ。
こんな自分の為に槍を与えてくれ、見守ると言ってくれた。それ
が嬉しくて、同時に恥ずかしくも感じた。
ならイルディエが悩む必要もない。彼女自身がそう答えた以上、
受け入れるしかない。
幸せそうに過ごすレイダとその夫を遠目に、イルディエはお辞儀
をする。
1972
お辞儀をし終え、今度はエルーナに感謝を述べる。
﹁有難う、エルーナ。⋮⋮今抱える問題が済んだら、またレディオ
を訪れる。そして、今度はレイダさんに会いに行くから﹂
﹁うん、そうしてあげて。成長したイルディエを見れば、きっとレ
イダさんも喜んでくれるよ﹂
﹁そうね。⋮⋮じゃあ、また会いましょう﹂
イルディエは部屋を退出しようと、エルーナから顔を背ける。
﹁︱︱イルディエ﹂
ふと、エルーナが言葉を投げかけてくる。
一体何かと思いきや︱︱次の瞬間、イルディエの意表を突いた。
﹁︱︱私はもう想いを伝えられないけど、イルディエならまだ間に
1973
合うよ。⋮⋮ゼノス様の事、今でも好きなんでしょ?﹂
﹁ッッ!﹂
イルディエは顔を真っ赤にさせ、目を見開く。
どうやら図星だったようだ。年頃の少女らしい反応に、必然とエ
ルーナの表情が綻ぶ。
振り向く事はなく、部屋の扉を開けるイルディエ。
退出しようとするが、彼女はその場で立ち止まる。そしてもごも
ごとした口調で、不安そうに問う。
﹁⋮⋮⋮⋮今まで躊躇してきたけど、肌が黒いからという理由で⋮
⋮拒絶されたりしないかな?﹂
﹁とんでもない!あの方がそんな偏見をするわけがないよ!イルデ
ィエが一番良く知ってるはずだよ?﹂
1974
﹁⋮⋮そ、そうだよね﹂
イルディエは乾いた声で答え、部屋を出て行く。
無言のまま退出したかと思われるが、エルーナは彼女が去る直前、
はっきりとその言葉を聞き取った。
五年前と変わらぬ、シャイな女の子が︱︱
いつか絶対、ゼノスに告白する⋮⋮と。
1975
ep22 再会と別れ︵後書き︶
※今更ですが、セラハのイラストをUPしました↓http://
6886.mitemin.net/i92192/ 1976
ep23 戦争の兆し
レディオの町を出立し、一同は森の中を進んでいた。
人気もなく、鬱蒼とした樹林が行く手を阻む。
レディオを訪れる者は通常、ここから離れた正規の道︱︱つまり
整備された街道を通る。しかしゼノス達はあえて、人のいないルー
トを選んだ。
それには理由がある。
暫く歩み続け、少々開けた場所へと到達する。ゼノスは、﹁よし、
ここまで来れば大丈夫だ﹂と皆に告げ、それぞれが近場の岩に座る。
ゼノスはゲルマニア、イルディエ、そしてジハードを見渡し、納
得したように頷く。
1977
﹁悪いな。重要な話をしたいから、人目につかない道を選ばせても
らった。ここでなら、誰にも聞かれる事はないはずだ﹂
彼はそう前置きし、続ける。
﹁⋮⋮俺達はこれより、ランドリオ帝国へと帰還する。だがその前
に、イルディエには色々と伝えなければいけない情報がある﹂
そう言って、ゼノスはイルディエを見据える。
だが彼女は、何故か即座に顔を背ける。⋮⋮気のせいか、イルデ
ィエの頬は真っ赤に染まっていた。
﹁⋮⋮イルディエ?﹂
﹁な、何でもないわ。いいから続けて﹂
そうは言うが、まだ正面から向き合おうとしないイルディエ。
エルーナに大胆告白をしてから、ついゼノスを意識してしまう。
これではまるで、五年前のイルディエと同じではないか。
1978
六大将軍となって以降、彼女は騎士として努めてきた。ゼノスと
はあくまで戦友として交流し、自らの想いを封印してきた。
彼が行方不明となり、二年後になって姿を現した時は⋮⋮涙が出
るほど嬉しかった。彼に対する想いが一瞬露わとなったが、それで
も何とか自制する事が出来た。
今回ばかりは、何故か歯止めが効かない。
だが今から重要な話が始まる。六大将軍という重役に就く者とし
て、真面目に取り組まなければ。
頭をぶんぶんと振り払い、頬をぺちぺちと叩く。⋮⋮ゲルマニア
が複雑そうな視線を送って来るが、気にしないようにしよう。
ゼノスは咳き込み、場をとりなす。
﹁実はイルディエが眠っている間、マーシェルの取り調べが終わっ
たらしい。奴はアルギナス牢獄内で、喚きながら自分とシールカー
ドの関係を明かしてくれたそうだ﹂
1979
取り調べ︱︱それを拷問という形式で、洗いざらい吐かせた。少
々手荒だが、死なない程度に実行したと信じたい。
彼の自室からシールカード勢力との同盟書が発見され、ユスティ
アラはこれに関してしつこく追及。最初こそ否定し続けたが、後に
同盟を結んだと自白してくれた。
︱︱だが、シールカード勢力については無知だった。
幾ら拷問を繰り返しても、知らないという一点張りであった。同
盟は派遣されたエリーザが持ち掛け、彼女自身から話す事もなかっ
た。
結局、マーシェルはシールカードによって一方的に利用されてい
たのだ。莫大な資金を提供し、ランドリオ皇帝という儚い夢に突き
動かされていたのだ。
今思えば、哀れで救いようのない人間だと思う。
﹁︱︱しかし奴は、エリーザとシールカード勢力との会話を盗み聞
きした事があるらしい﹂
1980
それは偶然の出来事であり、マーシェルは好奇心から会話の始終
を聞いた。
⋮⋮にわかに信じ難い話だが。
シールカード勢力は大幅に同志を増強させ、近々ランドリオ帝国
に奇襲戦争を仕掛けるとか。もの凄く物騒な事実を、マーシェルは
知ってしまったらしい。
イルディエは眉をひそめる。
﹁⋮⋮信用に足る情報なのかしら?まさかユスティアラともあろう
者が、敵の戯言を受け入れたとかではなくて?﹂
﹁そう思いたい所だが、ユスティアラも馬鹿じゃない。シールカー
ド勢力の情報が国家規模で噂される以上、今は慎重を重ねる時だ。
︱︱俺達以外の六大将軍はハルディロイ城に常駐、帝国の有力部隊
も国境付近を監視し続けている﹂
更に言うなれば、アスフィもハルディロイ城地下にて安静にして
1981
いる。
彼女はイルディエの容態を心配し、わざわざゼノス達に同行して
いたが⋮⋮帝国からの情報を聞いて、アスフィをハルディロイ城に
返したのだ。こればかりは仕方ないので、彼女自身も納得していた。
﹁⋮⋮そして、これは昨日やって来たジハードから聞いた情報だ。
帝国最北端の監視部隊から報告があり、北国パステノン王国の大草
原に︱︱所属不明の大規模軍隊が待機しているらしい﹂
﹁︱︱ッ。まさかそれって﹂
﹁ああ、ユスティアラの判断は正しかった。まだ明確ではないが、
時期的に見ても⋮⋮シールカード勢力と見た方が正しいと思う﹂
︱︱パステノン王国。国の最北部は極寒の氷河地帯が続き、首都
のある南部でも一年を通して雪が降っている。﹃雪原王国﹄とも呼
ばれ、王国は始原旅団の管轄下にある。
アルバートが抜けて以降、始原旅団は得体の知れない組織と化し
ている。
実際、ゼノスも始原旅団とは深い因縁がある。侵略を極端に好む
彼等ならば、最悪シールカードと同盟を結び⋮⋮共にランドリオ帝
国へと侵入してくる可能性がある。
1982
事態は深刻だ。
ゼノス達も早急にハルディロイ王城へと帰還し、すぐさま国境付
近へと出張る必要がある。
﹁⋮⋮なるほどね。でもそうなると、このルートだと何日もかかる
わよ?徒歩だと数日⋮⋮約一週間は費やすわ﹂
﹁そう言うだろうと思った。︱︱だが安心してくれ。その為にジハ
ードが此処にいるんだから﹂
今まで黙っていたジハードは、それを聞いて豪快に立ち上がる。
そして、意味もなく豪快に笑い始める。
﹁がははッ、俺に任せときな!男ジハード、帝国危機に参じてひと
肌脱いでやるぜ!﹂
彼は、﹁とうっ!﹂と言って大きく跳躍する。
1983
森を突き抜け、上空へと飛んだジハードは︱︱その姿を異様なま
でに変化させる。
服を破り、全身は漆黒の巨大な肢体となる。両手両足には太く鋭
利な爪が生え、町一個を薙ぎ飛ばせる尻尾も伸びる。
裂けた口から尖った牙が覗き、鋭く大きな瞳が地上を見つめる。
︱︱漆黒の竜帝・ジハードは翼をはばたき、地上へと急降下する。
そして驚くイルディエ達に、その全貌を晒す。
﹃ふぃ∼、変身完了っと。⋮⋮あ、悪いゼノス。足の下にある木、
全部踏み倒しちまった﹄
﹁そのぐらいなら大丈夫だろ。⋮⋮それに、オリジナルサイズより
も大分縮小されているし、感心感心﹂
ゼノス達の呑気な会話を他所に、イルディエとゲルマニアは呆気
に取られる。
それはそうだろう。何せ伝説上の生き物が、こうして目前に現れ
ているのだから。
1984
﹁⋮⋮そうだったわ。この人は竜帝だったのよねえ﹂
イルディエは先の戦いを思い出し、ある意味で納得を示す。
だが初めてこの事実を知ったゲルマニアは、酷く混乱していた。
﹁え?え?何ですかこれ?竜帝は神話上の生き物で、ジハード様が
竜帝で⋮⋮へ?ど、どうなっているんですか!?﹂
﹃細けえ事はいいじゃねえか、へへ。︱︱おら、俺ならハルディロ
イ王城までものの数時間で辿り着くから。さあさあ乗った乗ったぁ
!﹄
﹁え、え∼∼∼∼∼∼∼∼ッ!?﹂
ゲルマニアの叫びだけが空しく響く。
1985
ゼノス達は無理やり竜帝の背に乗せられ、彼は勢いよく地上を飛
び立つ。
︱︱第二次死守戦争を前に、彼等は急いでランドリオ帝国へと向
かう。
1986
ep23 戦争の兆し︵後書き︶
四章終了
追記;12月24日午後五時更新=活動報告﹁次章の投稿予定日﹂
を投稿しました。
1987
ep0 極寒の王国パステノン
ゼノスは追われていた。
背後から迫り来る恐怖に怯えつつ、懸命に震える足を動かす。降
り積もった雪に足を取られかけても尚、前進する。
﹁はあッ︱︱はあッ︱︱ッ!﹂
乱れる呼吸、高鳴る心臓。
ゼノス・ディルガーナは白銀の聖騎士と称えられ、数多くの武勇
と伝説を築き上げてきた。例えどんな困難があったとしても、彼は
怖じけず、勇猛果敢に戦ってきた。
そんな彼が、今は恐怖に顔を歪ませている。
︱︱こんな感情は、生まれて初めてかもしれない。
1988
﹁⋮⋮ッ!?﹂
突如、ゼノスは背後から迫る者の声を聞いた。
微かだが、ゼノスの耳にははっきりと届いている。常人よりも耳
が良いが、今はそれが仇となっている。
背後の恐怖は、確かにこう述べた。
﹃︱︱逃がさない﹄
と、怒りを込めて。
怖かった。身震いが止まらなかった。ほんの些細なその言葉が、
ゼノスに更なる恐怖を植え付ける。
﹁くそっ、くそォ!何で⋮⋮何でこんな事に!﹂
1989
悪態をつき、ゼノスは目前の突き当たりを右に曲がる。
ここは街の路地裏であり、迷宮にも負けない迷路が広がっている。
入り組んだ場所を適当に彷徨って行けば、きっと奴を撒けるに違い
ない。
そう確信していた。
⋮⋮なのに、現実は厳しい。
ふと、ゼノスはその足を止める。
自分が行こうとしていた先に、僅かだが気配を感じる。きっと奴
の配下︵?︶が先回りをし、ゼノスを取り押さえようとしているに
違いない。
﹁︱︱ふっ。この俺が、そんな罠にかかるか﹂
余裕の笑みを見せ、彼は方向転換する。斜め左の登り階段を進み、
奴から逃れようと二段抜かしで登る。
1990
が、ゼノスは登りきる事が出来なかった。
﹁おごッ!﹂
何と、背後から鋭く投擲してきた物体が背中に直撃し、ゼノスは
哀れにも階段から転げ落ちる。
物体︱︱それはハリセンだった。
紙製なのに⋮⋮まるで金属の様な手応えだ。
﹃もう逃がしませんよ⋮⋮ゼノス﹄
﹁ひ、ひいぃッッ!﹂
素っ頓狂な声を上げ、近くの壁を背に震え上がるゼノス。
︱︱遂に追い詰められてしまった。
1991
目前の少女⋮⋮紫色の長い髪に、凛とした緑色の瞳。簡素な村娘
の衣装に身を包んだその悪魔は、ジト目でゼノスを睨んでくる。
そして少女の背後には⋮⋮三人の悪魔も控えている。彼等は一様
に、ゼノスを睨んでくる。
﹁あ、あぁ⋮⋮頼む許してくれ。わ、悪気は⋮⋮悪気は無いんだ!﹂
許しを乞おうとするが、時すでに遅し。
紫髪の少女にジャケットの襟を掴まれ、無慈悲にも引き摺られる。
﹁悪気が無いのなら、さっさと店番をして下さい!それでも怠いと
仰るのなら⋮⋮私、泣いちゃいますから!﹂
﹁あ、あ∼⋮⋮俺の、俺の自由を返してくれ∼﹂
間の抜けた悲鳴と共に、ゼノスは元の場所へと戻される。
1992
白銀の聖騎士、ゼノス・ディルガーナ。
彼は現在︱︱ランドリオ騎士団の仲間と共に、北方の王国・パス
テノンの城下町で﹃行商人﹄として働いていた。
事の発端は、今から約二週間前。
第二回円卓会議での採決から、今回の出来事が始まったのである。
1993
ep0 極寒の王国パステノン︵後書き︶
※30日の午後九時にep1を予約投稿しました。
1994
ep1 第二回円卓会議
ハルディロイ王城の円卓の間にて、偉大なる騎士達と姫君が集っ
ていた。
︱︱第二回円卓会議。
記念すべき第一回はアリーチェの婚約式についてであり、そこに
シールカード勢力に関する議論も交えた。⋮⋮まあ議論というには
程遠かったし、しかも曖昧な結果に終わってしまったが。
だが今回の会議では、きっと実りある議論が出来るだろう。
⋮⋮帝国北方の境界線を挟んだ先にある﹃パステノン王国﹄。境
界線を越えた先にて、大規模な謎の勢力が待機している。パステノ
ン王国側の騎士団とは違うし、烏合の衆にしては妙に統率が取れて
いる。
あらゆる状況から鑑み、ランドリオ帝国側はこの集団を﹃シール
1995
カード勢力﹄と判断した。
マーシェルから聞いた情報は勿論、ミスティカやアスフィがシー
ルカードの気配を勢力内から感知したらしい。彼女等が断言するの
であれば、事実と受け取ってもいいだろう。
彼等がシールカードと分かった以上、どんな行動を起こしてくる
か。細心の注意を払う必要がある。
というわけで、今回の議題はこうだ。
︱︱﹃シールカード勢力に対する対抗処置について﹄。
謎の勢力がシールカードだと分かった以上、こちら側も何らかの
対抗処置を施さなければならない。
ゼノス達はその件について、様々な議論を行った。
北方の境界付近に六大将軍直属の部隊を総動員で配置し、更に二
人の六大将軍を指揮官にするとか。そしてそこから更に発展し、ま
ずはこちら側から奇襲をかけるか。または相手の出方を見計らい、
1996
地理的条件を活かした作戦を行使するか。色々な案が出てきた。
しかし、どうにも決定段階までいかない。
何故なら、これは会議途中から判明した事だが。
議論を交わし合う中、突如アスフィが円卓の間へと駈け込んで来
たのだ。
彼女は息を切らしながら、ゼノス達にこう言い放った。
﹃ご、ごめんね皆!さっき勢力の気を追求してたんだけど⋮⋮あの
中にギャンブラーらしき存在が見当たらないの!⋮⋮うう、気配を
探っても見当たらないんだぁ﹄
と、危機感皆無の状態でそう告げてきた。
そして現在、その事実を聞かされた六大将軍とアリーチェは大い
に悩む事となった。
1997
﹁む、むう⋮⋮ギャンブラーがいないと。じゃがアスフィ、シール
カードが独自に動いている可能性はないのかの?﹂
アルバートの疑問に、アスフィは即座に首を横に振る。
﹁ううん、その可能性は薄いよ。確かにゲルマニアの様に、自分の
力でカードの中から出てきた人もいるけど⋮⋮あの勢力はギャンブ
ラーによって召喚されている﹂
﹁⋮⋮﹂
なら一体、ギャンブラーは何処にいるのか。
シールカード勢力を滅ぼしたとしても、ギャンブラーを倒さなき
ゃ意味がない。また新たな布陣を敷かれ、再度攻め入ってくる可能
性がある。
机上に目線を落としていたゼノスは、ふとアリーチェに自分の考
えをぶつける。
﹁⋮⋮アリーチェ様。どうやら勢力に対抗する以外の行動を、我々
は取らねばらならぬようです﹂
1998
﹁⋮⋮そのようですね﹂
彼女は真剣な表情で頷き、ゼノスの意図を承知する。
そこに一切の曇りはない。アリーチェは皇帝陛下として、堂々た
る面持ちで議論に参加している。
ヴァルディカ離宮の騒動からまだ一週間しか経過していないのに、
その変貌には皆が驚いた。特にゼノスに関しては、寂しい反面、喜
びを隠せなかった。
リカルドの様に厳格を貫くのではなく、あくまで慈悲深い面を保
ち続ける。しかし時折見せる素顔は、正に皇帝陛下の威光を醸し出
していた。
少女の心を持ち、尚且つ皇帝という素顔も持ち合わせる。
六大将軍が最も望んだ姿であった。
︱︱さて、それはさておき。
1999
アリーチェは姿勢を正し、はっきりと言う。
﹁︱︱皆さん、ここに新たな議論を付け足します。それはギャンブ
ラーの捜索及び討伐について。シールカード勢力との対抗と並行し、
これもまた行う必要があるでしょう﹂
それに対し、ユスティアラが同意する。
﹁然り⋮⋮故にギャンブラー討伐部隊を編成する必要がある。だが
姫よ、ギャンブラーの居所が分からぬ以上、部隊編成は叶わぬ。⋮
⋮まずは根拠を見つけねば﹂
﹁確かにその通りね。う∼ん、根拠⋮⋮根拠ねえ﹂
イルディエは頭を悩ませるが、それは早くも打ち切られる。
傍観していたホフマンが勢いよく立ち上がり、感銘を受けた様な
ポーズを取り始める。凄く大胆に、そして舞台役者の様に。
﹁嗚呼⋮⋮その件に関しては心配しないで下さい。このホフマン、
2000
心当たりがございます﹂
﹁ほう、それは本当か。なら言ってみろ﹂
ユスティアラは不機嫌になりながら、隣に立つホフマンを睨み付
ける。だが彼はそんな視線を諸共せず、軽快な口調で答える。
﹁勿論ですとも。︱︱麗しき騎士達よ。恐らくギャンブラーは、パ
ステノン王国の主城、﹃アルゲッツェ城﹄におわすかと﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なるほどな﹂
ユスティアラとイルディエは、独自でその理由を察する。
だが円卓会議である以上、ホフマンの意図を明確に示す必要があ
る。演技に酔い痴れるホフマンでは上手く説明出来ないだろうと思
い、その役目はゼノスが買う事にした。
﹁︱︱パステノン王国とも経済的交流があり、かの国もまたシール
カードと深い繋がりが存在すると聞いた。ギャンブラーが潜む可能
性としては、王国の主城が一番高いと⋮⋮そういうわけか?﹂
2001
﹁ええ、ええそうですとも!追い求めるならばいざそこです。我等
騎士が向かう先は、正に敵国の本丸なのです!⋮⋮嗚呼。何と、何
と抒情的な展開でしょうか⋮⋮﹂
彼は感無量の涙を流し、ゾクゾクと身体を震わせる。
︱︱駄目だこれは。
ホフマンの奇怪な行動に、一同がそう悟った。
﹁え、え∼っと。では、ギャンブラー討伐部隊は編成する方向で。
メンバーは六大将軍の者達が最善かと思いますが﹂
﹁ちょっと待って!王女様、それは今じゃ無理があるかも﹂
ふと、アスフィが止めに入ってくる。
彼女はいつの間にかゼノスの隣におり、しかもゼノスの肩を抱き
込む姿勢でいる。今回は聖騎士の鎧を着込んでいないので、彼女の
胸の感触が背中に伝わってくる。対処に困る状態だ。
2002
それを見たアリーチェとイルディエは難しい表情を作る。⋮⋮会
議の場でなかったら、すかさず二人を引き剥がしにかかっていただ
ろう。
今はそんな暇は無いので、アリーチェはただ聞き返す。
﹁⋮⋮討伐部隊に、六大将軍を加える事ですか?﹂
﹁うん。ギャンブラーを倒すには、勿論六大将軍クラスの力は必要
だと思う。でもアルゲッツェ城周辺には今、ちょっと特殊な制約が
かけられてるんだ﹂
﹁︱︱制約ってまさか﹂
驚きの反応を示したのはゼノスであった。
制約と聞き、あの忌々しい記憶が甦る。
マルスと戦った時、制約によってゼノスは苦戦を強いられた。あ
れは強力な拘束であり、どう足掻いても対処の仕様がないのだ。
ゼノスは生唾を飲み、慎重に尋ねる。
2003
﹁その制約って⋮⋮一体どういうものなんだ?﹂
﹁う∼ん⋮⋮簡単に言えば、強い波動を示す人を感知する仕掛けか
な。下手に踏み込めば、六大将軍ならあっという間に察知されちゃ
うよ﹂
それじゃ色々と不都合でしょ?と、アスフィは付け足す。
当然だ。仮にギャンブラー討伐部隊を組むならば、同時にその部
隊は隠密行動を行わなければならないだろう。
パステノン王国︱︱もとい始原旅団は強大な勢力だ。かつては侵
略国家とも呼ばれ、過去に幾つもの国を制圧している。中でも始原
旅団の精鋭部隊は、アルバートから直々に鍛え上げられた猛者ばか
りである。
戦いに発展すれば、六大将軍と始原旅団精鋭の激突は免れない。
そうなれば城下町は愚か、周辺村落にも多大な被害が出る。
︱︱マルスの故郷の様に。
2004
皆もそれを理解しているからこそ、強行突破に出ようとは口が裂
けても言えない。
アリーチェは疲労の溜息を漏らす。
﹁なら、他の策を練りましょう。となると︱︱﹂
﹁こらこら王女様。無理だとは言ったけど、﹃今﹄は無理だって事
だよ﹂
﹁⋮⋮え﹂
驚くアリーチェ。しかし詳しい返答をせず、アスフィは右手の人
差し指を軽快に動かす。
すると、指から不思議な光が発せられる。あまりの眩しさに皆が
目を瞑るが、やがて光は収まっていく。
︱︱沈黙する一同。
2005
だがアリーチェだけは、席を立ち険しい瞳をアスフィにぶつける。
﹁ア、アスフィ。貴方一体何をッ!﹂
﹁まあまあ、そう怒らないでよ。別に危害を加えるものでは無いし。
⋮⋮う∼んでも、ある意味では危害が及んでるのかなあ﹂
﹁何と無責任な⋮⋮。ゼノス、どこか痛い所とかはありませんか?﹂
アリーチェに問われるが、ゼノスはすぐに答えなかった。
自らの両手をまじまじと見つめ、明らかに呆けている。
﹁ゼ、ゼノス?﹂
﹁アリーチェ様、どうか心配なさらず。身体は至って無事なのです
が﹂
ゼノスは席を立ち、左手を前方に差し出す。
2006
そして強く念じる。いつものように、自分の相棒であるリベルタ
スを発現しようとするが⋮⋮⋮⋮現れない。
何度呼び掛けても無駄だった。
﹁⋮⋮リベルタスが出ない﹂
﹁え!?﹂
驚愕するアリーチェだが、更なる驚きが彼女を襲う。
ゼノスだけでなく、他の六大将軍達にも影響が出ているようだ。
﹁⋮⋮解せぬ!なぜ氷魔人双手が出せない!?﹂
﹁それだけじゃないわよ、ユスティアラ。身体能力も落ちているし
⋮⋮これじゃ雑兵一人を相手にするのもやっとね﹂
試しにユスティアラが刀を抜き、誰もいない方向に振るう。
2007
︱︱変化は一目瞭然だ。
何とユスティアラの手から刀がすっぽ抜け、刀はホフマンの眼前
へと突き刺さる。ホフマンは、﹁はひっ!?﹂という情けない声を
上げ、泡を吹きながら昏倒してしまった。
ユスティアラは涙目になりながら、その場に両膝をつく。
﹁何たる無力⋮⋮よもや⋮⋮刀の扱いもまともに出来ぬとは﹂
遂に涙が零れ落ち、すすり泣くユスティアラ。イルディエが背中
を撫でながら慰めるが、泣き止む事は無かった。
﹁いやあ、凄え力だぜ。俺も竜になる事が出来ねえし⋮⋮これも始
祖の力ってやつか﹂
﹁︱︱なるほど、これで理解出来たわい﹂
アルバートは自分の手を握り締めながら、アスフィへと向き直る。
﹁六大将軍としての力を失わせ、常人にさせる。確かにこれならば、
制約に縛られる心配はないじゃろう﹂
2008
が、一つ大きな心配がある。
アルバートの不安を代弁したのは、他ならぬアリーチェであった。
﹁けれど、六大将軍の力が無いとギャンブラーには対抗出来ない。
この力もまた、あまり意味が無い気がします﹂
﹁︱︱でも、六大将軍以上の適役はいないと思う。幾多の戦場を乗
り越えている彼等なら⋮⋮上手く立ち回れると思うんだけどなあ﹂
そう言って、アスフィは挑発するように述べる。
とても無茶苦茶だ。力でなく、経験と知恵で此度の戦をこなして
見せろと言うのだから。
しかし、ここは彼女の言う通りだろう。
ギャンブラー討伐部隊を編成するなら、六大将軍以上の適役は存
在しないと思う。これ以外の方法が見つからないのならば、素直に
受け入れるしかない。
2009
⋮⋮やるしかないのか。
沈黙を肯定と受け取り、アスフィは嬉しそうに頷く。
﹁うんうん、分かってくれたようで何より。⋮⋮あ。あとね、隠密
行動をするなら、勿論城下町に潜伏する必要があるんだよね?そう
思ってさ、私なりに良い潜伏方法を考えてみたんだ﹂
﹁⋮⋮言ってみて下さい﹂
﹁へへ、それはね⋮⋮⋮⋮﹂
アスフィは楽しそうに、その潜伏方法を説明する。
︱︱聞き終えたゼノスは、茫然自失となった。
2010
2011
ep2 それぞれの役割
第二回円卓会議を終え、ゼノスは自らの執務室へとやって来た。
執務椅子に座り、暖かいホットレモンティーで引き締めた脳を緩
和させる。一口飲んだ後に息を吐くと、白い吐息が出る。
ふと横の窓を見やると、白い小雪が深々と降っていた。未だ夕刻
にも関わらず、季節が冬のせいか、既に外は夜闇に包まれている。
円卓会議終了後も将軍同士での打ち合わせをしていた為か、落ち着
く光景に心を癒される。
⋮⋮だが、まだ仕事は残っている。
あれから何度か作戦の調整をし合い、役割分担と主な作戦内容を
決めてきた。そしてそれを伝えるべく、ゼノスはある者達に、円卓
会議の採決結果と打ち合わせの内容を報告する義務がある。
たったそれだけなのに、何故今のゼノスは憂鬱な表情なのか?
2012
アスフィの言葉を脳裏に反芻させ、苦悩するゼノスであったが⋮
⋮やがてドアを叩く音がした事で我へと返る。
﹃︱︱ゼノス?入っても宜しいですか?﹄
これはゲルマニアの声だ。
ゼノスは深呼吸をし、彼女の言葉に応える。
﹁ああ、構わない。入って来てくれ﹂
そう言うと、まずはゲルマニアが入室。だが彼女だけでなく、そ
の他数人の人間が執務室へと入る。
ゲルマニア︱︱そしてロザリー、ライン、ラヤ、フィールド。彼
等は聖騎士部隊の騎士達であり、ゼノスの部下でもある。
しかしここで緊張する彼等ではない。それどころか、それぞれが
楽な姿勢で向き合ってくる。これに関しては気にもしないし、むし
ろ有り難い。
2013
開口一番を切ったのは、ゼノスであった。
﹁皆、お勤めご苦労さん。呼んだのは他でも無いが⋮⋮まあまずは
今日の報告をしてもらおうか。最初はゲルマニアな﹂
怠そうにしながらゲルマニアを促す。一方の彼女は、直立のまま
答える。
﹁はい。私の方は滞りなく事務作業を進め、聖騎士部隊の訓練にも
参加しました。ゼノスの定めたノルマも達成しましたよ﹂
﹁そうか。んじゃあ次は⋮⋮⋮⋮フィールドだ﹂
ゼノスはニヤニヤと微笑むラヤを無視し、隣に控えるフィールド
に目を向ける。﹁ちょっ、何で無視するのさ!?﹂と突っ込んでく
るが、時間が惜しいので無視無視。
フィールドは一礼し、淡々と答える。
﹁今日は聖騎士部隊の基礎強化訓練に努めましたが、こちらも滞り
なく行いました。幸いな事に、ラヤ殿が率先して訓練を行っていま
すので﹂
2014
﹁ほう。ラヤにも向上心が生まれてきたか﹂
ようやく話を振ってもらい、ラヤは嬉しそうに頷く。
﹁へへ、当たり前だよ!あんたの実力を超えようとしてるんだから、
頑張るのは当然さ!﹂
﹁言うねえ。⋮⋮ま、頑張ってくれ﹂
部下の成長は素直に喜ばしい事だが、未だにアスフィの提案を引
き摺っており、どうにも気分が盛り上がらない。一同が首を傾げる
が、ゼノスはロザリーとラインへと視線を変える。
﹁さて⋮⋮と。確かロザリーには、今日一日だけ有給休暇を与えて
いたな。ゆっくりと休めたか?﹂
﹁⋮⋮ううん。今日はノルア姉様の見舞いに行ってた。だから休ん
ではいない﹂
﹁︱︱ッ!﹂
2015
それを聞き、ゼノスは納得した。
彼女の姉、ノルアは先日までアルギナス牢獄に幽閉されていた。
現在はランドリオ城下町にある国立病院に入院していると聞いたが、
最近の様子までは耳にしていない。
しかし深刻な顔つきのゼノスを見て、ロザリーは首を横に振る。
﹁⋮⋮そこまで心配する事はないよ。姉様の意識は戻ってるし、快
復に向かってるとお医者様も言っていたから﹂
﹁そ、そうか。⋮⋮いつか、姉妹二人で暮らせるといいな﹂
﹁⋮⋮うん﹂
ロザリーは頬を赤らめ、指を弄りながら呟く。
彼女にとって、ノルアとの生活は長年の夢である。実現に近づい
ているので、ロザリーが喜ぶのも無理はない。
︱︱六大将軍として、ゼノスはその実現の手助けをしなければ。
2016
﹁姉様はゼノスにも会いたいって言ってた。⋮⋮余裕があったら、
私と一緒に来て﹂
ロザリーの言葉に対し、笑顔を持って即答する。
﹁ああ勿論だ。近い内、必ず赴こう。︱︱で、ラインの報告はさっ
き聞いたし、今日の報告はこれで以上かな﹂
﹁うん、そうなるね。⋮⋮それでゼノス、僕達を呼んだのは⋮⋮例
のシールカード勢力に関する事だよね?﹂
ラインが眼鏡をくいと上げ、本題へ移るよう投げかける。
気は進まないが、ぐだっていても仕方ない。
ホットレモンティーで喉に潤いを与え、説明する準備を整える。
そして席を立ち、何事も無かった様に、無言で扉へと︱︱。
﹁ちょっと待ちなさい﹂
2017
︱︱が、それも叶わず。
通り過ぎるゼノスの襟を掴み、阻止するゲルマニア。⋮⋮何だか
最近、ゼノスのサボるタイミングを熟知してしまったようだ。
ゲルマニアはずるずるとゼノスを引っ張り、元の場所へと戻す。
﹁う⋮⋮⋮⋮やっぱりしなきゃ駄目か﹂
﹁あ・た・り・ま・え・です!﹂
念を押され、項垂れるゼノス。
例の﹃あれ﹄を発表すると思うだけで、心臓が高鳴ってしまうの
だ。
﹁シールカード勢力との衝突が避けられない以上、私達にも大いに
関係があります。︱︱それに私達は、重大な役割を果たすのでしょ
う?﹂
2018
﹁⋮⋮ああ、その通りだ﹂
もう観念して、彼等に決定事項を話すしかないのか。
ゼノスは溜息を漏らし、ゆっくりと、じっくりと説明していく。
第二回円卓会議での進行過程を粗方言い終えた後、今度は打ち合
わせ時の役割配分を伝える。
今回の相手は、シールカード勢力とそのギャンブラーだ。しかし
両者は距離を離し、後者のギャンブラーはアルゲッツェ城に潜伏し
ている可能性が高い。ランドリオ帝国側は、国境線付近での迎撃隊、
及び六大将軍を中心として編成される少数精鋭部隊を構築する必要
がある。
そこで打ち合わせの結果、迎撃隊にはユスティアラ・イルディエ・
ジハード・ホフマンが加わる事になる。更に六大将軍直属の部隊も
参加し、聖騎士部隊も混じる。ラヤとフィールドには、迎撃部隊と
して迎え撃ってもらう。
話の途中だが、ラインが口を挟んでくる。
2019
﹁迎撃部隊に四人の六大将軍⋮⋮となると、隠密部隊にはゼノスと
アルバートだけか。将軍中心にしては、随分少ないね﹂
﹁その面に関しては仕方ない。アスフィの能力にも限界があるよう
だし、こちらとしても大人数での行動は面倒だからな﹂
そう言って、今度は隠密部隊の編成について語るゼノス。
まず抜擢された者を挙げると、六大将軍にゼノス、アルバート。
そして同行人として、ゲルマニア、ロザリー、ラインが伴う事にな
る。だが同行人については、能力から判断したわけではない。
それを聞いて、ロザリーが不思議そうに尋ねる。
﹁⋮⋮なら、何で私達を選んだの?﹂
﹁いや何、単純に親交があるメンバーを選んだだけだ。今回は隠密
行動を基本とするから、馴染み深い連中の方が溶け込みやすいだろ
う﹂
潜伏先はアルゲッツェ城下町。敵の懐に入るならば、より一層の
注意を払うべきだろう。溶け込めない様では、すぐに敵だと判明さ
れる。
2020
しかし、ロザリーの疑問はまだ続くようだ。
﹁⋮⋮それは分かった。なら潜伏方法はどうする?何かに偽装しな
いと、ばれる可能性が極端に高くなるよ﹂
﹁ああ⋮⋮ちゃんと考えているさ。結論から言うと、俺達は﹃行商
人﹄として、アルゲッツェ城下町で露天商を開くつもりだ﹂
アルゲッツェ城下町。北方原住民の子孫が暮らすその町では、日
々様々な場所から行商人がやって来る。売買の対象となるのは、主
に果実や酒、外国産の嗜好品だ。
宴をこよなく愛するパステノン国民にとって、行商人の存在は非
常に大切である。一方の行商人も、利益を求めてパステノン王国ま
で商売をしに来る。
︱︱これほど溶け込みやすい立場はないだろう。
﹁なるほど。商人として、ギャンブラーの動向を窺うわけですね﹂
﹁⋮⋮だが、一つ問題がある﹂
2021
﹁問題?﹂
﹁⋮⋮俺達が偽装する行商民族だが、それが﹃カリウッド民族﹄に
決定されたんだ﹂
︱︱カリウッド民族。聞き慣れない単語だったのか、一同が疑問
符を浮かべる。
だがフィールドだけは知っていたようで、粛々とした態度で述べ
る。
﹁カリウッド民族ですか。確か遥か西方の渓谷地帯に集落を構え、
独自に開発した果実を売って生計を賄っているとか⋮⋮。あと有名
な点と言えば、世界でも稀な一夫多妻制を容認している民族ですよ
ね﹂
﹁そうだ。何故カリウッド民族限定かと言うと、行商人入国時の身
分証明に問題があってな。それぞれが異なった身分証明法があるよ
うだが、それは門外不出の代物らしい。⋮⋮だが幸い、ランドリオ
帝国内でカリウッド民族の協力者が見つかったわけだ﹂
彼のおかげで身分証明に関してはクリアした。だがそれ即ち、行
2022
商人になるならば、﹃カリウッド民族の行商人﹄という選択肢しか
ないのだ。
﹁はあそうですか。でも、それの何が問題だというのです?﹂
﹁⋮⋮﹂
最も言い難い点を突かれ、冷や汗を垂らすゼノス。
しばしの沈黙の後、神妙な面持ちで呟く。
﹁⋮⋮カリウッド民族が行商をする場合、一つの条件があるらしい﹂
﹁条件、ですか﹂
﹁ああ。︱︱行商は夫婦で行う事。既婚者のみが、外国での商売を
許してくれるらしい。勿論、夫婦がいれば親戚や子供の同行も可能
となる﹂
﹁へえ⋮⋮⋮⋮⋮⋮え?﹂
2023
ゲルマニアが何かを察したのか、途端に表情を変える。ロザリー
もまた呆気にとられ、生唾を飲んでいた。
その条件は、言わば身分証明法にも関わる問題だ。故に、これは
絶対守らなければならない。
このメンバーの場合、役割分担は大いに限定される。
⋮⋮すなわち、こうだ。
﹁俺が行商人の主人となり、アルバートは俺の祖父、ラインは兄貴
となる。︱︱︱︱そしてゲルマニアとロザリーには、俺の妻になっ
てもらうわけだ﹂
⋮。
⋮⋮。
妙な空白が生まれる。
2024
ゼノス達がゲルマニアとロザリーを窺うと⋮⋮、
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ゼノスの⋮⋮お嫁⋮⋮さん?⋮⋮私が⋮⋮﹂
ゲルマニアは気絶し、ロザリーは頬を赤らめながら、同じ言葉を
何度も呟いている。
︱︱そう。
カリウッド民族が一夫多妻制で、そうした習わしがある以上、彼
女達を妻として迎えなければならない。
勿論それは建前の話であり、本当に結婚するわけではない。
⋮⋮だが二人は、しばし夢心地の気分となっていた。
2025
2026
ep2 それぞれの役割︵後書き︶
※1月5日追記;挿絵を投稿しました。↓http://6886.
mitemin.net/i95598/
2027
ep3 旅立ち
第二回円卓会議から二日後。
朝焼けに照らされたハルディロイ城を背に、行商人の恰好をした
ゼノス達が、今からパステノン王国へ出立しようとしていた。
城下町の先にある正門を出た所で、彼等はアリーチェを中心とし
て、後に出発する迎撃部隊の六大将軍達に見送られる。
︱︱さて、時間だ。
アルゲッツェ城下町までの道のりは長い。ここからランドリオ港
まで向かい、行商船に乗ってランドリオ大陸沿いに進み、右に大き
く迂回する。物資の供給の為に、ランドリオ大陸最南端のオレトラ
ル半島にある港町にて一泊。
そこからまた北に向かうわけだが、パステノン王国の海は氷海と
2028
なっており、普通の行商船では行けない。砕氷船のある港町まで徒
歩で行き、砕氷船に乗ってようやくパステノン港まで辿り着けるわ
けだ。
⋮⋮恐らく、一週間以上はかかるだろう。
一刻も早く到着するよう、努力しなければならない。
﹁︱︱アリーチェ様、私達はそろそろ出発します。どうかお身体に
気を付けて、無理はなさらぬよう﹂
﹁それはこちらの台詞ですよ、ゼノス。⋮⋮絶対に、絶対に無茶な
戦闘だけは避けて下さい。今の貴方達は⋮⋮﹂
﹁ええ、承知しております﹂
アリーチェが心配するのもよく分かる。
何故なら今のゼノス達は︱︱ただの人間だ。強力な力は始祖によ
って封じられ、武器もまともに扱えない。
⋮⋮久しぶりの感覚だ。如何に六大将軍と言えど、未熟な時代は
2029
確かに存在した。
これはその頃の状態だ。こんなにも儚い人間が、果たして上手く
立ち回れるだろうか?
だが弱音も吐いていられない。多少の動きづらさは我慢し、何と
かやるしかないのだ。
ゼノスが苦い表情をしていると、ユスティアラが肩に手を置いて
くる。
﹁ふっ、苦労してるな聖騎士。力の無い生活はやや不便だと思うが、
何とか頑張るがいい﹂
﹁あらまあ。ユスティアラったら、迎撃部隊に入ると知った時から
上機嫌ね﹂
﹁ふふ、当然。力を封印される心配もないからな﹂
ユスティアラは応援︵?︶し、イルディエは彼女に対して苦笑す
る。まあいつもの調子なので、こちらとしては安心する一面でもあ
る。
2030
次にホフマンが近付いてきたが⋮⋮彼は普段とは違う、真剣な面
持ちを見せていた。茶化しに来たのかと思ったが、そうでもないよ
うだ。
﹁⋮⋮ゼノス殿、心配する必要はございません。このホフマン、あ
りとあらゆる試行錯誤を練って、必ずや援助いたしましょう﹂
﹁それは有り難いが、今はどうしようもないだろう。⋮⋮それとも、
何か良い策でもあるのか?﹂
ホフマンは自らの前髪を払い、白い歯をおもむろに見せる。
﹁︱︱どうでしょう。良い策かどうかは、麗しき運命の女神が決め
る事です﹂
﹁⋮⋮そうか。なら、期待しないでおこう﹂
ホフマンの意図を探し当てたのか、意味ありげに答えるゼノス。
最近分かった事だが、普段は何とも言えない態度を取っているが、
彼の本性は狡猾で、非常に計算高い。
2031
のらりくらりとやり過ごし、不意を突いて相手を殺す。
今のホフマンは、それを行おうとしているのだろう。確信や推測
ではなく⋮⋮これはあくまで勘なのだが。
正直な所、まだ彼の意図を察する事が出来ない。しかし彼が動く
以上、何かしら成果を作るだろう。
言葉とは裏腹に、ゼノスは期待を抱いていた。
﹁よし、出発しよう皆︱︱ッ﹂
言いかけた所で、ゼノスの両腕を抱き締める者達がいた。
⋮⋮ゲルマニアとロザリーである。彼女達は無言のまま、ゼノス
に身体を寄せて来る。
﹁⋮⋮何してるんだ、二人共﹂
ゼノスは嫌な汗を垂らしながら、二人に尋ねる。
2032
﹁決まっているじゃないですか。﹃夫婦﹄として潜伏する為の予行
練習です﹂
﹁⋮⋮同じく。でも、ゲルマニアは邪魔だと思う﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それはロザリーさんも、じゃないですか?﹂
何だか知らないが、両者の視線がぶつかり、火花を散らしている
ような錯覚に囚われる。自然とゼノスを抱き締める力に付加がかか
り、静かなる闘気が周囲を覆う。
更に不思議な事に、これを見たアリーチェとイルディエがこめか
みをひくつかせる。
︱︱怒っている様子だ。
﹁⋮⋮ゼノス。分かっていると思いますが、これは仕事です。偽り
の関係に華を咲かせ⋮⋮仕事を怠らないよう、お願いしますね﹂
﹁アリーチェ様の言う通りよ。︱︱イチャイチャも大概にね﹂
2033
﹁あ、ああ﹂
別に自分から求めたわけでも無いのに、散々な言われようだ。
仕事は忠実にこなすし、本気で夫婦関係を演じるつもりはない。
騎士として在る以上、皇帝陛下の命を果たさねば。
⋮⋮しかし。
﹁む∼﹂
﹁⋮⋮ぬう﹂
ゼノスはまだ睨み合うゲルマニアとロザリーを見て、深い溜息を
つく。
果たして自分の理性がどこまで続くか⋮⋮強い忍耐力が問われる
な、とゼノスはそう思った。
﹁︱︱と、とにかく。我々は出発します。ではまた﹂
2034
そそくさと告げ、ゼノス達は旅立つ。それを期にゲルマニア達も
一旦落ち着き、ゼノスから離れていく。
これで一安心⋮⋮とはいかない。
今まで沈黙を貫いていたアルバートへと近付き、その太い腕を叩
く。
﹁な、何じゃ小僧。何か用かの﹂
﹁いや別に。ただちょっと、今から故郷に帰る男の心配をしててな﹂
﹁⋮⋮﹂
彼は図星を突かれ、落ち着かない様子で自分の髭をいじる。
︱︱アルバート・ヴィッテルシュタイン。元始原旅団の長であり、
パステノン王国の建国者でもある。
だがゼノスの知る彼の情報はそこまでだ。何故彼が王国を離れ、
ランドリオ帝国で六大将軍をしているのか、という疑問までは分か
らない。
2035
彼自身は何も話さない。過去の事や、自分の事を。
︱︱果たしてアルバートは、帰郷をどう思っているのか。
実の孫娘を殺し、それを見届けたゼノスとしては⋮⋮ただただ不
安を抱き、何か問題が起こらぬよう祈るしかない。
ゼノスはこの時、まだ知る由も無かった。
遥か北の異国、パステノンでは今︱︱アルバートに対して愛憎を
抱く少女が君臨している事を。
2036
そして彼女が、この戦争に大きく関わっている事を。
2037
ep3 旅立ち︵後書き︶
追記;ep2の挿絵↓http://mitemin.net/i
magemanage/top/icode/95598/
2038
ep4 非力な英雄達
それから約二週間が経過した現在。
特に何も問題は起きず、長い長い航海の末にようやくパステノン
王国へと辿り着いた。
まずはパステノン港に入り、すぐさま港近くの関所へと通される。
商人の場合はそこで商品のチェックを行い、身分証明を示す必要が
ある。カリウッド民族だと言うと、夫婦がいるかどうか問われた。
結果として商品の方は何とか了承を受け、夫婦である事も確認さ
れた。⋮⋮二人も妻がいるのかと問われた時は、とても複雑な気分
だったが。
まあとにかく。
入国の許可も下り、積荷を乗せた荷馬車と共に、ゼノス達は関所
を潜り抜ける。
2039
︱︱そこは銀世界だった。
広大な平原は雪に埋もれ、小粒の雪が深々と降っている。建物は
愚か、木々さえも存在しない世界、正しく虚無だった。
⋮⋮そう、かつて始原旅団が駆けた戦場でもある場所だ。
パステノン王国が建国される以前、ここでは幾度も部族同士の争
いが繰り広げられていた。⋮⋮何百年もの月日を掛けて、ただ最強
の名を手にする為だけに死闘を続けてきたらしい。
今は始原旅団を名乗る部族が覇権を手にし、長きに渡る戦争も終
焉を迎えた。多くの部族はこの土地を追われ、パステノン領土に生
きる大半の人間は 始原旅団に所属する部族達だ⋮⋮と、アルバー
トは昔そう言っていた。
それでは国の人口が限りなく少ないだろうと思っていたが、どう
やら本当かもしれない。
そう心中で思いを馳せていたが、パステノン城下町は意外にも活
2040
気に溢れていた。
北方民族特有の毛皮衣装を着用し、整然とした街並みを行き交う
人々。中央広場では行商人の市場が開かれており、酒場では昼夜問
わず踊り歌う男女が沢山いた。
寒さに負けず、仕事の合間を縫って日々を楽しむ。
⋮⋮しかし一方のゼノスは、そうもいかなかった。
ゼノス達は、城下町に到達したその翌日に商売を開始してみたが
︱︱
︱︱あまりの忙しさに、過労死寸前だった。
城下町に到着してから一日後の夜。商売を終えたゼノス達は、借
家一階のリビングにて休憩していた。
﹁⋮⋮もう駄目、動けない﹂
テーブルに項垂れるゼノスが、か細い声で吐露する。
2041
﹁⋮⋮ゼノスはまだマシです。私なんて早朝から動いていたんです
よ⋮⋮誰かさんのせいで﹂
﹁ほ、ほう﹂
嫌な汗を垂らすゼノス。
対面に座るゲルマニアは気にもせず、頬杖をつきながら続ける。
﹁店の組み立て準備、朝の品出し、客引き⋮⋮⋮⋮一体どれだけの
体力を使ったのでしょうねえ﹂
﹁⋮⋮ぐっ、ぬぬ﹂
ゼノスは察した。
つまり彼女はこう言いたいのだ。︱︱ゼノスが逃げ出さなければ、
全部自分がやる事は無かったと。
ロザリーやラインは別の露店で商売をしていたし、アルバートも
諸事情でいなかった。とどのつまり、唯一頼れるのはゼノスだけだ
2042
った。
今更だが、罪悪感が込み上がって来た。
﹁⋮⋮すいませんでした﹂
﹁はあ。もう済んだ事ですし、午後はちゃんとやってくれたじゃな
いですか。それだけで十分です﹂
途端に微笑を放ってくるゲルマニア。
ゼノスの心臓は跳ね上がり、何故かドギマギしてきた。
﹁そ、そういえば⋮⋮飯はまだかなあ。あ∼早く食べたいなあ﹂
﹁ゼノス?顔を赤らめてどうしたのです?﹂
せっかく話題を変えようと思ったのに、ゲルマニアは不思議そう
に顔を覗き込んでくる。前のめりになり、首を傾げながらだ。
一つ一つの仕草が気になりだし、もはやゼノスは正視さえ出来な
2043
い。思わず横へ目を逸らすと︱︱
﹁⋮⋮ゼノス﹂
﹁⋮⋮よお、ロザリー。気配を殺して近付いて来るとは⋮な﹂
何と自分の横には、トレイを持ったロザリーが佇んでいた。その
背後でラインが苦笑しており、静かに手を合わせてくる。︱︱今の
状況で同情など、もはやゼノスにとって逆効果だった。
ロザリーは無言のまま背後を回り、空いている横の椅子へと座る。
そして何を思ったのか、トレイに乗っていた料理皿を手に持ち、
盛られた料理にフォークを突き刺す。
そのままゼノスの口付近へと運び、無表情のまま告げる。
﹁⋮⋮夫婦の営み。あーんして、ゼノス﹂
その一言に、ゼノスは意表を突かれた。
2044
﹁は、はあ!?営みって、これぐらいだったら一人で﹂
﹁⋮⋮そういう問題じゃない。夫婦である以上、食べさせる行為は
基本中の基本⋮⋮でしょ?﹂
﹁な⋮⋮ッ!﹂
ゼノスが驚く最中、フォークに突き刺さった料理が近付いてくる。
だがそれを止める者がいた。
横やりを入れ、引き攣った笑みを浮かべながら⋮⋮ゲルマニアが
ロザリーの手を鷲掴みにしていた。
﹁ロ、ロザリーさん。そういった行動は、少々控えた方が﹂
﹁⋮⋮側妻の番は後。今は本妻である私が先﹂
﹁︱︱ッ!?﹂
ロザリーの言葉を聞き、額の血管が浮き立つ。
2045
互いは無言のまま闘気を放ち、隙あらば揚げ足を取ろうと企む。
低い唸り声が両者の喉奥から響き、何だかよく分からない冷戦を開
幕させる。
︱︱いや、何の為に争っているのか本当に分からない。
﹁あ、あの∼二人共﹂
﹁何ですか!﹂﹁⋮⋮何?﹂
いがみ合っていた二人は、同時にラインの方へと振り向く。
ラインは苦笑しながら、キッチンを指差す。天上を這う様に黒い
煙が流れ込み、焦げた匂いが鼻をつんざく。
﹁⋮⋮やばい﹂
ロザリーは無表情だが、若干慌てた様子でキッチンへと走り去っ
ていく。
2046
彼女の後ろ姿を眺めながら、ゼノスは安堵の色を示した。
﹁︱︱んで、首尾はどうよ﹂
骨付き肉を豪快に頬張りながら、ゼノスがラインへと尋ねる。
料理も無事に終了し、四人は平穏に食事を摂り始めた。
安い借家のせいか、風が吹く度に窓が揺れる音が聞こえるが⋮⋮
まあ仕方ない。暖炉もあるし、レンガ造りのおかげで寒さに震える
事はない。ゼノス達は極寒に怯えず、安心して食事が出来る。
⋮⋮さて、それはともかく。
2047
ゼノスの問いに、ラインは首を横に振る。
﹁どうも何も、今の僕じゃ全然役に立たないよ﹂
﹁やっぱりか⋮⋮﹂
予想通りの返答に、それ以上は言えなかった。
実は今日の午後、ゼノスはさっそく主城の調査をラインに依頼し
たのだ。商売に来たわけでは無いので、当然の行動と言える。
しかし無理な話だった。
ラインもまた強大な力を有し、現在その力は始祖によって封印さ
れている。密偵に必要な身体能力も、今は見る影もない。
外壁から侵入する跳躍力も失せ、登るにはそれなりの道具が必要。
更に気配を殺す術さえも出来ないので、守衛の隙を突いて侵入する
事も不可能だ。
彼ならば能力が無くとも、経験や知恵を活かして上手く出来るか
と思ったが⋮⋮やはり無駄だったか。
2048
﹁なら、アルゲッツェ城近辺の状況だけでもいい。何か変わった様
子はなかったか?﹂
﹁う∼ん⋮⋮特に何も。国境付近の勢力と接触する場面も見受けら
れないし、守衛が城門前に立っていただけだね﹂
つまり城内には特別な動きもなく、通常時の警備体制という事か。
相手はギャンブラーとシールカードだ。何か普通ならざる手段で、
勢力側とコンタクトを取っているのかもしれない。
⋮⋮だがそれ以前に、不安事項が沢山ある。
まずギャンブラーの存在についてだ。如何にホフマンの情報と言
えど、殆ど憶測から判断したものである。そもそもアルゲッツエ城
にいるかどうかも分からない始末だ。
そして、仮にギャンブラーを見つけた場合にだ。
果たしてゼノス達は、無力な状態で仕留められるのか?ランドリ
オを出立する前から不安に思っていたが、今になってそれが顕著に
2049
なってきた。
力を失った事による自信の喪失、使命を全う出来るのかという疑
念。あらゆる不安が混在し、どう行動して良いかも決め付けられな
い。
︱︱前途多難だ。
﹁まだ焦る必要はありませんよ。先程ミスティカさんから連絡が来
ましたが、シールカード勢力に目立った動きは見られないようです
し﹂
﹁⋮⋮だが時間の問題だ。俺達がこのまま停滞していたら、いずれ
奴等は戦争を仕掛けてくる﹂
﹁うっ、それはまあ⋮⋮そうですけど﹂
ゲルマニアは落ち込み、小動物の様に縮こまる。
確かに時を待ち、機会を窺うという方法も有りだ。ホフマンの奇
策に頼り、形勢逆転を狙う手立ても有り得なくはないが⋮⋮その分
リスクも大きい。
2050
﹁⋮⋮ならアルバートに頼るしかない。私達だけじゃ⋮⋮どうしよ
うもないよ?﹂
﹁そうなんだが⋮⋮その肝心なアルバートは何処に行ったんだ?﹂
その疑問に答えたのはラインだった。
﹁アルバートかい?彼ならさっき、昔馴染みの友達に会うって言っ
て、広場近くにある酒場に出掛けたよ。今日は戻らないってさ﹂
﹁おいおい、こんな時に限って﹂
﹁︱︱いや、こんな時だからこそじゃないかな﹂
﹁⋮⋮﹂
ラインが放つ言葉の意味を、ゼノスは一瞬にして把握した。
ゼノス達が八方ふさがりならば、後はアルバートに任せるしかな
い。きっと彼は、この状況を打破しようと行動に出たのだろう。
2051
﹁僕はゲルマニアの意見に賛成だ。アルバートが結果を出すまで、
大人しくしていた方が良い﹂
﹁⋮⋮歯痒いな﹂
無闇に反論する事もなく、ゼノスは黙々と食事を続ける。
アルバート。この現状を変えてくれ、と密かに祈りながら。
2052
ep5 かつての友
パステノン王国の夜は冷える。北風が吹き込み、その場に留まっ
ていたら凍死してしまう勢いである。
実際、この国では凍死する事例が非常に多い。戦場で勝ち残った
ものの、町に帰って祝杯を挙げ、泥酔した状態で夜の町を闊歩し⋮
⋮そのまま死んで行く者がいるのだ。
一時は禁酒法を制定した時期もあったが、それも効果がなかった。
酒をこよなく愛する故、僅か一か月で廃棄されたとか。
まあ仕方ないと思う。この国には娯楽が少なく、男は酒や女遊び
に洒落込み、女もまた酒で日々のストレスを発散させるのだから。
︱︱その為だろうか。
アルバートが借家から出て、五分程歩いた先にある酒場を見た途
端⋮⋮多くの人で溢れ返っているのは。
2053
﹁⋮⋮にしても、これは多すぎじゃな﹂
苦笑しつつ、アルバートはゆったりとした足取りで店へと入って
いく。外で飲んでいる連中に、﹁何だこの大男は﹂と不審な目で見
られたが、フードを目深く被り、その場をやり過ごす。
⋮⋮さて。
酒場の中に入り、彼は尋常で無い熱気に晒される。これは多くの
者達が呑み交わし、汗をかきながら歌い叫んでいる影響だろうか。
一階の飲み場は広く、席やテーブルも豊富に置いてある。しかし
客があまりのも多すぎて、半分以上の客が床に座るか、またはテー
ブルに寝っ転がりながら酒を堪能していた。
ランドリオの民とは違い、ここの連中はガサツでマナーというも
のを知らない。かつては自分もそうだったと思うと、何だか不思議
な感覚だ。
アルバートはフード付きのマントを羽織ったまま、奥のカウンタ
ー席へと向かう。
2054
きょろきょろとカウンター席を見回すと⋮⋮不自然に空いている
席が一つある。誰もがそこに座ろうとせず、まるで避けているよう
に感じた。
︱︱恐らくここだろう。
そう確信し、彼はその巨体を乗せ、カウンターテーブルに両腕を
置く。
⋮⋮すると、一人のバーテンダーがやって来る。白髪の老人で、
恐らくアルバートと同年代なのだろう。
だが服を着ていても、その老人が如何に筋骨隆々なのかが分かる。
ただのバーテンダーにしては逞しく、そして尖った覇気を放ってい
る。
老人はアルバートの目前に立つと、外見に相反して穏やかな口調
で述べる。
﹁⋮⋮申し訳ございません、お客様。そこの席には予約された者が
おりまして﹂
2055
﹁⋮⋮﹂
思いがけない言葉に、アルバートは可笑しい気分になる。
全く︱︱旧知の友を忘れるとはな、と。そう思わずにはいられな
かった。
﹁おいおい、何を寝ぼけた事を言っておる。︱︱儂じゃよ、儂﹂
﹁⋮⋮その声⋮⋮もしや﹂
驚愕する老人にだけ見えるよう、アルバートはフードを少々上げ
る。
嗚呼、間違いない。そう判断した老人は、カウンター越しに肩に
手を置いてくる。
﹁おお⋮⋮友よ。我が戦友アルバートッ!よくぞ⋮⋮よくぞ祖国へ
と戻ってくれたな!待っていたぞ!﹂
﹁こ、こらジーハイル。声が大きいわい⋮⋮﹂
2056
﹁はっはっ!ここなら大丈夫だよ。今は連中、馬鹿騒ぎする事しか
頭にないからなあ﹂
﹁ぬ、ぬう。そうか﹂
元戦友のジーハイルに言われ、それ以上は何も反論できなかった。
︱︱ジーハイル。彼はアルバートの腹心であり、幼少期から共に
居た幼馴染でもある。何時如何なる時も傍に侍り、戦場でも共に名
を馳せていた。﹃戦殺しのジーハイル﹄と言えば、今でも知らぬ者
はいない。
⋮⋮約数十年ぶりの再会だが、随分と老いたものだ。
﹁それで、儂はこの席に座っても良いのか?﹂
﹁ああ勿論さ。お前が来るって聞いてから、もう一週間以上前に予
約席にしてしまったよ﹂
﹁そいつは有り難いが⋮⋮﹂
2057
﹁ん?何か困る事でもあるのか?﹂
純粋に尋ねてくるジーハイルに、アルバートは頭を悩ます。
アルバートは単に彼と会いに来たわけではない。それなりに理由
があり、真面目な会話をしに訪れたのだ。
︱︱パステノン王国の現状。そして願わくば、誰がシールカード
勢力と結託したのかを聞く為に、ジーハイルに会いに来たとも断言
できる。
今のアルバートはランドリオ帝国の六大将軍。そして皇帝陛下か
ら命令が下っている以上、忠実にそれを果たさなければならない。
⋮⋮その様子を観察し、彼の意図を把握したジーハイル。
てっきり悲しそうな表情をするかと思いきや、彼は豪快に笑い始
めた。
﹁な、何じゃいきなり。相変わらず変な奴め﹂
﹁ははっ⋮⋮いやあ悪い悪い。からかうつもりで笑ったわけじゃな
2058
い。⋮⋮ただ、懐かしく感じてな﹂
そう言いながら、エプロンを外すジーハイル。仕事を中断し、ど
こか違う所で話をするつもりなのだろう。
ジーハイルは隣の客が空っぽにした皿を取り上げ、流しに送る。
そういった最後の後片付けをしながら、続きを言ってくる。
﹁⋮⋮全く、嬉しい限りだよ。お前が国王となった時は、もう昔の
あいつはいないのかと思ったが⋮⋮⋮⋮どうやら違うようだ。今の
お前を見ていると、優しく単純だった首長時代を思い出すんだ﹂
﹁⋮⋮まあ、儂ももう歳だからの。若気の至りで過ちを犯し続け、
それを繰り返す程⋮⋮もう力は残っとらんよ﹂
﹁そうか⋮⋮そうだよな。お互いもう、歳を取り過ぎた﹂
ジーハイルは哀愁漂う様子で呟き、後片付けを終える。
彼は上の階を指差し、快活な調子で言う。
﹁よし、分かった。じゃあ三階の席で語ろうか。そこなら丁度、あ
2059
る団体だけが呑んでいるだけだからな。⋮⋮あ、勿論その団体は信
用出来るから、盗聴される危険性はないと思う﹂
﹁そうか。なら行こう﹂
アルバートも席を立ち、カウンターを出て階段を登ろうとするジ
ーハイルに付いて行く。
階段を登りながらでも、彼等は話を続ける。
﹁⋮⋮なあジーハイル﹂
﹁どうした?﹂
﹁お前はその⋮⋮儂を嫌ってはいないのか?﹂
﹁嫌いって、何で俺が﹂
ジーハイルは振り向かないが、不思議そうに聞き返してくる。
これは昔の事だが、アルバートは国王だった頃︱︱多くの過ちを
2060
犯してきた。更にジーハイルを含む同族にも、多大な迷惑をかけて
きた。
此度の出会いも、最初は断られるかと思った。
だが彼は、自分を笑顔で迎えてくれた。それが何とも不可思議で
⋮⋮恐怖さえも覚える程に。
ジーハイルは逡巡した後、簡潔に答えた。
﹁⋮⋮ははあ、なるほど。つまりお前は、自身の我儘を貫いて来た
から、俺がそれを怒っていると⋮⋮そう思っているわけだな?﹂
﹁そうだ。⋮⋮あの時は、本当に﹂
﹁あ∼待て待てアルバート。確かにあの時は怒りを覚えたが、後で
お前の事情を知り、むしろ同情したくらいだぞ?︱︱そんな事で、
お前の戦友を止めるつもりはない﹂
﹁ジーハイル⋮⋮。お前だけでも、そう言ってくれると有り難い﹂
アルバートは感極まった様子で、素直な感謝を送る。
2061
けれども、ジーハイル以外の連中は別だろう。
彼等は当初、アルバートの行動を猛烈に批判していた。⋮⋮息子
や孫娘に対する態度とか、国王を退位した事とか、色々な事でだ。
一国の王が傍若無人に振る舞い、責任を押し付けて国を去った罪
は⋮⋮とてつもなく重いはずだ。
アルバートが壮年となった辺りで、改めてそれを悟った。だから
自分は、この国に戻りたくは無かった。
︱︱責任逃れをし、自分の事を嫌う友人が住まうパステノン王国。
そこに戻る事は、アルバートにとって苦痛以外の何ものでもない。
二人は無言となり、黙って三階の階段を登り始める。
⋮⋮三階からは、楽しそうな笑い声が聞こえる。
一階と二階では若い男女が酒を酌み交わし、若者の声しか聞こえ
なかった。だが三階から響くそれは、しわがれた声ばかりであった。
2062
団体の連中だろうか。⋮⋮と思った矢先、
︱︱この声達の正体を把握した。
﹁お、おい。まさか三階にいるのって﹂
慌てるアルバートに対し、意地の悪い笑みを見せてくる。
﹁そのまさかだ。⋮⋮でも深く考えるなよ。奴等もまた、俺と同じ
考えに行き着いたんだからな﹂
﹁な、何じゃと﹂
アルバートは慌てふためくが、今更戻る事は出来ない。
階段を登り切り、三階へと辿り着くアルバート達。広さは一階と
同じで、その空間には約二十名の客がいた。誰もが老齢で、若い者
は一切見受けられない。
2063
来訪者に気付くと、団体は一様に、アルバートへと視線を変える。
ジーハイルは無理やりフードを外し、アルバートの容貌を晒す。
咄嗟に周囲がざわつき︱︱一斉に歓声が上がる。
﹁ほほ!ようやく来おったか親友!﹂
﹁久しぶりねえ。今見ても男前よ、アルバート﹂
﹁お∼い、給仕!俺達の英雄が帰って来たんだ、酒をもっと持って
きてくれ!﹂
皆が思い思いの言葉を連ね、歓迎の意を示す。
呆然とするアルバート。そんな戦友の背を叩き、ジーハイルが周
囲を見渡す。
﹁ジーハイル⋮⋮これは一体﹂
﹁ふっ。お前が来ると知って、半週間ぐらい前から毎日ここで飲み
2064
明かしているんだよ。⋮⋮ったく、ジジイババアになっても元気な
奴等だよなあ﹂
﹁⋮⋮儂を待つ為に、通っているのか?﹂
ジーハイルは頷く。続いて他の連中も、それを肯定する言葉を次
々に投げかけてくる。
︱︱懐かしい光景だ。
首長以来だと思う。⋮⋮こうして仲間に祝福され、楽しい輪の中
に加われたのは。
自然と涙が零れ、雫が頬を伝う。
﹁⋮⋮俺の戦友、アルバート。主な説明はまた後にしよう。⋮⋮今
は旧友達と、仲良く語り合おうじゃないか?﹂
﹁⋮⋮そう⋮じゃな﹂
ジーハイルに促され、アルバートは彼等の中へと入る。
2065
この日を感謝し、この再会を喜び。
今はただ、彼等との会話に華を咲かせる事にした。
2066
ep5 かつての友︵後書き︶
※新作です↓http://ncode.syosetu.com
/n2670by/
2067
ep6 友の語る運命
旧友との酒飲みは楽しかった。
忘れかけていたあの頃の思い出。苦楽を共にし、戦場で杯を挙げ
た日々を⋮⋮彼等は鮮明に覚えていた。アルバートも覚えていたの
で、話題が尽きる事は有り得なかった。
他にも嬉しかった事、悲しかった事、怒った事等々。それはもう
数十年間の空白を埋めようとしていた。
アルバートもまた、ここ数十年間の思い出を語った。
自分がランドリオ帝国へと赴き、そこで六大将軍になった経緯。
そして母国にはいなかった化け物と戦い、幾多もの英雄譚を残した
逸話。酒が回った頃には、ゼノスについても述べた。
︱︱旧友はそれを聞いて涙した。
2068
彼等は首長時代、更には国王時代の苦しさを知っている。てっき
り外国で、悠々と暮らしていたものと勘違いしていたようだ。
⋮⋮だが現実は違う。
彼等が始原旅団の団員を引退した後も、アルバートは老体を動か
してきた。度重なる悲劇を受け止め、そして今に至るのだ。
﹃戦場の鬼﹄に安息の時はない。
もし安らかなる時が来たのならば、それはもう﹃死﹄だ。
半世紀以上も戦い続けた身としては、そういった未来しか存在し
ないだろうと思う。
⋮⋮旧友は何も言わなかった。
勿論ジーハイルもだ。彼等は既に現役を引退し、安らかな場所で
隠居生活を送っている身分だ。戦人に対する慰めは、同じ戦人にし
か成し得ない。彼の苦痛を分かってあげられるのは、同じ六大将軍
2069
だけだろう⋮⋮と、そう割り切るしかない。
嬉しい配慮である。しかし同時に、アルバートは寂しくも感じた。
かつて全てを共有した友が、こうして老いていく。戦場を駆ける
体力もなければ、一般生活を満足に過ごす程の体力も有りはしない。
⋮⋮時の流れは残酷である。
時間は刻々と過ぎていき、気付くと下の階は静寂と化していた。
明日も仕事がある故、若い者達は帰宅したのだろう。この酒場に
残っているのはアルバート達だけだ。
その旧友達も、すっかり酔い潰れている。男達はいびきをかきな
がら床に寝転がり、女達はテーブルにうつ伏せとなり、寝息を立て
ている。
この場で起きているのは、アルバートとジーハイルだけであった。
2070
二人は昔から酒に強い。始原旅団に在籍していた頃は、よく朝ま
で飲み明かしたものだ。ジーハイルは今でも健在らしく、タル二個
分の酒を飲んでも全然酒気を帯びていない。
しかし若干ほろ酔い状態なのか、彼はニヤつきながらジョッキを
傾ける。
喉に潤いを与え終えたジーハイルは、対面に座るアルバートを細
目で見据える。
﹁⋮⋮アルバート。お前、酒に弱くなったんじゃないか?﹂ 彼は不思議そうに尋ねてくる。
豪快な飲みっぷりだった若い頃と比較しているのか。もしそうだ
としたら、何とも理不尽な質問である。
アルバートは嘆息し、残りの酒を一気に飲み干す。
﹁ふん、馬鹿にするでない。最近は健康に気を使っているんじゃて﹂
﹁言うじゃないか⋮⋮。なら今ここで勝負を⋮⋮と言いたい所だけ
2071
ど、流石に俺も歳かな。もう呂律が回らない﹂
﹁⋮⋮﹂
消え入るような声で言うジーハイルに対し、何も答えない。空の
ジョッキをテーブルに置き、姿勢を正す。
暖炉の中で薪が弾く音と、皆の寝息だけが支配する。人の囀りは
一切聞こえず、囀る人間も二人以外は存在しない。
そんな状態が続く中︱︱
アルバートは一言だけ告げる。
﹁⋮⋮言いづらかったら、無理に答えなくとも良いぞ。元々はラン
ドリオ帝国の問題⋮⋮自分等の問題は、本来自分自信で解決せねば
ならんからの﹂
﹁⋮⋮﹂
2072
ジーハイルは俯き、その言葉を噛み締める。
笑顔は消え失せ、彼の表情はどことなく暗かった。暖かい空間な
のに、何故か心の奥底は寒い。
様々な念がジーハイルを困惑させ、踏み止まらせる。
苦しそうに悩む親友を見て、アルバートは席を立つ。親友を苦し
ませるようならば、あえて聞こうとはしない。
⋮⋮が、それは余計なお世話だったようだ。
﹁待てアルバート。⋮⋮俺は大丈夫。むしろこれを話さないと⋮⋮
一生後悔する事になる﹂
﹁⋮⋮そうか。なら聞かせてほしい﹂
再び席へと腰掛け、拝聴する態勢を取るアルバート。正面に居座
る親友に、真っ直ぐな瞳を持って向かい合う。
今のアルバートは、六大将軍が一人。
2073
親友ジーハイルはそう理解した上で、覚悟を決める事にした。
﹁⋮⋮いいかアルバート。これから話す事は、全て真実だ。俺の虚
言でもなければ、どこぞの噂話でもない。このパステノンの大地に
誓う⋮⋮絶対にだ﹂
﹁ああ、分かっとる。お前は嘘が下手だという事は、昔から心得て
おる。ここは酒飲みの場⋮⋮軽々しく話してみろ﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
もはや迷う事はない。
どこまでも誠実な彼に、自分の知る情報を伝える。
﹁まずはこの国の現状から話そう。一応、今は国の御意見番もやっ
ている身でな。ある程度の真実は知っている﹂
そして、彼は丹念に説明する。
︱︱パステノン王国は部族間同士の動乱から始まり、数々の戦争
2074
の末、始原旅団と呼称する名も無き部族が建国した国だ。
建国者の名は、アルバート・ヴィッテルシュタイン。ジーハイル
の親友でもある彼は、平和と戦争の根絶を願い、始原旅団を争いの
抑制力として機能させる事にした。
始原旅団は最強の部族。それと同時に、彼等は誰よりも平和を願
い、人々の幸せを慈しんだ。
⋮⋮故に始原旅団は、正義の集団。
平和以上のものは望まなかった。平和を侵食する者以外には、決
して暴力を振るわなかった。
︱︱なのに。
現在のパステノン王国は、その理念に反している。
﹁俺達が現役を引退した直後だ。⋮⋮お前の息子、ロダン・ヴィッ
テルシュタインが、ある強行策を提案した﹂
2075
︱︱それが、海外への侵略作戦。
現国王ロダンは自国では飽き足らず、十年以上前にその策を打ち
出した。主な趣旨としては、近隣諸国の武力的制圧及び侵略。そし
て願わくば、大陸全土を支配するという帝国主義的な考えだ。
⋮⋮無論、国内からも批判が殺到した。
ジーハイルや昔の仲間達も反発し、改めて国の理念を説いたが⋮
⋮まるで無駄だった。ロダンは聞く耳持たず、侵略作戦を実行した。
﹁お前も知っているんじゃないか?始原旅団を名乗る集団が、国そ
のものを乗っ取ったという事実を﹂
﹁⋮⋮﹂
知っている。嫌でも分かっている。
何故なら、アルバートはこの目で見たからだ。
グラナーデ王国という小国の最期を。始原旅団に襲撃され、そこ
2076
で一人の少年の人生が変わり、ある老人の人生が終わったのだから。
︱︱そして、孫娘を殺す要因にもなったのだから。
﹁⋮⋮残念ながら、ロダンは今も侵略活動を続けている。まあ俺の
働きもあってか、独立出来た近隣諸国も幾つかあるがな﹂
﹁それがパステノン王国の現状、か。そして今、侵略の矛先がラン
ドリオ帝国に向いているわけじゃな﹂
﹁そう捉えた方がいいだろう。ロダンは以前から、ランドリオ帝国
の情報を収集していたからな。⋮⋮⋮⋮しかし、それも徒労に終わ
ったらしいが﹂
﹁というと?﹂
嫌な予感を感じ、先を促すアルバート。
案の上、ジーハイルは驚きの言葉を呟く。
﹁︱︱シールカードとの結託だよ。ロダンはシールカード勢力の力
2077
を借り、彼等を用いてランドリオへ攻め入ろうとしている﹂
﹁⋮⋮やはりか!﹂
ジーハイルがそう断言するんだ、間違いはないだろう。
とどのつまり、パステノン王国もシールカードに関わっており、
ロダンは彼等と手を結んでいるわけだ。ホフマンの情報は正しかっ
たのだ。
最悪の場合、ロダンがギャンブラーだという可能性もあるだろう。
﹁おっと。お前まさか、ロダンの坊やが仕切っていると思ったのか
?﹂
﹁⋮⋮他に何を思えば良い。第三者が関わっているとでも?﹂
ロダン以外の、王国外の第三者がシールカードを所持しているの
か?
﹁悪いがなアルバート。︱︱ここから先は、落ち着いて聞いてくれ﹂
2078
﹁?﹂
いやに神妙なジーハイルだが、その意図が全く掴めない。
﹁丁度いい、ここいらで最も重要な情報を伝えよう。︱︱誰が一体、
シールカードの手綱を引いているのかをな﹂
﹁ッ。何か知っているのか?﹂
はやる思いを抑え、つい席を立ち前のめりとなるアルバート。
これが一番知りたかった。ギャンブラーの正体が分かれば、アル
バート達は何らかの行動を取れる。⋮⋮例え、本来の力を失ってい
ても。
ジーハイルは咄嗟に顔を歪ませる。
これも言い難いのか、しばしの沈黙が訪れる。
﹁⋮⋮ジーハイル?﹂
2079
怪訝そうに言われ、ジーハイルはハッとする。
﹁な、なあアルバート。⋮⋮お前は、奇跡ってものを信じるか?﹂
﹁奇跡⋮⋮?何を突然﹂
﹁いや冗談で言ってるんじゃない。︱︱俺は見たんだ。この世にい
ない筈の者が、生きているという現実を﹂
﹁⋮⋮⋮⋮誰が生きていた?﹂
心臓の鼓動が大きくなり、生唾を飲む。
胸が締め付けられる様な不快感。何も聞いていないのに、異様に
不安を抱いてしまう。
これは錯覚ではない。
アルバートの中の何かが疼いているのだ。
2080
言い知れぬ恐怖は全身を這い、悪寒と共に身体を震わせる。この
ような現象は、まだ戦を知らぬ少年時代以来だ。
聞いてはいけない。
ここで耳にすれば、また新たな悲劇が起こる。
︱︱だがそんな抵抗は、もはや手遅れであろう。
ジーハイルは目を閉じながら、ありのままの現実を伝える。
﹁︱︱お前の孫娘だよ。そして、今はあの子がシールカードを統率
している﹂
⋮⋮。
アルバートの意識が弾け飛ぶ。
2081
世界が歪曲したかの如く、視界に映る景色がぼんやりとする。
﹁そんな⋮⋮馬鹿な﹂
⋮⋮殺したはずの孫娘。心を鬼にし、彼女の心臓をこの手で貫い
たはずなのに。彼女の吐息を聞き、彼女の想いを聞いて⋮⋮。
︱︱奇跡。
運命の悪戯か、はたまたシールカードが仕組んだ罠か。
数年を時を経て、セラハとまた出会う事になろうとは︱︱夢にも
思わなかった。
2082
2083
ep6 友の語る運命︵後書き︶
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e.syosetu.com/n2670by/
2084
ep7 狂気に満ちた親子
アルゲッツェ城は堅固な城砦として有名だ。
飾り気がなく、土色の城壁が一面を覆っている。特に目立った尖
塔もそびえず、平らな城は重々しく佇んでいる。質実剛健の造りと
呼ばれたハルディロイ城でさえ、ここまで簡素な出来映えではない。
だがそれがパステノンの風習だ。
彼等は質だけを追求し、外見には決してこだわらない。アルゲッ
ツェ城内にも一切高価な調度品は置かれておらず、壁には絵画さえ
も立て掛けられていないのだ。
正に戦争に備えて造られた城。
アルバートの思想が反映され、現在はロダンがここの城主となっ
ている。
2085
︱︱侵略王ロダン。即位後に実行された侵略作戦を指揮し、数か
国もの近隣諸国を支配下に置いた人物でもある。
植民地にされた国々は多大なる税を徴収され、始原旅団の一部隊
は主城に駐屯出来る。その国の王族はロダンに従うしかないのだ。
⋮⋮アルゲッツェ城内の玉座の間にて、今も尚その悲劇は起こっ
ている。
﹁はあッ、はあッ﹂
﹁ぐ⋮⋮うう﹂
玉座の前に、血塗れとなって剣を構える男達がいる。
彼等はお互いを傷付け合い、どちらか一方が死ぬまで戦っている
のだ。
そして両者の背後には⋮⋮まだ二十にも満たない少年少女が束縛
されている。
﹁父様!もう止めて下さいまし⋮⋮ッ﹂
2086
﹁そ、そうです!こんな事をしていては、ロダンの思う壺です!﹂
必死に止めようとするが、対峙する彼等は耳を傾けない。
少年の父親は顔を背け、少女の父親は歯軋りを立てる。これは確
かにロダンの策略であり、彼等の意思ではない。
二人は近隣諸国の国王であった。少年は王子であり、少女は王女
として君臨していた。だがそれも昔の身分であり、今はロダンの支
配下︱︱いわゆる彼の奴隷である。
命令に背けば、一族郎党⋮⋮それどころか国民の命さえ奪われる
だろう。ロダンを決して怒らせてはいけない、決して反抗してはな
らない。
だから、このような遊戯に付き合わなければならない。
﹁はは、どうした屑共?さっさと殺し合えよ。じゃないと俺が暇に
なるだろ?﹂
玉座から尊大な言葉が投げかけられる。
2087
大雑把に切られた黒髪に、全身を猪の毛皮で覆う大男。傷だらけ
の頬に手を当て、退屈そうな瞳を彼等に向けているのは⋮⋮正しく
ロダンだ。
つまらない展開に興を削がれたのか、蔑むような視線を浴びせて
くる。
﹁⋮⋮まさかお前ら、忘れたわけじゃあないよな?どっちかが勝て
ば、一方のどちらかが死ぬ。もしそうじゃなければ﹂
ロダンは自分の首に親指を置き、横にスライドさせる。
要するに、全員死ぬという意味合いだ。
﹁ぐっ⋮⋮﹂
﹁う、うぅ⋮⋮うあああああッ!﹂
我武者羅に衝突し、無我夢中で相手を殺さんとする二国間の王達。
2088
粗末なボロ服を纏い、薄汚れた格好で戦うその姿は︱︱まさしく
奴隷そのもの。自分の生よりも大切な者達の命を守る為に、彼等は
お互いを傷付け合う。
友好国同士だった彼等がだ。
あらゆる箇所から血が噴出し、視界は真っ赤に染め上げられる。
それでも止まらない。彼等の子供達が悲痛の叫びを上げても、も
はや誰も止められないのだ。
﹁いいぞ、もっと攻めろ。もっと残虐になれ﹂
ロダンは恍惚とした表情を浮かべ、この殺し合いを心底楽しむ。
彼の辞書に平和という文字はない。多くの命を奪い、多くの惨劇
が生まれるだけの世界だと考えている。
よって、ロダンは温厚な手段を持ち得ていない。
戦いという手段でしか解決できないのだ。
2089
﹁あっ⋮⋮ああ!﹂
玉座で行われる決闘に、大きな変化が生じる。
王女の困惑した声と一緒に、王女の父である国王は地面に膝をつ
いた。
苦悶の表情をし、利き腕からは鮮血が滴り落ちる。持っていた剣
は刃諸共砕かれ、戦う術を全て失った。
対する王は⋮⋮目尻に涙を溜めていた。
共に平和な世界を築こうと誓った盟友を、この手で殺さねばなら
ない。血塗れのまま崩れ落ちた友を、彼は泣きながら見下ろしてい
た。
﹁うっ⋮うぅ。すまぬ⋮⋮すまぬ友よ!﹂
今更懺悔したって、もう遅いかもしれない。
2090
しかしこれもまた運命である。
佇む王は刃を突き立て︱︱膝をつく王を貫く。
﹁ごっ⋮⋮あ﹂
瀕死の王は心臓部を貫かれ、血反吐を吐く。
﹁父様⋮⋮?父様ぁッッ!﹂
王女は急いで王の元に駆け寄り、その全身を支える。一生懸命助
けようと試みるが、いずれも無駄な足掻きである。
仰向けにされた王は、やがて絶命する。瞳孔も開き、心臓の鼓動
も停止する。それを見届けた王女は、亡き父の胸に頭を埋める。
︱︱決闘は終わった。
呆然と佇む一方の王であったが、彼にはまだやる事がある。
2091
深く息を吐き、心を落ち着ける。
冷静を取り戻した王は、玉座に座るロダンを前にひれ伏す。なる
べく感情を押し殺し、決闘の結末を告げる。
﹁ロダンよ、戦いは終わった。この決闘は私の勝利となり、私の敵
は敗北した﹂
﹁⋮⋮そのようだな﹂
ロダンは淡々と頷く。そこに感情は存在しない。
生き残った王は息子へと歩み寄り、その頭に手を置く。そうしな
がら、更に言葉を続ける。
﹁約束に従え。私が勝てば、貴様は私の国から去ると誓ったはずだ。
そんな意味も含めて、貴様はこの決闘を作ったのだろう?﹂
﹁ち、父上﹂
王は息子の声も聞かず、真っ直ぐロダンを射捉える。
2092
ロダンは退屈そうに首を傾げ、目線を天井へと移す。
﹁ふむ、確かに俺はそう言ったな。⋮⋮さてどうしたものか﹂
﹁貴様!よもや忘れたとは言わせまいぞ!私に友を殺させ、友の娘
を絶望に追い遣った。だがそれでも尚、貴様はそれ以上を望むか!﹂
﹁とは言われてもなあ。だってお前⋮⋮﹂
と、ロダンが何かを告げようとした途端。
更なる鮮血が部屋を舞う。
﹁⋮⋮⋮⋮ッ﹂
﹁ちち⋮うえ?﹂
生き残った国王と、その息子の首が跳ね飛ぶ。
2093
一瞬だった。彼等は何の抵抗も出来ないまま、何者かによって首
を奪われた。主を失った二つの身体は、無様にも倒れていく。
﹁⋮⋮あ∼あ。もう遅い、か﹂
そう言って、二人を殺した第三者を見やる。
部屋の大扉前に立ち、巨大なナタを肩に担ぐ少女を。数年もの時
が経っているにも関わらず、年老いない自分の娘を。
彼女が歩を進める度に、こびり付いた鮮血が刃に沿って流れ落ち
る。ポタリ、ポタリと大理石の床に付着する。
幽鬼の如く歩み寄る姿は、正に殺人鬼そのもの。
︱︱そんなセラハを、ロダンはじっくりと眺めていた。
﹁勿体ぶるねえ親父殿。昔のあんたは、もっと直接的だったけどね﹂
2094
﹁心外だな、俺は昔からこうだったぜ。⋮⋮それとも何か?﹃死ん
でいる間﹄に実の父親を忘れたか?﹂
父親と言われ、セラハのこめかみに筋が立つ。
彼女が怒気を放つと同時、近くにいた王女は短い悲鳴を上げる。
地面にへたり込み、あまりの恐ろしさに失禁する。
﹁⋮⋮残念だけど、父親だとは一度も思った事ないね。あんたは私
を苦しめ続けたんだ⋮⋮ずっと、ずっとね﹂
﹁なら何故戻ってきた?ここはお前の大嫌いな故郷なんじゃないか
?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
セラハは何も答えない。
というよりも、その問いに対する答えが見つからないのかもしれ
ない。
﹁おや、返事が出来ないのか?⋮⋮なら仕方ない。セラハよりも事
2095
情を知ってそうな奴に聞いてみようか﹂
それは﹃ある存在﹄に向けたものである。
隣国の王女でもなく、勿論セラハでもない。だがこの部屋にいる
のは確かであり、奴の気配がひしひしと伝わってくる。
禍々しくも美しい。洗練された邪気を露わにしたそいつは、黒き
霧となって部屋中を漂い始める。
︱︱魔を呼び起こす兆候。
果ての見えない恐怖に身を悶えさせ、底知れない威圧感に呑まれ
る全ての生きとし生ける者。
嗚呼、無常とは正にこの事。
例えロダンやセラハであっても⋮⋮。
2096
⋮⋮真の闇には逆らえまい。
﹁︱︱あら呼んだかしら?ロダン君﹂
﹁ああ呼んだよ。だからその胸くそ悪い邪気を捨てて、さっさと姿
を見せろ﹂
﹁⋮⋮相変わらず口が悪いわね﹂
闇の霧は一か所へと凝縮し、耳障りな音を立てて形を精製する。
始めは見目麗しい肢体を模り、それを覆う様に漆黒のドレスが縫
われる。漆黒の黒髪は艶やかに舞い、紅蓮の唇が生々しく映える。
絶世の美女と呼ばれてもおかしくはない。そんな少女が、玉座の
隣へと君臨した。
︱︱その名はジスカ。
この世の摂理を知り、シールカードを統轄する者である。
2097
﹁それで何の用かしら?こう見えても私、ギャンブラー探しに四苦
八苦している最中なのよ﹂
﹁そいつは悪かったな。まあでも、そんなに時間は掛けさせない﹂
﹁⋮⋮ふ∼ん﹂
ジスカは肩に掛かった黒髪を払い、両腕を組んで見せる。
どうやら黙って聞くそうだ。
他方のロダンは邪険を露わにし、ジッと佇むセラハに人差し指を
向ける。
﹁︱︱そろそろ答えな。飄々と現れては、何の気なしに生き返った
セラハを差し出しやがって。おまけにシールカードの軍勢だ?⋮⋮
てめえ、始原旅団のプライドに泥を塗る気か?﹂
嫌悪の牙を剥き出しにし、邪魔立てしたジスカを睨み付ける。
始原旅団は他の軍勢の力を借りない。侵略という成果は自分達だ
2098
けで挙げなければ意味がない。ましてや得体の知れないシールカー
ドとなると、さしものロダンも警戒をしなければならない。
更に言うなれば、セラハは邪魔な存在でしかない。
ロダンは強きを求め、弱きを排除する。数年前に亡くなった娘な
ど、もはや興味さえも失った。
弱者にチャンスを与えるほど、ロダンは優しくない。
﹁⋮⋮ま、損は無いんだし勘弁してよ。セラハに関しては私の部下、
エリーザが仕組んだものだし、八つ当たりはエリーザにして頂戴な。
もう死んでいるけどね﹂
﹁⋮⋮ちっ、勝手な野郎だな﹂
ジスカの横暴に呆れ果てるが、これ以上言っても後戻りは出来な
い。既にジスカはセラハにシールカードを与え、そしてギャンブラ
ーとなって軍勢を従えている。
それだけではない。彼等は隣国のランドリオ帝国にまで宣戦布告
をし、大々的な戦争を仕掛けようとしている。もしランドリオを奪
えば、帝国の領土はパステノン王国へと吸収される。
2099
確かに得はするが⋮⋮その分、厄介事が増えて仕方がない。
目前でカタカタ震え、実の父に怯えるセラハもまた⋮⋮その要因
である。
ロダンはその場から立ち上がり、重い足取りで進み行く。
気絶した王女の横を通り、そしてセラハの横を通り過ぎる最中。
彼はセラハに対し、怨嗟の言葉を言い残す。
﹁︱︱親父に愛されて育ったせいで、やっぱりお前には残虐性とい
うものが無いな。⋮⋮だから俺は、お前に愛想を尽かしてるんだよ。
ずっとな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
セラハはナタを持っていない手を握り締める。
2100
顔を俯け、零れそうな涙を堪える。
自分の祖父、アルバートを馬鹿にされたようで⋮⋮悔しかったの
だ。
2101
ep7 狂気に満ちた親子︵後書き︶
※パステノン雪原↓http://6886.mitemin.n
et/i99357/
2102
ep8 闇と狂者の語らい
その場に立ち尽くすセラハは、自嘲の笑みを浮かべる。
実の父親と再会した事で、何かが変わると思った。もしかしたら
⋮⋮あのロダンが改心し、自分を本当の娘として扱ってくれると期
待していた。
だがそれは思い上がりだった。
彼には愛情が存在しない。どんなに愛を願ったとしても、父であ
るロダンが振り向いてくれる事はない。
⋮⋮人を沢山殺した。
それはもう残酷なまでに。ロダンが望めば、セラハはどんなに鬼
畜な所業でもこなしてきた。
2103
全ては父親に愛される為に。
突如いなくなった祖父への悲しみを埋めるように、彼女は死ぬま
で従い続けた。
︱︱その結果がこれだ。
狂気が足りないからという理由で、また愛されなかったのだ。
﹁はあ、あの調子じゃ困るのよね。⋮⋮そうは思わない?﹂
と、背後から声を掛けられる。
声を放った人物は、つい今まで玉座の横にいたジスカだった。彼
女は黒い霧となってセラハの背後に回り、悟られずに彼女の背へと
寄りかかっていた。
度肝を抜かれたセラハは、焦った様子で距離を取る。
﹁き、気付かなかった⋮⋮﹂
2104
﹁当たり前よ、私を誰だと思っているのかしら?﹂
﹁⋮⋮知りたくもないね。ロクな人間じゃないって事は、大体分か
るけど﹂
セラハは勘が鋭い。
なので、ジスカという少女の本質を大方見抜いている。
︱︱彼女は正真正銘の悪だ。
自分やロダンなんてまだまだ生温い。終始平静を取り繕う彼女だ
が、その中身では激しい悪意と狂気、そして尋常ならざる憎悪が渦
巻いている。
邪神さえも超越するその気迫は、常人では持ち得ないだろう。
﹁うふふ、まあ合ってるわね。⋮⋮更に付け足すならば、私は人間
には分類されないわよ﹂
2105
﹁⋮⋮それは一体どういう﹂
﹁残念だけど、これ以上は言えないわ。とにかく貴方は、自分がす
べき事をするように⋮ね?﹂
﹁⋮⋮﹂
有無を言わせない態度に、セラハは押し黙る。
ここで更に追求すれば、ジスカは容赦なくセラハを殺す気だろう。
彼女にとってセラハは、ただ忠実に動く駒に過ぎないからだ。
セラハもそれを理解している。
潔く諦め、仕方なく話題を変える事にした。
﹁自分のするべき事って⋮⋮。一応はっきりしとくけど、あたしは
あんたの命令に従ってこの城に駐在してるんだ。あんたの命令がな
ければ⋮⋮今頃ランドリオへ攻め入っている所さ﹂
好戦的な発言に、ジスカは深く溜息をつく。
2106
﹁それは叶わぬ話ね。やるべき事と言ったら、自分の持つシールカ
ードの研究や、国境付近の偵察でしょうに。もしランドリオへと攻
めていたら、今頃返り討ちにあっているわよ﹂
﹁⋮⋮そんなに強いのかねえ。ランドリオの騎士達は﹂
細心の注意を払えと言われても、当のセラハは腑に落ちない。
ランドリオ騎士団が武を極めたという話は有名だ。セラハが死ぬ
前も、彼等は六大将軍を筆頭に活躍してきた。
だがセラハは、過去に六大将軍の一人を殺めている。
長く激しい戦いだったが、軍配はセラハの方に上がったのだ。シ
ールカードいう恐ろしい力がある今、彼等に後れを取る心配はない
はずだ。
︱︱が、それでも尚ジスカは念を押した。
﹁ええ強いわよ。⋮⋮特に今回の六大将軍は、この私が震え上がる
ほどの実力者が集っている﹂
2107
﹁⋮⋮あんたが?﹂
信じられない。
あのジスカが畏怖するなんて⋮⋮今の六大将軍を、どんな連中が
務めているのだろうか。
ジスカは彼女の疑問に答えるかの如く、まるで嬉しそうに説明す
る。
﹁︱︱天千羅流の免許皆伝者。不死鳥の化身。ランドリオの経済や
外交を一人で支える貴族。約千年を生きる竜帝に⋮⋮正義を司る白
銀の聖騎士。あとの一人は分かっているわね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
単純明快に言われ、それだけでも十分理解する事が出来た。
畏怖するに相応しい人物達だ。かく言うセラハも、その異名を聞
いてから震えが止まらない。
2108
もし彼等が対抗してきた場合、呆気なく敗北するのはこちら側だ
ろう。如何に強大なシールカードと言えど、彼等を前に制約なしで
戦えば⋮⋮きっと恐ろしい結末が待っている。
判断を見誤る程、セラハは狂い落ちてはいない。
手に持つナタを担ぎ直し、おどけたように両手を小さく上げる。
﹁成程、よく分かったよ。確かにこちらから攻めれば、絶対の勝利
は約束されないね﹂
﹁そういう事。⋮⋮って、まだ何か不安でも?﹂
眉間に皺を寄せ、明らかに不満そうな表情をするセラハに問いか
ける。
彼女は﹁勿論﹂と言い出し、その不満を言葉にしてぶつける。
﹁ならどうやって攻めるのさ?このままじゃ停滞する一方だし、布
陣を敷いた意味がなくなる﹂
2109
﹁⋮⋮意味ならあるわよ。とは言っても、貴方が予想する相手以外
に差し向ける予定だけどね﹂
﹁⋮⋮国境に待機している軍以外に?﹂
﹁ええ、まあね﹂
ジスカは軽快に歩を進め、玉座の奥部にあるテラスへと向かう。
途中で立ち止まって手招きをしてきたので、仕方なくその後を追う。
テラスに出ると、雄大な景色が二人を待っていた。背筋が凍る程
の寒風が雪草原を過り、地面の粉雪を掻き乱す。轟々という歪な風
音を聞きながら、セラハはここに呼び出した理由を問う。
﹁何をする気?﹂
純粋にそう問われ、ジスカは呆気にとられる。
﹁あら、まだ分からないのかしら?⋮⋮城下に密集する町をご覧な
さい。じっくりと目を凝らして﹂
2110
﹁⋮⋮﹂
嫌々ながらも、セラハは城下町を見下ろす。
一見すると何の変哲もない街だ。仄かな町の灯だけが彩り、それ
以外に特筆な点は見られない。
だがジスカは、目を凝らして見据えろと命令してきた。
そこに何があるかは分からないが、多少の興味はある。じっくり
と観察した先に、一体何があるのかを。
意識を集中させ、視線は街を射捉える。
⋮⋮⋮⋮すると。
﹁︱︱︱︱ッッ﹂
嫌な汗が身体中から吹き出し、思わずその場から飛び退く。
2111
町から発せられる波動に、セラハは恐れ戦いたのだ。
﹁はあ、はあ⋮⋮⋮⋮。な、何さ今のは﹂
﹁︱︱当然、私達のもう一方の敵よ﹂
﹁て、敵?﹂
飄々とした態度で言われ、セラハは愕然とする。
冗談じゃない、何が敵だ。奴等は極限にまで力を抑えているが、
根本的な波動は抑制出来ていない。
⋮⋮シールカードの力を得た今ならば、その力を認識する事が出
来る。
奴等は絶対的な力を有している。数々の修羅場を乗り越え、幾多
もの経験を積み重ねてきた猛者達が、すぐそこまで来ているのだ。
何故?どうして?
2112
いや、そんなのは分かっているはずだ。
奴等から発せられる敵意は、間違いなくこの城へと向けられてい
る。故に暴挙へと躍り出るセラハ達を食い止めんとしているのだろ
う。
⋮⋮その人物達に心当たりがある。
﹁︱︱もしかして六大将軍?﹂
その問いに対する返事は返ってこなかった。
単にジスカは微笑み返すだけで、明確な答えを示さない。
﹁ふふ、いずれ分かるわよ。だって彼等は、私達に会いたいが為に
ここまでやって来たのだから﹂
何故だか知らないが、ジスカは歓喜に満ちていた。
彼女の宿敵だというのに、まるで年頃の少女のようにはしゃいで
いる。まるで乞い願った想いが届いたように喜ぶ。
2113
とても理解不能だ。
素性も真の目的も知れぬジスカだが、更なる疑問が飛来してくる。
⋮⋮シールカードによる世界の支配などと謳っているが、根底にあ
るものは全く違うはずだ。
セラハなら分かる。
︱︱もっと邪で、私欲に満ちた願望を遂げようとしているのだと。
﹁⋮⋮まだ短い付き合いだけど、これだけは言える。私はあんたの
事を信用できないし、むしろ敵意さえ覚える﹂
﹁そう思ってくれても構わないわ。どうせ敵意を示したって、この
私の前では無にも等しい。⋮⋮そして私は、執着する者以外には一
切興味を示さないから。こちら側から命を取る行為はしないわよ﹂
それは安心しろという意味なのか。またはセラハに興味を示すよ
うな行動を取れば、いずれ殺すという警告なのだろうか。
2114
いずれにせよ、真意は定かではない。
﹁随分と話し込んじゃったわね。⋮⋮ま、必要な時はちゃんと命令
を下すわ。それまでは待機という事で﹂
ジスカは素っ気ない調子で言い放ち、また玉座の間へと戻ろうと
する。
が、セラハはそれを許さない。
風を切る彼女の肩に手を置き、ぐっと力を込める。
﹁待ちなよジスカ﹂
﹁⋮⋮今度は何の用かしら?﹂
苛立ちを露骨に表し、切れ長の瞳を向けてくるジスカ。
だがここで物怖じするセラハではない。彼女の瞳をしっかりと見
据えた上で、彼女に対する一つの疑問を問う。
2115
﹁︱︱これだけでも聞かせてくれないかねえ?一体あんたが、何に
対して固執しているのかをさ﹂
﹁⋮⋮﹂
ジスカはそう問われ、しばし沈黙を貫く。
やがて口から零れ出たのは︱︱微かな含み笑い。
見下すようにセラハを睥睨し、肩に置かれた手を振り払う。
﹁⋮⋮確かにいい機会ね。いいわよ、ちょっとだけ教えてあげる﹂
全てを魅了する甘い誘惑を込めつつ、聞く者全てを虜にするよう
な声音を風に乗せる。
不気味な戦慄がセラハの全身を撫で、驚く程冷たいジスカの手が
頬へと引き寄せられる。
ジスカは愛おしい恋人を慰めるように、セラハの頬を擦る。そう
しながら顔を徐々に接近させ、遂には吐息の音色が聞こえるまで近
2116
づく。
美しい顔同士が相対する中で。
ジスカはほんの僅かな本音を暴露する。
﹁私は始祖アスフィを求めてるの。彼女は私にとって、必要であり
﹃片割れ﹄でもあるから﹂
﹁⋮⋮え﹂
︱︱片割れ?
その言葉の意味が分からぬまま、尚もジスカは続ける。彼女の頬
から手を離し、背を向け、玉座の間へと戻りながら。
﹁︱︱私は白銀の聖騎士を憎む。﹃彼﹄以外の誰かがなるなんて、
他の誰もが認めたとしても⋮⋮私だけは許せないから﹂
2117
最後の言葉だけ、外見相応の感情を秘めたそれだった。
冷酷かつ美しい態度を崩さないジスカは、その時だけ偽りの殻を
打ち破った。本来の彼女たる部分を曝け出し、未だ未熟である側面
をセラハに見せつけた。傍から見ればそれは、およそ十代後半の少
女が魅せる自然体であった。
感情のまま言葉を紡ぎ、本意に従って口を動かす。
今のジスカから、その一連の動作が見受けられたのだ。
﹁⋮⋮では良き夢を。私達の戦いに、栄光の勝利があらん事を﹂
ジスカはそれ以降、余計な事を発さない。
また取り繕った態度を露わにし、邪悪なオーラを身体全体に纏わ
せる。
コツコツと甲高いヒールの音を鳴らし、漆黒の闇へと溶け込む。
2118
﹁⋮⋮﹂
セラハはその小さな背中を見届け、ある確信を抱く。
それは単純明快。
︱︱彼女にも、何か思う所があるという事だ。
2119
ep8 闇と狂者の語らい︵後書き︶
※みてみんにておまけイラストを投稿。興味がありましたら御覧下
さい↓http://6886.mitemin.net/i10
0613/※学園キングダムも更新↓http://ncode.
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2120
ep9 憎き少女への思い
猛々しい吹雪に苛まれる中、アルバートは帰途についていた。酒
の影響で足元がふらつき、視界も若干ぶれている気がする。
⋮⋮飲み過ぎた。
結局あの後もジーハイルと飲み交わし、遂には飲み比べにまで発
展してしまった。年甲斐もない行動に我を恥じつつも、それは出来
心だったのだと自らを慰める。
それに久しぶりの再会だ。
唯一無二の親友とはしゃいでも、バチは当たらないだろう。
﹁⋮⋮ん?﹂
ようやく借家の前に辿り着いた所で、アルバートは微かな疑問を
2121
覚える。
もう既に深夜近いのに、借家には未だ明かりが灯っている。彼等
は通常、こんな遅くまで起きているはずがない。
一体誰が起きているのだろうか。
アルバートは着込んでいた外套を玄関前で脱ぎ、しっかりと纏わ
り付いていた雪を払う。身震いする寒さから逃れようと、彼は借家
へと入る。
玄関を抜けると、その目前にはリビングと台所が併存する部屋が
ある。
外套をポールに掛けた後︱︱彼は溜息を吐き、テーブル席にいる
一人の青年に声を掛ける。
﹁⋮⋮小僧、お前まだ起きていたのか﹂
﹁ん⋮⋮⋮⋮アルバート⋮じゃないか﹂
今更気付いたのか、ゼノスは眠気眼を向けてくる。
2122
疲労困憊の色が顔に出ていて、アルバートを見ながら何度もため
息を零す。またうつ伏せになりかけるが、ハッとしてすぐに起き上
がる。疲労の原因は恐らく、本来の力を失った影響なのだろう。
⋮⋮にしても懐かしい。
こんなにも疲弊しているゼノスを見るのは、果たして何年ぶりだ
ろうか。
﹁事情は全く知らんが、ここで寝ていては風邪を引くぞい。⋮⋮良
ければ、儂が寝室まで運んでやろうかの?﹂
﹁おいおい⋮⋮いつまで子供扱いなんだ?俺はもう大人だし⋮⋮そ
れに、あんたが聞いた情報を早く得たいんだ﹂
アルバートはその言葉に対し、素直に驚く。
要するにゼノスは、アルバートが聞き入れた情報をいち早く知ろ
うと、こうして待機していたのか。
情報など、別に明日にでも聞けるのに。
2123
だがアルバートは、彼がそうする理由を知っている。長い付き合
いだからこそ、意固地になる気持ちを理解している。
︱︱ゼノスはこれ以上、無力でいたくないのだ。
何も出来ない自分は、同時に生きる意味を失っている。力こそが
正義の原点であり、その源にもなりうる。
肝心な力を失った今、少しでも多くの情報から対策を練ようと⋮
⋮一種の焦燥感に駆られているわけだ。それが成功に繋がるかは別
として、責務を全うしようとする志は素晴らしいものだ。
殊勝な態度に感化されたアルバートは、黙してゼノスの対面へと
座る。
それに得た情報から推測するに︱︱ゼノスと二人で話した方が良
い部分もあるからだ。
当然、ありのまま全てを語ろうと思う。
﹁分かった、だが手短に話すとしよう。明日もきついきつい商売が
2124
待っているのじゃろ?﹂
﹁⋮⋮ああ承知してる﹂
ゼノスは自分の頬をぺちぺちと叩き、眠気を強引に吹き飛ばす。
居住まいを正し、腕を組んで聞く姿勢を取る。
﹁だから早く聞かせてくれ。︱︱俺達はこれから、誰とどうやって
戦うべきかを﹂
﹁そうか。⋮⋮しかし如何せん、どこから話したらいいものか﹂
しばし逡巡し、自分の中で情報を整理整頓するアルバート。
パステノンの現状を話すには、まず国の建国史から語るべきか。
シールカードを操るギャンブラーの正体を語るに際し、手始めにア
ルバートの家庭内事情から語るべきか。
悩んだ、大いに悩んだ。
長く歴史を語った所で、今の現状に行き着く部分は僅かしかない。
かと言って全てを省略しても、聞き手のゼノスを納得させる事は出
2125
来ないだろう。
⋮⋮そう、まどろっこしく話す必要はないのだ。
特にゼノスに対しては︱︱彼の過去と絡み合わせて語るしかない。
そうする事で⋮⋮自らの敵がより分かりやすくなるだろう。
﹁小僧、前置きとして聞いておくがの。︱︱お前はまだ、グラナー
デにいた頃を覚えているか?﹂
﹁⋮⋮何を突然﹂
﹁これから語る話と深く関わるんじゃ。いいから答えろ﹂
強みを帯びた答えに委縮し、ゼノスはやがて小さく頷く。
﹁⋮⋮当たり前だ。あの頃だけが俺にとっての平和だった。ドルガ
兄さん、コレット姉さん、そしてガイアが傍にいたあの時代だけが
⋮⋮⋮⋮﹂
2126
﹁そうじゃろうなあ﹂
忘れているわけがない。
世の中を知らず、世界は平和だと信じていた時代だ。世間一般の
子供と同じく、ただ遊んでいた。当然のようにいる家族と日々を過
ごし、眩しい世界を歩んでいた。
︱︱そして逆転した。
あの忌々しい侵略を期に、ゼノスの世界が変わった。
グラナーデでの生活を忘れる。︱︱それは即ち、ゼノス自身の人
生を否定する事と変わらない。
あの思い出こそが原点。白銀の聖騎士ゼノスが生誕した瞬間なの
だから。
2127
﹁ならこれも覚えているかの。かつてのグラナーデを支配し、お前
の大切な家族を殺した少女を⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
ゼノスは眉間に皺を寄せ、唇を強く噛み締める。
彼の脳裏に焼き付いた少女︱︱その表情は美しく歪み、血に飢え
た双眸が彼女の狂気に華を咲かせる。鮮血の雨を全身に浴び、恍惚
とした笑みを周囲に振る舞う。
記憶の少女は嗤い続ける。
大好きな家族の髪を見せつけながら、彼女は傍若無人の勢いで大
切なものを奪っていく。ゼノスが絶望すると知りながら、まるでそ
れを喜ぶかのように狂乱を演じ切る。
︱︱セラハとは、ゼノスにとって最も憎むべき少女。
だが彼女の現状を全く知らないゼノスは、当然の疑問を投げかけ
る。
2128
﹁何故セラハの話題を出す。死人が今回の件に関わっているとでも
?﹂
冗談交じりに言ってくるが、それは的を射ている。
正直に答えようとしても、言葉が喉元につかえてしまう。馬鹿正
直に事実を告げた所で、当のゼノスが信じるわけがない。
アルバートもそうだ。
もしジーハイル以外の誰かが打ち明けても、アルバートは頑なに
信用しなかっただろう。死人が生き返る?はは、有り得ん⋮⋮と、
その虚言めいた響きを一蹴していたに違いない。
しかしジーハイルは別だ。
彼は嘘が下手で、自分から進んで嘘をついた事がない。仮に虚言
を吐いたとしても、それが嘘だとはっきり見分けられてしまう。
逆に真実を告げる時の彼は、どこまでも率直に言い放つ。
2129
何の曇りもなく、自分が見聞きした事実をはっきりと言い表すの
だ。長年ジーハイルを連れたアルバートは、それをよく熟知してい
る。
故に︱︱セラハは生きている。
そして今も尚、ランドリオとの戦争を仕掛けようと目論んでいる。
父親であるロダンと共に、我等六大将軍の敵と成している。
これは事実。避けては通れないし、必然的に対立するであろうも
の。
徐々にアルバートの意図を察したゼノスは、思わず乾いた声を漏
らす。
﹁⋮⋮嘘、だよな。だって有り得ない⋮⋮奴はアルバートの手によ
って、確かに⋮⋮そう確かに死んだはずだ。⋮⋮そうだろ?﹂
﹁⋮⋮残念だが、本当じゃよ。儂の孫娘であるセラハ・ヴィッテル
シュタインは、何らかの理由によって復活しておる﹂
2130
﹁︱︱ッ﹂
ゼノスは荒々しく立ち上がり、右腕を大きく振って見せる。
﹁そんなの嘘に決まってるだろ!何で死人が生き返るんだ!?より
にもよって⋮⋮あの悪魔のような女が!﹂
﹁落ち着くんじゃ小僧。⋮⋮それに、死人が息を吹き返すなぞ珍し
くはなかろう?かつての英雄譚を紐解けば、そのような事例は尽き
まい﹂
﹁あれは化け物共の話だろう!人間が生き返るのとはわけが違うぞ
!﹂
﹁それが有り得るんじゃよ。︱︱セラハはシールカードという存在
に関わってしまった。恐らくあの力によって、あの子は目覚めてし
まったんじゃ﹂
﹁ぐっ︱︱﹂
まさかそんな。
2131
シールカードは死者蘇生まで可能にするというのか?
有史以来、死者を蘇らせるという実例は数多あるが⋮⋮それは獣
や悪魔など、人外に位置する化け物だけに限られる。
誰も人間を蘇生させた事はない。過去何度かに渡って人体蘇生術
を試みたが、どれもが失敗に終わっている。良くて死体に変化が起
こらず、最悪の場合はグールになったという話もある。
もしセラハの復活が本当ならば、非常に驚くべき事だ。しかし同
時に、この世の理念を覆す忌むべき出来事だ。
少なくとも、ゼノスはそう思うしかない。
﹁⋮⋮それでセラハは、彼女はどういう立場にあるんだ?﹂
﹁ふむ。親友ジーハイルが言うには、あの子はシールカードを従え
ているらしい。無論、国境に待機する連中のな﹂
﹁くそ!てことは、ギャンブラーとして君臨してるわけか。蘇生と
いい、一体誰がこんな事を﹂
2132
降りかかる様々な災難に憤りを感じ、ゼノスは未だ見ぬシールカ
ード勢力の首謀者を恨む。怒りの矛先を向ける事が出来ず、ただあ
りのままの現実を受け止めるしかない。
﹁︱︱とにかく、儂等の敵がセラハだという事が分かった。いいか
小僧、くれぐれも妙な真似をするな。私怨に囚われず、今は好機を
探す時じゃからな﹂
﹁ああ勿論分かってるよ。けど⋮⋮やはりあんたでも、攻略の糸口
までは見つからないんだな﹂
夕食後にミスティカと連絡を取ったが、向こうも明白な攻略方法
を見つけていないようだ。ホフマンが様々な経路から方法を探って
いるようだが、ミスティカ曰く難航を極めているそうだ。
︱︱好機なんて、果たしてあるのだろうか。
ゼノスは世間が思うほど強くはない。心の奥底から不安という感
情が表出し、沸々と煮えたぎる。やがて思考全体を狂わせ、深い深
い思案の闇へ飲まれようとしていたが︱︱
2133
﹁⋮⋮ゼノス﹂
﹁へ?﹂
美しくも無機質な声につられ、ゼノスは声のした方向を見やる。
二階へと繋がる階段。そこには寝ぼけた様子のロザリーが佇んで
いた。彼女はネグリジェの上に薄いカーディガンを羽織っており、
完全に寝間着の姿だった。
﹁わ、悪いロザリー。起こしちゃったか?﹂
慌てて謝罪するゼノスだが、ロザリーは気にも咎めていないよう
だ。
顔を横に振り、大きな欠伸をしながら問う。
﹁⋮⋮ゼノスは寝ないの?私、ずっとゼノスを待ってるんだよ⋮⋮﹂
﹁え?﹂
2134
唐突に言われ、ゼノスは間抜けな表情を露わにする。
この借家は見た目に反し、個々人にしっかりとした個室が備えら
れている。よって、誰かと相部屋なんて有り得ないはずだ。
︱︱何だか嫌な予感がする。
その証拠に、アルバートは顔をにやけさせ、顔の皺を増やしてい
た。
﹁くく、小僧。今日は眠れないようじゃな﹂
﹁ア、アルバート⋮⋮あんたまさか、変な想像をしてないか?﹂
﹁いや何も?︱︱ほれロザリー。儂と小僧の話はもう済んだから、
こやつを寝室に連れて行っても良いぞ﹂
アルバートが言い終わる前に、既にロザリーはゼノスの手を掴ん
でいた。
2135
﹁⋮⋮ご協力感謝。行こう、ゼノス﹂
﹁まま待て!話はまだ︱︱まだ終わって︱︱ッ!﹂
必死の叫びにも耳を貸さず、ロザリーは容赦なくゼノスを引っ張
る。
一方のアルバートはと言うと︱︱
﹁⋮⋮頑張るんじゃぞ小僧。儂も陰ながら応援しとる﹂
まるで成長した我が子を見守るように、ゼノスへと手を振ってい
た。
2136
2137
ep10 伝えられない気持ち
ゼノス・ディルガーナは文字通りの英雄だ。
今更語る必要はないと思うが、彼は幾度も人々を救済し、その強
大な力を世の為人の為に使ってきた。
戦いは厳しいものばかりだった。如何なる時も異様な緊張感に呑
みこまれ、震えが止まらない時もあった。しかしそれでもゼノスは、
勇猛果敢に数々の強敵を打ち破ったのだ。
⋮⋮が、それは戦いだけの話。
今のような状況に関しては、どう立ち向かえば良いのか非常に困
る。
﹁⋮⋮﹂
ゼノスは顔を真っ赤に染めながら、自室のベッド前へと佇んでい
2138
る。
﹁⋮⋮どうしたのゼノス。早くしないと風邪を引く﹂
﹁⋮⋮そうは言うがな﹂
いつもの水色パジャマ姿に身を包んでいるゼノスは、改めてロザ
リーの恰好を確かめる。
彼女は自分のベッドに潜り込み、ネグリジェを色っぽく着崩して
いる。露出度が高くて、奥手のゼノスとしてはかなり居心地が悪い。
そんなロザリーが、何と一緒に寝ようと訴えているのだ。
色々な想像が脳を張り巡らし、ランドリオの英雄であるゼノスは
混乱状態に陥っていた。
﹁⋮⋮我慢の限界、引きずり込む﹂
﹁お、おい!﹂
2139
心の準備も出来ないまま、ゼノスは細い手によってベッドへと引
き寄せられた。
ロザリーはベッドに侵入したゼノスを抱き寄せ、自分の顔とゼノ
スの顔を極限にまで近づける。少しでも接近すれば、両者の唇が合
わさるぐらいの距離である。
︱︱おかしい。
ゲルマニアの時は緊張こそしたが、ここまで鼓動が早くなる事は
なかったはずだ。
普段と違う友人を前にして、ゼノスは困惑を抑えきれなかった。
﹁⋮⋮ロザリー、急にどうしたんだ。今日のお前⋮⋮何か変だぞ﹂
そう言われ、珍しくもロザリーは悲しい表情を作る。
﹁⋮⋮迷惑、だった?﹂
2140
﹁いやそんな事は⋮⋮。でもこんな行為は⋮⋮その、普通は好きな
相手にやるだろう﹂
﹁︱︱うん、知ってる﹂
そう言って誤魔化し、ロザリーは自分の頭をゼノスの胸元に押し
付ける。薔薇の様な香りが鼻孔をくすぐり、甘い誘惑が襲い掛かっ
てきた。
﹁ねえゼノス。貴方は一度だけでも⋮⋮女の子の気持ちを考えた事
ある?﹂
﹁⋮⋮気持ち?﹂
何を突然、とは言えなかった。
妙な雰囲気に圧され、ゼノスはただ相槌を打つしかなかった。
﹁そう。例えば⋮⋮あの子は今、自分の事をどう思っているんだろ
うとか。自分に対してどんな感情を抱いているのかとか⋮⋮﹂
2141
あるに決まっている。
ロザリーがどう決め付けているかは知らないが、ゼノスとて人間
だ。女性が不可思議な反応をすれば、自ずと考えたくもなる。
ゼノスは正直に答えた。
﹁当たり前だ﹂
﹁⋮⋮じゃあ、私に対しても?﹂
﹁ああ。︱︱けど実際、ロザリーの考えている事は全く分からない
んだ。まるで自分から感情を押し殺しているような⋮⋮まあ気のせ
いかもしれない﹂
﹁︱︱ううん、正解﹂
ロザリーは間髪入れずに言った。
驚くゼノスを他所に、彼女は更にきつく抱きしめる。
2142
﹁⋮⋮今の私は、とてつもない罪を犯している﹂
﹁罪って⋮⋮何のだ?﹂
﹁とても救いようのない罪。いけないと分かってて、もうしないと
誓ったのに⋮⋮どうしても本心が出てしまうという罪。優柔不断な
私だから⋮⋮ゼノスが見抜けないのも当然﹂
自分を自制しながらも、度々本性が出てしまう。他人からすれば
複雑な感情だし、理解出来ない側面も多いだろう。
だが端的に言うならば、今のロザリーは誓いを破っているのだ。
︱︱ゼノスに恋してはいけないという誓いを。
﹁ごめんねゼノス。⋮⋮⋮⋮私は﹂
嗚呼、言うな。
2143
あの日誓った約束は何だったのか。自分はゼノスの邪魔をしたく
ないから、自らの恋心を封印したのではないか?
とろけるような接吻も、その時の快感も。
全て忘れたはずだ。切ない気持ちを押し殺し、聖騎士としての使
命を阻害しないと自縛する為に。
⋮⋮⋮⋮なのに何故?
⋮⋮止まらない。
止まりたくない。
この激しい想いだけは、例え自分であっても止めて欲しくない。
欲情に身を任せたい。ゼノスという愛しい人に、自分の想いを全
てぶつけたい。感情を押し殺し、ゼノスの前で無表情を気取るのは
もう沢山だ。
2144
︱︱彼に最高の笑顔を見せたい。
⋮⋮⋮⋮だけど。
⋮⋮まだ自信が足りなかったようだ。
ロザリーは言うタイミングを失い、言うのを止めた。
本心を押し殺し、苦しそうな声音で告げる。
﹁⋮⋮何でもない﹂
﹁え?﹂
何か重大な発言をするかと思いきや、ロザリーは何も答えない。
ゼノスは拍子抜けし、全身が一気に脱力する。
一方のロザリーは既に無表情となっていた。
2145
そうだ、それでいい。
本当の自分を曝け出す事は、ロザリーにとっては罪に値する。
自分の恋心を擦り付けた所で、困るのはゼノス自身だ。彼が自分
で選び、そして愛する事こそが⋮⋮ロザリーにとっての理想でもあ
る。
︵自信満々に誘っておいて⋮⋮⋮⋮馬鹿みたい︶
心中で自らの行動を恥じるロザリー。
やがて彼女は小声で呟いた。
﹁︱︱ゼノス、貴方はもっと気付くべき。周囲には、心から貴方を
愛する者がいるという事を﹂
﹁⋮⋮﹂
周囲とは、同じランドリオ騎士団の仲間?
2146
それとも︱︱ランドリオ帝国に住まう人々?
分からない。恋愛沙汰に乏しいゼノスにとって、この問題は極め
て難しいものだ。一体誰が自分を愛しているのだろうか。
こんな戦人を好きになるなんて⋮⋮変人としか思えない。
しかも結局、ロザリーがどうしてここに来たのかも分からずじま
いだ。
﹁⋮⋮もう寝よう。今日はもう⋮⋮変な事はしないから﹂
﹁あ、ああ。⋮⋮⋮⋮⋮⋮ん?﹂
微妙な空気から解放されようとしたその時、ゼノスは妙な事に気
付く。
部屋の外、つまり廊下から声が聞こえてくるのだ。
2147
﹁何だ、こんな夜中に﹂
そう言って、ゼノスとロザリーは耳を傾ける。︱︱未だロザリー
に抱かれつつ。
可能性は低いが、シールカードの手先かもしれない。万が一の事
態に備えながら、ゼノスは神経を尖らせる事にした。
すると、ある二人の会話が耳に入った。
﹃ま、待つのじゃゲルマニア!何をそう慌てているんじゃッ!?﹄
﹃何って⋮⋮明日の予定表をゼノスの部屋に置いてくるだけですよ
?本当は今日見せたかったのですが﹄
﹃なら明日の朝食時でも良かろうに。もうゼノスは寝とるぞい﹄
﹃いえ、それじゃ遅いんです。せめて寝覚め時に見て貰わないと⋮
⋮。ゼノスを起こさないようにしますから﹄
2148
﹃あ⋮⋮今は。今はちょっと駄目なんじゃあ!﹄
アルバートらしき言葉を皮切りに、廊下を鳴らす靴の音が段々と
大きくなってくる。
⋮⋮これはつまり。
緊張が解けると同時、それとは別の嫌な予感がしてきた。
﹁へ?嘘、冗談だろ?﹂
﹁⋮⋮冗談じゃないかも﹂
ゼノスの驚きも束の間。
鈍い軋み音を鳴らしながら、タイミングの悪い少女が入室してく
る。
2149
少女とは勿論︱︱ゲルマニアである。
﹁失礼します⋮⋮って、起きてるじゃないですか。ゼノス、明日の
⋮⋮予定⋮⋮⋮表を⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
徐々に言葉を詰まらせ、終いには言葉を中断させるゲルマニア。
何かとんでもないモノを見るかの様に、蔑む眼差しをぶつけてく
る。身体中から黒いオーラが⋮⋮いやはや怖い。
しかも今回の怒りは尋常ではない。
以前ラヤが寝床に入ってきた時は、彼女自身からゼノスに迫って
来た。だが今は、両者が愛し合うかの如く抱き合っている⋮⋮とい
う格好になっているのだろう。
更に忌々しい事に、ロザリーがとんでもない行動に出る。
沈黙するゲルマニアを一瞥した後︱︱自分の胸にゼノスの手を置
いてきたのだ。
2150
﹁︱︱ッッ。︱︱ッ!﹂
途端、ゲルマニアは鳥肌を立てた。
ロザリーは見せつけるように更に手を押し付ける。初めて体感す
る弾力に意識を奪われ、ゼノスは我を忘れかけていた。
﹁⋮⋮ど、どういう事だロザリー。お前、こんな事したら︱︱ッ﹂
ゲルマニアが激怒するだろう、と言いかけた時だった。ロザリー
がそれを遮るように答える。
﹁知ってる。⋮⋮だから思い知らせた﹂
﹁︱︱ッ。あ、ああ、貴方という人は⋮⋮ッ!﹂
ゲルマニアは遂に鬼の形相を現し、声にならない怒声で一喝した。
2151
﹁︱︱床に座りなさい!ゼノス・ディルガーナ!﹂
それが開幕の合図だった。
説教、そしてロザリーとの口論という⋮⋮何とも素敵な夜の始ま
りであった。
当然だが、この日ゼノスは一睡も出来なかった。
2152
ep10 伝えられない気持ち︵後書き︶
※3月29日追記:ゲルマニア︵改訂版︶のイラストを投稿しまし
た↓http://6886.mitemin.net/i104
241/
2153
ep11 謎の介入者
商売という生業に休みはない。
日々の衣食住を養うには、それだけの商品を売らなければならな
い。品物の価値によって違うかもしれないが、基本休日というもの
は存在しないのだ。
そんな重労働をこなす者達は、今日もパステノン城下町の市場に
集っている。午前七時から出店を開く者もいれば、午前四時の者も
いる。市場の競争に打ち勝とうと、あらゆる戦略を実施しているの
だ。
⋮⋮現在は午前十時前後。
既に殆どの出店で市場を埋め尽くす中、ただ茫然と佇む者達がい
た。
︱︱目の下にクマを浮かべるゼノス、ゲルマニアであった。
2154
﹁⋮⋮おいおいどうするんだ。もう店を出す場所もないぞ﹂
﹁うぅ⋮⋮。まさか皆が寝坊するとは﹂
ゲルマニアは昨夜の出来事を思い出し、重い溜息を吐く。
説教までは事静かに行っていたのだが、ロザリーとの口論ではつ
いつい大声を出してしまい、ラインまでをも起こしてしまったのだ。
結局、皆が寝過ごしてしまったという話だ。今頃はロザリー達も
場所取りに苦戦しているだろう。
﹁と、とにかく市場中を回って見ましょうか。もしかしたら空いて
いるスペースもあるかもしれませんしッ!﹂
ゲルマニアは急かすように告げ、早足で人混みの中を突っ切ろう
とする。
﹁待て、そんな急ぐ必要は︱︱︱︱ぐえッ!﹂
2155
ゼノスも追い駆けようとしたが、そこで思わぬ事態が起きた。
通常なら有り得ない現象だ。
何とゼノスは、地面に躓いて転んでしまったのだ。
﹁あっ、大丈夫ですかゼノス!﹂
それに気付いたゲルマニアは急いでゼノスの元へと駆け寄る。
ゼノスは鼻を抑えながら、更に自分が鼻血を出している事を知っ
た。思わず苦笑し、改めて自覚した。
﹁⋮⋮これも始祖の力ってやつか。転ぶならまだしも、まさかその
衝撃だけで血を出すとはな﹂
﹁血って⋮⋮。と、とにかく止血しましょう﹂
そう言って、ゲルマニアは止血を施してくる。
2156
これは聖騎士だけに限られた話じゃないが、真の強者というもの
は滅多に怪我をしない。
例え大岩に直撃しても打撲しない。ただ転ぶだけなら尚更であり、
彼等の身体には見えない防御壁が纏っているのだ。およそ覇気やオ
ーラといった類であり、つまり気合いで怪我を防ぐわけだ。
今のゼノスには、その気合いというものが発動出来ない。
本当に情けない聖騎士だ。自分自身でそう思ってしまうほどに。
﹁よしっと⋮⋮これで血は止まりましたよ﹂
﹁すまない⋮⋮って、ただ布きれを鼻に入れただけかよ!﹂
別に見栄えは気にしないゼノスであったが、流石に鼻に布を突っ
込んだまま歩くのも気が引ける。
相変わらず雑な治療法だ⋮⋮。
2157
﹁我慢して下さい、そうしなきゃ血が垂れてしまいますからね﹂
﹁ぐっ。わ、分かった⋮⋮我慢する。じゃあさっさと場所取りをし
よう。ここで突っ立ってても邪魔なだけだろうし﹂
﹁そうですね﹂
空いている場所があるかは疑問だが、とりあえず行動あるのみだ。
市場は主に広場、大通り、商業区を中心に開かれている。時間帯
は特に関係ないが、朝市と夕市が一番のかき入れ時だろう。市民は
朝市で一日の食事を買い込み、夕市では酒やその肴を買い求める客
が多いからだ。
ゼノス達は保存食、特に干し肉や魚の燻製を売る。これらは酒の
肴として重宝されており、恐らく夕市に出せば沢山買ってくれるだ
ろう。
朝市から店を出す必要はないのだが⋮⋮そこはゲルマニアが許し
てくれなかった。
﹃︱︱心身を労して仕事に励む。朝から晩まで働けば、それだけ美
味しいご飯が食べられますからね﹄
2158
とか言って、朝市も絶対に出るよう強制させられた。
ゼノスとしては非常に面倒くさい。どうして商売なんかの為に貴
重な睡眠時間を取られなければならないのか?一日十二時間睡眠が
基本だというのに⋮⋮。
ああだこうだ言った所で、ゲルマニアが思い直してくれる事はな
いだろう。
非常にかったるいが、ゼノス達は場所を捜索する事にした。
まずは中央広場を一通り見て回るが⋮⋮案の定、目ぼしい場所は
なかった。中央広場の朝市は競争率が激しく、日が昇る前から店を
構える商人が多いに違いない。ここはまず有り得ないだろう。
次に大通りへ向かったが⋮⋮こちらも出店で溢れ返っている。
半ば諦めムードのまま道を歩いていると、ゼノス達はある出店に
視線が止まる。
2159
︱︱何と、ラインとロザリーの店であった。
とても広いとは言えないが、ちゃんと商売できるスペースが確保
されていた。店先にはカリウッド民族から直接仕入れてきた果実を
並べている。こちらはゼノス達とは違い、朝市に向いている商品ば
かりだ。
と、そこでラインと視線が合う。
ゼノス達に気付いたのか、ラインがのほほんとした口調で声を掛
けてきた。
﹁あれ、ゼノス達じゃないか。こんな所で何してるんだい?﹂
﹁いや⋮⋮ちょっとした事情でな﹂
﹁事情?⋮⋮ああなるほどね﹂
ラインはひとりでに納得し、こっちへ来いと手を振ってくる。
ゼノスとゲルマニアが店先に立つと、ラインが同情の眼差しを向
2160
けながらうんうんと頷いてくる。
﹁要するに、昨日の件に決着をつけるわけだね?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮なぜそうなるんだ﹂
途端に嫌な気配を感じ、冷や汗を垂らしながらゲルマニアを見る。
案の上、ゲルマニアから強い殺気を感じた。
その殺気を向けられたロザリーも、品物の補給をしながら同じ殺
気を放つ。どちらも相手を射殺さんばかりに、猛々しく威圧してい
た。
昨日の件で激しく口論し、今は膠着状態に陥っているのだ。
ラインもまた異様な空気を感じ、店先に出てゼノスに耳打ちをし
てくる。
﹃き、昨日の件じゃなかったの?﹄
2161
﹃当たり前だ!ここに来たのは偶然で、出店先を探してたんだよ!﹄
﹃⋮⋮火に油を注いじゃったのか、僕は﹄
通りを行き交う人々もこちらを凝視する中、二人の対立は更に深
まっていた。
やがてロザリーが薄く笑い、ゲルマニアを小馬鹿にしたような態
度を取る。
かちんと来たゲルマニアは、思わず語気を荒げながら言い放つ。
﹁︱︱ロザリーさん、もう一度忠告します。もう二度とあのような
行動は慎んで下さい﹂
﹁⋮⋮何で貴方の言うことを聞かなきゃいけないの?それに私は、
ちゃんとゼノスの妻として演じているし⋮⋮文句を言われる筋合い
はない﹂
﹁節度を弁えろと言っているのです。例え夫婦だからって、して良
いことと悪いことがあります。これ以上ゼノスを困らせないで!﹂
2162
﹁⋮⋮困らせないように工夫してる。それにゲルマニア、逆に貴方
はゼノスに対してよそよそしい面がある。態度を変えるべきは⋮⋮
貴方のほうでは?﹂
﹁︱︱ッ。な、何ですって⋮⋮﹂
やばい、非常にやばすぎる。
お互いを貶し合った末に、とうとう喧嘩沙汰にまで発展しそうだ。
そんな事になれば、両者の関係が一段と悪化してしまう。
それだけではない。任務でも不利になり、行商人としての立場も
失ってしまう可能性がある。
何とかしなければ。
﹁あ、あの∼二人共﹂
ゼノスが試行錯誤している途中、ラインがおもむろに割り込んで
きた。
2163
勇気ある行動にゼノスが感動する一方、ゲルマニアとロザリーは
不機嫌そうな顔を向けてくる。ラインが﹁ひっ!﹂と情けない声を
出すが、何とかその場に踏み止まる。
生唾を飲み、ラインは引き攣った笑みのまま告げる。
﹁えっと⋮⋮ゼノスがね、その話は食事時にしようってさ。昼にゲ
ルマニア、夜にロザリーって感じで。だから⋮⋮ね。これ以上ゼノ
スを困らせるのはよそうよ﹂
﹁﹁うぐっ﹂﹂
ゼノスを困らせるな、という言葉に反応する両者。
剣呑な雰囲気も徐々に収まり、ばつが悪そうに縮こまっている。
心中で﹃ラインすまない﹄と呟きながら、ゼノスは二人に語り掛け
た。
﹁というわけだ。昨夜の件については、後でゆっくり話し合おう。
ここで変に目立つわけにはいかないだろ?﹂
﹁れ、冷静に考えれば⋮⋮そうですね﹂
2164
﹁⋮⋮ごめん、ゼノス﹂
二人は深々と頭を下げてくる。
﹁気にする必要はない。それよりも早く、場所取りに専念するとし
よう﹂
﹁はい、分かりました!﹂
ゼノスとゲルマニアは二人に別れを告げ、その場を去ろうとする。
﹁あ、ちょっと待ってゼノス﹂
ふと、ラインが呼び止めてくる。
柔和だった表情は緊張の面持ちへと一変し、彼の心情が露わとな
っている。何事かと思いながら、ゼノスは冷静に尋ねた。
﹁どうした?﹂
2165
﹁いや、さっき妙な光景を見てさ。思い出したから伝えようと思う
んだけど⋮⋮いいかな?﹂
﹁ああ勿論だ。行商人をしているのも、そういった諜報活動をする
為だからな﹂
断る理由はどこにもない。
ゼノスは近くにあった木箱の上に座り、聴く態勢をとる。
﹁で、その妙な光景とは?﹂
﹁うん⋮⋮まあ怪しいとは断言できないんだけど、ちょっと前まで
パステノン兵士が徘徊してたんだ。それも慌てた様子でね﹂
﹁︱︱ッ。それってまさか、俺達のことを﹂
﹁いや、それは有り得ないと思う。兵士たちの言葉を盗み聞きして
たんだけど、どうやら人を探してたみたいだ﹂
ラインが言うには、パステノン兵士はある急用を持って町へ繰り
2166
出してきたらしい。
これは事前に調べた情報だが、王国直属の兵士が城下町に姿を見
せるのは稀だ。基本的に城下町の警備は自警団が担い、兵士は主に
城内警護部隊、国境部隊、そして遠征部隊として派遣されるわけだ。
だから街中で目撃する事は有り得ないのだが⋮⋮一体何故なのか。
兵士達は口々にこう漏らしていたらしい。
﹃王国に仇なす者が侵入している。隈なく探せ⋮⋮相手は強大な力
を持ち合わせているぞ!﹄
と、恐れ戦きながら言い放った。
この時点で、ゼノス達が捕まる事はないだろう。始祖の影響で力
は失せ、今は平凡な人間だ。
そうなると⋮⋮第三者が追われているのだろう。
2167
﹁⋮⋮僕からは以上だよ。流石に誰が追われているかは知らないね﹂
﹁そうか。シールカードに直結するかは分からないが、こちらとし
ても不穏分子は避けたい。⋮⋮ミスティカに相談してみよう。透視
でそいつの正体が分かるかもしれない﹂
﹁相談って⋮⋮出来そうなのかい?﹂
﹁多分な。彼女の力を使って会話が出来ると思う。実際、困った事
があったら自分を呼べと言ってたんだ﹂
﹁そうだったのか⋮⋮。分かった、この件については任せるよ﹂
﹁ああ、任された﹂
目的が生まれた以上、ここで時間を費やすわけにはいかない。
この状況を一刻も早くミスティカに報告すべく、ゼノス達は人気
のない裏路地へと向かう。
2168
︱︱背後に妙な視線を感じながら。
2169
ep11 謎の介入者︵後書き︶
※追記:ゼノス改訂版をUPしました↓http://6886.
mitemin.net/i105046/
2170
ep12 意外な再会
ゼノスは裏路地へと入り込み、そこでミスティカと連絡を取る事
にした。
しかし、それは真っ当な手段ではない。異世界のように携帯電話
を使うでもなく、ましてや直接待ち合わせするわけでもない。
簡単に言うならば、シールカードの力でコンタクトを取るわけだ。
誰も通らない路地のベンチに、ゼノスとゲルマニアが共に座って
いる。傍から見れば恋人同士⋮⋮とでも受け取られるだろう。特に
怪しい行動ではないはずだ。
なので問題なく、ゼノスはミスティカと話し合う事が出来る。
﹁⋮⋮ゼノス。ふと思ったのですが﹂
2171
﹁どうした?﹂
隣に座っているゲルマニアは辺りを見渡し、誰もいない事を確認
してから語り掛けてくる。
そして小声のまま、続きを述べる。
﹁ミスティカさんとはその⋮⋮シールカードの力で話すんですよね
?﹂
﹁ああ﹂
﹁でしたら、その力を敵が探知する可能性ってないのでしょうか?
私はそれが不安で⋮⋮﹂
探知、か。
シールカードの構造や能力がどうなっているかは知らない。どの
場合において探知されるかなど、恐らく把握出来ないだろう。
だがはっきりしている事がある。
2172
ゼノスはそれを告げた。
﹁探知される可能性はないと思う。これはアスフィの受け売りだが、
シールカードの力は違う波長を出しているらしい。波長が合えば探
知も可能らしいが、そういった現象は有り得ないんだとさ﹂
シールカードはそれぞれ独特の波長を出し、決して波長が合うと
いう現象は起きない。もし合うとしたら、全く同じシールカードが
存在するという結論になるらしい。
﹁そ、そうだったんですか。始祖の言う事は正直信用できませんが
⋮⋮今はやむを得ないですね﹂
そう、今は仕方ないことだ。
ゼノスはミスティカに言われた通り、自分の右耳を覆うように手
を被せる。
瞳を閉じ、周囲の雑音が聞こえなくなるまで精神を集中させる。
微かな耳鳴りが響く中、ゼノスはミスティカの応答を待っていた。
2173
︱︱すると、徐々に女性の声が聞こえてくる。
次第に声は大きくなり、聞き取りやすい状態となった。
﹃⋮⋮もし?聞こえますでしょうか?私の声が届きましたら、どう
か心の声で返答して下さい﹄
声の主、今はランドリオ本国にいるであろうミスティカがそう告
げてくる。
心の声とはつまり、聖騎士流法技の心音派生と同じ要領でやれば
いいのだろう。声に出せず、心中で呟くよう心掛けた。
﹃ミスティカか。ちょっと報告したい事があるんだが、今大丈夫か
?﹄
﹃う∼ん。今は⋮⋮五分程度なら大丈夫かと﹄
ミスティカは落ち着かない様子で答える。
2174
何か重大な用事でも抱えているのだろうか?忙しない態度に疑問
符を浮かべるが、あえて言わない事にした。こんな怪しい行為は、
出来るだけ早く終わらせたいと思っていたからだ。
﹃分かった、なるべく早めに済ませよう﹄
﹃助かりますわ。⋮⋮それで用件とは?﹄
﹃ああ、シールカードに関しては何も進歩がないんだが⋮⋮一つ気
になる事があったんだ﹄
先程ラインから聞いた話をそのまま伝えるゼノス。
すると、ミスティカは間を空けてから答えた。
﹃ふむふむ、そんな出来事があったのですね﹄
﹃俺が実際に見たわけじゃないが、ラインの言う事だ。相当怪しい
人間だったに違いない。駄目元で聞きたいが⋮⋮そいつが何者かど
うか分からないか?﹄
2175
彼女は難しそうに唸り、﹃ちょっと待って下さい﹄とだけ伝え、
しばし無言を貫いた。
きっとギャンブラーの力を発揮しているのだろう。占い師のシー
ルカードを所持するミスティカは、その気になれば特定の人間を占
う事が出来る。
その人物の性別、姿かたち、そして相手の心情まで読み取れる⋮
⋮と、以前アスフィが自慢げに答えていたのだ。もしそれが本当な
らば、流石ギャンブラーと言った所だろうか。
ゲルマニアに見守られる中、ゼノスはただジッとミスティカの応
答を待っていた。
たまに通りすがる人間に注意を向けながら、やがて二分ほどが経
過した。
ようやくミスティカの声が響いてくる。
﹃お待たせ致しましたわ。僅かながらの特徴なので苦労しましたが
⋮⋮それらしき人物を特定しました﹄
﹃本当か!?聞かせてくれ!﹄
2176
﹃勿論でございます。性別は女性のようで⋮⋮パステノン王国の住
民ではないようです﹄
パステノン王国の住民ではない。という事は、パステノン兵士が
捜していたのは外部の人間か。
ゼノスが試行錯誤するのも束の間、ミスティカは続けて言う。
﹃肝心の善悪に関してですが、この方に関しては大丈夫でしょう。
彼女自身の心情を透視しましたが、貴方達を害する気はないようで
す。︱︱いえ、それは有り得ないと断言致しましょう﹄
﹃どうしてそう言いきれる?そいつの正体が分かったのか?﹄
﹃⋮⋮⋮⋮さあ、私からは何とも。しかし害はない︱︱ゼノス殿は
それが聞きたかったと見受けられましたが?﹄
﹃ああ、確かにそうだが﹄
2177
重要な部分をうやむやにされたが、最低限の事は話してくれた。
ミスティカは忠実に依頼を消化してくれたが⋮⋮どうにも納得が
いかない。情報を隠しているような態度に、ゼノスは不信感を露わ
にした。
﹃ゼノス殿、不満に思う気持ちは分かります。ですがこれは⋮⋮⋮
⋮﹄
と、ミスティカの言葉が不自然に止まる。
﹃⋮⋮どうした?﹄
素朴な疑問を投げかけるが、ミスティカは答えない。
しかしすぐさま、焦燥感に駆られながら言ってくる。
﹃申し訳ございません、そろそろお時間のようです。私にはやらな
ければならない事がございますので﹄
2178
﹁お、おい!﹂
ゼノスは思わず叫んだが、結果は空しなかった。
既にミスティカは交信を絶ち、その用事とやらに取り掛かるよう
だ。幾ら読んでも応じず、これ以上の会話は無理だと思う。
舌打ちしたい気分を押し殺しつつ、眉間に皺を寄せながら、覆い
被せていた手を離す。
﹁ど、どうでした?﹂
会話の一部始終を知らないゲルマニアは、不安そうに尋ねてくる。
深刻な事態と勘違いしたのか、彼女はゼノスの表情からそれを読
み取ろうとしていた。
取り乱した事に後悔を覚え、ゼノスはいつもの調子で答える。
﹁どうやら害はないらしい。他にも何か知っているようだが⋮⋮今
は気にしない方がいいかもな﹂
2179
それを聞いて、ゲルマニアはホッと息をつく。
﹁良かった⋮⋮。という事は、私達に危害は及ばないんですね﹂
﹁だといいがな﹂
疑り深いと思われるかもしれないが、ゼノスは最悪な事態をも想
定している。例えばアスフィが裏切り、ゼノス達を追い込もうと刺
客を派遣したのかとか。曖昧な態度を取られると、ついついそう判
断してしまう。
今のゼノスは脆弱で、普通の人間と変わらない存在だ。
力は愚か⋮⋮心までもが弱くなっている。だからこそ、頼るべき
存在にまで疑いをかけてしまう。
︱︱こうする事でしか、自分の身を守れないのだ。
﹁⋮⋮とにかく、この件についてはこれで終いにしよう。そろそろ
場所取りをしないと﹂
2180
ゼノスは気持ちを切り替え、路地裏から出ようとベンチから立ち
上がり、歩み始める。
余所見をしていた彼が正面を振り向いたと同時︱︱強い衝撃が襲
い掛かってくる。
﹁︱︱きゃっ﹂
﹁うおっ﹂
ゼノスは何とか踏み止まるが、衝突してきた何者かは尻餅をつい
た。持っていた籠をも落とし、赤いリンゴが何個も散乱する。
﹁す、すまない。今拾うから﹂
ゼノスとゲルマニアは慌ててリンゴを拾う。
﹁う、ううん気にしないで!こっちも余所見してた⋮⋮⋮⋮⋮⋮か
ら﹂
2181
ぶつかった少女も血相をかきながら言うが、途中から歯切れが悪
くなる。
ナプキンを被り、胸の開いたエプロンドレスを着ている少女は︱
︱茶色の瞳を見開く。終いには口元を手で抑え始めた。
彼女はまじまじと、ゼノスを見上げていた。
﹁あ⋮⋮へ?なん⋮⋮なんで??﹂
﹁⋮⋮あれ、貴方は確か﹂
ゲルマニアはこの少女に心当たりがあるらしい。
一方のゼノスも、彼女には思い当たる節があった。
﹁︱︱カルナ!何してるんだいあんた、大事な商品を落として⋮⋮
⋮⋮ん?﹂
2182
今度は中年の太った女性がやって来て、地面に座るカルナとやら
に呼び掛けてくる。だが彼女もゼノス達の存在に気付き、しばし唖
然としていた。
⋮⋮そうだ思い出した。
彼女達とは、つい先日会ったばかりじゃないか。
﹁サ、サザリア!?それとこちらの女性は⋮⋮﹂
ゲルマニアもまたサザリアだと分かり、驚きの言葉を発する。
﹁ああ、あたしの店で働いているカルナだよ。聖騎士ファンクラブ
の会員⋮⋮と言った方が分かりやすいかねえ﹂
サザリアは苦笑しながら答える。
︱︱そう、彼女達とは面識があるのだ。
2183
ヴァルディカ事件の前日、イルディエ達と飲みに行った時⋮⋮彼
女達はそこの酒場で働いていたのだ。サザリアは酒場の店主で、カ
ルナは確か⋮⋮ゼノスを見て失神した少女だ。
⋮⋮二人はランドリオ城下町にいたはず。何故ここにいるのか?
﹁あ、あのサザリア⋮⋮お店の方は?﹂
ゲルマニアが言いづらそうに問いかけてくる。まあこんな場所で
鉢合わせれば、そんな疑問も当然浮かんでくるだろう。
サザリアはカルナを立たせ、溜息をつきながら答える。
﹁いや何、私はパステノン王国出身でね。夫もここにいるんで、ご
くまれに帰省してるだけさ。店は若い子達に任せてあるわよ﹂
﹁そ、そうだったんですか。何だか大変ですね﹂
﹁ふふ、もう慣れたから平気よ。⋮⋮それで今は、姉の付き合いで
商売の手伝いをしてるってわけさ。姉の孫娘であるカルナと一緒に
ね﹂
2184
そう言って、顔面を紅潮させるカルナの頭をポンポンと叩く。
﹁まああたし達はこういう理由だけど⋮⋮ゲルマニア達は何でここ
にいるんだい?⋮⋮⋮⋮まさか、聖騎士殿と駆け落ちを﹂
﹁ち、違います違います!﹂
ゲルマニアは必死に否定した。カルナ以上に顔を真っ赤に染めな
がら。
そう勘違いされて嬉しい反面、今は重要な任務中だ。変に誤解さ
れては後々困るので、ゲルマニアは感情とは裏腹の態度を貫く。
サザリアは盛大に笑い、﹁冗談だよ﹂と付け足してくる。
﹁あたしだって馬鹿じゃないさ。察するに、騎士としての用事を果
たしに来たんだろ?﹂
﹁ええ⋮⋮実は﹂
ゲルマニアは事情を説明する前に、ちらりとゼノスの顔を伺う。
2185
ゼノスはそれに気付き、こくりと頷いた。サザリアとは面識が少
ないが、信頼に足る存在だと確信している。何か協力してくれるか
もと期待を込め、ゼノスは話してみろと逆に促した。
彼女もそれに応じ、粗方の事情を話した。⋮⋮勿論、この国とラ
ンドリオ帝国の対立を含めてだ。
第二次死守戦争の予兆、パステノン王国とシールカードの結託、
それを阻止すべく六大将軍自らが敵国内部へと侵入、そしてシール
カードの殲滅を試みている⋮⋮といった具合に、順序立てて説明し
た。
全てを聞き終えたサザリアとカルナは、信じれらないといった様
子で絶句していた。
﹁⋮⋮そいつはまた、大変な任務だね﹂
﹁はい、状況は極めて絶望的です。何せ力も封印され、シールカー
ドに対抗する手段さえ持ち合わせていないのですから﹂
サザリアはそれを聞いて、同情の眼差しを向けてくる。カルナも
同じで、心配そうな表情でゼノスを見つめている。
2186
﹁なるほど⋮⋮。それで今のあんた達は、シールカードの情報を集
めるべく行商人に扮しているわけかい?﹂
﹁そうなりますね。ですが情報を集めるというよりは、攻める機会
を窺っているとも言えます﹂
現実問題、情報を集めただけでは状況を打破出来ないだろう。
行商人として活動している最中に、せめて奴等とコンタクトを取
れる瞬間があれば⋮⋮。
途中、ゲルマニアはハッとなる。
現状を簡潔的に話せば良いのに、自分は要らぬ事まで口走ってし
まった。これでは協力を煽るどころか、サザリア達を怖がらせるだ
けだ。
﹁す、すいません余計な事まで⋮⋮﹂
﹁いや、状況は分かったよ。流石に込み入った手助けは出来ないけ
2187
ど、行商人への補助は可能さ。︱︱あんたらは今、出店先に困って
るんだろ?﹂
﹁︱︱ッ。紹介してくれるんですか?﹂
﹁構わないよ。⋮⋮ただし条件がある﹂
サザリアはにっこりと微笑みながら、カルナの背中を軽く押した。
彼女は、﹁は、はひ?﹂と情けない声を出し、気付けばゼノスの
正面へと佇んでいた。
ゼノスとカルナが向き合う中、サザリアは臆することなく告げた。
﹁︱︱不躾ながら聖騎士殿、今からこの子と付き合ってくれません
かね﹂
2188
言葉と同時、ゲルマニアの頭は真っ白になった。
2189
ep12 意外な再会︵後書き︶
※ロザリー・カラミティの改訂版イラストも投稿しました↓htt
p://6886.mitemin.net/i106792/
2190
ep13 スラム街での小さな事件
幸いな事に、ゼノスはサザリアの協力を得る結果となった。
出店先も即座に見つけた上に、立地場所も悪くはない。人通りは
多くないが、住宅街付近の通りを選んでくれたのだ。ここならば、
今晩の酒の肴を買ってくれる客がいるに違いない。
流石はサザリアだ。酒場の時もそうだったが、彼女の行動力と判
断能力には目を見張る所がある。こうして無事に店を開き、これか
ら商売を始められるのだから。
さあ二人で頑張るぞ。
︱︱と思ったが、それは叶わぬ願いであった。
店番はゲルマニアに任せ、ゼノスはカルナに連れられて違う場所
2191
へと向かっていた。勿論サボりではない。サザリアに頼まれたから
だ。
出店先について聞かされた後、彼女はこう付け足してきた。
﹃商売に関してはご安心を。あたしもゲルマニアのお手伝いをしま
すから。⋮⋮だから聖騎士殿には、また別の仕事をしてほしいので
す﹄
﹃仕事⋮⋮?﹄
﹃ええ、唐突で申し訳ございません。詳しい話は道中でカルナにさ
せますよ﹄
と、確かにサザリアはこう言っていた。
だがかれこれ十分以上歩き続けているが、前を行くカルナは一向
に話してくれない。それどころか、目線さえ合わせてくれないのだ。
2192
何か嫌われる事でもしたのか。罪悪感を覚えつつ、ゼノスは恐る
恐る尋ねてみる。
﹁なあカルナ⋮⋮﹂
﹁ひゃ、ひゃい!?﹂
彼女はウサギの様にぴょんと跳ね上がり、そして無残にも尻から
着地する。固いレンガ道のせいか、カルナは涙目を浮かべながら尻
を擦る。
⋮⋮ああそうだった。嫌われている所か、むしろ自分は好かれて
いるんだった。
彼女は聖騎士ファンクラブに所属し、無我夢中のまま聖騎士を追
っかけているらしい。そんな追っ駆けの対象と歩いていれば、多少
の緊張はあるだろう。
ただ単に敵を倒し、功績を上げる。
それだけで持て囃されるなんて、世の中は何と不思議な事か。
2193
ゼノスはふとそう思いながら、カルナに手を差し伸べる。
﹁大丈夫か?言っとくけど、今は聖騎士の力を発揮できないんだ。
単なるゼノス・ディルガーナとして接してくれよ﹂
﹁え、でも私にとって⋮⋮⋮⋮聖騎士様は聖騎士様で﹂
﹁⋮⋮まあ強制はしないがな。出来るなら会話だけはさせてくれ、
要点だけでもいいから﹂
﹁あう。は、ひゅい﹂
ひゅいって⋮⋮中々出る言葉じゃないぞ。
ゼノスは何とも言えない雰囲気に晒されながらも、どうにか言い
返す。
﹁分かった、それも辿り着いてから聞くとするよ﹂
﹁あ、有難うございます。もうすぐ到着しますので、すす、すぐに
話せると思います!﹂
2194
カルナはゼノスの手を借り、そそくさと立ち上がる。触られた手
を見てにんまりと微笑み、小躍りしながら先へと進む。
活気に満ちていた大通りを離れ、閑静な住宅街を突き進む。こう
して街中をじっくり眺めると、北国の町はレンガ造りで溢れている。
これも寒さを和らげる為だろうが、飽きてくる光景だ。
しかし簡素な街並みの反面、自然と心が安らぐ雰囲気もある。
⋮⋮ある異様な空気を除いてだが。
住宅街を抜け、仄暗いトンネルを抜ける途中。目の前から漂う陰
鬱な空気に、ゼノスは思わず苦渋の色を示す。
雰囲気だけじゃない。腐った生ごみのような匂いと、甲高い悲鳴
のような声がトンネルに木霊する。カルナは若干悲しそうな表情を
するが、立ち止まろうとはしなかった。
トンネルを抜ければ、そこは雪国だった︱︱なんていう異世界小
説の幻想とは裏腹に、このトンネルの先は酷い有様であった。
2195
牧歌的な町は消え失せ、ゼノスは荒れ果てた町風景を目にする。
割れた窓ガラス、脆くなった家々。冷たい道の上には御座が敷か
れ、ボロボロの服を着た浮浪人達が寝転んでいた。ある者は片足が
なかったり、ある者は片目がなかったりと⋮⋮何とも凄惨な光景だ
った。
﹁こう言っちゃ悪いが、とても人の住む場所とは思えないな﹂
﹁は、はは。た、確かにそうですね﹂
突然の変貌に面食らいつつ、ゼノスは当然の疑問をぶつける。
スラム街なのは確かなようだが、単に貧困層が密集しているとは
思えない。怪我をしている彼等を見れば、それは一目瞭然である。
﹁ですが、これがパステノン王国の現状なのです。表向きは明るい
けど⋮⋮それは真実を覆い隠した姿です﹂
悔しそうに唇を噛み締め、カルナは詳細を述べる。
2196
話によると、近年のパステノンは隣国への侵略戦争を推し進めて
いたらしい。侵略しては植民地化させ、王族などの支配者を処刑し
てきたようだ。
しかし、大きな被害を受けたのは隣国だけではない。
侵略戦争に従軍したパステノン王国の兵士、一般市民もまた癒え
ない傷を付けられたのだ。
︱︱度重なる戦争。数え切れない従軍命令。
今のパステノンは疲弊している。ロダンの無茶苦茶な行動に、従
軍した者達は心と体を壊してしまった。
次第に兵士としての能力を失い、打ち棄てられた先が⋮⋮このス
ラム地区のようだ。外国には悟られないよう、こうして隅に追いや
られたというわけだ。
成程、ようやく納得した。
通りに横たわる連中は、かつて国の為に従軍した兵士か。今では
痩せ衰え、生気の無い瞳を浮かべているが⋮⋮。
2197
同情はするだけ無駄だ。
ゼノスは一瞥だけし、すぐさまカルナへと振り向く。
﹁んで、目的の場所はこの先か?﹂
﹁そ、そそそうです!こちらです!﹂
ぎこちないカルナに連れられ、ゼノスは更に奥へと進む。
しばらくは浮浪者がたむろする通りを進んだが、やがて開けた場
所へと出る。小規模だが、小さな屋台が軒を連ねている。
みすぼらしい恰好をした市民が買い物をし、薄汚れた子供達が元
気に遊んでいる。表通りほどではないが、ここも十分に活気づいて
いる。浮浪者らしき人物は⋮⋮ここにはいないようだ。
恐らくだが、さっきの連中は物乞い目的で集まっていたのだろう。
スラム街入口にいれば、知らずに通る商人か旅行客がいるかもしれ
ない。執拗に頼み込めば、今日の夕飯代にありつける⋮⋮と、考え
ているのだろう。
2198
もしゼノスが一人で通れば、今頃カモにされていたかもしれない。
そんなどうでもいい想像をしながら、ゼノス達は細い道へと入る。
散乱したゴミを避けつつ、カルナはとある一軒家の前で立ち止まる。
そこら辺の家と全く変わらない造り。だがその家からは、明るい
子供達の騒ぎ声が聞こえてくる。
﹁む⋮⋮あの子達ったらまた﹂
カルナは腰に手を当て、呆れた様子で呟く。
﹁すいません聖騎士様。少々、お見苦しい所を見せます﹂
﹁ん?あ、ああ﹂
ゼノスに深々と頭を下げた後、カルナは目を吊り上げながら家の
ドアへと歩を進める。
持っていた鍵で開錠し、威勢よくドアを開けた。
2199
﹁︱︱こらあっ!大声で騒いじゃ駄目でしょ!隣の人に迷惑かけな
いの!﹂
カルナは先程とは打って変わり、強気な態度で言い放つ。
家の中には数人の子供達がいた。十歳程度の少年少女で、今まで
鬼ごっこをしていたようだ。怒られた子供たちはその場で固まって
いた。
しかし一人の少年が不満を露わにし、ジト目で答える。
﹁だってえ、外に遊びに行けないんだもん∼﹂
少年の言葉に賛同した子達が、﹁そうだそうだ∼﹂とか﹁これぐ
らいいいでしょ∼お姉ちゃん﹂と愚痴を零す。
カルナは額に手を当て、嘆息しながら答える。
﹁駄目よ、もう少し辛抱なさい。おじいちゃんももうすぐ帰って来
るだろうし。⋮⋮それに、今日はとても素敵な方を呼んだのよ﹂
2200
そう言って、カルナは微笑みながら横へと逸れる。ゼノスの全身
が子供達から見えるようにしたのだ。
子供達はジッとゼノスを見つめる。咄嗟に言葉も出ないまま、た
だゼノスは注目の的となっていた。
﹁カルナ姉ちゃん、その人は誰⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮﹂
ゼノスは奇異に満ちた視線を浴び、おもわず苦笑する。
そしてカルナへと顔を近づけ、小声で尋ねる。
﹁どういう事だカルナ⋮⋮。これって一体﹂
﹁す、すいません聖騎士様。実は︱︱この子達のお守りを頼みたい
んです﹂
お守り⋮⋮とな。
2201
また変わった条件を突き付けられたものだ。
カルナによると、この子達はサザリアの夫が経営する孤児院の子
供達らしい。この家自体が孤児院として機能し、ここでカルナやサ
ザリアも暮らしている。
孤児院というよりは、とある大家族の方が相応しいかもしれない。
﹁この時間はマダム・サザリアの旦那さんがいて、いつも彼がこの
子達のお守りをしてるんですけど⋮⋮﹂
ああなるほど、大体予想できた。
彼女が言い終わるよりも早く、ゼノスが見出した予想を言う。
﹁けど今は留守中で、スラム街は危険だから子供達だけじゃ外に出
せられない。それで俺が代役を務めるというわけか?﹂
カルナはこくりと頷く。どうやらその通りのようだ。
2202
﹁子守り自体は構わないけど、そういった経験はまるでないぞ?﹂
﹁あ、そこら辺は大丈夫です。何せあの子達も⋮⋮聖騎士の大ファ
ンなもので。ご自身の冒険譚を聞かせるだけでいいんですよ﹂
カルナは軽くウィンクする。凄い自信満々だが、果たして大丈夫
なのだろうか。
両腰に手を置き、鼻をふふんと鳴らしながら告げる。
﹁皆、この方は悪い人じゃないよ。︱︱だって、誰もが憧れるラン
ドリオ帝国の六大将軍、白銀の聖騎士ゼノス・ディルガーナなんだ
から!﹂
尊大な態度でそう豪語し、満足げに口を吊り上げる。
しかし、子供達の反応は何とも微妙なものだった。
とある少女は大きく溜息を吐き、至極当然の答えをする。
2203
﹁カルナ姉⋮⋮幾らなんでも子供扱いしすぎ。あの聖騎士様がウチ
みたいな貧乏一家の所に来るわけないじゃん﹂
﹁え⋮⋮あ、あ∼⋮⋮それは﹂
言葉を濁し、目を泳がせるカルナ。
まあこれは子供達の言う通りだろう。もしゼノスが子供達の立場
だったら、真っ先に否定していたに違いない。
聖騎士の鎧も身に付けず、象徴たるリベルタスの剣もない。単な
る一般人と化したゼノスとしては、何も言い訳が出来ない。
それでも尚カルナは反論しようとするが、ゼノスがそれを止めた。
﹁止めとけ、今の状態じゃどうしようもないって﹂
﹁そ、それはそうですけど⋮⋮。何か、何か悔しいんですよお﹂
カルナは恨めしそうに子供達を見やる。
2204
︱︱ふと、その目つきが急変した。
徐々に疑惑の瞳へと移り変わり、彼女は思わず首を傾げた。
﹁⋮⋮そういえばジョナとルルリエの姿が見えないわね。二階にい
るの?﹂
﹃う⋮⋮﹄
途端、子供達は後ろめたい様子で呻きを漏らす。
ジョナとルルリエとは、他の子供達のことだろうか。もしそうだ
としたら、ここは中々の大家族のようだ。
一方の子供達は視線を落とし、無言を貫いていた。
カルナは次第に嫌な予感を覚え、少々棘のある言葉を放つ。
2205
﹁もしかして⋮⋮この家にいないの?﹂
﹁⋮⋮﹂
子供達はそれでも答えない。言って怒られるのが嫌なのか、また
は隠し通すよう言われているのかは分からない。
だが、その無言こそが答えなのだろう。
居ないと悟ったカルナは、冷や汗をたらしながら叫ぶ。
﹁教えなさい!あの子達は⋮⋮どこにいるの!?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮⋮⋮スラム街の、奥の方に行くって。あそこならバレず
に鬼ごっこが出来るって⋮⋮その、言ってたよ﹂
﹁︱︱︱︱ッ﹂
瞬間、カルナの脳裏に最悪の結末が過る。
2206
ゼノスもそれを察した上で、カルナに耳打ちをする。
﹁やばい場所なのか?﹂
﹁は、はい。スラム街の奥には、傭兵崩れのならず者が住み付いて
るんです。近づくなって言いつけてはいたんですが⋮⋮﹂
カルナは自分の不甲斐なさに罪悪感を覚える。もし目を離してな
ければと思うだけで、更なる後悔が彼女を襲ってくる。
﹁⋮⋮落ち込む暇はないぞカルナ。急いで子供達を探しに行こう﹂
﹁さ、探しにって⋮⋮でも今の状態じゃ﹂
カルナは今のゼノスの状態を把握している。
恐らくこのまま向かえば、彼はならず者によって殺されるかもし
れない。元とはいえ、彼等は傭兵として王国に仕えた身だ。中途半
端なまま突っ込めば、それが現実になる可能性は高い。
2207
無理に決まっている。
おじいちゃんを待つしかない⋮⋮と言おうとしたが。
彼はカルナの手を掴み、冷静にこう述べてきた。
﹁︱︱大丈夫だ。万が一ならず者に遭遇したとしても、そいつ等如
きに遅れはとらない﹂
﹁⋮⋮せ、聖騎士様﹂
﹁それに、これもお守りになるだろ。ちゃんと務めは果たすさ﹂
冗談は止して下さい、と切実に言おうとしたが、カルナはそれを
表現する事が出来なかった。
例え無謀な話だとしても、どこかで期待しているのだ。
幾多もの伝説を築き上げたゼノスならば、必ずやり遂げてくれる
2208
と。
﹁⋮⋮分かりました。私も御供します﹂
期待と高揚感が入り交じり、カルナは口を挟めなかった。
﹁よし、道案内を頼む。子供達は大人しく家にいろよ!﹂
﹁え⋮⋮⋮⋮⋮⋮う、うん﹂
勢いに任せた言葉に動揺を覚える子供達だが、素直にそれを聞き
入れた。
カルナは驚きを隠せない。いつも他人は愚か、彼等は身内の言う
事さえまともに聞かない。
こうして従順となったのは、恐らく初めてじゃないだろうか。
﹁何してんだカルナ、時は一刻を争うぞ!﹂
﹁は、ははい!﹂
2209
ゼノスに促され、カルナは彼と共に家を飛び出した。
無力に等しい二人は、元傭兵のならず者が出没するというスラム
街奥部へと向かう。
剣も鎧も、鍛え上げられた身体能力も持たぬまま︱︱。
2210
ep13 スラム街での小さな事件︵後書き︶
※アルバート改訂版のイラストをUPしました↓http://6
886.mitemin.net/i108069/
2211
ep14 強力な助っ人
ゼノス達は住人の情報を頼りに、ジョナとルルリエを捜索してい
た。
小さな子供二人の行方など知るはずが⋮⋮と思っていたが、ここ
ら辺で彼等を知らない者はいないようだ。
カルナが事情と行方を尋ねると、それを知る住民達はすぐさま答
えてくれた。スラム街の住民と言えど、心までは腐食していないら
しい。他人を気遣う彼等に対し、失礼ながらゼノスは感心してしま
った。
心優しい住民の協力により、思いのほか早く二人の居場所を突き
止めることが出来た。
ゼノスは衰えた足を懸命に動かし、息を切らしながら⋮⋮その目
的の場所へと辿り着く。
2212
﹁こ⋮⋮ここか﹂
﹁そのよう⋮⋮ですね﹂
遠い道のりを走ったせいか、視界までもがぼやけている。
しかし四の五の言っている暇はない。迫り来る危機を改めて自覚
し、鋭い瞳を頭上に向ける。
︱︱荒廃したスラム街の中心にそびえる、古ぼけた塔。
築千年以上の時が経っているだろうか。身体を反らさなければ頂
上が見えず、どの建物よりも遥かに高い。土で塗り固められた外壁
は崩れる素振りをも出さず、今もなお町を見下ろしている。
一体どんな理由で作られたかは知らない。きっと特別な理由で建
てられたと思うが⋮⋮それはあくまで憶測だ。
今はそれ以上に考えるべきことがある。
2213
住民の話によると、子供達はスラム街の市場で遊んでいたらしい。
子供だけで居たのが災いを呼び起こし、最悪の事態を発生させた。
何と子供達は、継ぎはぎの鎧を身に着けた大人に連れ去られたの
だ。その光景を垣間見た目撃者も多く、それもすぐに特定できた要
因でもある。
⋮⋮継ぎはぎの鎧を着た大人。
カルナはそれを聞いた途端、青ざめながら呟いた。
﹃︱︱よ、よりによってならず者に捕まるなんて﹄
ならず者とは、このスラム街に巣食う傭兵崩れの連中だ。
全くもって分かりやすい。王国に見放され、役立たず呼ばわりさ
れた結果⋮⋮彼等は当時の鎧を着ることで、過去に執着しているの
だろう。
しかも今や⋮⋮彼等は金目的で子どもを攫う畜生ときた。
怒りを覚える反面、ゼノスは彼等に同情を覚えた。
2214
忠誠を尽くした主君に貶められる。そんな事をもしされたら、自
分はどうなっているのだろうかと⋮⋮そう思わずにはいられない。
﹁せ、聖騎士様?どうなされたの?﹂
﹁⋮⋮いや何でもない。余計なことを考えてただけだ﹂
カルナに心配され、ゼノスはしまったと思う。
細かいことを一々思い悩むのは、我ながら良くない癖だ。これ以
上カルナを不安にさせては駄目だろうに。
ゼノスは頬を軽く叩き、自分に気合いを入れる。
今は危険と隣り合わせだ。現実を直視し、そして考えねば。
﹁⋮⋮さて。どうにかならず者のアジトである塔に来たわけだが、
こりゃ簡単に侵入できる場所はないな﹂
物陰に隠れながら、二人は塔周辺を確認する。
2215
塔は円形状で、外壁のあちこちに小さな窓とテラスが付けられて
いる。不規則に備え付けられており、二階三階にあたる部分には一
切窓らしき穴が存在しない。
常人が侵入できる部分と言えば、正面入り口にある扉ぐらいだ。
しかしそこには、ならず者らしき男二人が配備されている。一人
は剣を携え、もう一人は槍を抱えている。
最悪だ。
これでは侵入は愚か、入る前から戦う羽目になってしまう。なら
ず者と馬鹿にしていたが、最低限の連携は取れている。
腐っても、元傭兵だけはある。
﹁⋮⋮﹂
ゼノスは自分の右手を見つめ、手を開いたり閉じたりしてみる。
2216
荒っぽい真似は御免だったが、こうなっては仕方ない。出来る限
りの抵抗が可能かどうか、試してみるか。
力の感触を確かめつつ、ゼノスは試しに近くの壁を殴ってみる。
勿論右手で、しかも全身全霊を込めて。
カルナの驚愕をよそに、拳を勢いよく壁に叩き付ける。
﹁ぐ⋮⋮おッ!﹂
刹那、激しい痛みが拳全体を駆け巡る。
さっと拳を引っ込め、涙目になりながら拳を擦る。
﹁い、一体どうしたんです?﹂
﹁いや何⋮⋮ちょっと自分の力を確かめてみたんだ。本気で殴って、
拳が無事なら多少の戦闘は出来たんだけど⋮⋮﹂
結果は見ての通り、この様だ。
2217
拳を鍛えた者は、例え人の顎を殴っても怪我はしない。強靭に作
られた聖騎士の拳に関しては、世界一硬いヒルデアリアの光魔石さ
え砕く。
僅かに力が残っていれば⋮⋮と思ったが、そう簡単に上手くはい
かないようだ。
これでは素人の拳だ。
この無様な姿を六大将軍、そしてゲルマニア達が見たらどう思う
だろうか。きっと唖然とし、我が目を疑うだろう。
それほどまでに、これは異常事態であった。
﹁む、無理しない方がいいかと。ならず者たちは身代金が目的だと
思うので⋮⋮す、すぐに殺す気はないかと思います﹂
﹁そうだろうな。⋮⋮悔しいけど、突入できる機会を待とう﹂
2218
奴等の目的は子供の殺害ではなく、その命に代わる金だ。
傭兵という職を失った者は、そう簡単に職を見つける事が出来な
い。理由は様々だが、主な理由としては彼等の経歴にある。
戦場で生まれ、戦う事だけが唯一の生き甲斐⋮⋮そんな人間が大
半を占めている。教養もなければ、戦い以外の道を知らないのだ。
この稼業には多くのリスクがある。騎士と違って、怪我や不祥事
によって解雇されれば、もう傭兵稼業では食っていけない。
他の道がなければ、路頭に迷う浮浪者となるだろう。
それか⋮⋮盗人になるかだ。
彼等ならず者のように、他人から金を奪う哀れな存在に。
長々と言い連ねたが、つまり彼等は金の為に行動している。今す
ぐに危険は及ばないだろうと思いつつ、好機を待って慎重に動いた
方が得策だろう。
2219
﹁︱︱いや。その必要はないじゃろ﹂
﹁ッッ!誰だ!﹂
ふいに後ろから声を掛けられ、ゼノスはすぐさま振り向く。
そこには、何とも偶然に近い人物たちがいた。
︱︱声を掛けてきた人物は、紛れもないアルバートであった。
彼は苦笑し、申し訳なさそうに頭を掻く。
﹁おおそうか。今は気配も見分けられないんじゃったな、すまんす
まん﹂
﹁⋮⋮勘弁してくれ。てっきりならず者に見つかったかと思ったぞ﹂
2220
﹁悪かったわい。⋮⋮ん?ジーハイル、何を固まっているんじゃ?
こやつが先日話していたゼノスじゃよ﹂
アルバートは隣に立つ白髪の老人、ジーハイルに尋ねる。
屈強な肉体に、バーテンダーらしきベストと蝶ネクタイを身に着
けている。詳しい関係はよく分からないが、アルバートの知り合い
だろうか。
彼は小刻みに震えながら、ゼノス⋮⋮もとい、カルナを凝視する。
一方のカルナも、驚いた様子でジーハイルを見つめていた。
﹁カ、カルナよ!何故ここにいるんだ!?﹂
﹁おじさんこそ⋮⋮ど、どうして?﹂
二人は疑問に疑問を重ね、予想外の出会いに困惑しているようだ。
上手く状況を飲み込めないゼノスは、そっとカルナに聞く。
2221
﹁知り合いなのか?﹂
﹁し、知り合いも何も、ジーハイルさんはサザリアの旦那さんです
から﹂
カルナは落ち着きを取り戻そうと、深呼吸をした後にそう答える。
そして、アルバートが更に付け足してくる。
﹁同時に、こやつは元始原旅団の副首長でもある。今は隠居中のよ
うじゃが⋮⋮昔はよく儂を支えてくれたもんじゃて﹂
その言葉に、カルナが大きく反応する。
瞳を大きくし、信じられないといった顔でアルバートを見やる。
小刻みに肩が震え、乾いた笑い声を響かせる。
この面食らった表情は、ゼノスが聖騎士だと分かった時の顔と同
じだ。
﹁ま、まま、まひゃか貴方様は⋮⋮⋮⋮アルバート、様、でしゅか
2222
?﹂
カルナは混乱した状態で尋ねる。
呂律が回っていない辺り、かなり緊張していると見える。
﹁ん、そうじゃ。今は訳あって帰国してるんじゃが⋮⋮って、大丈
夫かの?﹂
アルバートの心配も空しく、カルナは泡を吹きながら卒倒した。
聖騎士発覚の瞬間もそうだったが、彼女はどうやら有名な人物に
遭うと気絶するようだ。アルバートはこの国の建国者であり、英雄
でもある。
この国出身ならば、気絶するには十分な要素とも言えるか。
⋮⋮まあ彼女はそっとしておこう。
﹁にしても、何であんたがここにいるんだ?昔の知り合いから情報
を入手してくるって聞いてたが﹂
2223
カルナの事はひとまず置いといて、ゼノスは疑問を問う。
知り合いとは恐らく、隣に立つジーハイルの事だろう。
アルバートは顎鬚を撫でながら答える。
﹁うむ、まあさっきまで順調にやってたんじゃがのう⋮⋮。少々、
あの塔にいる連中に用事が出来たんじゃよ。なあジーハイル?﹂
﹁まあな。⋮⋮それにしても、カルナとゼノス君は何故ここにいる
んだ?今の君達にとっては非常に危険な場所だぞ?﹂
さも当然の疑問を放つジーハイル。
彼がサザリアの旦那で、子供達を拾った本人だというのなら、ゼ
ノスは今の状況を打ち明けるべきだろう。
悩む必要はない。ゼノスはカルナに代わり、ジョナとルルリエが
攫われた事を話す。
2224
﹁⋮⋮全く、言う事を聞かない子達だ﹂
ジーハイルは平坦な口調で呟くが、若干の焦りが見られる。
自分の子供達の命がかかっているんだ。極々自然の反応ともいえ
る。
﹁つまり、君達は俺の子供達を助けに来たんだな?﹂
﹁ああ。今の状態じゃ、無謀とも言えるがな﹂
﹁そうだろうなあ。⋮⋮だが、もう心配する必要はないぞ少年﹂
愛嬌のある笑みを浮かべ、力強くアルバートの肩を叩く。
﹁すまんなアルバート。悪いがもう一つ用事が出来た﹂
﹁気にはせんわい、どうせ儂は何も出来んからのう。それよりもほ
ら、早く武器を取ってきたらどうじゃ?﹂
2225
﹁くく、無論だ﹂
首の骨を鳴らし、軽く準備体操をするジーハイル。
その行動に、アルバートは目を見開く。
﹁おいおい、直接出張る気かの?﹂
﹁出張る?あんな雑魚に?冗談も大概にしときなアルバート。準備
運動してるからって、勝手にそう思われちゃ堪らん﹂
ジーハイルは不敵な笑みを絶やさず、目先の門番二人を見やる。
別に驚くべき発言ではない。ゼノスから見ても、ジーハイルの実
力は常識を逸脱している。始原旅団の副首長を務めていただけあっ
て、若ければ六大将軍の座にもつけただろう。
この男ならば、直接手を下す必要もないと確信した。
﹁よおし行くかねえ。ゼノス君は悪いが、ウチの眠り姫を担いでく
れないかね?ここに置いとくのは危険だろうしな﹂
2226
﹁ああ分かった﹂
ゼノスはすぐに頷き、気絶するカルナを背中で担ぐ。
それを見届けたジーハイルは気さくに微笑み、やがてすぐに真剣
な表情へと変える。
てっきり猛々しく突入するかと思ったが、彼は真逆の行動に走る。
物陰から出ると同時、ジーハイルはゆっくりと、重みのある足取
りで門番達の元へと近付く。その後ろにゼノスが、アルバートが悠
々とした調子で付いて行く。
ようやく三人の登場に気付き、ならず者の門番達もまたこちらへ
と歩み始める。
﹁お∼お∼、何だてめえら?﹂
﹁ここが何処だか分かっているのか?用がないならさっさと⋮⋮﹂
2227
途中、門番の言葉が止まる。
態度は一変し、彼等は瞬時に凍り付いた。
このパステノン王国で戦士を務めていたのならば、目前の老人を
よく知っているだろう。現に正体を知った門番は、逆らえない波動
と凄まじい威圧感に飲まれていた。
﹁う、嘘だろ⋮⋮﹂
﹁有り得ねえ、有り得ねえだろッ!﹂
戦場の鬼⋮⋮そして戦殺しのジーハイル。
彼等は直接、その戦いぶりを拝見した事がある。いや戦いという
よりも⋮⋮一方的な虐殺を、と言えばいいだろうか。
鬼神の如く武器を振るうと、その風圧だけで何十人もの人間が粉
々に引き裂かれた。わらわらと寄ってくる敵共は、その威光の餌食
となった。誰もが震え上がり、戦意を喪失させたものだ。
2228
︱︱この化け物共は危険すぎる。
なぜ此処にとか、どうして戦意を剥き出しにしているとかは⋮⋮
あえて考えない事にした。いや考える暇もないのだ。
一歩、また一歩と近付く度に、門番達の心臓が跳ね上がる。
殺される︱︱そう直感したが。
立ち尽くす門番達の目前までやって来たジーハイルは、よく通っ
た声音で尋ねる。
まるで知らない人に道を聞くかの如く、やんわりと。
﹁あ∼悪いが君達、俺にその武器を譲ってくれないかな?⋮⋮黙っ
て差し出してくれれば、面倒がなくて楽なんだがね﹂
﹁⋮⋮⋮⋮へ?﹂
2229
門番達は冷や汗をたらしながら、無言を貫く。どうしていいか分
からず、しどろもどろとしているのだ。
だが徐々に分かりつつあるだろう。この場を支配する王者が、一
体誰であるかを。
この化け物︱︱ジーハイルに戦意はない。
彼は目前の敵を、自分の敵として認識していない。あくまで通り
かかった人間であり、それ以外の何者でもない。
その時点で、勝負はついている。
敵と認識されない以上、彼等がいくら刃向った所で⋮⋮ジーハイ
ルに傷一つ付けられやしない。
従うしかないのだ。
そうすれば、何もされずに済む。
2230
﹁⋮⋮ど、どう⋮⋮ぞ﹂
二人の門番は目を合わそうとせず、持っていた武器だけを差し出
す。使い古された長槍に、錆び付いた鞘に納められた剣をだ。
ジーハイルは手渡された武器を吟味し、納得したように頷く。
﹁おおいいね、見た目はボロいが素材は悪くない。ありがとよ若い
の﹂
それ以降、ジーハイルの視界には一切門番が入らなかった。
戦意喪失した門番を横切り、ジーハイル率いる一行は塔の扉へと
立ちはだかる。
﹁⋮⋮で、これからどうするんじゃ?儂と小僧は戦力外じゃから、
お前のやり方に従うぞい﹂
アルバートが言うと、彼は呆れたように肩をすくめる。
﹁おいおい、長年の付き合いなんだから察しろよな。︱︱俺のやり
方っていや、当然これだろ!﹂
2231
叫ぶやいなや、ジーハイルはおもいっきり扉を蹴飛ばす。
盛大に開け放たれたと同時、彼は剣と槍を構える。
﹁行くぞお二人さん!このまま突っ切るとしよう!﹂
豪快にそう宣言し、敵のアジトへと突入するジーハイル。
昔と変わらない戦友の豪胆っぷりに苦笑しつつ、アルバート達も
また塔へと侵入する。
︱︱しかし。
三人は敵の襲撃を覚悟していたが、そんな気持ちは一気に消失し
た。
﹁⋮⋮誰もいない、だと?﹂
2232
呆気にとられたのも束の間、ジーハイルはすぐに状況を確認する。
塔の一階は広い造りで、木製の椅子やテーブルが乱雑に並べられ
ている。飲み干した酒瓶が無造作に転がり、部屋全体に酒の匂いが
充満している。
⋮⋮妙だ。
つい先程までいた形跡があるのに、姿形はおろか、塔の中から人
間の気配が感じられない。
出払っているのか?
⋮⋮いや、それはまずないだろう。
ジーハイルは塔の上から発せられる異様な空気に気付き、思わず
眉根をひそめる。
﹁どうしたんじゃジーハイル。塔の上に何かおるのか?﹂
2233
﹁⋮⋮のようだ。それも尋常じゃない、元傭兵が放つとは思えない
邪悪な気配を放ってる﹂
﹁何じゃと⋮⋮ッ!﹂
アルバートとゼノスは驚愕を隠さなかった。
一体、どんな奴が潜んでいるのか?
ジョナとルルリエに対する心配が膨らみ、嫌な予感だけが募るば
かりであった。
2234
ep15 黒き乙女
塔の構造自体はそう複雑ではない。
各階ごとに大広間が一部屋ずつあり、それぞれが同じ形を成して
いる。円を描いたようなシンプルな形だ。
そして部屋を囲むように螺旋階段が備え付けられ、塔の最上階に
まで続いている。これを使って塔を登るわけだ。螺旋階段を使う以
外の方法は存在しないし、存在する必要もない。
⋮⋮さて、この塔の説明はここまでにしよう。
ゼノス達が用心しながら登る一方、塔の最上階となる大広間に二
人の人間が佇んでいた。
何も無いこざっぱりとした空間で、一人のならず者と⋮⋮一人の
女性が密談を行っている。両者は極限にまで気配を押し殺し、誰に
も悟られないようにしているようだ。
2235
﹁⋮⋮よお、約束通りガキ共は拉致ったぜ。あんたが言うように、
市場で無邪気に遊んでやがったよ﹂
ならず者がつまらなさそうに述べると、女性もまた退屈した様子
で答える。
﹁あらそう、ご苦労様。順調に彼等も近付いてるようだし、最低限
のノルマは達成したようね﹂
女性は、﹁じゃあね。もう行っていいわよ﹂とだけ追言し、なら
ず者に下がるよう言い渡す。
しかし、ならず者の男は動かなかった。
次第にその肩を震わせ、やがて泣きそうな顔をしながら叫ぶ。
﹁て、てめえ⋮⋮本当にあのロダンの参謀なんだよな?ほ、本当に
⋮⋮俺達が遠征軍に参加できねえよう言い繕ってくれんだろうな!
?﹂
2236
﹁しつこいわねえ、ちゃんと言ってあげるわよ。それよりも貴方、
早くお仲間の元に行ってくれないかしら?⋮⋮あ、子供達を連れて
来てからね﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂
男は猜疑心を抱いていた。
ならず者である自分達が子供を攫ったのは、身代金目当てとか奴
隷商売目的とかでは決してない。
︱︱この女に依頼されたからだ。
彼女は忽然と姿を現しては、自分は国王ロダンの参謀であると名
乗り、その証明たる紋章を示してきた。元王国兵であった彼等は、
それが本物であると確信したのだ。
最初は危険な香りがし、素直にその依頼を断った。
⋮⋮が、ある交換条件を出されたことで、ならず者達は不承不承
2237
に承諾する羽目になった。
その条件とは、次の遠征には参加しなくて良いというものだ。
遠征は王国直属の兵士だけでなく、王国に住まう住民さえも出兵
要請が出される。性別は関係なく、若さ、健康を考慮した上で判断
され、そこに住民たちの意思は存在しない。
遠征に参加すれば、それ相応の報酬と名誉が得られる。と同時に、
生きるか死ぬかの戦いに身を投じるわけだ。
⋮⋮誰もが嫌に決まっている。
ならず者達もまた出兵要請を出され、今まさに徴兵されようとし
ている。過去に遠征経験の彼等にしてみれば⋮⋮地獄への誘いに等
しい。
だからこそ、彼女の交換条件に縋るしかなかったのだ。
﹁⋮⋮分かった。約束を守るなら⋮⋮何だってやる﹂
﹁うふふ、当然よ﹂
2238
女性は悪魔めいた微笑を浮かべ、立ち去る男を静かに見送る。
黒きドレスに身を包み、漆黒の髪を持つ美しい女性。少女とも受
け取れるが、妖艶な雰囲気から察するに、女性と呼んだ方が相応し
いだろう。
女性︱︱いや、ジスカは心より待ち望む。
すぐに来るであろう彼等、特に白銀の聖騎士に会えるかと思うと
⋮⋮心の高鳴りが止まらなかった。
2239
ジーハイルを先頭に、ゼノス達は慎重に慎重を重ねながら塔を登
って行く。
警戒を怠ることなく進んでいるが、それでも敵は愚か、敵の気配
さえ存在しない。何とも奇妙なものだ。
言い得ぬ恐怖心が沸々と込み上がり、ホッと息をつく暇さえ与え
てくれない。一歩、また一歩と階段を上がるごとに⋮⋮それは増大
していく。
これは直感だ。力を無くした人間でも持ち合わせる、生物の本能
からくる拒否反応だ。
⋮⋮塔の上には、畏怖するに値する何かがいるのだ。
それぞれは無言のまま、淡々と塔を登って行く。次第に外の光を
入れていた窓もなくなり、仄明るい蝋燭の灯だけが頼りとなる。も
し壁に立て掛けられた蝋燭がなければ、全てが闇に包まれるだろう。
陰気な雰囲気が漂う中、彼等は敵と出会うことなく、長かった階
段を登り終える。
階段の後に見えるのは、何もない広間だ。
2240
先程まで見てきた広間とは違い、ここには家具さえも置かれてい
ない。更に上へと続く階段も見当たらない辺り、ここが最上階だと
いうことは疑いようがないだろう。
ただ他と変わっている点と言えば、部屋を明るく照らす豪奢なシ
ャンデリアだけだろう。土色の壁に似合わない組み合わせだ。
⋮⋮⋮⋮だが、それだけではない。
自分達以外の人間がいる事を確認し、より一層緊張が高まる。
大広間の中央に控える女性と、その脇に寝転がる二人の少年少女。
彼等を目視した途端︱︱ゼノス達はすかさず彼女の前へと躍り出
た。ジーハイルは剣を構え、槍の矛先を女性に向ける。
︱︱漆黒のドレスに、長くて黒い髪。
2241
ゼノスとアルバートは極々普通の人間として捉えているが⋮⋮ジ
ーハイルだけは違った。
剣を持つ手を震えさせ、肝を冷やしながら、ジーハイルは上擦っ
た声で語り掛ける。
﹁︱︱おかしいな。俺はここのならず者と子供達に用があったんだ
が⋮⋮妙な奴がいるもんだね﹂
﹁あら、妙な奴とは私のことかしら?レディーに対して失礼ではな
くて?﹂
女性は切れ長な瞳を更に細め、紅蓮の唇を緩ませながら答える。
彼女曰く、自分には敵意などないと主張する。両手をひらひらと
振り始め、無害であると示してくる。
見た所、彼女自身がならず者とはとても思えない。高貴な身なり
に、服には染み一つさえ付いていない。子供達にも手荒な真似はし
ておらず、二人はぐっすりと眠りに落ちている。
2242
このまま子供達を引渡せば、事は穏便に運ぶだろう。お互いが傷
付け合いさえしなければだが。
⋮⋮しかし、そうはいかないとジーハイルは思う。
彼だけは気付いているからだ。
底知れない彼女の邪気に、ありとあらゆる経験を覆す程の⋮⋮悪
意に。
﹁︱︱気に入らんな、存在自体が。悪いがここで滅びてくれないか
?﹂
有無は言わせない。その暇さえ与えない。
ジーハイルは構えを崩し、精一杯の力を込めて槍を投擲する。
風を斬り裂きながら、槍は一直線に彼女の心臓へと向かう。動体
視力さえ極端に低下したゼノスとアルバートから見れば、もはや槍
の姿さえ見えない程の勢いだ。
2243
ゼノス達の意思など構わず、ジーハイルは彼女を殺しにかかった。
﹁ふ∼ん。随分と思いきったわね﹂
彼女は動じる事もなく、飛来する槍に対抗しようと手を伸ばす。
﹁︱︱ッ。素手で受け止める気か!?﹂
﹁いえ、そんなまどろっこしい事はしないわ﹂
一瞬、彼女が何を言っているのか理解出来なかった。
自慢ではないが、自分の投擲した槍は絶対に止められない。過去
の英傑たちは受け止めようと挑戦したが、それを果たせた者はいな
かった。
恐怖や高揚感⋮⋮投擲物を前に敵が抱いていたのは、正しくそん
な感情だったはずだ。
だが彼女は違う。
2244
恐れでも武者震いでもなく、淡々としているのだ。
他愛も無いと言わんばかりに︱︱無敗の一撃を見下してくる。
そしてその自信は、いとも容易く貫かれる。
槍の穂先が手の平に触れると同時︱︱槍全体が粉々に砕かれた。
砂のように散り散りとなり、原型さえ留めていない。
隙間風と共に去り行き、今ここに最強の歴史が途絶えた。
﹁⋮⋮馬鹿な﹂
平然とこなした彼女の力に驚愕するジーハイル。
女性は腕を下ろし、自分の髪を払いながらこちらへと近付いてく
る。
﹁くっ!﹂
2245
ジーハイルは残る剣を両手で掴み、迎撃に移ろうとする。
いつまでも絶望はしていられない。年老いたこの体でどこまで対
抗できるかは分からないが︱︱せめて相討ちになってでも。
と、本気でそう考えていたのだが。
﹁止せジーハイル。今の儂が言うのもなんじゃが、お前が敵う相手
とは思えん。もう少し冷静になれ﹂
ふいにアルバートが彼の肩に手を置き、それを制止する。
﹁だ、だがッ!﹂
興奮が収まり切らぬまま、止めてくれるなと激しく訴えてくる。
その瞳は生気に満ち溢れており、とても老齢の男のそれとは思え
ない。猛き部族の血が湧き上がっているのか、彼はあくまで女性と
の死闘を望んでいる。
2246
それが世の為人の為か、それとも自分の為なのか。
どちらにせよ、この戦いは行うべきではない。
﹁心配せんでも、そこの娘は何もせんじゃろ。例え後先が不安だと
しても⋮⋮今は我慢する時じゃて。のう?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
アルバートは懇願するように言い、あくまで冷静を以て彼と接し
た。
﹁⋮⋮はあ。分かった﹂
願いが届いたのか、ジーハイルは無言で剣を収める。
確かにアルバートの言う通りだ。ここで焦って倒そうとすれば、
自分はこの女性に殺されていただろう。それは戦う以前から、自ず
と分かっていた事だ。
更に子供達がいる故、何も死に急ぐ必要はない。将来の事を考え
2247
れば、冷静な対話こそが正しい。
﹁すまなかった。俺も少し焦り過ぎたようだ﹂
﹁気にせんでもいい、お前の判断は敬意に値するからの。⋮⋮まあ
何じゃ、ここは儂等に任せろ﹂
﹁⋮⋮頼む。ゼノス君、カルナは俺が引き受けよう﹂
ゼノスは有難うとだけ呟き、背中で眠るカルナをジーハイルに引
き渡した。
彼はカルナを預かり、大人しく後ろに下がる。彼等二人がゆっく
り対話できるよう、見守る事にしたのだ。
ここにいる誰もが、力では解決できないと悟った。故に周囲を漂
う剣呑とした空気は消え失せ、平常の空間へと戻る。
これでようやく、会話できる環境となった。
﹁⋮⋮﹂
2248
﹁⋮⋮﹂
ゼノスとアルバートの両者と対峙する位置に立ち、女性は彼等の
言葉を待ち続けている。
女性がどんな覇気を放っているか分からないが、むしろそれは好
都合だろう。何の気兼ねもなく、変な感情を込めずに会話すること
が出来る。
場が落ち着いた所で、アルバートは何気なく切り出した。
﹁⋮⋮さて、連れが申し訳ないことをしたのう。失礼じゃが、まず
は名前を尋ねても良いかの?﹂
アルバートは顔を緩ませ、気さくに尋ねる。
﹁名前?ああ名前ねえ。あまり言いたくはないけれど⋮⋮どうせ早
いか遅いかの話だものね﹂
女性は一人で呻いては一人で納得し、最後には喜んで答える。
2249
﹁私の名前はジスカ。それだけ覚えてくれればいいわ﹂
⋮⋮ジスカ?
ふと、ゼノスは不思議な感覚に襲われた。
記憶を掻き乱されるような錯覚に陥り、ゼノスの脳は極限にまで
揺れ動く。ジスカという名前だけに意識が集中し、小声でその名前
を呟いていた。
どこかで聞いたような⋮⋮何故か懐かしい響きだった。 ﹁ふふっ﹂
﹁︱︱﹂
ジスカと名乗る女性は、ゼノスと視線が合う。
すると彼女は更に笑みを深め、ゼノスに愛想を向けてくる。だが
ゼノスは、それを好意的に受け取る事が出来なかった。
2250
見た目とは裏腹の感情を抱いているようで、素直に信用出来ない
のだ。
﹁⋮⋮して、ジスカは何故こんな場所にいるんじゃ?分かってはい
ると思うが、ここは今やならず者の溜まり場。お前さんのような生
娘が来ていい場所ではないと思うんじゃが﹂
﹁ごめんなさい、別に大した用事はないの。今すぐに用事を済ませ
るから、そうしたらちゃんと帰るわ。それで許してくれるかしら?﹂
﹁⋮⋮分かった。早めに済ませてくれると助かるぞい﹂
ジスカは﹁は∼い﹂と若干伸びた声で答え、ゆったりとした足取
りでゼノスの目前にまでやって来る。
まじまじとゼノスを観察した後、ジスカは何と︱︱
︱︱ゼノスを固く抱擁し、色目を使うように足を絡めてきた。
2251
﹁︱︱︱︱ッッ!﹂
周囲は愚か、ゼノスもまた突然の行動に意表を突かれる。
ジスカは見せつけるようにゼノスの肩、背中、腰などを執拗に触
ってくる。更に暖かい吐息をゼノスの首筋に吹きかけ、彼をとこと
ん誘惑する。
ゼノスは行動の理由を尋ねようとしたが、彼女はそれを見越した
上で軽くウィンクをしてくる。⋮⋮別に変な意味はない、とでも言
いたいのだろうか。
やがて彼女は、とろんとした目つきでゼノスを見上げる。
⋮⋮とても綺麗で、透き通った瞳だった。
ジーハイルは邪悪だと唱えるが、ゼノスはそうは思えなかった。
もっと複雑で、正義とも悪とも言えない何かが、このジスカの中
2252
に混在していると思う。これはあくまで仮定の話であり⋮⋮実際は
違うのかもしれないが。
ジスカは段々と顔を近づけていき、遂にはゼノスの耳元に自分の
口を侍らせる。
紅蓮の艶めかしい唇は、甘い果実の吐息を出しながら開く。
﹁︱︱ねえ、さっきからつれないじゃないの。何で私がいるのに、
貴方は気付いてくれないのかしら?﹂
﹁⋮⋮何の事だ﹂
正直な話、ジスカの言うことが全く理解出来ない。
気付かないとはどういう意味か?自分はジスカとは初対面のはず
だし、今日以外に出会った日はない。
そう無いはずだ。
2253
﹁ふう、どうやら気を感じ取る力もないようね。せっかくの再会だ
と言うのに⋮⋮⋮⋮まあ仕方ないわね﹂
そう言って、ジスカはようやく足を解放してくれた。
だがその代わり、彼女は自分の右人差し指をゼノスの眉間に添え、
次に親指を立たせる。まるで﹃ピストル﹄のような形だ。
何をする気だ︱︱とは言い出す事が出来なかった。
逆らい難い威圧に呑まれ、ただただそれに従うしかなかったのだ。
﹁でも⋮⋮貴方が全部忘れてるってのは、少々不公平よね?貴方が
全部覚えていればもっと楽しくなるのにね。⋮⋮⋮⋮全く、﹃彼女
達﹄は昔からロクな事をしないわ﹂
﹁彼女⋮達?﹂
﹁何でもないわ。記憶のない貴方に言った所で、全然面白くもない
から﹂
しばらく眉間に指を当てた後、ジスカはあっさりと指を引いた。
2254
別に何をされたという感覚はない。彼女の大胆な行動に度肝を抜
かれただけで、物理的、精神的なダメージは皆無だ。
ただ指を当てただけ⋮⋮だと思う。
﹁貴様、俺に何をしたんだ?﹂
言い知れぬ危機感が芽生え、ゼノスは語調を強めながら問う。
全身を解放された事で、束縛するような緊張感は解けた。なので
当然の疑問を彼女に言い放ったのだ。
﹁単なるおまじないよ。時が過ぎれば過ぎるほど効く最高のね。︱
︱効けばじきに分かるわよ、この行動の意味が﹂
﹁︱︱え?﹂
これ以上、彼女は真相を仄めかさなかった。
完全にゼノスから距離を離したジスカは、優雅に頭を下げてくる。
2255
﹁では御機嫌よう、私の用事は終わったわ。後は子供達を連れて行
くなり好きにするといいわよ﹂
﹁ま、待て!君はいいとしても、俺達はここのならず者達にも用事
があるんだぞ!﹂
ジーハイルがおもむろに叫ぶと、ジスカは口元を手で覆い、くす
くすと静かに笑い始める。
﹁ああ、彼等ね。⋮⋮どうやら用事がおありのようだけど、それは
きっと徒労に終わるわ﹂
﹁どうしてそう言いきれる!?﹂
神妙な面持ちでジーハイルは問うが、彼女は首を傾げながら悩む。
﹁う∼ん、どうしてって言われてもねえ。話せば長くなるかもしれ
ないし⋮⋮⋮⋮って、もうタイムリミットか﹂
途中、ジスカが溜息をつきながらそう述べる。
2256
ゼノス達が何気なく瞬きをした後︱︱彼女の背後に﹃そいつ﹄は
現れた。
一瞬の出来事だった。
ゼノス達の視界に、﹃闇﹄が姿を見せる。
﹁⋮⋮い、いつの間に﹂
刹那の如く参上したそいつ︱︱漆黒の甲冑に覆われ、背中に巨大
な大剣を携える騎士は、悠然とした態度で佇んでいた。
まるで、最初からその場にいたかのように。
奴は魔王ルードアリアの覚醒前に類似しているが、甲冑のデザイ
ンは勿論、その性質までもが全く異なる。
⋮⋮力のないゼノスでも、それだけは把握出来た。
2257
﹃おいジスカ、何を道草食ってんだ。ロダンの野郎が癇癪を起こし
てるぞ﹄
漆黒の騎士が低く変質した声を響かせると、ジスカは不機嫌そう
に眉根をひそめる。
﹁全く、相変わらず短気な男ね。辛抱と言う言葉を知らないのかし
ら?﹂
﹃俺に聞くんじゃねえよ。⋮⋮ともかく移動するぜ﹄
﹁はいはい、じゃあ宜しく頼むわよ︱︱黒銅の暗黒騎士様?﹂
そう言って、ジスカは騎士に縋り付く。
﹁︱︱ッ。ま、待て︱︱⋮⋮⋮⋮﹂
ゼノスはすかさず止めようとしたが、それは儚い願いであった。
2258
漆黒の騎士︱︱否、黒銅の暗黒騎士と呼ばれたその騎士は、また
瞬きの後にジスカと共に消失した。
辺りの空気は一変し、緊張の糸が解け始める。
﹁⋮⋮くそ。やっぱり逃げたか﹂
端から逃げられるとは分かっていたが、どうしても屈辱だけは出
てしまう。不甲斐なさが蓄積し、自分に対する怒りもまた募る。
他方、それをずっと間近で感じ続けていたジーハイルは、思わず
片膝をつき、息を大きく吐いた。
﹁はあ、何だってんだ一体。こっちはならず者達と子供達に用があ
って来たのに、全く訳が分からん。⋮⋮それにロダンの坊やがなん
たらと言ってたが、奴等なんて見た事もないぞ﹂
彼はそう文句を垂れながら、大人しく眠るジョナとルルリエの元
へと向かう。
﹁⋮⋮むう﹂ 2259
一方のアルバートは、自分の顎鬚を撫でながら考えに耽っていた。
ジスカと名乗る女性の正体、黒銅の暗黒騎士と呼ばれていた騎士。
そして奴等は、恐らくロダンと何らかの関係を持っているだろう。
そうなると、答えは一つしか考えれなかった。
﹁のう、小僧はどう思う?﹂
﹁⋮⋮奴等のことか?﹂
﹁そうじゃ。まあその様子だと、儂と同じ考えに至っとるようじゃ
な﹂
断定には至っていないが、ゼノスはこくりと頷く。
しかし、ゼノスが思う事はそれだけではなかった。むしろそれは
おまけであり、本当に悩んでいるのは他にある。
無論、ゼノスが奴等と対面した時のことだ。
2260
ジスカに対しては若干の恐怖と嫌悪感を抱き、その名前は幾度と
なく聞いたように感じ、何故か耳に馴染んでいた。
そして、あの暗黒騎士とやらに対しては︱︱
︱︱見覚えがあるのだ。
両者は初対面のはずなのに、そうだとは言い切れない。
この不思議な感覚に、今のゼノスは苦悩させられているのだ。
﹁⋮⋮まあよい。とにかく、儂等も早々にここを去るかの。子供達
を救出し、ならず者がいないと分かった以上、この塔にはもう用は
ない﹂
﹁ああそうだな。カルナと子供達を送ったら、ゲルマニア達に今あ
った出来事を話そう﹂
2261
ゼノスの提案に、アルバートは腕を組みながら頷いた。
複雑な感情はさておき、先程出会ったジスカと暗黒騎士は色々と
怪しい匂いを放っている。
ランドリオ帝国にとって、とても大きな脅威になるかもしれない
と。
それもまた、直感から来るものであった。
2262
ep15 黒き乙女︵後書き︶
※黒銅の暗黒騎士のイラストです↓http://6886.mi
temin.net/i103890/
2263
ep16 痛ましい過去
ジスカと暗黒騎士は夜空を舞っていた。
暗黒騎士は頼りないジスカの身体を抱き寄せ、屋根から屋根へと
飛び移りながら王城を目指す。なるべく人気の少ないルートを辿っ
ているため、王城まではしばらく掛かるだろう。
しかし、ジスカは悪い気分ではなかった。
天駆ける星空を仰ぎ見、この闇に染まった世界を散歩するのは何
よりも心地良いからだ。
﹁はあ∼、今日は最高の夜ね。⋮⋮ここで私好みの男がいれば、も
っと最高なのだけれど﹂
彼女は白い吐息を吐き、うっとりとした表情で呟く。
2264
﹃冗談にもなってねえぞ、ジスカ。あまりらしくねえ言葉は使わな
いほうがいい﹄
﹁ふふ、確かにそうね﹂
暗黒騎士の言う通り、ジスカはロマンチストではない。その上、
彼女は﹃彼﹄以外の男には全く興味がない。
彼女が考えていることは、ただどうやって世界を滅ぼすか。どの
ようにして白銀の聖騎士を殺し、始祖を奪うか。ミステリアスな女
性に見えて、中身は案外簡単なものである。
⋮⋮それはさておき、暗黒騎士は話題を変えることにした。
﹃それよか、会ってみたい奴等にはちゃんと会えたのか?﹄
ジスカは鼻を鳴らしながら答える。
﹁ええ、会えたわよ。それに貴方は彼等を見たはず⋮⋮⋮⋮っと、
失礼。目が見えない貴方に言っても無駄ね﹂
2265
﹃いや、気配は感じ取っていた。⋮⋮そうか、奴等が﹄
暗黒騎士は視線を落とし、先程の気配を思い出す。
今は力を制限されているようだが、奴等は計り知れない程の潜在
能力を有していた。
もし彼等が敵だとしたら、シールカードにとって大きな脅威にな
り得るだろう。ジスカには悪いが、争う相手が悪いように思える。
⋮⋮まあそれはどうでもいい。
暗黒騎士はジスカによって生み出され、ジスカの為に動く存在。
しかし、彼はジスカのことを何も知らない。一体彼女は何をし、
何の為にランドリオ帝国に戦争を仕掛けるのかさえ分からない。
︱︱暗黒騎士が悩む理由は他にある。
2266
あの気配の片方。眩しい閃光のような波動を放つ存在を感じた時、
暗黒騎士は妙な感覚を覚えた。
それを言葉で表すとしたら、親しみやすい何かだろうか。
懐かしくも愛らしい、そんな慈しむべき人間がいたわけだ。
﹁あら、気になるのかしら?﹂
彼の思いを察したのか、ジスカが嫌味な笑みを浮かべながら尋ね
てくる。
﹃⋮⋮別に、今は興味を見せる時じゃねえからな。奴等とジスカの
関係は確かに知りたくもなるが、俺は俺でやるべき事がある⋮⋮そ
れは分かってるよな?﹄
暗黒騎士は兜の正面をジスカに向ける。
表情は分からないが、彼が真剣な面持ちになったことだけは窺え
る。
2267
﹁勿論。︱︱彼等を助けたいのでしょ?﹂
﹃⋮⋮当たり前だろうが﹄
心なしか、ジスカを抱くその力が増す。
今はいない大切な二人を思うだけで、暗黒騎士の心は激しく痛む。
﹃何にせよ、俺は俺に与えられた仕事をこなす。奴等とジスカの因
縁なんて、俺にとってはどうでもいいぜ﹄
﹁ふうん。ま、私としてはその方が楽だけど﹂
ジスカはつまらなさそうに呟き、それ以上深く追及することはな
かった。
それを皮切りに、暗黒騎士は更に高く跳躍する。美しい満月の光
に照らされ、彼は風に乗って建物を次々に跨いでいく。
﹃よし、そろそろ着きそうだ﹄
2268
暗黒騎士は先にそびえる王城を見据え、ジスカに報告する。
﹁そのようね。彼等がここにいる以上、ロダンとその部下には色々
と動いてもらわないと。⋮⋮辿り着いたら、さっそく手伝ってもら
うわよ?﹂
﹃︱︱承知した﹄
粗雑な態度はどこへやら、暗黒騎士は慇懃な態度で答える。
⋮⋮とにもかくにも、これが暗黒騎士とジスカの関係だ。
ジスカは目的を果たす為に暗黒騎士を従え、暗黒騎士は願望を叶
えるためにジスカに仕える。
全ては﹃二人﹄を救う為に。
例え正義に反する行いだとしても、構うものか。
2269
︱︱こんな姿になった以上、もう後戻りはできないのだから。
ジョナとルルリエを救い出した後、ゼノス達はジーハイルの家へ
と赴いた。
その後の顛末を簡潔に説明すると⋮⋮まあ大体は予想できていた
ことだが。
商売をよそにサザリアとゲルマニアがやって来て、サザリアとカ
ルナが二人をお説教。それは一時間経った今でも続いている。
聞いていて可哀想になるが、こればかりは仕方ない。
2270
今回は無事で済んだが、もし次も同じ行動を取ったのならば⋮⋮
恐らく命はないと思う。傭兵崩れだけでなく、塔近辺には多くの浮
浪人がいるからだ。
彼等がもし二人を襲っていたならと思うと⋮⋮嗚呼、想像したく
ない。
他方のゼノス達は、ゲルマニアを交えて二階の食堂に集まってい
た。
サザリアが丹精込めて作ったパステノン郷土料理を食しながら、
これまでについての話を進めていた。
﹁⋮⋮なるほど。行商人の手伝いをする代わりに、カルナと共に子
守りを頼まれたと。それで子供達二人の事情を知って、あの塔へ向
かっていたというわけですね﹂
ゼノスはゲルマニアに事情を話し、自分達が何故あの場所にいた
かを説明した。
そして間を置くことなく、今度はゼノスがアルバート達に尋ねる。
2271
﹁それで、あんた達は何であの塔にいたんだ?⋮⋮傭兵崩れのなら
ず者に用事があったとか?﹂
﹁ん⋮⋮まあ、それはの﹂
アルバートは難しい表情で口ごもる。
見かねたジーハイルは、彼に先んじて口を挟む。
﹁あ∼じれったい!面倒だから俺が事情を説明するぞ﹂
﹁むっ﹂
尤もな意見に閉口し、アルバートは大人しく役割を譲ることにし
た。
ジーハイルは野太い声で咳き込み、堂々とした態度で語り掛ける。
﹁⋮⋮さて、君がアルバートの言っていたゼノス君か﹂
﹁ああ。一応、昔はアルバートから剣の指南を受けていた身だ﹂
2272
﹁それも聞いてるよ。⋮⋮はは。剣術の飲み込みは良かったが、愛
想を知らない生意気な小僧だったってこともな﹂
﹁︱︱ッ!?﹂
ゼノスの顔は途端に紅潮する。
そして間髪入れず、申し訳なさそうに縮こまるアルバートを睨み
付ける。
﹁ふふ、ゼノスにもそのような時期があったんですね﹂
﹁だ、誰だってそんな時期があるだろうに⋮⋮。それに子供の頃の
話だぞ﹂
思い起こせば確かに色々とやらかしたが、それだって口うるさい
アルバートに軽い仕返しをしようとした程度だ。
しかもそれに関しては全て未遂に終わり、最後には必ずアルバー
トにからかわれていたのだ。文句を言いたいのはむしろこちらであ
る。
2273
話が脱線した事に気付いたのか、ゼノスはハッとし、すぐさま表
情を引き締める。
﹁俺に関してはもういいだろ。それよりも、早く本題に入ってくれ﹂
﹁ああそうだな﹂
ジーハイルは居住まいを正し、瞳を閉じながら述べる。
﹁⋮⋮君の言う通り、俺達はあの塔に住むならず者達に用事があっ
たんだよ﹂
﹁何故だ?﹂
﹁︱︱ある者から聞いた情報によると、ならず者達は王国から従軍
命令を出されていたらしい。従軍先は勿論ランドリオ帝国で、ロダ
ンの坊やはシールカードとはまた別の兵を集めているようだな﹂
ならず者達を兵に?
2274
幾ら彼等の腕が優れていたとしても、所詮は何をしでかすか分か
らない連中だ。
とても従軍資格が備わっているとは思えない。
﹁ああ、君の気持ちはよく分かる。大方、何でならず者風情に王国
直々のご指名が入るのか⋮⋮だろ?﹂
﹁察しがよくて助かる。正にそう思っていた所だ﹂
だろうな、とジーハイルは小さく呟く。
そして彼もまた言いづらそうにしていたが⋮⋮。
アルバートとは違い、堂々とした口調で言い放った。
﹁ならず者⋮⋮いや、あいつ等は俺達の部下だったんだ。まだ王国
が出来る前の、始原旅団が雪原を駆けていた頃のな﹂
2275
﹁ッ。じゃあならず者って⋮⋮元始原旅団の一員だったのか。でも
何故そんな奴等が﹂
ゼノスの予想を代弁するかの如く、今まで清聴していたアルバー
トが口を開く。
﹁多分じゃが、戦争で使い物にならなくなったと言われ、ロダンに
解雇されたのじゃろう。⋮⋮奴は昔からそうじゃて﹂
アルバートの話によると、現国王のロダンは部下を思う気持ちが
皆無であるらしい。
怪我をすればすぐさま解雇し、何の保証もせず、ただ町のスラム
街へと打ち棄てる。戦いでしか生きていく事の出来ないアルバート
の部下達は⋮⋮そういった経緯で落ちぶれたのだろう。
﹁とにもかくにも、儂達はあいつ等とロダンが接触する機会を窺お
うとしたのじゃよ。けどこれでは⋮⋮聞くことは愚か、出会うこと
すら出来ん﹂
力さえあればその気配を辿ったのだが、今は不可能な身だ。
2276
無闇やたらに彼等を探すよりも、また新たな機会を模索した方が
より効率的だろう。
﹁なあアルバート、一ついいか?﹂
﹁⋮⋮何じゃ﹂
ゼノスは眉間に皺を寄せながら、胸につかえる本音を告げた。
﹁︱︱ロダンはあんたの息子だろう。なのに何で、何でこんな酷い
ことを平気で行うんだ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮随分と根本的な話じゃな﹂
しかし、それもまた当然の疑問だろう。
アルバートは深い溜息を吐き、額に手を当たる。
珍しい光景だ。てっきり彼は元気の塊かと思っていたが⋮⋮まさ
かこんな疲弊した様子を見せるとは。
2277
しばらく間を置いた後、彼は重い口を開く。
﹁あやつがああのは⋮⋮全部儂のせいじゃよ。儂があの日あの時、
仲間と誓った思いを破ったせいで⋮⋮⋮⋮﹂
アルバートは淡々と、しかし苦しそうに語る。
かつて自分が始原旅団の結成を果たし、多くの仲間を引き連れて
争いを繰り返していた時のことだ。
始原旅団は真の平和を望み、無駄な殺しはしないと誓っていた。
勿論、アルバート自身も大いに賛成だった。
その頃には既にロダンを授かり、妻や子が自分の戦いを見守って
いたのだ。悪逆非道な戦いは見せられなかった。
むしろ正義の為に戦っているのだと教え、ロダンにもそうした思
いを抱きながら育ってほしいとも考えていた。
2278
⋮⋮だけど、そんな願いを打ち壊したのは。
⋮⋮⋮⋮紛れも無い、アルバート自身だった。
ロダンの思想を一気に塗り替えた出来事︱︱それは自分の妻とロ
ダンが、悪名高い部族の長に攫われた時だ。
始原旅団がその部族と激しい攻防を繰り返す最中、長自身が単身
で旅団のテントへと攻め込み、自分の弱みを握ろうとしたらしい。
その日は戦える者が近場におらず、成す術もなかった。
︱︱これはロダンから聞いた話だが。
二人が攫われた後、その部族の長はとある奇行に走った。
それは妻の拷問だ。
ロダンの目の前で、彼は様々な拷問を行ったようだ。ロダンが泣
き叫ぶのを他所に、嬉々とした表情で妻を⋮⋮苦痛の地獄に誘った。
2279
拷問されたのは本当の事だろう。
アルバートが急いで敵地に入り込んだ時、既に妻は無残な死体と
なって発見されたからだ。
あらゆる部位をもぎ取られた状態で⋮⋮⋮⋮。
﹁⋮⋮﹂
妻の哀れな姿を発見した話をした所で、アルバートは話を打ち切
る。
皺のある頬に、一筋の涙が伝う。
﹁⋮⋮友よ、無理に話す必要はないぞ﹂
﹁いや、もう大丈夫じゃジーハイル。かれこれ数十年前のこと故⋮
⋮すぐに立ち直れる﹂
そう言って、アルバートは話を続けた。
2280
妻の死体を見せつけられた後、実はアルバート自身も記憶が曖昧
だ。
しかしロダンやジーハイルは、その時の自分を今でも鮮明に覚え
ているらしい。
︱︱怒り狂い、その部族の人間全てを虐殺したアルバートを。
部族の戦士達を家族の目前で殺し、直後に家族をも手に掛けた。
年若い少女も、まだ生後間もない赤ん坊も、何の罪もない人々を。
⋮⋮殺し尽くした。
もっと他に方法があったはずなのに、怒りに任せて殺戮する。
それがいけなかったのだ。
ロダンはそんな父の姿を見ながら、ふと部族の長が言い放った言
葉を思い出した。
2281
最愛の妻をいたぶりながら、こう吐き捨てたそうだ。
﹃⋮⋮所詮この世はな、強い奴だけが優遇される。自分が強くなれ
ばなるほど⋮⋮真の幸福は訪れるのさ﹄
長はそう言い残し、呆気なくアルバートに殺された。
ロダンは最初こそ半信半疑だったが、アルバートの殺戮を垣間見、
やがて全てを理解したという。
勿論、悪い方向で。
︱︱奴は独裁主義的な思考をそこで植え付け、正義や人情といっ
たものを捨ててしまった。
あの日、あの時。
もし自分があんな戦いをしなかったらと思うだけで、今も胸が張
り裂けそうになる。
2282
﹁⋮⋮というわけじゃ。奴が非情なのも⋮⋮全て儂のせいじゃ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ゼノスとゲルマニアは硬直していた。
背筋が凍り、身もよだつような昔語り。
ゼノスは今更ながら、過去を話させた罪悪感に襲われる。
ランドリオ六大将軍は最強を誇り、傍から見れば史上最強の騎士
であると、何の後ろめたさもない屈強の騎士だと思うだろう。
しかし現実は違う。
何度も言うが、六大将軍もまた人間だ。
特に自分達は地獄のような過去を抱き続け、多くの苦痛を抱えて
2283
頂点を目指した者達だ。
このアルバートもまた、その一人。
戦場の鬼と恐れられた老戦士にも、忌わしき過去の一つや二つは
ある。
﹁⋮⋮すまない﹂
謝るべきだと悟り、ゼノスは深々と頭を下げる。
﹁ふん、小僧が変に同情するでないわ。それにもう昔の話じゃから
な﹂
﹁けど﹂
﹁︱︱終わった話じゃ。あの思い出に対してくれてやる涙や言葉は、
既に出尽くしておる﹂
アルバートは気にするな、と更に付け足す。
2284
テーブルに置かれていた水を勢いよく飲み干し、とうに冷めてし
まった料理に手をつける。
これ以上話す事はないと分かったのか、またジーハイルが話に割
り込む。
﹁⋮⋮ゼノス君、俺達は引き続きならず者達の行方を探し、一つで
も多くの情報を仕入れたいと思う。これが君達の行動に繋がるかは
分からないがな﹂
﹁いや、とても有り難い。もし俺に出来ることがあったら何でもす
るけど﹂
﹁ふ、その必要はないさ。ゼノス君とゲルマニア君は、来るべき戦
いに備えて英気を養うといい﹂
となると、現段階でやる事はないか。
しかしジーハイルの言う通りでもある。ここで万全の準備をし、
この身体でどう生き残るかを必死で考えなければならない。
彼なりの配慮に感謝し、ゼノスは席を立つ。それを見て慌てたゲ
ルマニアも、急いで立ち上がった。
2285
﹁じゃあ俺とゲルマニアは借家に帰るよ。ゲルマニア、ここでやり
残したことはないか?﹂
﹁いえ、特には。⋮⋮あ、でもサザリアやカルナに挨拶をしないと
いけませんね﹂
﹁おっと、そうだったな。︱︱まあ、アルバート達も頑張ってくれ﹂
ジーハイルは気さくに微笑み返し、アルバートもまた手を上げて
ゼノス達を見送る。
ゼノスは確かな前進を感じつつ、微かな期待を胸にジーハイル邸
を後にした。
2286
2287
ep16 痛ましい過去︵後書き︶
※本当に⋮⋮本当にお待たせしました。詳細は活動報告にて説明し
ます。
2288
ep17 届かない想い
凍える様な吹雪の夜が、またパステノンの町を覆い尽くす。
帰宅したゼノス達はすぐに薪を暖炉に汲み入れ、火を付ける。次
第に部屋全体に暖かい空気が生まれ、同時にゼノスとゲルマニアの
心も緩み始める。
時刻は既に七時を過ぎた頃。
アルバートは愚か、ラインやロザリーさえまだ帰って来ていない。
恐らく行商の仕事で忙しいのだろう。
﹁⋮⋮まいったな、夕飯担当のロザリーがいない﹂
ゼノスは頭を掻きながら呟く。
一応この暮らしでの役割分担は決まっており、ロザリーは主に夕
2289
食作りを担当している。
彼女は元王女のくせに、炊事に関しては極端に優れている。ロザ
リー曰く、単に常識を覚えただけと言っていたが⋮⋮その常識はお
よそ世間とはかけ離れている。今の彼女ならば、一流料理店のメイ
ンコックに就くことも出来るレベルだ。
そういうわけで彼女が料理担当となったわけだが、頼れるロザリ
ーは外出中である。
勿論、ゼノスも料理は出来る。
しかしここで手に入る材料から作れるものは、残念ながら一つも
ない。今更ながら、自分のレパートリーの狭さに呆れるばかりだ。
⋮⋮となると。
残る可能性を持つ者に、ゼノスはジト目で凝視する。
﹁⋮⋮気のせいかもしれませんが、何かとっても失礼なことを考え
ていませんか﹂
2290
﹁ふ∼む⋮⋮。ま、多分ゲルマニアの想像通りだと思うぞ﹂
﹁へえ∼そうですか∼。⋮⋮失礼ながら、その真意を伺っても?﹂
﹁ああ。︱︱お前って料理出来るのか?﹂
ゼノスが本音を暴露した瞬間、脳天に鋭いチョップが激突してき
た。
ポンッでもなく、ゴンッという少々酷い音でもなく、ドゴッとい
うもはやチョップから繰り出されるはずのない音が聞こえてきた。
﹁お⋮⋮ごッ⋮おぉ!﹂と苦悶の声を漏らし、ゼノスはゲルマニア
のチョップに頭を抱えながら悶絶する。
他方のゲルマニアは腰に手を置き、自慢のポニーテールを払う。
﹁全く⋮⋮とんだ言い草ですね。私だって、騎士になる前は家事を
何でもこなす普通の村娘だったんですから!﹂
2291
﹁⋮⋮⋮⋮そ、そうです⋮⋮か﹂
ゼノスは震える手でキッチンを指差し、どうにかして言葉を絞り
出す。
﹁じゃ、じゃあ料理頼んでもいいか?﹂
ゲルマニアはニコリと満面の笑みを見せる。
﹁お任せを。では、ゼノスは椅子で休んでいて下さいね﹂
そう言い残し、彼女は鼻歌混じりでキッチンの方へと向かう。
嗚呼、確かに休む必要がありそうだ。
最近のゲルマニアの調子に嘆き悲しみながら、ゼノスは椅子に座
り、そのままテーブルに突っ伏すことにした︱︱。
2292
食事の支度も終わり、二人は夕食を摂る事になった。
⋮⋮成程、確かにゲルマニアを甘く見ていたかもしれない。テー
ブルに並べられた料理を吟味し、ゼノスは自分の誤りに気付く。
彩の豊かな野菜サラダ、ヘルシー且つ濃厚な匂いを醸し出すオニ
オンスープ。そしてメインディッシュである牛肉を揚げ焼きした肉
料理。薄くスライスされたレモンを乗せ、見る者の食欲をそそらせ
る。
﹁ふふん、どうですゼノス。今日は私の故郷、エトラス村の伝統料
理を作ってみましたよ﹂
﹁⋮⋮お、おお。何というかその⋮⋮⋮⋮すまん﹂
ゼノスが素直に謝ると、彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
﹁分かれば宜しいのです。ささ、いただきましょう﹂
ゲルマニアはフォークとナイフを手に取り、ゼノスよりも先に料
理を食べ始める。
2293
こうして二人は食事を始める。
陽だまりのような暖かいリビングの中で、何の会話もなく、ただ
黙々と食事を続ける。
⋮⋮とても暗い雰囲気だ。
ゲルマニア自身も決して愉快な気分ではない。来るべき戦いが近
付いていると分かった直後から、自分達は無事に生還できるのかと
いう疑念に駆られている。
しかしゼノスは、今のゲルマニア以上に鬱屈としている。
時折フォークの動きを止め、テーブルの木目を見るように視線を
落としていた。小刻みに溜息を吐いては、また食事を再開するとい
った繰り返しだ。
何とか平静を保とうとしているが、その行動から既に本心がバレ
バレである。如何に繕ったとしても、不安や恐怖は滲み出てくるも
のだ。それは六大将軍であっても同様である。
2294
にしても、そこまで思い悩む理由は何なのか。
遂に耐え切れなくなったのか、ゲルマニアはおもむろに口を開く。
﹁⋮⋮ゼノス。何か思う所があるのですか?﹂
﹁ん⋮⋮ああ、そういえばまだ言っていなかったな﹂
ゼノスは思い出したようにハッとする。
彼女に話すべきか迷うつもりはない。何故かと言うと、シールカ
ードであるゲルマニアにも話さないといけない⋮⋮そんな気がして
ならないからだ。
疑問符を浮かべるゲルマニアの為に、ゼノスは悩みを打ち明ける。
︱︱それはあの塔で出会った、黒き女性と漆黒の騎士について。
得体の知れない彼等だったが、ゼノスは全く知らないとは断言で
きなかった。あの少女から感じた悪寒を、あの騎士から感じた懐か
2295
しさを⋮⋮きっと何処かで知ったはずだからだ。
この気持ち悪い既知感が、今のゼノスをとことん悩ませる。
概説的ではあったが、ゲルマニアはうんうんと納得する。と同時
に、その話に出てくる二人の人物について思いを巡らせる。
﹁黒いドレスの女性に、漆黒の鎧をまとった騎士ですか⋮⋮。何と
か思い出せたりとかは出来ないのですか?﹂
ゲルマニアの疑問に対し、ゼノスは首を横に振る。
﹁それが出来たら苦悩しないぞ。勿論何度か試してみたけど、急に
霧がかかったように記憶が霞むんだ﹂
﹁霞む⋮⋮ですか﹂
ゼノスにとって、これ以上もどかしい事はないだろう。
それに、どうにも気になる点がある。
2296
彼等に関する記憶を思い出そうと奮起すればするほど、心なしか
徐々に思い出せそうな気もするのだ。
深い霧を進み、あとちょっとの所で出口が見えそうな︱︱。
何かきっかけがあれば⋮⋮ゼノスは彼等に関する記憶を呼び覚ま
せるかもしれない。
どういった形で思い出せるかは分からないが、絶対に無理だとい
う確信も見当たらない。きっとどこかで︱︱。
ふとゼノスは、我に返ろうと頭を小突く。
悪い癖だ。自分はいつも答えのない問題に悩み、無駄な時間を費
やしてしまう。
そう、今考える必要はないんだ。
﹁⋮⋮何にせよ、俺達にとって危険な連中なんだろうな。今はとに
かく、奴等に注意しつつアリーチェ様の命を果たそう﹂
2297
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
決死の覚悟でそう宣言するゼノス。
騎士としては当然の思いであり、何も変なところはない。むしろ
ゼノスは騎士の本懐を忠実にこなそうとし、多くの騎士達の模範と
して行動している。
今の言葉に対し、素直に褒め讃えたい。
︱︱なのに何故。
﹁⋮⋮﹂
何故今のゲルマニアは、こんなにも憤りを感じているのか。
悲しみと怒りが交互に混じり合い、そこに何故という自分に対す
る疑念が加わる。それは混沌としていて、当のゲルマニアでさえよ
2298
く分からない。
どうして自分は、ゼノスに対してそんな思いを抱くのか?
⋮⋮⋮⋮いや。
思えばゲルマニアは、以前から憤りを覚えていた。
白銀の聖騎士としてではなく、ゼノス・ディルガーナとして意識
し始めた頃からだ。
彼の苦悩に触れ、彼の勇気と優しさに出会う内に⋮⋮。
︱︱彼の決死の言葉が、許せなくなってきたのだ。
どうして自分の身を大事にしないのか。どうして貴方は、帝国と
アリーチェ様の為だけに生きているのかと。
2299
これは帝国の騎士として、当然あってはいけない想い。
だが、つい言葉が出てしまう。
今まで戒めてきた思いが、本音となって現れる。
﹁⋮⋮ゼノスは怖くないのですか﹂
﹁え?﹂
突然の返しに、ゼノスは目を丸くする。
ゲルマニアはフォークを置き、本音を吐露する。
その表情は苦しそうで、唇を噛み締めていた。
﹁今回は条件が悪すぎです。幾らアリーチェ様の命令とはいえ⋮⋮
今のゼノスが戦うべきではないと思います﹂
2300
﹁それは今更だろ。ここまで来た以上、もう後には﹂
﹁分かっています!でも私は⋮⋮貴方の事がッ﹂
心配なんです、と悲痛な声で言おうとした途端。
ゼノスの口から、当然の答えが出てくる。
﹁︱︱悪いけど、ゲルマニアが口を挟む権利はないぞ。これは俺の
使命であって、お前の意思は関係ない﹂
﹁︱︱︱︱ッ!?﹂
関係⋮⋮ない?
2301
冷静に考えれば、確かにゼノスの言う事は尤もだ。
六大将軍の使命に、その部下が口を挟む理由は存在しない。関係
ないという言葉は、多分まだ優しい言い方なのだろう。
⋮⋮しかし、今のゲルマニアは冷静じゃなかった。
心配で心配で、自分の胸は今にも張り裂けそうなのに。自分はゼ
ノスの為に一生懸命止めようとしているのに︱︱ッ!
何で⋮⋮理解してくれないの?
﹁︱︱そう、ですか。アリーチェ様の言う事は聞けて、部下である
私の意見は⋮⋮聞き入れてくれませんか。⋮⋮と、当然ですよね⋮
⋮﹂
﹁⋮⋮お、おいゲルマニア﹂
不穏な空気を感じ、ひたすら戸惑うゼノス。
怒りに身を任せ、ゲルマニアは椅子を強引に引き、眉根を吊り上
げたまま立ち上がる。
2302
食べ残しのある食器を持ち、慇懃に頭を下げる。
﹁ご無礼をお許し下さい、ゼノス。私はこれにて失礼しますので、
どうぞごゆるりと寛ぎを﹂
﹁ゲ、ゲルマニア!?何を突然⋮⋮﹂
ゼノスとて、ゲルマニアが怒っている事は分かる。
だがその理由が分からない。問いただそうと、急いでゲルマニア
の後を追おうとしたが、
﹁︱︱来ないで!﹂
﹁ッ!﹂
階段を登ろうとしたゲルマニアが足を止め、声を荒げる。
2303
反射的にゼノスも動きを止め、困惑した表情でゲルマニアを見据
える。
⋮⋮当のゲルマニアは、今にも泣きそうな瞳をちらつかせる。
﹁お願いですから、今は一人にさせて下さい﹂
﹁⋮⋮﹂
ゼノスは何も言い返せず、ただ怒った様子のゲルマニアを見送る
事しか出来なかった。
2304
ep18 激動する状況
ゼノスは酷い目覚めに遭い、浮かない気分のまま商売しに出かけ
る事となった。
︱︱あれからゲルマニアの怒りはどうにか収まったが、彼女から
ゼノスに語り掛けてくる事はない。
朝食時も目を合わせようとせず、話し掛けても無機質な相槌ちだ
けが返ってくるのみ⋮⋮取りつく島もない状態だ。
しかし、彼女はそこまで露骨に避けているわけではなかった。
最初こそ笑顔で答えようとするが、途中で昨夜のことを思い出し、
急に居心地悪そうに距離を置く始末だ。
⋮⋮もしかしたら、ゲルマニアは申し訳ない気分になっているの
かもしれない。あくまでの予想の話だが。
2305
何にせよ、今日の行商はメンバーを変える必要がある。
結局、ゲルマニアはロザリーと一緒に働き、ゼノスはラインと共
に商売をする事になった。
﹁⋮⋮はあ﹂
ゼノスは深い溜息をつき、重い足取りで朝市の混雑道を潜り抜け
ていく。時折ぶつかっては謝り、またボーッとした様子で歩き始め
る。
この調子に、流石のラインも苦笑するしかない。
ラインはゼノスの後ろを歩いていたが、その背中から漂う哀愁に
嫌気が差し、横に並んで顔色を窺う。
﹁⋮⋮ねえゼノス。もしかして⋮⋮ゲルマニアと何かあったのかい
?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ああ。俺が何をしたかは分からないままだが﹂
2306
ゼノスはクマのついた瞳を向け、ありのままの事情を語る。詳し
く話せと言った覚えはないが、これもまた機嫌直しになるかもしれ
ない。淡々と、しかし時々感情的になって話す事情とやらに耳を傾
けてみる。
それを歩きながら聞き終えたラインは、信じられないといった顔
で言い放つ。
﹁君ねえ、そこまで言われて理由も分からないのかい?﹂
驚き呆れた末の答えに、ゼノスは自然と苛立ちを覚える。
﹁ぐっ。ならお前には分かるってのか?﹂
﹁勿論さ。僕はゼノスと違って、女心というのを多少は理解してい
るつもりだよ﹂
ラインは自慢げに微笑み、ぶつぶつと自分の恋愛語りをし始める。
当然の事だが、ゼノスは聞く耳もたない。
それよりもだ。
2307
女心⋮⋮だったか?
妙な単語に首を傾げ、くどい話を遮るように口を挟む。
﹁⋮⋮その女心が関係しているのか?違うと思うが﹂
﹁︱︱違くはないさ﹂
自分の恋愛語りを中断し、ラインはおもむろにゼノスの肩に手を
置いてくる。
彼はジト目でゼノスを見据える。
﹁ゼノス、女性が恋をすればどうなるのかは⋮⋮分かるかな?﹂
﹁はい?﹂
予想外の問いに目をぱちくりさせる。
2308
何を突然⋮⋮と思いつつ、勢いに押されて答える。
﹁そりゃまあ、分かるよ。恋をすればその相手に尽くしたくなり、
相手の為に行動しようってなる⋮⋮よな?﹂
所詮は本や他人の経験から得た情報だが、多分そうだと思う。
ゼノスだって馬鹿ではない。幾多もの戦場を駆け巡っていれば、
嫌というほど様々な状況に出くわす。
その中に、恋をした女性も数多く存在した。
彼女達は愛する夫、友人、そして叶わぬ恋人の為に苦痛を負い、
その末に死んだ者までいる。
とても懐かしい思い出であり、全てが残酷且つ美しい。
恋は盲目というのは、正にあれらを言うのだろうか。
﹁うんうん、正解。︱︱男の僕が言うのも何だけど、女性というの
2309
は一度恋をすれば、その人に対して全力を尽くそうとする。⋮⋮勿
論、心配もする﹂
﹁⋮⋮﹂
最後の皮肉めいた一言のせいか、脳内に光が差したような錯覚に
襲われる。
不快な霧が退いたかの如く、ゼノスの疑問も徐々に解消されてい
く。何重にも結ばれた紐を一つ、また一つと解けるように⋮⋮。
ゼノスはふと歩みを止め、眩しい朝日に照らされた空を見仰ぐ。
ゼノスが何故そのような行動を取ったのか、それはあえて問いた
だすまい。ラインもまた立ち止まり、彼なりの答えを待つ。
雑踏の中心に佇むゼノスは、目を細めながら、枯れた声音で呟く。
最初は極僅かな音色だったが、やがてそれはラインの耳にも届く
程の大きさでやって来る。
2310
﹁⋮⋮有り得ない﹂
と、自重めいた言葉を紡ぐ。
しばし人々の靴音とざわめき声だけが周囲を支配する。そんな彼
等はゼノス達に目も暮れず、急ぎ足で通り過ぎていく。
︱︱何故そんな言葉が出たのか。
実を言うと、言い放ったゼノス本人でさえ理由は曖昧だ。咄嗟に
出た言葉がこれだっただけで、深い意味は存在しない。
ただ⋮⋮有り得ないのだ。
もし仮に、ゲルマニアが自分を好きだったとしても。
果たしてそれは本心から来るものなのか?英雄という側面のゼノ
スを見て、彼女は恋い焦がれたのだろうか?
⋮⋮もしそうだとしたら、いずれ彼女は失望する。
2311
これまでも、そしてこれからも自分は英雄らしからぬ過ちと迷い
を続けていくだろう。優柔不断な英雄だといつか理解すれば、所詮
はその程度の人間だったと知るだろう。
現に彼女は、既に知っているのかもしれない。
だからゼノスは、有り得ないと告げたのだ。
﹁⋮⋮ふうん。ま、大体君の考えている事は予想出来るね﹂
ラインは全てに納得したかのように頷く。
眼鏡を人差し指で押し上げた彼は、疲れた口調で述べる。
﹁あくまで僕の考えだけどさ、ゲルマニアは知った上で好きになっ
ているんじゃないかな?﹂
﹁︱︱ッ﹂
﹁だってそうだろ?彼女は他の誰よりも、ゼノスの深い部分まで介
入している。
2312
ゼノスの弱さを知った彼女は⋮⋮⋮⋮君自身に恋してしまったんじ
ゃないかな﹂
﹁⋮⋮そ、そんなのおかしいだろ。何で弱いと分かってて⋮⋮ッ﹂
ゼノスは内心焦りながら本心をぶつける。
しかしそれでも尚、ラインはありのままの現実を突き付ける。
﹁︱︱弱いと分かったから、だろ?自分達と変わらない人間が、世
の為人の為に尽くし、そして身近な人間を守る為に戦っているから。
⋮⋮まあ、それが今の彼女にとって嬉しい事なのかは分からないけ
どね﹂
大袈裟に肩を落としてみせるライン。嘘や隠しているわけでもな
く、その辺りの事情はラインも知らないようだ。
ただ彼が分かる事は、ゲルマニアがゼノスに対して好意を抱いて
いること。本当のゼノスを分かった上で、彼に対して心底心配して
いるということ。
2313
そこまで説明されれば、察しの悪いゼノスでさえ悟る。
﹁⋮⋮⋮⋮ゲルマニアは、俺に恋をしている⋮⋮のか﹂
思いがけない事実を言い渡され、ゼノスは困惑した様子で佇む。
いや、その気持ちは非常に嬉しい。心からの理解者に愛されるな
ど、今迄の人生で一度も無かったからだ。
世間一般の聖騎士ではなく、ゼノス・ディルガーナに対して想い
を寄せてくれる。それだけは素直に受け取りたい。
⋮⋮しかし、その後はどうすればいい?
今のゼノスは気持ちの整理がついていない。この暖かい想いを無
下にすることは到底出来ないし、騎士として、面と向かって答えな
ければいけないはずだ。
2314
騎士として⋮⋮いや違う。ゼノスという一人の男としてそうせざ
るを得ない。
自分もゲルマニアが好きだと⋮⋮。
それか、その想いは受け取れないと⋮⋮。
ゼノスはどちらか一方を選ばなければならない。
﹁はは⋮⋮あのゼノスが混乱してる﹂
ラインは茶化すように言ってくる。
人の気も知らないで、と恨めしそうにラインを睨むゼノス。が、
彼は気にもしないまま、ゼノスの肩に手を置いてくる。
彼なりの励ましか、と思ったが、それは大きな勘違いであった。
ゲルマニアの事で頭が一杯なのにもかかわらず、ラインは更に余
計な言葉を付け足してくる。
2315
﹁でもねゼノス、これしきで思い詰めてちゃあいけないよ。︱︱案
外、ゲルマニアと同じ境遇の人は多いかもよ?﹂
﹁は、はあッ!?﹂
余りにも衝撃的な発言に、人目もはばからず大きな声を出す。
周囲が不思議そうに顔を向けてくる中、ラインはさも楽しそうに
ゼノスの肩を優しく叩く。しかし叩かれたゼノスはそれにさえ気付
かず、自分の髪をくしゃくしゃにしながら悩みに没頭する。
⋮⋮ゲルマニアと同じ境遇の人達。
僅かではあるが、その人物達には心当たりが︱︱
と、ゼノスが深く考え込もうとした時だった。
背中から強い衝撃が加わり、転びはしないが一瞬だけ身体がよろ
ける。何とかその貧弱な踵をブレーキ代わりにし、前のめりに落ち
る可能性を避けた。
2316
﹁ってて⋮⋮何なんだ一体﹂
﹁︱︱ゼノス、後ろを見て﹂
突如、ラインが真剣な目つきで言う。
態度を急変させたラインを訝しみつつ、ゼノスは言う通りに振り
向く。
するとゼノスの視界には、既に人々がごった返していた。男女問
わず押し合いへし合いながら大通りに立ち止り、ゼノス達のいる場
所をも飲み込んでいく。気が付くと、四方八方が人々で混雑してい
た。
だが驚くべき事はそれだけではない。
人々の表情には恐怖と不安が滲み出ており、口々にその思いが零
れ出ていた。
2317
﹁お、おい早く行け!﹂
﹁押すな畜生!﹂
﹁助けてッ⋮⋮早くしないと⋮私達までもが!﹂
荒んだ怒号が交差し、人々は一様に不安を爆発させている。
彼等は城門前の広場から遠ざかるように、ゼノスとラインの視線
とは逆方向に走り出している。
﹁⋮⋮何事だこりゃ﹂
ゼノスが不思議そうに問うと、ラインが少し遅れて答える。
﹁さあ。でもどうやら⋮⋮城門前の広場で何かが起こっているよう
だよ﹂
﹁そのようだな﹂
2318
互いは視線だけを合わせ、やがてこくりと頷き合う。
悩む余地はない。ゼノスとラインは背負っていた商売道具をその
場に捨て、混雑を無理やり掻き分けながら突き進んで行く。
猪突猛進の勢いで体当たりしてくる人々。何度も何度も倒れそう
になるが、意地と根性だけで踏み止まり、そして堅実に進む。
ラインも同様だ。
彼もまた人々に押しつぶされそうになりながらも、あくまで平静
を保ちながら強引に押し退けている。
﹁はあ∼、こりゃきついッ!息は上がるし、身体中は痛いしで⋮⋮
普通の身体ってこんなにも不便だったんだね⋮⋮﹂
﹁はっ、今更かよライン!でももう少しの辛抱だぞ!﹂
ゼノスはそう言うと、ありったけの力を込めて疾駆する。
彼の言う通り、もうまもなくして雪崩の様な混雑は引けてきた。
2319
人々もまばらになり、走るのも容易になった。
︱︱けれど、また違った脅威が襲い掛かる。
城門前広場に近づくにつれ、本能から来る嫌な予感が肥大してい
く。周囲から微かな血生臭い悪臭がたちこめ、不快な絶叫音が辺り
一帯を木霊していく。およそ朝市の中心地である広場から発せられ
るモノとは到底言い難い。
そう、広場で何かが起きているのだ。
ゼノス達は上り坂に差し掛かると、スピードを緩めることなく走
り、その先に待ち受ける幅広い長階段を二段抜かしで駆け上って行
く。
やがて頂上付近へと近付き、階段の先へと辿り着くと︱︱
︱︱そこには凄惨な光景が待ち受けていた。
﹁⋮⋮ッ﹂
2320
ゼノスは思わず眉根をひそめ、周囲の状況を把握する。
噴水を中心に円形状に展開されていた屋台郡は脆くも崩れ落ち、
残骸となって打ち棄てられている。果実や装飾品などが地面に散ら
ばり、もはや商売できる状態では無い。
あと死体も幾つか転がっている。
大量の血の池に沈む死体は⋮⋮どうやら一般市民ではないようだ。
小汚いボロ布の服に、血の匂いと共に漂う臭い汗と腐敗したゴミの
匂い。これらから擦るに⋮⋮死んでいる人間はホームレスか何かだ
ろう。
スラム街からやって来た、今のパステノン王国に不満を抱く者達。
そんな連中が⋮⋮何故ここに?
恐らくだが、この先に待つ何十人もの野次馬の向こう側に、その
答えが待っているのかもしれない。
2321
まだ痛む全身に鞭を打ち、ゼノスとラインは呼吸を整えながら歩
み寄って行く。
すると、ゼノスはある人物達に気付いた。
様々な思いを巡らす野次馬達の最後列に、古びた麻布のマントを
目深く被ったアルバート、そして白と茶色を基調とした村娘衣装の
ゲルマニア、ロザリーが佇んでいた。
成程、どうやら彼等の方が一歩早く辿り着いていたらしい。
ゼノスとラインは慎重に近づき、極力押し殺しながら語り掛ける。
﹁︱︱三人共、様子は分かるか?﹂
﹁ん、おお。やっと来おったか﹂
アルバートもまた自分の立場をわきまえつつ、小さな声音で答え
る。ここに元パステノン王国の国王がいると知れば、それはもう色
々な面で不都合だ。細心の注意を払うに越したことはない。
2322
﹃ぐっ⋮⋮ぐあああああああッッ!﹄
不意に目前から断末魔が聞こえてくる。
低い男の声であり、腹底から絞り出すような絶叫音であった。野
次馬の中にいる年若い女性達は甲高い悲鳴を上げる。またある女性
は気を失い、倒れてしまう始末である。
思わずゲルマニアやロザリーも体を痙攣させ、アルバートやライ
ンも苦虫を潰したような表情を垣間見せる。⋮⋮気のせいか、ゲル
マニアに至っては次第に青ざめた気色を露わにしている。
心配になったゼノスは、ゲルマニアを気遣おうと肩に手を置こう
とするが︱︱それは無駄だった。
ゼノスと視線が合った途端、彼女はゼノスから一歩離れてしまっ
た。顔さえ合わせようとせず、全く取り合おうとはしなかった。
だがゼノスは反論する気になれない。
ラインとの会話でゲルマニアの本心を知った以上、幾ら弁解して
も意味がないと悟ったからだ。
2323
今は時間を置き、それから解決させればいい。
ゲルマニアの想いに対する答えも︱︱その時考えればいい。
自分の中でそれなりの整理がつき、ゼノスもまた彼女に気を配る
ことを止めた。⋮⋮アルバートに顔を向ける最中、ゲルマニアが憂
いに満ちた瞳を向けた気がしたが⋮⋮あえて気にしないでおこう。
目先の事実に意識を集中させ、ゼノスは真剣な表情で言う。
﹁︱︱公開処刑か?﹂
今聞こえた断末魔と、宙を鮮やかに舞う血飛沫を見てそう判断す
るゼノス。
﹁⋮⋮いや、ちょっと違うわい。ここなら事の成り行きを傍観する
ことが出来る。百聞は一見に如かずじゃよ﹂
2324
アルバートは自分のいた場所から若干横に移動し、今いた場所に
来るよう促してくる。言われた通りに従い、ゼノスは僅かに開かれ
た群衆の隙間前へと誘導される。
目前にはゼノスよりも高い身長の者がおらず、背伸びをせずとも
よく見える場所だった。ゼノスの後ろに張り付くようにラインやゲ
ルマニア、ロザリーも近付いてくる。
︱︱彼等が見たものは、確かに処刑とは言い難かった。
しかしそれに酷似した状況なのは一目瞭然だ。円を成す群衆の中
心にいるのは、数人もの死体と残り数人のホームレス姿の生存者⋮
⋮そして彼等に対峙するのは、粗雑なローブの上に毛皮のガウンを
纏う国王とその兵士達。
一目見た感想は正にそれだ。
ホームレスのような出で立ちの者達に疑問符を浮かべると、それ
に応えるかのようにアルバートが口を挟んでくる。
﹁小僧。あの薄汚れた連中こそ、儂等が捜していた元部下達じゃ﹂
﹁⋮⋮そうだとは思った。しかしその⋮⋮﹂
2325
ゼノスは動揺を隠そうとせず、震える声に沿って視線を変える。
その珍しい態度に、ゲルマニア達も息を呑んだ。
彼が驚愕しているのは、元部下の前に悠然と直立する連中である。
アルバートの実子であるロダン国王、そしてその両脇に控える女
性二人に︱︱ゼノスは唖然としていた。
︱︱昨日出会った黒衣の女性。
︱︱生き返ったと言われた少女、セラハ。
前者については、何となくだが予想はついていた。しかし後者の
セラハについては、例え知っていたとしてもやはり驚くしかない。
幼少時に感じたあの狂気、可憐な姿とは裏腹の巨大なナタ。鬼や
悪魔でさえ身の毛もよだつその姿は、十年以上経った今でも覚えて
いる。修羅の如き非情さは、今思い出しただけでも震えが止まらな
い。
2326
過去の走馬灯が脳裏を行き交い、ゼノスは唇を噛み締める。激し
い憎悪と復讐心が甦る。
だが横に立つアルバートに釘を刺され、ゼノスはどうにかその気
持ちを押し殺す。⋮⋮内心でアルバートに感謝し、ゼノスは事の成
り行きをジッと静観する。
耳を澄まし、周囲の雑音を振り払い、あの場所で繰り広げられて
いる滑稽なショーに集中する。
⋮⋮すると、一兵士の淡々とした宣告が聞こえてくる。
﹁︱︱我が同志たち、お前達にまた問う。もし斬り捨てられた者達
のようになりたくなくば、我等が王ロダンの召集に応じろ。その手
で、その足で隣国との戦争に加われ。⋮⋮これは命令である﹂
兵士は手に持つ羊皮紙を頭上に掲げる。
流石に文字までは見えないが、書き連ねている内容は予想がつく。
恐らく、王国が作成した徴兵命令書か何かだろう。
2327
非情極まりない宣告に対し、元部下達の一人が声を荒げる。
だがその対象は兵士や国王ロダンにではなく、亡霊のように静か
に佇む黒衣の女性︱︱ジスカへと向けられていた。
﹁てめえ⋮⋮ッ!約束が⋮⋮約束が違うじゃねえか!﹂
喉が張り裂けんばかりの怒声を上げるが、対照的にジスカはどこ
までも冷静沈着であった。
腕を組み直し、自らの紅色の唇に指を置くジスカ。
人とは思えない歪んだ微笑みを浮かべ、地面を這う薄汚れた者達
を見下す。
﹁うふふ、気まぐれな性格でごめんなさいね。本当は約束を守って
あげようとは思っていたのだけれど⋮⋮こちらの方が面白そうだな
と﹂
﹁︱︱︱︱ッ﹂
2328
あまりにも傍若無人な言いように、声を荒げた男は絶句する。
それは他の者達も同様だ。過去何度か起きた戦争の光景が甦り、
幾重もの映像となって脳裏に投射される。
自らの過ち、拭い去れない遺恨、掻き消す事のできない傷痕。
荒んだ思い出が返り咲き︱︱彼等は人目をはばからず発狂し出す。
﹁はっ、往生際の悪い連中だ﹂
そんな異様な場面に眉一つ動かさず、ロダンが吐き捨てるように
言う。
﹁幾ら喚いた所でなあ、この状況が変わるわけないだろう?⋮⋮所
詮てめえらは、親父の世代から存在する戦争の玩具なんだよ﹂
﹁ふざけるなあアぁッッ!てめえの親父は⋮⋮アルバート様は決し
てそうは思わなかった。俺達のことを家族のように扱い、共に生き
行く戦友として認めてくれていた!⋮⋮我儘なあんたとは違うッ!﹂
2329
瞬間、周囲の空気が凍てつく。
それはゼノス達にも分かるほど冷たく、息の詰まる時間であった。
張り詰めた空気を作ったのは︱︱ロダンだ。彼は三白眼の瞳で元
部下達を睥睨する。首の骨を鳴らしながら、腰に差していた銀装飾
付きの剣を抜く。額に筋を浮かべながら、重い足取りで近寄る。
﹁⋮⋮⋮⋮ちっ、面倒だ﹂
躾けても言う事をきかない犬なんて、ロダンにとっては手に余る
存在。口上を並べた所で、舌を出して喜ぶとは到底思えない。
そんな悪い犬には⋮⋮灸をすえてやらねば。
痛みや苦悩よりも辛い︱︱死という名の仕置きを行ってやる。
﹁⋮⋮ゼノス、まずいよあれ﹂
2330
ロザリーが抑揚のない声音で注意を促す。
分かっている。だがそう言われた所で、今のゼノス達に抗う術は
皆無だ。
勇気と無謀は全く意味が違う。例えゼノス達があの場に躍り出た
所で、奴等の一方的な殺戮に巻き込まれるだけである。
恐怖に身を悶えさせる部下達は、残念ながら死ぬしかない。ゼノ
ス達は嘆き悲しみながら、その場を後にするしかない。ロダンの鬼
畜じみた高笑いを、耳奥に鳴り響かせながら⋮⋮。
⋮⋮。
ゼノスだけでなく、皆も同じ心境だったようだ。
煮え切らない怒りをぐっと押え込み、人々の悲鳴や怒号を背に立
ち去ろうとする。この血に塗れた広場をあまり見ないようにしよう
と、彼等は決して地面を見ようとはしなかった。
振り向き際に直視しないよう、ゆっくりと。
2331
﹁︱︱どこに行こうというんだ、貴様等は?﹂
﹁⋮⋮え﹂
声にもならない驚きを放ち、一同はその場にて硬直する。
憮然とした様子で、ゼノス達の目前に全身をマントで包んだ女性
がいたからだ。彼女はマントから出る細い手を腰に当て、鋭い瞳を
一行にぶつけてくる。一切の気配を放たず、ただ亡霊の如く佇んで
いる。
何者だ彼女は⋮⋮と思い立った矢先、ゼノスはふとラインの言葉
を思い出した。
⋮⋮もしや彼女こそが、パステノン兵に追われていた人物ではな
いのかと。
2332
﹁全く、こちらの身にもなってほしいものだ。︱︱故に願う。お前
達がその負担を減らしてくれることを﹂
﹁は⋮⋮?﹂
もはや言葉を紡ぐ暇もない。
刹那、ゼノスとアルバートの視界が反転する。
二度瞬きした時には、既にゼノスとアルバートは空中へと放り投
げられていた。唖然とするゲルマニア達を見下ろし、人々の注目が
こちらへと注がれている事に気付く。
⋮⋮嗚呼、してやられた。
儚い彼等はようやく理解した。今自分達は、あのマントを被った
女性に胸ぐらを掴まれ、容易に放り投げられたのだと。
ゼノス達の意志に反し、軽やかに飛ぶ自分の身体に重圧が加わる。
曇天の空を見仰ぎながら︱︱直下へと落ちる。
2333
そして二人は、予想だにもしなかった状況へと陥る。
2334
ep18 激動する状況︵後書き︶
※ロザリーのイラストを投稿しました↓http://6886.
mitemin.net/i127351/
2335
ep19 親子三代が揃うとき
大衆は途端の沈黙を強いられた。
ふいに囲いのど真ん中に落ちた先は、あろうことか浮浪者とパス
テノン王国側に挟まれる位置だ。最悪のタイミングでやって来たこ
とに、人々は不安の色を隠せない。
群衆の彼方からゲルマニア達らしき声が響いて来るが、それは不
自然に途切れてしまった。恐らく余計な邪魔をさせないよう、あの
マントの女性が制止させたのだろうか。
とりあえず彼女達の無事は約束されたが、こちらは凄く最悪な状
況だ。
背後には震え戦慄く浮浪者達が立ちすくみ、正面ではいかめしい
表情でゼノス達を見やるロダン達。⋮⋮しかし、狂気の笑みを浮か
べるあのジスカとやらだけは別だが。まるでこの場面を予期してい
たかの如く、滑稽な歌劇を見届けるような視線を送ってくる。
2336
そして大衆を見渡すと、そこにはゼノス、特にアルバートと縁の
ある人物達も集っている。元部下や元同志、そしてジーハイルもま
た焦った表情で佇んでいる。
⋮⋮今ここで、もしアルバートがマントを脱ぎ捨てたらどうなる
のか。
考えただけでも恐ろしい。きっと人々は英雄の帰還に喜び、ロダ
ン王に制裁を加えてくれと懇願してくるに違いない。
それだけは避けたい所だ。今のゼノス達に、戦う術はないのだか
ら。 ﹁︱︱何だてめえ等は。悪いが、俺は今こいつらの調教に忙しいん
だ。部外者が、それもどこぞの国の奴が邪魔をしないでほしいんだ
がなぁ﹂
言葉こそ穏やかだが、相手を屈服させるよう語気を強めて言い放
つ。それだけで大衆は背筋を凍らせ、更なる嫌な予感を漂わせる。
⋮⋮まずい、これは自分達をも殺す勢いだ。
2337
現にロダンは矛先をゼノス達に向け、今にも斬りかからんとして
いる。
どうする、どうすればいい?
逃げることも叶わぬ、抗うことも叶わぬ。ゼノスはただ生き延び
る方法を模索しようとする。
⋮⋮⋮⋮しかし、もう一方のアルバートは違った。
その巨体をゆっくりと立たせ、首や手足を軽くほぐして見せる。
周囲の状況にも慌てず、ただ鞭打った身体に異常はないかどうか確
かめていた。
ロダンは彼の悠長な行動に苛立ちを覚え、今度は嫌悪を交えて言
い放つ。
﹁⋮⋮おい、聞こえなかったのかよ。特にそこの爺⋮⋮ッ!﹂
2338
﹁親父殿、あまり怒鳴らない方がいい。何だったらあたしが⋮⋮﹂
眉間に皺を寄せるロダンを言葉で宥めながら、隣にいたセラハが
自慢のナタを抜いてくる。
どちらにせよ、両者は殺す気満々だ。
あの懐かしくも憎い彼女の殺気が、まるで噴火寸前のマグマの如
く膨張していく。
そんな息子と孫娘に、アルバートは溜息を隠せなかった。
更にあろうことか、彼はゼノスが最も恐れていた言動を口走った。
﹁はあ、本当に呆れるわい。お前さん達は⋮⋮何も変わっとらんな﹂
⋮⋮ふいに放たれる尊大な一言。
2339
例え本来の力を失っていても、将軍としての尊厳は未だ健在のよ
うだ。
恐れや不安を纏った空気は一瞬にして葬り去り、人々の負の感情
は綺麗さっぱり洗い流される。
︱︱反面、ロダン達パステノン王国側には大きな衝撃だったらし
い。
アルバートの言葉に、その場にいた全ての兵士が泡を吹き、その
まま昏倒していく。ロダンやセラハにはさして効果はない。それで
も尚、アルバートの異様な覇気に驚きを禁じ得なかった。⋮⋮未だ
微笑みを絶やさない、ジスカを除いての話だが。
どうやらアルバートは、今できる限りの力を言葉に乗せたようだ。
力を封印された影響で少々弱い覇気となっているが⋮⋮十分効果は
あっただろう。
こうなっては、ロダンやセラハは黙っていない。
古びたマントを被るアルバートに対し、あからさまに警戒心を見
せてくる。
2340
﹁⋮⋮小僧。悪いがもう我慢できんわい﹂
﹁おい⋮⋮ッ!﹂
ゼノスは苦虫を潰したように顔を歪め、アルバートが取るであろ
う行動を察知した。
そして⋮⋮⋮⋮嗚呼やはり。
静まり返る中、アルバートはおもむろにマントを脱ぎ捨てた。
﹁﹁︱︱︱︱ッッ!!?﹂﹂
案の定、ロダンとセラハに衝撃が走った。
︱︱青みがかった黒髪、鍛え抜かれた強靭な肉体、そして始原旅
団の首長たる男の恰好。
2341
間違いない、いや見間違うはずがない。
それは誰もが悟っていた。すっかり外見は年老いてしまったが、
かつて身に着けていたその衣装で、誰も抗えないようなその王者た
る覇気で⋮⋮全て分かってしまったのだ。
⋮⋮建国の祖が、再び舞い降りたのだと。
﹁アルバート⋮⋮様。︱︱ッ、アルバート様ぁ!﹂
﹁嗚呼⋮⋮嗚呼!神よ⋮⋮パステノンの大地よ!この素晴らしき日
を与えて下さり、誠に感謝します!﹂
﹁良かったッ!これでもう⋮⋮ロダンの支配から解放されるんだ!﹂
人々は一様に喜び、アルバートを称える。
白銀の聖騎士がランドリオの英雄であると同時、アルバートもま
2342
たこのパステノン王国の英雄。誰もがその帰還を祝い、人目をはば
からず涙を流し、希望と言う感情が芽生え始める。
⋮⋮しかし、まだ気は抜けない。
ゼノスはロダン達へと顔を向け、その様子を窺う。
彼は全身を戦慄かせ、くぐもった笑い声を漏らしていた。
それは段々と大きくなり、終いには人々の歓喜をも制止し、高笑
いと変貌する。
﹁はーはっはっはっ!よお親父殿ぉ⋮⋮数十年ぶりだなあ。ランド
リオの六大将軍であるあんたが⋮⋮何で今更こんな所にいるのかね
え?﹂
挑発も兼ねた問いに、アルバートは冷静に答える。
﹁分かりきった事を言いよる。お前さんがランドリオ帝国に攻め入
ると聞き、六大将軍として馳せ参じただけのこと。︱︱別に他意な
どないわい﹂
2343
そうは言うが、アルバートはちらりとセラハを見やる。
彼女はすっかり少女めいた顔つきをし、今にも泣きそうな顔でア
ルバートをジッと見つめている。狂気を孕んだオーラはすっかり消
え失せていた。
互いの視線は合い、不自然な間が生まれる。
だが声を掛けることはなかった。セラハは一生懸命言葉を紡ごう
とするが、アルバートの無言の圧力に負け、言い出すことが出来な
かった。途端に悲しい表情を作り、セラハはきつく自分の唇を噛み
締める。
ゼノスはこの複雑な思いを交差させる両者に戸惑いを覚えるが⋮
⋮深く推測することは叶わなかった。
︱︱ロダンが二人の間に割り込む様に立ち塞がり、アルバートの
首元に刃先を突き付けたからだ。
﹁それで?見たところ本来の力を奪われてるようだが⋮⋮それでも
この俺を止めるつもりか?﹂
2344
﹁無論じゃ。︱︱ランドリオ帝国に対する宣戦布告、パステノン王
国民に科した多くの劫罰。全てが許される行為でないわ!!﹂
﹁はっ、即答かよ!それじゃ俺とタイマンでやり合うってか?ええ
?幾ら老いぼれの頭でも、それが無謀だってことくらいは分かるよ
なあ?﹂
ロダンはわざと舌を見せ、挑発するような仕草を取る。とても一
国の王とは思えない行動だ。
しかし悔しい事に、奴の言葉は的を射ている。
力がない今、どうロダンに対抗すべきか?あらゆる好機があった
としても、彼を駆逐することは到底有り得ない。
ランドリオで無敗を誇るアルバートであっても、この状況で勝利
の女神がほほ笑む可能性は限りなく低い。
⋮⋮どうするつもりだアルバート。
ゼノスは嫌な汗を背中に感じつつ、事の成り行きをしかと見守る。
2345
その対象であるアルバートは、喚くことなく、ただ静かに思案し
ていた。時折自分の髭を撫でながら、まるで絶望的な状況に立たさ
れていないかのような態度を取り続ける。
大胆不敵︱︱そこに一切の負はあらず。
いつ発言するのか、どのような顔で断言するのか。
大いなる期待と不安が全ての人間に付きまとう中⋮⋮
アルバートはおもむろに、何の変哲もない調子で言い放った。
﹁︱︱ふむ、ではタイマンをしようかの。場所は王国東側の雪原に
て、審判はそこにいるセラハにしてもらおうか﹂
﹁んなッ⋮⋮!ば、馬鹿な﹂
あっけからんと飛び出た発言に、流石のロダンも言葉を濁した。
2346
歓喜の叫びが周囲を行き交う一方、危険な賭けに恐怖が込みあが
ってくるゼノス。そしてそれは、遠目から見ているゲルマニア達や
ジーハイルも同様である。
⋮⋮いくら何でも、無謀すぎる。
﹁アルバートッ!何もそこまで︱︱﹂
﹁判断を誤るな小僧。ここまで来た以上、儂等に残された選択肢は
これだけだろう。⋮⋮それに﹂
アルバートは屈託のない笑みを絶やさぬまま、ゼノスの耳元に囁
きかける。
﹁︱︱儂達を放り投げた奴が、恐らく何とかしてくれるじゃろうし
な﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
あいつか。
2347
目深くフードを被り、無慈悲にもゼノス達を投げ入れた人物。
︱︱ゼノスは奴を知っている。
いやそれ所か、ランドリオ帝国に住まう人間ならば誰でも理解し
ている。
あの研ぎ澄まされたような声音は︱︱
﹁⋮⋮ユスティアラ﹂
そう、彼女だ。
ゼノスの答えに納得したのか、アルバートは何も言わないが頷い
てくる。
どうして彼女がこの国にやって来たのか。力の制約を受けなけれ
ばならないのに、そんな危険を犯してまで単身侵入を試みる理由は
何なのか。
2348
アルバートといいユスティアラといい⋮⋮深く計算した上でとっ
ている行動なのだろうか?正直、今のゼノスには信じられない。
だがゼノスの意思に反し、この場の動きは淡々と進んで行く。
ロダンは苦虫を噛んだ様な表情を見せ、どうにか自分を落ち着か
せた所で、腹の底から出たような声を出す。
﹁そうかよ、そこまでして生き急ぐか。⋮⋮極めて馬鹿らしい要望
だが、まあ受けて立ってやろうじゃねえか。場所は決闘するに最も
ふさわしい所で、誰の介入も許さねえ場所でだ﹂
何の脈絡もないまま、ロダンはふいにゼノスへと顔を向ける。
﹁さて、残るこいつはどうしようか。親父殿を脅すための人質にす
るか、それとも﹂
﹁︱︱ああ、彼に関しては私に任せなさいな。こちらが誠心誠意、
お相手して差し上げるから﹂
口を挟んできたのは、他でもないジスカであった。
2349
﹁⋮⋮そうか、こいつがお前の固執していたゼノスか﹂
ジスカは嬉しそうに微笑み返す。
﹁ええ、その通り。︱︱私が最も憎い男にして、私が興味を示して
止まない騎士﹂
誰一人として、彼に手を出すことは許さない。
ゼノスの相手をするのは、このジスカだけで十分。もし手を出す
様な真似をするならば、この国の安全は保障しない。
そんな容赦ない意思だけがひしひしと伝わり、ロダンは承知する
しか方法がなかった。
﹁勝手にしろ。俺はこの面倒くせえ親子問題にとりかかる。⋮⋮さ
あ行こうか親父殿、力による正義を示すためにな﹂
﹁⋮⋮馬鹿者が﹂
呆れたような、悲しそうな口調で言葉を漏らすアルバート。
2350
しかしロダンは返そうとせず、ただ無言のまま付いてくるよう促
してくるだけであった。
︱︱そしてジスカも、ゼノスに手招きをしてくる。
﹁くっ⋮⋮﹂
従うしかない。
ゼノスは感情を表に出さず、ゆったりとした足取りで城門へと向
かう彼女の後を付いて行く。
ざわめく民衆を背に、ゼノスとアルバートはそれぞれの戦いの地
へと向かった。
2351
2352
ep19 親子三代が揃うとき︵後書き︶
※次回の投稿は明日か明後日になります!
2353
ep20 推参せし剣豪
全身をマントで覆う女性︱︱ユスティアラは気配を殺し、冷気の
蔓延る城内の外回廊を突き進む。
手には何の武器も所持していない。鬼神の如き戦いを好む彼女ら
しくなく、敵に見つからないよう忍び足を心掛けている。
⋮⋮ふと、ユスティアラは右耳を手でふさぐ。
しばし念じるように意識を集中させると、やがて何者かの声が聞
こえてきた。
﹃⋮⋮おお。その声はユスティアラ殿ですね?﹄
声の主は、遥か遠くにいるホフマンのものであった。
2354
どうやら無事に繋がったようだ。この力をミスティカから説明さ
れた時は半信半疑だったが⋮⋮まあいい。
﹁ああ私だ。貴様の言う通り、まず﹃一つ目の目的﹄を遂行した﹂
﹃嗚呼、それはお疲れ様でした。そして私が至らぬばかりに⋮⋮申
し訳ありませんでした﹄
ホフマンにしては珍しく、落ち着いた様子で謝罪してくる。
﹁ふん、今回は仕方あるまい。︱︱それに我々は六大将軍だ。この
程度の苦難、六大将軍個々人が越えなければ話にならぬ﹂
ユスティアラもあくまで冷静に、冷酷なまでの言葉を放つ。
さて、彼女がパステノンに来た理由は二つある。
まず一つは、戦いに気後れしているであろうゼノスとアルバート。
彼等を無理やりにでも戦いに参加させることである。
ここ数日、ホフマンはありとあらゆる方面から対策を講じようと
したが⋮⋮どう足掻いても、外部からの介入は不可能だと判断した。
2355
未知数のシールカードに大規模の騎士部隊を当てた所で、こちら
が勝つという見込みは極端に低い。パステノン王国内の有力人物に
も支援を要請したが、彼等も始原旅団と事を構えたくはないようだ。
⋮⋮となると、この一件はホフマン率いるランドリオ帝国の力は
期待できない。
頼れるのは、六大将軍であるゼノスとアルバートだけであった。
ホフマンからその手段は問わないと言われ、機会をずっと探り⋮
⋮そして先程、ようやくその機会が巡って来た。
国王たるロダンに捕まれば、もはや制約に怯えながら行動する必
要はない。問題は力の解除についてだが、ユスティアラの報告があ
り次第、速やかに彼等の制限を解除することが出来るようである。
⋮⋮しかしその点について少々問題があるだが。
それと関係するのが二つ目︱︱﹃もう一つの制約の破壊﹄だ。
2356
始祖アスフィが新たに発見した事実だが、制約は力を感知する以
外に、その力を吸収する制約も存在するらしい。
仮にアスフィが封印を解除したとしても、結果としてその制約に
力を吸収されてしまうのがオチだ。そんな最悪の事態を打破する為
に派遣されたのが、他でもないユスティアラだ。
彼女自身もアスフィの制約を受けたが、ゼノスやアルバートとは
違い、その力を吸収されない程度に抑えたというのが実際である。
しかし本来の力とは程遠いが、それでも今のユスティアラは常人
を遥かに逸脱している。結果として強い者を知らせる制約には引っ
掛かり、入国した途端に制約が発動した。ここ数日は始原旅団との
追いかけっこが続いている状況だ。
︱︱だが、それも今日でお終いである。
実は数日前、アルバートがジーハイルという元部下から入手した
ある情報をホフマン経由で聞いている。
なんと制約を発動させている核が城内にあると分かり、ユスティ
アラは今からそれを破壊しに行くわけである。
2357
本当ならもっと早い段階で破壊したかったが、今の実力で始原旅
団を相手にするのは相当厳しい。国王兼首長でもあるロダンはさて
おき、その側近である部下は神獣討伐の偉業を成している。だから
迂闊に行動することが出来なかった。
﹃それでユスティアラ殿、貴殿は今どこにおられるのですか?﹄
ホフマンが素朴な疑問をしてくる。
ユスティアラは涼しい表情のまま答える。
﹁城内一階の外回廊を走っている。⋮⋮そろそろ突き当りに入るが、
このまま左の階段に登ればよいのか?﹂
﹃ええ、ええ勿論ですとも。そこを上がれば核が置かれている階層
に入ります。⋮⋮がしかし、気を付けて下さい﹄
﹁︱︱ッ﹂
ホフマンの言葉が終わると同時、ユスティアラは二階へ繋がる階
段を登りきっていた。
2358
そこで待ち受けているのは︱︱ひしめく嫌な予感。
何の変哲もない、武骨な城内廊下には⋮⋮ありとあらゆる殺気が
満ち溢れている。
﹃気付きましたかな?﹄
﹁⋮⋮これは察するに、不法侵入者を排除する罠といった所か﹂
﹃そのようですな。かのパステノン城は、元々敵部族の猛攻を防ぐ
為に創設された要塞。恐らく、アルバート殿が配置したものでしょ
う﹄
それを聞いて、ユスティアラは場違いな笑みを零す。
﹁ふっ⋮⋮そいつは面白い﹂
﹃あーユスティアラ殿、何ですその上等的な態度は。い、一応この
私と慎重に考えながらですね⋮⋮⋮⋮﹄
ホフマンの制止も空しく、ユスティアラは突発的に走り出す。
2359
慎重?そんなものは要らない。
罠が来るのであれば、それ以上の力を以てして排除するのみ。ア
ルギナス牢獄の支配者である彼女にとって、恐れの感情は絶対に許
されない。
﹁︱︱ッ。来たか﹂
さっそく、第一の罠が発動された。
両脇の壁面から無数の穴が発生し、その奥には鈍く光る鉄の矢が
顔を覗かせている。
間髪入れず、矢が一斉に放たれた。
﹃ユ、ユスティアラ殿!?何が起こっているのです!?﹄
﹁案ずるな。この程度の罠、天千羅の極意を使うまでもない﹂
ユスティアラは放たれる矢に目もくれない。
2360
ただ疾駆しながら、全ての矢の軌道を読み解く。それを理解した
上で、彼女は舞うように悉く回避し、時には矢を素手で振り払って
みせる。
一切服を破らず、マントにさえ矢を触れさせない。そんな人智を
超えた回避行動を取りつつ、次に発動された罠へと振り向く。
︱︱前方の曲がり角から、無数の毒蝙蝠が羽ばたいてくる。
あれは⋮⋮遥か南部大陸の洞窟に生息する蝙蝠だ。体毛に強い毒
性があり、あの蝙蝠に触れるだけで、普通の人間ならばすぐに死に
至るだろう。
亜熱帯に生息する蝙蝠をどう飼育していたかは分からないが、今
のユスティアラにとっては単なる敵に過ぎない。
彼女は即座に邪魔なマントを剥ぎ捨て、ごく一般的な旅装束姿を
露見させる。分厚い長スカートを翻し、太ももに装備した数本もの
ナイフを取り出す。
蝙蝠の分散する位置、それぞれの飛び向かう方向、そして蝙蝠た
ちの弱点を瞬時に見極め︱︱ナイフをあらゆる方向に投擲する。
2361
ユスティアラはまるで何事もなかったかのように蝙蝠の横を走り
過ぎ、甲高い断末魔が背後から聞こえる。ばたばたと音を立てて落
ちていく擬音は、恐らく蝙蝠の死骸が床に落下したものだろう。
︱︱他愛も無い。
如何にアルバートが仕掛けた罠と言えど、所詮は常人を虐殺する
玩具でしかない。
⋮⋮ラインの場合は、もっと上手く回避するだろうが。
﹁⋮⋮⋮⋮ちっ、何故こんな時に奴のことが思い浮かぶのだ﹂
自分らしからぬ思いに、思わず顔をしかめるユスティアラ。
しかも驚いたことに、自分はラインのことだけでなく、ここ数日
はよく昔の出来事を思い出す。
昼夜問わず、あの懐かしくも忌わしい記憶が甦る。
2362
﹁⋮⋮何かが起ころうとしているのか?﹂
﹃ユスティアラ殿?﹄
ふいにホフマンの声が聞こえ、ユスティアラの意識が現実に返る。
﹁すまぬ、問題はない。このまま他の罠を潜り抜け、その核とやら
を速やかに破壊しよう。︱︱当然、聖騎士達の戦いが始まる前に﹂
﹃ええお願いしますよ。それでは私は、パステノン王国に隣接する
各国代表との緊急会議に挑んできます。どうかご武運を、国の英雄
よ﹄
﹁承知﹂
ただ一言そう答え、ユスティアラは荒れ狂う罠を突き抜けて行く。
2363
2364
ep20 推参せし剣豪︵後書き︶
※1=今のところはこの調子で投稿していく所存です!
※2=12月31日午前七時、12月31日午後二時にて予約投稿
済みです。
2365
ep21 忘れていた記憶
その頃、ゼノスはパステノン城内へと案内された。
前を歩くジスカからは一定距離を離し、両者は一言も話さないま
ま奥へと向かう。
彼女は敵意を見せないが、逆に友好関係を取ろうという態度も見
せない。ただ飄々とした態度で、自分の素顔を晒さないようにして
いる。それがゼノスの警戒心を煽る結果となっている。
そんな暗い面持ちの状態で、ゼノスとジスカは一旦城のテラスへ
と出る。
テラスから一望できるパステノン城下町、そして広大に広がるパ
ステノンの雪原。つい先程から降り始めたのか、街中に薄い雪化粧
が施されている。
だがゼノスが注目したのは街方面ではない。
2366
視線を雪原に移した先に、三人の人間がぽつんと立っている事に
気付く。
﹁あれは⋮⋮﹂
﹁へえ、ロダンはあの雪原を舞台にしたのね。武人としては正しい
判断だけど、演出家としてはまるで失敗ね﹂
途端、ジスカが歩みを止めて言ってくる。
つまらなさそうに雪原を見下ろし、数秒もしない内にアルバート
達に対する興味は潰えていく。
﹁御託はいい。それより、俺はいつまで案内されればいいんだ?﹂
この城に入り始めてから既に十分以上が経過している。
もうそろそろ目的地に着いてもいいはずだ。
﹁慌てないで欲しいわね。このテラスを進んで行けば、この城の玉
座が設置されている間へと辿り着くから﹂
2367
﹁⋮⋮﹂
ジスカはくぐもった笑いを響かせ、また颯爽とした足取りで床を
甲高く鳴らす。
︱︱が、そこでまたジスカの足が止まる。
今度は何を思ったのか、深い溜息と共に愚痴をこぼす。
﹁お節介だこと。今更になって出しゃばってくるとは﹂
﹁え?﹂
彼女の言葉の意味が分からないまま、ゼノスはふいに意識が遠退
く。全身が浮遊したような錯覚に襲われる。
世界が歪曲し、自分の立つ地面が波のように揺れる。即座にバラ
ンスを取ることも叶わず、ゼノスはされるがままとなった。
2368
﹁くっ!な、何だこれは!﹂
焦燥の色を露わにしながら、事の状況を何とか把握しようとする。
しかし、そんな暇さえも与えてくれなかった。
訳の分からない事象は段々と収まりつつあり、次第に歪曲する世
界にも規律が取り戻しつつある。
⋮⋮風景が変わったことを除いては。
﹁︱︱︱︱﹂
ゼノスは目を見張り、今見える景色に驚きを隠せない。
今自分の立つ場所は⋮⋮ハルディロイ城地下にある部屋、アスフ
ィが幽閉されている場所である。
ただ普段と違うのは、ジハードによって改造されたのは異世界風
2369
のそれでなく、元の状態へと戻っているのである。
天井から差すはずのない陽の光が中央を照らし、その陽に当たろ
うと可憐な花々が咲き誇る。
花畑の中心には簡素な木製の椅子が置かれ、そこに一人の少女が
整然と座っていた。
少女︱︱始祖アスフィが。
﹁⋮⋮アスフィ。何でお前がここに⋮⋮⋮⋮これは夢?﹂
﹁夢なんかじゃないよ。私が始祖の力を使ってゼノスの魂を呼び寄
せたの。これは現実で、ここにいる私は幻じゃない﹂
いつも能天気な調子とは裏腹の、悲愴を秘めた言葉で答える。
それならば納得がいく。
始祖の力は人間の想像する範疇を遥かに逸脱しており、そんな常
2370
識外れな行いも出来るだろうと思ったからだ。
そう心で決め付けたせいか、ゼノスの心はひどく落ち着いていた。
﹁細かい理屈はあえて聞かないでおくが、俺に何か用事があって呼
んだのか?今は悪いけど、凄い絶望的な立ち位置にいるんだが﹂
﹁知ってる。実際に観察は出来ないけど、ホフマンの情報と人々の
感情の揺らぎが教えてくれているからね。⋮⋮あとこれはユスティ
アラ次第だけど、彼女の頑張りが成功すればゼノスの力も元に戻る。
まだ戦える希望はあるから、絶望的状況ではないと思うよ?﹂
﹁だといいんだけどな﹂
ゼノスは受け流すように答えたが、その反面、心に微かな希望が
宿り始める。
そうだ、既に敵の本拠地に侵入したのだから、もう力を制御して
やり過ごす必要はない。
とても順序通りとは言えない結果だが、これに関しては神の導き
があったと言わざるを得ない。
﹁うん。でも油断は禁物だからね⋮⋮。ゼノスが相手をしようとし
2371
ている女、ジスカは本当に危険なの。とても邪悪で、手段を選ばな
い⋮⋮恐ろしい相手だから﹂
﹁⋮⋮やっぱり、あの女について何か知ってるんだな?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
アスフィはこくりと頷く。
顔を俯かせ、スカートを両手で握り締めながら続ける。
﹁実はゼノスを呼んだのも、そのジスカについて教える為でもある
の。何せ、時はもう満ちたから。ゼノスに﹃ある真実﹄を吹き込ま
なければならないから﹂
﹁真実⋮⋮﹂
それは何だと、あえて急かすように言わなくてもいいだろう。
ゼノスは彼女と真っ直ぐ向き合い、両腕を組みながら瞳を閉じる。
どんな真実を明かされても混乱しないよう、ある程度の覚悟を決め
る。
2372
しかし数秒経っても、彼女からの言葉はない。
おかしいと思ってふと目を開けると、いつの間にかゼノスの目前
へと急接近していた。
あと一歩、それだけ近づけば衝突するぐらいの距離。
アスフィはゼノスを見上げ、ふいに自分の指をゼノスの額に押し
当てる。
﹁⋮⋮吹き込む、って言うのは語弊だったかな﹂
﹁語弊?﹂
﹁うん。正確には︱︱思い出してもらう﹂
刹那、アスフィの指がゼノスの額へと溶け込む。
2373
物理的な貫通とは違う。出血もないし、死ぬという感覚もなかっ
た。ただ脳の中の記憶をかき混ぜられているような⋮⋮何とも抽象
的な現象が襲い掛かってくる。
鳴り響く強烈な耳鳴り。
乗り物酔いしたかのような気持ち悪さ。
堪えきれない思いが、声となって爆発する。
﹁ぐっ⋮⋮ああ、あああああ⋮⋮ッ!﹂
ここ数年経験した事のない激痛が、全身を張り巡る。
絶叫は部屋中に鳴り響き、当のゼノスは手足を痙攣させながら痛
みに耐える。アスフィの暴挙を止める術も無く⋮⋮もがき苦しむ。
﹁︱︱堪えてゼノス!あと少し、もう少しで貴方の記憶は﹂
﹁がッあぁッッ!﹂
2374
記憶?
ふざけるな、自分に忘れられた記憶などあるはずがない。
ゼノスの歴史に⋮⋮⋮⋮空白⋮⋮など。
⋮⋮なのに何故。何故なんだ。
どうして記憶にない︱︱少女の顔を思い出すんだ。
痛みの限界を超え、もはや快楽に浸るような心地の最中。
ゼノスはぼんやりと、しかし徐々にはっきりと思い出していく。
記憶の宇宙から細かい泡沫が現れ、その表面には様々なシーンが
描かれている。勿論、ゼノスが今まで知らなかった⋮⋮否、記憶か
ら消去されていた出来事である。
︱︱白銀の城。
2375
︱︱そこに誘われ、そこで開かれていた舞踏会。
︱︱そして、運命の出会い。
二代目聖騎士・カスタリエとの会話までもが、記憶の穴から掘り
起こされる。
﹁⋮⋮⋮⋮あ﹂
ゼノスは面食らった表情で、アスフィへと顔を向ける。
﹁⋮⋮思い出せたんだね。あのジスカによって作られたきっかけで、
この私による力のせいで⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
2376
ゼノスは何も答えない。
泣きそうな顔をするアスフィを、ただジッと見つめていた。
﹃︱︱いい加減飽きたのだけれど、そろそろいいかしら?﹄
恐ろしい程低く、しかし美しい音色の声が響く。
虚空から白く細い腕だけが出現し、迷うことなくゼノスの手首を
掴んでくる。
﹃余計な真似をしてくれるわね、アスフィ。⋮⋮それともこれは、
貴方なりの抵抗なのかしら?せっかく彼の驚いた顔が見れると思っ
たのに﹄
﹁⋮⋮黙って。二度とその声で喋らないで!﹂
﹃あらあら怖い。まだ根に持ってるのね﹄
2377
﹁当たり前だよ!﹂
アスフィは手だけの存在に対し、激昂する。
﹃つれないわね。近い将来、貴方はこの声を嫌というほど聞くのに﹄
挑発にも似た口調で答え、手だけの存在は強引にゼノスを引き込
む。
虚空から現れた手のいる先︱︱深淵の闇へと。
ゼノスはされるがまま、徐々に闇へと沈んで行く。
﹃また会いましょう、アスフィ。次に会う時、私は一万年もかかっ
た宿願を果たす。︱︱その為の贄になりなさいな﹄
﹁︱︱ッ﹂
2378
ゼノス、アスフィの意思とは無関係に、手は両者を引き離す。
冷たい空虚な部屋に残されたのは、悔しそうに涙を押し殺すアス
フィだけであった。
2379
ep22 光と闇の邂逅
しばらくの後、ゼノスは元の場所へと戻る。
アルゲッツェ王城の玉座の間。石造りの玉座に座るジスカと相対
する位置に、ゼノスは両膝を地面についた状態でいる。目立った束
縛はされておらず、身体は自由の身だ。
しかしゼノスは、苦渋の表情でジスカを見据えている。
有り得ないといった感情を秘め、声を絞り出すようにして言い放
つ。
﹁⋮⋮確かジスカと言ったな﹂
第一声にジスカは首を傾げつつ、素直に答える。
﹁勿論、この程度で嘘などつかないわ。⋮⋮でもそれより先に、も
っと疑問を持つべき点は多いんじゃなくて?例えばここに連れて来
2380
られた理由とか﹂
﹁⋮⋮それ以上に聞きたいことがある﹂
﹁ふうん?一体何かしらね﹂
彼女はにやつき、足を組み直す。
そうした余裕の態度に苛立ちを覚えるが、ゼノスは平静を取り繕
いながら、淡々と告げる。
呼び起こされた記憶と、徐々に取り戻されていく力を頼りに︱︱
﹁︱︱とても、とてもふざけた話だが。初めて会ったにも関わらず
⋮⋮俺はあんたの容姿に見覚えがある﹂
多少変わっているが、ゼノスは確信を抱いている。
髪の色は違うけど、発せられる雰囲気が物語る。ぶつ切りにされ
ていた記憶が修復されたことで⋮⋮彼女の正体が分かってしまった。
2381
とてもひどい事実を。
﹁⋮⋮何故お前が、二代目聖騎士と同じ容貌をしている﹂
﹁あら意外。ようやく思い出したかと思えば、そんな事まで忘れて
いたとはね﹂
﹁答えろ!どうして貴様が二代目の、カスタリエの姿をしている!﹂
ゼノスの怒号を聞き受け、ジスカは口端を曲げる。
﹁何故かしらねえ。でも貴方がもう一つの真実に辿り着いたのなら
ば、大方の予想はつくんじゃなくて?﹂
そう言って、ジスカは見せつける様に右手をかざす。
すると手の平の上に︱︱ある一枚のカードが現れた。
2382
カードは淡いオーラに包まれ、宙に浮いた状態でゆっくりと回っ
ている。他のシールカードとは逸脱した、禍々しい波動を帯びてい
る。
︱︱おそらくそれは、始祖たる力を形成する核。
シールカードの根本を司るものだろう。
だが、ゼノスは驚かない。
むしろ納得がいったという表情をし、疑惑が確信へと繋がった瞬
間でもあった。
︱︱今なら分かる。この邪悪で歪な覇気の胎動が。
どくんっ、とゼノスの心臓を跳ね上がらせるこれは⋮⋮二年前に
も嫌と言うほど味わったからだ。
アスフィとは違う。だが似て非なる存在。
2383
彼女が始祖の片割れと呼ぶ存在。二年前、ゼノスが死守戦争で戦
った始祖の人格︱︱それがジスカであろう。
信じたくないが、最悪の再会と言ってもいい。
あの二度と経験したくない戦いを思い起こし、ゼノスは必然と生
唾を飲み込む。
﹁⋮⋮アスフィから聞いたことがある。自分は始祖の片割れだと。
お前がもう片割れ⋮⋮だよな?﹂
ジスカは口元に笑みを浮かべる。
﹁その通り、ええ大正解。︱︱久しぶりねえ、ゼノス・ディルガー
ナ。あの死守戦争で自暴自棄になったと聞いたけど、案外元気そう
ね﹂
﹁余計なことはいい。山ほどある疑問に答えてもらうぞ﹂
﹁疑問、ねえ。⋮⋮嫌だと答えたら?﹂
2384
軽い挑発には乗らず、無言のまま拳を握り締める。
右足を一歩引き、左手の拳を顎辺りへと持っていく。
︱︱徒手空拳の戦闘スタイル。徐々に力が戻りつつあるのは確か
だが、本来の状態だとはとても言いきれない。
一般兵以上達人以下。どちらにせよ、未だ常人レベルの域にいる。
その状態ではリベルタスを使役する事は出来ない。
剣も鎧もなく、信じられるのは己の肉体のみ。
ジスカとの話がすぐさま出来ない場合、ゼノスはこの拳で絶望的
状況を乗り越えなければならない。
﹁気が早いのね。まだ答えないとは断言してないわよ?﹂
﹁最初から答える気なんてないだろ﹂
﹁そうとも限らないわ。⋮⋮昔のことは話したくないけど、この私
の今の目的なら教えてあげる﹂
2385
﹁⋮⋮﹂
大体予想付くことだが、ゼノスは耳を傾ける。
﹁︱︱この手でアスフィの持つ力を吸収し、完全なる始祖の力を得
る。封印から目覚めたばかりの二年前ならともかく、今なら真の始
祖として君臨できるはずだからねえ⋮⋮ふ、ふふ﹂
﹁その力は何の為に使うんだ?﹂
﹁⋮⋮もちろん、この世界を破壊するために﹂
全く予想通りの回答だった。
下らない茶番であり、よもや話し合えるような状況ではない。
全ての謎も、結局はゼノス自身の手で掴まなければいけないとい
うわけか。
2386
﹁︱︱なら、無理やりにでも吐かせてやるよ!﹂
ゼノスはありったけの力を足に込め、地面を蹴る。
空想の自分は瞬時に間合いを詰めているが︱︱
︵くっ!︶
現実の自分は遅い。限りなく遅かった。いつも見える光速の世界
とは程遠い、周囲の者や状況がはっきりと見える世界だ。
内心で舌打ちをしながらも、走る速度を落とすつもりはない。
恍惚とした表情を続けるジスカへと向かい、左拳を更に強く握る。
左肩ごと後ろへと反り、バネのように左拳を放つ。
目標はジスカの顔面。
︱︱しかし寸での所で、渾身の打撃が弾かれる。
2387
﹁!﹂
ジスカ自身は何もしていない。
ゼノスは突如介入してきた人物︱︱黒銅の暗黒騎士へと振り向く。
﹁貴様⋮⋮あの時の!﹂
﹃⋮⋮﹄
彼は瞬く間に現れ、その武骨な籠手でゼノスの拳を受け止める。
ゼノスが焦った様子で言い放つが、騎士は何も言い返そうとしない。
ただ淡々とゼノスの手首を反対の籠手で握り締め、玉座とは真反
対の方向へと投げ飛ばす。
ゼノスは空中で体勢を何とか整え、負傷することなく地へと着陸
する。
2388
﹃すまねえな。俺が辿り着いた時には、もう例の侵入者に破壊され
ていたぜ﹄
﹁気にすることないわ。所詮、ロダン国王陛下への口実として作っ
たものだから。あれがなかったらランドリオ帝国を揺する事も出来
なかったけど⋮⋮もう必要ないしね﹂
ゼノスの事など眼中になく、ジスカは午後のお茶会のような会話
をする。
あれこれ確認を取り合った所で、ようやく暗黒騎士の方がゼノス
を注視してくる。
﹃⋮⋮こいつは例の。もうこの男に用は無かったんじゃねえのか?﹄
暗黒騎士が腰に手を当てながら問う。一挙一動の仕草だけで鎧の
重厚な音が鳴り、それだけ鉄壁に包まれた防具だという事を分から
せる。
リベルタスの渾身の一撃でも⋮⋮砕けるかどうかは分からない。
﹁ふふ、そうね。この目で質と脅威の度合いを計らせてもらったけ
2389
ど、この子はまだまだ﹃弱い﹄。︱︱けど白銀の聖騎士を名乗る以
上、早い内に摘んだ方が後の為にもなる⋮⋮そうよね?﹂
ジスカはゼノスに言い聞かせるように、嫌らしい微笑みと共にそ
う告げてくる。
︱︱弱い、か。
奴にとって、今代の聖騎士は弱小に位置すると決め付けた。全て
の極意を習得し、聖騎士としての心得を弁えたゼノスに対して。
けど彼女はそれを踏まえた上で、尚も今の聖騎士は弱いと言い切
る。
もっと根底の⋮⋮騎士としてでなく、一介の戦士として足りない
ものを、まるで言い当てているかの如く。
図星を突かれたようで、あまりいい気持ちがしない。
自然と身体は硬直し、冷や汗が滝のように噴出してくる。視界が
一瞬ブレるが、頭を振ることで何とか誤魔化す。
2390
︱︱惑わされるな。今は戦うことだけを考えろ。
ゼノスは自分を励まし、狙いをジスカから暗黒騎士に切り替える。
ジスカはあくまで傍観を決め込むらしく、一方の暗黒騎士からは
凄まじい程の殺気を感じる。この周囲を圧倒させ、人間の領域にい
る者を卒倒させる覇気から察するに⋮⋮現六大将軍に匹敵する力を
有しているかもしれない。
暗黒騎士は背に担いでいる大剣を抜き、その肩に刃を乗せる。
﹃てことは、この場で殺せって意味だな﹄
﹁そういうこと。言いたい事はもう言えたし、興味は既に失せたわ。
︱︱あの人以外の聖騎士なんて、目障りなだけよ﹂
最後の言葉は酷く冷淡で、ゼノスを見下す発言だ。
2391
それを皮切りに︱︱暗黒騎士の姿が霧のように消散する。
刹那の消失。
そして⋮⋮気付けば奴の刃は、ゼノスの首を狩る寸前である。
咄嗟の判断で上半身を大きく反らす。海老反りのような姿勢で大
剣の一振りを見事かわしてみせる。
大剣は大きく振るえば、それだけ次の斬撃へ移行する時間も掛か
る。
ゼノスはそう思い、すぐさま大剣の腹を蹴り上げようとする。︱
︱だがッ!
暗黒騎士はくぐもった笑い声を漏らす。
﹃どうせ隙ありとでも思ってんだろ?⋮⋮悪いが甘えよッ!﹄
漆黒の籠手から歪な音を出すと同時、手元でぐらついていた大剣
2392
の揺れがぴたりと止まる。
何と、暗黒騎士は一秒経過した辺りで体勢を持ち直した。
通常の両手振りでも、大剣を振った後は五秒ぐらいの隙が出来る。
あのゲルマニアでさえ一撃後の立ち直りは早くないし、人間の領域
を超えた者でもそれなりの時間を費やす。
この騎士は大剣の欠点を、いとも容易く克服しているのだ。
﹁う⋮⋮嘘だろ!﹂
彼の大剣は即座にゼノスへと襲い掛かる。
振り下ろしからの振り上げ、後ろに後退したゼノスを追うように
追随する俊敏な突き刺し。横にそれたタイミングを瞬時に見捉え繰
り出される激しい回転斬り。
豪胆な連撃が降り注いでくる。
﹃小回りの利いた大剣捌きは、最近になってようやく思い出してき
た。俺はこの技で⋮⋮俺は恩師にも認められる騎士になれた﹄
2393
﹁なんの⋮ことだ!﹂
ゼノスは段々とこなれた様子で避けながら言う。
無心に振り回すだけでは無駄だと悟り、暗黒騎士は凄まじい猛攻
を一旦打ち切る。その際にゼノスの腹を蹴り、自分と距離を離した。
﹁ぐっ、う﹂
﹃⋮⋮さあ、俺にもよく分からねえ。お前と会ってから妙に胸騒ぎ
がしちまってな。もしかしたらそのせいかもしれねえ﹄
﹁胸騒ぎ⋮⋮﹂
不思議な事に、ゼノスも同じ気分だった。
こうなるのは大抵、自分が絶対絶命の危機に陥るか、そうでなく
ても何かしらの嫌な目に遭いそうな時に表れてくる。
しかし、この気持ちは嫌ではなかった。
2394
見分けの付かない複雑な気分であって、当の本人であるゼノスも
分からず、とても気持ち悪いとしか言いようがない。
﹃まあ今はどうでもいい。お前を殺さなきゃいけねえし⋮⋮な!﹄
威勢の良い声と共に、大剣を正面に突き出す。
鍔と隣接する刃からドス黒い瘴気が込みあがり、吹きすさぶ豪風
のような音色を伴う。やがて瘴気の風は刃全体を漆黒に染め上げて
いく。
禍々しいオーラは部屋全体を震動させ、幾千もの苦難を乗り越え
たゼノスをも当惑させる。
触れるだけで全身を消滅させるだろう力が、今あの大剣に集中して
いるのだ。もしそんな力を秘めた大剣を振り下ろせば︱︱一体、何
千もの大群を撃破できるだろうか。
⋮⋮駄目だ。
2395
まるで打つ手がない。
﹁暗黒騎士⋮⋮ッ!まさかここまでの力があるとはな!﹂
﹃褒め言葉として受け取ってやるよ。そういうお前こそ、よく俺の
斬撃をかわせたじゃねえか﹄
﹁⋮⋮﹂
別に今の会話におかしい所はない。
戦闘中なのにという疑問も出るが、問題はそこじゃない。
︱︱何故か、ゼノスは褒められて嬉しくなってしまったのだ。
敵であるにも関わらず、凄まじい殺気を向けられているにも関わ
らず、ゼノスは今の一言が嬉しくて仕方なかった。
奴とは一度も会っていない⋮⋮はずなのだが。
2396
﹃へっ、死ぬ前の人間に聞くのも失礼だが、一応名前だけでも聞い
ておこうじゃねえか﹄
﹁⋮⋮ジスカから聞いていないのか?﹂
﹃ああ、なるべく殺す人間の名前は聞かないようにしてる。じゃな
きゃやってられねえし⋮⋮な﹄
ほんの瞬間、彼は悲愴に満ちた声を零す。
兜から発せられる故、そこから感情というものを知ることは出来
ない。しかしゼノスは、何となくそう感じたのだ。
死ぬつもりはないが、名前を聞かれたら素直に答えるのが礼儀。
例え相手が憎かろうが、騎士道精神に反する真似だけはしたくない。
ゼノスは一区間置き、はっきりとした言葉で伝える。
﹁︱︱白銀の聖騎士、ゼノス・ディルガーナ。ランドリオ帝国の六
大将軍を務める者だ﹂
2397
﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮は?﹄
明らかな動揺を見せる暗黒騎士。
意気揚々としていた大剣の動きは止まり、刃の部分だけが地面へ
と垂れていく。その衝撃で瘴気も消え去っていく。
足元はぐらつき、どうにか踏み止まることで倒れるのを防いでい
る。しかし一歩間違えれば、そのまま地面へと倒れ込んでいただろ
う。
自分の名前に反応するということは、ゼノスも知る人物なのだろ
うか。
﹃⋮⋮マジ、かよ。聞いてねえぞ⋮⋮ジスカッ!﹄
暗黒騎士は突如、その大きな籠手でジスカの胸倉をつかむ。
一方の彼女は一様に笑みを深めていた。
2398
﹃確かにてめえの命令に従うとは言ったけど、ゼノスとだけは戦わ
ねえって約束したはずだ!﹄
﹁ええ約束したわね。けど残念ながら、白銀の聖騎士に関しては約
束外なのよねえ。ふ、ふふ﹂
﹃くっ!てめえ、それを知っていたら俺は﹄
﹁知っていたら⋮⋮何?今更ごねていても遅いわね。私の気が変わ
らないうちに、早くケリを付けた方がいいわよ?﹂
押し問答はジスカの方に軍配が上がり、暗黒騎士は悔しそうに呻
く。
どうやら主従関係とまではいかないようだが、暗黒騎士との間で
何らかの約束が結ばれているようだ。細かな内容は分からないが、
あまり良いものでないらしい。
そして驚くことに、ゼノスを知る人物でもあるらしい。
では一体誰だ?
2399
過去の記憶を探っても、それらしい人物は見つからない。
ならただの一方的な逆恨み?いや、それだったらもっと黒みを帯
びた妬みや怨念を押し出すはず。彼から発せられるのは、それらと
は真逆の感情である。
暗黒騎士は観念したようにジスカへと頭を垂れ、もう一度ゼノス
に剣先を向けてくる。
迷いの生じた意思のまま︱︱。
﹁話は済んだか?俺を倒すなら早めにした方がいい。少しずつでは
あるが、元の力を戻しつつあるからな﹂
飛躍的とまではいかないが、ゼノスの力は既にリベルタスを呼べ
る段階にまで戻っている。これもユスティアラのおかげ⋮⋮なのだ
ろうか?
ゼノスは軽く﹁よし﹂とだけ呟き、さっそくリベルタスを呼ぶ。
煌めく刃を構え、改めてゼノスも騎士として対峙する。
2400
﹃⋮⋮はは﹄
一方の暗黒騎士は、何故か嬉しそうに笑う。
見た目とは正反対の、慈愛に満ちたものだった。
﹃全く⋮⋮立派になりやがって。今の俺じゃ何も見えないけど、逞
しく成長したという事実だけは分かる﹄
﹁⋮⋮﹂
ゼノスは何も答えない。
いや、あまりにも唐突すぎて答えることが出来ない。
暗黒騎士は尚も続ける。
﹃でも良かった。師匠は⋮⋮ガイアはお前を選んだんだな。他の奴
2401
だったら嫌だなとは思っていたが⋮⋮⋮⋮ゼノスなら悪くない﹄
﹁⋮⋮⋮⋮まさか﹂
嘘だ。
そんな馬鹿な。嘘に決まっている。
何で︱︱どうしてッ!?
ゼノスはある確信に至り、困惑を隠せないでいた。
どうしてお前がガイアを知っている。
何故ガイアを師匠と呼んでいる。
︱︱何故お前は、優しい声音でゼノスと呼ぶ。
﹁ッ。そうだ、これは嘘に違いない!だって彼は、あの二人は十年
以上前に死んだんだ!いるはずがないッ!﹂
2402
﹃俺もそう思いてえが、そうはいかないらしい。よりにもよって、
あの小さかったゼノスの敵になるとはな﹄
﹁⋮⋮﹂
嗚呼、間違いない。
信じたくないが、これは現実だ。
幼い頃、ゼノスに多くの事を教えてくれ、沢山遊んでくれた兄の
ような存在。
覚えている︱︱いや忘れるわけがない。
ゼノスは震える声で、幼き日に呼び続けた名を口にした。
﹁⋮⋮ドルガ、兄ちゃん﹂
2403
﹃その呼ばれ方も懐かしいぜ。︱︱立派な騎士になってくれたよう
で、何よりだ﹄
暗黒騎士︱︱ドルガは大剣を床に突き刺し、漆黒の兜に手を当て
る。
兜を自らの手で剥ぎ取り、当時とあまり変わらない容姿を曝け出
す。無造作に切られた短い金髪、武骨な男に見合う骨格。以前と違
う所と言えば、整えられていない無精ひげが生えたぐらいだろう。
それ以外は何も変わっていない。
故に、ゼノスは驚くしかなかった。
﹃⋮⋮なあゼノス。実は俺だけじゃなくて、ガイアとコレットも一
緒にいるんだ﹄
﹁えっ!?﹂
2404
﹃だが今は完全じゃない。ガイアはほとんどベッドで寝たきりだし、
コレットも歩くだけでやっとの状態だ﹄
ドルガはあえて居る場所を伝えず、二人の状況だけ言う。
ゼノスもそれに関しては追及しない。どんな事情があるかは分か
らないが、ジスカの前では下手なことは言えないだろう。
﹃かく言う俺も、この不思議な鎧があるとはいえ盲目の身だ。だか
らゼノス⋮⋮お前に﹄
﹁︱︱兄さん、それ以上は言わないでくれ。あんたの言いたい事は
分かるから﹂
﹃⋮⋮ゼノス﹄
ようやく、ゼノスにまともな思考が戻って来た。
彼はドルガの言葉を遮り、鋭い瞳をジスカにぶつける。
2405
﹁ジスカ、これもシールカードの力か?今更その力にどうこう言う
つもりはないが⋮⋮死者を蘇らせるとはどういう了見だ﹂
無論、ドルガ達は十年以上前に死んだはずだ。
どこかで生き延び、たまたま偶然ジスカと巡り合い、そして意気
投合して仲間になった⋮⋮などというシチュエーションは有り得な
い。となると、ジスカが死者を復活させたとしか考えられない。
古来から蘇生術の実現は試みられたが、大概は人外の化け物にな
るか、知能を持たないグールになるかのどちらかだった。
それを見事可能にした力は恐るべきものだが、ゼノスは科学的見
地からその理論を詳しく説明するよう要求する気はない。
︱︱彼等を蘇らせた理由は何か。
ゼノスはそれだけ知りたかった。
ジスカは顎に指を当て、う∼んと唸りながら答える。
﹁私に言われても困るわね。実際に復活させたのはエリーザだし、
2406
私も押し付けられて困ったものよ。⋮⋮でもまあ、結果的には貴方
を苦しめる種にはなったようだけどね﹂
﹁エリーザ⋮⋮あの亡霊を操っていたギャンブラーか﹂
そこでふと、ゼノスは奴との最後の会話を思い出す。
死ぬ寸前、確か彼女はこう宣告してきた。
﹃ふふ、うふふ⋮⋮⋮⋮。嗚呼、楽しみですわ⋮⋮。今この時から、
貴方達の運命が私の手によって狂ったかと思うと⋮⋮⋮⋮胸が高鳴
る気分﹄
と、自らのカードを掲げながら。
その時は何をしでかしたのか分からなかったが、今のジスカの一
言でようやく繋がった。
﹁なるほどな。次の悪夢というのはつまり、俺の大事な人達を蘇ら
2407
せ、敵側につかせることか﹂
そうする事でゼノスの動揺を生み、その隙をついて命を狩る。
死ぬ寸前に恐ろしい計画を企てたものだ。
﹁そうなるでしょうね。︱︱さあ暗黒騎士、話はもういいでしょう
?さっさと彼と戦いなさいな﹂
﹃ちっ⋮⋮!﹄
ドルガは舌打ちをしつつ、大剣を再度構え直す。
﹃ゼノス!俺の意思を察してるなら、この俺を殺せ!暗黒騎士とし
て戦場に出る前に⋮⋮ッ!﹄
﹁︱︱ッ﹂
ゼノスはそう言われ、剣を両手で掴もうとする。
しかし手が震え、思うように構えることが出来ない。
2408
気付けば全身が小刻みに震え始め、噛み締めていた唇から血が滴
り落ちる。
⋮⋮出来ない。
ドルガを殺せだと?何故自分が?
兄の様な存在を、この手でなんて⋮⋮ッ。
﹃ゼノスッ!今はランドリオ帝国の騎士だろ!何の為に騎士やって
んだ!﹄
﹁⋮⋮分かってる!でも⋮⋮ッ﹂
頭では分かっていても、いざ行動に起こす事が出来ない。口から
滴る血を服の袖で拭いつつ、とても愚かな葛藤が脳内を渦巻く。
どうする。
どうすればいい。
2409
どうやってこの震えを解消し、斬り込めばいい。
今までに感じた事のない、敵に同情する気持ち。
騎士の癖に、勇敢にも立ち向かえない。
遂にドルガは苦しそうな表情で﹁くそっ!馬鹿野郎が!﹂とだけ
吐き捨て、まるで自らの意思と反するかのように猛突してくる。
︱︱が、その接近は失敗に終わった。
ふいに天井から旅装束姿の女性が降り立ち、持っている刀で軽々
と大剣を抑え、ついでにドルガをも封じ込めた。
﹁珍しいな聖騎士。お前が敵を前に躊躇するとは﹂
﹁︱︱ッ!ユスティアラか!﹂
2410
突然の参戦に、ゼノスは少なからず救われた気分だ。
彼女は天千羅刀術を発動しようとするが、畏怖を感じたドルガは
真っ先に離脱。大きく後退してジスカの隣にまで退避する。
ユスティアラは刃を立てて左足を前に出し、八相の構えをとる。
﹁ふむ。如何に本来の力があったとしても、この状況では中々きつ
いか﹂
漆黒の双眸は暗黒騎士を、その次にはジスカを射捉える。
彼女もまたジスカの異様な気配に気づき、白く艶めかしい首筋に
冷や汗を流す。その反応は当然であり、むしろ呼吸が乱れないだけ
素晴らしいものだ。
ゼノスとユスティアラは慎重に慎重を重ね、相手の出方を見計ら
う。
⋮⋮が、予想外の言葉が放たれる。
2411
﹁︱︱潮時ね﹂
ジスカはつまらなそうに溜息をはき、スッと玉座から立ち上がる。
﹃どうした。ジスカからすれば、まだやるべき事を果たしてねえと
思うが﹄
﹁その通り、けど事情が変わったわ。︱︱もうそろそろ向こうのカ
タが付く。流石に六大将軍三人を相手にはしたくないからね﹂
﹃⋮⋮なるほど﹄
ドルガは何となくホッと安心した表情で頷き、大剣を肩に担ぐ。
ジスカはその手を空に触れることで、何もない場所に漆黒の渦を
出現させる。
まずはドルガが渦へと足を踏み入れ、一度ゼノスを見つめた後、
その身体ごと渦の中に飲み込まれていく。
2412
次にジスカが片手を入れるが、ふいにぴたりと止まる。
﹁ああそうそう。別に忠告するわけではないけれど、それは由緒あ
る白銀の聖騎士様に言ってあげたいことがあるわ﹂
﹁⋮⋮何だ﹂
彼女は不気味に微笑み、見下した様子で答える。
﹁︱︱聖騎士ゼノス、貴方はあまりにも歴代に頼りすぎている。だ
からこそ弱い。聖騎士流剣術は万能じゃない事を、よく知っておく
ことね﹂
﹁ッ!!﹂
言いたいことだけ告げ、ジスカもまた渦へと消えていく。
勿論、追う気はない。そのまま渦が消えるまで見つめ、完全に消
失した所で、両者はようやく警戒心を解く。
2413
﹁⋮⋮面妖な。もしやあれが、シールカードを束ねる長か?﹂
﹁ああ⋮⋮。油断は禁物だろう﹂
ゼノスが力なく返答する。
するとユスティアラは、まじまじとこちらを見つめてくる。
﹁何だよ?﹂
﹁いや、特に用はない。だが先程の言葉にやられたのかと心配して
いる﹂
﹁⋮⋮﹂
先程の言葉とは、ジスカが最後に言い放ったものだろう。
︱︱ゼノスは歴代聖騎士の編み出した剣術に頼りすぎている。
それは奴の出任せでなく、紛れもない事実。
2414
他の誰よりも、ゼノス自身が痛感している。
﹁まあいい。確か奴は向こうのカタが付くと言っていたな?恐らく
それはアルバートとロダンの決着だ﹂
﹁のようだな。そこのバルコニーから様子を見てみるぞ﹂
ゼノス達は玉座の後ろにあるバルコニーから外に出て、遥か先の
雪原へと目を見張る。
案の定そこにはアルバートとロダン、セラハの三人が佇んでおり、
二人は超人的な視力を用いて状況を判断する。
︱︱どうやら、勝負はあったようだ。
2415
2416
ep23 アルバートの我儘な願い
﹁ハア⋮ハア⋮⋮ぐッ!﹂
白く染められた雪原の大地に、赤い鮮血がほとぼしる。
自らの血を撒き散らした張本人︱︱ロダンは荒々しい息を吐きな
がら地面に膝をつく。銀装飾の剣は折られ、彼は憎々しげに見上げ
る。
目線の先には、悠然と佇むアルバートがいた。
彼は自慢の戦斧を肩に置き、哀れみを込めてロダンを見返す。
﹁かはっ⋮⋮畜生。最初は鈍い動きだったのに⋮⋮﹂
2417
﹁恐らく、儂の仲間が何とかしてくれたんじゃろう。シールカード
の制約も、案外脆いものじゃな﹂
﹁くそ!ジスカの野郎。やっぱり少しでも信用した俺が馬鹿だった
かッ!﹂
ロダンは盛大に血を吐き、今はいない女性に怨嗟の念を送る。
﹁何にせよ抜かったな。︱︱儂とお前とじゃ、潜り抜けた修羅場の
数が違う﹂
﹁⋮⋮ッ﹂
確かにロダンは、この国の王を務めている。
しかしそれだけだ。
王になったからと言って、自分の力に慢心してはいけない。幾多
もの王は権力を手にすることで、あたかも絶対的強さと発言権を有
したという錯覚に陥ってしまう。
ロダンもその一人だ。
2418
別段多くの戦場を経験していないにも関わらず、アルバートより
実力が上であると過信している。
﹁それに、力は支配や権力で身に付くものではない。正常なる信念
と強き友との競いがあってこそ、強さとは研鑽されるもの。︱︱ロ
ダン、お前にはそれがあったかの?﹂
﹁ッ!黙れ黙れ!強さは人を殺すことで身に付く!権力によって手
に入る!そのことを一番に示してくれたのは、どこの誰でもない親
父本人じゃねえか!﹂
﹁儂がいつ、どこでそんなことを言ったッ!﹂
アルバートの迫力ある喝に、思わずロダンは委縮する。
自分の力を殺戮だけに用いれば、いつか必ずその力に溺れる時が
来るだろう。力に操られ、歯止めが効かず、自分が何の為に戦って
いるのか分からないまま⋮⋮そういう連中は自我が崩壊する。
文字通り、狂人となるしかない。
2419
まだ至ってはいないが、今のセラハはあと少しで狂人になったい
た所だ。
アルバートは苦言を止めず、おどおどとした調子で立つセラハへ
と目を向ける。
﹁⋮⋮実娘にまで歪んだ思想を入れおって。純粋無垢だったこの子
に、お前はとんでもない罪を着せおった!この罪は重いぞ!﹂
﹁親父殿がそれを言うか?⋮⋮知ってるぞ。十年以上前、実の孫娘
をその手で殺めたのをなあ!﹂
﹁ああそうとも。儂もまた同罪じゃ。︱︱けど息子を断罪し、孫娘
を救う権利はある!﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はっ。それで俺を殺すってのか?﹂
﹁⋮⋮やむを得ない場合は、そうする﹂
ロダンはアルバートの真意を伺うが、どうやら本気のようだ。
老獪と化した父親にもっと悪態をついてやりたかったが、これ以
2420
上は無意味であろう。
形勢は確実にアルバートの方が優勢であり、今のロダンでは刃向
い殺す術が存在しない。自らの落ち度に後悔を抱きつつも、そこで
彼は思いもよらない考えに辿り着く。
両口端に一筋の皺を作り、ロダンはセラハへと振り向く。
彼女はビクッと体を震わせる。
﹁なあセラハ。お前、前々から俺に認めて貰いたいって言ってたな
?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁どうした?︱︱せっかくそのチャンスをやろうってんだ、少しは
嬉しそうにしてもらいたいなあ﹂
ロダンはセラハを指差し、最も言ってはいけない言葉を放つ。
2421
﹁︱︱命令だ。お前の手で親父殿を殺せ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁聞こえなかったか?お前自身で親父殿を殺すんだよ。お前がやれ
ば、親父殿も手が出ないまま死ぬだろうしなあ﹂
下卑た笑みを浮かべ、ロダンは嬉しそうに言う。
今のアルバートは、躊躇なくセラハを殺す事が出来ない。そう分
かった上で言い放った言葉なのだろう。⋮⋮実際、狂気に憑りつか
れていない孫娘を殺す事は出来ないし、したくもない。
セラハはそれでも理解が追い付かず、困惑を露わにする。
まずい。
この男は父親という立場を利用し、娘であるセラハを思いのまま
に操ろうとしている。
2422
﹁⋮⋮セラハ、止めるんじゃ。そんな事をして何に﹂
﹁うるせえ!おいセラハ、まさかここで断るってのはねえよな?俺
に認められてえんだろ?もう大嫌いな殺しを平然とやりたくねえだ
ろ?⋮⋮黙って従えば、俺はお前を娘として認めてもいいんだぞ?﹂
﹁⋮⋮娘、として?﹂
刹那、複雑な思いが彼女を悩ませる。
︱︱もう殺さなくてもいい。
その言葉が、セラハを大きく揺るがした。今まで幾千人もの人間
を、まるで悪鬼に憑りつかれたかの如く惨殺してきた。
しかし、それは本意ではない。
全ては父親に認めて貰う為にやったこと。侵略を好む父の為に働
けば、いつかきっと娘として扱ってくれるかもしれない。
祖父がいなくなってから、セラハはずっと父を求めてきた。
2423
その褒美に歓喜するセラハだが、素直に喜べないというのが事実
だ。
⋮⋮アルバートを殺すという事は、同時に大好きなアルバートと
会えなくなる結果に繋がる。
父がくれなかった愛情を注いでくれた祖父。
過去の記憶に潜むアルバートは、セラハにとって親も同然だった。
﹁⋮⋮⋮⋮でも﹂
そんな全てを尽くしてくれた祖父も、あの日を境に裏切った。
今から十年以上前︱︱祖父は自分を殺した。
勿論、祖父は自分の狂気に満ちた虐殺劇を止めようと殺したのだ
ろう。その程度のことはセラハでも理解しているし、否定する気も
ない。
2424
⋮⋮ただわかって欲しかった。
自分は好き好んで殺してはいないと。
そして願わくば、もう一度自分を孫として扱ってほしいと。
死の直前まで、セラハは何度も、何度も何度も目で訴えかけた。
なのにアルバートは︱︱セラハを呆気なく殺した。
それはつまり、自分はアルバートに捨てられたというわけだ。
そうに違いない。
次第にセラハの中に憎しみが生まれ、目の前に立つアルバートを
睥睨する。
﹁⋮⋮おじいちゃんが悪いんだ。私のことを分かってくれないから、
これは当然の報いなんだ。だから⋮⋮ここで!﹂
2425
ナタを振りかぶり、そのままの態勢で彼女は突撃する。
目標は当然、アルバートだ。
﹁うわああああああああああ!﹂
絶叫にも似た声を張り上げ、その目尻に涙をためるセラハ。
死が迫っているにも関わらず、案の定アルバートは動じていない。
それどころか戦斧を地面に捨て、両手を大きく広げ始めた。
﹁ぁ⋮⋮﹂
驚き戸惑うセラハ。だが勢いは止まらず、そのまま︱︱
彼は左肩から右腰にかけて、ナタの斬撃を食らった。
﹁⋮⋮ッ!﹂
生暖かい血液が宙を舞い、セラハの全身に付着する。
2426
幸い、アルバートは真っ二つになることはなかった。
血は噴出しているが、命に別状はないだろう。鍛え抜かれた肉の
鎧を完全に切り裂くには、それ相応の業物でないと不可能である。
だが痛いものは痛い。
アルバートは苦痛に顔を歪め、額には脂汗が浮かんでいる。
一方の彼女は呆気にとられていたが、やがて耳をつんざくような
怒声を上げる。
﹁何で⋮⋮どうして避けなかった!前みたいにあたしを殺せばいい
のに!何で今回は逃げずに受け止めたの!?﹂
セラハは発狂する。
自分を殺したかと思えば、今度は自分から殺されようとしている。
矛盾に矛盾を重ねた行為。何か意図があるのかと邪推するが、アル
バートがそんな緻密な計算をする事は有り得ない。
2427
なら何故?
セラハの困惑は更に増していく。
﹁⋮⋮罪滅ぼし、とはまた違うかの。これはそんな大層なものでは
ない﹂
﹁なら何なの!?﹂
﹁︱︱儂の、単なる我儘じゃ﹂
アルバートはそう言って、淡々と胸の内に秘めた思いを言い連ね
る。
愛する孫娘を、この手で救いたいという我儘。
十年前の自分は、もうあの頃の孫はいないと思っていた。だから
容赦なく殺し、あくまで人々の平和を重視した。
しかし今のセラハは、幼い頃の純朴な心を醸し出している。
2428
︱︱今なら、セラハは真っ当な道を進んでくれるかもしれない。
そう考えたアルバートは、もう二度とセラハを殺さないと決めた。
そして願わくば、常人としての人生を歩んで欲しい。
都合の良い我儘を根拠づけるべく、セラハの斬撃を受け止めたの
だ。
殺す気はないと。むしろセラハを正しい道に導きたいと。
﹁残念じゃがロダン、この子が正常なる道に進むまで、儂は死ぬ気
などないぞ。ことごとく予想が外れたな﹂
﹁⋮⋮くそが﹂
ロダンは最後の希望も潰え、がくっと項垂れる。
﹁おじいちゃん⋮⋮そんなの勝手すぎるよ!今更真っ当な道を行こ
うなんて⋮⋮虫が良すぎる!あたしは何千人⋮いやもっと殺してる
んだよ!?普通の人生に戻って、一体どうしろっていうんだ!﹂
2429
﹁探せば幾らでもあるわい。︱︱もし見つからなかったとしても、
儂も協力して探してやる﹂
﹁ハッ⋮⋮有り得ないね。戦いでしか生きられない人が、本気でそ
んな事を言ってるのかい。どうせ昔みたいに、私達を置いて︱︱﹂
と、その時だった。
最後まで言葉を言わさず、アルバートはセラハを抱き寄せる。
セラハは突然の出来事に目を白黒させる。
﹁︱︱儂は本気じゃ。六大将軍もやめるし、相棒であるこの戦斧も
処分する。お前の気の済むまで、ずっと傍にいてやるわい﹂
アルバートは厳めしい表情を綻ばせ、優しさに包まれた微笑みを
浮かべる。
2430
戦場の鬼でもなく、六大将軍でもない。
ただどこにでもいる、孫を愛する祖父の一面を見せる。
﹁そうじゃ、事が済んだらこの国のどこかに家を建てよう。セラハ
は年頃の娘じゃからな⋮⋮町や村に近い所にしようかの。あ、じゃ
が川に近い場所がいいのう。新鮮な魚介料理を食わせてやりたいし
な﹂
﹁⋮⋮﹂
彼はどこまでも慈愛に満ちた様子で、将来に思いを馳せる。
﹁セラハが学校に行っとる間は何をしていようか⋮⋮。ジジイらし
く家で読書もいいが、肩が凝るのは嫌じゃし⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
セラハは唇をきゅっと噛み締める。
肩を震わせ、顔を地面へと俯かせる。
2431
﹁何で、何で今更⋮⋮﹂
いつの間にか、セラハの涙は止まらなかった。
子供の様に泣きじゃくり、アルバートの腰に手を回す。大好きな
祖父の温もりを感じながら、ただひたすらに泣いていた。
アルバートも無理に引き剥がそうとはしない。
彼もまた瞳を潤ませ、皺のある頬に涙が流れ落ちる。
ロダンも戦意を失い、セラハもこれ以上の戦いは望んでいない。
結果的に全員が死なずに済み、一段落ついたと誰もが思っていた。
︱︱しかし。
セラハのポーチから放たれた光に、三人が気付き始めた。
﹁な、なんだよこれ⋮⋮﹂
2432
﹁︱︱もしや﹂
アルバートはセラハのポーチを剥ぎ取り、近くの地面へと投げつ
ける。
すると光は更に増大し、天高くへと打ち放たれる。その衝撃で辺
り一面の雪は飛び散り、大気が鳴動する。
大体の予想は出ているが、それでもセラハに尋ねてみた。
﹁セラハ、あのポーチに入っていたのは?﹂
﹁シ、シールカードだよ。⋮⋮でも、あんなに光ったのは見た事も
ない﹂
彼女はジスカに言われるまま、あのシールカードを持たされた。
使い勝手も分からないまま、ただこれがどんな力を有するかを知
らされたまま、ジスカはこのシールカードを持て余していた。
2433
それが今になって⋮⋮。
﹁むう、嫌な予感がするわい﹂
怖気立つこの感覚。
アルバートは遥か地平線上へと目を移し、ロダン戦以上に険しい
表情を作っていた。
2434
どこかも分からない虚空の世界。
ジスカはそこで、何もない方向に向かって歩み続けていた。
一歩進むごとに地面に波紋が生まれるが、それ以外の特徴は何も
ない。視覚や聴覚も役に立たず、常人ならば発狂しかねない空間だ。
彼女はその異様な世界を闊歩しているが、ある時を境にふと立ち
止まる。
にべもなく、彼女は独り呟く。
﹁⋮⋮やっぱり、あの子は不適合者だったようね。強い力を秘めて
いるが故に、普通の人間では扱いきれないか﹂
思えば、ジスカはシールカードを完璧に扱える人間を、ここ最近
では全く見た事がない。
マルス、魔王ルードアリア。エリーザは多少扱えていたようだが、
ジスカからすればまだまだ序の口である。彼等はカードの能力を極
2435
限にまで発揮することが出来ないまま死んだ。
︱︱セラハもその一人。
むしろ彼女はシールカード自体に否定され、主であるという資格
すら奪われた。主を失った上に、シールカードに封印された者達は
今現在、現実世界に顕現している。暴走する可能性は極端に高いが
⋮⋮まあどちらでも良いだろう。
ジスカは溜息をつき、また歩を進める。
﹁︱︱急いで、完璧にシールカードを扱える者を探さないとね﹂
こうして、彼女は闇と共に消失した。
2436
2437
ep23 アルバートの我儘な願い︵後書き︶
※次話投稿は明後日かと思います!
2438
ep24 和解と異変
ロダンとの勝負に決着がつき、ひとまずアルバートはゼノス達と
合流することにした。
ゼノス、ユスティアラ、そしてゲルマニア一行が雪原へと辿り着
くと、そこには膝をつくロダン。アルバートのマントを掴みながら
所在なく佇むセラハがいた。⋮⋮ゼノスは彼女を見た瞬間、堪えよ
うのない殺意を覚えるが、今は一生懸命抑える事にした。
最初に口火を切ったのはアルバートであった。
﹁小僧、お前も無事のようじゃな﹂
﹁ああ何とか。⋮⋮そっちこそ、何らかの形で終わらせたようだな﹂
﹁そうじゃな⋮⋮﹂
2439
ゼノスの底知れない威圧感に、さしものアルバートも曖昧な返事
をするしかなかった。
その異様な様子に皆が気付き始める。
﹁⋮⋮ゼノス?何かあったの?﹂
ロザリーがおそるおそると尋ねる。
ゼノスはハッとし、意識をセラハからロザリー達の方へと移す。
﹁⋮⋮まあ、この女には色々と恨みがあるもんでな﹂
恨み。
まさかゼノスの口からそんな発言が出るとは思わず、アルバート
とゲルマニア以外の人間が目を見開く。アルバートは同情の瞳を向
け、ゲルマニアは心配そうに見守る。
そうか、一部の人間以外は知らなかったのか。
2440
ゼノスがまだ幼かった頃、この女はゼノスの大切な人々を殺した。
その現場には居合わせなかったが、アルバートからその事実を聞か
されて以来⋮⋮ゼノスはセラハを憎しみの対象として見ていた。
だがその事実と同時、セラハはアルバートの手によって殺したと
も伝えられた。だから死んだ人間に対して憎悪を煮やすのは止そう。
そう思いながら今まで過ごしてきたが。
生き返ったと知った以上、取るべき行動は一つ。
リベルタスを出現させ、剣先をセラハへと向ける。
﹁⋮⋮何をする気じゃ﹂
﹁さあな、それはアルバートの言葉次第で決める。あんたがどう言
い訳するかによって⋮⋮な﹂
途端、ゼノスは抑えていた殺気を爆発させる。
周囲の雪が吹き飛び、彼の周囲に佇む者達は軽い眩暈を覚える。
ロダンに至っては小さな悲鳴を上げ、足を震わせながら怯えている。
2441
﹁⋮⋮ゼノス﹂
ふと、ゲルマニアが小さく呟く。
彼女は出来るならば、ゼノスの行動をすぐにでも止めたいと思っ
ていた。しかし今の関係では、それすらもままならない。言い出す
勇気が見つからず、その思いを持て余していた。
ゼノスはそんな儚い気持ちにも気付かないまま、更に続ける。
﹁答えろアルバート。事と次第によっては⋮⋮そいつを斬り捨てる﹂
怨嗟の念が宿った、苦痛の声音。
余計な一言は彼の感情を逆なでにし、容赦なく殺しにかかるだろ
う。ここで真摯な態度を貫かなければ、最悪ゼノス対アルバートと
いう結果に陥ってしまう。
︱︱勿論、アルバートは正直に答えるつもりだ。
言うなれば、彼の人生を狂わせたのはこの自分︱︱アルバート・
ヴィッテルシュタインだ。自分がセラハの傍にいれば、彼女が狂う
2442
ことはなかった。息子であるロダンの横暴も食い止めることが出来
た。
全ての根源は、セラハが年端もいかない頃。
王国の統治に嫌気が差し、まるで逃げるようにランドリオ帝国六
大将軍になったことが最大の原因だ。
全てはそう、自分の責任である。
﹁おじいちゃん⋮⋮﹂
﹁お前は気にしなくていい。後の事はおじいちゃんに任せなさい﹂
アルバートはそう言ってセラハを引き離し、おもむろにゼノスに
対して土下座をしてきた。
冷たい地面に頭を擦りつける様を見て、ゼノスは絶句した。
2443
﹁︱︱セラハを許せとは言わん。じゃがセラハをこういう風に仕立
て上げたのは、紛れもない儂自身じゃ。この子は根っからの悪党じ
ゃない⋮⋮儂が傍にいてやれば、この子は生きたまま罪を償うこと
が出来る﹂
﹁⋮⋮だから見逃せと?﹂
﹁そうじゃ。確かに殺そうと思えば簡単に殺せる。けどお前の兄姉
弟子を殺した懺悔をすることは︱︱未来永劫、出来なくなる。それ
ではお前の心が晴れることはないじゃろ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁頼む。勝手な要望なのは分かっておるが︱︱それでもッ!﹂
しわがれた声をより一層強く放つ。
罪を償うチャンスをくれと、アルバートは初めて乞い願った。
確かに勝手な願いだ。
2444
勝手すぎて、ゼノスは呆れ果てるしかない。
﹁そうか﹂
満足のいく返答ではないが、これ以上不毛な会話をするつもりも
ない。
だから斬り捨てる︱︱こともしない。
ゼノスにとっては殺したいほど憎い存在だが、殺したからといっ
て自分の気分が晴れるわけでもない。⋮⋮それに復讐目的で殺す行
為は、ガイア達も喜んでくれないだろう。
彼は自らの放った殺気を抑え、おもむろにセラハへと近付く。こ
こで彼女にもその覚悟があるかを問い正そうとしたが、その必要は
なさそうだ。
目を見れば分かる。
狂人の瞳とは違う、固い意思のこもった瞳だ。
2445
意思とは言うまでもない。今まで犯してきた罪を洗うべく、その
生涯を使うという意思である。
﹁⋮⋮私は﹂
セラハが何かを言い出そうとするが、ゼノスは手でそれを制す。
﹁言葉は不要だし、大体言いたい事も分かる。︱︱謝る代わりに、
今後の行動でその反省を示せ﹂
﹁⋮⋮ふ、そう言われちゃ⋮⋮⋮⋮返す言葉もないね﹂
薄く微笑み、ゼノスの言う通り、口を閉ざす事にした。
﹁さて、これで大方の問題は済んだようだが﹂
済んだとは断言せず、ゼノスだけでなくその場にいた人間が地平
線上へと厳しい視線を送る。
︱︱何かが来る。
2446
多勢で押し寄せ、その全てが末恐ろしい何かが。
アルバートは逡巡しながらも、今まで起きた出来事を話す。
シールカードが天へと昇ったという事実に関しては、誰もが驚き
を隠せなかった。
﹁そんな事が⋮⋮﹂
ゼノス達は何が起きたのか理解出来ず、やがて一つの行動に出る。
自分の片耳を手で押さえ、ゼノスはある人物を呼んだ。
﹁︱︱おいミスティカ。聞こえるか?﹂
﹃⋮⋮⋮⋮﹄ 駄目だ、聞こえない。
何度も彼女の名前を呼ぶが、やはり反応はない。異世界でいう電
2447
波が届かないのか、それともだんまりを決め込んでいるのか。今の
ゼノスには理解が及ばない。
だがまもなく、ゼノス達はシールカードが持ち主の手を離れた意
味を知る。
︱︱地平線上から轟く多くの者達の怒号。
︱︱彼等は光を纏い、暴走する。
あの光は紛れもない、光の源と同じ色だ。
それを纏った集団というと、ゼノスは経験上、一つの存在しか思
い浮かばない。
﹁⋮⋮もしかして、境界線付近にいたシールカード達か?﹂
﹁どうやらそのようじゃな﹂
2448
あくまで冷静に答えつつ、アルバートは戦斧を持ち直す。
﹁︱︱ここは儂に任せろ。ゲルマニア達は無論、ゼノスも手出しは
せんでくれ﹂
﹁一人で大丈夫なのか?﹂
﹁おっと、言い間違えたな。⋮⋮正確には、﹃儂等﹄に任せてくれ
じゃ﹂
﹁え?﹂
彼は不敵な笑みを見せ、ゼノス達の後方を指差す。
促されるまま振り向くと︱︱
いつの間にか、武器を持った老人集団が揃っていた。
2449
しかし普通の老人とは違う、人間の域を逸脱した覇気を放ってい
る。それもそのはず、彼等の中にはあのジーハイルも含まれている。
つまり彼等は︱︱元始原旅団の連中だろう。
﹁ふん、流石は儂の元相棒⋮⋮予想していたのかの?﹂
そう言われたジーハイルは、かつての戦友に言い返す。
﹁当たり前だろ。だからこうして、倉庫から自分達の武器を持ち出
して来たんだからな﹂
意気揚々の答えに乗じ、他の元団員たちは揃って武具を掲げる。
﹁住民は全て若い連中に任せてきた。町の防衛に関しては心配ない
から⋮⋮存分に暴れるとしようか﹂
﹁⋮⋮言われるまでもない﹂
2450
長く忘れていた高揚感が甦る。
孤独を貫く六大将軍では、とても味わえない感覚だ。
その光景をきょとんとした態度で見守っていたロダンとセラハに
対し、アルバートは嬉しそうに言い放つ。
﹁︱︱良い機会だからよく見るといい。儂等が始原旅団として、何
の為に戦ってきたのかを﹂
アルバートはかつての仲間を引き連れ、戦場となる舞台へ赴く。
2451
2452
ep24 和解と異変︵後書き︶
※次回の投稿は少し空きますが、もうラストが近いので早めに投稿
したいと思います。あえて日付と時間は明記しませんので、どうぞ
宜しくお願いします。
2453
ep25 戦場の鬼
ゼノス達と距離を空けた所で、アルバート達は迎え撃つ準備をす
ることにした。
準備とは言っても、それほど手間のかかるものではない。
武器の手入れはもちろんされているだろうし、ましてや戦い方を
忘れたということも有り得ない。老いたとはいえ、彼等はかつてこ
の国中の部族と渡り合い、勝利を掴んできた者達だからだ。
故に実践面における準備ではなく、アルバートは単に確認をする
だけである。
立ち止まった所で仲間達へと振り返り、彼は遠くで見守るセラハ
はロダンに聞こえるよう、大きく言い放つ。
﹁さあ、久しぶりの戦じゃ!我等が国を守る為に、始原旅団のモッ
トーについて確認した上で、あの愚劣な者共をこの手で︱︱﹂
2454
﹁おいおいアルバート。ちょっと待ってくれよ﹂
突如、ジーハイルが気怠そうな表情で言い挟んでくる。
﹁俺達は﹃六大将軍﹄でもなく、﹃元パステノン国王﹄でもない男
と戦場を駆ける為に来たんだぜ?なあ皆?﹂
彼等は一様にして頷き、声高に言う。
﹁ああそうとも、俺達は﹃始原旅団首長﹄のお前に従うつもりだ!﹂
﹁うふふ。あんなかしこまった国王様なんて、あたしらとは性に合
わないよ﹂
﹁アルバート!昔みたいに、首長時代のように振る舞えば、俺達は
どこまでもあんたに付いて行く!﹂
と、元団員たちが告げてくる。
2455
﹁⋮⋮というわけだ。どうする、アルバート?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ふっ、我儘な連中じゃ﹂
そうは言いつつも、アルバートは顔をにやけさせている。
︱︱そう。自分は今まで、首長時代の在り方をすっかり忘れてい
た。
始原旅団として国を建国した後、アルバートはパステノン王国の
初代国王として即位した。建国したばかりの国に隣国からは多くの
干渉を受け、内部では小規模の紛争が絶えなかった。
いつしかアルバートは始原旅団としての教訓を忘れ、嫌々ながら
紛争の鎮静化のために多くの国民を制裁し、外国とは幾度も小競り
合いを重ねてきた。最低限の侵略も行ってきた。
国の利益を第一に考えていたのが、かつてのアルバート。
⋮⋮しかし仲間の言う通り、更にかつてのアルバートは違った。
2456
思えば仲間達は、首長時代の自分が帰ってくる事を期待していた
のかもしれない。ひたすら何十年も⋮⋮。
ここでその要望に応えなければ、きっと後悔する。
アルバートは大きく息を吸い︱︱ありったけの声を上げる。
﹁てめえ等!今日は久々の獲物だ。呆けた爺婆みてえに怠けきって
ねえだろうな!?﹂
彼から発せられるのは、昔の⋮⋮始原旅団首長の時の粗暴な口調。
皆は隣を見合い、さも嬉しそうに笑う。
天高く拳を突き上げ、あらんかぎりの声で答える。
﹃有り得ない!この身が朽ち果てるまで、我々は戦いに生き続ける
!﹄
2457
元団員たちが述べるのは、決意の塊。
誰も静かな余生を過ごせるとは思っていない。老体に鞭を打って
でも、彼等は日々の鍛練を怠らなかった。
﹁じゃあ更に問う!てめえ等は何の為に︱︱誰の為に戦う!?﹂
これは当時、アルバートが何度も問うてきた。
人間はとても脆い。二回か三回、あるいはたった一回の戦争で心
を壊し、自分の目標を失うことになる。
戦争前には確認をしなければならない。
自分達が自分達である為に。
今まで忘れてきたものを、一つ、また一つ思い出すようにして答
える。
2458
﹃︱︱家族に等しい、我等が部族を守る為!﹄
誰もが濁すことなく、はっきりと断言する。
とても単純だが、ずっと忘れていた目標。
アルバートは響き渡るその言葉を耳にし、静かに瞳を閉じる。
自分もまた、言葉を選ぶようにして紡ぐ。
﹁そうじゃ、儂等は子供の時からそう思っていた。国の利益とか、
国民全てのためにだとか⋮⋮そんな壮大な目的なんてなかった﹂
﹁ああその通りだ。始原旅団発足はそもそも、部族を守る為にガキ
共が立ち上げた集団。いつのまにか国を支える存在になってしまっ
たが⋮⋮元々は単純なものだったんだよな﹂
ジーハイルが懐かしそうに、結束した当時の記憶を思い起こす。
2459
アルバート達がいた部族が他部族の支配に怯えた時、まだ少年少
女であった彼等は武器をとり、部族のために戦うと決めた。
︱︱始原旅団の存在理由。
それは国を支配する中枢組織でもなく、他国を支配しようとする
悪名高い団体でもない。
⋮⋮故に、今から見せよう。
今からアルバート達は、ロダンとセラハの為に戦うのだと。
﹁︱︱最後に告げる。儂の息子と孫娘を守る為に、その力を貸して
くれぃッ!﹂
﹃言われるまでもない!﹄
老い先の短い彼等は、人生最後の戦いに挑む。
2460
さあ出陣だ。
若い連中に見せつけてやろうじゃないか。
覇者の率いる軍勢による、正義のための戦いを︱︱ッ!
アルバートは先陣を切る。
2461
絶対零度の寒さを諸共せず、彼は高まる高揚感と同時に戦斧を振
りかぶる。ずしりと重い負荷がかかるが、この鍛え上げられた腕は
それをも支える。
敵の軍勢は馬鹿正直に突っ込んできており、特に目立った陣形を
組んでいる様子はない。敵の全ては歩兵で埋め尽くされ、騎馬や弓
兵すら見受けられない。
⋮⋮奴等には覚えがある。
アルバートだけでなく、始原旅団の団員全員がそう感じていた。
﹁おいアルバート。あいつらって﹂
﹁うむ。⋮⋮間違いない、かつてこのパステノンの地から追い出し
た他部族どもじゃ﹂
憶測ではなく、それはもはや確信に近い。
彼等の衣装は他部族が愛用していたものであり、この地で着用す
る者は誰一人いないはず。
2462
相手は野蛮で独裁的、常に略奪と惨殺を繰り返してきた。戦い方
は酷く粗雑で、彼等には戦略という概念がない。ただ人間の本能に
従い、好きなだけ暴れるという動物的な存在だ。
度々どうしているのだろうと考えた時もあったが、まさかシール
カードとなって再び遭い見えるとは⋮⋮。
﹁おいおい、よく見れば俺達の知り合いもいるじゃないか。どうす
るアルバート⋮⋮って、今更聞く必要はないかな?﹂
﹁︱︱当然じゃ﹂
ジーハイルに目もくれず、アルバートは更に走る速度を上げる。
様々な思いはあるが、今は躊躇している場合ではない。
先手必勝。
守るべき者には慈悲を、敵たる者には容赦ない鉄槌を。
2463
鬼の形相を浮かべたまま、アルバートの戦斧が地を叩き付ける。
﹁︱︱禁技、メギド・クラッシュ﹂
メギド・クラッシュ、それは封印されし彼の絶技。
遥か古の時代、大地の神が考えたとされるこの秘技は、後の世に
石版という形で遺された。今まで誰も発見できなかったが、少年時
代にアルバートが偶然発見したのである。
彼はその技を研究し、自分風にアレンジすることで体得したので
ある。
﹃⋮⋮ッ﹄
敵軍は急な地震の揺れを感じ、その場で留まり始める。
自然災害?⋮⋮否。
2464
それは人災であり、とある男が引き起こした災厄の予兆。
⋮⋮次の瞬間、奴等の前線部隊は思い知る事になる。
この時点でもう、自分達は死んでいたのだと。
急激にその場の地面が大きく膨張し、まるで破裂したかのように
地面全体が吹き飛ぶ。
地面から放たれた土は遥か上空にまで飛び散り、その中には敵軍
の戦士たちが無残な死体となって含まれる。
アルバートの放った一撃で、敵軍の三割が消失したのだ。推定五
千人以上はいた軍勢を⋮⋮いともあっさりと。
あまりの衝撃に敵軍の中から悲鳴のようなものが上がり、その戸
惑いは隊列の乱れとなって表れる。
ここが好機だ。
2465
アルバート率いる始原旅団は武器を構え、勇猛果敢に敵軍へと躍
り出る。
双剣を手にする老婆の団員は狂気の笑みを浮かべ、年寄りとは思
えない俊敏さで敵を斬り殺して行く。その脇では細身の老人が弓を
射っており、百発百中の勢いで敵の額を貫く。他にも多くの団員た
ちが、とても老体とは思えない動きで戦う。
彼等だけではない。ジーハイルも自慢の大剣を景気良く振るい、
獅子奮迅の如く戦場を駆け巡る。
攻撃、攻撃、ひたすら攻撃。
始原旅団は大切な者を守る為に戦うが、その戦法自体は決して守
りを重視しない。むしろ攻撃こそが最大の防御であると主張してお
り、現に今までその方法で守り抜いてきた。
これまでも、そしてこれからも変わらない。
アルバート自身も敵の猛攻をかいくぐりながら斬りつけていき、
敵の小部隊の隊長を狙っていく。
2466
﹃︱︱ッ!アルバート・ヴィッテルシュタイン!覚悟し︱︱﹄
﹁やかましいわ﹂
一切の遠慮もなく、猪突猛進してくる相手の攻撃をいなし、岩盤
のように硬い拳を顔面に打ち込む。相手の顔は醜く歪み、その一発
だけで死に追いやるほどの威力を発揮する。
相手が死んだことで周囲の戦士たちにどよめきが走る。どうやら
今の相手が小隊長らしい。他愛ないものだ。
この調子で戦っていこうと思いきや、敵軍から聞こえるラッパの
音色が耳に入り、ある戦慄が走った。
﹁⋮⋮む﹂
予想は正したかったようで、敵軍後方から巨大な岩の様な物体が
放たれる。それは空中で弧を描き、パステノン城下町へ向けて飛来
する。
⋮⋮なるほど、自分達の注意を町に引かせるわけか。
2467
正攻法では攻略できないと判断したようだが、それは全くもって
正しい判断である。
︱︱しかし、わざわざ町に赴く必要はない。
ある結論に至ったアルバートは、近くで戦う団員達に呼び掛ける。
﹁ここの敵共はお前達が屠ってくれ!儂は町に飛来する岩を破壊す
るッ!﹂
﹃おうッ!﹄
団員達は即座に陣形を展開し、アルバートを取り囲むようにして
戦闘を続ける。
⋮⋮さて。
アルバートは一旦戦斧を収め、代わりに地面に落ちていた武器を
拾い集める。
の刃や槍の矛先には血が塗り付いているが、別にこれらをまともに
使うつもりはない。
2468
大きく息を吸い、大きく息を吐き。
戦場の音さえ聞こえないほど意識を投擲物に集中させ、武器を握
る力を徐々に増やしていく。
そして次の瞬間、アルバートの腕の筋肉が膨張する。
全身の肉体から蒸気が上がり、その大きな足を大地に固定させ︱
︱武器を次々と投擲していく。
巨体に相応しくない尋常ならざる速さ。武器を持っては投擲し、
また武器を持っては投擲。放たれた武器は凄まじい轟音を放ち、寸
分も狂わずに岩へと直撃していく。
﹁粉砕!玉砕!破壊してやる、儂の大切な者を汚す阿呆どもを!﹂
血走った眼のまま叫び、尚も投擲する手を止めないアルバート。
2469
しかし、それでも後方から飛ぶ岩は途絶えない。
恐らく後方には何台もの投石器が備わり、十分な量の投石を蓄え
ているのだろう。対してこちらは落ちている武器のみ。数には限り
があり、アルバートの方が圧倒的に不利であった。
対抗策をすぐに考えよう。そう思った矢先︱︱
﹁アルバートッ!俺達がお前のために道を作る!だからお前は⋮⋮
後ろの投石機を破壊するんだ!﹂
﹁ジーハイルかッ。じゃが敵の陣形は厚い⋮⋮⋮⋮ぬッ!?﹂
答える最中、アルバートは驚きの光景を目にする。
ジーハイルを中心に団員達がアルバートの前へと前進し、皆が捨
て身の覚悟で無理やり先端を切り開いていく。
あまりにも無謀な行為に、流石のアルバートも焦りを見せる。
﹁ば、馬鹿者!己の命を無駄にするつもりか!?相手はシールカー
2470
ドの力によって強化された連中。捨て身の覚悟じゃ斬り殺されるぞ
!﹂
実際問題、状況は一気に最悪となった。
シールカードの力によって潜在能力を引き上げられているのか、
敵の一人一人の動きは素早く、放つ一撃もかなり重い。既に満身創
痍の団員もいれば、血の海に沈む団員も見かける。
まずい。このままでは全滅する。
急いでアルバートは前線に出ようとする。が、ジーハイルから予
想外の言葉が放たれた。
﹁アルバート止めてくれるなよ!俺達は始原旅団の在り方を魅せる
ために戦ってるんだ!⋮⋮ここでお前に全部任せちまったら⋮⋮そ
の時点でロダン達は悟っちまう。結局は自分の力だけが物を言うと
!仲間なんていらない、家族なんていらない。そんなものは邪魔な
存在だと思っちまう!﹂ ﹁⋮⋮!﹂
アルバートは足を止める。
2471
そうだ、ジーハイルの言う通りだ。
ここでアルバートが本領を発揮し、孤独の状態で戦うとしたら。
この戦争自体はすぐにでも決着がつく。
しかしそれでは駄目だ。
ロダンの説く力こそが正義という論理に拍車をかけ、また支配や
暴力という誤った目的を辿る羽目になる。
家族や仲間を犠牲にした上での⋮⋮卑劣な支配に。
確かに力は必要だ。だがその力を強く求めるあまり、ロダンは自
分以外のッ存在を蔑ろにしている。
嗚呼、それでは駄目だ。
家族や仲間は守るべき存在であり、同時に助け合う仲でもある。
その為に力をつけ、アルバートは強くなったのだ。
2472
︱︱この戦いで気付いてほしい事は、たった一つ。
仲間はとても大事な存在だということ。支配や権力を支える道具
としてでなく、自分を支えてくれる友だという事実。
だからこそ、アルバートは仲間と共に切り抜けなければならない。
自分にそう言い聞かせてくれた親友に、アルバートは感謝を述べ
る。
﹁⋮⋮すまんな相棒。もう諭されることはないと思ったが、またさ
れてしもうたわい﹂
﹁ははっ、まあいいじゃないか。その方がお前らしい﹂
その言葉に、思わずアルバートは笑みを零す。
アルバートのそんな様子を見届けたジーハイルは、すぐさま険し
い表情となって罵声を上げる。
2473
﹁おいお前等、なに腑抜けた戦いをしてるんだ!この程度の数、昔
のロジューヌ部族との戦いに比べれば全然大したことないぞ!﹂
﹃おうッ!﹄
﹁︱︱これは何も、ロダンとセラハを守る為だけの戦いじゃない。
若い始原旅団の戦士に捧げる、俺達の生き様を魅せる戦いでもある
ッ!同じ部族も守れない腰抜けなんて⋮⋮絶対に思われてはいけな
いッ!﹂
﹃当然だ!全身全霊を込めて、この戦いを乗り切る!﹄
﹁そうだ!アルバートと、そして俺達で!今こそ始原旅団の結束を
示す時だ!﹂
ジーハイルの叱咤に呼応し、全ての団員の士気が高まる。
相手はその気迫に圧され、徐々に始原旅団の猛攻を受けることに
なる。
始原旅団の団員は、傷を負っても動じない。隣で戦う団員が力尽
きても、彼等は未来と誇りの為に武器を振るい続ける。
2474
⋮⋮自分達の時代はとうに終わっている。
しかし、若い世代に何かを残すことは出来る。
その信念だけを胸に︱︱彼等は命を懸けて戦い続ける。
決死の突撃が実を結んだのか、敵の陣形に僅かばかりの隙間が出
来上がる。その先には投石器が見え、未だに城下町めがけて打ち放
とうと準備を進めている。
︱︱よくやった。
アルバートは団員の覚悟と結果に称賛の念を送り、今度は自分が
彼等の前へと進み出る。
団員の視線が集まるなか︱︱。
究極の奥義を披露する。
2475
﹁ぬおおおおおおおおおおおおおおッッ!﹂
敵の陣から脱出したアルバートは、自慢の戦斧を横に一閃する。
空を切っただけの一撃⋮⋮かと思われるが、それは断じて違う。
一閃の後、戦斧から凄まじいほどの豪風が発生する。豪風は目前
の大地をめくり上げ、その大地に設置されていた投石器も藻屑とな
って破壊される。残骸は原型をとどめる事なく粉砕され、砂のよう
に空気と同化していく。
だが、豪風は尚も収まることを知らない。
それらは高い波のように地平線へと押し寄せ、通り過ぎた後には
何も残らない。雪も、草も、地表も︱︱
遥か地平線上にある山のシルエットをも、消失してみせる。
﹃︱︱ッッ!!??﹄
2476
圧倒的実力。越えられない力の差。
山が消えると同時、パステノン雪原全体が揺れ動く。
鼓膜が張り裂けんばかりの轟音に耐え、震えの止まらない大地に
足を踏み止めながら、敵軍は自分の中に潜む恐怖と戦う。
⋮⋮化け物。
改めて対峙し、彼等は再認識した。
アルバートという男は、老いによって力が弱まることはない。
むしろ一挙一動が洗練されていて︱︱更に勝てない相手となった、
と。
シールカードの加護によって余裕を持っていた敵は、一瞬にして
絶望の表情へと変わる。
2477
﹁ふん﹂
そんな奴等に、アルバートは戦斧を担ぎながら告げる。
﹁⋮⋮驚いたか?年老いたとはいえ、儂の同志を甘く見ないほうが
良いぞ。特に、全員が力を合わせた時はのう。おかげさまで、この
老体もついつい本気を出してしまったわい⋮⋮っと﹂
ふと、アルバートは身体をよろけさせる。視界が地面に向いたと
ころで、全身を何とか押しとどめた。
先程の技のせいで体が悲鳴を上げており、今のアルバートはかな
り弱体化していると見える。本人もそれを承知しており、自虐めい
た笑みを浮かべる。
﹁はあ。力は衰えておらんが、肝心の体力は流石になくなりつつあ
るか﹂
今更ながら、時の残酷さというものを実感する。
昔はぴんぴんとしていたにも関わらず⋮⋮今ではこの様か。
2478
愛する者達を守る為と見栄を張ってはみたが、これではそれさえ
も成せないではないか。
アルバートは小さく舌打ちをし、視線を前に向ける。
︱︱すると、そこには団員たちが立ちはだかっていた。
彼等はアルバートを守るように壁を作り、その中心となっている
ジーハイルがこちらを振り向いてくる。
酒を酌み交わす時と変わらぬ調子のまま、こう告げてきた。
﹁お疲れ親友。お前ほど頼りにはならないが、こいつらの殲滅は俺
達に任せておきな﹂
﹁⋮⋮そうじゃな﹂
苦笑し、アルバートは素直に部下の厚意に甘える。いつになく頬
を緩ませ、思いやりのある団員に改めて感謝する。
⋮⋮そうなると、自分の役目はあと一つだけ。
2479
単純明快。それは敵への宣戦布告である。
﹁︱︱というわけじゃ。今から始原旅団は、お前達を一人残らず消
していく。覚悟するんじゃな﹂
途端、今度は雪原全体の空気が震える。
物理的に揺れてはいるわけではない。つまり、敵は空気が震えた
ように錯覚し、一種の恐慌状態に陥っているのだ。
敵の戦意は完全に途絶えた︱︱そう断言してもいいだろう。
﹁よし、勝鬨を上げろ!そしてこのまま斬り伏せていくぞッ!﹂
﹃おおッ!﹄
皆は言われるまでもないと言わんばかりに、武器を手に敵へと立
ちはだかる。
アルバートもまた、その場から一歩踏み出す。
2480
この戦いが、息子と孫娘にとって何らかを得る機会にならんこと
を︱︱一人の祖父として祈りながら。
部族の誇りをかけた戦争。
多くの負傷者と僅かばかりの死を代償に、勝利は始原旅団の方に
捧げられた。
シールカードと思しき力の波動は消え去り、アスフィ曰くもうパ
ステノン王国に潜む危機はないと断言した。
2481
こうして、六大将軍であるゼノスとアルバートの任務は終わった。
︱︱それから二週間後。
ハルディロイ王城の円卓の間にて、パステノン王国であった全て
の出来事を打ち明ける。
︱︱その中には勿論、戦争後の顛末も含まれている。
2482
ep26 帝国の眠りへ
第三回円卓会議は、ゼノス達一行が帰還したその日に行われた。
天井のシャンデリアに照らされながら、六大将軍と皇帝アリーチ
ェは先日の報告を確認し合う。
﹁⋮⋮なるほど。大体の概要は分かりました﹂
アリーチェは纏まった資料をテーブルに置き、静かに告げる。
﹁ですがまだ不明な点がありますね。シールカードとの共謀により
ロダン国王の失脚、及びセラハ王女殿下への厳重処罰は分かりまし
た。ではその後の国家維持対策はどうなったのでしょう?あと両者
の行方も聞いておきたいです。⋮⋮元国王の貴方ならば、その件に
関わったはずですが﹂
そう言って、彼女はアルバートを見据える。
アルバートはしばし沈黙した後、席から立ち上がる。
2483
﹁︱︱その点に関しては、儂の口から言おうと思っておった。あま
り公言できぬ話ゆえ、どうか口頭による報告の許可を願いたい﹂
﹁私は許可します。他の六大将軍は?﹂
アリーチェの問いに、一同は軽く頷くだけで終わる。
﹁有り難い﹂
皆の許可を得たところで、アルバートは質問に答えることにした。
まずはパステノン王国の現状についてだ。
慣習法によるロダンとセラハの処罰が決定し、現在のパステノン
王国には国王がいない。当面はジーハイルが代理の王として君臨し、
時間をかけて次期国王の選定に取り掛かる予定である。
だが代理とはいえ、ジーハイルに科せられる責任はとてつもなく
重い。
2484
内政の改革は勿論のこと、それ以上に外交にも力を入れなければ
ならない。近隣諸国に駐屯する始原旅団の撤退、他国干渉における
賠償金の問題、及び他国王族の処刑という国際問題への対応策。
更にゼノス達の帰還途中、近隣諸国は互いに同盟を組み、パステ
ノン王国に対する報復戦争を仕掛けようとしていたらしい。それは
至極当然のことで、始原旅団撤退から一週間後、その時にはパステ
ノン領土に侵入する⋮⋮つもりだったらしい。
何故今にもなって諸国連合による武力介入がないかというと、そ
こにはホフマンの活躍が影響している。
﹁幸いな事に、ホフマンの力によって諸国連合の戦争発起はどうに
か食い止めてくれたようじゃ﹂
アルバートはホフマンに深くお辞儀し、感謝の意を示す。
﹁いえいえ、私は何もしておりませんよ。⋮⋮まああえて言うなら
ば、諸国の代表者に国内の鎮静化を要求しただけです。元々諸国連
合とはいえ、その発起人は戦争で利益を得ようとする一部貴族と、
それに踊らされた被害者の庶民たちのようですからね。国の総意で
はないので、抑え込むのもすごく簡単でした﹂
とホフマンは言い連ねるものの、その発言力に全員が驚いた。
2485
一体彼は、いくつものパイプを作っているのか。一国の貴族とは
いえ、果たしてここまでの権限があるのだろうか?⋮⋮遅まきなが
ら、ホフマンの実力に感嘆を覚える。ユスティアラだけは複雑な表
情を浮かべているが。
⋮⋮というわけで、最悪な事態は何とか免れたわけである。
次に話すべきことは⋮⋮ああそうだ。
ロダンとセラハのその後。
前者は戦犯として刑罰を受け、現在はアルゲッツェ王城の牢獄に
囚われている。死刑になる可能性は低いらしいが、それでも十年以
上の禁固刑は間違いないだろう。
︱︱それで良い。
あの馬鹿息子の頭を冷やすには丁度良い期間だ。
2486
先の戦いで何かを感じ取ってくれれば、まだ真っ当な道に戻れる。
アルバートは僅かばかりの希望を胸に、そう思うしかなかった。
では、後者のセラハはどうなったのか?
⋮⋮アルバート達が国を出る直前、彼女は自分からこう言ってき
た。
﹃︱︱おじいちゃん。あたし、この国にある修道院に行くよ。⋮⋮
そこで修道女になって、苦しむ人達の手助けができればと思うんだ﹄
彼女はあの時、何の迷いもなくそう告げた。
修道院は教会の崇める神を崇拝し、その神のために祈りをささげ、
日々の労働を送る聖なる場所。一方で恵まれない人々のための慈善
活動も行っており、恐らく今のセラハが望む人生を歩むことが出来
るだろう。
⋮⋮しかし、そうなるとアルバートとは一緒に生活することは出
来ない。
2487
それでも良いのかと尋ねると、彼女は寂しそうに微笑んだ。
﹃うん。そろそろ親離れ⋮⋮いや、おじいちゃん離れをしないとね。
ここから先は、誰かに甘えちゃいけないから。⋮⋮⋮⋮それにおじ
いちゃんには、まだ六大将軍としてやることが残っているんでしょ
?﹄
そう言われ、アルバートは何も言い返せなかった。
また寂しい思いをさせるんじゃないか。彼は幾度となく心配した
が、その度に心配しすぎだと、ゼノス達に言われてしまった。
⋮⋮まだ複雑な思いではあるが。
セラハが自分自身で決めたことならば、仕方ない。
﹁ああそれとじゃ。奴等との戦闘が終わった後のことなんじゃが、
戦場にセラハが持っていたと思われるシールカードが落ちていた。
一応それは回収して、今は始祖アスフィに預けておる。⋮⋮それで
いいのかの?﹂
2488
彼は思い出したように告げる。
﹁正しい判断だと思います。実際、騎士マルスや魔王が遺したシー
ルカードも彼女に預けていますから﹂
﹁⋮⋮危険ではあるが、儂等にとっては複雑怪奇な代物じゃしな。
まあ仕方ない判断だ﹂
ランドリオ帝国側は、あまりシールカードの事を詳しく知らない。
いや、詳しく追究できないのだ。
マルスや魔王のシールカードを回収した後の話だが、帝国はあらゆ
る分野の研究者を募らせ、そのカードの研究に臨んでいた。しかし
有益な結果は全くと言っていいほど出ず、研究は打ち止めとなった。
結局シールカードはアスフィに託してしまったが、彼の言う通り、
それしか方法がなかったのだ。
皆もそれに関しては同意見である。
一応の説明を終えると、アリーチェはあくまで冷静に言い放つ。
2489
﹁⋮⋮なるほど、委細承知しました。ではアルバートはこれからも、
この国の六大将軍として働いてくれるんですね?﹂
﹁うむ、そのつもりじゃ。あの国への未練が消えた今︱︱儂はこの
命が尽きるまで、アリーチェ皇帝陛下に忠誠を尽くすつもりじゃて﹂
﹁ふふ、有難うございます﹂
彼女はようやく笑みを零し、いつもの雰囲気に戻る。
他の六大将軍も楽にし、張り詰めた空気も嘘のように晴れていっ
た。
﹁ではこれにて終了を⋮⋮と言いたい所ですが、実はまだ報告しな
ければならないことがあるんです﹂
﹁報告?﹂
ゼノスが不思議そうに尋ねると、彼女は﹁はい﹂と答え、その詳
細を述べた。
2490
﹁二つあります。まず一つ目は、このランドリオ騎士団に少々癖の
ある人間が入団しました。人数は二人なのですが⋮⋮その方達を、
聖騎士部隊に送りたいのです﹂
入団。その言葉に、一同全員が首を傾げる。
単なる新入りが入団した程度で、皇帝陛下自らがそれを報告する
ことはまずない。癖のある人間と言っているが、多分余程のものな
のだろう。
﹁聖騎士部隊って⋮⋮私のところにですか?もし新米騎士であるの
ならば、まずは騎士道を叩き込むユスティアラ部隊に送った方が﹂
﹁⋮⋮いえ。それが騎士道精神を良く理解した、名のある人物だと
聞いております。私でも承知している有名人ですので、聖騎士部隊
でも問題ないと思います﹂
﹁⋮⋮は、仰せのままに﹂
ゼノスは頭を垂れ、素直に承知する。
有名人。それが誰かは分からないが、とりあえず断固反対するま
2491
でもないだろう。
アリーチェはこほんと可愛らしく咳き込み、最後の報告をする。
﹁それと皆さんには縁がなかったと思われますが、ランドリオ帝国
は明後日から、﹃帝国の眠り﹄の期間に入ります﹂
﹁あら、もうそんな時期かあ﹂
今まで黙っていたイルディエがしみじみと呟く。
︱︱帝国の眠り。
それは異世界でいう、﹃ゴールデンウィーク﹄の三倍はある長い
休暇期間のことである。
この休暇期間が出来た理由ははっきりと分かっていないが、何で
もこの時期に帝国が建国されたとか。ランドリオ帝国の誕生を祝う
理由も込めて、遥か昔からこの休みは存在するらしい。
2492
もちろん帝国民全員が休むというわけではないが、その期間に働
いた者には代休をとる権利が与えられる。そんな誰もが待ち望む、
長い長い骨休みの期間なのである。
けど、六大将軍にはそんな祝日も許されない。
神獣発生や他国の侵入に休みはなく、六大将軍とランドリオ騎士
団は常に仕事をする羽目になる。
そんな事実はアリーチェでも知っているはずだが⋮⋮。
必然と、彼等六大将軍はジト目でアリーチェを見やる。
﹁あ、あの∼⋮⋮もしかして、怒ってますか?﹂
﹁﹁﹁﹁﹁﹁いえ別に。仕事が山積みなのを承知の上で、あえてそ
んな羨ましい連休があることを知らせるなんて、皇帝陛下はなんて
思いやりのない人だ⋮⋮などとは思っていません﹂﹂﹂﹂﹂﹂
⋮⋮凄い、六人全員が同じ言葉を放った。
アリーチェは焦りながら言う。
2493
﹁ま、待って下さい!今回は違うんです。今年の連休は、一応六大
将軍の皆さんも取れることになっていますから!﹂
﹃えッ!?﹄
一同は困惑した。
だって、連休の合間にも様々な災厄がランドリオ帝国を襲ってく
る。その危険を、一体誰が振り払うと言うのだろうか?
しかし、その疑問はすぐに解消された。
﹁実はアスフィさんから申し出てくれたんです。皆さんが始原旅団
とシールカードの脅威を防いでくれたので、その褒美に自分がこの
期間、ランドリオ帝国を守ってくれるって﹂
﹁⋮⋮あいつが﹂
六大将軍は始祖の申し出と聞き、一気に黙り込む。
2494
様々な思いが交差し、果たしてそれでいいのかと考える。
確かにシールカードの侵攻を阻止したことは、結果として始祖奪
還を封じたことにも繋がる。アスフィにとっては感謝すべき事実で
あろうし、実際に彼女は多大なる恩を感じている。
だが信じていいのか。簡単にその事実を。
︱︱けど。
そんな思いの交差は、ある男の一言で打ち消される。
﹁⋮⋮嗚呼、嗚呼!何という僥倖!労働の神は、そして我が麗しの
姫は、この私めに安らかな癒しを与えてくださったのですね!有難
う、有難う!このホフマン、今日は自慢のワインを飲ませて頂きた
く⋮⋮﹂
﹁へえ、何だか美味しそうな話ね。︱︱まさかホフマン、このイル
ディエを放って一人で飲む⋮⋮なんて野暮な話はないわよねえ?﹂
﹁ひっ!?﹂
2495
﹁ふん、確かにそうじゃな。ホフマンといえばワイン愛好家でも知
られておるし⋮⋮良いワインが沢山飲めそうだ﹂
﹁ひっ、ひいッ!あ、あげませんよ!あれは私が数年かけて集めた
極上の⋮⋮って、何ですその手!わ、私を⋮⋮私をどうする気でッ
!?﹂
まるで何の悩みもなかったかの如く、ホフマン、イルディエ、ア
ルバートが子供のようにはしゃぐ。
﹁ほう、久々の休暇か。本当なら部下の強化訓練を行いたい所だが、
ここは溜まった書物を読むとするか﹂
﹁あー、俺もたまには家族サービスしねえとなあ。ドライブだった
ら⋮⋮う∼ん、﹃群馬﹄か﹃茨城﹄。いや、ここはあえて﹃長野﹄
にするか。﹃野沢温泉スキー場﹄で﹃スキー﹄をして、その後は温
かい﹃温泉﹄で極上の一時を⋮⋮くう∼鱗に染みそうだぜ﹂
ユスティアラとジハードはプライベートをどう過ごすか考えてお
り、心なしか表情も綻んでいる。
皆は既に、連休の過ごし方を考えていた。
2496
何と無防備な、とは言えない。
少なくとも六大将軍達はアスフィの功績を知っているし、信頼に
足る存在であると認識している。そんな代えがたい仲間に対し、一
々疑い深くなるほど⋮⋮ゼノス達は落ちぶれていない。
そこまで悟ったからこそ、ゼノス達はあえて考えないことにした。
﹁良かったですねアリーチェ様。みんな納得してくれたようで。ま
あ私も、アスフィが守ってくれるなら安心できますよ﹂
ゼノスが正直に打ち明けると、アリーチェはにこやかに微笑む。
﹁そう言ってくれると嬉しいです。⋮⋮⋮⋮それでその、ゼノス。
もし宜しければ、連休中は私と⋮⋮⋮⋮﹂
﹁私と?﹂
﹁∼∼ッ。い、いえ⋮⋮何でもありません﹂
2497
アリーチェは何故か顔を赤らめ、最後まで言おうとしない。
一体何なのだろうか?
重要な出来事に関わる場合は聞いておくべきだと思ったが、どう
やらそうでもないらしい。私情であるのならば、別に後で聞いても
大丈夫だろう。
一人でそう結論付けたゼノスは、ふと自分について悩み耽る。
﹁︱︱にしても連休かあ﹂
ゼノスは椅子の背もたれに身を委ね、両手を後頭部に当てながら
思案する。
円柱の間から吹き込む暖かいそよ風。つい眠気を誘われるような
感覚に溺れながら、彼は深い溜息をつく。
﹁⋮⋮はあ﹂
騒がしい部屋の中で、ゼノスは複雑な心境に追いやられていた。
2498
その原因は容易に想像がつく。
ゲルマニアとの関係悪化はもちろん︱︱
︱︱二週間前に再会した、ドルガについてである。
2499
ep26 帝国の眠りへ︵後書き︶
六章へ続く⋮⋮
2500
ep0 ???
それは一体どこで、一体いつなのだろうか。
茜色に染まった大海原。暖かい潮風が黄昏の向こうから吹き込み、
丘に茂る草木を優しく撫でる。
波打つ音、草木が嬉しそうに揺れる音。カモメが鳴く音。
︱︱この世界を支配する音は、それだけ。
世界を彩るのは、海と、白い砂浜と、草原と、丘と︱︱
︱︱そして丘の上に立つ、小さな木の家だけである。
2501
家は崖の頂上に佇み、まるで遥か海の彼方に旅立った恋人を待つ
ように、ひっそりと存在感を露わにしている。老朽化は進み、今に
も崩壊しそうなほどボロい様相だ。
まるで廃墟のようで、人の気配を感じられる場所ではない。丘の
近くを通りかかる者は、誰もがそう思っていた。
⋮⋮しかし、ここには一人の女性が住んでいる。
いや正確に言うのならば︱︱魔女だろうか?
近隣の村に住む人々によると、ここに住む魔女は数百年以上も生
き、魔術の実験台になりそうな者を見つけては捕え、魔術の実験台
として殺しているという噂が広がっているらしい。
朝や昼、または夜はその姿を見せないが⋮⋮唯一、黄昏時になる
と崖の端によく佇んでいるという話も聞く。
こうして彼女は︱︱﹃黄昏の魔女﹄と呼ばれるようになった。
あらゆる侮蔑を込めて付けられたその異名は、今では村の伝説と
2502
化している。彼女の真実を探ろうとする者は誰もおらず、そんな噂
の独り歩きは数百年以上も続いている。
黄昏の魔女、悲しき表情で海を見つめる純美なる乙女。
彼女は今日も、不気味な魔女で在り続ける。
︱︱夢にまで見たその日が、訪れるまで。
2503
︵第一週︶ep1 休日返上
ランドリオ帝国は昨日を以てして﹃帝国の眠り﹄に入り、休暇を
貰った人間は、長い長い安息を満喫しようとしている。
帝国の眠りとは一ヶ月にも及ぶ長期休暇のことであり、しかし帝
国全土の人間が一斉に休むわけでもない。
それでも、全ての人間には相応の休暇が一ヶ月以内に与えられ、
全員が有意義に過ごせるよう配慮されている。別に特別な意図はな
く、昔からの慣習に則っているだけである。
︱︱そして、ここにいるゼノス・ディルガーナもその一人だ。
六大将軍という地位にいる彼は、本来ならばこの時期にも討伐遠
征に出掛けている。例年ならば休みなど考えられず、まるで馬車馬
のように働かされていたのだが︱︱。
2504
﹁⋮⋮まさか休みを貰えるなんてなあ。アスフィに感謝しないと﹂
彼は眠そうな声で呟き、今はいないアスフィに感謝の念を送って
いた。
午前十時になってもベッドから出ようとせず、髪は寝癖だらけ、
服装はパジャマのままという堕落な姿。⋮⋮休みだというのは分か
るが、仮にも彼はこの国の最大戦力とも言える六大将軍である。も
っとすべき事があるはずだが⋮⋮。
と言った所で、今のゼノスはてこでも動くつもりはない。
︱︱せっかくの休み、誰にも邪魔されてなるものか。
﹁そうだ!いつも俺は誰かに邪魔されていたんだ!堕落すればアル
バートがうるさいし、イルディエがうるさいし、アリーチェ様もう
る⋮⋮いや、何か仰るし!特にゲルマニアときたら︱︱﹂
と、彼女の名を口に出してとき。
ゼノスは嫌なことを思い出し、俯く様に布団の中へと顔を埋める。
2505
今から二週間も前、ゼノスはふとしたことからゲルマニアと険悪
な状態に陥り、ここ最近は事務的な会話しかしていない。
その事務的な会話も少なく、つい一昨日なんかフィールドやラヤ
を通じて会話したほどである。
事態は思った以上に深刻だ。
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ゼノスは布団の中でぼんやりとし、ゲルマニアとの関係修復を考
えながら⋮⋮そのまま無意識の世界へと。
﹁お∼っす!ゼノス将軍いるか∼﹂
というわけにはいかなかった。
何の前触れもなく、ゼノスの部屋の扉を豪快に開け放つ誰か。粗
暴だがどこか人懐っこい口調で、自分のことをゼノス将軍と呼ぶの
は︱︱
2506
紛れもない、聖騎士部隊を実質統轄している聖騎士部隊第一大隊
長、ラヤである。くすんだ茶髪を粗雑に一括りし、騎士にしては露
出が高い服装を着込んでいる。それは私生活でも、そして戦場でも
変わらぬ姿だ。
しかし、何の用事でここに来たのか。
ゼノスは心底嫌そうに布団から顔を出し、ジト目でラヤを見据え
る。
﹁⋮⋮今日から休みだぞ、ラヤ﹂
﹁そんな事は分かってるって。あたしだってせっかくの休日を満喫
したいのに、フィールドの野郎が今日やってほしい事があるって言
うからさあ﹂
﹁やってほしいこと?﹂
ラヤはうんうんと快活に頷き、持っていた書類の束を見せつけて
くる。
﹁これこれ。地方駐屯所の騎士隊長に送るものらしいけど、ここに
2507
六大将軍全員分のサインが欲しんだとさ﹂
﹁ああそれか。だとしたらフィールド本人が来ればいいものを。も
しくはゲルマニアとか﹂
そう言うと、ラヤは口をへの字にして告げる。
﹁二人は新しい騎士雇用制度の見直しに忙しいってさ。全く、休み
なのに仕事をするなんてねえ⋮⋮信じられないよ!﹂
﹁ああ、とてつもなく信じられんな﹂
だが生真面目な二人だけあって、溜まっている仕事は早く片付け
たいという思考なのだろう。
休日返上の仕事、本当にお疲れ様と言いたいところだ。
﹁分かった、サインするよ。ちょいと着替えるから一旦退出してく
れ﹂
ゼノスはベッドから起き上がり、簡素なクローゼットへと歩み寄
る。
2508
クローゼットの扉を開け、いつものジャケットを取ろうとしたと
き⋮⋮未だにラヤが扉前に佇んでいることに気付く。
﹁どうしたラヤ?﹂
﹁ん?ただ待ってるだけだけど?ほら早く着替えちゃいなよ﹂
ラヤはじ∼っとこちらを凝視しながら言う。
視線は頭から足にかけて⋮⋮まるで不思議なものを見るかのよう
に、物珍しそうに観察してくる。
﹁⋮⋮お前、何してるんだ﹂
﹁観察だよ。実はあたし、男の人を深く観察したことってないから
さ。それに同じ部隊の女に聞いたんだけど、立派な男には立派なも
のがついてるとも聞いたんだ。⋮⋮それを確かめてみようかとね﹂
﹁はあッ!?﹂
2509
思わず持っていたジャケットを落とし、すっとんきょうな声を上
げるゼノス。
立派なもの?考えられるものと言えばあれしかない。
いやしかし、ここでそれをラヤに言うべきか?見たところ、ラヤ
は立派なものの詳細を知らないようである。恐らく立派な才能とか、
立派な肉体とか、そんな戦いに関するものだと理解しているに違い
ない。
立派なものはあれだと言えば⋮⋮一体どうなるのだろうか?
性教育として受け止められるか?それとも上司が部下に対して行
ったセクハラとして扱われるのか?
何にせよ、言いづらいのは確かだ。
﹁いや、あのな。別に俺は立派なものとかそういうのは無い。悪い
けど他を当たってくれ。な?﹂
﹁⋮⋮嘘だ。立派な人間は持ってるって言ってた﹂
ラヤは絶対の確信を持って答える。
2510
白銀の聖騎士はランドリオ帝国の英雄。そして六大将軍全員が尋
常ならざる力を秘めている。一人一人の実力は常人を圧倒し、神や
悪魔、そして神獣にも匹敵すると言われている。
その力を立派だと言うならば、それは外見では見られない。しか
し当のラヤは、外見のどこかに力の源があると勘違いしているのか
もしれない。
そして何を血迷ったのか、彼女はじりじりと近付いてくる。
両手の指を複雑怪奇に動かしながら。
﹁︱︱じれったいねえ。かくなる上は﹂
﹁な、何をする気だ?﹂
﹁当然︱︱立派なものを探すんだよ!﹂
﹁だからそんなのないって!﹂
制止も聞かず、ラヤがこちらへと迫ってくる。
2511
ゼノスとラヤはくんずほぐれつし、よく分からない争いを始める。
結局、ラヤが大人しくなったのは数十分後であった。
2512
︵第一週︶ep1 休日返上︵後書き︶
投稿遅くなり申し訳ありませんでした⋮⋮。とりあえず今日はこん
な所で。
後に活動報告を書きますので、この章の詳細、及び今後の投稿予定
に関して知りたい場合はそちらをご覧あれ!
2513
︵第一週︶ep2 アルバートの休日
﹁⋮⋮それでゼノス将軍、最初は誰の所に向かうの?﹂
ラヤは隣を歩くゼノスに問う。
両者はようやく本来の目的を果たそうと、つい先程ゼノスの部屋
を出た。今は六大将軍たちが住まう階層の廊下を歩いている。
六大将軍は基本、ハルディロイ王城とは別棟にある騎士宿舎の最
上階に居を構えている。よって本城とは違い、中の構造も極めて単
純で、尚且つ見栄えの悪い簡素な造りでもある。外観は最低限の体
裁を繕っているが、中は町にある宿場とあまり変わらない。
それは六大将軍の部屋も同様であり、一般騎士と違う所と言えば、
若干部屋が広いだけだろうか。
⋮⋮まあ、ゼノスとしては有り難いことである。
2514
他の六大将軍もそうだが、全員は元から裕福ではなかった。よっ
て豪華絢爛に満ちた住処は居心地が悪く、今の扱いに関しては誰も
が不満を抱いていない。逆に嬉しい配慮だとさえ感じる。
こればかりは、予算をケチった前皇帝に感謝すべきか。
﹁⋮⋮お∼い将軍、聞いてたか?﹂
﹁ん?ああ悪い⋮⋮。最初は誰の所に行くか、だろ?﹂
﹁そうそう。言っとくけど、他の将軍は自分の部屋にいないみたい
だ﹂
ラヤは非常にめんどくさそうに呟く。
それはゼノスも同様だが、今更四の五の文句を言う気はない。
彼は他の六大将軍の部屋の前を通過しながら答える。
﹁︱︱恐らく、町だな﹂
2515
﹁へ?町?なんで?﹂
﹁なんでって⋮⋮そりゃ六大将軍も、一人の人間だからだ﹂
ゼノスは不敵に微笑み、それ以降何も話さないまま階段へと向か
う。
そう、六大将軍だって一人の人間。
休日は必ず︱︱自分の趣味に浸る。それは彼等だって同じこと。
二人は騎士宿舎を出て、本城の脇にある庭園を通過して城門前へ
と向かう。そしてアーチ状の門を潜り、眼下に広がる城下町へと足
を運んだ。
まず辿り着いたのは、王城へと直結している貴族街エリア。今の
ランドリオに成金趣味の貴族はいないが、昔は違う。その名残が今
でも存在しており、ここら一帯は豪奢な建造物が立ち並んでいる。
きめ細かな装飾壁、自分の権威を誇示するかのように佇む像。中
には純金に包まれた屋敷も建造されている。
2516
ゼノス達としては、あまり気分の良くない光景である。
貴族街を抜けると、一転して町の様相は変化する。
今度は比較的人の通りが多いエリア︱︱商業区だ。ここは港と繋
がっており、多くの外国人と商人が行き交っている。そして勿論、
高級店から出店まで揃う立派な商売区域でもあるわけだ。
ゼノス達は、ここに用があって来たのである。
﹁ほ∼、今日はいつになく人が多いねえ﹂
商業区の中心であるメインストリートに着いた途端、ラヤが物珍
しげに辺りを見渡す。
確かに、今日はいつになく混雑している。
慌ただしい様子はなく、通り過ぎる人々はみなどこか朗らかであ
る。ある者は恋人と手を繋ぎながら、ある人は家族と共に、またあ
る人は娯楽施設へと⋮⋮等々、およそ仕事をしている人間はあまり
見受けられない。
2517
異世界で言うと、週末の光景といった所だろう。
﹁んで将軍。他の将軍はどこにいるの?言っとくけど、ここから探
し当てるのはかなり難しいんじゃ﹂
﹁いや、大体目星はついてるんだ。⋮⋮そうだな。ここから一番近
い場所は﹂
ゼノスはぶつぶつと呟きながら歩き出す。
ちなみに彼等は気付いていないが、今この場にいる人々はゼノス
達に熱い視線を送っている。
︱︱白銀の聖騎士に、その部下であるラヤ。
大英雄と英雄と呼ばれる以上、彼等の顔を知らぬ者はいないだろ
う。
そんな彼等の休日を垣間見れたのだから、浮足立った様子で観察
2518
するのも不思議ではない。
ゼノス達はメインストリートを真っ直ぐ進み、枝分かれになって
いる道を右に行く。少々の上り坂である道を淡々と進んでいくと、
何やら人で溢れ返っている場所へと辿り着く。
大体どこも混んでいるが、ここだけは何だか異様である。
男女問わず、道路脇に佇む一軒の店前にて騒ぎ合う彼等。よく見
ると彼等の顔はすっかり朱色に染まっており、酒の匂いを辺りに放
っている。
率直に言うと、あまり長居したくない場所だ。ゼノスは酔っ払い
共も何とかかいくぐり、彼等の中心となっている店先へと向かう。
そして彼等の最前列にいくと、店先では甲乙つけがたい酒飲み争
いが繰り広げられていた。
﹁おらあ十二杯目ぇ!次こいや次!﹂
ガタイの良い三十代ぐらいの禿男が、隣に立つ大男に不敵な笑み
を向けながら言い放つ。
2519
どうやら彼は隣の男と呑み比べをしているらしいが︱︱
その隣の男⋮⋮というよりも、老人はゼノス達の知る人物であっ
た。
﹁ふん、やりおるのう。パステノンの戦士でも、ここまで勢いのい
い奴は中々おらん﹂
老人は不満そうに鼻息を鳴らし、木製のでかい︵およそ通常の二
倍以上は大きい︶ジョッキを無造作に口に運ぶ。
⋮⋮嗚呼、間違いない。
あれは正しく、アルバート・ヴィッテルシュタインである。
﹁くく、よお六大将軍様ぁ⋮⋮ひっく。いつもは感謝している身だ
がぁ、俺ぁこれだけは譲れねえんですよ⋮⋮。悪い事は言わねえ、
もう諦めてはどうですかい?﹂
相手であろう男は泥酔状態のままアルバートに問いかける。酒屋
の店主から大ジョッキを奪い、口から零しながらビールを口にする。
2520
両者の目前にあるテーブルの上には、既に呑み終えたジョッキが
置かれている。男の方には十一個のジョッキがあり、アルバートの
方には九個のジョッキが放置されていた。
どうやらこの呑み比べ、現在は男の方が有利らしい。
男の知り合いらしき連中は声が枯れんばかりの応援を送っており、
他の野次馬連中も﹁打倒!アルバート様!﹂と声高く言っている。
⋮⋮おいおい。
ゼノスは額に手を当て、やれやれと小さく呟いた。
﹁ん∼、何だか接戦のようだけど⋮⋮アルバート様ってあんなに控
えめだったっけ?以前見た時はもっと豪快に飲んでたような﹂
素朴な疑問をラヤが投げかける。
それは至極最もな疑問であるが、わざわざ答えてやるほどでもな
い。ゼノスは嘆息しながらアルバートを指差す。
2521
︱︱そしてその時、彼は思わぬ行動に出た。
周囲からどよめきが生まれる最中、アルバートは欠伸をしながら
席を立ち、隣で威圧感を放っている樽へと歩み寄る。もちろんビー
ルが入った酒樽であり、同時にアルバートの為に用意された物であ
る。相手方の男にも専用の酒樽が設置されているが、彼は樽に手を
つけようとはしない⋮⋮いや、それは当然であろう。
だがアルバートは違う。
首を鳴らしながら、彼は満面の笑みを大衆にぶつける。
﹁見ておれ小童共。︱︱今から、圧倒的な実力を見せてやるわい﹂
どよめきが更に強くなり、そしてそれは驚愕の叫びへと変わる。
何とアルバートは⋮⋮酒樽を両手で持ち上げ、飲み口を自分の口
へと使付ける。まだ大量にビールが入っているのか、アルバートの
腕はいつも以上に盛り上がり、相当な力を加えている。
2522
相手方の男と大衆が唖然とする中、彼は豪快にビールを飲み干す。
威勢よく酒樽を地面に置き、顔を真っ赤にさせながら咆哮する。
﹁どうじゃああああ!これで儂の勝ちじゃて!﹂
﹃う、うおおおおおおおお!﹄
まるで弾けるかの如く、大衆はアルバートコールを唱える。
相手方の男は、﹁う、嘘⋮⋮だろ?﹂と言って、静かにその場で
崩れ落ちた。完璧な酩酊状態である。
一方のアルバートはまだ酔っていないのか、店の主人にもっと酒
を持って来るよう告げる。⋮⋮まだ飲むのか。
流石に飲み終えるまで待てないので、ゼノスは先陣を切ってアル
バートの元へと近寄る。
ゼノスに気付くと、アルバートは気さくに呼び掛けてくる。
2523
﹁おお、小僧か!どうしたお前、確か今日はダラダラと過ごしてお
ったんじゃないか?﹂
﹁そうしたかったが、残念ながら仕事が入ってな。今日はその用事
を済ませに出掛けてるんだよ﹂
大きく欠伸をしながら、ゼノスは持っていた書類をアルバートの
眼前に突き付ける。
一瞬何事かと思ったアルバートであったが、やがて合点がいった
ように何度も頷く。
﹁⋮⋮地方駐屯所に送る宣誓書か。要するに、ここにサインをする
よう言われたわけかの?﹂
﹁まあな。正直こういうのは部下にやって欲しいものだが、どうし
ても直筆のサインが欲しいんだとさ⋮⋮あ∼ねむい﹂
別に本人でなくともいい気がするが、その辺りは形式上の問題な
のだろう。
それに過去の事例にも、偽造の宣誓書を防衛要所に送り付け、他
2524
国からの侵入を援助した事件があったらしい。ここまで念入りに行
うのも、もしかしたらそのせいかもしれない。
アルバートはゼノスから紙を貰い、酒を飲みながら紙にサインを
する。粗雑だがはっきりとした字で、アルバート・ヴィッテルシュ
タインと明記する。
よし、これで一人目。
隣にいるラヤも﹁ようやく一人目かあ∼﹂と呟いている。まあ、
億劫な気持ちは十二分に分かる。
﹁さて、次に行くか。悪いなアルバート、お楽しみなところ邪魔し
て﹂
﹁気にするでない⋮⋮っと、そうじゃ小僧。丁度いい、お前に見せ
たいものがあったんじゃ﹂
そう言って、アルバートはごそごそとズボンのポケットを漁り、
やがて一枚の紙を取り出す。
普通の紙、とは全く違う。光沢紙を用い、更にその表面をインク
ジェットを用いて描かれたそれは⋮⋮この世界のものではない。
2525
︱︱﹃写真﹄だ。
咄嗟にあるドラゴンの事を思い出し、ゼノスは嘆息しながら問う。
﹁⋮⋮それ、ジハードから貰ったやつか?﹂
アルバートはニヒルに微笑みながら答える。
﹁まあの。あの竜、中々面白い技術を持っている。よもこの場で⋮
⋮あの子の今を見れているんじゃから﹂
どこか嬉しそうに、そして安堵しきった様子で呟くアルバート。
その写真に写る光景は、まさに彼の願いそのものだろう。
北方の地パステノンにある修道院の前で撮られた、複数人の修道
女の集合写真。皆が一様に緊張しているように見えるのは、恐らく
ジハードの写真撮影に困惑しているからだろうけど⋮⋮。
2526
それはともかくとして、彼女達の中に見知った人物が立っていた。
微笑みを浮かべるその少女は︱︱紛れもない、セラハである。
修道院に入るとは聞いていたが、もう既に彼女達の一員になって
いたのか。どこをどう見ても、殺人狂としての面影は消え失せてい
る。
これでもう、彼女が外道に堕ちることはないと思う。確信はない
が⋮⋮そんな気がするのだ。
﹁⋮⋮全く、世の中には良い神もいるもんじゃな。こうしてまた、
あの純粋無垢なセラハを見れたのじゃから。感謝してもしきれない﹂
ふいに、アルバートの瞳から一筋の涙が零れ落ちる。
まるで今までの苦悩が取り除かれたかのように、地面へと落ちて
いく。
﹁⋮⋮すまん。今は泣いている場合ではないな﹂
2527
ゴシゴシと目元をぬぐい、元の厳つい顔つきになる。
残っていた酒を全部飲み干し、写真をしまいながら続ける。
﹁これから先、恐らくもっと最悪な状況に陥るじゃろう。今までは
儂等六大将軍の力で圧倒してきたが、それが通じぬ相手もきっと出
てくるはず。⋮⋮例えばそう、あのガイアの弟子であるドルガとか
な﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
そして彼だけじゃなく、もっと多くの強敵も現れるだろう。
神や悪魔、神獣、並みのシールカードよりも恐ろしい存在。もし
かしたら、ゼノスが想像する人物も、敵として︱︱。
﹁あまり深く考えるでない、小僧﹂
ゼノスの意図を察したのか、真剣な表情で言い放つアルバート。
やがてその大きな手をゼノスの頭に乗っけて、荒々しく撫で始め
2528
る。
﹁ちょっ、おい!?もう子供じゃないぞ⋮⋮!﹂
﹁はっはっはっ。儂にとってはまだまだ小僧じゃ﹂
彼は断固として手を離そうとせず、高らかに笑いながら撫で続け
る。
面倒な爺さんだ。
けど⋮⋮嫌な感じはしなかった。
ラヤが目を白黒させているのも気にせず、アルバートはゼノスに
語り掛ける。
﹁如何なる者が待ち受けようと、我々にとっては同じ敵じゃ。儂に
とっても、ゼノスにとっても、ランドリオ帝国民にとっても⋮⋮そ
して、アリーチェ皇帝陛下にとってもじゃ﹂
﹁︱︱﹂
2529
﹁大切だった人間が敵に回るなど、よくある話じゃろうに。最初か
ら疑えとは絶対に言わん。じゃが心構えだけはしっかりしておけ。
何事にも動じぬ心こそ、上に立つ者にとっては必要なものじゃ﹂
﹁⋮⋮ああ、そうだよな﹂
分かっている、そんな当然のことは。
だがアルバートに再度言われたことにより、ゼノスに巣食う複雑
な思いが幾分か消えたような気がした。
そうだ、気にしても仕方がない。
今のゼノスは︱︱ランドリオ帝国六大将軍が一人。
守るべき者がいる、共に戦ってくれる仲間がいる。彼等の努力を
無駄にしない為にも、ゼノスは臆せず導くという義務がある。
そんな当たり前のことを、再認識したような気がする。
2530
﹁まあとにかく、これ以上難しいことを言うつもりはない。何せ今
日は、久しぶりの休暇じゃからな﹂
そう言って、アルバートは店主に酒を持って来るよう言う。
﹁どうじゃ小僧たち、お前達も一杯⋮⋮っと、そういえばまだ仕事
じゃったかの?﹂
﹁はあ、面倒なことにな。⋮⋮てかもう帰っていいか?眠くて仕方
ないんだが﹂
今日はかれこれ十時間以上寝ていたが、それでもゼノスにとって
は寝不足である。早く部屋に戻って寝たい。それで夜に起きて、城
内の騎士専用食堂で飯を食い、また朝まで眠る⋮⋮それがゼノスの
理想であった。
しかしラヤが許してくれるはずもなく、彼女は頬を膨らませなが
らゼノスの腕に抱き着いてくる。
﹁ぬおっ!﹂
﹁駄目だよゼノス将軍。ほらこうして支えてあげるから、次行くよ
次!﹂
2531
彼女は片腕を高らかに上げ、一生懸命鼓舞してくる。
ラヤは気付いていないのだろうか?
今ゼノスは、ラヤの小さいとは言えない胸を押し付けられ、内心
ドギマギしていた。男勝りな少女のくせに、何故だか良い香りもし
てくる。フローラルな香りがゼノスの鼻孔をくすぐり、変な気分に
なる始末である。
あろうことか屈託のない、年相応の少女らしい微笑みも浮かべて
くる。その絵面は、まるで恋人に対する求愛行動のようである。
さしものアルバートも理解したようで、額に汗を垂らしながら告
げる。
﹁⋮⋮悪い事は言わん、今のうちに目を覚ましとくんじゃ。でない
と変な誤解を招くぞい。特に⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹂
?
言葉を続けようとした彼は、突然口を半開きにしながらゼノスの
2532
後方を凝視する。
ぞくり。
瞬間、ゼノスの背筋に寒気が走る。
ラヤは気付いていない。相変わらずゼノスに胸を押し付け、﹁ぬ
ふふ、やっぱり将軍の身体いいねえ﹂と、この状況で絶対に言って
はいけない言葉を放つ。
それを期に背後の気配が殺気へと変貌し、ゼノスの状況分析に拍
車をかける。
嗚呼やばい。死んだかも。
そろりそろりと、緊張のあまり上手く回らない首を後ろに向ける
と⋮⋮。
︱︱そこには、踊り子衣装を着たイルディエがいた。
2533
彼女はニコニコと微笑んでいるが、目だけは笑っていない。
﹁あらゼノス、昼間からお盛んね。⋮⋮⋮⋮で、この娘は誰かしら
?三秒以内に答えなさい。三、二、一﹂
﹁は、話す!話すからその握り拳をしまえッ!﹂
その後、ゼノスは彼女を説得するのに十五分もかかった。
2534
︵第一週︶ep2 アルバートの休日︵後書き︶
※次回の投稿日程に関しては活動報告をご覧ください。
2535
︵第一週︶ep3 イルディエの休日
﹁⋮⋮なるほど、ゼノスを眠らせないように支えてたわけね﹂
イルディエはゼノスの隣を歩きながら、納得したように頷く。
ゼノス達はアルバートと別れ、今度はイルディエと共に商業区を
歩いていた。商業区とは言っても、現在闊歩している辺りには出店
らしきものは見当たらない。代わりに大道芸といった見世物や、色
々な展示物が並べられている。
先程よりも人数も多く、すれ違う人間とぶつかりながら歩いてい
る状況だ。
しかしイルディエはそんな事は気にせず、同じくゼノスの隣を行
くラヤに視線を向ける。
﹁えっと、ラヤ?誤解してごめんなさいね﹂
2536
ラヤはそれに対し、快活に笑いながら答える。
﹁別に気にしてないって∼。⋮⋮それより聞きたいことがあるんだ
けど、何でイルディエ将軍は踊り子衣装着てるのさ?いやまあ、い
つもそんな感じの恰好なのは知ってるけど、今日はいつにも増して
露出が⋮⋮﹂
﹁お前が言うなって⋮⋮。でも確かに、今日はいつもと違うな。何
かやるのか?﹂
今日のイルディエは腰に巻いている腰巻を取り、肩には薄いヴェ
ールを羽織っている。首と腕には細かい意匠のネックレスとブレス
レットを身に着けており、いつもとは恰好が違う。
まあ大体予想できるが、それでもイルディエは答えてくれた。
﹁ええ。実は今日、ここで踊りを見せるのよ。何でも毎年この日に
やってる舞踏コンテストがあるらしくて、それに出て欲しいって主
催側に頼まれたってわけ。ふふ、今から楽しみだわ﹂
イルディエは嬉しそうに、身体を弾ませながら歩く。⋮⋮その豊
満な胸が揺れ、周囲の視線がそれに釘付けになっているのは言った
方がいいのだろうか。
2537
じっくり見つめている事に気付いたのか、イルディエがなぜか嬉
しそうにこちらを見返してくる。
﹁な、何だよ﹂
﹁べっつに∼?ただ、ゼノスも男の子なんだな∼ってね﹂
﹁子ってなあ⋮⋮これでも一応、成人なんだが﹂
とはいえ、まだ二十歳なのは自分でも理解している。成人したと
はいえ、まだ自分がそのスタートラインにいるってことは自覚して
いるつもりだ。
しかしアルバートといいイルディエといい⋮⋮ちょっと自分を子
ども扱いしすぎじゃないだろうか?
﹁そういうイルディエもまだ十九歳じゃないか。女の子なんだから、
そういう過激な衣装はどうかと⋮⋮﹂
﹁あら、これはだって伝統衣装の一つだもの。例えゼノスであって
も、かれこれ言われる筋合いはないわ﹂
2538
﹁うぐっ⋮⋮﹂
ゼノスは二の句を告げなかった。
だがイルディエは、﹁けどまあ﹂と付け足して︱︱
﹁遠回しに言ってるけど、要は周りに気を付けろってことでしょ?
心配してくれて有難うね﹂
彼女は花が咲いたかのように微笑む。
反則だ。反則過ぎる。
そうやって言われてしまえば、もうそれ以上何も言えないではな
いか。
ゼノスが恥ずかしそうに俯いていると、ふとイルディエは素朴な
疑問を尋ねてくる。
﹁そういえば、ゼノスは何で町に来てるのかしら?今朝まではぐっ
すり眠ってたのに⋮⋮何かあったの?﹂
2539
﹁いやなに、簡単な仕事が入ってな⋮⋮⋮⋮ってイルディエ、俺が
寝てたの知ってたのか?﹂
思えばアルバートも、何故かゼノスが部屋で寝ていた事実を知っ
ていた。別に誰にも話した覚えはないのに。
イルディエはそれを聞き、呆れながら嘆息する。
﹁大体は予想できるわよ。それに実はね、今日みんなでゼノスを起
こそうとしてたのよね∼﹂
﹁?皆って?﹂
﹁ゼノス以外の六大将軍﹂
ゼノスは一瞬、何を言われたのか分からなかった。
﹁⋮⋮気付かなかったけど﹂
2540
﹁ええ、流石の私達もビックリしたわよ。どんな方法で起こそうと
しても起きなかったんだもの﹂
イルディエはその時のことを思い出したのか、彼女にしては珍し
く苦々しい表情を浮かべながら告げる。
﹁あれは七時ぐらいだったかしらねえ。ユスティアラが刀をゼノス
の眼前に突きつけても、アルバートがベッドごと持ち上げても、ホ
フマンが自分のワインをゼノスに呑ませても起きなかったのよ﹂
﹁うわあ⋮⋮﹂
隣にいるラヤが、まるで恐ろしいものを見たかのように呻く。
ゼノスも顔面が蒼白となり、同時によくそこまでされて起きなか
ったなと自分で感心していた。もちろん悪い意味で。
﹁竜帝が咆哮しても起きないし、よっぽど疲れていたのかしらね﹂
﹁いやどうだろうな﹂
2541
確かにパステノンでの一件からそんな時間は経っていないし、事
後処理で疲弊していたというのは事実だ。けどだからと言って、そ
こまでされて起きない事と繋がるだろうか。
恐らくだが、休日だから絶対に起きないぞと念じたせいかもしれ
ない。
﹁︱︱それで、イルディエも俺を起こそうとしたのか?﹂
﹁え?⋮⋮あ、う、うん。まあね﹂
何故かは知らないが、唐突に歯切れが悪くなるイルディエ。
余程最悪な起こし方をしたのだろうか?頬を赤らめ、その艶めか
しい肢体を若干よじらせながら沈黙する。
熱っぽい視線を向けながら、一生懸命言葉を紡ごうとするが⋮⋮
出ない。
ゼノスが疑問に駆られていると、ふいに横からラヤが口出しをし
てくる。彼女は合点がいったように、自分の手の平に握り拳を当て
ながら言う。
2542
﹁あ⋮⋮!もしかしてあれかな?﹂
﹁何か知ってるのか?﹂
﹁え?ああ、うん⋮⋮まあ。ちょっと耳貸してよ、将軍﹂
気まずそうに手で呼び寄せてくるラヤに答え、ゼノスは彼女の耳
打ちを聞く。
イルディエは恥辱に我を忘れているようで、こちらが内緒話をして
いるのはばれていない。
全てを聞き終えたゼノスは、驚きのあまり絶句した。
顔面を真っ赤に染めながら、ゼノスはとりあえずラヤの話を整理
する事にした。
彼女によると、それは朝の散歩途中のことだった。
早起きしたラヤは暇を弄ぶために、騎士宿舎を何の気なしに散歩
していたらしい。そして勿論、六大将軍たちの住む階層もその範囲
内だったらしいが⋮⋮ゼノスの部屋を過ぎようとした時、彼の部屋
から六大将軍たちが退出する場面を見たらしい。
2543
途端に興味が湧き、ラヤはこっそりとゼノスの部屋を覗いたとい
う。
そしたら⋮⋮こんな場面に遭遇したらしい。
踊り子衣装姿のイルディエが上着を脱ぎ、寝ているゼノスの顔に
自分の胸を近づけ︱︱
自分の胸に、ゼノスの顔を埋めさせた衝撃的な瞬間を。
きっと他の六大将軍たちが退出したことで、途端に安心しきった
のだろう。ラヤの存在には全く気付いていなかったという。
イルディエは嬉しそうに微笑みながら、甘い呟きを唱え続けてい
た。 ﹃ゼノス様∼、早く起きて下さい∼♪﹄
2544
﹃何だか新婚さんみたい。起きて、貴方︱︱なんて!きゃ∼♪﹄
﹃ふふ、やっぱりゼノス様は素敵だなあ。⋮⋮あ∼あ。もし叶うな
ら、一生側にいたいのに﹄
ゼノスの顔に頬ずりしながら。
ゼノスの額にキスをしながら。
ゼノスに添い寝しながら。
彼女は︱︱イルディエは普段の態度から想像できない態度と口調
で、そう一方的に呟いていたらしい。
ラヤの悪い冗談か?⋮⋮いや、それは有り得ないだろう。絶対と
は言わないが、彼女は多分嘘が苦手だ。言いたい事は素直に言うし、
本性を隠す真似もしない。それはラヤとの初対面の時に分かったこ
2545
とである。
つまり、イルディエは本当にそのような行為に及んでいたのだ。
傍から見れば恥ずかし過ぎる行為を⋮⋮。
︵というかイルディエ、本当の性格は昔と変わらないんだな︶
薄々分かっていたが、やはりイルディエはいつも無理をして大人
びていたんだろう。
⋮⋮⋮⋮いやいや、そうじゃなくて。
ゼノスは首を振り、改めてイルディエの方を見つめる。
彼女と目が合い、また湯煙が出そうなほど顔を赤らめる。やはり
普段の態度からは想像できない。
何故?︱︱なんて言うほど、ゼノスは朴念仁ではない。
空を見上げ、今はいないラインの言葉をふと思い出す。
2546
﹃でもねゼノス、これしきで思い詰めてちゃあいけないよ。︱︱案
外、ゲルマニアと同じ境遇の人は多いかもよ?﹄
パステノン王国でゲルマニアと険悪となった翌日、ラインが追い
打ちをかけるように放った言葉である。
ゲルマニアはゼノスに好意を抱いている。だがそれは他にもいて、
ゼノスの身近に彼女達は存在する。
それが一体誰なのか分からなかったが⋮⋮たった今、一人判明し
た。
︵︱︱イルディエか︶
ゼノスは沸き起こる欲をどうにか律し、冷静に考えていく。
何故自分が好かれているのかを。
2547
思い当たる節は⋮⋮あると言えばある。数年前、砂漠の町トル︱
ナで奴隷だったイルディエを救い、そして六大将軍という地位にま
で押し上げたのは、紛れもないゼノスだ。
しかしそれは当然のことであり、誰だってすることだろう?
救いの手を差し伸べもするし、能力があればその才能を発揮させ
ようと努めるものである。
︱︱それとも、ゼノスは他の人間と思考が違うのだろうか?
今まで色恋沙汰とは縁遠かったゼノスにとって、神獣と戦うより
も難しい問題であった。
﹁︱︱あ、着いたわね﹂
まるで何事もなかったかのように、イルディエが目的地を指差す。
商業区を一望できる丘の上の公園。この城下町で唯一、草木で覆
われた緑豊かな地帯である。人々の憩いの場でもあり、広場に次い
で催しの会場にもなり得る場所でもある。
2548
ゼノス達が公園へ続く階段を登っていくと、既に公園には多くの
人々でひしめきあっていた。
これは全員、その舞踏コンテストを見に来た連中なのだろうか。
食べ物や酒を売る出店とかはあるが、下にある商業区とは違い、遊
んで楽しめるものは一切存在しない。
⋮⋮恐らく、コンテストの為だけに用意されたものばかりなのだ
ろう。
それはともかく、整備された遊歩道を進んでいくゼノス達。和気
藹々と寛ぐ人々と出くわしながら、やがて開けた場所へと辿り着く。
空は高い木々によって覆われ、木漏れ日がライト代わりになって
いる公園の奥部。今は朝のはずなのに、その空間だけは夜のように
暗い。
点々と設置されている松明に、僅かに差す陽の光だけが灯りとな
っている。とても幻想的で、尚且つセンチメンタルな気分にさせて
くる。
と、そこでゼノスは中央を見る。
2549
樹齢一万年以上はあったであろう大木の切り株が鎮座しており、
そこには幾つかのスポットライトが当てられている︵これも多分、
竜帝が異世界から持ち出してきたものだろう︶。
これがステージか。そしてその横には、これから舞踏行うであろ
う男女と、既に音楽に興じている演奏家たちが待機している。
ゼノス達は勘客側の方におり、そこには多くの人間で賑わってい
る。異世界の﹃ライブコンサート﹄のようにぎゅうぎゅう詰めでは
なく、ちゃんと余裕をもって見れるスペースだ。
良く見れば最前列の端に急ごしらえの酒場もあるし、どう見るか
は自由といった様子である。
﹁すっげー⋮⋮何か別の国に来たみたいだよ﹂
ラヤも感嘆の吐息を吐きながら呟く。
﹁あ、ああ。これは良いな⋮⋮。てかイルディエ、そろそろ舞踏コ
ンテストが始まるんじゃないか?﹂
﹁そのようね、ちょっとのんびり行きすぎたかしら?﹂
2550
そう言いながら、イルディエは軽い足取りでゼノス達から離れて
いく。
﹁じゃあね∼ゼノス!私の踊り、ちゃんと見てよ?﹂
ウィンクしながら振り返るイルディエに、ゼノスは返事の代わり
に手を上げる。
それに満足したのか、イルディエは周囲の驚きに包まれながら待
機場へと向かって行った。
本当は踊りを観賞する暇はないのだが、まだイルディエのサイン
を貰っていないのも事実。必然的に見るしかないと悟ったゼノスは、
ラヤを連れて急ごしらえの酒場へと足を運ぶ。
設置されたウッドデッキの上に、見慣れた酒場の光景。
何気なくやって来たゼノスだが⋮⋮⋮⋮思いもよらぬ人物に向か
い入れられた。
2551
﹁い、いい、いらっしゃいませ!マダム・サザリアの酒場へようこ
そ⋮⋮⋮⋮あれ?﹂
﹁⋮⋮﹂
はあ。
もはや持病になりかけている頭痛に頭を悩ませながら、深い深い
溜息をもらす。
目を白黒させ、﹁へ?え?ええ!?﹂と驚くラヤをよそに、ゼノ
スは深く深呼吸をし、ジト目になりながら告げる。
﹁︱︱アリーチェ様、まだここで働いていたのですか﹂
2552
2553
︵第一週︶ep3 イルディエの休日︵後書き︶
※投稿遅れて申し訳ありませんでした。5月8日の午後十時ごろに、
次話投稿の予定日を割烹で発表します。
2554
︵第一週︶ep4 華麗なる余興
ひとまずゼノス達は席へと案内され、飲み物を頼む事にした。
ゼノスは渋い苦みの効いたサバ茶を、そしてラヤは砂糖入りのミ
ルクを頼む。どちらも冷たいため、乾いた喉に確かな清涼感をもた
らしてくれた。
﹁ぷっはーッ!今日は暑いから美味く感じるよ∼!﹂
﹁そりゃ確かに。まだ冬の終わり頃なんだが、今日は夏並みだな⋮
⋮﹂
この世界には﹃百葉箱﹄なんていう代物がないので気温は計れな
いが、体感温度から察するに⋮⋮二十八から三十度あたりか。
公園は木々に覆われているため暑さが幾分か和らいでいるが、町
の方は強い日差しに照らされ、南国にも似た空気を漂わせている。
2555
道行く人々も上着を脱いでいたし、かくいうゼノスもジャケット
の裾を巻いている状態だ。ラヤは⋮⋮まあいつも通り、大きく胸の
空いた上着を羽織り︵デニム製に似ている︶、下は淑女とは程遠い
ハイレグ式のパンツであるが。
そんなわけで、今日は特段に暑い。
二人は額に汗を浮かべながら、コンテストまで静かに待とうとし
たが︱︱
﹁⋮⋮そういえば﹂
﹁ん?﹂
図らずも、ラヤが話しかけてくる。
特に重要そうな話ではないのか、軽い調子で続けてくる。
﹁何で六大将軍たちはゼノス将軍を起こそうとしたんだろ?それも
全員で﹂
2556
﹁あ∼⋮⋮そういえばそうだったな﹂
別に何も考えていたわけではなかったが、ラヤにそう言われると
気になるところだ。
何か危険な事態が起きたのか?︱︱いや、それはないだろう。
アルバートやイルディエの態度から察するに、まずランドリオの
危機に関することではない。
もっと他のことに違いないが⋮⋮何だろうか?
﹁お!分かった!﹂
飲み干したミルクの瓶を置きながら、ラヤが叫ぶ。
﹁きっと皆で遊ぼうと思ったんだよ!﹂
﹁はい?﹂
遊ぶって、仮にもランドリオ帝国の準トップたちなんだが。
2557
それに分かっていると思うが、一人一人の年齢がバラバラだ。ゼ
ノスとイルディエは一個違いであるが、ユスティアラは23歳、ホ
フマンは27歳、アルバートなんて60歳以上の爺さんだ。
ジハードに至っては軽く千歳以上を超えているが⋮⋮まあそこは
深く追求しないでおこう。
とにもかくにも、それぞれ遊びの趣向というものが違うはずだ。
﹁⋮⋮それはまずないな﹂
﹁えーどうしてだよ?だって将軍たち、いつも一緒にいるじゃん?
普通の将軍同士は地位争いとか結構いがみ合いが多いはずだし。で
も将軍たちにはそういうのないわけだし?﹂
﹁それで遊ぶ仲というわけか?ないない。それに遊んでばっかいた
ら、誰が神獣や敵対勢力からランドリオを守ってるんだ?﹂
﹁あ、そっか⋮⋮って、敵対勢力に対してはあたし達も頑張ってる
んだけど﹂
2558
結構いい線いってたと思うんだけどなあ、とぼやきつつ、まだ納
得がいっていないように思案し始める。
悩んでも仕方ないように思うが、これで静かになるのは幸いだ。
ゼノスは椅子の背もたれに身を預け、軽く仮眠を取ろうとするが
︱︱またまたそうもいかなかった。
﹁︱︱あ!本当だ、本当に来てる!ゼノス様∼!﹂
のんびりと寛ごうとしたその時、後ろから声を掛けられる。
声に聞き覚えがあったので、大体誰かは分かっていた。
その少女︱︱カルナはゼノス達の席に到着すると、可愛らしいウ
ェイトレス用のドレスをなびかせ、頭を下げてくる。
﹁その、先日はお世話になりました!ジョナとルルリエを助けただ
けでなく、私の故郷を救ってくれて⋮⋮ッ!﹂
2559
﹁あ∼後者に関してはアルバートに言ってくれ。俺は今回ほとんど
何もしてないしな。⋮⋮にしてもカルナ、もうランドリオに戻って
大丈夫なのか?﹂
聞く所によると、ジーハイルは国王代理として政務に尽力を注い
でいる最中だ。サザリアは流石に孤児院の子供達が心配らしく、ジ
ーハイルが落ち着くまでパステノンに滞在しているらしいが⋮⋮カ
ルナもいた方がいいのではないのだろうか?
ゼノスの心配を察したのか、カルナは曖昧に笑みを浮かべる。
﹁まあ、私もサザリアの手伝いをすると言ったのですがね⋮⋮。﹃
こっちの心配をするぐらいなら、店の心配をしておくれ﹄って言わ
れちゃったんです。だから不安ではありますが、こうして戻って来
たというわけで﹂
﹁そうか⋮⋮。何か心配事があったら言ってくれ。俺とイルディエ
だったら大抵のことなら手伝えると思うし﹂
そう言うと、カルナは感極まった様子で頷く。
﹁は、はい!有難うございます!﹂
2560
ぺこぺこと何度も頭を下げた後、彼女は頬を赤らめながらカウン
ター裏へと立ち去っていく。
それとカルナが去る前に言い残していたが、アリーチェは客に出
す料理を作り終えてからこちらに来るらしい。⋮⋮ウェイトレスだ
けではなく、料理人としても働いているのか。
︱︱そして三分ぐらいが経った後。
ラヤと適当に会話をしていると、情熱的なアコースティックギタ
ーの音色が響き渡る。
そろそろ始まるのか、舞台となる切り株の上に一人の踊り手が参
上する。
︱︱イルディエだ。
彼女は湖上を舞う妖精のように一回転し、一寸もずれることなく、
完璧な姿勢でお辞儀をする。
途端、観客席から爆発的に歓声が上がる。
2561
彼女︱︱イルディエは六大将軍。それと同時に、世界的に有名な
ダンサーの一人でもある。踊りが好きな彼等にとって、イルディエ
のダンスは信仰の対象でもあるのだろう。
激しい歓声は止む事を知らない。
だが、イルディエはそれを簡単に止める。
彼女が右手を上げ、左足を前に出す事によって︱︱一斉に鳴り止
む。
そう、踊りが始まろうとしているのだ。
彼女から沸き起こる情動が観客たちにも伝わってくる。今、彼女
と彼等は一つになろうとしている。
一瞬の静寂︱︱︱︱そして、始まり。
コンガのような打楽器が軽快なリズムを作り、マラカスのような
2562
ものが一定の音を生み出す。そしてギターが主旋律を奏で、異世界
でいう情熱的な﹃ラテン音楽﹄を演奏する。
︱︱早い。しかしイルディエは、苦戦することなく華麗に舞う。
心躍るリズム、それに乗って踊り狂う。
時にはゆっくりと、そして時には激しく。
アステナの民は踊るために生き、踊るために死んでいく。
言わば踊りこそが生き甲斐であり、そこに理由など存在しない。
だからこそ︱︱彼女は活き活きとしている。
アステナの民であった時も、奴隷だった時も、そして今も︱︱そ
れは変わらない。
﹁⋮⋮素晴らしい踊りですね﹂
2563
と、ゼノスが踊りに見入っていた時。
いつの間にか隣の席に座っていたアリーチェが、微かな微笑みを
浮かべながら言ってきた。
﹁あ⋮⋮申し訳ありません。ついイルディエのダンスに夢中になっ
てて﹂
﹁いいのですよ、それは私も同じですから﹂
そう言って、アリーチェは眩しそうにイルディエを見据える。
﹁︱︱彼女の過去がそうさせているのでしょうか。まるで怒りも、
悲しみも、喜びも、その全ての感情を込めて踊っているような⋮⋮
そんな気がします﹂
﹁⋮⋮﹂
まるで彼女の過去を知っているのか如く、アリーチェは達観とし
た言葉を言い放つ。
2564
ああ、そうだ。
彼女はヴァルディカ離宮で、六大将軍全ての過去を垣間見てきた。
知っているのは当然、だからこそアリーチェは、全てを悟ってい
るかのように話す。
やはりそこには、皇女だった頃の面影は存在しない。
あらゆるものを慈しむ皇帝陛下が、ゼノスの隣に座っていた。
﹁⋮⋮あの、アリーチェ様﹂
﹁ゼノス、話は後にしましょう。今はこの最高の一時を、私に味わ
せて下さいな﹂
﹁ッ!はッ⋮⋮承知しました﹂
そう言い返されては言葉もない。
2565
彼女の命に従い、この余興を最後まで堪能することにした。
2566
︵第一週︶ep4 華麗なる余興︵後書き︶
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2567
︵第一週︶ep5 アリーチェとの会話
イルディエによる余興も終わり、舞踏コンテストは幾許か穏やか
さを取り戻した。
彼女の踊りがあまりにも凄まじかったのか、その後のダンサーは
何となく味気ない。確かに見ていて面白いが、際立つものがないの
だ。
静かな曲調とともに、やがてダンサーの踊りもゆったりとしたも
のに変わる。
頃合いと見たのか、アリーチェはようやく舞台から目を離す。ゼ
ノスもそれに倣い、彼女の顔を窺う。
ああちなみに、ラヤは既にここにはいない。
先程フィールドが訪れ、他の仕事があるから来てくれと頼んでき
たからだ。書類の件が残っているとラヤは反抗したが、ゼノスが代
わりに受け持つと言うと、彼女は渋々ハルディロイ城へ帰投したわ
2568
けだ。
結局ゼノスは六大将軍全員に会わなければならないが、彼等とは
色々と話したいことがある。その点に関しては不満も何もない。
というわけで、今はゼノスとアリーチェの二人だけなのである。
﹁︱︱そういえば﹂
最初に口火を切ったのはアリーチェだ。
一つにまとめ上げた髪を揺らし、顔を若干横に傾けながら告げる。
その表情は満面の笑みに包まれていた。
﹁こうやってお二人で話すのは久し振りですね﹂
﹁そう言われるとそうですね。ヴァルディカ離宮の一件以降、私も
アリーチェ様も忙しかったですし﹂
円卓会議や幾つかの場面で会話はしてきたが、それも全部事務的
2569
なものだ。私情を挟んだ会話は、確かにヴァルディカ以降はなかっ
た。
が、意図的に話しかけようとしなかった面もある。
それは何故か?
歯切れの悪いゼノスを見て、アリーチェは苦笑しながら問いかけ
る。
﹁⋮⋮まだ気にかけているのですか?エリーザによって自我を失い、
私の敵になっていたことを﹂
﹁⋮⋮ええ﹂
ゼノスは俯きながら答える。
﹁あれは仕方ないですよ。︱︱亡霊のギャンブラー、エリーザ。あ
そこまで恐ろしい存在とは誰も想像できませんでしたから﹂
﹁しかし!奴に操られていたのは紛れもない事実!⋮⋮これでは騎
士として失格です﹂
2570
﹁⋮⋮ゼノス﹂
アリーチェは更に言葉を紡ごうとしたが、やがてそれを諦める。
だが何を思ったのか、アリーチェはゼノスへと身を寄せて来て、
身体と身体が触れ合う位置にまでやってくる。
フローラルな香水の匂いが鼻孔をくすぐり、彼女の細く柔らかそ
うな手がゼノスの手の上へと置かれる。
傍から見れば︱︱まるで求愛し合っているカップルのようだ。
﹁恥じる必要はありません、ゼノス。貴方はあれから、何度も何度
も私を救ってくれたじゃないですか。今更気を負う必要はありませ
んよ﹂
﹁あ、有難うございます。ですが、その﹂
ゼノスは顔を真っ赤にさせ、周囲の様子を窺う。
2571
おかしい。さっきまで活気に満ちていたのに、急に周りが静かに
なっている。
よく見れば皆の視線がこちらに集まっており、ゼノス達の行方を見
届けている。
そして、聞きたくなかったさざわめき声も。
﹁ねえ、あれって⋮⋮﹂﹁ああ、聖騎士様とアリーチェ様だよ﹂﹁
何で二人きりで﹂﹁鈍いわねえ、察しなさいよ﹂﹁まさか、あの二
人が?﹂﹁み、見て!うぅ⋮⋮何だかこっちが恥ずかしくなってき
ちゃった﹂﹁キスするか?するのか?﹂﹁だとしたら、皇帝の婿さ
まが決まったな﹂
なんていう声が、あちらこちらから聞こえてくる。
終いにはカルナたちがハンカチを噛み締めながらこちらを睨みつ
け、待機場にいるイルディエもジト目でこちらを見つめてくる。
まずい。
2572
ゼノスは急いでアリーチェの手を引き剥がす。
﹁ゼノス?どうしたのですか?﹂ アリーチェは本当に分からないのか、首を傾げながら問う。
⋮⋮全部説明するのは面倒だ。ゼノスはその問いに答えようとは
せず、はぐらかすように言葉を紡ぐ。多分、今自分の顔は真っ赤に
染まっているのだろう。
﹁と、とにかく!お許し頂き感謝します。皇帝陛下が直々に許して
下さる以上、私もこれ以上は悩まないようにします﹂
﹁ふふ、良かったです。︱︱それでは、ようやく本題のほうに入れ
ますね﹂
﹁本題?﹂
彼女は﹁はい﹂とだけ答え、スカートのポケットから規則正しく
折りたたまれた紙を取り出す。
2573
それを開いた状態で、ゼノスに差し出した。
﹁⋮⋮調印書?﹂
﹁はい、これは先日パステノン王国側に送り出し、返って来たもの
のレプリカです。最初は拒まれるかと心配しましたが⋮⋮ジーハイ
ルという新しい君主は穏健派のようですね。快く調印してくれまし
た﹂
︱︱なるほど、和平条約の締結ということか。
こう言ってはなんだが、昔からランドリオ帝国とパステノン王国
は不仲の関係にあった。お互い大国という事もあり、過去数度に渡
って覇権争いがあったほどである。
だがそれは過去の話。
今回の件において、徐々にではあるが解消していくであろう。
ゼノスは居住まいを正し、羊皮紙に書かれた文章を一読する。
2574
﹃和平条約﹄というタイトルから始まり、その下には幾つかの和
平条件が事細かに書かれている。政治的・経済的・宗教的・あらゆ
る側面に関する改善方針のようだが⋮⋮。
淡々と読み進め⋮⋮⋮⋮そこで、とある文面に視線を落とす。
﹃和平条約第十四条︱︱パステノン王国は周辺植民地国の支配を解
くものとし、あらゆる面において干渉することを禁ずる﹄
︱︱植民地の解放。
ゼノスは食い入るように、その一文を凝視する。
﹁⋮⋮ゼノス、その第十四条はあらゆる植民地の解放に繋がります。
当然のことながら、貴方の故郷︱︱グラナーデ王国も。これからは
自由に行くことができます﹂
﹁⋮⋮そう、ですか﹂
何故だろうか。不思議と嬉しいという思いが湧かない。
2575
短い期間ではあったが、グラナーデ王国は紛れもないゼノスの故
郷である。ゼノスの根底はあそこから生まれ、培われてきたのだ。
⋮⋮そして、初めて大切なものが出来た場所でもある。
ドルガ、コレット、そしてガイア。その他にも多くの人々が、ゼ
ノスを大切に育ててくれた。
︱︱なのに何故。
どうして心の底から喜べないのだろうか。
﹁あの、ゼノス?﹂
ふと、アリーチェが心配そうに呟いてくる。
半ば呆然としていた自覚もあり、ゼノスはすぐさま謝る。
﹁ああすいません。⋮⋮そうですね、暇が出来たらグラナーデ王国
に行ってみますよ﹂
2576
﹁ええ、その方が宜しいかと﹂
アリーチェは理解したのか、様々な思いに駆られながらも答える。
⋮⋮暇が出来たら、か。
果たしてそんな余裕が生まれるのだろうか。今は確かに暇ではあ
るが、グラナーデ城のある島に行くには、ここからだと約一ヶ月は
要する。当然ながらこの長期休暇だけでは向かうだけで終わってし
まう。
︱︱それに。
嫌が応でも行く機会がある、そんな気がするのだ。
ふいに周りを見渡すと、観客の数が多くなっているようだ。酒場
スペースも混雑し、この様子だと出口まで行けないほどの量になる
だろう。
2577
他の六大将軍にも会わなければいけない故、そろそろ公園から出
た方が良さそうだ。
︱︱だが
﹁まいったな、イルディエのサインも貰わなきゃいけないのに﹂
控え場所に待機するイルディエを見る限り、彼女はこの後も踊ら
きゃいけないようだ。観客が増えたのもそのせいかと思ったが、そ
れに関しては不明である。
ゼノスがこめかみを抑えていると、アリーチェがおずおずと手を
上げてくる。
﹁⋮⋮あの、もし宜しければ私が後でサインを頂きましょうか?﹂
﹁ああいえ、流石にアリーチェ様に頼むわけにはいきませんよ。そ
れに、これから酒場も忙しくなるんじゃないですか?﹂
﹁う⋮⋮そうでしたね﹂
2578
彼女はハッとしたように目を見開き、やがて項垂れる様にテーブ
ルへと突っ伏す。よほど酒場の仕事が大変なのだろう。
では一体どうしたものか。
断ったのはいいが、今の所誰も仕事を頼めそうな者はいない。
⋮⋮⋮⋮。
いや。
いた。
しかしあまりにも予想外な光景に、ゼノスは唖然とする結果にな
ったが。
﹁あ!ドラゴンちゃんだ!お∼い、こっちにビール頂戴∼!﹂
﹃おうよ!ちょっと待ってな!﹄
﹁ミニ竜こっちにもワイン頼むよ∼﹂
﹃まあ待て待て、もうちょいしたら行くかんな!﹄
2579
と、客の注文を聞いているのは⋮⋮一匹の黒いドラゴンだ。
黒光りした鱗に、鋭利な牙。ここまで言えば凶悪な存在だと思わ
れるが、実際は全然違う。サイズは小型のペットと同じぐらいで、
背中にある小さな羽をパタパタとさせながら飛び回っている。
だがそんな野生じみた身体とは裏腹に、腹と背を隠すように緑と
赤いラインの入った腰巻を装着している。これはサザリアの酒場の
シンボルにもなっている旗と似ている。
︱︱つまり。
このドラゴンは、店の従業員として働いているわけだ。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あー⋮⋮⋮⋮えっと、そういえば彼がいましたね﹂
2580
隣に座るアリーチェは苦笑し、ゼノスにやんわりと伝える。
﹁彼︱︱ジハードが急に働きたいと言い出したもので、ね?﹂
﹁そ、そうですか⋮⋮﹂
もはや何も言う事はない。
どうせ働きたいというのも、この世界で商売になる方法も必死に
探すためだろう。あの竜帝は昔からそうだし、今更ゼノスが驚愕す
る必要もない。
頼るべき相手も見つかったため、ゼノスはようやく腰を上げる。
﹁それではアリーチェ様、俺はこれにて失礼します。どうかくれぐ
れも、無茶はなさらぬよう﹂
﹁勿論分かっています⋮⋮⋮⋮あ、そうだ﹂
﹁ん?﹂
2581
立ち去ろうとするゼノスだったが、何かを思い出したかのように
言うアリーチェへと必然的に振り向く。
彼女もまた立ち上がり、おもむろにゼノスの手を握ってくる。
そしてその表情は⋮⋮どこか恥ずかしそうであった。
﹁その⋮⋮もし宜しければ、二週間後の予定を空けてもらえないで
しょうか?少々突然ではありますが、連れて行きたい所があるので
す﹂
﹁え⋮⋮ええ、別に構いませんよ。どうせ寝てるだけ⋮⋮いや、何
も予定はないですし﹂
何気なくそう答えると、アリーチェは華が咲いたかのように笑顔
を浮かべる。
﹁そうですか!ではゼノス、その時を楽しみにしていて下さいね!﹂
アリーチェはただ一言、そう言い残して厨房へと走り去っていく。
︱︱二週間後。
2582
ゼノスは公園を離れるまで、その連れて行きたい場所について終
始考え込んでいた。
2583
︵第一週︶ep5 アリーチェとの会話︵後書き︶
※凄く遅れてしまいましたね⋮⋮。とにもかくにも、最新話を投稿
いたしました。
2584
︵第一週︶ep6 若き貴族と見捨てられた地区
イルディエとジハード本人のサイン書をジハードに受け渡した後、
ゼノスはまたある目的の場所へと歩いて行く。
商業区を離れ、下り坂の中央道を下っていく。商業区から一転し
て人の流れが少なくなり、露店の数もそれほど多くない。巷では﹃
大規模な住宅区﹄と呼ばれており、商業区のように活気的な雰囲気
はない。
だがランドリオ帝国首都、ハルディロイの人口約三割がここに集
中しているらしい。妙に密集住宅が広がっており、何だか狭苦しさ
を感じる場所だ。
﹁⋮⋮ふう﹂
ゼノスは静かな通りで足を止め、おもむろにポケットから紙を取
り出す。
そこには目的の場所への案内が記されている。実はさきほど、ジ
2585
ハードから貰ったものでもある。
たまたま偶然だったらしいが、ジハードは休みに入る前、ホフマ
ンから予定を聞き出していたらしい。
ホフマンは地図の示す先にいるらしく、丁度今の時間帯にいるん
じゃないかとジハードは言っていた。
詳しい経緯は知らないが、ジハード曰く、その情報に間違いはな
いという。
﹃まあ俺もどういった経緯で向かうかは分からねえがな。⋮⋮けど
あいつ、何だか寂しそうな顔してたぜ﹄
と、ジハードはこう述べていた。
﹁⋮⋮﹂
何だか引っ掛かるものを覚えつつ、ゼノスはまた歩き始める。
静かな通りを超えていくと、途端に周囲の景色が変容する。小奇
麗だった舗装路は所々剥がれ、両脇の家屋には人の住む気配がない。
2586
︱︱それどころか、ここには一人も人間がいなかった。
快晴の空にはそぐわない陰鬱とした雰囲気。空気も重く、風によ
って家が軋む音が妙に目立つ。
だが異様なのはそれだけではない。
⋮⋮至る所に、墓標が立っているのだ。
墓標と言っても、通常の石造りのものではない。流木のように朽
ちた板切れを十字にし、ただ地面に突き刺さっているだけである。
これが意味するところとは︱︱?
残念ながら、ゼノスには理解できなかった。
ここがハルディロイの中で唯一の貧困街だというのは分かってい
たが、ここまで人がいなかっただろうか?⋮⋮否、きっと自分がい
なかった二年間の間で何かが起こったのだろう。
2587
ゼノスは生唾を飲みながら、更に奥へと進む。
すると、ようやく開けた場所へと辿り着いた。
家屋の残骸がひしめき合い、その瓦礫の上に築かれた⋮⋮墓標の
山へと。
﹁何だこれは⋮⋮﹂
顔をしかめながら、ゼノスは素直な気持ちを口にする。
目を覆いたくなるほど凄惨な光景が、そこにあったのだ。
﹁︱︱見ての通り、墓の山でございますよ。聖騎士殿﹂
背後から聞き慣れた声を聞き、ゼノスは後ろを振り向く。
そこには案の定ホフマンが佇んでいたが、いつもの上質なコート
2588
ではない、簡素な白シャツに身を包んでいた。両手には色とりどり
の花束を抱え、ゼノスに向けていつもの笑みを見せてくる。
しかしその笑顔は、どことなく儚い。
﹁墓の山って、ここに死体が埋まっているのか?﹂
﹁ええ、とどのつまりそういうことです。ですがご安心を。遺体は
全て遺灰にしてありますから﹂
そう言って、ホフマンはゆったりとした足取りで進んでいく。
墓の山を登り、その頂点に位置する十字架の前までやって来て、
彼は持っていた花束を置く。
後を付いて来たゼノスは、若干躊躇しつつも尋ねる。
﹁⋮⋮知り合いか?﹂
﹁⋮⋮知り合いも何も、私の妻の墓です﹂
2589
それを聞いて、ゼノスは瞠目した。
ああそうだ。ホフマンの年齢からすれば、既に妻がいてもおかし
くない。
だが何故こんな所に⋮⋮?
その疑問に答えるかの如く、ホフマンが独り言のように語る。
﹁聖騎士殿。実はこのホフマン、元々はこの貧困地区の出身だった
のですよ。今でこそ貴族の地位にいますが⋮⋮昔はとても貧しかっ
た。日々のパンを得るのも難しくて、夢も希望もない生活でした﹂
ホフマンは快晴の空を見仰ぎ、懐かしむように呟く。
一方のゼノスは、その事実に対し驚くことはなかった。
ホフマンが平民出だというのは周知の事実だし、この貧困街が生
活困窮者の溜まり場だということも知っている。よくこんな場所で
育ち、今の地位を獲得したなと思うが⋮⋮まあそこは才能の問題だ
ろう。
2590
﹁︱︱だからこそ、私はいつも求めていた。いつかこのランドリオ
の六大将軍となり、政治的・経済的な面からこの地区を救っていこ
うと。そうして私は貴族御用達のカジノへと赴き、一生懸命自分の
存在を誇示してきたのです﹂
そして彼はとある大貴族の目にとまり、その才能を買われて貴族
の位を手に入れた。平民出という理由で当初は批判を浴びていたが、
ホフマンはその連中全てをあっという間に黙らせてきた。
﹁私は大貴族となり、今度は皇帝リカルドの目にとまった。六大将
軍の地位を手に入れ、この手で政治をも操れる存在になった。よう
やくあの街を救うことが出来る。︱︱あれはまさに、そう思った矢
先でしたね﹂
飄々とした態度とは違う、怒りを抑えるかのように拳を握り締め
る。
﹁⋮⋮聖騎士殿が不在の間、あの街の住民はリカルドの重税に大き
く反対し、挙句の果てには商業区で大規模デモを行いました。流石
に経済にも影響が出て、遂にリカルドは︱︱あの街を駆逐する作戦
に出たのです﹂
こうして打ち出されたのが、﹃民族統一紛争﹄である。
2591
響きの良い作戦名とは裏腹に、その内容は酷いものだ。
元々貧困街の大半は、ランドリオで稼ごうと海外からやって来た
労働移民者たちである。肌の違いや言語の違いも目立ち、かくいう
ホフマンも外国出身である。
多民族国家は多くの弊害を生み、対立の原因にも繋がる。彼等を
国外へと追放する必要があり、強制退去させるのが道理である。当
時の駆逐作戦を指揮した貴族は、こう述べたのだ。
⋮⋮が、それは便宜上の方法。
実際あの街で行われたのは︱︱虐殺だ。
貴族派のランドリオ騎士たちはその内容を受け入れ、六大将軍に
報告せず、皇帝直属の命令で虐殺を行ったのである。
﹁⋮⋮死体は酷いものでしたよ。何の恨みがあったのか、貴族派の
騎士共はあらゆる残虐な方法で殺したそうです﹂
﹁大体想像できるな。今でこそ貴族派の騎士は大人しいが、奴等の
思想は常軌を逸している﹂
2592
同じランドリオ国民であっても、貧富の違いという理由だけでい
とも容易く殺すことが出来る。騎士道の風上にも置けない、最低な
連中である。
当時のホフマンが虐殺を知ったのは、事後だったらしい。虐殺が
繰り広げられたその翌日、彼はその目で凄惨な現場を見たという。
そしてその死体の山の中に︱︱昨日からいなかった妻を発見した。
﹁私の妻もこの貧困地区の出身でした。どこかから情報をいち早く
知り、貧困地区を救おうと向かったのでしょう。⋮⋮ですが、結果
がこれですよ。妻は貧困地区の住民と同じく、残虐な方法で殺され
てしまいました﹂
﹁⋮⋮﹂
それがホフマンの物語。
このランドリオで起きた事件の、哀れな被害者である。
﹁⋮⋮今も恨んでいるか?この街を救わなかった皇帝と貴族を﹂
2593
﹁ふふ、とんでもない。街を救えなかったのは私の責任ですし、特
に今のアリーチェ様とは全く関係のない話です。リカルドが死に、
貴族の連中が大人しくなっただけでも、私達の無念は晴れたような
ものです﹂
︱︱なので、ホフマンはこれからも尽くして行こうと思う。
悲劇がこれ以上繰り返されぬよう、最高の仲間達と共に⋮⋮。
﹁だからご安心を。ここで起きた事件は既に終わっています。今の
私は、復讐に囚われてはおりません。︱︱死んだ妻と友人が悲しま
ないように、ね﹂
ホフマンが少しだけ悲しそうに、だけどそれを隠そうと必死に笑
みを作る。
未だ払拭できていないのだろう。それは当然の話だ。大切だった
者が、特に自分の愛する妻が死んだのなら、尚更心に響いているだ
ろう。
だけど悲しんでいるだけでは駄目だ。
2594
前に進む、とことん進む。
今の彼からは、そういったヤケクソにも似た行動をとっているよ
うにも見える。
﹁⋮⋮そうか﹂
ゼノスは軽く笑みを返し、そう答える。︱︱いや、そう答えるし
かなかった。
自分は今までホフマンを見くびっていたようだ。彼はいつも飄々
としていたが、その裏には暗い過去が潜んでいた。
ゼノス達と同じく、彼もまた苦しみを味わってきた者。
⋮⋮これ以上、彼の過去には触れない方がいいだろう。
﹁︱︱そういえば聖騎士殿、貴方は何故こんな所に?それともこの
私に何か用で?﹂
2595
この話は終わりと言うばかりに、ホフマンは急に話を変えてくる。
ゼノスとしても有り難い配慮であった。
﹁ああ、ちょっと書いて欲しいものがあってな。ここで大丈夫か?﹂
﹁ええ構いませんとも。あちらに打ち棄てられた物ですが、小さな
テーブルがあります。そこで書きましょう﹂
そう言って、二人はそう遠くない場所にあるテーブルへと向かい、
ホフマンにサインを書いて貰った。
これでサインは五つ⋮⋮残るはユスティアラだけか。
ここまで順調に六大将軍を発見してきたが、彼女の行方だけが全
く分かっていない。果たして今日中に見つかるか⋮⋮。
段々と気が重くなるのを感じるが、ゼノスは深呼吸することで気
を紛らわせる。
﹁⋮⋮よしオッケーだな。わざわざすまない、ホフマン﹂
2596
﹁いえいえとんでもない!これも他ならぬ聖騎士殿の頼み!お安い
ごようでございますよ﹂
彼は大仰に会釈する。それがとんでもなくキザったらしいが⋮⋮
まあ今回だけは何も言わないでおこう。
ゼノスは片手だけ上げ、別れを告げようとする。
︱︱が。
﹁あ、それと聖騎士殿。貴方の部下、ゲルマニアについてなのです
が﹂
﹁⋮⋮ゲルマニア?﹂
突然彼女の話題を触れられ、一瞬心臓が跳ね上がる。
いやそもそも、ホフマンはゲルマニアのことも知っていたのか。
2597
そんなゼノスの戸惑いを気にも咎めず、ホフマンはまた真剣な表
情で行ってくる。
﹁︱︱すぐに仲直りした方が宜しいですよ?私のように、既に手遅
れとなる前に﹂
﹁え﹂
身構えるゼノスを見て、ホフマンは悪戯っぽくはにかむ。
﹁おっと失礼。少々小耳に挟んだものでして。⋮⋮今は安全ですが、
それがずっととは限らない。⋮⋮この状態が長続きして、いずれど
っちかが死んでしまった時、恐らくどっちかが悲しみに包まれるこ
とでしょう。そうなる前に⋮⋮わだかまりは無くした方がいい﹂
あとはお判りでしょう?そう言わんとばかりに、こちらをジッと
見つめてくる。
⋮⋮確かに彼の言う通りだ。
この状況は、お互いにとって良いものではない。ちゃんと仲直り
し、彼女の気持ちを理解してあげなければならない。
2598
朴念仁のゼノスでも、それぐらいは考えられる。
﹁⋮⋮ああ、もちろん﹂
叶うならば、今日中にでも。
ゼノスはゲルマニアと話し合おうと、堅く心に誓った。
2599
︵第一週︶ep7 ゲルマニアの決意
ゼノスが城下町を歩き回っている間、ゲルマニアはハルディロイ
城で書類作業に追われていた。
休暇返上の事務仕事。別に今すぐにやる必要はないのだが、溜ま
った仕事を放置するのはどうにも気持ちが悪い。
それに、長期休暇とはいえまだ城で働いている騎士は大勢いる。
六大将軍側近兼副将軍としての立場もある以上、まだ休むわけには
いかない⋮⋮と、ゲルマニアだけはそう思っていた。
よし、張り切って仕事に取り掛かろう。
ゲルマニアはそう思うのだが︱︱
﹁⋮⋮はあ﹂
2600
途端、今までペンを動かしていた手が止まる。
自分に宛がわれた執務室で大きく溜息をつき、そのまま机へと突
っ伏してしまう。綺麗に整えられていた書類はそのせいでバラバラ
になるが、そんな事に気を使う暇もなかった。
︱︱集中できない。
それが今の状況である。
﹃⋮⋮ゲルマニア様?入っても宜しいでしょうか?﹄
﹁フィールド?﹂
ふと、部下であるフィールドの声が聞こえる。
特に拒む理由はないので、﹁どうぞ﹂とだけ答える。するとフィ
ールドが部屋に入って来て、軽く会釈をしてきた。
﹁職務中失礼いたします。騎士団編成に関する案件について少し話
2601
が⋮⋮﹂
と、フィールドは途中で言葉を止める。
目前で机に項垂れるゲルマニアを見て、不思議そうに問いかける。
﹁⋮⋮如何なされましたか?もしや具合でも?﹂
﹁い、いえ。そういうわけではないのですが﹂
慌てて否定するゲルマニア。
これ以上情けない姿は見せられないと思うが、中々顔を上げるこ
とが出来ない。気持ちも暗いままであり、きっと今の表情は沈み込
んでいるに違いない。
しばらくそんなゲルマニアを観察していたフィールドは、納得が
いったように溜息をもらす。
﹁⋮⋮なるほど、落ち込んでいらっしゃるのですね﹂
2602
﹁ッ。そ、そんなことは⋮⋮⋮⋮ないはずです﹂
﹁図星ですね﹂
フィールドは手に持っていた書類を近くのテーブルに置き、悩む
ゲルマニアに言い放つ。
﹁もし宜しければ、この私が相談に乗りますよ。それでは仕事に影
響が出てしまいますからね﹂
実際問題、ゲルマニアは手を止めていた。書類もぐちゃぐちゃに
散乱し、とても作業できる状態ではない。
ゲルマニアは少し逡巡した後、重い口を開く。
自分がゼノスと喧嘩をし、それが自分のせいであること。冷静に
なった今、彼に謝ろうと機会を探っているが、中々言い出すタイミ
ングが見つからないこと等々。
大体言い終えた所で、フィールドは呆れたように呟く。
﹁はあ。なら謝ってくればいいじゃないですか﹂
2603
﹁そ、それが出来たら苦労しないです!﹂
確かにフィールドの言う通り、単純に謝ればいい話である。
しかし、誤った後にどんな反応が来るかが気になる。
素直に許してくれる?いや、そんなはずがない。きっと彼は怒っ
ているだろうし、最悪無視される可能性もある。
そうやって嫌な想像ばかりしているせいか、中々踏み出せないの
である。
﹁ふむ、これはまた重病ですね﹂
半ば呆れたように呟き、フィールドは諭すように言う。
﹁︱︱ゲルマニア様、あの方が許さない筈がないじゃないですか。
それに心の中のわだかまりというのは、少ししたら抜けるものです。
かくいう私の奥さんも、喧嘩をした後はすぐに許してくれますしね﹂
2604
﹁はあ⋮⋮﹂
彼の言う通り、ゼノスがそこまで執着深い性格とは到底思えない。
それにこの関係を続けて、果たして良い結果が生まれるだろうか
?いや、絶対にないだろう。仕事にも影響が出るだろうし、互いの
メンタルも徐々に疲弊していくに違いない。
⋮⋮そうだ、ここで勇気を出さなければ。
ゲルマニアは自分の頬を両手で叩き、気持ちを引き締める。
﹁分かりました。仕事が終わり次第、彼に謝って︱︱﹂
﹁いえ、すぐ行って来て下さい。仕事に関しては、私の出来る範囲
で全てやっておきます﹂
﹁え⋮⋮ですが﹂
反論しようとするゲルマニアだが、フィールドは頑なに聞こうと
しない。床にまで落ちた書類を拾い集め、しまいには机にある書類
もまとめ始める。
2605
﹁第一、貴方が仕事をし続けていたら部下も休めませんよ?ほら、
さっさと鎧を外して休暇に入ってください﹂
まるでお母さんのように言ってくるフィールド。
部下のことを指摘されては、これ以上反論することも出来なかっ
た。
﹁わ、分かりましたよ⋮⋮。それではフィールド、後のことは頼み
ます﹂
﹁ふふ、お任せを﹂
ようやく笑みを見せたフィールドを尻目に、ゲルマニアは身に着
けている鎧を脱ぎ、自分の執務室を後にする。
仕事が中途半端なのは納得いかないが、それでも休暇に入ったと
いう安心感からか、途端に緊張感というものが抜け始める。深く溜
息をつくと共に、ゲルマニアはその足で城を出る。
城下町全体を見渡せる正門前まで辿り着くと、ゲルマニアはその
2606
場に立ち止る。
﹁う∼ん、ゼノスに謝るとは言ったけど⋮⋮どうやって探そう﹂
正直な所、何の情報もないまま城下町で探し当てるのは不可能だ。
それに今は帝国の眠りが始まったばかりであり、町は最も活気に満
ちているだろう。人混みにいるのならば、探す余裕なんてないはず
だ。
ならどうするか。
ゲルマニアがさっそく行き詰っていると︱︱何者かがこちらに近
づいてくる。
ハッとして顔を上げると、そこには一匹のドラゴンがいた。
⋮⋮いや、正確には飛んでいると言った方がいいか。
﹁よお、ゲルマニアちゃんじゃねえか!どうしたよこんな所で?﹂
2607
その黒い鱗に覆われた小さいドラゴンは、人情溢れる口調でそう
尋ねてくる。
︱︱もしかして、ジハード様?
多分、そうなのだろう。このハルディロイ城に出入りするドラゴ
ンなんて、彼以外に考えられない。
ようやく気持ちの整理がつき、ゲルマニアは慌てたように答える。
﹁あ、その⋮⋮休暇に入ったのでゼノスを探そうと﹂
我ながら要領を得ない答えであったが、一方のジハードは気にす
る素振りを見せない。
﹁あ∼ゼノスか。あいつなら多分、今頃貧困街の方にいると思うぞ
?﹂
﹁貧困街に?なんでまた﹂
﹁まあ、急な仕事でな。もし奴に用があるんなら、そこから探して
みるといいぜ﹂
2608
そう言ってジハードは、﹁そんじゃ頑張れよ∼﹂と言い残し、ハ
ルディロイ城の中へと消えていく。
一体何故ドラゴンの姿になっていたのかは分からないが、ゼノス
の情報をくれたのは有り難い。
ゲルマニアははやる気持ちを抑えながら、城下町へと繰り出すこ
とにした。
2609
︵第一週︶ep7 ゲルマニアの決意︵後書き︶
※2017年1月28日、最新話とブログを掲載します
2610
︵第一週︶ep8 剣豪の休日
ゼノスは困り果てていた。それが何なのかは、もはや語るまでも
ないだろう。
貧困街での用事を終えた頃には、既に黄金色の空が浮かんでいる。
じきに日も暮れ、町は昼とはまた違った様相を表すだろう。
往来の激しい商業区に戻ったゼノスは、呆けた様子でそう考えて
いた。
﹁⋮⋮はあ、どうするかな﹂
道に転がっている石ころを蹴りながら、今対面している問題に頭
を悩ませていた。
今まで順調にサインを貰ったはいいが、最後の六大将軍︱︱ユス
ティアラの所在が掴めないままだ。本当ならば昼過ぎまでには終わ
らせたかったが⋮⋮。
2611
﹁こりゃ宿舎に帰って待つしかないか?﹂
しかし、ユスティアラが今日宿舎に帰る保証はどこにもない。
もしかしたらどこか遠出している可能性もあるし、今日どころか
数日は帰ってこない可能性もある。
せめて僅かな情報さえあれば⋮⋮と、そう思った矢先だった。
目前の人混みの中に、沢山の書物を担いでいる少女がいた。
彼女は上手くバランスを保ちながら、山のように積まれている書
物を両手で運んでいる。
後ろ髪は短く刈られ、この群衆の中ではゼノス以上に異質な装い
をしていた。︱︱濃緑の軍服姿である。
あんな恰好をする連中は、ランドリオ帝国において一部しかいな
い。
2612
﹁ユスティアラ部隊の奴か⋮⋮。しかもあいつ、どこかで見たよな﹂
確か︱︱キャリー・レミナと言ったか。
魔王ルードアリアの件で牢獄都市アルギナスに行った時、常にユ
スティアラの傍に侍っていた女性騎士。とても特徴的だったので、
ゼノスは今でも覚えている。
あいつの後を付いて行けば、もしかしたらユスティアラの元へた
どり着けるかもしれない。少々ストーカー紛いの行為ではあるが、
この際背に腹は代えられない。
意を決したゼノスは、何気ない態度で付いて行く事にした。
別に隠れてまで尾行することはなかったか、と思いながらも、ゼ
ノスは彼女を視界に捉えながら、商業区内にある細かな路地裏へと
入る。
大通りとは違い、ここら辺は珍しい店が目立つ。およそこの国に
はない独特の商品が置かれており、各国の伝統文化を重んじたサー
2613
ビスを提供する店等々、滅多に見られない光景が広がっている。
キャリーはその中を、慣れない様子でキョロキョロとしながら歩
く。
︱︱すると、彼女は一件の宿屋の前で足を止める。
その宿屋は他の店よりも幾分か大きく作られており、古びた木造
建築である。しかしランドリオ地域では絶対にお目に掛かれない造
りであり、屋根には瓦が敷き詰められている。⋮⋮これは向こうで
言う、﹃数寄屋造り﹄というやつか。
異世界の東洋世界によく見られるその建物の中に、彼女は消えて
行った。
勿論、ゼノスも後に続く。
暖簾のかかった正面玄関をくぐると、紫色の着物を付けた仲居が
丁重に出迎えてくれる。
﹁ようこそいらっしゃいました、お客様。お泊りでしょうか?﹂
2614
﹁あ、いやその﹂
しまった、どう言ったものか。
既にキャリーの姿はなく、ゼノスはどう説得したものかと悩む。
しかしゼノスが説明するよりも先に、仲居はハッとしたようにゼ
ノスの顔を注視する。
﹁⋮⋮もしや、聖騎士様でしょうか?﹂
﹁ああ、一応。︱︱ここにユスティアラが滞在していないだろうか
?﹂
自然な流れで尋ねると、仲居は営業スマイルで答える。
﹁ユスティアラ⋮⋮ああ、﹃天城 恋歌﹄様ですね。もし御用でし
たら、ご案内致しましょうか?﹂
﹁頼む﹂
2615
恋歌だったな。
そう言うと、仲居は﹁こちらになります﹂と丁寧に案内役を買っ
て出てくれた。
⋮⋮そう言えば、ユスティアラの本名は天城
ユスティアラという名は騎士団に入った当初に貰った名であり、
彼女の本名は東の国独特のものである。異世界では﹃日本人﹄が好
んで付けていた名であるが⋮⋮何か関係性があるのだろうか。
まあいい。
そんな事を考えている内に、仲居に案内されたのは、二階にある
とある部屋の前である。
仲居はその場に正座し、襖の先へと語り掛ける。
﹁天城様、お客様がお見えです﹂
﹃︱︱通してくれ﹄
2616
中からユスティアラの声が聞こえる。
仲居はその声に応じ、正座した状態で襖をゆっくりと開ける。
襖の先には、異世界で嫌というほど見た和式の部屋が広がってい
た。全ての床が畳というもので覆われており、所々に和を重んじる
調度品が置かれている。生け花や掛け軸、更にテーブルの上には湯
呑や急須などが置かれている。まさに和風だ。
窓には障子が張られており、その前に︱︱ユスティアラはゆった
りとした着物姿で鎮座していた。
その手には巻物が握られており、彼女は読書に耽っていたようで
ある。
﹁え、ええ!?な、何で聖騎士様がッ!!﹂
と、ユスティアラの傍で座っていたキャリーが、開口一番にそう
叫ぶ。
まあ、急に来たら驚くだろうな。
2617
﹁ああ悪い、実はお前を付けていたもので⋮⋮申し訳ない﹂
﹁そ、それはいいですけど⋮⋮って、何してんですか!﹂
ごめんごめんと謝りながらも、ゼノスはユスティアラの方に目を
向ける。
彼女は書物の文字から目を離し、いつもの鋭い瞳をゼノスに向け
てくる。
﹁話があるのだろう?そこでは話しづらい、向かいに座るがいい﹂
﹁そうさせてもらおうか﹂
ゼノスはそう言って、ユスティアラと相対する位置にある座椅子
に座り、勝手に湯呑にお茶を入れる。普通の者がやれば彼女達に怒
られるかもしれないが、相手が聖騎士であるのならば結構なようで
ある。
﹁そういえば、あんたがゆっくりしている所は初めて見たな﹂
﹁⋮⋮そうだったか?﹂
2618
﹁ああ。何で、てっきり今日も仕事をしていたのかと思ってな﹂
﹁ふむ、本当ならばそのはずだった。だがそこにいるキャリーに休
めと言われてな⋮⋮部下の強化訓練は、帝国の眠り後にする事にし
た﹂
珍しくも、彼女は疲労のこもった表情で答える。その様子を見て、
キャリーが休めと言った理由が分かった気がする。
まあ無理もない。先日は遠いパステノンにまで赴き、激務をこな
してきたのだ。その直後に訓練を行えるとしたら、そいつはもう本
物の化け物だろう。
﹁んで、その休息場所をここにしたわけか﹂
﹁然り。ここの女将は我が祖国の出身でな。部屋や料理も全て馴染
みが深い。キャリーが偶然にも見つけたらしいが⋮⋮本当、懐かし
い限りだ﹂
ユスティアラは微かに笑った。
2619
彼女の故郷は、確かここから遥か東の島国だと聞いた覚えがある。
ここから船で一ヶ月は要するであろう場所だ。
そんな距離だからこそ、滅多に帰れないのは明白である。普段は
自分の感情を表に出さないユスティアラだが、やはり故郷が恋しか
ったのかもしれない。
﹁︱︱して、要件とは何だ﹂
﹁それなんだが﹂
湯気の立つ緑茶を一啜りした後、ゼノスは率直に事情を説明する。
サインについて一通り話すと、彼女は快諾してくれた。
﹁何だ、そんな事か。貴様も相変わらず苦労人だな﹂
無愛想な表情のままテーブルに置かれた硯を手に取り、水を入れ
て墨を擦り始める。
⋮⋮そして液状化した墨に筆先を入れ、墨がついた状態の筆でサ
イン書に記す。
2620
その様子をぼんやりと見ていると、ずっとこちらを凝視していた
キャリーが声をかけてくる。
﹁⋮⋮ゼノス様も、お元気がないですね﹂
﹁え、そうか?﹂
確かにそこら中を歩き回って疲れているが、それが顔に出ていた
のだろうか。
﹁︱︱キャリーの言う通り、私にもそう見える﹂
サインを書き終えたユスティアラは、筆を置きながら静かに言い
放つ。
彼女は改めて窓辺に寄り掛かり、その切れ長な瞳をぶつけてくる。
常人ならば、それだけで委縮してしまうだろう。
まるで全てを見透かすようにジッと見つめながら、彼女は言葉を
2621
続ける。
﹁よもや、まだ気にしているのか。あの面妖な女が放った一言を﹂
﹁⋮⋮﹂
面妖な女とは、恐らくジスカの事だろう。
ユスティアラはあの場に居合わせていた為、ゼノスに突き付けら
れた言葉を全て知っている。
﹃︱︱聖騎士ゼノス、貴方はあまりにも歴代に頼りすぎている。だ
からこそ弱い。聖騎士流剣術は万能じゃない事を、よく知っておく
ことね﹄
精一杯の哀れみを込めて、ジスカはそう断言した。
それは事実である。ゼノスが最強たらしめる所以は、まさに歴代
聖騎士の軌跡を辿ったからこそ培われたものでもある。
2622
常に聖騎士という宿命を背負い、彼等の背中を追い続けてきた。
だからこそジスカは、そんな自分を弱いと評したのだろう。
白銀の聖騎士は最強を謳ったが、それでも尚、始祖という存在は
生まれてしまった。一万年以上も禍根を残してしまった。そんな過
ちを犯した歴代聖騎士達を越えられないようでは、到底ジスカ達に
は勝てない。
⋮⋮そしてアルバートが言ったように、これからはジスカと同等
の強さを誇る敵も現れるはずだ。
そんな時、自分は果たして勝てるのか?
ゼノスはゲルマニアの件だけでなく、その点についても不安を感
じている。
ユスティアラはその様子を鋭く察知したのか。
﹁⋮⋮私も同じ気持ちだよ、聖騎士。己が信じる天千羅流刀術、そ
の免許皆伝者ではあるが、未だ﹃更なる向こう﹄へと辿り着いてい
ない﹂
2623
ユスティアラは拳に力を込め、悔しそうに、しかし淡々と呟く。
﹁﹃更なる向こう﹄を築けば、私はもっと強くなれる。歴代の誰よ
りも強く、歴代が勝てなかった相手にも勝利できる。︱︱だからこ
そ私は、自分なりの天千羅刀術を見出そうとしている﹂
その夢がいつ実現されるかは分からない。
それでも彼女は、今でも模索し続けている。ゼノスと同じように、
長い歴史を塗り替えようとしている。
しかし、ゼノスはある疑問を抱く。
自分は聖騎士の宿命を終わらせ、始祖を倒す為に強くなりたい。
ならユスティアラは︱︱何の為に強くなりたいのか?
こうして身近にいながらも、ゼノスは彼女の最強でありたい理由
を全く理解することが出来ない。
2624
﹁︱︱ふっ、まあ今は深く気にせぬことだ。いずれ強者と出くわせ
ば、何らかの糸口が見えてくるだろう﹂
ふいに緊張感を解き、ユスティアラはまた巻物の方に目をくれる。
﹁さあ、これで用は済んだろう?私は一週間ほど、ここに滞在して
いる。また何かあれば、ここを尋ねて来るがいい﹂
﹁あ、ああ﹂
真意の読めないユスティアラに疑問を覚えつつも、ゼノスは退出
した。
︱︱とにもかくにも、これでサインは全部揃った。
後はこれをフィールドに渡せば良し、と。
ゼノスはサイン書を紐で束ね、ハルディロイ城へと歩み始めた。
2625
⋮⋮勿論、ゲルマニアが必死にゼノスを探し回っている事は全く
分かっていないのであった。
2626
︵第一週︶ep9 仲直り
﹁うぅ⋮⋮足が痛い﹂
ゲルマニアは疲弊し切っているのか、半ば足を引き摺るように歩
きながら、ハルディロイ城へと帰って来た。
夜の帳は下り、城下町にも明かりが灯り始める。住宅街には微か
な光が、そして商業区は眩い程の光で包み込まれている。
﹃帝国の眠り﹄の期間中、城下町では様々な催しが開かれている
と聞く。それは朝昼だけでなく、夜も例外ではない。今も商業区内
で何かが行われているのか、昼間以上の活気に満ちている。
︱︱だが、ゲルマニアは浮かれる余裕もなかった。
先程、ゼノスを探して貧困街へと足を運んだが、ゼノスの姿は見
えず、結局闇雲に城下町中を歩き続ける羽目になったのだ。幾ら体
力に自信があるとはいえ、流石にあの街中を歩くのは骨が折れる。
2627
今はとにかく休みたい。
それが彼女の本音であり、その意思に従うかのように、足は庭園
の休憩場へと歩を進める。
庭園は静けさを放っており、人影すら見受けられない。しかし今
のゲルマニアにとっては好都合である。
薔薇に彩られた石畳の道を闊歩し、ゲルマニアは庭園の端へと辿
り着く。そこは昼間でも人気が少ない場所であり、城下町が一望で
きる見晴の良い休息場でもある。
故にここは風通しも良く、少し強めの風がゲルマニアの身体を通
り過ぎる。風は轟々と吹き、最下の城下町へと流れ行く。
⋮⋮ゲルマニアは溜息をつき、近くに備えられたベンチへと腰掛
ける。
そして手に持っていた茶色の紙袋から、何個かのパンを取り出す。
これが、今日の夕食である。
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﹁はあ⋮⋮また謝れなかったなあ﹂
ゲルマニアは誰に言うでもなく、独りでに呟く。
これ以上こんな関係を続けたくない。元はと言えば些細なことか
ら始まったわけであり、正直、馬鹿馬鹿しく思う。
しかし不安はより一層増すばかりで、パンを手に取ったまま、ゲ
ルマニアは虚空を眺め始めた。
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱コツン。
﹁いたッ﹂
ふいに、誰かがゲルマニアの後頭部を小突く。
そんなに痛くはなかったが、その衝撃に彼女は焦って後ろを振り
向く。
︱︱そこには、夢にまで見た人物がいた。
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﹁何だ、ここにいたのか。探したよ﹂
彼︱︱ゼノスは飄々とした態度でそう言い、怠そうな仕草のまま
ゲルマニアの隣へと座る。
⋮⋮心臓が高鳴る。
あまりにも突然な出来事に、ゲルマニアは返す言葉さえ見つから
なかった。外は冷え冷えとしているにも関わらず、顔面が次第に熱
くなっていく。
どうしよう、何て答えよう。
もう覚悟は出来ていたのに、一歩踏み出せないでいる。こんな調
子では駄目だと分かっているのに⋮⋮。
﹁あー⋮⋮その、何だ。今更ではあるんだが、ちょっと言いたい事
がある﹂
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﹁⋮⋮はい﹂
二人は歯切れの悪い口調のまま、一生懸命言葉を紡ぐ。
﹁パステノンにいた時の件だけど⋮⋮⋮⋮すまなかった。ゲルマニ
アは心配して言ってくれてたのに⋮⋮どうかしていた﹂
﹁いえ、私も短絡的でした。ゼノスは必死に戦っているのに、その
気持ちを汲むことさえ出来ませんでしたし⋮⋮。ごめんなさい﹂
二人は向き合い、そして同時に深く頭を下げた。
そう、同時にだ。
あまりにも息がぴったりだったので、互いに見つめ合い︱︱くす
りと笑う。
﹁ふふ、ゼノスも同じ気持ちだったんですね﹂
﹁そりゃまあ、俺も人間だし。あんなことになったら、どれだけ英
雄と称えられた奴でも気落ちするさ﹂
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結局、二人の複雑な想像は杞憂に過ぎなかった。
例えどんないざこざがあっても、彼等の関係が根本から崩れる事
は有り得ない。それほど強固な信頼関係を築いており、それを改め
て自覚した。
深い安堵に包まれる中、ゲルマニアは持っていたパンを袋の中に
戻し、爛々と輝く城下町を見下ろす。
﹁⋮⋮ねえゼノス。もうこれ以上の我儘を言うつもりはないけど、
絶対に無茶だけはしないで下さいね。貴方が死んだら、それこそ多
くの人間が悲しむ。特に身近にいる人達は⋮⋮余計に悲しむ﹂
﹁分かっている。今は一人で戦っているわけじゃないし、大変な時
は仲間を頼る﹂
﹁それを聞いて安心しました﹂
ゲルマニアは静かに微笑む。
︱︱しかし、それは現実的とは言えない。
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仲間を頼るとは言ったが、ゼノスにとって戦場で頼れる者は六大
将軍とゲルマニアだけだ。これから来る敵を考えると、どうしても
孤独に戦う場面は出てくるに違いない。
このランドリオ帝国の騎士である以上、それは避けられない運命
である。
ゼノスは分かっている上で、そう約束を交わした。不安で押し潰
されそうなゲルマニアを守る為に、彼女を安心させる為に。
︱︱何故そう思うのかは、定かではない。
﹁⋮⋮あれ、そういえばゼノス。さっきから顔が赤いですけど⋮⋮
大丈夫ですか?﹂
﹁顔?⋮⋮あ、本当だ﹂
ゲルマニアに指摘され、ゼノスは初めて自分の顔が熱くなってい
る事に気付く。
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﹁もしかして⋮⋮風邪でしょうか﹂
﹁風邪?まさかそれは有り得ないだろう﹂
先程の重苦しい雰囲気とは打って代わり、二人は何気ない会話を
始める。
関係は元に戻った︱︱と言っていいのだろうか?
二人はしばらく、その場で談笑をしていた。
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︵第二週︶ep10 風邪引きの英雄
帝国の眠りも第二週目に入り、城下町はようやく落ち着きを取り
戻していく。
様々な催しも一通り終了した所で、休み中の人間はそれぞれのや
りたい事に勤しんでいた。
それは帝国騎士も然り、六大将軍も例外ではない。
アルバートは一度故郷のパステノンの様子を見たいと言い、一昨
日ほどランドリオ帝国を旅立った。イルディエも隣国で開かれてい
る舞踏大会に出席し、ユスティアラは修行の為に山籠もり、そして
ジハードとホフマンは他国に旅行をしている。
とても有意義であり、素晴らしい休暇である。
︱︱ではゼノスはどうかと言うと、
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﹁ゴホッ!ゲホゴホッ!﹂
騎士宿舎の最上階、六大将軍の部屋の一つで、激しく咳き込む音
が響き渡る。
咳を発している人物は︱︱勿論ゼノスである。彼は寝間着姿のま
まベッドに横になり、安静にしていた。
そしてその横の椅子に座り、手厚く看護をしているのはゲルマニ
アである。私服のワンピースに身を包んでおり、髪は下ろしている
状態だ。
彼女は風邪薬である液体を瓶から掬い、匙で掬った液体をゼノス
になめさせている。
﹁中々直りませんね⋮⋮﹂
﹁あ、ああ⋮⋮ゴホッ!熱も下がらないし、こんなの子供以来だ﹂
先日の弱体化といい、不幸は続くばかりだ。
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ゼノスは自らの弱々しさに不満を覚えながら、身体を起こして傍
に置かれている水を飲み干す。
風邪をひき始めたのは、丁度ゲルマニアと仲直りした辺り︱︱お
よそ二日前である。夜になって急激に熱が出始め、その勢いは今も
衰えていない。ここまでしぶとい敵は、過去を辿っても中々いない
かもしれない。
﹁⋮⋮というかゲルマニア。看病してくれるのは有り難いけど、今
は長期休暇中だぞ?俺に構わず何処か遊びに﹂
﹁いえ、それは出来ません。ゼノスは私の上司であると同時に、私
を使役するギャンブラーでもあります。幾ら休暇中と言えど、見過
ごすような真似はしません!﹂
と、ゲルマニアは意気揚々と語る。
﹁ふーん。⋮⋮相変わらず真面目だねえ﹂
そう言ってゼノスは、またもや横になる。
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本当ならばもっと会話をしたいが、あいにくそんな余裕はない。
とりあえず寝て、風邪を治さなければ︱︱。
と思った矢先、部屋のドアが開く音がする。
ゼノスとゲルマニアがおもむろに振り返ると、ドア先にはライン
とロザリーが控えていた。
二人はいつもの装いとは打って変わり、味気ない私服を着ている。
例えるならば、どこかの村人Aと村娘Bと言った所か。
﹁やっほーゼノス⋮⋮⋮⋮って、あれ?﹂
﹁⋮⋮どうしたの、ゼノス﹂
﹁風邪だよ風邪。すっかりやられたよ﹂
両者の驚きを他所に、ゼノスはうっとうしそうに答える。
﹁風邪って、あのゼノスが?﹂
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余程衝撃を受けたのか、ラインは眼鏡を拭き、もう一度掛けなが
ら問う。連中は自分を化け物か何かと勘違いしているのかもしれな
いが、ゼノスだってれっきとした人間だ。風邪を引く事だって当然
ある。
何度も言うが、世間が謳うほどゼノスは強くない。
﹁︱︱それで、何か用事でも?悪いが吐き気もするんだ。てっとり
早く用件を言ってくれ﹂
﹁う、うん。まあ用事というか、招集命令というか﹂
﹁招集命令?﹂
その言葉に、ゼノスの眠気が一気に覚める。
何故このタイミングで招集命令がかかるのか。余程大事な事件が
起こったのか。
ある種の不安に駆られながら、ゼノスは再度尋ねる。
﹁招集命令って⋮⋮ゴホッ、アリーチェ様からか?﹂
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﹁勿論。何でも本日中に、聖騎士部隊に配属される人間がいるらし
いよ?それも結構な豪傑らしいし﹂
﹁配属⋮⋮ああ、成程﹂
ようやく合点がいった。
帝国の眠りに入る前、円卓会議で確かに配属の話は聞いている。
彼等は騎士道精神を極めており、雑兵と等価ではないらしい。
改めて思うが、そいつらは何者だろうか?
少なくとも、ゼノスの知り合いではないと思うけれど︱︱
﹁ゼノス、どうします?もし宜しければ、彼等との面会は風邪が治
ってからでも﹂
﹁︱︱いや、行くよ。どうせ一言だけ声を掛ける程度だと思うし、
それくらいならこんな状態でも大丈夫だろ﹂
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﹁そうですか⋮⋮。なら私も御供します﹂
張り切った様子で、ゲルマニアは急ぎ足で部屋を出ていく。今の
私服から騎士の姿になるつもりなのだろう。
とても面倒だけど、どうせ後々やらなければならないのだ。適当
に切り上げて帰ろう。ゼノスはそう自分に言い聞かせる事にした。
ベッドから気怠い身体を起こし、ふらふらとしながらもジャケッ
トをパジャマの上から羽織る。
﹁⋮⋮もしかして、その恰好で行くの?﹂
ロザリーが無表情のまま、疑問を投げかけてくる。
﹁ああ。﹃インナー﹄とか﹃ジーンズ﹄は今メイドに洗ってもらっ
ているんだ﹂
﹁それはいいけど⋮⋮うーん、あの調子の二人だとどんな言葉が降
りかかって来るか﹂
ラインが顎に手を当て、考える仕草を取る。眉間には皺が寄り、
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難しい表情を作っていた。
﹁もう例の二人には会っているのか?﹂
﹁まあね。確かに有能な感じではあったけど、中々扱いづらいと思
うよ。特に今の状況だとね﹂
﹁?﹂
何だか知らないが、複雑な事情があるのだろうか。
とにもかくにも、まずは会ってみないと話にならない。ランドリ
オ騎士団の戦力が心もとない現在、彼等には快く協力してもらう必
要がある。
ランドリオ帝国には六大将軍という最強の存在を有しているが、
それとは裏腹に、騎士団を束ねられる中堅的存在が不足している。
そう、例えばラヤのような大隊長がいないのだ。
もし大規模な戦争が発生した場合、大隊長は六大将軍の代わりに
騎士団を指揮していかなければならない。
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今は一人でも多くの人材が欲しい。
それが叶えば、ゼノス達は心置きなく始祖ジスカと戦える。
﹁お、お待たせしました∼!﹂
駆けこむように、甲冑を装着したいつものゲルマニアがやって来
る。
﹁ゴホッゴホッ⋮⋮よし、行くか。悪いがラインとロザリーも来て
くれ﹂
﹁うん、分かってる﹂
﹁⋮⋮任せて﹂
二人は即答し、おぼつかない足取りのゼノスの後を付いて行く。
彼等が控えている場所は、どうやら本城の一階大会議室らしい。
少し遠い道のりであったが、ゼノス達は何とか大会議室前へと辿り
着く。
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ギンッ、キィンッ!ガキィッ!
⋮⋮すると、部屋の中から剣戟のような音が響き渡っている。
﹁︱︱おいおいおい﹂
ゼノス達は冷や汗をかきながら、すぐさま扉を開け放つ。
嗚呼、嫌な予感が的中した。
扉の先、大会議室︱︱そこで今行われているのは、大隊長ラヤと、
今日配属される事になった豪傑二人の⋮⋮激しい戦闘であった。 2644
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PDF小説ネット発足にあたって
http://ncode.syosetu.com/n7434bi/
白銀の聖騎士
2017年3月6日00時19分発行
ット発の縦書き小説を思う存分、堪能してください。
たんのう
公開できるようにしたのがこのPDF小説ネットです。インターネ
うとしています。そんな中、誰もが簡単にPDF形式の小説を作成、
など一部を除きインターネット関連=横書きという考えが定着しよ
行し、最近では横書きの書籍も誕生しており、既存書籍の電子出版
小説家になろうの子サイトとして誕生しました。ケータイ小説が流
ビ対応の縦書き小説をインターネット上で配布するという目的の基、
PDF小説ネット︵現、タテ書き小説ネット︶は2007年、ル
この小説の詳細については以下のURLをご覧ください。
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