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別府諸道会 清 原 明 { 淡窓伝光電流 「別府詩道会」 (会長、水野喜霊) の

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別府諸道会 清 原 明 { 淡窓伝光電流 「別府詩道会」 (会長、水野喜霊) の
﹃歴史散歩・泉都別府のあゆみ﹄
別府詩道会 清 原 明
1111IIIIIIIIIIIIIIIIII11IIIIIIIIIIII1IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIItl−II−II自IIIIIIIIIII自II111IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIs
淡窓伝光霊流﹁別府詩道会﹂︵会長永野喜霊︶の
いずれも日本一を誇り、多くの効能を持つ優れた温
泉の郷であります。
温泉の歴史は古く、推定で五万年以前からとも云われ
る 。 奈 良 時 代 の ﹃ 伊 予 国 風 土 記 逸 文い
﹄つ
にぶ
はん
大 国 主 命お
がお
、くにぬしのみこと
別府のお湯を、海底を竹の樋で伊予まで通し、病気の
少彦名命に湯浴させ蘇生させたと云う逸話が記されてい
ます。また、﹃豊後風土記﹄には﹁赤湯泉﹂﹁玖倍理湯の
など地名を表すものもあります。その頃﹁豊後の国
日、別府市中央公民館において催されました。その
くれなゐに 染めてしころも 雨降りて
白水郎﹂の詠める歌が万葉集にあります。
別府は今、国際観光温泉文化都市として発展を続けて
際泉都別府の歴史を、古今の漢詩・和歌で綴った構一
この度﹁別府史談会﹂のご好意により、会の皆様
風は青嵐を動かして去り没還らず
しよyつ。
んだ、小野寛堂作の漢詩を﹁吟﹂で紹介することにしま
たものです。そこで別府温泉の母なる山﹁鶴見山﹂を詠
積もる雪や雨が、五〇年の歳月を経て温泉として湧きで
日 湧き出づる温泉の源は、周囲に聳え立つ山々に降り
致しましょう。
います。その歴史の歩みを。詩歌の旅’で訪ねることに
匂ひはすとも うつろはめやも
発会四十周年記念吟剣詩舞道大会が、今秋十月十三一
`ゝ
に披露する機会を得ました。ご批評など戴ければ幸
皆様ようこそ別府へ
ここ別府は、鶴見・由布・高崎の山々、そして美しい
瀬戸の海に囲まれた温泉都市であります。人ロー三万に
して二八〇〇余の温泉孔を持ち、その採湯量は一口約十
三万キロリットル︵別府八湯︶で、その泉質も十種類あ
99
り
井い
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成吟として発表しました。
−−−−・−一甲−4・
k..
たか
れ言
う
い古
よ
り
い神
にの
し霊
え在
す
と
かみみたまましま
誰
お峰
う ほ倒
・嶺
っ 正
とに
う開
れき
いた
り
まさ ひら
横
高
た崎
か山
さ頭
き さ雲
ん去
とり
う来
た
り
さ き
されます。﹁吟﹂と﹁太極拳﹂で紹介しましょう。
高崎山々頂に立てば、式田王浜作の一編の律詩が思い出
青々たる塞草 情を牽くこと切なり
くん
うう
つぐ
ずい
お
お
こ
ょ う にょう だい
く
んふ鶯
ふ
っいゆ
ぐ
す 城
じ こだじ
薫
風
は老
古
の豪
そうじゆさる な ほうか あと
蒼樹猿は鳴く 蜂火の跡
なんぼくほこ まじ こと いくかい
南北戈を交ゆる事 幾回ぞ
し
正ょ
平う
塁へ
をい
囲る
むい
果か
しこ
て 何 れ のは
処た
ぞ いず ところ
呼峰登り尽くして 感懐を催す
湧き出る温泉 是れ此の山
これ等の山々を背にして広がる別府湾の眺めは絶景で、
古くより﹁はやみの海﹂と呼ばれ、親しまれてきました。
万葉歌人・長皇子は、この美しさに打たれ次のような和
歌を詠んでいます。お聞き下さい。
わぎも子を はやみ演風 やまとなる
我まつつばきを ふきさるなゆめ
た惜
だし
おむ
望
楼
ぼ皆
う灰
ろと
う作
こる
とを
ごとくはいな
唯
今から四〇〇年前の関ケ原の戦いの頃、別府では石塩
O 温泉の噴気も、昔はとき・ところをかまわず噴き上
ほど前、時宗の開祖一遍上人は海路別府上人ケ浜に上陸
原の戦いがくり広げられました。西軍豊臣方にお家再興
げ、厄介ものあっかいされていました。今から七五〇年
し、湯煙けぶる鉄輪の郷を湯治場として拓いたと伝えら
した。﹁忠魂の情﹂万人の胸を打った続幸の辞世の一句
の夢をかけた当主大友義続の軍は、徳川方黒田如水の軍
本の根かやの根 いづくにか
れています。当時を偲ばせる一遍上人の和歌を紹介しま
旅ごろも
と、この古戦場に追憶の心を寄せた、矢野甘泉の絶句
でした。
明
あ日
は
す誰
が
た草
む
す
屍
くや
さ照
す
ら
かん
ばね てら
賞下さい。
﹁石塩原懐古﹂を、﹁吟﹂と﹁剣舞﹂とで二題続けてご鑑
南北朝五十七年の争乱で、九州の千早城と讐えられた
目 戦国の世、別府の地も、平穏な時代ではありません
身の捨てられぬ 処あるべき
に敗れ、忠臣吉弘嘉兵衛続幸も石垣原の露と消え果てま
−
しよろノ。
−100
ま野
んの
や秋
風
し ゅ恨
うみ
ふを
う惹
い
うて
ら長
し
ひ なが
清
忠魂一たび去って 今何くにか在る
海溝岸を噛んで 愁腸を洗う
おい
も見
る
み当
年
の
古
と戦
う場
ねん こせんじょう
憶
石
い垣
し原
がの
き今
ば日
るの
月
き影
ょう つきかげ
戸内温泉は別府﹂の大標柱を建てたり、日本初のゴルフ
翁でした。米国に学び、富士山頂に﹁山は富士、海は瀬
本全国はおろか世界にまでその名を広めたのは油屋熊八
府は大きく発展しました。別府温泉をこよなく愛し、日
㈲ 日本の夜明け明治から、大正・昭和時代にかけて別
た。豊後豊岡の儒学者・脇蘭室は、心安らぐ別府の感慨
なり、別府に遊ぶ文人墨客が多く訪れるようになりまし
徳川二六〇余年の太平の世が続き文教もようやく盛んに
㈱ 元和元年︵一六一五年︶大阪夏の陣で戦乱は収まり、
温
あか
たき
た温
泉
と
い で温
ゆか
き
も
あて
たな
たし
りました。﹁吟﹂と﹁詩舞﹂で紹介しましょう。
井ホテルに宿泊した折り、主人油屋熊八翁に次の詩を贈
年元フランス大使ポール・クローデルが別府を訪れ亀の
熊ハ翁は別府観光のために日夜奔走しました。大正十五
場やガイド付き観光バスの地獄めぐりを走らせるなど、
を次のように和歌に託し、また日田の詩聖広瀬淡窓は、
わが生命よみがえる
われ再び別府に来たらん
温かき温泉 なごやけき人の心
の
ゆ下
の
もと
湯
㈲ 大正時代、別府が風光明媚で情緒あふれる温泉の町
その哀歓を絶句につづりました。二題続けてお聞き下さ
︱○
IV
さす月の 影さへすみて
景色なりけり
こ頭
う欽
と乃
う あ新
いた
だな
いり
あら
江
ろ上
う じ離
ょ歌
う歌
み
りかや
楼
若き社会運動家宮崎竜介のもとへと走り、その心境を次
福岡の石炭王の妻であった歌人・柳原白蓮は夫と別れ、
歌人が訪れ、艶やかな色香も添え七きました。
冬ともわかぬ
きしゅう こうぺ めぐらところ
帰舟 首を回す処
のように詠んでいます。また、才色兼備の歌人・
として全国の人々に知られるようになると、多くの文人
な見
おる
み 欄
に
倚
らの
ん人
を
よる ひと
猶
−
−101
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y
ながら別府の風情を次のような句に託しました。続けて
九条武子は渡欧した夫のもとを離れ、慈善事業に尽くし
さい。
ここで、通重信教作の﹁別府を讃える漢詩﹂をお聞き下
我ありたそや
﹁
わ和
田
た津
海
つの
み沖
に
火
燃
おゆ
きる
ひも
思はれ人は﹂
ひの
国
に
くに
大
楼閣高く臨む かんたん湾
是
こ処
れの
こ霊
泉
れ い天
せ下
んに
冠
た
てり
んか かん
茫
ぽ々
うた
ぽる
う洽
海
白
そ雲
うの
か間
い はくうん かん
千
せ扨
んの
じ清
ん渓
せ満
い畳
けの
い山
ばんじょう やま
九条武子
㈲ 構成吟﹁歴史散歩・泉都別府のあゆみ﹂も﹁一吟﹂
柳原白蓮
や
は
ら
か
き
湯
ゆ気
げに
身
を
み置
く
お我
も
よ
し
われ
﹁
を残すのみとなりました。わたしども宗家・深田光霊先
二首お聞き下さい。
こよひおぼろの 月影恚よし﹂
生が別府のすばらしさを讃えた詩碑が上人ケ浜公園に建
し辺
への
ん地
獄
じ ご白
く煙
鮮
はや
くか
えな
んり
あざ
四
−
−
−
−
−
︵おわり︶
−
−102
I さて時代は移り、昭和二十年広島・長崎の原爆被災
役立つということから、日本初めての﹁原爆温泉センター﹂
車に坐して岳に登れば 霧柚を濡おす
てられています。吟友全員の高らかな合吟で、構成吟を
も建設され、現在までに七四万人の人々が療養にやって
酒を載せて潮に浮べば 月船に満つ
を機に戦争は終わり、ようやく時世は落ち着きました。
来ています。また別府には、毎年一〇〇〇万人の観先客
ぃ
っ
一た
帯い
の 紅こ
燈う
と
光う
景 をこ
彩う
りけい いろど
終わらせて頂きます。
が訪れて温泉を楽しみ、緑豊かな自然を眺め、街並みを
い
幾く
群ぐ
のん
浴 客よ
く
街き
肝ゃ
にく
辰が
るいせん むらが
別府も平和な国際観光温泉文化都市として新たな第一歩
散策しながら詠まれた俳句も一万三〇〇〇句となりまし
せ
泉ん
都と
別べ
府っ
ぷ
天 下 にて
冠ん
たか
り かん
鶴嶺雲を排して 碧天に連なり
た。また、平成十三年度NHKが募集した﹁二十一世紀
水軟らかに湯温かにして 麗人を思わしむ
を踏み出しました。別府温泉が原爆による難病の治療に
に残したい日本の風景﹂と題しての投票では、富士山に
次ぎ﹁別府の湯けむり﹂が全国で第二位に選ばれました。
−
・
・.
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一
・I
・.
-・
’
・.
F.
.
・I
g.
,記丿念]吟
▲(写真一事務局長清原明氏提供)▼
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