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ケ ン ペ ル の 見 た 富士山 と 静 岡
の語が生まれたことはよく知られている。 忠 雄によって﹁ 鎖 国 論 ﹂と訳され﹁ 鎖 国 ﹂ いると評 価した論 文が、後に蘭 学 者 志 筑 外 関 係 を 、国 を 閉ざして平 和 を 維 持して ての記述にも生きている。中でも日本の対 格 、宗 教や民 衆のあり方など、日本につい ま まに見 、比 較 する観 察 眼は、王 権の性 るが、旅で養われた、様々な土地をありの 誌 ﹄は最 初の総 合 的な日本 研 究 書と言 え 彼の死 後にようやく 出 版された﹃日 本 目し、観察記録やスケッチを残している。 識欲で行く先々の自然や人々の暮らしに注 路・海路での長い旅の間、彼はあくなき知 二年 間 、日 本に滞 在 す ることになる 。陸 六九〇年九月から一六九二年一〇月までの めたたえ、うまく描いても、それで十分とい 本の詩人や画家がこの山の美しさをいくらほ 言えよう。その彼も﹁世界一美しい山﹂、 ﹁日 る。世界を旅したケンペルならではの比 較と 三七一八m、なだらかな裾 野は確かに似てい フェ島のことで、そこにあるテイデ山は高さ 途に見 たのであろうカナリア諸 島のテネリ う 面にも注 目している。テネリファとは、帰 基づき 山 頂の様 子 を 伝 え、信 仰の対 象とい があるとの観 察 とともに、登 山 者の報 告に 準としている。また、草も木もなく一年中雪 どこからでも 見 えるこの山 を 地 図 作 成の基 ている。高さに感心したばかりでなく、彼は ひときわ高くそびえる富士山の姿が描かれ の記述とともに、挿絵の道中地図の中にも、 うことはない﹂と富士を愛でる日本人の心情 大井川、藤枝川、安倍川、富士川といくつも に共感しているのである。富士山とともに、 ﹃日本誌﹄の第五巻十一章は浜松から江 の川を渡り、箱 根の山 越 えに終わる駿 河 国 ケンペルの見た富士山と静岡 戸への旅の日 記になっている。一六九一年三 ﹃日 本 誌 ﹄はヨーロッパでベストセラーにな は、江戸参府の旅の中でも印象深く、ケンペ に一番近いところを通る一日だった。 ﹁テネ り 、啓 蒙 思 想 家たちの日 本 観にも 大 きな影 月一〇日は、江尻を日の出前に出て、 埵 リファのように信じられないほどの高さが 響を与えた。富士山や静岡に関する記述も、 ルだけでなくツュンベリー、シーボルトなどの あり、周 囲の山々は富 士 山に比べると、た 既に十八世紀後半には思ったより多くのヨー 峠を越え、富士川を渡って吉原で昼食、沼 だ低い丘のように見える。﹂ ︵斎藤信訳﹃江 ロッパ人の目に触れていたのかもしれない。 著作にも詳しく記述されている。 戸 参 府 旅 行日記 ﹄平 凡 社 一九九七年 ︶と 津で暗 くなり 闇の中 を三島 まで、富 士 山 オロタバ渓谷からテイデ山を望む。テイデ (ピコ・デル・テイデ) は、北アフリカ大西洋沖のカナリア諸島のテネリフェ島 にあるスペイン領内最高峰の火山で標高3718m。テイデ山とその周辺は国立公園で、2007年にユネスコ世界遺 産に登録。テネリフェ島は1496年にスペインのカスティーリャ王国に征服され、 アメリカ大陸へ横断するための中継 地として発展。 この頃に建築された王宮、教会、修道院、貴族の邸宅などがラグーナやオロタバの街に残っている。 (写真提供:Turismo de Tenerife) ケンペル 『日本誌』第29図:浜松から江戸までの旅行地図。 上の図が遠江∼駿河、下の図が伊豆∼相模∼武蔵の地 図。駿河国の北東には高くそびえる富士の山が描かれ、駿 河府中は碁盤目状の城下町として、三保松原は島として描 かれている。駿河国の地名として、宇津ノ谷、丸子、安倍川、 曲金、古庄、吉田、追分、江尻、興津、由比、蒲原などが記さ れている。