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平成25年度越後国域確定1300年記念事業 記録集(P.33~P
弥生時代における佐渡の玉作遺跡の重要性 てらむら みつはる 寺村 光晴(和洋女子大学名誉教授) 寺村でございます。私は、現在行政区上は長岡市ですが、以前は三島郡の寺泊町と出雲崎町の間の和島 村の出身でございます。佐渡の対岸でして、海水浴に行きますと、佐渡が良く見えて、鶏の声がはっきり 聞こえてくるくらい、きれいに見えました。 たまつくり 本題に入る前に、なぜ私が「玉作に関心を持つに至ったのか」というご質問がございましたので、本題 とは直接関係はありませんが、玉の関係から、一寸話させていただきたいと思います。 私が学校を卒業する頃は、太平洋戦争の末期でして、若い人はほとんど戦に出ざるを得ないと考えてお られたと思います。私も陸軍と海軍を志願いたしました。海軍の採用通知が早く来て、予備学生に採用さ れました。入ったところが江田島の海軍兵学校でした。学徒出陣で入った次第で、任官と同日付けで軍令 部勤務になりました。 当時、軍令部は神奈川県日吉の慶応大学日吉キャンパスにございました。そこへ行きますと、 「貴様、ア メリカの情報をやれ」と言われました。ところが、私は英語が不得意でした。そこで「私、英語ができま せん」と申し上げると、 「よし、わかった」と。それで配置転換をしてくれるかと思いましたところ、女子 大学の英文学科を卒業して軍属になっておられた方々 5 ・ 6 人を、私の手伝いに配属されたのです。いわ ゆる部下です。これには参りました。 与えられた私の任務は、アメリカの海兵隊についての研究でした。一生懸命各方面から情報を集め、研 究しました。海兵隊が日本の島々を攻めた場合、 1 回目と 2 回目は撃退できます。しかし、いくら計算し ても 3 回目には上陸されてしまいます。当時の戦力はそんなものでした。 ところで、戦争中の私たちの心と考えは、戦後も変わっていないという感じがいたします。戦争中は神 話教育でしたが、戦後は考古学教育を受けることになりました。考古学は物が対象です。見えない心を、 見える物にしたならば、それは何か。いろいろ考えました。その結果、それは「玉」であろうと考えるに 至った次第です。故に、私は一貫して玉を研究して参りました。 さて本日は、与えられた「弥生時代における佐渡の玉作遺跡の重要性」というテーマで話をさせていた だきたいと思います。 戦後私は少しの期間教職に就いていたのですが、当時新潟県の考古学の指導をしておられた 2 人の先生 や はたいちろう のお 1 人が、八幡一郎先生でした。昭和の初めから東京大学理学部におられまして、戦後は東京教育大学 おお ば いわ お 教授になられました。もうお 1 人が内務省の大場磐雄先生で、戦後は國學院大學教授になられました。昭 和の初め頃から、このお 2 人の先生が新潟県の考古学を指導教育してこられたのであります。私は独学の 素人でしたので、もう少し学びたいと思っていました。当時、八幡先生は東京国立博物館の考古課長で、 大場先生は國學院大學の教授をしておられたので、大場先生のところへ行くことになりました。10年くら い、遅れた次第です。 本日のテーマは題目の通り、 「玉作」ということです。旧石器時代の北海道などでは玉作があるようです が、新潟県では現在のところ縄文時代になってから玉作が始まるようです。 玉の材料はどんなものかと申しますと、縄文時代の玉は一般的に、緑と青の間みたいな色の柔らかい石 なんぎょく まがたま くだたま まるだま こ だま で、軟玉と言います。玉の種類には、勾玉とか管玉とか丸玉とか小玉などがあります。縄文時代の玉は非 常にラフでした。ところが、弥生時代になりますと、ガラッと変わってしまいます。形が定型化します。 −33− へきぎょく てつせきえい 材料も違います。碧玉(青い石)、鉄石英(赤い石)、それからメノウなど、いろいろな材料で勾玉、管玉、 丸玉、小玉などが作られますが、きちっとした形の玉になります。ですから、弥生時代は玉の歴史上の一 大転換期と言えます。それが古墳時代に続いていきます。古墳時代が終わり、飛鳥・奈良時代になると、 どういうわけか玉に対する考えが、またガラッと変わってしまいます。考古学的に言えば、玉の終わりと 言ってもよいかも知れません。あとは、明治時代に入り再び玉を、再確認するようになります。 ところで、本日のテーマである最も重要な弥生時代の佐渡の玉作は、結論から言えば新潟県一だと思い ます。新潟県一はすなわち、日本一といってもよいと思います。日本一ということは、同時代の中国、朝 鮮半島などを入れても東洋一と思います。従って、東洋一ということは、ヨーロッパなどには玉の文化は ないと言ってよいので、世界一ということになると思います。佐渡の弥生時代の玉作を除いて、日本の玉 作は語ることができないであろうと私は思っております。結論から先に申しますと、世界の歴史文化遺産 に登録をしていただいても大丈夫と考えております。是非お願い申し上げます。 佐渡は島でございます。島はまとまりがあります。したがって、各分野で、昔から有名な研究者がたく さいとうしゅうへい さん出ておられます。考古学も同じです。大正末から昭和初期に新潟県庁におられました、斎藤 秀 平先生 け ら よしまつ は非常に良く研究されました。中央の方ですと、八幡一郎先生とか大場磐雄先生。佐渡では計良由松先生 け ら かつのり ほん ま よしはる しい な のりたか や計良勝範さん。県庁の課長さんでした本間嘉晴先生や、高校の先生をされました椎名仙卓さん。それか うえはらこう し ろう せきまさゆき なかがわしげ ら新潟の上原甲子郎さんや、新発田におられます関雅之さん。東京の方では長岡出身で東京大学の中川成 お か とうしんぺい こ いでよしはる か とり 夫・加藤晋平・國學院大學の小出義治さんなどがおられます。佐渡市には鹿取さんもおられます。落ちが 多いと思いますが、お許しください。そういう先覚者が多数出ておられます。 いろいろな論文や本も出ております。昭和29年に「九学会連合」という学会がありまして、 「考古学から 見た佐渡」(中川成夫・本間嘉晴・椎名仙卓・岡本勇・加藤晋平)というのが『佐渡−自然・文化・社会 −』の中に載っています。非常に良くまとまっています。そのほか、 『越佐研究』とか『佐渡史学』などの 雑誌がございます。詳しくは、それらを御覧になって頂きたいと思います。 次に、テーマである佐渡における玉作の遺跡について、話させていただきます。鹿取さんのお話では弥 生時代の遺跡が16か所ございましたが、その50%は国中平野にあります(図 1 )。しかし、国中平野の西側、 真野湾の方に寄っています。弥生時代の遺跡の半数が沖積地帯にあります。どんな遺物が出ているかとい たけ はな うと、細形の管玉、以前私が報告した佐渡の細形管玉は、弥生後期の竹の花式土器の時代のものですが、 ほかに太い管玉もあるので、弥生時代中期中葉にさかのぼるものもあるのではないかと思っていました。 本日の鹿取さんの報告では、弥生時代の中期後半に位置付けられる土器もありましたので、安心しました。 玉の形は勾玉、管玉、丸玉、角玉(四角の玉)、小玉などがあります。細形管玉は直径が 2 mm 前後、普 通は2.2〜2.8mm の間くらい、長さが0.6〜1.7cm くらい(図 2 )。碧玉でできているものが多いです。それ たたきいし だいいし いしのこ を作った工具、すなわち叩石や台石、石鋸など、いろいろな工具も出ております。そして、竹の花式土器 が無くなりますと、玉作が無くなる。なぜ、そうなのか。推察はされますが、具体的には分かりません。 ともかく、竹の花式土器が無くなり、弥生時代が終わると、無くなってしまうのです。 佐渡の細形管玉は弥生時代に限定されたもので、文化遺産登録の価値が十分にあると思います。しかも、 それを作る専業の生産集団は、現在の兼業農家のように、稲作をしながら玉を専業的に作っていたと思わ れます。そして、それを広め、交易もしていたと言えるわけです。作っていた工房、アトリエはどうかと いいますと、今まで玉に目がいっていたので、遺構や遺跡があまり注意されていませんでした。しかも、 しもはたたまつくり 遺跡は沖積平野の水田の中にありますから、なかなか調査しにくいものでした。佐渡市下畑玉 作 遺跡の調 たてあなじゅうきょ 査の時には、水田の畦に段差があり、そこに竪穴 住 居跡が見えました。そこで、そこを発掘させていただ きたい、とお願い申し上げたのですが、水田のため「水が下に行って上の方が駄目になります」というこ とで、掘れませんでした。水田は遺構の調査が難しくて、やるならゆっくりと腰を落ち着けてやらないと −34− 1 .平田 2 .桂林 3 .小谷地 4 .城ノ畠 5 .旗井崎 6 .新保川東 7 .丹下坂 8 .二反田 9 .城貝塚 10.鳥井元 11.藤津 12.出崎 13.下畑 14.三宮 15.若宮 16.千種 17.新保川東 図 1 新潟県佐渡島玉作遺跡分布図(寺村1980) 図 2 新穂玉作遺跡の攻玉工程(計良・椎名1961) −35− いけないのではないかと考えています。 弥生時代に佐渡で、なぜ玉作が盛んだったのだろうか、ということが問題になります。縄文時代は先ほ ど申しましたようにラフでして、日本全国同じで、特に佐渡だけ玉作文化が発達していたというわけでは ありません。それが弥生時代になると盛んになるわけです。どうしてかというと、日本の文化は、大陸か ら朝鮮半島を経由して北九州に上陸し、そこで日本の弥生文化ができてきたというのが通説のようです。 その北九州にできた弥生文化が、やがて東方に伝わるわけです。北九州から瀬戸内海を通って、太平洋岸 を通るルートと、北九州から中国地方、日本海を通るルートがありますが、その頃は日本海ルートのほう が発達していたと思います。現在は太平洋岸が「表日本」ですけれども、当時の「表日本」は日本海岸で あろうと思います。これは考古学的にも、間違いないと思います。 当時は、太平洋岸よりも日本海岸の方が、文化が発達していました。文化は能登半島を経由して佐渡へ 来ます。そして、佐渡から越後の北部、下越地方の村上市のあたり、一部山形県にかかりますけれども、 その先には行かないのです。玉作も同じです(図 3 )。極端に言いますと、新潟県でストップです。なぜ、 山形県から北の方に玉作が行かないのか。これも問題です。問題ですけれども、皆さんからもいろいろ考 えていただきたいと思います。文化が違うといえば、一言で終わってしまいますけれども、今後の課題と いうことにしましょう。そういうふうに、日本海を経由した文化が佐渡に来ます。そして弥生の玉作が芽 を開いたというふうに考えるのがよろしいかと思います。 図 3 北陸地方の主要攻玉・玉作遺跡の分布(関・藤田2004) −36− 「玉」というのは東洋の文化です。ヨーロッパやアメリカ大陸は「ビーズ」ですから、玉作の文化は無い といってもよいかもしれません。東洋のなかでも中国、朝鮮半島、日本。中でも日本ということになりま すので、日本の玉を無視しては、世界の「玉」は語れないです。しかも、日本の弥生時代の玉を無視して は語れません。日本の弥生時代の玉のなかで、佐渡の玉がもっとも盛んです。佐渡の玉を無視しては日本 の玉は語れません。したがって、世界の玉も語れない。これは結びの言葉のようなものですが、そう言っ ても、少しも誤りではないと思います。 佐渡島内で、島内の消費量以上に玉がたくさん作られ、出土しているわけですが、なぜ、竹の花式土器 がなくなると、玉作がなくなるのか。なぜ、竹の花式土器が出てくると、玉作も出たのか。難しいですが、 一言ではちょっと申し上げられないと思います。竹の花式土器と玉作の出現。そして、盛んに作られるよ うになり、そして消滅する。予察は別として、今後の課題ということで考えることにしましょう。 佐渡にこういう現象が出た 1 つの考えとしては、時代がいわゆる倭という中央集権国家の出来る前のこ ぎ し わ じんでん とであったからと思うのです。倭の国は「魏志倭人伝」により北九州にあるのか、関西を中心としてある のか、学界で揉めておりますが。そのような中央集権的な意味。要するに、倭という中央集権の国の前に、 地域国家、すなわち各地域にまとまりがある国々が存在したのであろうと思います。そういう国の一つが 佐渡であったと私は考えています。そして、その国は島国のため、まとまりが良く、文化的にも盛んになっ た。西の方から来た文化が日本海を経て直接佐渡へ来て、そして玉作ができた。それが竹の花式文化と言っ てもよいと思います。そんな時代のころと、 私は密かに考えているわけです。 さらに、なぜ佐渡で弥生時代に玉作が盛 んであったのか。一番の問題点であります。 これはやはり皆様で考えていただくより手 がないのではないかと思います。竹の花式 土器の出現と、盛んに玉作が行われた時代。 そして、それらが消えると無くなっていく ということになるのではなかろうかと考え ます。しかも、作られた玉は佐渡島内の需 要より多い。すなわち島外へ持っていく。 貿易で拡散し、北海道から鹿児島の南まで 図 4 新潟から佐渡への船上から (小佐渡の先端が見えてきました) 行っていると、私は各地域の出土の玉の分 析から思うわけです。 今後、工房(アトリエ)など、生産の遺 構を調査していきますと、どういうふうに して玉が作られ、拡散したかということが 詳しく分かると思います。しかし、水田の 中ですから、たとえ掘れたとしても、よほ ど丁寧にゆっくりやっていかないと、見つ けるのは難しいと考えています。さらに、 大陸からやってきた文化が、なぜ、こうい う刺激を与えたか、今後の問題になるかと 思います。なぜ、佐渡の弥生時代に玉作が 盛んだったのか、これが一番の問題点でご 図 5 大きな赤玉石 −37− ざいます。「魏志倭人伝」に、なぜ佐渡が書かれていなかった のか。時代がそれ以前に違いないのですが、これも問題にな るのではないかと考えております。 次に、スライドで説明させていただきたいと思います。 スライド 図 4 は、新潟から船に乗って佐渡に向かった時の様子で、 小佐渡の先端が見えてきました。 図 5 は、赤玉です。だいぶ大きく、畑野のどなたかがお持 ちになったものか、あるいは、市のものかもしれません。大 きさは30cm 以上あります。青い石を青玉といいますが、赤玉 の鉄石英も石の種類からいえば碧玉の中に入ります。これが 細形管玉の材料になります。 図 6 は、原石産地の猿八の東猿八川です。赤玉、青玉が点々 としてあります。周囲の山が赤玉の原石の山になっています。 図 7 は、東猿八川の川底の赤玉です。その他に、メノウと ぎょくずい か玉髄もあります。しかし、碧玉の赤玉と青玉が多いです。 図 6 猿八の原石産地(東猿八川) 図 8 は、図 7 を少し大きくしたものです。 赤玉やメノウがあります。 図 9 は、東猿八川の上流にある滝です。 高さは背の高さより高かったですから、 3 m 以上あったかと思います。この上流が と いし 玉の原石の産地です。工具に使う砥石の産 地でもあります。 図10は、砥石の原石で、岩肌に露出して いました。 図11は、下畑玉作遺跡です。画面中央が、 調査した地点です。田んぼに段差があり、 断面を見ると削らなくても住居跡であるこ 図 7 東猿八川の赤玉(川底) とが分かりました。しかし、田んぼが駄目 になりますから、発掘は無理でしょうね。 はくへん そこで、玉の未製品・原石・薄片が一番多 く落ちていて、工房跡(アトリエ)がある のではないかと思うところを希望したとこ ろ、 「いいですよ」とおっしゃったので、掘 らせていただきました。これがその場所で す。感謝いたしています。 図12も、下畑玉作遺跡です。人が立って ち ぐさ いるちょっと先に、有名な千種遺跡があり ます。ですから千種遺跡のすぐ近くという ことです。 図 8 東猿八川の赤玉・メノウ(図7の拡大) −38− ど こう ぼ 図13は、写真の中央付近から、土壙墓が発掘されました。 図14が土壙墓です。遺物の散布状態から玉を生産した住居跡だと思って掘ったのですが、住居跡ではな く、お墓でした。おそらく、住居跡を壊してお墓を作ったものと思われます。 1 号墓と呼んでいます。非 もっかん 常に細長い木棺で、古墳時代前期の木棺墓と良く似ています。ですから、私は弥生時代の木棺墓の系統が 古墳時代前期のお墓になったのであろうと思っています。 1 本の太い長い木を縦に半分に割って、中をく り抜いてお墓の棺にして埋めたわけです。 図15の中央が 4 号墓です。その左下が 3 号墓、右上が 1 号墓です。報告書が出てお りますのでご覧いただくとありがたいです。 図16は、 1 号墓発掘の途中の状態であり ます。深く掘ったところ人骨が出てきまし たが、水田の中ですから完全ではありませ んでした。親指位の大きさのものを乾燥さ せようとしましたが、うまくいきませんで かめ した。底部には割れた甕片があり、その下 に人骨を入れた木棺があり、お墓の上に目 印として大きな石が置かれていました。長 図 9 小倉川上流の滝 い間に木棺は腐り、潰れて穴の中に押し込 まれたと考えられます。したがって、本来 は 1 本の大きい木を縦に半分に割って、中 をくり抜いて遺体を入れ、お供えの土器を 置き、一番上に、これはお墓ですよと印を 置いたのだと思います。 図17は、 2 号墓です。墓にはいろいろな 形があります。時代によって違っていると 思います。中には埋め戻すとき混入した石 などが入っていました。仕方ないことだと 思います。土器も出土しています。杭の跡 もありました。墓の目印とした杭の跡かも 図10 小倉川上流の滝の上(工具の材料が露出している) しれません。 図18は、 3 号墓です。本来は上に土が盛 り上がっていたのですが、遺構が腐って内 部にくぼんだため、土器がつぶれたようで す。 図19は、 4 号墓です。お供えの土器を入 れて、埋め戻したようです。お墓の木棺は 長い木を縦にして、真ん中から割ったもの で、寝たままの状態で葬る伸展葬として用 いられたようです。木の種類はコウヤマキ だそうです。 図20は、すぐ近くに生えていた現在のコ 図11 下畑玉作遺跡の発掘調査地点(中央) −39− ウヤマキです。昔もこのような木を切り、 長さ 3 m 位にして、縦を半分に割り、中を くり抜いて、木棺にしたのであろうと思い ます。 図21は、下畑玉作遺跡の発掘地点です(右 側)。 図22は、計良由松先生のお宅前の「佐渡 玉作遺跡研究室」の木柱です。 図23は、 「佐渡よ、さらば…」ということ で、また来ることを期待して、これでスラ イドを終わります。 佐渡の玉作は、日本で最も優れた弥生時 図12 下畑玉作遺跡周辺の様子 代の玉作遺跡です。しかし、古墳時代には 消えてしまいます。日本で最も優れた弥生 時代の佐渡玉作は、世界文化遺産として、 ぜひ登録をしていただきたい。ところが、 文化遺産登録の委員は、だいたい西洋の人 のようでございまして、東洋文化が苦手な 人が多いようでございます。申請の際には、 上手に文案を書いて出していただきたいと お願いいたします。 以上で終わりたいと思います。ありがと うございました。 図13 下畑玉作遺跡の土壙墓検出地点(中央) 図14 下畑玉作遺跡の1号土壙 図15 下畑玉作遺跡の 1 ~ 4 号土壙 −40− 引用・参考文献 計良由松・椎名仙卓 1961「後期弥生文化の攻玉法-佐渡新穂玉作遺跡の資料を中心にして」『考古学雑誌』47-1 日 本考古学会 関雅之・藤田富士夫 2004「北陸Ⅱ 新潟県・富山県」『日本玉作大観』寺村光晴編 吉川弘文館 寺村光晴 1980『古代玉作形成史の研究』吉川弘文館 図16 下畑玉作遺跡 1 号土壙の遺物出土状況 図17 下畑玉作遺跡 2 号土壙の遺物出土状況 図18 下畑玉作遺跡 3 号土壙の遺物出土状況 −41− 図19 下畑玉作遺跡 4 号土壙の遺物出土状況 図20 現在のコウヤマキの木(佐渡市長谷寺) 図21 下畑玉作遺跡から大佐渡を望む(発掘地点は道の右側) 図22 計良由松先生宅前の碑 図23 佐渡を離れる(また来るまでは) −42− 佐渡の弥生〜古墳時代遺跡 か とり わたる 鹿取 渉(佐渡市世界遺産推進課) 佐渡市の鹿取と申します。なかなかこのような場が不慣れでお聞き苦しいところが多々あるかもしれま てらむらみつはる せんが、よろしくお願いします。ちなみに寺村光晴先生は、大学時代の先生でありまして、このような場 にご一緒させていただきまして、光栄、且つ、恐縮しております。今回の「佐渡の弥生〜古墳時代遺跡」 という内容ですが、次の寺村光晴先生のお話を理解するための前段の内容ですので、そのようなかたちで お聞きいただければと思います。 まず佐渡の弥生時代、古墳時代の主な遺跡の分布になります。国中平野に集中しております。弥生時代、 古墳時代の遺跡は沖積地に主に分布し、縄文時代は比較的台地上に立地し、弥生時代以降から沖積地に降 りてくる傾向といえます。 弥生時代の佐渡についてですが、佐渡における弥生時代の遺跡は、今のところ、前期〜中期前半が見つ かっておりません。中期後半以降に出現し、爆発的に多くの遺跡が認められます。また、中期が終わって 後期という時期になると、そこではパタッと無くなってしまいます。そして、後期の末頃、古墳時代早期 というか、そことの境くらいからまた急激に増加する傾向にあります。第 1 回のリレー講演会でありまし た、弥生時代になって現れた代表的な事象を佐渡に当てはめてみますと、 「稲作」ですが水田跡は現在まで しもばた 見つかっておりませんが、旧畑野町の下畑遺跡などから中期後半、今から2000年位前の遺跡ですけれども、 かんごう ひら た そういった時期の遺跡から炭化米が出土しております。「環濠」は後ほどお話します平田遺跡、これも中期 後半の2000年位前の遺跡で出ております。そして、「集団間の争い」・「金属器」・「社会的階層の顕在化」・ 「政治的社会への傾斜」に関しましては、現在のところ佐渡ではまだ良く分かっておりません。 また佐渡の弥生時代を見る上で、最大の特 へき 徴としまして、弥生時代中期後半に青玉、碧 ぎょくりょく しょく ぎょう かい がん 玉・緑 色 凝 灰岩ですね、赤玉、鉄石英と言 うのですかね、 そういった石を主体的に利用し くだたま たまつくり ました細形管玉の「玉作」があげられまして、 先ほどの弥生時代、古墳時代の遺跡と同様、沖 積地に分布し、主に新穂から真野方面、国中 平野の中央からやや西側に偏っていて、現在 までに16遺跡確認されております。 (図 1 ) 次にその玉作遺跡を個別に見ていきたいと 思います。まず、佐渡の玉作遺跡の中核的遺 にい ぼ たまつくり 跡と言われております、旧新穂村の新穂玉 作 たけ はな こ や ち かつら 遺跡群ですが、竹の花遺跡(小谷地遺跡)、桂 ばやし 図 1 佐渡玉作遺跡の分布(計良・本間2004) じょう の はた 林 遺跡、平田遺跡、城ノ畠遺跡の 4 遺跡の総 称になり、新潟県の史跡にもなっております。過去に何回か発掘調査が行われており、最近では平成 8 年 から10年にかけてほ場整備に伴い、新潟県と新穂村により、平田遺跡と竹の花遺跡の発掘調査が行われて おります。その発掘調査の結果、おびただしい量の碧玉とか鉄石英で作られました細形管玉などの玉製品 やその工具などの石器、矢板などの木製品、土器などが出土しました。佐渡の弥生時代の特徴的な遺物で −43− ある管玉製作の中心と考えられる遺跡で、なんと面積は30万㎡を超える大遺跡でもありまして、国内でも 代表的な玉作遺跡です。史跡以外のところでも、どこを掘っても碧玉や鉄石英などの玉の未製品とか玉が 出てくる状況です。少し話はずれますが、図 2 は管玉の製作工程であります。あとで寺村光晴先生からお うちわり 話があるかもしれませんが、原石打割の第 1 工程から第 7 工程までに渡り、原石からだんだん小さくなっ せきしん ていき、完成に至ります。次に石針と言いまして、主に管玉の穴を開けたとか、開けた穴を整えたとか言 われている工具ですが、そういった製作工程の図であります。(図 3 ) 図 2 平田遺跡 管玉製作工程[緑色凝灰岩] (田海ほか2000) 図 3 平田遺跡 石針製作工程(田海ほか2000) 平田遺跡では、遺構としては最初の方でも話しましたよう に環濠が見つかっております。他には水路の跡と考えられる 矢板列も見つかり、水田用水路の可能性が高いのではないで ざ おう しょうか。また、後ほどお話します古墳時代の蔵王遺跡も同 そ 様ですが、木柱根が腐らずに残っており、その柱の下には礎 ばん 板が敷かれておりまして、よっぽど地盤が悪かったのか沈ま ないように工夫がされておりました。遺物としては、管玉の 孔の中から、洗っている時に取れてしまいましたが、石針が ちょうど詰まって出土したものも 1 点ありました。玉作の玉 に伴います土器は、櫛で文様を描いた弥生時代中期後半の北 くしがきもん こ まつ 陸系の櫛描文土器で、小松式とか竹の花式とか呼ばれる土器 が主体的に出土しております(図 4 )。 次に竹の花遺跡に入ります。碧玉を中心とした玉作関係の 未成品がいっぱい出土しております。先程の平田遺跡と同様 で、これは洗浄中も取れなったのですが、石針が詰まった状 み つ 図 4 平田遺跡出土土器(田海ほか2000) い とも こ 態で出土しました。(財)新潟県埋蔵文化財調査事業団の三ツ井朋子さんという方から撮っていただいた写 真を見ると、穴を開けている途中で詰まってしまっている様子が分かります。 しん ぼ かわひがし 続いて、旧金井町に位置します大佐渡側の新保川 東 遺跡ですが、同じく弥生時代中期後半、今から約 2000年前の遺跡及び古墳時代早期・前期の遺跡でもあります。昭和43年にほ場整備に伴いまして、主に寺 け ら よしまつ 村光晴先生や計良由松さんを中心に発掘調査が行われました。弥生時代の細形管玉及び未製品とその工具、 土器、工作用ピットを伴う玉作工房跡が 1 軒確認されております。新保川東遺跡の最大の特徴ですが、弥 生時代における玉作の存在を証明する遺構である工房跡が確認されました重要遺跡であります。遺物とし ては、碧玉製の三角玉というちょっと変わった玉も出土しています。 続きまして、旧畑野町の下畑遺跡に入ります。弥生時代中期後半の玉作遺跡で、新潟県史跡であります。 −44− こちらも昭和46年、47年にほ場整備に伴いまして、寺村光晴先生や計良由松さんを中心としまして発掘調 わりたけがたもっかん ぼ 査が行われております。多数の細形管玉の未製品やその工具、土器や炭化米の他、割竹形木棺墓とか組合 ど こう ぼ せ形木棺墓とかと推定されておりますが、そういった土壙墓が 5 基発掘されたのが下畑遺跡の最大の特徴 となっております。日本で最初に弥生時代の玉作工人の集団墓と考えられますお墓が確認されました重要 遺跡でもあります。後ほど寺村光晴先生からも詳しくお話があるかと思われます。一応、 1 号のこの細長 いのが割竹形木棺墓と推定されております。土壙の両壁に木棺の破片がびっしり、多数ついていたと報告 されています。 4 号の方は組合せ形木棺墓で、木棺の組合せの痕跡が残っていたと記載されております。 わかみや 旧真野町の遺跡ですが、次に若宮遺跡に入ります。こちらも弥生時代中期後半の玉作遺跡でありまして、 昭和24年、28年、43年の 3 回発掘調査が行われております。多数の細形管玉や未製品、その工具、土器な どが発見されております。八幡砂丘上の一番真野湾に近いところに位置し、砂丘上の最内陸部に立地する 遺跡であり、佐渡で最も海に近い玉作遺跡の一つであります。佐渡以外の地との交易を考える上でも重要 な遺跡と考えられます。立地から、個人的には細形管玉の製作兼、集積とか積出港みたいなことも考えら れる遺跡かと推定しております。 玉作の時代が終わりまして、弥生時代後期から古墳時代の話に変えさせていただきます。はじめに新潟 はまばたどうけつ 県史跡の旧相川町浜端洞穴遺跡のお話をさせていただきます。入口に蓋をしてあるのですが、すぐ海辺に 位置する弥生時代中期後半から後期前半、古墳時代早・前期の海蝕洞穴遺跡であります。弥生時代中期後 半の遺物は少なく、佐渡では珍しく後期前半の土器がまとまって出ております。昭和42年、43年に発掘調 査が行われ、洞穴遺跡ならではですが、多数の骨角器や貝製 品が出土し、また土器や、ほんの少しですが鉄石英製の細形 いしのこ と いし 管玉未製品、石鋸や砥石といった玉作の工具も出土しており ぼっこつ ます。ト骨や人骨も出土しており、出土品や埋葬状況から洞 穴の用途は、祭祀空間とか墓域と考えられる重要な遺跡です。 ぎ し わ じんでん ト骨は 3 個出ているのですが、 『魏志倭人伝』にも記載がある 遺物で、鹿の肩甲骨を焼いて、吉凶を占う道具であります(図 5 )。 図 5 浜端遺跡出土ト骨(講演者撮影) ち ぐさ 続きまして、旧金井町の千種遺跡に入らせていただきます。弥生時代後期末から古墳時代前期の遺跡で あります。昭和27年に国府川、今の国中大橋付近ですけれども、そこの河川改修に伴いまして、佐渡古代 ほん ま よしはる こんどうとみ お 文化研究所として、佐渡高校の校長をされました本間嘉晴先生や写真家の近藤福雄さんが中心になって発 掘調査が行われました。弥生時代後期末から古墳時代前期の社会・生活状況を把握する上で欠く事のでき ない県内の代表的な低湿地遺跡で、佐渡で本格的な発掘調査が行われました初例の重要遺跡でもあります。 遺構としましては、ちょっと変わったものでは汽水性のサドシジミを中心とした小貝塚がありまして、こ ういった貝塚がこの時期まで残っていたということで、潟湖のほとりに遺跡ができていた証明になる遺構 です。図 6 は千種遺跡の土器です。24の甕は弥生時代の終わり から古墳時代初頭のものですが、千種遺跡の出土で最初に注目 ち ぐさがめ の と がめ されたため、千種甕と言われている、又は能登甕とも言われて いる甕の形になります。他の出土遺物としては、稲作の証明み かい たいなものですが、炭化米も出土しております。矢板とか櫂な ど、そういった木製品も多数出土しております。また、小貝塚 がありました関係で浜端洞穴遺跡と同様に、骨角器やト骨、シ イとかクリとかの種子やカニとかウニの骨、貝類、獣骨類など の自然遺物も出土しております。 −45− 図 6 千種遺跡出土土器[S = 1 /10] (大場ほか1953) ざ おう 続きまして旧新穂村の蔵王遺跡に入ります。弥生時代後期末から古墳時代前期の遺跡で、平成 8 、 9 年 にほ場整備に伴いまして、新穂村により発掘調査されました。竹の花遺跡や平田遺跡と隣接する遺跡であ くわ どう ります。おびただしい量の土器、鍬などの木製品、こういったものはなかなか出土しないのですが鏡や銅 ぞく たてあなじゅうきょ 鏃、ガラス小玉など、ちょっと変わった遺物も出土しております(図 9 )。建物としましては、竪穴 住 居 へい ち しきじゅうきょ ほったてばしらたてもの 跡や平地式 住 居跡、掘立 柱 建物跡、環濠などの遺構が多数出土しております。先程の平田遺跡でもあり そ ばん まくらぎ ましたけれども、木柱根や礎板、枕木を残す建物がいくつか見られます。非日常的な遺物や遺構の多さか ら祭祀的な場所、有識者によっては神殿跡や神社跡というのですか、そういった遺構群と推定される遺跡 で、東日本屈指の遺跡であります。主な遺構を説明しますと、図 7 は 1 号掘立柱建物跡で、 4 本柱で各柱 穴に木の礎板が設置されておりました。さらに礎板は木柱を乗せ易くするために、丸くくり抜いて組み合 わせるようになっています。 4 号ピットの礎板ですが、年輪年代分析法という科学分析があるのですが、 みつたにたく み 奈良文化財研究所の光谷拓実先生が分析した結果によりますと、AD290年頃という実年代が測定されてお ります。そういった礎板群の下には、さらに沈まないように枕木っていうのですか、礎板の板を敷いてお りまして、よっぽど地盤が悪かったのかと推定されます。図 8 は 5 号掘立柱建物跡という遺構であります。 こちらは木柱根が各 3 つありまして、木柱根は枕木と組み合わせるところを四角くくり抜いて、その下に ないこう か もんきょう しゅもんきょう どうぞく 枕木を敷いております。ちなみにこの建物付近から内行花文鏡、珠文鏡、銅鏃が出土しております。 6 号 どくりつむなもちばしらたてもの 掘立柱建物跡は独立棟持 柱 建物で、棟持部分は建物の内側に向かって斜めに木柱が刺さっている構造に なっていました。 1 号大型円形建物ですが、何回も拡幅とか繰り返していまして、 7 回以上の切り合い関 係が確認されます。 1 号大型円形建物に伴う柱の跡からも何らかの木製品の廃材を地中の梁にして沈まな いように設置しておりました。この大型建物を囲むように溝が出ておりまして、その溝から板杭列が出て おります。続きまして、 5 号、 6 号溝という環濠ですが、集落を囲むような形で 2 条検出しました。今お 話しました環濠及び、 1 号大型円形建物からは鶏形土製品が出土しております。 図 9 蔵王遺跡出土遺物 [S=1/3](山口2006) 図 8 蔵王遺跡 SB5実測図(山口2006) 図 7 蔵王遺跡 SB1実測図(山口2006) −46− で さき みち さき 続きまして、出崎遺跡、道崎遺跡に入ります。 比較的新しく、合併後の平成16年にほ場整備に伴 い、佐渡市教育委員会によって発掘調査が行われ ました。旧畑野町の目黒町に位置する遺跡であり ます。ともに弥生時代後期末から古墳時代前期の 遺跡で、出崎遺跡は弥生時代中期の玉作遺跡でも ありますが、平成16年の調査では、玉作関連の遺 物は出土しませんでした。出崎、道崎両遺跡は隣 り合った遺跡でもあります。出崎遺跡からはおび ただしい量の土器が主に出ており、道崎遺跡から は多種多様の木製品や水田用の水路跡と考えられ る矢板列が検出しております(図10)。 図10 道崎遺跡遺構実測図(鹿取・佐治2008) ひがしさわ 次に旧金井町の千種に位置する東沢遺跡に入り ます。古墳時代早・前期の遺跡で、平成22年に佐渡病院移転関係での金井小学校新築に伴い、発掘調査が かべいた 行われました。おびただしい量の古墳時代前期の土器、木柱根や壁板などの建築部材、ガラス小玉などが 出土しております。平地式住居跡と考えられる仮称方形区画溝や掘立柱建物跡などの遺構が検出しており ます。この方形区画溝は古墳時代早期・前期の佐渡の建物形態を考える上でも重要と思われます。他の遺 構では、現在、調査区のすぐ脇に新保川が流れていますが、古墳時代前期頃の新保川の跡が検出し、この 河川跡から建築部材が大量に出土しました。河川跡両岸には自然木が 2 本生えており、右岸の自然木の隣 もくそう ひ き むらかつひこ から約 3 m を測る大型木槽樋が出土しました。また、自然木は福島大学の木村勝彦先生による年輪年代分 析により、AD93年と AD268年の実年代が測定されております。出土している古墳時代前期の土器の年代 観と AD268年という数字は近い年代と考えられますので、非常に良い実年代の結果だと個人的に思ってお ります。図11は方形区画溝と呼んでいる一辺約 4 m 四方の建物跡と考えられる溝であります。特徴として は、炉や柱穴を持たない遺構であります。このような遺構ですが、37号方形区画溝の 1 箇所から壁板と思 われる板が検出しまして、おそらく壁板を四方に持った建物跡と思われます。方形区画溝ですが、先程お ほ ばしらがわ 話しました蔵王遺跡や旧金井町吉井の帆 柱 川遺跡、旧畑野町栗野江の今コンビニエンスストアがあります ひる ば けれども、その裏手のほ場整備に伴う発掘調査で見つかった晝場遺跡からも多数出てきております。 図11 東沢遺跡 方形区画溝・掘立柱建物個別図[平面図 S=1/80・断面図 S=1/40](鹿取2011) −47− 次に集落ではなく、古墳の話をしたいと思います。佐渡の古墳ですが、現在までに41基確認されており、 よこあなしきせきしつ えんぷん ぜんぽうこうえんふん ほうふん すべて後期以降であります。いずれも横穴式石室を持つ小規模な円墳で、前方後円墳や方墳などは今のと ころ見つかっておりません。分布域は佐渡の西側の真野湾、東側の両津湾、国中の 3 地域に大別され、真 ま の 野湾沿岸が中心となり数多く分布し、真野湾沿岸は北側の二見半島周辺の古墳と南側の真野古墳群に細別 されます(図12・13)。佐渡の古墳の最大の特徴ですが、国中地域が 3 基しかなく、他は沿岸部に集中し、 む そでがた その沿岸部の段丘上に立地することが言えます。そして石室は無袖型が主流になります。 図12 佐渡の古墳等分布図(滝川2007) 図13 真野湾沿岸古墳分布図(滝川2007) 続きまして、各古墳を個別に見ていきたいと思います。まず旧相川町 だい が はな の台ヶ鼻古墳ですが、新潟県史跡にもなっております。台ヶ鼻灯台に隣 りょうそでがた 接した海岸部の段丘上に立地します。両袖型の石室です(図14)。今のと ころ、佐渡最古の古墳と言われており、6 世紀前半に比定されています。 台ヶ鼻古墳で面白い話が伝わっておりまして、古墳の近くに米郷という あき ば さんせきとう 集落があるのですが、そこの秋葉山石塔が古墳の石室の天井石を転用し たと伝わっております。昭和36年と平成18年に発掘調査が行われていま じ かん すが、あまり遺物がなく、鉄刀と耳環が出土した程度です。台ヶ鼻古墳 たちばな の北西側に位置します 橘 古墳では比較的多くの遺物が見られ、無袖型の ちょくとう てつぞく てつせいがま くわ 石室内から人骨や人歯、直刀や鉄鏃とかの武具、鉄製鎌や鍬といった農 具、ガラス製の切子玉などが出ています。碧玉製の管玉も出土しており、 今回会場に展示しておりますので後で比べていただけたらと思います が、弥生時代の細形管玉と違って非常に太い管玉であります。 すみよし 続いて両津湾沿岸で、福祉施設敷地内の旧両津市住吉古墳であります。 −48− 図14 台ヶ鼻古墳石室実測図 (滝川2007) てつくつわ す え き 両袖型の石室内より直刀や鉄鏃とかの武具、鉄轡といった馬具、耳環、須恵器などが出土しています。 続きまして、新潟県史跡の真野古墳群の一部である旧真野町ケラマキ 3 ・ 5 号墳であります。佐渡の古 墳は海岸部の段丘上に位置していることが多いですが、ここはちょっと変わっていまして、海岸段丘崖下、 海からすぐのところに古墳が立地しております。 3 号墳は片袖型、 5 号墳が無袖型の石室であります。 これで遺跡の話を終わらせていただきまして、まとめにかえさせていただきたいと思います。佐渡の弥 生時代ですが、主に細形管玉の玉作遺跡が最大の特徴になります。中期後半、年代で言うと今から2000年 くしがきもん 前、前後くらいですか、主体的に出土する土器である北陸系の櫛描文土器の出現と盛行と伴い、佐渡でも 急に遺跡が出現しまして、専業的集団と言っても過言ではないくらい、島内で消費しきれない量の管玉を 製作します。しかし、中期後半の櫛描文系土器、小松式とか竹の花式土器とも言いますが、そういった土 器の衰退と共に、佐渡の玉作遺跡も急激に衰退して、中期後半という時期でほぼ完結してしまいます。佐 渡の玉作遺跡の立地でありますが、国中平野の西側半 分、新穂から真野湾沿岸に位置しまして、真野湾に注 ぐ国府川水系の沖積地の微高地上、砂丘上、自然堤防 上に立地します。これは寺村光晴先生が古くからおっ しゃっているのですけれども、図15の玉作の時期に近 い③を見ると砂丘の発達と潟湖の存在が分かるのです が、真野湾沿岸から砂丘を縫いまして、内陸の潟に入 り、小河川を経由しまして、新穂などの遺跡に達する ことができたことを意味しておりまして、船運が可能 だったと考えられます。千種遺跡で潟の存在を示唆す 図15 佐渡島の変遷(佐和田町1988) る小貝塚がありましたが、真野湾岸に国中地域 の港があって、八幡砂丘があり、潟の沿岸とか で玉作遺跡を営んでおりまして、砂丘地上の遺 跡の方から島内で消費しきれないほど大量生産 した管玉を島外へ交易に出していたのではない でしょうか。佐渡産管玉の産地及び流通ですが、 わらしなてつ お 元京都大学の藁科哲男先生が分析を主になさっ ているのですけれども、その科学分析の結果、 佐渡の遺跡から出た碧玉製の管玉の多くは旧畑 野町の猿八、若しくは小倉川流域の産地のもの と比定されておりまして、その猿八産・小倉川 産が、広範囲に流通していることが判明してお 図16 弥生時代の碧玉製、緑色凝灰岩製玉類の原材 ります。北は北海道の方から、西へ行くと山陰 使用分布圏及び原産地(藁科2010) 地方ですね、そういった辺りまで現時点では判明しております(図16)。佐渡の玉作ですが、現在、世界文 化遺産の国内暫定リスト入りを果たしまして注目を集めております、佐渡金銀山遺跡に先立ちまして、碧 玉とか鉄石英とか、そういったご当地の鉱物資源を大々的に活用した先駆的事例と考えられます。 次に弥生末から古墳時代前期のまとめにかえさせていただきます。こちらは資料の蓄積が最も見られた 時期で、大量の土器が出土しております。この時期の土器ですが、佐渡は北陸北東部系と言われている土 器の分布圏と考えられます。また細別された時期区分から 1 期とか 2 期とか 3 期とかの時期があるのです が、そういった細部を比較すると、佐渡の盛期は弥生時代末の 3 期か 4 期と考えられます。越後だと 2 期 くらいから栄えるのですが、ちょっとずれるところからしますと、盛期が同じである越中とか能登方面と −49− 佐渡は、この時期だと関連性が強いのではないだろうかと考えられます。古墳時代前期の遺跡ですが、こ れまでに最も多数、遺跡の発掘調査が行われた時期になります。蔵王遺跡では珠文鏡、内行花文鏡、銅鏃、 はま だ 浜田遺跡では銅鏃など、こういった威信財というものが出土しておりますが、前期古墳は現在まで確認さ か ぶせやま れておりません。しかし、宮内庁の方に伝鹿伏山、相川には鹿伏という地名があるのですが、鹿伏山とい しゃりんせき どうぞく う山はないのですけれども、鹿伏山と伝わっているところから車輪石、銅鏃などが出土しております。車 輪石は全国的に古墳の石室のようなところから出土する遺物でありまして、今後、佐渡でも前期古墳が見 つかる可能性があるのではないでしょうか。 最後に古墳時代中期以降ですが、前期まで 遺跡が集中していた国中平野でほとんど確認 されなくなります。千種遺跡の土層の遺物包 含層ですが、その上に泥炭層が堆積しており、 この層の存在から千種遺跡周辺では再び水没 して、潟湖が再形成されたのではないかと報 ふじ た 告書で考察されておりまして、富山市の藤田 ふ じ お 富士夫さんもその観点より、千種遺跡の泥炭 層の厚さから標高約 3 m 以下とこの頃の潟湖 の大きさを推定しております(図17)。この潟 湖は、千種遺跡よりも標高が低く、佐渡で最 も低いところと言われております、旧真野町 ぶち の金丸に位置するよろく淵遺跡から後期の遺 かなまるおきじょう り たけ だ おき 物がまとまって出土し、金丸沖 条 里とか竹田沖 図17 国中湖周辺の遺跡と古地理図(藤田1990) じょう り 条 里といった古代の条里跡もありますので、そ の頃には潟湖がほぼ消滅して、江戸時代に旧金井町の中興沖に菱池という小さい池があったという記録が あり、池を残す程度に消滅してしまったのではないでしょうか。私の発表はこれで終わらせていただきた いと思います。ご清聴ありがとうございました。 引用・参考文献 大場磐雄ほか 1953『千種』 新潟県教育委員会 鹿取 渉・佐治栄次 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