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主に名前を呼ばれて - church.ne.jp
2015/4/26 門戸聖書教会 礼拝説教 イエスと出会った人々10 ルカ 19:1-10 主に名前を呼ばれて 1.素晴らしい名前 少 し年 のばれてしまうような話ですけれども、昔 、ゴダイゴという人 気 バンドがありました。若 い方 は 知らないでしょうね。私が中 学 生 の頃に人 気があったバンドです。そのゴダイゴが歌った「ビューティ フルネーム」という歌がとても好きでした。確か、国 連の国 際 児童 年のテーマソングになっていたかと 思います。こんな歌詞なのですね。 「今日もこどもたちは 小さな手をひろげて 光とそよ風と友だちを呼んでる。 だれかがどこかで答えてる。その子の名前を呼ぶ。名前-それは燃えるいのち。 ひとつの地球に ひとりずつひとつ。 Every child has a beautiful name. A beautiful name, a beautiful name 呼びかけよう 名前を すばらしい名前を」 1 世界に 70 億人の人がいる。その全ての人が、ひとりひとり名前を持っている。 名前 のない人はひと りもいない。それはすごいことです。名前 があるということ、それは、とりもなおさず、その人がかけがえ のないただひとりの存 在であるという証しです。どれほど多 くの人 がいたとしても、あなたという人 は、 ただ一 人しかいない。「名 前-それは燃 えるいのち」。名 前はひとりひとりに与 えられたかけがえのな い命の象徴なのです。Every child has a beautiful name. ひとりひとりの子が、美しい名前を持 っている-だから、互いに呼びかけよう、すばらしい名前を! いい歌 詞でしょう! 私も自 分 の「大」という名 前 がとても好きです。父が付 けてくれたそうです。父 との間には、色々な事もありましたけれども、父なりにどんな名前にしようか一所懸 命 考えて名づけて くれたことに、心から感謝しています。 先日、ちょっと悪戯 心で、インターネットで自分の「徳永大」という名前を検索してみたんです。する と、一番上には、門戸聖書教会のホームページが出てきました。それから同じ名前の方が、あと二人 出てきました。一 人は、東 京のヘアサロンのスタイリストの方でした。もう一 人 は、大 阪の鉄 板 料 理 の お店 の店 長 さんでした。いつか会 って聞 いてみたいと思 いました。自 分 と同 じ名 前 をその方 のご両 親は、どんな思いで名づけたのか、その名前をどう思って、どういう生き方をしてこられたのか。 1 「ビューティフルネーム」(奈 良 橋 陽 子 ・伊 藤 アキラ作 詞 、タケカワユキヒデ作 曲) 1 みなさんも、ご自 分 の名 前、好きですか? 気に入 っている方 も、そうでない方もあるかもしれませ ん。でも、全ての名 前 が「素 晴 らしい名 前 」なのですね。あなたという人 のかけがえのなさ、あなたの いのちの尊さを、あなたに名前があるという事実が表わしているからです。 今日は、「名前」をひとつの鍵に、イエス様とひとりの人の出会いを見てまいりたいと思います。 2.ザアカイ さて、今 日の箇 所に出てくる人 の名 前は、「ザアカイ」と言います。 このザアカイという名前 は、「きよ い人」「正しい、義なる人」と言った意 味です。日 本で言 えば、「清さん」とか、「正 男 」さん、「義 人」さ んというような名前でしょうか。ユダヤ人にとっては、神様の前に「きよい」こと、「正しい」ことというのは、 何よりも大切なことですから、ザアカイのお父さんは、きっと、ザアカイが、神様の前 に、「きよく」「正し く」生きることを何にもまして大切にしてほしいと願って、「ザアカイ」と名付けたのでしょう。 しかし、ザアカイは、その願いとは全く反 対の生き方をしていた。 いわゆる「名前 負 け」ですね。いや、 「名前 負け」というような半 端な言 い方 はふさわしくない。もう、ぼろ負 けもいいところで、むしろ全 く逆 の人生を歩んでいたのでした。 ルカ 19:1 それからイエスは、エリコに入って、町をお通りになった。 19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。 ザアカイは、交 通の要 衝エリコという町 の取 税 人でした。取 税人という仕事 は、とにかく人々から嫌 われ、軽 蔑される仕 事でした。 支 配 者ローマの手 先となって、貧しい者からも容 赦 なく税 金 を取 り立 てる。しかも、決められたよりも多く取り立 てて、まんまと懐に収めている。汚れてしまうことを承知で異 邦人と付き合っている。神を神とも思わず、人を人とも思っていない-それが呪われ、忌み嫌われた 取税人という仕事でした。しかも、ザアカイはそのかしらだったわけです。 何でザアカイは、そんな取 税 人 などになったのでしょう? ザアカイのお父 さんは多 分 、敬 虔 な人 だったのではないでしょうか。息子に願いをこめて「ザアカイ」と名付けるような人ですから。 よく言われるのは、ザアカイは「背が低かった」(3)から、コンプレックスがあったのだろうと。子どもの 頃からいじめられたり、からかわれたりして、「今に見ていろ、見 返してやるぞ」と思っていた。そ ういう コンプレックスから権 力 とお金 を求 めるようになったのだと言 われます。まあ、そうであったかもしれま せんし、そうではないかもしれません。その辺りは想像をたくましくして考えるしかないでしょう。 ただ、確かなことは、やはりザアカイは自分の名前に込められた、親の願いとは、反対の生き方をし たということです。いや、親の願いだけではなくて、神 様のみこころからも遠 く離れて生きていたという ことです。どこでどう踏み外したのかは分からない。彼は、人生のどこかで、割り切 った。結局のところ、 人がどう言おうが、大事なのは、金と権力 だと。ローマの犬になって何が悪いのだと。 しかし、もうひとつ確かなことは、彼は孤独であったということです。 寂しかったのです。イエス様がザ アカイの家 に泊 まられた時 、人々は、「あの方 は罪 人 のところに行 って客となられた」(7)と言ってつ ぶやいていますね。ザアカイは、それほど町 中 の人から憎まれ、嫌 われていたのです。誰 一 人、「ザ アカイ」と親しく呼んでくれる人はいなかった。自分のところに来るのはいつも金目当 ての者ばかり。 2 3.イエスを見るために そんな時、ザアカイは、エリコにイエス様が来るという噂を聞いた。 まあ、イエス様は、「時の人」ですから、ザアカイが普 通に興 味を持っても不思 議 なないわけですが、 ザアカイには、やはり特別に、イエス様に関心を持つ理由もあったでしょうね。それは、イエス様という 方が、取税 人や、遊女 や、罪 人に対しても、分け隔てなく付き合 われるということですね。おまけに、 12 人の直弟子の一人は、元取税人だというではないか。(『マタイの福音書』を書いた、マタイという 人は元取税人でした。)そういう噂は、取 税人仲間でも有名だったでしょうね。 ルカ 19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることが できなかった。 ここには、ザアカイの気持ちが出ていますね。「いったい、イエス様とはどんな方なのだろう。取税人 とも話してくださるらしいが…」 そう思って沿道に出てみた。ところが、そこは人でごった返していて、 背の低い彼には、飛んでも跳ねても見ることができなかった。 ルカ 19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエス がそこを通り過ぎようとしておられたからである。 このままでは、イエス様が行ってしまう!-ザアカイは、思わず走 って、いちじく 桑 の木 によじ登りま した。大の大 人が走る、さらには、木に登 る。それは、普通、あまりしないことですね。ずっと前にお話 しましたが、以前、まだ門戸に赴任したばかりの頃、171 号線の吉野家の裏の 3 階 建てのマンション の 3 階に住んでおりました。その裏手の公 園に、結構、背の高いポプラの木がありました。ある朝、起 きてカーテンを開けたら、そのポプラの木に男の人が登っていて、いきなり目があったのですね。驚き ました。すると、こちらの驚きを察せられたのか、手に持った植木 鋏を指さされました。公園の手入れ をする植木屋さんだったようです。 まあ、でもその時、思ったことは、大の大 人が木に登っているのを見たのは、思い出せないくらい久 しぶりだなあということでした。やはり、そこにはそれなりの理由があるのだろうと。 ザアカイが木に登った理 由、それを聖 書は「イエスを見るために」と記しております。イエスがどん な方なのかを見たい、イエスが取 税 人 とも話してくださるというのは本 当なのか、いったい、どんな顔 をしておられるのか。優しそうな方なのか、威厳のある方なのか。イエスについて知りたい! 求道心 と言っていいかどうかわかりません。もっと深い孤独や痛み、魂の渇きのようなものかもしれない。それ はザアカイが気づいていなかったものかもしれないけれども、でも、そういう心に押し出 されるようにし て、彼は「イエスを見るため」にやってきて、木に登ったのです。 ちょうど、この門戸聖書 教会もビルの 3 階ですね。みなさんは、ザアカイと少し違って、ビルの 3 階 まで登 って来 てくださったわけです。日 曜 の朝 、寝 ていてもいいのに、わざわざ集 まって来 られた。 「イエスを見るために」。ただの習 慣 ですという方もおられるかもしれないけれ ども、でも、やはり礼 拝 に来るということは、イエスに会 いに来 るということです。一 週 間 の自 分 の心 の中 の、あれやこれや、 仕事のことや、家庭のこと、自分のどうにもならない人生、そういう抱えたものに押し出されてか、何 を 後にしてかは分かりませんが、「イエスを見るために」、みなさんはここに来られたのです。 3 4.ザアカイ、急いで降りてきなさい その時、思いもかけないことが起こりました。 ルカ 19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降り て来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 イエス様の方から、全 くの初 対 面のザアカイに、「ザアカイ」と、その名前を呼びかけられたのです。 もう、どのくらい、この名 前を呼ばれていなかったでしょうか。「ザアカイ」と親しく、呼 びかけられること は絶えて久しかったでしょう。幼い頃、お父 さん、お母 さんが、「ザアカイ」-神 様の前に、きよい、正 しい人になるんだよと言って名づけてくれたその名 前、愛をこめて呼んでくれたその名前を、「ザアカ イ」と、イエス様は呼んでくださった。 そして、イエス様は、急いで木から降りて来なさいと言われていますね。ここには、深い、逆転があり ます。ザアカイは、渇いた心で、木に登った。イエス様がどんな方が知りたくて、一 目見たくていちじく 桑の木 によじ登ったわけです。それはちょっと突 飛な行 動ですが、素 晴らしい求道 心に溢 れた行 動 です。でも、それは見方を変えたら、イエス様を見下ろしているわけですね。自分の目で、イエス様が どんな方なのか、見定めてやろうとしているわけです。 でも、イエス様は、イエス様の方から、「ザアカイ」と呼びかけられた。ザアカイの方から、「イエス様、 私を弟子にしてください」と言ったわけではないのです。しかも、イエス様はこう言われました。 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 この「あなたの家 に泊 まることにしてあるから」は、直訳すると、「泊まらなければならないから」「泊ま ることが定まっているから」というような意味です。 つまり、ザアカイがイエス様 を見 ようと、一 生 懸 命 走 って、木 に登 って、ようやくイエス様 が見 えたと 思 ったのだけれども、その背 後 には、神 様 の深 いみこころがあったということです。ザアカイがイエス 様を捜し当てたのではない。イエス様が、まさに、ザアカイを捜して、「ザアカイ」と声 をかけるために、 「ザアカイ」の家 に泊 まって、客 となり、友 となって、ザアカイと親 しく交 わるために、わざわざエリコま で来てくださっていたわけです。そういう、物を見る視点、人間の側から見ていたものを、神様の側か ら見ることへの転 換ということが、この「ザアカイ。急 いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊 ま ることにしてあるから」というところで、起こっているわけですね。 悔い改めたザアカイに、イエス様はこう言われました。 ルカ 19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来 ました。この人もアブラハムの子な のですから。19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 私たちは、自 分 で選 んで、教 会 に来たのだと思う。あるいは、誰 かに誘 われてとか、家 族に連 れら れて来たという方もおられるでしょう。でも、実は、そこには、神のみこころがある。あなたがイエス様を 捜したのではなく、イエス様が、神 様の前 から失 われているあなたを捜して救うために来られた。そこ には、あなたを選び、あなたを造 り、あなたを愛し、あなたの名 前 を呼んで、あなたと親しく交わろうと しておられる神の意志がある。 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 4 5.名を呼ぶ方の御声に応えて 先日、1月に 59 歳で急逝された正田眞 次先生を偲ぶ会に出席してまいりました。恐らく400人くら いは来ておられたでしょうか。神戸栄光 教 会の大きな会堂の椅子が足らなくなるくらいの方々が来て おられました。多 くの教 会での牧会 だけでなく、キリスト教 平 和教 育や、三浦 綾 子 読 書会など、様 々 な働きで全国を飛び回っておられた先生の活動の幅広さを改めて思わされたことでした。 色 々な方 が、あいさつをされたのですが、中 でも印 象 的 であったのは、唄 野 綾 子 先 生 に、正 田 先 生が言 われた言 葉でした。正 田先 生 には、6人の息 子 さんがおられるのですが、みな、ちょっと変 わ った、珍しいお名 前なのですね。ご次 男 は、稲 造 さんと言 われます。 綾 子 先 生 が、「どうしてそういう 名前にしたの?」と聞くと、新 渡戸 稲造から取ったとかあれやこれやと説明をされて、最後にこう言わ れたそうなのですね。「親 が子 どもに残してあげられるのは、名 前 だけですから」と。綾 子 先 生 は、そ れを聞いて、ああ、いい言葉だなあ、いつか自分も子どもに、そう言ってあげたいなあと思われたのだ そうです。 記念の文集に、その当の稲造さんが、こんなことを書いておられました。 「まずは今まで 28 年間育ててくれたことにお礼を言いたいと思う。本当にありがとう。…そして何より、 稲 造 という名 前 を与 えてくれたことに感 謝 。驚 くことに、おとんは結 婚 前 にはすでに「次 男 には『稲 造』と名 付 けたいと言っていた」とおかんから聞 いた。おとんが敬 愛する新 渡 戸 稲 造 のように世 界 平 和の架け橋になってほしいとの願いからであり、12 月 8 日に僕が誕生したことで確信したとのこと。 小 さい頃は名 前 をいじられて、何でこんな名 前を付 けたんだとおとん を恨んだことは少なからずあっ た。勿 論由 来のことは聞 いていたけど、その頃は理解 に苦しんだ。世界 平 和の架 け橋になるのは難 しいが、周りの人、家 族を温かくできる人間に、そしておとんのように周りから必 要とされ、愛される人 間になりたいと思う」 会の最 後に、奥 様と、6人の息 子 さんたちがずらっと前に並んで挨拶をされました。 私が感じたこと は、正田先生という方が、本 当にお子さんたちを信頼しておられたんだなあということでした。 長男がバンドをやりたいから学校を辞めると言った時も、学生結婚をされた時も一言 も反対されな かった。辛くて死のうと思っていた時、わざわざ訪ねて来てくれて、三浦綾 子さんの『泥流 地帯』を渡 して、「今自分に起きていることを災難と捉 えるか、試練と捉えるかは耕生(こうき)次 第だよ」と言って くれた。4男 の励 生(れい)君 だったでしょうか。サッカーをやりたかったけど、地 元 にチームがなかっ たのですね。すると、正 田 先 生はあちらこちらにかけあってチームを作 ってくださった。高 校 までサッ カーに没 頭した。でも、大学でサッカーを辞めると言った時も、「そうか。次は何をするんだい。まあ、 焦らずがんばりなさい」と優しい言葉をかけられた。 「子どもに残してあげられるのは名 前 だけですから」-名前 を残 すということは、ただ、良い名 前 を つけてあげるということではなくて、それは、本 当 に、その子 がその子 らしく生 きていくように、信 頼 し て、見守るということでしょう。そして、その背後で、全 身全 霊を込 めた愛の祈りをささげていくというこ とでしょう。 5 6人の息 子さんたちが、それぞれ人 生の壁にぶちあたりながらも、みな例 外なく、自分 に注 がれた お父さんの愛を受けとめ、自分に与えられた名前の意味をかみしめ、少しでも、そのお父さんの願い、 祈 りにふさわしい者 になりたいと言 っておられている、その姿 に、ああ、正 田 先 生 の祈 りは聞 かれた のだと思わされました。 「ザアカイ」-イエス様が、ザアカイを呼ばれたのと同じように、イエス様は、私たちの名前を呼んで くださっています。 「ザアカイは、急 いで降 りて来て、そして大 喜 びでイエスを迎 え」 ました。そして、「主 よ。ご覧 くださ い。私の財 産 の半 分 を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私 がだまし取った物は、四 倍 にして返します」と、心からの悔い改めをいたしました。 伝承 によりますと、ザアカイはその後、伝 道者 になり、教 会の牧 師になったとも言われます。そう か もしれません。いずれにせよ、ザアカイは木を降 りた。イエス様と共に生きるようになった。それだけで 十分です。 主は今 日、私たちにも呼 びかけておられます。「急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊 まることにしてあるから。」 私たちの名を呼んでくださる、主イエスの御声にこたえてまいりましょう。 祈ります。 6