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熊 取 町埋 蔵 文 化 財調 査 報 告 第 30集
熊取町遺 跡群発掘調 査概 要報告書・ 畑
平成 10年 3月
熊取 町教育委員会
は し が き
昭和 25年 に文化 財 保 護 法 が 制 定 され、以 来 約半世 紀 が 過 ぎ、今 日で は国民 全体 に文化 財 に 限 らず 、 歴
史 へ の 関 心 は深 ま り、歴 史 ブー ム とさえ言 わ れ るよ うにな りま した。 また各 地 に お け る遺 跡 の 発 掘 は 、
歴 史事 実 解 明 の た め多 数 の一 般市民 まで もが参加 で きるよ うな機 会 も増 え 、 さ らにそ の成 果 は新 聞 等 の
マ ス コ ミに毎 日の よ うに報 じられ るよ うに な りま した。特 に近 年 の 発 掘調 査 成 果 は 目覚 し く、今 年 1月
に発 表 され た奈良 県 天理市 の 黒塚 古 墳 で は多 量 の銅 鏡 が 発 見 され、邪 馬 台 国論 争 に一 石 を投 じる も の と
な りま した。
しか しそ の一 方 、住 宅地 開発 や道 路 の建 設 な どが盛 ん とな り、遺 跡 を保 存 す る ことが 困難 に な る と い
う事 態 に も迫 られ て い ます 。本 町 にお いて も例外 で はな く、毎 年 50件 に も及 ぶ 発 掘調 査 等 を 実 施 して お
り、遺跡 の記 録・ 保 存 に努 めて い ます 。 い ず れ も小 規模 な調 査 が 多 く、 また新 聞紙 上 を賑 わす 様 な 発 見
はあ りま せ んが 、 こ うい っ た地 道 な調 査 の 積 み重 ね に よ って 徐 々 に見 えて くる真 実 と言 う も の が あ り、
それ が地 域 史解 明 の一 助 とな る もの と確信 して い ます。
本書 は、平 成
9年 度 国庫・ 府 費補 助事 業 と して実施 した調 査 成 果 を概 要 報告 書 と して ま とめ た もの で
す。熊取 の 歴 史 の た めの 資 料 と して役立 て て いただ けれ ば幸 いで す。
最 後 に現 地 で の 発 掘 調 査 にあた って ご理 解 と ご協 力 を いただ きま した土地 所 有 者 な らび に 関係者 各 位
に対 しま して厚 くお礼 申 し上 げます。
平 成 10年 3月
熊 取 町教 育 委 員 会
教育長
甲
田
太二 郎
例
ロ
1.本 書 は、熊 取 町教 育 委員 会 が平 成 9年 度 国庫・ 府 費補助 事 業 と して計 画 し、社会 教 育 部文 化 課 文
化
財 係 が 実 施 した熊 取 町遺跡 群 発 掘調 査 概 要 報 告書 で あ る。
2.調 査 は、熊取 町教 育 委員 会 社 会教 育 部 文化課 文 化 財 係職 員 前川
成
9年 4月 1日 に着 手 し、平成 10年 3月
仁 を担 当者 と して 、 平
31日 を も って 終 了 した。
3.本 書 は、報告 書 の作成 の都 合上 、平 成 9年
成
淳、永井
4月 1日 か ら同年 12月 29日 まで の 発掘 調 査 成 果 及 び 、 平
8年 度 事業 で 昨年 度 報告 で きなか った平 成 9年 1月 5日 か ら同年 3月
31日 まで の 発 掘調 査成 果 を
掲 載 す る こと と した。
4.本 書 にお け る図面 の標 高 は、 T.P。
(東 京 湾平 均 潮位 )を 用 い た。 また 方 位 は、 地 図以 外 につ い
て は磁 北 を示 す こと と した。
5.本 書 にお け る図面 の土 色 は、『 新版 標 準 土色 帖』第 10版
(小 山正 忠・ 竹 原 秀 雄編 、 農 林 水 産 省 農 林
水産技 術 会 議事 務 局 監修 、財 団 法人 日本 色彩 研究 所 色票 監 修 1990年 度 版 )を 用 い て 目視 に よ り比
定
した。
6.本 書 の作 成 及 び発 掘 現 場 で の作 業 にあ た って、下 記 の方 々 の参加 を得 た。 明記 して 感謝 の 意 を 表 す
る。
石松
直、関井 澄 子 、村 田 岳 哉 、 山本 恵 子、伊 庭
勉、宇 沢克之 、太 田敏 治 、辻 野
7.本 書 の執 筆 は、各 担 当者 が 行 い、 目次 に文責 を示 した。 また編 集 は永井 が 行 った。
勝 、松 原仁 司
目
第 1章
第
2章
は じめ に …… … ……… … ……… … … …… … …… … … … …… … … … …… … … … … … 。 (永 井 )1
地 理 的環境 と周 知 の遺跡 ……… … … …… … …… … … … …… … … … …… … … … …… … … … …・
第 1節
第
3章
2節
1
周知 の 遺跡 …… …… … … …… … … …… …・… … … … … … …… … … … …… …
(永 井 )
3
4
(前 川 )
(前 川 )
第 7節
97-1区 の調査
東 円 寺 跡 97-3区 の 調査
降井 家 屋 敷跡 97-1区 の 調査
東 円 寺 跡 97-5区 の 調査
久 保 B遺 跡 97-1区 の 調査
大久 保 C遺 跡 97-1区 の調 査
8節
東 円 寺 跡 97-13区 の 調 査
(永 井 )
第
4節
第
5節
第
6節
(永 井 )
(永 井 )
(永 井 )
6
︲
(永 井 )
8
︲
お わ りに
(前 川 )
4
︲
3節
2
1
第
久 保 城 跡
0
1
2節
8
第
6
4章
(永 井 )
東 円 寺 跡 96-12区 の 調査
第
第
地 理 的環境 …… ……… … … …… …… … … … … …… …・
調 査 成 果 の概 要 ……… … ……… … … … … …… … … … …… … … … … …… … … … …… … … … …・
第 1節
1
4
第
次
(デ Kチ
キ) 22
立
早
第
は じめ に
の
・
は
平 成 9年 度 にお け る、文化 財保 護 法 に基 づ く土木 工 事 等 によ る埋 蔵文 化 財 の 発 掘 屈 出 通 知件 数
42件 (平 成 9年 12月 29日 現在 )で あ り、昨年 の 同時期 は37件 で あ った こ とか ら増加 を 示 して い る。
9年 度 国庫・ 府 費 補助 事 業 と して実施 した、東 円寺跡 3件 、降井 家 屋 敷 跡 1件 、 久 保 城
の
8件 の 発
跡 1件 、久 保 B遺 跡 1件 、大 久保 C遺 跡 1件 、平 成 8年 度 事業 で 実施 した東 円寺 跡 1件 以 上
本 書 で は平 成
掘 調 査 の成 果 につ いて 概 要 を報 告 す る。
平成
壼
退
跡
9年 国庫・ 府 費 補助事 業 発掘 調 査一 覧 表
所
名
地
在
申 請 者 名
申請 面 積
調 査 年 月 日
96-12区
紺 屋 152
阪 上 春 造
291.32r〆
19970304´ ウ19970306
久 保 12
野 間 軍 清
331.78r〆
19970507
ILF5 1151-- 5
吉 岡
均
61.67rぽ
19970520
大久保 中 2-17-1
田 中 良 助
534.27rピ
19970630-19970704
大久保 C遺 跡
97-1区
97-3区
97-1区
97-5区
97-1区
97-1区
東 円 寺 跡
97-13区
野 田 2136-6
※東 円 寺 跡
久 保 城 跡
東 円 寺 跡
降井家屋敷跡
東 円 寺 跡
久保
B遺 跡
紺屋
2-2091-7
今 城 博 文
124.44rピ
19970707-19970708
久保
1135-1
池 端 太 源
267.63r〆
19970821
正 剛
288.57rぽ
19971022-19971023
桑 鶴 憲 一
201.83rピ
19971209-19971211
大久保
34-2
北
川
(※ は平 成
第 2章
第 1節
8年 度 )
地理 的環境 と周知 の遺跡
地 理 的環境
熊 取 町 は大 阪府 泉南地 域 の 中央 に位 置 し、貝塚 市・ 泉佐 野市 の
両 市 に 囲 まれ た 町 で あ る (第 1図 )。 町域 は東 西 約 4.8km、 南 北 約
7.8kmと 南北 に長 い木 の葉 状 を呈 して い る。町域 の総面積 は約 17.19
kJを 有 す る。 地 形 によ る面 積比 を 見 る と、 山 地 41%、 丘 陵 24%、
段 丘 23%、 低地 12%に 区分 され、 山地・ 丘 陵部 が 町域 総面 積 の 約
3分 の 2を 占 めて い る。
地 域 別 に見 る と、町南 部 にお いて は泉 南 地 域 の基 本 山地 とな る
和 泉 山地 か ら派 生 す る和 泉 丘 陵 とそ の 縁 辺 部 に 発 達 す る段 丘 部
が 多 くを 占 めて い る。 ま た北部 で は狭 小 なが ら も河 川 の対 岸 に洪
積 地 が 形 成 され て い る。
町域 に水源 を 持 つ 河 川 は見 出 川・ 雨 山 川・ 住 吉 川 の
第 1図
熊取 町 の 位 置
3水 系 が
存 在 して い る。 3河 川 と も町南部 の 山間部 を 水 源 と して お り南 部
か ら北 部 へ 向 か って 流 下 し、泉 佐 野市 を経 て大 阪湾 に注 ぎ込 ん で い る。 い ず れ の河 川 も下 流 部 が 他 市 域
を流 れて い る こ とに加 えて 、本 町 が 瀬戸 内式 気 候 区 の 東 端 に位 置 して い るた め に年 間 降雨 量 が 少 量 で あ
る ことか ら、古 くか ら町域一 帯 に多 くの 潅 漑 用 の溜 め池 を 目 にす る こ とが 出来 る (第 2図 )。
-1-
熊取町遺跡分布図
N
一癬
′
∼
後
│
レオ
ャ、
“ ´
∬ N国 熙 翅 聟 ﹁ 計 こ か飾 郵 ゆ 卦 回
2 km
0
市
野
佐
泉
メ
ゝざ
︱ い︱
第 2節
周知 の遣 跡
周 知 の 遺 跡 一 覧 表
遺
名
跡
種
類
時
代
地
目
立
地
主
な
成
果
等
降 井 家 書 院
建造 物
室 町 ∼ 江戸
宅
地
平
地
国指定重要文化財
宅
地
重文・ 江戸期 か ら明治期頃 の 陶磁器等 出土
建造物
室 町 ∼ 江戸
宅
地
平
来 迎 寺 本 堂
池 ノ 谷 遺 跡
寺
院
鎌
倉
宅
地
丘陵腹
散 布地
旧
器
水
田
宅
地
甲 田 家 住 宅
建造 物
江
戸
宅
地
平
地
跡
寺 院跡
縄文 ∼ 江戸 宅
地
平
地
城 ノ 下 遺 跡
城郭跡
室
町
宅
地
丘
陵
成 合 寺 遺 跡
墓
地
室
町
畑
地
丘陵腹
14世 紀代 の600基 以上 の土 墳 墓 群等検 出
高 蔵 寺 城 跡
城郭 跡
室
町
山
林
山
頂
土塁・ 堀切等 の構築物 を確 認 して い る
雨
山
城
跡
城郭跡
鎌
倉
山
林
山
頂
月見 ノ亭・ 馬場・ 千畳敷 の地名 が残 る
五
門
遺
跡
散布 地
古墳 ∼ 江戸 宅
地
丘
陵
須恵器等 を採取 す る も現在 消滅
五 門 北 古 墳
古
墳
古
墳
宅
地
丘
陵
古墳参考地、現在消滅
五
墳
古
墳
古
墳
宅
地
丘
陵
古墳参考地、現在消滅
大 浦 中 世 墓 地
墓
地
室
町
墓
地
平
地
久
享徳 4年 銘 (1445)の 五 輪塔 の地輪 出土
的場・ 矢 の倉等 の字名、瓦器片多数 出土
中
東
家
円
門
住
寺
古
石
重文・ 15∼ 6世 紀 の陶磁器 や畑作遺構 を検 出
縄文 ∼ 江戸 の複合遺跡・ 寺 院 につ いて は不明
城郭 跡
鎌
倉
水
田
平
地
城郭跡
鎌
倉
宅
地
平
地
大 谷 池 遺
跡
散 布地
古墳 ∼ 江戸
平
地
祭 礼 御 旅 所 跡
祭礼 跡
室
町
山
林
丘
陵
正
跡
寺 院跡
鎌
倉
宅
地
丘
陵
小 垣 内 遺 跡
寺 院跡
江
道
路
丘
陵
毘沙門堂跡、現在消滅
金 剛 法 寺 跡
寺 院跡
室
町
宅
地
平
地
大森神社神宮寺、現在消滅
鳥 羽 殿 城 跡
墓 ノ 谷 遺 跡
城 郭跡
室
町
山
林
丘
陵
寺院跡
室
町
山
林
丘陵腹
花
跡
寺院跡
室
町
山
林
丘
陵
降 井 家 屋 敷 跡
屋 敷跡
室 町 ∼ 江戸
宅
地
平
地
跡
散布地
江
宅
地
平
地
下 高 田 遺 跡
条里跡
鎌
平
地
地
平
地
地
平
地
法
成
寺
A遺
一
戸
大 久 保
寺
一
月
保 城
跡
ノ
山
下 城 跡
池
倉
田
B遺
跡
集 落跡
遺
跡
散 布地
弥生 ∼ 江戸 宅
古墳 ∼ 江戸 宅
白 地 谷 遺 跡
散布 地
室 町 ∼ 江戸
跡
散布地
室 町 ∼ 江戸
宅
地
平
地
千 石 堀 城 跡
城 郭跡
室
町
山
林
丘
陵
口 無 池 遺
跡
散 布地
平
地
跡
散 布地
平安 ∼ 江戸 宅
鎌倉 ∼ 江戸 宅
地
D遺
遺
跡
散布 地
久 保
跡
散布 地
大
跡
集落跡
跡
中家住宅周辺 遺 跡
大 久 保
紺
屋
大 久 保
大 久 保
大
久
浦
C遺
A遺
久 保 E遺
保 B遺
田
五 門・ 紺屋共 同墓地
屋敷地 を区画す る溝 や近 世 の 陶磁器等 出土
弥生末 ∼古墳初 中心 の遺物 出土
奈良 ∼平安期 の河川跡検 出
谷
天正年間 (1573∼ 92)の 雑賀衆徒 の城跡
平安末 ∼鎌倉初 の遺構・ 遺物検 出
地
平
地
田
鎌倉 ∼ 江戸
鎌倉 ∼ 江戸 宅 地
平
地
平
地
地
平
地
集落跡
弥生 ∼ 江戸 宅
鎌倉 ∼ 江戸 宅
地
平
地
弥生末 ∼古墳初 の遺物多数 出土
13∼ 14世 紀 の瓦器等 出土
集落跡
室町 ∼ 江戸
地
平
地
近世以 降 の陶磁器等多数 出土
宅
-3-
13∼ 14世 紀 の瓦器等 出土
第 3章
東 円寺 跡 96-12区 の 調 査
第 1節
調
調査成果 の概要
査
地
紺 屋 152
9年 3月 4日 ∼ 3月 6日
調 査 期 間
平成
位 置 と環 境
東 円寺 跡 は熊 取 町 の北 西部 の野 田 に所 在 し、熊取 町役場 付 近 一 帯 に拡 が る、町 内 最 大
の遺 跡 で あ り、地形 的 に は、大井 出川 (住 吉 川 )の 右 岸域 に形成 され る低位 段 丘上 に立地 して い る。
遺 跡 名 にお け る「 東 円寺 」 は、文 献 に よ り元 来 「東 曜寺」 と称 して いた ことが 窺 え 、平 安 時 代 末 期
頃 の 軒 丸・ 軒 平 瓦等 が 出土 して い る。 しか し今 日まで、直接 寺 院 にか か る遺 構等 は検 出 してお らず 、
伽 藍 配 置等 は全 く不 明 で あ る。 また近 年 の 成 果 に よ り、縄 文 時代 の 石 器 や 奈 良 時代 、 中世 の掘 立 柱
建 物 等 が 確認 され るな ど、複 合遺 跡 と して知 られ るよ うにな って い る。
今 回 の 調 査地 は東 円寺跡 の北 西部 に所 在 して お り、小 字 名 は大 開 キで あ る。
また本 件 は、平 成
調 査 内 容
8年 度事 業 で実 施 した調査 で 、昨年度 報 告 で きなか った分 で あ る。
調 査 は個 人住 宅 の新 築 工 事 に伴 う もので あ り、調 査地 に 2ケ 所 の 調査 区 を設 定 し、 人
力掘 削 に よ り実施 したが 、包含 層 、遺 構 、遺 物 等 は一 切 検 出す る ことは 出来 なか った。
小
結
当地 は既 に市 街地 化 して お り、削 平 と撹 乱 が 繰 り返 され て い るよ うで あ る。 ま た 地 山
面 は谷 状地 形 に頻 見 され る砂 と粘 土 の 重層 が 観 察 され 、建 物等 が 存 在 した可 能性 は少 な い もの と思
われ る。
粋
第 3図
調査地 点位 置 図 (S=1/2,500)
-4-
o
1.10YR 4/1
砂質土
(耕 土
砂質土 (床 土
明黄褐色
砂質土
ヽい黄橙色 砂
にし
灰色
砂
浅責色
粘土
明黄褐色
粘質土
灰黄色
砂
にぶい黄橙色 砂
』
えヨ
lタ
キa
シル ト
浅黄色
褐灰色
2.10YR 6′ 1 褐灰色
3.7.5YR 5/6
4.10YR 7ノ 4
5.5Y
6/1
6.2.5Y 7/3
7.10YR 6/6
8.2.5Y 7ノ 2
9.10YR 6/4
10. 2.5Y
7/2
11.2.5Y 7/4
第 4図
第 5図
調査区位置図
写真
1
調査 区
-5-
1全 景
調査区土層断面図
40Cm
久 保 城跡 97-1区 の 調 査
第 2節
調
査
地
久 保 12
調 査 期 間
平 成 9年 5月 7日
位 置 と環 境
調 査 地点 は見 出川 の 右岸 部 の比 較 的急 峻 な傾 斜地 を 削平 し開墾 して 水 田 とな って い る
が 、状 況 か ら して 古 くか ら積極 的 に 開発 され た場 所 とは思 え な い。但 し見 出川 を 挟 ん だ 真 向 か い に
は大 森 神社 が 鎮 座 して お り、 また今 回 の 調 査地 点 と同 じ右 岸 部 の丘 陵 上 に存 在 す る現 在 の 妙 見寺 付
近 に は、建武 地 蔵 と呼 ばれ る石 造 仏 が 安 置 されて い るな ど、周辺 一 帯 に は 中世以 来何 らか の営 み の
あ った場 所 で あ る。 また小 字 名 は「 矢 の 倉 Jと な って い るよ うで、 あたか も中世 の城 が 存 在 して い
たか の よ うで あ るため、調 査 も慎 重 に行 わ な けれ ば な らなか った。
調 査 内 容
調 査 は 2ケ 所 の調 査 区 を設 定 し、人 力掘 削 に よ り実 施 した。両調 査 区 と も上 か ら順 に
現代 の 耕 作土① 、床土② が 観 られ 、直下 に削 平 され た地 山③ が観 察 で きた。 この地 山面 は完 全 に 削
平 され て お り表 面 になん ら遺 構 を確 認 す る こ とはで きな い。 また土 器 な どの遺 物 を検 出す る ことは
で きなか った。早 々に第
8図 の よ うに調 査 区 の壁 面 を略 図 に表現 し、 また調 査 区 の位 置 を平 板作 業
によ って平面図 に表 し、他 に写真 2の よ うに、報告書用 の35mmの 白黒 フ ィル ム ろ保存用 の35mmの カ ラ ー
リバ ーサル フ ィル ムで状況 を撮影 した。 また開発者 の希望 によ り埋 め戻 しを行 わず に調査 を終了 した。
小
結
近 代 以 降 に水 田が営 まれ る際 に削平 を受 けて い る為 、 旧状 を 窺 い知 る ことはで きな い
が 、引 き続 き周 辺 の調 査 を 断続 的 に行 い、久保 城 跡 の ひ ろが りな どを把 握 す る こ とに努 め た い。
第 6図
調 査地 点位 置 図 (S=1/2,500)
-6-
Иヽ 市 ︱
鯰駆
1.耕 作 土
2.床 土
3.地 山
0
0
第 7図
・
‐
ア
:l iti
l
・rl
1o m
第 8図
調査区位置図
■`
1.`
`'`
1
写真
2
調査 区
-7-
2全 景
調査区層断面図
40Cm
東 円寺 跡 97-3区 の 調 査
第 3節
調
査
地
五 門 1151-5
調 査 期 間
平 成 9年 5月 20日
位 置 と環 境
周 辺 一 帯 は昭和 50年 代前 半 期 頃 に 開発 され た住 宅地 で 、熊取 町役 場 の あ る野 田地 区 の
中心 の 平 坦地 に北 側 か ら迫 る低 丘 陵 の先 端部分 に あた って い る。平 安 時代 末 期 か ら鎌 倉 時代 初 期 頃
に創 建 され た と考 え られ る東 曜寺 (江 戸 時代 か ら東 円寺 と呼 ばれ た ら しい)の 存在 した熊取 町役 場
周辺 か らは約 500m程 の距 離 が あ り、付 近 か ら遺 構・ 遺 物 が ほ とん ど発 見 され て い な い こ とか ら、
調査 地 点 を 含 む 付 近 は東 円寺 自体 を構 成 して い た建 物 な どが 存 在 す る可 能 性 は少 な い と考 え られ
る。但 し現 在 の と こ ろ東 円寺 の 屋 根 を飾 った瓦 を 製作 した 窯跡 な ど は一 切 発 見 され て い な い の で 、
野 田以 北 にあ る低 丘 陵地 帯 は今 後 も注 意 しな けれ ば な らな いで あ ろ う。 なお 当地 は長 坂 とい う小字
が 残 され て い る。
調 査 内 容
調 査 地 点 の面積 が 狭 いた め第 10図 の よ うに 中央 部分 に 1ケ 所 の み 調 査 区 を 設定 して 機
械掘 削 に よ って 調 査 を進 め た。 国庫 補助 対象 の 発 掘調 査 に つ いて は普 段 は外業 作業 員 数名 に よ る人
力掘 削 によ って 行 って い るが 、今 回調 査 地点 は、 旧住 宅 の コ ン ク リー ト製 の 床 が 残 存 して お り機 械
掘 削 で な けれ ば 掘 削 で きな い こ とや 、外業 作業 員 が うま く確保 で きなか った こと等 の諸 事情 に よ っ
て 機 械 掘 削 を 実 施 した もので あ る。
小
結
丘 陵端 部 とい う こ と もあ り、過 去 の 住 宅開発 の 際大 き く盛 土 を 伴 う造 成 が 行 わ れ て お
り、東 円寺 を は じめ とす る中世 以 降 の遺 構 は確認 で きな い。今後 も周 辺 で 調 査 例 を 増 や し、遺 跡 の
拡 が りを把握 す る必 要 が あ るだ ろ う。
第 9図
調査地 点位 置 図 (S=1/2,500)
-8-
41.30m
!.盛 土
0
-
第 10図
第 ‖図
調査区位置図
調査 区土層 断面 図
ヽ
一
一
・ “
こ
ヽ
ヽ
く
.
¨ ´
一
写真
3
調査 区全景
-9-
40cm
第
降井 家屋 敷 97-1区 の 調 査
4節
調
査
地
大久 保
2-17-1
9年 6月
他 1筆
30日 ∼ 7月 4日
調 査 期 間
平成
位 置 と環境
降井 家屋 敷跡 は熊取 町 の北 西 部 、大 久 保 に位 置 し、大 井 出川 (住 吉 川 )の 右 岸 域 に 形
成 され た低 位 段丘 上 に立 地 して い る。 降井 家 は当地 方 の 旧豪 で あ り、 当 家 所 蔵 の 天 保
6年
(1835)
作成 の 屋敷 図 によれ ば 、 2500坪 の敷 地 に厖 大 な邸 宅 を構 えて い た。江戸 時代 初 期 に建 て られ た と い
われ る書 院 は重 要 文 化財 に指 定 され て い る。 これ まで 当遺跡 の 調 査 で は、屋 敷 地 を 区画 す る と思 わ
れ る溝 を 検 出 し、 17世 紀 か ら18世 紀 代 の 陶磁 器 等 が 出土 して い る。 ま た今 回 の 調 査地 は現 屋 敷 の 東
部 に位 置 し、小字 名 は下浦 で あ る。 また上記 の屋 敷 図 で は敷地 の範 囲 外 で あ る。
調 査 内 容
調査 は個人 住 宅 の建 て 替 え に伴 うもの で 、 3ケ 所 の調 査 区 を設 定 し、人 力掘 削 に よ り
実施 した。近 世面 、 中世面 の 2面 を確 認 し、近 世面 にお いて は井 戸跡 1基 、土 墳 1基 を検 出 し、 18
世紀 末 期 以 降 の 陶磁 器 片、瓦 等 が 出土 した。井 戸 は非 常 に浅 く水 が 湧 いて いた 様 子 は窺 えず 、 井 戸
で はな く埋 桶 等 の 用途 も考 え られ る。 また 中世面 か らは土 墳 1基 を 検 出 し、瓦器 片 が 出土 して い る。
これ らの下 層 は、砂 礫 土 と粘 土 が 交互 に混 ざ りあ う層 が 存在 し、 これ は当地 の 北 約 50mの 所 を流 れ
る住 吉川 (大 井 出川 )が 、 中世 以前 に起 こ した氾 濫 な どによ る土砂 が 堆 積 して い るよ うで あ る。
結
小
今 回 の調 査 で 僅 か で はあ るが近 世 の遺 構 、遺 物 を検 出 したが 、屋 敷地 の外 郭 施 設 等 は
検 出 して お らず 、降井 家屋 敷 との 関連 は不 明 で あ る。
kゴ
ご メご夕
、
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轟Ψ ば
第 12図
調査地 点位 置 図 (S=1/2,500)
第 13図
-10-
調 査 区位 置 図
調査 区 3
‐
ー`1:,lI::lillllil:― ―――
:::二 F:::`
、
1三 二 ■ ニ グ
出土遺 物 実測 図 (S=1/4)
第 15図
1
2 10YR 5/2
3. 10YR 6/1
4 iOYR 5/1
5. 10YR 7/3
6 10YR 4/1
7
ぽ
-
砂質 土 ―
(現 代盛土 )
明黄褐色
灰黄褐色
砂質 土 (近 代盛土 )
砂質土 (近 世盛土)
掲灰色
砂質 土 (SE-01 埋土 )
褐灰色
にぶ い黄橙色 砂
(SE 01 埋土)
砂質土 (SK-01 埋土)
掲灰色
に.ド い黄橙色 砂
(地 山)
10YR 6/6
10YR 4/3
ゴ 三x※ xit
`´
な
ヽ
第 14図
調 査 区 2平 面 図 土 層 断 面 図
写真
出 土 遺物
一
一
一
一
一
一
一
一
、
一一
一
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一 ,
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一 一 一
一
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一
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二■::.:
」_さ 1
5
調 査 区 2全 景
写真
調査 区
2SK-1
8
調査区
3 SE-1
写真
-11-
■鳩﹁一
キ
写真
東 円寺 跡 97-5区 の調 査
第 5節
地
紺屋
2-2091-7
調 査 期 間
平成
9年 7月 7日 ∼ 7月 8日
位 置 と環 境
本調 査地 は、遺 跡 の 北 西部 に位 置 し、遺 跡 の 中央 全体 を 東 西 に走 る、 埋 積 谷 の 北 側 の
調
査
小高 い丘 陵 上 に立 地 して い る。遺 跡 の北 西 部 は、 旧来丘 陵地 で あ るが 、近 年 の 宅地 開発 に よ り大 幅
な改変 が進 ん で い る地 域 で あ る。 この周 辺 で は狭小 で はあ るが数 度 にわ た り調 査 を実 施 して い るが 、
ほ とん どで 削 平 が認 め られ 、 これ まで 明瞭 な埋 蔵 文化 財 は確認 されて は いな い。
調 査 内 容
本 調 査 は個 人 住 宅 の増 築 に伴 う もので 、調 査地 に 1ケ 所 の調 査 区 を設 定 して 、 人 力 掘
で
削 に よ り調 査 を 実施 した。確認 した土層 は、 旧耕 作 土 、床 土 とそ の 直下 で地 山 に至 る とい う状 況
あ った。
小
結
旧来 丘 陵地 にお け る田畑 とい う こ とで 、平 滑 に削 平 して い るよ うで あ り、埋 蔵 文 化 財
と認 め られ る もの は一切 検 出 で きなか った。
第 16図
調 査地 点位 置図 (S=1/2,500)
-12-
2
1ヽ車︱︱︱
3 一4
36.70
5
6
9
1.コ
1PCm
ンク リー ト
(砂礫土 )
2.現 代盛土
:静
::Iサ
I][:色 [:土 1群iデ
10YR 6ノ 8 明責掲色
粘土
8.2.5Y 5/1 黄灰色
粘質土
第 17図
調査地点位置 図
第 18図
写真
9
調 査 区全 景
-13-
調査区土層断面図
久 保 B遺 跡 97-1区 の 調 査
第 6節
調
査
地
久 保 1135-1 他
3筆
9年 8月 21日
調 査 期 間
平成
位 置 と環 境
久保 B遺 跡 は熊取 町 の西部 に位 置 し、大 井 出川 の 左 岸 域 に立 地 して い る。 平 成 元 年 の
調 査 で 新 規 発 見 され た遺 跡 で あ るが 、 これ まで 調 査例 が 少 な く、遺 跡 の範 囲 、性 格 、年代 等 は今 の
と こ ろ不 明確 な部 分 が 多 い。 しか し本遺 跡 の周 辺 に は、久保城 跡 、鳥 羽殿 城 跡 とい っ た、中 世 城 郭
跡 に囲 まれ て お り、鎌 倉 時代 か ら室 町時代 の 瓦器等 の 土 器 片 や掘立 柱 建 物 等 が多数検 出 されてお り、
本 遺跡 にお いて も、 それ らに 関連 す る遺 構 、遺 物 の 存 在 が 予想 され る。
今 回 の 調 査地 点 は遺 跡 の 東端 大 井 出川 か ら 5mと 離 れ て いな い地 点 で あ る。 また当地 は戸垣 外 と
い う小 字 名 が 残 されて い る。
調 査 内 容
調 査 は個人 専 用住 宅 の新築 に伴 う もので 、調 査地 に 1ケ 所 の 調 査 区 を 設 定 して 、 人 力
掘 削 に よ り実 施 した。 当地 は大 井 出川 の 河 川 護岸 工 事 に よ る盛 土造 成 を行 って い るよ うで、 その 盛
土 を確 認 す るのみで あ り、埋 蔵 文 化財 は一 切 検 出 で きなか った。
小
結
今 回新 たな 知 見 は得 られ なか った もの の 、今 後重要 な埋 蔵 文化 財 が 発 見 され る可能 性 は
高 く、注 意 す る必 要 の あ る地 域 で あ る。
第 19図
調査地 点位 置 図 (S=1/2,500)
-14-
第20図
調査 区位 置 図
第 21図
-15-
調査 区土層 断 面図
第 7節
調
大 久 保 C遺 跡 97-1の 調 査
査
地
人 久保 34-2
9年 10月
22日 ∼ 10月 23日
調 査 期 間
平成
位 置 と環 境
熊 取 町 の北 西部 に位 置 す る木遺 跡 は、雨 山川 と住 古川 に挟 まれ た低 位段 丘 上 に立 地 す
る、大 久 保 集 落 の民 家 が 密 集 す る地 点 に存 在 す る。小 字 名 は大 中尻 、垣 花 、垣 内 田、尻 合 等 が 残 さ
れて お り、今 回 の調 査 地 点 は大 中尻 で あ る。本 遺跡 は、 昭和 60年 の調 査 にお いて 、瓦器 の 破 片 等 を
含 む 中世 の 包 含 層 が 確 認 され 、遺 跡 が 存在 す る ことが 周 知 され るよ うにな った。 しか し、今 日 まで
中世遺 跡 と して実態 を把 握 で きる成 果 は上 が って いな い。 また当地 は、西 隣 の 降井家 屋 敷 跡 、 約 20
0m東 に存 在 す る中家住 宅 とい う熊 取 にお け る近 世 の豪 族 で あ った両家 に囲 ま れ た 位 置 に あ り、 こ
れ らの 関係 も含 めて 注 目 され る遺 跡 で もあ る。
調 査 内 容
調 査 は個 人 住 宅 の新 築 工 事 に伴 う もので あ り、調 査 地 に 3ケ 所 の 調 査 区 を 設 定 し、 人
力掘 削 に よ り実 施 した。確認 した基 本層序 は、① 耕 作上・ 床上 、②近 世 近 代 整 地 層、③ 中世包含層、
④無 遺 物 層 で あ った。① は近 年 まで行 われ て いた耕作 土 層 で 層 厚 は約 20cmo ② は 10YR6/6明 黄 褐
色 の 粘 質 十層 で近 世以 降 の 陶磁 器 が 若 千含 まれ て いた。層厚 は約 15cmo ③ は 7
5YR5/3に ぶ い 褐 色
砂 質土 層 を早 し、層 厚 は約 30cmを 測 る。特 に本 層 ド部 に集 中 して 14世 紀 頃 を 中心 とす る瓦 器 片 や 十
師質 土器 が 多 数 出土 した。 しか しいず れ も細 片化 して お り、摩 耗 も激 し く、図化 で きる もの は 僅 か
で あ る。④ は 10YR6/8明 黄 褐 色 粘質 土 の地 山 で あ るが 、柱穴 も し くは杭 穴 と思 わ れ る遺 構 を
4基
検 出 して い る。 これ ら遺 構 か らも③ 層 と同 じ く瓦器 片等 が 出 tし て い る こ とか ら14置 紀 に は埋 没 し
て いた と考 え られ るが 、 これ が ど う い った施 設 で あ ったか は不 明 で あ る と言 わ ざ るを 得 な い。
//
度
よ/
た
第 22図
調査地 点位 置 図 (S=1/2,500)
-16-
―
第 23図
調 査地 点位 置 図
6
第25図
1 7_5YR 4ノ 2
砂 質土 (耕 作土 )
2.2_5Y 6/2
3.,OYR
4 10VR
5 75VR 5′ 3
6 111VR
0
雛 圏
に.ttt
第 24図
出土遺物実測図
1m
籍圭{瑞 F含層
粘 費土
)
調査区 2平 面・ 断面図
写真 11 出土遺物
写真 12 調査区全景
小
結
今回 は個人住宅 の新築 工 事 に伴 う調査 とい う ことで、開発深度 も浅 く、埋蔵文 化 財 は
保存 され るとい う事 で、部分調査 に留 めたため狭小 な面積 とな って しま い、充分 な成果 を得 るに は
至 らなか ったか もしれな い。 しか しこれ まで、不明 な部分 が多 か った本遺跡 の一 端 は窺 い知 れ る も
ので あ った と思 う。大久保 とい う古 くか らの集落 の 中 にあた るため乱開発 を免 れ、比較的良好 な 状
態で遺跡 が残 されて いる事 が判 明 し、 また今後近 隣 で調査 が実施 され、徐 々にで も当遺跡 の性格等
が 明 らか にな ることに期待 したい。
‐
-17-
第 8節
調
東 円寺 跡 97-13区 の 調査
査
野 田 2136-6
地
9年 12月 9日 ∼ 12月
調 査 期 間
平成
位 置 と環 境
本調 査地 点 は、東 円寺跡 の 東端 に位 置 し、北 側 は丘 陵 へ の 裾 野 で 、南 側 を流 れ る大 井
11日
出川 に 向 か って その 標 高 を下 げ河 岸段 丘 面 にあ た って い る。 当地 東 隣 で は、昭和 63年 に調 査 を 実 施
し、土墳 、柱 穴 、瓦器 椀 、瓦 質 甕 、石 臼等 中世 を 中心 と した遺 構・ 遺 物 を検 出 して い る。
ま た 、町道 野 田中央 線 を 挟 ん だ東 側 の調 査 で は、溝 、柵 列、建 物跡 、 土墳 等 を多数 検 出 し、 遺 物
の量 も非常 に多 く主 に 12∼ 14世 紀 まで の 瓦器 や土 師質 土 器 、常 滑 、東 播 系 土 器 、紀 州 系土器、青磁、
自磁 、古銭 等 が 出土 して い る。 また、 当地 の小 字 名 は多 々利 と呼 ばれ 、鋳 造 関係 の施 設 等 が 存 在 し
て い た と考 え られ るが 、 これ まで 周辺 地 域 で 明 瞭 な遺 構・ 遺物 は確 認 して いな い。
調 査 内 容
調 査 対 象地 に 6×
9mの 調 査 区 を設 定 して 、機械 掘 削 に よ り実 施 し、右 図 の よ うな土
層 、遺 構 を確 認 で きた。 基 本 層 序 は、① 層 厚約 25cmの 耕 作 土・ 床 土 、 そ の 直下 に② 明黄 褐 色 粘 質 土
の 無 遺 物層 (地 山 )で あ る。検 出遺 構 は土 墳
(SK)3基 、溝 (SD)1条 を地 山面 上 よ り確 認 した。
SK lは 平 面 隅丸 方 形 を呈 し長辺 27m、 短 径 1.6m、 深 さ04mを 測 る。断面 は北 0東・西 で は ほ ぼ垂
直 に 落 ち込 み 、南側 で は緩 や か に切 り下 が って お り、埋 土 は灰 黄 褐 色 粘 質土 で焼土・ 炭化物 が特 に、
底 面 か ら 5 cm程 上 で 多 量 に含 まれ て い る。 また検 出面 よ り 5 cm下 で人 頭 大 の 火 を 受 けた 自然 礫 を 6
個 体 検 出 した。遺 物 は須 恵 器 甕 片、土 師質土 器 片 、瓦器 皿 の小 片 を若 干検 出 した。
第 26図
調査地 点位 置 図 (S=1/2,500)
-18-
第 27図
調査地 点位 置 図
3. 2.5YR 7/1
耕作 土
床土
第28図
4 10YR 7/6
灰黄褐色 粘質土 (SD l埋 土 )
明黄掲色 粘質土 (地 山)
調 査 区平 面 図・ 断 面 図
414m
1 10YR 6/2
41.4m B
灰黄褐色
SK-2
(炭 多含 )
B′
秤
凶
:
41.4m
―
1.10YR 6/2
2.10YR 6/6
3.75
4 7 5YR 5/8
1
2.5YR 6.3
2. 10YR 7/1
3.1.と 同様
4.2.と 同様
にぶ い黄 色 粘 質 土
灰 白色 粗砂
第29図
遺構 断 面 図
-19-
灰黄褐色 粘質土
明黄褐色 砂礫土
シル ト
灰色
明掲色
砂礫 (地 山)
SK 2は 隅丸 方 形 で 長 辺 2.Om、 短辺 1.Om、 深 さ0.2mを 測 る。断面 は四 面 と も緩 やか に落 ち込 む逆
台形 で 、埋土 はにぶ い黄 色 粘 質 土 の下 に灰 白色 粗 砂 が 敷 き詰 め られ た よ うに広 が って い る。遺 物 等
は一 切 出土 して いな い。
SK 3も 同 じ く隅丸 方 形 を呈 し長辺 19m、 短 径 10m、 深 さ1.3mを 測 る。断面 は垂 直 も し くはや や
外側 に広 が り、埋土 は① 灰 黄 褐 色 粘質 土 と② 明黄 褐 色 砂 礫 土 、③ 灰 色 シル トで 明黄 褐 色 粘質 土 の 地
山 を突 き抜 け、褐 色砂 礫 層 に達 して い る。 また遺 物 は一 切 検 出 して いな い。
SD lは 溝 と して と らえ たが 、西側 の 端 を検 出 して いな いので 不 明 確 で あ る。 埋 土 は灰 白色 粘 質
土 で マ ンガ ン斑 を 多 量 に含 ん で い る。 またSK l付 近 で 焼 土・ 炭 化 物 が 若 干 含 まれ て い る。 出土 遺
物 は土 師質、須 恵質 土 器 、瓦 器 片 が 数 片 出土 した。
これ ら土墳 の 時代 は 出土遺 物 よ り13世 紀 か ら14世 紀 が 考 え られ るが 、 出土 遺 物量 が 少 な く判 断 材
料 が 乏 しいので 詳細 は不 明 で あ る。
小
結
今 回 の調 査 で 明瞭 な遺 構 、 3基 の土 墳
(SK)を 検 出 した 。 これ らの 用 途 を 考 え て み
ると不 明 な点 は多 いが 墓 で あ る ことが一 つ 考 え られ る。 SK lは 他 の二 つ よ り大 き い が 、 SK
は と もに平面 的 な大 きさが お お よそ 2m×
2.3
lmで 統 一 され て い るよ うで あ り、 またSKlで は焼土・
炭化 物 が 多量 に含 まれ て い るほか 、棺 も し くは遺骸 安 置施 設 を思 わせ る列 石 が あ り、火葬 土 墳 の 可
能性 が あ る と言 え る。他 の。 SK
2.3は 焼 土 等 が含 まれ て い な い こ とか ら土 葬 墓 で あ る こ とが 推
測 で き る。 また これ ら 3基 の 土墳 の主 軸 はN-30° ―E及 び -30°
―Sの 方 向 を と って お り、周 辺 土
地 区画 の 方 向 と合致 し企 画性 が 感 じられ る。 また今 回表 層 施設 は全 く確 認 で きな いが 、 それ ぞ れ切
り合 い もな く、 間隔 が 1∼
2mと
広 い ことか ら土 まん じゅ うの よ うな施 設 の 存 在 の 可能 性 が 考 え ら
れ る。被 葬者 の 問題 で あ るが 、 当地 点 は「東 円寺 J推 定 地 の東 南 東 に 100mの と こ ろ に 存 在 し、 東
円寺 との 関係 が 当然 考 え られ るが 、推 測 の域 をで な い。
しか し、 これ ら 3基 の 上 墳 を墓 と考 え るに は多少 問題 もあ る。 それ は① 副 葬 品 と思 え る ものが 一
切無 い と言 う こと、② 有機 質 遺 物 (遺 骸 )や 棺 及 びそ の 金 具等 の 痕 跡 が 認 め られ な い こ と、 ③ SK
lに お いて 確認 した人 頭 大 の 自然礫 が 検 出面 よ りわず か 5 cmほ ど下 で 検 出 した こと。 つ ま り、 これ
らの 自然 礫 は遺 骸 等 が 焼 却 され た後 に土 墳 内 に並 べ られ た とい う ことに な る。 とい う問題 が 挙 げ ら
れ る。① につ いて はSK lに お いて 若 干 の遺 物 を検 出 して い るが 、 い ず れ も砕 片 で あ り副 葬 品 と言
え る もので はな い。 ただ 大 阪府 下 周辺 地域 の調 査 例 を 見 て み る と中世 の 土墳 墓 にお いて 副葬 品 が 確
認 され る例 は少 な く、珍 しい と もいえ る。本 町 にお いて も成合寺 遺 跡 に お け る調 査 で 600基 以 上 の
土 葬 墓 と思 わ れ る土 墳 を検 出 されて い るが 、 そ の うち副葬 品 と思 われ る遺 物 が 出土 した の は ほん の
僅 かで あ った とい う こと もあ り、 この 時代 は副 葬 品 を伴 わ な いのが 普 通 といえ るよ うで あ る。
以 上 の よ うな問題 が 考 え られ 、 墓 とす る確 実 な根 拠 が 見 当 た らな い。 また当地 に残 され た「 タ タ
リ」 (た た ら)と 言 う小 字 名 か ら鋳 造・ 製 錬 関係 の 場 で あ った と も考 え られ るが 、 これ も鉄 滓 等 関
係遺 物 が 出 土 して いな いので 判 断 で きな い。現地 点 で は判 断材 料 が 少 な く これ 以上 の 言 及 は避 け る
が 、 い ず れ に して も今 後 の 調 査成 果 、類例 を 持 ちた い。
―-20-―
写 真 13 調 査 区 全 景
ヽ‐
ヽ
―
糠
―
ヽ│
写 真 14
SK-1
-21-
第 4章
お わ り に
以上 、東 円寺 跡 、久 保 城 跡 、降井 家 屋 敷跡 、久 保 B遺 跡 、大久保 C遺 跡 の 5遺 跡 、 8件 の 国 庫 ・ 府 費
補助事 業 によ る発 掘調 査 結 果 を述 べ て きた。
今 回、久 保 城 跡 、久保 B遺 跡 の 2件 に 関 して は、新 た な 知 見 は得 られ なか った。今後 の調 査 に 期 待 し
た い。
また 、東 円寺 跡 、降井 家屋 敷 跡 、大 久保 C遺 跡 の 調 査 にお いて 今 回、僅 か で はあ るが遺 構・ 遺 物 を 検
出 し、 そ の一 端 が 窺 え る成 果 が 得 られ た と思 う。 しか し、 それ は ほん の 断 片 に過 ぎず、今 す ぐそ の 歴 史
的意義 等 が 論 じられ る もので はな く、今 後 の調 査 の積 み重 ね に よ って 序 々 に 明 らか に して い きた い と考
えて い る。
熊取 町 が 独 自 に発掘 調 査 を実 施 す るよ うにな り13年 が 経 過 し、 よ うや く調 査 体 制 も整 いつ つ あ るが 、
諸遺跡 の 範 囲・ 性 格等 の 様 相 の把 握 が 殆 どで きて いな いのが 現状 で あ る。 また当町 に は博 物 館 等 の 調 査
成 果 を展 示 す るよ うな施 設 も無 な く、啓蒙・ 啓 発 事 業 は殆 ど実施 で きて いな い状 況 で あ る。我 々 が 行 っ
て い る発 掘 調 査 は、 全 て 開発 行 為 に伴 う もので あ り、遺跡 の 破壊 を 前提 と して 行 われて いる もので あ る。
重要 な埋 蔵 文 化 財 が 発 見 され た と して も保存 が で きな い 限 り破壊 され 、消 滅 す る ことにな り、 ま た こ う
い った 活 用 が 出来 な い と同 じ事 と言 え るで しょう。
この よ うな状 況 の 中、文化 財 調 査体 制 の確 立 は当然 なが ら、遺 跡 各 個 の 把握 、文化財 保護活動 の浸透、
文化財 の保 存・ 活 用等 、今後 我 々 に課 せ られ た 問題 は多 い。
-22-
生口
報
抄
書
録
り が な くま と りち ょういせ き ぐんは っ くつ ち ょうさが いよ うほ うこく しょ
ふ
書
名 熊取 町遺跡群発 掘調査 概要報 告書
巻
次
XⅡ
シ リ ー ズ 名 熊取 町埋蔵文化財調査 報告
シ リ ー ズ 番 号 第 30集
編 著 者 名 前川
淳 、永 井
仁
編 集 機 関 熊取 町教育委員会
地
在
所
〒 590-0495大 阪府泉 南郡熊取 町野 田 1丁 目 1番 1号
発 行 年 月 日 西暦
ー
ド
経 ″
在
コ
′
従跡
じ寺
所
り が な
緯
な 跡
が 遺
り 収 が円
ふ 所 め東
ふ
1998年 3月
東
調査期 間 調査 面積 調 査 原 因
m
地 市 町 村 遺 跡番 号
大 阪府 泉 南 郡
96-12区
熊 取 町 大 字
個 人 専 用
6
27361
19970304
34° 24′
03″
135° 21′
23″
8
2
住 宅 建 築
19970306
り が な ふ
く久
所 収 遺 跡 所
り が な
在
コ
ー
ド
緯 東
経 ″
紺 屋 12
ふ
調査期 間 調 査 面 積 調 査 原 因
m
地 市 町 村 遺跡番号
保 城 跡 大 阪府 泉 南 郡
97-1区
熊 取 町 大 字
個 人 専 用
27361
34° 23′ 34″
135° 22′ 24″
ふ
溌跡
じ寺
筋円
め東
所
り が な
在
地
コ
ー
ド
緯 東
経 ″
な 跡
が 遺
り 収
ふ 所
久保 12
19970507
4.5
調査期 間 調 査 面 積 調 査 原 因
m
市 町 村 遺跡番号
大 阪府 泉南 郡
97-3区
熊 取 町 大 字
個 人 専 用
6
27361
19970520
34° 24′ 06″
所
り が な
在
地
コ
ー
ド
緯 東
市 町 村 遺跡番 号
経 ″
な 跡
が 遺
り 収
ふ 所
ごもん
ILFl l151-5
ふ
熊取 町大 久保
中 217
4
住 宅 建 築
調 査 期 間 調査 面積 調 査 原 因
m
降 井 家 屋 敷 跡 大 阪府 泉 南 郡
97-1区
住 宅 建 築
個 人 専 用
27361
19970630
34° 23′ 56″
135° 20′ 55″
2
19970704
住 宅 建 築
り が な
在
所
地
コ
ー
ド
緯
経 ″
睫跡
円
じ寺
えん
な 跡
が 遺
り 収
ふ 所
とう
東
ふ
東
調査期 間 調査面積 調 査 原 因
m
市 町 村 遺跡番号
おおさかふせんなんぐん
個 人 専 用
や屋
軌紺
97-5区
”
町
的取
∈熊
大 阪府 泉 南 郡
19970707
6
27361
34° 24′ 03″
2
135° 21′ 18″
住 宅 建 築
`
19970708
ふ
り が な
所
久 保
B遺
在
地
コ
ー
ド
緯
経 ″
な 跡
が 遺
り 収
ふ 所
2-2091-7
東
熊 取 町 大 字
個 人 専 用
27361
34° 23′ 24″
135° 22′ 12″
り が な
所 収 遺 跡 所
c遺 跡
97-1区
在
地
コ
ー
ド
緯
経 ″
久保 H35-1
り が な ふ
大 久保
m
市 町 村 遺跡番号
跡 大 阪府 泉 南 郡
97-1区
ふ
調 査 期 間 調査面積 調 査 原 因
東
3
19970821
住 宅 建 築
調 査 期 間 調査 面積 調 査 原 因
m
市 町 村 遺跡番号
個 人 専 用
大 阪府 泉南 郡
19971022
熊 取 町 大 字
27361
34° 23′ 56″
135° 20′ 55″
住 宅 建 築
10
2
19971023
ふ
り が な
在
所
地
コ
ー
ド
緯
経 ″
な 跡
が 遺
り 収
ふ 所
大 久保 135-1
東
調 査 期 間 調査面積 調 査 原 因
m
市 町 村 遺跡番号
個 人 専 用
東 円 寺 跡 大 阪府 泉 南 郡
97-13区
19971209
熊 取 町 大字
6
27361
34° 24′
18″
135° 21′
12″
のだ
野 田
所 収 遺 跡 種
東 円寺跡
住 宅 建 築
52
2
19971211
2136-6
月1
主
な
時
代 主
な
遺
構
主
な
遺
物
特
記
事
項
寺院跡
96-12区
久保 城跡
城郭跡
97-1区
東 円寺跡
寺院跡
97-3区
降井 家屋敷 跡
屋 敷 跡 江戸 ∼
井戸 、土墳
近 世陶磁器
散 布 地 鎌倉 ∼室 町
柱 穴 、杭 穴
瓦器、土師質土器
寺 院 跡 鎌倉 ∼室 町
土墳 、溝
須 恵質、土 師質土器
土 墳 は墓 の可能性 あ り。
瓦器
副葬 品 はな し。
97-1区
東 円寺 跡
寺院跡
97-5区
久保 B遺 跡
集落跡
97-1区
大 久保
C遺 跡
97-1区
東 円寺跡
97-13区
熊取 町埋蔵文化財調査報告
第 30集
熊 取 町 遺 跡 群 発 掘 調 査 概 要 報 告 書・ 畑
発行
平成 10年 3月
発行・ 編集
熊取 町教育委員会
大阪府泉南郡熊取 町野 田 1丁 目 1番 1号
印刷
摂河泉文庫
大阪府貝塚市北 町20-18
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