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キャビン・オロク - Koreana

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キャビン・オロク - Koreana
韓国再発見
キャビン・オロク博士
韓国文学のメッセンジャー
韓国文学の専門翻訳者、キャビン・オロクさん。どの言語よりも学び難い
言語であったと言う彼だが、現在では自分の暮らしと夢を語られるようになった。
アイルランドで生まれて韓国文学の専門翻訳者として認められるようにな
るまでの、熱く厳しかった彼の道のりを辿ってみよう。
イ・スジン
(沈李修珍、フリーライター)| 写真 : アン・ホンボム(沈安洪範)
60 Koreana | 冬号 2008
韓
国文化が「韓流」という名の下で外国、特にアジア
て忠実さが前提となる詩の翻訳分野において、イギリスの
「詩
諸国において人気を博している。以前として「韓
会」
から最優秀翻訳作品賞を受賞したほど定評がある。
流」の主流は、映画や音楽などの大衆を担い手とす
「学生時代に哲学と神学を勉強しましたが、文学が大好
る文化である。マスコミの発達などを基盤にして形成され、
きでした。もちろん、故郷であるアイルランドの豊かな文学
電波に乗り即刻性のあるジャンルに比べて、韓国文学は「韓
的土壌にも影響されたと思います。韓国は伝統的に絵画や陶
流」のコンテンツの中で、蚊帳の外に置かれたジャンルの一
磁器などの分野から優れた作品が生まれたように、アイルラ
つである。言語の違いにあまり影響されない芸術ジャンルと
ンドはジェイムズ・ジョイス、イェーツ、オスカー・ワイルド、
は違って、文学は世界の人々と感動を分かち合うためには、
ベケットなど、20世紀の西洋文学の歴史に大きな足跡を残し
「翻訳」という創作の過程を経なければならない手間がかかる
ためである。
た作家たち達を輩出してきました」
彼は1964年にアイルランドの聖コロンバン会の神父と
して韓国を訪れた。その時年齢が24歳であった彼は、生まれ
翻訳は新しい創造
故郷のアイルランドで送った歳月の2倍もの長い年月を韓国
インターネットのポータル・サイトには自動翻訳機があ
で過したことになる。若い神父だった彼は、生まれて初めて
る。文章を入力すれば、なんとか意味の通じる翻訳文が提示
飛行機に乗って、東アジアの小さな国の韓国に着いた。初め
される。あえて翻訳者の手を経なくても文章の意味が把握で
ての海外旅行を経験した彼は、当時の金浦空港の風景を昨日
きるようにしてくれるありがたいツールである。ところが、
のことのように鮮明に覚えている。武装軍人が配置されてい
その翻訳機の文章解読技術を通じて、韓国文学は外国人たち
て、ソウルへ続く道も舗装されていなかったため、車が走り
に本来の意味と感性が伝わり、そして感動を与えられるだろ
ながら砂埃が立ちこめた。風景は殺伐としていて、軍事政権
うか。これは手作業に基づいたアナログ時代への懐古ではな
の抑圧的な雰囲気が社会の底辺を支配していた未知の国、韓
い。文学の翻訳はただ単に、ある言語を他の言語に機械的に
国。しかし彼はそんな韓国の姿に接しながら、恐れるどころ
切り替える作業ではない。一国の文化と歴史、思想が盛り込
かかえって興奮とときめきを感じたと告白する。彼は神父で
まれているテキストが、まったく異なる文化と歴史的背景を
ありながら、世の中に対する好奇心と情熱に満ちていた24歳
持つ外国人から共感を得るためには、説得力と緻密さが求め
の青年であったのだ。彼にとって世界は広く、当時の韓国は
られるのだ。つまり、文学の翻訳作業の原点は「切り替え」で
彼の情熱と信念をぶっけるには最適の場所だと思われたため
はなく、新しい
「創造」
にある所以である。
である。
韓国文学の専門翻訳者として韓国文学博士でもあるキ
もし彼が神父になっていなかったなら、おそらく韓国と
ャビン・オロク(68、慶熙大学校英文学科名誉教授)さんは、韓
は縁のない人生となっていただろう。はたして彼はなぜ神父
国の現代文学作品と古典、そして詩と小説の範疇を行き来し
への道を選んだのか。
ながら、英語への翻訳に取り組んでいる。これまで、彼の手
を経て英語に出版された作品は次の通りである。
『Tilting the
Jar, Spilling the Moon』
(韓国現代詩選集)、
『The Dream Goes
Home』(チョ・ビョンファ<趙炳華>、詩選集)、『Poems of a
Wanderer』
(ソ・ジュンジュ<徐廷柱>、1915~2000、詩選集)、
『Our Twisted Hero』
(イ・ムンヨル<李文烈>、
『我々の歪んだ英
雄』
)、
『Mirrored Minds、a Thousand Years of Korean Verse』
(韓
ケビン・オロック(Kevin O’Rourke)
さんが翻訳した新羅(57BC~935
AD)時代の郷歌と高麗(918~1392)
時代の高麗歌謡をまとめた本
(The Book of Korean Poetry)
(University of Iowa Press、2006)。
国の古典詩作品集)、
『The Book of Korean Shijo』
(朝鮮時代詩調
集)、
『The Book of Korean Poetry』
(新羅<57BC~935AD>時代の郷
歌と高麗<918~1392>時代の歌謡集)。
韓国文学の英語翻訳者が非常に限られている現実の中で、
キャビン・オロクさんの作業はキャリアで他の翻訳者に先駆
けており、特に言語に含まれている若者の感性と解釈に対い
冬号
2008 || Koreana
Koreana 61
冬号 2008
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「故郷のアイルランドでは、一家に一人ぐらいは神父が
生として認識されていた。
出ないと自慢できない雰囲気がありました。それに、大学へ
の進学や配偶者との出会いを気にする心配もなくなったので、
神父への道を選んだのもかなり良い選択ではないでしょうか」
古典文学の魅力に取りつかれて
キャビン・オロクさんが初めて翻訳した作品は、1974年
彼の性格にふさわしい、楽天的でユーモアのある答えが返え
に出版された『韓国短編小説集』である。これまで彼が翻訳し
ってきた。
た韓国文学のジャンルは韓国の現代詩と小説、そして彼がも
っとも愛着を持っている韓国の古典詩歌、高麗歌謡と郷歌に
青い目の韓国文学の学生
至るまで、実に幅広い。
神父として韓国に一歩を踏み出した彼は、まずソウル敦
「本当に偉大な韓国文学の宝庫は新羅と高麗時代の作品で
岩洞にあった聖コロンバン聖堂に奉職しながら韓国語を学ぶ
すね。私が考える韓国文学の歴史上、最高の作家といえば高
ために延世大学校の韓国語学堂に登録した。それからの1年
麗時代の詩人だったイ・ギュボ(李奎報、1168~1241)です。イ・
間は「韓国語はなんと難しい言語なんだろう」と、先生に質
ギュボはグローバルな視野と主張を持っているグローバル・パ
問を投げかけながら韓国語の勉強に取り組んだ。ギリシャ語
ワーの詩人として、中国の李白(701~762)や杜甫(712~770)、
とラティン語を学び、言語と文学に関しては人に劣らぬ才能
蘇軾(1036~1101)に劣らぬ存在です。私が彼の詩に惹かれたの
を持っていると自負していた彼だったが、韓国語は簡単に上
は、豊かな創造力の持ち主でありながら、自らが限りなく弱
達しなかった。学生としての彼は、当時の韓国語の先生にと
い人間であることを自分の詩の中にさりげなく告白している
っては頭の痛い存在だった。常に「なぜ」と質問しながら困ら
からです」
せたり、授業時間を独り占めしていたためである。当時はま
理想に到達できなかった詩人は弱い存在である事実を認
だ、外国人向けの教え方や教材が整っていなかったため、暗
め、理想から遠くなればなるほど絶望したが、その絶望が芸
記ばかりを強調していた授業は彼には向いていなかったよう
術的インスピレーションを与えた。
だ。
オロク教授は朝鮮時代の中心思想だった儒教が韓国の文
「韓国語を勉強し始めた頃は大変でした。韓国語はなぜこ
学にとってはかえって否定的な影響を与えたと考える。それ
んなに難しいんだろう、もっと分かりやすく教えてくれない
以前の千年間、韓国を代表する思想だった仏経の影響力を無
かと韓国の言語学者らを恨んでいたんですね」
視しようとした儒教の理念が文学の中核ともいえる叙情性と
彼は笑いながら当時を振り返る。ところが3年間、延世
情熱を抑えたという。しかし、朝鮮時代のキム・シスプ(金時
語学堂で韓国語を勉強した彼は、難しいとばかり考えていた
習、1435~1493)やソ・ゴジョン(徐居正、1420~1488)などの優
韓国語に対して愛情を持つようになり、本格的に韓国文学を
れた詩人が昔の伝統を受け継いだ作品を残したおかげで、韓
研究しようと決心する。韓国に赴任してから6年目の1970年、
国文学の特徴である叙情性が蘇り、近現代に入ってからは、
彼は延世大学校の大学院国文科に入学した。ヨーロッパの留
パク・モクウォル(朴木月、1917~1978)やソ・ジョンジュ(徐廷
学生が大学院の国文科に入学したこと、いや韓国の大学で授
柱)などの詩人らが西欧文学の影から脱して韓国文学のアイデ
業を受ける事実そのものが話題になる時代だった。偏見と言
ンティティを確立することに大きな役割を果たした。韓国文
語の障壁を乗り越えた彼は、1920年代の韓国における自然主
学の流れを作った偉大な二人の詩人に共通する点は、新羅の
義小説家だった金東仁(1900~1951)の短編小説に表れたフラン
古い精神に回帰したことだ。神父である彼がもっとも惹かれ
ス自然主義の影響を研究した論文で修士号を取得、それを契
た韓国詩の精髄は、詩に盛り込まれている仏教的・禅的香りで
機に韓国文学研究への道を歩むことを決心した。続いて延世
あった。特に現代韓国の詩人の中で、彼が一番好きな詩人は
大学校の博士課程に進み、1920年代の韓国詩に与えた英詩の
ソ・ジュンジュさんだが、彼の初期の作品よりは中・後期の作
影響というテーマで1980年に博士号を取得した。韓国の大学
品の深さにもっと感動を覚えると評する。
で誕生した初めての外国人の韓国文学博士だった。学位を取
一方、キャビン・オロク教授が韓国文学に馴染みのない
得した直後、延世大学校で2年間、学術雑誌の編集を担当した
外国の読者にお勧めの現代文学作品は、イ・ムンヨルの小説
後、彼は慶熙大学校英文科の教壇に立った。そこで定年を迎
『我々の歪んだ英雄』
である。イ・ムンヨルのほかの作品が巻き
えるまで、現代英文学を教えた彼は学生たちの間で厳しい先
起こした話題性に比べて、同作品はそれほど注目されなかっ
62 Koreana | 冬号 2008
たが、20年前にこの作品を初めて読んだオロクさんは、作品
のユニークさと独特のパワーに感動を受けたという。テーマ
への集中度が高く、社会の各場面で繰り広げられる権力関係
にこだわることで、韓国社会の断面がよく表れたこの作品は
2003年に彼の翻訳で英語版が出版されてから、フランス語・ス
ペイン語・ドイツ語にも翻訳出版された。
彼は翻訳が
「楽しい作業」
だと語る。一つの単語を翻訳で
きず、一ヶ月も苦労したこともあるが、詩の翻訳作業は依然
として楽しいチャレンジである一方、遊戯みたいなものであ
るという。一人前の翻訳者になるためには少なくとも10年の
トレーニング期間が必要であるというから、焦ったり急いだ
りしては到底到達できない境地であるらしい。
冷めない情熱を持続ける青年
急成長を成し遂げた韓国で40年以上の歳月を過ごしてき
たキャビン・オロク教授は、2006年にソウル市から名誉市民に
選定された。名誉市民になって良いところとい言えば、ただ
で地下鉄に乗れることだと笑うキャビン・オロクさん。
彼は急変する韓国に対して残念がることも語ってくれた。
「昔の韓国人がもっと優しかったですね。最近は以前に比
べてすぐ怒り出すらしいですね。物に対しても、もっと欲張
キャビン・オロクは、外国人としては
国内最初の韓国文学博士だ。学位取得直後、
延世大学校で学術雑誌編集の仕事に就き、
その後、慶熙大学校の英文学科で教鞭を
取った。そこで定年を迎えるまで、
彼は現代英文学を教えながら、
未来の韓国文学を担う若者らに
グローバルな視野と情熱を伝えることに
情熱を注ぎ込んだ。
りになったようです」
さらに、キャビン・オロク教授は最近
「グルピ」
という言葉
を聞いたことがあるのかと質問する。この単語は20余年前に
なくなった単語であるという。グルピ、つまり3日後を意味
する純粋な韓国語を使わないほど、韓国人は何かに追い詰め
られているように暮らしているという。彼は今も30余年前に
江原道のある山村を旅した頃、緩やかに流れる時間の流れと
余裕に満ちていたあの頃の韓国を懐かしく思っている。
キャビン・オロクさんは一年に数ヶ月はアイルランドで、
そして残りはソウルで生活している。彼の日常は読書、執筆、
新羅と高麗時代の詩の翻訳作業で営まれている。数年前はア
イルランド国立大学校で名誉文学博士号も受けた。第2の故
郷である韓国からはもちろんのこと生まれ故郷のアイルラン
ドからも韓国文学における権威が認められたわけだ。
韓国の美しい古典詩歌を韓国人よりも愛しているキャビ
ン・オロク教授にとって、韓国語と韓国文学は彼の日常であ
り、情熱の対象であり、また楽しみでもある。韓国文学への
彼の愛情と翻訳への情熱はいつまで続くだろうか。インタビ
ューを終えて立ち上がる彼の目に、熱烈な恋愛をしている若
々しい青年の眼差しを見た。
冬号 2008 | Koreana 63
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