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近代遺産
2016/5/30 近代化遺産 近代化産業 近代化産業遺産 産業遺産群 遺産群 ・文化庁はそれまで歴史遺産として評価されて こなかった近代化期の建造物の評価を求める 声を受けて,1993年,幕末〜大戦期の建造物を 国重文に指定。これが「近代化遺産」。 ・全国60数件のうち,東北は以下の3件: ・経済産業省が認定している文化遺産。 ・2007年11月,33件の近代化産業遺産群 と,575件の認定遺産, ・2009年2月に「続編」として,それぞれ33 件,540件の遺産が公表された。 十和田ホテル関連遺産 小坂鉱山、尾去沢鉱山 細倉鉱山 藤倉水源地水道施設(秋田市) 八甲田丸 旧阿仁鉱山外国人官舎(北秋田市) 釜石製鉄関連遺産 旧小坂鉱山事務所(小坂町) 松山人車軌道車両 喜多方赤煉瓦製造関連遺産 常磐炭田 山形の擬洋風建築 十六橋 旧山形県病院「済生館」 (現山形市郷土館) 1966国重文 近代産業遺産の 近代産業遺産 地域づくり 山形県旧庁舎 現山形県郷土館「文翔館」 1984国重文 小坂町 ・小坂鉱山は,1816年,南部藩が金 銀鉱山として開発 ・明治維新で官営に。1884,藤田組 (後の同和鉱業)に払い下げ。 ・釜石製鉄を開いた大島高任も技 術開発に当たる。 ・20世紀初め,多種鉱物を含む黒鉱の精錬法を開発し大発展。 日本一の銅をはじめ,各種の鉱物で国内上位を占める。 ・開発の中心となったのが,後に日立の礎を築く久原房之助。 ・最盛期の人口は3万人で,県内では秋田市に次ぐ規模に。 ・1905 (明38)年,洋風3階建ての壮麗な鉱山事務所建築 ・1910年、社員厚生施設として,本格舞台装置を備えた演劇場 「康楽館」が開設される。 小坂鉱山事務所 ・資源はやがて減少し,人口も激減。 ・1960年,康楽館閉鎖され,廃屋状態に。 ・1981年,小坂を訪れた国鉄観光課長・坂下氏が荒れ果てた 木造建築を目にして,劇場だったと知り,町に保存を進言。 ・建築学者,評論家も価値を評価し有名俳優も復活を期待。 ・町は俄然盛り上がり,坂下氏を顧問に迎えて復興に着手。 ・1983年,復活。稀有の本格的 芝居場として全国から注目。 ・中央の歌舞伎俳優の定期講 演,常設劇団も誕生。 ・1986,県文化財 ・1991,明治百年通りの 整備着手 ・1998,同和鉱業,小坂 鉱山事務所を町に寄贈。 ・明治百年通りへの移 築整備を決定 ・2001,鉱山事務所の整 備完工 ・2002,康楽館,国重文 に指定 2016/5/30 『図説 岩手県の歴史』 岩手県の歴史』 大島高任 と 釜石製鉄 釜石製鉄 (河出書房新社,1995)による 東北人が生んだ最大の近代技術は,何といっても南部藩士・ 大島高任による高炉製鉄であろう。 それまでの製鉄は,中国山地で隆盛を極めた砂鉄によるたた たた ら製鉄だったが,大砲の製造が必要になった幕末期,旧来のた たら製鉄では大砲に必要な良質鋼の大量生産は行えず,磁鉄 鉱を大量溶解する西洋式高炉の開発が求められていた。 大島高任は,盛岡の藩医の家に生まれ,江戸に出て蘭学を 学び,医学研究のため長崎に留学し、西洋式製鉄技術の本に 興味を惹かれて,再現に着手。 http://www.city.morioka.iwate.jp/mori okagaido/rekishi/senjin/007463.html それに目をつけた水戸 藩の資金支援を受けて, 那珂湊に反射炉を造り (左写真),西洋式大砲の 製作に成功。 http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bun kazai/ken/shiseki/12-58/12-58.html 釜石製鉄関連遺産 http://www.ne.jp/asahi/lapis/fluorite/column/nirayama.html 次に大島は,高炉による製鉄を実行すべく南部に 戻り,仙人峠の良質の磁鉄鉱を使って,麓の大橋に 小型高炉を築いて,1857年12月,鋼鉄の産出に成功 し,同地区に10座の高炉を建設した。 維新後,新政府は大橋鉄山を官営化を計画。この 際,大島は,当時の技術水準にあわせて小型高炉を 主張したが,大型の25トン高炉を進言した外国人技 師の意見が採用されて,大島は小坂鉱山に転出。 こうして,大型高炉2基を持つ官営釜石製鉄所が 鈴子町に建設され,小川上流部の木炭山から燃料 炭を調達して,明治13年に創業を開始した。 反射炉の仕組み この試みは大島の懸念通り失敗し, 明治16年廃炉に。 その設備を譲りうけて蘇生させた のが,御用商人の田中長兵衛 田中長兵衛。小型 田中長兵衛 高炉を建設して,明治19年10月16日, 出銑に成功。この日が釜石製鉄所 の創業記念日に。 明治23年,大阪砲兵工廠に納入し た銑鉄の品質が評価を得て大量注 文をうけ, 明治26年には25トン高炉 も復活。明34年の八幡製鉄所開業 まで,日本最大の製鉄所に。