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8時間ウォーク資料 - 藤岡市教育委員会
30周年記念行事 8時間ウォーク ○ 期 日 平成 25 年 5 月 16 日(木)8:00 ~ 17:00 ○ 日 程 8:00 8:10 8:15 9:15 10:15 11:30 12:30 13:15 14:15 15:15 16:15 16:45 集合・体調確認 開会行事 出発 ポイント1 七輿山古墳 ( 記念写真 ) ポイント2 平井城 ( 記念写真 ) ポイント3 高山社 ( 記念写真 ) 陸上競技場(昼食) 出発 ポイント4 土師神社「相撲辻・埴輪窯跡」 ポイント5 成道寺 ポイント6 神流川古戦場「首塚・胴塚」 到着 閉会行事 スローガン “笑顔、やる気、そして希望を胸に”、歩き通すぞ24km! 藤岡市立小野中学校 年 組 -1- 名前 ○ 8時間ウォークって何ですか? この行事は、ふるさと藤岡に残る歴史ある史跡を見学しながら、8 時間 24 kmを、友と協力しながら歩ききることを目指す行事です。 開校 10 周年(10 時間 36km)にはじまり、20 周年の節目に 8 時間 24km に なりました。 開校 30 周年である今年度は、世界遺産指定候補となった高山社を含めて、 旧藤岡市の周囲を歩き切れるように「小野地区→平井地区→美九里地区→藤岡 地区→神流地区→小野地区」のコースをたどりたいと思います。 ○ この行事の「ねらい」について、教えてください。 (1) この記念行事を通して、目指す生徒像である「挑戦する生徒・共生 する生徒・自立する生徒」への育成を図る。 (2) 生徒、教職員が一体となって実践する行事とすることにより、小野 中学校の 30 周年を祝う心情を育てる。 (3) 郷土藤岡のよさを再発見する。 ○ 服 装 ○ 持ち物 ○ その他 体操服 水筒、弁当、必要に応じて帽子、雨具 -2- ポイント1 七輿山古墳(古墳時代後期・東日本最大級の前方後円墳) この古墳は 6 世紀前半につくられた、三段構成の前方後円墳です。6 世紀代の古墳とし ては東日本最大級のもので、全長 145m、後円部径 87m 前方部幅 106m、高さは前方部・ 後円部ともに 16m の大きさです。 4 回にわたる確認調査で、中提帯や外提帯と呼ばれる土手状の堤を境に、内と外の周 溝が二重に巡り、中提帯や外提帯の平坦部には埴輪列が立ち並び、その斜面には石が葺か れていることが確認されました。 また、前方部の前面にあたる西側ではコの字状に巡る三重目の溝もみつかっています。 埋葬施設は未調査のため不明ですが、横穴式石室と推定されています。 出土遺物は円筒・朝顔型円筒・人物・馬・盾などの埴輪類や須恵器・土師器がありま す。特に、円筒埴輪は径 50cm・高さ 110cm で、7 条の凸帯(タガ)が巡る大型品で、全 国でも稀なものです。 七輿山の由来は、羊太夫の伝説からきています。奈良時代に新設された多胡郡を 賜った羊太夫は、八束小脛という神童の引く天馬に乗って朝廷へ日参していました。 ある日、羊太夫は悪ふざけで昼寝をしている小脛の両脇に1本づつ生えている白 羽を抜いてしまいました。すると、神通力を失った天馬が走らず。朝廷へ日参でき なくなりました。朝廷は羊太夫が謀反を図っているとして討伐軍を派遣しました。 八束城を追われた羊太夫の一族が落ち合った場所が「落合」という地名になり、羊 太夫の女房ら7人がここで自害し、それぞれ輿に乗せ、葬ったので「七輿山」とい う名前が伝えられています。 ○指定日/昭和 2 年 6 月 14 日 ○追加指定/平成 8 年 9 月 26 日 ○所在地/藤岡市上落合七輿 831-1 ほか -3- ポイント2 平井城跡(室町時代後半 城址) 平井城は当時の関東管領である上杉憲実の命で長尾忠房が永享 10 年(1438)に築 いたのが始まりと言われています。応仁元年(1467)、上杉顕定によって大改修され、 山内上杉家の居城として関東での最重要拠点の1つになりました。しかし、山内上杉家は 内紛などで徐々に弱体化し、小田原北条氏や武田氏と大きな戦で敗退したことで戦線を維 持できず天文21年(1552)当時の関東管領でった上杉憲政は長尾景虎(後の上杉謙 信)を頼り春日山城(新潟県上越市)へ逃れました。その後、謙信の力を借りて奪還しま すが厩橋城(前橋城)を関東における拠点とした事で永禄3年(1560)平井城は廃城 となります。平井城は関東管領の居城として規模が大きかったとされますが平城だった事 で実戦的ではなく、背後に平井金山城(山城)を配し防衛ラインを築きました。現在は城 域のほとんどが宅地化と畑地となり多くの遺構が失われました。現在は城址公園として整 備され群馬県指定史跡に指定されています。 -4- ポイント3 高山社跡(明治時代 養蚕教育機関) 明治16年(1883)、高山長五郎は、通風と温度管理を調和させた「清温育」という 蚕の飼育法を確立しました。翌年、この地に設立された養蚕教育機関高山社は、その技術 を全国及び海外に広め、清温育は全国標準の養蚕法となりました。明治24年(1891) に建てられた主屋兼蚕室は「清温育」に最適な構造で、多くの実習生が学びました。 -5- ポイント4 土師神社(平安時代? 土師の辻:相撲壇) 祭神は野見宿禰(のみのすくね)で、上野国神名帳に正五位上土師大明神とあります。境 内には市指定の土師の辻(相撲壇)や歌碑「土師の杜」等があり、参道の脇には欅や杉の大 木がそびえています。春祭りに太々神楽、秋祭りに獅子舞が奉納されます。また、平成 13 年に花馬、平成 14 年に流 鏑馬が復活しました。 本郷埴輪窯跡(古墳時代 埴輪製造跡) 野見宿禰を祀る土師神社の北側には、神流川左岸の河岸段丘を利用して本郷埴輪窯址が 作られています。この窯址は明治 39 年に東京帝国大学(現東京大学)教授の柴田常恵氏 によって紹介され、昭和 18,19 年に群馬大学の尾崎喜左雄氏によって 2 基の窯址が発掘調 査されました。 このうち、最も遺存状態が良かった 1 基が上屋で保護され、見学することができます。 窯の構造は全長約 10m、幅 1.8m の大型の登り窯です。 焼成部は長さ 4m、幅 1.2m 程の扁平な作り筒型で、約 30 度の傾斜を持っています。天 井はすでに崩れ落ちていましたが、壁は良く焼けて堅くなっています。窯の中から人物・ 馬・家・太刀・矛・盾などの埴輪類が出土しています。これらの埴輪は、周辺に占地する 小林古墳群を中心に、広い範囲に供給されたことがわかっています。 ○指定日/昭和 19 年 11 月 13 日 ○所在地/藤岡市本郷字塚原 304-1 ほか -6- ポイント5 成道寺(大正時代 関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊碑) 1923年9月1日の関東大震災に際し、デマ・流言飛語により全国で6000人とも 言われる朝鮮人が日本人の手により虐殺されました。 藤岡市でも9月5日、藤岡警察に「保護」されていた朝鮮人17人が、警察に乱入した 自警団により虐殺されたという記録があります。 当時の藤岡警察は成道寺の隣にあり、遺体は藤岡町長の依頼で成道寺に埋葬されました。 以来、墓地には犠牲者の慰霊碑が建てられました。 -7- ポイント6 神流川合戦 首塚稲荷・胴塚稲荷古墳(安土桃山時代 合戦跡) *首塚 天正 10(1582)年、京都に上ろうとした滝川一益とそれを阻止しようとした北条氏直、 氏邦の連合軍が神流川で戦いました。この神流川合戦で勝利した北条方が、討死した武士 の首を検視し埋葬したため、この地を実見塚(字名)というようになりました。 現在 10 区老人クラブが新たに石祠を建てて霊を慰め、毎年 4 月には春季例祭が行われ ています。 ○文化財 高崎市指定史跡 ○名称 神流川合戦首塚 (かんながわかっせんくびづか) ○指定年月日 昭和 55 年 1 月 10 日 ○所在地 高崎市新町 *胴塚稲荷古墳(藤岡市指定史跡) この古墳は、直径 14 m、高さ 2.2 mの円墳で、神流地区に分布する古墳の中で、もっ とも北東端にあります。墳丘上には「胴塚稲荷」が祀られています。 「胴塚」とは、天正 10 年(1582)にあった神流川合戦で敗戦した厩橋城主滝川一益軍 の戦死者の胴を集めて埋葬したと伝えられることにちなみます。 また近くには首を埋葬したとされる首塚(高崎市)があります。 ○指定日/昭和 60 年 4 月 1 日 ○所在地/藤岡市岡之郷 -8- め も -9- 鏑 川 烏 川 小野 小野中 ① 七輿山古墳 胴塚古墳 鮎 川 平井 ⑥ 美 土 里 神流 ⑤成道寺 藤岡 神 平井城② 土師神社 陸上競技場 ④ 美九里 日野 三名川 高山社③ - 10 - 流 川