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C.マッカラーズにおける孤独と愛 - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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C.マッカラーズにおける孤独と愛 - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
C.マッカラーズにおける孤独と愛
Author(s)
井上, 一郎
Citation
長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1992, 32(2), p.97-109
Issue Date
1992-01-31
URL
http://hdl.handle.net/10069/15294
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第32巻 第2号 97-109 (1992年1月)
C.マッカラーズにおける孤独と愛
井上一郎
Loneliness and Love
in Carson McCullers's Novels
Ichiro INOUE
(序)
鏡は通常その前にあるものすべてをそのまま正確に映す道具であるが、同時に文学
作品に使われる重要なモチーフの一つでもある。たとえばポーは短編「ウイリアム・
ウイルソン」の最後で主人公のウイルソンが自分の分身(自分の良心)と直面するシー
ンにおいて、彼が鏡(それは今までそこになかったはずのものだが)の中をのぞき込
んでいるような錯覚を覚えたと描いている。またホーソンの創り出した迷える清教徒
グッドマン・ブラウンにとっては、彼が密かに参加した悪魔の集会の席で「お互いに
相手の顔を見ろ」と促されて、覗き込んだ妻の顔に自分の本当の姿を発見する。広く
人間一般の心を支配しているものの本質を知った彼がその後、陰気な男に一変して不
幸な人生を送ったことは言うまでもない。
また鏡はナルシシストの道具でもあって、彼は膨らんだ自己意識のために自分の本
当の姿に開眼することを妨げられることがある。この種の鏡を必要とするのはナルシ
スの神話以来人間が逃れられない宿命の一つであり、神を失った現代人の孤独、そし
て人間中心主義によって拍車がかかったと言うべきだろう。マッカラーズの世界は基
本的にこの精神風土を描いている。もちろん彼女の描く人間のすべてがそうであると
いうのではなく、冷静に自分の姿を観察する力を持っている者もいる。それは『心は
孤独な狩人』 {TheHeartIsaLonelyHunter)のビフである。シンガーが町の人
間たちにとっていわばナルシスの鏡の役割を果たしていることを見抜いているビフは
こう言う。 「なぜだれもがあの唖を、自分たちの望むような人間だと思いこもうとす
るのだろう?」(1)
しかしマッカラーズはもう一つ別の種類の鏡も用意した。この鏡こそが彼女をして
南部ゴシック作家の一人たらしめていると言えるかも知れない。それは物の正しい姿
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井上一部
を映す鏡ではなく、実物のいびっな形しか映さないいわば歪んだ鏡である。アンデル
センの童話「雪の女王」で悪魔が作りだした魔法の鏡は美しいものを縮ませ、その代
わりに醜いものを大きく拡大して映し出す。もはや鏡は物理的な道具ではなくなった
のだ。そもそも鏡が顕著な形で存在することはなくなり、自らをそこに映す場(映っ
たものの性格については問わない)を指すものの総体を言うようになり、鏡はいわば
隠職と化したのである。
鏡の前に立って自分の姿を認識する瞬間に代えて、南部作家が用いたものは人間と
人間との出合いの瞬間である。主人公が初対面の相手の中におぼろげながら自分の姿
を発見して驚くという事実に鏡のモチーフが隠されているのだ。マッカラーズは『心
は孤独な狩人』の中の共産主義の扇動家のジェイクに、シンガーとの出会の時に「ずっ
と前から知っている友人の顔のような気がした」 (HLH19)と言わせている。また
『結婚式のメンバー』 (The Member of the Wedding)の中で主人公の少女のフラン
キーは、 「おまえさんのことを知ってるぞ」(2)言っているような気がする見せ物小屋
の奇形たちや、刑務所の囚人たちはまさに閉じこめられた自分を見ているようで目を
合わせるのが恐かった。 (MWIO2)カポーティの短編「無頭の鷹」の主人公のヴィ
ンセントは女が差しだした不思議な絵を見て、 「自分を知っているこの人間はいった
い何者だろう」と思わざるをえない。またオコーナーには今まで会ったこともないは
ずの人物が主人公に「どこかで一度会ったような気がするけど、それがどこだったか
思いだせない」という感じを抱かせる例をあげるのに暇がないくらいである。これら
に共通しているのは、お互いが一つの実体を共有しているのではないかという直観が
ありながら、相手の実体については漠然とした意識しかない状態で停止した様であっ
て、それには無理からぬ理由がある。つまり、彼らが出喰わす相手はみな主人公の姿
からははど遠いグロテスクな者たちばかりだからである。まさに主人公たちの日常の
世界の中に外から侵入してきたグロテスクな他者は、彼らの顔の前に突如突き出され
た歪んだ鏡にはかならない。
歪んだ鏡がある意味で物の本質を正確に映すことは、すでに挙げたアンデルセンの
童話「雪の女王」で悪魔が作った魔法の鏡によって証明されている。カイが被った害
は確かに子どもの世界を壊すものではあったが、彼らとて早晩大人の仲間入りをして
現実の二面性に開眼しなければならない時がくることには変わりない。本論ではマッ
カラーズの作品の中で人間の孤独と愛のテーマが鏡のモチ-フの種々の形態を通して
どのように描かれているかを探る。
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(1)
マッカラーズの小説世界のテーマについて異論を持っ者はもはやいないだろう。そ
れが孤独であり、愛であるということは多くの批評家が口を揃えて指摘するところで
もあるが、彼らの言葉を聞いていると微妙な違いがあることに気付く。すなわち「マッ
カラーズの世界の根本的な前提」(3)として孤独を挙げるRubin 、 「この小説は典型的
な現代文学のテーマである、人間の精神的な孤独を鋭く扱っている」(4)とするHorace
Taylor、あるいは登場人物に「強いられた孤独に対する抵抗の意志とあらゆる犠牲
を払ってでも自分を表現しようとする衝動」(5)が発見できるとするMcDowell、同
じく「人間の精神的な孤独とそれを打ち破って他の人間たちと十分な交流を達成した
いという気持」(6)こそがテーマであるとするCookらは人間の根本的な状況としての
孤独を重点的に取り上げている。
それに対して、マッカラーズが現代の南部ルネッサンス運動に所属する作家として
「愛の本質についての寓話」(7)を書いているとして、孤独については触れていない
Frank Baldanzaを除けば、 Lawrence Graverが「テーマは孤独と愛の運命的な挫
折である」(8)と言い、 Marvin Felheimは「孤独、それも愛が生み出す孤独であり、
またその結果として生じる苦しみと悩み」(9)と言い、 OliverEvansは「人間の精神
的孤独とそれから人間を救い出す愛の力」(10)であると言う。このグループの批評家は
みな孤独と愛、あるいは愛と孤独との関係を指摘し、さらに孤独を癒すことの出来る
愛の力に着目している。愛はマッカラーズのテーマの重要な一つであり、その事実は
無視できない。最初のグループの批評家が孤独から脱出するための手段としてあげて
いる「自己表現」 「交流」も愛を言葉を変えて表したものと考えて良いかもしれない。
ここで問題が発生する。孤独が先なのか、それとも愛が先なのかという問題である。
それは「愛が生み出す孤独」 (Felheim)、 「孤独から人間を救い出す愛」 (Evans)と
いうふたっの表現の仕方に集約されている。つまり、マッカラーズは孤独を人間の根
本的な状況として認識し、愛の中にそれを癒す力を認めたのか、それとも彼女は愛の
さまざまな形態を描き、その挫折を通して人間の孤独な状況を描いたのか。我々はそ
のいずれでもないし、またそのいずれでもあるということを知っている。人間の孤独
があってヒロイックな愛の努力あり、その挫折の結果としてまた孤独があるのだ。こ
れは永遠に繰り返されるであろう。
しかしこの解かれることのない運命の呪縛を断ち切る力として、マッカラーズが期
待しているのが愛であることは疑いえない。ただ現代においてはその力が衰退してい
ることは事実であり、その原因はさらに重要である。ユードラ・ウエルティの短編
「静かな瞬間」 ("A StillMoment")の主人公ロレンゾが森の中で考えたことも同じ
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井上一部
問題を提示している。
He could understand God's giving Seperateness first and then giving Love
to follow and heal in its wonder; but God had reversed this, and given Love
first and then Seperateness, as though it did not matter to Him which came
first.(id
ここに表現されているのは愛の喪失の結果、その後に人間の孤独だけが残された状
況である。マッカラーズの人間たちはこの諦念を感じさせずに「あらゆる犠牲を払っ
てでも自分を表現しようとする衝動」に突き動かされて、あるいは「他の人間たちと
十分な交流を達成したいという気持」を満たそうとはげしく愛の対象を求める。しか
しその結果はやはり同じである。愛が挫折しその後に残された諦めと沈滞感は彼女の
小説の結末にはっきりと見てとれる。 『心は孤独な狩人』においては、シンガーの死
を経験した四人の主要登場人物はことごとく失意の中に放り出されたし、 「何もする
ことがない」(12)という言葉で始まる(しかし実際は事件は終わっているのだが) 『悲
しい酒場の唄』 (The Ballad of the SadCafe)の中の人々の生の有り様は、人間の
活動の中で一番重要なものを求める一切の努力が空しく終わった無力感が漂っている。
また『結婚式のメンバー』においては、 「みんな何らかの方法で閉じこめられている」
(MW98)というベレニスの言葉に挑戦するかのような主人公フランキーも、一人一
人が自分の殻の中で過ごさなければならない大人の人生の轍に自らをはめ込んで生き
るしかないのである。
(2)
なぜ愛が人間の状況を変えることができなかったのか。マッカラーズの世界に見ら
れる愛は神がイエスを通して人間に与えた「最初の愛」とは異質なものであり、その
ことが問題なのだ。愛が結果的に挫折するのではなく、最初から挫折は予見できたの
である。 「私が選んだグロテスクな人物たちの心には愛があるが、それはそれを返す
ことも受け取ることもできない人の愛である」く13)というのは彼女自身の言葉である。
まさに彼らの愛は「歪んだもの」(14)で、それを表すかのように『悲しい酒場の唄』の
人物は精神的にも肉体的にもグロテスクであらざるをえない。
語り手の口を借りて述べられる「愛について語るべきときがきた」で始まる文章は、
主人公のアミリアと従兄弟のライモンの異常な関係を集約するという目的で途中に挿
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入されているが、それが現代の愛の一般的な姿であることを我々に思い出させようと
いう作者の意図は否定できない。ここには愛する者と愛されるものとの対等の自然な
関係はなく、愛が往々にして愛する者の側から愛の対象に向かっての一方的な意志の
働きかけにすぎず、愛されるものは限りなくその存在の意義を無視され奪われるもの
であることが暴露されている。
It is for this reason that most of us would rather love than beloved.
Almost everyone wants to be the lover. And the curt truth isthat,in a deep
secret way, the state of being loved is intolerable to many. The beloved fears
and hates the lover,and with the best of reasons. For the lover is for ever
trying to strip bare his beloved. The lover craves any possible relation with
the beloved, even if this experience can cause him only pain. (BSC34)
アミリアがメイシーの愛を拒絶しながら塵のライモンを愛することができた秘密が
ここに示されている。 「成長してしまったお転婆娘」(15)の彼女はメイシーとの結婚を
通して「女性としての限定された地位」(16)の中に押し込められることを一番恐れるの
だ。一方、アミリアにとってライモンは、彼女の「愛する者」としての立場を最初か
ら無条件に保証してくれるような存在なのだ。もしアミリアが子供だったら彼女にとっ
て理想的な状態は、ミックやフランキーのようにまだ女性であることの責任を問われ
ない中(両)性的なお転婆娘(tomboy)である。
B.Whiteはフランキーの葛藤を「大人になりたいけれども女にはなりたくな
い」(17)という気持ちであると考える。それは言い換えると、 「女性として劣った地位
を与えられることへの抗議」 (protests against the secondary status of women)
であり、 「自立した大人」(18)の地位を守りたいという女性(作者)の願望の投影でも
あるとしている。彼女が結婚式に憧れるのはこの葛藤を解決するためのものであり、
つまり、兄の結婚を通して彼女は一人の男性と結婚するのでなく、 「世界と結婚する」
(MW97) (We will be members of the wholeworld.)から、いわば「女性」にな
ることなく大人になれるからなのだ。
だが「成長してしまったお転婆娘」のアミリアには男性的であり続け、 「愛する者」
の特権を手放さないことしか方法が残されていない。女性に対してWhiteの言う
「自立した大人」であることを棄てて、 「愛される者」としての立場をとるように要求
してきた社会に徹底的に抵抗した姿がアミリアであり、それは当然歪んだ姿を取らざ
るをえない。恐らくミックもフランキーもアミリアのようにはならなくて済むだろう。
なぜなら彼女たちは「女性としての限界をうけいれるためのイニシエーション」(19)の
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井上-一郎
儀式を通過したからだ。
しかしここに示されたマッカラーズの人間関係は本来の愛からは一番遠いものと断
定してもよい。相手の中に人間の根源的な状況の孤独を発見することから始まるこの
人間関係は、その底には自分の姿を相手が育パーセント反映することを要求する気持
ちが隠されている.自己中心的で支配的で自分の不安から逃れるための一つの手段が
示されたのであって、愛と表現されているところは「ナルシシズム」という言葉に入
れ換えても不自然ではない。
マッカラーズの人間たちの愛はすべてBaldanzaの指摘を待つまでもなく「徒労に
終わる」(20)。 『悲しい酒場の唄』は「愛する者」と「愛される者」が作り出す永遠に
終わることのない連鎖を集約して取りだしたものだが、 『心は孤独な狩人』の中の人
間関係もこの図式を基本にしていることは言うまでもない。こういった悪しき連鎖を
成り立たせているとして、愛する側はその自己中心主義を弾劾されるだろうが、愛さ
れる側とてWhiteのように「自立」と言おうが、 Doddのように「自分の実体」(21)
と言おうが同じだが、そういう自我の完全さ、独立性に対する妄執を指弾されるだろ
う。つまり病根は一つ「ナルシシズム」であり、それを破らない限りこの呪われた輪
の中から逃れることはできない。
(3)
確かに「アメリカ文学中の傑作の十指の一つに数えられる」(21)とMadden,D.が
激賞した『心は孤独な狩人』にはアミリア、ライモンのように精神の歪みが肉体の歪
みに直結したような人物はいない。主要人物の中で肉体的な奇形に近いものを探すと
なれば、シンガーとアントナポロスが唖で聾であり、後者はさらに白痴(moron)
である。妻アリスの死を契機に女性的な傾向をあらわに見せるビフ、 「小さな男の子」
(HLH20)のように見えるミックくらいである。もちろん「俺は変わり者(freaks)
が好きだ」 (HLH16)と公言するビフの店に実際に現れる「変わり者」 (HLH23)
たちへの言及はあるが、彼らが作品そのものの世界に参加することはない。一見する
とシンガーを囲む四人の人物たちにはグロテスクという概念は当てはまらない。だが
それはこの作品が人間の孤独を扱い、それを打破しようとする努力の不毛性を問題に
することを止めていることを意味するのではない。 『悲しい酒場の唄』が寓話的であ
るのに対して、この作品がリアリスティックであるという作品の質の違いにはかなら
ない。
我々は唯-の観察者ビフの目を通してそのことを見極めなければならない。ビフに
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はジェイクが「頭が大きくて立派な形をしているかと思えば、首は少年のように柔ら
かくほっそりして」いて、 「なんとなくちぐはぐに見えるところの多い」 (HLH18)
「奇形」 (HI.H22)のような印象を受けたが、彼は独特の鋭い感覚をもってジェイク
の其の「奇形」性を見抜く。すなわち誰も彼が何を言っているのか分からないにもか
かわらず、 「ただ喋り続ける」 (Talk-talk-talk) (HLH19)この男の与える違和
感が「肉体的なものでなければ、精神的な者だったに違いない」 (HLH22)と断定
する。この指摘は他のすべての人物にも当てはまるものであり、肉体的な正常性の下
に隠された精神的なグロテスクさをマッカラーズは我々読者に見つめることを要求し
ているのである。
本作品より二十年前、中西部の架空の田舎町に閉じこめられた人々の孤独な人生を
措いたのがシャーウッド・アンダソンの『ワインズハーグ・オハイオ』である。そし
てその巻頭にある「グロテスクなものについての書」こそがこの現代的なグロテスク
の概念に先鞭をっけたことは周知のことである。 「人間をグロテスクにしたのは真理
である」 「人間が真理の一つを自分のものにし、それを自分の真理と呼び、その真理
に従って自分の生涯を生きようとし始めるとたんに、その人間はグロテスクな姿にな
り、彼の抱いた真理は虚偽に変わる」という言葉は、真理が啓蒙の光となって現代文
明を作り上げてきた経緯からすれば皮肉以外の何物でもない。人間は大人になるにつ
れてほぼ比例してつかんだ真理の数が増える点を考慮すれば、グロテスクこそ人間の
宿命といえるかも知れない。真理に自らを捧げた人間が人間同士の連帯を失い、狭い
孤独な世界へと追いやられる運命への警告としてはまさに正鵠を射たものである。
そこでアンダソン流のグロテスクな人物を『心は孤独な狩人』に見つけることは容
易である。マルキシズムの真理を人びとに説いて伝えようとすればそれだけ一層同胞
から家族から孤立してゆくのがジェイクであり、コープランドである。少女のミック
はどうだろうか。今の彼女はその萌芽が十分にある。大人をグロテスクにしているも
のが真理であるとすれば、彼女の場合は彼女を女の子らしくさせず、むしろ中性的な
ままでいさせ、大人になることを妨げているもの、つまり将来の夢または理想がそれ
である。彼女は自分の夢を壊されないように日常世界からの逃避の場所としていわゆ
る「内側の部屋」を設定した。 「『内側の世界』は、ごく秘密の場所だった。人でいっ
ぱいの家の中にいても、自分ひとり鍵のかかった部屋に閉じ込もっているような気が
した。」 (HLH146)彼らは一人一人がCookの言葉を借りれば「孤独な人間の姿を
もっとも感動的に劇化したグロテスクと呼ばれる人物のタイプ」(23)としてマッカラズの最初の小説に登場したのである。
アミリアの住む町にある日、塵のライモンが現れたのと同じように、この町にシン
ガーという唖で聾のユダヤ人の男が現れたのだ。彼らの出現が全く突然であるという
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井上一部
意味で比較の対象になるのではない。シンガー自身は十年この町に住み続けていたの
であり、彼は相棒のアントナポロスが施設に送られた結果、ミックの父が経営する下
宿を借りることになり、食事はビフの経営するカフェで取るようになったことから、
主要人物との関係が生まれたのである。これら二人の人物たちは、閉ざされた町の孤
独な人間たちの中の精神の扉を開くチャンスを提供したという意味において同質であ
る。アミリアは寡婦暮らしを止め、ライモンと「結婚」し、自宅を酒場に改造して男
たちの「社交」 (BSC29)に貢献し町の雰囲気を一変させた。一方、 「こちらの言い
たいことは何でも、理解してくれるような気にさせる」 (HI.H86)シンガーの下宿
部屋には、ミックをはじめジェイク、コープランド医師それにビフまでが足繁く訪れ
て、一種人間関係のネットワークのようなものが出来るのを期待させたのである。
塵のライモンが通常の意味において愛の対象とはなりえないのと同じように、聾で
しかも唖のシンガーも彼らの悩みの理解し、人間と人間とを結び付ける「触媒」
(catalyst) (24)的な人物とは到底なりえない。それを承知のマッカラーズが彼を共同
体の中に投げ込んだのは理由は何か?
一つはキリストへの数々のアルージョンを与えられ、 「現代文学で繰り返し用いら
れる仕掛である救い主のイエス」(25)とされる人物シンガーの無能ぶりを強調して、
「本当の神様などいないということは最近では誰でも知っている」 (HLH108)、また
「神などというものは存在しない」 (HLH74)という現代精神をドラマ化する効果が
当然考えられる。別な言い方をすれば、人間の孤独のテーマを強調することはもちろ
んとして、この作品は神から遠ざかった人間を描いた「皮肉を込めた宗教的寓話」(26)
である。無能ぶりを徹底的に証明してみせてシンガーが自殺した後、ミックが「だま
された」 (`Cheated'HLH308)という感じを持つのは、その荒野にわずかばかりの
希望を抱かせたことにたいする失望感の表れである。 「イエスのイメージ」(27)を多く
帯びさせられたシンガーの裏切りは神が人間を見捨てたことに等しい。 「神は自分の
要求を満たすのに忙しくて人間の要求を理解できない」 (28)という現代的な「隠れた神」
の概念は表面上、奉仕の精神に溢れたシンガーにはあてはまらないが、そのシンガー
が裏切られることになったギリシャ人のアントノポロスについては、まさにその通り
と言わざるをえない。
(4)
だが果たして神は人間の問いかけに対して沈黙してしまったのか。フォ-クナ-の
『野性の綜欄』の主人公は「われわれはちょうどキリストを追い払ったのと同じよう
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に、とうとう愛を追い払ってしまったのだ」 (136)と述懐するが、その本当の愛を追
い払った後に我々現代人が偽のグロテスクな自己愛をもって当てていることこそ直視
しなければならないものだ。 DavidMaddenは「この小説はなにものに対する告発
でもない」(29)とするが、本当は精神の荒野を作り上げた現代人そのものの姿が問われ
ているはずである。したがって、無能なる神としてのシンガーに何か役割を求めよう
とすれば、 「彼らが自分の好みの姿を映す鏡の役割を演じて、うかつにも彼らのナル
シシズムを助長してしまう」(30)ことによって、問題の所在をより鮮明にするという皮
肉なものでしかありえない。ナルシシストで自己中心主義者の四人は今まで他の人間
には伝えることのできなかった精神の内容がシンガーには理解されるのを見て、閉ざ
されていた自我が解放され自尊心が満たされる思いがしたのである。
アンダソンの短編「孤独」の主人公ロビンソンは彼らとシンガーとの関係を考える
上で非常に参考になる。彼の問題は「自分を相手に理解させたいという気持ちと理解
されたくないという気持ち」が同居していて、相手の理解が自分の存在を矯小化して
しまうのではないか、 『悲しい酒場の唄』の中の言葉を借りれば「丸裸に」 (BSC34)
されてしまうのではないかと恐れているのであった。ナルシシストの鏡(最後に彼が
相手に選んだ女)を最後には割らざるをえない彼には当然普通の人間関係は不可能で
ある。
『心は孤独な狩人』の四人にも同じ不安がつきまとうはずだ。理解はしてもらいた
い、だが理解されたくはない。それはちょうど愛される者が「愛する者はたえず愛さ
れる者の衣を剥いで裸にしようとする」 (BSC34)ことを恐れているように。それを
証明するものとして彼らがシンガーの部屋に一堂に会した時、彼らはシンガーに対し
てではなくお互いに対して気まずさを覚えたのである。
One night soon after Christmas all four of the people chanced to visit him
at
the
same
time.
This
had
never
happened
before….But
something
was
wrong.-he had expected this to be the end of something. But in the room
there was only a feeling of strain. (HLH186)
Maddenが言うように「彼らはシンガーと人生を共有していたのだが、他の人間
が同席すると自分が裸にされたような気がした」 (HLH140)のである。彼らにはロ
ビンソンと全く同じ「孤独と連帯の間を揺れ動くジレンマ」(31)に陥ったナルシシスト
の要素がある。
しかし、相手がシンガーだけならば彼らにはロビンソンが抱いた不安は無縁である。
彼らが選んだ鏡、控えめで、親切で、物言わぬシンガーは完壁に近いほどナルシシス
106
井上一部
トの鏡の役目を果たす。さらに言えばこの「人間らしくない」 (`Hedidnot seem
quitehuman', HLH19)シンガーは民衆の悩み苦しみをひたすら聞き入れて、そ
れを自ら背負って見せたイエスのようにだってなれる。だがシンガーの姿を借りて現
れたイエスに最初に人類の前に姿を現した時の力を期待するのはすでに述べたように
無理である。たしかに彼には人々の目に見える形をした悩みに対しては哀れみをもっ
て接することはできたが、彼らの孤独な心の複雑な秘密を理解することは今のイエス
には出来ないし、まして人間をそこから救い出す方法を示すこともできない。 「彼ら
が言いたいことは何でも理解してくれているように見えた」 (HLH87)シンガーだ
が、実は「私には理解できない」 (HLH191)と打ち明けるのだ。
しかし、 『心は孤独な狩人』の人物たちにとってシンガーの本当の姿はナルシシス
トの鏡ではなく、 Cookが言うように「自分たちの秘密の内部の自我」(32)を暴きたて
る鏡、言ってみれば歪んだ鏡ではないか。歪んだ鏡は物のかたちを正確には映さない
が、隠された本質を誇張して暴きたてることができるのだ。唖で聾で他の人間とのコ
ミュニケーションの手段をいっさい絶たれた孤独なシンガー以外誰が彼らの姿をある
意味で忠実に表現していたろうか。歪んだ鏡のイメージは本来、分身のモチーフの一
つの変形として、現代のゴシック文学に使われる。そこでは隠された本質を暴きたて
る分身との出合を通して主人公の自己認識がテーマである。カポーティの小説に登場
するグロテスクな人物たちは、主人公の深層心理の象徴としてしつこく付きまとう。
またオコーナーにおいては、主人公が作品の中で出会う人間のほとんどすべてが分身
との出合であると言って過言ではない。これらのグロテスクな分身たちは主人公が自
分の姿とは到底認められもしないような「マイナスのイメージ」を帯びて現れ、彼ら
はなかなか分身として相手を認知しようとしないのが普通である。この頑迷さこそが
彼らが自己認識に至るまでに支払うべき代償(死、暴力)なのだ。このパターンと
『心は孤独な狩人』の人物たちがシンガーにひさよせられる姿は相当に違う。シンガー
は彼らのナルシシスティックな虚飾を剥ぐどころか、文字どおり「ナルシシズムを助
長した」のだ。もしシンガーが相手の言うことを本当に理解していたら(すでに述べ
たようにシンガーは本当は「理解できない」)彼らの主張の正当性をもちろん認めた
だろうが、同時に隠された誤謬も歪んだ人間性そのものさえ照らし出すことができた
ろう。 「自分の本質を偽る」(33)ナルシシズムから彼らを救い出すためにシンガーに残
されたことは自ら命を絶って災いの源であるその鏡を割ること以外ない。
マッカラーズにはグロテスクな人物は多数登場するが、彼らが歪んだ鏡として主人
公の人生に立ちふさがる決定的な位置を占めるにはいたってないというのが実状であ
る。断片的な例はいくつか発見できる。ビフがは自分のカフェの客として訪れる「変
わり者」たちに限りない同情を示すのは、彼の人生にたいする鋭い観察と洞察から出
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た行為であることは疑いない。また鏡についての言及の最も多いのは『結婚式のメン
バー』だが、フランキーのグロテスクなくらいに伸びた背を映す物理的な鏡がほとん
どであり、精神の歪みを映す物言う鏡はわずかに彼女が恐れる見せ物小屋の奇形たち
と拘置所の中の囚人たちだけである。生気のない田舎町の家の台所に閉じこめられた
少女フランキーに向かって囚人たちは「おれたちはおまえさんのことを知ってい.るよ」
(MW102)と語りかけてくるようであり、背が異常に高く少しも女の子らしくない
フランキー、今また「結婚式に恋してしまった」 (MW68)としてベレニースによっ
て「おかしなもの」 (MW67)の一つに数え上げられてしまったフランキーに向かっ
て見せ物小屋の奇形たちは「わたしたちおまえさんのことを知ってるよ」 (MW17)
と言っているように見えたのだ。彼女がこれらのいわばふだんは無視される日常の生
活における周辺的な存在に恐怖を覚えるのは、自分の心の中にすでにある奇形を探り
当てられて認知を迫られているためなのだ。
(5)
四人のナルシシストにとってシンガーは結局、 McDowellと並んでTaylorも言う
ように「自分を映してくれる人間の姿をした鏡」(34)、もっと言えば「自分の願いを映
す鏡で、彼が存在することによって自分の夢が実現することを保証してくれる」(35)の
ではないかと錯覚を抱かせる人物にしかなれなかった。音楽に対する興味を分かち合
えるシンガー、労働者たちにはついに伝えることができなかった資本主義の搾取の現
状を理解してくれるシンガー、白人社会に差別され低い地位にとどまり続ける黒人の
惨めさを理解してくれるシンガー、こういったシンガーを見て彼らは閉ざされ萎縮し
た自我を広がり、失われた自尊心を取り戻すことができた。彼らは自分たちを慰める
ためにシンガーを利用したにすぎない。
四人にとっては人間の根源的な孤独を雄弁に物語っていそうであり、自分たちの秘
密の内部の自我を鏡に映したかのような唖で聾のシンガーの不具(freak)とは、ま
さに物の本質を暴露する歪んだ鏡であって、彼らはこの中に自らの孤独を人間共通の
運命として確認し、そこから人間どうしの連帯を広げていく必要があったのだ。そう
いった期待を担っているのが自分の店に現れる人間たちの中でも特に奇形たちに限り
ない親しみを覚え優しさを発揮する者(ビフ)、それに『悲しい酒場の唄』で奇形の
アミリアの人生を憐偶の情を忘れずに見守り続ける姿なき観察者(彼?彼女?は唄を
歌いながら作業をする鎖に繋がれた囚人たちによって見事に作り出される--モニー
の中に人間の普遍的な姿とそこからの救いの可能性を読みとることができる。)であ
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井上一郎
る。彼らはJane Hartが言う「光輝く瞬間」(36)に恵まれて人間の本当の姿を知る者
であり、彼らにしか愛する者と愛される者、理解する者と理解される者という終わり
のない連鎖は破れないだろう。
神が人間を造ったのはたしかに孤独から逃れるためだったけれども、造る際に神は
完壁であるはずの自分に似せたとも言われている。人間は神のナルシシズムを満たす
道具(鏡)だったのだ。神から禁じられていた知識の木の実を食べた後の人間は科学
万能の世界観を築きあげ神をその座から引きずりおろして自ら神の地位に登り詰めた
のである。神を失った現代の人間たちは、蓄えてきた真理を基にして代わりに非常に
人間主義的な神を作り上げる必要に迫られたのだ。彼らは神が創造の時にしたと言わ
れていること、つまり自分たちの優秀さ映す新たな神を創造しようとするだろう。
『心は孤独な狩人』の人物がシンガーが自分たちの真理を理解したと考える時にそれ
は始まり、マルクス主義の理論を背負わされるシンガー、芸術家シンガー、能力以上
の属性をもって作り上げられるシンガーは、すでに神格化されてしまっている。たし
かに「問題は、ブラウントとミックが、彼をいわば自家製の神のように仕立て上げて
いることである。」 (HLH177)しかしこれは神の創造に等しいナルシシズムの変形
したかたちであり、神格化されているのはシンガーではなく、実は自分の真理であり、
彼らはすべてシンガーとの関係においてグロテスクとならざるをえない。
ロバート・ペン・ウオレンの小説『氾濫』 (Flood)の中に有名な言葉がある。 「南
部は人々が祈るところである。しかし、彼らは神を信じているのではない。絶対に信
じてはいない。彼らが信じているのは、神が去った時に残していった黒い穴であ
る。」(37)まさにジェイクとコープランドがその前に膝まづき祈るとすれば、それはこ
の「黒い穴」、すなわちマルクスの共産主義の理論にはかならない。キリストが去っ
たその後を人間たちは思い思いの偶像で埋めなければならない。しかし、その行為が
彼らを果てしなく続く虚無と絶望のトンネルに案内しないと誰が言えようか。
(荏)
( 1 ) Carson McCullers, The Heart Is A Lonely Hunter (Houghton Mifflin Com-pany, 1967),
p.171.以後本作品からの引用はHLHと略し、ページ数のみを記す。
( 2 ) Carson McCullers, Member of the Wedding (Houghton Mifflin Company, 1961), p. 17.
以後本作品からの引用はMWと略し、ページ数のみを記す。
(3)
Louis
D.
Rubin,Jr.,
"Carson
McCullers:The
Aesthetic
of
Pain,〟
Virginia
Quarterly
Review, Spring 1977, p. 270.
( 4 ) Horace Taylor, "The Heart Is a Lonely Hunter: A Southern Waste Land," Louisiana
State Unw. Studies Humanities Series, No. 8 I960, p. 154.
C.マッカラーズにおける孤独と愛
109
( 5 ) Margaret McDowell, Carson McCullers (Twayne Publishers, 1980), p. 31.
( 6 ) Richard Cook, Carson McCullers (Frederick Ungar Publishing C0., 1975), p. 20.
( 7 ) Frank Baldanza, "Plato in Dixie," GeorgiaReview, 12(Summer1958), p. 151.
( 8 ) Lawrence Graver, "Penumbral Insistence: McCullers's Early Novels," Carson McCullers, ed. Harold Bloom (Chelsea House Publishers, 1986), p. 53.
( 9 ) Marvin Felheim, "Eudorea Welty and Carson McCullers," Contemporary American
Novelist, ed. Harry T. Moore (Southern Illinois Univ. Press, 1964), p. 48.
(10) Oliver Evans, "The Achievement of Carson McCullers," Carson McCullers, ed.
Harold Bloom, p. 24.
(ll) Eudora Welty, "A Still Moment," The Wide Net and Other Stories (Harcourt Brace
Jovanovich, 1971), p. 93.
(12) Carson McCullers, The Ballad ofthe血d Cafe (Penguin Books), p. 7.
(13) Richard Cook, op. cit.,p.20.
(14) IrvingMalin, op. cit.,p.8.
(15) Louise Westling, "Carson McCullers's Amazon Nightmare," Carson Me- Cullers, ed.
Harold Bloom, p. 109.
(16) Ibid.,p.113.
(17) Barbara White, "Loss of Self in The Member of the Wedding," Carson McCullers, ed.
Harold Bloom, p. 138.
(18) Ibid.,p.139.
(19) Ibid.,p.UO.
(20) FrankBaldanza, op. cit.,p.157.
(21) Wayne Dodd, "The Development of Theme through Symbol in the Novels of Carson
McCullers," Georgia Review, 17 (Summer, 1962), p. 212.
(22) David Madden, "Transfixed Among the Self-inflicted Ruins: Carson McCullers's The
Mortgaged Heart, " Southern Literary Journal, 5 (Fall, 1972), p. 161.
(23) Richard Cook, op. cit., p.20.
(24) Horace Taylor, op. cit.,p. 154.
(25) David Madden, "The Paradox of the Need for Privacy and the Need for Understanding
in Carson McCullers'The Heart Is a Lonely Hunter, " Literature and Psychology, 17
(1967), p. 129.
(26) Frank Durham, "God and No God in The Heart Is a Lonely Hunter," South Atlantic
Quarterly, 56 (1957), p. 494.
(27) Ibid.,p.497.
(28) Wayne Dodd, op. cit., p.208.
(29) David Madden, op. cit.,p. 128.
(30) Margaret McDowell, op. cit., p. 34.
(31) David Madden, op. cit., p. 129.
(32) Richard Cook, op. cit., p.33.
(33) John Vickery, "Carson McCullers: A Map of Love," Wisconsin Studies in Contentporary Literature, 1 (Winter, 1960), p. 18.
(34) Horace Taylore, op. cit.,p. 156.
(35) JohnVickery,op. cit.,p.17.
(36) Jane Hart, "Carson McCullers, Pilgrim of Loneliness," Georgia Review, ll (Spring,
1957),p.58.
(37) Robert P. Warren, Flood (Random House, 1964), p. 166.
(1991年10月31日受理)
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