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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ

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本文ファイル - 長崎大学 学術研究成果リポジトリ
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
Title
視聴覚教育に於ける教材の考え方―Daleの“Cone of Experience”に
於ける具体性と抽象性の問題を中心として―
Author(s)
吉村, 喜好
Citation
教育科学研究報告, 4, pp.25-33; 1958
Issue Date
1958-03-27
URL
http://hdl.handle.net/10069/31718
Right
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http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp
視聴覚教育に於ける教材の考え方
―Daleの“Cone of Experience”に於け
る具体性と抽象性の問題を中心として―
村
吉
喜
好
視聴:覚教育が問題としているのはCommumicationのInediaとしての教材の使い方がその
主たるものであろう。教材の分類の仕方は,その必要に応じて,種々あるが,視聴覚的教材と
しての分類には,具体的教材から抽象的教材といった系列に於て考える事が最も意義がある。
此の様な配列の仕方に於て,最も一般的なものはE.Daleの“Cone of Experience”であろ
う。(第一図,第二図)彼の著“Audio−Visual Methodsin Teaching”は(1946年版と1954年
版があるが此の改訂版のそれは,左図で示すような異りをみせている。即ち,1.全体の表現
形式を二次元から
第1図 第2図
ABSTRACT
継一}一
u灘i脚G
α豊甲d漣・
MotIon prdures
Exhlblt5
。hvolve OBSERVIN(オ
morderoF
齪懸d・配d・e弱
Fleld TrlPS
Demonstrユtions
D脈4matK隠由Clpat匹Qn
Co㎡rlvea Ex rience5
i伽dve DσIN Cr
;nαder oF
(b;rea,shg d lrectne$
CONCRE正 DI陀ぐt,R、.。δeF・I Exer・en⊂es
The(one oF Exper腫ence(lq4・6)
The(・…fE牌rlen・e q95の
三次元にしたこと(三角形から円錐にしたこと)
2・テレビが映画との関係において含められ
たこと3・演劇的参加を劇化体験として演劇の受動能動双方を考えたこと(註/)であるが,
根本的な考えは勿論変っていない。
Daleは教師の任務として「子供達の心の中に曝しいものを形成すると同時に,児童生徒を
してその経験を一般化し,概念化することの能力を得らしむる」 (註2)といっているように
教育に於いては概念の形成がその目的であるが,それをことばだけによって行おうとすると具
体的経験の裏付けを欠くためVerbalism (註3)の弊害に陥り易い,そこで経験が概念化さ
れるには,一定の中聞段階を経なければならな:いとして示したものが,‘Cone of Experience”
である。しかし,デール自身この図式は決して絶対的完全無欠なものといっているのではなく
(註4)これは学習において視聴覚教材の各々が占める位置や相互関係を図式化した一例にす
ぎない旨を述べている。例えば体験における受動性能効性の区別がないことや原理に一貫性を
欠いていること等は此の分類の弱点として波多野氏がすでに指摘していられる。 (註5)私は
一25一
その重訂の“Cone of Experience”、に於いて問題とすべき点を指摘してみよう。
1.三角錐としての表現について
先に述べたようにDeleは三角錐を立体化した形に訂正しているが,内容的には根本的
な相異は見当らない。ところで此の図解で一番誤解し易いのは,如何なる場合に於いても,
直接目的々体験はひながた体験よりもより具体的なものであり,映画は劇化された体験よ
り,より抽象化された経験であるととられ易い点であろう。し.かし最も具体性があるといわ
れる直接的体験でも「意味的」でないものはたくさんあり(註6)更に映画に於ける経験
は,劇体験よりももっと具体性に富んでいる場合もあり,逆に極端に象微化されている場合
もあり,必ずしもヂールの三角錐のわくないで大人しく牧ってくれるものとは限らない。勿
論ヂールは三角錐の各段階が幅をもっていること,幅の下の部分と上の部分とでは抽象性が
違う(註7)とまではいっているけれども各教材によって経験領域の幅の広さの異りについ
ては何等説明はしていないようである。此れに対して,波多野完治氏は(第3図)の様に
第3図 各段階の経験を現わすバγドを一つにつないで
漸進的に抽象性への高まりを表現することによ
って,ドラマ的体験の下位はひながた体験の上
位と同じくらいの具験性をえていることを示さ
うとしているが,氏がいってるように「ドラマ
的経験の下位は最下段の直接的体験の上位と同
じくらいの具験性を備えている」 (註8)とい
うことは,此の図でも不充分であるように思わ
れる。そこでより正確な経験の幅を示すことを
考えるとすれば当然三角錐の形は崩してしまわ
なければならない。そこで数日(4図)の図解
波多野民の{経:験の三角錐
も試みたわけである。
第4図
u
柚象
、 、
これによって,すべての教材は具体性と抽象
。i覆__ 嘩一 一一 一 一 〇 一 一一一一
性の幅をもっているのであって,教材が具体的
であり或いは抽象的であるのではなく,古る教
7
卿,z
材は具体的体験が得易く,他の教材はより抽象
的な経験において把握され易いの異りであるだ
・ /
吻娚
けである,ということがはっきりすると思う。
此れに似た形はHobanの「カリキュラムの視
観
覚化」の申で(第5図)の形で示されている。
・々
呉体
一26一
第5図
ことば1
図劉
地図1
山山1
スライド1
立体釧
2.三角錐の各段階に於ける経験の質的相異
について
Daleの経験の三角錐は,いうまでもなく・
単なる教材の配列ではなく,各教材に加え
喋働1
られるべき経験の大きさ或いは複雑さの大
標二刻
小を表示したものである。例えば汽車の実
解物1
粥面
呉野
抽象 物を体験するということは,その特殊な形
或いはそれが人を乗せて早く動くものであ
晒嘲鶉藩翻無)より
り,石炭を撚料とした蒸汽の力で動くもの
レールをはしる。等々色々な事が
であるということ以外,鉄で出来ている。黒い物である。
体験出来る。しかし,ひながたによる体験は,その主要な形,或いは機能のみに限られてく
る。しかし何れにしても我々は此等の教材を通じて一定の学習即ち理解を得ることを目的と
している。そこで次のようなことがいえる。
1.実物+体験=理解
2.ひながた十体験=理解
3.劇化+体験=理解
10.言語十経験=理解
此の場合,教材に対する我々の能動的な働きかけ即ちExperienceなるものは,その教材
が具体的なものであれば体験という言葉に訳し,抽象的なものであれば経験と言い変えるの
であるが,このことは我々が同じExperienceに質的に異りのあることを意識しているから
に違いない。
そこで,或一定の人間に対して何れの教材を用いても同質の理解が得られるものと仮定す
る時,各教材に応ずる経験内容の異りが予想される。経験(認識)の区別については,波多
野完治氏が「感情的体験」とr理性的認識」にわけ(註9)前者は我々のあらゆる感覚機関
を通じて得られるもので,後者は概念化したものによる経験である。といっている。そこで
経験の質の異りというものは「感性的」と「理性的」な経験の比重が各教材によって異ると
いうことである。例えば実物の場合は「感性的経験」が大きい分野を占め,教材としての言
語は「理性的認識」が大きな分野を占めなければならない。しかし実物体験が感性的体験の
みであれば,これは決して理解にはならないので(註ノ0)言葉による説明といった形で概念
化を助長することによって学習が行われ,従って理解を得ることが出来る。又言語による経
験も基本的に視覚,聴覚という感覚的体験によって先づ得られなければならないから此れ
も,純粋の理性的認識のみというものはあり得ない。そこで三角錐の教材に応ずる経験の質
的異りは次の様に示されるであろう。
一27一
(教 材)
(三
物+医性的隙
1.実
験)
理性的認識
=理 解
2・ひながた+歴性的体験陣性的認識1噸解
3・劇化+厘性的体馴醗盗心一理解
…言諭感性的体当聴唖認画一理解
感性的体験は更に中野照海氏によって左図の様に教材に応ずる分類が試みられている。
第6函(中野照海氏) このことは教材によって経験の質が異る
主輝路
文字
演劇
器
製
ら,学習指導の方法はそれに応じて変化し
エ覚
行
//
平面
/ /
てゆかなければならないことを示している
///
規 立体
更に叉,ひながた体験以上はすべて間接的
//
/
/
///
@ 毒
///
或いは代理経験であり,此等から得られる
聴
/ /// /// / / /
それぞれの感性的体験は実物のそれと全く
/ /
こ詮
図家 絵画
妻
髪
///
暴
演示
////
ロ良●
味
異るものであるから説明といった形によっ
運籔’勲剰
//
触 彗、
て,間接教材の抽象した部面(例えば形と
/ / ///
ぶ 5
3 3
か機能)の強調を行わなければならない。
ノ 1
3
6
7
7
3
9
特に劇映画のように現実の世界と映画の世界を混塾し易いものの場合には,理性的経験を強
化させるため教師の観覧後の説明が必要とされるのである。
3.Verbal Symbolsに於けることばと引台の具体性の異りについて
Daleの経験の三角錐の最頂点に立つVerbal Symbolsの中には,書かれた墨字とことば
という二つのものが含まれている。両者は何れも,抽象物として同様の特質を備えているも
のであるが,一方が空間存在であるのに対し,一方は時間的な存在であり,質的な異りから
来る人聞の両者の利用部面に於ける異りが多分に見だされるようである。例えば
S.L. Hayakawaは「抽i象のハシゴ」(註〃)により,言語のレ・ベルは3.ベッシー4.牝
牛5.家畜6.農場資産7.資産8.富というように牛という具体物に対する言語はその抽
象によって色々な異った表現がなされている。ところが此等の6つの言語の申でも比較的
はなしことばとして表現され易いのは具体性の強い3.のべッシーといった個有名詞であ
り,反対に丈字として書かれる頻度の多いのは8.の富といった抽象度の高い言語であると
いうことが考えられる此の様に両者に具体性の異りがあると考えられる理由は,
1・両者の発生的な異り
人間が何時頃から今のような言葉を持つようになったかはわからない。けれども人聞が
昔も今も身体的機能に差がないとすれば,昔の人間も我々のように発声ということで自己
を表現していたにちがいない。ここのことが,計画化された社会での生活を可能にし,叉
一28一
その社会は益々ことばを完成したものに作り上げていった。この言葉らしいものが生れた
のがCro・1nagnon時代以降といわれ,少く共2万年前のことである(註12)此れに対し丈
字の発明は近々3000年∼5000年前のことであり印刷は,僅か500年前に初められたに
すぎない。此の酷な点から原始的な生活の中から生じたことばが具体的な人間生活に密着
したものであり,それに対し,丈字はことばの一時性という欠点を補うため人間が意図的
に作り出したものでその主な目的は文化遺産の保存伝達にあったのであるから抽象的概活
的な面において,話しことばと違った特徴をもっているものと考えられる。
2・以上を系統発生的な考察とすれば,個体発生的には次の様に考えられる。人間が最も生
活に必要なことばの二,三の意味を理解し得るようになるのは誕生前後であり,一才半を
経過する頃には,これ等のことばを曲りなりにも発声し得るようになる。ところが,此等
のことばを丈字で書き且読めるようになるには,それから3,4年乃至5年の年月の経過
を必要とする。このように,ことばの学習と丈字の学習の出発が一方は幼児期に初まり,
他方の児童期に纏まったということが,両者の持つ具象性に差異を与えたと考えられる。
例えば,一才前後で認識し得た「おかあさん」ということばの中には色々な具体的な意味
が含まれている。即ちそれは,自分の母の乳房であり母のほ玉えみであり,母の愛撫を意
落しているかもしれない。このように多分に複雑で雑多な内容をもっていた「おかあさん
」は年月の経過と共にそれが,自分の「おかあさん」のみに使用することばではないこ
と,どの友だちも「おかあさん」をもっていること,彼女は「女」であること,等々,具
体的な「おかあさん」が段々抽象化されて理解されてくる。此の様な知的段階において我
々は,初めて丈字を読むことを習い,書くことを習うことが可能になる。そこで此の時代
書かかれた「おかあさん」という丈字には,この様な抽象的な内容のみしか含まれていな
い場合が普通である。それで,同じ「母」の表現でも,音としてきく場合と,丈字を重ん
で知る場合とでは前者がより以上身近かな具体的内容を持って我々に迫ってくるのであ
る。
このことは,i換言すれば文字よりことばの方がより情緒的,感情的性質を持っていると
いうことである。読書の訓練のゆきとどいている少数の人を除いて,一般大衆にとって,
小説は自分で黙読するよりも,うまい読み手の朗読をきく方がもっと具体的に理解し易い
と喜ぶであろう。
3・ことばは,社会的人間の重要な機能であって,これは社会を持たない動物の眼耳に匹敵
されるものである。そこでこの機能をもたない人間はあり得ないし,叉あり得たとしても
それはすでに人間とは言えないであろう。しかし文字は人間の機能ではなく,動具であ
る。その限りに於ては,人間が作り出した最も偉大な動具ではあるが,しかし,それはあ
くまで動具の域を出ない。何となれば,我々は筆画がなくとも,日常生活,具体的生活に
は何等差さわりがないからである。現に世界の八類の60%一65%!ま明き盲であり更にア
ルメニア人,エスキモー人,アメリカイγデアγ多の種族的丈字をもたないけれども,結
一29一
構毎日を生活してゆくことが出来る。しかし,英語を知らなければアメリカの社会に仲間
入りをすることは出来ないように,我々の具体的日常生活にことばは密着したものである
し,反面活字は人間の理性的世界,抽象的世界には必須のものである。このように,文字
とことばはり同じVerbal Symbolsといってもその抽象性に於いて異りがあると思われる
のである。
こ玉で今一つ問題となるのは,ラジオと具体的なはなしことばは,どの様に区別すべきも
のであろうか。デールはラジオを,レコード,写真と同一段階において・Visual Symbolsよ
り,より具体的経験材料であり映画テレビより,より抽象的経験材料であるとしている。
勿論テレビ,映画が,視覚,聴覚の二つの感覚器管を利用するのに反して,ラジオは聴覚の
みによる経験であるから,より抽象的であることは異論はないが,Verbal Syml)olsとしての
ことばとラジオを比較した場合,一概にラジオの方が具体性を有しているとばかりはいえな
い。例えばラジオから流れでてくるものが大学の講義無内容であったり,哲学的,理論的文
章の朗読であれば,これは最も抽象的な経験段階に位置ずけられなければならないであろ
う。何となれば,講義では講師のことばと共に彼の身振,ゼスチュアーを観察することによ
り,単なるラジオセットから流れ出る音の振動のみよりもっと具体的理解が可能の筈であ
る。しかし,ラジオが今日Mass comm・の籠児として,人聞社会に色々の大きな影響を与
え得たのは,講義式な内容や,書かれた丈字の朗読的の所謂教養番組の故ではなく(もっと
も平目の教養番組は単なる講義式放送ばかりではないが)音楽,ドラマ,対談といった形に
於いて行われる番組内容の為である。ラジオは,過去20年に於いて,ラジオドラマという
ホ 新しい芸術の領域を開いたといわれる。ラジオドラマは人の会話や行動をあたかも眼前に髪
フツ
髭させるために疑音や音楽を効果的にミックスして放送する。こうして劇内容を極度に具体
化し,聴取者の感覚的共感を得ることによって,心の中にその具体的場面が再構成され易いよ
うにし,これによって,視覚を欠くといった欠点を補うことが出来ているのである。ラジオ
が言語より具体的経験材料であるのは,この様な特性をもっているからに他ならない。故に
学校の教材として利用される学校放送の内容は此の条件を満足させ得ることが必要であるこ
とはいうまでもない。
(4)映画とテレビの特質から来る具体性の異りについて。
ヂールの経験の三角錐は1954年の改訂版にお3て,テレビが映画と同段階(点線で区別
はしてあるが)のものとして書き加えられている。しかし,教材として,映画が持っている
具体性の度合とテレビのそれは必ずしも同一一のものとはいえないであろう。例えば,
1.映画は普通,町の中の映画館で上映される。そこで観覧者は,見にゆこうと決心を定
め,時間をさいて,出かけなければならない。それで映画会社の方も,その一本一本が観
客の興味を惹くような興業的価値があるものでなくてはならないであろう。これに反し
て,テレビは各家庭の居間に於いて公開される。内容は,映画の様に一本一本に興業的に
価値あるものよりも,むしろ日常的な料理の作り方,おそうじの仕方,極く最近のニュー
一30一
ス,ドラマは主として,ホームドラマといったように,内容的に目常生活に密接なものが
選ばれている。’この事は,映画よりもテレビにより人は親近性を感じ,具体的に把握され
ているにちがいない。
2・映画とテレビの受手には次の様な異りが考えられる。映画館め観客は副耳人集っていよ
うとも,その相互間には,何等の関係ももたない人の集りにすぎない。そこで観客は孤独
あり,それは自己の喪失を起し易い。我々が手に持った帽子を落したことも忘れて,映画
の主人公に同一化出来るのはそのためである。このことは,一種の逃僻現象であって,実
生活の苦難から遠ざけたところに自分を置いているわけである。ところがテレビは全くの
リアリズムであり (註13)叉一個の人格的なものを持っている。テレビに出て来る人間
は,我々の方を向いて話しかけ,指で私を指し乍ら話をするのである。又それを見ている
人達は,家族,友人といったような緊密な相互関係を意識した上で見ているわけである。
此の様にテレ’ビは日常生活に密着しているだけ,具体性を有するということが言えないだ
ろうか。
3・もっとも,映画がより我々に近いものになり,自分で身近なものを撮影し,且映写する
といった形で受入れられてゆけば,テレビと同等或いはそれ以上の具体的な領域を発揮す
ることが出来るであろう。
㈲Mass Communication Mediaの教材利用
ヂールがあげた経験教材中,ラジオ,映画,テレビは,それがマスコミのMediaであると
いうことに於いて,他の教材と非常に異った性質を持っている。即ちこれらは教材として作
られたものというより,他の目的で既に存在するものを,教材として援用するわけである。
その他次の様な異りがある。
1・伝達方法の異り教育は主としてpersona1なComm.の過程をとる。即ち,送り手(教
師)送り内容(教師の意志)Mediaとその送り方(教科書,教材,教具)受けて(生徒,
親密な少数の人)受とり反応(教師に対する質問,討議)。という形で行われる。これに
対して,マスコミは,送り手(マスコミの企業体)送り内容(番組)送り方(ラジオ,新
聞,テレビ,映画)受け手(大衆,送り手の意図の理解は受け手により千差万別)受け手
の反応(直接反応はない,普通受身(註/4)という形で行われるのである。
2.伝達の範囲の異りpersonalな伝達が置く限られた人達であるのに対しでマスコミに
よる伝達の対象は無限大である。最近アメリカで「リチャード三世」という映画をテレビ
放送したのであるが,一晩のうちに此のテレビ放送を見た人が四千万人にものぼったこと
が,その後の調査で知られている(註/5)此のi数はシェクスピアが今から350年前「リチ
ヤード三世」を書いて,それ以来この劇を書物で読んだ人,それから舞台の上で上演され
たのを見た人,スクリーγの上に上映されたのを見た人の合計よりも遙かに多い数である
といわれる。このようにテレビというマスコミの伝達範囲が如何に広いものであるかとい
うことがわかる。
一31一
3.伝達目的及性格的異り
教育は勿論,人聞を教育基本法にあるような一定の理想像に近づけることにあるのである
が,一方マスコミはその目的が宣伝にあり.その宣伝とは「人々の欲求,知性,感情に働
きかけて一定の行動,態度にみちびく」(註16)とある。そこで一定の行動,態度に導く
ということに於いては両者とも変りはないが,しかし教育に於けるそれは,あくまで合理
的,論理的で目標に向って終始一貫した理性が要求される。これに対し,宣伝は合理的で
はなく,心理的であり,感情的情緒的である。しかも,人間は動物である限り本質として
具体的であり,感情的であり,情緒的で,その上に人聞としての理性が築かれている。と
ころが宣伝は人間に合理的な批判の余地を与えず一方的に感情的なアッピールを間断なく
注入するわけで,一般大衆の行動や態度形成に,教育より以上の影響力を持つわけであ
る。
以上の様な点からみて,現在の社会に於ける教育の在り方は,此の強力なマスコミに如
何に対処するかということを常に考えを置かなければならない。マスコミの少い時代では伝
統的な文字中心,教科書申心の教授法でも良かったかもしれぬが,現代では,丈字のみの伝
達の方式から,色々な感覚的教材,特にマ入コミ教材を合理的理性的に取り上げる方式を多
分に取り入れることが必要だと思われる。丈字が今日までの文明世界を築きあげるのに大き
な功績のあったことは認めるが,それは何時の時代にも絶対的な存在ではあり得ない。科学
丈明の進歩は,必然的に教材の進歩を促さずにはいられないし,教師もそれを取上げて教育
方法を考えなければ,教育の進歩は望み得ないと思う。昭和24年度に面部省が行った「日
本人の読み書き能力の調査」の結果,文盲が2パーセγトという結果を出しているしかし同
時に,新聞の一面落字を理解する能力のある人が,僅か6パーセγトにすぎないことも報じ
ている。これは日本の墨字が,如何に抵抗力の強いものであるかを示している。国立教育研
究所の最近の調査では(註ノ7)日本人が読み書きに使用時問は平均僅か15分にすぎないと
報じている。これに反して,ラジオの普及は,全国76・6パーセγトで電気のある地方は一
軒と一台をもっている勘定で,しかも子供は1月平均6時聞強をラジオの聴取をしている
(註18)映画は,31年度の観客動員数8億9千5百万人で,その多くが25才以下の青少年
によって占られている。テレビの日本開局以来数年で50万に達し,此処10年内に1千万を
突破するであろうといわれている。此の現実に対して,教師は必して無関心であっては,真
の教育は行い得ないと信じる。
註
(ユ)視聴覚教育辞典P.22(明治図書)
(2)デールの視聴覚教育,西本三十二訳Pユ5(日本放送教育協会)
(3)Edger Dale, Audio−Visual Methods in Teaching(1946)Pユ6(Deyden)
(4)ibid., P.420r P.43.
(5)波多野完治,視聴覚的方法の心理学P・95(日本放送教育協会)
(6)波多野完治,心理学と教育P.238(牧書店)
一32一
(7)E.Dale前掲P。42
(8)波多野完治前掲(6)P・239
(9)波多野完治前掲く6)Pユ96
(工0)波多野完治前掲(6)P・224
(ll)S.L. Hayakawa.‘‘Language in Thought and Action,1849.
(12)F.Dean Mc Clusky;Audio−Visual Teaching Techniques.ユ950. P.2(W. M. C, Brown)但
し人類がことばを持つようになった起源は入によってまちまちで,例えば国立国語研究所の柴田武
は50万年乃至100万年前といっている(視聴覚教育の社会学P.33)
(ユ3)加藤秀俊,テレビ文明の展望中央公論33年2月号
(14)南博体系社会心理学P.512(光文社)
(15)西本三十二視聴覚教育の社会学Pユ45(日本放送教育協会)
(ユ6)F.lroin. Public OPinion and Propaganda(ユ952)訳南博社会心理学P.544
(17)西本三十二視聴覚教育の社会学P.8ユ
(ユ8)西本三十二前掲P.l16
一33一
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