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日本語(PDF/1.35MB)
2
2010年4月発行
表紙:小松照子
Copyright @ 2010 by JICA
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
はしがき-本小冊子発行に当たって-
2005年5月に開始した看護助産人材育成強化プロジェクトも終わりを向かえようとして
おります。本プロジェクトでは、看護行政基盤の強化として、「看護助産規則」「看護
業務範囲ガイドライン」「助産業務範囲ガイドライン」「保健学校運営管理ガイドライ
ン」の策定及び普及を支援し、またその実践強化として基礎看護技術の指導者育成を行
い、各保健学校及び県病院(実習病院)の教育の質の向上を目指してきました。本プロ
ジェクトは、ラオスにおける看護助産人材育成と活用の促進に少なからず貢献したとい
えるでしょう。
JICAの取り組みとして、技術協力プロジェクトのみならず、青年海外協力隊・シニア海
外ボランティアが多く活動しており、保健医療分野でもボランティアプロジェクト「地
域母子保健改善プロジェクト(Pomoso)」をはじめ、たくさんのボランティアが各地の
保健学校、県・郡病院に配属され、ラオス看護の現場でラオス人看護助産師と日々とも
に活動をしてきています。本プロジェクトにとって、現場のボランティアの声は非常に
重要なものであり、5年間のプロジェクト活動の多くの場面でボランティアとの協力関
係がありました。
本小冊子は、ラオス看護の現場で活動しているボランティアが直面した問題・解決法、
また抱えている悩みや支えとなる思いなどをニュースレターとして発行してきたものを
まとめたものです。ここに綴られたそれぞれの様々な思いから、ラオス看護の現状そし
て、それに携わる人々の姿を感じ取っていただければ幸いです。
ラオス保健省は現在、ミレニアム開発目標(MDGs)達成に向けて、母子保健改善に力
を注いでおり、JICAとしてもその取り組みを全面的に支援しています。本プロジェクト
やボランティアと協働した看護助産人材が中心となって、今後も看護サービスの向上に
取り組み、ラオスにおいて広く適切なサービスが提供されることを心より願っておりま
す。
最後に、ラオス国保健省をはじめこれまで本事業を支援してくださった皆様、専門家・
ボランティアの活動を支えてくださった日本の関係者の皆様に心から感謝するととも
に、今後も引き続きより一層のご支援を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
2010年4月
JICAラオス事務所
所長
戸川正人
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
目次
ラオス国地図
ビエンチャン特別市保健局
鈴木彩乃
1
サバナケット県病院
倉井利苗
3
ビエンチャン特別市サイタニ-郡病院
田中美和
5
母子保健病院
成田祥子
7
ウドムサイ県保健学校
野田美穂
9
ビエンチャン特別市ナーサイトン郡病院
上野悦子
12
ウドムサイ県フン郡病院
松田尚美
13
ビエンチャン特別市シーコッタボン郡病院
枡田麻美
14
ビエンチャン特別市パークグム郡病院
田中和子
16
ビエンチャン特別市サイセッター郡病院
北村愛
17
セコン県ラマム郡保健局
村上沙苗
19
ポンサリー
ルアンナムター
ボケオ
ウドムサイ
フアバン
ルアンパバン
シェンクワン
サヤブリー
サイソンブン
ビエンチャン
ボリカムサイ
首都ビエンチャン
カムワン
サワナケット
サラワン
セコン
チャンパサック
アタプー
2010年4月1日現在
シニア海外ボランティア 看護師 1名 配属先1ヵ所(セタティラート大学病院)
青年海外協力隊
・看護師 12名 助産師 5名
・保健師 1名
ラオスの看護師隊員が派遣されたのは1968年で2名派遣され、その後政情不安により協力隊派遣自体
を中止しており(最後に派遣された隊員は1975年)、1990年に派遣再開してからは、看護師隊員は
1991年に派遣された隊員を筆頭に少しずつ配属先数も増えて、現在に至る。
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
ラオスの看護の現場から
Ⅰ、どっぷりPOMOSOに浸かって
ます
初めてラオスに降り立ってから
早、1年と2ヶ月が経ちました。
毎日暑い日ざしに照らされなが
ら自転車をこいで職場に通いま
す。日本にいるときより確実に
空を見上げる回数が増え、広い
空を見上げては、「あーラオス
にいるんだなー」と感じていま
す。
私は今、ビエンチャン市保健
局母子保健課で働いています。
よく、「どちらの病院です
か?」と聞かれますが、病院で
はなく、日本で言う「保健所」
的な役割をしている場所です。
ですから、患者さんはいませ
ん。そこで私はPOMOSO(母子保
健改善)プロジェクトというボ
ランティアプロジェクトの中で
主にプロジェクトのマネジメン
ト・活動のフォローという仕事
をしています。
現在のメンバーは私を含めて6
人。このプロジェクトが主に対
象とするキーパーソンは村で唯
一の医療に携わっているVHV
(Village Health Volunteer:
ヘルスボランティア→村の健康
に関することに携わる人)やTBA
(Traditional Birth Attendant:伝統的産婆→村でお産が
ある時にお産を取る人)
これらの人たちです。
VHV/TBAは村にいる妊婦さん・母
子達の一番の相談相手です。
VHV/TBAの医療知識レベルを上げ
ることで、村レベルの母子の健
康改善をはかろうというのが、
このプロジェクトのねらいで
す。
Page 1
ビエンチャン特別市保健局
現在、プロジェクトが始まっ
て約二年半が経ちます。具体的
な活動内容としては、
①VHV/TBAへ、母子保健に関す
る勉強会の開催→主に妊娠に関
する知識や、妊婦健診のやり方
などをレクチャーします。
指導者は各郡病院の母子保
健課で働く医師・助医師・看護
師といった人たちです。 VHV/
TBAには、郡病院まで来ても
らって、郡病院で行う実習・講
義に参加してもらいます。
②村への巡回→郡病院スタッフ
と隊員が一緒に村に降りて行っ
て、村で今ある問題は何か、今
後プロジェクトで行いたいこと
は何か、VHV/TBAなどに聞いた
りして巡回します。
③健康教育→村へ郡病院スタッ
フと下りて行き、母子保健に関
すること(妊婦健診の重要性・
必要性、育児と栄養、予防接
種、家族計画)について、ポス
ターや絵を使って妊婦さんと母
親に指導します。
鈴木彩乃
入れながら、プロジェクト終了
時にどうやって評価を行うかを
考えて活動していくことは、想
像以上に難しいです。常に自分
にもっと知識があれば・・・とい
う思いを持ちながらの活動で
す。しかし、一人でがむしゃら
に仕事をしていれば、いずれは
結果が出るというものでもない
です。
―――そうです。
ここは「ラオス」というのんび
りした、ビアラオ大好きな民族
の住む国です。一人でパソコン
に向かって、いい結果を出して
も気が付けば周りのラオ人は誰
もついて来てくれていない、と
いうことになりかねません。ラ
オ人とカオニャオ・タムマーク
フーン(パパイヤサラダ)・ケー
ンノーマイ(竹の子スープ)を
食べて笑って冗談言って、そう
やって人間関係を作って、たま
に仕事の話をすると相談に乗っ
てくれます。そして、たまには
ラオ人もいい意見を言ってくれ
④5歳児以下健康診断→村で5歳
児以下の子供を集め、身長・体
重測定、診察、予防接種を行い
ます。
Ⅱ、立ちはだかる壁…ラオスに
いると、壁も壁じゃなくなる!?
日本で看護師3年、保健師1年と
いう経験しかない私にとって、
プロジェクトのマネジメント的
役割はとても難しいです。
特に、プロジェクトデザインに
沿って計画を立て、指標を頭に
パークグム郡ターサーン村で
の健康診断に集まった母子
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
ます。
仕事をしていて何度も壁にぶ
ち当たるけど、その度にカウン
ターパートを始め、職場のス
タッフに相談し、ぐちを言い、
話を聞いてもらっているうち
に、「ま、なんとかなるか」と
思えてきます。
仕事ができなくて悩みすぎてス
トレス溜めるなんて、この国の
人からしたらきっとばからしい
ことなんでしょうね。もっと楽
しいことが世の中にはいっぱい
ありますもんね。
Ⅲ、ラオ人からしたら日本人の
方が「かわいそう」なのかも
そうやってラオ人と多くの時間
を共にしていると、この国の素
晴らしさが見えてきます。
もちろん、村に降りるとぼろぼ
ろの服を着て、古い家に住ん
で、毎日一生懸命働いている村
人に出会います。健康診断や健
康教育を行うと、ラオスの村人
が健康に関して少ない知識しか
持っていないこと、村レベルで
受けられる医療のレベルの低い
ことなど、日本と比べるとどう
しても「かわいそう」と思って
しまうようなことを目の当たり
にします。
でも、この国は日本が失ってし
まった他人への興味・関心、思
いやる気持ちというものをまだ
失くしてはいません。
村に行けば穴が開くほど
じーーっと見つめられます。→
他人への興味度100%!!
健康診断が終わったら食事に招
待されます、→お客さんを思い
やる気持ち度100%!!
一緒にカオニャオを食べ、冗談
を言って笑って、ゆっくり流れ
る時間に身を置いていると、人
生の中でこれほど豊かな時間は
ないのではないだろうか、と思
えるほどです。
世界のグローバル化の流れの中
でラオスだけが昔のような生活
をずっと続けていくことは不可
能だと思います。でも、多くの
先進国が大切なものを失って発
展した、という道はラオスには
歩んでもらいたくないです。そ
うやって手に入れた豊かさは何
百年も続きません。この国には
心の豊かさを維持しながら発展
両親がラオスに遊びに来た際、職場に連れて行きま
した。カウンターパートと母親と私。
していってもらいたいです。
Ⅳ、二度と戻らない「今」を大
切にして
27,28,29歳という第二
の青春時代をラオスで過ごし
て、私は多くの友達を得まし
た。日本人の友達もラオ人の友
達もたくさんいます。
この国に来て私がしてあげられ
たことよりも、してもらったこ
との方がはるかに多いです。
一人の人間ができることなんて
本当に少ないですが、これから
もずっとラオスに関わっていき
たいです。次はもう少し私とい
う人間を大きくしてからまたこ
の国に戻ってきて、母子保健に
携われたら、幸せだな、と思い
ます。
残り、10ヶ月、今日も空を見上
げながら職場に通います!!
サイタニー郡コークサワン村で栄
養状態をチェックする医師
Page 2
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
ラオスの看護の現場から
1.JOCVへの参加
「自分に自信が持てない。弱
気な自分をどこか変えたい。」
そんな思いでJOCVに応募し
て2年がたとうとしています。
目まぐるしく変わる日本の医
療の現場で、同僚とともに自分
たちの無力さを実感することも
あれば、看護の力の大きさにや
りがいを感じることもありまし
た。患者さんと関わる中で痛い
ほど感じてきた、自分が行うこ
とに対しての責任、こうしてお
けばよかった・ああすればよ
かったという後悔、自分から働
きかけることの大切さ…。これ
から看護師として働いていく中
で、自分にとって必要なものは
何なのか。病棟の中で、中堅と
呼ばれる立場に立ったとき、
もっと広い物の見方ができるよ
うになりたい、と思うようにな
りました。
様々な思いが重なってのJO
CVへの応募でした。その結
果、ラオスへの派遣が決まり、
ラオスの人が感じる看護とは何
なのか知りたいとの思いを抱き
ながら、赴任しました。
2、サバナケット県病院
タイとベトナム、ラオスを挟
む両国との往来が多く、経済の
街と言われているのが私の任
地、サバナケットです。メコン
川に沈んでいく夕日はもちろん
綺麗ですが、夕日が沈んだあと
に見えてくるメコン川の対岸に
広がるタイ・ムクダハンの夜景
もまた綺麗です。そのムクダハ
ンとは友好橋で行き来すること
ができ、サバナケットの商店で
はタイ製品を多く見かけること
Page 3
サバナケット県病院
ができます。商店の前に停まっ
た ワゴ ン車か らど んどん とビ
ニール袋が運び出される「仕入
れ 」を 見ると 、ラ オスの 人に
とってタイが身近な存在である
ことを実感します。
サバナケット県病院は、1920
年設立。1997年世界銀行の支援
により新しく建設されました。
ベッド数170床、診療科数1
0、病棟数14のラオス国内で
も大きな病院といえる規模の病
院です。病院内の庭もよく手入
れされ、時季によってはきれい
な色の花が鮮やかに咲いていま
す。病院の横には道路を一本挟
み、メコン川が流れています。
病棟からは、穏やかな自然を感
じられる景色を眺めることがで
きます。そんな病院の看護管理
部に赴任し、9か月が経とうと
しています。
3、病棟巡回を通して
*感じた問題点
赴任当初、比較的機材も揃っ
ているように感じられ、病院と
しての機能も果たされているよ
うに思いました。赴任後2か月
頃から各病棟を回り、看護師の
業務や基礎看護技術、患者さん
への態度などを見てきました。
自分の語学力の無さを痛感しな
がらの巡回でしたが、言葉の内
容が分からなくても見ていてわ
かることがありました。ベッド
からストレッチャーなどへの患
者の移動時に手を貸さない看護
師。患者を汚い物のように扱う
看護師。カルテへの正確な記載
が行われていない現状。自分が
考 えて いた看 護と はあま りに
違った現実に驚き、言葉で伝え
倉井利苗
られないもどかしさも加わり、
悲しさでいっぱいになったこと
もあります。しかし、違ってい
るのは当たり前。まずは、この
病院の看護師はどのように働い
ているのか、何をどのように
行っているのか、それを知らな
ければならないと感じました。
看護師個人の方法なのか、病棟
の方法なのか、病院全体で行わ
れていることなのかを見極める
ことも必要だと感じました。
巡回を終え、自分が問題だと
感じたことは、正確に看護技術
が行えていないこと、患者さん
の療養環境を整えるという意識
が低いこと、でした。また、正
しい方法を知っていて、しかも
今実際に行っている方法は正し
い方法ではないということも
知っている。しかし、実際には
行うことができていない現実が
多いことにも気付きました。実
は、私にも思い当たることがあ
りました。日本で働いていた時
のことですが、病棟で何か新し
いことを取り入れようとすると
き面倒だと感じてなかなかでき
なかったことを、同僚が一人二
病棟へ続く廊下
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
人と始めるようになる。そうす
ると、みんなが始める。正しい
と思っていても、実際には何を
どうしたらいいのかわからな
かったり、今までの慣れた方法
のほうが簡単だと思い込んでい
たり、様々な原因があったと思
います。ラオスにそのままあて
はまるとは思いませんが、何か
を始めるときに根拠をもって、
この方法が正しい!といえる人
がいたら、変えていけると思い
ます。
*価値観の違い
病棟巡回中、価値観の違いを
強く感じた出来事にも遭遇しま
した。
外科病棟に大腿骨骨折の少年
が入院していました。もちろん
手術の対象です。しかし、その
少年の家族は手術を拒否しまし
た。帰宅し、民間療法を試すと
のことでした。医師も何度も説
明を繰り返していましたが、結
局、帰宅しました。日本で病
気・けがといえば、すぐに病院
に行くのが普通です。そして、
そこで治療をするのが当たり前
だと思っています。しかしラオ
スでは、それは当たり前ではな
い。患者さんの価値観も日本と
は違うのだと感じました。そし
て同時にこの出来事を通し、自
分が今まで思っていたものは日
本の看護でありラオスの看護で
はない、日本の看護を私がその
まま持ってくるだけではだめな
のだ、とも改めて考えさせられ
ました。
*他の援助団体との関わり
また、サバナケット県病院に
は他の援助団体も多く関わって
います。団体によっては、実際
に病院で活動しているのではな
く、保健省・保健局への援助を
通して会議・研修会・勉強会な
どを開催したりしています。今
どこの団体がどのような活動を
しているのか、自分が行おうと
する内容が重複していないか、
把握することも必要だと感じて
います。そして、協力できるこ
とは協力する、そんな姿勢も必
要だと思います。結果的に県病
院に良い結果がもたらせればい
いのではないかと感じます。
*変化していく現場
最初に病棟を巡回してから3
か月程、前回とは病棟が変化し
ていました。些細な変化ではあ
りますが、どの病棟も、です。
研修に行ってきた師長さんの働
きによる病棟もあれば、他の援
助団体の働きかけによる病棟、
自発的にという病棟もありまし
た。より効率よく、正確に業務
を行えるように。看護師さんた
ちは、自分の仕事を変えていく
ことができるのだと感じまし
た。とても心強く感じました。
些細なことでも、良いと感じる
変化はしっかりと口に出し、伝
えていこうと思います。
る物品ももちろん違います。
しかし、根拠になる考え方が
同じだから、「物品が違うか
らできない」ということには
ならないのだと思います。だ
から、自分が行う手技に関し
ての根拠を理解してもらいた
いと思います。
*「患者さんに向き合う姿
勢を持ってほしい」
価値観の違いを痛感して
も、私には日本での看護しか
経験はないし、自分がやって
きたことしか伝えることはで
きません。バイタルチェック
のとき、創処置のとき、何か
しようとするとき、患者さん
にわかるように説明しながら
声をかけながら援助を行う。
その様子を見ていてくれた患
者さんがいました。
価値観は違っていても、看
護師として共通であると願い
たい部分があります。患者さ
んに向き合う姿勢は、すべて
のもとになる行為です。国が
違っていようと、どんな新し
い技術や方法が入ってこよう
と、変わらないでほしいと思
います。
病棟に行くたび、看護管理
部の仕事を知るたび、自分が
したいと思うことはこの病院
の人たちにとって本当に必要
4、はじめの一歩の難しさ
残りの任期は一年あまりで
す。この期間で、私が行えるこ
とというのはほんの僅かなこと
だと思います。でも、活動を通
して伝えたいと思うことがあり
ます。
*「根拠を持ってほしい」
なぜこれを行うのか、この方
法で行うのか。根拠を理解して
もらえれば応用ができる。日本
でも、病院が違えば使用してい 病院から見えるメコン川
Page 4
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
なのだろうか、正しいことなの
だろうかと考えます。迷いはい
つもあります。迷ってばかり
で、なかなか具体的に活動がで
きないとき、はじめの一歩の難
しさを感じます。しかし、今や
らなければ次の機会はないかも
しれないし、やってみたら意外
と簡単なことなのかもしれな
い。そんな経験を一つひとつ積
んでいきたいと思います。
5、感謝
今、私は多くの皆さんに支え
られていることを実感していま
す。私のつたないラオス語を諦
めずに聞いてくれ、理解しよう
としてくれるカウンターパート
をはじめとする看護管理部、病
院管理部。病棟の看護師さん
達。ラオスでの生活を支えてく
れる大家さんや顔見知りになっ
たお店の人。私を「センセイ」
と呼んでくれる柔道を練習する
生徒さんたち。サバナケットで
生活する日本人の皆さん。私の
不安な気持ちを理解してくれる
同期、JOCVの皆さん。JI
CAスタッフの皆さん。そし
て、日本で応援してくれる家
族。友人たち。私は、こんなに
ラオスの看護の現場から
私は、ビエンチャン特別市の
中心部から、北へ約25kmのと
ころにあるサイタニー郡病院母
子保健課に配属しています。
サイタニー郡は、人口約15
万人ほどで、ビエンチャン特別
市内の9つの郡の中で、もっと
も多くの人口を抱えています。
そのため、郡病院の妊婦健診数
は1日平均約15名、分娩件数は
月に約40件ほどあり、ビエン
チャン特別市内の大きな病院に
次いで、多く扱っています。
サイタニー郡病院は、日本の香
川県と交流があり、院長を始め
スタッフの数名は、日本での研
修に参加したことがあります。
他にもJICAや諸外国の援助が
入っており、また、JOCVも私で
6代目ということもあり、病院
内のスタッフの意識は比較的高
く、ごみなどの環境面も、想像
していたよりも整っていまし
た。
Page 5
も多くの皆さんを必要としてき
たのだと思います。約1年後の
任期終了が無事に迎えられるよ
う、健康に気をつけながら、感
謝の気持ちを忘れずに、日々過
ごしていきたいと思います。
ビエンチャン特別市サイタニ-郡病院
田中美和
私は、ここで「地域母子保健改
善プロジェクト(POMOSO)」と
い う 5年間の ボラ ンティ アプロ
ジェクトの活動を主にしていま
す。サイタニー郡では、3つのヘ
ルスポストにある7つの村を対象
に、カウンターパートと共に村
に下りて5才以下の子どもの健康
診断や妊婦健診、健康教育を
行っています。また、各村で無
償で働いているヘルスボラン
ティア(VHV)や伝統的助産師
(TBA)に対し、母子保健につい
てのトレーニングを行い、彼女
達に村で健康教育をしてもらう
ことで、村にいる母子の知識を
高め、安全なお産をし、地域の
母子保健を改善していこうとい
うのがプロジェクトの目的で
す。このプロジェクトは、ビエ
ンチャン特別市内の5つの郡病院
に派遣された助産師隊員と、市
保健局に派遣された保健師隊員
とそれぞれのカウンターパート
と共に協力して行なっていま
す。
私は2008年11月に郡病院に赴任
し、ちょうど3ヶ月が経った
2009年2月に、プロジェクトは
ちょうど中間地点を迎えまし
た。まだ自分の中でも、プロ
ジェクトの概要や活動について
しっかり把握していないうち
に、日本からやってきた調査団
の中間評価がありました。慣れ
ないラオス語やラオスの文化、
医療事情に戸惑ったり、人間関
係を構築していく間にも、5年
間という限られた時間の中で、
プロジェクトがどんどん進んで
いることを実感しました。中間
評価で何とか頭の整理をし、新
対象郡のJOCVが赴任して、「さ
あ、これから!」という時に、
マラリアで体調を崩し、そのま
ま 4 月 の ピ ー マ イ に 突
入・・・。「気を取り直して、
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
さあ、活動!」と思ったら、ま
たまた腸チフスに感染・・・。
もともと健康には自信があった
上に、せっかくチームで動いて
いるところだったため、療養中
はみんなに申し訳ない気持ちと
焦る気持ちでいっぱいでした。
その後は、何とか健康を維持
し、村への巡回やVHV・TBAに対
してのトレーニングを行なって
きました。しかし、赴任して1年
経って、病院スタッフは多忙
で、頻繁に巡回ができるわけで
はないし、医療者ではなく、読
み書きに慣れていないVHVたちに
トレーニングを行なっても、中
身を全て身につけ、すぐに健康
教育ができるようには到底なら
ないということがわかってきま
した。トレーニングとフォロー
を繰り返し、彼女達が実際に健
康教育をする機会を持つことが
大切です。今は、何とかプロ
ジェクトで村に下りたり、ト
レーニングを行なったりできて
も、2011年にプロジェクトが終
わったあと、病院の予算を使っ
てカウンターパートが今と同じ
活動を続けられるか、と考える
と、それはとても難しいと思い
ます。
ただ「実施するだけ」のトレー
ニングや巡回ではなく、1回1回
を大切にして実際に村で使える
知識や技術を身につけられるも
のにしなければいけないと感じ
ています。また、カウンター
パートが実際に村に下りなくて
も、HCスタッフを通して村の状
況やVHVたちの様子が分かるよう
なルートが整えられるといいな
と思います。そのためにも、残
り1年弱の任期で、もっと腹を
割ってカウンターパートと話し
合い、協力していくことが必要
だと感じています。
また、6人のJOCVと協力して行
なっているプロジェクトなの
で、1人で行なう活動よりも難
しいこともできることも、それ
ぞれたくさんあります。自分が
思わずあきらめてしまいそうな
ことも、他の郡ががんばってい
ると、「やっぱり自分もがん
ばってみよう。」と、とても刺
激を受けます。各郡の状況や
JOCVの経験、知識は様々です
が、お互いに刺激し合い、協力
していけたらと思っています。
ラオスについてあれこれ考え、
答えのない道を進んでいるよう
に感じ、浮き沈みの波が途切れ
ることはありませんが、この2
年間をどう過ごすかは全て自分
次第。限られた時間の中で、
じっくり悩んでみようと思いま
す。
とりあえず、前進あるのみ!
( 感 染 症 に は 注 意 し つ
つ・・・。)
ロールプレイを実施中
VHVへのトレーニング
村での健康教育
写真:村での健康診断
Page 6
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
ラオスの看護の現場から
1.ラオスのサバーイな日々
2007年8月、協力隊合格通知
に書かれていた国名は「ラオ
ス」。同じアジアなのに、ラオ
スに関する予備知識はゼロだっ
たが、周りの友達から「ラオス
は人も良いし、食べ物もおいし
いし、いいところだよー」と言
われ、ドキドキしながらラオス
にやってきたのは2008年6月23
日。国際協力について学んだこ
とも無ければ、国内でもボラン
ティア活動をしたことがない私
が、色々な偶然や出来事が重な
り、協力隊へ応募し、ラオスで
活動をして、もうすぐ1年にな
る。
ラオスは、本当に穏やかな人
が多く、ゆったりと時間が流
れ、みんなで助け合いながら生
活している。これが、本来の人
間の生活だなと思う。隣で困っ
た人がいれば、「普通」に助け
合う姿がある。日本が発展と共
に失くしてしまったものが、こ
こには「普通」に存在してい
た。毎日、どこかで大音量の音
楽が聞こえ、ビアラオを飲みな
がら歌って、踊り、信号が青に
変わったのに気づかず、また赤
に変わってしまっても、誰もイ
ラっとしないラオスにすっかり
はまってしまった。
2.ナースのお仕事
<母子保健病院>
私の配属先は、首都ビエン
チャンの中心部にある、産婦人
科・小児科など母子保健分野専
門の病院である。ベッド数70床
と小さな病院だが、毎日平均10
件の出産があり、外来も妊婦さ
Page 7
母子保健病院
んで溢れ、活気のある病院だ。
日本では出生率が1.3程度で、少
子化が問題となってくらいなの
で、赴任当初は外来で診察を
待っている妊婦さんの数にびっ
くりしたことを覚えている。そ
んな女子であふれる病院の看護
管理部で、看護技術・看護ケア
の質の向上を目標に、活動して
いる。
<活動開始!!繰り返す失敗の
日々>
国際協力の知識も少ないまま
で、訓練所で国際協力手法やOV
の話を伺い、頭の中では「日本
の技術を押し付けてはいけな
い」「相手国の社会背景や文化
を理解した上で、同じ目線で一
緒に活動していこう」と思って
いた。しかし、目の前で行われ
る日本とはあまりにも違う看護
にショックを受け、この国での
「看護」とは何なのだろうと悩
成田祥子
み、比べるものが日本の看護し
かない私は、日本の看護を押し
付けようとしていたように思
う。
ある失敗談: 病棟で、未開
封の輸液セットを開け、チュー
ブ部分は書類を束ねる紐として
使用し、接続部のゴム部分は細
かく切って、臍帯結紮用の紐を
作っていた。日本では、コスト
の問題があるため、未使用の滅
菌物を開けて、雑用に使用する
などもってのほかだ。しかも決
して裕福ではない患者もいる中
で、患者が購入した物品を雑用
に使用するなんてー!!と憤慨
し、「なんで滅菌物を使用する
のか、患者が使わなかったのな
ら、返品するべきだ」と言った
ことがある。ラオスでは、点滴1
本に対し1つの輸液セットがセッ
トとなって包装されており、1日
1本以上の点滴をする患者は、輸
写真1:ずらーり妊婦さんの産科外来
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
液セットだけ余るという事だっ
た。余った物品を有効利用して
いたのである。私は、理由も聞
かず、日本の視点で怒ってし
まった。この失敗をしてから
は、1つ1つの行動には理由があ
り、その理由と背景まで理解し
なければいけないと思った。
失敗するのが怖くて、なかな
か積極的になれない私だが、失
敗しなければ分からないことも
あるなーと思う。
迷いながらの毎日
<ラオ人のやりたいことって?
>
ラオ人を巻き込みながらの活
動ができないまま日々は過ぎる
中で、ある専門家に「ラオ人の
やりたいって言っていること
を、たとえ意味がないように
思ってもやってみればいい」と
言われ、ハッとした。口では
「ラオ人主体で」とか「ラオ人
のやりたいことを」などと言っ
ていたが、日々の活動の中で小
さいことだが「こうしよう」と
提案されたことに対し、「でも
~じゃない?」と否定している
ことが多い事に気付いた。
どんなに頑張っても給料は変
わらず、評価され注目を浴びる
こともなく、3~4日毎の24時
間夜勤をこなし、副業を持って
いる人も多いラオ人看護師。そ
んな中で、与えられた仕事は、
責任を持ってこなしていると思
う。そこに2年間だけ日本人が
来て、問題点を指摘し、嫌な仕
事が増えるのでは、ますますや
る気は落ちてしまう。だからこ
そ、ラオ人も必要性を感じてい
ることを一緒にやっていきたい
と思う。
<それでもゆずれない願い!!>
それでもやはり気になる、患
者さんへ提供される技術やサー
ビスの質。専門知識を持ち、患
者さんから「タンモー(医師の
意味)」と呼ばれているからに
は、プロとして患者さんを診
て、患者教育をしてもらいた
い。自分たちが、何かを怠った
ことで、患者さんの命が左右さ
れるかもしれない責任のある仕
事であるということを自覚し
て、誇りを持って仕事をして欲
しいと思う。
残り1年間の任期で、伝えら
れることは極わずかで、もしか
したら何も伝わらないかもしれ
ないが、押し付けるのではな
く、彼女たちが自分達で問題に
気付けるようなアプローチがで
きたらいいなと思う。
みんなにコープチャイライラー
イ
あっという間の1年でした
が、どんな活動をしていくのが
良いのか、未だにはっきり分か
りません(笑)。色々迷いなが
らやってきた中で、辛い思いも
たくさんしたが、患者満足度調
査の準備をしていると、CPが
「私も前からやりたいと思って
いたけどできなかった。ショウ
コが来てくれたからできる」と
言ってくれたことや、病院管理
部・病棟師長を対象に行った中
間報告会で、問題を共有できた
こと、その後、病棟で起きた変
化など、うれしいこともたくさ
んあった。
ラオ語ができない自分が悪い
のに、「なんで分かってくれな
いの」と機嫌が悪くなったり、
諦めそうになる私に対して、諦
めずに「話して!!」と根気強く
話を聞いてくれる看護部の皆さ
んには、本当に感謝していま
す。また、悩みを分かち合える
同期や、いつも相談に乗ってく
れる先輩・後輩隊員、JICA職員
や専門家の皆さん、日本で応援
してくれる友人に支えられ、挫
けそうになりながらも、なんと
か頑張っていられます。そし
て、協力隊に反対していた家族
が、私をラオスに送り出してく
れたからこそ、このような素晴
らしい経験ができていると思い
ます。
さて、あと1年で何ができる
か分かりませんが、自分にでき
ることを精一杯やってみたいと
思います!!
写真2:看護の日にカウ
ンターパートと
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ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
ラオスの看護の現場から
1.応募のきっかけ
看護師となって10年ずっと
臨床で働いてきました。看護教
師の経験はありませんが、新人
指導や、臨床実習指導を通じて
教える楽しさや、新人や看護学
生が育っていく過程を見届けて
いくのが楽しくなってきた時期
でもありました。ふと海外では
どんな風に教育しているのだろ
うと、興味をそそられ、現場で
自分も関わっていけたらどんな
に楽しいだろうと思ったのが最
初でした。そんな安易な気持ち
での応募でした。
2.ラオスってどこ?
要請内容を初めて見た時の第
一声がこれです。ラオスの隣国
のことは知っているのに、何故
かラオスだけがすっぽり抜け落
ちていました。まさにゼロから
のスタートでした。何の予備知
識もないまま、希望していた国
とは違った失望感もあり、ラオ
スにあまり興味も持てず、仕方
なく来てしまったというのが本
音です。
現在私は、首都のビエンチャ
ンから北に約700Km行ったウ
ドムサイ県という山間の町で暮
らしています。ラオスはよく昔
の日本のようだと言われます
が、山々に囲まれたこの風景を
見ているとまさにウドムサイが
そのように思えてきます。私の
故郷は大分県の日田市です。盆
地なので、周囲の山々や、霧の
風景、冬の寒さ等ウドムサイと
共通するものがあります。保健
学校から県病院へ行く道々吊り
橋を渡り、山に向かって歩いて
いる時、また冬数メートル先も
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ウドムサイ県保健学校
見えない位霧が発生した中、学
校へ自転車を走らせているとふ
と自分が小学校時代にタイムス
リップしたそんな錯覚を覚え、
なんとも言えず懐かしい気分と
なります。
ウドムサイは特に観光といっ
たものはありませんが、心落ち
着けるこの町が第二の故郷のよ
うに思え、今ではラオスでよ
かったと思えるようになりまし
た。
3.活動
私の配属先はウドムサイ県保
健学校で、北部4県(ウドムサ
イ、ボケオ、ルアンナムター、
ポンサリー)から学生を受け入
れています。看護コース(2、
5年)とプライマリーヘルスケ
アーコース(1年)があり、現
在看護コースの1年生が68
名、2年生が63名、プライマ
リーヘルスケアーコースの学生
が36名です。一人一人の学生
の顔が見えて私には活動がしや
すい、ちょうどよい規模の学校
です。ここで私は、学校の環境
整備(学校周囲のごみや、教室
内の清掃、寮の清掃の状況を
チェック)、機材・教材の管
野田美穂
理、学内・病院実習の指導を主
に行っています。他の保健学校
とも活動内容は大体同じだと思
います。
衛生管理を学んでいるのに、生
ゴミが散乱したままになってい
ても平気、身の回りを整えられ
ない人は、患者の環境も整えら
れないと思う、こういうことも
全て看護に繋がっていることを
知ってもらいたく、日々活動し
ています。
4.教える楽しさ、学ぶ楽しさ
保健学校の教師として、配属
になったわけですが、長年病院
勤めで学校教員の経験もなく、
学校の仕組みやカリキュラム、
実習や授業等把握すべきことが
たくさんありすぎて、最初は何
から手をつけていけばいいの
か、戸惑うばかりでした。そん
な中、病院実習で学生と一緒
に、患者の清拭や体交、シーツ
交換等を行っている時が一番楽
しく、やはり私は現場が合って
いるなと思いました。もちろん
ラオスの看護の現場に他の隊員
も感じているような同様の衝撃
を受け、それを受け入れ、見る
のがつらいと思ったこともあり
ウドムサイ県
保健学校
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
ました。それは今も変わりませ
ん。しかし好奇心旺盛な学生を
見ると興味を持った今こそ学ん
でもらいたいと、こっちが真剣
に説明をすれば、相手も私の言
葉を真剣に聞いてくれる。その
真摯な姿勢が嬉しく、素直に来
て良かったと思います。もちろ
んうまくは伝わらず、テキスト
や、模型を引っぱり出しながら
悪戦苦闘した結果、解ってくれ
たのかどうかの手応えを感じる
ことができないことも多いで
す。こういう時は本当に学校の
先生に側にいて観ていてほしい
と思います。
先生は、指導は臨床実習指導
者に任せていると言って、実技
テスト以外はほとんど患者の側
に行って学生を観るということ
がないのが現状です。先生の人
数が少なく、色々な仕事を掛け
持ちしながらで、時間が作れな
いのも一つにあります。
保健学校の先生には教員資格
というものはありません。病院
で臨床経験を踏んで学校に配属
になった先生もいれば、保健学
校を卒業したばかりの学生上が
りの先生もいます。授業はその
先生たちのセンスに任されてい
るように思います。学生を引き
つけ話しが上手な先生もいれ
ば、テキストをひたすら読み上
げる先生、臨床経験豊富な先生
のほうが、写真や模型を使った
工夫が見られるように思いま
す。学生はひたすら話しを聞
く、ノートをとるという受け身
での授業が多いようです。
一度看護の日に看護技術ト
レーニングに行った先生が血圧
測定の触診法と聴診法を、ト
レーニングで撮ったビデオを流
しながら、簡単なデモンスト
レーションを行ったことがあり
ました。日頃授業では触診法
は、現場の看護師が知らなく混
乱するからと教えていません。
しかしこの一回きりのデモで覚
えていてくれた学生もいて、実
習の場で触診法の後聴診法で血
圧を計り、一桁まできちんと目
盛りを見れていたのには感激し
ました。先生にもこの場にい
て、観てほしかったです。ささ
いなことですが、教えたことが
実践で身に付いているという実
感を直接感じてほしく、臨床の
場だからこそ学生の成長を目の
当たりにできると思いました。
トレーニングを通して、看護
技術の習得もそうですが、教え
方について先生それぞれが感じ
取ってくれ、考える場となった
のは事実です。今後ウドムサイ
での看護トレーニングの予定も
立っています。実践を重ね、自
信をつけていき、学校での授業
と臨床での指導がうまくリンク
していけることを願っていま
す。
5.卒業生を送って
6月3日看護コース一期生、
58名がこの学校を巣立って行
きました。JOCV初代がこの学生
を迎え、2代目の私が送った最
初の卒業生ということもあっ
て、感慨深いものがありまし
た。それぞれは各県、各村に
帰って行きましたが、そのうち
どれくらいの卒業生が就職でき
たのでしょうか?ラオスは新卒
の病院への就職率が10%ある
いは5%を切るとも聞いたこと
があります。実際どうなのか非
常に興味があります。
卒業後3ヶ月以上が経って、
ウドムサイの県病院で職員とし
て採用された卒業生は0人で
す。病院が募集をかけたのは全
てアーサーサマック(ボラン
ティア)。現在5名の卒業生が
アーサーサマックとしてウドム
サイ県病院で働いています。 も
ちろんボランティアなので無給
です それでも将来空きがあれ
ば、職員として採用されるかも
しれない望みはあります。アー
サーサマックにさえなれず、家
の手伝いや、全く違う職種で仕
方なく働いている人もいるの
で、働き口があるというのはま
だましなのかと思います。先
日、近隣の郡病院、県病院に行
く機会があり、そこで偶然卒業
この吊り橋を渡って病院へ行きます
Page 10
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
生に遇い、久しぶりの再会を喜
びました。彼らもまたほとんど
がアーサーサマックであり、唯
一2名が県病院と保健局で職員
として働くことができている人
もいましたが、家族親戚等のつ
てで入れているラッキーなケー
スだと思います。
JOCVがいる近隣の郡病院へも
一人就職できていますが、JOCV
から彼の働きぶりを、どの職員
よりも率先して動いている、点
滴を行うにも基本に忠実にきち
んと行えている、安心して見て
いられるとのお褒めの言葉をも
らえ、自分のことのように嬉し
く思いました。当たり前のこと
ですが、当たり前のことが行え
ていない現状がある限り、彼の
ような存在が貴重であり、この
まま周りに染まらずに初心を貫
き通してほしいと思うし、彼の
存在が周囲へいい影響を及ぼし
てくれればと願います。
保健学校で日々学生と接して
いると、彼らがラオスの看護を
背負っていく大きな担い手と
なっていく人材であり、私たち
は彼らの将来に大きな責任があ
ると感じます。看護師を養成し
てもその受け皿がなければ、希
望が持てずモチベーションも下
がっていくばかりです。現状で
は難しいかもしれませんが、
もっと彼らの可能性を信じ、戦
力として受け入れてほしいと切
に願わずにはいられません。
6.残り一年
最初は自分の経験を少しでも
活かせればなどと思い協力隊に
応募しましたが、今、この現場
(看護の教育の現場という臨床
とはまた違う立場)に立ってみ
Page 11
て、 自分の無力さをひしひし
と感じることの方が多いです。
実習の現場で看護技術一つとっ
てもついつい自分のやり方が正
しいと思い込み、押し付けた感
があります。言葉が伝わらない
もどかしさも手伝って直球勝負
ばかりしてきました。これでは
自分だけがいらいらするばかり
で、誰の信頼も得られません。
今さらながら、ラオ人と一緒に
行う、彼らが主体となって行
う、その過程が大事だと思い知
らされています。
最近では技術だけではなく、
概念的なことも伝えていければ
と思いますが、難しく考えず、
会話の中や、行動の中で、学生
がそう思ったこと、そうやった
ことそれも看護だよと気づかせ
てあげられるようになりたいと
思います。
血圧測定法の実演(看護の日)
言葉足らずな私のことなの
で、不足なことはたくさんあり
ます。それでも職場の先生たち
は根気強く私の話しを聞き、理
解し、活動の可能性を広げてく
れようとしています。怠けてい
ると時には厳しいことも言って
くれます。ラオスにおける私の
先生だと思っています。だから
こそやれることをもっと頑張ろ
うと思います。
残り一年を
切って、時間が惜しい、もっと
もっと時間が欲しいです。
今の心境は、あせらず一歩ず
つ、でもちょっとは急いでやら
ないと間に合わない!!です。
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
ラオスの看護の現場から
配属先であるナーサイトン郡
病院は、ビエンチャン中心部か
らバスで30分の距離にあり、病
院機能と保健所的な機能を兼ね
た病院です。2008年からナーサ
イトン郡は「地域母子保健改善
(PoMoSo)プロジェクト」の対
象郡に加えられ、私はPoMoSoプ
ロジェクトメンバーの一人とし
て活動しています。
活動は、新対象郡ということ
もあり、プロジェクトの対象と
なるヘルスセンターや村の選定
から始まりました。選定のため
のアンケート用紙の作成中は、
病院から家に帰るとパソコンと
向き合い、慣れないラオス語と
格闘する日々でした。この時期
はインドアな活動が多く、自分
が思い描いていた「協力隊」、
「地域母子保健」のイメージと
は、かけ離れた生活を送ってい
ました。
病院に配属され半年が過ぎた
ころから、ヘルスセンタース
タッフや村のキーパーソンであ
る伝統的産婆、村落保健ボラン
ティアに対するトレー二ングが
始まりました。本格的な活動が
始まり、カウンターパートと意
見が違ったり、またラオス人と
仕事を進めるペース、地域保健
に対するモチベーションが違っ
たりと、活動に悩む時期もあり
ました。そんな中、活動に対す
る意欲を高めてくれるのもラオ
ス人でした。一緒に活動をした
ヘルスセンタースタッフの仕事
ぶり、村や村人に対する関心の
高さに感動し、失いかけていた
ビエンチャン特別市ナーサイトン郡病院
上野悦子
地域母子保健改善に対する希望
と活動意欲を与えられました。
現在、ラオスに来て一年が過
ぎ、ようやくラオス人、ラオス
の生活、活動にも慣れ、落ち着
いてきたように思います。活動
面では、自分の価値観ややり方
が日本人的であることに気付か
され、ラオスということを意識
しながら進めるようにしていま
す。活動を通して、悩むこと、
迷うことは多々あり、それが正
解のないもののようにも感じ、
その時、その時で最善の道を探
すしかないと考えるようにして
います。
残りの任期では、後任を意識
し、カウンターパートに集中し
がちなPoMOSoプロジェクトの活
動をカウンターパート以下のス
タッフでも行えるよう人材強化
していきたいです。また、あ
まり手がつけられていなかっ
た院内の改善にも着目し、少
しずつ手を加えていけたらと
考えています。
村落巡回
ヘルスプロモーター
へのトレーニング
POMOSOオープニン
グセレモニー
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ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
ラオスの看護の現場から
「協力のなかの青春」
ラオス北部に位置するウドム
サイ県に私の任地であるフン郡
があります。観光名所といわれ
る場所もなく、何の特産品もな
いところです。もちろん「地球
の歩き方」などのガイドブック
にも紹介されていません。主要
都市であるルアンパバーン県へ
行くには、ウドムサイ県の県庁
所在地であるサイ郡へバスで2
~3時間ゆられ、サイ郡のバス
停で乗り換えさらに5時間程度山
道を行くと到着します。首都の
ビエンチャンへはサイ郡に空港
があり、飛行機に乗って50分程
で到着します。しかし、この飛
行機がしばしば欠航するのが
「たまに瑕」です。
赴任したばかりの頃は電気は
自家発電に頼っていたので基本
的に夜(18時~21時前後)しか
使えず、それも各部屋に1つの
裸電球を灯す程度がやっとの
弱々しいものでしたが、昨年末
に発電所からの電気が24時間使
えるようになりました。停電は
しょっちゅうですし、ひどいと
きは24時間以上停電することも
ありますが自家発電の頃に比べ
ればだいぶん生活が楽になりま
した。また、以前は水屋さんか
ら週に1回程度井戸水をドラム
缶で購入していましたが2009年
の8月に上水道が整備されまし
た。こうした変化は地域住民の
生活にも大きな変化をもたらし
ています。近頃では各家庭にT
V,冷蔵庫、炊飯器、電気ポッ
ト、扇風機を見かけることは当
たり前のようになってきまし
Page 13
ウドムサイ県フン郡病院
た。私の家でも洗濯機を購入し
ましたし、大家さんが冷蔵庫を
買ってくれました。帰国した先
輩隊員から電気ポット、トース
ター、炊飯器を置き土産として
いただいたりしてずいぶん文化
的な生活を送れるようになりま
した。毎朝七輪の火を起こすこ
とに四苦八苦していた頃がウソ
のようです。ただ先述したよう
に停電になるとそれらの全てが
使用不可能になるので要注意で
す。
私がフン郡に赴任して一年が
経過しました。配属先のフン郡
病院は病床数20床程度の小さな
病院です。2008年10月には日本
の無償資金援助で新しい病棟と
外来棟が増築され、医療資機材
もいただきました。医師4名、
看護スタッフは30名、他にも地
域保健課スタッフ、郡保健局ス
タッフなど総勢60名と日々とも
に活動しています。「あなたた
ちは本当に医療従事者です
か?」と叫びたくなったことも
ありましたし、あごがはずれる
ような出来事もしょっちゅうで
す。それでも毎日、病院に通い
いっこうにすすまない活動につ
いてカウンターパートたちと
「ああでもない、こうでもな
い」と話し合い、ともに食事を
する生活を私は気に入っていま
す。
活動は…「三歩進んで二歩下
がる」ならばいいほうで三歩進
松田尚美
んだ先に思いがけない落とし穴
があったり、「最初に戻る」
だったり、別の脇道に迷い込ん
でしまったりしています。これ
まで、私はスタッフの知識・技
乾季になり、いくぶん寒くなってきま
したが、子供たちは毎日元気です。
フン郡はラオス国内におけるトウモロ
コシ生産量が1番です。もともとは、
麻薬を栽培していたところを代替え
産業として発達しました。
フン郡病院のカウンターパート
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
術の向上を目標に院内勉強会を
通して適宜指導をしてきまし
た。指導したことをその日から
全員が実施できるところまでは
望まなくても、少人数からでも
やり始めてくれればいつか変
わっていくと信じていました。
ですから勉強会で取り上げた
テーマを根気強く日々の業務の
なかで実施できるように指導し
ていた際に、スタッフの一人か
ら「どんなに指導しても、みん
な『わかった。できる』って口
先だけで実際はやらないよ」と
言われたときには心から落ち込
みました。そういう傾向にある
ことは気付いていましたが正面
からラオス人スタッフに言われ
てしまうと、私の中の何かが
ポッキリ折れてしまったように
感じました。それでも指導を途
中でやめるわけにはいきませ
ん。「私は間違ったことは言っ
てない。今は理解してもらえな
くても将来必ず彼らにとって必
要になってくる知識だから」と
自分を信じて指導を続けていま
す。実際、少しずつ変化を見せ
てくれているスタッフもいま
す。新しい知識・技術に興味を
示してくれるだけでも私がここ
に来た意味があると思っていま
す。
ビエンチャンのJICA事務所で
年に4回、帰国される先輩隊員
の活動報告を聴く機会がありま
す。地方にいる私は毎回参加で
きるわけではありませんが、そ
れぞれの先輩隊員に苦悩された
時期があって、自分と重なった
りしてよい勉強になります。そ
していつも、先輩隊員のように
成果を残せる自信も見込みもな
い状況に落ち込み、焦ってしま
います。人と比べるものではな
いとわかっているのに…です。
ラオスの子供はよく弟・妹の面倒をみます。
ラオスの看護の現場から
いつか青年海外協力隊になっ
て、海外で人のためになる仕事
をしたい、という思いを現実に
したラオスでの看護の現場。そ
こで働いて、一年が経ちまし
た。
ラオスに来た当初は、職場に
いるだけで精いっぱいの毎日
で、できることを見つけるため
に、常にラオス人が出来ていな
いことを探してしまっていたよ
それでも帰りの飛行機がウドム
サイの空港に到着する頃には
「ま、いっか。」と笑っていま
す。そしてバスに乗って任地に
到着する頃には「私なりにやっ
てみよぉ~」と気持ちを新たに
することができます。そうして
これまでやってきました。これ
からの一年もきっとこうして
やっていくのだろうと思いま
す。
フン郡病院の職員
ビエンチャン特別市シーコッタボン郡病院
枡田麻美
うに思います。一年経った今、
ラオスに来た頃より慣れてし
まったこともあると思います
が、色々なものが目に入るよう
になってきて、物事を少しずつ
色々な方向から考えられるよう
になってきたのではないかと感
じています。
私の配属されたシーコッタ
ボーン郡病院は、ちょっと大き
めな診療所程の規模で、保健局
を兼ねた病院です。そのため、
地域にあるヘルスセンターのス
タッフと協力して、村へ予防接
種に行ったり、健康診断をした
りと村人との関わりも多いよう
です。
その中の母子保健課で私は働
いています。病院に居る時は、
ラオス人スタッフと一緒に妊婦
健診をしたり、お産を手伝った
Page 14
ラオス
JICA Nurse/Midwife Project News
り、予防接種に来た子どもの身
体測定をしたりしています。
病院で仕事を始めた頃は、妊
婦健診はしているし、注射の手
技だって正しく行っている、病
院もそれほど汚れているわけで
もないという状況で、想像して
いたよりラオス人は仕事をきち
んとしていると感じました。日
本で想像していた協力隊員とし
ての活動は、毎日一緒に仕事を
して、いろいろ教えてあげると
いうことだったので、何が自分
にできるか考える日々でした。
しかし、その教えてあげるとい
う姿勢が正しいものなのか、年
上で、経験もあるスタッフにい
きなり言っても伝わらないだろ
うし、教えるというより、日々
思っていることを交換し合うと
いうことに近いのかもしれない
と感じるようになりました。ラ
オス人に一方的に教えている訳
ではなく、私はラオス人に伝え
ようとして、ラオスのやり方、
考え方などを教えられ、それに
合わせるにはどうしたらよい
か、試行錯誤を続ける日々を過
ごしています。
病院での活動以外では、村で
母子を対象にして、健康教育や
健康診断を行う地域母子保健改
善プロジェクト(POMOSO)を配
属先のスタッフと一緒に行って
います。今は、プロジェクトで
村に下りた時だけ、健康教育を
していますが、時間があればラ
オス人だけで村に予防接種に
行った時や、他の村でも健康教
育をしてくれたらと思っていま
した。それは簡単に行えること
と考えていましたが、実際に村
に一緒に下りると、方法や考え
方を変えないと実際に行うこと
Page 15
は難しいと分かりました。以前
の私なら、必要なのになぜやら
ないのかと思ってしまったと思
いますが、今のやり方の中で、
ラオス人はやれることはやって
いると感じました。今は、もっ
と良くするにはどうすれば良い
か、違うやり方はないかという
ことをラオス人に提案し、本当
に実施できる方法を一緒に考え
ていきたいと思うようになりま
した。
日本では、看護教育も病院の
環境も整っています。自分達が
大切にしている、患者さんのた
めという考えは、日本での看護
教育によって伝えられたことだ
と思います。教育内容の違うラ
オス人とは、その点で考え方が
異なってくるのは当然のことで
あり、どのような教育を受けた
のかということがとても大切で
あるということに気づかされま
した。
その一方で、日本の看護教育
や病院の環境は、出来上がって
いることが多いようにも思われ
ました。ラオスはその点、まだ
まだ発展途上なので、日々ス
タッフと考え方をすり合わせな
がら、ひとつひとつ積み上げて
いける要素が多いように思いま
す。帰国するまでの一年間で、
目に見えるものをラオス人の中
に積み上げていけるかは分かり
ませんが、ラオスの看護の現場
での面白さがそこにあるのでは
ないかと、やっと最近になって
感じています。
残りの任期、時間に追われな
がらの日々になると思われます
が、少しずつ、焦らず、ラオス
人と一緒に活動していけたらと
思います。
郡病院
郡病院での妊婦健診
村での健康教育風景
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
ラオスの看護の現場から
私の任地はビエンチャンの中
心部より南へ60kmに位置する
のパークグム郡病院です。パー
クグム郡は一応ビエンチャン特
別市ですが、となりのボリカム
サイ県と接しておりビエンチャ
ン中心部とは全く様相が異な
り、水道も通っておらずインフ
ラの整備がかなり遅れている地
域です。郡病院の敷地内にも牛
が放し飼いにされておりのどか
な印象を与えます。
私はJOCVと保健局の合同の地
域母子保健改善プロジェクト
(PoMoSo)の一員で、パークグ
ム郡病院のボランティア2代目
隊員です。2009年よりプロジェ
クト対象郡が2群増え、現在は
ビエンチャン特別市の5郡及び
それをまとめる保健局と協力し
ながら活動をしています。
赴任当初は毎日郡病院の母子
保健課でひたすら妊婦健診だけ
をする日々が続きました。その
上カウンターパートの突然の病
気休暇です。地域巡回ができな
いまま郡病院で日々の業務をな
す日々でした。カウンターパー
ト不在、JOCVの私1人に診察を
任せ、遅刻・欠勤は日常茶飯事
のスタッフに不満だらけの半年
間でした。だから私もそんなス
タッフに常に距離をおいて接し
ていました。カウンターパート
が復帰しいよいよ地域での活動
が始動しはじめた頃から、だん
だんスタッフとの距離が縮まっ
てきました。仕事以外で一緒に
過ごす時間が長くなると、ス
タッフが自宅でクリニックを開
いて村の住民にとても頼りにさ
れている存在であるということ
ビエンチャン特別市パ-クグム郡病院
田中和子
を知りました。さらに4日に一
度の当直業務をしながら子育
て・家事もこなしつつPoMoSoの
巡回活動もやっているというこ
とを知り、私のスタッフに対す
る見方が少しずつ軟化していき
ました。それと同時に少しずつ
仕事もスムーズに進むようにな
りました。カウンターパートで
ある課長も頻繁にあるビエン
チャンでのいろいろな会議や女
性同盟の役員業務に追われなが
らも一緒にPoMoSoの活動を行っ
てくれます。そして最近では治
療課のスタッフも地域巡回に協
力してくれるようになりまし
た。はじめは巡回になかなか腰
を上げてくれなかったスタッフ
ですが、今では率先して巡回に
行ってくれる頼もしい存在にな
りました。母子保健課スタッフ
は課長とスタッフ2人しかいま
せんが、私は優しくて頼りにな
る同僚に恵まれていると思いま
す。
私の郡のプロジェクト対象村
はどの村も国道13号線から遠く
離れているため村で出産する女
性がほとんどですが、地域巡回
を重ねるうちに少しずつ対象村
の妊婦さんが健診に来てくれる
ようになったのはすごくうれし
いことです。しかし施設での出
産を推奨しながら郡病院の看護
のレベルが追いついておらず十
分なケアを患者さんに提供でき
ていないのが残念です。やるべ
きことはたくさんありますが、
残りの任期では地域巡回はもち
ろん、郡病院での健康教育に力
を注ぎたいと思っています。
この1年間見えないゴールを
目指し、わけのわからないまま
スタートし無我夢中で走ってき
てやっと中間地点にきたという
感じです。あと約1年間息切れ
しないよう気をつけながら母子
保健課だけでなく他の課のス
タッフも巻き込んで、5郡及び
保健局と連携し活動を続けてい
き後任にバトンタッチできたら
と思っています。
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ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
ラオスの看護の現場から
日本で15年、看護と教育の
現場で刺激的に楽しい仕事をし
ていましたが、偶然できた時間
にフッと湧いた「青年海外協力
隊」。ひょっこりラオスに来て
しまった感じですが、それでも
もう1年が経ちました。
私は助産師として、首都ビエ
ンチャン市中心部に近いサイ
セッター郡で地域母子保健改善
プロジェクト(通称PoMoS
o)に携わっています。
≪感動の日々≫
ラオスに来てから感動の連続
でした。ラオスの母子の「生き
る力」や「育てる力」のなんと
大きいことか!!と。
出産とその後は母子にとって
生物的にも社会的にも危機が大
きく、日本ではそれを乗り越え
るために多くのサポートを必要
とすることが当たり前です。そ
のサポートにこの15年、たく
さんの時間とアタマとカラダを
使ってきたように思います。で
も、ラオスでは郡病院で産む際
もスタッフが関わるのは、出産
のその瞬間のみです。日差しの
強い渡り廊下で一人で陣痛を乗
り越え、出産後は4~6時間で
自宅に帰っていくのです。産後
4~5日間は様々な問題が次々
と起こる時期だというのに…。
また、首都中央部ではあるもの
の、自宅で一人で(または家族
の手伝いのみで)産む産婦も多
いのです。そして、彼らは出産
後1か月半頃丸々とした赤ちゃ
んを連れて予防接種にやってき
ます。沢山の危機を母子二人
で、そして家族の力で乗り越
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ビエンチャン特別市サイセッター郡病院
北村愛
え、母親らしい自信と落ち着き
で子どもの世話をしている、若
い母親たちを見るたびに、ラオ
ス人の強さ、そして人間の強さ
に強烈に感動しています。
≪命に対する認識、仕事に対す
るプライド≫
一方で郡病院での日々は色ん
な重い現実にもぶち当たる日々
です。
活動を始めて3か月頃のある
朝、病院に出勤すると分娩台の
上に一人の産婦がいます。子宮
口が全開大ちかくで間もなく生
まれそうな状態ですが、ついて
いる夜勤のナースと私のCP(カ
ウンターパート)が何やらもめ
ています。逆子というのが今に
なって分かり、中央の大きな病
院に搬送するかどうか、という
ことのようです。逆子のリスク
や、この状態で移動をするとい
うのが子どもの命にとっていか
に危険か、というのはCPも分
かっているようなのですが、と
にかくこの病院では逆子のお産
は出来ないとの一点張り
で・・・結局、私にはどうする
こともできず、陣痛に苦しむ産
婦は分娩台から降り夫と二人で
トゥクトゥクに乗って行ってし
まいました。同行も許されず、
その母子の成り行きも把握する
ことができず、私の気持ちは
悶々としていきました。10日前
に妊婦健診をしているのは紛れ
もなくCPで、そのときに胎位を
見ときさえすれば、・・・産婦
が入院してきたときに誰か腹部
触診してくれたら・・・母子と
も一番苦しい時期に、このよう
な残酷な事態をつくらずに済
んだのに、という思いを自身
が冷静になるのを待って数時
間後に二人に話したのです
が、二人とも「え?誰の
話?」と気にもなっていない
様子にさらに愕然としたので
す。CPはそのあとも妊婦健診
で胎位を見ることはありませ
ん。
自分と相手は違う人間。考
えることも違うのは当然。と
いつも思っているのですが、
このようにラオス人スタッフ
の行動が母子の命を軽んじる
ような行動に見えると、私は
いつも「どうして!?気にな
らないの?どうして!?でき
ないの??」と思ってしまい
ます。
≪相手の変化を待つという活
動、変わるチャンスを作る活
動≫
彼らは多くのドナーにより
様々なトレーニングを受けて
います。
また、私自身も活動半年目
くらいに病院スタッフとヘル
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
スセンタースタッフ対象のト
レーニングを企画実施しまし
た。そこで思ったことは、彼ら
は意外にいろんな事を知ってい
る、ということ。ただし“やり
かた”に関してですが。講師陣
の教授法も面白いほど同じでし
た。終始“方法”を伝えている
のです。
「産後の家庭訪問はいつ行き
ますか?」受講生は口をそろえ
て「2週目」
「家庭訪問では何をします
か?」またまた口をそろえて
「1.体重測定、2.授乳がう
まくいっているか確認、
3.・・・」
家庭訪問を実施しているスタッ
フは誰もいません。
人間は方法だけ知っても行動は
しません。目的や意味を気づい
て初めて行動を変える動機づけ
ができると思っています。ま
た、多くのドナーに見られる、
お金や権力で相手を動かそうと
する援助の仕方は、あまりに相
手を馬鹿にした方法ではないか
と思わずにいられません。
青年海外協力隊としてのメ
リットは、現場で活動している
人たちと2年間毎日顔を突き合
わせてディスカッションができ
るということではないかと思い
ます。それは相互浸透を起こ
し、ものの感じ方考え方に影響
を及ぼしてくると信じているか
らです。
これまでの1年間では、とに
かく毎日の業務をできるだけラ
オス人と一緒にしてきました。
そのとき行動を注意することは
極力しないで「どうして?」と
の問いのやりとりをしてきまし
た。また、担当させてもらった
トレーニングでは「日本のお
産」を紹介し、受講生たちが
「なんで?」と理由や目的を知
りたくなるよう工夫しました。
生活面でも、ラオス人の気持ち
に近づくために便利なものを手
放して七輪で毎日料理をした
り、一緒に延々ビールを飲んだ
り…。
どうすれば、相手の認識に近
づけるのか、どうすれば、相手
が意味に気づいたり、行動を変
えるようなきっかけがつくれる
のか、はまだまだ試行錯誤で
す。
そうして1年。
病院内や村巡回でスタッフの
行動に腹が立つときは、
「あぁ、私はまだまだ相手の立
場に立てていないな」と未熟な
自分を振り返ることができる余
裕ができてきました。
「何したの?」と聞かれる
と、目立つ活動も目立つ成果も
なく、何もしていないような気
もするのですが、妊婦健診をい
つも一緒にしているナースが、
必要そうな妊婦さんには生活の
アドバイスを自ら実施するよう
になったこと、ときにはアドバ
イスの仕方を私に指導してくれ
るようになったこと、測ってい
ない値は書かないようになった
こと、かたくなに振り返りをし
なかった年配のスタッフが「こ
の前のお産だけどさ…」と自ら
話すようになったこと、12人目
を妊娠していて色々問題を抱え
ていたお母さんが村落巡回のと
きに元気に生まれた子を笑顔で
連れてきてくれたこと・・・そ
んな、小さいけど、すばらしく
嬉しいことが毎日ちょっとず
つあります。また、毎日出会
う力強いラオスの母子には本
当にたくさんパワーをもらっ
ています。
日本にいるときよりじっく
り悩むことができることもこ
この良い点です。わたしたち
がどこかで落としてきてし
まった大切なものもたくさん
ここにはあります。見習いた
いことも本当にたくさんあり
ます。私自身の中にはたくさ
ん変化が起こっています。
きっかけを毎日与えてくれて
いるラオスの母子や、スタッ
フたちに感謝しながら、これ
から先の活動においても、相
手の力を信じつつ、たくさん
悩んで、たくさん迷って、た
くさん飲んで、そして、もう
ちょっとラオス語をがんばっ
て……たくさん話し合ってお
互いの身になるような活動を
目指していきたいと思いま
す。
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ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
ラオスの看護の現場から
ラオスの看護の現場から
セコン県ラマム郡保健局
村上沙苗
皆様、サバイデイー。20年度4
次隊でセコン県ラマム郡保健局
に派遣されています。看護師の
村上沙苗です。今回は『ラオス
の看護の現場から』を書く機会
をいただいたので、赴任して
ちょうど1年、今、私のいる現
状や思っている事を書かせてい
ただこうと思います。
《 任地・職場紹介 》
私の任地セコン県は、南部の主
要都市パクセーからバスで3~
4時間ほどかかる小さな、出来
てもうすぐ26周年になる新し
い県です。住民は中地ラオ族と
言われるカトゥー、タリアン、
アラックなどの民族が多くを占
めています。しかし、北部と違
いあまり民族衣装などは見られ
ず、赴任当初は少数民族と言わ
れても、あまり理解出来ません
でした。その中で県都であるラ
マム郡には29.176人4.374世帯
が暮らしているといわれていま
す。ラオスに来た当初、表敬に
行くと決まって「セコンに行く
の?大変ね」と言われ、どんな
所だろうと心配していました
が、電気も水もたまに止まる程
度で、一応、県都なので贅沢を
言わなければ生活には困りませ
ん。ただ、小さな田舎の町では
プライバシーはあまり守られな
いし、門に鍵をかけていても子
供たちは侵入してくるし、そう
いう意味のストレスは大きいで
す。こういう事はどこでも同じ
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セコン県ラマム郡保健局
かもしれませんが・・・・・。
私の職場はそんなセコン県の県
都ラマム郡の保健局になりま
す。タラートの裏にある、本当
に小さな小屋と言っても過言で
はありません。初めて来る人
は、職場がそこと気づかず、隣
の財務局の建物に入っていきま
す。私の職場は県都の郡なの
で、他の郡と違い、隣に病院な
どの医療施設はありません。そ
のため、患者さんは全くと言っ
ていいほど来ません。一応はス
タッフ全員で32名。事務の部
署、治療の部署、予防医療の部
署に分かれ働いています。カウ
ンターパートは予防接種課の課
長になります。治療の部署はヘ
ルスポストにあたるので、基本
的に職場に来るスタッフは18
名です。そんな小さな職場で、
最も聞かれる言葉は「ボーミー
グン(お金がない)」って事
で、予算もあまりないため、予
防医療の部署が活動を行うのは
ドナーからの依頼が来た時が多
く、郡保健局独自の活動はあま
り見られず、それも、私の悩み
の種です。
《 赴任からの日々 》
この1年を振り返り、私の行っ
た看護って・・・と考えました
が、思い当たる事はあまりあり
ません。毎回、私が人に言う事
は「何もしていません。ただ、
職場に座っています。」1年
間、ずっと座っていたわけでは
ないですが、心情としてはその
ような感じです。この1年間
『私はここに何をしに来たのだ
ろう』『ここの人達は一体私に
村上沙苗
何を求めているのだろう』とい
う問いかけの時間が1番多かっ
たように思います。要請内容は
地域保健でした。母子でも、公
衆衛生でも、健康教育でも、マ
ラリアでも、何でも可。やりた
い事をしていい感じの書かれ方
でした。だから、赴任後色々と
見て、自分の問題だと感じる所
にアプローチしたら良いと考え
ていたのですが・・・・なかな
か、見に行くという行為が難し
い。出来るだけスタッフが村に
行く時に同行しようと思って
も、スタッフの移動は基本的に
バイクです。私はバイク貸与で
はないので、たいていの場合は
置いていかれました。「サナエ
はバイクないから今度ね」その
今度はいつくるんだ!!と、悔
しくて自転車で行ったりもして
いますが、セコンは基本的に山
の中なので、道の上下が多く、
10㎞範囲内が限度でした。患
者は来ない、対象となる住民が
いる村にも自分は行けない、た
だ、職場にいるだけ、ただ、
座っているだけ・・・・。協力
隊に参加を希望したのは世界で
起こっている事を知りたかった
からです。日本に居て、ニュー
村での健康教育
ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
スで見て、そんな事が起こって
いるのだな世界では・・・と
思って、そして、ニュースにな
らなくなって忘れて、でも、確
実にそんな事が起こっている世
界は私が忘れても現実としてあ
る。だから、体験として自分の
目で見て感じたかったからで
す。けれど、見に行く事もなか
なか出来ず、活動も何をしたら
いいのかわからず、私は看護師
として必要とされず、ただ時間
だけが過ぎて行きました。半年
過ぎても、活動の方向性ややり
たい事は明確にはなりませんで
した。
《 活動についての転機 》
転機は10月~11月頃やって
きました。南部を直撃した大き
な台風と、その後の洪水。その
緊急支援として薬を村に届ける
という仕事の依頼がドナーから
きたのです。薬の量が多いため
車が出たので、私も一緒に連れ
て行ってもらえました。これは
これで結局、車が行けるような
道じゃない村に行くので、何時
間も森の中を歩いたりして、と
ても大変だったのですが、住民
の生活環境について考えるいい
機会になりました。そして、そ
の後のNGOの援助の入ってい
る学校への健康診断。もちろ
ん、スタッフは血圧や脈拍、体
温、呼吸数まで測定はせずに記
載するし、舌圧子は消毒もせず
に使いまわそうとするし、散々
でしたが・・・・。職場で行う
サービスの質について考えさせ
られました。最後が、破傷風の
予防接種です。コマーシャルも
ろくにせず、毎日村に突撃をか
け、11月の住民が稲刈りでほ
ぼいない村で来るのか来ないの
か、あと何人いるのかわからな
いお母さん達をただひたすら待
ち、後日、打ち漏れが多いとわ
かり、再び村へ行き・・・・。
職場の仕事の効率性を上げる必
要を痛感しました。そして全て
の仕事において感じたのは、説
明が足りないという事でした。
健康診断では、小学校1年生に
飲み方の説明を口頭だけで行い
4~5種類の薬を渡す。予防接
種では最初のコマーシャルが行
われておらず、5歳以下の子供
のいる母親に一緒に渡す食べ物
にかけるパウダーも渡すだけ、
使い方の説明はしません。
けれど、スタッフは自分が楽を
したくてそうしているわけでは
ありません。サービスを提供し
ている本人達はみんな一生懸命
で、来る人達の対応におわれて
いました。そんな姿を見て、本
当にこの人達は知らないのだな
と思いました。もっと、自分達
も働きやすく、そして、サービ
スを受けるべき全ての人がサー
ビスを受けられるようになる方
法を。それを考えて伝えていく
のが自分の出来る事かなと思い
ました。
《 これからの活動 》
赴任から1年。やっと2号報告
書も出来上がりました。村への
移動方法もJICA事務所と話
し合う事が出来、やっと活動が
動き出しそうな気配です。住民
の生活環境の改善・職場の業務
整理とマニュアル化・住民やス
タッフへの知識の普及、やりた
い事はこの3つです。2号を局
長に提出したら「ボーカオチャ
イ(わからない)」と言われま
した。私は敢えて計画につい
て、細かい方法は記載せず、ス
タッフと私で考える・相談する
という言葉を用いました。悲し
い事ですが、私の職場は県都の
郡保健局という事もあり、自分
達で考えるという行為があまり
行われていないように感じま
す。ドナーや県保健局の指示で
行う仕事が普通、やり方は指示
通りに、データはただの中継点
でそのデータから何かを読み取
り考える事は出来ないと思いま
す。ある意味、これも援助慣れ
の1つではないかと感じていま
す。だから、私はそんなスタッ
フに考えて欲しいと思います。
どうすればサービスの質が上が
るのか、健康教育の必要性や方
法・データから見る村の個別
性、もちろん、そんな簡単な事
ではありません。しかし、出来
るだけ一緒に考えて、相談して
活動を進めていけたら、あと1
年で私だけで考えた方法で何十
回仕事をするより、たった1回
小学校での健康診断
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ラオス JICA Nurse/Midwife Project News
でもスタッフと相談した方法で
出来たら、きっと意味があるの
ではないかと思っています。大
変だろうけど・・・・・。ここ
の職場は人はいいけど、計画は
進まなかったし、村にも行けな
いし、何人かの人に「任地変更
を考えたら?」と言われまし
た。けれど、世界中に沢山ある
任地の中で、ここの保健局に派
遣されたのは、やっぱり縁が
あったからだと思うので、あと
1年、ここでここのスタッフと
頑張りたい。私とラマム郡保健
局スタッフの間にある可能性を
あきらめたくないです。
あとは初志貫徹で、とりあえず
見に行く事。たとえ何も出来な
くとも、私にはラマム郡保健局
に派遣された初代の看護師とし
て、やはりそこで暮らす人々に
ついて知る責任があると思って
います。だから、機会がある限
り、色んな所に行きたいです。
行って、村の人達と触れ合っ
て、お互いに世界を広げたい
と、そう思います。
今、密かに狙っているのは、歩
いて2日間かけて行く山奥の
村。きっと、外人とは接する事
無く生活しているあろう人々が
生まれて初めて見る外人が私っ
て、何かいい・・・・・。で
も、多分、足手まといにしかな
らないから、連れて行ってもら
えないと思いますが・・・・。
「サナエは太っているから、足
や腰が痛くなって、きっと無
理」と言われました。まずは、
やせる事から始めないといけな
いようです。
《 ラオスに来て、ラオス人と
触れ合って 》
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ここに来て今月で1年になりま
す。最初は本当に頼んでないの
に押しかけて来る人々に、かな
りの異文化体験でした。断って
いるのに知らない人が迎えに来
たり、家に来れば荷物は開けら
れ中身チェック・・・・。「色
が白いのね」と二の腕に鼻をつ
けられて匂いをかがれた時に
は、固まってしまい、何も言え
なくなりました。そんなパーソ
ナルスペースが近いラオス人
に、今でもストレスは感じるけ
れど、1週間セコンを空けると
「サナエが恋しかった」と抱き
しめてくれる職場のおばちゃん
達とか、日本にはない暖かい所
が好きでもあります。日本では
絶対に個人名で、血のつながら
ない人をおばあちゃんと呼んだ
ら失礼にあたるけど、私の事を
「ルーク」と呼んでくれる所と
か、そういう所も好きです。絶
対的に日本のほうが知識もある
し、生活だっていい。けれど、
日々の生活に満足し、そこにあ
るもので満足し、幸せ度は圧倒
的にラオス人の方が高い。1年
間、楽しかったし、悔しかった
し、日本に帰りたくなった事も
沢山あったし、でも、そんなラ
オスに来られて、やっぱり良
かったなと思います。
というわけで、心配しながらも
送り出してくれた家族に、日本
で心配してくれている友人に、
感謝。そして、そういう思いを
させてくれている職場のスタッ
フに沢山の感謝。それから、何
が出来るか、まだわからないけ
ど、あと1年間よろしくお願い
します!!
職場のカワ
イイ3人娘
最貧困郡
ダクチュ
ン郡の子
供たちと
Fly UP