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シモーヌ・ド・ボーヴォワール伝記

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シモーヌ・ド・ボーヴォワール伝記
序論
1.ボーヴォワール研究の推移と本論文の趣旨
ボーヴォワール研究は、現在、第三の視点からなされている。第一の視点は、言うまで
もなく、実存主義である。1945 年 10 月に『レ・タン・モデルヌ』誌の第一号が出版され、
10 月 29 日に、ジャン=ポール・サルトル(1905‒1980)は「実存主義はヒューマニズムであ
る」と題する講演を行った。それまで、サルトルもボーヴォワール(1908‒1986)も、自分
たちに貼られた「実存主義者」というレッテルを拒み続けてきたが、この講演を機に、サ
ルトルは実存主義の哲学者となった1。一方、ボーヴォワールは彼の追随者と見なされるよ
うになった2。
ボーヴォワール研究の第二の視点はフェミニズムである。1960 年代末に欧米で女性解放
運動が起こり、ボーヴォワールの『第二の性』(1949)はフェミニズムの理論書として読ま
れた3。ボーヴォワールのフェミニズムは、歴史的に見ると、政治および家族制度の改革を
目指した「第一波フェミニズム(1850‒1920)」と意識、性関係、人間関係の改革を目指し
た「第二波フェミニズム(1968‒1990)」の中間に位置する。
これら二つの波に挟まれた時代には、大規模な女性運動はなかったが、女性の状況につ
いての重要な批評がなされ、そのなかでもっとも注目に値するのが『第二の性』であった。
ボーヴォワールは、家父長制や女性の経験の特殊性に言及することで、ラディカル・フェ
ミニズムに先鞭をつけた。そして、現在では、ジェンダー論の文脈においても論じられて
1
サルトルが実存主義という言葉を積極的に自分の哲学に冠した最初のテキストは「実存主義について─
─批判に答える」であり、発表されたのは共産党系の週刊誌『アクション』(1945 年 6 月 8 日号)であっ
た(伊吹武彦/海老坂武/石崎晴己訳『実存主義とは何か』増補新装版(京都:人文書院、1996 年)に所収
された海老坂武、「1945 年の実存主義」、8 頁)。
2 ハーバート・スピーゲルバーグは次のように述べている。
「ボーヴォワールは、特に倫理学の分野で、
サルトルの基本的な考えをもっとも直載にかつ変更を加えずに表現した人と言えるだろう。しかし、フラ
ンス現象学の歴史のなかでもサルトルのそれに対する彼女のかけがえのない貢献を別とすれば、彼女の著
作における現象学的な要素は比較的わずかであり、ほとんど表立っていない(Herbert Spiegelberg, The
Phenomenological Movement: A Historical Introduction, Den Haag: Martinus Nijhoff , 1960(1982),
pp. 530‒531.『現象学運動』立松弘孝監訳、東京:世界書院、2000 年、下巻 175‒177 頁)」。また、アン
ナ・ボスケッティはボーヴォワールの役割に関して次のように述べている。「シモーヌ・ド・ボーヴォワ
ールの軌道は、だれにも増してサルトルとの関係によって条件づけられている。実際それは、男女間の伝
統的な分業を反映したものとなっている。サルトルが、実存主義の哲学的・審美的・倫理的・政治的原則
を仕上げ、彼の伴侶は、適用し、普及させ、解明し、擁護し、運営するわけである(『知識人の覇権──
20 世紀フランス文化界とサルトル』石崎晴己訳、東京:新評論、1987 年、360 頁)」。アルノ・ミュンス
ターもまた次のように述べている。「ボーヴォワールもかなり早い時期にサルトルの「モラル」に関心を
持った。彼女が同じテーマに費やし、「両義性のモラル」が中心となっている著書は、サルトルの主張の
可能な限り最高の要約にして解説として読むことができる(Arno Münster, Sartre et la morale, Paris:
L’Harmattan, 2007, p.17)」。
3 カトリーヌ・ロジャースは、フランスにおけるフェミニズムの言説あるいは理論の形成に決定的な位置
を占めてきた 11 人の女性たちと『第二の性』をテーマとする対談を行った。そこには哲学者 E・バダン
テール、S・コフマン、J・クリステヴァ、M・ル・ドゥフが含まれていた。対談の結果、大半の人には、
ボーヴォワールのフェミニスト的アンガジュマンを認め、『第二の性』の歴史的重要性を認め、家父長制
における女性の抑圧についてのその分析の正確さを認める用意はあるが、自分の思考や作品に対する『第
二の性』の直接的な影響を認めるつもりはほとんどないということが分かった(Catherine Rodgers, Le
Deuxième Sexe de Simone de Beauvoir Un héritage admiré et contesté, L’Harmattan ,1998, p. 298)。
1
いる4。
さらに、ボーヴォワールは実践的な活動家としての側面を持ち、1970 年に始まったフラ
ンスの女性解放運動(MLF)に参加し、ある時には先頭に立ち、ある時には密かに資金を
提供するなどして運動を支えた5。
そして、現在、ボーヴォワール研究は第三の視点からなされている。それは、第一の視
点と第二の視点において見落とされていたボーヴォワールの哲学を、彼女自身のテキスト
に即して研究するというものである6。それは、運動としての実存主義やフェミニズムその
ものではなく、それらを支えている哲学に迫ることである。本論文も、第三の視点からな
された研究に基づいている。
こうした研究が可能になった背景には、サルトルとボーヴォワールの死後に日記、手紙、
ノート等が公刊されたことがある。サルトルがこの世を去ったのは 1980 年であった。1983
年に『倫理学ノート』、
『奇妙な戦争──戦中日記』、『サルトル書簡集』(『女たちへの手紙
──サルトル書簡集1』
、『ボーヴォワールへの手紙──サルトル書簡集2』)が、1985 年
には『弁証法的理性批判』第二巻が、1989 年には『真理と実存』が公になった。
ボーヴォワールの死から 4 年後の 1990 年には『戦中日記』と『サルトルへの手紙』が
公刊された。また、1990 年には、シモーヌの養女シルヴィ・ル・ボン・ド・ボーヴォワー
ルが、シモーヌの 1926 年から 1930 年の日記を国立図書館に寄贈し、この日記が研究の対
象に加わった。
ミッシェル・ル・ドゥフは、1989 年に刊行された『研究と糸車』ではボーヴォワールを
サルトルの弟子にして愛人と見なしていたが、
『サルトルへの手紙』の公刊以降、ボーヴォ
ワールの真の再出発点はサルトルよりもヘーゲルであると考えている7。私も『戦中日記』
と『サルトルへの手紙』を読むことで、ボーヴォワールの承認論はヘーゲルに由来するも
のであるとの確信を得ることができた。このように、ボーヴォワールの生前に入手可能で
あった研究資料に新たな研究資料が加わり、現在は、ボーヴォワールの哲学の研究には好
機である。
私は、1997 年に出版され、2001 年に文庫化された『第二の性』8の翻訳に参加し、その
際に、ボーヴォワール哲学の研究の必要性を実感した。1999 年は『第二の性』が出版され
4
ジュディス・バトラーは、「純然たる身体は見出されず、見出されるのは状況のうちにある身体である
ならば、ボーヴォワールの理論は、暗に、セックスは最初からジェンダーではなかったのかと問うている
ように思われる」と述べている(Judith Butler, Sex and Gender in Beauvoir's Second Sex, Yale French
Studies, Simone de Beauvoir: Witness to a Century, no. 72 , Winter 1986, p. 46)。バトラーはその後も
『ジェンダー・トラブル』などにおいてボーヴォワールに言及している(J. Butler, Gender Trouble :
Feminism and the Subversion of Identity, London・New York: Routledge, 1990.『ジェンダー・トラブ
ル、フェミニズムとアイデンティティの攪乱』竹村和子訳、東京:青土社、1999 年 )。
5 Claudine Monteil, Simone de Beauvoir, le mouvement des femmes, mémoires d’une jeune fille
rebelle, Monaco: Editions du Rocher, 1996.
6 日本においても、
『第二の性』は、1953 年訳では体験的女性論、1997 年訳ではフェミニズムの理論書
とされ、哲学の視点からの翻訳や研究は行われてこなかった。
7 Michèle Le Doeuff, L’étude et le rouet 1 Des femmes, de la philosophie, etc., Paris: Seuil, 1989, pp.
153‒158. M. Le Doeuff, Simone de Beauvoir : Les ambiguïtés d’un ralliement, Le Magazine
Littéraire, n°320, avril 1994, pp. 58‒61.
8 Simone de Beauvoir, Le deuxième sexe, Paris: Gallimard, Ⅰ1949(1986)/folio1986(2005)・Ⅱ
1949(1987)/folio1986(2002). 『第二の性』
『第二の性』を原文で読み直す会訳、東京:新潮社、2001 年。
2
てから 50 周年に当たるため、世界各地でシンポジウムが開催された。私は 1 月のパリと
11 月のアイヒシュテット(ドイツ)でのシンポジウムに参加し、マーガレット・A・シモ
ンズやエヴァ・ルンドグレン=ゴットリンなどの研究者がボーヴォワールの哲学の研究を
行っていることを知った。 私が大学に戻って、本格的にボーヴォワールの哲学の研究を始
めたのは 2001 年のことであった。
次に、本論文の理解に資するために、ボーヴォワールの生い立ちと学業について簡単に
述べておきたい。
2.生い立ち
シモーヌ・リュシィ・エルネスティーヌ・マリー・ベルトラン・ド・ボーヴォワールは
1908 年 1 月 9 日、パリのモンパルナスに生まれた。パリジャンであった父ジョルジュ(1878
‒1941)は、当時は法学士として、かなり名の通った法律事務所で働いていた。彼はまた、
妻フランソワーズ(1888‒1963)とともに、素人劇団で芝居をしていた。フランソワーズは、
フランスの北東部のブルジョワ階級の出身で、厳格なカトリック教徒であった。シモーヌ
が二歳半の時、妹のエレーヌが生まれ、彼女はのちに画家になった。シモーヌとエレーヌ
が職業を持って自活できるように教育された背景には、この家族が抱える経済的な事情が
あった。
その一つは、フランソワーズの父ギュスターヴ・ブラッスールの破産であった。ギュス
ターヴは、ロレーヌ地方、ヴェルダンの銀行家で、成功していた時期もあったが、1909
年 7 月に経営する銀行が債務返済を命じられた。ブラッスール家の個人資産までが競売に
かけられ、フランソワーズの持参金は支払われなかった。さらに、ギュスターヴは詐欺容
疑で逮捕され、15 ヵ月の禁固と 500 フランの罰金を言い渡された。
家族が零落する原因のもう一つは、ジョルジュのライフ・スタイルにあった。彼が 13
歳のときに、はげまし見守ってくれた母親が亡くなると、ジョルジュは行きあたりばった
りに、むさぼるように本を読むようになった。記憶力に優れた彼は、大学入学資格試験に
合格し、法科に席を置いたが、授業に出ることはほとんどなかった。彼には職業的野心が
なく、素人演劇に情熱を傾けていた。
父親も叔父たちも、彼にむかって、お前は貴族なのだと言い聞かせた。彼がいだく貴族
の概念とは、仕事や家庭の美徳といったブルジョワのモラルには無縁であり、金利で生活
し、サロンやクラブに迎えられ、数多くの愛人を囲うというものだった。
ベルトラン家がいつからボーヴォワール姓を名のり、貴族の称号ド(de)を冠するよう
になったかは定かではない。シモーヌの祖父はすでにこの姓を名のっていた。曾祖父フラ
ンソワ=ナルシスと祖父エルネスト=ナルシスは官吏を務め、共に相当な財産を築いた。祖
父は曾祖父から、リムーザン地方のメリニャックにある広大な館と 200 ヘクタールの栗林
と森を相続した。ジョルジュにも母からのささやかな遺産があったが、彼はそれを無造作
に使っていた。
第一次世界大戦後、ジョルジュの経済状態はさらに悪化した。いくつかの事業に失敗し
て無一文になり、家族は、彼が稼げるだけの収入で生活していかなくてはならなかった。
法律事務所はやめていたので、
『ル・ゴーロワ』紙の広告とりをして生計を立てた。一家は
以前より狭く、住み心地の悪いアパルトマンに引っ越し、女中のいない生活を始めた。そ
3
れは 1919 年の夏のことであり、このとき、シモーヌは 11 歳であった。彼女は、それから
の 10 年間を、このレンヌ街にあるアパルトマンで過ごすことになる。そして、ジョルジ
ュは娘たちに繰り返し言っていた。
「お前たちはお嫁には行かないのだよ。お前たちには持
参金がないのだから、働かなければならないのだよ」9。
3.学業
シモーヌは 1913 年、五歳半で、カトリック系の私塾アドリーヌ・デジール学院の最下
級に入学した。1880 年以降、国は非宗教的な初等教育をすべての子どもに無償で提供する
ようになっていたが、シモーヌが入学したのは、少数定員のささやかな女子校であった。
そのような学校には学費を払わなければならなかったので、カトリック系の学校に子ども
を通わせたのは、圧倒的にブルジョワ階級の人々であった。
パリには、貴族の子女を対象とした、オワゾーやサント=クロチルドといった修道院に
付属する寄宿学校があった。一方、シモーヌのいとこたちやジャン=ポール・サルトルの
ような裕福なブルジョワジーの子弟は、家庭教師から教育を受けていた。デジール学院の
ような学校は、家庭教師を雇えない家の子女を対象としていたのである。だからと言って、
自分の娘に国の非宗教的な初等教育を受けさせるということは、オワゾー修道院の分校に
学んだ母フランソワーズには考えられないことだった。
デジール学院では、生徒が 10 歳になるまで、母親には授業を参観する権利があった。
母親たちは編み物や刺繍をしながら、娘たちの授業を聞いていた。フランソワーズは、授
業や学校行事に熱心に参加し、娘の勉強についていくために、ラテン語の勉強を始めたほ
どだった。しかし、彼女の度を超えた熱心さは、娘たちの憤りを招き、彼女たちの脱出へ
の願望を駆り立てた。シモーヌにとって、脱出の道は、大学入学資格(バカロレア)、ソル
ボンヌ大学での勉学、哲学教授資格(アグレガシオン)へと続いていた。
時代もまた、シモーヌの後押しをした。トリル・モイが当時の複雑な女子の教育制度に
ついて詳しく説明しているので、シモーヌがたどった道に沿って整理してみよう。1880
年 12 月 21 日に、女性が中等教育を受けやすくするための法律であるカミーユ・セー法が
議会を通過した。この法律に基づく制度は男女別学を原則としていたために、女子生徒は
女性教員によって教育されなければならなくなり、中等教育教員という新しい職業が女性
たちに開かれた。
しかし、カミーユ・セー法によって 12 歳から 17 歳の女子に全日制の教育課程が準備さ
れたものの、公立学校に通ったのでは大学入学資格を得ることができなかった。女子課程
9
Simone de Beauvoir, Mémoires d’une jeune fille rangée, Gallimard, 1958/folio1972(2002), p.145
( 『ある女の回想──娘時代』朝吹登水子訳、東京:紀伊國屋書店、1961 年、94 頁)。本論文では folio2002
版を使用した。また、本節では以下の文献を参考にした。Claude Francis et Fernande Gontier, Simone
de Beauvoir, Paris: Perrin, 1985.『ボーヴォワール──ある恋の物語』福井美津子訳、東京:平凡社、1989
年。Toril Moi, Simone de Beauvoir: The Making of an Intellectual Woman, Cambridge, Mass・Oxford:
Blackwell, 1994.『ボーヴォワール 女性知識人の誕生』大橋洋一+片山亜紀+近藤弘幸+坂本美枝+坂
野由紀子+森岡実穂+和田唯訳、平凡社、2003 年。Barbara Klaw, Le Paris de Beauvoir, Paris:
Syllepse,1999.
4
の年数は、大学入学資格に必要とされる年数よりも一年短く、ギリシャ語かラテン語が含
まれていなかった。当時のフランスで、女性が中等教育の教員資格を得る唯一の方法は、
大学入学資格試験に合格し、大学で学んでリサンス──ほぼ学士号に相当──を取得し、
さらに大学によって与えられる中等教育教員免許を取ることであった10。
カミーユ・セー法は、公立教育制度のなかで女性が大学入学資格を得ることを不可能に
したものであり、女性をフランスの大学から排除するものであった。それでは、どうすれ
ば女性は中等教育の教職に就くことができたのだろうか。解決策として選ばれたのは、女
性のための高等師範学校(ENS)を設立することだった。女性の ENS は、1881 年にパリ南
西郊のセーヴルに開設されたので、
「セーヴル」と呼ばれていた。ユルム街にあった男性の
ENS に入学するのと同様に、セーヴルに入るのにも、競争率の高い試験に合格する必要が
あった。入学すると、まず「セーヴルのリサンス」と呼ばれることの多い女子中等教育教
員免許を取得し、さらに女性教授資格を取得することになっていたが、この女性教授資格
試験は、男性が受験する教授資格試験よりもはるかに専門性の低い一般教養的な試験であ
った11。
当初、セーヴルの女性たちには文学もしくは科学の教授資格しか与えられなかったが、
ほどなく数学と歴史地理が加わった。哲学と古典は女子の中等教育のカリキュラムには含
まれていなかった。したがって、セーヴルで教えられていない科目の教員になりたいと思
う女性は、大学に行かなくてはならず、そのためには大学入学資格を得る必要があった。
ところが、1908 年以前では、個人教授につくか国家の管轄外の学校に通うしか大学入学資
格を得る道はなかった12。
しかし、セーヴルの学生たちとは異なり、大学で教育を受けた女性たちには、公立学校
での教職は保障されていなかった。男性の教授資格試験に合格した場合でさえも女性は定
数外であり、女性のための職は用意されていなかった13。ただし、シモーヌが教授資格試
験に合格した 1929 年には、女子中等教育は実質上男子のものと同一になっており、教授
資格をもつ女性は女子のリセ(国立高等学校)に常勤職を得ることができるようになって
いた14。
カトリック系の学校は、1903 年から 1910 年まで、女性に大学入学資格試験のための教
育を与えるうえで先導的な役割を果たしたが、第一次世界大戦の勃発のころには、パリに
あるすべてのリセが、男子だけでなく女子にも大学入学資格を与えるようになっていた。
1920 年代の初めに、ジョルジュはシモーヌとエレーヌをリセに通わせたらどうかと言った
ことがあった。そのほうがお金もかからないし、良い教育を受けられると考えたからであ
ったが、フランソワーズは宗教的な理由で反対した15。
シモーヌが 12 歳で、両親が娘の中等教育のことを考えていた 1920 年に、パリの中産階
級カトリック層で支配的だった態度を、カトリックのフェヌロン・ジボンが適切に要約し
ている。それは、第一次世界大戦で若い男性がまるまる一世代虐殺されてしまったことを
10
11
12
13
14
15
トリル・モイ前掲書、87‒88 頁。
同書、89 頁。
同書、90 頁。
同書、90 頁。
同書、91 頁。
同書、94‒95 頁。
5
考えると、多くの女性が結婚できないだろう、したがって自活できるように教育を受ける
ことが必要であるというものであった16。
また、19 世紀末フランスのブルジョワジーは、多くの女性が家庭を築くために必要な結
婚持参金をもつことができないだろうということ、したがって、相応のライフ・スタイル
を維持しようとすれば、勤労所得が必要になるだろうということに気づきはじめていた。
そして、第一次世界大戦後のインフレによって持参金や不労所得と言った価値が破壊され
た。純粋に経済的な必要性から、多くの中産階級や上層階級の女性たちが労働市場に出て
いかざるをえなかったが、ブルジョワ女性はブルジョワ的なやり方で生計を立てることを
望んでおり、またそうすることを期待されていた。この点で、中等教育の教職をめざすシ
モーヌの選択は、上層中産階級のパリの女性が直面していた解決策としてきわめて代表的
なものであった17。
1925 年の秋、シモーヌは 17 歳半でデジール学院を卒業した。ラテン語と外国語のバカ
ロレア国家試験に「優等」で、初等数学は「最優秀」で合格したが、哲学では 20 点満点
の 11 点しか取れなかった。合格点は 10 点であった。デジール学院の哲学教師トレクール
神父から受けた貧弱な授業がその原因だった。
バカロレア試験に合格したシモーヌは、セーヴルに行くことを考えたが、またもや母親
の反対にあった。しかし、それには十分な理由があった。ジボンの指摘によれば、カトリ
ック系の学校を卒業して入学してきた生徒には、セーヴルの卒業後、公立学校の教師にな
る義務があった。娘たちを世俗の学校に近づけないために相当の経済的犠牲をはらってき
たフランソワーズとしては、シモーヌをセーヴルに行かせるわけにはいかなかった18。
シモーヌ自身にも、セーヴルに進学することを望まない理由があった。彼女は哲学の勉
強を続けたかったのだ。しかし、セーヴルを卒業した女性たちには、いわゆる男性向けの
哲学教授資格試験を受験することは認められておらず、セーヴルに進学したのでは哲学教
授資格を得ることはできなかった19。
父ジョルジュの考えは、経済的に安定した生活を送れるようになることが肝要だという
ものであった。もし教師になるというのであれば、教授資格を得て、公立学校で教鞭を取
れというものであった。そうすれば、立派な公務員で、職も安定し、退職後には国から年
金ももらえたのである20。
1925 年には、ユルム街の高等師範学校(ENS)は女性の入学をいっさい認めていなか
った。複雑な経緯を経て、1927 年から 1930 年には 36 名の女性が入学を認められた。シ
モーヌより一つ年下のシモーヌ・ヴェーユは 1928 年にユルム街の ENS に入学している。
1940 年、ユルム街の ENS は再び女性たちに対して門戸を閉ざした。セーヴルがユルム街
とまったく同じ機会を提供するようになったからというのが表向きの理由だった21。
また、フランスの女性が、すべての教授資格試験や、その他のかつては男性だけしか受
けることができなかった試験を自由に受験することができるようになったのは、1924 年に
16
17
18
19
20
21
同書、92 頁。
同書、93 頁。
同書、97 頁。
同書、97 頁。
同書、97 頁。
同書、98‒99 頁。
6
なってからのことであった22。
シモーヌが望んでいたのは、哲学を学ぶことであった。彼女はまずソルボンヌ大学でリ
サンスを取り、さらに中等教育教員免許を得て、最後に教授資格を取得することが必要だ
ったのである。母親がそのことをデジール学院の教師たちに告げると、哲学は魂を致命的
に蝕み、ソルボンヌでの一年間で、シモーヌは信仰も道徳心も失うだろうと言われた。母
親は心配し、父親は古典の学士号のほうが就職に有利だろうと言った。シモーヌは哲学を
犠牲にして文学をとったが、リセで教えるという決意に変わりはなかった23。
古典はヌイイにあるサン・マリー学院で、数学はカトリック学院で学び、ソルボンヌ大
学に行くことは最小限に制限された。サン・マリー学院やカトリック学院は、カトリック
の学生がソルボンヌの学生や教授の世俗的なやり方に触れることなく、大学で行われる試
験を受けて単位(certificat)を取得するために設立された学校であった。一年目(1925/26)
で、シモーヌは文学、数学、ラテン語の三つの単位を取得した。さらに、ギリシャ語も初
歩から学んでいた。当時は、四つ単位をとればリサンスを得ることができ、平均的な学生
は、毎年一つずつ単位を取ることを目指していた24。
サン・マリー学院で、フランスで最初に哲学の教授資格を得た六名の女性のうちの一人
に違いないと思われるマドモワゼル・メルシエに励まされて、シモーヌは哲学に戻る決心
をした。今回は両親も賛成した25。
シモーヌは、1927 年 3 月には哲学史、6 月には一般哲学の単位を取得した。後者で、一
位はシモーヌ・ヴェーユ、二位はシモーヌ・ド・ボーヴォワール、三位はモーリス・メル
ロ=ポンティであり、このとき、メルロ=ポンティはユルム街の ENS の学生、ヴェーユ
はユルム街の ENS に入学する準備をしながら、ソルボンヌ大学で学んでいた。シモーヌ
はギリシャ語の単位も手に入れた26。
1928 年 3 月、シモーヌは哲学のリサンスに必要な倫理学と心理学の単位を取得した。
古典のリサンスに必要な言語学は、それに没頭すると考えただけでもうんざりして、あき
らめ、教授資格試験の準備と中等教育教員免許の準備を進めることにした。この免許を取
るには、なんらかの哲学的問題に関する論文を提出する必要があった。ソルボンヌ大学の
教授レオン・ブランシュヴィックの助言で、彼女は「ライプニッツにおける概念」につい
て書くことにした27。
また、1929 年 1 月、シモーヌは、ジャンソン=ド=サイイというリセで、中等教育教
員免許に必要な教育実習を行った。実習生仲間には、ソルボンヌ大学で彼女と同じように
哲学教授資格試験の準備をしていたクロード・レヴィ=ストロースやメルロ=ポンティが
いた。彼女は、この頃すでに ENS の最上級生のほとんど全員と面識があったが、サルト
ル、ポール・ニザン、ルネ・マウーの小さなグループとは接触がなかった。
教授資格試験はだいたい 9 から 10 のテーマに基づくもので、そのうち実際に筆記試験
に出題されるのは一つだけだった。こうした制度だったために、サルトルが 1928 年に、
22
23
24
25
26
27
同書、102 頁。
同書、99 頁。
同書、99‒100 頁。
同書、100 頁。
同書、104‒105 頁。
同書、105 頁。
7
一度目の受験のときに落第するようなことが起こり得たのである。彼は、たまたま出題さ
れたテーマに対する準備が不十分だっただけなのだろう28。
面接試験で重視されているのは論説という課題である。これは小講義のようなもので、
受験生はその場で与えられたテーマに関する講義原稿を数時間で用意しなければならない。
この種の試験には、弁舌が立つことと、しっかりした技術をもっていることの両方が要求
される。これこそまさに ENS の教育がその成果を発揮する場面である29。
レヴィ=ストロースは、
『悲しき熱帯』において、教授資格試験面接官が好む三部構造の
思考パターンを痛烈に批判している。この試験制度は、1920 年代以来あまり変わっていな
い。見たところ ENS 出身の学生は今でも、どのテーマについて講義をすることになるの
かわからないうちから、答案用紙を三つの単位に分けているようだ30。
1929 年春、シモーヌはルネ・マウーの親しい友人となった。教授資格試験の筆記試験を
受けた後、ついに彼女は正式に招かれ、サルトル、マウー、ニザンとともに面接試験の準
備をすることとなった。そして、ある月曜日の朝、シテ・ユニヴェルシテールのサルトル
の部屋を訪れた。そこでは、サルトル、ニザン、マウーがライプニッツの試験準備を手伝
ってもらおうと彼女を待っていた。
「一日中、わたしは、恥ずかしさからこちこちになって、
『形而上学序説』に注釈を加えた」31。そして、モイによれば、この情景は、すこしばか
り知的拷問のように感じられるかもしれないが、実際にはこれが、性愛的・理論的誘惑ゲ
ームのはじめの一手なのであり、この数日後、シモーヌとサルトルは、リュクサンブール
公園で哲学を論じあっているのである32。
それでは、なぜシモーヌ・ド・ボーヴォワールは哲学を志望したのであろうか。シモー
ヌは、自伝『娘時代』に次のように記している。
哲学のうちでとくにわたしを引きつけたことは、哲学が本質的なものへとまっすぐ
に行くと考えていたことだった。細部に関心を持ったことはいまだかつてなかった。
わたしは諸事物の個別性よりもそれらの包括的な意味を察知していたし、見るよりも
、、、
理解するほうが好きだった。わたしはいつでもすべてを知りたいと望んできた。哲学
はこの願望を満たすことを可能にするだろう。哲学が目ざしているのは現実的なもの
の全体なのだから。哲学はすぐさまその核心へ忍び込み、事実や経験的法則の、人を
欺く渦の代わりに、ひとつの道理、理由、必然性をわたしに明かしてくれるのだ。科
学、文学、その他の学問は、わたしには、貧しい親類のように思われた33。
また、シモーヌには、レオンティーヌ・ザンタへの憧れがあった。ザンタについて、シ
モーヌは次のように記している。
28
同書、106 頁。
同書、106 頁。
30 同書、106 頁。
31 同書、
109 頁。S.de Beauvoir, Mémoires d’une jeune fille rangée, p.467 『ある女の回想──娘時代』
(
、
315 頁)。
32 モイ前掲書、109 頁。リュクサンブール公園での出来事については、本論文、
「第一章ボーヴォワール
とサルトル」の「3.ミシェル・ル・ドゥフ」を参照。
33 S.de Beauvoir, Mémoires d’une jeune fille rangée, p. 220 (『ある女の回想──娘時代』
、114 頁)。
29
8
わたしは、ある雑誌でマドモワゼル・ザンタという女性哲学者の記事を読んだことが
あった。彼女は博士号をもっていた。机を前にして撮られた写真の顔は、重々しく、
穏やかであった。彼女は養女にした若い姪と暮らしていた。このように、彼女は自分
の知的な生活と女性の感性が求めるものとを両立させることに成功したのだ。いつの
日か、わたしについて同じような賞賛の言葉が書かれたら、どんなにいいだろう!当
時、大学教授資格や博士号をもっていた女性たちは、片手の指で数えられるほどだっ
た。わたしはこうした先駆者のひとりになりたかった34。
ザンタは、フランスで最初に哲学国家博士号を取得した女性だった。彼女は 1914 年 5
月にソルボンヌ大学で哲学博士論文の試問を受けているが、教授資格はもっていなかった。
彼女は当時の有名知識人で、ジャーナリズムや 1920 年代のフェミニズム運動で活躍した
が、教育機関に職を得たことはなく、個人教授、ジャーナリズム、執筆活動で生計を立て
ていた。女性哲学者という選ばれた一握りの存在になりたいというシモーヌ・ド・ボーヴ
ォワールの望みは、ほんの数年ずれていたら一連の制度的障害に突き当たっていたことだ
ろう35。
サルトルとの出会いはボーヴォワールにとってどのような意味を持っていたのだろうか。
次の章では、それについての数人の研究者の見解を紹介したい。
34
35
Ibid., p. 222( 同書、146 頁)。
モイ前掲書、101‒102 頁。
9
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