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楽浪郡と三韓の交易システムの形成 高久 健二

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楽浪郡と三韓の交易システムの形成 高久 健二
楽浪郡と三韓の交易システムの形成
高久
1.
健二
はじめに
紀元前1 08年の前漢武帝による楽浪郡設置は、朝鮮半島南部の三韓や日本列島の倭の諸国が、
漢文明と接触する大きな契機となった。 前漢王朝との対外交流を通じて、漢式文物が東夷世界に
広がり、各地における上位階層の墳墓に威信財として副葬されるようになる。 つまり、階層関係
の形成・維持と漢式文物をめぐる対外交流が密接に関連していたことがわかるO 本稿では、この
ような対外交流が成立する紀元前l世紀代の楽浪郡と三韓の様相を明らかにした上で、両者の交
流関係を検討するO とくに、半島における交易システムの形成という観点からアプローチ してい
きたい。
2
. 紀元前1世紀代の楽浪郡
紀元前2世紀初頭、燕の武将衛満が部下を引連れて古朝鮮に亡命し、古朝鮮の準王を退けて、
王険城を中心に衛満朝鮮を建てた[�史記』朝鮮列伝〕。 衛満朝鮮は亡命漢人と土着豪族とから構
成された政権であり、前漢王朝の外臣として存続したとされるO 王険城の場所については、平壌
地域とする説が有力であるが、平壌地域で明確に衛満朝鮮時代の遺跡が確認されているわけでは
ない。 衛満朝鮮が存続していた元朔元年(紀元前128年)に、衛満朝鮮に服属していた蔵族が前
漢王朝に降り、武帝はその地に蒼海郡を設置した[�漢書』武帝紀〕。 蒼海郡の明確な位置はわか
らないが、現在の戚鏡南道・江原道など日本海側に面した地域と推定されているO この蒼海郡は
その後、わずか二年で廃止され、武帝による最初の朝鮮半島進出は失敗に終わってしまうO 元封
二年(紀元前109年)、衛満朝鮮王右渠が漢への入朝を拒んだため、武帝は山東と遼東から衛満朝
鮮に攻撃を加えたが、右渠は王険城に寵城し、これを退けた。 しかし、翌元封三年(紀元前1 08
年)に衛満朝鮮内部の離反もあり、王険城は陥落し、武帝は朝鮮半島に楽浪・真番・臨屯・玄菟
郡の四郡を設置した[�史記』朝鮮列伝、『漢書』武帝紀J (1 )。 これによって衛満朝鮮と設の故地
は漢の郡県支配に組み込まれていった。
漢四郡の所在地については、 当時の遺跡が、現在の黄海道、平安南道、威鏡道を中心に分布
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報
第6号2012年3月 (7)
図 1 . 楽浪郡時期の遺跡分布図〔高久1995)
1:徳星里古墳,
壌市,
里墳墓,
3:龍秋里古墳,
8:於乙洞土城,
12:金石里古墳,
16:冠山里古墳,
墳,
2:所羅里土城,
7:金灘里古墳,
13:天柱里古墳,
17:伏獅里古墳群,
21:葛唄里古墳,
4:上里古墳,
9:葛城里甲墳,
14: JI頂天皇古墳,
18:撒陵里墳墓,
22:智塔里土城,
5:万景台古墳, 6:平
10:台城里古墳群, 11
19:青山里土城,
23:松山里唐村古墳,
:黒橋
15:雲城里土城・古墳群,
20:富徳里古
24:金大里古墳群
することからみて(図1 )、 ほぼ朝鮮半島北部に限定できるが、各郡の正確な位置については、
明らかになっていない部分も少なくない。 まず、楽浪郡の場所については、現在の平壌市を中心
とする半島西北部に比定する楽浪郡平壌説と〔白鳥1912、今西1912J 、中国遼寧省の遼河下流域
に比定する楽浪郡遼寧説があるが〔社会科学院考古学研究所1977、社会科学院歴史研究所1991]、
前者が有力であるO 楽浪郡平壌説では、平壌市の大同江南岸に位置する楽浪土城から「楽浪鵡官」
銘瓦当、晋の年号を記した 「太晋元康」銘瓦当、「楽浪大芳章」、「提案長印」、「昭明丞印」 など
の楽浪郡関連の封泥が出土していることや、楽浪土城の背後の丘陵に多数の墳墓が造営されてい
ることなどが根拠となっている(図2 )。 この場合、一辺400mを超える大型土城である楽浪士
城を楽浪郡治跡に比定するわけであるが、設置当初からここに郡治が置かれていたかどうかにつ
いては意見が分かれるO 一方、楽浪郡遼寧説では、平壌には漢の楽浪郡ではなく、古朝鮮系統の
勢力である「楽浪(国)Jが存在していたとするO しかし、遼寧地域で楽浪郡関係の考古資料が
まったく発見されていないのに対し、平壌一帯には漢文化の影響を受けた墳墓が多数存在する点
からみて、楽浪郡遼寧説は成立し難い。 楽浪郡以外の真番・臨屯・玄菟郡については、さらに不
明な部分が多く、正確な位置を明らかにするのは困難であるO ただし、臨屯郡のなかには嶺東七
<8 > 楽浪郡と三韓の交易システムの形成(高久)
図2. 朝鮮・平壌市楽浪区域一帯の楽浪古墳分布図〔駒井1972をもとに作成〕
県のうち、夫租県を除く六県が含まれていることから、 日本海側にあったことは間違いなく、江
原道から戚鏡南道の地域に比定される〔白鳥1912、今西1916) 0 真番郡については、楽浪郡の北
側にあったとする北在説と〔白鳥1912)、南側にあったとする南在説があるが〔今西1916、李丙
窯1929)、南在説が有力であり、遺跡の分布からみて黄海道から京畿道北部に比定するのが妥当
であろう〔李丙窯1929) 0 玄菟郡については、威鏡南道とする見解〔白鳥 1912、!駒井1972)、鴨
緑江流域とする見解〔李丙言葉1930)、吉林省揮江流域から戚鏡南道とする見解〔和 田1951)、遼寧
省蘇子河流域から戚鏡南道とする見解〔 田中1994) に分かれており、意見が一致していないが、
臨屯郡の北側にあったことは ほぼ確実であるO
漢四郡設置当初、すなわち紀元前 2世紀後葉~紀元前l世紀前葉の墳墓の様相は、必ずしも明
確ではない。しかし、楽浪郡の中心地と考えられる平壌地域には、上里古墳、石巌里古墳、貞柏
里採土場出土一括遺物などのように、漢式遺物よりも非漢式遺物を主体的に副葬する墳墓が存在
しており、これらが楽浪郡初期の墳墓である可能性がある。上里古墳は約2
x 1.5mの範囲から
朝鮮式車馬具、細形銅剣、鉄製武器・農工具類などが出土し、底部には有機物が腐食した黒色土
層が堆積していたことから、長方形単葬木榔墓とされる(図3 ) (植本1934) 0 また、貞柏里採土
場出土一括遺物(図 4 ) (梅原・藤 田1947) も銅文と朝鮮式車馬具などからなり、金銅製馬面は
前漢中期の河北省満城 2 号墓のものと類似するO すなわち、楽浪郡設置当初の墳墓は非漢式遺物
を主に副葬した長方形単葬木榔墓であったと考えられるのであるO これらの非漢式木榔墓は、楽
浪郡設置以前、つまり衛満朝鮮時代の墓制を継承している可能性が高い。前述したように衛満朝
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報
第6号2012年3月 (9)
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1.単葬木榔墓
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7.細形銅剣
口国
12.鉄斧
図3. 朝鮮・平壌市
10.鉄戟
8.鉄剣
13.植木鉢形土器 14.広口短頭宣
20cm
0
上里古墳〔極本1934)
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同、苫旨官宝菌菌菌貰菌頁二二二二二..二
1.車衡
20pm
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4.笠頭円筒形金具
20cm
0
図 4 . 朝鮮・平壌市
o
2.金銅製馬面 3.筒形銅器
5.黒漆鞘付鋼文
貞柏里採土場出土一括遺物〔梅原・藤田1947 )
鮮時代の遺跡はいまだ不明確ではあるが、黄海北道鳳山郡松山里ソルメコル囲石墓は長方形墓墳
内に木榔が設置され、その周囲に積石が行われたものと推定され、銅剣、銅斧、銅撃、銅ι、鋳
造鉄斧、多釦細文鏡など初期鉄器時代後期の遺物が副葬されていたことから、衛満朝鮮時代に該
当する可能性が高い〔李淳鎮 1992・1997J。 半島の初期鉄器文化の系譜は、燕の鉄器文化に求め
ることができ、これらとともに木榔墓が流入してきた可能性は高い。 つまり、半島西北部には初
期鉄器時代後期に戦国系木榔墓が取り入れられ、これらが楽浪郡設置当初まで造営されていたと
考えられるO
漢四郡のうち、始元五年(紀元前82年)に真番郡が廃止、まもなく臨屯郡も廃止され、玄菟郡
も元鳳六年(紀元前75年)までには遼東地域に移動(第二玄菟郡)していたcr漢書』昭帝紀〕。
(10) 楽浪郡と三韓の交易システムの形成(高久)
唯一残った楽浪郡はこれらの郡の一部を併合して、結果的に25県を有する大郡へと拡大し、この
楽浪郡がその後、4世紀代まで長期間存続することになるO この統廃合で新たに東部都尉が設置
され、日本海側の嶺東七県が管轄下に入り、楽浪郡南部には南部都尉が設けられた (�漢書』地
理志、『三国志』貌書東夷伝〕。 この大楽浪郡の成立は、郡県の大規模な再編成を意味しており、
楽浪郡の歴史の中で大きな画期となる。 平壌市楽浪区域の貞栢洞364号墳(木榔墓)から出土し
たという「楽浪郡初元四年県別戸口簿」 によれば、初元四年(紀元前45年)の楽浪郡の戸数は
43,835戸となっており、『漢書』地理志に記された元始二年(紀元後 2 年)段階の楽浪郡の戸数
である62,812戸と比較することによって、紀元前l世紀後半における楽浪郡の人口増加率がわか
る〔ソンヨンジョン2006、予龍九2009J。 後漢初期の建武元年(紀元後25年)頃、楽浪の土人王
調が郡守劉憲を殺し、大将軍楽浪太守と称して独立するという、いわゆる「楽浪王調の乱」が起
きる (�後漢書』王景伝〕。 この事件は、いまだ後漢政権の力が地方に及ばない隙をついて王調が
反乱をおこしたものと解釈されるが、この「土人」 という表現については、楽浪郡設置以前から
この地域に居住していた土着民を意味し、王調は派遣漢人ではなく、土着豪族と推定されている
〔三上1964J。 この反乱は建武六年(紀元後30年)に後漢の光武帝によって平定されるが、数年と
いう短期間ではあっても、土着豪族が郡県を支配する状況がつづいた点は注目すべきであるO
大楽浪郡成立以後、すなわち紀元前l世紀中葉~後葉の楽浪郡の墳墓には大きな変化が現れる。
まず、単葬木榔墓に加えて併穴合葬木櫛墓や同穴合葬木榔墓(中央間仕切型)などの夫婦合葬木
榔墓が出現し、とくに同穴合葬木榔墓の場合は、平壌市石巌里219号墳(図5) (権本・中村1975J
や貞栢洞 2 号墳〔社会科学院考古学研究所1983J のような大型木榔墓が造営されるようになるO
これら大型木榔墓には漢鏡、装身具、漢式武器類、漢式車馬具、漆器など、多数の副葬品が納め
られており、副葬品に占める漢式遺物の割合も急速に増加する。 すなわち、漢式遺物を多数副葬
する厚葬の大型木榔墓が造営されはじめる点がこの時期の特徴であり、郡県の再編成を契機とし
て楽浪郡は発展期を迎えるO これら厚葬大型木榔墓は楽浪郡の上位階層の墳墓と推定されるが、
石巌里219号墳では男性が埋葬されていた西棺から「王根信印」 銘亀紐銀印が、木榔内から「王
氏」 銘漆盤が出土しており、被葬者が王氏であることがわかる。 平壌地域に造営された墳墓の被
葬者の大部分は、この地を本貫とする在地豪族層と推定されることから、石巌里219号墳の被葬
者である王根も平壌地域の土着豪族と考えられる。 紀元前l世紀中葉~後葉の楽浪郡では土着豪
族である王氏の勢力が台頭していたことがわかり、前述した楽浪王調の乱もこれらを背景として
起きた事件であるといえるO 一方、下位階層の墳墓では、いまだ多くの非漢式遺物を副葬するも
のもみられる。 つまり、上位階層では漢式要素が多く、下位階層では土着的な非漢式要素が多い
という楽浪文化の二重性が認められる時期であるO また、漢式遺物を多く副葬する大型木榔墓は、
平壌地域を中心に分布するのに対し、非漢式遺物を副葬する墳墓は、台城里古墳群〔科学院考古
学および民俗学研究所1959J など、平壌の周辺地域に分布することから、平壌とその周辺地域と
の格差が明瞭となる時期でもあるO
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報
第6号2012年3月<11 >
離 皆 目
2.同穴合葬木椀董
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5.飾玉類
0 4cm
4. 「王根信印」亀紐銀印
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6.金銅製四葉座金具 7.木棺復元図 8広口短頚壷 9.壷 10.植木鉢形土器
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21.黒漆鞘
鉄製長剣
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22.鉄鐘 23.銅博山塊
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12.車軸頭
13.紙背20
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1 9.銅扇壷 20.銀装黒漆鞘鉄剣
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ll.金銅製馬面
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14・蓋弓帽 リー 16.鉄斧 17月 18.漆簡 o
24J鍋蓋 25.銅矛
図5.朝鮮・平壌市 石巌里219号墳(王根墓) 〔梶本・中村1975〕
(12)楽浪郡と三韓の交易システムの形成(高久)
3 . 楽浪郡と三韓との相互交流の はじまり
( 1 )紀元前1世紀代の三韓の墳墓
半島北部に楽浪郡が存続しているころ、半島南部地域は三韓の勢力が存在していた。 三韓は馬
韓・辰韓・弁韓に分かれ、さらに多くの小国に分立していたcr三国志』貌書東夷伝〕。 考古学で
はこの時期を原三国時代と呼んでいる。 原三国時代とは、三国時代の原初期・原史段階として設
定されたものであり、初期鉄器時代につづ、く完全な鉄器時代である〔金元龍1972・1984・1986J。
紀元前2世紀後葉頃になると、韓国南部地域では慶尚南道昌原市茶戸里遺跡〔李健茂 ほか1989・
1991・1993・1995J、慶尚南道金海市良洞里遺跡(図6) C林孝津1993、林孝津・郭東哲2000J 、
大郎市八達洞遺跡(図7) C嶺南文化財研究院2000J などのように木棺墓を主体とする墳墓群が
形成されはじめる。 これらの遺跡の中には、次の三国時代の古墳群へと連続するものもみられる
ことから、これらの出現をもって原三国時代のはじまりととらえるのが妥当である。 木棺墓自体
は全羅北道完州郡葛洞遺跡〔金建株 ほか2005J のように前時期の初期鉄器時代から存在しており(2)、
原三国時代の木棺墓はこれらを継承したものと考えられる。 しかし、初期鉄器時代の木棺墓群は
密集度が低く、散発的であり、原三国・三国時代まで継続して造営される例は ほとんどない。
紀元前2世紀後葉~紀元前l世紀前葉の墳墓は、八達洞遺跡、茶戸里遺跡、良洞里遺跡などで
確認されているo 墓墳の平面形が細長方形を呈する木棺墓が主体を占め、木棺上部や周囲に石を
積んだ積石木棺墓も存在する(3)。 副葬品は土器類が主体であり、鉄器の副葬は普遍化していない
が、八達洞遺跡ではすでに鉄製武器類・農工具類をセットで副葬する墳墓が出現している(図8 )。
これらの鉄器には鋳造鉄器だけでなく鍛造鉄器が新たに加わっており、鍛造鉄器の普及過程に地
域差があったことがわかるO
紀元前l世紀中葉~後葉になると、三韓でもとくに弁韓・辰韓の墳墓に大きな変化が現れる。
茶戸里遺跡や慶尚北道慶山市林堂洞遺跡〔韓国文化財保護財団発掘調査事業団1998J ではこの時
期から墳墓数が急増し、最盛期を迎える。 木棺墓の平面形は長方形となり、鉄器の副葬が普遍化
するとともに、楽浪郡との交流を示す漢式遺物の副葬がみられるようになるO 茶戸里l号墳では
多数の鉄製武器類・農工具類、漆器類とともに星雲文鏡・五妹銭・青銅帯鈎・馬鐸などの漢式遺
物が副葬されていた(図的。 また、慶尚北道慶州市朝陽洞38号墳では、鉄製武器類・農工具類
とともに、内行花文日光鏡、重圏文日光鏡、昭明鏡、四乳鏡の4面の前漢鏡が副葬されていた
(図10) C鄭聖喜 ほか2003J。 この時期はちょうど楽浪郡の発展期に当たり、郡県の再編成を契機
にして、三韓との交流が開始されたものと考えられるO また、茶戸里l号墳や朝陽洞38号墳のよ
うに、多くの副葬品をもっ厚葬墓が造営されはじめる点も大きな特徴であるO
(2 )紀元前1世紀代の弁韓・辰韓地域における漢式遺物
前述したように紀元前l世紀に入ると楽浪郡との交流を示す漢式遺物が三韓の墳墓に副葬され
るようになるO 三韓における紀元前 1世紀代の漢式遺物は、馬韓地域の出土例は極めて少なく、
弁韓・辰韓地域に集中する様相がみられるO 弁韓・辰韓諸国が位置していた半島東南部の嶺南地
域出土の漢式遺物は、紀元前l世紀前葉の朝|湯洞5号墳で馬鐸が出土していることを除けば、大
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報
第6号2012年3月 (13 >
図6. 韓国・慶尚南道金海市
図7. 韓国・大郎市
良洞里遺跡墳墓分布図〔林孝津・郭東哲2000)
八達洞遺跡遺構分布図〔嶺南文化財研究院2000)
(4) 楽浪郡と三韓の交易システムの形成(高久)
.−
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1.柱石木棺墓
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3.巾着袋形壷4.長頸壷
図8.韓国・大部市 八達洞45号填〔嶺南文化財研究院2000〕
部分は紀元前1世紀中葉∼後葉の木棺塞からの出土である(表1、図11)。茶戸里1号填では星
雲文鏡、五錬銭、青鋼帯鈎、馬鐸が、朝陽洞38号填では内行花文日光鏡、重圏文日光鏡、昭明鏡、
四乳鏡が、慶尚北道永川市龍田里遺跡〔イヤンスはか2007〕では馬鐸、鉄製帯鈎、漠鏡片、円板
形装飾、鍍金青銅器片、銀製鞘装飾、餃具、青銅驚機、鉄茎銅鉾、五錬銭などの漠式遺物が副葬
されていた。これら嶺南地域の木棺墓出土の漠式遺物をみると、星雲文鏡、異体字錆帯鏡、旭龍
文鏡などの前浜中期∼後期の銅鏡、および五錬銭が多いことがわかる。林堂E−58号填では円筒
形銅器が出土しているが、円筒部の両側にはめ込まれていた2枚の円形青銅板は漢鏡を再加工し
たものであった。その1枚には「長楽」錆が残っていることから、草葉文鏡を再加工したもので
あると推定されている。また、龍田里遺跡で出土した青銅驚機は典型的な模式武器であり、楽浪
郡の墳墓にも副葬されている。漠王朝は当時の最先端武器である鸞機を禁輸品として、外部に流
出するのを防いでいたにもかかわらず、三韓にもたらされている点は興味深い(4)。
嶺南地域における模式遺物の副葬状況をみると、朝陽洞38号墳や慶尚北道永川市魚隠洞出土一
括遺物〔梅原はか1925〕のように、一墳墓内に複数面の漢鏡を副葬した例がある。同時期の楽浪
郡の墳墓をみると、単葬木榔墓の貞栢洞36号墳〔社会科学院考古学研究所田野工作隊1978〕では、
木棺内中央に異体字銘帯鏡1面が副葬されている。合葬墓の場合も、併穴合葬木榔墓の貞栢洞37
号墳〔社会科学院考古学研究所田野工作隊1978〕では、北榔と南榔の木棺内にそれぞれ異体字銘
帯鏡1面が、同穴合葬木榔墓の貞栢洞2号墳〔社会科学院考古学研究所1983〕では西棺内と東
棺内にそれぞれ1面ずっの異体字錆帯鏡が副葬されていた。したがって、楽浪郡においては、被
葬者1人に対して鏡1面が基本であることがわかり、弁韓・辰韓における漢鏡の複数面副葬は特
異であるといえる。また、漢鏡の副葬位置をみると、嶺南地域の木棺墓の場合、朝陽洞38号墳の
ように木棺内に副葬するものもあるが、茶戸里1号墳の漠式遺物はすべて木棺下の腰坑内に納め
られた竹筐のなかに、銅剣、鉄剣、鉄矛、鋳造鉄斧、環頭刀子などの武器類・農工異類とともに
副葬されていた。楽浪郡の墳墓では、単葬木榔墓や併穴合葬木榔墓の場合は木棺内に、同穴合葬
木榔墓の場合は副榔に副葬される傾向がみられ、貞栢洞2・37・92号墳のように漆奮に納められ
専修大学東アジア世界史研究センター年報 第6号 2012年3月 〈15〉
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11.青銅帯鈎
図9. 韓国・慶尚南道昌原市
5cm
茶戸里1号墳〔李健茂ほか1 9 8 9 )
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図10. 韓国・慶尚北道慶州市
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朝陽洞38号墳〔鄭聖喜ほか2003)
(J?::
10cm
表1. 弁韓・辰韓地域墳墓出土漢式遺物 ( 紀元前1世紀)
遺跡名
遺構種類
漢式造物
出土位置
共伴追物
追構実年代
慶北陸州市朝陽
木棺基
洞5号墳
馬鐸2
多紐無文鏡、鉄短剣、剣把頭飾、鉄矛、
上段墓墳
鉄文、鋳造鉄斧、板状鉄斧、鉄鎌、素 B.C.1世紀前葉
内
環頭万子、漆塗矢柄、土器類
大郎市坪里洞
不明
)也龍文鏡l
不明
的製鏡、細形銅剣、轡、馬面、小銅鐸、 B.C.1世紀中葉~
後葉
笠頭円筒形銅器、青銅容器
大郎市池山洞
不明
不明
細形銅剣付属具、銅文付属具、角形鋼 B.C.1世紀中葉~
後葉
器
日光鏡5
-------_.降・・・・・・・・・・・ー・・・・・・・・・・・岨..・・・...ー・--------
昭明鏡l
馬鍔2
腰坑内
鉄製帯鈎l
基墳底
-・・・・・・・・・・------------------.----.---------
'・・・・ーー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・._-------------
鉄茎銅鉱l
ガラス小玉、鉄把頭飾、青銅触角式把
頭飾、青銅盤部先金具、銅文、銅文鞘、
棺内
鉄文、鉄矛、中細形銅矛、鯨轡、鍛造
棺内
鉄斧、鋳造鉄斧、板状鉄斧、素環頭万 RC.1世紀中葉~
子、鉄鎌、鉄盤、錨形鉄器、円筒形銅 後葉
棺内
充填土内 器、銅泡、鉄鈴、青銅装飾、青銅紡錘
車付属具、土製紡錘車、土器類、円坂
不明
形土製品
不明
五錬銭3 (1 b)
不明
漢鏡片1 (草葉文鏡01'星雲文鏡) 棺内
---------------------------------.----------
円板形装飾(車馬具) 1
-・・・・・・・・ーー・・・・・咽・..駒骨骨..
骨骨骨"・---------------
鹿北永川市龍田
木棺基
里遺跡
鍍金青銅器片1
---------------------------ー..酔..“・・・陣咽凶咽凶.同...
銀製鞘装飾l
ーー・・・------------齢制"・・・・・・e句・・・・・・・・・・・・・・ーー・・ーー
鮫具l
ーー句..・・・・陣・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・..・・------・・・・..
青銅湾機l
晶画圃・・・・ーーー・・・・・曲副副------“・・ーー-・・-------------
-・------------------------------------------
内行花文日光鏡1
棺内
ガラス小玉、青銅把頭飾、青銅盤部先、
金具鉄短剣、鍛造鉄斧、鋳造鉄斧、板 B.C.1世紀中葉~
状鉄斧、鉄錯、鉄万子、鉄鎌、鉄盤、 後葉
異形鉄器、銅環土製紡錘車、土器類
不明
細形銅剣片、銅矛片、銅文、鉄鎌、鍛
造鉄斧、板状鉄斧、銅双鈴、小銅鐸、 B.C.1世紀
磨製石斧、ガラス玉
不明
佑製鏡、青銅帯鈎、青銅郵1[、青銅製飾 B.C.1世紀中葉~
後葉
金具、土器類
----------------------ーー・・・・・司骨量・ー-ー----・・・・eゅ
慶北陸州市朝陽
木棺墓
洞38号墳
重圏文日光鏡l
-・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・明司・・・.-----ー----ー・..
昭明鏡l
------_.凶同4幽骨駒駒----幽幽・・・・・・・・・・ーーー・・・・・.・・----
四乳鏡(家常貴富鏡) 1
鉄製環頭万l
鹿北慶州市九政
木棺墓? 銅鉱l
洞
穿孔鉄斧l
ー幽圃圃圃ーーーーーーー・・・ーー・・・・.・・・ーーーー・・・-------_.幽-----
ー...ーー・-----・-------------------------------
鹿北永川市漁隠
洞
墓
墳 ?
日光鏡2
-ーーーー・・・・・・・・・・・・・・・・・ー・ーーーー・・ーーーー.---------
Jl龍文鏡1
慶北鹿山市林堂
木棺基
A- 1 -74号墳
五鯨銭1 (1 b)
長壁左側
鉄剣、剣把頭飾、鉄万、鉄矛、鍛造鉄
B.C.1世紀?
斧、板状鉄斧、鉄鎌、土器類
慶北鹿山市林堂
木棺基
A- 1 -121号墳
五妹銭1 (1 b)
棺内
鉄剣、剣把頭飾、鉄矛、鉄石突、鉄鎌、B.C.1世紀中葉~
後葉
鍛造鉄斧、鉄三文鍬、土器類
鹿北陸山市林堂
木棺基
E-58号墳
円筒形銅器1(1長楽」銘草
葉文鏡と星雲文鏡を加工し 棺内
たもの)
異形鉄器片、土器類
慶北鹿山市林堂
木棺墓
E-132号墳
五妹銭1 (1 b)
棺内
鉄剣、触角式剣把頭飾、鉄矛、鉄石突、 RC.l世紀中葉~
鉄万子、鉄錨、鉄盤、金敷、土器類
後葉
腰坑内
細形銅剣、鉄製短剣、鉄矛、中細形鋼
矛、鉄文、鉄万子、鉄鎌、板状鉄斧、 B.C.1世紀中葉~
鍛造鉄斧、鋳造鉄斧、鉄製タビ、、漆器 後葉
類、漆筆、漆扇、ガラス玉、土器類
星雲文鏡l
ーーーー・・・・・・ーーー・・・・・・・・・p・・..・・・・・・・・・・・・・・-------・----
慶南昌原市茶戸
木棺基
里l号墳
五錬銭3 (1 b)
ー・・・・ーー・・・・・・・・・・・--------------圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃圃
青銅帯鈎l
ー・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・..ーー・..・-----------------
馬鐸l
B.C.1世紀中葉~
後葉
鹿南密陽市校洞
木棺基
3号墳
星雲文鏡1
墓墳底
鉄剣、板状鉄斧、鉄鎌、鉄斧、異形鉄 B.C.1世紀中葉~
後葉
器、銅製品、土器類
慶南密陽市校洞
木棺墓
17号墳
昭明鏡l
棺内
銅製品、円形土製品、算盤形土製品、 B.C.1世紀中葉~
後葉
土器類、樹皮
伝慶尚道
墳墓?
日光鏡l
不明
細形銅剣l
大郎市飛山洞
墳墓?
蓋弓帽2
不明
細形銅剣、銅文、銅矛、虎形帯鈎、牛 B.C.1 '" A.D.1 世
紀
角形銅器
B.C.1世紀中葉~
後葉
鹿北慶山市林堂
木棺墓
A- 1 -122号墳
円形銅器1 (漢鏡を加工し
環頭万子、鉄錨、鍛造鉄斧、鉄盤、鉄
A.D.1世紀初
短壁上側
たもの)
鎌、紡錘車、土器類
鹿北慶山市林堂
木棺基
E-138号墳
円形銅器2 (いずれも日光
棺内
鏡を加工し たもの)
板状鉄斧、土器類
A.D.1世紀初
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報
第6号2012年3月(17)
図11.紀元前1世紀中葉∼後葉の弁韓・辰韓地域出土の楽浪系漠式遺物(縮尺不同)
(18)楽浪郡と三韓の交易システムの形成(高久)
た状態で出土するものがあることから、基本的には化粧道具のーっとして副葬されたものと考え
られるo 茶戸里 1 号墳に設置されているような腰坑は、副葬品の内容からみて、威信財を副葬す
る施設と考えられることから、そこに副葬されていた漢式遺物は威信財としての性格が強くなっ
ており、本来の意味が変容していたと推定されるO
4. 交流と階層性
嶺南地域における紀元前l世紀代の漢式遺物は、再加工品を除いて、茶戸里l号墳、朝陽洞38
号墳、龍田里遺跡のように鉄製武器類・農工具類など多数の造物を副葬した上位階層の墳墓から
出土している。したがって、これらの漢式遺物は弁韓・ 辰韓の上位階層が楽浪郡との交渉を通じ
て入手したものといえる。『三国志』貌書東夷伝には三韓諸国の首長が「臣智」や「邑借」とい
う称号を自称していたことが記されている。この「臣智」という身分称号については、楽浪郡の
設置を一つの契機として、前漢の冊封体制に三韓諸国の首長層が外臣として取り込まれ、「臣」
と自称するようになったと解釈されている〔武 田 1 995・ 1996J。楽浪郡と三韓上位階層との交渉
が本格的にはじまるのは、紀元前 1 世紀中葉~後葉であり、この時期に楽浪郡を通じた前漢王朝
への朝貢が行われるようになったと推定される。前漢王朝への朝貢は、三韓社会内部における階
層聞の格差をさらに増大させ、茶戸里l号墳のような厚葬木棺墓が造営されるようになったと考
えられる。朝貢によってもたらされた漢式遺物の意味が変更していることからみて、これらは階
層的格差を再生産する機能の一端を担っていたものといえるだろうO
楽浪郡との関係は上位階層だけにとどまらず、下位階層にまで交流の幅が広がっていた。三韓
の墳墓に多数副葬されている鉄製短剣・ 鉄矛・轡・農工具は漢式遺物とは形態が異なっており、
非漢式遺物と考えられるが、これらは楽浪郡の墳墓から出土するものと類似するO 前述したよう
に楽浪郡との交流がはじまる紀元前l世紀中葉~後葉になると、三韓地域で鉄製武器類・農工具
類が本格的に普及し、上位階層の墳墓だけでなく、下位階層の墳墓でも鍛造鉄器類が副葬される
ようになる。したがって、三韓の下位階層でも楽浪郡との交流を通じて、鉄器文化を受容してい
たと考えられる。これら非漢式の鉄器類は、漢式遺物の場合とは異なり、本来の意味が変容せず
に三韓社会に取り入れられ、在地化して次の三国時代の鉄器文化へと継承されていく。このよう
に、紀元前l世紀代の三韓においては、階層間で異なる形態の交流が行われており、それぞれ異
なる文物がやりとりされ、社会における文物の意味や役割も異なっていたと推定される。
5. 交易システムの形成
原三国時代の京畿・ 嶺西地域、嶺東地域、嶺南地域における墳墓形態や住居形態などをみると、
それぞれ地域色をもっており、地域文化圏が形成されているO これは原三国時代に形成されはじ
めたものではなく、青銅器時代以来、形成されつづ、けてきたものであり、原三国時代開始期には
すでにある程度成立していた可能性が高い。これら地域文化圏の形成は集落聞を結ぶ交通ルート
を基礎とした地域相互交流網が存在したことを意味しているO この地域相互交流網の中には、と
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報
第6号2012年3月 <19 >
くに頻繁に使用される交通ルートが存在したはずであるO これらが幹線ルートとなり、これを通
じて楽浪郡との交流が行われたと推定されるO 前述したように楽浪郡と三韓の交流では、漢式遺
物や非漢式遺物が楽浪郡から三韓へともたらされ、三韓から楽浪郡へも鉄素材などの特産物がも
たらされていたと推定される (�三国志』貌書東夷伝〕。このように文物が相互にやりとりされる
交易が陸路の幹線ルートを利用して行われていたと考えられるが、これらの交易は以下のように
幹線ルートの距離によって、短距離交易、中距離交易、長距離交易の三種に分けることができる
(図12)0
(1 ) 短距離交易(京畿・嶺西地域)
郡県と比較的近接した距離にある京畿・嶺西地域では、近年、楽浪郡との交流を示す遺跡・遺
物が多数発見されているO 京畿道加平郡大成里遺跡(図13)は、北漢江西岸の自然堤防上に位置
する集落遺跡であり、青銅器時代~朝鮮時代の遺構が検出されたが、中心は青銅器時代と原三国
σ
,
。
200km
a
dラ。
図1 2. 楽浪郡と三韓の交易ルート
<20 >楽浪郡と三韓の交易システムの形成(高久)
時代の住居跡と竪穴遺構である〔京畿文化財研究院2009J。原三国時代の遺構は住居跡43基、竪
穴遺構66基、掘立柱建物跡3 基、溝2条であり、前期(紀元前l世紀)と後期(2世紀--3世紀
前半)に分けられる。このうち、原三国時代前期の集落は調査区の南側部分(B地区)に集中し
ており、住居跡と竪穴遺構から構成された小規模集落と推定されている。36・37・38・39・40・
41・42号住居跡が前期に該当するが、平面形が方形を呈するものが多く、 カマドが設置されてい
るO 竪穴遺構では、38・44・46・49・61・62号竪穴などが前期に該当するO これらの住居跡や竪
穴遺構から楽浪系遺物が多数出土しているo 36号住居跡では植木鉢形土器片と鉄茎銅鍛、37号住
居跡では打捺文土器と鋳造鉄斧、38号住居跡では短頚壷、打捺文土器、鋳造鉄斧、鉄鋤、39号住
居跡では鉄茎銅鍛、40号住居跡では鋳造鉄斧と小札、41号住居跡では鉄鋤、42号住居跡では植木
鉢形土器が出土しているO また、49号竪穴からは、植木鉢形土器、打捺短頚壷、小札、鋳造鉄斧、
鉄鋤、鋳造鉄製容器などの楽浪系遺物とともに、馬頭骨が埋納されており、内部に焼土と木炭が
多く残存していたことから、祭杷遺構と推定されているO これら出土遺物のうち、札甲の鉄製小
札は楽浪郡の墳墓では貞栢洞l号墳(紀元前 1世紀中葉) (李淳鎮1964J と貞栢洞97号墳(紀元前
1 世紀) (社会科学院考古学研究所1977J で出土し、石巌里219号墳(紀元前1 世紀後葉)では皮
革製漆塗小札が出土しており、紀元前l世紀代のものと推定される(図14)。鋳造鉄斧は双合箔
と単合箔のものが出土しており、これらは戦国系鉄器の系譜を引くものであるが、楽浪郡の中心
地である平壌市助王里からも 「大河五」銘鋳造鉄斧が出土している〔莫�白雲1967Jo 植木鉢形土
器は紀元前l世紀代の楽浪郡の墳墓で広口短頚壷とともに副葬される最も基本的な器種の一つで、
ある。このように、紀元前l世紀代の大成里遺跡では、 ほぼすべての住居跡から楽浪系遺物が出
土しており、密接な交流が行われていたことを示しているO 大成里遺跡が位置する嶺西地域は南
部都尉に相当し、楽浪郡の領域に入っていたと調査者は推定している。
京畿道加平郡達田里2 号土壌墓は280 x 130cmの木榔墓と推定され、墓墳の北側に段状の施設を
持ち、短頚壷や植木鉢形土器などの土器類、鉄斧や鉄鎌などの鉄器類が副葬されていた〔翰林大
学校博物館 2003J。これら木榔墓の形態や副葬品の組み合わせは、楽浪郡の貞栢洞81号墳(紀元
前l世紀) (社会科学院考古学研究所田野工作隊 1978J ときわめて類似しており、楽浪郡と密接
な関係をもっ人物の墳墓と考えられる。
紀元前l世紀代に京畿・嶺西地域が真番郡、あるいはその後の南部都尉の領域であったかにつ
いては、さらに検討すべきであるが、たとえ領域内であったとしても外郭地域、すなわち馬韓と
の境界付近であったと考えられるO この地域は他ではみられない ほど大量の楽浪系遺物が出土し
ていることから、郡県との直接的な交流が行われ、とくに鉄製品をめぐる密接な交易が頻繁に行
われていたと推定されるo
( 2 )中距離交易(嶺東地域)
日本海側に位置する譲の領域も、前述したように蒼海郡の設置以来、漢王朝との交流関係が継
続していたものと考えられるが、紀元前l世紀代における交流の実態は不明確な部分が多い。た
だし、紀元後の遺跡をみると、江原道江陵市安仁里遺跡〔白弘基1991]、橋項里遺跡〔白弘基 ほ
か1998J、江原道東海市松亭洞遺跡、〔江陵大学校博物館1999J などで楽浪系土器が一定量出土し
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報
第6号2012年3月(21)
、
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6.竪穴遺構 7.双合箔鋳造鉄斧
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4T-ノノ
0 2m
2.竪穴式住居跡
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「トート・(
:〟り_ ・=;.
「
.
ー
10.鋳造鉄製容器
8.打捺短頬壷
20cm
1 0cm
5.双合箔鋳造鉄斧
9.植木鉢形土器 11.小札 12.鉄鋤
40号住居跡
49号竪穴
図13.韓国・京畿道加平郡 大成里遺跡〔京畿文化財研究院2009〕
0 1
1.貞栢洞97号境(鉄製小札)
〔社会科学院考古学研究所1977〕
0cm
2.貞栢洞1号境(鉄製小札)
(李淳鎌1 964〕
図14.楽浪郡出土小札
(22)楽浪郡と三韓の交易システムの形成(高久)
3.石巌里219号境(皮革製漆塗小札)
【梅本・中村1975〕
ており、郡県との交流が行われていたことは確実であるO 郡県から京畿・嶺西地域を経て、太白
山脈を越えて嶺東地域へと至るルートが確立していたと考えられるO 紀元前l世紀代の江原道一
帯は、臨屯郡と、その後の東部都尉の管轄下にあった地域である可能性があり、楽浪郡との交流
関係があったと推定され、前述した短距離交易 ほど直接的で頻繁なものではないにせよ、密接な
交易が行われたと考えられる。
(3
)長距離交易 ( 嶺南地域)
弁韓と辰韓が位置していた嶺南地域は、前述した短距離交易や中距離交易とは異なる様相がみ
られるO 嶺南地域の紀元前l世紀代の木棺墓から出土する漢式遺物は、前漢中期~後期の漢鏡お
よび五銑銭が多く、楽浪郡から特定の漢式遺物が集中的にもたらされていたことがわかる。つま
り、これらが長距離交易品として郡県から入手されていたといえるO 嶺南地域と郡県との長距離
交易路としては、洛東江をさかのぼり、小白山脈を越えて南漢江を下って京畿地域へと至り、北
上する内陸ルートが想定される。このルートは半島を南北に縦断する動脈ともいえるルートであ
り、後の時期になるが、原三国時代後期~三国時代前期に中西部地域を中心に分布する馬形帯鈎
は、小白山脈を越えて洛東江上流から河口まで分布しており、このルートの存在を裏付けてい
る(5)0
これら長距離交易を通じて入手された漢式遺物は、本来の意味が変容し、上位階層の威信財と
して厚葬木棺墓に副葬された。さらに、これらの漢式遺物は上位集団からその周囲の下位集団へ
と再分配されたものと推定されるO 前述したように林堂E・58号墳では草葉文鏡を再加工した円
筒形銅器が出土している。林堂洞遺跡では完形の前漢鏡を複数副葬した墳墓がみられないことか
ら、林堂洞遺跡の集団は郡県との長距離交易に直接関与していなかったものと推定される。つま
り、林堂洞遺跡で出土した漢鏡再加工品や五妹銭などの漢式遺物は、慶州地域や大郎地域の木棺
墓にみられるように複数の漢式遺物を副葬する、より上位の集団から再分配されたものと考えら
れる。上位集団は長距離交易を主導し、長距離交易品である漢式遺物を周辺の下位集団へ地域相
互交流網を通じて再分配することによって、階層的格差を再生産していたものとみられる。
嶺南地域に長距離交易を通じてもたらされた前漢鏡などの漢式遺物は、さらに玄界灘を越えて
北部九州へともたらされた。北部九州では、弥生時代中期後葉(紀元前l世紀中葉~後葉) にな
ると、前漢鏡が護棺墓に副葬されるようになる。これらは楽浪郡を通じて入手したものであり、
三韓と ほぼ同時期に楽浪郡との交流が開始されたことがわかるO これらの多くは半島の内陸ルー
トを通じて嶺南地域にもたらされ、そこから海路で北部九州にもたらされたものと推定されるO
慶尚南道澗川市助島遺跡は陸路から海路へと移行する際の集積地と推定される。勅島遺跡、からは、
半両銭、五妹銭、銅鉱などの漢式遺物と、楽浪系土器や弥生系土器などが出土しており、長距離
交易の中継地点としての役割を担っていたことがわかるO 列島側の長崎県壱岐市原の辻遺跡でも
漢式遺物と三韓系土器が出土しており、やはり勅島遺跡と同様な長距離交易品の集積地としての
役割を担っていたものとみられるo したがって、半島を縦断する長距離交易ルートは、さらに勅
島遺跡や原の辻遺跡などの集積地を中継地点として、日本列島まで伸びていたことになる。つま
り、紀元前l世紀代に漢王朝の中原から楽浪郡を経由し、朝鮮半島を縦断して日本列島にいたる
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報
第6号2012年3月(23 >
東アジアの長距離交易ルートが形成されたといえるO 嶺南地域は日本列島まで伸びる長距離交易
の中継地点として重要な役割を担っており、これらの交易を基盤として発展していったものと考
えられる(6)。 また、長・中・短距離交易ルートは、それぞれ重複する部分があり、それぞれが単
独で機能していたものではない。 楽浪郡と三韓の交易は、性格の異なる長・中・短距離交易が組
み合わさって、重層的な交易システムを形成していたものと考えられるO つまり、長距離交易が
活発化することによって、中・短距離交易もさらに整備され、これらの基盤をなす地域相互交流
網も複雑化していったものと考えられるO
6
. おわり に
楽浪郡と三韓との交流関係をみると、紀元前 1世紀中葉~後葉に大きな画期があり、楽浪郡が
再編成され、発展期を迎える時期に相互交流が活発化したといえる。 また、三韓社会においては、
この時期に厚葬墓が造営されは じめるなど、階層聞の格差が拡大する傾向がみられる。 三韓の上
位階層は郡県との交易を通 じて、漢式遺物を導入し、新たな威信財として墳墓に副葬するように
なる。 一方、鉄製武器類や農工具類などの非漢式遺物も楽浪郡との交易によって取り入れられ、
本格的な鉄器文化が成立する。 楽浪郡と三韓との交易においては、それぞれ性格が異なる長・中・
短距離交易がみられ、これらが相互に関係し合いながら交易システムとして機能していたと考え
られる。 ただし、その基盤をなしていたのは、それ以前から存在した地域ごとの相互交流網であっ
たといえるO 嶺南地域、すなわち弁韓・辰韓地域の上位階層は漢鏡などの漢式遺物を導入する長
距離交易を主導しており、これらの交易品はさらに玄界灘を越えて北部九州へともたらされた。
漢式遺物などの威信財と鉄・鉄製品をめぐる長距離交易が弁韓・辰韓の存続基盤のーっとなって
おり、北部九州の倭が郡県と交流する際にも、倭と弁韓・辰韓との相互交流が基盤になっていた
と考えられるO このように、紀元前 1世紀代は、楽浪郡・三韓・倭を結ぷ長距離交易ルートが確
立し、朝鮮半島における交易システムが形成された時期といえるO
註
(1)r史記』朝鮮列伝、および『漢書』武帝紀には、元封三年に楽浪・真番・臨屯・玄菟郡の四郡が設置された
とあるが、『漢書』地理志では元封三年に楽浪・真番・臨屯郡の三郡が設置され、翌元封四年に玄菟郡が設
置されたとなっている。
(2)葛洞遺跡では初期鉄器時代に該当する土墳墓4基、溝状遺構1基、竪穴遺構2基が調査され、土墳墓からは
黒色磨研長顕章、粘土帯土器、鋳造鉄斧、鋳造鉄鎌、細形銅剣鋳型などが出土した。 このうち2号土墳墓は
板材の木棺を埋葬しており、4号土墳墓では割竹形木棺が埋葬されていた。 原三国時代の茶戸里1号墳でも
割竹形木棺が埋葬されており、初期鉄器時代の木棺墓が原三国時代に継承されていることがわかる。 また、
3号土墳墓では内部に木榔が設置されていたことが確認された。 初期鉄器時代の木榔墓については類例が少
なく系譜関係は不明であるが、楽浪郡設置以前の戦国系木榔墓が半島南部にまで伝播していた可能性も否定
できなし、。
( 3)初期鉄器時代後期の全羅南道戚平郡草浦里遺跡で墓墳上部に石を積み上げた積石石榔墓が確認されており
〔李健茂・徐聾勅1988)、忠清南道扶余郡合松里遺跡の埋葬施設も積石石棺墓あるいは囲石木棺墓と推定され
<24 >楽浪郡と三韓の交易システムの形成(高久)
ることから、原三国時代初期の積石木棺墓の系譜は、これら初期鉄器時代後期の墓制に求められるだろう。
(4)始元五年 (紀元前82年)に、壮馬と十石以上の寄の搬出を禁止する馬寄闘が廃止されるがcw漢書』昭帝紀〕、
この馬寄関は畿内と諸侯王国との聞に存在する関であり、これ以後も漢律によって国外への武器や鉄の輸出
は禁止されていたとされる〔紙屋1978J。
( 5)
W三国志』親書東夷伝・倭条には、帯方郡から倭へ至るルートとして、朝鮮半島の西海岸を南下し、南海岸
を通って弁韓狗邪国 (金海付近)に行き、そこから玄界灘を渡って対馬園、一支園、末直国へ至る海路が記
されているので、海上ルートが存在したことは確かである。 しかし、海上ルート以外に内陸ルートも頻繁に
使用されていたものと考えられる。
(6
)李成市は弁韓・辰韓地域が洛東江から漢江を経て楽浪郡に至る水路交通の大動脈を利用し、漢の先進文物を
日本列島にもたらす集積地であったと指摘している 〔李成市1998J。 本稿もこれを支持し、短距離交易や中
距離交易との比較を通して、長距離交易を行っていた弁韓・辰韓地域の特殊性を明らかにした。 ただし、辰
韓地域に漢鏡などの漢式遺物が集中的に分布する背景を、真番郡の設置に伴う漢人の入植に求める見解は、
嶺南地域における漢式遺物の増加が、真番郡などが廃止され郡県が再編成された紀元前1世紀中葉以降であ
る点からみて同意し難い。
[参考文 献]
【日本文(五十音順)】
今西龍 19 12 I大同江南の古墳と 楽浪王氏との関係J �東洋学報j2 -1
今西龍 19 16 I真番郡考J �史林j1-1 ([司1937 �朝鮮古史の研究』近津書居所収)
予龍九 (橋本繁訳 ) 2009 I(史料 紹介) 平壌出土「巣浪郡初元四年豚別戸口簿」研究J �中国出土資料研
究』第 13 号
梅原末治ほか 192 5 � 南朝鮮に於ける漢代の遺跡』大正十一年度古蹟調査報告第 二冊 、朝鮮総督府
梅原末治・藤田亮策1947 �朝鮮古文化綜鑑j1、養徳社
紙屋正和 19 78 I前漢時代の関と 馬寄関J �福岡大学人文 論集j10 ・2
植本亀次郎1934 I平安南道大同郡龍岳面上 里遺跡調査報告J �朝鮮総督府博物館報j6 (同1980 �朝鮮の
考古学』同朋社所収)
植本杜人・中村春寿197 5 �楽浪漢墓第 二冊 一石巌里第 二一九号墓発掘調査報告-j楽浪漢墓刊行会
駒井和 愛1972 �楽浪-漢文化の残像-j中央公論社
金元龍(西谷正訳) 1972 � 韓国考古学概論』東出版
金元龍(西谷正訳 ) 1984 � 韓国考古学概説(増補改訂)j六興出版
白鳥庫吉19 12 lì漢の朝鮮四郡彊域考J �東洋学報j2 2
武田幸男199 5・1996 I三韓社会における辰王と臣智(上)(下)J �朝鮮文化研究j2 ・3
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心に-
J
�文物研究』創刊号
(高久健二 1 997 1楽浪郡斗 三韓ヰ判交渉形態叶l叫許吋一三韓地域 出土♀l漢式造物 斗非漢式
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(入ト司ヰ骨型 .JI..JI.守坦干土1 9831苛す干当首叫三1.JI.甚萱苦且ユエJ �.JI..JI.骨スト豆司J6,ヰ苛, 叫ヰ
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(λト詞ヰ苛宅三1.JI.苛坦干企祖ò]:号斗叫1 978 �ヨヱ王寺スト豆司J5, ヰ苛・ 司ヰλト祖量号入ト)
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威平郡
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李健茂ほか1 991
1昌原茶戸 里遺跡発掘進展報告 (ll)一第 3 ・ 4次発掘調査概報-J �考古学誌 』第 3 集
李健茂ほか1 9931昌原茶戸里遺跡発掘進展報告 (ill) -第 5 ・ 6次発掘調査概報-J �考古学誌」第 5 集
<26 >楽浪郡と三韓の交易システムの形成(高久)
李健茂ほか1 995
I昌原茶戸里遺跡発掘進展報告(町) J r考古学誌』第7集
李淳鎮1 964 I{夫租歳君》墓についてJ r文化遺産J1 964- 4
(司会忍1 964 I{ヰヨ三斗I]-ir>>平日叶1叫許叶J r吾尋弁士l-J1 964- 4)
李淳鎮1 992 I我が国の西北地方における木榔墓の起源と発生時期についてJ r朝鮮考古研究J1 992-1
(司全モ1 I♀司1-1叫バヰス]1昔叶|社三l斗平斗干唱判ァl喧ヰ聖母入]7] ]
1 992
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李淳鎮1 997 r平壌一帯楽浪古墳に対する研究』社会科学出版社
(司合忍1 997 r�せ包叫骨骨平唱叶l叫を喧干』人ト幹ヰ苛量吐入ト
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林孝津1 993 r洛東江下流域加耶の 土墳木棺墓研究』漢陽大学校大学院博士学位論文
(林孝津1 993 r洛東江下流域 加耶司 土墳木棺墓 研究』漢陽大学校 大学院 博士学位論文)
林孝津・郭東哲 2000 r金海良洞
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(想司会1 957 r王位音寺号卦ァ1型叶|叫曹三ljl苛司スト 豆」斗苛宅音吐人ト)
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鄭聖喜ほか 2003 r慶州朝陽洞遺跡IIJ国立慶州博物館学術調査報告第1 3冊、 国立慶州博物館
韓国文化財保護財団発掘調査事業団1 998 r慶山林堂遺跡(
報告第5冊
1) (VI)
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韓国文化財保護財団学術調査
翰林大学校博物館 2003 r 京春線複線電鉄第6工区加平駅舎敷地内文化遺跡発掘調査指導委員会の資料 』
翰林大学校博物館・鉄道庁・現代産業開発(株)
専修大学東アジア世界史研究センタ一年報
第6号2012年3月 (27)
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