...

失敗を楽しむ - リスク工学専攻

by user

on
Category: Documents
19

views

Report

Comments

Transcript

失敗を楽しむ - リスク工学専攻
失敗を楽しむ
筑波大学 伊藤 誠
1.はじめに
本稿では,組織における人間行動に関するヒューマンファクターの問題に取り組んでいくにあた
り,組織の参加者が「失敗を楽しむ」,ということを提案する.自分の失敗をおもしろがり,なぜ
そのような失敗をするのかを考えよう,というものである.
詳細な議論は次節以降に行うことにするが,本稿の議論展開の概略を述べれば以下の通りである.
今日までに,学問としてのヒューマンファクター(Human Factors, ヒューマンファクター学)は
膨大な知見と技術の蓄積をもたらしており,そのカバーする範囲は,いわゆるモノのデザインとし
ての「人間工学」の領域だけでなく,組織のマネジメントのあり方までも含むようになってきた.
ヒューマンファクターがさらに広く展開されていくことを考えるとき,ヒューマンファクターは,
組織のマネジメントに関する理論,技術,実務の体系との整合を図っていく必要があるのではない
かと筆者は考えている.組織における管理のための技術などは品質管理の領域で長い歴史と蓄積が
あり,今や,品質管理の知識・技術の体系を無視してヒューマンファクターを論ずることは困難に
なりつつある.
また,これまでヒューマンファクターが十分に考慮されてきていなかった分野への展開を考える
場合,これまでの成果をそのまま利用できるとは限らない.応用する領域の特徴に応じて適宜マイ
ナーチェンジを行うことが重要である(例:航空における「人間中心の自動化」と,自動車におけ
る「人間中心の自動化」は完全に同じものではありえない(稲垣,2006)).個々の組織について
考える場合も,組織の規模などの制約で適用できるものとそうでないものとがあり,さらには,こ
れまでにどこまで取り組みが進んでいるかによって,今後講ずべき方策は異なりうる.すなわち,
ヒューマンファクターにどのように取り組んでいくかは,分野や組織の規模,進み具合に応じて適
応的に調節すべきであり,すべてに共通の方法論というものはないかもしれないと考えている.唯
一,あらゆる領域で普遍的に受け入れられるべきこととして,"To err is human."(誤るは人の常(ノ
ーマン,1990)という訳を与えられることがあるが,人は失敗を犯すものだ,ということを述べて
いる文である)がある.何をなすべきかはその都度,既存の知見や技術の集積の中から適切なもの
を選び,あるいは改良していけばよいが,"To err is human."だけは組織の参加者一人ひとりが忘れ
てはならないことである.
"To err is human."を忘れないための一つの方法として,筆者が提案したいのが,「失敗を楽しむ」
という視点である.どんな人間でも失敗をする.しかし,ややもすると「人間は失敗をするもので
ある」ということをどこかで忘れてしまうこともある.失敗から学ぶという風に大上段に構えると,
学ぶことに恐縮してしまいかねない.心に余裕をもち,自分の失敗を面白がり,楽しむことによっ
て,失敗を身近に感じられれば,"To err is human."が頭の片隅から消えないですむのではないか,
と提案したいのである.
筆者は,品質管理の専門家を自任できるほどには品質管理に精通している訳ではない.また,組
織におけるヒューマンファクターの専門家という訳でもない.どちらかといえばヒューマンファク
ター寄りの立場にはあるが,ヒューマンマシンシステムにおける認知工学が主戦場であり,最近の
主たる研究テーマは自動車の運転支援システムのデザインや評価である.その意味で,ヒューマン
ファクター全般を俯瞰的に論ずるには経験が不十分であることは否定しない.しかしながら,幸い
にも,品質管理分野での研究活動に関与する機会を数度得ており,その経験から感じていることを
本稿で論ずるものである.
なお,本稿において,「ヒューマンファクター」と書く場合,特に断りをおかない限り,学問と
してのヒューマンファクター学(Human Factors)をさすものとする.
2.ヒューマンファクターと品質管理
2. 1 ヒューマンファクターと品質管理の統合の必要性と可能性
ヒューマンファクターに関する研究や,ヒューマンエラー対策の実践については,すでに多くの
知見や技術の蓄積がある.たとえば,ヒューマンファクターに関する基本的な考え方については,
ICAO(1998)がある.ICAO(1998)は航空機分野での訓練教材ではあるが,少なくとも第一部につい
ては幅広い分野で利用可能な知識体系が記述されている.ヒューマンエラー対策の実践的な文献と
しては,たとえば,石橋(2006), 河野(2006)などがある.Human FactorsはErgonomicsと同義語と
してとらえられることがある(Moray, 2007)ことからもわかるように,装置の設計などに端を発した
ヒューマンファクターではあるが,今日のヒューマンファクターのカバーする領域は,組織のマネ
ジメントまでも含む.しかし,これまでにヒューマンファクターの領域で提案されてきた,m-SHEL
のもとになったSHELモデル(ホーキンズ,1992),SRKモデル(ラスムッセン,1990),
組織事故(リーズン,1999),などは,問題がどこにあるかを記述するのに大変便利である半面,
それらだけでは,抽出された問題点に対して有効な対策を立案・実行するには必ずしも十分ではな
いこともある.
ところで,組織(企業)における管理の技術は,品質管理などの分野で研究開発が進められてき
ており,こちらもほぼ体系が確立されている.品質管理の領域では,一部の重鎮を除き,主要な知
見や技術の発展に貢献してきたのは実務者(製造業の品質担当)であるゆえに,そこでの成果は概
して実践的である.たとえば,FTA,FMEAなどでも,現場で使いやすいような様々な工夫改善が
施されてきている(小野寺(1998;2000)).最近では,人間行動に起因するトラブルの未然防止
に関する研究も,品質管理の領域で進める必要性が認識されつつある(たとえば,日本品質管理学
会(2002;2008)).
ヒューマンファクターからみても,品質管理からみても,互いの知見・技術の蓄積を無視するこ
とができなくなりつつある.ヒューマンファクターが主に気にするのは組織における安全の問題で
あり,品質管理が主に気にするのは生産される製品の品質などの問題であるが,人間行動に端を発
するトラブルを防止したいという点では共通的な目的を指向しているからである.その意味で,一
つの組織で,方やヒューマンファクター,此方品質管理,と異なる看板を掲げていても,実体とし
ては同じような取り組みをするというようなことが生じてしまうとすれば,それは無駄が大きい.
ヒューマンファクターと品質管理を互いに整合させ,統合していくことが必要になっている.この
ことは特に目新しい主張というわけではなく,すでにヒューマンファクターと品質管理の交流は始
まっている(日本原子力学会,他(2007, 2008)).フォーマルな活動としてではなくても,品質
管理の分野で発展してきたフールプルーフ(エラープルーフ)化の体系(たとえば,中條,久米(1984;
1985))は,日本におけるヒューマンファクターに大きな影響を与えている.また,鈴木(2004)は,
トラブル未然防止のシステムの中で,人間行動の基本的特性を理解し,それに即した形で未然防止
策を講じていくことの必要性を論じ,SRKモデルなど,ヒューマンファクターにおけるいくつかの
重要な知見を取り込んでいる.
筆者も,ヒューマンファクターと品質管理の統合を必要かつ可能だと考える.その根拠は,根本
的なところでの考え方,すなわち問題点に対する対策を,個人に向ける代わりにシステム,プロセ
スの改善に向けようとする点で互いに整合するからである.ヒューマンファクターでは,「ヒュー
マンエラーは原因ではなく結果」(リーズン,1999)であると考え,ヒューマンエラーを防ぐため
の対策として,作業担当者の注意を喚起するのではなく仕組みをかえるべきだと主張する.品質管
理の分野でも,プロセスアプローチとか,システムアプローチという表現で,トラブルを防ぐため
にシステムを作り込む,という考え方をする.
2. 2 ヒューマンファクターと品質管理の統合を阻むもの
根本的なところで同じ方向を向いた考え方をしているのであるから,ヒューマンファクターと品
質管理の統合は容易である,と思いたいところであるが,実際には必ずしもそうとは限らないよう
である.もっとも大きな問題として,人間の位置づけが異なるように見える点がある.
古田(2007)は,日本原子力学会と日本品質管理学会などの共催による「原子力の安全管理と社会
環境」ワークショップにおいて,「QMSというのは,QMSというシステムがあってそこに人間を
はめていくようなニュアンスが感じられてしまう」(p. 90)と述べている(注:QMSとは,おそら
くQuality Management Systemの略と思われる).筆者も,少なからず同じような印象を実は抱いて
いた.何故だろうか.
ヒューマンファクターが大きく発展してきたことの背景には,皮肉にも大規模システムにおける
事故がある.高度に自動化が進んだ領域で,それでも事故が絶えない現実があり,事故原因として
の人的要因が注目された.事故を起こした直近の行為者は,末端の一作業者というよりは,システ
ム全体の命運を左右する「意思決定者」(航空機でいえばパイロット,原子力発電プラントであれ
ば中央制御室のオペレータ)であり,システムのオペレーションの主役である.
「主役」としての人間には,良くも悪くも,権威(authority)のあり方が問題となる.人間中心の
自動化,という概念が生じてきたのは,人間の権威が自動化システムによって損なわれたことに対
する復権のためのムーブメントという見方ができる.逆に,CRM(Crew Resource Management)は,
もとはCockpit Resource Managementといっていた(たとえば,Wiener, et al. (1993))ように,コクピ
ット内にあるリソース(ここでいうリソースとは,コパイロットなどの人的資源を指すと思えばい
い)を最大限に活かそうというのがはじめの目的意識であったが,それは,機長の強すぎる権威の
弊害をなくすことをねらったものであった.
ヒューマンファクターの観点からシステムのデザインを考える場合,「このシステムにおける人
間が欲している情報• 支援はなにか」という問いが重要視される.そこで,人間がどのように情報
を理解し,いかにして判断ならびに実行を行うか,の理解が重要になる.
一方,旧来の品質管理分野における「人間」として想定されてきたのは,言ってみれば,ベルト
コンベアで流れる製造ラインにいる「作業者」であり,数百人もの命を預かるような「主役」では
必ずしもない.誤解を恐れず極端な言い方をすれば,人間は製造工程における一要素にすぎない.
品質管理では,システムのデザインを考える場合,人間が何を欲しているかではなく,「そのプロ
セスでなされなければならないことは何か」という問いが重要視される.たとえば,中條・久米(1984)
のフールプルーフ化の原理のうち,最初に示されるのは,「排除」の原理である.作業の仕組みを
変えて,エラーがおきうる作業をしないですむようにできるのであれば,その作業をなくすように
しようとする.
ただし,ヒューマンファクターが人間重視で,品質管理が人間軽視というわけではない.それぞ
れの領域の出発点が異なるだけである.結果的に,ヒューマンファクターでは人間が中心で,品質
管理では人間が中心というわけではない,というように見えてしまい,二つのコミュニティの接近
をはばむ背後要因になっているように思われる.
3.これからなすべきことは何か
3.1 個々の分野の特性に応じた柔軟な応用
各分野でのこれまでの知見と技術の蓄積を俯瞰し,ヒューマンファクターと品質管理の両者をあ
わせたときに,何がどこまでできているのか,何が足りないかを明確にする必要がある.ただし,
筆者が直観的に感じているのは,分野の特徴によって,具体的にヒューマンファクター・品質管理
の形を柔軟に変える必要があり,そのための適応の方法論が確立されていないように思える.
ヒューマンファクターの発展の重要な部分は,民間航空機分野によるところが大きい.「人間中
心の自動化」(Billings, 1997),SHELモデル(ホーキンズ,1992)や,CRM(Wiener, et al., 1993)など,
いずれも主として航空分野の出身である.また,プロのパイロットが,実践を支え,成功してきた
というのも特徴的である.しかし,組織の活動の前提,制約条件が異なる以上,ある分野で成功し
たからといって,それが別の分野で同じように成功する保証はない.鉄道の運転士でさえ,航空機
の機長ほどの「主役」感はなく,航空分野におけるパイロットの管理と同じように鉄道の運転士を
管理できるかといえば,恐らく非常に困難であろう.自動車でも,航空機の世界での「人間中心の
自動化」と,自動車の世界での「人間中心の自動化」とは,全く同じものではありえない(稲垣,
2006).
どの分野でも普遍的に当てはまるといっていいものは,おそらく"To err is human."ということの
みではないだろうか.これまでのヒューマンファクターの取り組みに関する成功事例,失敗事例は
参考にしつつも,分野の特徴を正確につかみ,その分野に適した形で導入していくことが必要不可
欠である.
3.2 "To err is human." を常に頭の片隅においておくこと
筆者がヒューマンファクターに関わっていてときどき感じることとしては,大事なことは「あた
りまえのことをあたりまえにやるということ」だということである.“To err is human.”ということ
を大原則とし,だからこそ,間違いが起こりにくいようにあらかじめ処置しておく.物を置く場所
をきめておく,というのは,その基本的な一例であるが,「物を置く場所を決めておいて,必ずそ
こにおくようにする」というのは,いってみれば当たり前のことであり,その当たり前のことを当
たり前に実施することがヒューマンファクターの神髄ではないかとさえ思っている.「物を置く場
所を決めておく」というようなことは,少し注意深い人であれば,ヒューマンファクターという言
葉を全く知らなくても,ごく自然に日常的に行っている.
しかし,「当たり前のこと」を「すべての人」が「いついかなるとき」も「当たり前にやる」こ
とができるようにするためには,何らかの仕組みが必要である.その仕組みとして,多くの場合,
品質マネジメントシステムのようなものを導入する,という話になる.最近では,運輸業界でも,
一定以上の規模の運送事業者に対しては運輸安全マネジメントの実施が義務化されている.しかし,
品質マネジメントシステムにしろ,運輸安全マネジメントシステムにしろ,そのようなフォーマル
なマネジメントシステムを導入するには,ある程度組織の規模が大きくないと有効に機能しないこ
ともある.実際,運輸安全マネジメントの場合,トラックやバスでいえば,保有台数が300台以
上の運送事業者に義務化されているが,小規模の事業者はあくまでも努力義務にとどまっている.
もし,「あたりまえのことをあたりまえにやることが大事だ」という筆者の主張が正しいとすれ
ば,そのための仕組みとして,フォーマルなマネジメントシステムを導入するということ以外の選
択肢も当然あり得る.製造現場において,5S(整理、整頓、清掃、清潔、躾)活動(食品業界では
7S活動というものもある)の実施によって生産性が高まるという事例が数多く存在している.運輸
業界においても,(多少の改訂が必要であろうが)5S活動であれば,小規模の運送事業者でも取り
組むことは可能である.
人間行動に起因するトラブルを減らしていくために具体的に何を行うべきかについては,分野ご
とに異なるだけでなく,組織の規模,これまでにどのような取り組みがどこまで進んできたか,と
いったことに依存すると考えられる.既存の技術や方法論を適宜取捨選択することが重要である.
ただし,何に取り組むにせよ,そうした取り組みが必要であるとの問題意識を,組織の執行部,現
場の管理者,実際の作業者が持つことが必要不可欠である.そこでは,ヒューマンエラーとそのリ
スクに関する感度を高めることが必要である.
4.失敗を楽しむ
人は,ときどきとんでもない失敗をする.筆者の場合でいえば,「自宅から100mくらいしか離
れていないクリーニング屋に行く途中に財布を落とした(拾った人が,自宅とクリーニング屋の間
にある交番に届けてくれた)」という経験すらある.
しかし,人は往々にして,人が失敗をするものであるということを忘れがちでもある."To err is
human."を忘れてしまうと,人の失敗が許せなくなり,窮屈になる.2005年の脱線事故のように,
人の失敗を許せない組織の行動が大事故へとつながっていくケースすらある.
"To err is human."を我々が忘れないようにするために,筆者は,失敗を楽しむ,ということを提
案したい.具体的にどのように楽しむべきかを提案せよ,と指摘されそうであるが,楽しみ方を強
制するのは野暮というものである.筆者の場合は,研究テーマを考える際の背後要因になっている.
筆者がヒューマンファクターに関与しているのは,自分自身がerror proneな人間だと自覚している
(具体例は,伊藤(2008)を参照)のが一つの理由である.
大事なのは,楽しむという気持ちを持つことではないかと筆者は思う.失敗から学ぶ,という風
に大上段から構えるのではない,ということである.学ぶ,という言葉は,ややもすると,頭を垂
れて教訓を授かるというような,受身的な,重苦しい印象をもたらしかねない.それよりも,むし
ろ,自発的に,軽やかに,失敗から知恵を得る方がいい.この意味で,失敗を楽しみ,失敗を身近
に感じる,というところから入っていくのがいいのではないかと考えている.
失敗事例データベースがあっても,もしそれが無味乾燥なものであったら,遠い異国の話のよう
で,十分な実感がわかず,役に立つ知恵・知見を身につけるのは難しいのではないか.実際,社内
で,あるいは業界内で失敗事例のデータベースを構築したのにほとんど利用されなかった,という
ぼやきを,様々なところで目にしたり耳にしたりすることがある.失敗事例データベースの構築に
関する失敗事例のデータベースができるのではないかとさえ思ったりする.何故うまくいかないか
は,様々な理由があるのであろうが,一つの理由として筆者が重要だと思っているのは,利用者が
実感を持って失敗事例に接することが難しい,ということである.「自分はそんな間違いはしない」
という思いがどこかで出てきてしまうということである.
他人の失敗をもとにするよりは,自分の失敗経験をベースに,「ああ,人間とは面白い失敗を犯
しうるものであるな」と感じるようにするほうが,実感を持って"To err is human." を理解し,心に
とどめておくに役に立つと筆者には思える.また,このときに,「学ばねばならない」というよう
な妙なプレッシャーをかけてしまうと,自分自身の失敗事例に対して正面から向き合えなくなりや
すい.そこで,気楽に楽しもう,という次第である.
失敗を楽しむという視点は,少し異なる表現をするとすれば,DCAPサイクルをまわす,とい
うことかもしれない.いわゆるPDCAサイクルは,品質管理の基本であるが,PDCAという場
合,どうしても「まずPlanありき」というニュアンスを持つ.その意味で,演繹的であり,形式的
であるような印象をもたらす.しかし,人間の成長の過程を見ていけばわかるが,初めにPlanがあ
るとばかりはかぎらない.人間(動物)の日常生活のなかでは,むしろ,まず,Doがあり,その
結果をみて,次に何をするかをきめるということが多い.この意味で,人間行動は多くの場合Do
から始まるDCPAサイクルであるという言い方ができる.行動によって生じる人と環境とのイン
タラクションを通じて人が情報を環境から見出す(例:棒を振ることによって棒の長さを知覚する)
ということが,生態学的心理学の考え方である.「人は失敗をするものである」から,失敗を楽し
もう,という筆者の主張は,生態学的心理学的意味で,Doから入るDCAPサイクルをまわそうとい
うものである.
もちろん,自分が経験するエラー,失敗は,限定的であり,それだけでは,人間がおかしうる過
ちをすべて網羅できるはずはない.体系的に人がエラーを起こす理由や仕組みを理解するためには,
事例データベースや心理学的な知見を学ばねばならない.しかし,失敗を楽しみ,失敗が常に自分
の身近にあるならば,少なくとも,「人間は誤りを犯しうる存在である」ことを忘れずにいること
ができるのではないかと考えている.学ぶのは,面白いと感じるようになってからでいい.
5.おわりにかえて —赤毛のアンが教えてくれること—
日本においては,品質管理やヒューマンファクター関係の学協会は,男性,しかもいわゆる中年
以上の男性が多い.心理学をベースにしている米国のHFESが女性の研究者が多いのと非常に対照
的である.安全の問題,品質の問題の神髄を理解するためには,ある程度人生経験を積まなければ
ならないといわれ,年齢層が高いのはやむを得ないのであるが,それにしても男性が多い.
そういう中では,トム・ソーヤーの冒険を読んだ経験のある人は少なからずいるであろうが,
「赤
毛のアン」(モンゴメリー,1954)を読んだことのある人は多くないのではないかと思われる.し
かし,赤毛のアンことアン・シャーリーこそは,(架空の人物ではあるが)自分のおかした失敗を
も楽しんだ人物といえる.
たとえば,孤児だったアンがグリーン・ゲイブルス(緑の切妻)の家にもらわれて,初めて隣人
のリンド夫人に引き合わされた際,リンド夫人に「・・・おまけに髪の赤いこと,まるでにんじん
だ」(p. 94)といわれ,「激しく床を踏みならしながら」リンド夫人に対して「あんたみたいに下
品で,失礼で,心なしの人を見たことがないわ」などと猛烈に怒りの言葉を爆発させるというシー
ンがある.その後,紆余曲折を経てアンはリンド夫人に詫びにあがるのであるが,想像をめぐらす
ことが大好きなアンは,リンド夫人の家へと謝りに行く道すがら,「夢見るような目つき」で「う
っとりとうれしそう」に「リンド夫人にどんなふうに言おうか想像」し,リンド夫人宅に到着する
や,「沈痛な後悔のようす」を全身にまとい,リンド夫人の前にひざまづいて約1ページにわたる
詫びの言葉をとうとうと語るのである.アンの詫びは,アンの養母マリラの目からみても,アンが
「この屈辱の瞬間を大いに楽しんで」おり,「このうえない快楽に変えてしまった」ことが見てと
れた.だからといって,アンの詫びの言葉は,決してうわべだけのものではなく,心のこもったも
のであった.だからこそリンド夫人も許す気になれたのである.アンは,「どうせ,あやまるんな
ら,徹底的に謝ったほうがいい」と考えたのである.
アンは,同じ失敗を繰り返すことなく成長していった人物でもある(未然防止は不十分であった
が,再発防止には極めて長けていた).アンがマリラに次のように述べるシーンがある.「でも一
つあたしにいいことがあるのがわかりませんか,マリラ? おなじまちがいを二度と繰り返さない
ことよ」それに比べると,筆者などは,若いときのことであるが,2年続けて財布をなくしたとい
う経験をもつ,再発防止すらも満足にできなかったものである.筆者が赤毛のアンを読んだのは30
歳も間近になった頃が初めてであるが,今から思えば若いうちに読んでおくべきだったかもしれな
い.失敗を恐れず,失敗を楽しみ,失敗経験から自分を高めたアン・シャーリーという人物を筆者
は多くの人に知って欲しいと思っており,ぜひ中年・壮年男性に「赤毛のアン」を読んでみていた
だきたいと思うのであるが,恐らく多くの方はそれを読むことを好まないであろう.
ヒューマンファクターの専門家に品質管理を学べというのは,男性の工学屋に赤毛のアンを学べ,
と言っているのと同程度のギャップのあることなのかもしれない.筆者は個人的に,そういう印象
を抱く経験をしたことがあった.しかし,いま日本のヒューマンファクターに求められているのは,
そのギャップを乗り越えることではないかと考えている.
6.謝辞
本稿の内容は,ヒューマンファクターならびに品質管理分野での諸先輩方との研究交流での経験
をベースにしている.特定の名前を出すことはここでは差し控えたいが,ふつつかな筆者と交流し
ていただいていることに深く感謝の意を表したい.
また,本稿の表題となっている「失敗を楽しむ」という言葉は,筑波大学大学院システム情報工
学研究科知能機能システムシステム専攻掛谷英紀准教授とのディスカッションの中で生まれたも
のである.掛谷先生の期待しているものとくらべれば,本稿の内容はあまりに稚拙であるかもしれ
ないが,筆者にとって重要なきっかけを与えていただいたことに謝意を表する.
7.参考文献
石橋明(2006). 事故は,なぜ繰り返されるのか,中央労働災害防止協会.
伊藤誠(2008).ITSにおける人間と機械の役割分担,計測と制御,Vol. 47, No. 2 , pp. 107-112.
稲垣敏之(2006). "リスク環境における人と知能機械の協調をデザインする" 電子情報通信学会誌,
Vol.89, No.12, pp.1026-1031.
小野寺勝重(1998).実践FMEA手法,日科技連.
小野寺勝重(2000).実践FTA手法,日科技連.
河野龍太郎(編)(2006). ヒューマンエラーを防ぐ技術,日本能率協会マネジメントセンター.
鈴木和幸(2004).未然防止の原理とそのシステム,日科技連.
中條武志,久米均(1984).作業のフールプルーフ化に関する研究-フールプルーフ化の原理-,
品質,Vol. 14, No. 2, pp. 128-135.
中條武志,久米均(1985).作業のフールプルーフ化に関する研究-製造作業における予測的フー
ルプルーフ化の方法-,品質,Vol. 15, No. 1, pp. 41-50.
日本原子力学会社会・環境部会,日本品質管理学会,東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻
(2007). 第1回「原子力の安全管理と社会環境」ワークショップ報告書.
日本原子力学会社会・環境部会,日本品質管理学会,東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻
(2008). 第2回「原子力の安全管理と社会環境」ワークショップ報告書.
日本品質管理学会(2002). 人間行動に起因する事故・品質トラブルの未然防止のための方法論の体
系化,復号技術領域における人間行動研究会最終報告書.
日本品質管理学会(2008).(社)日本品質管理学会第124回シンポジウム「信頼性・安全性の確保と
未然防止」講演要旨集.
ノーマン,D.(1990).誰のためのデザイン?,新曜社.
モンゴメリー,L.M.(村岡 花子 訳)(1954). 赤毛のアン,新潮文庫.
古田一雄(2007). ヒューマンファクターの原則と原子力における研究課題,第1回「原子力の安全管
理と社会環境」ワークショップ報告書,pp. 86-96, 日本原子力学会社会・環境部会,日本品質
管理学会,東京大学大学院工学系研究科原子力国際専攻
ホーキンズ,F.H.(黒田 勲 監修,石川 好美 監訳)(1992).ヒューマン・ファクター,
成山堂書店.
J.ラスムッセン(海保博之,加藤隆,赤井真喜,田辺文也 訳)(1990).インタフェース
の認知工学,啓学出版.
J.リーズン(塩見 弘 監訳)(1999).組織事故,日科技連.
ICAO(1998).ヒューマンファクター訓練マニュアル,Doc. 9683-AN/950.
Billings, C. (1997). Aviation automation, LEA.
Moray, N. (2007). The human factors of complex systems: a personal view, in D. de Waard, G. R. J. Hockey,
P. Nickel, and K. A. Brookhuis (Eds.), Human factors issues in complex systems performance, pp.
11-40.
Wiener, E. L., Kanki, B. G., and Helmreich, R. L. (Eds.) (1993). Cockpit Resource Management, Academic
press.
Fly UP