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第一次世界大戦以前のドイツにおける 自転車の生産と普及
地域経済の成長と地域間格差―需要側からのアプローチ―(小藤弘樹) (597)181 【研究ノート】 第一次世界大戦以前のドイツにおける 自転車の生産と普及 西 圭 介 は じ め に 現在の自転車の原型は,様々な技術開発を通じて 1880 年代のイギリスにお いて姿を現す.そしてこの製品を生産する工場はまずアメリカで叢生し,次 にイギリスを筆頭にヨーロッパ諸国においても設立されていく.19 世紀か ら 20 世紀への世紀転換期にはアメリカ国内で供給過剰となった自転車がヨー ロッパに流入したことによって価格競争が生じ,ヨーロッパの自転車工業は 変容を迫られたのである.この価格競争は通信販売のような新しい販売方法 によって促進され,自転車価格は大きく下落した.世紀転換期から第一次世 界大戦前にかけて自転車を主商品とする労働者による購買協同組合が拡大を 遂げ,このころに就労者の約半分を構成した労働者に自転車が普及し始めた と考えられる.ドイツにおいて世紀転換期から第一次世界大戦の間は労働者 の所得が向上したこと 1)によって彼らの生活改善が起こった時期 2)に当たり, このころの労働者は実用性(通勤手段)と娯楽性(週末のサイクリング 3))を同 時に備えた初めての消費財として自転車を購入 4)したと考えられる.自転車 1) Hohorst/Kocka/Ritter (1975), S.107. 2) Ritter/Tenfelde (1992), S.519-527. 3) 労働者サイクリスト連盟が出版した機関誌“Der Arbeiter=Radfahrer”によれば,構成員が週 末に頻繁に郊外へのサイクリングを開催している(1897 年 2 月 1 日号によるとライプツィヒ支 部では半年で 17 回開催された). 4) 第一次世界大戦前のドイツにおいて労働者が受容していった消費財として自転車の他には ↗ 182(598) 第 61 巻 第 3 号 によって労働者は鉄道の有無を問うこと無く,勤務する工場から離れた場所 に安価な住居を購入する可能性を得 5),週末には工場内の労働から解放され て郊外へのサイクリングを享受することができたのである. すでに自転車に関しては様々な視点から研究がなされている.主にイギリ スとアメリカにおける技術的発展についてはハーリィ 6)が明らかにしており, イギリス自転車工業の発展過程に関してはすでに考察 7)がなされている.そ して本論文との関連で特に興味深いのがハウンシェル 8)の研究である.彼に よって軍廠における小火器生産からミシン生産,自転車生産に連なる工場内 生産技術・組織の発展過程が明らかにされ,T 型フォードの大量生産に至る 歴史的経路が主に技術的な観点から考察されている.自転車生産はここでは ミシン生産と T 型フォードの大量生産をつなぐ「架け橋」9)として考えられ ている. 日本においては荒井(1988)10)がイギリス自転車工業の発展に関して明らか にしている.ドイツ自転車工業に関しては種田(1993)11)が特にオペルによる 自転車生産を考察し,馬場(1999)12)がビーレフェルトにおける自転車工業の 発展について考察している.しかしながら両研究ともドイツ自転車工業の発 展については付随的に述べるにとどまっている. ↘ ミシンが挙げられるが,実用性という面ではミシンもそれに該当するが,娯楽性という面では 該当しないと考えられる. 5) ビーレフェルトという都市に関してだが,Jahresberichte für die Geschäftsjahre 1906, Deutscher Metallarbeiter-Verband Bielefeld, S.11 では労働時間の短縮と郊外での居住の可能性に触れ,「い まや彼(労働者)は工場の近くの高価で,しばしば不十分な住居を購入しなければならないと いうわけではなく,工場から少し離れていても,良質で,健康な住居を購入できる」と述べら れている.労働者は世紀転換期に近代的移動手段の発達(鉄道,自転車)と労働時間短縮によっ て郊外に居住し始めたと考えられる. 6) Herlihy (2004), pp.15-305. 7) Lloyd-Jones /Lewis (2000), pp.1-96. 8) ハウンシェル(2002),pp.3-327. 9) ハウンシェル(2002),p.12. 10) 荒井(1988),pp.553-582. 11) 種田(1993),pp.69-93. 12) 馬場(1999),pp.58-63. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (599)183 ドイツにおいてもラーベンシュタインが近代ドイツ社会と自転車の関係を包 括的に考察 13)し,自転車が女性解放に果たした役割をブレックマンが考察 14) している.そしてラドカウの研究 15)においては技術の社会への適応という観 点でドイツにおける技術発展が考察され,その中で自転車は「技術と身体を 統合するもの」16)として注目されている.このようにドイツにおいても自転車 に関する研究は現れてきているが,上記したものの中でも自転車工業の発展 過程は十分に考察されていない.しかし本論文ではドイツ自転車工業が第一 次世界大戦以前において,後のフォード社によるベルトコンベヤーシステム に代表される大量生産システムに連なる工場内生産技術・組織を有しながら も,製品を多角化させることによって発展していったことを明らかにしたい. 本論文では以上のような研究状況を踏まえつつ,自転車の供給サイドに関 しては同時代の博士論文や社史,ドイツ自転車工業家協会の記念誌を参考に した.その中でも特にザイフェルトの博士論文 17)は第一次世界大戦以前のド イツ自転車工業における工作機械の発展やそれによる「大量生産」18)の成立, 各社の発展,小売業の状態などについて触れており,非常に興味深い.アイカー の博士論文 19)は 1920 年代におけるドイツ自転車工業の発展や,各社の発展 について明らかにしている.1928 年に出版されたドイツ自転車工業家協会の 記念誌 20)には当時の構成員表に創立年,立地,被雇用者数,生産品目が付記 されており,これも非常に興味深い.1905 年のアドラー社による社史 21)は工 場内の様子について写真を交えて詳細に説明しており,非常に価値の高い史 料である.本論文ではこのアドラー社について考察するが,その際に Institut 13) Rabenstein (1991), S.10-330. 14) Bleckmann (1998), S.7-153. 15) Radkau (2008), S.9-254. 16) Radkau (2008), S.157. 17) Seyfert (1912), S.1-111. 18) Seyfert (1912), S.17. 19) Eicker (1929), S.1-85. 20) Festschrift zum vierzigjährigen Bestehen des Vereins deutscher Fahrrad= Industrieller e.V., (1928), S.15-127. 21) Lang (1905), S.1-94. 184(600) 第 61 巻 第 3 号 für Stadtgeschichte (vorm. Stadtarchiv Frankfurt am Main) での史料収集の成果 22)も 利用されている. 本論文では上のように供給サイドを考察すると共に,供給と需要を結び付 ける販売面と労働者の自転車所有についても考察する.世紀転換期に自転車 の通信販売を通じて事業を拡大する会社についてはすでにヘーゲとプリュー マーの研究 23)がある.1890 年代後半から発展し始める自転車を主商品とする 労働者による購買協同組合については労働者サイクリスト連盟 Solidarität の ハンドブック 24) や,この組合による営業報告 25) を参考にした.次に本論文 では労働者による自転車所有を確認するが,その前提となる労働者の生活改 善については膨大な研究があり,その一部 26)を参考にした.そして主に労働 者家計調査 27)から労働者による自転車所有を検討した. 本論文は以下のように構成される.第 1 節では自転車に集約されることに なる技術の発展について考察し,19 世紀中の様々な技術開発により 19 世紀 末のイギリスにおいて自転車が姿を現すことを明らかにしたい.第 2 節では 第一次世界大戦以前のドイツ自転車工業において,専門工によって操作され る工作機械が導入されることを通じて工場内生産技術・組織の発展が起こっ ていたことと,ドイツにおける自転車生産のパイオニアと呼べる企業が工場 内生産技術・組織を発展させつつ,製品を多角化させることによって拡大し ていったことを明らかにしたい.第 3 節では世紀転換期に価格競争を促進し た販売方法について考察した後に,労働者による自転車所有について検討し たい.それによって組織された郵便サービス 28) を前提とした通信販売や労 22) Institut für Stadtgeschichte (vorm. Stadtarchiv Frankfurt am Main) の W1/14 Nr.224, Nr.301-314. 23) Heege/Plümer (1996), S.7-44. 24) Fischer (1908), S.3-59 と Bundesvorstand (1927), S.3-79. 25) Fahrrad-Haus Frischauf für das Geschäftsjahr 1912=13, (1914), S.1-31. 26) Hohorst/Kocka/Ritter (1975), S.15-140 や Nipperdey (1998), S.291-334, Ritter/Tenfelde (1992), S.263-675 を参照. 27) Haushalts-Rechnungen Nürnberger Arbeiter, (1901), S.1-109 と Fuchs(1904), S.1-272 と Conrad (1909), S.3-43. 28) Heege/Plümer (1996), S.31 によると「統一された郵便料金や郵便為替,または着払いによる 商取引をともなう,しっかりと組織された郵便サービス」を意味. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (601)185 働者による購買協同組合の発展過程が明らかにされ,世紀転換期からの一部 の労働者による自転車所有が明らかとなる.これら一連の考察を経ることに よって,第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の供給サイドと需要サ イドの発展過程がその両面を結びつけた販売方法も含めて明らかとなるので ある. 1 自転車の開発 ドイツ自転車工業家協会が創立 50 周年を記念した記念誌の中で,自転車の 開発について「一定の目標設定なしに,多かれ少なかれ無作為に経過した」29) と述べられている.この言葉に端的に示されるように,自転車の開発は様々 な技術開発の複合の結果現れたものであった.鉄の軽量化,ベアリングの改良, チェーン伝導の導入,フリーホイールの開発,空気タイヤの開発などを通じ て現在の自転車が登場するのである. 18 世紀後半のパリで人力によって動く四輪車が注目を浴びた後に 1814 年 にカールスルーエのドライス男爵が二輪車を考案した.この二輪車は全て木 製で,チェーン伝導やブレーキなどはついておらず,搭乗者が地面を蹴るこ とによって前進した.このような二輪車は「名人」によってのみコントロー ル可能なものであり,走行の際の危険が非常に多かったため,広範な社会層 に普及しうるものではなかった.しかしこの二輪車は「コンパクトでペダル 出力の乗物に向かう最初の重要なステップ」をなしたのである 30). やがて 1859 年にフランス人のミショーが前輪にペダルを装着したこと 31) によって,ドライス男爵が開発したような「歩行補助機械から真の乗り物へ と変化」させる画期が訪れた.この二輪車の特徴はスピードを向上させるた めに肥大化した前輪である.ミショーの開発した二輪車を生産していた工場 は一時 500 人を雇用したが,この二輪車も広範な社会層に需要されうるもの 29) Fünfzig Jahre Verein Deutscher Fahrrad-Industrieller, (1938), S.43. 30) Herlihy (2004), pp.16-22. 31) Brockhaus Konversations=Lexikon, (1895), S. 196. 186(602) 第 61 巻 第 3 号 ではなかったので,1860 年代の終わりからこの工場の経営は傾いていった 32). ミショーの二輪車は世界各国で注目を浴びたものの 1869 年にはそのような 関心も冷めてしまったが,1870 年代に様々な技術がこの二輪車に導入される ことによって改良は継続していき,1885 年のイギリスにおいて現在の自転車 の原型“ローバー”が姿を現す.この“ローバー”では後輪にチェーン伝導 が導入されることによって前輪が縮小し,安全性が向上した.そして「全世 界の自転車のタイプとして普及するのみではなく,それはまた非常なブーム の中で最高潮に達する先例のない世界大の需要のきっかけとなる」33)のである. 1890 年代の初めに技術的に完成(軽量化,変速ギアの開発は後にも行われるが) された自転車はまずアメリカで急速に普及したが,1890 年代後半には生産過 剰に陥り,アメリカ製自転車がヨーロッパに流入することになる.ヨーロッ パ自転車工業にとってアメリカ製品の流入は自転車生産の採算性の悪化を意 味し,各企業にとっては工場内生産技術・組織を変化させる契機になったと 考えられる 34). 自転車走行における安全性を高めた外的要因として道路の整備が挙げられ る.1902 年のある自転車生産者は「自転車は道路の改良の先駆者として歴史 に残るにちがいない」と述べた 35).1888 年の空気タイヤの開発も自転車の安 全性を高めたものとして挙げられる.1870,1880 年代にはソリッドラバータ イヤが普及していたが,空気タイヤの開発によってゴムタイヤ工業が勃興す る 36).ドイツにおけるゴムタイヤ工業の中心地はハノーファーであった 37). 32) Herlihy (2004), pp.76-94. 33) Herlihy (2004), p.225. 34) Lloyd-Jones/ Lewis (2004), p.38 からイギリス自転車工業の世紀転換期における変化(「工作機 械の導入」)が明らかとなっている. 35) Herlihy (2004), pp.235-298. 36) Festschrift zum vierzigjährigen Bestehen des Vereins deutscher Fahrrad= Industrieller e.V., (1928), S.102 か らドイツ自転車工業家協会に参加していた従業員数 11,000 人のゴム製品企業が確認されている. 37) 空気タイヤ,ゴムタイヤ工業に関しては Euhus (2003), S.6-122 を参照. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (603)187 第 1 表 1990 年国際ドル表示の 1 人当たり GDP の成長とイギリスを 100 とした指数 (1870-1913) 年 イギリス アメリカ フランス ドイツ 1820 1,756 100 1,287 73 1,218 69 1,112 63 1870 3,263 100 2,457 75 1,858 56 1,913 58 1900 4,593 100 4,096 89 2,849 62 3,134 68 1913 5,032 100 5,307 105 3,452 68 3,833 76 (注) 小数点以下切捨て. (出所) マディソン(2000) ,p.11 から作成. 2 ドイツ自転車工業の発展過程 第 1 表は 1990 年国際ドル表示の 1 人当たり GDP の成長とイギリスを 100 とした指数で示したものであり,イギリス,アメリカ,フランス,ドイツの 成長を比較したものである.この表から 1820 年から 1913 年にかけてのドイ ツにおける一人当たり GDP の成長と,イギリスとの格差縮小が明らかとなる. 1867 年から 1913 年にドイツにおいて銑鉄生産と鋼鉄生産はそれぞれ 20 倍, 25 倍になり,世紀転換期ごろにドイツはイギリスの銑鉄生産と鋼鉄生産を凌 駕するにいたった 38).そして世紀転換期ドイツは 1896 年からの景気上昇局面 の中にあり,製鉄業,電機工業,工作機械工業,化学工業のような諸工業が 台頭する中で 39)ドイツ自転車工業も発展するのである. この節では(1)と(2)で第一次世界大戦以前におけるドイツ自転車工業の発 (3)では第一次世界大戦以前のドイツ自転車工業におけ 展過程を明らかにし, る工場内生産技術・組織を考察する.世紀転換期ドイツにおける電機工業の 発展を明らかにした今久保(1995)では,当時の電機工業における工場内作業 組織の発展(万能作業組織から品種別作業組織へ)が指摘されており,この工場 内作業組織の発展は同時に手工業的熟練工の専門工による代替を意味した 40). 38) Nipperdey (1998), S.230. 39) 世紀転換期ドイツにおける工作機械工業の発展については幸田(1994)が,電機工業につい ては今久保(1995)が,化学工業については工藤(1999)が,合理的管理については井藤(2002) が明らかにしてくれている. 40) 今久保(1995),pp.225-336. 188(604) 第 61 巻 第 3 号 (3)ではこのような視角を継承して第一次世界大戦以前のドイツ自転車工業に おける工場内生産技術・組織の発展を明らかにしたい.そして(4)ではドイ ツにおける自転車生産のパイオニアであるアドラー社の発展過程と工場内生 産技術・組織を考察したい. アーベルスハウザーによれば世紀転換期ドイツでは自律的な諸経済的アク ター(企業,協会など)による共同作業(Zusammenarbeit)を特徴とした「協調 的市場経済」41)が成立し,この「協調的市場経済」では高度に発展した応用 可能な工学技術と長期的な顧客関係に基づいて「多角的高品質生産」が行わ れていた.この「多角的高品質生産」によって,ドイツ的生産レジームは「汎 用性の高い生産方法で特殊な製品を生産できる物質的,組織的前提条件を有 しているのみではなく,供給サイドからすれば特殊機械によって標準化され た製品を生産できる状況(これは大量生産の枠組みに対応)にもあった」のであ る(その代表例としては化学工業が挙げられている)42).このようにしてドイツの 各工業は様々な需要に合わせて柔軟に生産システムを変化させていったと考 えられる.ドイツ自転車工業の発展過程はこのような解釈の中でどのように 理解されうるか,ということについてはこの節の最後で試論的に述べたい. (1)ドイツ自転車工業の成立と拡大(1880 年代半ば∼ 1897 年) 1880 年代半ばまでドイツの自転車市場においてはイギリス製品が優位にあ り,1887 年におよそ 7,000 台の自転車がドイツ国内で生産されていたが,こ の年の販売台数は 15,000 ∼ 20,000 台と見積もられる(生産台数と販売台数の差 がイギリスからの輸入量と考えられる) .1887 年のドイツ自転車工業は 64 社で 1,150 人の被雇用者を擁するに過ぎないものであり,そのうち 33 社が 10 人以 下,12 社が 10 ∼ 18 人,12 社が 19 ∼ 40 人,7 社が 40 人以上の規模であっ 41) アーベルスハウザー(2006)では korporative Marktwirtschaft を自律的な諸経済的アクター による共同作業を特徴としていることを前提として「団体調整的市場経済」と訳出している. ここではその前提を文中で説明しているので「協調的市場経済」と訳した. 42) Abelshauser (2004), S.39-44. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (605)189 た 43).このようにドイツ自転車工業はこの時期においては小規模なものであった. しかしビーレフェルトのミシン工場など 44)が自転車生産に参入(1885 年デュ ルコップ社 45),1887 年オペル社) することによって,そのような状況は変化し ていった.これらの参入企業はミシンの販売危機(原因として過剰生産とアメリ カのシンガー社との競争 46)) に直面して自転車生産に参入したのであった.さ らにドイツにおける自転車生産のパイオニアと呼ぶことができるアドラー社 (この会社の発展過程については後述する)が 1887 年に「ドイツでイギリスのそ れ(工場)に比肩することができた最初の工場の一つ」47)を建設し,ドイツ自 転車工業は発展を開始する. 同時代人の技師パーラーによればドイツの自転車生産台数は 1891 年に 55,000 台,1894 年に 120,000 台,1897 年に 350,000 台に達し 48),1895 年には ドイツ自転車工業は 210 社から構成され,7,177 人の被雇用者を擁するものに 成長した 49).そして 1895 年の百科辞典にも「最近ドイツでは自転車工業が飛 躍を遂げ,いまやドイツ製品がこれまで一番人気のあったイギリス製品と少 なくとも同価値に見られるようになった」50)と誇らしげに述べられている. (2)販売危機と一部企業の大規模化,部品専門企業群の出現(1898 年∼) 1897 年までドイツ自転車工業は順調に拡大したが,1898 年から自転車生産 の採算性が悪化する.原因としては原材料の高騰,アメリカ製自転車との価 43) Seyfert (1912), S.40. 44) Seyfert (1912), S.78 によると,第一次世界大戦前においてビーレフェルトはドイツ国内の総 生産量のうち約 13%の自転車を生産していた.ビーレフェルト以外の自転車生産の中心地と してはニュルンベルク,ブランデンブルクが挙げられる. 45) Dürkoppwerke (1927), S.7-33 によると,創業者デュルコップは錠前工(Schlosser)のもとで 徒弟修業を積んだ後に 1867 年にデュルコップ社の原型となる会社を創業する.デュルコップ 社は 1889 年に株式資本 2,250,000 マルクで株式会社化. 46) Eulner (1913), S.13. 47) Seyfert (1912), S.41. 48) Paller, S.216. 49) Seyfert (1912), S.22. 50) Brockhaus Konversations=Lexikon, (1895), S.196. 第 61 巻 第 3 号 190(606) 第 2 表 自転車の価格(マルク) 年 アメリカ製 ドイツ製 年 アメリカ製 ドイツ製 1890 − 230-320 1901 − 75-85 1894 − 200-285 1902 − 75-85 1897 125-150 − 1904 − 70-80 1898 80-90 − 1905 − − 1899 − 120-160 1906 − − 1900 − 110-140 1907 − 53-60 (注) ドイツ製自転車価格に関しては下記のザイフェルト論文より引用した.この価格には空気 タイヤ価格が含まれていない(1890 年,1894 年の価格を除いて). (出所) Seyfert (1912), S.43,S.49,S.58. 格競争,悪天候,ドイツの低率輸入関税 51)が挙げられる.第 2 表はアメリカ 製自転車価格とドイツ製自転車価格を比較したものである.この表から安価 なアメリカ製品の流入と,世紀転換期からのドイツ製自転車価格下落の傾向 が読み取れる.この自転車の販売危機は 1902 年には終息し,1903 ∼ 1907 年 にかけて自転車販売は再び好況となるが,自転車生産の採算性はこの時期も 悪化していく 52). 第 3 表は 1895 年のドイツ自転車工業の企業規模と 1907 年のそれを比較し たものである.1907 年にドイツ自転車工業は 1,325 社で 19,670 人の被雇用者 を擁し,工業全体として成長していたのみならず,200 人以上の工場によっ て雇用されるものが全体に占める比率は 41.60%(1895 年)から 59.04%(1907 年)に上昇し,500 人以上では 7.80%(1895 年)から 27.17%(1907 年)に上昇 しているので,この時期に一部企業が大規模化をもしている.販売危機の中 で特殊工作機械の設置による投下資本の巨大化が生じたために 53),一部企業 51) Festschrift zum vierzigjährigen Bestehen des Vereins deutscher Fahrrad= Industrieller e.V., (1928), S.82 によるとドイツの低率輸入関税は自転車 100kg につき 24 マルク,1 台当たり 3.10 マルク(価 値の 1%)であったが,アメリカへの輸出はアメリカでの高率輸入関税(価値の 45%)によっ て妨げられた.このドイツの輸入関税は 1901 年に改定され,自転車 100kg につき 150 マルク, 鉄製自転車部品には 100kg につき 40 マルクの関税がかけられた. 52) Seyfert (1912), S.64. 53) Seyfert (1912), S.24. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (607)191 第 3 表 自転車および自転車部品の製造企業数と被雇用者数,それらが全体に占める 比率(1895 年と 1907 年) 年代 1895 年 企業規模 1907 年 企業数 比率(%) 被雇用者数 比率(%) 企業数 比率(%) 被雇用者数 比率(%) 1人 8 3.80 8 0.11 449 33.88 449 2.28 2人 31 14.76 62 0.86 313 23.62 626 3.18 3∼5人 44 20.95 172 2.39 344 25.96 1,290 6.55 6 ∼ 10 人 40 19.04 302 4.20 91 6.86 668 3.39 11 ∼ 20 人 23 10.95 315 4.38 38 2.86 580 2.94 21 ∼ 50 人 27 12.85 889 12.38 31 2.33 988 5.02 51 ∼ 100 人 21 10.00 1,338 18.64 18 1.35 1,202 6.11 101 ∼ 200 人 8 3.80 1,105 15.39 15 1.13 2,253 11.45 201 ∼ 500 人 7 3.33 2,423 33.76 19 1.43 6,269 31.87 501 ∼ 1000 人 1 0.47 563 7.80 6 0.45 4,207 21.38 1000 人以上 − − − − 1 0.07 1,138 5.78 総計 210 社 100.00 7,177 人 100.00 1,325 社 100.00 19,670 人 100.00 (注) 小数点 3 桁以下切捨て. (出所) Seyfert (1912), S. 22-23 から作成. が大規模化したと考えられる.この時期における特殊工作機械の設置が具体 的に何を指すかについては(3)で詳述する. 個別企業を販売危機前と販売危機後で比較すると,企業間の業績の差異が 大きくなっており,販売危機時に無配に転落する企業が現れれば 54),製品を 多角化させて成長していく企業も現れた 55).世紀転換期から自転車生産の採 算性が悪化する中で 1907 年にカルテルが結成されて 50 マルク以下の自転車 に関して値上げがなされ,生産量割当によって競争が回避されたが,企業間 の異なる利害によって 1909 年にこのカルテルは解体した 56). 一部の大規模企業は完成車を生産するために世紀転換期ごろから部品を自 54) Seyfert (1912), S.56-57, S.76-77 と Paller (1908), S.10-32. 55) 世紀転換期に自転車生産に参入してワイマール共和国期に有数の自動車メーカーとなる企業 には後述するアドラー,他には NSU,オペルなどが挙げられる.大島(2000)から. 56) Seyfert (1912), S.64-70. 第 61 巻 第 3 号 192(608) 第 4 表 自転車,自転車部品の輸出額(1,000 マルク),それらが全体に占める比率(%) (1897-1910 年) 年 総輸出 1897 9,905 完成車 − 比 率(%) − 部 品 − 比 率(%) − 1898 12,667 6,985 55.14 5,682 44.85 1899 11,710 5,905 50.42 5,805 49.57 1900 10,796 4,407 40.82 6,389 59.17 1901 12,082 4,549 37.65 7,533 62.34 1902 14,405 3,368 23.38 11,037 76.61 1903 18,557 3,962 21.35 14,595 78.64 1904 20,112 5,240 26.05 14,872 73.94 1905 28,366 7,259 25.59 21,107 74.40 1906 48,273 8,938 18.51 39,335 81.48 1907 66,433 10,105 15.21 56,328 84.78 1908 56,503 9,343 16.53 47,160 83.64 1909 60,083 5,515 9.17 54,568 90.82 1910 71,362 6,220 8.71 65,142 91.28 (注) 小数点 3 桁以下切捨て. (出所) Seyfert (1912), S.88 から作成. 製していく 57)が,それらと並んで部品専門企業群 58)も同時に存在していた ことを指摘しなければならない.第 3 表の 1907 年の経営数(1,325 社)と被雇 用者数(19,670 人) のうち,自転車部品生産に従事していたのは 55 社で被雇 用者 3,349 人に及ぶ.そして輸出面においては世紀転換期から完成車輸出よ りも部品輸出が顕著となる.第 4 表は総輸出額(自転車,自転車部品),完成車 輸出額,部品輸出額,およびそれらが全体に占める割合を表にしたものである. この表から 1897 年から 1910 年にかけて総輸出額(自転車,自転車部品)が約 7 倍に達したことが明らかとなる.さらに総輸出額に占める自転車部品輸出額 は 1898 年の 44.85%から,1903 年に 78.64%,1910 年には 91.28%に上昇して いる.このように世紀転換期から自転車,自転車部品輸出額は顕著に上昇し, 57) Geschäfts-Bericht der Bielefelder Maschinen-Fabrik vormals Dürkopp & Co. 1890-1914. 58) 自転車部品を生産する会社は同時に原動機付自転車用部品や自動車用部品などを生産してお り,それらをここで完成車生産会社と区別するために部品専門企業と呼ぶ. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (609)193 第 5 表 部品専門企業と完成車・部品企業の期間別設立数 年 部品専門企業 完成車・部品企業 総 計 1840-1897 15 7 22 1898-1914 16 1 17 1914-1928 10 1 11 (出所) Festschrift zum vierzigjährigen Bestehen des Vereins deutscher Fahrrad= Industrieller e.V., (1928), S.99-127 から作成. その上昇は主に自転車部品による輸出額の上昇であったと言える. 自転車工業家協会の創立 40 周年を記念した記念誌 59)の中には,1928 年当 時の構成員 110 社の創立年,生産品目,立地が載せてある.その中から部品 専門企業(自転車部品生産には限らない)と完成車・部品企業を共に自転車部品 関連企業群として抽出し,それらを創立期間別に示したのが第 5 表である. この表から 1898 年以後に設立された自転車部品関連企業のほとんどが完成車 生産を行っていなかった部品専門企業であったことが明らかとなる.それに 対して完成車・部品企業のほとんどは 1898 年以前に設立されている.このよ うな事実から,1898 年から 1902 年に起こる販売危機は自転車完成車生産企 業の採算性を圧迫したのであり,部品専門企業は輸出を中心としてこの時期 にも成長したと考えられる.1898 年から 1914 年の間に設立された部品専門 企業 16 社のうち,11 社は原動機付き自転車や自動車用部品などを生産して おり,製品を多角化させていたことが確認されている. ベルカーの研究 60)から第一次世界大戦以前において各工場によって設定さ れた工場規格が存在していたことは明らかになっているが,工場間の規格に ついてはいまだ明らかにはなっていない.上で考察したように世紀転換期か ら多くの部品専門企業が設立されていくことから,第一次世界大戦以前にお いて工場間の規格が存在した可能性がある.後述する自転車の通信販売会社 は部品を購入して組み立てて商品としたのであり,その存在もこの可能性を 59) Festschrift zum vierzigjährigen Bestehen des Vereins deutscher Fahrrad= Industrieller e.V., (1928). 60) Wölker (1992), S.21-39. 194(610) 第 61 巻 第 3 号 肯定していると考えられる.以下ではそのような規格化の前提条件である自 転車工業の工場内生産技術・組織の発展について述べたい. (3) 第一次世界大戦以前のドイツ自転車工業における工場内生産技術・ 組織の発展 1912 年に出版されたザイフェルトの博士論文 61) では当時のドイツ自転車 工業の工場内生産技術・組織の発展について明らかにされている. 旋盤作業場にはかつて汎用性の高い旋盤(Universaldrehbank) が置かれ,そ の取り扱いのためには手工業的熟練工としての旋盤工(gelernte Dreher) が必 要であった.しかし第一次世界大戦以前にはこれに代わってタレット旋盤が 導入され,その取り扱いには専門工としての旋盤工(angelernte Dreher) が必 要とされるのみであり,作業効率も向上した.さらにザイフェルト論文の中 ではアメリカが導入した「自動工作機械」(eine automatisch arbeitenden Maschine) とタレット旋盤が比較され,前者の作業効率が良いことと労働者の疲労度の 少なさ,取り扱いの簡単さなどが述べられている 62). 円フライス盤(Rundfräse)の利点についても触れられ,「その利点は加工さ れるものの均質性(Gleichmäßigkeit)にあるのみではなく,特に専門工(angelernte Arbeiter)を雇用し,彼らにさらに多くの機械を同時にゆだねることを可能に することにある」63)と述べており,円フライス盤の導入による作業効率の改善, 手工業的熟練工の専門工による代替について明らかにしている. 型抜き機(Stanzerei)の導入についても述べられ,鎖歯車やハブなどを可鍛 鋳鉄から製造するコストと板金から打ち抜いて製造するコストが比較され, 後者の作業効率の良さが明らかとなっている.型抜き機の導入以外でははん だ技術やラッカー塗装の発展などについても明らかにしている 64). 61) Seyfert (1912), S.10-38. 62) Seyfert (1912), S.10-12. 63) Seyfert (1912), S.13. 64) Seyfert (1912), S.13-16. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (611)195 以上のようにザイフェルト論文から第一次世界大戦以前のドイツ自転車工 業における工場内生産技術・組織の発展が明らかにされている.このころには, 手工業的熟練工によって操作される従来の汎用性の高い旋盤に替えて,専門 工によって操作されるタレット旋盤や円フライス盤,型抜き機などが導入さ れていたのである.これらの工作機械の導入によって工場内分業がより強化 され,作業効率の改善や取り付け費用の減少などが可能となったのである. しかしアメリカの「自動工作機械」との比較から明らかなように,作業効率 の面で彼らにはまだ劣っていたとザイフェルトは述べている. (4) 第一次世界大戦以前におけるアドラー社の発展過程 アドラー社の創立者ハインリヒ・クライヤーはダルムシュタットの機械工 場主の息子として 1853 年に生まれる.彼は父の機械工場で様々な機械や原材 料を知る機会に恵まれ,理論的教育を実科学校とダルムシュタットの工業大 学で受けた.1875 年にはハンブルクで機械輸入を営むビアナツキィ社に勤務 し,この会社での経験からクライヤーはアメリカの機械製造と工場設備への 関心を抱いたのであった.1879 年にはアメリカを旅行しつつ多くの機械製造 企業で働き,特にワシントンの特許局ではアメリカの様々な機械技術を理論 的に知ることが出来たという.そして旅行中に自転車レースを目撃してドイ ツでも自転車が普及しうると考え,1879 年の秋にドイツに戻り,1880 年に はフランクフルトに移住して同年 3 月には自転車(この時期はミショーの二輪 車) の販売に乗り出すのである.当初は自転車販売と並んでガス・モーター や編み機などを販売していたが,1886 年に機械工場を購入して自転車生産を 開始し,現在の自転車が現れたことによる需要増加に対応するために 1887 年 に新工場の建設を始め,それは 1889 年に完成した.アドラー社は 1895 年に は株式資本 2,500,000 マルクで株式会社“Adler Fahrradwerke vorm. Heinrich Kleyer”となる 65). 65) Lang (1905), S.11-40. 196(612) 第 61 巻 第 3 号 第 6 表はアドラー社による 1880 年から 1913 年にかけての総売上,自転車 販売台数,自転車価格を載せたものである.売上に関しては 1881 年からの大 きな増加,1887 年の工場建設を画期としたさらなる増加(1898 年まで),自転 車の販売危機による 1899 年から 1902 年までの停滞,その後の増加を指摘で きる.アドラー社は 1898 年にタイプライター生産,1900 年に自動車生産に 参入しており 66),1897 年までの売上が自転車生産によるものだと考えられる. 販売台数に関しては 1901 年,1902 年の販売台数の減少とその後の増加,停 滞が看取される.自転車価格に関しては販売危機時(1898-1902 年) からの価 格下落を指摘できる.ここから,世紀転換期における販売危機からアドラー 社製自転車価格は下落し,当初はアドラー社の販売台数も減少したものの, その後販売台数は増加したことが明らかとなる.ゆえにアドラー社は自転車 の販売危機時から生産を効率化させて価格下落に対応したと考えられる.さ もなければ販売台数が減少した後の 1903 年からの販売台数増加は起こらな かったであろう.次に,そのような時期にあたる 1905 年に出版されたアドラー 社の社史 67)から当時のアドラー社の工場内生産技術・組織を明らかにしたい. この史料は 1905 年のアドラー社の事務棟や工場の動力源である蒸気機関な どの説明に続いて,様々な作業場(Werkstätte) の様子について明らかにして いる.鍛工場(Schmiede)については「アドラー鍛工場の鍛造機械やプレス装 置は最も迅速で安全に小さな鍛造品を大量生産(Massenfabrikation)するという 特色を有している」68)と述べられ,型抜き機部門(Stanzerei)では「それら(型 抜き機,プレス装置など)が非常な圧力で様々な加工対象をほとんど無音で望ん だ形にしている」69)とされた.このような作業場で加工された製品,および半 製品は倉庫に置かれ,それらは「倉庫係」70)によってふたたび必要とされる 場所に運ばれたのである. 66) Lang (1905), S.45. 67) Lang (1905), S.67-90. 68) Lang (1905), S.70. 69) Lang (1905), S.75. 70) Lang (1905), S.69. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (613)197 (1880-1913 年) 第 6 表 アドラー社の総売上(マルク),自転車販売台数,自転車価格(マルク) 年 総売上 1880 1881 1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900 1901 1902 1903 1904 1905 1906 1907 1908 1909 1910 1911 1912 1913 9,447 70,921 182,037 329,814 522,878 670,645 774,797 1,066,314 952,106 908,465 947,518 885,539 1,211,258 1,642,678 2,296,752 2,534,641 3,791,820 5,307,387 5,811,940 5,556,927 4,817,062 4,942,911 4,795,523 6,338,669 7,128,405 − − − − − − − − − 販売台数 − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − 23,530 20,802 20,275 25,249 25,169 24,815 26,132 26,277 26,383 25,607 26,788 23,128 25,591 24,400 自転車価格 アドラー ヘロルド − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − − 270 − − − − − − − − − − − 315 263 245 − 220 190 − − 218 − − − 190 − 190 150 190 150 − − − − − − − − − − − − − − (注) 1897 年までの総売上は自転車のみによるものと考えられる.アドラー社は 1898 年からタ イプライター,1900 年から自動車生産を開始する.ヘロルドとアドラーは別品種.ヘロル ドは社名が冠されていないが,アドラー社製.アドラーは旅行用タイプで最も安価なもの. 1892 年の価格はアドラー安全車で最も安価なもの. (出所) 以下より作成. Lang (1905), S. 47. Institut für Stadtgeschichte, Sig W1/14 Nr.224, Nr.301-314, Adlerwerke. 198(614) 第 61 巻 第 3 号 自転車組立については少々長いが以下のような非常に興味深いことが述べ られている. 「金属工業のもっとも重要な部門である自転車生産は,経済的,技術的な関係でと もに興味深い.私たちはこの分野でもっとも進んだ分業に出会うだけでなく,もっと も発達している大量生産にも出会う.大量生産という原理がこの自転車工業ほど大 きく花開いている部門は他に存在しない.これには明白な根拠がある.というのは, 私たちが大型機械製造で通例であるような原理によって自転車を生産しようと意図 したならば,自転車への大きな需要に接して必要な労働者が欠けたであろうからであ る.大型機械製造の生産方法は,機械部分の個々の寸法が測定機器や罫書き針などを 用いて決められ,それに従って穴や切り込み溝がフライス盤で切削されるかもしくは 何らかの方法で個々に加工されることに主に基づいている.自転車への大きな需要は この方法に基づいては満たされられなかったであろう.それゆえ自転車の大量の生 産を可能にする,新しい生産方法が考え出されなければならなかった.この課題はご く数年のうちに極めてうまく解決された.新しく考え出された生産方法では,工作機 械の配置をシステマティックに完成させること,言い換えればある特定部品の生産の みに使用される特殊工具の運用に結びついた工作機械の独立したシステムの創造が 重要であった.この生産方法において,機械に大量に持ち込まれた個々の自転車部品 を組み立てる設備を広範に使用することはさらに重要である.いっそう特徴的なのは 全組み立て過程がたくさんの個別過程へ分解したことである.その個別過程は特定の 労働者グループに委ねられ,その中でつねに同じ組み立てが行われる.それによって 徐々に優良品化と高速化が追求される.個々の自転車部品の生産にもちろん現代の工 作機械製作の成果が十分に用いられる.例えば自動工作機械や,特殊旋盤,フライス 盤などがこの自転車工場で様々なかたちで見出される.そのような方法で自転車は大 量に生産され,個々の部品加工では人の手によって達成できない精確さがさらに高め られている.」71) 71) アンダーラインは筆者による.Lang (1905), S.78. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (615)199 ここから,アドラー社は自転車生産のために大型機械製造の際とは異なっ た新しい工場内生産技術・組織を採用したことが明らかとなる.その技術・ 組織は特殊工作機械の導入と組立工程の分割によって特徴づけられ,最後の 文では機械製互換性部品生産の発展に言及している. アドラー社は自転車生産を端緒に発展していったが,自転車の販売危機 時(1898-1902) からタイプライター,自動車生産に参入していく.そして 1905/1906 年の営業報告には「タイプライター生産と自動車組立は自転車生 産と並んでわが社の主要部分を形成しているので,わが社(die Firma unserer Gesellschaft) は現時点の活動とは異なり,時には思い違いとなるイメージを 変 え る 必 要 が あ る. 合 目 的 な 理 由 か ら 社 名 の“Adlerwerke vorm. Heinrich Kleyer, Aktiengesellschaft”への変更を取り決めることが望ましい」72)と述べ られ,このころにはアドラー社においてタイプライター,自動車生産の比重 が高まっていたと考えられる. 小 括 この節の最初ではドイツ自転車工業の発展過程を考察し,1880 年代にイギ リスからの輸入に依存していたドイツ自転車工業が 1890 年代の半ばにはその 依存から脱却し,1898 年から 1902 年にかけての自転車の販売危機を通じて さらに工業規模を拡大させたことを確認した.そのような過程は同時に一部 企業の大規模化と部品専門企業群の形成を伴っていた.そしてザイフェルト 論文から第一次世界大戦以前におけるドイツ自転車工業の工場内生産技術・ 組織の発展を明らかにしたことによって,当時の自転車工業が特殊工作機械 の導入による生産の効率化,手工業的熟練工の専門工による代替を行ってい たことが確認された.しかしザイフェルト自身が述べているように,生産の 効率化という観点ではいまだアメリカの「自動工作機械」には劣っていたの 72) Institut für Stadtgeschichte (vorm. Stadtarchiv Frankfurt am Main) W1/14, Nr.229. この時期にお ける社名の変更については現在確認できないが,Schmitt (1926) から 1926 年には社名が変更さ れていたことが確認される. 200(616) 第 61 巻 第 3 号 である.次にドイツにおける自転車生産のパイオニアであるアドラー社の発 展過程と工場内の様子を明らかにしたことによって,世紀転換期における販 売危機時でのアドラー社製自転車価格下落と販売危機後の販売台数増加が確 認され,当時の工場内の様子からアドラー社の工場内生産技術・組織の発展 が看取された. このような自転車工業における工場内生産技術・組織の発展はザイフェル トが「大量生産」と述べているように,後のベルトコンベヤーシステムに代 表される大量生産システムに連なるものとして理解される.アドラー社によっ て 1905 年に出版された社史においても同社の工場内生産技術・組織の発展 (特殊工作機械の導入と組立工程の分割)が看取されたが,同時期の 1905/1906 年 の営業報告からこのころには自転車の販売危機時に参入したタイプライター, 自動車生産がアドラー社で大きな比重を占めていたと考えられる.このこと から自転車生産に端を発したアドラー社は自転車の販売危機を通じて工場内 生産技術・組織を発展させつつ,同時期から製品を多角化させることによっ て企業規模を拡大していったと考えられる.このアドラー社のような大規模 な完成車生産企業が存在した一方で,世紀転換期における自転車の販売危機 から部品専門企業群も形成されたことを上で確認した.この部品専門企業群 は後述する自転車組立業者(通信販売会社)や輸出に販路を求めつつ,製品を 多角化させていったと考えられる.このようなアドラー社と部品専門企業群 は規模などを異にしつつも,両者とも多角化を行っていたことから,ドイツ 的生産レジームにおける「多角的高品質生産」によって発展していた可能性 がある. 3 自転車の普及過程 上においてドイツ自転車工業が世紀転換期の販売危機を通じて第一次世界 大戦以前に後の大量生産システムに連なる工場内生産技術・組織を発展させ ていたことを明らかにしたが,以下ではそのような技術・組織によって生産 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (617)201 写真 1 アドラー社における型抜き機作業場(1905 年) (出所) Lang (1905), S.75. 写真 2 アドラー社におけるフレーム製造場(Rahmenschlosserei) (出所) Lang (1905), S.79. 第 61 巻 第 3 号 202(618) 写真 3 アドラー社における自転車組立 (出所) Lang (1905), S.81. された自転車がどのように販売され,世紀転換期に就労者の約半数を形成し ていた労働者に普及していたか,を検討したい. (1)自転車の販売方法 1895 年に機械・機器を取り扱う商業は 1,699 社,被雇用者 6,176 人によっ て構成されていた 73)が,1907 年には 12,585 社,被雇用者 25,195 人によって 構成されており 74),世紀転換期にこの商業が大きく成長したと考えられる. 同時代人ゾンバルトによれば 19 世紀末にドイツにおいて小売業の変化が起こ り,従来の「手工業的,伝統的に訓練された活動」から「目的意識的,合理 的商業」へと移行した.それによって競争は激化し, 「経済生活での集中化と ともに増大する,個人商人の販売条件の急速な悪化」が起こり,取引は「大 73) Statistisches Jahrbuch für das Deutsche Reich, (1899), S.39. 74) Statistisches Jahrbuch für das Deutsche Reich, (1909), S.84. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (619)203 きな売上,小さな利益」というものになっていった.そしてこの一連の変化 から「非常に新しい販売方法」が発展したのである 75).以下ではアドラー社 の支店による自転車販売や,この「非常に新しい販売方法」76)の一つであっ た通信販売,そして労働者による購買協同組合について考察したい. 2-(4)で考察したようなアドラー社やデュルコップ社という大規模企業は支 店を通じて顧客に製品を直接販売していた.1911 年のアドラー社ベルリン支 店の様子について写真を交えて紹介している史料 77)によると,1911 年にアド ラー社の全支店で 200 人以上の従業員が雇用され,ベルリン支店では応接間 や商品の実演をする部屋を設けて自転車,自動車,タイプライターを販売し ていた.さらにアドラー社ベルリン支店は職業運転手などを養成する自動車 専門学校(Automobilfachschule)を所有していたのである. このように大規模企業は支店を通じて顧客に直接販売する一方で,「非常に 新しい販売方法」が登場した.その一つが通信販売である.自転車の通信販 売を展開する会社をシュトッケンブロークが 1890 年に設立するが,この会社 はやがて「小さな商店から,わずか数年のうちに数百の従業員を抱え,世界 大で営業を営む企業に発展し」,「すでに世紀転換期に通信販売会社の発想を ドイツで広範に現実化した」78)のである. この会社の大きな特徴は自社で自転車の関連部品を生産せずに,部品を購 入して組み立てていたことにある.「シュトッケンブロークは自転車やその部 品を大量に発注し,自社の錠前工によって顧客のニーズに合わせて改造させ るか,独自の設計を発展させた」79)のである.そして組み立てられた自転車 は自社に引き込まれた専用側線によって鉄道で運搬された 80). 75) Sombart (1909), S.245-252. 76) Sombart (1909), S.249 によれば,通信販売のほかには「競売会社(Auktionsgeschäft) ,分割 払い店」が挙げられている. 77) Kleyer (1911), S.1-19. 78) Heege/Plümer (1996), S.7. 79) Heege/Plümer (1996), S.14. 80) Löns (1982), S.10. 204(620) 第 61 巻 第 3 号 このような通信販売会社にとってカタログは販売の際に非常に重要なもの となる.1893 年にこの会社による小さなカタログが現れるが,1894 年には そのカタログが広範なものとなる.そして 1900 年のカタログは 108 ページに およぶものになり,発行部数は 1900 年に 100,000 部,1905 年に 300,000 部, 1907 年には 500,000 部以上となった.そしてそれらはレストランやドイツ帝 国鉄道の車室に置かれた 81). この会社の自転車販売台数は 1890 年に 28 台であったが,1893 年に 182 台,1894 年に 482 台,1895 年に 840 台,1896 年に 1,641 台,1897 年に 3,300 台,1899 年に 6,700 台,1902 年に約 10,000 台,1904 年には 21,000 台になり, 1906 年には会社の最高販売台数である 22,000 台を記録するが,この年を境に してこの会社による自転車販売は停滞していく 82).シュトッケンブロークに よる自転車販売台数は自転車の販売危機時(1898 ∼ 1902 年) に上昇したと考 えられる. 1895 年にこの会社の自転車は空気タイヤ,空気ポンプに加えて 1 年間のタ イヤの保証付きで 225 マルクであり,1897 年には同条件で 160 マルクであっ た 83).この価格を第 2 表,第 6 表で挙げたものと比較すると,アドラー社製 自転車よりも安価で,アメリカ製自転車よりも若干高い価格帯に位置してい ると言える.このような価格帯でこの会社が世紀転換期における販売危機の 時期に成長したことから,シュトッケンブロークは販売危機時における自転 車価格下落の一端を担ったと考えられる. シュトッケンブロークは 1901 年から机時計,写真機,双眼鏡などを,1906 年からはミシン,グラモフォン(旧式の手回し式蓄音器),レコードの販売も手 掛けていく 84)が,会社のもととなった自転車販売は 1906 年に頂点に達した 81) Heege/Plümer (1996), S.19-22, S.34-36. 82) Heege/Plümer (1996), S.12, S.29-30. Seyfert (1912), S.103 によると自転車の通信販売の停滞は 捨て値で売るような多くの「投機的商人」の登場と時を同じくしている. 83) Heege/Plümer (1996), S.13-15. 84) Heege/Plümer (1996), S.31. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (621)205 後に停滞していくことは上ですでに明らかにした.1912 年のザイフェルト論 文でも「自転車の取引における通信販売会社の黄金時代は過ぎ去っている」 と述べられており 85),このように自転車の通信販売が停滞する時期から,自 転車を主商品とする労働者による購買協同組合が発展し始めるのである. 当初の目的は生活必需品の共同購入であったものの,労働者による購買協 同組合は 1865 年から設立された.経営の不安定さゆえに設立と破産を繰り返 しながら 1900 年代には再び活発に設立され 86),そのような経過の中で労働者 による自転車の購買協同組合も発展を開始するのである. 1910 年に労働者サイクリスト連盟(1896 年設立−以下連盟)によって所有さ れることになる購買協同組合の原型は 1890 年代後半に結成され,1901 年の 終わりに 200 人以上の構成員とともに連盟に参加し,1903 年には修理場を備 えた店がベルリンで開店される.1904 年に連盟において集中化決議 87) がな されてベルリンにあった 7 協会が 1 つに統合され,その際この購買協同組合 も連盟が引き継いだ.そして 1906 年にはそれまでの局地的な(マグデブルクで も 1902 年に購買協同組合が設立)購買協同組合を連盟構成員のための購買所(商 事会社)に変更するが,連盟とこの購買協同組合の関係は不明瞭なままであっ た.しかし 1908 年には会社の業務執行をする人間の雇用が連盟の会議で承認 されなければならないとされ,会社の経営陣は翌年(1909 年)より連盟の資産 から 15,000 マルクまでの貸付を必要な場合に受けることが出来るとされた 88). そして 1910 年から連盟はこの購買協同組合を所有するのである 89). この購買協同組合は多様なサービスを連盟構成員に提供した.組合が取り 扱う商品は自転車のみならずミシンや毛織物にも及び,連盟構成員は購入に 85) Seyfert (1912), S.103-104. 86) Reulecke/Weber (1978), S.216-244. 87) Fischer (1908), S.38 によると,この決議は労働者サイクリスト連盟という組織内では 1 地区 に連盟が所属する協会は 1 つとする決定であった. 88) Fischer (1908), S.43 によると,連盟の中でこの購買協同組合の持ち分証書を販売することも 1908 年に認められた. 89) Bundesvorstand (1927), S.63-64. 206(622) 第 61 巻 第 3 号 際して 10%の値引きが認められた 90).1908 年からこの組合の支店網は拡大す るが,1912 年からは組合の支店内で預金業務が行われていく.そしてこのよ うな支店に直接赴いて商品を購入できないものはカタログを通じて商品を購 入することができたのである 91).1912 年の営業報告では分割払いの未回収金 が経営を圧迫していたことが報告され,購買協同組合で顧客に分割払いサー ビスが提供されていたことが確認される 92). この購買協同組合の売上は 1905 年の 24,000 マルクから,1906 年に 48,000 マ ル ク,1907 年 に 80,000 マ ル ク,1908 年 に 183,823 マ ル ク,1909 年 に 291,185 マ ル ク,1910 年 に 474,974 マ ル ク,1911 年 に 842,605 マ ル ク,1912 年に 1,015,547 マルク,1913 年に 1,275,802 マルクに上昇した 93).このように, 売上が確認される 1905 年から急速に売上を伸張させていったことが明らかと なる. この購買協同組合は 1923 年から自転車を自製し始めたことが確認されてい る.それまでは「商業を営む企業」(Handelsunternehmen) であったが,1922 年 から自主生産を開始した 94).第一次世界大戦以前においてこの購買協同組合 が自転車部品を購入して組み立てていたのか,または完成車を購入していた のかは,現在のところ確認されていない. 世紀転換期に機械・機器を取り扱う商業は成長し,ゾンバルトが述べてい るように小売業は「合理的」なものとなった.このような小売業の変化によっ て個人商人の経営は圧迫され,「大きな売上,小さな利益」が一般的な取引に で考察したアドラー社のような大規模 なっていったと彼は述べている.2-(4) 企業は支店を通じて顧客に直接販売し,世紀転換期には自転車の通信販売を 通じてシュトッケンブロークは事業を拡大した.そして世紀転換期から第一 90) Fischer (1908), S.42-43. 91) Bundesvorstand (1927), S.44-69. 92) Fahrrad-Haus Frischauf für die Geschäftsjahre, (1914), S.8. 93) Bundesvorstand (1927), S.71. 94) Bundesvorstand (1927), S.66. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (623)207 次世界大戦以前にかけて労働者サイクリスト連盟と関係を深めつつ,自転車 を主商品とする購買協同組合が発展するのである.通信販売と購買協同組合 は発展する時期を異にしつつも,共にカタログ販売という組織された郵便サー ビス 95)を前提とした販売方法を採用し,特に後者に関しては労働者サイクリ スト連盟と関係を深めつつ発展していったことから顧客との密接な関係を指 摘出来る.ここでは大規模企業の支店を通じての直接販売,通信販売,購買 協同組合という小売形態を明らかにしたが,ザイフェルト論文では「投機的 商人」96)という存在が指摘されており,第一次世界大戦以前のドイツにおけ る自転車小売業を考察する場合には彼らの存在を明らかにせねばならないが, それは今後の課題としたい 97). 上において世紀転換期における自転車の販売方法について考察したが,次 に世紀転換期からの労働者による自転車所有を検討したい. (2)第一次世界大戦以前のドイツにおける労働者の自転車所有 1866 年 か ら 1918 年 に か け て ド イ ツ に お い て 人 口 は 39,800,000 人 か ら 67,800,000 人に増大し,増加した就労者の約半分は労働者によって占められ ていた 98).このような時期に労働者の生活水準は向上し,同時代人シュモラー は「下層」に賃金労働者を位置付けると同時に「中下層」に小農や手工業者 などと並んで「稼ぎの良い労働者」を挙げたのである 99).以下では,世紀転 換期ごろの労働者の生活改善について確認した後に,主に労働者家計調査か ら労働者による自転車所有を検討したい. 労働者の平均年間名目賃金,並びに平均年間実質賃金指数(1895 年を 100 と 95) 注 28 参照. 96) 注 82 参照. 97) Ladwig-Winters (1997), S.74 によると,1925 年におけるドイツ小売業の全売上の各小売形態 別割合は 82.2%が専門店(Fachhandel),3.7%が百貨店,2.6%が消費協会,6.8%が街頭販売と 市場販売(Straßen-/Markthandel),3.0%が通信販売,1.7%がその他. 98) Nipperdey (1998), S.9, S.291. 99) Ritter/Tenfelde (1992), S.118. 第 61 巻 第 3 号 208(624) 第 7 表 市民サイクリスト協会 DRB と労働者サイクリスト連盟 Solidarität の構成員数 協会 年 DRB Solidarität 構成員数(人)構成員数(人) DRB 年 Solidarität 構成員数(人)構成員数(人) 1884 2,537 − 1904 − 24,846 1885 5,156 − 1905 41,206 40,425 1890 13,406 − 1906 − 62,000 1896 約 28,000 476 1907 約 40,000 86,301 1897 − 1,415 1908 − 103,570 1898 − 2,330 1909 − 111,487 1899 − 3,500 1910 − 125,000 1900 − 6,500 1911 − 133,928 1901 − 9,451 1912 47,515 143,369 1902 − 11,275 1913 − 147,557 1903 − 19,201 1914 − 75,187 (出所)以下より作成. Bundesvorstand (1927), Handbuch, S.7. Handbuch des Deutschen Radfahrer=Bundes, (1889), S.11. Handbuch des Deutschen Radfahrer=Bundes, (1891), S.21. Handbuch des Deutschen Radfahrer=Bundes, (1913), S.3. Meyers Grosses Konversations=Lexikon, (1907), S.277. Rabenstein (1991), S.199, S.206-207. Statistisches Jahrbuch für das Deutsche Reich, (1907), S.356. して)は 1871 年に 493 マルク(70) ,1880 年に 545 マルク(79),1890 年に 650 マルク(96),1900 年に 784 マルク(111),1910 年に 979 マルク(119) に上昇 し,19 世紀の終わりから世紀転換期にかけて労働者の平均年間名目賃金のみ ならず平均年間実質賃金指数も大きく上昇したことが確認され 100),労働時間 は 1860 年の週 78 時間から,1871 年に 72 時間に,1885/90 年には 66 時間に, 1910/13 年には 53~57 時間に減少した 101).そして一部の労働者の食事の改善 (パン,良質な小麦,ミルクと乳製品,砂糖の消費の増加)や服飾への支出の増加は 世紀転換期ごろから顕著になり,第一次世界大戦以前には彼らの食習慣や家 100) Hohorst /Kocka /Ritter (1975), S.107. 101) Nipperdey (1998), S.302. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (625)209 第 8 表 マンハイムで自転車の登録をしたサイクリストの職業 サイクリストの職業(男性) 年度 サイクリストの職業(女性) 自由業 工場労働 商人と その他の 非 総計 総計 (医者,弁護 者,日雇 農民 学生 その他 就業者 学生 (男性) (女性) 士,芸術家な 工場主 自営業者 就業者 い労働者 ど,公務員) 1899 439 894 370 16 133 88 141 2,081 16 171 2 189 1900 417 1,086 332 47 72 72 53 2,079 41 97 5 143 1901 369 817 257 40 132 56 53 1,724 20 74 6 100 1902 328 814 267 31 163 64 12 1,679 13 88 2 103 1903 316 541 553 21 134 101 62 1,728 42 39 10 91 1904 334 364 808 28 176 121 316 2,147 65 65 26 156 1905 493 297 1,238 74 156 182 123 2,563 74 94 37 205 1906 452 151 1,863 96 152 184 73 2,971 114 60 51 225 1907 338 105 1,493 50 87 131 67 2,271 67 36 18 121 1908 412 113 1,542 78 132 237 80 2,594 74 88 24 186 1909 292 68 1,152 59 104 177 59 1,911 70 85 29 184 (出所) Seyfert (1912), S.86 から作成. 計支出は中間層に近いものとなった.これによって大量消費文化の端緒がこ の時期に現れたと考えられ 102),このような時期に大量に生産された自転車は 一部の労働者によって主に通勤手段として(週末のサイクリングに使用されつつ) 購入されたことを以下で確認したい. ドイツで誰がいつ自転車に乗ったか,を明確に表す史料は今現在のところ 確認されていないが,いくつかの指標を挙げることは出来る.第 7 表は代 表的市民サイクリスト協会 DRB(ドイツサイクリスト連合− 1884 年設立) と労 102) Ritter/Tenfelde (1992), S.519-527. Nipperdey (1998), S.312 によると,1880 年代の共働きの家 庭(子供無し)の支出では 50 ∼ 57%が食費に,12.4 ∼ 25.7%が住居費に,9.5 ∼ 11.1%が衣 服費に向けられていたとされ,稼ぎ手が一人(子供有り)の場合,63 ∼ 69%が食費に,15 ∼ 17%が住居費に,7 ∼ 8.5%が衣服費に向けられている.しかし 1907 年では最初の場合, 47.1%が食費に,10.5%が住居費に,24.3%が衣服費に向けられている.そして稼ぎ手が一人(3 ∼ 5 人の子供)の場合,52.9 ∼ 56.2%が食費に,11.2 ∼ 12.2%が住居費に,18 ∼ 20.5%が衣 服費に向けられている.1880 年代と比較すると食費,住居費の減少と衣服費の上昇が顕著で ある. 210(626) 第 61 巻 第 3 号 働者サイクリスト連盟 Solidarität(1896 年設立) の構成員数を表したものであ る.19 世紀後半から 20 世紀初頭まで DRB はドイツで最も大きな自転車協会 であったが,自転車の販売危機後の 1903 年から構成員数を急速に増加させた Solidarität が構成員数で 1906 年に DRB を凌駕してしまったことが看取される. 第 8 表はマンハイムで自転車の登録をしたサイクリストの職業に関するもの である.1899 年から 1902 年まで全体に占める比率が 14.9~17.77%に過ぎなかっ た労働者による登録が 1903 年に 32%,1904 年に 37.63%,1905 年に 48.3%, 1906 年に 62.7%,1907 年に 65.74%に上昇している.以上から,自転車の販 売危機(1898 ∼ 1902 年)の後に労働者サイクリスト連盟 Solidarität は代表的市 民サイクリスト協会の構成員数を凌駕し(1906 年),マンハイムで自転車の登 録をする労働者も同時期に顕著に増加することが確認される.次に,同時代 に行われた労働者家計調査から労働者による自転車所有の有無を検討したい. 家計調査の発展については,19 世紀半ばの「家計統計の黎明期」からその 後の試行錯誤を経て,1907 年に官庁を主体とする最初の大規模な家計調査 (調査に参加した家族 3,855,1 年間通じて家計簿を記入した家族 960) が行われたと 言える 103).以下ではこのような家計調査をもとに労働者への自転車の普及過 程を考察するが,1907 年の官庁による大規模な調査 104)については検討しな い.自転車所有の有無に関しては食費,住居費,衣服費,光熱費などを除い た支出項目(具体的には「社交費」や「移動費」など)の内容が述べられている か,各家庭に関して訪問形式の調査がなされている場合にのみ明らかとなり, 1907 年の調査にはそれらが欠けているからである.ゆえに以下で取り上げる 3 調査のうち 2 調査は訪問形式の調査がなされているものである.家の大き さや清潔さ,子どもの衛生状態などについてまで言及している訪問形式の調 査から,世帯主による自転車所有の有無が明らかとなりうるのである. 以下では 1899 年のニュルンベルクの労働者家計調査(家計サンプルは当時と 103) 川越(1984),pp.219-253. 104) Erhebung von Wirtschaftsrechnungen minderbemittelter Familien im Deutschen Reiche, bearbeitet im Kaiserlichen Statistischen Amte, Abteilung für Arbeiterstatistik, (1909). 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (627)211 しては多い 44)105),1902 年のカールスルーエの労働者家計調査(50 家族の訪問 形式による調査を公表)106),1907 年のミュンヘンでの労働者家計調査(家計サン プルは 22,22 家族の訪問形式による調査を公表)107)から各世帯による自転車所有 の有無を確認したい. 1899 年のニュルンベルクの調査に関して調査者自身が「非常に悪い状況に 陥っている同僚の状態についての申告が欠けている」108)と述べており,主に 所得の高い労働者が調査対象となっている.この調査の中で食費,住居費, 衣服費を除く支出の内訳が載せられており 109),内訳が明らかになっている 40 世帯のうち 2 世帯で自転車所有が確認される.その 2 世帯のうち 1 世帯の構 成員数は 3 で総支出額は 1,415.29 マルクであり,もう 1 世帯(世帯主の職業は 金属プレス工)の構成員数は 5 で総支出額は 1,471.72 マルクである.前者の世 帯の全支出中食費は 37.45%を占め,住居費は 22.59%となっている.後者で は食費は 48.52%を占め,住居費は 11.19%となっている. 1902 年のカールスルーエでの調査では 50 世帯中自転車を所有しているの は 2 世帯である(1 世帯は所有が確認され,もう 1 世帯は所有が確認されていないが 世帯主が自転車協会に所属) .前者の世帯主の職業は印刷工場の職長で彼の 1901 年の収入は 1,560 マルクに達し,子供に良い教育を受けさせたいと考えるよ うな,労働者には「めったにない」110)家族であった.この世帯には子供が 3 人いる.後者の世帯主の職業は穀物製粉所の職長であり,1901 年の収入は 1,111 マルクであるが,賃借している家の所有者が妻の親戚であったので住居費は 年間 110 マルクである(収入の 10.1%).この世帯には子供が 2 人いる. 1907 年のミュンヘンでの調査では 22 世帯中 2 世帯が自転車を所有してい る.1 世帯の世帯主の職業は舗装作業員で年収は 1,847 マルクであるが,子供 105) Haushalts-Rechnungen Nürnberger Arbeiter, (1901), S.1-109. 106) Fuchs (1904), S.1-272. 107) Conrad (1909), S.3-43. 108) Haushalts-Rechnungen Nürnberger Arbeiter, (1901), S.3. 109) Haushalts-Rechnungen Nürnberger Arbeiter, (1901), S.101. 110) Fuchs (1904), S.242. 212(628) 第 61 巻 第 3 号 が 6 人おり「じめじめして不健康な住居」111)に暮らしている.食費は全支出 中 69.4%を構成し,これは調査対象の家族の中ではもっとも高い比率である. もう 1 世帯の世帯主の職業は塗装工であり,年収は 1,268 マルクである.こ の世帯には 1 人の子供がおり,「きちんとした家族」112) であると報告されて いる.この世帯では食費は全支出中の約半分を構成し,住居費は 20%を構成 している. 通勤手段としての自転車についてであるが,1902 年のカールスルーエの調 査から 50 世帯中 24 世帯が通勤手段として鉄道を使っており(調査対象がカー ルスルーエ近郊の 2,000 人以下の地方自治体に住む工業労働者であったことと関連して いる) ,自転車を所有している 2 世帯のうち 1 世帯が通勤手段として自転車を 使用していることが確認される(もう 1 世帯は不明).1907 年のミュンヘンで の調査では,世帯主の仕事場が住居から「離れている」か「とても離れている」 世帯が 6 世帯あり,自転車の所有が確認される 2 世帯がともに通勤手段とし てそれを使用し,1 世帯は市街電車を使用している(他の 3 世帯は不明). 以上から高額所得の労働者の一部が世紀転換期から自転車を購入し始めた ことが確認され,その中でも比較的所得の低い労働者(世帯主の収入が 1,111 マ ルクと 1,268 マルク) の場合には住居費の低さ(前者の世帯)と世帯構成員の少 なさ(後者の世帯では子供が 1 人)が世帯の特徴として挙げられる.サンプル数 の少なさを考慮しなければならないが,他の調査と 1907 年のミュンヘンでの 調査を比較すると,1907 年に通勤手段として自転車が認知されていた可能性 がある. お わ り に 19 世紀の終わりに現在の自転車の原型は現れ,それは急速に全世界(最初は アメリカ,次にイギリスを筆頭としてヨーロッパ諸国)に普及していき,日本でも 111) Conrad (1909), S.30. 112) Conrad (1909), S.32. 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (629)213 20 世紀初頭から大正期の国産振興運動を経て自転車工業が勃興していく 113). このように自転車工場はまずアメリカで叢生していくわけだが,世紀転換期 にはアメリカにおいて過剰生産が起こってアメリカ製自転車がヨーロッパに 流入し,ドイツ自転車工業は価格競争と向き合わなければならなかった.こ の価格競争はドイツ自転車工業における工場内生産技術・組織の発展を促進 し,この工場内生産技術・組織の発展は後の大量生産システムに連なるもの として理解される.アドラー社においても工場内生産技術・組織の発展が看 取されたものの,同社は世紀転換期から製品の多角化を行って企業規模を拡 大させていった. 本論文では自転車の販売方法や普及についても考察した.販売方法につい ては,世紀転換期に自転車販売を通じて事業を拡大する通信販売会社や,自 転車を主商品とする労働者による購買協同組合の発展過程を確認し,発展す る時期を異にしつつも,両者における共通の特徴(組織された郵便サービスを前 提としたカタログ販売) を明らかにした.そして労働者による購買協同組合は 労働者サイクリスト連盟と関係を深めつつ発展していったことから,顧客と 密接な関係を持った販売方法だと言える.自転車の労働者への普及に関して は,世紀転換期から一部の労働者による自転車所有が確認され,徐々に通勤 手段として認知された可能性があることを明らかにした. ハウンシェル(2002) は自転車生産をミシン生産と T 型フォードの大量生 産を架橋したものとして位置付け,Abelshauser(2004) は世紀転換期ドイツ において「協調的市場経済」のもとで「多角的高品質生産」が行われていた と述べている.本論文では世紀転換期における自転車の販売危機が自転車工 業の工場内生産技術・組織の発展を促進し,その工場内生産技術・組織は後 の大量生産システムに連なるものとして理解されることを明らかにした.そ してアドラー社によって 1905 年に出版された社史から同社の自転車組立にお ける工場内生産技術・組織の発展が看取されたものの,このころには同社に 113) 日米商店(1934),pp.103-104. 214(630) 第 61 巻 第 3 号 おいてすでに自転車生産と並んでタイプライター,自動車生産が大きな比重 を有していたと考えられる.このようにアドラー社は後の大量生産システム に連なる工場内生産技術・組織を発展させつつ,製品を多角化させることに よって企業規模を拡大していったと考えられる.そして世紀転換期から製品 の多角化を行う部品専門企業群も形成されたことを上で確認した.この分析 結果から,第一次世界大戦以前のドイツ自転車工業が後の大量生産システム に連なる工場内生産技術・組織を発展させつつ,「多角的高品質生産」によっ て企業規模を拡大させていった可能性がある. 本論文ではドイツ自転車工業と後の大量生産システム,世紀転換期に成立 した「多角的高品質生産」の関連について試論的に考察したが,別稿におい て第一次世界大戦以前のビーレフェルトにおける自転車生産を考察すること によって,これらの関連についてさらに引き続き検討したい.ビーレフェル トという都市に考察対象を限定することによって,当地における工業化と自 転車工業の関連,ミシン工業からの自転車生産への参入,自転車製造企業の 発展過程が明らかとなるであろう. 【参考文献】 古文書館史料 Institut für Stadtgeschichte (vorm. 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(にし けいすけ・同志社大学経済学研究科後期課程) 第一次世界大戦以前のドイツにおける自転車の生産と普及(西 圭介) (635)219 The Doshisha University Economic Review Vol.61 No.3 Abstract Keisuke NISHI, Production and Spread of Bicycles in Germany before World War I The modern bicycle emerged as the result of several technological innovations in the 1800s and made its first appearance at the Starley Show in England in the 1880s. Many bicycle factories were constructed, first in the USA, then in England, France and Germany. Around the turn of the twentieth century, too many bicycles were being produced in the USA, and producers began to export to Europe, creating price competition in the European bicycle market. This price competition advanced the development of production methods and led to the division of labor in German bicycle production. Also, because of this price competition, not a few German workers became able to afford bicycles. Looking at the development of the production and spread of bicycles in Germany, we will be better able to understand the early stages of German mass production and mass consumption.