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モンドリアンの「抽象」におけるリアリティ

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モンドリアンの「抽象」におけるリアリティ
モンドリアンの「抽象」におけるリアリティ
1. は じ め に
2. モ ン ド リ ア ン に お け る 「 抽 象 」
岡野孝則
る絶対的な⼿段によって表現されねばならないのである。
また、彼は、あらゆるものは全体の部分であり、同時
2-1. 普 遍 性 、 ⼆ 元 性
に 全 体 は 部 分 か ら 成 っ て い る と し、
「全てのものが関係と
2-2. 抽 象 芸 術
相 互 状 況 と に よ っ て 構 成 さ れ て い る」、と い う よ う に 、全
2-3. ネ オ ・ プ ラ ス テ ィ シ ズ ム
ての存在を等価な⼆元物として捉えている。個体は複合
2-4. 建 築
的であり、また全体は個々を含むのである。例えば、自
3. 理 論 的 ⽴ 場 に お け る 「 抽 象 」
然の風景は、広大な空の下に樹⽊が広がっている、その
3-1. 感 情 移 ⼊ の 概 念
全体で風景なのであり、またその風景を構成しているの
3-2. 抽 象 衝 動 の 概 念
は、空であり⼀本⼀本の⽊々などである。⽊⼀本を⾒て
4. 結 語
も 、⽊ は 葉 や 枝 か ら な り 、そ の 全 体 と し て ⽊ な の で あ る 。
「あらゆる存在は、ひとつは他のひとつ、無意識は意識と、その
1. は じ め に
20 世 紀 初 頭 、カ ン デ ィ ン ス キ ー 、マ レ ー ヴ ィ ッ チ 、ピ
相互作用のもとにそれぞれの形体を⽣み、そして変化してゆくの
である。」
カソなどの抽象絵画を描く芸術家達が現れた。その中の
こ の よ う な 普 遍 的 や ⼆ 元 的 な も の の ⾒ ⽅ が 、彼 の 芸 術 制 作 の
⼀ ⼈ 、 オ ラ ン ダ の 画 家 ピ ー ト ・ モ ン ド リ ア ン ( Piet
態 度 に つ な が っ て い る 。世 界 と 自 ⼰ と を 等 価 な も の と し て 捉 え
Mondrian, 1872-1944) は 、 テ オ ・ フ ァ ン ・ ド ゥ ス ブ ル グ
て、その本質的なものを抽出し、昇華してゆく。この過程によ
を中⼼に組織された「デ・ステイル」グループの精神的
っ て 、対 象 は 抽 象 化 さ れ る 。 よ っ て 、 モ ン ド リ ア ン の 芸 術 的 傾
な中核を担った。産業⾰命によって世界が大きく変わり
向 は 、抽 象 の た め の 抽 象 化 で は な く 、普 遍 性 の た め の 、そ し て 、
つつあった時期に現れ始めた、芸術や建築における抽象
リアリティのための抽象化なのである。
化への志向は、何らかの必然性や確信性を持っていたに
2-2. 抽 象 芸 術
違 い な い 。「 ネ オ ・ プ ラ ス テ ィ シ ズ ム ( 新 造 形 主 義 )」 の
「芸術においては⼈間は完全な自然を必要としない。
核となったモンドリアンの精神性は、その時代に影響を
明 ら か に そ れ は 完 璧 だ か ら だ 。⼈ 間 に と っ て 必 要 な の は、
与えた。そこで、抽象化への流れの⼀端を担っていたで
それとは反対に内部にあるものを再現することだ。自然
あろうモンドリアンの精神に触れてみたいと思う。
の外観はより純粋な自然のヴィジョンを獲得されるため
に変形されなければならない」と、モンドリアンは論⽂
2. モ ン ド リ ア ン に お け る 「 抽 象 」
2-1. 普 遍 性 、 ⼆ 元 性
モ ン ド リ ア ン は 論 ⽂『 ネ オ・プ ラ ス テ ィ シ ズ ム』
( De Stijl,
『 自 然 的 リ ア リ テ ィ と 抽 象 的 リ ア リ テ ィ 』( De Stijl,
1919-1920)で 述 べ て い る 。内 部 に あ る も の と は 、自 然 を
普遍的に美しくさせているものであり、純粋な自然のヴ
1920)の 中 で 、芸 術 は 、
「われわれの内にあって個別的で
ィジョンとは、自然の中にそのような普遍的なものを⾒
な い も の を 含 む も の で な け れ ば な ら な い こ と」、他 ⽅ に お
る こ と が で き る 、と い う こ と で あ る 。ま た、
「自然に従っ
い て は、
「的確に外部の普遍的なものと様相において同じ
た表現はそれ自体自然ではないし、そのうえ芸術は自然
であるわれわれの、内部の普遍的なものの直接的表現で
で は な い の だ 」、「 自 然 は 芸 術 で は な い 」 と し て 、 自 然 主
あらねばならないこと」を要求するものである、と⾔っ
義 的 な 芸 術 を 否 定 し て い る 。そ し て 、
「 芸 術 は 、そ れ が 抽
ている。このとき、普遍的なものとは、われわれの内部
象 的 で あ り 、 実 質 的 に 自 然 で あ る も の に 対 ⽴ し て い る 」、
において意識的、個別的なものに対⽴して実在し、常に
「抽象は、普遍性のための機能を果たす造形表現」なの
無意識のままにとどまるもののこと、としている。意識
であり、抽象芸術の必然性が述べられている。
的、個別的なものとは、芸術家の個性や感情、またわれ
われの外部の気まぐれで移ろいやすいもの、例えば、自
然のことである。つまり、芸術は、意識的、個別的なも
のを排除し、世界と自⼰とを結ぶ最も本質的な部分であ
る普遍的なものを抽出し、対象によって左右されないあ
の中の普遍性を抽出すること、である。それらの⼆元性
がぎりぎりまで接近した状態、つまり、外部の世界の中
に⾒出した普遍性と様相において同じである、われわれ
自⼰の中の普遍性が様相を帯び始める、まさにその状態
が 均 衡 で、
「 ネ オ・プ ラ ス テ ィ シ ズ ム 」は そ れ ら の 均 衡 関
係の表現であり、それはまた「抽象の活⼒に満ちた現実
の表現」である。普遍性と個別性が均衡の関係にあると
き、真のリアリティ(現実)が創造されるのである。よ
って、抽象とは、真のリアリティそのもののことである
と⾔える。
さ ら に 、モ ン ド リ ア ン は こ の 均 衡 関 係 を「 リ ポ ー ズ( 静
穏 、安 ら ぎ )」、
「 調 和 」の 状 態 、と し て 、内 在 化 さ れ た( 普
遍的な)美において、喜びと悲しみは等価なものとして
互いに対⽴し、喜びと悲しみの特殊性(個別性)は排除
され、安らぎが創造される、と述べている
し た が っ て、
「 ネ オ・プ ラ ス テ ィ シ ズ ム」は「 飽 き さ せ
ることなく、恒久的にわれわれを包み込んでくれる」の
である。
『 赤 と ⿊ の コ ン ポ ジ シ ョ ン 』 , 1936
『 赤 い ⽊ 』 , 1912
『 灰 ⾊ の ⽊ 』 , 1912
『 花 咲 く ⽊ 』 , 1912
2-4. 建 築
2-3. ネ オ ・ プ ラ ス テ ィ シ ズ ム
けにとどまらず、他の造形芸術にまで拡張し、それら全
モンドリアンは「ネオ・プラスティシズム」を絵画だ
「ネオ・プラスティシズム」における純粋な造形表現
て の 芸 術 が 統 ⼀ さ れ る べ き だ 、と 述 べ て い る 。遠 い 未 来 、
と は、
「 普 遍 性 と 個 別 性 と の 均 衡 し た ⼆ 元 性 」を も っ て 創
絵画や彫刻は建築に統合され、その新しい造形によって
造 さ れ る も の で あ る 。ま た 、抽 象 は 、
「もっとも深遠な外
⼈間が普遍的な美に包まれることを理想とした。
界 の 内 在 化 で あ り 、も っ と も 純 粋 な 内 部 の 外 ⾯ 化 で あ る」
「建築の大きな任務は、明⽩にそして恒久的にわれわれを普遍の
としている。もっとも深遠な外界とは個別性のこと、も
美の前に連れ出してくれることであり、その目的のために同質な
っとも純粋な内部とは普遍性のこと、とみなせる。この
統⼀体の⼀要素としての絵画や彫刻と協⼒することにある」
とき、外界の内在化とは、個別性が普遍性に接近、つま
彼は、もっとも深い内⾯性、つまり普遍的なものをめ
り、外部の世界の中の普遍性を⾒出すこと、内部の外⾯
ざめさせること、そして正確さをもってそれを表現する
化とは、普遍性が個別性に接近、つまり、われわれ自⼰
こと、を「ネオ・プラスティシズム」の目的とした。そ
してまた、その統⼀された新しい造形の普遍の美に包ま
れるユートピア的な世界を志向した。
「 感 情 移 ⼊ 作 用 の 前 提 は ⼀ 般 的 な 統 覚 的 活 動 で あ る 。」
ここで、統覚的活動とは、感性的対象物を自覚的に認識
す る こ と で あ る 。⼀ 般 的 な 統 覚 活 動 は、
「対象を私の精神
的所有に帰せしめることによって、それは対象に所属す
る 」。 ⼀ ⽅ で 、「 我 々 は い つ も 自 ⼰ 活 動 の 欲 求 を も っ て い
る」。自 ⼰ 活 動 は 我 々 の 本 質 の 根 本 的 欲 求 で あ り 、感 情 そ
れ自⾝である。
「感性的対象は何れも、それが私にとって存在する限り、いつも
感性的所与物と私の統覚的活動という⼆つの成分から⽣じた結果
にすぎない。」
自⼰活動という私の自然的傾向、感情それ自⾝が、感性
的所与物すなわち感性的対象から私に課せられた活動と
⼀致する、そのことを積極的感情移⼊、とテオドル・リ
ッ プ ス ( Theodor Lipps, 1851-1914) が 名 づ け た 。 こ の 感
情 移 ⼊ が 積 極 的 で あ る 場 合 に、
「統覚的活動は美的享受と
な る の で あ る」。そ し て 芸 術 作 品 に と っ て も 、こ の 積 極 的
感情移⼊が問題となるのである。
「感情移⼊の要求は芸術意欲が⽣命の有機的な真実、即ち⼀層⾼
『 ブ ロ ー ド ウ ェ イ ・ ブ ギ ウ ギ 』 , 1942-1943
3. 理 論 的 ⽴ 場 に お け る 「 抽 象 」
い意味での自然主義に傾く場合に限ってのみ、芸術意欲の前提と
⾒做されることができるのである。我々のうちにある有機的に美
しい⽣命性を返してやる代償として得られるところの幸福感…は、
前節では、芸術家的⽴場における「抽象」に触れた。
あの内的な自⼰活動の要求の満⾜である。そしてこのような自⼰
と こ ろ で、「 デ・ス テ イ ル」(1917-1931)と ほ ぼ 同 時 代 の
活動の要求はリップスによれば、感情移⼊過程の前提とみなされ
1908 年 に 、 ヴ ィ ル ヘ ル ム ・ ヴ ォ ー リ ン ガ ー ( Wilhelm
るものである。…線や形は、我々が漠然とその中へ沈潜させてい
Worringer, 1881-1953) 著 の 『 抽 象 と 感 情 移 ⼊ 』 が 出 版 さ
る我々の⽣命感によってのみその美を獲得するのである。」
れた。この論⽂もその時代の芸術家達に大きな影響を与
芸術意欲とは、芸術制作へと向かう意志のあの潜在的・
えたとされている。そこで、この節では、その美術史家
内的な要求であり、それはあらゆる芸術的創造の基本的
の理論的⽴場における「抽象」に触れる。
契機である。そして、それによって⽣まれる芸術作品と
ヴォーリンガーの研究は、芸術作品は自然と同じ価値
を持ち、本質的には自然と何らかの関係も持たないもの
は、先天的に存在する「芸術意欲の客観化」ということ
ができる。
である、という前提から出発している。自然美が芸術作
よって、自⼰活動の要求があることで感情移⼊が可能
品 の 条 件 と ⾒ 做 さ れ て は い け な い の で あ る 。そ し て、
「感
となり、その感情移⼊の要求があってこそ芸術意欲が⽣
情移⼊」と「抽象作用」という対⽴的な概念をもって、
まれるのである。またそれと同時に、芸術意欲が自然主
⼀つの包括的な美学体系を形成した。
義的傾向をもつときに、有機的なもののうちに自⼰の満
「美的体験の前提としての感情移⼊衝動が、有機的なもののうち
⾜が得られるのである。
に自⼰の満⾜を⾒出すのと同様に、抽象衝動は自⼰の美を、⽣命
3-2. 抽 象 衝 動 の 概 念
を否定する無機的なもののうちに、結晶的なもののうちに、⼀般
「感情移⼊衝動が、⼈間と外界の現象との間の幸福な汎神論的な
的にいえば、あらゆる抽象的な合法則性と必然性のうちに⾒出す
親和関係を条件としているに反して、抽象衝動は外界の現象によ
のである。」
って惹起される⼈間の大きな内的不安から⽣れた結果である。」
3-1. 感 情 移 ⼊ の 概 念
こ の 美 的 体 験 の 特 徴 を、
「美的享受は客観化された自⼰
享 受 で あ る 」と し て い る 。美 的 に 享 受 す る と い う こ と は 、
私とは異なった或る感覚的対象のうちへ私自⾝を移⼊す
ヴォーリンガーは、このような状態を「異常な精神的空
間 恐 怖 」と 呼 ん で い る 。そ し て、
「この不安の感情もまた
芸 術 的 創 造 の 起 源 と ⾒ 做 さ れ る で あ ろ う。」
抽象衝動はあらゆる芸術の初期に存在しており、また
る こ と で あ る 。対 象 の う ち へ 移 ⼊ す る も の は ⽣ 命 で あ り、
⾼い⽂化的段階に達している或る種の⺠族(東⽅の⽂化
⽣命とは自⼰活動である。対象のうちへ内的な⽣命を移
諸⺠族など)においては、この衝動は永久に⽀配してい
⼊し、対象に所属することで、自⼰が客観化され、その
る。彼らは、いつも世界の外的現象が単にマーヤの華や
対象を享受するということは、すなわち自⼰を享受する
かなヴェールにすぎないことを知っていたからして、独
ことになる。
り彼らだけが、⼀切の⽣命現象の不可解な混乱性を自覚
し続けていた。精神的恐怖、あらゆる存在の相対性に対
する彼らの知覚は、認識を超えたものであった。混沌不
測にして変化極まりなき外界現象に悩まされて、これら
の⺠族は無限な安静の要求をもつに⾄った。彼らの要求
は、
「対象において⽣命に依存せる⼀切のもの即ち恣意的
な⼀切のものから対象を純化することであり、それを必
然的ならしめ、確固不動のものたらしめて、存在の絶対
的 価 値 へ そ れ を 近 寄 せ る こ と で あ る。」よ っ て 、未 開 ⼈ に
あっては、いわば「物自体」に対する本能が最も強烈な
のである。
「我々が住んでいるこの可視的な世界はマーヤの造物にすぎない、
即ち⼀つの呪詛であり、それ自体実在しない、うつろい易い仮象
であり、幻覚であって、いわば夢の如きものであり、⼈間の意識
を包んでいるヴェールであり、偽りであると同時に真であるよう
な何物かであり、存在するとも⾔えるし、存在しないとも⾔える
ところのものである。」
(ショーペンハウエル『カント哲学の批判』)
純粋の本能的創造⼒を前提として、抽象衝動は幾何学
的形式を知性の介⼊を排した本能的な必然性をもって創
造した。また、究極的には先天的に含まれている合法則
性へ向かう素質が、その抽象的表現を⾒出すことができ
た 。よ って 、
「 こ の 抽象 的・合 法 則 的 形 式 は、そ れ に よ っ
て⼈間が世界像の無限な混沌状態に直⾯して平静をうる
こ と の で き る 唯 ⼀ に し て 最 ⾼ の 形 式 な の で あ る。」そ し て
ま た、
「単純な線や純粋に幾何学的な合法則性におけるそ
れの発展的形成は、現象界の不明瞭な混沌たる状態によ
って不安を感じている⼈間に対して、最大の幸福可能性
を 提 供 し た に 相 違 い な い。」
4. 結 語
このように考察すると、ヴォーリンガーが述べるよう
な東⽅の⽂化諸⺠族などにおける「抽象」と、モンドリ
アンにおける「抽象」とでは、大きく性格が異なること
がわかる。東⽅の⽂化諸⺠族などにおいては、自然と対
⽴的な⽴場をとっているのに対して、モンドリアンはど
ちらかというと「感情移⼊」に近い⽴場をとっている。
それは、自然の中に真のリアリティを⾒出すといった、
超自然主義的な⽴場と⾔えるかもしれない。そういった
究極的な自然主義によって⾒出される普遍性というリア
リ テ ィ が、
「 抽 象 」とな っ て 現 わ れ て い る。つ ま り 、先 に
述 べ た よ う に、モ ン ド リ ア ン の い う「 抽 象 」と は、
「真の
リアリティ」であり、そういうことにおいて、彼は「抽
象・現実主義者」なのである。
参考⽂献
『 自 然 か ら 抽 象 へ = モ ン ド リ ア ン 論 集 』, ピ ー ト・モ ン ド リ ア ン 著 , 赤
根 和 ⽣ 訳 編 , 美 術 出 版 社 , 1975
『 モ ン ド リ ア ン - そ の ⼈ と 芸 術 』 , 赤 根 和 ⽣ 著 , 美 術 出 版 社 , 1971
『 抽 象 と 感 情 移 ⼊ 』, ヴ ィ ル ヘ ル ム・ヴ ォ ー リ ン ガ ー 著 , 草 薙 正 夫 訳 , 岩
波 書 店 , 1953
『モンドリアンと抽象絵画』, ウンブロ・アポロニオ著, 乾由明訳, 平
凡 社 , 1975
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