...

生と死へ - ECHO-LAB

by user

on
Category: Documents
17

views

Report

Comments

Transcript

生と死へ - ECHO-LAB
可
Eゴ
1
1 月
2005(
'
I
'
:
f
j
長1
7
)年11111H 先 行 勾 J
11[
1
1
]1日発行
1
9
5
2
(昭和 2
7
)年1
1月2
2L
l
第 i
椅郵便物認可
第6
3
7
号
tえ
生と死へ
の 田 心 い │ │ ア ジ ア か ら 中 近 東 へi
ー
久保田展弘
(アジア宗教文化研究所代表)
私 は 長 年 、 ア ジ ア の 宗 教 を 勉 強 し な が ら 、 イ ン ド 世 界 を 経 て つ い に 中 近 東 の 世 界 に ま で 入 り 込 ん で 、 ﹁人聞に
私のフィールドワーク││人間にとって宗教とは││
くるわけです。この極まりが自爆一アロとかさまざまな事件となって、世界中を驚惇させるわけです。
らないのです。結局、それぞれの国が長年抱えている暗部というか、貧富の差の大きい不均衡な経済世界が問題
なのです。大多数を占める貧しく抑圧された人々に、不均衡が何によって生じるのかということを駆る人が出て
わけです。これは逆にいいますと、民族の違いとか宗教の遣いだけによってお互いを殺し合うような紛争にはな
という宗教対立だけの問題ではなく、その根っこに常に極端な経済の不平等、不均衡というものが潜在している
リスト教、あるいはイスラエルとパレスチナの長年にわたる確執を生んでいるように、ユダヤ教徒とイスラ l ム
く 深 い 、 し か も 広 い 範 囲 に 及 ぶ 経 済 の 貧 困 と い う も の が 潜 在 し て い る わ け で す 。 そ う し た 要 因 が イ ス ラ l ムとキ
中近東は外から見るその国のおおまかな姿の背後に、われわれのニュースや情報には入ってこない、ものすご
しかもエジプトにありながら別世界のようなところですので、外国人が特に多い。
ルからの旅行者がたいへん多く泊まっているホテルが狙われました。場所としては非常にデリケートな場所で、
まして、イスラエルからこうしたリゾート地を訪れる観光客がとても多い場所なのです。タパの場合はイスラエ
く別の世界のような行楽地です。今回も、それから前回のタバのテロ事件もそうですが、国境に近いこともあり
に複雑なものがありまして、シナイ半島の南端の海沿いにありますリゾート地というのは、エジプトとはまった
も多く、政治的な対立もたいへん多い。あれだけ広大な国土ですので、エジプト国内の内部事情というのは非常
ある国で地下資源も豊富で、また観光の対象になる場所のたいへん多いところです。けれども一方では貧しい人
ラエルとの国境に近いタパというところで自爆テロがあり、多くの死者を出しました。エジプトは非常に国力の
先日、エジプトのシナイ半島の南端にあるシヤルム・エル・シエイクで自爆一アロがありましたが、去年はイス
とと、これまでの歩みについてお話したいと思います。
るために何度かまいりました。今日は私がどうして中近東へ行くようになったか、私がずっと課題としているこ
最近、中近東ではエンドレスとも思える自爆テロが続いております。私はたまたまこの地域に宗教の実態を知
はじめに
•
問いに促されまして、最初は日本人の宗教の非常にベーシックな世
頃から今に至るまで抱いているような状況です。私はそんな素朴な
とって宗教はどんな意味があるのだろう﹂という問いを、二十代の
のです。その当時、日本はバブル経済に向かって物の豊かさを非常
のはどんな意味があるのでしょう﹂ということを先生に申し上げた
私はつい、自分自身のなかにある﹁今、こういう時代に宗教という
います。結局、二時間くらいお話をうかがって、終わりのほうに、
で、自分のことをむちゃくちゃにお話ししてしまったのだろうと思
に謡歌していた、そういう状況だったと思います。そういう時に、
いに始まって、日本の基層宗教の世界をフィールドワークとして、
山岳霊場などをずっと歩いてきたわけです。しかし、日本の宗教の
私は思わず先生に申しあげました。そのときに先生は、もの静かな
界、日本人は宗教とどんなふうに関わってきたのだろうかという問
古いところを勉強しようとしますと、文献が限られております。ご
ていないといけません﹂と。この先生の答えといいますか、むしろ
お話のされ方で、﹁宗教を問うときには、宗教が自分のものになっ
問いかけが、私がその後にアジアから中近東世界などのフィールド
﹁風土記﹄などがございます。各寺社の縁起類や伝承もありますが、
限られているわけです。それで、日本の古い時代を知ろうとすれば
ワークにおいて、常に浮かび上がる問いなのです。自分にとって宗
存じの﹃古事記﹄や﹁日本書紀﹂をはじめとする六国史、あるいは
するほど、東アジア世界とどんな関係があるのだろう、東アジア世
す。それは、私が二十代の時の﹁人間にとって宗教というのはどん
生きているということに、私はたとえようもない興味を覚えるので
うようなレベルに発展したインドにおいて、さまざまな形で宗教が
コンピューター産業、特にソフトウェア産業では世界の一、二を競
とかいろいろいわれることがありますけれども、皆さんもご存じの
おもしろくなるというのは語弊がありますけれども、迷信とか邪信
続いているのですが、インドという世界がおもしろくなりました。
南アジアに広がって、結局インドへ行き着きました。これは今でも
こんな経緯から私のフィールドワークは韓国、中国をはじめ、東
を、重ねておっしゃっているのです。
いて、全人が眼覚め、また全人に眼覚めることである﹂ということ
人)の心であらねばならない﹂と。﹁罪と苦との必然的な関係にお
なっています。それは﹁自身(個人)の罪を知るものは、菩薩(全
章がありますが、その文章のなかにこういうことを繰り返しお話に
らもくり返してきました。先生の﹁受苦と随喜と尊重﹂というご文
異なる民族聞の厳しい対峠が長年続いている中近東などを歩きなが
てとても重いものがあったと思います。こうした問いは、とりわけ
が、三十七、八年経っても思い出されるのです。これは、私にとっ
になっているのだろうかということは、この先生の何げない二百
いるつもりでいました。しかし、宗教そのものが自分の人生の問題
研究の対象、そのことを知りたいという対象については定まって
教とは何だ。ほんとうに問題になっているのかと。
な意味があるのだろう﹂という問いに、常にいろいろな形で答える
つき動かされてくるわけです。
界にある文献に日本はどんなふうに出てくるのだろうという思いに
現象がインドには今でもあるからです。
に金子大柴先生にお目にかかる機会があったのです。たいへんもの
調べながら、日本各地を歩いていたのですけれども、つ十代の後半
私は二十代の頃に、今申しましたように日本の古い宗教の世界を
をいただく宗教と、どちらかといえば多神教的な仏教、あるいはヒ
が虚しくなるばかりの現実です。これは分析していけば、唯一の神
だと。私が歩いてきました中近東の民族紛争の現場では、この間い
自分の罪、これは大小さまざまですね。そういう苦を知るものは
菩薩の心でなくてはならないのだ、全人の心でなければならないの
金子大難先生からの問いかけ
静かな先生で、今から思いますとほんとうに二十代の若気の至り
•
•
2
び
、
し
も
と
第 i種 郵 便 物 認 可
2
0
0
5(平成 1
7
)年 1
1月 1日 発 行
第ミ穂郵便物 ,
J
!
t I
1J
2
0
0
5(平成 1
7
){
jユ1
1
J
J1f
l 発行
び
し
も
と
3
-
いと同時に、人間にはこういう残忍性が秘められているのかという
フ ィ ー ル ド ワ ー ク を 重 ね る な か で 、 イ ス ラl ムとはいったい何なん
まずないだろうと思われるようなひどさです。そういう状況が国連
の親族の誰かが民族紛争のときに虐殺されていない家というのは、
お話をうかがっていると、アルパニア民族のどのおうちでも自分
いう複雑な心境でした。
思いも、自分の心に照らし合わせて思わないではいられない、そう
パ世界まで広がってしまったわけです。
は何年かかってもいいから、 EU(欧 州 連 合 ) に 加 盟 で き る よ う に
の介入などで一応、紛争は収まっているわけです。同時にこれから
こ う し た フ ィ ー ル ド ワ ー ク の な か で 一 九 九 0年 代 以 降 、 と て つ も
いるのです。学校も何もかもめちゃくちゃになった、そういうもの
経済を復興しようではないかと、民族の共存をスローガンに掲げて
をまず復興して、教育制度の基本を打ち立てようではないか。共通
ない民族紛争の展開を見せましたバルカン半島諸国をめぐったので
キングなことは旧ユーゴスラビアの自治州でありますコソボ。コソ
するテl マ を み ん な 持 っ て い る わ け で す 。 ア ル パ ニ ア 民 族 も 、 セ ル
子どもとかをセルピア民族に虐殺された体験を持たない人はいない
ボ自治州というのは、今のセルピア・モンテネグロという南北に広
です。その地域の一番南のほうにコソボ自治州という、自治性の非
わけです。経済復興に向かってみんなが協力していかなくてはなら
がる国の南のほうにある自治州です。セルピアというのは、文字ど
常に強い地域ですけれども、八 Oパーセントくらいがアルパニア民
ないという思いは同じであっても、それぞれ個々の人間は複雑なた
しかし、誰一人として、自分の兄弟、あるいはいとことか、親とか
族というイスラム教徒が大多数を占めている地域があります。一九
とえようもない悲しみと憎悪を秘めて、経済復興に向かっているわ
ピア民族も、みんなそのビジョンに向かっていっているわけです。
九一年以降、旧ユーゴスラビアの六つの国がつぎつぎに独立宣言し
けです。
このコソボ自治州の州都でありますプリシユティナというところ
余の難民を生んでしまったのです。こういう歴史が遠い過去ではな
る民族紛争は二十万人余の死者を出しました。そして二百五十万人
一九九一年以降のコソボ紛争も含めて、旧ユーゴスラビアにおけ
に、途中を詳しくお話しする時間もありませんが、たどり着いて、
くて、数年前のことなのです。
ニア民族への大虐殺があったのです。この事件現場を内外の写真家
北の方、北と東よりですが、かつてのロシア帝国があります。南の
バルカン半島の西の方にはドイツがあり、フランスがあります。
バルカン諸国が抱える問題
が、お話しするのもちょっと話しにくいような現場ですが、その現
りました。バルカン諸国は列強に固まれていたのです。国でいいま
方 に は か つ て の オ ス マ ン ト ル コ 帝 国 。 つ ま り イ ス ラl ム の 帝 国 が あ
すと、旧ロシアに近いルーマニア、ブルガリア、マケドニアとか、
のです。それには百二十点近くの写真があります。見れば見るほ
ど、人間というのは極限状態になるとここまでできるのかという思
場をとらえた写真ばかりを集めた手づくりの写真集をつくっている
なショックを受けることがありました。セルピア民族によるアルパ
いろいろな人にお目にかかったり紹介していただいたりして、大き
度はコソボ自治州ですさまじい虐殺事件が起こりました。
て大紛争になってしまったわけです。それが収まりかけた時に、今
おりセルピア正教というキリスト教徒が圧倒的に多くを占める地域
す。旧ユーゴスラビア。この現場をずっと歩きながら、一番ショッ
コソボを尋ねて
だという問いが生まれました。そこから中近東、さらにはヨーロッ
が、東アジアから東南アジア、南アジア、インド世界に広がって、
日本の古い宗教世界を問うことに始まった私のフィールドワーク
ンズ l教世界などとの大きな違いになると思います。
•
第三種郵便物認可
スニア・ヘルツエゴピナ、クロアチア、それにスロベニアがありま
旧ユーゴスラビア共和国の国々。今のセルピア・モンテネグロ、ボ
であろう異なる民族とも向き合いながら、毎日を暮らすわけです。
の親しい死者とも向き合い、死者を死者たらしめた、その虐殺した
の記憶に誰もが忘れられない思いが秘められているわけです。自分
人、千人が千人、みんな思うわけです。思うのですけれども、人々
つ ま り 、 バ ル カ ン 半 島 、 中 近 東l あ る い は イ ス ラ エ ル 、 パ レ ス チ ナ
っているわけです。バルカン諸国は回りの列強の支配というか圧迫
を受け続け、また長い間、オスマン帝国の影響を受けてきました。
もそうですが│の人たちの生き死にへの思いというのは、そういう
す。こうした民族と宗教の入りくんだ国々が西ヨーロッパにつなが
バルカン半島の国々というのは、もともと多民族世界、多宗教世界
は、こういう複雑な両面性を常に抱えてのことなのです。親しい者
の死に絶えず向き合う。そして自分たちの親しい者を殺した、つい
ところにあるわけです。その人たちの生き死にへの思いというの
に、あるいは全部の宗教にまんべんなく力を注ぎませんから、特定
このあいだまで敵であった民族とも向き合いながら生きていく。彼
の典型的な共存地域だったのです。こういう地域にヨーロッパの列
化してしまうわけです。特定の民族、特定の宗教を持った人たちが
らの生き死にへの思いというのは、常にこうした生々しい現実に向
強がさまざまな力を加えるわけです。力を加える時には全部の民族
力を得るために、それまで貧しくとも均衡が取れていたバルカン半
き合うなかにあるのです。
ですから、不均衡を生じるような事件が起きますと、自分がせっ
島という多民族世界に不均衡が生じるわけです。こうした問題が歴
史的に絶えず発生した地域がバルカン半島なのです。もっと端的に
かく取り戻した宗教への思い、つまり、神に向き合う思いが新たに
というものが復活したにもかかわらず、蹴散らされてしまうわけで
芽生え、また昔のように、モスクへ通う思いとか、教会へ通う思い
年間の紛争の淵源はほとんどバルカン半島にあります。しかも、バ
す。何かことが起これば、やはりあの連中はこうなのだと、瞬時に
そ戦争の時代といわれるこ十世紀の百年間ですね、この二十世紀百
ルカン半島自体に問題があるのではなくて、バルカン半島諸国とい
ゆくわけです。
民族意識が呼びさまされ、宗教のちがいが人々を憎悪に駆りたてて
申し上げれば、第一次世界大戦と第二次世界大戦を抱えて、それこ
している地域にヨーロッパの列強が特定の力を加えるために不均衡
う、一つの民族では一国家を形成できない、そういう多民族が混住
代々の宗教も、その意味では復活しているわけです。一人の立場に
ト教徒は日曜日に教会に通うというように、自分たちの従来の、親
ためて問い直して、イスラム教徒は金曜日にモスクへ行く、キリス
してそれぞれが表面的には安定してきますから、自分の宗教をあら
わけです。経済復興という共通命題を掲げて向かってはいます。そ
に厳しい紛争の思い出をみんな抱えながら経済復興に向かっている
このバルカン半島というのは、つい数年前の思い出すにはあまり
は両へさらに十三キロくらい行くのです。十三キロくらい行くので
サラエボの中心から十三キロくらい離れています。サラエボの中心
ピナの首都のパスセンターに向かって行きますと、パスセンターは
境界があるのです。つまり、サラエボというボスニア・ヘルツエゴ
エゴピナ連邦とセルピア人共和国という二つの勢力の日に見えない
ツエゴピナの首都です。ところがこの首都には、ボスニア・ヘルツ
のパスセンターへ着きます。終点です。サラエボはボスニア・ヘル
からサラエボへ、八時間半くらいパスでかかるのですが、サラエボ
セルピア・モンテネグロのかつての首都でありますベオグラlド
見えない境界に生きる
なりますと、唯一の神と向き合あって、人を殺してはいけないと
が起こるわけです。
か、民族は共存していかなくてはならないということは、百人が百
•
•
4
ぴ
し
も
と
2
0
0
5(平成 1
7
)年 1
1月 1日 発 行
2
0
0
5(平成 1
7
)年1
1月 1H 発行
第:経郵便物認可
び
し
も
と
5
も、こういう民族紛争を経て、あるいはそのくすぶりをまだ抱えて
す。何度も申し上げるようですが、たとえばサラエボ一つとって
ピナ連邦とセルピア人共和国との国境があるわけです。現在の話で
すが、ここには日に見えない、今申しましたボスニア・ヘルツェゴ
誰もが暴力に怯えている。殺されるのを恐れている。だからこそ人
も近いと言われる﹃ダンマ・パダ﹄にあります言葉なのです。人は
私は、中近東あるいはバルカン半島の紛争の現場を歩いてあらた
めて思いますのは、皆さんもご存じの、お釈迦さまの言説にもっと
﹁他をして、殺さしめではならぬ﹂││ダンマ・パダ││
m
uレ-
-
いる国々というのは、表面的には国連や何かの介入によって、みん
なが一致した経済復興に向かっています。向かっているのですが、
ぬ﹂。この言葉が﹃ダンマ・パダ﹄に何度も繰り返し出てきます。
は、﹁己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめではなら
いのだということをつくづく思い、中近東の現場を歩いて、同時に
くてはならない、自身の罪を知るものは菩薩の心でなくてはならな
も、自身、個人ですね、その苦を、罪を知るものは、菩薩の心でな
えない時代に、仏教の持っている意味というのはとても大きいと思
う。先ほど金子大栄先生のご文章からちょっと申しましたけれど
と表裏の関係にある宗教、異なる宗教聞の対峠がいろいろな形で絶
のよさでもあるのですが、私はこういう民族と民族、あるいは民族
な、さらに強い発言をするということは少ないですね。これは仏教
もちろん私個人の問題を申し上げれば、私は自分なりに、ほんと
うに皆さんから見ればお恥ずかしいような遅々とした歩みですけれ
ども、フィールドワークやいろいろな丈献渉猟を経てきて、仏教と
いうのは、さまざまなものが対峠する時代に一番力を発揮できる宗
教だということを、自分のなかではかつてないくらいに確信してい
るのです。しかし、仏教を信仰している世界の誰もが、少なくとも
ユダヤ教やキリスト教やイスラ l ムの世界の方々よりは、積極的
う﹂いう問いをさらに再確認せざるを得ないのです。
はこういう世界を歩きながら﹁宗教とは人間にとって何なのだろ
着するパスセンターも別にあるわけです。これが現実なのです。私
には到底ならないのです。
υ
m をして、殺さしめではならぬ﹂
てもかまわないと思っていれば、﹁他
す。自分が欲張って、他よりも何倍も奪い取ろう、相手がどうなっ
あるべきかということが、すでにそこになくてはいけないからで
という戒めは、仏教のなかで、すごい意味があると私は思います。
殺してはならない。これもすごいのですが、﹁殺さしめではならぬ﹂
が人聞を殺すだけではないのです。﹁生命﹂なのです。他の生命を
す。他を傷つけてはいけないのだと。仏教のすごいところは、人聞
なります﹁六波羅蜜﹂に、はっきり示唆されていると思います。
自分が他を殺さないということは、誰もが戒めることができま
ます。﹁殺してはならぬ﹂という戒めは、ユダヤ教にもキリスト教
にもイスラ l ム に も 、 ど ん な 宗 教 に も み ん な あ る わ け で す 。 し か
私は、あらためて仏教の原点といっていい、この教えを噛みしめ
いかもしれませんが、時代を経て、この現代に及んでとても重く深
はならぬ﹂という戒めは二千五百年前、あるいは二千四百年前くら
これは何度申し上げても尽きないのですけれども、﹁殺さしめで
レ
心
﹁他をして、殺さしめではならぬ﹂というのは、自分がどのように
ひと
しようとするには、お釈迦さまの時代に具体的に提示はされていな
いかもしれませんが、のちに大乗仏教になって、重要な実践徳目に
辺杖さしめではならぬ﹂という戒めを守ろうとする、あるいは全う
いう戒めは、もしかすると仏教独自の戒めかもしれません。この
し、﹁他をして、殺さしめではならぬ﹂。﹁殺さしめではならぬ﹂と
虚しさといいますか、そういう思いがかえってこないという厳しさ
ですね、これをつくづく感じるわけです。
おの
まだお互いに信じられないわけです。ですから、アルパニア人が到
•
と、上下に合計十室くらい部屋がありまして、日本風にいうと四畳
この﹁死を待つ人の家しというのは、どういう施設かと申します
で百七年くらいの歴史をもっている施設です。このほかにも、マザ
バルカン半島、中近東の現場を歩きながら、実は私は三十数年
いメッセージだと思います。私は、自分がたどってきた世界に向き
間、ほんとうにさまざまな意味において教えを受けてきたといって
半よりちょっと広いくらいの部屋にたたきが打つであって、その中
ーテレサの影響を受けたシスターたちが運営している﹁死を待つ人
いいインド世界、このインドを絶えず、私の心のなかでは表裏の問
心か端っこに網ベッドのような簡易ベッドがあります。高齢で、も
合い、そして民族紛争のあとを思い起こしながら、常に思うのが、
題として思い描いているわけです。今日は時聞があまりありません
ですね、そういう方を家族二、三人がともなって、そこで死を待っ
う死を間近にした方か、あるいはもう死が近いことを宣告された方
の家﹂もあります。
ので、一つだけ、私がインドへ行くたびに訪ねる場所についてお話
釈尊のこの言葉です。
しします。
で 死 を 迎 え て 、 川 岸 の マ ニ カ ル ニ カ l ・ガ l ト と い う 火 葬 場 で 茶 毘
それはなぜかと申しますと、ヒンズー教徒は今でも聖地ベナレス
ているわけです。
ベ ナ レ ス 。 バ ー ナ ー ラ シ l、ワl ラl ナ シ ! と か パ ナl ラスとか
に付され、遺骨をガンジス川に流してもらえば、神の身体とつなが
死を待つ人の家
いう呼び名が親しいですが、北西部インドからずっと流れ下ったガ
っている、このガンジス川を通って、天なる国へ行けるのだと確信
現地では違う言い方をしますけれども、日本人にとってベナレスと
ン ジ ス 川 と 五 、 六 十 キ ロ 並 行 し て 流 れ て い く ヤ ム ナ 川 が ア ッ ラ lハ
している人がとても多いからです。
ベナレスから五百キロも、場合によっては八百キロ、一千キロも
ーバードというところで合流しまして、東のほうに流れの向きを変
えていく、そのガンジス川中流域の西岸にベナレスという有名な巡
このベナレスという聖地は、水浴びをしてお祈りをする主な体浴
けです。そして、一週間、二週間、長い場合は、私がお目にかかっ
とか、お孫さん一人くらいが付き添って、この施設にやってくるわ
て、死を間近にした方が年配の方であれば、その方の息子さん夫婦
離れたところから、商売を休んだり、あるいは誰かに仕事を託し
場は二十くらいはあると思いますが、正確には六十以上あるともい
礼地、聖地があります。
われます。そういう聖地、巡礼地です。インド全国から、そこへ巡
い方に語弊がありますが、死を待っているわけですから、もう死が
たなかで一番長い方は四十何日という方もいました。要するに、言
そ の 中 心 、 精 神 的 な 中 心 と い う の は 、 マ ニ カ ル ニ カ l ・ガ l トと
外長く生きておられる。ずっとというわけにはいきませんが、長く
礼に来るわけです。
いう火葬場です。ベナレスは、紀元前七世紀にはもう商業都市とし
て文献に出てくる一大都市ですが、火葬場を究にして扇形に広がっ
生きられる方もいるわけです。ですから途中でお国もとへ帰る方も
間近だと思ってその施設に来ても、元気にはなりませんけれども案
ているのです。
クティ l ・ パ ワ ン と い う 、 こ れ は ﹁ 死 を 待 つ 人 の 家 ﹂ と い う い い 方
アのヒンズー教徒によって運営されている無料で宿泊できるところ
要するにムクティ l ・パワンという施設は、そういうボランティ
いるのです。
で知られたいくつかの施設があります。私がいつも訪ねるのは、ヒ
ですが、病院ではありませんので、自分たちで自炊生活をしなくて
このベナレスの川岸の体浴場から少し内陸に入ったところに、ム
ンズー教のボランティア活動をしている人々が運営していて、今年
•
•
6
ぴ
し
も
と
第:種郵便物認可
2005(ヂ成 1
7
)年1
1月 1日 発 行
第
i種 郵 便 物 認 可
2005
、
(λ
i成 1
7
)年 1
1月 l日 発 行
ぴ
し
も
と
7
を確かめ合っているわけです。確かめ合い、しかもその親しいおば
ある肉親の一瞬一瞬の生の息づかいといいますか、それと自分の生
-
の照明です。私などは気が弱いので、ご家族の誰かに話を聞くま
はいけないのです。一部屋が、小さな明かり取りの窓があるくらい
あさんなり、おじいさんなり、肉親が必ず天なる国へ行けるという
で、ほんとうに時間がかかりました。廊下を行きつ一民りつして、顔
ことを信じているわけです。
日本の終末期医療を考える
が合って何となく許されるところにしばらく座って、その部屋の誰
かが水汲みなどで外に出るとお話をうかがったり、そんなことを繰
に九十二歳で自分の母を見送って、二年七ヶ月くらい、ほんとうに
日本でこの十数年、終末期医療ということが、さまざまないわれ
正直申し上げれば、やせ我慢をして介護をして、ほんとうにいろい
り返していました。、だんだんこちらもずうずうしくなって、ちょっ
外から見ますと、そういう限られた明かり取りのなかに、死を間
ろな思いをしましたけれども、日本のこの高齢化社会では、どなた
方で論議されてきました。高齢化社会になって、高齢者が高齢者を
近にした方がベッドに伏せっておられて、そのかたわらに肉親が見
もそういう問題を抱えていると思います。高齢になって病を得た
介護しなくてはならない現実をみんなが抱えています。私は三年前
守っているわけです。それは、何か神話的なといいますか、どこか
と話を聞かせてくださいといって、最初からお尋ねすることも最近
遠い国の聖家族を見るような、そういう何ともいえないおだやかな
り、さらに問題を重ねて、終末期医療というものがどうあるべきか
はするのですが。
雰囲気なのです。
がえたのは、死を間近にした方のお孫さんにあたる十代後半の方で
薄明るい部屋のなかに、肉親を見守りながら声をかけたり身体をさ
しかし、私は、インドのその死を待つ人の家で、限られた部屋、
ということが、もう十数年論議されています。
した。これもずいぶん昔の話ですが、その方が水を汲みに出たとき
すったりして、その人の死を待っている方々を前に、言いようのな
そういうところに生活している方に、私がまず最初にお話をうか
に﹁あなたは、毎日おばあさんを見守っておられて、どんなことを
い思いにかられます。
ですから、死を間近にした方をともなってその施設に来るのですか
皆 さ ん 、 こ の ム ク テ ィ l ・パワンは、死を待つ人の家なのです。
れ、身体をさすられ、足をもまれたりしながら、人生の終末を送る
にして、言葉は交わせないけれども、肉親から何かと声をかけら
す 。 し か し 、 こ の イ ン ド の ム ク テ ィ l ・パワンのように、死を間近
生きているというか、生かされて人生の終末を送る死に方もありま
日本のように医療器具が極度に進歩して、チューブにつながれて
考えますか﹂と聞きましたら、そのお嬢さんは、すかさず﹁祖母が
ら、家族の誰もが死を待っているわけです。しかし、死を待ってい
一日も長く生きることを願っています﹂と言うのです。
る一番身近な方々は、その死を間近にした方の一日も長く生きるこ
死に方もあるわけです。
私は、インドのこの現場に向き合うというか、一緒にいながら、
とを願っているわけです。
見ておりますと、会話はできないのですけれども、横になってい
るのではないか、と思い続けているわけです。
もしかすると終末期医療の究極の姿というのはこういうところにあ
こういう、インドに今でも続いている死を待つ人の家。先ほども
る方にときどき声をかけたり、身体をさすったり、足を静かにもん
肉親をともなって、その聖地の施設に入るのですが、インドの人々
いいましたように、インドはソフトウェア産業を中心に、ものすご
だりしながら一日を送っているわけです。つまり、死を間近にした
にとって、彼らの一日一日というのは、自分とかけがえのない粋の
の中心にいたり、ビジネスマンのもっとも忙しい世界に身を置いて
い右肩上がりの経済成長を遂げているわけです。こんな経済の活動
い。良寛さんというのは、容一の行灯みたいに、なんかぼんやりして
も、昼に行灯がともっていても、ぼんやりしてほとんど意味がな
くの人がまだ、亡くなるときにはベナレスで息を引き取って、川岸
今は事件としての宗教への関心が始まりですけれども、皆さん、
目立たない、そういう意味で、昼行灯息子といわれたんだよ﹂。こ
れを延々と説明しなければいけない。
いる人もたくさんいる。しかし、そういう人も含めて、インドの多
で茶毘に付されて、遺骨をガンジス川に流してもらうことによって
二百名も二百五十名も、ときには三百名くらい受講してくるわけで
若い人も宗教への関心を持っているわけです。若い方々がせっかく
これは、申しあげるまでもなく神話です。こんなことは科学的に
すから、こんな悪戦苦闘をして、そういう方々に、中近東やバルカ
天なる国へ行けるのだと信じている。
誰も証明できません。証明できないのですが、こういう現代に活動
エジプトのシヤルム・エル・シエイクでテロ事件があったよう
ン半島、あるいはインドの多宗教世界、日本を含む東アジアの宗教
に、私どもはイラクの自爆テロの連続とともに、日本も危ないので
する人が、その神話を信じることによって、自分の親しい肉親の死
る国へ行けるのだと。死んでいく人も、自分の肉親と、親しいもの
はないかといわれるくらい険悪な民族と民族、宗教と宗教の対峠が
世界の今昔について話しているわけです。
と別れる悲しみを希望につなげられるわけです。インドにおける神
の行くえを確信する、悲しみを希望につなげられるわけです。天な
話というのは、現実にこういう音 ω
味をもって生きているわけです。
私は、この三月まで、女子大学で宗教と死生観とか、比較文化論
がおっしゃった﹁殺すなかれ、殺させるなかれ﹂という、この実に
私は、あらためて申し上げるまでもなく、ゴ l タマブッダ・釈尊
極端なかたちで日常化している世界に生きております。
を講義してきたのですが、皆さんもお孫さんやお子さんでお気付き
単純明快な教えを自分自身で噛みしめております。そして、私のな
仏教をどう伝えるか││私の課題││
だと思いますが、今の大学三、四年生の若い方に宗教の世界の話を
かで噛みしめたこの思いを、険しい対峠の気持ちを抱き続けている
えられるのかというのが、私の大きな課題、だと思っているわけで
イスラム教徒やキリスト教徒やユダヤ教徒の人たちにどのように伝
しようとすると、言葉を説明するだけでたいへんです。
日本人の死生観のなかで、よく江戸時代末期の良寛さんなどの話
のですけれども、私がこの歳になって確信を得たこういう思いを、
私一人でできる範囲などは、ほんとうに限られた、ちっぽけなも
す
。
たわけです。﹁良寛さんはこんなに有名になったけれども、少年時
彼らにどのように伝えることができるのかというのが、今、最大の
をしたりする。良寛さんというのは、ものを所有しないことに徹底
した人ですが、出雲崎の咋患の息子さんです。恵まれた家庭に育っ
代に庄屋の昼行灯息子といわれたんだよ﹂というと、大学三、四年
ひるあんと ん
生には、庄屋も通じないし、昼行灯も通じない。
それに布の芯を垂らしてそれに火を付ける。そのまわりを木や竹に
いう一万葉は、もう古語なのですね、古典語。﹁灯油をお皿に入れて、
か、民族と民族とかではないのです。いのちといのちがどのように
がどのように向き合えるのかが問題だと思います。宗教と宗教と
この現代は、あらためて申し上げるまでもなく、いのちといのち
テl マです。
紙を張ったもので囲む。背は、夜にそういうのを明かりにして勉強
向き合うことができるのかという問いの前に、私どもは立っている
庄原は村のリーダーのようなもの。昼行灯とは何だ。行灯なんて
したりしたんだよ、と。しかし、これは夜だから役に立つけれど
•
•
8
び
し
も
と
第 : 将 郵 便 物 日l
!n
J
2
0
0
5(
、
!
と
成1
7
)
{ドl
lJ
l1[
1 発千]
山山
田
•
(くぼたのぶひろ)
ー
ー
.
.
.
.
_
.
.
.
,
,
.
・
・
田
'
.
.
'
'
.
.
'
'
.
.
'
ー
曲
・
・
・
.
_
.
.
.
.
_
,
.
.
.
_
,
.
.
,
田
町
.
.
'
_
.
.
.
.
目
・
・
目
ー
園
田
町
'
.
.
'
田
即
日
・
ー
ー
目
・
・
目
」
二O O五 年 七 月 二 十 四 日
「仏教と医療の協力 j
佐藤第二病院医師
「念仏が聞く仏道一難思議往生J
大谷大学名誉教授
田畑
正久氏
寺川
俊昭氏
1
1月 28日(月) 午後 6 時 ~9 時
随筆家
「回向と回光」
1
1獲信」に聞く」
大谷大学名誉教授
松本
!
責
瀬
章男氏
呆氏
[主催] 真宗大谷派(東本願寺)
高倉会館日曜講演抄録
[会場] 高倉会館
下京区高倉通り六条上る
(地下鉄)五条駅下車南東
(市バス)烏丸六条下車東
のだと思います。
E
r
'
.
.
'
田
ー
・
・
副
ー
ー
目
山
_
.
.
.
.
_
.
・
.
,
・
ー
・
・
刷
ー
,
.
.
.
_
,
.
.
,
.
山
田
園
田
咽
_
.
.
.
叩
.
刷
,
_
目
山
.
.
,
_
.
.
.
.
_
,
.
.
・ ・
・
刷
園
田
・
.
.
.
_
.
.
.
.
_
.
.
〈親鷲聖人讃仰講演会のご案内〉
1
1月初日(土) 午後 6 時 ~9 時
「念仏の世紀をめざして j
浄土真宗本願寺派教学伝道センタ一所長
ご静聴いただきまして、 ありがとうございました。
大峻氏
上山
勇諦氏
「いのちより大切なもの」
同朋大学特別任用教授
1
1月 2
7日(日) 午後 6 時 ~9 時
2
0
0
5(平成 1
7
)年1
1月 l日 発 行
第三種郵便物認可
ぴ
し
も
と
9
l~t::I-乞,噌・1~遺書調理‘
自前路軍訪要
•
岐阜垂井町・明泉寺で開催される、竹中彰元師の平和への願い
をわが胸に刻む、﹁彰元忌﹂(十月二十一日)も六回目を迎えます。
竹中彰元師は、一九三七年(昭和二一)日中全面戦争の際、戦
争に反対する発言をし、逮捕され陸軍刑法に違反したと有罪判決
けいくいよん
を受けます。本山も﹁軽停班三年﹂の処罰を下し、処分は未だ取
消されていません。
一九三七年七月七日、北京郊外で勃発した麗梓時事件は、日
中全面戦争へと拡大し、中国の首都南京の攻略戦のため、日本各
地から若者が召集されました。南京大虐殺事件が起こったのもこ
の年です。
子どもの時から成長を見守ってきた村の若者たちが出征兵士と
して、村から垂井駅まで行進する、その道すがら竹中師は﹁戦争
は罪悪である。人類に対する敵である﹂と語られます。また、隣
寺の法座で﹁時に今度の事変に付て各自の決心を定めねばならぬ
が、自分は戦争は沢山の彼我の人命を損し、悲惨の極みであり罪
悪であると思う﹂と語られます。白国のみならず彼の国の若者を
殺す戦争。その本質を﹁罪悪﹂と見抜き、﹁悲惨の極み﹂と語ら
れた彰元師の悲願を思います。
戦後、先達のお一人は、﹁日本国憲法は世界の他の国々のもの
と違ひ、自国の人々と他国の人々との血を流して書き上げられた
ものです。(略)戦争放棄ということも(略)これは第一次及び
第二次の戦争に参加した国々の人が、実際に戦争中言語に絶した
苦しみ悩み惨めさを体験したその心理の結晶と論理の帰結に他な
らないのです﹂(鈴木大拙)と語られます。
﹁憲法改正﹂の言葉が舞う昨今、戦争を知らない世代だからこ
そ、先達の声に耳を傾け、戦争とはどういうものであり、その時
に人や組織がどうなっていくのか。一方、その戦争の本質を見抜
いていく眼をどのように得たのか。いのちの叫びに耳を澄まし、
歴史から学んでいきたいと思っています。
(教学研究所研究員 山内小夜子)
kro
知
白人~精郵便物日2,
一
年
高倉会館
V日 曜 講 演 企
今後の予定
開会 午前九時三十分)
十一月六日﹁裟婆の都市化と人間教育﹂
大谷中・高等学校長 真 城 義 麿
+一月十三日﹁江戸の親驚聖人﹂
大谷大学名誉教授大桑
十一月二十日﹁後世を祈らせ給いけるに﹂
大 谷 大 学 名 誉 教 授 三 桐 慈海
十一月二十七日(讃仰講演会のため休会)
V高 倉 岡 朋 の 会 &
十一月の例会は休会します。
十二月十五日(木)に午後六時から、同朋の会﹁報恩
講﹂を開催します。
講師小川一乗(高倉会館長・教学研究所長)
斉
真宗大谷派宗務所財務部(ともしび)
口座番号 O一O一0 0 二 六 O八
﹁お詫びと訂正﹂
先月号の講演抄録﹁大行l親驚聖人の念仏理解│﹂
の三頁上段に﹁長いあいだいろいろな事情で、大拙訳
﹃教行信証﹂の版権が、先生が晩年においでになりま
した鎌倉の松ケ丘文庫にあったのだそうですが、今度
宗門の方のご尽力によりまして、版権が宗門に移った
﹂とありましたが、﹁松ケ丘文庫﹂は﹁松ケ
そうです o
同文庫﹂の誤りであり、また、版権が(一市門に移ったの
ではなく、松ヶ岡文庫と真宗大谷派の出版契約に基づ
き、鈴木大拙師の英訳﹁教行信証﹄を、宗門から出版
させていただけることになった、というのが事実であ
ります。編集に際し、事実確認を怠り発行しましたこ
とにつきまして、お詫び申し上げます。
(
A・附代振込先
円
00
*
そらした視縛
J
能-久日山示直u
研究所
器械に、身体を繋がれていた。真っ先にその老婆
と日が合い、思わず息を呑んだ。合った目を斜め
下にやった先に、ドア横のイスに座る付き添いの
婦人が目に入った。婦人に弁当の箱を一つ渡し、
﹁明日も﹂と約束して帰った。
翌目だったと思う。頼まれた弁当をその病室へ
持っていくと、半聞きになったドアから、ただ布
団が敷かれたベッドが置いてある光景が日に入っ
た。呼吸器を付けた老婆も付き添いの婦人も、そ
こにはいなかった。あの老婆は、亡くなったのだ
と直感した。病室が並ぶ病棟は、しかし、普段と
何も変わらなく、看護師たちが、相変わらず忙し
そうだった。
その時、人の生き死にとは、こんなものか、と
思ったことが忘れられないでいる。あっけなさと
かではなく、人の止しき死にが、放り出された、そ
の剥き出しな有様に、戸惑いを覚えたりだ。
﹃納棺夫日記﹄に綴られた納棺夫である著者の
言葉は、しばし頁を捲(めく)ることを忘れさせ、
私に迫った。﹁死を忌むべき悪としてとらえ、生
に絶対の価値を置く今日の不幸は、誰もが必ず死
ぬという事実の前で、絶望的な矛盾に直面するこ
とである。・:仕事柄、火葬場の人や葬儀屋や僧侶
たちと会っているうちに、彼らに致命的な問題が
あることに気づいた。死というものと常に向かい
合っていながら、死から目をそらして仕事をして
いるのである o
﹂(﹃同﹄)
弁当配達の通りすがり私が、ベッドの上で死に
直面する見ず知らずの老婆と、たった一度、目が
合った。しかし思わず私は、その合った視線をそ
らしたのである。私は、その視線の合った老婆
に、まもなく訪れるであろう死を直感し、その死
から目をそらしたのだ。
あの時までも、あの時からも、ずっと死から目
をそらして生きてきた私なのではないか。今は、
ただそう認めるしかない。そう思い切ると、急に
親驚が気になりはじめた・ ..
E小大ハ八日派教学
薗噴火谷派宗務所代表
*
栄
寿
﹁点滴の針跡が痛々しい黒ずんだ両腕のぶよぶ
よ死体が、時には喉や下腹部から管などをぶら下
げたまま、病院から運びだされる。どうみても、
生木を裂いたような不自然なイメージがつきまと
う。:・死に直面した患者にとって、冷たい機器の
中で一人ぼっちで死と対峠するようにセットされ
る。﹂(﹁納棺夫日記﹂青木新門著)
人の生き死について、今も忘れられない出来事
がある。記憶の奥に留めてきたことだが、最近
﹁納棺夫日記﹄を読んでいて、ふと思い出されて
きた。
学生時代、弁当配達のバイトをしていた。庖、玉
は、古希を過、きた老女で、屈の看板が台風で飛ば
さ れ て も 修 繕 し な い 弁 当 屋 さ ん だ っ た 。 五 O個 程
度であったか、数名の学生が手分けして、古い軽
トラで配達するのが仕事だった。
配達先に、市内最大の病院があった。客人は、
休息時間がままなら無い看護師たちである。配達
着の白の割烹着姿で﹁どうも﹂と挨拶すれば、
﹁給湯室に置いておいて﹂と、短いやり取りがす
めば、急いで次の配達場所へ移動する。
その病院へ配達に行ったある日、看護師を通じ
て 、 別 に 弁 当 つ の 注 文 が 来 た 。 翌 日 、 ナ l スセ
ンターで病室の番口すだけを教えてもらって、いつ
もと違う階の、階段に近い部屋にやってきた。
ノックをしてドアを聞けると、そこは、さなが
ら集中治療室だった。ビニールシートの膜に覆わ
れたベッドの中で、口を呼吸器で覆われた老婆
が、いくつもの生命維持装置と見受けられる医療
ooh( 川1成│七)年十一月一日発行
一
第:極郵便物認可
*
福
島
発編
行集
1
0
、
び
し
も
と
n
J
2
0
0
5
、
('
;
1成 1
7
)
1
f
ll
J
]1[
1 発行
Fly UP