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問題提起 - Researchmap
脅迫は正当化または弁明となりうるか ―Erdemović は救われるか―
若手法哲学研究会(早稲田大学)
2016 年 2 月 26 日
太田雅子
《問題提起》
戦下であれ通常時であれ、大量虐殺は許しがたい行為であり、とうてい許されるものでは
ない。
虐殺者が最初から虐殺を行うつもりで行った場合と、そのつもりも願望もまったくなかっ
たのに虐殺せざるをえなくなった場合とは、明確に区別されるべき
後者には弁明(excuse)の余地が与えられており、弁明の内容をなす諸事情が存在しなければ
彼(女)はそのような大罪を犯すことはなかっただろうという想定が成り立つ。
「 脅 迫 / 強 制 (duress)」は 、戦 下 の 大 量 虐 殺 の よ う な 非 難 が 決 定 づ け ら れ た 事 例 に お
いて正当化または弁明となりうるか?
Gideon Rosen の議論(Rosen (2014) 特に注記のない限り( )内の数字はこの文献の頁数と
する)、および Marcia Baron(Baron (2014))の応答を中心に倫理的に可能なアプローチの可能
性を探る
(河合(2003))法的アプローチと倫理的アプローチの比較も行う
様々な害を及ぼす行為は非難の対象になりうるが、状況や背景の説明が付け加えられる
ことにより行為の評価や非難が緩和されることがある。
その行為が強制されたものであり、自らの意思によるものではなかったという事実は、情
状酌量の要件となりうる。
だが、それによって引き起こされた結果が大量虐殺のような大惨事であった場合には、た
とえその行為がやむをえなかったとする弁明 (excuse)を可能にする事実が開示されたとし
ても、その説明を正当化と見なすのは極めて困難である。
「Erdemović は軍隊に所属し、1200 人もの大量虐殺に加わった」という事実だけをとって
みれば同情の余地はない
↓
「上官から虐殺行為を行わなければ自分や家族の生命が危険に晒されると言い渡され、自
分と家族の命を守るために大量虐殺命令に従った結果、多くの人命を奪うことになった」
という事実が判明すれば、彼の行為に対する評価は変わりうる。
Dražen Erdemović の来歴
詳しい裁判記録については旧ユーゴスラヴィア国際刑事裁判所(ICTY)の以下のサイト
(http://www.icty.org/case/erdemovic/4)を参照。
○事件当時 23 歳のクロアチア系ボスニア人の電気技師であり、事件当時は妻と 9 ヶ月にな
る子供がいた。
○戦闘行為に関心はなかったが、家族を養うために一旦はボスニア軍隊に入隊するも、虐
待される恐れのある囚人たちを逃したかどで解雇されている。
○Erdemović は電気技師であったがその技能を活かせる仕事に就くのは困難
スラブ人が大半を占めるボスニア・セルブ軍に入隊し、非戦闘部署を希望し知的部門に配
属された。
○にもかかわらず、1995 年 7 月ブランイエボ収容所へ派遣され、そこでバスで連行されて
くる文民たちを殺害するように命じられる。
○Erdemović はいったんは抵抗したものの、上官に「彼らに同情するなら、お前も彼らと
同じ目に遭うだろう」と脅され、やはり家族と自分の命を守るために虐殺に加担する。
Erdemović は当初「人道に反する罪」で告訴されたが、そのときの抗弁では自分が殺害命
令に逆らえなかったことを明らかにしている。
私はそうしなければならなかった。私が断ると彼ら(上官たち)はこう言いま
した。
「 彼 ら( 文 民 た ち )を 哀 れ に 思 う な ら 自 分 も 一 緒 に 並 べ 。そ う す れ ば お 前
も殺してやる」と。私は自分のことは哀れみませんでしたが家族のことは、妻
と生後 9 ヶ月の息子のことは可哀想に思いました。私は彼らが私を殺すと言っ
た か ら 断 れ な か っ た の で す 。(( 73) , 河 合 ( 2003) 187. カ ッ コ 内 補 足 は 筆 者 )
Erdemović は殺人罪で告訴され、第一審原審判決では人道に反する罪で禁錮 10 年、差戻審
では戦争法規違反罪で禁錮 5 年の求刑となった。
《考察の注意点》
○正当化や弁明の対象は Erdemović の行為であって人柄ではない。
Erdemović は過去に囚人を逃がして軍を解雇された経験があり、今回の虐殺行為を行うと
は思えない温和な人格であることは予想できるが、そのことにより行為の評価が影響され
ることがあってはならない。
○ 残虐行為の帰結(1200 人もの文民が殺害された)のみをもってして行為の評価を行わ
「いかなる理由があろうとも殺人は許されないことであり、それを擁護するなどもっての
ほかだ」という意見が聞かれることがある
→無辜の市民の大量虐殺が許されないことは既定事項。
→文民たちに個人として民族的な怒りを抱き、皆殺しにしようとして虐殺に及んだのと、
本人の希望なく脅迫によって虐殺を余儀なくされた場合に同様の非難や量刑が可能である
とは思われない。
○脅迫は自身の生命または生活が脅かされることと引き換えに行為を強制するものであり、
行為選択の是非や責任の有無などにきわめて強い影響をおよぼすものである。脅迫が行為
の正当化あるいは弁明となりうるかどうかは行為自体の評価にとっても重要である。
(とはいえ、なぜ脅迫に屈したかを追及するにあたり、Erdemović の来歴自体を看過する
ことはできない。上官に上記のような脅迫を受けた時彼は 23 歳の非戦闘部門所属で、上官
に抗えるだけの地位も身分もなかった。加えて、幼い子どもがおり家族を養う必要があっ
たということも命令に従わざるを得なかった事情に若干は関与していると思われる。もし
自分の身ひとつであり、無辜の市民を殺すくらいなら自分が死んでも構わないと思ってい
れば虐殺に加担しないですんだかもしれない。裁判記録を見ても、Erdemović の生い立ち
や性格、家族構成から総合的な考慮がなされたようである。)
《考察》
Erdemović の行為は「正当化」できるか
帰結主義:
「たとえ Erdemović が命令に従わなかったとしても多くの人命が失われたことは
変わりないが故に彼に責任はない」
義務論:「無実の人間の殺害が絶対に許されないのだから Erdemović は悪い」
→いずれも単純すぎる。
Erdemović の行為が強い意味でパレート最適 (pareto optimal)であることに着目
パレート:X が A を行うことが許されるのは、X が A を行ったことの道徳的に妥当な
側面において、X が自身に開かれている他の選択肢を取った場合よりも変わらず、少
なくとも一人の人が良い状態になるときである
(「少なくとも一人の人」というのは Erdemović のこと)
しかし、命令に従わなかったことの結果が Erdemović の降格か軽いお仕置き程度だったと
しても虐殺に加わったことが許されるという奇妙なことになる。
パレート原則を強化(strongly optimal)
上記に加え「当該の行為によって食い止められ害(確保された利益)が、それの引き起こ
した害よりも顕著な道徳的重要性をもつ場合」という条件を追加
「Erdemović が自分が多くの収監者たちと一緒に並んで撃たれることにより何人かの命を
救うことができた」という改訂版を考えると…
改訂版 Erdemović 事例は強化版パレートに当てはまらない
(何人かの収監者は混乱の中を逃げ出すだろうし、仲間の兵士たちは Erdeovic の行為に反
乱を起こす)Erdemović の行為は最適ではなくパレート原則は当てはまらない。
改訂版 Erdemović 事例は、行為者または彼が気遣う者たちの生命への脅威が抗弁になりう
るかの問題をより鮮明にする
《blameworthiness が成り立つための ill-will 条件》
自分の行為によって相手がどのような害を被るかに関して目をそむけている場合、
「なぜ相
手のことを考えないのか」という非難が有効
(ただし無知であった場合は非難が無効)
Rosen の例
A の駐車スペースに B の車が止まっている場合
「他人がいつも使っている駐車スペースを勝手に使う」のは間違った行為なので、A の B
に対する非難は正当
ただし、B がその駐車スペースをフリーだと思っていた場合、非難は不当
A の B に対する非難が正当なのは、B の行為が誤りであることに加えて、他者に対する
ill-will (不十分な善意/配慮)を表しているから
不十分な善意/配慮は意識的でも無意識的にもなされうる
ill-will 条件(insufficient good will/concern)
A が X の側の不十分な善意が現れた誤った行為であると(X によって影響を被る人が)
考えるならば、A をしたかどで X が責められる(81、カッコ内補足筆者)
Rosen は Erdemović の事例(オリジナル)がこの条件に当てはまらないと考える。
○Erdemović が置かれた状況ではバス襲撃を食い止める手段はなかった。そしてこのこと
は、Erdemović の相手に対する考慮が十分になされたことを必ずしも排除しない。
○Erdemović は上官によって提示された自分と家族の身の危険について考えなければなら
ず、それによって相手に対する配慮が不十分にさせられたのであれば、厳密には ill-will 条
件が当てはまらない事例となる。
これには次のような反論が…
道徳的良識をもつ人、すなわち他の人を常に気遣い、その行為が常に十分な道徳的配
慮が現れている人は、他者の権利や利害を気遣い、人を殺すのが誤りであるときには
それを行わない。無知で能力のない人ならそのような行動が弁明されるかもしれない。
しかし、自分の行っていることがわかっており、人並みの大人の自制力のある人が、
自分自身を救うために誤りだとわかっていることを行うとき、それは端的にその人の
他者への配慮が不十分だということになる。(83)
↑「道徳的必要性に基づく価値を十分気遣う人は誰もが常に自らが行うべきことをしよう
とする」という自明の理
真に良識があるならば道徳的規範にも従うことができるはずであり、それに従えなかった
Erdemović はこの自明の理に照らせば弁明の余地はないことになる。
Rosen によれば上の主張を否定する
「基本的良識(basic decency)」と「十分な道徳的良識(full moral decency)」
基 本 的 良 識 :人間の権利や利害、その他の重要な価値を十分に気遣う人がもつ(そして、
それらの気遣いは規範によって律せられる)。
道 徳 的 良 識 :どれだけの個人的コストを負うことになろうとも、人が人間の権利や利害、
その他の重要な価値を道徳からの要請に従うよう動機づけられている
Erdemović に課された道徳的要請は「無辜の人民を救うべき」というものであるが、それ
は同時に彼自身の生命を犠牲にすることをも意味する。
自らの生命を犠牲にするために、それに内在する価値を十分に気遣う必要なしに道徳が「自
分の命を犠牲にせよ」と要求することになるかもしれないが、その場合には道徳的要求が
過剰である
もし道徳的要請が過剰であれば、自分についての気遣いより道徳からの要請を優先する必
要はない。
それでは「基本的良識」の持ち主が遵守すべき規範はどのような内容をもつのか。
「十分な気遣い(sufficient care/concern)」→「何が」十分なのか
Rosen は非難にかんする Scanlon の説明を導入する。
Scanlon によれば、
「X が A を行ったことが非難されるのは、X の行為の「意味」に照らし
て X との関係を格下げ(downgrade)するときである」。
「格下げ」とは?
例えば私が友人に悪質なジョークを言われて傷つき、それに非難の意を表明するとすれば、
直接面と向かって非難する前に言葉を交わす回数を減らしたりなるべく会わないですむよ
うな方法をとるだろう
面識のない人間についていかに格下げが生じるのか?
その人の成功を願う気持ち
「信頼してみようかな」という期待
その人が目指すところを自分の行動範囲に勘案したりしてみようか など
これらの善意や心の広さは分量としてはごくわずかだが、格下げ可能な要素である
Scanlon の主張を Rosen の考察に読み込む
基本的良識の中心概念である「十分な気遣い」は、人々の社会性をなす人間関係の格下げ
を抑える目的でなされている
他方、「道徳的良識」は端的に道徳が求めることをすることのみを意味する。
すなわち、
「 道 徳 へ の 気 遣 い は し な い が 、デ フ ォ ル ト の 道 徳 的 関 係 か ら の 後 退 が 許 さ
れ て い な い 他 者 へ の 気 遣 い は 行 う 」ような事例において、基本的良識と道徳的良識は結
びつかない。
Erdemović は「無辜の人民を助ける」という道徳的配慮は欠いたかもしれないが、人間関
係の格下げを招くような配慮の不十分さは見られなかった。
よって、Erdemović の行為は道徳的には許されないが弁明の余地はあることになる。
《Baron の批判》
①ill-will 条件
手術に集中するあまり酸素チューブが外れていたのを見逃し、患者を死なせた外科医
Adomaco の例との比較
患者のことは十分に気遣っていたので ill-will 条件は当てはまらないが、医療過誤の責任は
問われる
→過失(Adomaco)と故意(Erdemović)は分けて考えなければならない
Erdemović があえて犠牲者を省みることを断念したのに対し、Adomaco は酸素チューブの
ことが頭にまったくなかったのかもしれない。
だとしたらそれは気遣いの不十分ではなく気遣いの欠如である(もしかしたら外れていた
かもしれない可能性に気づいていたとしたら ill-will 条件が当てはまるが、Adomaco 自身の
コンディションによる)
②「正当化」の意味付けの違い
正当化:行為が道徳的に許容可能な背景を持っていることを示す
弁明:「たとえその行為が許されないものであっても行為者を免責させる働きをもつ」
※この点は Baron も同意
しかし双方の間に相違が生じるのは、Rosen が誤った自己防衛による殺人は弁明されるに
とどまると考えるのに対し、Baron はその行為を正当化されうると考える点である。
Rosen が正当化の起点を真理に置き、
「実際に何が起こったか」の事実認識の観点で正当化
を位置づけているのに対し、Baron は正当化の対象が行為者の信念間の整合性および合理
性であると考える
※道案内を頼まれて、たとえ目的地の地名を間違えたとしても、
「その地名だと思ったから」
という理由説明は正当化になりうる
→正当化をめぐる行為の評価における「真理」対「合理性・整合性」という対比図式は、
真理を素朴実在論的に捉えており、行為の評価に当てはめるには単純すぎる。
何かを合理的とみなし行為に至ったかにおいて、たとえ行為者自身が正当化されるとして
も、その行為を本当に行為者が行ったか否かの真偽を問うことはできる。
Baron は正当化されるのは行為を導く信念の合理性および整合性であると主張しているが、
それらはまさしく何が行われたかに関する真理を形成しうるのであり、行為の評価におけ
る「真理」と「合理性・整合性」は本来対立しえない。
③正当化の対象は行為ではなく人である
→人物とする命題と、その人物による行為とする命題における「正当化される」の文法に
は相違があり、この相違のもとでの正当化の対象の対比が適切であるかどうかは疑問であ
る。
発表者からの疑問
道徳性 morality で何が意味されているかが明確でないので(明確にするには膨大な議論が
必要かもしれないが)
「基本的良識」と「道徳的良識」の区別がはっきりせず「道徳的配慮
を欠いても人への配慮はする事例」のイメージが浮かばない
人への気遣いや配慮を行うこと自体が道徳的に決まるのではないか?
(Rosen は「規範に従うこと」と「道徳的であること」を別個のものとして捉えている?)
《裁判における争点》
上官命令が脅迫にあたるかどうかに焦点が当てられる
「上官命令から生じる脅迫及び緊急避難に基づく免責事由は、規定されていないけれども、
その適用条件は特に厳格である。それは、上宮命令があったと言うだけではなく、まず、
それが明らかにされなければならないが、その命令がどのように与えられ、どのように受
けられたかを明らかにする状況も」考慮しなければならない
そしてその状況において、
「被告人は不服従の義務を有していなかったかどうか、服従しな
い又はしないでおこうとする道徳的選択の余地を有していたかどうかを審理することが課
せられている」(河合(2003), 188-9)
○ 第一審審判部(原審)
「命令が脅迫であったかどうかで刑は軽減されない」
しかし
① 上官命令の抗弁が階級の低い者には困難である事情は考慮されるべき
② 上官命令の抗弁が脅迫への抗弁との問題に照らして審理されなければならない
○ 差戻審
脅迫は免責事由ではなく軽減事由として考慮
犯罪が行われた際に、脅迫があったこと、被告人が緊急状態にあり、上官の命令に従
わなければ、殺されていたであろうという真の危険性があったこと、さらに殺すか殺
されるかであり、道徳的選択の余地がなかったことを認めた(河合(2003), 195)
《法律と倫理学 アプローチの違い》
裁判が「上官命令が脅迫であるかどうか」の追及から始まるのに対し、Rosen らは「脅迫
/強制」が弁明・抗弁となりうるにはどのような条件が必要かに関心がある
緊急避難的性格を勘案している点では共通
《参考文献》
Baron, M. (2014), “Culpability, Excuse, and the ‘Ill Will’ Condition,” Proceedings of the
Aristotelian Society, Supp. Vol. 88, 91-107.
International Criminal Tribunal for the Formere Yugosulavia web site :
http://www.icty.org/case/erdemovic/4
Rosen, G. (2014), “Culpability and Duress: A Case Study,” Proceedings of the Aristotelian Society,
Supp. Vol. 88, 69-90.
河合英次 (2003), 「エルデモヴィッチ事件 ―上官命令および脅迫の抗弁を中心に―」、
『法
学ジャーナル』、184−208。
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