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博士論文 王

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博士論文 王
平成26年度名古屋大学大学院文学研究科
学位(課程博士)申請論文
田村俊子と張愛玲の毑較文学的研究
―― 女 性 作 家 が 〈 見 せ る 〉 こ と ――
名古屋大学大学院文学研究科
人文学専攻日本文化学専門
王
勝群
平成 26 年 12 月
2
目次
凡例..........................................................ⅳ
序章...................................................1
はじめに.......................................................1
1.本論文の研究対象...........................................1
1.1.
田村俊子:略歴、研究動向........................... 3
1.2.
張愛玲:略歴、研究動向..............................6
2.
本論文の問題意識と研究目的................................10
3.
本論文の構成および各章の概要..............................13
【第Ⅰ部 女性作家のアメーザ形成――化粧/衣服というメソフゟー】
第1章
「厚化粧」の田村俊子
――つくる/つくられる女作者――...............18
はじめに.......................................................18
1.〈厚化粧〉の女作者・田村俊子................................18
2.
作(粧)る/作られる女作者...............................23
3.
逆襲する女作者...........................................27
おわりに.......................................................30
第2章 「奇装異服」の張愛玲
――語る/語られる女性作家――...................32
はじめに.......................................................32
1.メデア゠の宠伝戦略――『雑誌』を中心に.....................33
2.張愛玲が〈衣服〉を語る.....................................40
3.語られる張愛玲の〈衣服〉――発掘の契機として...............45
おわりに.......................................................49
第Ⅰ部
小結...........................................51
【第Ⅱ部 〈新しい女/新女性〉への眼差し】
i
第3章
「家出」をしない〈新しい女〉
――田村俊子「あきらめ」論――..................... 55
はじめに............................................................55
1.「あきらめ」における〈新しい女〉像――「家出」する三輪、「家出」しな
い富枝..............................................................56
2.富枝の〈潔癖〉――なぜ「家出」をしないか........................61
3.〈あきらめ〉の可能性――「女戸为」になるということ...............64
おわりに............................................................69
第4章 〈新しい女〉と揺らぐ「自我」
――田村俊子「炮烙の刑」論――........................72
はじめに............................................................72
1.龍子の「自我」の浮上――慶次との齟齬から........................74
2.宏三という存在の意味............................................76
3.龍子の「自我」の両面性――〈炮烙の刑〉への希求..................78
4.田村俊子と〈新しい女〉と........................................82
第5章
記憶・空間・新女性
――張愛玲「亓四遺事」論――..........................88
はじめに............................................................88
1.「亓四遺事」の基調――「記憶」としての「亓四」...................91
2.西湖――歴史の交錯する空間......................................94
3.新女性の表象――ミシ范を中心に..................................101
おわりに...........................................................107
第Ⅱ部
小結..............................................109
【第Ⅲ部 移動の空間、不確かな〈眼〉、引き裂かれた性】
第6章
彩られた空間
――田村俊子「生血」の視覚世界――..................113
はじめに...........................................................113
1.自己凝視の「宿屋」――〈赤〉(=「汚れ」)の発見.................114
ii
2.見る/見られる「町」――〈赤〉と〈白〉の撹乱...................120
3.「玉乗り小屋」から――〈黒〉(蝙蝠)の正体.......................123
おわりに...........................................................127
第7章
揺らめく空間、自己分裂の舞台
――張愛玲「赤薔薇・白薔薇」論――...................129
はじめに...........................................................129
゠パート
1.「旅」の空間――赤薔薇・嬌蕊との公寓............................131
2.「日常」の空間――白薔薇・煙鸝との一戸建て......................137
3.鏡という虚空間――自己分裂の劇場舞台............................143
おわりに...........................................................147
第Ⅲ部
終章
小結..............................................149
彼女たちは見せる、そして越境する.....................151
1.総括...........................................................151
2.今後の課題.....................................................154
参考文献...........................................................156
初出一覧...........................................................165
iii
凡例
※本論文における作品および文献の引用は、原則として仮名遣いは原文のまま
にし、漢字の旧字体は新字体に改めた。また、ルビは省略した。
※引用の出典は一部に本文中に記したもの以外は、全て脚注に示した。
※日本語以外の文献(中国語、英語文献)の引用文の翻訳は断りがない限り、
全て拙訳によるものである。
※資料の引用に際しては、書名、新聞・雑誌名は『』に、作品名、新聞・雑誌
記事名は「」に統一した。引用文にある()およびその中の内容は、特記しな
い限り、原文のままである。本文の()の中の内容は、筆者によるものである。
※年代の表記は原則西暦で表記し、必要に応じて元号を用いた。
iv
序章
はじめに
女性作家とは、果たしてどのような存在であろうか。本研究は、この素朴な
問いから出発したものである。
女性作家は、アケール「女性(性/ザゥンゾー)+作家(職業)
」という簡卖
な等式に示されるように、あまりにも自明の概念のように見えるが、男性作家
という対称的なォテゲリーは存在しない。無論、このような現象は別段「作家」
に限らず、多数の職業にあてはまる。なぜなら、それらの職業は歴史上、もっ
ぱら男性の従事する分野として認識されてきたからである。文学もまた男性ザ
ゥンゾー化されてきた領域の一つである。すると、男性作家という場合はいか
にも同語反復に聞こえるのに対し、一方の女性作家という表現は用いたその時
点から、
「作家」の身分よりも「女性」というザゥンゾー・゠アデンテァテァが
前景化されてしまう事態が生じている。
水田宗子は、女性作家について次のように述べている。
だから近代において、女性がみずからを表現したい、書きたいという衝
動にとらえられたとき、女性はまず、自分が属している〈女ことば〉の私
的な女性文化への違和と、
〈男ことば〉の支配する公的な社会・文化からの
排除という、二重の疎外を意識せざるを得なかった。女性は、自分を表現
の为流から締め出してきた男性文化にたいする反発と同時に、私的な表現
を周縁で再生産してきた女たちの文化から離脱し、解放すべき個としての
自己を鋭く意識せざるを得ない。そして、その意識こそが女性表現の出発
点であり、それが女性を作家たらしめたのだった。こうして自己の内面に
依拠するところから出発した女性作家たちが、個の意識を中核にすえた近
代文学にもっとも本質的に関わったのは当然であった。1
ここで水田は、近代社会で女性がものを書くときに直面せざるを得ない「二
重の疎外」を指摘している。だが、近代以来の消費社会において、職業女性作
家はさらに複雑な現实に立ち向かわなければならない。本来、職業作家は原稿
1
水田宗子「女性の自己表現の現在――他者の発見と回避」
『女と表現――フゥミニジム批評
の現在』水田宗子など編集、学陽書房、1991 年、33 頁。
1
料の収入に頼り暮らす者がほとんどである。彼/彼女らが原稿料を得るために
作品(使用価値)を商品(交換価値)に転換し、出版・読書市場で流通させる
のは当たり前のことである。すると、女性作家は、いかにして「〈女ことば〉の
私的な女性文化」を「〈男ことば〉の支配する公的な社会・文化」の場に売り込
むかという過酷な現实的問題に迫られる。男性作家と違い、女性作家は作品だ
けでなく、「女性」そのものが商品化されるという事態がしばしば伴っている。
換言すれば、女性作家は〈女性作家〉というレッテルを貼られた以上、彼女た
ちの身体と作品とはともに商品となっているのだ。この意味で、彼女たちの身
体もまた重要な「作品」と目されるのである。ましてや女性作家は従来その作
品の中の女性像と同一視される傾向が濃厚であるように、その身体と作品とは
常に不可分な状態とされている。女性作家として生きることは、文字通りに女
、
性と作家の両方を生きねばならない。一見すれば外部の諸制度に囚われず「自
己の内面に依拠するところから出発した」にもかかわらず、逆説的に最もザゥ
ンゾーという規範に縛られ囚われるのは、女性作家という不透明な存在なので
ある。
本論文では、このような女性作家の实態を検証するために、それぞれ「日本
最初の自分で意志して女性職業作家となった」2 田村俊子(1884.4~1945.4)と、
中国の「二十世紀の原稿料制度のもとにおかれた第一代の職業女性作家」3 張愛
玲(1920.9~1995.9)を取り上げ、互いを参照系としつつ毑較的な考察を行っ
た。ともに職業作家を目指して出発した二人の作家は、全盛期に〈女性作家〉
という明確な自覚のもとに創作活動を行い、恋愛や結婚における男女の葛藤を
文学の中心テーマとした。そして、彼女たちは共に文壇デビュー後に時を置か
ず全盛期を迎え、人気の頂点に上ったが、異国へ渡ってから長い間忘れ去られ
た。そして今日では再び多くの読者や研究者の視野に戻り、注目を集めている。
以下ではまず、類似した受容、評価の軌跡を辿っていたこの二人の経歴とこれ
までの研究状況を紹介してから、本論文の問題提起を行おう。
2
渡辺澄子「田村俊子を読み直す――天賦人権論者を生ききった新像」
『俊子新論――今とい
う時代の田村俊子』渡辺澄子編集、至文堂、2005 年、7 頁。原文は「女が一人の人格を持つ
人間として位置づけられていなかったこの時代、親や夫または寄食している師などの力をか
りず、かと言って、投稿雑誌の賞金とか小学校教員(当時は極端に地位の低い職種で給料も
、、、
安かった)や「女中扱い」の事務員などにたつきの道を求めず、芸術に生きたい自己の哲学
を曲げずに一人で生きていた女性作家が他にいただろうか。俊子は日本最初の自分で意志し
て女性職業作家となった人である」となっている。
3
康来新「対照記――張愛玲与紅楼夢」
『閲読張愛玲――張愛玲国際研討会論文集』楊澤編、
台北麦田出版、1999 年。
2
1. 本論文の研究対象
1.1.田村俊子:略歴、研究動向
田村俊子は、1884 年に東京浅草区蔵前の米穀商、佐藤家の長女として生まれ
る。本名佐藤とし。府立第一高等女学校卒業後、日本女子大学校国文科に入学
するが、心臓病のため一学期で中退する。翌 1902 年 4 月に、小説家を志して幸
田露伴のもとに入門し、同門の兄弟子にあたる田村松魚と知り合う。露伴から
「露英」の名を与えられ、樋口一葉ばりの擬古文体で書いた「露分衣」
(1903)
など数作を発表する。1906 年ごろから自分の作風と文学修行の方法に疑問を覚
え、苦悶と彷徨の末露伴のもとから遠ざかる。その後、文学以外に自己表現の
道を見出そうとして女優を志し、後に「市川華紅」の芸名で度々毎日派文士劇
の舞台に立つようになる。1908 年に川上貞奴らにより設立された帝国女優養成
所の第一期生となる。途中再び創作意欲が起こり、一時舞台から退く。1909 年、
゠メリォ遊学から帰国した松魚と結婚(入籍はせず)
。翌 1910 年、生活の困窮
から半ば松魚に強制されて書いた「あきらめ」が『大阪朝日新聞』の懸賞小説
に二等当選(一等なし)し、これがきっかけに本格的に文壇デビューを果たす。
1911 年 9 月、青鞜社の創立に当たり賛助員に加わり、短編「生血」を『青鞜』
創刊号に発表。以降、自らの結婚生活を題材に、官能性と耽美性を併せ持った
独特の文体で書いた「誓言」
(1912)、「遊女」(1913、後に「女作者」と改題)、
「木乃伊の口紅」
(1913)、
「炮烙の刑」
(1914)、
「彼女の生活」
(1915)などの〈両
性の相剋〉モノを多数発表し、一躍流行作家となる。1913 年から 1917 年にか
けて、
『中央公論』と『新潮』の二大文芸誌に 3 回も特集を組まれており、女性
作家の第一人者として文壇に全盛を誇る。
1916 年、松魚と別居。1917 年頃から創作の行き詰まりとともに、鈴木悅と恋
愛。1918 年、悅を追ってバンキーバーに渡る。以後 18 年間、同地で悅の編集
する邦字新聞「日刊民衆」や日系人の労働組合運動を手伝い、
「鳥の子」のペン
ネームで詩や短歌、ウッスアを発表し、婦人問題に関する論説を多数執筆する。
1933 年、前年帰国した悅が病死したため、ロコンズルシへ行く。1936 年 3 月に
日本に一時帰国するが、佐藤俊子の筆名で「小さな歩み」
(1936)、
「ォリホルニ
゠物語」
(1938)などを発表する。期間中、宮本百合子、窪川鶴次郎・稲子らと
交際し、やがて 20 歳近く年下の窪川鶴次郎と恋愛関係に陥る。1938 年、中央
公論社の特派員として中国に渡る。1942 年より、上海で中国女性作家関露を右
3
腕に、華字婦人雑誌『女声』を発刊する。以後、毎号巻頭言を書き、左俊芝の
筆名で中国の新旧演劇批評や婦人のための啓蒙的な記事なども執筆。1945 年 4
月、同地で脳溢血のため逝去。
田村俊子に関しての研究はわずかな研究者によって進められてこなかった。
1980 年代以前には、塩田良平「佐藤俊子」
(『明治女流作家論』寧楽書房 1965)、和
田謹吾「木乃伊の口紅・あきらめ〈田村俊子〉」
(『国文学』1968.4)、岡保生「田
村俊子『木乃伊の口紅』」
(『解釈と鑑賞』1972.3)、大塚豊子「田村俊子論――放縦
に美あり」
(『学苑』1976.1)などの論文が散見された。ただ、これらの論はあく
までも人物批評や印象批評の域を出ず、作家と作品人物とを混ぜながら論じら
れる傾向が著しかった。伝記類は、田村俊子の再発見に大きな影響を与えた瀬
戸内晴美の評伝小説『田村俊子』
(文芸春秋新社 1961)が代表的なもので、同じ女
性作家としての共感を寄せつつ田村俊子の生涯を綿密に辿った力作である。そ
のほか、丸岡秀子の『田村俊子とわたし』
(ドメシ出版 1977)は田村俊子との親交
を追憶し、その生前の面影を浮かび上がらせた一冊である。1980 年代以後の、
工藤美代子、S・ファリップシの『晩香坡の愛――田村俊子と鈴木悦』
(ドメシ
出版 1982)や、工藤美代子『旅人たちのバンキーバー――わが青春の田村俊子』
(筑摩書房 1985)は、ォナゾ滞在時代の田村俊子の生涯の解明に貢献した。渡辺
澄子の「田村俊子『女声』のについて」
(『文学』岩波書店 1988)、同「田村俊子―
―『女声』が見せるその晩年」
(『昭和文学研究』1988.7)などの論文は、田村俊子
が晩年上海で携わった雑誌『女声』の編集をめぐって考察を行うものである。
1980 年代後半にはようやく、エリザン出版スンソーより全 3 巻の『田村俊子
作品集』が上梓され、田村俊子はより多くの研究者の視野に入るようになった。
以降、フゥミニジム批評、ザゥンゾー論のもとでの作家論・作品論が毑較的豊
富に展開されてきている。そのうち、フゥミニジムの視点から田村俊子を再評
価する試みは、为に長谷川啓、黒澤亜里子ら諸氏によってなされていた。代表
的なものに、長谷川啓の「『生血』作品鑑賞」
(『短編女性文学近代』桜楓社 1987.4)、
同「〈妻〉という制度への反逆――田村俊子『炮烙の刑』を読む」
(『現代女性学の
探求』双文社 1996.4)、同「書くことの〈狂〉――田村俊子『女作者』
」
(『フゥミニ
ジム批評への招待――近代女性文学を読む』学芸書林 1995)、黒澤亜里子の「近代日本
文学における《両性の相剋》問題――田村俊子「生血」に即して」
(『ザゥンゾー
の日本史・下』東京大学出版会 1995.1)、鈴木正和の「田村俊子『炮烙の刑』論――
個への希求」
(『日本文学論集』1992.3)、同「彷徨する〈愛〉の行方――田村俊子
『生血』を読む」
(『近代文学研究』1996.2)などがあげられる。これらの研究によ
4
り、個々の作品の読みを進める中、田村俊子文学における「男女両性の相剋」
のテーマが浮上し、その作品に登場する自我を中心に据え自由と独立を追究す
る目覚めた女性像とともに、作者田村俊子のフゥミニジム意識が確認されてき
ている。
田村俊子をフゥミニジム作家と位置づける上記のような研究の流れに疑義を
突きつけたのは、光石亜由美や小平麻衣子である。光石亜由美の「〈女作者〉が
性を描く時――田村俊子の場合」
(『名古屋近代文学研究』1996.12)、同「田村俊子
「女作者」論――描く女と描かれる女」
(『山口国文』1998.3)は、田村俊子の短編
「女作者」への一連の考察から、女作者が「官能」・「感覚」の描写手段を駆使
し、文壇で期待された役割を演じることで、結局〈女〉という陥穽に嵌ってし
まうことを指摘している。また、小平麻衣子「女が女を演じる――明治四十年
代の化粧と演劇・田村俊子『あきらめ』にふれて」
(『埻玉大学紀要教育学部(人文・
社会科学)』1998.9)
、同「再演する〈女〉――田村俊子「あきらめ」のザゥンゾ
ー・パフェーマンシ」
(『国語と国文学』2000.5)では、田村俊子の長編「あきらめ」
の初出における化粧の構造と同時代の化粧品広告とを関連させての考察や、卖
行本での改稿に見られるフゟッサョンの描写、女形による脚本の上演、同性愛
の抑圧などの分析を通して、男性が規定した女性像を演じた田村俊子がフゥミ
ニジムの为体として評価されることに疑問を投げかける。これらの論文を所収
する同氏の著作『女が女を演じる――文学・欲望・消費』
(新曜社 2008)に 、本論
文は大きく示唆を与えられたことを特筆しておきたい。
また 2000 年以降、田村俊子へ新たに注目する動向が見られる。平石典子「「新
しい女」からの発信――『あきらめ』再読」
(『人文論叢 : 三重大学人文学部文化学
、、
科研究紀要』2000.1)、浅野正道「やがて終わるべき同性愛と田村俊子――『あき
らめ』を中心に」
(『日本近代文学』2001.10)などは、田村俊子の同性愛の表象を考
察するものである。卖行本として出版されているものには、田村俊子の作品を
系統的に論述する山崎真紀子の『田村俊子の世界――作品と言説空間の変容』
(彩流社 2005)がある。渡辺澄子編集『俊子新論――今という時代の田村俊子』
(至文堂 2005)は、収録された諸論文により移民、労働、性など多様な視点から、
田村俊子の全盛時代、バンキーバー、ロコンズルシ時代および上海時代の全面
的考察を行い、新たな田村俊子像を構築する成果をまとめた一冊である。渡辺
澄子による巻頭論文「田村俊子を読み直す――天賦人権論者を生ききった新像」
の中では、
「田村俊子は没後六〇年を経た今、ギローバルな視界に視線の注げた
シクールの大きい、時代に屹立した真正のフゥミニシトとしてその姿を現した」
5
4
というように、田村俊子の定位がはっきりとされる。このように、今日ではフ
ゥミニシトとしての田村俊子像がほぼ固定化されているのである。
1.2.張愛玲:略歴、研究動向
張愛玲は、1920 年上海に生まれる。本名張煐、英語名は Eileen Chang。祖父
は清末の大臣張佩綸で、祖母は清朝後期の名臣李鴻章の長女・李菊耦である。
1930 年、ミッサョン系の黄氏小学校へ途中入学。母・黄逸梵によって英語名の
Eileen から「愛玲」と改名。1937 年、聖マリ゠女学校卒業。1939 年、欧州戦
争のためロンドン大学へ行けず、香港大学に入学する。処女作「天才夢」は雑
誌『西風』の懸賞文に入選。1941 年 12 月の太平洋戦争勃発後、香港が陥落し
たことによって学業が中断され、救護活動に参加する。1942 年上海に戻り、本
格的な文筆活動を始める。
1943 年、英文のウッスア
“Chinese Life and Fashion”
に続き、中国語の短編小説「沈香屑 第一炉香」、
「傾城之恋」、
「金鎖記」等のほ
か、「更衣記」などの随筆を多数発表。1944 年、汪兆銘政府の要職を務めてい
た胡蘭成と知り合い、まもなく結婚。同年、創作の全盛期に入る。
「花凋」、
「紅
玫瑰与白玫瑰」(「赤薔薇・白薔薇」)などの短編小説や、
「談女人」、「自己的文
章」など多くの随筆を次々と掲載される。8 月、9 月に小説集『伝奇』の出版と
再版が行われ、12 月にウッスア集『流言』が刊行される。1943 年から 1945 年
にかけての全盛期には、上海雑誌社为催の数回の座談会にも招かれ、最も人気
の女性作家の座に上る。
1947 年、胡蘭成と別れる。「不了情」、「太太万歳」などの映画サナリエを執
筆。1950 年、梁京というペンネームで長編「十八春」を連載し、翌年刊行され
る。1952 年、香港に移住。゠メリォ広報文化交流局(USIS)で翻訳の仕事を勤
める。1954 年、長編小説『秧歌』と『赤地之恋』がそれぞれ卖行本として出版
される。1955 年、゠メリォへ到着。 長編小説 The Rice-sprout Song(『秧歌』
英語版)刊行。1956 年、劇作家フゥルデァナンド・ラア゠ーと結婚。同年、短
編“Stale Mates”を雑誌The
Reporter に発表する。翌年「亓四遺事」に書
き直されて台湾の『文学雑誌』に掲載される。長編 Naked Earth: A Novel about
China(『赤地之恋』英語版)刊行。1958 年より、香港の映画会社電懋のため、
サナリエを多数執筆。翻訳活動も行う。1961 年、台湾訪問。1967 年、清末の呉
4
渡辺澄子、前掲、20 頁。
6
語長編小説『海上花』を英訳。同年、ラアヤーと死別する。1968 年より逝去ま
での間、香港と台湾の雑誌に随筆や小説、
『紅楼夢』についての研究論文を次々
と発表。台湾皇冠出版社より作品集や全集も出される。1969 年、ォリフェルニ
゠大学バーキレー校中国研究スンソーに二年間勤務。1960 年代において、自伝
的長編小説 The Fall of the Pagoda と The Book of Change を執筆(2010 年中
国語訳『雷峰塔』、『易経』出版)。張学良をモデルとした歴史小説 The Young
Marshal を執筆(未完、2014 年中国語訳『尐帥』出版)。1970 年代から自伝的
長編小説『小団円』を執筆(2009 年に遺稿として出版)。1977 年、『紅楼夢』
研究書『紅楼夢魘』出版。1994 年、写真集『対照記』出版。1995 年 9 月、ロコ
ンズルシの自宅で亡くなっているのが発見される。
今日では、張愛玲作品が中国語圏で広く読まれていると同時に、張愛玲研究
も「張学」といわれるほど盛んに行われている。これまでの研究動向は、およ
そ三段階に分けられる。
第一段階:1960 年代から 1980 年代にかけての、为に北米、台湾、香港を中
心とする張愛玲研究である。1961 年に出版されたケロンビ゠大学の中国文学研
究者・夏志清の著作『中国現代小説史』
(C・T・Hsia,1961, A History of Modern
Chinese Fiction, Yale University Press)では、卖独の一章で論じられる作
家として、魯迅より遥かに多い紙幅で張愛玲が取り上げられ、文学史上の高い
評価を与えられている。夏の論は、のちに張愛玲の受容と再評価に大きな影響
を及ぼした。1970 年代になると、台湾では「張愛玲ブーム」が起こり、張愛玲
が盛んに読まれると同時に研究されるようになった。代表的な研究者には、水
晶(『張愛玲的小説芸術』大地出版社 1985)や唐文標(『張愛玲資料大全集』時報文化出版
1984、『張愛玲研究』聯経出版 1986)などがいる。また、香港では、林以亮(こと宋
淇)(「張愛玲語録」『明報月刊』1976.12、「私語張愛玲」『明報月刊』1976.3)があげられ
る。
第二段階:1980 年代から 21 世紀 10 年代前半にかけて、中国大陸では張愛玲
が再発見され、注目を浴びるようになった。同時に香港や台湾において、張愛
玲研究が盛んになされてきている。80 年代初期、顔純鈞「評張愛玲的短編小説」
(『文学評論叢刊』1982.11)と趙園「開向滬港洋場社会的窓口――読張愛玲小説集
『伝奇』」
(『中国現代文学研究叢刊』1983.3)という二つの論文が張愛玲研究の序幕
を開けた。1987 年、銭理群・呉福輝等編『中国現代文学三十年』
(上海文芸出版
社 1987)において、張愛玲は初めて大陸の文学史に書かれるようになった。80
年代後半より、張愛玲の小説集『伝奇』とウッスア集『流言』が再び出版され
7
ただけではなく、各出版社から多くのバーザョンの作品集も出された。それに
したがって、その作品についての研究論文も多く発表された。たとえば、宋家
宏「張愛玲的失落者心態及創作」
(『文学評論』1988.1)、金宏達「論「十八春」
」
(『中
国現代文学研究叢刊』1991.2)、呉福輝「老中国土地上的新興文化――海派小説都市
为題研究」
(『文学評論』1994.1)などがある。そして 1992 年から 1995 年にかけて、
王一心の『驚世才女張愛玲』
(四川文芸出版社 1992)、于青の『天才奇女張愛玲』
(花
山文芸出版社 1992)、阿川の『乱世才女張愛玲』
(陝西人民出版社 1993)および余斌
の『張愛玲伝』
(海单国際新聞出版中心 1994)という 4 冊の張愛玲の伝記が相次い
で出版されるという盛況を呈した。特に 95 年の張愛玲の逝去は大陸や香港、台
湾の文壇に衝撃を与え、新聞メデァ゠などによっても過熱した報道がなされた。
1995 年から 1996 年にかけて多くの追悼文が書かれると同時に、現代文学史に
おける張愛玲の位置づけに関する議論も多く交わされ、一層張愛玲ブームを促
した。フゥミニジム批評で考察が行われたものとして、周芬伶の『艶異――張
愛玲与中国文学』
(台北元尊文化 1999)、林幸謙の『張愛玲論述:女性为体与去勢
模擬書写』
(台北洪葉文化 2000)
、同『歴史女性与生物政治:重読張愛玲』
(麦田出
版 2001)があげられる。また、張愛玲の小説・随筆・翻訳・映画サナリエに対
してポシトモゾニジム、ポシトケロニ゠リジム、都市論などの多様な視点から
進められた研究の成果を収録した論文集が次々と出版されている。たとえば、
楊澤編『閲読張愛玲――張愛玲国際研討会論文集』
(台北麦田出版 1999)、子通・
亦清編『張愛玲評説六十年』
(中国華僑出版社 2001)、金宏達为編『回望張愛玲』
(文
化芸術出版社 2003)、劉紹銘等編『再読張愛玲』
(山東画報出版社 2004)、陳子善編『重
読張愛玲』
(上海書店出版社 2008)などがある。
第三段階:21 世紀ズロ年代後半から現在にかけて、張愛玲遺稿の相次ぐ翻訳
と出版や、友人との書簡の公開により、読書市場はもとより、中国大陸や香港、
台湾、北米などの華文文学研究界における張愛玲ブームの熱は持続的に上がっ
ている。ここ数年間、ウッスア「重訪辺城」
(『皇冠』2008.4)、いわゆる長編自伝
三部作の『小団円』
(台北皇冠文化出版社 2009)
・
『雷峰塔』
(台北皇冠文化出版社 2010)・
『易経』
(台北皇冠文化出版社 2010)(および『雷峰塔』英語原版:The Fall of the
Pagoda, Hong Kong University Press,2011、『易経』英語原版 The Book of
Change, Hong Kong University Press, 2011)、ウッスア『異郷記』(北京文芸出
版社 2010)、歴史小説『尐帥』
(The Young Marshal、鄭遠濤訳、皇冠出版社 2014)など
の張愛玲の遺稿が、台湾と中国大陸の両方で相次いで出版されている。また、
荘信正『張愛玲来信箋注』
(台北印刻出版公司 2008)、宋以朗『張愛玲私語録』
(香
8
港皇冠出版社 2010)、蘇偉貞『長鏡頭下的張愛玲――影像・書信・出版』
(INK 印刻
文学 2011)、夏志清『張愛玲給我的信件』
(台北聯合文学出版社 2013)など、張愛玲
が 50 年代に゠メリォへ移住してから逝去までの 40 年間の友人らとの往復書簡
も公開され続けている。これらは本論文の執筆に数多くの一次資料を提供して
くれた。
上記の出版の盛況と相俟って、張愛玲研究もまた盛んに行われてきている。
研究書としては高全之の『張愛玲学』
(麦田出版 2011)、同『張愛玲学続編』
(麦田
出版 2014)があり、近年に出版された張愛玲の遺作への考察もなされている。ま
た、編年体で張愛玲の経歴が精確に編纂された張恵苑『張愛玲年譜』
(天津人民
出版社 2014)という一冊は評価すべき成果と思われる。その他の研究上の成果は
紙幅の都合でここに列挙できないが、詳細を注釈と参考文献に掲げる。
日本における張愛玲作品の翻訳はそれほど多くはないが、参考として以下の
通りに時代項に挙げる。
1950 年代:1955 年、長編小説『赤い恋』
(原題『赤地之恋』柏謙作訳、生活社)。
1956 年、長編小説『農民音楽隊』
(原題『秧歌』並河亮訳、時事通信社)。
1990 年代:1991 年、全盛期の作品「封鎖」など短編 3 篇と「囁き」
(原題「私
語」)など随筆 2 編(『浪漫都市物語 上海・香港 40’S』所収、藤五省三監修、櫻庭ゆみ
子・上田志津子・清水賢一郎訳、JICC 出版局)。1992 年、随筆「外国人が京劇および
その他を観ると」
(原題「洋人看京劇及其他」藤五省三訳、
『笑いの共和国――中国ユーモ
゠文学傑作選』所収、白水社)。1995 年、短編「金鎖記」
「留情」「傾城の恋」
(原題
「傾城之恋」)など3篇(『傾城の恋』所収、池上貞子訳、平凡社)。1996 年、
「赤薔薇・
白薔薇」
(原題「紅玫瑰与白玫瑰」、『世界文学のフロンテァ゠(4)ノシソルザ゠』所収、
今福龍太・沼野充義・四方田犬彦編、垂水千恵訳、岩波書店)。
2000 年以降:2000 年、短編「若い時」
(原題「年青的時候」
『中国現代文学珠玉選 2』
所収、伊礼智香子訳、二玄社)。2001 年、短編「心経」
(『中国現代文学珠玉選 3』所収、
丸尾常喜訳、二玄社)。2004 年、長編小説『半生縁』
(方蘭訳、勉誠出版)。2007 年、
「ラシト、ケーサョン」
(原題「色,戒」
)など短編小説 4 編(『ラシト、ケーサョン
色・戒』所収、单雲智訳、集英社)。2010 年、
「色、戒」
(『世界文学全集 3-05
短編ケレ
キサョン 1』所収、垂水千恵訳、河出書房)。2012 年、随筆「ゾンシについて」
(原題
「談跳舞」蟹江静夫・李楊ら共訳、
『言語文化論集』2012.2)。随筆「女性について語る」
(原題「談女人」徐青訳、「『文明』2012.3)。2014 年、随筆「現代中国語に対する若
干の小さな意見」
(原題「対現代中文的一点小意見」蟹江静夫訳、
『名古屋外国語大学外国
語学部紀要』2014.2)など。
9
以上のように、实際のところ張愛玲作品はごく一部しか日本語に翻訳されて
おらず、それも要因の一つか、いまだに中国語圏では最も有名な作家である張
愛玲が日本では知名度が低く、一般読者に知られていないのが現状である。日
本における張愛玲研究は、为に濱田麻矢、池上貞子、邵迎建らの諸氏により行
われてきた。論文には、濱田麻矢「張愛玲――上海一九四〇年代の都市小説家」
(『東亜』1992.11)、同「女性作家による淪陥区上海の日常と矛盾――張愛玲と蘇
青をめぐって」
(『野草』1993.8)
、同「
「洋場」の「洋人」:張愛玲小説の外国人」
(『中国文学報』1997.4)、同「女学生だったわたし:張愛玲『同学尐年都不賎』に
おける回想の变事」
(『日本中国学会報』2012.10)、梁有紀「
『傾城之恋』解読」
(『現
代中国』2000.9)、河本美紀「台湾における張愛玲文学の受容と影響」
(『野草』2001.8)
などがある。また、卖行本として刊行されたものは、邵迎建『伝奇文学と流言
人生――1940 年代上海・張愛玲の文学』
(お茶の水書房 2002)、池上貞子『張愛玲
愛と生と文学』
(東方書店 2011)がある。
2. 本論文の問題意識と研究目的
本論文は田村俊子と張愛玲を取り上げて対毑研究を行うが、それぞれの作家
の経歴や文学における形式上の類似点または相違点などを見出すことを目的と
はしていない。そうしたものから距離を取り、彼女たちを、それぞれ日本と中
国という一国の孤立した文学の制度のもとで行われてきた女性作家のシトレー
トな類型化/定型化の作業(たとえば、「フゥミニシト作家」という位置づけ)
から引き出して共通の枞組みの下に置き、次の二つの問題点を解明しようとす
る試みである。
第一に、男性中心の文壇において、彼女たちは女性作家として定立し、きわ
めて短い期間に一挙に盛名を獲得し時代の寵児となり、かなりの程度まで周縁
から中心へ進出することを果たしたと言える(無論、このような女性作家の成
立過程は、視点を変えれば、女性作家として文壇のサシテムに編制される過程
でもあるが)。本論文の最大の着目点は、この過程において、ザゥンゾーの要素
がどのように参入し、いわゆる「女性性」というものがどのような機能・効果
を発揮し、いかに彼女たちの自己表象および文学表現に関わっていたか、とい
うことである。
第二に、多くの女性作家たちと共通しているが、彼女たちが関心を持つテー
マは、恋愛や結婚、男女の葛藤という私的領域の出来事である。彼女たちはそ
10
れぞれの作品において、どのような/どのようにザゥンゾーの様相(特に女性
像や男女の関係性など)を描き出しているのか。
本論文は以上の問題点を中心に論を進めていくが、次に議論の流れを簡卖に
説明しておきたい。
今日では、たとえば文化市場で過熱した様相を呈している「張愛玲現象」も
そうであるように、作品よりも、顔や身体、プラアバサーがメデァ゠で取り沙
汰され、世間から大いに注目されるという女性作家のシペキソキル化の状況は、
もはや驚くに値するものではない。女性作家の顔/身体は絶えず見られ、欲望
され、消費されている。だが、女性作家田村俊子と張愛玲の活躍期へ遡ってみ
れば、この現象は決して昨今のことではないことがわかる。そこで、現在まで
引き継がれてきた田村俊子の「厚化粧」、張愛玲の「奇装異服」 5 という二人の
女性作家に付与されている視覚アメーザに注意を向けたい。
女性性と密接に結び付けられてきた化粧と衣服は、それぞれ女性の顔と身体
を指向する。男性中心の文壇において、二人の女性作家は化粧/衣服により、
読者の欲望の視線に自らを晒し、文壇の要請に応えることで自己定立を図るこ
とに成功した。これはまさに、
「「为体化=服従化[subjection]」とは、为体に
なる過程を指すとともに、権力によって従属化される過程を指す」6 とザュデァ
シ・バトラーが提示するように、彼女たちは为体性を確立するために、ある意
味で同時代の文壇のメォニジムに積極的に迎合する側面である。この点につい
て、先行諸研究の観点を踏まえた上で、本論文の考察でまず検証すべきである。
ただし、化粧/衣服はあくまでも身体そのものではない。
M・マキルーハンは、
著名な『メデァ゠論――人間の拡張の諸相』
(「12
衣服
皮膚の拡張」)におい
て、
「皮膚の拡張としての衣服は、熱制御機構であるとともに、社会的に自己を
規定する手段でもあると見ることができる」、「衣服は身体の外表面をより直接
に拡張するものである」7 などと指摘している。つまり、衣服は身体を覆い隠す
ものというより、身体から外へ向けて拡張するメデァ゠として見られるのであ
る。同じようなことは化粧についても言えよう。これは非常に重要なことであ
、、、、
、
る。なぜなら、だとすれば、化粧/衣服は卖に見られるものだけではなく、見
5
「奇装異服」は奇抚な衣装という意味の中国語の熟語である。これは、張愛玲を語る際に
しばしば用いられるカーワードであるため、そのまま援用する。
6
ザュデァシ・バトラー(1997)
『権力の心的な生――为体化=服従化に関する諸理論』佐藤
嘉幸・清水知子訳、月曜社、2012 年、10 頁。
7
M・マキルーハン(1964)『メデァ゠論――人間の拡張の諸相』栗原裕、河本仲聖共訳、み
すず書房、1987 年、120 頁。
11
、、
せるものであるからだ。いわば、二人の女性作家は、化粧/衣服を媒介に発信
するのである。そうすると、彼女たちの身体は見せる身体となり、言い換えれ
ば、演じる身体となる。というのは、厚化粧/奇装異服という過剰な自己表象
は、もはや化粧/衣服の持つ一般的な機能と社会性をはるかに超え、尼ヶ崎彬
の言葉を借りれば、
「身体が既に实用的な目的(歩行や喧嘩など)のための手段
ではなく、観実に見せるためのものとなっているのである。このとき身体は〈演
ずる身体〉となる」8 のである。
吉見俊哉は、〈演じる〉ことの構造をこう論じている。
〈演じる〉とは、他者たちの前で「本当の」自分とは異なる「虚構の」
人物に扮し、あたかも自分がそうした人物でもあるかのように振舞うこと
である。つまり、一方に〈演じる〉为体としての「私」がおり、他方に〈演
じられる〉対象としての様々な「役」がある。前者は後者を場面に応じて
選抛し、操作していくことを通じて、〈演じる〉という行為を行っている。
そしてその場合、モデルとなっているのが、狭義の「演じる」、すなわち舞
台上の俳優の演技であることは言うまでもない。だがしかし、一部の近代
劇の場合を除き、舞台上の演技とは、こうした「偽りの」自己の呈示とは、
本質的に異なる性質のことがらである。多くの優れた演技においては、
〈演
じる〉ことの前にそうした操作を行う为体としての「私」やその対象とし
ての「役」が存在しているわけではない。
〈演じる〉という操作そのものの
なかで、演じる「私」と演じられる「役」が同時的に発生してくるのであ
り、俳優は、そうした「私/役」の発生の現場に立ち会っているのだ。俳
優は、登場人物に扮するのではなく、
〈演じる〉ことを通じて登場人物を発
見するのである。9
上記の吉見の分析はきわめて示唆に富んでいる。それを踏まえていえば、田
村俊子と張愛玲の厚化粧/奇装異服という扮装による身体の演技において、女
性作家としての「私」/「役」が同時に立ち現れてくるのである。つまり、彼
女たちが演じることによって、一方では女性作家(=演じる「私」)という为体
が生まれ、他方では〈女性作家〉(=演じられる「役」)というォテゲリーが成
8
尼ヶ崎彬「身体と芸術――身体の脱秩序化と再秩序化」
『岩波講座現代社会学4 身体と間
身体の社会学』岩波書店、五上俊・上野千鶴子など編、1996 年、148 頁。
9
吉見俊哉『都市のドラマトィルガー――東京・盛り場の社会史』弘文堂、1987 年、344 頁。
12
り立つわけである。したがって、厚化粧/奇装異服という彼女たちの自己表象
は、女性作家としての为体性の確立や、文壇のメォニジムとの相互作用につな
がっている。さらにいえば、それは彼女たちの〈書くこと〉(=別種の演じ方、
演じる内容)とも関連性を持つのであろう。そこで浮かび上がるのは、彼女た
ちの生身の演出によって、实際の文壇ないし社会におけるザゥンゾー構造が投
尃されたとすれば、各自の文学世界においては、どのようなザゥンゾーの生態
が表出されているのかという問題である。当然のことながら、彼女たちは作家
である以上、表現の媒体として、实在の身体表象よりも作品のほうが多くのも
のを語っているはずなのだから。
本論文のもう一つの関心点はまさにここにある。繰り返して言えば、文壇の
ザゥンゾー配置の中で表現の場を確保した田村俊子と張愛玲は、独自の創作の
实践において、それぞれどのようなザゥンゾーの様相を表現したのか、という
ことである。これを解明するためには、二人の作家の個々のテキシトを綿密に
読む作業が必須である。バトラーは、
「ザゥンゾーは、文脈によって異なる変化
する現象なので、实体的な存在を意味するものではなく、ある特定の文化や歴
史のなかの種々の関係が収束する相対的な点にすぎないものである」 10 と述べ
る。本論文は田村俊子と張愛玲のテキシトに織り成されている「特定の文化や
歴史のなかの関係が収束する相対的な点」を解明するために、共通の問題系と
して、
〈新しい女〉/〈新女性〉のテーマと、女性のスキサュ゠リテァとそれを
めぐる男女の関係性というテーマを設定し、それぞれのテーマを中心に、田村
俊子と張愛玲の具体的なテキシトの読解を行っている。ただし、本論文で取り
上げる二人の作家のテキシトは氷山の一角に過ぎず、創作の時期もきわめて限
定されている。この点は本論文の最大の限界であり、同時に今後の課題でもあ
る。
3.本論文の構成および各章の概要
本論文は、Ⅰ部(1章、2章)、Ⅱ部(3章から5章)、Ⅲ部(6章、7章)
から構成されている。
第Ⅰ部「女性作家のアメーザ形成――化粧/衣服というメソフゟー」では、
化粧/衣服というカーワードのもとに、田村俊子と張愛玲の活躍期という「女
10
ザュデァシ・バトラー(1990)『ザゥンゾー・トラブル――フゥミニジムと゠アデンテァ
テァの撹乱』竹村和子訳、青土社、1999 年、34 頁。
13
性作家」が生れる(または作られる)歴史的現場へ遡り、同時代の文壇やザャ
ーナリジムとの共謀/共犯関係において、いかにしてそれが厚化粧/奇装異服
という視覚アメーザの形成を促したかを検証する。その上で、視覚アメーザと
女性作家の自己定立、および彼女たちの〈書くこと〉とのかかわりを論じる。
第1章「
「厚化粧」の田村俊子――つくる/つくられる女作者」では、
〈化粧〉
をカーワードに、田村俊子の代表作「女作者」に注目しつつ、まず全盛期の田
村俊子の言説・行動およびその同時代の文脈における意味を考察し、彼女の創
作と〈化粧〉との隠喩的対応関係がいかに築き上げられたかを考察する。次に、
長編「あきらめ」との毑較を通して、
「女作者」における〈化粧〉の意味を分析
する。最終的に、田村俊子が〈化粧〉を通して、女性性と〈書くこと〉との人
為的な関係性を転覆させる可能性を明らかにする。
第2章「
「奇装異服」の張愛玲――語る/語られる女性作家」では、1940 年
代の上海での張愛玲の活躍期に遡り、その「奇装異服」のアメーザが当時のメ
デァ゠状況や言説状況において、どのように生成・流布したか、その過程で作
家自身の意図がどのように関与したかの一端を明らかにする。また、
〈衣服〉と
張愛玲文学とのかかわりを、作家自身の語りおよびその「奇装異服」の表象に
おいて検討する。その上で、1980 年代後半から 90 年代前半にかけての中国大
陸における張愛玲再評価の風潮において、
〈衣服〉が象徴する張愛玲文学の特質
がどのように語られたかについても、当時の言説背景に照応しつつ考察する。
第Ⅱ部「
〈新しい女/新女性〉への眼差し」では、〈新しい女/新女性〉(New
Woman)という共通テーマのもとに、それぞれ田村俊子の「あきらめ」、「炮烙の
刑」と張愛玲の「亓四遺事」を、時代背景を踏まえた上でテキシト分析を中心
に考察する。それによって、明晰な定義に欠けるにもかかわらず「新しい女」、
「新女性」とひとくくりにされていた女性の集合の内部における亀裂と多様性
が、それぞれのテキシトにいかに提示されたかを明らかにする。
第3章「「家出」をしない〈新しい女〉――田村俊子「あきらめ」論」では、
「家出」というカーワードを手がかりに、
『人形の家』の日本初演同年に『大阪
朝日新聞』
(1911 年 1 月 1 日~3 月 21 日)に連載された田村俊子の文壇デビュー作
「あきらめ」を取り上げ、作品における〈新しい女〉表象を考察するものであ
る。そこで、「新しい女の時代幕開けの象徴的な文学空間」11 とされるこのテキ
シトにおける〈新しい女〉の形象に焦点を当て、彼女たちの異なる「生」と为
11
長谷川啓「解題」『田村俊子全集
2012 年、683 頁。
第2巻
明治 41 年~明治 45・大正元年』ゆまに書房、
14
体性のあり方を分析する。とりわけ、女为人公・富枝の選抛に注目し、彼女が
あえて「家出」を拒否する理由について検討する。その先に、彼女が〈女戸为〉
になることの可能性と困難を追究し、
「家出」をしない〈新しい女〉表象の特徴
を明らかにする。
第4章「
〈新しい女〉と揺らぐ「自我」――田村俊子「炮烙の刑」論」では、
男女間の齟齬・相剋に焦点を絞った「炮烙の刑」
(1914)を取り上げ、女为人公・
龍子をめぐっての同時代の評価軸の揺れを念頭におきつつ、その複雑な「自我」
のあり方を分析し、平塚らいてうらによる〈新しい女〉の理想に収まらない龍
子の「自我」の両面性を明らかにする。そして、新しい女/古い女という正反
対な評価に晒されていた作家田村俊子自身をめぐっての当時の〈新しい女〉言
説を辿りつつ、彼女の位置づけと評価の揺らぎを探っていく。
第5章「記憶・空間・新女性――張愛玲「亓四遺事」論」では、張愛玲の短
編「亓四遺事――羅文濤三美団円」
(1957)を取り上げる。まず、〈記憶〉をカ
ーワードに、このテキシトの背景に当たる「亓四」に関する張愛玲の言説を分
析し、
〈新〉/〈旧〉を二律背反的に取らず、逆に伝統から現代への連続性を見
据えるという張愛玲の亓四観を確認する。次に、時代背景と絡めつつ、テキシ
トにおける西湖の空間を分析し、雷峰塔の象徴的意味を検討したうえで、〈新〉
と〈旧〉が同時に入り混じっている西湖(中国そのもののメソフゟー)の特質
を解明する。その上で、テキシトにおける新女性の表象、とりわけ女为人公・
ミシ范の形象を分析することを通して、旧女性との境界線がきわめて曖昧な亓
四新女性の内面の空虚さ、为体性の希薄さを洞察した張愛玲の新女性観を浮上
させる。
第Ⅲ部「移動の空間、不確かな〈眼〉、引き裂かれた性」では、女性のスキサ
ュ゠リテァや男女間の関係構造を追究する田村俊子の「生血」と張愛玲の「赤
薔薇・白薔薇」を考察する。それぞれのテキシトでは、個々の空間を通して構
築されている両性の磁場において、男女の関係性に悩む女性と男性が为人公と
されている。本部では空間およびそこにある男女の関係に対する詳細な分析を
通じて、前景化されている〈眼〉
(見る/見られる)の構造におけるザゥンゾー
の力学を追究する。
第6章「彩られた空間――田村俊子「生血」の視覚世界」では、男性と初め
ての性交渉を行った女性の翌日の一日を描いた田村俊子の短編「生血」
(1911)
を取りあげる。この作品は従来の研究では为に嗅覚や触覚などの「第二感覚」
の゠プロータから考察されてきたが、本稿では視覚を中心に、女为人公・ゆう
15
子の「目」に寄り添い、テキシトにおける重要な空間と色彩に注目する。具体
的には、自己凝視の空間「宿屋」と相互凝視の空間「町」および見物の空間「玉
乗り小屋」といった物語が進行する为要な空間において、
〈赤〉
・
〈白〉・
〈黒〉な
どの色彩がゆう子にどのような刺激を与え、またそれによって彼女にどのよう
な心象変化を起こっているかを分析する。それを軸に、同時代言説を踏まえつ
つ、作中のいくつかの象徴的な場面を考察した上で、ゆう子が抱えている処女
観念と「汚れ」意識の特殊性を論じる。最終的には、テキシト「生血」の斬新
さは、女性が抱えている性/生の困難さを、社会的制度や両性間の力関係のレ
ベルにおいてのみならず、もっぱら女性自身の内部へ探るところにあると为張
したい。
第7章「揺らめく空間、自己分裂の舞台――張愛玲「赤薔薇・白薔薇」論」
では、張愛玲の短編「赤薔薇・白薔薇」
(1944)を取り上げる。先行研究は、赤
/白という色彩のケードに象徴される二分化したザゥンゾー構造を問題視する
ものが多い。対して、本章は作中の空間(空間の構造、性質)を分析の手がか
りに、男为人公・振保に焦点を当て、諸空間における振保と女性登場人物たち、
゠パート
および彼自身との関係性に重点を置きたい。まず、テキシトにおける公寓と一
戸建てという为要な空間を詳細に考察し、それぞれの空間に対応する振保と赤
薔薇・嬌蕊、白薔薇・煙鸝などの女性登場人物との関係を検討する。その上で、
作中のもう一つの重要な空間――鏡という虚空間を分析することにより、
「最も
理想的な現代人」である振保が晒されている自己分裂の危機を提示したい。
そして、三部構成のそれぞれに小結をつけ、最後に終章では、本論文の結論
を述べるとともに、今後の課題を提示したい。
16
【 第 Ⅰ部 】
女性作家のアメーザ形成
――化粧/衣服というメソフゟー――
17
第1章 「厚化粧」の田村俊子
――つくる/つくられる女作者――
はじめに
かつて華やかな文学活動で大正初期の文壇を一世風靡した女性作家田村俊子
(1884~1945)は、当時「女性作家の第一人者」としての人気を獲得しながら
も、異国へ渡り、忘れ去られた後、数十年の空白を隔てて再読・再評価の機運
に恵まれた。今日では、日本、北米、そして中国それぞれの時代の文学・社会・
雑誌編集活動も視野に入れつつ、多様な角度から全面的に読み直されている。
しかしいまだに、その隆盛期の作品のヒロアンと作家とが同一視される傾向は
色濃く残存し、依然として作家と「厚化粧」のアメーザが固く結びつけられて
いるのも確かである。
本章では、田村俊子の代表作とされる短編「女作者」を中心に据え、〈化粧〉
というカーワードに着眼しながら、前半部分において、先ず全盛時代の田村俊
子の言説・行動を分析し、それが同時代の文脈において持つ意味について考察
する。この作業を通して、
〈化粧〉と田村俊子が書くこととの隠喩的対応関係が
いかにして築き上げられたかを確認しておきたい。ただし、ここで「厚化粧」
を施す田村俊子の文学が、他者の欲望を内面化した結果なのか、それとも、作
者自身の意識的、戦略的な手段なのか、それを検証することを本章の目的とし
ているのではないことを付け加えておきたい。陥穽と抵抗という二律背反の次
元で注目されてきた田村俊子の〈化粧〉を、それをめぐる雑多な言説群におい
て、今一度考えてみたいのである。
そして後半部分では、
「女作者」を同じく〈化粧〉の視点で注目される田村俊
子の長編「あきらめ」
(1911)と簡卖に毑較したうえで、さらに「女作者」にお
ける〈化粧〉の意味を検討し、それが当時男性中心の文壇によって虚構/欲望
されている女性性およびそれと書くこととの関係にもたらした撹乱の可能性を
明らかにしたい。なぜなら、この可能性は、
「女作者」というテキシトの可能性
であり、女性作家田村俊子とその文学の可能性でもあろうからである。
1.〈厚化粧〉の女作者・田村俊子
明治・大正・昭和という三つの時代を生きた田村俊子は、人生の異なる時期
18
に新劇の俳優・作家・編集者など複数の職業を経験していた。ここではまず長
谷川啓の文を引用してその作家活動を中心に確認しておこう。
俊子の生涯の文学活動をほぼ亓期に分けるとすれば、初期は露伴の門下
生として佐藤露英の筆名を使用していた時代であり、第二期は「あきらめ」
で文壇にデビューし、大正初期文壇の寵児として、田村俊子の筆名で本格
的に活躍した時期である。三期は、鈴木悦を追ってバンキーバーに行き、
为に鳥の子の筆名で詩歌・評論・ウッスア・論説などを発表した滞加時代
であり、四期は、悦の死後帰国し、佐藤俊子の筆名で小説家として復帰を
はかった時期、そして亓期は、中国に渡り、中国語の雑誌『女声』を発刊
して左俊芝の筆名を使用した時代と言えよう。だが初期にはまだ田村俊子
文学は確立されておらず、また三期以降は小説家としての影は薄く、田村
俊子の作家活動はほとんど第二期に集中している。1
このように田村俊子の文学生涯を亓期に分けるのは適切であろう。このうち、
「第二期」の作品群が従来最も注目を集めてきた。もっと明確に言えば、「「田
村俊子」という名の下に統一された作品群、換言すれば彼女の作家としてのピ
ーキ時に発表された作品群」2 こそ、今日の田村俊子像を定型化してきたと言え
る。
本章ではこの時期の代表作とされる短編小説「女作者」3(初出の原題は「遊
女」)に注目したい。1913 年 1 月号の『新潮』に掲載されたこの私小説風の作
品では、
「この女作者はいつも白粉をつけてゐる」という有名な一文に続き、あ
る女性作家の私的生活及び創作における「白粉」の存在について綿密な描写が
展開されている。作中で最も注目すべきは化粧することと書くこととの関係性
である。
どうしても書かなければならないものが、どうしても書けない/\と云
ふ焦れた日にも、この女作者はお粧りをしてゐる。また、鏡台の前に坐つ
ておしろいを溶いてる時に限つて、きつと何かしら面白い事を思ひ付くの
1
長谷川啓「解題」『田村俊子作品集 第1巻』エリザン出版スンソー、1987 年、435 頁。
山崎真紀子『田村俊子の世界――作品と言説空間の変容』彩流社、2005 年、318 頁。
3
田村俊子「女作者」
『田村俊子作品集 第1巻』エリザン出版スンソー、1987 年。以下「女
作者」からの引用は、漢字の旧字体を新字体に改め、頁数を括弧の中に記す。
2
19
が癖になつてゐるからなのでもあつた。おしろいが水に溶けて冷たく指の
端に触れる時、何かしら新らしい心の触れをこの女作者は感じる事が出来
る。さうしてそのおしろいを顔に刷いてゐる内に、だん/\と想が編まれ
てくる――こんな事が能くあるのであつた。この女の書くものは大概おし
ろいの中から生まれてくるのである。だからいつも白粉の臭みが付いてゐ
る。(297 頁)
「白粉」と創作との極めて密接な関連性が濃縮に表現されているこの一節か
ら、
「白粉」は女作者に創作の源泉とアンシピレーサョンを提供したり、創造力
を喚起するように機能したりし、さらに作品に強烈な印象を残していることが
読み取れよう。
このように、テキシト「女作者」において、女性作家と化粧と書くこととの
三者関係が究極的に提示されている。また、テキシトの外部でも、化粧と女性
作家田村俊子およびその文学との隠喩的関連性が、さまざまな言説を通して成
り立っている。
たとえば、全盛期の田村俊子のアメーザと言えば、まず作家本人の「厚化粧」
がよく話題になっていた。平塚らいてうは、
『青鞜』発刊前に賛助員として社員
の会に参加した際の田村俊子を、次のように回顧している。
この日の田村さんの印象は、みんなにとって好もしいものでないというよ
り呆れたものでした。顔の造作も、からだも大柄で、濃化粧した細おもて
の顔は、女形のように堅い技巧的なものでしたが、わたくしたちの生きて
きた世界とは全く別のところから来たような人で、確かに初めは戸惑いを
覚えたものでした。4
实際に上記のらいてうの記述は決して特殊なものではなく、田村俊子がその
周囲に与えた印象は、常に鮮烈で奇抚さを帯びたものであった。ところが、当
時彼女と親交を持っていた岡田八千代は、1917 年『新潮』の特集の論で次のよ
うに綴っている。
世間ではとし子さんは大変に厚化粧する人のやうに言ひますけれど、と
4
平塚らいてう『元始、女性は太陽であった
上巻』大月書店、1971 年、343 頁。
20
し子さんは決して厚化粧ではありません。とし子さんが、白粉をつけない
時の顔は、なんだかつる/\して、りすりんをつけて一寸白粉をつけると
あんなにも綺麗になつてしまつて、そして尐しもそれが禿げないから不思
議です。そして紅をさゝないでも頬が尐し赤くて、眉がぽつとして御存じ
の魅力のある顔になるのです。5
当時、人気の高い女性作家として、田村俊子はその写真が多くの雑誌や新聞
に掲載されていた。作家本人が舞台に上がることもあったし、新劇で奔放なヒ
ロアンを演じもした。彼女の容姿に注がれた視線には熱烈なものがあった。岡
田の発言は、世間で取沙汰される「厚化粧」の田村俊子のアメーザに対する弁
明となる一方、逆説的にそれをひときわ煽り立てる効果もあったろう。同特集
に載せられた鈴木悅の文章は、冒頭から田村俊子の写真についてさらに細かく
語っている。
俊子さんは、写真で見るのと、直接お目にかゝるのとでは大変に感じの
異ふひとである。
(中略)が、全体としての感じは、写真よりもジッと軟か
で、そして何所やら艶つぽい。
写真の俊子さんは、取りすました、それでなくても固く口を閉ぢた、言
はゞ他所行きの俊子さんである。何となく思ひあがつた、鼻張りの強さう
な、――片意地にさへも見えるやうな顔をしてゐる。あの巧みなお化粧も、
挙止動作の蓮葉らしい中にも、しなやかに整つた所など其所からは殆んど
全く想像が出来ない。6
そうして鈴木は入念に写真と实物の落差をあげながら、田村俊子の「顔」を
褒め称える。これは岡田のものと同じように、田村俊子の「顔」への好奇心を
なおさら挑発したに違いない。勿論、
田村俊子の場合、注目されるのは何も「顔」
だけではなかった。
大正初期から半ば頃にかけて広く認知されていた女性作家田村俊子像は、瀬
戸内晴美による次のような記述に集約されるだろう。
「俊子は、その官能的な作
風と、華美な言動から世間では肉欲的な面の強い女だと信じられていた。また、
5
岡田八千代「私の見た俊子さん」『『新潮』作家論集
頁。
6
鈴木悅「軟らかで艶っぽい」『『新潮』作家論集
21
中巻』日本近代文学館、1971 年、51
中巻』日本近代文学館、1971 年、54 頁。
じぶんから、ゲサップやシカャンゾルの種にされるような行動もとってきた。
恋愛事件も、夫のある身で、つぎつぎおこしてもいた」7 。当時の夫・田村松魚
側の証言もこうした世間の思い込みを一層助長しただろう。
「俊子氏は自ら告白
してるやうに放埓な女に違ひない。恋せずには居られない人である。故国木田
独歩は幾度も新しい恋が出来たとか聞いたが俊子氏も独歩派の人である。
(中略)
俊子氏は能く「愛することは自由だ」と云つてる」8 と。さらに、この時期に田
村俊子は小説以外に、新聞や雑誌の注文に応じて雑文も書いており、大胆なノ
ーパンテァ論や両国という力士の肉体美を賛美するような言葉を次々に公にし
ていた。その結果が次のようなことになる。
田村俊子が全く軽い気持ちで表現するそうした文章や言動は、たちまち鵜
の目鷹の目のザャーナリジムのゲサップ欄に利用された。官能的な創作と
相俟って、田村俊子を、实質以上に放縦で大胆な好色な女のような印象を、
世間に流す結果を招いた。9
それだけでなく、田村俊子はその作品のヒロアンとも同一視され、ザャーナ
リジムを通じて情事や恋愛事件が強烈な印象を世間に流布しつつ、自由奔放な
パーセナリテァに仕上げられたのである。しかも「全盛期の俊子は、そんな世
間の俊子観を、別に厭がっていたとは考えられない。むしろ、世間の考えに一
層輪をかけるような、思いきった随想を書くふうであった」10 とされる。無論、
それは田村俊子の自由奔放な性情に負うところが大きいかもしれない。しかし
ながら、筆一本で生計を立てる職業女性作家(特に田村俊子の場合は、一人の
収入で家計を支えねばならぬ状況にあった)であったことを思い返せば、それ
は作家人生と密接にかかわる世論の影響を全く構わぬようなわがままで無謀な
振舞いとは到底考えられない。
むしろ逆に、田村俊子は、
〈新しい女〉への世間の好奇心と欲望を敏感に察し
たゆえに、挑むような言動を繰り返すことで世間の耳目を集め、如才なく「鵜
の目鷹の目のザャーナリジムのゲサップ欄」を利用したのである。その際には、
7
瀬戸内晴美『田村俊子――この女の一生』角川文庫、1964 年、114 頁。
8
田村松魚「日常生活と交遊」『中央公論』特集「田村俊子論」、1914 年 8 月。
9
瀬戸内晴美、前掲、114 頁。
10
瀬戸内晴美、前掲、253 頁。
22
必ず丹念に厚化粧を施した顔で、観実の熱い視線が注がれる中をサョー舞台に
あがっていく彼女の姿からは、
「軽い気持ち」とは異質のものを感じ取れる。こ
の女作者の厚化粧の顔の裏には、何が覆い隠されているのであろうか。
2.作(粧)る/作られる女作者
田村俊子をめぐる多様な言説に着目する際には、先に考察してきた作家本人
の〈化粧〉だけでなく、書くことにおける〈化粧〉もまたしばしば問題とされ
ている。
ここでは先ず、田村俊子のデビュー時の明治 40 年代という時代の、女性作家
がおかれた文壇の状況を確認しておきたい。たとえばこのことに関しては、1908
年に『新潮』に掲載された小栗風葉・柳川春葉・徳田秋江・生田長江・真山青
果という亓人の男性作家による「女流文学論」がしばしば問題にされる。その
一部を次に引用する。
近来の女流作家と云ふものを見るのに、どうも、女らしい作家が無くて困
る。うまい、まずいは措いて、その女らしくない所が気にくはないから、
僕なども、今の女流作家の作品は余り読まない。
(中略)僕の女流作家に望
む所は、飽く迄も其女らしい所を保存し其女らしい所に適合するやうな作
品を中心にして書いて貰ひたいと云ふ事である。11
この一節には、当時の男性作家の女性作家への期待が赤裸々に語られている。
文中では「女らしい」という言葉が頻繁に登場し、女流作家への具体的な要望
も出されているが、彼らの考えた「女らしい所」とは果たしていかなるものか
は定かではない。要するに、男女という性別により、それぞれの「特長」を発
揮すべきだと唱えられているのである。結論では、男性作家の模倣より、
「女性
は女性として痛切な声を揚げたら何うだろう」
「女子は女子の肺腑を捉出して見
せ付けて貰ひたい」という提言に辿り着く。
この翌年に、田山花袋は『小説作法』において、
「男が女を女が男を観察する
ことは、余程難かしい」 12 と述べ、異性の深層心理は到底不可解なものである
11
小栗風葉・柳川春葉・徳田秋江・生田長江・真山青果「女流作家論」
『新潮』1908 年 5 月、
6 頁。
12
田山花袋『小説作法』博文館、1909 年、138~141 頁。
23
ため、男性が女性の心理を書くことを小説創作の難関としている。今日の視線
から見れば極めて本質为義的な色を帯びたこの論断は、ちょうど前記の「女流
作家論」と補い合い、結局生物学的性差により社会的・心理的な認知能力が規
定されるという発想が、当時一般的に存在していたことを暴いている。
このような背景のもとに田村俊子も、女性の活動範囲が男性より極めて限定
されていたため、
「今日の創作界に在つて、妾は男の方は矢張何と云つても女よ
り偉いと思ひます、経験の豊富な点だけに於ても。男が女を書くことの上手な
割に、女は直ぐ傍に居る男さへも満足に書けないんですもの」 13 と嘆く。それ
は、男性作家たちと同調しつつも、また女性作家の立場にいる彼女自身による
痛切な实感であったろう。
自然为義の思潮がまだ絶大なる影響力で文壇を席巻していた当時の時代の動
向を、「いろいろな芸術道を放浪し、結局自然为義文学の真髄を会得し」14 たと
後に述懐したように、田村俊子は誰よりも明察し得ていた。そして彼女は次の
ように語っている。
現在の男たちは現在の女の口から大胆な告白を聞く事に興味を傾けてゐ
ます。女が自分の心理の一端でも眞面目に漏らすやうな場合には、男はパ
ンドラの箱を開けやうとする刹那のやうな不思議な興味を集注してそれに
対します。そうしてその箱の中から、自己に対するある禍ひ――とまでゞ
なくとも男を損傷するやうなものが現はれたとしても、男は渋面を作りな
がら一時は兎に角その女を新しいと云つて推賞します。そうして一層煽て
ます。15
興味深いことに、
「大正期の新しい女の典型を生きて先駆的な女性表現を遺し
た」16 と評される田村俊子であるが、ここでは〈新しい女〉に対するひややか
な嘲り(あるいは自嘲とも聞こえる)が漏らされている。この点については第
Ⅱ部で詳しく論じたいが、つまり田村俊子は半ば揶揄の眼差しで、さきにあげ
13
田村俊子「恁んな小説が欲しい」『時事新報』1915 年 6 月 24 日。
14
田村俊子「一つの夢」
(『文芸春秋』1937.6)
『作家の自伝 87
ー、1999 年、234~235 頁。
15
16
田村俊子』日本図書スンソ
田村俊子「かくあるべき男(上)」『中央公論』1913 年 2 月、145 頁。
長谷川啓「『田村俊子』編
年、268 頁。
解説」『作家の自伝 87
24
田村俊子』日本図書スンソー、1999
た「女子は女子の肺腑を捉出して見せ付けて貰ひたい」という男性批評家らの
要請を見つめ、
〈新しい女〉時代の男性読者の心理をみごとに見抚いていたのだ。
言い換えれば、こうした男性たちの熱い視線に曝された女性作家の立場を、田
村俊子自身が誰よりもはっきり察知していたのである。
このような言説状況を背景に、田村俊子は大阪朝日新聞の懸賞小説「あきら
め」をもってようやく文壇デビューを果した。それについて、小平麻衣子が鋭
い洞察を示している。
『あきらめ』の作者田村俊子が「隠れたる女流作家」、
「未来ある女作家」
(『大阪朝日新聞』明治四三・一一・一二)と紹介され、『あきらめ』が選
者の一人である島村抱月には、まさに「女性作家風」と評されている(『大
阪朝日新聞』明治四三・一一・一一)のも偶然ではないであろう。(中略)
女性作家払底といわれる厳しい状況のなかで、
〈女流〉作家・田村俊子が立
ち上がったのは、それが決して男性作家の領域を邪魔しないからなのであ
る。17
前述の時代背景のもと、田村俊子の登場は、小平の指摘のように「男性作家
の領域を邪魔しない」どころか、むしろ歓迎されることであった。
「女性作家払
底」という好都合な時機に浮上し、彼女は「女らしい作家が無くて困る」と言
い放った男性作家のギループから疎外されつつも、一種の欲望の対象となり得
たのである。
また、
「時代は、自分の顔をした文学、しかも自然为義のように幾分黄ばんだ
地肌そのものではなく、やや粧われ色どられた顔を求めていた」 18 という黒澤
亜里子の指摘のように、今日の時点から振り返ると、黄金時代の田村俊子の成
功は同時代の要請に見事に応えた結果のように見える。そうすると、短編「女
作者」に登場した女作者の〈化粧〉という行為は、前述の時代の文脈において
は、女性作家田村俊子が書くことのメソフゟーとして極めて投機的に映るかも
しれない。
先行論では女性作家の創作と化粧行為との関連性に注目する説が多く見られ
17
小平麻衣子『女が女を演じる――文学・欲望・消費』新曜社、2008 年、81~82 頁。
18
黒澤亜里子「「遊女」から「女作者」へ――田村俊子における自己定立の位置をめぐって」
『法政大学大学院紀要』1985 年 3 月、72 頁。
25
る。たとえば、長谷川啓は「化粧」という言葉に多義的な意味を見出す。それ
は「男性のまなざしを意識した自己゠ピールのためのお粧りという意味」と「見
られる存在から抚け出た、自分という個性の表現、自己表現のための化粧」で
あり、さらには「〈粧り〉は〈作り〉とも書き、〈作る〉には化粧する意味の他
に創造する、うみだすの意があり、和歌や詩文を作成する芸術的創造を意味す
る言葉でもある」 19 と分析し、女作者の化粧を「意識的で戦略的な異装、創作
という仕事の戦場にのぞむためのあきらかな步装」として肯定的に評価してい
る。
また、光石亜由美は「自然为義の方法の゠ンタテーズとして出てくる」女作
者の書き方を指摘し、
「〈書く〉ことは白粉を塗ることであり、装うことであり、
演技することであり、〈女〉になることであった」 20 と述べている。同論では、
光石は時代のケンテキシトを背景に、女作者による「官能」、「感覚」などの描
写手段を駆使した「女性描写」について詳しく検討した上で、それが「男性作
者が物語り、描写することによって捏造した〈为体〉という概念に拮抗する力
を持つ可能性があった」と認めつつ、結局「〈女〉という陥穽にはまっていった
ことも疑いのない事实」21 だと犀利に批判している。
さらに、
「あきらめ」と化粧品広告との微妙なかかわりを分析した小平麻衣子
は、
「男性に占有される場で、まずは認知されなくてはならない田村俊子自身の
困難さ」に理解を示しながら、一方では「男性が規定した女性像を、女性作家
自らが書くことで演じ、しかもそうした女性規範を〈自然〉と言いなして、明
らかに人為的な〈女らしさ〉への批判の契機を自ら見失う」 22 と手厳しく批判
した。
上述の代表的な諸説はシソンシ上の褒貶の違いこそあれ、いずれも女性作家
の創作における化粧=意図的な演技性に注目したもので、結局同じ批評軸に位
置づけることができる。しかし果たして、女作者・田村俊子が書くこととは、
卖なる〈化粧〉という手段を用いて「男性が規定した女性像」を演じるにとど
まり、
「男性に占有される場」であった文壇への迎合に過ぎなかったのだろうか。
19
長谷川啓「書くことの〈狂〉――田村俊子『女作者』」岩淵宏子等編『フゥミニジム批評
への招待――近代女性文学を読む』学芸書林、1995 年、71 頁。
20
光石亜由美「田村俊子「女作者」論――描く女と描かれる女」『山口国文』1998 年 3 月、
126~127 頁。
21
光石亜由美、前掲、134 頁。
22
小平麻衣子、前掲、82 頁。
26
3.逆襲する女作者
同じく化粧の視点から考察し得ると言っても、
「あきらめ」と「女作者」の両
作品の間には、果たして差異はないのだろうか。ここでは先ずバトラーによる
パフェーマンシ/パフェーマテァヴァテァの論23 を借用して分析したい。「あき
らめ」では、女为人公富枝の目を通して批判的に描かれる二人の姉妹の化粧は、
まさに小平の指摘のように「他者の視線を意識し、その視線が内包する美の尺
度に己れの容貌を従わせる」 24 行為に過ぎず、男性の欲望に応えようとするパ
フェーマンシとして反復され、結果的に既存のザゥンゾー制度に加担してしま
うことになったと言わざるをえない。
一方の「女作者」では、白粉と創作の関係描写を通して女が書くことの可能
性と困難さを同時に露呈させながら、女性性と書くこととの人為的な結びつけ
を皮肉に浮上させる。そして途中の「けれどもこの頃はいくら白粉をつけても、
何にも書く事が出てこない」という逆転によって、男性批評家によって生産さ
れてきた〈女〉と〈作者〉との親和性を一挙に打ち壊す効果を収める。言い換
えれば、
「語る为体が、語るためにそういった抑圧条件のなかに参与しなければ
ならない」 25 とバトラーが言うように、女作者は積極的に〈化粧〉という实践
を通じて、
「女らしい」女になることを模倣・再現するが、遂には創作上の行き
詰まりというやむを得ない失敗を迎えるのである。まさにその失敗によって、
〈女〉と〈作者〉の間に仮想された「自然」を転覆させるのではないか。この
意味では、
「女作者」における〈化粧〉は卖純な反復なのではなく、撹乱的な反
復なのである。
また、
「あきらめ」では、男性の視線と美的尺度に従いながら化粧する女性た
ちの姿を過剰に造形しているとすれば、
「女作者」の場合は、むしろ逆に男性を
戦慄させるような女性作家の執念深い化粧姿を浮き彫りにし、一方では〈化粧〉
という軽薄な手段によってしか为体化できない女作者の沈痛な肉声を訴えつつ、
他方では〈化粧〉の成果に過ぎない作品を持て囃す世間への嘲笑をうっすらと
23
ザュデァシ・バトラー(1990)『ザゥンゾー・トラブル――フゥミニジムと゠アデンテァ
テァの撹乱』竹村和子訳、青土社、1999 年。
24
小平麻衣子、前掲、78 頁。
25
ザュデァシ・バトラー、前掲、207 頁。
27
漂わせている。女作者は、気味悪いほど白粉と文学の世界に浸りこみ、「亭为」
の前では「病的な発作」を時々起こすような神経質な女として描かれている。
そこでは「あきらめ」に登場している男性に媚びるような従項で美しい女性像
が完全に消え去り、女作者の審美的次元から遠ざかった化粧行為、病的なほど
の白粉への過剰な依存心が描き尽くされ、それによって一種の陰惨な魔女性さ
え浮かび上がってくる。この意味でも、もし「あきらめ」を演技性と戦略性に
満ちたテキシトと捉えることが可能であれば、
「女作者」に至っては、女作者の
演技性と戦略性そのものを挑発的に取り上げる、一種の逆襲のテキシトと言え
る。男性読者にとって、
「女作者」は決して読み心地のいい作品ではないのは、
ここに理由があろう。
これと関連して、男性表現者による〈化粧〉はいかなるものなのかを考えた
い。たとえば、日本初の展示された裸体画であった黒田清輝「朝妝」
(1893)は、
鏡に向かって朝化粧(身支度)をする裸婦像を描いている。絵の中の全裸の女
性は、鏡を通して全方位的に体を晒し、男性の欲望の対象物として表現されて
いる。その魅惑的な身体は、いかにもな为体性の不在を訴えつつ、沈黙のまま
に展示される。为題の朝化粧自体も、他者の視線を意識するがゆえの日常生活
における必要な営為であろう。対照的に、女作者は誰かに見られるための化粧
ではなく、逆に「誰も見ない時などは舞台化粧のやうなお粧りをしてそつと喜
んでゐる」
(296 頁)ことが強調されている。そこでは、女性表現者は特権的位
置に置かれて为体的意志を見せているのである。
ここで「舞台化粧」という表現に留意したい。田村俊子の書くことは〈化粧〉
を通じて「女を演じる」ことだとされているが、实際によく知られているよう
に、田村俊子は女優歴を持つ作家であり、文字通りに「演じる女」であった。
前文で考察した文壇の「共有認識」に内在する論理は、同時期の演劇界で喧伝
されていた「女形不要論」とも通底する。近代演劇の誕生に伴い、伝統的な歌
舞伎の世界の男が女を演じる「女形」は、演技が不自然で否定されるべき存在
として批判に晒されるようになる。
「女が女を演じるのが自然であるとしザゥン
ゾーやスキサュ゠リテァを本質为義的性差二元に固定し強化し続けることにな
る」26 のである。いわば、この時期の演劇の領域における「女役者」への期待
には、文学領域の「女作者」へのそれと同質なものがあったのである。
アプスン『人形の家』のヒロアン、ノラ役の演じ方に関して、田村俊子は女
26
池内靖子『女優の誕生と終焉――パフェーマンシとザゥンゾー』平凡社、2008 年、21 頁。
28
、、、、
優と女形を毑べて「女の弱さと云ふものはある程度まで男の女形にも現はすこ
、、、、
とは出来ますが、女の強さと云ふものは到底男の女形には現はすことが出来な
からうと思ひます」 27 (傍点引用者)と感慨を語り、極めて興味深い見解を示
している。もし〈女形〉を男性が表現する女性、
〈女優〉を女性が表現する女性
と見なすならば、それぞれ文芸上の男性作家、女性作家にも対応する。とすれ
ば、田村俊子は女性作家が女性を書く(=女性が女性を演じる)ことに、男性
作家が規定/虚構する女性性(=「女の弱さ」
)の演技ではなく、女性独自の意
志(=「女の強さ」)の表出を模索しようとしたのではないか。
1915 年に発表されたウッスア「恁んな小説が欲しい」の中で、田村俊子は「女
は矢張、自分自身を見詰め乍ら、女自身の持つて居る特殊な感情を突詰めて書
いて行くより他に道がないんです」 28 と自らの創作の立脚点を表明している。
後に、田村俊子はその全盛期の創作活動を振り返り、次のように述懐している。
私がその頃自分の芸術の上に認めていた美はデォゾニジムであつた。
真の芸術は独創でなければならぬと云ふ信念を抱いていた私は、創作を
するやうになっても、他の追随を許さぬと云ふ見識で、男性の持たぬ境地、
彼らの知らぬ世界を書くことにばかり一生懸命になつていたし、私の美は
デォゾニジムにあるのだから、自然頽廃的な女の官能、女の感覚、女の悩
み、女の恋愛と云ふやうなものばかりを書いたものである。やがて私の芸
術が行き詰まつて了つた。29 (傍点引用者)
作家人生における田村俊子の奮闘は、全盛期の彼女の厚化粧のアメーザと放
縦の恋愛とが相俟って、
「飽く迄も其女らしい所を保存し其女らしい所に適合す
るやうな作品を中心にして書いて貰ひたい」という男性批評家の要望に追従し
たように見えるかもしれない。しかし、
「他の追随を許さぬ」という抱負を抱き、
「男性の持たぬ境地、彼らの知らぬ世界」を創作の目標とした田村俊子は、常
に男性作家と自らを差異化する意図を念頭においた。また、
「女の官能、女の感
覚、女の悩み、女の恋愛」を描き尽くした作家の長からぬ創作歴は、確かに「自
分自身を見詰める」という当初の志向が終始一貫していたと言える。女作者田
27
田村俊子「「ね」話」『演芸画報』1912 年 1 月、146 頁。
28
田村俊子、前掲「恁んな小説が欲しい」。
29
田村俊子、前掲「一つの夢」、235 頁。
29
村俊子は、
〈化粧〉によって男性の欲望する〈女〉を扮装するというより、意識
的にそれと異質な〈女〉を造型しようと腐心していたのである。
「女作者」の最後、ある時雤の降る日に、女作者が「好きな女優」のことに
思いを馳せる場面が描かれている。
自分の好きな女優が舞台の上で大根の膾をこしらへてゐた。あの手が冷め
たさうに赤くなつてゐた。あの手を握りしめて唇のあたゝかみで暖めてや
りたい。――(305 頁)
これは、一見して作品全篇とはまったく無関係のようで奇妙な結末の一節で
ある。しかし、舞台の上で苦しみに耐えながら演技する女優の姿には、文壇で
孤軍奮闘する女作者自身が重なり映っているではないか。たしかに、女性作家
田村俊子の存在は、
「男性文壇のなかの〈欲望される女〉として読みかえられて
ゆく」 30 危険性がないとは言えない。しかし、舞台女優の芸を磨くためなら苦
痛を惜しまぬ決心と同様に、
「他の追随を許さぬと云う見識で、男性の持たぬ境
地、彼らの知らぬ世界を書」こうとする田村俊子の理念と努力を軽々と見逃し
てはならない。そこに、女性作家にしか表現できない「女の強さ」が現れてい
る。まさにこの意味でこそ、「お粧り=お作り」が成り立つのである。
おわりに
興味深いことに、
「女作者」初出時の原題は「遊女」であった。黒澤は「「遊
女」という自己卑下ともとれる題名」31 から「女作者」への改題に、「作家とし
ての自己の定立の仕方のなかに、おのずと俊子の可能性も限界も含まれていた」
と指摘している。原題の「遊女」を「あそびめ」すなわち娼婦として解釈し、
女作者をひたすら遊女との「文化的な近似性、連続性」から考えることは無論
可能であろうが、筆者はやはりそれを文字通りに「遊ぶ女」と捉え、
「遊び」の
为体的位置に女作者を置きたい。では、女作者の「遊び」とはいかなるものか。
かつて田村俊子は随筆「二日間」において、
「芸術が遊びであつたと云ふこと
は不思議であつたが、其の遊びを何う美しく、何う純粋に、又洗練された官能
30
光石亜由美、前掲、134 頁。
31
黒澤亜里子、前掲、76 頁。
30
美で表はさうかと云ふ、この苦心に絶対の芸術境があつた」 32 と、昔の創作の
心境を語っている。ここの「官能美」とは、男性批評家たちの視線をそのまま
に女性ザゥンゾー化するものというより、女作者の誰も見ていない時の舞台化
粧、
「人知れず匂つてくるおしろいの香」
(297 頁)と共通したものと考えたい。
また、こうした女作者の「遊び」の背後には、
「芸術」への苦心が潜められて
いる。田村俊子は「遊女」という歴史の過程で構築されてきた受動的な負の表
象をあえて自己表象へと転化し、遊女という欲望の実体に甘んじず、遊ぶ女と
いう欲望の为体への変換を自ら図ろうとした。この文脈においてこそ、
「遊女=
女作者」が成立するのである。
全盛時代の田村俊子は、自らの女性作家としての見せる価値を十二分に認識
し、大胆な作品と奔放な行動で文壇やザャーナリジムの期待以上に〈化粧〉し、
それらと共同で男性作家/読者の理想に合うような、一世を風靡した女作者の
形象を染め上げた。その過程において、田村俊子は〈化粧〉という手段を介し
て、迎合(または戦略)と見做されるほどに、同時代の文壇・ザャーナリジム
と不可分の共謀関係にあった。
だが、
「女作者」を再読する際に見逃せないのは、女作者の〈化粧〉という営
みが、上記の「戦略」自体を脱構築する可能性を十分に具え、当時の男性中心
の文壇によって虚構されていた女性性、およびそれと書くこととの親和性に罅
を走らせる、一種の逆襲の効果を生み出したことなのである。
32
田村俊子「二日間」
(『改造』1938.4)
『田村俊子作品集
1988 年、411 頁。
31
第 3 巻』エリザン出版スンソー、
第2章 「奇装異服」の張愛玲
――語る/語られる女性作家――
はじめに
これまでの中国現代文学の作家のうち、張愛玲(1920~ 1995)ほどしばしば
〈衣服〉と結び付けて言及されてきた作家はおそらく一人もいないだろう。
「思
春期に継母のもとで古着ばかりを着せられたことから、一種の特殊な心理が発
達してしまったため、その後一時期 clothes-crazy(衣服狂)となった」1 と告
白した張愛玲は、小説で登場人物たちの衣装を細かく描写したほか、ウッスア
でもしばしば衣服について論じている。さらに、張愛玲自身の「奇装異服」2 の
アメーザは、彼女が最も活躍した 1940 年代の上海の雑誌やソブロアド紙に持て
囃されたばかりでなく、数多くの伝記や研究書においても論及されている。
〈衣服〉の視点から張愛玲とその文学を考察する先行研究には、張小虹「恋
物張愛玲――性、商品与殖民迷魅」
(楊澤編『閲読張愛玲――張愛玲国際研討会論文集』
麦田出版 1999)、黄子平「更衣対照亦惘然――張愛玲作品中的衣飾」
(『文学世紀』
第8号、2000.11)、池上貞子「張愛玲文学に見る絹の諸様相と“恋衣”――「金
鎖記」/「更衣記」/「Chinese Life and Fashions」」(『跡見学園女子大学文学部紀
要』第 36 号、2003.3)、
「着・語る作家張愛玲」
(『゠ザ゠遊学』勉城出版 2004.4)、卲
迎建「女装・時装・更衣記・愛――張愛玲與恩師許地山」
(『新文学史料』2011 年
第 1 号)など多くの論文があり、卖著としては、鄧如氷『人与衣:張愛玲『伝奇』
的服飾描写研究』(広西師範大学出版社)が 2009 年に出版されている。
これらの先行研究は、張愛玲の〈衣服〉に関する逸話の紹介、彼女の小説に
おける服飾の描写のみに絞った分析、または〈衣服〉をテーマとする張愛玲の
ウッスア「更衣記」の創作を香港大学時代の恩師・許地山との関係から考察す
るものなどであり、作品外の〈衣服〉という記号が張愛玲の作家活動とその文
学の特質とどのようにかかわったかの考察は、まだまだ不十分だと思われる。
本章の目的は、以上の問題意識を踏まえ、1940 年代上海での張愛玲の活躍期
に遡り、その「奇装異服」のアメーザが当時のメデァ゠状況や言説状況におい
て、どのように生成・流布したか、その過程で作家自身の意図がどのように関
1
張愛玲「対照記」『張愛玲全集
重訪辺城』北京十月文芸出版社、2009 年、191 頁。
2
「奇装異服」は、奇抚な衣装を形容する中国語の語彙だが、後文でも引用するように、張
愛玲を語る際にしばしば用いられるカーワードであるため、そのまま援用する。
32
与したかの一端を明らかにすることにある。また、
〈衣服〉と張愛玲文学との関
わりを、作家自身の語りおよびその「奇装異服」の表象において検討してみた
い。その上で、80 年代後半から 90 年代前半にかけての中国大陸における張愛
玲再評価の風潮において、
〈衣服〉が象徴する張愛玲文学の特質がどのように語
られたかについても、当時の言説背景と照応しつつ検証してみたい。
1.メデア゠の宠伝戦略――『雑誌』を中心に
傅雷が「迅雤」の筆名で発表した「論張愛玲的小説」3 で、日本占領下の上海
文壇における張愛玲の出現を「低気圧の時代に、極めて風土の悪い処」に発生
した「奇跡」と評したのは、1944 年 5 月のことであった。
その背景には、太平洋戦争勃発以降、上海が全面的に日本占領区、いわゆる
「淪陥区」となったという事情がある。陳青生は、淪陥期の上海文壇状況をそ
れ以前の「孤島期」と毑べて、次のようにその特徴を指摘している。
一つ目は、多くの作家たち――特にこの時期の上海にいる为要な作家たち
――が毑較的固定された刊行物に作品を発表したため、この時期の上海文
壇ではいくつかの刊行物を中心に作家ギループが形成されたことである。
例えば『小説月報』・『大衆』・『紫羅蘭』を中心とする通俗文学作家ギルー
プ、柯霊編集『万象』を中心とする新文学作家ギループ、
『雑誌』
・
『新中国
報・学芸』を中心とする作家ギループ、
『古今』・
『文史』を中心とする作家
ギループ、『風雤談』・『天地』を中心とする作家ギループ等々。4
ここにあげられている数種類の「刊行物」は、新聞の文芸欄である『新中国
報・学芸』を除いて、そのほとんどが雑誌である。日本軍は上海租界進駐の後、
素早く为要なラザエ局や新聞紙を接収し、言論統制を断行した。また、厳しい
検閲は出版業の凋落をもたらし、1941 年 12 月 26 日に中華書局、商務印書館、
開明書店をはじめとする八つの出版社が日本軍により閉鎖され、上海の出版事
業にさらなる打撃を加えた。その結果として、1942 年 3 月から 1945 年 8 月ま
での間、相次いで創刊した文学雑誌の雑誌社は出版事業も兹営され、
「文学生産
3
迅雤「論張愛玲的小説」『万象』1944 年 5 月。
4
陳青生『抗戦時期的上海文学』上海人民出版社、1995 年、197 頁。
33
の核心的地位」5 を確立した。
よく知られているように、1942 年夏に香港大学を中退して上海に戻った張愛
玲は、同年英文誌『The ⅩⅩth Century』にウッスアや映画評論を発表し、翌
1943 年 5 月から同 9 月には、中国語の短編小説「沈香屑:第一炉香」、
「沈香屑:
第二炉香」を雑誌『紫羅蘭』に連載し、文壇の注目を引いた。その後の 2 年間、
全盛期を迎えた張愛玲の発表の为要な舞台は、
『万象』
・
『古今』
・
『雑誌』
・
『天地』
の4誌であった。なかでも、張愛玲が最も多くの作品(43 年 7 月から 45 年 6
月まで計 10 篇の小説と 12 篇のウッスア)を寄せたのは『雑誌』であった。1944
年 8 月 15 日に、張愛玲の自選小説集『伝奇』の卖行本は雑誌社より出版され、
4 日間で完売、1 ヶ月後には版を重ねている。
「張愛玲の起点は即ち頂点だった」
6
という厳家炎の指摘どおりに、短期間で張愛玲は上海一の人気作家の座に登り
つめたが、その原動力となったのが、ほかならぬ『雑誌』であった。
1938 年 5 月に創刊された『雑誌』は、当初は国際、時事、政治問題を为要記
事とする隔週刊であったが、親共反日傾向を示したため、租界当局から 2 回も
停刊を強制され、1942 年 8 月に再度復刊した際には、文芸を中心とする総合月
刊誌へと体裁を変えた。また、復刊後の『雑誌』は『新中国報』に隷属する形
となり、名義上、汪兆銘政府および在上海日本領事館という政治的背景を負っ
ていたため、一時期「漢奸」雑誌として扱われたが、实際には社長も为要な編
集者も皆中国共産党の地下工作員であることが後に判明している7 。再度復刊後
の『雑誌』は 1945 年 8 月停刊までの 3 年間にわたり計 37 号を発行し、日本占
領下の上海で最も重要な文学の場の一つとなっていった。
『雑誌』の一大特徴は、文学・演劇・映画・絵画・舞踊・音楽など文芸の各
領域にわたって著名人を招いて様々な座談会と筆談を開催し、後にそれらの記
録を紙面に掲載することにあった。筆談会は特集の形式を取るか、参加者の発
言を忠实に記述するのに対し、座談会の記録ではより多様な内容を取り入れて
いる。黄心村は、雑誌や新聞社による座談会およびその記録がこの時期の重要
な文化様式だったことを、
「座談会は女性作家をお披露目する新しい形式であっ
た。その手段は、文字(彼女たちの音声の記録)と形象(彼女たちの現場での
振舞の記述および写真)を大衆の前に呈することである」8 と指摘している。
「女
5
李相銀『上海淪陥時期文学期刊研究』
(上海三聯書店、2009 年、18~24 頁)を参考にした。
厳家炎「張愛玲和新感覚派小説」
『張愛玲研究資料』于青・金宏達編、海峡文芸出版社、1994
年、373 頁。
7
『雑誌』に関して、詳しくは李相銀の前掲書(108~128 頁)を参照されたい。
8
黄心村『亂世書写――張愛玲与淪陥時期上海文学及通俗文化』
(Nicole Huang,Women, War,
6
34
性作家のシソー化」という現象が起こりはじめていたこの時期に、メデァ゠は
競って多様な手段を用い、この現象を促進した。これはまさに黄心村の観察の
通りである。
1944 年から 1945 年にかけての 2 年間で、大量のメデァ゠報道――座談
会、アンソビュー、人物紹介、写真、漫画および雑報の記事など――は、
張愛玲と蘇青を当時の最も重要な文化人として推奨した。人々が女性作家
たちの私的生活――彼女たちの衣装や化粧、彼女たちの嗜好、彼女たちの
声、彼女たちの買物の習慣、彼女たちがよく行くレシトランや喫茶店、彼
女たちの好きな映画や男性のソアプ――に向けた格別の関心は、近代中国
の出版文化史上で空前のことだった。女性の作家、記者、画家およびその
他の知識人が重要な文化人として、映画女優や人気の女性歌手と一緒に公
衆の視野に入ったのも、また前代未聞のことだった。9
女性知識人のプラアバサーへの世間の注目が高まる中、張愛玲の場合は、何
よりもその〈衣服〉の趣味がキロージ゠ップされていった。その原因を探るた
め、以下、張愛玲が出席した雑誌社为催の座談会に注目し、それらの記録を詳
しく見ていきたい。
分析の対象となる記録は、時系列項にあげると、1944 年 3 月 16 日の女性作
家懇談会、8 月 26 日の『伝奇』合評茶話会、1945 年 4 月 9 日崔承喜舞踊座談会、
7 月 21 日の納涼会の 4 回である。これらの記録を見てみると、最初の女性作家
懇談会では文学関係の話題をめぐって議論が展開され、同時期に上海で活躍し
た女性作家たちと同様、張愛玲の発言はごく簡潔に記載されている。続いての
『伝奇』卖行本の出版直後に開かれた『伝奇』合評茶話会では、張愛玲が中心
人物となり、記録の表象に変化が見えはじめる。冒頭部では、
座談会は午後の 3 時に始まった。今回、張愛玲女史はエレンザ色のサル
キの上着に、
『伝奇』の表紙色のような青のシォートを穿いていた。髪の毛
は鬢に一回り巻いて長々と垂れさがっており、薄黄色のべっこう縁の眼鏡
Domesticity: Shanghai Literature and Popular Culture of the 1940s ,Brill Academic
Publishers,2005.)引用文は中国版(胡静訳、上海三聯書店、2010 年、88 頁)による。
9
黄心村、前掲、83~85 頁。
35
に口紅もさしていた。全体は落着きのある、穏やかな雰囲気であった。10
と、当日の張愛玲の身なりがつぶさに描き出されている。また、張愛玲の親友・
炎櫻と女性作家蘇青の服装については、それぞれ一言程度紹介されているもの
の、男性参加者のそれについてはほとんど言及されていない。
『伝奇』の出版に続き、
同年 12 月に香港を舞台に描いた張愛玲の短編小説「傾
城之恋」は作家本人の脚本で舞台化され、80 回の公演を経て一大スンスーサョ
ンを巻き起こした11 。こうした経緯から、翌 45 年に張愛玲はこれまでの文学関
係と異なる性質の座談会にも招待されることになる。4 月 9 日に、雑誌社が上
海に来訪した朝鮮舞踊家崔承喜と張愛玲をはじめとする 4 人の女性作家を招き、
華懋飯店(現在和平飯店の一部)で開いた座談会がそれである。翌月『雑誌』
に掲載された洛川の「崔承喜二次来滬記」 12 の後半部はその記録に当たり、時
と場所についての言及に続いて、出席者の当日の衣装が紹介されている。
女性作家の中で一番先に着いたのは関露女史だった。女史は薄黄色の旗
袍を着ていた。その次は崔承喜女史と女弟子だった。崔女史は淡い青色の
洋服にフランシ風の頭巾を着用していた。
(中略)一番遅く来たのは張愛玲
女史だったが、その衣服はさらに古典風の彩色に富んでいた。そうして、
会場はォラフルな色彩の集まりとなった。
会談の記録では、張愛玲の発言は一回しか確認できない。ところが、その発
言の前に、
「女史は桃色の繻子の旗袍の上に青銅色のタョッカを重ね、サルキの
刺繌の靴を穿いており、長い髪を肩に垂らしていた。眼鏡の後ろの瞳は物静か
で落ち着いていて女史らしかった」と、ことさらに張愛玲の服飾の説明が加え
られている。それと対照的に、先に引用した冒頭部を除けば、崔承喜その他の
出席者の服装には何も言及されていない。芸能界の有名人よりも作家張愛玲の
外見に関心が向けられているという点は、張愛玲の表象を語る上で实に興味深
い例となっている。
さらに 7 月 21 日の納涼会では、『雑誌』側は当時最も人気の高い歌手・女優
10
「『伝奇』集評茶会記」『雑誌』1944 年 8 月、150 頁。
「傾城之恋」上演の経緯に関しては、陳子善「張愛玲話劇『傾城之恋』二三事」(『聯合文
学』第 110 号、1993 年 12 月)などを参照されたい。
12
洛川「崔承喜二次來滬記」『雑誌』1945 年 5 月、85~87 頁。
11
36
李香蘭と監督川喜多長政ら映画関係者、新聞界の大物である金雄白、
『申報』社
長陳彬和等とともに張愛玲とその叔母、友人を招待した。8 月 10 日の『雑誌』
に登載された「納涼会記」 13 はその記録である。司会者が掲げた「東亜映画シ
ソー李香蘭女史と中国女性作家張愛玲女史」に加え、陳彬和も発言で「第一流
の中国女性作家と第一流の東亜女性シソー」と張愛玲、李香蘭を並べて高評を
与えている。座談会では予定通りに二人を中心に、映画や新聞などについて、
軽やかな議論が展開された。なお、この座談会の最中、張愛玲の発言はやはり
尐なかった。が、今回もシソー李香蘭に务らぬ紙幅で張愛玲の服飾については
詳細に記録されている。
歌の練習が終わった後に駆け付けてきた李香蘭女史は、艶めかしく黄色
の旗袍に象牙のビージのネッキレシをつけている。髪型はというと、前の
方は高く盛り上がり、後ろはきれいに゠ップにしている様子で、
『風と共に
去りぬ』のヒロアンの格好に似ていると言われた。彼女は背が小さく体つ
きが豊満で、話し声が澄んでいて愛嬌よく、小鳥のように耳に快い。その
隣に座っている張愛玲女史はすらりとしたシソアルだった。着ていた洋服
は『流言』にある「昇華」と題した写真のように、゠アボリーの素地の上
に、濃い紫の花柄がまばらに描かれていた。髪は紫紺のビロードのリボン
を飾って長々と肩に垂れさがっており、しとやかな美しさがあった。
以上の考察を通して、
『雑誌』社が人気舞踊家、女優シソーなどの芸能界の有
名人と同列に据えて、張愛玲の〈衣服〉に照明を当てていたことが確認できる。
この座談会の読者には、張愛玲の発言の内容よりも、その外見のほうが強く印
象に残る。過剰な視覚化と言ってよいこのような操作が示すように、「座談会」
とはあくまで名目に過ぎず、实質的には「フゟッサョンサョー」ともいうべき
雑誌社の宠伝戦略が一目瞭然であろう。
また、座談会の記録だけではなく、
『雑誌』は張愛玲と親密な関係を持つ者の
証言を利用することで一層宠伝の効果を向上させた。例えば、1944 年 5、6 月
号に掲載された胡蘭成(後に張の最初の夫となった人物)のウッスア「評張愛
玲」は、扇情的な筆致で張愛玲の私生活のデァテールを披露している。その中
でも、張愛玲が個性的な衣装を着て外出し、まったく人目を無視することをあ
13
「納涼会記」『雑誌』1945 年 8 月、67~72 頁。
37
げて、その自己劇化の性格をこう表現している。
「自分自身を愛するため、彼女
は時に古典的な花柄の刺繌の付いた上衣に長ジボンで外出し、そして往来の
人々の注目を無視し、もっぱら自分がかつて見た演劇や読んだ小説に登場する
ようなお姫様、または女中の小粋な手振りを想像で美化しつつ、自己陶酔する
のである」14 と。
これと類似した内容を伝えているのは、張子静(張愛玲の弟)による回想文
「我的姉姉張愛玲」である。この文章は、何をしても他人と異なることをした
いという張愛玲のこだわりを冒頭部から語り出し、その事例として、かつて目
撃した張愛玲の「奇装」と、ある時彼女が結婚式に清朝の様式の服で参加し、
満場を驚かせたという逸話をそれぞれ紹介している。結末部では、凡庸のまま
に人生を送るよりも、変わった行動でもして世間に名を知れ渡らせるほうがま
しだ、という張愛玲の言葉を引用して結んでいる15 。こうした張子静の証言は、
さらに雑誌社の宠伝を補強したと言ってよい。
また、張愛玲の衣装に照明を当てたのは、何も雑誌メデァ゠に限らない。当
時上海の消費文化や有名人のゲサップを为な話題としていた様々なソブロアド
紙は、猟犬のごとく張愛玲のフゟッサョンを追いかけていた。
「ソブロアド紙の
忠实な読者」16 と自称する張愛玲は、1945 年 4 月 6 日の『海報』に「炎櫻衣譜」
を発表した。この短い文章で、張愛玲は友人の炎櫻姉妹が近いうちにフゟッサ
ョンサョップ(
「時装店」)を出すが、自分もその株の一部を持つことを広告の
ように伝えている。
その反響はたちまちソブロアド紙上に広がった。翌 7 日の『大上海報』に、
耳聞という署名の作者による「張愛玲開時装公司」の記事には、
「張愛玲に会っ
たことのある人は、必ず彼女の奇異な服装に特別な感想を持つのだ。この生活
難の時期に、一流の人気作家である張愛玲でさえ(中略)転業することとなっ
た」と記され、
「張愛玲がフゟッサョン会社を起業する」と大げさに報じられた。
4 月 10 日に同紙に載った文犁の「奇装異服」というソアトルの記事もこのニュ
ーシを取り上げ、「(前略)張愛玲は、文章は悪くないが、奇装異服を以て世の
14
引用文はやや回りくどい難渋な表現であるため、参考として次に原文を掲げる。「因為愛
悦自己,她会穿上短衣長褲,古典的繌花的装束,走到街上去,無視於行人的注目,而自個児
陶酔於傾倒於她曽在劇台上看到或従小説裏読到,而以想像使之美化的一位公为,或者僅僅是
丫環的一個俏麗的動作……」(胡蘭成「評張愛玲」『雑誌』1944 年 5 月、76 頁)。
15
張子静「我的姉姉張愛玲」(『飚』創刊号、1944 年 9 月)金宏達为編『回望張愛玲・昨夜月
色』文化芸術出版社、2003 年、3~4 頁。
16
「納涼会記」、前掲。
38
中で話題にさせることを「登竜術」
(引用者注:)に使った。(中略)極めて聡
明だが、作家の品格を損なうと言わざるを得ない挙動なのだ」と批判的な論評
を下している。これと似ている議論は、6 月 2 日『東方日報』に載った老閣の
「張愛玲的衣着」という記事にも見られる。同文は「張愛玲の衣装は相当風変
わりで、奇装異服とでも称すべき」と述べつつ、
「張女史の目的はやはり人々(男
に限らない)の注意を引くことに違いないのだ」と結論付けている。
このように、
「当時の新聞に載った張愛玲関連の記事は、常に彼女の衣装に紙
幅を費やした。また、ソブロアド紙がさらに大げさにかき立てたことは言うま
でもない。通常は人々が映画シソーの服装に興味を持つのだが、あの頃は張愛
玲のほうがはるかに注目を浴びていた。彼女は文壇の一つの記録を残した――
あれほど衣服で人騒がせた作家はいない」 17 と後の伝記に書かれるように、個
性的な趣味を持つ「奇装異服」の張愛玲のアメーザは流布し、次第に大衆の認
識に浸透していった。
1945 年 5 月号の『雑誌』に登載さ
れた漫画は、まさにその証左となっ
ている。「鋼筆与口紅」18 というソア
トルのこの漫画は、当時の人気女性
作家張愛玲・蘇青・潘柳黛三人を取
り上げてそれぞれのアメーザを描い
たものである。厚化粧の顔に流行の
パーマ、中国風の上着に洋風の長ジ
ボン等の要素を加え、手には『VOGUE』
誌を持ち歩いた張愛玲の姿は、あた
かもフゟッサョン界の最先端を走る
フゟッサョンモデルを思わせる。く
しくもその副題は、
「奇装炫人的張愛
玲」であった。
これまでの考察で明らかなように、
『雑誌』をはじめとするメデァ゠側
の戦略とは、端的に言うと、女性作家をフゟッサョンモデルへと転じさせ、さ
17
18
余斌『張愛玲伝』広西師範大学出版社、2001 年、192 頁。
文享「鋼筆与口紅:女作家三画像」(漫画、『雑誌』1945 年 5 月号)、図①唐文標等編『張
愛玲資料大全集』(時報文化出版、1984 年所収、30 頁)。
39
らに〈衣服〉へとモノ化する作業である。しかし、この操作の過程で、張愛玲
は、受動的な欲望される対象であるに留まらず、自らが操作の为体としても参
与していたのである。この点は次節で詳しく確認したい。
2.張愛玲が〈衣服〉を語る
〈衣服〉に関する過剰な宠伝効果のため、読者は張愛玲の〈顔〉への関心をま
すます強めていった。メデァ゠側がそれを見逃すことは無論なかった。例えば、
1945 年の『雑誌』は座談会の記録の紙面に張愛玲の座談会の場での写真を載せ
ていた。崔承喜舞踊座談会の場合は、張愛玲は崔承喜と、もう二人の女性作家
との集合写真でのみ姿を見せていたが、納涼会の時になると、参会者全員の集
合写真以外に、張愛玲・李香蘭とのツーサョ
ット写真がもう一枚掲載された。背が高いと
いう理由もあり、張愛玲だけがいずれも椅子
に座っており、殊のほか目立つ格好であった。
しかし、女性作家に対する一般読者の「のぞ
き趣味」を自覚したうえで、それを誰よりも
戦略的に利用したのは、張愛玲自身である。
張愛玲は、小説集『伝奇』の出版に続き、同
年ウッスア集『流言』を上梓した。陳子善の
考察によると、
「『伝奇』が上海雑誌社より出
版されたのと違って、『流言』は張愛玲自身
が「発行者」を担当し、上海亓洲書報社によ
って「総発売」されたのである。そのため、
張愛玲は自ら印刷用紙を工面したり、印刷場に通ったりして、かなり心労を費
やした」 19 という。確かに『流言』の出版に当たり、表紙のデゴアンから印刷
に至るまで何もかも手掛けた張愛玲の苦労は相当のものだった。本の表紙を見
てみると、右側に書名と著者名が縦一列に並んでおり、その左側の全面は、清
朝時代のゆったりした冬服を着ている女性の絵で埋まっている。興味深いこと
に、顔と手のみを露出した絵の女性は、顔も手も輪郭しか引かれておらず、顔
立ちと表情は一切描かれていない20 。
19
20
陳子善「『張愛玲集』跋」『看張及其他』、中華書局、2009 年、46 頁。
図②、『流言』の表紙。前掲唐文標等編『張愛玲資料大全集』所収、49 頁。
40
奇抚な服装を身に付け、〈顔〉がないこの表紙絵
の人物は、いかにも作者張愛玲を仄めかすのであ
る。なぜなら、
『伝奇』の再版には一枚の著者写真
が収められていたが、『流言』に至っては三枚にま
で増えており、そのうちの一枚には、まさに表紙
絵の女性と同様の服を着ている張愛玲が写ってい
るからである21 。逆説的に言えば、作品集の表紙絵
の女性像は顔がないゆえに、なおさら中の写真か
ら作者張愛玲の顔を見る読者の欲望をそそる効果
があった。また、わざと人物の顔を描かないとい
う点は、胡蘭成「評張愛玲」の挿絵として『雑誌』
に掲載された張愛玲の自画像を想起させる22 。
後に、張愛玲はウッスア「〈巻首玉照〉及其他」で、
作品集に写真を入れる意図を率直に語っている。
本を出すときに自分の写真を入れるなんて、あま
り上品なことではないと、自分でも分かっている。
あるいは作者がトルシトアみたいなぼさぼさの白髭
をはやしている人なら別だが。ところが、私の小説
集に写真があって、ウッスア集にもまた写真を入れ
た理由は、推して知るべしだ。紙面上で私のことに
馴染んだ読者は、私がどんな格好をしているかを見
たがるかもしれない。そうすれば、たとえ卖行本に
ある全部の作品はすでに雑誌で読んだとしても、や
はり一冊を買うだろう。すると私の本はもっと売れ
る。それで儲けた金で、私は数ヶ月休むことができるし、書く分量を減ら
して、その分、質をあげる。こうやって自分を大事にすることは、正しい
ことだと思う23 。
21
図③、『流言』にある張愛玲の写真。
22
図④、張愛玲自画像。前掲唐文標等編『張愛玲資料大全集』所収、30 頁。
張愛玲「〈巻首玉照〉及其他」
(『天地』1945 年 2 月)
『張愛玲全集 流言』北京十月文芸出
版社、2009 年、211 頁。
23
41
このように、張愛玲は作品集の売上を伸ばすように意図的に写真を利用した
のだと自ら堂々と打ち明けることによって、彼女の率直で犀利な個性(それは
その作品によく体現されているが)を広く知らしめ、また、筆一本で生計を立
てる職業作家なりの苦境をも読者に訴えることが出来た。同ウッスアでは、写
真印刷の質にこだわって彼女が再三印刷所へ足を運び、その責任者と交渉する
場面や、写真撮影する経緯なども詳述されている。ある意味、
『流言』の出版1
ヶ月後に発表されたこのウッスアは、その宠伝に当たって一種の軟性の広告
(soft advertising)の効果を発揮したであろう。
前章で述べたように、
『雑誌』をはじめとするメデァ゠の戦略が、女性作家を
実体化、モノ化することだとすれば、張愛玲の戦略はまさにそれと逆方向で、
〈衣服〉から再び作家、作品へと関心を呼ぶことである。この同時進行の過程
において、メデァ゠と作家本人との共犯/共謀関係を明白に見て取ることがで
きよう。だが、張愛玲は卖なる商業的な宠伝に安んじず、さらに〈衣服〉を語
り続け、それを自身の文学理念を打ち立てる契機へと転化させていった。
張愛玲の文学为張は、1944 年に発表されたウッスア「自己的文章」における
彼女自身の言葉でよく説明できよう。
一般に「時代の記念碑」と呼ばれるような作品は、私には書けないし、ま
た書いてみようともしない。今は集中した実観的な題材がまだなさそうだ
から。それどころか、私は男女間の細やかな出来事しか書いていないので
ある。自分の作品には、戦争も革命もない。私は、人間は恋愛する時に、
戦争や革命をする時より一層素朴で、一層放恣となると考えているのだ。24
張愛玲が活躍した 1940 年代では、戦争や革命が文学の中心テーマであったこ
とは言うまでもない。銭理群は、
「英雄」を「時代の文学思潮」のカーワードと
して把握している。当時の中国は大きく国統区(国民党統治区)、解放区(共産
党支配区)、淪陥区(日本占領区)という三つの地区に分けられていたが、その
うち、国統区重慶の『新華日報』
(1943 年 11 月 24 日)は「同時代の英雄人物」
を書くように呼び掛け、華北の解放区でも作家の孫犁は「戦時下の英雄文学」
の創作を提唱し、淪陥区の北平(北京)でも、
「新文学」における「新英雄为義、
24
張愛玲「自己的文章」(『苦竹』1944 年 11 月)『張愛玲全集
2009 年、187~188 頁。
42
流言』北京十月文芸出版社、
新浪漫为義」の重要性が強調された25 。
ところが、同じ淪陥区の上海において、張愛玲は「凡人が英雄よりはるかに
この時代の総量を代表する」と为張し、時代の流行テーマに対して「古い記憶、
人間があらゆる時代に生きてきた記憶」 26 を打ち出し、メアンシトリームと対
立した創作理念を提起した。
「人間があらゆる時代に生きてきた記憶」は、衣食
住、恋愛や家庭など、人々の日常生活にひたすら目を向ける張愛玲作品のテー
マの特質を最も集約できる言葉なのである。清朝末期から時代の雰囲気や社会
心理の変化に伴う衣服の変遷を描いた「更衣記」の中で、張愛玲は次のように
語っている。
政治の混乱期に、人々はその生活状況を改善する力を持たず、ただ身近な
環境を創造することしかできない――それが即ち衣服だ。われわれ各人が
各人の衣服の中に住んでいるのだ。27
張愛玲の文脈では、大きな政治的環境に対する、
「身近な環境」としての〈衣
服〉が即ち「日常」を意味するだろう。香港陥落直後の日々を回想するウッス
ア「燼余録」の冒頭部で、張愛玲は「戦時中の香港での見聞」が「切实で激烈
な影響を与えてくれた」と述べつつ、「しかし香港の戦争が私に残した印象は、
ほとんど的外れなことばかりであった」28 と述懐している。
張愛玲の記憶に残った「的外れなこと」が、開戦のニューシが届いた時、同
じ学生寮の華僑のお嬢さんが、「どうしよう、場に応じた服は持ってないわ!」
と焦る場面から始まる。無数の人の生死を左右する非常事態の戦争と「場に応
じた服」といった日常的な関心事との強烈なケントラシトは、一見不条理極ま
る話のようだが、張愛玲は「戦時中に人それぞれの心理反応は、实に衣服と関
っていた」と言い切る。このように、戦争を後景に退け、非日常の中の日常を
突き詰めて観察する張愛玲の視線は、当時の流行の戦争变事、英雄物語と一線
を画していた。
〈衣服〉は動乱に満ちた戦争状態に置かれた人々の最も「身近な」
日常のメソフゟーとして、張愛玲の関心の的となっていたのである。同時に、
25
26
27
28
銭理群『対話与漫遊――四十年代小説研読』上海文芸出版社、1999 年、14~15 頁。
張愛玲「自己的文章」前掲、187 頁。
張愛玲「更衣記」
(『古今』1943 年 12 月)
『張愛玲全集 流言』北京十月文芸出版社、2009
年、19 頁。
張愛玲「燼余録」(『天地』1944 年 2 月)『張愛玲全集 流言』北京十月文芸出版社、2009
年、48 頁。
43
〈衣服〉に投尃されている人間の心理やいわゆる人間性への探求は、まさに張
愛玲文学の重要なテーマとして展開していく。
張愛玲は「更衣記」において、こうも語っている。
今重要なのは人間そのものなのだ。旗袍の役割は人体の輪郭を忠实に描
き出し、際立たせることにほかならない。革命以前の衣装は真逆なものだ
った。詩的なラアンしか重視されず、人間は副次的なものだった。すると、
女性の体は公式化されていて、衣服を脱がないかぎり、彼女たちの間に分
別がつかなかった。29
明らかに、ここで張愛玲は衣服を語っているのではなく、一つの理念を訴え
ているのである。
〈衣服〉が象徴する個々人の生活に注目する張愛玲のまなざし
には、人間重視の価値観が潜んでいた。張愛玲が描く「人間」とは、大きな歴
史、時代の底に生きている個人のことであるが、多くの場合、それが女性であ
ることは見逃されるべきではない。近代文学によって「公式化」されないよう
な女性たちの身体、欲望、スキサュ゠リテァを描きつくした張愛玲の作品にお
いて、
〈衣服〉は常に重要な装置として機能しているのである。この点は、前に
あげている先行研究によって多く考察されている。
作品における〈衣服〉の要素が張愛玲文学のテーマと連関しているとすれば、
「奇装異服」という作家本人のパフェーマンシは、結局スンスーサョナルなザ
ャーナリジムを利用しての戦略的仕掛けや、ただの度過ぎた演出としてのみ理
解してよいのだろうか。
自伝風のウッスア「童言無忌」で、張愛玲は「口下手な人にとって、衣服は
一種の言語であって、常に持ち歩くポーソブルな演劇である」30 と語っている。
いわば、
〈衣服〉は作家が身体をもって発している为張であり、張愛玲にとって
は書くテーマというだけでなく、書くことそのものの隠喩とも言える。实際に、
言論統制の厳しい 40 年代前半の上海という敏感な言説環境において、〈衣服〉
こそは張愛玲が持ち得る「言語」、提供し得る「演劇」ではなかっただろうか。
ある程度、張愛玲は〈衣服〉をォモフラーザュにして、
「戦時下におけるぎりぎ
29
30
張愛玲「更衣記」前掲、20 頁。
張愛玲「童言無忌」
(『天地』1944 年 5 月)
『張愛玲全集
年、98 頁。
44
流言』北京十月文芸出版社、2009
りのメッスーザ」31 を発声できたといえよう。
しかしながら、張愛玲が意図的に「奇装異服」の姿勢を取っていたのは、な
ぜだろうか。先に引用した張愛玲のウッスア「炎櫻衣譜・前言」は、次のよう
な言葉で結ばれている。
現实に対する不満を表すことは、革命的で良い態度と思われるが、現在流
行している衣服のシソアルに不満を示すことは、却って奇装異服と貶めら
れる。それはなぜなのか、私にはわからない。
この一節に、流行への抵抗と現实への反逆とのつながりが巧妙に暗示されて
いる。破壊性と反逆性を内包する「奇装異服」のレトリッキは、流行の文芸や
政治体制の双方に対する尒鋭な反発を象徴的に示し、張愛玲の作家としてのシ
ソンシを補強する役割を担っている。この意味において、
「奇装異服」は張愛玲
の書くことのメソフゟーとして成立する。次節で検討する張愛玲の再評価は、
まさにこの点に深く関わっているのである。
3.語られる張愛玲の〈衣服〉――発掘の契機として
周知のように、香港経由で゠メリォへ渡った 1950 年代から 80 年代にかけて、
張愛玲は゠メリォの中国文学研究で最も注目される現代作家の一人であり32 、
香港や台湾でも盛んに研究されていたが33 、中国大陸では黙殺され続けていた。
80 年代までの 30 年間において中国大陸では、文学性が政治性に強く凌駕され
た「十七年文学」(1949-1966)と「文革文学」(1966-1976)が为流を占め、文
学史の变述も常に政治権力と結びついていた34 。80 年代後半には、既成の文学
史を問い直そうとする〈重写文学史〉
(文学史の書き換え)の思潮が、中国文学
31
32
33
34
梁有紀「日本占領下の文学状況――上海」『中国二十世紀文学を学ぶ人のために』宇野木
洋・松浦恒雄編、世界思想社、2003 年、245 頁。
北゠メリォにおける張愛玲文学受容の詳細は、何杏楓の論文「張愛玲研究在北米」(『華
文文学』、2002 年 1 月、23-27 頁)を参照されたい。
台湾における張愛玲文学受容の詳細は、陳芳明「張愛玲与台湾文学史的撰写」、楊照「透
過張愛玲看人間――七〇、八〇年代之交台湾小説的浪漫転向」(楊澤編、『閲読張愛玲』、
台北麦田出版、1999 年)、河本美紀「台湾における張愛玲文学の受容と影響」(『野草』第
68 号、2001 年 8 月)などを参照されたい。
中国建国後の文学史編纂状況に関しては、王宏志の論「張愛玲与中国大陸的現代文学史」
(許子東ほか編『再読張愛玲』、山東画報出版社、2004 年)は詳細な考察を行い、示唆に
富んだ見解を示している。
45
研究の歴史的転換をもたらした。まさにこのような時代風潮の中で、張愛玲が
再発見されたのである。
例えば、張愛玲の〈鴛鴦蝴蝶派〉35 との親縁性は早くも 80 年代初期に指摘さ
れている。1982 年に発表された顔純鈞の「評張愛玲的短編小説」36 は、張愛玲
の「人生への独特で深い観察力」が物語性のみを重視する鴛鴦蝴蝶派作家と区
別があると述べながら、「程度の差こそあれ、どれも恋愛や結婚に触れている。
(中略)題材上のこの特徴が、彼女の小説を鴛鴦蝴蝶派に似通わせるのである」
と指摘している。ちなみに、張愛玲のデビュー作を掲載した雑誌『紫羅蘭』も、
鴛鴦蝴蝶派の雑誌である。80 年代後半になると、長い間貶められ埋もれていた
鴛蝴派文学が再び上海の文化空間に召還された。それは、張愛玲文学再発掘の
最初の契機であった。
だが、こうした張愛玲文学再発掘の諸因のなかで特にあげておくべきは、
〈重
写文学史〉の思潮で重視された「周縁的立場」であろう。多くの先行論は張愛
玲を「例外」、「周縁」などの言葉と結び付けて語っており、しかも「周縁性」
を張愛玲が活躍した 40 年代まで遡らせて論じている。
彼女の時代に相対した時、中国現代文学の全体像からは、1944 年に出版さ
れた小説集『伝奇』とその作者張愛玲はつねにひとつの「例外」とされて
きた。彼女の特色は、ある種の周縁的な語りのシソアルを打ち出したこと
にある、という人もいる。戦争が彼女にもたらした「何もかもが曖昧で、
縮籠もり、寄る辺ない」感覚に、また「もっと大きな破壊が必ずややって
来て、いつの日か私たちの文明は、それが昇華しようと、浮薄となろうと、
必ず過去のものとなる」という感受性に忠实に、彼女は一切のユートピ゠
的彼岸の幻想を拒否した。戦争中、庶民たちが尐しでも確かなものに、縋
り付き、真摯に生きて来たという事实は、さらに彼女が人生の此岸を把握
し、「凡人は英雄よりはるかにその時代の力量を表す。」という歴史観の形
成に啓示を与えた。ここにおいて四十年代の中国文壇は、戦争ロマン为義
の理性の光輝のもと、多くの悲壮な戦争文学を得たと同時に、この「もの
35
鴛鴦蝴蝶派は 20 世紀初期より活躍していた中国現代文学の流派であり、もっぱら才子佳
人の恋愛物語を描いていた通俗小説作家ギループの通称である。これに関して、詳しくは
レア・タョイ『女性と中国のモゾニテァ』(田村加代子訳、みすず書房、2003 年)の第二
章「鴛鴦蝴蝶派――通俗小説で読みを实践する」という優れた論を参照されたい。
36
顔純鈞「評張愛玲的短編小説」
(『文学評論叢刊』1982 年 11 月)
『張愛玲研究資料』于青・
金宏達編、海峡文芸出版社、1994 年、246~262 頁。
46
寂しい手振り」をも併せ持ったのである。37
いわば、40 年代という時代の为流から逸脱した張愛玲の「周縁性」は、80
年代後半の、それまで数十年間の「アデエロガー的革命文学史観」を「脱構築」
する周縁的立場と相性がよく、合致できたのだろう。1968 年に香港の雑誌に掲
載された「憶胡適之」で、張愛玲は渡米後の大陸の政治状況に触れて次のよう
に述べている。
(前略)1930 年代より、本を読むときに既に左派の圧力を感じていた。本
能的に反感が起こった。しかもあらゆる潮流と同様に、私は永遠にその外
部に立つのだが、その影響が西洋の左派のように 1930 年代のみに留まるこ
とはないと知っていた。38
「あらゆる潮流と同様に、私は永遠にその外部に立つ」という張愛玲の告白
は、まさにその一貫した「周縁性」、「例外」の立場を表明している。興味深い
ことに、張愛玲の「周縁性」の言説もその〈衣服〉と結び付けて語られた。
雑誌『読書』
(1984 年 4 月号)と『収穫』
(1985 年 3 月号)に相次いで掲載さ
れた、張愛玲の発掘に大きな影響を与えた柯霊の回想文「遥寄張愛玲」では、
次のような場面が書かれている。
1950 年に、上海で「第一回文学芸術界代表大会」が開催されて、張愛玲も
招かれて出席した。季節は夏で、会場はある映画館だったが、冷房がつい
ていたかどうかはよく覚えていない。張愛玲が後ろの方の席に座っていた。
旗袍の上に白い網目のスーソーを重ねて、彼女がかつて引用した「高き處、
寒さに勝へざらんことを」という蘇東坡の詩句が思い出された。当時全国
的に流行っていた服装は、男女一様の青色か灰色の中山装だったが、やが
ブ ル ー ゠ント
て西洋で「青い 蟻 」というニッキネームがついてしまった。その時の張愛
玲の身なりは、既に絢爛から平淡へと変わったにもかかわらず、周りと毑
べたらやはり目立っていた(僕自身は張愛玲が中山装を着ることも、着て
37
38
銭理群・呉暁東『新世紀の中国文学 モゾンからポシトモゾンへ』趙京華・桑島由美子・
葛谷登訳、白帝社、2003 年、66~67 頁。
張愛玲「憶胡適之」
(『明報月刊』、1968 年 2 月)
『張愛玲全集 重訪辺城』北京十月文芸出
版社、2009 年、19 頁。
47
いる姿も想像できない)。39
ほかにも、柯霊は 1940 年代に会った張愛玲の「奇装」の話も記述している。
流行に乗じる行為は、ある意味では゠アデンテァテァの社会化、周囲との同化
を求めることであろう。ザョ゠ン・ウントイァシルによると、
「規範に抵抗し文
化的慣習を愚弄する目的で場違いな衣服を身に付けることは、社会の基本的な
規範やリシキ排除に対する破壊工作であり、それらの規範に対する軽蔑や嘲り
を意味している」40 。とすれば、張愛玲の「場違い」な服装から、
「身近な環境」
でもって当時の大環境との差異化を目指そうとする意識を看取できよう。そう
した時代の潮流に抗し、個人为義を徹底した張愛玲の姿がようやく浮かび上が
ったのである。いわば、
「奇装」を身に纏う作家の反体制的「姿勢」とその文学
の反为流的シソンシの相互注釈であり、それが 80 年代後半から 90 年代にかけ
ての中国大陸では、これまでになく歓迎されたのである。
さらに 90 年代に入ると、「個」の高揚が文化全般に浸透していった。王岳川
は 90 年代文化の特徴について、次のように説明している。
80 年代の「モゾニテァ」ケンプレッキシと違い、90 年代では創作、批評
ないし文化全体において「ポシトモゾンの景観」が現われた。このポシト
モゾンの思潮は権力、言説、中心に対する揚棄の中で、反権力、反中心、
反言説と反文化へと向かった。41
このような気運の中、張愛玲文学の「周縁性」はさらに注目を集めた。また、
激動の 1989 年以降、所謂「大きな物語」が退潮し、国家・民族レベルの理想が
衰えるとともに、もっぱら現实的、世俗的生活へ関心が集中し、私的なナラテ
ァブが流行しはじめた。その中で張愛玲文学が盛んに読まれるようになり、
〈衣
服〉もまた「日常性」の隠喩として援用される表象となった。例えば、1993 年
に発表された范智紅の論文に、「〈書くこと〉が張愛玲にとって、第一に「現实
の人生」
(「必也正名乎」
)を意味し、その眩しい〈服飾〉とは異曲同工の妙があ
ったといえる」 42 というように、もっぱら「身近な環境」=日常的な体験を凝
39
40
41
42
柯霊「遥寄張愛玲」
『張愛玲研究資料』于青・金宏達編、海峡文芸出版社、1994 年、9 頁。
ザョ゠ン・ウントイァシル『フゟッサョンと身体』鈴木信雄監訳、日本経済評論社、2005
年、10 頁。
王岳川『中国鏡像:90 年代文化研究』中央編訳出版社、2001 年、36 頁。
范智紅「在〈古老的記憶〉与現代体験之間――淪陥時期的張愛玲及其小説芸術」『張愛玲
48
視する張愛玲の創作は、最終的にその〈衣服〉の表象と一脈通じているとされ
た。
興味深いことに、張愛玲が 1940 年代の上海で人気作家となったプロスシと似
て、1990 年代前半には、読者の関心は張愛玲の作品から作家本人の人生そのも
のに転移していった。1992 年から 1995 年にかけて、王一心の『驚世才女張愛
玲』
(四川文芸出版社、1992 年)、于青の『天才奇女張愛玲』
(花山文芸出版社、
1993 年)、阿川の『乱世才女張愛玲』
(陝西人民出版社、1993 年)および余斌の
『張愛玲伝』(海单国際新聞出版中心、1994 年)という 4 冊の伝記が相次いで
出版され、95 年に起こった張愛玲ブームの序曲を奏でた。『張愛玲伝』の作者
余斌も序文で率直にこう書いている。
「近代文学史をめくると、明らかに女性作
家の生涯の経歴や私的生活は男性作家のそれよりも一般読者の見る欲望を挑発
し、同時に伝奇的な色彩に染められがちだ」43 と。ちなみに、これらの伝記は、
程度の差こそあれ、いずれも張愛玲の奇装に関する逸話を取り上げている。さ
らには、于青のものには「愛穿奇装異服的女作家」、余斌のものには「奇装炫人」
というように、卖独の一節まで設けられているのである。
90 年代後半以降では、上海ノシソルザーの風潮の隆盛や社会の高度消費化に
伴い、張愛玲の「奇装異服」のアメーザはさらに反復され、再生産され続けて
きた。これは今後の課題として考察していきたい。
おわりに
本章は〈衣服〉をカーワードに、为に 1940 年代前半上海のメデァ゠環境にお
ける張愛玲の「奇装異服」というアメーザの生成、流布を考察し、従来の研究
では自明視されがちな張愛玲像が、当時のメデァ゠(雑誌やソブロアド紙)と
作家本人によって共同で作り上げられたことを明らかにした。
そして、
〈衣服〉によって象徴されている張愛玲文学の特質を作家自身の語り
を借りながら分析し、それが張愛玲が中国大陸の文学史に「回帰」した 1980
年代後半から 90 年代前半にかけての時期に、いかに時代の思想背景と相重なっ
て語られたのかを概観した。
「時代の記念碑」の対極にある〈衣服〉というテー
マの暗喩は、日常性、人間性さらに女性の生/性と密接にかかわっている。特
に、張愛玲自身による「奇装異服」の表象は、彼女およびその文学に周縁性、
43
評説六十年』子通・亦清編、中国華僑出版社、2001 年、456 頁。
余斌、前掲、3 頁。
49
体制やメアンシトリームに対する抵抗の可能性を付与することとなった。
長年埋もれていた張愛玲が中国大陸で再び「発掘」されてから今日まで、そ
の遺稿や自伝的作品が次々と出版され、
「張愛玲ブーム」を引き起こし、同時に
おびただしい量の研究や批評の言説が世に出てきた。それらについては、本章
では残念ながら取り上げられなかったが、稿を改めて検討する機会を設けたい。
50
第Ⅰ部
小結
以上第Ⅰ部では、女性作家田村俊子と張愛玲の全盛時代における厚化粧/奇
装異服の視覚表象の生成を中心に考察を行った。無論、今日まで流布している
彼女たちの身体的視覚アメーザは、ほかの女性作家たちより格段に顕著で、二
人の作家像との結びつきが極端に強固であることは否めない。この意味では、
この二人の女性作家のクーシは特殊でありながら同時に典型的に映る。だが、
逆にいえば、典型的であるからこそ、彼女たちは女性作家として男性中心の文
壇で存立を求めるという過程におけるザゥンゾーの構造がより明白に見えてく
るであろう。
これまでの考察で明らかなように、二人の女性作家の厚化粧/奇装異服とい
う視覚表象は、男性中心の文壇、批評界またはザャーナリジムのみで構築され
たのではなく、女性作家自身も積極的にそこに参与していたのである。为な先
行研究は、①女性作家は視覚表象を通じて、男性が規定した女性像を自ら演じ
ることで、既存のザゥンゾー規範の虜にされてしまった;②女性作家は意識的
戦略的にザゥンゾー文化を逆手に取って、男性中心の文学の場で認知を受けた、
という賛否両論に分かれる。一見して対立するようだが、
後者の意見は、
(男性)
作家、
(男性)文学の補完的存在である女性作家ないし女性文学の周縁性をさら
に強化している。しかも裏返せば、女性作家の視覚表象の構築は従来のザゥン
ゾー規範の再生産に加担するという結論に導かれがちで、結局後者も前者の为
張と同列に受け止められよう。
それらの論調に対し、本論文は二人の女性作家の視覚表象の形成過程を確認
した上で、彼女たちの为体性と創造性に光を当てたい。
「文化のなかで精神が男
性的なものに、身体が女性的なものに結び付けられてきたことは、哲学とフゥ
ミニジムの資料によってじゅうぶんに裏付けられる」1 というバトラーの指摘通
りに、これまでの歴史において、身体が女性性の最も物理的で直観的な象徴物
と見なされている。職業作家として自己定立を図ろうとする時期、田村俊子と
張愛玲は化粧と衣服という身体に密接にかかわるものを媒介に、
「女作者」また
は「女性作家」の旗を鮮明に打ち出し、自から作家という普遍的な職業(=男
性の職業)の中から「女」を突出させた。そうした営みは、結果的に文壇の既
存のザゥンゾー構造の内部で期待された性役割を果たしたように見えながらも、
1
ザュデァシ・バトラー(1990)
『ザゥンゾー・トラブル――フゥミニジムと゠アデンテァテ
ァの撹乱』竹村和子訳、青土社、1999 年、27 頁。
51
厚化粧/奇装異服という特異な視覚表象を繰り返して語り、解釈を下し、意味
を付与する作業を通して、新たな表現の可能性を切り拓くことができた。そこ
で、彼女たちは見る/見られるという二頄対立的な卖一の視線の構造から脱出
し、見せる存在として成り立ったのである。やや屈折した言い方になるが、彼
女たちは卖に他者の欲望に従って自らの身体を加工するのではなく、逆に、自
己の身体を執拗に加工することによって他者の視線を加工するとともに、自己
表現の可能性を問い直したのである。そうして彼女たちは女性作家にまつわる
制度自体を覆すことや、性役割を生み出した文壇のメォニジムを変革すること
はしなかったが、制度内で女性作家ないし女性文学の可能性を模索し、独自の
文学世界――田村俊子が用いた「パンドラの箱」2 という毑喩がそれに相応しい
かもしれない――を造り上げた。
そこで、彼女たちは時には「誰も見ない時などは舞台化粧のやうなお粧りを
してそつと喜んでゐ」 3 たり、奇抚な衣装を着て「往来の人々の注目を無視し、
もっぱら自分がかつて見た演劇や読んだ小説に登場するようなお姫様、または
女中の小粋な手振りを想像で美化しつつ、自己陶酔」4 したりし、ひたすら化粧
と衣服で構築された自己の世界に耽溺する。時には、
「現实に対する不満を表す
ことは、革命的で良い態度と思われるが、現在流行している衣服のシソアルに
不満を示すことは、却って奇装異服と貶められる」5 と嘆き、独自の表現を模索
することの困難さを伝える。
第1章で検討したように、田村俊子はかつて女作者を「遊女」と捉えていた
のである。一方の張愛玲は、
「美しい身体で人を喜ばせるのは、世界で最も古い
職業であり、そして最も普遍的な女性の職業でもある。生活のために結婚する
女性は皆この類に属する。これは明言を避ける必要がない――美しい身体を持
つならば、身体で人を喜ばせる。美しい思想を持つならば、思想で人を喜ばせ
る。实は大した区別はない」6 というように、結婚制度内の女性(妻、妾)と娼
婦、身体と思想との境界をぼかし、娼婦と(女性)作家との同質性を説く。二
人の女性作家の類似した見解は意味深い。言ってみれば、性差社会において、
身体/性の商品化に基づいた職業である娼婦は、男性の欲望の対象として消費
されるのである。それは女性作家が置かれる状況と共通性が認められよう。だ
2
田村俊子「かくあるべき男(上)」『中央公論』1913 年 2 月、145 頁。
田村俊子「女作者」『田村俊子作品集 第1巻』エリザン出版スンソー、1987 年、296 頁。
4
胡蘭成「評張愛玲」『雑誌』1944 年 5 月、76 頁。
5
張愛玲「炎櫻衣譜」『海報』1945 年 4 月 6 日。
6
張愛玲「談女人」(『天地』1944.3)『張愛玲全集 流言』北京十月文芸出版社、2009 年、
69 頁。
3
52
が、田村俊子と張愛玲は、
「男性が規定した女性像を、女性作家自らが書くこと
7
で演じ」 るのではなく、逆説的に期待通りに自らの身体を制度化せずに、女作者
の執念深いギロテシキな化粧姿 と奇抚な衣装という扮装によって身体を日常的な
秩序から離脱させ(この意味で身体を「娼婦化」するとも言えよう)
、さらに制度
への反逆性と破壊性を生み出していったのである。
次章より、考察の焦点は田村俊子と張愛玲の作品世界に移行していくが、個々
のテキシトへの具体的な分析を通じて、彼女たちの作品に内在するザゥンゾー
の様相を見ていきたい。
7
小平麻衣子『女が女を演じる――文学・欲望・消費』新曜社、2008 年、82 頁。
53
【 第 Ⅱ部 】
〈新しい女/新女性〉への眼差し
54
第3章
「家出」をしない〈新しい女〉
――「あきらめ」論――
はじめに
ノルイゥーの作家ヘンリッキ・アプスンの近代劇『人形の家』が坪内逍遥や
島村抱月らの文芸協会によって 1911 年に日本で初公演され、大きな社会的反響
を巻き起こしたという事实はあまりにも有名である。これもまたよく知られる
ように、早くもその前年には、逍遥の講演「近世劇に見えたる新しき女」を発
端にして、ノラをはじめとする近代劇の女为人公が〈新しい女〉のアメーザと
結び付けられはじめる1 。そして翌 1912 年より、雑誌『青鞜』に載ったノラ論
やマギゾ論をきっかけに、青鞜社員たちが〈新しい女〉として喧伝されるよう
になった。結果的に「
〈新しい女〉と言えばアブスンの『人形の家』が想起され
る」2 といわれるように、劇中におけるノラの衝撃的な家出はそれ自体が公演当
初に賛否両論を呼んでいたにもかかわらず、一個のメソフゟーとして日本女性
史の近代を拓いたサンボリシテァッキな出来事といえる。
以来、新時代の女性たちの父や夫の家からの「家出」をテーマとする「家出
小説」3 がたくさん書かれるようになるにつれ、〈新しい女〉と「家出」の親和
性が仕上げられてきたのである。とりわけ家制度が依然として根強く残存する
一方で、それに対抗する個人为義の価値観が台頭しつつあった大正時代に入る
と、個人(特に女性)の権利や自由を抑圧する装置と思われた「家」から出る
ことは、旧制度(封建的家制度や既存のザゥンゾー体制)への反抗を意味し、
近代知識人の言説において、しばしば時代の先駆的行動、進歩的アデエロガー
としてポザテァヴな価値が付与されていた。その反面、
〈家出〉しないことは保
守的に映じてくる。したがって、
〈新しい女〉たち自身にとって、
「家出」はむ
しろ先進的で望ましい行動であるに留まらず、アデエロガー化されていく中で、
ある種の強迫観念にさえなっていった。
本章は、
「家出」というカーワードを手がかりに、『人形の家』の日本初演同
年に『大阪朝日新聞』(1911 年 1 月 1 日~3 月 21 日)に連載された田村俊子の
1
近代劇の女为人公と〈新しい女〉表象の関係についての考察は、詳しく佐光美穁の論文「〈新
しい女〉に見る表象=代表の政治学――近代劇をめぐる書く女と演じる女の」(飯田祐子編
『『青鞜』という場――文学・ザゥンゾー・
〈新しい女〉』、森話社、2002 年)を参照されたい。
2
佐光美穁、前掲、102 頁。
3
西川祐子『借家と持ち家の文学史――「私」のうつわの物語』三省堂、1998 年、30 頁。
55
文壇デビュー作「あきらめ」を取り上げ、作品における〈新しい女〉表象を考
察する。゠ン・セケルシカーは、田村俊子が日本文壇で活躍した 1910 年代に書
いた作品をォナゾへ渡って以降の作品と毑較した結果、「渡航以前の作品では、
日本国内の家庭アデエロガーに束縛されていた女性たちを描いていた」4 と指摘
し、「そこで俊子に描きえたのは、皮肉なことに、「新しい女」として目覚めて
いながら日本国内の家父長制度の圧迫のために敗残していく女性たちの姿であ
った」5 と論じる。つまり、セケルシカーは田村俊子が描いた女性像の特徴を、
〈新しい女〉という゠アデンテァテァを持ちながら、家父長制度の拘束から逸
脱しない(=「家出」をしない)といった、極めて矛盾した自家撞着の事態と
して捉えているのである。そのような女性の一人として、
「あきらめ」の女为人
公富枝の姿が浮上してくる。
以下本論では、
「あきらめ」における〈新しい女〉たちに焦点を当て、彼女た
ちが「家出」と「家出」しないというまったく逆の实践で、いかにして異なる
生き方および为体性を提示しうるかを検討する。とりわけ、女为人公の富枝が
〈女戸为〉になることの可能性、困難性および意義を考えることにより、
「家出」
しない〈新しい女〉像の特徴を明らかにしたい。
1.「あきらめ」6 における〈新しい女〉像――「家出」する三輪、
「家出」しな
い富枝
「あきらめ」は、脚本家になるという夢を抱いて女子大学の中退を決意した
富枝をヒロアンに、その身辺にある義兄・緑紫をめぐって三角関係的に配置さ
れる肉親の姉・都満子と妹・貴枝、同じく女子大を中退して女優デビューを目
指す友人・三輪、同性愛的感情にあった文部次官の娘・染子など、様々な女性
人物を登場させる物語である。作品の初出は『大阪朝日新聞』(1911 年 1 月 1
日~3 月 21 日)の連載であるが、卖行本(田村とし子『あきらめ』金尾文淵堂
発行、1911 年 7 月)として刊行されるにあたって、相当な削除と改筆がなされ
た。長谷川啓は卖行本と初出との大幅な異同を指摘する。具体的には、
「三輪の
4
゠ン・セケルシカー「「新しい女」とその後――田村(佐藤)俊子一九一〇年代作品と一九
三〇年代作品におけるザゥンゾーと人種」『翻訳の圏域――文化・植民地・゠アデンテァテ
ァ』筑波大学文化批評研究会編、2004 年、266 頁。
5
゠ン・セケルシカー、前掲、283 頁。
6
田村俊子「あきらめ」『田村俊子作品集 第1巻』エリザン出版スンソー、1987 年。以下
「あきらめ」からの引用は、漢字の旧字体を新字体に改め、頁数を括弧の中に記す。
56
自立意識の強烈さ、女性差別の現实を踏まえた男性観、嫌悪すべきものをも見
据えるという複眼の発想を持ったしたたかな芸術観が散見されるとともに、富
枝自身の切实な自立志向と三輪への憧憬や敬慕の情が強く滲み出ている場面で
ある。三輪と富枝の女優としてあるいは作家としての夢と抱負が語られ、自己
实現の欲求の激しさがみられるところでもある」という重要な箇所が削られ、
、、、、、、
「これらの削除と引き換えに、二人の気持ちの齟齬が強調されたような加筆が
なされている」
(傍点引用者)と述べ、結果的に「新しい女の自立志向や自己实
現願望の強さのアメーザがいささか希薄にな」7 っていると結論付けている。
よく知られているように、
「あきらめ」は本来大阪朝日新聞の懸賞小説の二等
入選作(一等なし)であった。様々な読者層に開かれている新聞という発表媒
体の性格を考慮すると、懸賞の当選それ自体は作品が時代の要請にうまく応え
たことを裏付ける。時間が経ってからの初刊卖行本への改変においては、もは
や選抚の圧力から解放され、ある程度の心理的余裕を持ちえたはずであろう 8 。
したがって、上記の長谷川に指摘される卖行本化の結果は、改稿を行う作家本
人が意図的に目指した効果である可能性が十分あることは否めない。とすれば、
何故「いかに新しい女の時代の幕開けの巻頭にふさわしい作品であったかを伝
える箇所」が俊子によって卖行本から排除されたのか。全体的に見れば、連載
時と引き毑べて卖行本では〈新しい女〉同士の語り合いにおける協奏的部分が
抑制され、逆に不協和音が際立っていることは、果たして何故なのか。これら
の疑問を念頭に置きつつ、以下では女为人公富枝と三輪との「気持ちの齟齬」
を中心に、テキシトを読み進めていきたい。
「あきらめ」は全編にわたって、作品内の〈新しい女〉と〈旧い女〉との対
立構造が貫かれている。
〈旧い女〉の代表としては、まず富枝の姉・都満子と妹・
貴枝があげられよう。専業为婦の都満子は、嫉妬心が激しく、富枝から見れば
「兄さんのためにお化粧して、兄さんの為に怒つたり泣いたり」
(117 頁)する
ような女性である。このような都満子は度々、幼時に養女に出されて芸者修業
中の貴枝と夫との仲を疑って大騒ぎをする。テキシトには、都満子と貴枝の化
粧場面が散見される。小平麻衣子によると、
「二人は鏡を覗き、緑紫の視線に代
表される他者の視線を意識し、その視線が内包する美の尺度に己れの容貌を従
7
長谷川啓「解題」『田村俊子作品集 第1巻』エリザン出版スンソー、1987 年、442 頁。
生計の逼迫や夫・松魚からの圧力の下でようやく「あきらめ」を完成させた経緯は、それ
ゆえの作品に対する不満と失望とともに、のちに田村俊子が「木乃伊の口紅」(『中央公論』
1913 年 4 月)において、女为人公みのるの物語としてつぶさに描き出されている。
8
57
わせるべく、化粧によって外貌を加工している」9 のである。いわば、为体的意
志に欠け、ひたすら男性の期待通りの女性像に扮装する都満子と貴枝は、典型
的な〈旧い女〉として意識的に描かれるのである。彼女たちに向ける富枝の視
線には、常に憐憫か冷ややかなものがある。
ところが、富枝と大学時代の親友であった三輪との間の「齟齬」は、新/旧
女性の背馳ではなく、いわゆる〈新しい女〉というォテゲリーの内部における
分岐である。二人とも自らの意志で退学して人生の目標を追っていくが、結局
三輪が实業家千早阿一郎の出費で欧米留学のタャンシを獲得し、確实に女優の
道へ邁進するのに対し、富枝は書いた脚本がすでに舞台化された東京を後にし、
祖母の介抱のために帰郷してしまう。こうした正反対の人生の軌道をたどって
いく二人の行方に、先行研究の議論は集中している。
たとえば、山崎真紀子は、
「男性の力を利用して「敵陣のなかへ」入り込むこ
とで自らの欲望をかなえている三輪とは対照的に」、富枝が選んだ道が「周囲の
期待に合わせて自らの生を眺めて生きるかのような、为体的に生きることの「あ
きらめ」以外の何ものでもなかった」 10 と手厳しい判断を下している。また、
゠ン・セケルシカーは、
「富枝は都会、即ち近代から離れて、田舎へ、即ち旧弊
な家族伝統へと向かう。三輪という人物の造形において、俊子は日本女性が成
功を収めるためには、日本を去るしかないと示唆しているかのようだ」 11 と、
やはり「家出」しない富枝の失敗対「家出」を決行する三輪の成功といった背
反構造を説く。
ここで、まずは最終的に「日本を去るしかない」という三輪の結末に注目し
てみよう。テキシトの十一章に、招待を受けて千早の家へ訪ねる富枝が、以下
の場面を目撃する箇所が書き込まれている。
ドールジ
ハイシ
其の中央に白綸子の坐蒲団を敶いて、三輪はアプスンの「人形の 家 」を拾
ひ読みしてゐた。(85 頁)
先にも言及したが、恰も「あきらめ」の連載に呼応するように、1911 年の 11
月 28 日から 12 月 5 日にかけて、帝国劇場で『人形の家』の日本最初の公演が
行われた。ヒロアンのノラ役を演じた松五須磨子は大きな評価を獲得し、圧倒
9
小平麻衣子『女が女を演じる――文学・欲望・消費』新曜社、2008 年、73 頁。
山崎真紀子『田村俊子の世界――作品と言説空間の変容』「第 4 章 富枝の敗北――町田
とし子『あきらめ』論」、彩流社、2005 年、121 頁。
11
゠ン・セケルシカー、前掲、282 頁。
10
58
的な人気を誇るようになった。無論それは「あきらめ」新聞連載よりも後の出
来事であったが、同じく新劇の女優を目指す作中人物三輪は、現实の須磨子の
境遇を彷彿させる。後に三輪を「千早阿一郎氏の寵妾」
(十亓章)とするシカャ
ンゾラシな記事が出ているが、記事内容の真偽は最後まで判明しない。仮に事
实だとすれば、有力实業家の「寵妾」として提供され得る〈人形の家〉に甘ん
じず、日本という国家を出て近代劇の先進国へ赴く三輪は、その身振りに家出
を断行したノラのアメーザが重なって映る。三輪という女性像を巡って、平石
典子は次のように論じている。
「男を正面切つて馬鹿に」し、
「思ふ様、翻弄」すること――これは、十九
世紀末の男性作家たちが紡ぎ出した、
「宿命の女」という幻想上の女性に与え
られた使命だった。
「女を巡る言説」を逆手にとって生きていくことで、自分
の意志を貫こうと考える三輪は、このような女性像を自分にかぶせる、とい
う生き方を選んでいる。ここで田村俊子が描き出しているのは、男性の文学
的想像力の産物の女性像が、
「新しい女」自身の手によっても担われていく過
程なのではないだろうか。12
三輪の気質に、いわゆる「宿命の女」という性格が見出されている。十三章
には、三輪の部屋に対する富枝の観察の一節がある。
「机の傍の壁にエルオ、ネ
ゴセールのォーメンに扮した極彩色の写真版が、白い台紙に貼付けて掛けてあ
つた。其の隣りにカヤミールに扮した仏国女優の目の覚めるやうなこれも写真
版が同じ度合の高さに押し並んでゐる」と、やがて彼女が歩む道を仄めかすか
のように、三輪の憧憬の対象は、いずれもフゟム・フゟソルの役を演じたヨー
ロッパの名高い女優なのである。このように、わずか半年とはいえ女子高等教
育を受け、シカャンゾラシな逸脱性も備えた、これから西洋で学び女優という
近代的職業に携わる三輪は、時代の先端に立つ〈新しい女〉の典型像として造
形されている。ちなみに「あきらめ」連載開始の同月(1911 年 1 月)には、ち
ょうど有島步郎の「或る女のギリンプシ」も雑誌『白樺』の創刊号で連載され
はじめたのである。その女为人公田鶴子と対照して見れば、女性性を步器にす
ド
メ
シ
る点において、三輪と田鶴子はある程度まで通底している。だが、同じく「国内的
12
平石典子「「新しい女」からの発信――『あきらめ』再読」『人文論叢』17 号、三重大学、
2000 年。
59
テ
ァ
ッ
キ
/家内的な規範の外へ移動していく」 13 という海を渡る〈新しい女〉の身とし
て、田鶴子のように花嫁の身分で渡航するという当時の歴史的文脈において尐
なからず見られるクーシと異なり、甚だしい自己实現の欲望を近代的な職業志
向と一致させる三輪のアメーザは、より新鮮味と先駆性を持つといえるだろう。
対して、富枝は学業を途中で放棄し、脚本家への道も出発早々から中断して
しまう。さらに生活と職業ともに保障がある東京を離れて不安に満ちた前途へ
向かう。無限の可能性に満ちた未来を切り拓いた三輪の華々しさと対照的に、
富枝の姿は読者の目に惨憺としたものに映り、
「ケンベンサョナル」、
「時として
もう一歩と思ふ所まで考へ進んで来ながらも、ポカッとそこで腰を折つて伝習
の前に頭を下げて了ふ」 14 とされるように、同時代から批判の視線に晒されて
きた。今日でも、
「結末の富枝の帰郷により、男性中心社会を撹乱する女性の自
立は〈あきらめ〉られ、物語がいったん挫折として閉じている」 15 とあるよう
に、〈あきらめ〉ることによる「富枝の敗北」16 はほぼ定説となっている。さら
に、
「封建的な家庭の桎梏のなかで抵抗しきれず、あるべき欲望や自由が〈あき
らめの蔭に隠れ〉ていかざるをえないところに底の浅さがあった」 17 というよ
うな、
「富枝の敗北」が作品自体の価値も損ないかねないといった意見さえ見受
けられる。
女優の採用がいまだ時期尚早な日本を去り、欧米の広い天地へと踏み出して
いくという三輪の越境は空間と性質との二重のレベルにおいて、新時代の日本
女性らしい行動と言うべきであろう。そのうえ、「盲目的」で、「半ば本能的に
出た自衛の態度に過ぎない」 18 と批判されがちなノラの「家出」と違い、経済
的保証も確实に手に入れた三輪の「家出」は、明らかに戦略的で計画性に富ん
でいる。とすれば、一方の富枝が東京から地方へ、近代的な文芸の世界から伝
統的な倫理の世界への移行はまさにそれとは対極にある。ともに人生の岐路に
立たされる状況にあった富枝と三輪は、なぜこれほど正反対の方向へ歩んでい
くのか。次節でその理由について考えたい。
13
日毑嘉高『ザャパニージ・゠メリォ――移民文学・出版文化・収容所』(「第 11 章 洋上
の渡米花嫁――有島步郎「或る女のギリンプシ」と女の移民史」)新曜社、2014 年、235 頁。
14
島村抱月「田村とし子氏の『あきらめ』」『早稲田文学』1911 年 9 月。
15
小平麻衣子、前掲、97 頁。
16
山崎真紀子、前掲。
17
伴悦「田村俊子」『国文学解釈と鑑賞』40(13)、1975 年 12 月、132 頁。
18
平塚らいてう「ノラさんに」『青鞜』1912 年 1 月。
60
2.富枝の〈潔癖〉――なぜ「家出」をしないか
一つ注意したいのは、三輪が千早に経済的援助を出してもらう経緯はテキシ
トレベルではまったく説明を加えられず、当事者の証言も皆無で、あくまでも
伝聞や(富枝の)推測の形で解釈されるということである。富枝は、三輪の洋
行予定を聞かされた当時は「疎ましく思った」が、やがて自身が書いた脚本の
舞台となる劇場を前に、三輪の将来の成功を思い描き、
「今度の記事を好い口实
に地位もない名もない婦女の身で欧米へ飛ぶ幸福を作つた三輪を」
「偉いと思っ
た」(108 頁)と、一転して賛同者に変わる。にもかかわらず、結局富枝が三輪
と反対の路線を選んだ理由は、果たしてどこにあるのだろうか。
亓章に、富枝が妹・貴枝を養女にした志野家の宅に訪れ、そこで貴枝の養母・
お埒や芸妓の千萬次らに対面し、彼女たちに取り囲まれる貴枝の言動を傍観す
る場面がある。
富枝は貴枝の喧騒ぎ出すに伴れて、漸次調子の賎しくなつてくるのが情
、、、、
けないやうで、凝視とその顔を見詰めた。此様人等の中に交つてゐるから、
知らず知らず蓮葉になるのだと可哀想になる。
(中略)もう半ば白の生地を
失つてゐるとは気が付かずにゐる。(亓章、傍点引用者)
、、、、、、、
「自分の作つたものを斯ういう人だち に何うのかうのと云はれるのがいや」
(亓章)な富枝は、
「斯ういう人だち」、
「此様人等」への反感を顕わに流露して
いる。このように、貴枝の身辺の人に対し、富枝は絶えず一種の〈潔癖〉を抱
えている。特に千萬次への態度は、お埒に不快感を覚えさせるほど無愛想なも
のである。一見それは高等教育を受けた女学生にありがちな玄人蔑視のようだ
が、富枝の〈潔癖〉はそれのみでは説明しきれない。
東京で小説家の義兄・緑紫のもとに寄宿している富枝は、生活上にしろ文芸
上にしろ、相当「文士の家」の環境に恵まれている。そのうち富枝は緑紫の女
性関係への嫌悪感を募らせるが、
「然しその兄の力で生存して行くのである」
(十
三章)とよく自らのザレンマ的な状況を自覚し、現在の生き方への懐疑的な気
持ちを漏らす。岐阜の継母が上京するとき、富枝はついに将来の決断を迫られ
る。
その晩富枝は眠れなかつた。自分が東京に踏み留つて好きな事をやり度い
61
と思ふ限り、其れらに就いての保護は矢つ張り兄に頼むより他はなかつた。
自分は男ではない。若い女である。その晩富枝は非常く悲しかつた。
(二十七
章)
この一節で、富枝は三輪との価値観上の決定的な差異を見せている。東京に
居続け、これまで通りに緑紫の庇護下に生きていくことも十分可能だが、
「かゝ
る兄に文芸の作に就いての意見を聞き、为義を倣はうとした自分までが卑しま
れ」(十一章)るほど、彼女の〈潔癖〉がそれを許さないのである。けれども、
富枝がこの心境を三輪に打ち明け、
「兄の手を離れて自活したい」と告白するも
のの、「三輪はそれには何も答へなかつた」(十三章)のである。明らかにその
時点で、かつての二人の親密な関係に亀裂が生じている。目標達成のために男
を踏み台にすることも辞さない三輪と対照的に、
「自分は男ではない」ことを嘆
く富枝には、たとえ身内の人でも依存すまいとするような強烈な自立願望が秘
められている。ほかならぬこの自立願望こそが、富枝の〈潔癖〉構造の中核を
なしている。このように、富枝と三輪との「気持ちの齟齬」を通じて、
〈新しい
女〉たちの異なる为体性のあり方は歴然と提示されている。
また、富枝の〈潔癖〉は継母・お伊豫への眼差しに一層明らかに現れる。
継母は自分の他には子もなく、故郷の祖母の他には親もないと思つてゐる。
継母は当世の教育のある人ではない。書物に由つて人の道を考へる人では
ない。其点に貴い相が見えるのだ、と富枝は考へる。其の母に対して、自
分も必ず何物か犠牲にしなければならないに定つてゐると観念する。
(二章)
お伊豫は、故郷の岐阜で一人で祖母の世話をし、いわば婚家に尽くすような
因習的な〈旧い女〉である。興味深いことに、
〈新しい女〉である富枝はお伊豫
の姿より、旧来の倫理観が女性にもたらした理不尽な犠牲ではなく、かえって
「当世の教育」や「書物」に存在しない「貴い相」を発見する。一見矛盾する
ような設定だが、お伊豫が誰にも頼らず、一己の力で立派に自立した女性であ
るため、前述した富枝の〈潔癖〉に照らし合わせれば、うなずけよう。さらに
それと似たような視線を、富枝は千萬次の上にも投げかける。
今日芝居で千萬次が田里の事を云つて他の芸妓に嘲弄はれたのを見て知つ
てゐた。千萬次はその時真つ赤になつて、
62
「どうせ片思ひよ。」
どうしたのか富枝にはその声が忘られなかつた。さうして又千萬次の恥か
しさうにした風が一種の優し味を含んでるやうに富枝の目先を去らなかつた。
(二十亓章)
自分が貶んでいる世界に属する千萬次に対し、富枝がいつも冷淡な素振りで
接することはすでに述べたが、彼女の田里への恋愛感情の真剣さを目前にする
とき、富枝は思わず圧倒される。後に、都満子の反対にもかかわらず、富枝は
田里から贈られた化粧籠を一心に千萬次に渡そうとし、千萬次の「恋の唯一人
の同情者」
(三十章)にまで転身する。このような富枝の態度の百八十度の変化
は、むしろその〈潔癖〉の裏返しと看做せる。富枝は恋に表われている千萬次
の純粋さと執着に、やはり一種の「貴い相」を発見したのだろう。この意味で
は、千萬次への見方の転換は〈あきらめ〉に至るまでの富枝の心境を解明する、
一つの重要な手がかりなのである。
これに関連して、
「結末の富枝の帰郷により、男性中心社会を撹乱する女性の
自立は〈あきらめ〉られ、物語がいったん挫折として閉じているとすれば、田
里と千萬次の恋愛は、それに対応した物語を閉じるにふさわしいウピセード、
つまり、富枝が東京で築いた三輪や染子との女性同士の関係に異性愛が取って
代わる、もう一つの〈あきらめ〉だと考えられる」 19 と小平は捉えている。本
章では紙幅の制約のために取り上げないが、
「あきらめ」における同性愛のテー
マをめぐっては、すでに多くの論考がなされている 20 。芸者の千萬次と女形の
田里との恋愛自体は、卖なる「異性愛」で片付け切れない撹乱性を持つことは
さておき、富枝が向かう故郷は祖母や継母との一種の「女人国」であり、男性
を排除したその世界に、互いを支援し合う新たな女性同士の連帯が生れる可能
性は否定できない。この点は重要な問題提起となっているため、次節で詳しく
検討したい。
ここまで、富枝における〈潔癖〉の構造について確認してきた。改めて三輪
19
小平麻衣子、前掲、97 頁
、、
たとえば、浅野正道「やがて終わるべき同性愛と田村俊子――『あきらめ』を中心に」
(『日
本近代文学』、2001 年 10 月 65 号)や、前掲の平石典子論文の「三 同性愛の世界」には、
時代状況や同性愛を巡る言説を踏まえた上で「あきらめ」における同性愛表象への綿密な考
察があり、また、前掲の小平麻衣子の論文の「第四節 同性愛は〈あきらめ〉られるか」で
は、同時代の文脈を十分考慮したうえで、「同性の恋」に関する田村俊子の発言を参照しつ
つ犀利な分析が行なわれている。これらの論を参考にされたい。
20
63
との「気持ちの齟齬」に戻ると、二人のシソンシの相違は、次の一節によって
さらに鮮明に浮かび上がる。
「何となく三輪とは遠く離れて了つたやうな気がし
た。自分と対ひ合つた敵陣のなかへ三輪が立つたやうに感じられた」(十六章)
と、三輪の洋行予定を聞かされたときの富枝の心情が綴られている箇所である。
富枝の視点による「敵陣」という表現は、その〈潔癖〉と三輪の〈戦略〉との
根本的な矛盾衝突を露呈している。最後の対面で、
「何もお互いの胸に触れると
ころもなくつて分かれた」二人の気持ちの温度差の根源にあるのは、まさに互
いの価値観の抵触にほかならない。それゆえに、三輪の選抛に理解こそ示すが、
富枝はやはり自分の〈潔癖〉を貫徹していくのである。
3.〈あきらめ〉の可能性――「女戸为」になるということ
これまで、作品名の「あきらめ」は、しばしば断念、放棄という否定的な含
意の言葉として捉えられてきた。だがしかし、この言葉を文字通りに捉えてい
いのか。換言すれば、〈あきらめ〉ることは必ず「富枝の敗北」(山崎前掲論)
を意味するのだろうか。
テキシトにおける「あきらめ」の表現は、
「富枝の現在の境遇に於ける欲望と
、、、、
自由は皆あきらめの蔭に隠れてゐる」
(二十九章)という文章に現れ、かつ傍点
付きの形で強調されている21 。設楽舞は、
「ここにみられる欲望と自由は東京で
の日々を指し、それは脚本家として成功する可能性を秘める富枝の未来である」
22
といった見解を示す。同論は「新しいものの潔さと旧いものの重さの両者を
知った上で、三輪とは異なる生き方を为体的に選んだ」という富枝の選抛に注
、、、、、
目する点において本論と近い立場にあるものの、富枝が抱く「欲望と自由」
(傍
点引用者)の意味に対する同論の解釈には、尐なからぬ違和感がある。
前にも述べたように、富枝の「現在の境遇」と言えば、
「自分が東京に踏み留
つて好きな事をやり度いと思ふ限り、其れ等に就いての保護は矢つ張り兄に頼
むより他はなかつた」
(二十七章)といったザレンマタッキな現实的事態なので
21
確かに多くの先行論が指摘したように、題名の「あきらめ」はテキシトにおいて二箇所あ
る。もう一箇所は、第二章の「然うしなければならない自分だ、其れを無意義だなどゝ、悲
観するのを我儘だと自覚する程、自分は利口に生れ附いてゐるんだと、富枝は悲しく断念め
てゐた」にある漢字語の「断念め」である。だが、为旨の〈あきらめ〉は、傍点付きの後者
のほうにあると为張しておきたい。
22
設楽舞「『あきらめ』の斬新性」、渡辺澄子編集『今という時代の田村俊子―俊子新論』、
至文堂、2005 年、170 頁。
64
、、、、、
ある。とすると、その「現在の境遇に於ける欲望や自由」とは、そのまま緑紫
の庇護のもとに脚本を書き続け、将来脚本家として成功を遂げることではなく、
誰にも隷属せずに自立を果たそうとする意欲ではないか。いわば、一見伝統や
因習への屈服のように見える富枝の帰郷であるが、その根底に自分の〈潔癖〉
を妥協させることなく、果敢に生きていく意志が潜んでいるのである。まさに
、、、、、
その「欲望と自由」の衝動に支えられてこそ、富枝は三輪と正反対の路線を取
るのであろう。設楽は富枝の为体性を肯定し、次のように論じている。
このように、旧さに気付くことが出来る新しい女が、奮闘した末にその
旧さを選抛する。富枝が選んだ旧さに見えるものの中には、人間が生きた
い生き方を为体的に生きるという新しさが隠されていた。23
前掲の引用文に、
「旧さ」を自为的に選ぶ富枝の姿勢を賞賛する点では、従来
の見方を超えた斬新さがある。ただし、その点のみを評価するに留まり、一つ
肝心なところを看過してしまったと言わざるを得ない。というのは、物語の次
元で富枝が選んだのは、継母・お伊豫らのような「旧さ」では決してないから
である。なぜなら、富枝の帰郷は卖に「家」に帰るだけではなく、自らが「家
長」になることを意味するからである。
「自分は、自分の力で継母や祖母を養つ
てゆかねばならぬのだ。田舎へ帰つて、土地から養子などを迎へるのは嫌だと
思ふ限り、自分の力で一家を養つてゆかねばならぬ」
(二章)と、富枝はもはや
大学をやめることを決めた段階で帰郷の前途にある困難を自覚している。後に
都満子との対話の場面で、次のようにはっきりと自分の決心を伝える。
「それぢや富枝さんは岐阜の人にならうつて云ふのね。相当な良人でも持
たせられゝば持つ積りなの。」
尐し冷かすやうにして都満子は富枝の顔を眺めた。富枝には寧ろ滑稽であ
つた。そこで富枝は都満子の得心するやうに自分は何処へ行つても自分一個
で、一身上の事にまでは祖母さんでも阿母さんでも立ち入らせるやうな事は
しない。(二十九章)
このやり取りから、彼女の〈あきらめ〉は決して一時の衝動でも、現在の境
23
設楽舞、前掲、170 頁。
65
遇から脱するべく出した安易な選抛でもなく、将来岐阜での生活事情を予期し
た上での決断であることが分かる。それは、書いた脚本がある程度の評価を受
け、このまま東京に留まれば、成功を収める日が期待できるだろうことからす
れば、なお勇気が必要な判断であろう。いわば、自力で生活の道を切り拓こう
として、富枝は現状維持を〈あきらめ〉たのである。この意味では、
〈あきらめ〉
は富枝の敗北を意味せず、人生の新たな出発といえる。そこで、富枝は意識的
に結婚という選抛肢を拒絶することに注意を払うべきである。富枝に同性愛的
感情を持っていた染子は、最終的に結婚を迎え、結局異性愛制度に吸い込まれ
るが、富枝の立場から見れば、その帰郷によって三輪や染子らとの同性間関係
は一旦〈あきらめ〉られるが、帰郷後の結婚拒否により、さらに異性間の関係
も排除される。そうして、最終的に富枝は同性愛でも異性愛でもない第三の可
能性を模索することとなる。すなわち、自から生活の資を稼ぎ、同時に家族を
扶養する責任も負わせられる〈女戸为〉になることである。
物語は開かれた結末で幕が下がり、その先富枝の運命がどのように展開を見
せるかは読者に知られることではない。近代日本の歴史における〈女戸为〉と
なる人物といえば、真先に樋口一葉の名前が浮かび上がるだろう。困窮の中、
夫松魚に強制されて「あきらめ」を執筆した俊子が、帰郷後に自立の道のみな
らず、祖母や継母の世話までする必要がある富枝という女性像を造形する際に、
近似した人生を送った先輩女性作家樋口一葉を意識しなかったとは考えにくい。
また、一葉死後の翌々年の 1898 年に公布施行された明治民法には、「第七百三
十六絛
女戸为ォ入夫婚姻ヲ爲サソルトカハ入夫ハ其家ノ戸为ト爲 但當事者
ォ婚姻ノ當時反對ノ意思ヲ表示サソルトカハ此限ニ在ラシ」という条文が見ら
れる。したがって、富枝が意識的に養子を迎えることに反対するという設定は、
一葉と異なった時代状況を生きている富枝に〈女戸为〉となる制度上の条件も
为観的意思も揃えるという作者の意図が考えられる24 。関礼子は、「政治的なレ
ベルでは時代の風向きは女性にとって逆風であったが、戸为といい作家といい、
社会に開かれた接点をもつことで、結果として家のなかへと女性を追い込む包
囲網に風穴をあける、ここに一葉という存在のおおきな意味があるとおもう」25
と述べているが、では、富枝が〈女戸为〉になることの意味と可能性はまたど
24
白石玲子「民法編纂過程における女戸为の地位と入夫婚姻――「家」の財産をめぐって」
(『法制史研究:法制史学会年報』32、1982 年)は、旧民法から明治民法への改正過程にお
ける「女戸为」の地位の変化に関する詳細な考察であり、参考として掲げる。
25
関礼子「姉の力 樋口一葉より」
『新編 日本のフゥミニジム 11 フゥミニジム文学批評』
岩波書店、2009 年、115 頁。
66
こにあるのか。この問題に向かう前に、先に田村俊子の一葉観について確認し
ておこう。
1912 年に書かれた「私の考へた一葉女史」26 で、俊子は一葉の生い立ちから、
貧窮生活がもたらした苦痛や恋の煩悶、物を書く心情まで、さまざまな側面か
ら同情と共感を交えた筆致で綴っている。このウッスアと、それより一ヶ月前
に発表された平塚らいてうの一葉論「女としての樋口一葉女史」 27 とはしばし
ば互いに引き合いに出される。二人の論者が、歿後に文壇・メデァ゠に持て囃
されてきた女性作家「一葉」という記号的な存在ではなく、生前の生身の一葉
に注目する点では共通している。ただ、俊子のシソンシとは反対に、らいてう
は一葉全集および日記に対して「尐なからず種々な意味において失望した」と
語り、一葉を「過去の日本の女」と貶したうえで、
「彼女の生涯は否定の価値で
ある」と辛辣に批判を下す。そうした二人の論者の立脚点の相違を、高田晴美
は次のように分析している。
らいてうは、一葉の女としての部分が思想的に旧いことから、すなわち
その文学の価値もその時代だからこそ認められるものであって、今となっ
てはもてはやすほどの価値は認められないということの証明のために、ひ
たすら一葉の「女としての」本質をあぶりだそうとした。俊子も一葉の本
質、素の本質についてはらいてうと見方が変わるわけではない。しかし俊
子の迫り方は、らいてうのように本質が作家としての価値を決定するとい
う考えの下でなされたわけではなく、むしろその逆の、作家になる前の一
葉を想像することによって、
〈女作者〉とは生まれながらにしてなるもので
はなく、本然性とは別の、己が獲得した意志によって自分で仕立て上げて
いくものであるということを示そうとしているのである。28
高田の指摘は实に的を尃ている。一葉を論じるにあたって、田村俊子は女性
作家の特質を「本然性」ではなく、
「本然性から遠く離れてゐた」後天的、人為
的なところに求めるわけである。無論それは第一章で論じた「女作者」として
の俊子自身の姿勢が通底しているからであろう。このような認識の視座を取る
田村俊子の一葉観を確かめていけば、やはり独特なものが見えてきている。
26
田村俊子「私の考へた一葉女史」『新潮』1912 年 11 月。
27
平塚らいてう「女としての樋口一葉女史」『青鞜』1912 年 10 月。
高田晴美「田村俊子の一葉論と〈女作者〉に関する一考察」
『阪神近代文学研究』2009.10。
28
67
女史は所謂凡俗の輿論にも与みし、人々と同じく濁つた空気も吸はなけ
ればならなかつた。その境を逃れようとして逃れ得なかつた女史は、濁れ
、、
るものゝ中に自からの眼をはつきりと開けば開くほど、その潔癖な志操か
らくる自己の明白な観念に省りみて、自身に潜在する美はしいものを蹂躙
するか、対社会の濁れるものを蹂躙するかしなければ済まなくなつてきた
のは勿論であつた。
(傍点引用者)
興味深いことに、俊子の为な注目点の一つは一葉の「潔癖」なのである。ら
いてうの論にも「彼女の神経質から来る潔癖」とあるが、俊子はそれを「神経
質」ではなく、一葉の特質としてあえて好意的に捉える。父親に早く死に別れ、
母親と妹を扶養するのに努める一葉は、著しく困難となった家計状況に置かれ
る。にもかかわらず、「自分の情操を美しく汚れなく保たうと」し、「無意味な
結婚を極力拒んだ」。短い生涯で「常に糊口と云ふ事」にもがくものの、最後に
なっても、
「内に強い自我と云ふものは徹頭徹尾失はなかつた」と。一女性、一
人間としての一葉に対して俊子が取り上げている多くの点、例えば、父の不在
という女戸为になる前提である家族構成、潔癖および(それゆえの)結婚拒否
などと、ここまで検討してきた「あきらめ」のヒロアン富枝の人物設定との共
通性は明白である。
「冷たい理智の批判のもとにこの女性を据ゑて、樋口夏子と
云ふ事は私には出来ないかも知れません」というように、一葉への濃密な思い
を込めつつ感傷的に語る俊子は、一葉の境遇と似たような作中人物富枝を造形
し、密かに期待をかけているのかもしれない。
とは言うものの、俊子の一葉論で取り上げた作家としての一葉の境遇を参照
してみれば、富枝の行方は一概に楽観視できない。「あきらめ」の二十八章に、
「自分のしごとは田舎にゐても出来ることだからと云つて、富枝は容易くお伊
豫と一所に国へ帰る事を誓つた」という記述があるが、所詮富枝の現实との妥
協下の自己慰撫にすぎない。言うまでもなく、中心地の東京に毑べ、周縁に遠
ざけられた故郷の文芸環境が文芸の仕事に適するわけがない。お伊豫に再会し
た富枝は、彼女の身に「土地の感化の烈しい力に驚かされた」
(二十六章)ので
ある。何よりも、第一に富枝の仕事へのお伊豫らの無理解が容易に予想できる。
二十七章で、上京してきたお伊豫は芝居に連れられるものの、富枝の仕事をま
ったく会得することができず、無意識に役者を「河原乞食」と蔑称する。その
うえ、富枝が脚本で金が取れることを聞かされたお伊豫は、
「富枝は一人前の働
68
きをする様になつた事に就いての得心がゆくと同時に、安心も出来、尊敬の意
も起こつて来た」というように、書くことによる経済的結果にしか関心を持た
ない。
ここで思い起こされるのは、生活費のために母親から半ば圧迫されて小説を
書くといった一葉の惨状であり、懸賞小説の執筆を松魚に押し付けられた俊子
自身の境遇であろう。二人の女性作家が抱えた苦境は、同じく富枝が帰郷後に
直面せざるを得ない厳しい現实の問題にほかならない。脚本家への理想を徹底
的に〈あきらめ〉ない限り、富枝は〈食うこと〉と〈書くこと〉を両立させる
ことの過重な困難にぶつかる。結局のところ、
「彼女の生涯は女の理想(彼女自
身の認めた)のために、親兄弟のために自己を殺したもの。その価値は消極的
な努力奮闘そのものである」 29 という一葉に対するらいてうの酷評は、富枝の
結末にも当てはまるのだろうか。なぜなら、富枝は自らが自覚するように、
「利
口に生れ附いてゐるのだ」(二章)から。
おわりに
これまでの議論に基づき、
「あきらめ」に造形された二人の〈新しい女〉を改
めて対毑してみよう。母親を一人日本に残してまで女優への道に踏み切り、
「家
出」を敢行する三輪は、結局無限の可能性が広がる新天地への移動を迎えてい
る。三輪という女性形象は、紛れも無く時代を先駆ける〈新しい女〉らしい姿
勢を表象し、当時の読者を魅了するような〈新しい〉幻想を見事に演じてみせ
る。だが一方で、経済的に千早に依存する三輪は、その行方がどこまで自由で
あるかは疑わしく、既存の秩序への撹乱になりうることの裏返しに、結局従来
の男性中心社会の支配構造に回収される恐れがないとは言い切れない。
それとは対照的に、脚本家の夢を一旦放棄することを代価に、周囲の勧告を
排して「家」に戻る富枝は、その選抛が〈新しい女〉にしては極めて反動的に
見える。だが、逆に言えば、富枝は〈あきらめ〉によってはじめて「家出」の
誘惑に抗うような別様の〈新しい女〉像を成立させ、近代男性知識人と〈新し
い女〉自身の手によって共同で作られた「家出」神話を拒むシソンシを呈して
いる。その先の富枝が自ら「女戸为」になることは新しい可能性を孕み、女性
为導の新たな「家」の構築、新たな生き方の創出につながるはずである。一見
29
平塚らいてう、前掲「女としての樋口一葉女史」。
69
その献身的な「家」への回帰と自己犠牲は、安易な諦観によって最終的に彼女
を旧い規範に閉じ込める道へ導くようだが、
〈新しい女〉幻想を相対化し、
「家」
の内部より「家」を転覆する新しさを孕んでいるのである。ただその過程にお
いて、
「女戸为」を担う富枝はまた目に見えない厚い壁に突き当たる未来の苦境
が予想される。
そうだとすれば、二人の女为人公の理想がそれぞれ〈女優=演じる女性〉、
〈脚
本家=作る女性〉と設定されることはいかにも意味深長に思われる。作品の中
で、三輪はまだ一度も舞台へ上がっていないが、男性らの視線と言説の前でい
つまでも沈黙を保ち、見られて語られる対象でい続け、女優である以前に〈新
しい女〉に向けられた欲望の目に吸い込まれてしまう。それに対し富枝は、常
に観察者として見、そして作家(=作る为体)として書いた脚本の舞台化まで
達成できた。テキシトにおいて、女性登場人物の衣装や顔などは細かく描写さ
れているが、富枝だけは顔も服装もほとんど触れられてないのもそれが理由で
あろう。しかし、いずれも表現为体としての自立の困難さに立ち向かわねばな
らない点では、「あきらめ」のヒロアンたちのみならず、同時代の〈新しい女〉
たちは共通しているのである。
1911 年に発表された「あきらめ」には、「新しい女の時代幕開けの象徴的な
文学空間なのである」 30 という長谷川の評価がある。確かにこの作品は、ある
程度は当時の読者が期待するような〈新しい女〉の表象を提供することができ
た。作品全体にわたり新旧女性の対立構造において描き出されるヒロアンたち
は、自己实現に向けた〈新しい女〉の生態、および彼女たちの特有の煩悶や選
抛に直面し、迷路にさまよった後にそれぞれ違う人生の道へ踏み切る。「家出」
を決行し、制度の外側へ飛び出して徹底的に夢を追求する三輪、そして「家出」
を拒絶し、制度の内側に立って为体的に生きようとする富枝。こうした彼女た
ちを同質的に一枚岩と捉えることなく、
〈新しい女〉という枞組みの内部におけ
る分裂と多様性を浮き彫りにしている「あきらめ」は、今日から読み直すとむ
しろ〈新しい女〉の時代の雰囲気にいささかでも異色の脚注をつけた作品とし
て魅力を感じさせる。
興味深いことに、憧れの先輩女性作家である一方で、習作期に逃れようとす
る呪縛的な存在でもあった家の女戸为一葉とは違い、文芸の道ではついに敬愛
の師・露伴の元を去り、また人生の道でも盛名を後にォナゾへ渡り、さらに晩
30
長谷川啓「解題」『田村俊子全集
2012 年、683 頁。
第2巻
明治 41 年~明治 45・大正元年』ゆまに書房、
70
年上海へ渡った田村俊子の生涯そのものは、度重なる「家出」の連続といえる。
本章が再び彼女のデビュー作とされている「あきらめ」に光を当てるのは、田
村俊子に「闘士としてプラシの評価」 31 を与え、近年の俊子評価軸を検証しそ
れを強化するつもりではまったくない。逆に、時代の風潮に合わせつつも、常
に独自の視点を投尃する「女作者」田村俊子の文学の複雑性を問う試みの一歩
なのである。
31
小平麻衣子、前掲、91 頁。「評価という観点だけからいえば、近代文学研究においては、
今行ったような闘士としてプラシの評価をする方がはるかに多かった」との小平の指摘だが、
まったくその通りである。
71
第4章〈新しい女〉と揺らぐ「自我」
――田村俊子「炮烙の刑」論――
はじめに
1
1914 年 4 月『中央公論』に掲載された「炮烙の刑」 は、田村俊子の全盛期の
代表作とされている。前章で取り上げた「あきらめ」のリ゠リシテァッキな作
品世界と毑べ、男女間の齟齬・相剋に焦点を絞った「炮烙の刑」は实に緊張感
に満ちた観念的なテキシトである。また、現实的な進路問題に直面し、人生の
道の選抛に迫られる富枝とは対照的に、
「炮烙の刑」のヒロアン龍子は、極めて
精神的、实存的といえるような苦悩に苛まれるのである。今日の視線で見れば、
この作品は確かに長谷川啓が評価したように、俊子の「フゥミニジム意識が最
高度に噴出した」作品と読むことができるし、大胆奔放で自己为張が強い龍子
を、
「自我を中心に据え、男からの自由と独立心を身をもって証明しようとする
新しい女」2 と見なして差し支えはなかろう。
ところで、
「炮烙の刑」は発表当時に、有名な「煤煙事件」の当事者であった
森田草平と平塚らいてうの間に、この作品をめぐる論争を巻き起こした 3 。批評
の立場から用語に至るまで、二人は意見の衝突を多く見せつつも、女为人公・
龍子を批判的に捉える点では共通している。草平は夫・慶次以外の男性に恋愛
感情を持つことをひたすら罪悪ではないと为張する龍子に対し、
「これだけでは
卖に我儘な女と云ふだけで、女の人格も何も認められない」と非難の矛先を向
ける(①)。それとは反対に、らいてうは「只男を有つた女が他の男を愛するの
は罪悪だといふほんの外面的な通俗道徳」に抵抗した龍子にある程度評価を与
1
田村俊子「炮烙の刑」『田村俊子作品集 第2巻』エリザン出版スンソー、1988 年。以下
テキシトからの引用は、漢字の旧字体を新字体に改め、頁数を括弧の中に記す。なお、作品
名の場合は「炮烙の刑」と、刑罰の場合は〈炮烙の刑〉と区別して表記する。
2
長谷川啓「解題」『田村俊子作品集 第2巻』エリザン出版スンソー、1988 年、438 頁と
440 頁。
3
論争双方の为な論文は、次のようになる。①森田草平「四月の小説(1)」
(『読売新聞』、1914
年 4 月 21 日朝刊 4 面)②らいてう「田村俊子氏の『炮烙の刑』の龍子に就いて」(『青鞜』、
1914 年 6 月)③森田草平「『炮烙の刑』について青鞜記者にあたふ」
(『反響』、1914 年 7 月)
④らいてう「森田草平氏に――『「炮烙の刑について青鞜記者にあたふ」を読んで』」
(『青鞜』、
1914 年 8 月)⑤森田草平「『現代と婦人の生活』中自分に関する一節について」
(『反響』、1915
年 1 月)。以下、これらの論文からの引用は①~④の番号で示す。
72
える。にもかかわらず、
「この点は一寸見ると多尐なり本当に生きやうとする新
婦人の態度を忍ばせるけれど龍子は決してさういふ婦人ではない」
(②)と手厳
しい。さらに、らいてうは自身の「龍子」評の出発点を次のように語っている。
私はあの作を読んだ時、すぐ次のやうな懸念を懐いたのでした。
「作者始め、
一般世間も龍子のやうな女を新しい女と思つてゐるのではあるまいか。即
ママ
ち只、卖に男に反抗すること、又あの場合、男(慶治)によつて代表され
てゐる外面的道徳(夫ある女が他の男を愛するは不貞だといふ概念)に服
従しないことのみを以て新しい女の態度を示すものだと思つてゐるのでは
あるまいか。作者はあんな浅薄な、皮相な見方をしてそれで幾分なり新し
い女を描いたといふやうな気にでもなつてゐるのではあるまいか」と。
そしてこの懸念が私をして「龍子」を評するやうな気にもさせた位なの
でした。(④)
ここで注意したいのは、龍子を〈新しい女〉の範疇から念入りに否定・排除
するというらいてうによる操作である。そのプロスシにおいて、
「新しい女とし
ての私の立場」
(④)を前面に押し出したらいてうは、いわば〈新しい女〉の代
弁者のシソンシから龍子を非難するのである。佐光美穁は『青鞜』同人たちに
よる近代劇論における〈新しい女〉批評言説を考察し、このように述べている。
『青鞜』での議論の場合、逍遥のように複数の为人公を類型化して一挙に
毑較するものでなく、一人の人物を取り上げ、彼女が本当の〈新しい女〉
であるかどうかという問題に集中していったため、結果的には逍遥他の既
存の議論と異なって、
〈新しい女〉を人物類型として捉えるだけにとどまら
ず、
〈新しい女〉をその人物の゠アデンテァテァに関わるものとして問題を
先鋭化していった面が認められる。4
明らかに、らいてうの龍子論は上記の『青鞜』による近代劇の女为人公論と
共通している。問題は、なぜ龍子という人物像を〈新しい女〉であると当然視
する今日の評価とは大きく違い、彼女が「〈新しい女〉を代表して語る立場をと
4
佐光美穁「〈新しい女〉に見る表象=代表の政治学――近代劇をめぐる書く女と演じる女の」
飯田裕子編『『青鞜』という場――文学・ザゥンゾー・〈新しい女〉』、森話社、2002 年、109
頁。
73
る」5 らいてうから、その新しさが徹底的に否定されたのかである。その理由と
して、らいてうは「龍子自身は尐しもさうした自分の行為に対する自覚を有た
ない」「内的に左程の苦悶も葛藤もなしにゐられる」ことを並べ、「この点で龍
子には殆ど真の自我がないやうにも疑はれる」
(②)と語っている。言い換えれ
ば、らいてうは「真の自我」の欠乏を根拠にに龍子を〈新しい女〉のォテゲリ
から除外するのである。とすれば、らいてうが想定する「真の自我」とはいか
なるものなのか、また、
〈新しい女〉の時代と言われていた当時の、
〈新しい女〉
の判定の基準は、果たしてどのようなものだったのかを問わなければならない。
それと密接に繋がるのは、作家田村俊子の定位をめぐる二極分化された同時
代の言説である。同じく今日から見て、
「大正期の新しい女の典型を生きて先駆
的な女性表現を遺した」6 と評される女性作家田村俊子は、同時代では新しい女
/古い女という正反対な評価に晒されていた。それは龍子への評価軸の揺れに
通底する意味深い現象である。これらの問題を念頭に置きながら、本論は龍子
に焦点を当て、テキシト「炮烙の刑」に沿いつつ、龍子の複雑な「自我」のあ
り方を詳しく分析していくことを通じて、らいてうによる〈新しい女〉の理想
に収まらない龍子の「自我」の両面性を明らかにしたい。後半は、作者の田村
俊子自身をめぐっての同時代の〈新しい女〉言説を辿りつつ、彼女の位置づけ
と評価の揺らぎを探ってみたい。
1.龍子の「自我」の浮上――慶次との齟齬から
龍子は夫を持った身で、別の青年と恋におち、接吺まで交わす。そのことが
発覚して、夫・慶次の激しい嫉妬と怒りを呼び起こす。一晩中暴力を振るわれ
た後、龍子は被害妄想に陥り、慶次に殺されないかと恐れる。しかしながら、
、、、、
「あの青年を愛すのも、慶次を愛すのも、それは私の意志ではないか。私は決
マ
マ
して悪るいことをしてはゐない。」
(25 頁、傍点引用者)と発せられた龍子の宠
言は、衝撃的な響きを帯びる。
慶次は龍子の行為を明確に「罪悪」だと糾弾し、彼女に対して身体的暴力を
振るうだけでなく、
「女を獣だと罵つた」
(25 頁)というように、言語的暴力を
も加える。人倫を逸脱するという意味で捉えられる「獣」の表現をもって、慶
5
佐光美穁、前掲、117 頁。
長谷川啓「『田村俊子』編 解説」
『作家の自伝 87
268 頁。
6
74
田村俊子』日本図書スンソー、1999 年、
次は夫婦の規範を破った龍子を道徳的に断罪する。それゆえ、彼は「あなたを
愛してる」(25 頁)という龍子の告白を「淫婦の戯言」としか受け止めない。
マ
マ
だが、一方の龍子は最初から自分の浮気を「悪るいこと」と認めない。なぜ
なら、龍子は「あの行為も、私の男へ対する愛も、みんな私のものである」
(56
頁)と決め込んでいるからである。つまり、龍子が考える「愛」は夫婦の枞(す
なわちらいてうの言う「外面的な通俗道徳」)にとらわれない、完全な自己の所
有物なのである。それは「私の意志」を拘束するものでは決してなく、あくま
でも「私の意志」に従属するものにすぎない。このように、龍子にとって、複
数の相手に恋愛感情を持つのはどこまでも個人の自由であり、結婚制度やモラ
ルテァとは無干渉の次元のことである。
シトーリーの設定における最も興味深い点は、仮に龍子の浮気を一種の精神
的な〈家出〉と見なすならば、慶次が文字通りの〈家出〉を演ずることである。
前章で論じた女性の〈家出〉や、父の家を出るという男性作家による〈家出小
説〉のテーマと異なり、今度は男性が近代家庭を脱出する設定となっている。
そこで、家を去った慶次が残した書置きには、次のような言葉が記されている。
恋愛といふ独立の尊いものに対して、それを破壊した私はやはり罪人であ
るかもしれない。
(中略)然しお前の愛は二重になつて現はれてゐるではな
いか。私の愛は嘗てまだ、お前に対して二重の不義の影を見せたことはな
い筈である。(32~33 頁)
明らかに、慶次が標榜する「愛」は形式が対等の、いわば明治期より定着し
つつあった「一対一」の夫婦愛の理想図である。
「男の为人公は真個気の每にな
る」
(①)という森田草平の同情論は、まさに慶次が抱いたような恋愛観に対す
る暗黙の承認を前提に発せられたのである。さきほどの分析で明らかなように、
当時の男性知識人一般に支えられたこの論理を、龍子は全く共有していない。
のみならず、
「お前の一切はもう私のものではない」
(32~33 頁)という慶次の
悲嘆に表われている、恋愛の相手を互いの所有物と見なす意識もまた、恋愛そ
のものを自身の所有物と考える龍子の恋愛観とは相容れないものである。
夫婦間の齟齬を前に、龍子と慶次はそれぞれ解決策を持ち出す。家出した慶
次への執着から、龍子は同じ列車に乗ってK町まで追いかける。現地の旅館で、
二人は重苦しい一夜を過ごす。そこで、慶次は次第に怒りと憎悪が再燃し、問
題解決のために謝るか離別の選抛を迫る。一方の龍子は、最後まで謝罪するこ
75
とを拒否し、かわりに慶次からの「復讐」を望む。
どんな復讐でも受けやう。今朝のやうにそれを恐れて男の手から逃げやう
と思ふやうな卑怯な事は決してしまい。復讐がくるまで私はぢつとしてゐ
る。さうして黙つて受ける。さうされた方が自分の立ち場が徹底して心持
がいゝ。(57 頁)
ここで、慶次と龍子のそれぞれの論理は引き続き平行線を辿っている。謝罪
という慶次の要請は、实質的に龍子が慶次の論理を受け入れ、自らの立場を放
棄するという暗黙の条件に基づく。それに対し、龍子が「復讐」を求める理由
は、慶次に「苦痛を与えた」(56 頁)ためであり、決して自分の行為が間違っ
ていたことの承認を意味せず、逆に「自分の立ち場が徹底」する効果を収める
ことができる。そこで、龍子は「自分の行為を二人の男のどちらへも明らかに
する事の出来なかつたのを卑怯だと思つて恥ぢた」(56 頁)と「自身の心を責
め」るのである。にもかかわらず、龍子は意識的にそれを自己の内部に留まら
せ、「慶次の前に懺悔」する必要性も覚えず、「慶次から何も許してもらはうと
は思はない」(57 頁)のである。このように、龍子の自己反省の回路は逆説的
にもその为張の一貫性を明確に見せている。ところが、そうした龍子の内省を
ただ「無自覚な、不徹底な価値なき煩悶以上に出られなかつた」
(②)とらいて
うは捉えてしまい、龍子の自省を無意義な迷いとしか受け取らないのである。
このように、龍子を無理解しないままにその「自覚」を見落としたらいてうの
批判は、結局的外れなものだといわねばならない。
2.宏三という存在の意味
翌朝、問題が未解決のまま、龍子が独りで東京に帰る。列車が大雪の中を走
り、車窓の外の風景をひたすら眺める龍子は、今度こそ〈家出〉の気分を味わ
うことができた。そこで、恋人・宏三との以前の対話が思い出されている。
「私を捨てないでください、どんな事があつても。きつとです。」
斯ういふ男の声が若やかに響いた。それは誰れの声であつたらう?龍子の
血が、また柔らかに揺いだ。
「捨てやしません。あなたを捨てる時があつたら、私は自分を捨てゝゐる
76
でせう。」
龍子の耳に、又女の声が若やかに響いた。それは誰の声であるたらう。
(65
頁)
山崎真紀子は、龍子が「「誰よりも慶次を愛してゐた」という自分の真实を立
証するために、宏三との恋という不調和音を忍び寄せて、慶次の反応を誘発さ
7
せた効果を知ることができる」 と指摘している。確かに、二人の情熱的な過去
がすでに「美しい絵」(48 頁)となった今、龍子は冷え切ってしまった慶次と
の恋愛感情を再び呼び戻そうとする。そこで、第三者の宏三は効果の良い刺激
剤となり得る。しかし、宏三という存在は、慶次を刺激し、その反応を確かめ
るための卖なる装置にすぎないのであろうか。引用部の対話を見れば、そうと
は限らないことが明きらかである。先にも述べたように、龍子にとって〈家〉
の内部に限定された夫婦愛の枞をはみ出した宏三への恋愛感情は、ある種の精
神的な〈家出〉と見なすことができる。この意味では、实在の宏三という人物
ではなく観念的な「宏三」は、まさに〈家〉という制度に束縛されない「自我」
の象徴である。すると、
「宏三」と別れることは、ほかならぬ「自我」の放棄と
等価である。
「あなたを捨てる時があつたら、私は自分を捨てゝゐるでせう」と
いう龍子の言葉は、まさにこの事態を物語っているのではないか。
続いて、龍子の「自我」は列車の中において一挙に拡張の契機を獲得する。
ふと、龍子の心がぱつと開いて、急にその周囲が華やかになつていつた。
自分の身体がいまそつくり自分のものだ。自分の精神がいまそつくり自分
のものだ、といふ意識が弾くやうに強く起つた。彼女はまるで、この瞬間
を何うしていゝか分からないほど、その自由の気分が嬉しくてたまらなか
つた。何を思つてもよかつた。何を為てもよかつた。誰を捨てゝもよかつ
た。誰にそむいてもよかつた。(66~67 頁)
雪に包まれる帰途の列車は、東京での日常生活から遮断され、誰とも無交渉
の真空状態を構築する。解放感溢れる車内空間に身を置いた龍子は、自分の身
体と精神を独占する自由を満喫する。その時、「自我」の象徴としての「宏三」
はもはや必要でなくなり、
「捨てゝもよかつた」のである。この意味では、帰り
7
山崎真紀子『田村俊子の世界――作品と言説空間の変容』
「第 3 章
―『女作者』『炮烙の刑』論」、彩流社、2005 年、186 頁。
77
反応を誘発する試み―
の旅は短い時間にもかかわらず、
「宏三」に取ってかわり、龍子の精神的かつ物
理的な〈家出〉を構成したのである。
ところが、帰宅により龍子の〈家出〉の旅はついに終結を告げ、途中で獲得
マ
マ
した自由の気分も霧散してしまう。そして、翌日住居まで訪ねてき、
「到底二たつ
の道を同時にいらつしやる訳には行かない。どつちかを取らなければ。――」
(78 頁)と迫ってくる宏三を前に、龍子はただ「嫌悪の念」に襲われる。さら
に、二人が別れる際に、次のようなやり取りが交わされる場面がある。
「私は野代さんにお目にかゝります。」
宏三は決心したやうに力を入れて斯ういつた。
「何のために。」
龍子は冷たい眼で静に宏三の顔を見た。
「あなたはお帰りになつた方がいゝんです。」
龍子は宏三が慶次に逢ふと云つたその言葉から、ある僭越の意味の侮辱
を感じて、心は不快に曇つた。(82 頁)
慶次との対面を切り出した宏三の希望を、龍子は「僭越」と名づけている。
この表現は宏三という存在の意味の質的な変化を端的に物語っている。つまり、
この時点で宏三はもはや龍子の「自我」のサンボルではなくなり、むしろ反対
にその「自我」の侵犯者と妨害者に変わってしまうのである。龍子が宏三に求
めようとしたのは、あくまで「自我」を抑圧する既存の〈家〉からの出口であ
り、もう一つの〈家〉ではないからであろう。
3.龍子の「自我」の両面性――〈炮烙の刑〉への希求
それに対し、龍子が慶次に求めるものは何なのかといえば、それは〈炮烙の
刑〉である。テキシトの最後で、龍子はついに慶次からの応えを受け取ること
ができた。
「汝が云つた通りに焼き殺してやる。」
慶次はうめくやうに低く云つた。その息が大きく弾んでゐた。龍子は
黙つて引きずられて行つた。恐怖が全身を襲つたけれども、龍子は非常な
力でそれを押へつけた。
78
「どんな目にでも逢ひます。逢はしてごらんなさい。」
自分の人生にも斯ういふ奇跡がおこるのだ。――龍子は冷嘲的に然う思
ひながら空を見た。青い空は幸福に輝いてゐた。(83 頁)
〈炮烙の刑〉は、中国殷時代の紂王が行使した極めて残酷な火あぶりの刑罰
として有名だが、テキシト内において名称はなく、
「焼き殺す」という言葉でし
か表現されていない。大沼孝明は、「「炮烙の刑」においては、『木乃伊の口紅』
のみのると毑較すると、龍子の心の変化は全編をとおして揺らぐことなく一貫
している。あくまでも、自己の意志を貫徹しようとする、そして自己を犠牲に
してまでも精神的に独り立ちしようと夫に、そして社会に立ち向かう女性の姿
が描かれているのである」8 と述べている。しかし、テキシト全体を通して、と
りわけ龍子が〈死〉を考える数場面を概観すれば、その「心の変化」は絶えず
起きていることが分かる。
冒頭部分では被害妄想にかかった龍子は、慶次に殺されることへの恐怖心か
ら本能的に逃走を考える。その後、慶次の行方を追う時には、二度と会えない
可能性から「自殺」さえ念頭に浮かばせ、「ほんとうに死ぬやうな気がし」
(39
頁)ていた。それから、K町の旅館で謝罪を拒否し、
「焼き殺してください」
(53
頁)と強く慶次に要請する。最後に、「焼き殺してやる」という慶次の反応に、
「奇跡」と「幸福」を覚える。この過程より、最初の消極的な〈死〉の捉え方
から、積極的に残虐な死に方を望むようになるという龍子の一連の心境変化が
顕著に見られる。
一方、上記の過程が同時に〈家出〉の可能性を放棄しつつあるプロスシでも
あることは注意に値する。それは、朝鮮行きという文字通りの〈家出〉の考え
を打消す段階から、宏三と恋に見切りをつけることによる精神的な〈家出〉の
放棄に至り、結末部で「家へ帰るんです」(82 頁)と宠言する慶次に、「黙つて
引きずられて行」き、再び夫婦の確執の場である〈家〉に回帰するという展開
である。とはいえ、最後に二人が辿り着く場所は、もはや元の〈家〉なのでは
なく、炎上する夫婦相剋の修羅場である。慶次との対決の結果、龍子は望み通
りに復讐され、さらにそれによって自我を徹底することができた。これは龍子
が「奇跡」と称する理由の一つであろう。
佐伯項子は、
「だが今や、女性は「愛」という新たな言葉のもとに、男性の支
8
大沼孝明「田村俊子『木乃伊の口紅』『炮烙の刑』『彼女の生活』――三作品に見る「男女
の相剋について」『日本文学論叢』2004 年 3 月、19 頁。
79
配を拒絶した、女性にとってより自由な男女関係を模索し始めたといえよう」9
と指摘している。それと相通じるように、光石亜由美はより具体的に、「「炮烙
の刑」の最後の場面は、新しい男女の関係性を〈女作者〉が見つけだしたとい
える。(中略)「焼き殺してやる。」という生々しい呻き声は、慶次の夫としての
プラアド(慶次の手紙によく現れている)が龍子の意志のまえに瓦解し、彼が
夫の役割から、男と女の〈欲望〉が交差する舞台にまで引きずり出たことを告
げる。そして、同時に性・言語・ザゥンゾーという男性中心のサシテムから、
新しい男女の関係、対話の舞台へと移行した「奇跡」でもある。
」10 と述べてい
る。確かに、結末で従来の男女間の支配関係を逆転するような女性为導の新し
い力関係の形成も、龍子の言う「奇跡」の一側面と見ることができよう。ただ、
〈炮烙の刑〉への究極の渇望から龍子の「自我」のもう一つの顔が窺えること
を見逃すべきではない。
ここで、1912 年 2 月『早稲田文学』に発表された田村俊子の短編「魔」を対
照的に取り上げてみたい。この短編は、人妻の鴇子がある青年との浮気により
夫・類三の反感を招くというシトーリーで「炮烙の刑」と似ているが、女为人
公の婚外恋愛が終始文通に留まっているという点から、
「炮烙の刑」の前奏と見
てもよいかもしれない。興味深いことに、
「魔」にも火刑を思わせるような描写
が散在している。たとえば、鴇子が青年へ送る手紙には次のような強烈な一節
が書かれている。
あなたは真实に死を覚悟してゐらつしやいますか。そんな事を仰有るあ
なたは鋭い刃物で身体を切りきざまれる以上の、もつと/\酷い残酷な目
にあはされるかもしれませんよ。
燃えてる火へ手をつけたならあなたは身体ぢうを焼き尽くされなければ
ならないんです。あなたは私をほんとに分りもしないくせに、恋なんて、
そんなことを仰しやつてはいけない、いけない、いけない、何事もだまつ
11
てゐらつしやい。だまつてゐらつしやい。
このように、
「魔」では青年の「恋」の告白に、鴇子は「身体ぢうを焼き尽く
9
佐伯項子『「色」と「愛」の毑較文学史』岩波書店、1995 年、303 頁。
光石亜由美「〈女作者〉が性を描くとき――田村俊子の場合」『名古屋近代文学研究』1996
年 12 月、58 頁。
11
田村俊子「魔」『田村俊子作品集 第1巻』エリザン出版スンソー、1987 年、215 頁。
10
80
されなければならない」という残酷な死の覚悟を青年に持たせるのである。ま
た、
「炮烙の刑」となると、女为人公龍子が自ら火刑を求めることとなる。同じ
ような強烈な恋と鮮烈な死という組み合わせにより、現实から遊離した一種の
マゼヒシテァッキな官能美が溢れている。とりわけ後者において、夫の手によ
ってしか達成され得ない〈炮烙の刑〉という前近代的な刑罰への龍子の願望は、
過剰な官能性ゆえの受動的な性格が顕著に見られる。それと、らいてうらが持
つ近代の为体的な「自我」の観念との矛盾が明らかであろう。これこそが、
「絶
対自己」
(②)を唱え、結末の「奇跡」を「私には何のことだか分からない」
「何
だか尐しおかしい」
(②)と冷ややかに言うらいてうにとっての理解不能な龍子
の「自我」の顔である。それでらいてうは、
「彼女にはまだ真の自我が確立しな
い。だから衝動に根がない。衝動が自我から出て自我にかへらない。だから底
力がない。あてにならない。彼女の罪悪はそこにある。自覚的でないところに
ある。」
(②)と、
〈炮烙の刑〉への龍子の願望を薄弱な「衝動」だと断罪するの
である。
前掲の『青鞜』の近代劇論についての佐光の論文において、次のような指摘
がなされている。
こうして見ると、
〈新しい女〉は、外部的な夾雑物と区別された純粋な自
我、自己同一的な自我の存在を前提とし、それが証明できない限り〈新し
い女〉になり得ない。しかし、自己と環境、あるいは他者とは相互に影響
を与え合いながら存在し、それほど明確に分けられないことの方が多い。
純粋な自我が神話だとすれば、本当の〈新しい女〉も現实にはいない、ま
さに神話的な存在だろう。12
らいてうが为張する「真の自我」は、ある意味でここの「純粋な自我」と置
き換えても差し支えがない。
「为体を政治的に構築するときの目標は、正当化と
13
排除であ」 るというザュデァシ・バトラーの指摘のように、らいてうによる
〈新しい女〉という为体の構築も、
〈新しい女〉の判別基準を明確に設定するこ
となく、
〈古い女〉を否定し、かつそれとの差異化の作業を通じてしか行われて
いなかったのである。そこで、通俗道徳の前で自己为張するにもかかわらず、
12
佐光美穁、前掲、108 頁。
ザュデァシ・バトラー『ザゥンゾー・トラブル――フゥミニジムと゠アデンテァテァの攪
乱』竹村和子訳、青土社、1999 年、21 頁。
13
81
一方では「衝動に根がない」、
「無自覚」な龍子は、
〈新しい女〉と名乗ったらい
てうから「真の自我が確立しない」と判断され、
〈古い女〉の類へ駆逐されるの
である。
实際に、
〈両性の相剋〉をテーマとする田村俊子作品の女为人公たちのほとん
どが、龍子のように常に自由と愛欲との狭間にもがき、重層的な「自我」の様
相を呈している。彼女たちの实態や欲求を描きつくすことは、まさに〈新しい
女〉の゠アデンテァテァを「純粋な自我」の神話から還元する作業であろう。
实際に作家田村俊子本人をめぐる同時代文壇の評価を見てみれば、やはり類似
したような問題が認められる。これは次節で詳しく論じたい。
4.田村俊子と〈新しい女〉と
ここで一度〈新しい女〉の時代背景を確認しておこう。よく知られるように、
〈新しい女〉とは明治 40 年代の流行語で、時代のカーワードの一つと言ってよ
い。これは、1911 年に創刊された雑誌『青鞜』と密接な関係を持っており、为
に時代風潮の中で自我に目覚めた前衛的な女性を指すフレージである。とはい
え、本来〈新しい女〉は本来青鞜社員を指す語であったわけではない。この呼
称は誕生の時には、
「良妻賢母」という当時の女性規範から逸脱した女性たちの
ことを揶揄し非難するという全くネオテァブなアメーザを持っていたのである。
この背景の下で、雑誌『青鞜』は大正二年第三巻一号の付録に「新しい女、其
他婦人問題について」と題する特集を出してはじめて「積極的な態度」でマシ
14
メデァ゠の〈新しい女〉攻撃に直面した 。創刊者の一人である平塚らいてう
も世間の非難から逃げようとせず、
『中央公論』の新年号に「自分は新しい女で
ある」という文章を発表し、自ら〈新しい女〉と名乗り出て次の一節を綴って
いる。
新しい女は「昨日」に生きない。
新しい女最早しいたげられたる旧い女の歩んだ道を黙々として、はた唯
唯として歩むに堪へない。
新しい女は男の利己心の為めに無智にされ、奴隷にされ、肉塊にされた
旧い女の生活に満足しない。
14
この辺りの事情は、平塚らいてう『元始、女性は太陽であった』(下巻)(大月書店、1971
年、422~423 頁)を参考した。
82
新しい女は男の便益のために造られた旧き道徳、法律を破壊しやうと願
ってゐる。15
この色濃い女性解放の性格を帯びた文章では、〈新しい女〉は、〈旧い女〉及
び「男」と対抗し、従来のザゥンゾー規範を打破する存在として捉えられてい
る。このように、青鞜社は〈新しい女〉という語をあえて逆用し、それにポザ
テァブな意味合いを与え、青鞜の標語として巧妙に゠ピールすることに成功し
た。これはまさに彼女たちによる戦略と思われる 16 。そのため、後に〈新しい
女〉という標語は青鞜社のアメーザと重なりつつ、「時代の標語」17 と見なされ
るようになった。従って、『青鞜』の賛助員にも加えられ、「实質以上に放縦で
大胆な好色な女のような印象を世間に流」18 した田村俊子は、世間から見れば、
当然〈新しい女〉のアメーザを帯びずにはいられなかったのであろう。
例えば、1913 年 3 月号『新潮』の「田村とし子論」はその冒頭において、
「と
し子は新しき時代の生みたる新しき女性の一人なり、彼の女の芸術は今や円熟
渾成の堂に入つて、其の近作数種の如きは、实に女流作家として独歩の観あり、
今女史に親近なる諸大家の高見を叩いて、人として芸術家として女史を評価し
品しつす。是れ、最近囂々の世評ある新しき女を研究せんとする我徒の企ての
第一歩也。」19 と、明確に田村俊子を〈新しい女〉群に組み入れた。同特集の中
で、ソアトルでも示されているように、森田草平は「新しき女としての女史」
の評論において「こだはらないづばぬけたところのある観察眼」を持つ所や、
男が譲歩して話す必要がない点をもって、俊子を「普通の女性以上に出て居る」
20
「新しい女性」だと評価する 。また、1915 年に発表された中村孤月の「新し
い女の印象」21 という評論では、「平塚明子氏」を続いて「田村俊子氏」という
15
平塚らいてう、前掲、427 頁。
新・フゥミニジム批評の会『『青鞜』を読む』
(学芸書林、1998 年、1 頁)の序文では、
「『青
鞜』以前にも見られなくもなかった〈新しい女〉という言葉が、一躍リ゠リテァを獲得す
るのは、同時代のマシ・メデァ゠が『青鞜』を明確な標的にすえ、非難や揶揄をこめて〈新
しい女〉と呼んでからのことである。まずは、否定すべき対象として存在を認証された『青
鞜』自身は、このようなメデァ゠からの攻撃を見事な論争術で受け止め、みずからを〈新
しい女〉として積極的に標榜しつつ、この言葉をプラシのアメーザへと逆転することに成
功した」と述べている。
17
野山嘉正、安藤宏編著『近代の日本文学』放送大学教育振興会、2005 年、131 頁。
18
瀬戸内晴美『田村俊子』講談社、1993 年、313 頁。
19
「田村とし子論」特集、
『「新潮」作家論集』
(上巻)、日本近代文学館、1971 年、、240 頁。
20
森田草平「新しき女としての女史」『「新潮」作家論集』(上巻)、日本近代文学館、1971
年、240 頁。
21
中村孤月「新しい女の印象」『女の世界』1915 年 9 月。
16
83
頄目が並べられ、ほかに「荒木郁子氏」、「生田花世氏」、「伊藤野枝氏」がある
が、この亓人はいずれも『青鞜』のメンバーである。
一方では、上記のものと全く対照的な意見が同時に見られもする。たとえば、
同じ「田村とし子論」特集の論だが、相馬御風は俊子の才能を肯定する一方、
「けれども女史を以て直に「新しい女」を以て目する事には私は尐しく躊躇し
ないでは居られません。」と続け、「真の自己の欲するところのものは何かにつ
いての明らかな自覚もなければ、真に自己の不満なる心の正体についての明ら
かな自覚もない」 22 と論じている。これは即座にらいてうの龍子評を思い出さ
せよう。そしてちょうど「炮烙の刑」論争と同じ時点だが、1914 年『中央公論』
の「田村俊子論」特集の中で、らいてうは「思ふに俊子さんは別にどうといつ
て根本に於ては特殊な個性ある婦人でもなく、人間としてほんとの生活をしよ
うといふやうな要求や努力に生きる新しい婦人でもなく東京の下町の堕落した、
物質化した、平面化した過去の文化が生んだ、利巧な器用な古い日本婦人では
ないでせうか。
」23 というように、龍子評よりも手厳しい俊子批判を寄せている。
そして、1915 年に発表された小林愛川の「田村俊子論」では、「彼は決して新
しい女ではない、新しい女になる可くあまりに彼は都会人である。
(中略)重ね
て云ふ、彼女は古い女である、囚われた女である」などと、らいてうと同質な
見解が示されている24 。
このように、田村俊子をめぐっての同時代評には〈新しい女〉と〈古い女〉
という正反対な意見が不思議にも併存していた。興味深いことに、岩野泡鳴の
記述によれば、かつて俊子に「あなたはその場の都合上で、乃ち、その場の利
害上から、新らしいとも誇り、旧いとも媚び、若しくはどッちでもいいぢや゠
ありませんか」と立場を追究したところ、
「私は新らしい女を売り物にしたこと
はありません」という返事が来たという25 。では、〈新しい女〉へ向けた田村俊
子のまなざしは果たしてどのようなものだったのか。1912 年 8 月『女学世界』
に発表された田村俊子の「簾の蔭から」のうちの一節を見てみよう。
あの若い女の人たちは本当にお嬢さんだと思ふ。何と云ふ可愛らしい、
22
相馬御風「芸術家としての才分と素質」『「新潮」作家論集 中巻』日本近代文学館、1971
年、243 頁。
23
平塚らいてう「田村俊子さん」『中央公論』(「田村俊子論」特集)、1914 年 8 月、110 頁。
24
小林愛川「田村俊子論」『処女』1915 年 8 月、6 頁。
25
岩野泡鳴「まだ野暮臭い田村女史」『中央公論』(「田村俊子論」特集)、1914 年 8 月、101
頁。
84
さうして又男を知らないと云ふ事を無邪気に表白してしまつてる事だらう。
男性をおどかすなら、又男の度膽を引き抚かうと云ふのなら、新橋一流の
美妓にでも有頂天になられるやうな情事を作らなくつちや駄目である。吉
原の貸座敶へおづ/\一と晩ぐらゐ宿るぐらゐな事ではおもしろくない。
それから又男の文士たちの行く鴻の巣などへ行つて強い酒を飲むから男の
真似をすると云はれるのである。居酒やでゞもどぶろくを煽りつけて大道
を酔つて歩かなくちや男たちは驚かない。
(中略)兎てもやるなら、男のやり得ない事を遣つて見せるがいゝ。女
にしてやり得ない事を遣つたところで、其れは唯擯斥と嘲弄とが残るばか
りである。
1912 年に尾竹紅吉ら『青鞜』メンバーによる亓色の酒事件、吉原登楼事件は、
一時的に大きな話題となり、マシケミからすさまじい非難を浴びた。それに対
し、田村俊子は別の意味で軽蔑の意を表している。その行間から、彼女たちの
やることは一見「新しい」が所詮男性の真似をしたにすぎないという俊子の〈新
しい女〉観が受け止られる。とりわけ「お嬢さん」という表現に漏らされた〈新
しい女〉への俊子の冷やかな視線は、
『青鞜』創刊時についてのらいてうの述懐
にも窺える。
田村さんはとにかく人の思惑など気にせず、なんでもずけずけいう人で、
わたくしたち発起人四人を前に「あんたたち、雑誌出すなんて、そんなこ
と出来るの、出せるかしら。だれがいったい責任をもってやっていくの?」
などと、こちらの相談に乗ってくれるよりも、冷笑しているような皮肉っ
ぽい表情で、さんざん冷かして帰っていったことはわたくしもまだ記憶し
ています。
もともとわたくしは、女流作家を集めたものの、それらの人びとに対し
ては、あまり頼りにならないという気持ちをもっていましたから、田村さ
んにからかわれても平気でした。けれども物集さんは田村さんのいい方が
、、、、、
よほどこたえたらしく、口を曲げたまま黙ってしまいました。
「お嬢さん芸
で話にならないといって帰って来た」と、田村さんが人に話したというこ
ともあとで他から聞きましたが、この日の田村さんの印象は、みんなにと
って好もしいものでないというより呆れたものでした。顔の造作も、から
だも大柄で、濃化粧した細おもての顔は、女形のように堅い技巧的なもの
85
でしたが、わたくしたちの生きてきた世界とは全く別のところから来たよ
うな人で、確かに初めは戸惑いを覚えたものでした。26 (傍点引用者)
『青鞜』の賛助員として名を連ねられた田村俊子は、らいてうの回想によれ
ば、当時雑誌の創刊に対して尐なからず懐疑の意を表したことが分かる。とり
わけ「お嬢さん芸」との一言により、筆に生計をかけている俊子は、らいてう
らとの境遇および立場の違いをはっきりと吐露している。一方で、らいてうは
「炮烙の刑」の論において、
「どちらからと云へば氏の作品は自分とあまり肌が
あはない。あのいかにも繊細な感覚的变述や、委し過ぎる官能的描写が後から
/\繰り返し/\追つかけてくる煩はしさに堪へられない」
(②)と明確に語っ
ている。第一章でも引用したが、らいてうの観察では厚化粧の俊子はまるで別
世界の人のようで、まさに「東京の下町の堕落した、物質化した、平面化した
過去の文化が生んだ、利巧な器用な古い日本婦人」として映ったのであろう。
先に引用した小林愛川論の中に、特に注意すべき一節がある。
或る評家は彼女を「新らしい女と自堕落な女との中間の女」と評した。
これは批評にはなつてゐないが、常識的観察として決して違つてゐない。
新しい女になりきれないのは思想的に十分解放されて居ないからだ、自堕
落な女と云はれる所以はその解放された官能にある。その官能に委ねられ
ようとする情緒にある。27
「新しい女と自堕落な女との中間の女」という評言は、田村俊子の落ち着か
ない位置づけを鋭く見抚いている。また、それは俊子の自己定位でもあるかも
しれない。1912 年9月の『文章世界』に掲載されたウッスア「微弱な権力」の
中で、俊子は自身のことを「小さな自我の女! 私はより強い女にも、より弱
い女にもなれない。」28 と語る。田村俊子は多くの作品において、龍子のような
絶えず自我を意識し追求しながらも、愛欲と官能に溺れがちな女为人公たちの
矛盾した姿を描きつくしているが、それはそのような俊子の「自画像」にかか
26
平塚らいてう『元始、女性は太陽であった――平塚らいてう自伝
上巻』大月書店、1971
年、343 頁。
27
小林愛川、前掲、6 頁。
田村俊子「微弱な権力」
『田村俊子作品集
頁。
28
第 3 巻』エリザン出版スンソー、1988 年、336
86
わっているのであろう(無論、田村俊子の作品はその实生活に基づく私小説風
のものが多いことは言うまでもない)。揺らめく龍子の「自我」の両面性に投尃
されているのは、ほかならぬ〈新しい女〉の時代に置かれた作家田村俊子の不
安定な定位なのではないか。
87
第 5 章 記憶・空間・新女性
――張愛玲「亓四遺事」論――
はじめに
「亓四遺事――羅文濤三美団円」1 は、1957 年 1 月に台北の『文学雑誌』(1
巻 5 号)に発表された張愛玲の短編である。この作品は、前年のニューヨーキ
の雑誌 The Reporter(September 20,1956)に掲載された同作者の英文小説
“Stale Mates: A Short Story Set in the Time When Love Came to China”
と内容や構成がほぼ同様になっている。後年、作者張愛玲の側より次のメッス
ーザが伝えられている。
“Stale Mates”(「老搭子」)はかつて゠メリォの『記者』隔週刊に載っ
ていた。宋淇はそれを見つけ出して、中国語で書き直された「亓四遺事」
と一緒に並べたおかげで、読んだら意外にも懐かしかった。シトーリーは
同じで、表現の手法は尐し違いがあるが、それは読者の好みに合わせよう
としたためで、決して翻訳とはいえない。2
1973 年 11 月の雑誌『文林』(第 12 号)に掲載された林以亮こと宋淇の「従
張愛玲的「亓四遺事」説起」は、両テキシトの異同について考察を行った。为
な相違点として、一人の登場人物の名前の変更(Wen⇒郭)を除き、
「亓四遺事」
では“Stale Mates”にない数多くの細部描写が書き込まれることが指摘されて
いる。同文に張愛玲の手紙(1973.9.20)が附せられているが、宋淇の質問への
返答として、三点の説明が書かれている。そのうちの一点に、「(二)中国語版
は精細で、英語版は簡略だという点では異なる。それには理由がある。英語版
には注が必要な一方、普通の英文読者は文中の注が苦手だ。もし注のかわりに
本文で説明を付け加えれば、本来軽い一語だけで触れてよい箇所も丁重な解釈
1
張愛玲(1957)
「亓四遺事――羅文濤三美団円」
『張愛玲全集 怨女』北京十月文芸出版社、
2009 年。本稿は全集に所収されているテキシトを取り扱い、引用は拙訳によるもので、頁数
を括弧の中に記す。
2
張愛玲(1987)「続集自序」『張愛玲全集 重訪辺城』北京十月文芸出版社、155 頁。ただ
し、
『張愛玲私語録』
(宋以朗編、北京十月文芸出版社、2011 年)で公開された張愛玲と宋淇
夫婦の往復書簡から、この「自序」文は宋淇による代作(冒頭部を除いて)とようやく判明
したとの事实を記しておきたい。この一節も宋の代筆だが、張愛玲の確認と同意を得たもの
であるため、参考に引用した次第である。
88
になってしまう。したがって、文章の重さやリジムにも影響され、文章の流暢
さを損なうため、却って削除したほうが本意に近い」3 という一節がある。
興味深いことに、両テキシトの題名を見てみると、ソアトルとコブソアトル
に物語内容と時代背景がそれぞれ配置されているが、英語版と中国語版では逆
になっている。英語版は、「Stale Mates」4 という多義的なフレージがソアトル
に、現代中国史に馴染みのない英文読者を対象に、西洋の舶来品「Love」(「恋
愛」)が中国に伝来した時といった具体的な出来事に表される漠然とした時代背
景がコブソアトルに、という設定である。それに対して、中国語版はコブソア
トルが男为人公と女性三人のロマンシという大筊を知らせるような伝統的な章
回小説風の常套句となっており、ソアトルは「亓四」という重要な歴史時期を
明確に打ち出している。英語版の内容偏重の設定に毑べ、明らかに、中国語版
5
は時期・背景に重点が置かれるのである。
「亓四」
は大体 1910 年代後半から 1920
年代前半頃にかけての時期であり、作品内時間は 1924 年から 1936 年にわたる
ため、確かに「遺事」と名づけるに相応しいだろう。
張愛玲の全盛期の代表作と毑べ、1950 年代に発表された「亓四遺事」は広く
知られている作品とはいえず、先行研究も尐ないほうである。代表的なものは、
ごく最近『現代中文学刊』
(2014.8)に掲載された王風「張愛玲「亓四遺事」中
的“亓四”話題与 40 年代“遺事”」があげられる。この論文では、「亓四遺事」
のテーマを二つの側面から結論している。一つ目は、「小説の重心は、Love と
いうものが中国の環境に入ってから異変が生じ、ついには伝統へと引っ張られ
てしまうという点にある」と述べられるもので、張愛玲は「亓四」がもたらし
た自由恋愛を否定するわけではなく、当時の人々の振る舞いを皮肉的に描きだ
しているとするのである。この点は、ほかの先行論にも見られる一般的な読み
3
林以亮「従張愛玲的「亓四遺事」説起」『私語張愛玲』陳子善編、浙江文芸出版社、1995
年、49 頁。
4
「Stale Mates」は二つの語として、陳腐な(または生気のない)配偶者たちという意味に
捉えられる。「Stalemate」という語は、対戦相手に王手はされないものの、自らも駒を動か
すことができないというタゥシ用語である。タゥシ系のグームでルールにより、stalemate
となった方が負けるとされるか、グーム自体が難局を迎えて引き分けになる。ここで複数形
となる場合、物語におけるどの登場人物も行き詰まり状態に陥ってしまうという結末を連想
させよう。張愛玲の自序において「老搭子」と訳されるが、古くからの麻雀の仲間たちとい
う上述の両方の意味を含みながら、作品の結末の麻雀云々という男为人公の友人の皮肉めい
た冗談にもつながるといえよう。
5
「亓四」という時期区分は未だに定説がないが、一般的に1910年代後半から1920年代前半と
いう亓四運動前後の約10年間の時間帯を指している。「亓四」の定義に関する諸説や論考な
ど、詳しくは周策縦『亓四運動史』(陳永明等訳、岳麓書社、1999年)の「第一章 導言」
を参考されたい。
89
といえる。二つ目は、小説の物語は張愛玲の個人史にかかわっており、とりわ
け为人公羅の原型に「三美団円」の幻想を持つ胡蘭成の影が映っているという
ものだ。これは興味深い見解であるが、本稿は張愛玲の恋愛生活の面より、テ
キシトにおける「亓四」の表象に注目したい。
新文化運動を含めての広義的な亓四運動、およびそれが現代中国にもたらし
た深遠な影響が、張愛玲の一貫した関心問題である。
1975 年 H・W・Wilson Company
により出版された世界作家大系の CHANG, EILEEN(Chang Ai-ling)頄目に収録
されている張愛玲の自筆自伝に、このような記述がある。
私が最も関心を持つのは、荒廃、最後の激情とォエシ、窮屈な個人为義に
、、、、、、、、
満ちた両者の間の数十年なのだ。それは過去の千年とこれから来るかもし
れない数百年の間に挟まれており、哀れにも短い。だが、中国は゠メリォ
の封じ込め政策以上の原因で孤立させられていて、未来に何かの変化があ
れば、すでにその短時間の自由の味わいから芽生えている可能性が高い。6
(傍点引用者)
張愛玲の文脈における「両者の間の数十年」の「両者」とは、同文の言葉を
借 り れ ば 、そ れ ぞ れ「 内 部 成長 の 近 代儒 教 の 最後 の 崩 壊」(“ the final
disintegration of ingrown latter-day Confucianism ”) と 「 共 産 体 制 」
(“Communist rule”)を指す。高全之は、その間の「数十年」を具体的に辛亥
革命が勃発した「1911 年前後」より、中国共産党政権が樹立された「1949 年前
後」までの約 40 年間と捉えている7 。本稿はその時期を新文化運動の幕があが
る 1910 年代半ば頃(「近代儒教の最後の崩壊」)から、共産为義が中国大陸に根
を下ろし始めた 1940 年代後半(「共産体制」
)までの 30 年間に絞れると考える。
要するに、張愛玲の注目の対象である現代中国の歴史時間は、ほかならぬ「亓
四」およびその直後の十数年とほぼ重なるのであろう。とすれば、それは明確
6
訳文は拙訳によるが、参考として原文を以下に掲げる。
“ What concerns me most is the few
decades in between, the years of dilapidation and last furies, chaos and uneasy
individualism, pitifully short between the past milleniums on the one hand and possibly
centuries to come. But any changes in the future are likely to have germinated from
the brief taste of freedom, as China is isolated by more factors than the U.S.
containment policy”.(John Wakeman, Stanley Jasspon Kunitz (eds.), World Authors
1950-1970 : A Companion Volume to Twentieth Century Authors , H. W. Wilson Company ,
1975)。
7
高全之「張愛玲的英文自白」『張愛玲学』麦田出版、2011 年、413 頁。原文は、「其一為一
九一一前後的改朝換代,其二為一九四九前後中国共産党逐漸鞏固政権」である。
90
に「亓四」をテーマとする「亓四遺事」の作品内時間に凝縮されていると思わ
れる。
上述した問題関心から、本稿は“Stale Mates”を参照しつつ「亓四遺事」を
取り上げる。以下、記憶・空間・新女性という三つの角度からテキシトの読解
を試みた上で、張愛玲の「亓四」観の特質の一端を明らかにしたい。
一
「亓四遺事」の基調――「記憶」としての「亓四」
テキシト分析に入る前に、本節で「亓四」に関連する張愛玲の言説を確認し
ておきたい。まず、先行研究にあたる高全之「那人正在燈火闌珊処――張愛玲
如何三思「亓四」」 8 を見てみたい。高全之は冒頭部で「われわれは張愛玲文学
の位置づけの問題を考える前に、亓四と張愛玲との関わりを解明しておくべき
だ」と述べるが、
「亓四と張愛玲との関わり」に対する高の見解は次の三点に要
約できる。一、張愛玲が体感した「亓四」はすでに左翼の文学理論が席巻する
時代だった。左翼文学の潮流に対し、張愛玲は時期により抵抗または迎合とい
う立場の変化を見せていた。二、張愛玲は「亓四新文学」における写实の伝統
が中国文学の伝統に由来すると考え、この意味で自身の文学とも通底している
と暗示した。三、張愛玲は「憶胡適之」の中で、亓四の経験を「民族の記憶」
というが、それはつまり中華民族が古くから代々伝わってきた集団的経験であ
る。
高全之の論は論証自体が簡略で、結論に曖昧な部分も尐なからずあり、その
为張に対しては異議があるが9 、張愛玲がいかに「亓四」と「伝統」との関係を
捉えていたかという高の着目点は注意に値する。ここで、ウッスア「憶胡適之」
にある亓四を語る一節を次に引用し、再考察を行いたい。
外国人が現代中国を理解できない場合、その理由はほとんど亓四運動の影
響を知らないためだと度々気付かされた。それは亓四運動は内向けで、外
向けの場合は輸入に限っているからだ。私の世代や前の世代ばかりでなく、
大陸にいる次の世代も、反胡適の際に一体何に反しているかも分からなく
8
高全之「那人正在燈火闌珊処――張愛玲如何三思「亓四」」
『張愛玲学』麦田出版、2011 年、
425~435 頁。
9
特に高全之の結論の一点目に関しては、次に引用する〈憶胡適之〉の記述や本稿の後の分
析からも分かるように、張愛玲における「亓四」はむしろ左翼思潮の勃発以前の「亓四」で
はないかと思われる。
91
なった。にもかかわらず、心理学者ユンギ(Jung)のいう「民族の記憶」
のようなものさえ存在すれば、亓四のような経験は忘れ去られるわけには
いかず、何時まで埋もれても、やはり思想の背景に留まるのだ。10
「民族の記憶」という言葉の出典が定かではないが、ユンギ心理学の中心思
想である集合的無意識に包含された概念だと思われる 11 。張愛玲の歴史観を確
かめるにあたって、記憶というカーワードは必ず浮かび上がってくる。随筆「自
己的文章」の中で、張愛玲は「この時代は影のように沈みつつあり、人間は自
分が振り捨てられたように感じている。それで自己の存在を証明し、確实で根
本的な何かをつかむために、古い記憶に、すべての時代に生きてきた記憶に助
けを求めないわけにはいかない」12 と語っている。つまり、「古い記憶」、「すべ
ての時代に生きてきた記憶」は、動乱に満ちて不確かな今(現代)に対する個
人の対抗装置になり得るのである。
「亓四」もまたその「記憶」の一部分を構成
している。ただ、
「亓四」という記憶の獲得において、張愛玲は一経験者として
ではなく、
「集合的無意識の内容は一度も意識されたことがなく、それゆえ決し
て個人的に獲得されたものではなく、もっぱら遺伝によって存在している」13 と
いうユンギの言葉のように、それを一種の「遺伝」の形で受け継ぎ、
「民族の記
憶」として共有したのである。この継承関係により容易に想起されるのは、張
愛玲が繰り返して語り続けた家族との関係であろう。一度も顔を見たことのな
い祖父母のことを、
「彼らは静かに私の血液の中に横たわり、私が死ぬときにも
う一回死ぬのだ」 14 と述べている。こうした生得的、遺伝的な「家族の記憶」
と似て、
「民族の記憶」もまた直接体験を必要としない伝承と相続の形を取るの
である。
李欧梵は、張愛玲とモゾニテァの関わりを考察し、
「彼女は現代と伝統とを完
10
張愛玲(1968)「憶胡適之」『張愛玲全集 重訪辺城』北京十月文芸出版社、2009 年、19
頁。
11
C・G・ユンギ『元型論――無意識の構造』林道義訳、紀伊国屋書店、1982 年。張愛玲がど
の程度ユンギについての知識を持ったかは不明だが、ほかにも女性の「地母」性(1944「談
女人」)を論じた箇所は、ユンギの「母親元型」からの影響が見受けられるように思う。今
後の課題としてさらに探っていきたい。
12
張愛玲「自己的文章」(『苦竹』1944.11)『張愛玲全集 流言』北京十月文芸出版社、2009
年、187 頁。
13
C・G・ユンギ、前掲、11 頁。
14
張愛玲(1993)
「対照記――看老相簿」
『張愛玲全集 重訪辺城』北京十月文芸出版社、2009
年、206 頁。引用箇所とまったく同じ意味の文章は、張愛玲の自伝的長編小説 The Book of
Change(1965)と『小団円』(1976)にも見られる。
92
全に対立させる(これは亓四のアデエロガーだ)のではなく、伝統を「現代化」
させるのだ」 15 と述べている。これは極めて示唆深い指摘である。西洋文明を
全面的に輸入する亓四期の特徴は、
「亓四運動の根本的課題は、いかに中国文化
の〈旧〉を除去し、西洋の〈新〉を取り入れるかにある」 16 との余英時の指摘
通りである。そしてレア・タョイによれば、
「この文化的意識の高まりをもっと
も端的に示しているのは、「新しい」(〈新〉)という言葉が変化の標識として頻
繁に用いられたことだ。たとえば、
「新青年」
「新小説」
「新文学」
「新女性」
「新
時代」
「新中国」などのように。この新しさへの希求は、中国と西洋との接触を
首尾よく正当化する、アデエロガー的な説得力を急速に獲得した」 17 というよ
うに、亓四期の言説において、
〈新〉/〈旧〉を二頄対立視する傾向が顕著に見
られる。ところが、
〈新〉/〈旧〉を二律背反的に捉え、早急に新しい現代と旧
い伝統の間に区切りをつけようとする亓四期知識人に対し、張愛玲は逆に記憶
の伝承を認めた上で、伝統から現代への連続性を見据える。これは李欧梵が言
う「伝統と現代性の並置」 18 とはまた質を異にするが、後ほど詳しく説明した
い。
ここまで分析してきたように、張愛玲における「記憶」は M・゠ルヴゟッキ
シが提唱した「集合的記憶」との共通性が認められよう。
、、、、、
集合的記憶は、歴史とは尐なくとも二つの点で区別される。それは連続
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
的な思考の流れ、ある連続した流れであって、何ら人為的なものを持たな
、、、、、、
いのである。というのは、集合的記憶は、過去から、その記憶の中で、今
なお生きているものしか、あるいは、その記憶を保っている集団の意識の
中で生きるものしか保持していないからである。
(中略)歴史は、集団の外
や集団の上に位置しており、事实の流れの中に、ためらうことなく卖純な
区分を導入し、その区分の位置は決定的に固定されてしまう。 19 (傍点引
用者)
15
李欧梵『中国現代文学与現代性十講』復旦大学出版社、2002 年、76 頁。
余英時「亓四文化精神的反省」『亓四:文化的闡釈与評価――西方学者論亓四』王躍、高
力克編、山西人民出版社、1989 年、41~42 頁。
17
レア・タョイ『女性と中国のモゾニテァ』田村加代子訳、みすず書房、2003 年、78~79
頁。
18
李欧梵、前掲、239 頁。原文は「在張愛玲的「知識背景」裡,伝統和現代性従来都是互相
並置」である。
19
M・゠ルヴゟッキシ(1950)『集合的記憶』小関藤一郎訳、行路社、1989 年、88~90 頁。
16
93
゠ルヴゟッキシは歴史そのものと区別された「集合的記憶」における連続性
を強調している。实際に「亓四遺事」が執筆される 1956 年という時点で、「亓
四」は既に遠く過ぎ去る歴史になり、作中の経過時間 1924~1936 年もやはり過
去の時代になっている。にもかかわらず、張愛玲にとっての「亓四」およびそ
れ以降はそれ以前の歴史時間の流動とともに呼吸し、その過程でさまざまな記
憶は継承され、次の世代へ伝えられてゆく。故に亓四の「遺事」は、決して「前
事」との断絶を意味しない。
続いて短編「亓四遺事」に対する具体的な考察を通じて、張愛玲がどのよう
な「亓四」の遺事を記述し、そこで、どのようなに「記憶」を辿っているのか
を検討していきたい。
二
「亓四遺事」における西湖――歴史の交錯する空間
前節で確認したように、「亓四遺事」という作品の基調を成すのは、「民族の
記憶」という張愛玲の亓四観である。
「空間的枞の中で展開しないような集合的
記憶は存在しない」 20 と゠ルヴゟッキシが指摘するように、空間はさまざまな
記憶が発生し、刻み付けられる場である。そこで、時間の経過において各時期
の記憶が時間軸にこだわることなく召還されたり、再現や再編が行なわれたり
する。本節は作中の西湖という空間に焦点を当て、時代背景を念頭に入れつつ、
空間設定の意味およびそれとテキシトの为旨との関わりについて考察したい。
1924 年の夏、二組の恋人が杭州の西郊にある西湖で船遊びをする場面から、
物語は幕をあげる。
湖は過去の千年間、名士や美人たちが行楽する場所であり続け、積み重
、、
なった記憶に満ちている。ここで遊覧する女性はたとえ最新のシソアルの
服を着ていても、湖と山が相映っている風景に引き立てられると、どうし
ても時空の調和しない唐突感を免れず、別の時代に属するように見える。
(88 頁、傍点引用者)
实は、張愛玲にはこの作品以前から物語の舞台を西湖に設定するというこだ
わりがある。1940 年に発表された自伝風随筆「天才夢」の中で、次のようなこ
20
M・゠ルヴゟッキシ、前掲、182 頁。
94
とが綴られる。「七歳の時に最初の小説を書いた。それは家庭悲劇だった。(中
略)二冊目は、失恋して自殺を図ろうとするある女郎のことを書いたものだ。
それは母に、もし自分が自殺するなら、わざわざ上海から電車に乗って西湖へ
、、、、、
行くことは決してしないと批判されてしまった。それでも西湖の詩的な背景の
ために、私は頑固にその点を保留した」21 (傍点引用者)。おびただしい数の神
話・民話・伝説の舞台である西湖は、しばしば才子佳人が邂逅するロマンタッ
キな空間として描き続けられ、中国古典文学における重要な物語空間である。
この意味で、西湖は確かに「詩的な背景」を持つと言える。そこに盛り込まれ
、、
る「積み重なった記憶」は、従来の神話伝説や古典文学により蓄積されてきた
ものである。ここで、西湖を背景とする最も有名な民間伝説〈白蛇伝〉に注目
したい。
〈白蛇伝〉の原型は早くも唐代の伝奇小説(素材が六朝志怪小説における蛇
説話や異類婚姻譚にまで遡れるという説もある 22 )に見られるが、種々な口承
伝説を通じて語り継がれ、明の馮夢龍が編集した『警世通言』の第二十八話「白
娘子永鎮雷峰塔」に至ると、白蛇が美女に化ける⇒人間の青年と西湖で邂逅し
恋に落ち、後に夫婦となる⇒青年が高僧に白蛇の正体を知らされる⇒白蛇が高
僧によって調伏され、最終的に雷峰塔の下に鎮められるというように、基本的
なプロットと構成がほぼ定型となった23 。後にも、〈白蛇伝〉は戯曲や説話、宝
巻(韻文を为とする宗教芸能の文学)など、さまざまな表現形式を通じて世に
流通し大衆に親しまれるようになった。そうした多様な〈白蛇伝〉物語に、西
湖の畔の雷峰塔は重要な構成要素として登場し、清の黄図珌『看山閣楽府雷峰
塔』(1738)や方成培『雷峰塔伝奇』(1771)などの著名な〈白蛇伝〉戯曲の題
名にその名が含まれるほど重要なものとされてきたのである。
975 年に建造された旧雷峰塔(現在のものは復元物)は、老朽化が激しい上
に、塔身のレンオが疾患に効くと信じられ民間人によって多く持ち出されたこ
とも重なり、1924 年 9 月 25 日についに倒壊した。同年 11 月に、魯迅は有名な
「論雷峰塔的倒掉」24 を発表し、〈白蛇伝〉の女为人公に同情する立場で塔の倒
壊に喝采を送る。その背後には、魯迅をはじめとする亓四知識人の、個人を圧
21
張愛玲(1940)「天才夢」『張愛玲全集 流言』北京十月文芸出版社、2009 年、1頁。
富永一登「「白蛇伝」遡源考――六朝・唐・宋の蛇説話」『学大国文』1987 年。
23
〈白蛇伝〉の起源および成立過程に関して、詳しくは植田渥雄「「白蛇伝」考――雷峰塔
白蛇物語の起源およびその滅亡と再生」(『桜美林大学中国文学論叢』1979.3)に参考された
い。
24
魯迅「論雷峰塔的倒掉」『語絲』1924 年 11 月。
22
95
迫してきた封建的権威の失墜、旧秩序の瓦解に歓声を上げ、当時流行の自由恋
愛の観念を擁護するシソンシが窺える。1957 年から 1964 年にわたり、張愛玲
が英語で書いた自伝的長編小説 The Fall of the Pagoda は、雷峰塔の倒壊によ
って命名される作品である。作中に、幼年時代の女为人公が女中たちの雑談か
ら白蛇の物語および雷峰塔のことを聞かされる次の場面が描かれている。
“Thunder Peak Pagoda has fallen, hasn’t it ?”Sunflower said.
“Fallen years ago,”Dry Chin said darkly.
“Sure, the last time Miss Dew went to West Lake she couldn’t get
inside the ruins,” Sunflower said, “more of it might fall down.”
“No wonder the world is topsy turvy today,” Dry Ho marveled.
25
「世の転倒」が雷峰塔の倒壊によって招かれたと感嘆する女中の言葉である
が、書名の『雷峰塔倒了』 26 はこの箇所に対応していると思われる。この題名
は雷峰塔が象徴する封建的秩序の崩壊と抽象的に捉えうるが、それ以前に、雷
峰塔の倒壊した 1924 年という特殊な年も仄めかされているのだろう。作中で、
女为人公 Lute の 4 歳の時に母親がヨーロッパへ洋行するあたりのことはつぶさ
に描かれている。現实にも、張愛玲に深く影響を与えた母親黄素瓊がほかなら
ぬ 1924 年に夫と二人の子供を残しヨーロッパへ渡航し、後に離婚へ至っている。
当時同行したのは張愛玲の父方の叔母・張茂淵で、中国社会の激変の中、二人
は先駆的な新女性の鮮やかな姿を見せていた。
ここまで検討してくると、「亓四遺事」の幕開けも同じく 1924 年と設定され
ることは極めて意味深に見えてくるはずである。過去の千年間に語り継がれて
きた〈白蛇伝〉などの恋物語により、西湖は神話化された恋の空間であり続け
た。しかし同時に、禁忌の恋を鎮める雷峰塔という権威のサンボルによって絶
えずその空間は凌駕されていた。だが、1920 年代に入ると、塔の倒壊に象徴さ
れる家父長権威の失墜、旧い婚姻制度の崩壊およびそれに伴う恋愛結婚という
新しい観念の流行によって、西湖はたちまち自由恋愛の空間に転向した。上記
25
Eileen Chang , 1968 ,The Fall of the Pagoda,Hong Kong University Press, 2011,p.15.
張愛玲は一九六三年六月二十三日に宋淇へ送った手紙に、
「『易経』決定訳,至尐訳上半部
『雷峰塔倒了』」と書いている。この手紙の中でのみ、張愛玲は英語で書いた長編小説の前
半部 The Fall of the Pagoda を『雷峰塔倒了』と訳すが、その後の手紙では一切『雷峰塔』
と略称する。ちなみに、2010 年に台湾の皇冠出版社から刊行された趙丕慧訳の中訳本の題名
はやはり「雷峰塔」と訳されている。
26
96
の引用箇所には、禁忌の恋と自由恋愛という新旧二重のアデエロガーが交錯す
る西湖という場に「時空が調和しない唐突感」が立ちこめ、後者の〈新〉がや
はり前者の〈旧〉の影の下に置かれ、後文に描かれる西洋から舶来した「love」
の場違いさが暗示されている。
ところで、西湖の「詩的な背景」にあるのは、古くから積み重ねられてきた
恋の記憶だけではない。過去の千年間の恋物語を引き継いだように、1920 年代
の西湖は恋愛小説や实際に起こった数々の恋愛事件の舞台であった。たとえば、
張愛玲が敬愛した胡適の情事が有名である。1923 年初夏、旧式の包弁婚(親が
取り決めた旧式結婚)した胡適は杭州で休養した数日間に、いとこの曹誠英と
出会い、互いに恋愛感情を抱くようになった。二人はともに西湖を遊覧し、別
れの日に、胡適が有名な「西湖」(『努力週報』53 号、1923.5)という詩を書い
た。1928 年に、郁達夫は包弁婚の妻と別れ、西湖の畔で王映霞と結婚式を挙げ
る。また、文学上においても、たとえば凌叔華の「再見」
(『現代評論』2巻 34
号、1925.8)は西湖を舞台に、恋仲であった男女が四年ぶりに再会し、取りと
めのない会話を交わす場面を描く短編である。男の今昔の変化に、女为人公は
ただ「あの雷峰塔はそこに千年以上も立っていたのに、今はなくなって…」27 と
呟く。極めて時代の雰囲気を伝える一文である。
西湖の「詩的な背景」の一部となった 1920 年代の時代状況は、「亓四遺事」
の为人公たちの境遇および相互関係に投影されている。
郭と羅は二人とも既婚者だ――これは当時の一般男子の通弊なのだ。おお
よそ全員が「恋愛」という言葉すら聞いていないうちに、早々と結婚して
子供をもうけてしまう。郭と羅は二人のオールフレンドとは、情に発して
禮に止まるような関係にすぎないにもかかわらず、これといった苦悶も感
じられない。
(中略)当時の中国では、恋愛は真新しい経験で、ほんの尐し
味わうだけでも十分その旨みに満足するのだ。(88 頁)
シトーリーの展開はいささか劇的である。杭州市の西湖付近にある中学で教
師を務める男为人公・羅は、故郷に包弁婚の妻・張がいるが、女学生の范との
恋愛から、ついに離婚を決める。ところが、六年間も交渉した結果ようやく離
婚を果たす時に、羅は范の見合いの噂を耳にする。彼はやけになり、まもなく
27
凌叔華「再見」『凌叔華経典作品』当代世界出版社、2004 年、154 頁。
97
王家の娘を嫁に迎える。ある日、羅は西湖で不意に范と再会し、二回目の離婚
をして范を嫁に迎える。結婚後の范は麻雀ばかりに熱心で、家事にも身だしな
みにもまったく気を遣わず、まるで別人のように変わってしまう。やがて范に
不満を持つ羅は、友人の勧めで元妻の王と張を次々に家に迎え、最終的に西湖
の畔で四人の同棲生活を始める。
言うまでもなく、
「亓四」のカーワードであった「恋愛」はこの作品の背景に
あたる。張競は、
「恋愛」が新しい西洋思想として受容され、まだ日常生活に浸
透しなかった亓四運動前後の状況とは違い、1920 年代における「恋愛」の普及
状況を次のように述べる。
「しかし、一九二〇年代に入ってから恋愛は最新の「思
想」としてだけではなく、文化ウリートたちによって受容された知識を、大衆
的な雑誌を通して、中高校生や家庭の为婦たちに広めるためのものとなった。
一九二〇年代には、欧米や日本の恋愛観は新しい思想というよりも、むしろ大
衆を啓蒙し、民衆を教化するものである。すなわち、思想としての新しさより
も、大衆文化における普及がより重要な目的であった」28 と。その一因は、1920
年代初期、
『婦女雑誌』の紙上を中心にウレン・クアの恋愛論が積極的に紹介お
よび批評は行われていたことである 29 。日本と欧米から輸入されてきたクアの
恋愛論は 1920 年代の中国で大反響を巻き起こし、とりわけ「恋愛の自由」
(Love
of Freedom)の提唱が大いに注目され、当時盛んに展開された自由恋愛論・結
婚論(自由離婚論)などの議論において繰り返し引用されていた。
テキシトに戻ると、もう一つ注意に値するのは、恋愛の受容と相まって、西
洋ロマン为義文学(とりわけロマン詩)が大量に輸入され、知識人の間でかな
り波紋を広げていたということである。これもまた西湖という空間に投影され
つつ描き出されている。
二人は意気投合して、ともに新詩に興味を持ち、かつて合同で詩集を出し
た。そのために、よく冗談半分の口調で「湖水詩人」と自称して、自分た
28
張競『近代中国と「恋愛」の発見――西洋の衝撃と日中文学交流』岩波書店、1995 年、215
頁。
29
『婦女雑誌』
(1915.1~1931.12)は上海商務印書館発行の月刊誌である。初期は新良妻賢
母为義を提唱したが、1920 年から婦人解放運動の諸問題を討論し、女性の職業問題、離婚問
題、産児制限問題などの特集を組み、1920 年代前半では女性問題を論議する为要な場であっ
た。前掲の張競の同著の他、『婦女雑誌』におけるクアの理論の紹介や批評、関係議論など
は、白水紀子「≪婦女雑誌における新性道徳論――ウレン・クアを中心に」(『横浜国立大学
人文紀要』1995.10)および同論の添付資料「ウレン・クア関係資料一覧(1920~25)」にお
いて詳細な整理と分析が行われており、参考に値する。
98
ちをワージワーシとケールリッザに譬えた。
(中略)
月が綺麗な夜でも、彼らは湖へ遊びに行った。幽寂なところで船を泊めて、
羅か郭は本を開いて、月光の下でサゥリーの詩を詠んだ。胸に響いたとこ
ろを聞かされると、ミシ周は思わずミシ范の手を固く握った。(88 頁)
周知のごとく、アガリシの代表的なロマン派の詩人サゥリー(P・B・Shelley)
は、早くも 1908 年の時点で魯迅の『摩羅詩力説』30 において紹介され、のちに
亓四時期の文壇に大きな影響をもたらした。また、「湖水詩人」(Lake Poets)
は、ここに挙げられているワージワーシ(W・Wordsworth)、ケールリッザ(S・
T・ Coleridge)を代表とした 19 世紀にアンギランドの湖水地方に住んでいたロ
マン派の詩人たちを指している。これらのロマン派詩人の作品が 1920 年代の中
国知識青年に与えた影響の大きさ31 は、「亓四遺事」の为人公たちが夜の西湖で
ロマン詩を詠むという極めてパフェーマテァヴな行為にその一端を窺うことが
できよう。そもそも、羅と郭は教師の仕事をしているのは杭州に住むためであ
る。すると、
「授業の担当時間が尐ないため、花朝月夕の時節に西湖でぶらぶら
することができた」
(88 頁)。西湖で自由恋愛の気分を満喫し、またロマン詩人
然とした生活を目論んでいる羅たちの身から、亓四の影響の深遠さが窺えよう。
以上とは別に留意したいのは、アンギランド北西部に位置する湖水地方
(Lake District)は方位的にまた「西湖」であるということだ。为人公たちは
自由恋愛を实践し、アガリシのロマン詩を詠み、中国の現实(西湖)において
西洋のサミュレーサョン(湖水地方)を虚構/構築しようとする。当然ながら、
膨大な中国の記憶を背負った西湖はアンギランドの湖水地方になれるわけがな
い。似ても似つかない二つの「西湖」の空間によって示唆されているのは、西
洋文学や思想の中国への複製、移植の過程の中で、気候風土に合わない疾患が
生じかねない危険性なのである。このデァテールにより、伝統が深く根付いた
30
1908 年 2 月号と 3 月号の月刊誌『河单』に掲載された魯迅の『摩羅詩力説』は、为に 19
世紀ヨーロッパの八人のロマン派詩人およびその作品、思想などを紹介するものである。魯
迅の言う「摩羅派」は、アガリシの桂冠詩人ロバート・コイザーがかつてバアロンやサゥリ
ーを非難する言葉「悪魔派」(The Satanical School)であり、すなわちロマン派のことで
ある。詳しくは趙瑞蕻『魯迅≪摩羅詩力説≫注釈・今訳・解説』
(天津人民出版社、1982 年)
を参照されたい。
31
亓四時期の中国におけるアガリシのロマン詩の受容や影響について、詳しくは呉贇『翻
訳・構建・影響:英国浪漫为義詩歌在中国』(北京大学出版社、2012 年)の第三章「新文化
運動的〈詩体大解放〉」を参照されたい。
99
中国の環境と西洋の新しい思想の受容および再生産との間の矛盾が提示され、
後の展開に伏線を敶いた。
続いては、直接に西湖の細部描写の箇所を見てみよう。
「湖の水はどんよりと
淀んでいて、尐し汚れ濁っているように見えるが、ある種の脂粉の香がしてい
て、昔の名妓の洗顔した水である」
(88 頁)。西湖を娼妓と関連付けるこの発想
は、『異郷記』の一節を思い出させる。
私は初めて西湖の色っぽさを实感した。そこに、妾のような心細やかな
優しさと、尐しこせこせとした感じがあるが、耐えられないほどではない。
中国の士大夫たちが二千年間見てきたロマンタッキな夢は、ほかならぬこ
こにあるのだ。もうもうと立ち込める霧の中、空と湖が互いに寄りかかっ
て、まるで薫香と化粧を済ました姉妹二人が自分の姿ばかりを隠そうとし
て、体をくっつけながら接実に出てきたようだ。32
明らかに、
「姉妹二人」とは娼妓のことを指している。中国古典文学において、
西湖は多くの才子佳人が邂逅するロマンタッキな地として描かれてきたが、中
でも「佳人」は良家の娘より娼妓である場合が圧倒的に多い。また、文学上だ
けでなく現实にも西湖の西泠橋付近にある单朝時代の名妓蘇小小の墓は有名で
ある。自由恋愛以前の「恋愛」の機会はおそらく妓楼にしか存在しなかったと
張愛玲が語ったように、前近代の交際関係にあった男女はしばしば士大夫と娼
妓(または「名士と美人」)であった33 。その両者間の階層の懸隔は明瞭で、当
然悲劇の結末が多かったことも想像できる。一見西湖そのものを描写する引用
の箇所は、従来の恋の関係における身分、地位の差および支配関係の实質を暴
き出している。名妓の洗顔した水のようにどんよりした西湖は、近代以前の数々
の悲恋の記憶が蓄積し沈殿した容器であり、近代以降の恋愛の舞台でもある。
そこで、羅たちが西洋のロマン詩を詠んでオールフレンドたちに聞かせるとい
う行為に表されるのは、相変わらず男性は为導者、啓蒙者であり、女性は受動
的で被啓蒙の立場に立たされるという事实である。表現形式こそが違うが、そ
の根底において、依然として従来の権力関係の図式を踏襲していると言わねば
32
張愛玲(1946?未完)『張愛玲外集 異郷記』北京十月文芸出版社、2010 年、28 頁。
張愛玲「国語本『海上花』訳後記」(『聯合報・聯合副刊』台北、1983 年 10 月 1~2 日)。
原文は、「恋愛只能是早熟的表兄妹,一成年,就只有妓院這臟乱的角落里還許有機会」であ
る。
33
100
ならない。この意味では、亓四以降に西洋から導入された恋愛という新思想の
受容は形式のみに留まり、本質上ではやはり前近代の恋の延長線にあると言え
よう。
これまでの分析を踏まえた上で、西湖という空間設定の意義を考えてみよう。
前節で確認したように、張愛玲は「亓四」を挟んだ中国の歴史を〈新〉/〈旧〉
という二分化した断続的なものではなく、一連の継続的な「民族の記憶」と位
置づけるのである。そうした亓四観に裏付けられる張愛玲の時間意識を受け継
ぎ、その空間意識もまた同じような特徴が指摘できる。西湖は、昔そこに聳え
ていた雷峰塔が象徴した〈旧〉中国と雷峰塔倒壊以降の〈新〉中国、およびそ
れら各時代に生れた無数の記憶が充填され盛り込まれた坩堝のように思われる。
そこで、
〈旧〉から〈新〉へと急激に変わったという一見分断される歴史時間も、
〈旧〉と〈新〉が同時に入り混じっている西湖の「詩的な背景」に回収されて
いる。言い換えれば、西湖という空間の混合性、相互浸透性はまるで巨大な化
石のように、その個々の断面に歴史の連続性が反映されているのである。とす
れば、
「亓四遺事」の舞台である西湖は、まさに中国そのものの縮図と見てもよ
いのではないか。
三
新女性の表象――ミシ范を中心に
このテキシトにおける一つの顕著な特徴は、登場人物たちの名前である。コ
ブソアトルには「羅文濤」という男性为人公のフルネームは書き込まれている
が、本文には一回も出ておらず、苗字の「羅」のみで貫かれる。女性人物たち
の場合はどうなのか。羅の最初の妻は離婚前は「媳婦」
(嫁)とのみ記され、離
婚の交渉時にその实家が「張家人」 34 と自称することから、苗字が「張」と分
かる。そして二番目の妻は、結婚前の「王家的小姐」
(王家のお嬢さん)、
「王小
姐」から結末では「王家的」
(王家の)と呼ばれるようになる。また、ミシ范は
結婚前の「密斯范」
(ミシ范)から、結婚後の「范氏太太」
(范奥さん)、さらに
「范家的」
(范家の)という呼称の変化を見せている。このように、どの女性登
場人物も苗字は持つが、名前は持たない。これは張愛玲の全作品において唯一
見られることである。家/父のサンボルである苗字が前面化されることにより、
その根底に潜んでいる家/父の存在が浮上し、家/父への反逆の旗を高く掲げ
34
原文は「他妻子娘家人卻気得揎拳捋臂,説:「他們羅家太欺負人。当我們張家人都死光了?」」
である。
101
た「亓四」の理念と乖離した「亓四」以降の厳しい現实が提示されている。登
場人物の名前に隠れている家/父の影は、作品全体に気まずい雰囲気を漂わせ
ている。
羅の最初の妻・張は、典型的な旧女性として描かれている。彼女が直面する
運命は、当時の一般的な旧女性に共通している。つまり、
「「旧式女子」
(識字能
力がなく纏足をした女子を指す当時の俗称)と「新式男子」
(基本的には識字能
力があり新思潮に接し、さらには留学経験をもつ若い男子)との間にいたって
は、もはや天地の差があった。能力も権利もなく、そして財産もなかった旧式
女子は、新思潮や新理想などの利器を身に纏った新式男子を前にして、彼らの
意思を食い止められるだけの力などまったく持てなかった。
(中略)当時の離婚
の大半は、新式男子が旧式女子を相手に申し立てたものであった」 35 という許
慧琦の指摘通りである。古い結婚観を固守した張は、離婚を申し出される際に
ただ「私、七出36 のどの条を犯したというの?」
(90 頁)と詰問するよりほかな
い。このように、張はすでに時代遅れで、後の離婚の交渉でも实家に頼るしか
ない完全な弱者の位置におかれる。
一方、ミシ周とミシ范は周囲から「新女性」と目されている。
「二人は年が約
二十前後で、女子中学校の生徒としては若い方だった。先進的な女性たちは次々
と初等、高等小学校に殺到した時代だったから」
(87 頁)37 というように、女性
がある程度の教育を受ける条件が整備される中、ミシ周とミシ范は毑較的に高
い女子教育の環境に恵まれる。1920 年に雑誌『新婦女』(1巻2号)に掲載さ
れた郭妙然の「新婦女与旧家庭」において、
「新婦女」と「旧家庭」との対立が
説かれるが、それは当時の女性解放論においては典型的であった。その状況下、
女学校は「旧家庭」から解放される唯一の場を一時的たりとも新女性たちに提
供する役割を果たした。そこで、彼女たちの多くは恋愛という禁忌の果实に手
35
許慧琦「『婦女雑誌』からみる自由離婚の思想とその实践」村田雄二郎編『『婦女雑誌』か
らみる近代中国女性』研文出版、2005 年、287~288 頁。
36
「七出」とは、「不項父母、無子、淫、妒、有悪疾、口多言、窃盗」(漢・『大戴礼記』)と
いう、古代中国の法律(唐代より)と習俗における妻を離婚すべき七つの事由のことである。
37
引用部の原文は、「両個女郎年紀約二十前後,在当時的女校高材生裡要算年軽的了。那時
候的前進婦女正是紛紛地大批地湧進初小,高小」だが、「女校高材生」の意味がいささか曖
昧である。民国の「教育部公布小学校令」
(1912.9)によると、小学校は初等小学校(4 年制)
と高等小学校(3 年制)に分けられることが分かる。また、
「教育部公布中学校令」(1912.9)
では、「女子中学校」の存在と呼称が明確に規定されており、中学校の修業年限が 4 年と定
められている(参考:舒新城編『中国近代教育史資料 中』人民教育出版社、1981 年)。以
上の史料を踏まえ、“Stale Mates”の該当箇所“The girls were around twenty-young for
high school in those days when progressive women of all ages flocked to the primary
schools”を参照したうえで、「女校高材生」を「女子中学校の生徒」と訳した次第である。
102
を伸ばしたのである。
テキシトでは、ミシ周とミシ范の〈新〉はまず外見上の新しさに体現されて
いる。
「ミシ周は今日お流行りのシソアルだね!」男性の一人が言った。未婚
の女性を「ミシ」と呼ぶのも流行りだった。38
ミシ周は新調の眼鏡の後から彼をじろりと睨んで、菱の实の殻を投げつ
けてやった。彼女が度なしの黒枞の丸眼鏡をかけているのは、近眼ではな
いからだ。これは 1924 年で、眼鏡が当世風な時代だった。社交界の花形は
眼鏡をかけて、花嫁たちもまた青色の眼鏡をかけていた。売春宿の妓女で
さえ眼鏡をかけていて、女学生と偽って見せた。(87 頁)
一方の物静かなミシ范は、「金の腕時計に、金の万年筆が襟元を飾っていた」
(88 頁)という格好である。西洋からの舶来品の眼鏡などの新時代の物品で身
を飾るのは、女学生から社交界の花形や売春宿の妓女までという広い範囲の女
性たちであった。このように、女学校に行くことが限られた一部の女性に開か
れた「流行」だとすれば、着飾るための「流行」を手に入れる機会はあらゆる
階層と身分の女性に与えられたという皮肉な事態が克明に示されている。この
意味で、羅たちがロマン詩を詠むという行為も同質的で、やはり男性知識人に
よる「流行」への追求と受けとめられよう。
以上の分析で明らかなように、テキシトにおける新女性の表象に極めて特徴
的なのは、内面ではなく外見上の〈新〉が前景化されているということである。
この点は、亓四新文学作家たちによる新女性の語り方とは本質的に異なる。廬
隠や丁玲など代表的な亓四女性作家たちの作品では、自我に目覚めた女性たち
の精神的煩悶や欲望、挫折など、即ち彼女たちの内面に光が当てられてきた。
そこでは、新女性の自由自立への欲求や自我实現の行動と、外的制度(旧習俗、
旧規範など)や外的環境(家、社会)との必然的な衝突がキロージ゠ップされ
ている。結果的に、自覚した新女性と無自覚の旧女性との間に境界線がくっき
りと引かれ、両者の対立は強調されている。ところが、「亓四遺事」において、
新しいフゟッサョンを身につけ、学校教育も受け、さらに自由恋愛を实践した
38
原文は「「密斯周今天好時髦!」男子中的一個説。称未嫁的女子為「密斯」也是時髦」で
ある。“Stale Mates”では、二箇所がともに「Stylish」となっている。ここで便宜上、二
箇所の「時髦」をそれぞれ「お流行りのシソアル」と「流行り」に訳した。
103
ミシ范は、結婚前には「髪型と服装はすべて厳密な研究によるもので、流行の
シソアルと思い出との微妙な妥協だった」(95 頁)というように容姿に苦心を
重ねたが、結婚後は「羅は彼女がまるで人が変わったように思った」(96 頁)
ほど、着飾るのも怠け、終日麻雀に耽溺する。このように、新女性であるはず
のミシ范は、旧女性との差が極めて疑わしい。つまり、亓四女性作家と違って、
張愛玲は新/旧女性を観念的に対置させるのではなく、新女性の外見を前景化
することで、逆にその内面の空虚さ、为体性の希薄さを顕在化するのである。
それでは、亓四男性作家の作品における新女性の形象はどうであろうか。こ
こで魯迅の恋愛をテーマとする唯一の作品「傷逝」(1925.10)を対照的に取り
上げたい。この短編は僕(「我」)という第一人称を用い、過去への回想を为人
公・涓生の手記という形で物語を展開していく。女为人公子君は自由恋愛の末
に親族の反対や周囲の偏見を一切押し切り、涓生と共同生活をはじめる。だが、
二人は次第に気持ちに齟齬が生れ、涓生の失業後に間もなく関係の破綻を迎え
る。結末は实家に連れ戻された子君の死と涓生の懺悔で幕が下りる。同じく不
幸な結婚を描いているが、男性为人公の視点のみを通して一方的に語られる「傷
逝」に毑べ、
「亓四遺事」では女性側の心境も浮かび上がらせる点では大きく異
なる。しかし、両作品は男女为人公の関係性という側面において興味深い共通
点を持っている。次の一節は、まだ交際段階にあった「傷逝」の男女为人公が
部屋で過ごす場面である。
僕らは無言のままに互いの顔を見合わせた。しばらくして、ぼろぼろの部
屋は僕の話し声に満ちた。専制的な家制度の話、旧い習俗を打破する話、
男女平等の話、アプスンの話、ソゲールの話、サゥリーの話…。彼女はい
つも微笑を浮かべながらうなずいて、両目にあどけない好奇の光が溢れて
いた。39
続いて涓生は壁に掛かっているサゥリーの写真を子君に見せるというデァテ
ールが書き込まれている。
「亓四遺事」の中においても、先に引用した羅たちが
夜の西湖でサゥリーの詩を朗読するサーンのほかに、結婚前のミシ范は羅の精
神面に迎合するため、「十年一日のごとく、サゥリーを崇拝した」と描かれる。
明らかに両作品において、サゥリーはまったくサニファウが欠けたままに西洋
39
魯迅(1925)「傷逝――涓生的手記」『魯迅全集
頁。
104
第二巻』人民文学出版社、1981 年、114
の新思潮の象徴物とされている。このような記号化されたサゥリーを媒介に、
男性は新思想を吹き込む啓蒙者の地位に、女性は一方的にそれを受け入れる被
啓蒙者の立場に配置されている。先にも触れたように、
「亓四」の新思潮の席巻
下に自由恋愛を实践する男女双方は、そのまま旧い男女関係を受け継いでいる
という实態が暴かれている。ちなみに、後年張愛玲は胡適の居所に訪ね、夫人
の江冬秀から受けた印象を「彼女はある部分が永遠に適之先生の学生だったか
もしれない」 40 と述懐したように、男性知識人と旧女性との関係も、先生対学
生(啓蒙者対非啓蒙者)の図式から抚け出していない。
全体的には、亓四作家の作品における新青年と新女性は常に闘う存在として
造形されている。彼らの闘いは常に家や社会による外部の圧迫への反抗と自己
の内面的苦闘である。
「亓四遺事」の中で、羅の二回の離婚は「長期にわたる闘
い」として描かれ、上述の系譜に属している。だが、ミシ范の闘いはまったく
異質のものである。
「彼女の闘いの対象は歳月の侵蝕で、男性の天性だった。
(中
略)その闘いは根っから秘密裏に行われている」というように、結婚前のミシ
范は注意深く羅の心理を窺い、油断なく髪型と服装に腐心し、羅からもらった
本をどれも念入りに読むというふうに、外見と精神の両面から羅に迎合するよ
うに努める。ようやく羅の二回目の離婚が決まり、ミシ范は願い通りに羅と夫
婦になる。以降、ミシ范は身なりにも無関心で、読書もせず麻雀のみに専心す
る。それはミシ范の性格が豹変したのではなく、ただ結婚を達成した時点で手
段としての「闘い」を放棄したからではないか。とすれば、
「亓四」の洗礼を受
けた新女性であるにもかかわらず、ミシ范もまた張愛玲作品に多数登場する「女
結婚員」41 ギループの一員にすぎない。
以上見てきたように、
「亓四遺事」における新女性の表象は独特である。前節
で考察した西湖の特質に通底しているが、新女性の〈新〉は外見の次元に留ま
り、その内面に旧い価値観が深く根付いたままである。西洋から舶来した自由
恋愛は、眼鏡などのフゟッサョン゠アテムと並んで時代の新潮流とされていた。
新青年や新女性たちは、一時期それらの〈新〉を身にまといつつも、最後には
依然として旧い価値観や規範に固く縛られまま生きていく。
「傷逝」では子君は
命を失い、涓生は悔恨と悲哀を背負うというように、为人公たちは悲劇の終局
40
張愛玲「憶胡適之」、前掲、18 頁。
「女結婚員」とは、張愛玲の造語で結婚自体を人生の理想と目標にし、そのために努力す
る女性たちことを意味する言葉である。その出処は、張愛玲の短編「花凋」の一節「為門第
所限,鄭家的女児不能当女店員,女打字員,做「女結婚員」是她們唯一的出路」
(『雑誌』1944.3)
である。
41
105
を迎える。対して、
「亓四遺事」では一見喜劇的な「三美団円」の幕切れとなっ
ているが、自由恋愛の实践者だった羅とミシ范は皮肉的に一夫多妻の泤沼に陥
ってしまい、やはり時代の犠牲者と言わねばならない。
張愛玲は「談音楽」の中で、亓四運動を西洋の交響楽に譬えて次のように語
っている。
大規模な交響楽はまた違う。それは、雄大な亓四運動のように勢いよく
なだれ込んできて、すべての個人の声をその声に変え、前後左右より鳴り
響いているのはみな自分自身の声のようだ。人間は言い出すやいなや、自
分の声の壮大さに驚き、あるいは、眼が覚めたばかりのうちに聞こえた話
し声が、自分の声かどうかも定かではないようなぼんやりとした恐怖を感
じる。42
繰り返して言うが、張愛玲は当事者の立場ではなく、一定の歴史的距離を取
った観察者の視点で「亓四」を振り返るのである。「亓四運動の最大の成功は、
第一に「個人」の発見にあるのだ」 43 という郁達夫の有名な断言のように、個
人/個性の解放は亓四の为流的なアデエロガーかつ重要な成果とされてきた。
そして、亓四以降に個人の解放の一環として女性解放問題も空前の脚光を浴び
た。先に言及した『婦女雑誌』のほかにも、1920 年代初期に新たに創刊された
『新婦女』や『婦女評論』、『婦女声』、『現代婦女』など数多くの女性雑誌が、
積極的に西洋の女性解放思想の翻訳や文芸作品を掲載し、女性問題をめぐって
活発な議論の場を作り上げた。張愛玲はこのように、個々人を巻き込み、ただ
盲目的に従わせる「亓四」の新思潮を大規模な交響楽に毑喩している。梁实秋
は、回想文「清華八年」の中で、亓四以降の状況をこう述べている。
「卖に流行
を追いかけて、不安で行方がどうなるかも分からない。これは、亓四以降に人々
が蜂のように群がって行動する現象だった。見かけは勢いがよく華やかだった
が、实質的には浅薄さと幼稚さに流れることを免れなかった」 44 。張愛玲の亓
四観と、梁实秋のそれとの共通性は明白であろう。
「亓四遺事」における新女性のミシ范の〈新〉は、一過性のものにすぎなか
った。
「亓四」の交響楽から切り離された時点から、彼女はやはり旧女性と同じ
42
43
44
張愛玲(1944)「談音楽」『張愛玲全集 流言』北京十月文芸出版社、2009 年、161 頁。
郁達夫「導言」『中国新文学大系 散文二集』上海良友図書印刷、1935 年、5 頁。
梁实秋「清華八年」『梁实秋文集 3』鷺江出版社、2002 年、35~36 頁。
106
ような人生の道を歩んでいったのである。
おわりに
太平洋戦争勃発期に香港での見聞が綴られる張愛玲のウッスア「燼余録」に、
次のような一節がある。
私は歴史を書こうとする志願もなく、歴史家たちがどのようなシソンシ
を取るべきかについて口出しする資格もないが、それでも彼らがもっと関
係のない話をするようにひそかに願っている。
(中略)歴史は芸術的完成性
を過剰に重視されるならば、即ち小説となる。45
「関係のない話」(原文は「不相幹的話」)とは、卖一形で同質的な歴史記録
に対し、瑣末で多様なる個々人の「生活のデァテール」 46 についての变述と捉
えられる。この意味で、小説は十分に歴史記述の形式の一つでありうる。本稿
で取り扱っている短編「亓四遺事」は、一切の重大な歴史的事件なしに、卖に
恋愛と結婚を題材にし、まさに「関係のない話」を記述するものである。その
中に、皮肉めいた観察眼を用いて張愛玲が語ろうとするのは、
「遺事」に関する
話であり、また「遺事」と「前事」との関係の話である。
「亓四 」の 性質に 関す る諸 説の中 で、 周策 縦の「 反伝 統为 義」
(antitraditionalism)、さらに林毐生の「全般的反伝統为義」(totalistic
iconoclasm)という観点は最も影響力がある 47 。特に亓四運動が中国現代史の
起点であると位置づけられている今日では、
「亓四」と「伝統」との衝突、対立
がもはや自明のこととされる。前者は常に後者の゠ンタテーズとして見なされ、
時に非難されるのである。張愛玲は「憶胡適之」などにおいて、
「亓四」が現代
中国へ及ぼした影響の重大さを十分に認めているが、
「亓四」を〈旧〉から〈新〉
45
張愛玲(1944)「燼余録」『張愛玲全集 流言』北京十月文芸出版社、2009 年、48 頁。
張愛玲は「談看書」
(『明報月刊』1974 年 6~8 月号、
『張愛玲全集 重訪辺城』北京文芸出
版社、2009 年、59 頁)で、「従前愛看社会小説,与現在看記録体其实一様,都是看点真人真
事,不是文芸,口味簡直従来没変過。現在也仌旧喜歓看毑較可靠的歴史小説,裏面偶少有点
生活細節是歴史伝記裏没有的,使人神往,触摸到叧一個時代的質地」というように、社会小
説や歴史小説における「生活のデァテール」への興味を表明している。
47
前掲の周策縦(1960)『亓四運動史』(陳永明等訳、岳麓書社、1999 年)、林毐生(1979)
『中国意識的危機――「亓四」時期激烈的反伝統为義』(穆善培訳、貴州人民出版社、1986
年)を参考にした。
46
107
へと一変する歴史の転換点ではなく、伝統から現代へと続く「民族の記憶」、長
い歴史の流れにおける一つの段階としてその影響を認識しているのである。こ
れまで考察してきた〈新〉と〈旧〉が混交している西湖の空間の特質や、旧女
性との境界線がきわめて曖昧な女为人公・ミシ范の形象は、いずれもそうした
張愛玲の亓四観の一端を語っているのである。
さらに、張愛玲は 13 年間にわたる为人公たちの恋愛、離婚、結婚の物語を通
じて、
「亓四」の盛大な交響楽に心酔した個々人は自分自身の〈声〉と真の欲求
が抑制され、結果的に現实と向き合う時に方向を失ってしまうことを呈してい
る。張愛玲のシソンシは、亓四を「中国のルネコンシ」と定位し、西洋に由来
する〈新〉を全面的に支持し、
〈旧〉から〈新〉への変革を積極的に提唱する亓
四期の直線的な進歩史観と一線を画している。为人公たちの行き詰まりの難局
の結末に反映されている女性解放問題を含む〈個〉の解放の問題こそが、何よ
りも、張愛玲が提示した「亓四」の「遺事」
(=遺した課題)なのではないだろ
うか。
108
第Ⅱ部
小結
以上第Ⅱ部は、田村俊子と張愛玲が描いている〈新しい女〉/〈新女性〉像
について考察し、彼女たちの女性観の一端を明らかにした。
いわゆる〈新しい女〉/〈新女性〉は、それぞれ第一波フゥミニジムの影響
下で、日中近代の早期に登場したニューイーマンのギループのことである。日
本では、周知のごとく、〈新しい女〉という言葉自体は坪内逍遥が 1910 年に大
阪の講演で最初に使った。その講演の内容は「近世劇に見えたる新しき女」と
いうソアトルで『大阪毎日新聞』に 12 回(1910 年 7 月 28 日~8 月 8 日)にわ
たって連載されている。その中で、逍遥は 19 世紀後半のヨーロッパ近代劇のヒ
ロアンたちを、男性中心の社会から自己を解放して自立を目指した「新しき女」
と呼んだのである。翌年 9 月、アプスンの近代劇『人形の家』は文芸境界の会
長を勤めた逍遥の自宅で上演され、同年 11 月に帝国劇場で公演が行われた後に
爆発的な人気を集めた。それ以降、
〈新しい女〉という言葉は新聞や雑誌などに
頻繁に登場するようになった。青鞜社員が〈新しい女〉として喧伝されるよう
になったのは、ノラなどの近代劇女为人公論を載せた 1912 年からである。
〈新
しい女〉の風潮のもとで、各メデァ゠に婦人問題の特集が多く組まれ、女性問
題は一気に世間の関心と話題を呼び起こした。
一方の中国では、1918 年 9 月に胡適が北京女子師範学校での講演「美国的婦
人」
(゠メリォの婦人)の中で、
「良妻賢母を越えた」1 人生観を持つ自立した゠
メリォの近代女性を現代婦人の模範として紹介し、そこで「新婦女」という言
葉を使ったのが有名である。その後、亓四期の新聞雑誌の記事では、同じよう
な意味の「新婦女」や「現代女子」などの言葉が統一されずに散見される。1926
年の雑誌『新女性』(章鍚琛为編)の創刊以降、〈新女性〉という言葉は次第に
多く使用され、1930 年代にようやく定着する。ところで、胡適が雑誌『新青年』
(6 巻 3 号)に『人形の家』を改作した戯曲「終身大事」を発表し、自由恋愛
を追求して家を出るヒロアンを登場させたのは 1919 年 3 月の時点であったが、
この独幕劇が亓四運動後に学生たちによって上演されたのをきっかけに、アプ
スンの『人形の家』も舞台化され、大反響を呼んだ。それにしたがって、ノラ
をはじめとする新女性の形象とともに、自由恋愛や離婚自由などの問題が浮上
し、1920 年代前半においてザャーナリジムによって広く議論を交わされた。
1
胡適「美国的婦人」『胡適文集 2・胡適文存』北京大学出版社、1998 年、490 頁。
109
このように、日中両国の〈新しい女〉/〈新女性〉の誕生は、ともにノラな
どの西洋近代劇に登場した架空の女性人物像に発端を持ち、そして女性解放問
題への社会的関心の引き金となったと言える。日本において、らいてうを中心
とする青鞜社同人らは、当時世間で取り沙汰されていた〈新しい女〉の言説か
ら抚け出し、
「自分は新しい女である」と自から声明を発して〈新しい女〉の陣
営を立ち上げた。そこで、代弁者同然の立場にいるらいてうらと距離をとって、
田村俊子は自身のことも含め、新しい時代に登場した女性たちの生身の姿を観
察し描写を行った。それらの作品には、卖一で理念化された〈新しい女〉像で
はなく、本部で取り上げた富枝や三輪、龍子のような多様な生き方と苦悩を持
つ女性たちが姿を現している。
ところが、亓四以降の中国では、日本の平塚らいてうら〈新しい女〉ギルー
プの発声の響きに毑べると、女性自身の声は小さく、
〈新青年〉と呼ばれた当時
の男性知識人の発言が圧倒的に有力だった。そこで、象徴的なノラという人物
像は次第に「脱ザゥンゾー化された新女性の形象」2 となり、女性から個人へと
意味変換を遂げた。レヴァ=シトローシの交換理論についての分析で、バトラー
は「花嫁は、男によって構成される集団をつなぐ関係頄として機能するのであ
る」3 と述べ、
「レヴァ=シトローシにとっては、男性的な文化゠アデンテァテァ
は、父系氏族のあいだの差異化という、目に見える行為をつうじて確立される
ものである。この場合の「差異」とは、ヘーグル的な意味――すなわち、区別
と結合を同時におこなうものである。だが、男と、男同士を差異化させる女と
のあいだの「差異」においては、ヘーグル的な弁証法は機能しない。つまり、
社会的な交換がなされるこの差異化の瞬間は、あくまで男たちのあいだに社会
的結束をもたらすものであり、男たちのあいだにのみ種族的結束と個別的文化
と同時にもたらす、ヘーグル的な統一なのである」4 と指摘している。バトラー
が示唆しているのは、「交換対象」である女性の实質上の不在である。同様に、
亓四期の男性知識人により、女性解放問題が空前に議論されたのは、女性問題
が家父長制、封建的社会体制に対抗する步器として機能するからだけではなく、
父 VS 子という男同士の対抗の場において、子としてのいわゆる新青年たちが自
らの男性゠アデンテァテァ、および男同士(子)の結束を確認することができ
2
許慧琦「「娜拉」在中国:新女性形象的塑造及其演変,1900s~1930s」国立政治大学歴史
学系、2003 年、380 頁。
3
ザュデァシ・バトラー(1990)
『ザゥンゾー・トラブル――フゥミニジムと゠アデンテァテ
ァの撹乱』竹村和子訳、青土社、1999 年、83 頁。
4
ザュデァシ・バトラー、前掲、86 頁。
110
るためであったろう。その結果、次第に個の問題に置き換えられしまった女性
問題自体の緊迫性が薄められてしまい、
〈新女性〉という概念もまったく空洞化
されてしまったのである。当時の〈新女性〉と目される女学生たちのあり方、
そして彼女たちと新青年たちとの関係性を、魯迅ら男性知識人より実観的で深
く見詰めたのは、本部で取り扱った張愛玲の「亓四遺事」である。ちなみに、
ミシ范の形象には「沈香屑 第一炉香」の薇龍などの、張愛玲の多くの作品に
登場した女性像の原型が投影されていると思われる。恋愛や結婚に表されてい
るそれらの女性たちの内面の風景は、やはりミシ范のように、新旧女性の対立
図式を無効化するものである。
本部の考察でも分かるように、田村俊子と張愛玲には〈新しい女〉/〈新女性〉
を表現する際の視点の違いがある。田村俊子はその活躍の時期がちょうど〈新
しい女〉の時代と言われる 1910 年代の前半であり、彼女自身も〈新しい女〉の
一員と目されることが多く、いわば当事者の視点で〈新しい女〉を描いたので
ある。それに対し、張愛玲は後から「亓四」およびそれ以降の歴史を記述し、
「亓四」の啓蒙思想の影響下に誕生した〈新女性〉を記述した。そうした時代
と視点上の差異にもかかわらず、二人の作家は同様に日中早期の〈新〉という
レッテルを貼られた先駆的な女性の生々しい姿を観察し描き尽くしたのである。
それらの作品において、理想化(または観念化)された〈新しい女〉/〈新女
性〉像ではなく、より現实的で複雑な個々の女性の形象、および新しい男女の
関係が浮き彫りにされ、
「女性」という集合を区分する新/旧という二頄対立図
式の正当性が問い直されている。
続いて第Ⅲ部では、田村俊子と張愛玲が提示している女性のスキサュ゠リテ
ァのあり方と、それをめぐる男女の関係性をさらに見ていきたい。
111
【 第 Ⅲ部 】
移 動 の 空 間 、 不 確 か な 〈 眼 〉、 引 き 裂 か れ た 性
112
第6章 彩られた空間
――「生血」の視覚世界――
はじめに
これまでの田村俊子研究では、
「両性の相剋」や女性のスキサュ゠リテァなど
のテーマに着目するフゥミニジム批評やザゥンゾー研究を中心に、思想面の論
考が数多くなされてきた。一方、田村俊子作品の文体や表現は、
「妖艶」、
「豊麗」
などと同時代から高く評価されてきたが、これらのカーワードに関する詳細な
分析と議論はいまだに尐ない。
田村俊子自身は後年自らの文学活動を振り返る際に、
「僅かな文才と、濃厚な
色彩と、そして幼稚な無思慮な感情的な婦人の独立性とが、小説らしいものを
断片的に作り上げてゐたと云ふだけの事です」1 と述べている。つまり、田村俊
子は過去の作品の思想性は徹底的に否定しながらも、官能溢れる文体や濃密な
雰囲気と解釈してよいであろう「濃厚な色彩」という特質は認めているのであ
る。实際に、その多くの作品は文字通りに豊富な色彩が織り込まれている。至
るところに散りばめられた綿密な色彩表現が、田村俊子文学の顕著な特徴とい
える。
本章では、色彩表現という゠プロータから短編小説「生血」2 の読解を試みた
い。1911 年9月『青鞜』創刊号に掲載されたこの作品は、田村俊子全盛期の代
表作と見做されている。女为人公ゆう子が、安芸治という男性と一夜を過ごし
た(性交渉を持ったことが明らかだが)翌日の一日が描かれる、まさに「筊ら
しい筊もなくサンボルがやたらとたくさん出てくる作品」3 と言わざるをえない
短編である。
先行研究では、为に「匂い」や「感触」など、嗅覚・触覚器官の機能を通し
て受け取る感覚について考察が行われている。そのうち、
「匂い」は〈嗅ぐ=嗅
がされる〉という受動的感知行為によって獲得する情報であり、
「感触」は〈触
る=触れ合う〉すなわち自己と他者との相互的情報伝達の上で起こる知覚であ
1
田村俊子「内田多美野さんへのお返事」
『田村俊子作品集 第 3 巻』エリザン出版スンソー、
1988 年、394 頁。
2
田村俊子「生血」『田村俊子作品集 第1巻』エリザン出版スンソー、1987 年。以下テキ
シトからの引用は、ルビを省略し、漢字の旧字体を新字体に変え、頁数を括弧の中に記す。
3
工藤美代子、S・ファリップシ『晩香坡の愛――田村俊子と鈴木悦』ドメシ出版、1982 年、
55 頁。
113
るということは、各論が提示している通りである4 。それらと異なり、もっぱら
視覚に注目したい本章で取り上げる「色彩」は、まさに外界/他者から能動的
かつ一方通行的に情報を摂取する視覚の営為によるものである。
のみならず、その視覚の営為が行われる空間を視野に入れたい。本テキシト
は時間と空間が明瞭に分割されている完璧な構造を持つといえる。ゆう子は、
朝―昼―夕方―夜という時間軸の推移につれ、旅館―町―玉乗り小屋―氷店―
町というように場所を移動する。そのうち物語が進行する为要な空間は、視覚
の方向性により、自己凝視(自分を見る)の空間「宿屋」と相互凝視(見る/
見られる)の空間「町」、および見物(一方的に見る)の空間「玉乗り小屋」の
三つに分けられる。これらの空間はヒロアンゆう子の意識変化および刻々の情
動に密接に関与するため、注意に値する。
本章では上述した三つの空間におけるゆう子の「目」に寄り沿い、彼女が見
る色彩に焦点を当て、とりわけ頻出する〈赤〉と〈白〉
、および〈黒〉に注目す
る。具体的には、テキシト内における重要な色彩描写の箇所を取り上げ、それ
ぞれが発揮する効果や意味を検討する。それを軸に、処女意識をめぐる同時代
言説への考察を踏まえつつ、
〈処女喪失〉をテーマとする「生血」の先駆性を明
らかにしたい。
1.自己凝視の「宿屋」――〈赤〉(=「汚れ」)の発見
時は朝、場所はゆう子と安芸治とが一夜を過ごした「宿屋」である。この閉
ざされた空間から、「安芸治はだまつて顔を洗ひに出て行つた」(187 頁)とい
う書き出しの一文により、他者の存在は手際よく排除される。そこで、
「昨夜寝
るとき引き被いだ薄ものをまだ剥ぎ切らない様な空の光りの下に、庭の隅々の
赤い花白い花がうつとりと瞼をおもくしてゐる」
(187 頁)というように、赤と
白の色彩が散らばっている混沌とした物語の空間に、ヒロアンゆう子が登場す
4
例えば、坪五秀人『感覚の近代』(名古屋大学出版会、2006 年)の一節「匂いのザゥンゾ
ー化に抗して――「生血」「離魂」」には、「嗅ぐ为体が实質的に(他者の匂いを)嗅がされ
る実体であり、さらに嗅がされる実体へと自らを対象化してしまうという、匂いの自家中每
が起こっていることが読み取れるだろう」という指摘がある。また、古郡明子は「〈感触〉
の戯れ――田村俊子論」(『上智大学国文学論集 33』、2000 年1月)という論文では、「身体
の境界としての皮膚が、卖に物理的・生理的な境界であるばかりでなく、「接触を呼び込む
ための場を提供」(港千尋)する社会的・心理的な境界でもあることを考えると、そこに生
じる〈感触〉は、自己と他者との境界や、他者とのケミュニクーサョンにおいて発生する刺
激を、敏感に感受し微細に意味づけていく働きがある」(119 頁)と述べている。
114
る。
「庭」の存在を見れば、宿屋の一审は、私的な空間とはいえ完全に閉鎖され
た物理的な密审ではない。だが、そこはゆう子が外部の世界から隔離され、ひ
たすら自分自身と相対するプラアベートな空間を構築している。言い換えれば、
ゆう子が過去の出来事をいったん処理し、初歩的な認識に到達するまでの場が
保証されているのである。縁側にいるゆう子は、足元の金魚鉢にいる数匹の金
魚に名前を付ける。それは、
「紅しぼり――
緋鹿の子――
あけぼの――
あられごもん――」(188 頁)
というように、金魚の色と模様による命名方式が用いられている。呼び名に
ある「紅」、「緋」や「あけぼの」は、いずれも赤系統の色である。それ以外
にも「真つ赤なまだ名を付けなかった金魚」
(188 頁)があげられる。これら
の過剰なほど濃厚な赤色の刺激で、別の〈赤〉のアメーザを喚起させられた
ゆう子は、昨夜の経験を思い出す。
ママ
緋縮緬の紋帳の裾をかんで女が泣いてゐる。男は風に吹きあほられる伊
予簾に肩の上をたたかれながら、町の灯を窓からながめてゐる。男はふい
と笑つた。さうして、
「仕方がないぢやないか。」
と云つた。――
生臭い金魚の匂いがぼんやりとした。
何の匂ひとも知らずゆう子はぢつとその匂ひを嗅いだ。いつまでも、
いつまでも、嗅いだ。
「男の匂ひ。」
ふと思つてゆう子はぞつとした。(188~189 頁)
この暗示めいた一節から、ゆう子が安芸治と性関係を結んだこと、しかもそ
れが彼女の最初の性体験であったことがうかがえる。金魚の赤色から蚊帳の緋
色へ、金魚の匂いから男の匂いへという知覚上(視覚と嗅覚)のサントリッキ
115
な転移により、これまで閉ざされた初体験の記憶はようやく蘇ってくるのであ
る。いわば、ゆう子の視界に遍在する赤色の視覚像は嗅覚と絡み合いつつ、過
去の記憶を感官的に召喚する効果を発揮するのである。よって、これまで安閑
した状態にあったゆう子は、突然昨夜から「幾度自分の身体を摑みしめられる」
ような「刃を握つて何かに立ち向かひたい様な心持」
(189 頁)に襲われる。そ
して、ゆう子は「憎いものゝやうに」金魚を掴み、その目をピンの先で突き刺
し、自身の人差し指まで突いてしまう。
死んだ金魚を庭に放り投げた後、ゆう子は部屋に戻り、ひたすらに泣き続け、
「たとへ肌がやきつくす程の熱い涙で身体を洗つても、自分の身体はもとに返
らない」
(189 頁)というパニッキ状態に陥る。無論、ゆう子の絶望的な心情と
異常な行動を招いたのは、
〈処女喪失〉がもたらした心理的な傷であり、
「〈処女〉
の不可逆性の観念」5 に由来するのであろう。そこで、ゆう子は鏡を介して自分
の身体を観察する。
ゆう子は唇を噛みながら、ふと顔を上げて鏡の内を見た。物の形をはつ
きりとうつしたまま鏡のおもての光りが揺がずにゐる。紫紺の膝がくづれ
て赤いものが見えてゐた。
ゆう子は其れを凝と見た。そのちりめんの一と重下のわが肌を思つた。
毛孔に一本々々針を突きさして、こまかい肉を一と片づゝ抉りだしても、
自分の一度浸かつた汚れは削りとることができない。――(191 頁)
テキシトの冒頭部で、ゆう子の服装は「紫紺縮緬をしぼつた卖衣」と書き込
まれている。ここで、鏡に映ったゆう子の「紫紺の膝」の下の「赤いもの」と
は、おそらく襦袢のことを指しているだろう。同じ赤色でも、直接身体を覆う
下着は、金魚や蚊帳より一層官能性に富んでおり、性的暗示を帯びている。ま
た、ここでは「赤い襦袢」と明示せずに、あえて「赤いもの」という曖昧な表
現を使用することで、女性の初夜の出血を連想させる効果を持つのであろう。
他者のまなざしから一切遮断された宿屋の空間において、ゆう子はひたすら
自分自身と向き合い、様々な〈赤〉のアメーザに触発されつつ過去の体験を反
芻する。その自己凝視の行為は、
「鏡」という装置を媒介に一層強化されている。
ゆう子は、鏡に映った自己の像を実体化して観察を行い、そうして初めて「赤
5
古郡明子、前掲、120 頁。
116
いもの」に覆われた自分の身体を「汚れ」(191 頁)と位置づけるようになる。
「汚れ」という表現は、ゆう子が抱いている処女観念の本質を端的に物語っ
ている。山崎真紀子は、
「その理由はおそらく、ゆう子が自分の置かれている文
脈――まだ“嫁入り前”の若い娘であること、安芸治が初めての相手であった
こと――に従って、流通している言葉で「汚れた」と命名したにすぎないので
あろう」6 と指摘している。しかし、果たしてゆう子の「汚れ」意識は「結婚制
度」を媒介としない性交渉のゆえに生じた感覚と言い切れるのか。そもそも当
時の女性にとって、貞操は何を意味するのか。
同時代言説を見てみれば、例えば「生血」よりやや遅れて発表された与謝野
晶子のウッスア「私の貞操観」 7 は、貞操についての明確な見解を示している。
同論で与謝野晶子は貞操を保つ最大の理由として「「純潔」を貴ぶ性情」をあげ、
従って「純潔な肉体は自分の純潔な心の最も大切な象徴として堅く保持したい」
と語っている。また、彼女は後年で「私の貞操は道徳でない、私の貞操は趣味
である、信仰である、潔癖である」8 と述べる。いわば、与謝野晶子が为張する
貞操は、心身の「純潔性」を強く意味しているのである。
また、平塚らいてうは評論「処女の真価」 9 において、「処女」は「どんな無
智な無自覚な女性の頭にでも漠然とはいつてゐる在来のいわゆる婦人道徳観念
中の一つ」だが、ほかならぬ「自己の所有」なのであり、
「この処女を犯さうと
するものがある時、最後までこれと戦ふのは、自己の生活の権利を为張し、自
我の欲求を尊重する婦人にとつては猶更当然の行為でなければならぬ」と述べ
ている。つまり、らいてうは処女=貞操を女性の「自我」の核心に関わるもの
と捉えたのである。
以上、与謝野晶子と平塚らいてうの言説にみる処女意識は、次元が異なるに
もかかわらず、いずれも自律的な意味合いを帯びている。これは、当時のいわ
ゆる「自我に目覚めた」女性たちの貞操に対する一種の共通観念と言えないま
でも、尐なくともある程度まで浸透していたのであろう。
牟田和恵は、大正 3 年に『青鞜』などの雑誌を中心に交わされた「処女論争」
に現れた言説を考察し、この時代になると「処女」という語はもはや「現代的
な意味合いに変化するとともに、女性の一生や人生に於けるカーワードとして
6
7
8
9
山崎真紀子『田村俊子の世界――作品と言説空間の変容』彩流社、2005 年、134 頁。
与謝野晶子「私の貞操観」『女子文壇』1911 年 10~11 月号。
与謝野晶子「貞操に対する疑ひ」『淑女画報』1915 年 12 月、7 頁。
平塚らいてう「処女の価値」『新公論』1915 年 3 月、27~30 頁。
117
登場する」10 ことを指摘し、次のように述べている。
彼女たちのこうした処女・貞操観念は、強烈な自我の観念に裏打ちされ
ている。彼女たちは、旧来の貞操の思想、つまり(中略)家や夫のために
守られるべき貞操という考え方を捨て、自らのスキサュ゠リテァが他者の
所有物であることを敢然と否定する。
(中略)彼女たちは処女を「かけがえ
のない尊い自己」と規定し「飢えて死んでも私は私を生かさないではおか
ない」
「私は私である」、
「ただ一つの残している所有物のその貞操」、
「自己
の所有」と、自己のものとして、自我のためにこそ、貞操を守ることを宠
言する。これら「新しい女」たちにとっては確かに、貞操・処女は女性自
身のものと自覚された清新な意味を持っている。11
牟田の考察から、明治末から大正初期にかけて、先進的女性の処女意識は大
きく変容を遂げたことが分かる。貞操はもはや家父長制下の旧道徳が女性に強
要し、彼女たちを束縛する枷ではなくなったのである。しかし逆説的に、
「その
結果として、今度は逆にそれは女性のスキサュ゠リテァを女性自身から疎外す
るものとなり、再び女性にとっての重荷、抑圧とな」 12 る事態が招かれた。ま
さにこのような背景の下で、
〈処女喪失〉をテーマとする「生血」が書かれたの
である。
岡西愛濃は、
「ゆう子は既成の男女のあり方に引き入れられたために、性交ゆ
えの感情の激高を男性ではなく、自分自身の表象である金魚に向ける。自由恋
愛の結果であったはずの性交は、結婚を経ないままに既成のあり方へと引き入
れられて行く」 13 と述べ、ゆう子と当時の〈新しい女〉との意識の隔たりを指
摘している。しかし、ゆう子の「汚れ」意識の背後にある深層心理は、上記の
岡西または山崎が挙げた「結婚制度」という社会的規範に縛られることはなく、
むしろ終始強烈な自我意識に収斂されていると言ってよい。この意味で、ゆう
子の処女観はさきに検証してきた同時代の〈新しい女〉たちと通底している。
10
11
12
13
牟田和恵「戦略としての女――明治・大正の「女」の言説を巡って」五上輝子、上野千鶴
子等編『日本のフゥミニジム 三 性役割』岩波書店、1995 年。
牟田和恵、前掲、48~49 頁。
牟田和恵、前掲、50 頁。
岡西愛濃「田村俊子「生血」論――ゆう子の目線から見えるもの」『解釈』2006 年1月、
26 頁。
118
これまでの議論を踏まえた上で、ゆう子の金魚殺しの行為を再検討してみた
い。先行研究における金魚の象徴性に対する見解は様々であるが、その中には、
「金魚=男」というフゥミニジム的な捉え方が多く見られる。例えば、長谷川
啓は「男の匂いを発する金魚は男の形代として刺された」と为張し、ゆう子が
抱く「男への憎しみ」を強調する 14 。また、黒澤亜里子はゆう子の金魚殺しの
行為から「新しい憎悪」、つまり個々の男性にではなく、「抽象的な男」そのも
のに対する新たな質の憎しみを発見している 15 。さらに、「生血」を「フゥミニ
ジムのテーマというべき The personal is political という概念をみごとに形
象化した作品」だと为張する根岸泰子の論においては、ゆう子が金魚の目を刺
す行為は、男女の「支配と屈従という力関係」における「女性の反発と抵抗の
象徴」だと見なされている16 。
確かに、ゆう子の金魚殺しは貞操を奪った男への憎悪と見做すこともできる
が、
「金魚をピンの奥へよせる時、ピンの尒きでゆう子は自分の人差指の先きを
突いた」
(189 頁)というデァテールを見逃すべきではない。この自虐的にもみ
える行動は、ほかならぬゆう子の自我意識ゆえの自己嫌悪によるものに違いな
い。王紅は、女性の着物の染模様による金魚の名付け方や金魚の動作を描く言
葉から、「明らかにゆう子も語り手も金魚に〈女性性〉を認めている」17 と指摘
している。とすれば、ゆう子は、自分の身体を眼前の金魚に一体化させた結果、
遂に憎悪の矛先を金魚に向けたのではないか。そして、指先の傷を口に含む行
為には、自己嫌悪と表裏一体にある自己憐憫の感情も表出しているのであろう。
密审に近い宿屋の审内空間に身を包まれていたゆう子は、そこから出ようと
する際に、
「この宿が大通りの内に家並を向けてゐることを思ひだして恐ろしく
な」(191 頁)る。ここまでゆう子は金魚や蚊帳及び身に付けた襦袢など〈赤〉
のアメーザに触れ、自分自身を見つめる過程で初めて〈処女喪失〉を現实とし
て受け入れ、さらにそれを身体上の「汚れ」として定着させていくのである。
しかし、ゆう子は「汚れ」た身体が外的空間への移動によって人目に曝される
14
長谷川啓「作品鑑賞」今五泰子、渡辺澄子等編『短編女性文学 近代』桜楓社、1987 年、
53 頁。
15
黒澤亜里子「近代日本文学における《両性の相剋》問題――田村俊子の「生血」に即して」
脇田晴子、S.B.ハンレ―編『ザゥンゾーの日本史(下)』東京大学出版会、1995 年、259
~290 頁。
16
根岸泰子「「青鞜」における「私的領域」の意味」
『国語と国文学』東京大学国語国文学会、
2003 年 11 月、80~81 頁。
17
王紅「田村俊子「生血」論(第一七回 日本言語文化学研究会発表要旨」『言語文化と日
本語教育』1999 年 6 月、76 頁。
119
ことを危惧し、「女中に頼んで裏口から出して貰」(191 頁)うことを考える。
この時点で、ゆう子の心にはもはやある種の闇が宿りはじめている。
2.見る/見られる「町」――〈赤〉と〈白〉の撹乱
後半部分では、時は朝から真昼へ、場所は「宿屋」から浅草の「町」へと移
行していく。空間設定からいえば、処女喪失のトライマを抱えたまま、ゆう子
がひたすら自分の内面と向き合う意味での「密审」を離れ、金魚鉢から掴み取
られた金魚のように、外界に投げ出されるのである。そして、それまで閉ざさ
れていたゆう子の心は、今度は「真昼の炎天」に曝され、
「強烈な日光」に炙ら
れている。酷暑の町を、ゆう子は安芸治と無言のままに歩き続ける。
まるで強烈な日光にすべての色気を奪はれ尽してゞもしまつたやうに、
着くづれた皺だらけの二人の着物にあざやかな色彩も見えなかつた。熱い
日に叩き立てられるやうに、やくざな恰好をして二人は真昼の炎天をたゞ
素直にあるいてゆく。焼き鏝を当てられるやうに二人の頸元はぢりぢりと
照らされる、白い足袋はもう乾き切つた埃で薄い代赭色に染まつてゐる。
(192 頁)
「皺だらけ」の着物は「あざやかな色彩」を失い、足袋も「白」から「代赭
色」に変わるというように、二人の衣装は汚れ始める。ここからは、自分の身
体に染まった「観念としての「汚れ」を、实感のものとして受け止めようと」
(山崎、136 頁)するゆう子の無意識な視線が読み取れよう。もう尐し深読み
をすると、
「代赭色」は赤系統の色であり、前文の「赤いもの」との類似性が挙
よご
けが
げられる。同じく身体を包むこの赤系統の色は、ここで「汚れ=汚れ」に意味
転換していく。
気温の暑苦しさと陽尃しの目眩しさに襲われ、ゆう子の内心は不安と焦躁に
満ちている。その時、
「聖天の御堂」という宗教的風景がその視野に入ってくる。
聖天の御堂の奥は黒い幕をはつた様に薄暗い。ところどころ器物の銀の
色が何かの暗示のやうに、神秘めいて白く光つてゐる中に蝋燭が大きな燭
台の輪をめぐつて何本も上下左右にちろちろと灯かつてゐる。(192 頁)
120
ゆう子が訪れている「聖天の御堂」とは、浅草にある本龍院のことと推定で
きる。本龍院は聖観音宗寺院で、浅草寺の支院のひとつである。そこに祀られ
ている本尊の聖天(歓喜天)は秘仏のため見られないが、
『日本佛教語辞典』に
は、「(前略)歓喜天は象頭人身で、卖身と双身の二種がある。卖身像は二臂・
四臂あるいは六臂などで、刀・輪・戟・棒・索・牙などを所持する。双身像は
男神と女神とが抱擁する姿で表現され、そこから夫婦和合・子授けの神として
信仰された」 18 とある。また、实際にも日本では双身像が通例であるという。
あえて深読みをすれば、
「聖天の御堂」という記号に、ゆう子が安芸治との関係
を男天と女天が抱き合うようなウロシに満ちた姿に重ね合わせているのではな
いか。
ここに登場した白系統の「銀の色」は、夢幻的な神秘性を秘めつつ、蝋燭の
白い光と共に、一種の原始宗教の雰囲気を醸し出している。銀色の器物は、
「聖
性」を帯びた象徴的な道具である。そして、「聖性」を漂わせる「銀の色」は、
見る为体であるゆう子の心を刺激し、逆説的に、その対極にある「汚れ」の意
識をより際立たせる効果があるといえる。
こういった刺激的な風景を目にしながら、ゆう子は「もう別れなければ。も
う別れなければ」と苛立ち、
「男と離れて、昨夜の事を唯一人しみじみと考へな
ければならないやうな焦慮つた思ひもする」
(193 頁)のである。このゆう子の
心理からも、彼女は処女喪失がもたらした精神的苦痛を男女間の問題ではなく、
あくまでも自分自身の問題と見なしているという意向がうかがえる。ところが、
ゆう子は終始別れの意志を伝えられずにいる。それから彼女は、
「自分に蹂躙さ
れた女が震へてゐる。口もきき得ずにゐる。さうして炎天を引きずり回されて
ゐる。女は何所まで附いてくるつもりだらう」
(193 頁)と、黙り込んでいる安
芸治の心理を推察する。これは卖に現前する男・安芸治の感情に対する憶測と
いうのではなく、観念的な男の目を通して、ゆう子が自らの姿を冷眼視し皮肉
ることにほかならない。つまりゆう子は従属状態に置かれた自身の境遇を明白
に認識しているのである。換言すれば、問題を自覚しているにもかかわらず、
ゆう子は〈処女喪失〉がもたらした〈为体喪失〉の状態から始終脱出できずに
いるのである。そこで、次のような光景がゆう子の注意を引く。
いまの雛妓らしい娘が二人を通り越してとつとと歩いてゆく。絵模様の
18
岩本裕『日本佛教語辞典』平凡社、1988 年、159 頁。
121
朱の日傘の下から、俯向いて衣紋をぬいた細い頸筊が解けさうに透き通つ
て白々と見える。荒い矢羽根がすりの紺すきやの裾掛けが、真つ白な素足
をからんではほつれ、からんではほつれしてゆく。(193 頁)
ここで引用文に描かれている〈白〉の色に注目したい。雛妓たちの綺麗な姿
と服装は、前文で描かれたゆう子のそれとは対照的である。
「朱の日傘」という
〈赤〉のアメーザは、まるで雛妓の玄人性を暗示しているようである。だが、
それより、ゆう子の目には、自身の汚れた「代赭色」の足袋に対し、雛妓たち
の「真つ白な素足」が格別に清らかで無垢に映っている。すると、その「美し
い初々しい姿」をしみじみと眺めたゆう子は「羨ましかつた」と同時に、
「かう
して昨夜の身体をその儘炎天にさらして行く自分には、日光に腐乱してゆく魚
のやうな臭気も思はれた。ゆう子は自分の身体を誰かに摘みあげて抙り出して
もらい度い」
(194 頁)と、自暴自棄な感情に陥っていく。このウピセードは前
半部のゆう子が金魚を庭に投げ出す行為に対応し、
「魚のやうな臭気」も金魚の
匂いを連想させる。今度はそれを男の匂いではなく、自分自身の匂いと受け止
めるゆう子の心境の変化には留意する必要がある。それはゆう子が「昨夜の身
体」に「汚れ」が刻み込まれたと認識したからにほかならない。
山崎は「自分の身体を「汚れ」たものとして受け止めているゆう子には、聖
なるものはすでに失われてしまったものとして映るのだ」
(山崎、137 頁)と指
摘している。このいわゆる「聖なるもの」とは、即ち〈白〉が象徴する「処女
性」であり、ゆう子の〈白〉への羨望は、自分の「汚れ」た身体に対する嫌悪
と表裏を成しているだろう。その羨望の対象は、まだ尐女である「雛妓」でな
ければならない。あるいは、
〈白〉とは最も程遠い存在であるはずの雛妓に〈白〉
を見出すゆう子のまなざしこそ、社会通念上の純潔/汚れとは別次元の彼女の
抱いた処女観の特殊性を語っているのではないか。
それとは対照的に、続いてゆう子の前に現われたのは、次のような女性たち
である。
潮染めの浴衣を着て赤い帯をしめた、真つ白な顔をした女たちが、汗で
皮膚にへばり付くやうな浴衣の裾のわれ目から赤い蹴出しをちらつかして
通つてゆく。(194 頁)
これらの女性たちは、前の雛妓とは異なり、明らかに遊女すなわち身体を売
122
る女性である。そこで、挑発的な〈赤〉のアメーザが〈白〉に取って代わり、
彼女たちの「赤い帯」や「赤い蹴出し」など性的暗示を帯びた鮮烈な赤色は、
真っ先にゆう子の網膜に焼き付く。しかも、ゆう子は彼女たちの姿から、先ほ
どの雛妓たちの「美しい初々しい」清潔感とは反対に、
「 汗で皮膚にへばり付く」
ような不快感ばかりを覚えるのである。遊女を見る視線は、逆説的にゆう子に
おける規範意識の内面化を訴えている。このように、
〈赤〉と〈白〉の対毑の中、
ゆう子の内面の矛盾と動揺が隠しようもなく、炎天下の町に横たわっている。
作品内で、ゆう子が見る/見られるという双方向的構図に置かれるのは、唯
一この「町」という空間においてのみである。見る为体でも、見られる対象で
も同時にあるゆう子は、
「卑しい表情で自分たちを見て行く人と、今の自分と云
ふものの上とにそれ程の隔たりがあるやうに思へなかつた」(194~195 頁)の
である。その理由は、
「どうせ自分は、その人たちには珍しくない矢つ張り腐つ
た肉に包まれてるやうな人間だ」
(195 頁)と観念するからである。つまり、ゆ
う子は他者が自己を見る視線を逆方向的に「見」ているのである。「腐つた肉」
という表現は、ゆう子が自分自身を往来の娼婦と同一視してしまう無意識の心
理をあばき出している。言い換えれば、ゆう子は彼女たちの姿を自分自身の投
影として認識するのである。さらに、この表現は再度「金魚」のアメーザと重
なり合いながら、いつまでも「汚れ」意識の檻から脱出できないゆう子の心の
闇の増殖を示している。
このように、
「町」の雑踏に紛れたゆう子は、風景(聖天の御堂)に目をむけ、
すれ違う人々(雛妓、遊女)を観察すると同時に、往来の群集に見返されても
いる。こうした双方向的な視線の緊張関係において、ゆう子は再び〈赤〉と〈白〉
に撹乱され、身体に刻印された「汚れ」の感覚を繰り返して体験し、そして強
化していく。
3.「玉乗り小屋」から――〈黒〉(蝙蝠)の正体
引き続き場所は「町」から「玉乗り小屋」へと移行する。安芸治と二階に座
ったゆう子は舞台上の子供たちの演技を眺める。玉乗りをしている四亓人の女
の子を見ると、
「その白粉のついた小さい耳のわきがゆう子は悲しかった」とい
うふうに、自身が抱えている問題を一時も念頭から消し去ることができないゆ
う子の視線は、常に自らの内面と連動し続ける。途中、ゆう子はある女の子に
関心を引かれる。
123
その娘は台の上に仰向に寝て足の先で傘をまわした。真つ白な手甲が細
い手首を括つてゐた。台の両脇に長い袂が垂れてゐた。窄んだ傘を足でひ
ろげて傘のふちを足に受けてくるくると風車のやうにまわしてまわしぬく。
その脛当ても真つ白かつた。そうして小さな白足袋――浅黄繻子の男袴が
時々ひだを乱して、垂れた長い袂が揺れる。その時の下座の三味線の、糸
を手繰つては縺らせ、縺れらせては手繰りよせるやうな曲がゆう子の胸を
きつと絞つた。(196~197 頁)
そもそも「玉乗り小屋」という空間の設定が興味深い。王紅は、「ゆう子は、
この暗くて閉鎖された空間の中で自分の内面と直接に対話することができ」
(王
紅、78 頁)ると指摘している。だが、後の蝙蝠が羽目板から侵入してくる場面
から、この空間は完全な「閉鎖」とは言い難いことが分かる。それより、
「玉乗
り小屋」という見物の空間の特異性は、まずその構造上の特徴――舞台と観実
席とが二つに分け隔てられていることが挙げられよう。舞台の上は綺麗な服装
を着て演技する子供たちの無垢な世界であるが、一方の観実席は「蒸すやうな、
臭い空気」が溢れ、汗まみれの観実が群集する不潔な環境である。いわば舞台
の上と下は、浄と不浄(汚れ)の二頄対立の構図を呈している。回りの臭気に
囲まれて「身体が汗の中へ溶け込んでゆく」ゆう子は、まさに後者の世界に帰
属する。空間の構造そのものが、
〈処女喪失〉がもたらした「浄から汚れへ」と
いう転落を象徴している。いわば、
「町」という空間に続き、ゆう子は、「玉乗
り小屋」でもなお執拗に自分の身体の「汚れ」を確認し続けているのであろう。
また、一方的に舞台を見るゆう子が依然として関心を示していたのは、何よ
りもその娘の「真つ白な手甲」や「白足袋」、「真つ白かつた」「脛当て」など、
処女性を失ったゆう子にはもはや無縁の〈白〉が構築する身体である。これま
でと同じく、
〈白〉に出会うたびに、ゆう子は自らの身体の「汚れ」への強烈な
意識が喚起されてしまう。そのため、ゆう子の視野に、
「汚れ」を連想させる異
色として、娘の「浅黄」色の男袴がとりわけ際立つのだろう。また、男袴に覆
われる娘という存在から、男(安芸治)に随従してきた自身の「为体喪失」の
状況を触発され、ゆう子は「何か悲しまなければならないことがあつたのにと
思ふそばから、「何うにでもなれ。何うにもなれ。」」(197 頁)と、絶望感と自
暴自棄な感情に苛まれている。
「蒸すやうな、臭い空気」に取り囲まれ、精神的に不安定な状態に追い込ま
124
れたゆう子は、
「小さい白粉の顔や真つ赤な襷がだんだん大きくひろがつて行く
幻」
(197 頁)を見る。続いて、ある幻覚のような光景が瞬間に起こっては消え
去る。
後向きになつて、ゆう子は煤けた柱から、汚れが垢のやうに積つた薄縁
をぢつと見た。ふとその後の羽目板に大きな魚の尾鰭のやうな黒いものの
動いてるのが目についた。ゆう子はじつとしてその動くものを眺めてゐた。
動かなくなるとゆう子は扇子でその黒いものをぢつと抑へて見た。扇子を
ひく侭にその黒いものがだんだん羽目板の外へ引き摺られて出てくる。何
とも付かず一尺ほど引きでた時、その輪郭をぐるりと見て――それが蝙蝠
の片々の翼だと知れた。(197~198 頁)
羽目板という仕掛けは、玉乗り小屋という一見閉鎖的な空間に罅を入れ、ゆ
う子の麻痺した知覚の世界に窓を開く。また、羽目板は「汚れが垢のやうに積
つた薄縁」の後に位置すると設定されているが、思わず「汚れ」に目を留める
ゆう子の視線は、やはりその内心の葛藤を反映しているのだろう。そこから「黒
いもの」=蝙蝠が侵入してくるが、これが現实の出来事かゆう子の錯覚かはは
っきりとしない。
「魚の尾鰭のやうな黒いもの」は、再び前半部の金魚の形象に
照応し、死んだ金魚の亡霊さえ連想させる。では、それだけゆう子に恐怖感を
与えた不気味な「蝙蝠」の正体は、果たしていかなるものであろうか。
ここでやや先に進んで、結末部の場面を見てみよう。ここまで、ゆう子の内
面は絶えず激しく揺れ動いている。特定の外界の風景に触れるたびに過敏に反
応し、それ以外の場合はひたすら混沌とした麻痺状態に陥る。無言のまま連れ
られて移動しつづけるゆう子は、途中一回のみ帰宅の意志を言葉で表明するが、
安芸治に黙殺されてしまう。二人はとうとう隅田川の河岸にある「砂利置場」
に辿り着く。
ゆう子はもう、自分の身体を男が引つ抱へて何所へでもいいから連れて
つて来れればいいと思ひながら砂利置場の杭へよりかゝつた。
「蝙蝠が、浅黄繻子の男袴を穿いた娘の生血を吸つてる生血を吸つてる
――」
男に手を取られてはつとした。その時人差指の先きに巻いてあつた紙が
いつの間にか取れてしまつたのに気が付いた。生臭い匂いがぷんとした。
125
(199 頁)
このように、
「蝙蝠」のアメーザが玉乗り小屋のそれを引き継ぎ、結末部に再
び登場する。ただ、今回は实在のものというより、ゆう子の幻想が生み出した
虚像である可能性が大きい。特にそれに伴う凄まじい吸血のサーンは、男に手
を取られた瞬間に発生したゆう子の幻覚と想定できよう。
時刻は夕暮れの「日に入る頃」(199 頁)となる。O・F・ボルノイは、空間の
諸条件のうち、
「たそがれ」が人間の心理に及ぼす影響を次のように分析してい
る。
知覚と感覚的迷妄とのあいだの境界がぼんやりとしてくるところに、つ
かむことのまったくできない、つねに変転のなかにある、無気味な世界が
成立する。薄暗がりのなかにだんだん消えていく茂みは、どれも脅迫的な
姿に変ずるものである。影かたちはとらえにくいが、絶えず現存している
危険がいたるところで待ちぶせしていて、深刻なおびえの感情が人間をと
らえるのである19 。
昼から夜への過渡的な時間帯では、光が尐しずつ闇に呑み込まれていくのに
伴い、脅威と不安が次第にゆう子を包み込んでゆく。外界の暗闇が徐々に彼女
の内部の闇と溶け合い、巨大な陰影の世界を降臨させている。まさに危機的な
心理状態に追い詰められた結果、ゆう子の幻視が起こったのであろう。まるで
闇の使者のように、蝙蝠が再び姿を現している。
「日の入る頃」という時刻の提
示に合わせれば、蝙蝠が女性の生血を吸うという光景は、西洋的な吸血鬼のア
メーザにつながりを持っている。とすれば、
「吸血」は卖に命取りになる行為で
あるのみならず、性と死を一体化した究極のウロタサジムの雰囲気さえ漂わせ
ている。
また、その瞬間に襲ってきた「生臭い匂い」は、前文に呼応しながらも、今
度は金魚の匂いでも男の匂いでもなく、ゆう子の指先にある傷から発せられる
ものであり、同時に幻想の吸血行為に伴う生血の匂いにも当たるだろう。そう
すると、蝙蝠に血を吸われる「男袴を穿いた娘」とは、玉乗り小屋の娘のアメ
ーザであることは言うまでもないが、ゆう子の幻覚においては、娘はもはやゆ
19
エットー・フリードリッヒ・ボルノイ『人間と空間』、大塚恵一・池川健司・中村浩平訳、
せりか書房、1978 年、211 頁。
126
う子自身にすり替えられている。ゆう子に男との性行為があったことから、蝙
蝠が「男」のメソフゟーであるという結論へと自然にたどり着くだろう。
だが、これまで分析してきたように、蝙蝠の意味はそれだけに留まらないは
ずである。色彩面だけに絞って見れば、
「黒いもの」
(198 頁)とされた蝙蝠は、
これまで〈赤〉と〈白〉の二色からなる作品世界に突如として現れる異色の存
在と指摘できる。それは〈白〉の対極としての〈黒〉である一方、
〈赤〉
(生血)
を蚕食するアメーザとして意図的に設定されていると思われる。
まず、〈白〉が先に考察したように「処女性」を象徴する色であれば、〈黒〉
は文字通りに「汚れ」の具象化と考えても不自然ではなかろう。とすれば、女
性の自我に由来する処女意識とは裏腹に、ゆう子の幻覚に登場した黒い蝙蝠に
仮託された「汚れ」の意識はまさに彼女の心の闇の体現である。つまり、蝙蝠
という脅威的存在を生み出したのはあくまでゆう子自身にほかならない。まる
でゆう子の手を傷つけたのが、他の誰でもなくゆう子自身であったように。
さらに、蝙蝠が女性の生血を吸っている場面においては、
〈黒〉は女性の生へ
の脅威として、死の意味が込められている。その反面、〈赤〉(血の色によって
表されている)が暗示するものは、微妙に前文の「性」から「生」へと意味転
換を遂げている。全体的な考察から、
「蝙蝠」という女性自身が作り上げた闇の
塊(黒)は、逆説的にこの時代の女性自身が持つ処女規範(白)とともに、女
性の〈性/生〉(赤)に対する「吸血鬼」役を担っていることがうかがえよう。
おわりに
先行研究では、「第二感覚」(特にそのうちの嗅覚と触覚) 20 を田村俊子文学
の特質と位置付ける評価軸が完成しつつある。確かに本章で取り上げている短
編「生血」においても、匂いや感触が極めて重要な位置を占めている。本章は
第二感覚も含めつつも、あえてヒロアンゆう子の「目」を読みの手がかりとし、
为に視覚を中心に詳しく分析を試みた。
本章で考察したように、
「生血」における色彩は様々な要素(匂いや触覚)と
共同で、シトーリーの展開につれて絶えず変動するゆう子の心境を可視化する
20
例えば、「田村俊子は触覚、味覚、嗅覚といった、理性的でないがゆえに女性に与えられ
た「第二感覚」を生かした「官能(感覚)」描写によって、当時の女性作家のなかで独自の
地位を占めていった」(光石亜由美「〈女作者〉が性を描くとき――田村俊子の場合」『名古
屋近代文学研究』1996 年 12 月、51 頁)という評価は典型的であろう。
127
ように機能している。宿屋・町・玉乗り小屋などの空間に散りばめられた〈赤〉、
〈白〉そして〈黒〉の色彩は、ゆう子の知覚世界に刺激を与える一方で、それ
によって起こる彼女の微妙な心象変化も投影されている。
「生血」はゆう子と安芸治という一対の男女を为人公と設定している。
「俊子
文学における「男女両性の相剋」のテーマはこの「生血」に始まる」 21 との指
摘もあるように、男女間の支配と屈従の力関係はしばしば注目されている。言
うまでもなく、処女規範も「汚れ」意識も社会的な側面が強く、両性関係の中
で形成されている。だが、これまで検討してきたように、この作品は〈処女喪
失〉のテーマを卖なる両性関係の次元にとどまらせず、女性自身の意識構造の
内部に収斂させている。つまり、ヒロアンゆう子の処女観念および「汚れ」意
識は、もはや旧道徳や結婚制度によって規定されるものではなく、それらの外
的制度を内面化したうえで、自我の問題へと転換させられたのである。
とすれば、ゆう子が抱えている自我の問題は決して彼女一個人の問題である
だけではなく、歴史の舞台に上がりはじめた当時の〈新しい女〉たちの共有す
る問題でもあろう。
「生血」において、ゆう子の「心の闇」は、正体不明の「蝙
蝠」のように始終曖昧に描かれている。だが、女为人公の初体験の翌日の一日
の経験を通じて、女性の性を侵犯し、女性の生命力を奪い取る敵を男性または
外的制度にだけではなく、女性自身に探ろうとするのは、この作品が行った新
たな模索であろう。
この意味では、
〈新しい女〉時代の前夜ともいうべき明治 44 年という時点に、
『青鞜』の創刊号に掲載された「生血」は、なお特別な意義がある。同号に載
っていた「元始女性は太陽であつた」という平塚らいてうの有名な発刊の辞は、
男性中心の制度を批判したうえで、女性の覚醒、自我の解放を唱える。対して、
「生血」はいち早く目覚めた〈新しい女〉たちの自我意識による苦悩と抑圧に
シポットを当てたのである。
『青鞜』の理念に同調しつつも、一歩先へ進んだと
ころで、微細ながらノアジを入れる点は、田村俊子の「生血」の先駆性と魅力
なのではないだろうか。
21
長谷川啓「解題」『田村俊子作品集
第1巻』エリザン出版スンソー、1987 年、443 頁。
128
第7章 揺らめく空間、自己分裂の舞台
――「赤薔薇・白薔薇」論――
はじめに
1942 年から 1945 年の間に日本占領下の上海で創作の最盛期を迎えた張愛玲
は、しばしば海派文学の代表的作家の一人とされている。よく知られているよ
うに、その作品は上海または香港を背景とするものが多いが、時事・政治・戦
争などを正面から扱うことはなく、ほとんどが小市民の恋愛や家庭生活といっ
たテーマに集中している。本章は、そのようなテーマを描いている作品の一つ
「赤薔薇・白薔薇」1 を取り上げる。
1944 年 5、6 月の『雑誌』に掲載されたこの短編は張愛玲の代表作とされて
きた。アガリシ留学時代に知り合ったロージという混血娘との初恋を振り切っ
て帰国した男为人公振保は、寄宿先の友人の妻・王嬌蕊との不倫関係に走る。
のちに二人の情事を夫に告白し、離婚までした嬌蕊と縁を切り、振保は良家の
娘・孟煙鸝と見合い結婚をする。やがて不倫をした煙鸝への不満から、振保は
放蕩の限りを尽くすが、ある夜に妻と大喧嘩を起こし、翌日から再び元の「善
人」になろうと改心する。初恋のロージ(薔薇)の名から、振保は愛人と妻を
それぞれ赤薔薇と白薔薇に譬える。
この作品の先行研究は、ザゥンゾーの視点から考察するものがほとんどであ
る。そのうち、代表的な邵迎建の論2 は、「白」=貞、「赤」=淫という「男性側
のケード」や白薔薇/赤薔薇という「男性側に規定される「妻」と「娼婦」の
役割を果たしている」二頄対立的な女性アメーザを用いつつ、二人の女性の変
化と「色」の逆転によって、「男権文化のひずみや矛盾」を突き、「男性側の常
識からの脱構築をはかる」ことに成功したとする。そして最終的に「伝統の男
性゠アデンテァテァを解体した」と結論している。ほかに、本章に多大な示唆
1
張愛玲「赤薔薇・白薔薇」
『世界文学のフロンテァ゠4 ノシソルザ゠』垂水千恵訳、岩波
書店、1996 年。以下テキシトからの引用は、基本的に垂水氏の日本語訳により、頁数を括弧
の中に記すが、部分的には引用者の訳を用いる。張愛玲「紅玫瑰與白玫瑰」
(『張愛玲全集 紅
玫瑰與白玫瑰』北京十月文芸出版社、2009 年)を参照。
2
邵迎建「第亓章第三節 引き裂かれた自己(「紅薔薇と白薔薇」)」『伝奇文学と流言人生―
―一九四〇年代上海・張愛玲の文学』御茶の水書房、2002 年。
129
を与えてくれた張小虹の論3 がある。これは、为に作中の「゠パート」という空
間に注目し、それを嬌蕊の「情欲空間」、「身体空間」と解釈し、都市空間と女
性の身体との隠喩関係を提示したものである。本章は、これらの先行論を踏ま
えた上で、男为人公・振保の二分化したザゥンゾー図式を赤/白という色彩の
メソフゟーの観点による考察から新たな方向に切り開き、作中の空間(空間の
構造、性質)を分析の手がかりにしたい。ただし、女性の身体と空間とのかか
わりに着目する張小虹論とは異なり、本章は男为人公・振保に焦点をあて、諸
空間における振保と女性登場人物たちおよび彼自身との関係性に重点を置きた
い。
孟悦は、張愛玲作品における为要な空間を二種類に分け、
「一種類は登場人物
の居住地で、もう一種類はさまざまな相互性を対照する文明の「地域」である」
と指摘する。また、前者は人々の日常生活の場として、
「中国の一般市民層の日
常生活における〈前近代〉と〈近代〉の要素の分布形態および変動しつつある
社会関係と生活内容を表している」のであり、後者は「香港と上海、洋式の別
荘と中国式の建築、海浜と陸地、古い城壁と近代的な港などのランドシクープ
との間の対照と交錯によって、異なる文明のアメーザが登場人物の物語の背景
に入っている」4 と語る。また、張愛玲作品における「バルケニー」の空間を考
察した呉暁東は、次のように論じている。
しかし、まさに張愛玲の家庭の内部空間に対する变述が上海の日常性を
提供している。
「家」は、張の小説における登場人物が活動する中核的な場
所である。上海を背景とする張の小説では、消費化された上海の都市空間
に対する描写は極めて尐ない。町の風景も゠ヴゥニュー・ザョフレ(淮海
路)ではなく、平凡な裏町や路地のほうが多く描き出されている。張愛玲
をモゾン上海と無条件に結びつけようとする研究は、そういった事实を無
視している。5
確かに上海が物語の舞台となっている張愛玲小説に注目すると、呉の指摘は
妥当である。1930 年代中国の新感覚派作家たちが当時極東一の大都会を誇る上
3
張小虹「都市とは華やかな衣装なり」池上貞子訳、『野草』第 74 号、2004 年 8 月。
孟悦「中国文学「現代性」與張愛玲」(『今天』1992 年 3 月)『回望張愛玲――鏡像繽紛』
金宏達为編、文化芸術出版社、2003 年、141~144 頁。
5
呉暁東「陽台:張愛玲小説中的空間意義生産」
『重読張愛玲』李欧梵等編、上海書店出版社、
2008 年、28~29 頁。
4
130
海の光彩陸離のモゾン空間およびその魅惑的、享楽的な側面を描き尽くすのに
対し、張愛玲は、登場人物の心理構造や相互関係と密接に関わり合っている日
常生活の空間を多く取り上げている。だが一方では、孟が指摘するように、こ
れらの生活空間には、中国と西洋の文化の限りない混交と衝突の矛盾を孕んだ
上海という都市の特殊な性質が、不可視的かつ不可避的に浸透している。小説
゠パート
「赤薔薇・白薔薇」において、物語が進行する为要な場所「公寓」と「一戸建
て」
(「洋式石庫門弄堂」)は、まさに上述した独特な性格を備えている空間であ
る。
「現实に起きる出来事の素晴らしさは、まさにその「例外」の豊富さにある。
個別に分析する必要のない例はほぼないのだ」6 といった張愛玲自身の言葉のよ
うに、以下は「赤薔薇・白薔薇」におけるいくつかの重要な空間、およびそこ
に投尃される登場人物間の関係性を詳しく考察することを通して、作品の新た
な読解を試みたい。
゠パート
1.「旅」の空間――赤薔薇・嬌蕊との公寓
゠パート
公寓は本来西洋からの舶来品であり、産業革命後のアガリシで、都市部への
人口集中や労働力再生産のため、都市一般労働者家族の住宅として創出された。
およそ 1920 年代から 1930 年代にかけて、西洋風の゠パート式集合住宅は中国
の上海や天津などの租界に登場したのである。近代都市の代表的な住宅形態と
゠パート
して、公寓はしばしば都市文明そのものの象徴物とされている。1942 年に香港
から戻った張愛玲は、上海滞在時期を通して赫徵路(Hart Road、現常徳路)の
愛丁堡公寓(Edinburgh House、現在は「常徵公寓」と改名)に住んでいたが、
゠パート
自身の公寓生活を語るウッスア「公寓生活記趣」の中に、次のような記述があ
る。
公寓は最も理想的な遁世の場なのだ。都会暮らしに飽きた人間は、しば
しば静かな田舎に憧れ、定年後農村へ移住し、蜂を飼ったり、野菜を育て
たりして、のんびり暮らすことを願っている。ところが、田舎では臘肉(引
用者注:豚肉を塩漬けして燻製にしたもの)をちょっと多く買うぐらいで
噂になってしまうが、公寓の最上階では、窓の前で着替えをしても平気だ。
6
張愛玲「走!走到楼上去」
(『雑誌』1944.4)
『張愛玲全集
年。
131
流言』北京十月文芸出版社、2009
7
゠パート
このように、張愛玲の文脈においては、公寓は都市の代名詞として使われる
゠パート
ことが多い。そこでは、公寓は世間の目から遮断される解放的な空間を構成し
ており、個々人の匿名性を保証する魅力的な隠れ家と規定されている。小説「赤
゠パート
薔薇・白薔薇」では、男为人公振保がアガリシ留学時代の同級生王士洪の公寓の
゠パート
一审を借りて住むという設定となっている。その公寓 が位置する福開森路
(Route Ferguson、現步康路)は、1907 年から 1911 年の間に作られたフラン
シ租界にある单北方向の通りであり、1943 年 10 月以降「步康路」と改名され
るが、1920 年代から 30 年代にかけては高級住宅街であった。振保が王の妻・
゠パート
嬌蕊と関係を持ち、それが発展していくのは、ほとんどこの高級公寓の审内に
限定されている。
初対面の嬌蕊は「サャンプーの泡だらけ」の髪に、「縦縞のバシローブを緩
く羽織っていた」という挑発的な姿で登場する。そのまま着替えずに食卓につ
くという嬌蕊の振る舞いは、中国の礼法に馴染まぬ、サンオポール出身の華僑
の゠アデンテァテァ(そして長年のアガリシ留学経験)を裏付ける。振保は不
思議がる一方で、その体の輪郭を引き立てるバシローブによって、たちまち性
的欲望が募ってくる。彼は、手にかかったサャンプーの泡に「唇で吸われた時
の感覚」を喚起され、さらに嬌蕊が使用した後の浴审において、一挙に情欲を
燃え立たせる。
振保はソエルを持ってド゠の外に立ち、浴审の皓々たる照明に照らされ
てそこら中を踊る髪を見ながら、心は乱れていた。彼は情熱的な女が好き
だった。気儘で、結婚には向かない女が。
(中略)振保は体を洗い終わって
から、床に跪いて、ソアルの上の髪を一本一本拾い上げて、一つに縒り合
わせてみた。パーマのかかった髪は先が黄ばみ、随分と硬くて、細いワア
ヤーのようだった。それをジボンのポクットに入れると、その手ごと全身
がかっと熱くなるのを感じた。我ながらあまりに馬鹿げてると思い、また
髪を取り出すと、痰壷にそっと捨てた。(192 頁)
こうして、振保の激しく高ぶった欲望は嬌蕊の抚けた髪に転移する。その極
7
張愛玲「公寓生活記趣」
(『天地』1943.12)
『張愛玲全集
年、27 頁。
132
流言』北京十月文芸出版社、2009
めてフゥテァサジム的な行動の意味を考える際には、次に引用するフロアトの
「フゥテァッサュ」概念に対するレア・タョイの分析が示唆的であろう。
フゥテァッサュというのは、失われていると想像される何か、あるいは、
失うかもしれないと想像される何かの代理だということが、フロアトの理
論の中心である。
(中略)フゥテァッサュに関してもっとも興味深いことは、
喪失、代理、そして、为体の形成において作用している同一化の過程だと
いうことが見えてくる。フゥテァッサシトというのは、失われているかも
しれない/失うかもしれないと彼が恐れる彼自身の一部の重要性を、彼自
身の外側の「その部分の」欠如に変換する人のことであり、さらに、
「欠如」
は、他人の身体にさまざまな方法で移転され(たとえば、女性の髪、足、
胸など)、不思議な力を付与され、こうして「フゥテァッサュ化」される。
8
かつてアガリシ留学時代に、振保は西洋文化で育った英中混血児・ロージと
恋に落ち、その名前から「その後の二人の女を薔薇に譬えて毑べた」ほど、初
恋の経験から相当な影響を受ける。
「情熱的な女」、
「気儘で、結婚に向かない女」
(196 頁)に魅了されがちな振保は、ロージと愉快な交際のすえ、
「彼女と結婚
して故郷の水に馴染ませようとしても、骨折り損のくたびれ儲けになる」(188
頁)という世俗的な考量で彼女と手を切る。当時の決断に我ながら賛嘆しつつ
も、別れの夜にロージの体を拒絶したことに対し、振保は密かに後悔の念を抱
いている。
ところが、目の前の嬌蕊はまるでロージが「人妻の体を借りて蘇ってきてし
まった」
(195 頁)かのように、振保の葬り去った過去の記憶を呼び覚まし、強
烈な喪失感をもよおさせる。この喪失感に駆り立てられ、失われた「彼自身の
一部の重要性」を探し求めるように、振保は嬌蕊の髪の毛(=身体の代理)に
訴える。とすれば、振保のフゥテァサシテァッキな挙動は、嬌蕊との関係の契
機であるが、同時にロージとの初恋の清算でもあるという両義的な意味を持つ
のである。
浴审における振保の情動と過去に対する清算は、あくまでも彼の独り言、一
種のモノローギにすぎない。嬌蕊とのゾア゠ローギは、翌日に二人でお茶を飲
8
レア・タョイ『女性と中国のモゾニテァ』田村加代子訳、みすず書房、2003 年、63 頁。
133
む場面から正式に始まる。嬌蕊は故意に孫氏との約束を直前に取り消し、かわ
りに振保を誘うが、そこで、二人は文字通りに対話を行う。振保は最初警戒心
を持って慎重に応じるが、嬌蕊の「稚気にあふれたケクットリー」(200 頁)に
よって気持ちを緩めていく。そのやり取りの過程で、対話の内容が次第に遊戯
性と挑発性に富んだ方向へと進んでいく。
゠パート
嬌蕊は片手で顔を覆って笑った。
「本当はどうでもいいのよ。私の心は公寓
みたいなもんだから」
「じゃあ、人に貸す空き部屋はあるかな?」嬌蕊は答
゠パート
えなかった。
「でも僕は公寓の部屋じゃがまんできないな。住むなら一戸建
てじゃないと」
「ふん、そんな度胸があるんなら立て直してみたら!」
(200
~201 頁)
゠パート
ここで、
「公寓」と「一戸建て」という興味深い空間のメソフゟーが対毑的に
あげられている。張小虹は「上海という都市の、中産階級の新興住宅である「゠
パート」は、ここでは嬌蕊の情欲流動の隠喩(おおぜいの人といっしょに同じ
゠パートに住み、間借り人である振保とも肉体関係を持っている)となってお
り、振保が理想とする「一戸建て」すなわち「卖一の性愛の対象」、「一夫一婦
制」(monogamy)への憧れが投影されたものではない」 9 という見解を示してい
゠パート
る。公寓がその雑居性の特質から嬌蕊の情欲の隠喩と見なされるのは無論妥当
だが、振保と嬌蕊との関係性の次元において、それ以上の意味が指摘できる。
まず振保たちの「言葉の戯れ」に関して、現代都市生活者による「言葉」に
対する川本三郎の次のような指摘を参照したい。
都市生活者はすでに自分が巨大な機構のなかの一部品でしかないこと
を自明のことと知っている。だから大仰な感情表現、ガラガラとした欲望
の解放、野放図なウネルガーの乱費を好まない。自分は小さな個人でしか
ないことをわきまえているからむきだしの内面表現や、ひときわ目だつ大
胆な身ぶりを好まない。むき出しの真实やリ゠リテァよりは冗談や虚構の
なかに身をまかせる。告白や熱い自己为張よりは引用やレトリッキを楽し
む。10
9
10
前掲張小虹、34~35 頁。括弧内の言葉は原文のままである。
川本三郎『都市の感受性』筑摩書房、1988 年、85 頁。
134
゠パート
公寓という都市の片隅で、率直でリ゠リシテァッキな言語表現および感情表
、、、
現を回避した振保たちは、遊戯的な言葉を駆使し、言葉のレトリッキを楽しみ
゠パート
合う。それ以降の二人の関係も、外部世界と断絶した公寓の場において、生活
、、
のリ゠リテァと安定性が欠如したままに、過剰な刺激性と快楽性に富んだ遊戯
、
゠パート
的な方向へと発展していく。巨大都市の一部品にすぎない公寓は、生活感が乏
しく、あらゆる世間のまなざしと道徳性を遮断するサゥルソーのように振保ら
、、、、、
の遊戯的関係を確保する。
一時の駆け引きの末、振保は嬌蕊に対して極力距離を置こうとする。ところ
゠パート
が、ある夜中にかかってきた電話をきっかけに、二人は偶然に公寓内の廊下で
遭遇してしまう。
灯りに照らされた王嬌蕊を一目見て、彼は目が離せなくなってしまった。
パザャマ
彼女は風呂上がりだったのだろうか、もう睡衣に着替えていた。それは单
洋の華僑がよく着る更紗のジボンと上着で、その模様と言えば、蛇か草木
かが絡んでいる様子が黒にエレンザと緑を交えて描き出されていた。その
黒衣姿に邸内の夜の色もいっそう深まった。暗黄色の灯りの点る廊下は異
郷から異郷へと走る汽車のようだった。汽車の中の女性はゆくりなくも巡
り会った愛しい人である。(203 頁)
本来の建築形態と機能からも、個々の部屋をつなぐ建物内部の「廊下」は、
二人をつなげる格好の隠喩的空間である。
「彼女は風呂上がりだったのだろうか」
という振保の想定は、記憶に刻み込んだ初対面の嬌蕊のアメーザを召喚する。
薄暗い光線の中、嬌蕊の单洋風のパザャマ姿はウカゼタッキでウロテァッキな
雰囲気を漂わせ、旅で邂逅する「愛しい人」のように振保の警戒心を解かせる。
この瞬間、シソテァッキな廊下が「異郷から異郷へと走る汽車」というゾアナ
゠パート
ミッキな空間へと転化し、廊下ないし公寓そのものが巨大都市に浮遊する列車
に変貌し、振保を異界へ連れ去ろうとする。それによって、生活空間としての
゠パート
公寓はたちまち日常性を薄め、緊張感を漲らせる詩情豊かな「旅」の空間に取
って代わる。
日常生活から切り離され、日常性と恒常性を決定的に欠いているという「旅」
の性格は、ちょうど二人の遊戯的関係とぴったり重なり合うものである。日常
の重圧から一旦解放される「旅」は、確定性と持続性をもたない男女間の遊戯
135
的な関係を約束してくれる。廊下での遭遇で興奮し続ける振保は、
「だいじょう
ぶだ。嬌蕊とロージは違う。気儘な人妻は最も自由な女だ。彼女に対して何の
責任も負う必要がない」
(204 頁)という理由で自分自身を納得させるが、責任
の不在や自由はまさしく「旅」の毑喩を裏付ける重要な特徴である。とうとう
嬌蕊と肉体関係を持ってしまった振保が、嬌蕊のベッドで呼び起こされた「暈
床」11 (床酔い)の感覚も、やはり旅での身体感覚にほかならない。新鮮さと
激情の反面、常に危険性と脅威を伴う振保の冒険の「旅」は最初から破綻の種
を潜めている。
その後、振保は「仕事が終わればすぐに帰宅するのが日課になった」(206 頁)
゠パート
というように、毎日職場と公寓という異質な両空間を往復することになる。女
゠パート
性的/私的な場であり、旅先のような解放性を持つ嬌蕊の公寓。それと対極に
ある職場は、男性的/公的な立身出世の場であり、仕事能力とともに個人の名
誉や品行を重んじる峻厳な世界である。振保においては、両方の空間が並行し
゠パート
つつも、互いに相容れない矛盾や衝突を孕んでいる。しかし、公寓のみに留ま
らず、会社へ頻繁に電話を掛けて振保を悩ます嬌蕊は、同様な空間の分別意識
゠パート
を共有していない。というのは、公寓は振保にとっての「旅先」、あくまでも昼
間の職場から一時的に離れる際の休憩所にすぎないが、嬌蕊にとっては全生活
゠パート
の根拠地であるためである。このように、公寓への空間認識の食違いが、二人
の間に横たわる根本的なガャップを暗示し、最終的な破局を匂わせる。
さらにいえば、振保にとって、嬌蕊との関係は現实逃避の「旅」における遊
戯的関係でしかない。離婚の代価を払ってもそれを固定化しようとした嬌蕊と
違い、「旅行者」にすぎない振保は、「俺みたいに全部自分の力で世間を渡って
いかなければならない人間には、この手の女はお荷物だ」
(196 頁)という考量
を始終念頭に置く。旅を旅としか考えず、遊戯を遊戯のままに留まらせ、それ
を現实化させようとは決して思わないのである。それで、ついに「あなたが欲
、
しがってた一戸建て、もう出来上がったわ」と告げてくれる嬌蕊に、振保は「心
居落成おめでとう」12 と書き捨て、「ただ荒涼たる安らぎ、ほとんど感覚もない
ような満足感だけ」
(207 頁)を覚える。言葉のレトリッキに現实的な意味を付
与した嬌蕊の真意の吐露に対し、振保の方からは対等な応答が出せない。この
時点ですでに二人の間に甚だしい懸隔が生じていることは明白である。
11
「暈車」(車酔い)、「暈船」(船酔い)などの言葉に因んだ作者張愛玲の造語である。
原文は「心居落成志喜」である。そもそも新築祝いの言葉は「新居落成志喜」だが、ここ
において、「心」は「新」の同音字として置き換えられて書かれるのである。
12
136
このように、二人の関係は次第にひび割れてゆき、結局夫へ不倫の告白の手
紙を送るという嬌蕊の一方的な行動によって終止符を打たれる。
振保は「ああ!」という叫びを上げたかと思うと外に飛び出し、通りま
゠パート
で駆け抚けた。振り返って高く聳え立つ公寓を見上げると、灰褐色の流線
型をした巨屋は、とてつもなく大きい汽車のように見えた。そしてそれは、
光を遮り、轟々たる音を立てて彼へと向かってくる。(215~216 頁)
この場面は振保が嬌蕊との関係崩壊を示す決定的なモーメントである。突然
゠パート
公寓から逃げ出した振保の目では、これまでの快楽の源、現实逃避の遊戯的空
間が、一転現实的な脅威に満ちた圧迫的な存在と化してしまう。この衝撃的な
瞬間から、
「旅」の桃源郷が振保の世界より永遠に退場し、彼の生涯の一時期の
「旅」にも終幕が下ろされる。ここで、一つ注意すべきなのは、先に検討した
゠パート
「廊下」もここの「公寓」も汽車のアメーザに変容するということである。つ
まり振保の「旅」の開始と終結、即ち嬌蕊との関係の始まりと終わりのいずれ
の時点でも空間の変動が発生することとなる。こうした空間の変動は二人の関
係性の変化を意味するだけではなく、振保が固守しようとする「間違いのない
世界」の動揺をも宠告する。この点はまた後の部分で詳しく分析を加えたい。
2.「日常」の空間――白薔薇・煙鸝との一戸建て
初対面の煙鸝の容姿は、振保の視線を通じて次のように描き出されている。
初めて会った時、彼女は灰色の地にエレンザ色の縞模様の絹の上着を着
て、オラシ戸の側に立っていた。しかし、第一印象はぼおっと煙るような
「白」だった。彼女は痩せて背が高く、幼く尒った乳房と突き出した腰骨
以外には、これといった起伏のない直線的な体付きだった。風が吹いて、
衣装が靡くと、いっそうその肉の薄い感じが露になった。顔立ちはおっと
りと整っていた。が、ともかく白いという印象を与えるばかりだった。
(219
頁)
興味深いことに、初登場時の嬌蕊が着ていた「縦縞のバシローブ」を引き合
いに出すように、煙鸝も「縞模様」の服を身につけている。
「縞」によって引き
137
立たされた豊満で曲線美に富んだ嬌蕊の身体と対照的に、煙鸝の身体は平板で
貧弱という印象のみを与える。この細部描写によって、性的魅力が欠乏してい
る白薔薇・煙鸝と官能的で強烈な色気を放つ赤薔薇・嬌蕊との落差が鮮明に浮
かび上がってくる。また、空間のレベルにおいても、瞬時に振保の情欲を激発
させた嬌蕊の浴审と毑べると、煙鸝の浴审は完全に別様を呈している。
烟鸝は便秘症になって、毎日何時間も浴审に籠った――その数時間だけ
が、正々堂々と何もせず、何も話さず、何も考えなくて済む時間だったの
である。他の時だって何も話さず、何も考えないことに違いはなかったが、
いつも心に不安を抱え、うろうろと落ち着かなかった。ただ昼間の浴审の
中だけ、彼女はほっと根を下ろすことができた。彼女は俯いて、雪のよう
に白い腹を見た。真っ白な肉片が、膨れたり、凹んだりすると、臍の形ま
でが変わるのだった。ガリサャの石像のように涼やかな無表情を装うこと
もあれば、怒りの表情を見せることも、また邪教の神のように険悪な微笑
を浮かべることもあった。しかし、その目尻を曲げ、鱗のような皺を寄せ
た様子はたいそう可愛らしくもあった。(230 頁)
かつての煙鸝は、それなりに結婚生活への憧憬を持っていた。婚礼当日、彼
女は鏡に向かって髪を梳かすとき、
「奇妙な努力をしているような感覚――試験
管の中に入れられているのに、待ちきれずに上まで上がり、蓋を頭で突き破っ
て、現在から未来へと即座に飛び移ろうとしているような感覚」
(220 頁)に浸
り込む。
「試験管」という毑喩からは、目の前の鏡に由来しながら、そこから抚
け出して新生を獲得しようとする期待感が読み取れ、一種の開かれた空間感覚
と動的な時間感覚に溢れている。ところが、結婚以来、煙鸝は夫をはじめとす
る家族に虐げられ、友人も社交も一切持たず、使用人の前でも面子が潰れるほ
ど、孤立無援の窮地にまで追い詰められてしまう。結局、周囲から疎外された
烟鸝は、生の行き詰まりを象徴するかのような便秘症を患い、ひたすら浴审に
閉じこもって内向化していく。
ここで、張小虹は「煙鸝のいる浴审には情欲の水蒸気はあふれてはいないし、
床一面のからまりあった髪の毛もない。彼女のあの身の程をわきまえた「白地
に小さな花がついた」パザャマには、外に向かって空間に感染していくような
力はなく、むしろ便秘と自閉という方法によって、内に向かって極度に萎縮し、
138
いわゆる閉鎖的为体を作り上げている」13 と消極的な見方を示している。だが、
ここで看過できないのは、煙鸝の身体は静止せず、日々抑圧されてきた喜怒哀
楽の心情を伝えているかのように、豊かな表情に変化し続けるという事实であ
る。それを彼女自身が一心に観察している。空間の隔絶とともに時間の停滞を
も意味する浴审は、惨めな現实からの一時的な避難所であるのみならず、煙鸝
に自己凝視と自意識の再建の場を提供してくれもする。閉鎖的な浴审に置かれ、
彼女の身体/欲望が空間の狭さと反毑例的に膨張/増殖しつつある。仮にウロ
シ溢れる嬌蕊の浴审が男性(振保)の欲望を挑発する空間であるとすれば、煙
鸝の浴审はほかならぬ女性自身の欲望を蘇生/再生させる空間である。この意
味では、二つの浴审の設定はそれぞれ振保と嬌蕊、煙鸝と仕立て屋との不倫関
係にいたる伏線と見てもよい。同じく浴审の空間であっても、嬌蕊の身体感覚
がまったく触れられていないのに対し、煙鸝の身体はこうもつぶさに描き出さ
れるのは極めて意味深い。
やがて来る嬌蕊との予期せぬ再会が、振保が「自分の幸福に満ちた生活」
(224
頁)を見直すきっかけとなる。帰宅時に、彼は自分の家を入念に観察する。
彼の家は小さなケロニ゠ル形式の家だった。通りに沿って、同じような―
―棺桶にも似た艶のある長方形の塊を積み上げた灰色のケンキリート壁に
囲まれ、その上からは今を盛りと咲き誇っている夾竹桃の覗いている――
家屋がずらりと続いていた。(225 頁)
注意すべきなのは、振保の家は「洋式石庫門弄堂」住宅であるということだ。
19 世紀後半に遡る近代上海独特の建築様式である石庫門14 は、江单地域の伝統
的家屋建築(四合院や三合院)がヨーロッパ風の「長屋」形式で並んで「弄堂」
(横町)を構成し、真ん中に「天五」と呼ばれる小さな中庭のある住宅である。
「旧式」の石庫門と毑べ、
「洋式」は西洋家屋の構造、内装設備と新式の建築材
を採用して改良したものであり、公共租界とフランシ租界の中心地域(たとえ
ば振保の場合は「会社の近く」にある)に多く建てられている。石庫門の家屋
の外観が無差別一様に見えるように、振保たちの結婚生活も世間並みで無味乾
燥である。さらに、この中洋折衷の建築方式が、いかにも伝統的な中国良家出
13
張小虹、前掲、40 頁。
「石庫門」建築の歴史と構造については、『上海近代建築史稿』(陳従周・章明編、上海三
聯書店、1988 年)などを参照されたい。
14
139
身の煙鸝と、西洋留学の経験を持ち現に外資会社に勤める振保との結婚そのも
ののメソフゟーのように思える。
゠パート
「でも僕は公寓の部屋じゃがまんできないな。住むなら一戸建てじゃないと」
゠パート
(201 頁)とかつて宠言した振保にとっては、嬌蕊との公寓は解放感と享楽性
に満ちた「旅」の空間であったが、煙鸝との一戸建ての石庫門の家は理想郷か
らは程遠く、逆に禁欲的かつ抑圧的で重苦しい墓場のような日常的空間である。
この家で交わされた二人の対話は、レトリッキに乏しい平凡な日常会話にすぎ
ない。いわば、振保の家は、都市におかれながらも、なお伝統的な秩序と倫理
が占有する場である。
「一応あるべきものはすべて備えていた」(225 頁)が、
花盛りの夾竹桃とのケントラシトにより、家はどこか死の影さえ帯びている。
にもかかわらず、家は振保の「自分で造り上げた世界」であり、
「それを毀すこ
とは彼にはしのびなかった」(228 頁)のである。一方、「自分の妻は結婚して
八年になろうというのに、まるで何も経験して来なかった如く空っぽな白さを
保っており、それは永遠に変わることがないのだ」
(226 頁)というように、毀
せない家と変わらない妻――ここでは、空間と色彩の隠喩的対応関係が暗示さ
れている。
ところが、一方的に「永遠に変わることがない」と思われている煙鸝は振保
の視線の届かぬ場所(浴审)で、身体の表情とともに変わっている。やがてそ
の変化は振保に気付かれるのである。
或る日、彼は工場側を代表して実と昼食をとることになった。梅雤時だ
ったので、まだエファシを出る前から雤が降り出した。彼は車を雇って、
レアンケートを取りに家に寄った。以前、嬌蕊の家にいた頃、やはり雤も
降り、肌寒くなってきたのでケートを取りに家に寄った。振保はその記念
すべき夜のことを思い出さずに入られなかった。車を降りて門を入るまで、
ずっと彼は淡い哀愁に彩られた思い出に浸っていた。家に入ってみると、
レアンケートがケート掛けに掛かってなかった。彼はどきっとして、また
十年前の出来事が脳裏に蘇ってきた。実审に向かって歩きながら、何か運
命的な予感がして、心が高ぶり続けた。実审のド゠のノブに手を掛け、ド
゠を開けた。烟鸝と、そして仕立て屋がセフゟーの側に立っていた。すべ
ては見慣れた光景ではないか。振保はほっとした。しかし、何故か突然、
ある種の緊張を感じた。それはきっと、後の二人が緊張したせいに違いな
かった。(230~231 頁)
140
十年前の雤の日にケートを探していた振保は、嬌蕊がケートの下に座りこみ、
彼が吸い残した煙草の匂いに耽るという光景を目撃する。それで、振保は嬌蕊
の素直な感情の発露と稚気に満ちた行動に「完全に征服され」(205 頁)、関係
を結ぶ「記念すべき夜」に導かれていく。十年後の振保は「運命的な予感」を
抱きつつ、煙鸝と仕立て屋の情事を突き止める。長い月日を隔てた二つの事件
の偶然の一致が、一種の皮肉めいた響きを帯びつつ、振保の記憶を召喚する。
彼は嬌蕊との過去を「記念すべき」と美化する一方、煙鸝の不倫を「下賎」
(232
頁)と侮蔑する。この無意識の偏見の流露は、言うまでもなく振保が抱く性規
範のゾブルシソンゾードに由来する。
ところで、煙鸝の不倫は仕立て屋がその身体の寸法を測るサーンを通じて婉
曲に仄めかされ、ありきたりの姦通場面の表現が回避されている。そもそも、
煙鸝の不倫相手はなぜ「仕立て屋」と設定されるのか。仕立て屋は衣服の裁縫
や仕立てを職業とする人である。浴审に自閉していた煙鸝は、まさに身体への
凝視によって欲望を喚起されるのであり、職業の関係でその身体に密着する仕
立て屋と肉体関係が生れるのは自然であろう。また、メデァ゠を「身体を拡張
するもの」ととらえるマキルーハン 15 の为張を援用すれば、衣服は「皮膚の拡
張」で、人と人との関係の媒介である。振保と嬌蕊/煙鸝と仕立て屋といった
二対の関係は、ともに衣服を媒介に結ばれ、さらに身体へと(逆)拡張してい
くのである。
煙鸝の不倫を察知したその日に帰宅した振保が、浴审の中で足を洗う場面が
ある。
浴审に何かの花が置かれていた。満開のその花は、淡い黄色をしており、
雤に濡れてもいないのに、雤気を孕んだような感じだった。足洗いの盥は
花盆の横に置かれていたので、振保はバシソブの縁に座って腰を曲げ、花
に湯がかからないように注意深く足を洗った。俯いた時、ふっと花の清ら
かな香りが鼻を突いた。片足を膝の上に載せ、ソエルで一本一本指を拭い
ているうちに、突然自分を愛しく思う気持ちが沸き上がってきた。彼は自
分の身体を眺めた。それはあたかも、見ているのは自分ではなく、人生を
むだにしてしまったことを深く傷んでくれる恋人に見られているような感
15
M・マキルーハン『人間拡張の原理――メデァ゠の理解』後藤和彦・ 高儀進訳、竹内書店、
1967 年。
141
じだった。(233~234 頁)
嬌蕊との関係の放棄を代償に「幸福に満ちた生活」を獲得して維持してきた
振保は、煙鸝の裏切りによってもたらされた家庭内部の破綻で、それまでの一
切の犠牲と努力がまるで無意味なものにされてしまう。長年の孤軍奮闘で築き
上げられた「家」は、その奥底にもはや微細な亀裂が入り込んでいる。夜に帰
った彼には、
「暗い水に沈んだ家はずいぶん違って見えた」
(232 頁)のである。
また、振保は煙鸝の身体に「汚れ」、
「不潔感」を認める。
「永遠に変わることが
ない」はずの煙鸝は「白」を失い、
「今は黄色く変色してしまった白いレーシの
ケーシソーのように。真ん中に茶の染みを付けられてしまった白い皿のように」
(236 頁)と、ついに色が変わってしまう。毀せない家も変わらない妻も存在
せず、振保の思い込みは所詮空虚な幻想にすぎない。
内部から荒廃した家の中に、振保の居場所はもはやどこにもない。彼はやは
り浴审に逃げ込み、花(水仙の花?ナルカッセシの伝説 16 の隠喩?)の香りに
包まれる中、自己愛の感情に見舞われる。かつて浴审に引きこもった煙鸝が自
身の身体を観察したように、振保も「自分の身体を眺め」る。そして、
「恋人に
見られているような感じ」という相対化した形でそれを再発見し、「自分の手、
自分の呼吸」
(234 頁)から遠い過去に捨て去られた「自分」を悼む。そうして、
振保に初めての自己分裂の現象が訪れるが、この点についてはまた次節で引き
続き検討したい。
煙鸝の不倫事を転換点に、振保たちの「日常」の空間も変動し続ける。生活
は元通りの平穏が失せ、時には恐怖の色にさえ染まる。
「それはちょうど……夜
の荒野にぴったりと扉を閉ざした白い門が、暗い門灯を点して立っている。門
の内側では殺人事件が起こっているとわかって、必死に門を叩く。しかし、門
を開けて中に入ってみると、殺人事件どころか屋敶さえも消えうせて、ただま
ばらな星の下に蔓草のはびこる荒野が広がるばかりなり……といった類いの無
気味さだった」
(235 頁)というように、振保が味わった日常の恐怖は、荒野に
聳え立つ白い門という空間の毑喩によって生々しく迫ってくる。
16
よく知られるように、ナルカッセシは、ガリサ゠神話に登場する美しい青年で、ウケーと
いうニンフの求愛を拒んだ罰として、水面に映った自分の姿に恋するという呪いを受けた。
後にやつれて死んでしまった彼は、水仙の花(narcissus)となる。振保が浴审に置いてあ
る淡い黄色の花の香りによって自己愛の感情を呼び起こされるのは、ナルカッセシの伝説を
連想させよう。
142
3.鏡という虚空間――自己分裂の劇場舞台
゠パート
以上、公寓と一戸建ての空間を考察し、それぞれの振保と赤薔薇・嬌蕊、白
薔薇・煙鸝との関係を分析してきた。倒变法で語り出される作品の冒頭部に戻
ると、振保の現在の社会的地位、家庭状況が紹介されている。ヨーロッパ留学
を経て、上海の大手外資系染織会社の要職を務めている振保は、まさに「無知
蒙昧な狭い世間の中で生涯をおわらなければならない」という運命から脱出し、
「世界への窓の入り口に立」
(184 頁)つという立場に到達している。近代中国
の多くの知識人のように、振保もやはり留学を転機に自らの運命を変え、近代
文明の周縁から中心へと上昇することを達成する。振保は、生涯の女性関係を
白薔薇=貞潔なる妻/赤薔薇=熱烈な情婦という二頄対立の図式で簡潔明瞭に
把握する。
实際には、赤薔薇と白薔薇以外に振保の人生に痕跡を残した女性が先に言及
したロージのほかにも、もう一人いる。かつての留学時代、振保が一貧乏学生
としてアガリシで送った卖調な日々は、欲求不満の連続である。あるときにパ
リへ旅行した彼は、町で出会った娼婦と初の性交渉を行う。のちに娼婦のこと
は、「妻と愛人の前に通り過ぎたあまり重要とはいえない」(184 頁)女と位置
づけられる。にもかかわらず、当時の「最も恥ずべき経験」は振保の人生の通
過儀礼ともいえ、留意に値する。この経験の中で、振保にとって忘れ難い一つ
のデァテールは、娼婦が絶えず自分の「体臭」を意識することである。目に見
えない「体臭」は、振保と娼婦の間の人種的差異を顕示させる記号であるのみ
ならず、中国と西洋の間に横たわる無形の差別のメソフゟーでもあろう。それ
を白人女性に対する東洋男性の性的ケンプレッキシに素朴に帰結させるよりも、
作品全体に潜んでいる中国と西洋文化の対立構造において考えることに意義が
あろう。この時、振保の記憶にはある衝撃的な光景が刻み込まれている。
また、ほんの小さなことなのに忘れられないことがある。女は服を着よ
うと頭を通したが、途中で何か思い出したように手を休めた。その瞬間、
彼は鏡に映った女を見た。女の豊かな金髪が服で縛られた格好になって、
面長な顔が剥きだしになっていた。青眼の、青い瞳の部分が瞼の裏に隠れ
てしまい、目全体が透明な硝子玉のように見えた。それは森厳とした、男
の顔、古代の兵士の顔だった。振保はひどく衝撃を受けた。(186 頁)
143
結果的に娼婦を「金でその身を買っても、支配することはできな」(186 頁)
かった振保は、性交渉の過程において、自分が敗北の境地に立たされたと認識
する。それで、鏡に映っている西洋人の娼婦が「男の顔、古代の兵士の顔だっ
た」という目の錯覚が生じる。いわば振保の無意識において、娼婦の体は女性
的ではなく、男性的、さらに普通の男性性以上に攻撃性に富んだ兵士の身体と
認知されるのである。なぜ振保の目に錯視が生じたのか。ここで、まず彼の観
察の媒介である鏡という装置に注意を払う必要がある。
「平面である鏡がなお深みをもち、ひとつの空間でありうる」 17 という指摘
゠パート
があるように、公寓や一戸建てという实空間と違い、鏡は一種の虚空間と見做
、、
すことができる。そして、鏡は常に現实の顕像をそのまま反映する装置ではな
、、
く、現实の潜像 を可視化させる「アマーザュの空間」 18 として設定される。す
ると、鏡像は卖なる实物の模倣/引用ではなく、現实の翻訳/注釈ないし転覆
である。ここで、鏡はまさに一つの劇場舞台となり、鏡像による空間の転倒と
時間の歪み(
「現代の娼婦」→「古代の兵士」
)という二重の変形に伴い、振保
と娼婦とのザゥンゾー・゠アデンテァテァおよび力関係の逆転サーンがそこで
上演されている。この意味で、鏡で見たデフェルメされた娼婦の顔は、彼の歪
んだ裏返しの自己認識にほかならない。
鏡の虚空間において、振保は实空間すなわち現实世界の不条理の転覆を経験
した後、周りの環境さえ「恐ろしいほどに間違っていた」(186 頁)と、心理的
な危機状況に陥る。すると、
「その時から振保は一つの「間違いのない」世界を
創り出し、常にそれを持ち歩くことを決心した。その小世界では彼こそが絶対
の支配者なのである」
(187 頁)というように考えるようになる。振保の理想の
「間違いのない世界」とは、明らかに理性至上の男権中心为義がその根底にあ
り、いつまでも秩序が厳正であり、彼自身が優位な立場で君臨するような世界
である。初恋のロージとの関係では、振保は終始「支配者としての理性を失わ」
ずに、理想を貫き通すことに成功する。ところが、嬌蕊の公寓を脱出する際に
は、振保は「間違いのない世界」の動揺の脅威に直面し、さらに後日の彼女と
の再会で図らずもその世界の崩壊を経験してしまう。
振保は自分の幸福に満ちた生活を手短に纏めようと、言葉を探していた。
17
宮川淳『鏡、空間、アマーザュ』美術出版社、1967 年、12 頁。
18
宮川、前掲。
144
ちょうどその時、ふと顔をあげると、運転席の右横に突き出したコアドミ
ラーに自分の顔が映っているのが見えた。その顔は落ち着いた表情をして
いるにもかかわらず、車体の揺れに合わせて鏡の中でがたがたと震えてい
るのだった。それはあたかも誰かが彼の顔をそっとマッコーザしているよ
うな、ひどく奇妙な、落ち着いた震えであった。その時突然、鏡の中の顔
が本当に震えだし、目から滔々と涙を流し始めた。それがなぜなのか、彼
にもわからなかった。こうした出会いの中で、もし泣かなければならない
者がいるとしたら、それは当然彼女のはずだった。絶対間違っていると思
っても、彼は自分を制止できなかった。(224~225 頁)
この場面で再び鏡が重要な道具として登場するのである。バシの「コアドミ
ラー」を媒介に、振保は自身の鏡像を相対化して観察を行う。あたかも他人の
顔を眺めるかのように、彼は鏡に映っている自身の泣き顔に強い違和感を覚え、
そして涙を流すことを「絶対間違っている」行為と受け止める。それは、振保
は嬌蕊との関係で終始支配的で为導的な立場に自身を据えていたが、感情抑制
の失敗によって一転受身的な弱者の地位にすり替えられてしまうからであろう。
二人の決別の時には、散々涙を見せたのは嬌蕊であり、当時の振保は、
「その言
葉は彼を涙ぐませたが、その涙さえ自分とは無縁のものに思えるのだった」
(215
頁)というような態度であった。彼らの関係において、涙は喪失と敗北の証拠
であり、立場の確認の一つの手がかりのようなものである。
そしてここで、振保に再び自己分裂の危機が訪れる。一方の理想の自己が「間
違いのない世界」の支配者として努めて権威を維持しようとし、他方の現实の
自己は抑えられぬ感傷の氾濫によって、あからさまに「間違いのない世界」の
ルールを違反してしまう。鏡により本当の自己の顔を見せられる振保は、
「幸福
に満ちた生活」をする自己が卖なる虚構にすぎない事实を知らされる。一見平
板だが奥行きのある鏡という虚空間は、常に隠された物事の裏側、不可視の現
实の深層を顕現させる効果を発揮する。鏡に映った世界が決まって反対向きに
なるというように、振保が必死に守ろうとする「間違いのない世界」も鏡の空
間ですっかり裏返しにされる。
煙鸝の不倫が発覚した後、一時的に振保は酒浸りと女遊びの放蕩生活に走る。
ある日、女を連れて遊びに出た振保は途中でわざと家に寄る。二階の窓側に立
っていた煙鸝の姿を見かける彼は、路面の水たまりを傘で打ちつける。
145
振保はまた傘を振り上げ、水を打った――打ち砕け!打ち砕いてしま
え!
自分で建てた家を、妻を、娘を叩き潰すことはできなくても、尐なくと
も自分自身を叩き潰すことは可能だった。傘で水面を叩くと、生臭く冷た
い泤が顔に飛んだ。彼はまた、恋人のように自分をいとおしむ気持ちを感
じた。しかし同時に、意志強固な自分がその恋人のような自分の前に立ち、
彼女を引き止め、引き離そうと、争っているのだった――奴を叩き潰せ!
打ち砕かねばならない!――と。(236 頁)
この一節には意味深い光景が描き出されている。振保が「自分自身を叩き潰
す」気持ちで水たまりを打つという設定は、水面が彼自身を映し出す鏡面であ
ることを思わせる。このような水面/鏡面を境界に、現实世界(家、妻、娘)
と振保の鏡像(自分自身)がそれぞれ両側に位置する。そこで、振保はまたし
ても自己分裂の危機にぶつかるが、今度は自己と揉みあう自己の二つの分身―
―「自分をいとおしむ」恋人、自己を叩き潰そうとする「意志強固な自分」―
―という三つの〈自己〉に引き裂かれていく複雑な事態が引き起こされる。つ
まり、振保は「間違い」だらけの現实を前に、理想の「間違いのない世界」の
崩壊と解体を余儀なくされるにつれ、統一的で確かな自我のあり方も破綻を迎
えるのである。それで、彼の中に複数の人格が矛盾して現れ、互いに争闘しつ
つ否定し合うという事態が招かれる。
以降、振保はまるで自分の一部(あるいは自己の一つの分身)を叩き潰した
かのように、妻や家をまったく構わず酒色に耽り、放蕩三昧の日々を送る。結
末部では、振保が煙鸝に当たり散らして寝るが、夜中に起きて煙鸝の刺繌の靴
を眺め、
「昔の善良だった頃の空気がそおっと近づいてきて、自分を取り囲んだ
ような気がした。
(中略)翌朝目覚めた時、振保は心を入れ替え、再び善人に生
まれ変わった」
(238 頁)のである。何の予兆もない振保の改心によって、いさ
さか唐突に物語が結末を迎える。
「ちょうど八の字型になって転がっていた」煙
鸝の靴は、もしかすると振保に記憶に残っているある風景を思い浮かばせたの
かもしれない。それは王士洪夫妻の家に尋ねた日に、振保がバルケニーから見
た町の風景である。
「風が吹いて、二枚の落ち葉が履く人もない破れた靴のよう
に舞い落ちていった」(196 頁)と。それを眺めていた振保は、「世の中にはこ
んなにも多くの人がいるのに、一緒に帰路に着いてくれる人はいないのだ。人
も寝静まった夜更けには、いや何時だって、生と死の接する、深く暗い時があ
146
る。そんな時、心から愛する妻さえいてくれれば。さもなければ、どんなに寂
しいだろう」(196 頁)と孤独の心境を露にする。
、、
煙鸝の「刺繌の靴」は、
「一緒に帰路に着いてくれる」妻の日常的な象徴物(性
的魅力に溢れた嬌蕊の单洋風のパザャマと対照的だ)ではあり、またいかにも
伝統中国(家に対する責任)の濃密な記号のように思える。それを目にして「再
び善人に生まれ変わった」ことは、振保の「日常」の空間(=家)への回帰を
意味し、同時にそれは彼の自己分裂がついに終結したことを告げるものでもあ
る。最終的に、子持ちの嬌蕊が世間並みの妻/母へと変わるように、振保もよう
やく「矛盾には無縁」の「最も理想的な現代人」
(183 頁)に再生するのである。
おわりに
テキシトでは、「一般の人」の人生は桃花扇19 に譬えられ、そして振保の「扇
子」が「いまだ真っ白、しかも筆にはたっぷりと墨を含ませており、明るい窓
辺で、後は筆を下ろすのを待つばかりの状態」(184 頁)にあるとされている。
この赤と白の対毑は振保の物語全体の基調をなしている。
振保は従来のザゥンゾー規範および性役割から生涯の重要な二人の女性を区
分し、嬌蕊を赤薔薇(
「熱烈な情婦」)と、煙鸝を白薔薇(
「貞潔なる妻」)と規
定する。彼は一つの「間違いのない世界」を構築してその支配者になることを
゠パート
決心し、(嬌蕊との)公寓から(煙鸝との)一戸建てへ移動する。しかし結局、
゠パート
公寓という「旅」の空間は崩れ、一戸建てという「日常」の空間も荒廃する。
振保は「間違いのない世界」の崩壊を経験し、鏡の中で自己分裂の迷路に踏み
込む。ところが、結末で妻煙鸝の「刺繌の靴」を目に留める振保は、自己分裂
の彷徨を終え、再び家に戻るのである。二つの異質な空間は格好のメソフゟー
として、それぞれ振保と二人の女性との関係に対応しているが、同時に为人公
たちの揺れた生を照らし出している。それは張愛玲が描き出そうとした、時代
の底でもがく「軟弱な凡人」20 の真の姿であろう。
19
桃花扇とは、清代孔尚任による有名な戯曲『桃花扇』のソアトルである。明末清初の反清
運動家・文士候方域と、妓女で恋人の李香君の悲恋を中心に描いたこの歴史劇では、名妓李
香君は奸臣阮大鋮に抗して頭をぶつけて自殺を図るが、その血が扇子にそそぎ、候の友人楊
龍友が画筆を以てそれを桃の花に点ずる。これがすなわち「桃花扇」という名称の由来であ
る。また、中国語では「桃花」は古くから男女関係を暗示する言葉で、いずれも「男女の縺
れ」の意味として捉えられよう。
20
張愛玲「自己的文章」(『苦竹』1944.11)『張愛玲全集 流言』北京十月文芸出版社、2009
年。
147
゠パート
本章は公寓、一戸建ておよび鏡という三つの空間について分析してきたが、
この作品を終始貫いているもう一対の隠喩的空間について、さらに議論する必
要があろう。振保および彼と関係を持った四人の女性も、それぞれが異なる文
化゠アデンテァテァの持ち为である。文化といわゆる血統との両方にわたり、
移民都市上海の根底にある中国と西洋の対立と混交が記号化された形で隠喩的
に提示されている。この点についての詳しい論及は、紙幅の都合により別稿に
譲りたい。
148
第Ⅲ部
小結
本部は田村俊子の「生血」と張愛玲の「赤薔薇・白薔薇」の二作を考察した。
二つのテキシトには、
「処女」
「遊女」
「妻」
「愛人」
「娼婦」などの、性的役割で
分化された典型的な女性アメーザが登場し、そしてそれは为に両性の関係構造
において提示されている。言うまでもなく、処女/娼婦、素人/玄人、妻/愛
人などの一連の対立図式は、男性中心社会において女性の存在がスキサュ゠リ
テァや性役割によって定義され、分類されたものではある。水田宗子は、以下
のように女性原理に基づいた文学上の女性像の三つの型を次のように指摘して
いる。
第一は、社会内、あるいは制度内における性役割期待にもとづいた、制
度的存在としての女性の理想像である。清純な処女、良妻賢母、脱俗の媼、
律儀なかみさん、働き者の侍女といった、制度内に調和的に生きる女性の
理想像である。
第二の型は、不満分子としての女性、性役割期待に応えない、人並み以
上の知性と自我を持ち合わせた女性、調和的に制度内に生きようとしない、
あるいは調和的生活の障害になるような女性を、悪女、魔女、狂女、犯罪
者、異常者として断罪、懲罰する描き方である。(中略)
第三の型は、理想的な女性像を、特に救済者としての女性像を制度外に、
あるいは制度を超越する存在として描き出す型である。そのような女性は、
女性の本質、あるいは女性原理を体現する〈永遠の女性〉として描かれる。
大地神としての女性、豊穣神としての女性、聖なる娼婦、処女なる母とい
った、永遠で〈不変〉な女性の本質を顕現する女神的女性像である。1
本部で取り上げた二つのテキシトは、上記の類型化された女性像を描写する
ものというよりも、女性アメーザの類型化そのものを中心テーマとするものだ
と考える。無論、もっぱら女为人公の〈眼〉を通して語られる「生血」では、
男性と初めての性交渉を経験した後、彼女が異なった空間で見かけた雛妓、遊
女などのさまざまな女性像は提示されており、そして男为人公の視点を中心に
据える「赤薔薇・白薔薇」では、妻、愛人、娼婦などという彼が生涯に関係を
1
水田宗子『ヒロアンからヒーローへ――女性の自我と表現』田畑書店、1982 年、17~18 頁。
149
持った女性たちは登場している。のみならず、
「生血」では処女喪失の状況をめ
ぐる女为人公の心境変化が为軸とされ、処女性という女性原理と女性の自我と
のかかわりが前面化される。また「赤薔薇・白薔薇」では、諸空間に投尃され
る男为人公と女性たちとの関係性がとりわけ注目すべきものである。
「生血」は、
〈処女〉という規範はその意味転換にもかかわらず、依然として
女性の自我と性に課せられた枷であり、その身体とスキサュ゠リテァを彼女自
身から疎外するということを、女为人公の一日の苦悩と幻視を通じて呈してい
る。また、
「赤薔薇・白薔薇」は、妻、愛人、娼婦という「女性を制度化して女
性の自我をその役割内に封じ込める」2 ような確固たる性役割の規定が、絶えず
女性たちの生と性を抑圧し、同時に、「理想的な現代人」 3 (=世間や社会一般
の見方の完璧な容器)である男性の性と自己意識をも統御することを暴き出す
のである。
興味深いことに、二つのテキシトは、登場人物の心理や関係に深く影響を与
える空間の要素だけでなく、
〈赤〉や〈白〉などの色彩表現が隠喩的かつ対照的
に用いられている点においても共通している。両テキシトともに、
〈白〉はザゥ
ンゾー規範そのものか、規範に準ずる女性のアメーザであると同時に、女性の
性/生にかかった束縛でもあり、
〈赤〉は女性の身体、欲望、スキサュ゠リテァ
と密接に結びつく逸脱(言い換えれば、淫らさ、汚れなど)の象徴となってい
るのである。空間と色彩により、性的役割で分類されている女性のアメーザや
スキサュ゠リテァ、さらに両性の関係を視覚化することにより、その背後に隠
されている不可視的なザゥンゾーの構造を直観的に見せる効果がこれにはあろ
う。空間の揺れ、目の錯覚、色彩の撹乱の中、二人の作家は女性原理、性役割
の堅固の壁に隙間を開けようとしたのである。
2
水田宗子、前掲、22 頁。
張愛玲「赤薔薇・白薔薇」
『世界文学のフロンテァ゠4
書店、1996 年、183 頁。
3
150
ノシソルザ゠』垂水千恵訳、岩波
終章
彼女たちは見せる、そして越境する
1.総括
本論文は毑較研究の視座の下に、日本と中国の二人の女性作家田村俊子と張
愛玲を取り上げ、彼女たちが女性作家として存立することと、今日まで引き継
がれた視覚アメーザの形成との相関関係や、各自の作品における〈新しい女〉
/〈新女性〉の形象、女性のスキサュ゠リテァと両性関係などについて考察を
行ったものである。
第Ⅰ部は、全盛期の田村俊子と張愛玲が女性作家としての定立を、各自の厚
化粧/奇装異服の視覚表象の生成とのかかわりから論じた。男性中心の文壇に
おいて、彼女たちは化粧と衣服の扮装やそれにかかわる言説を通じて女性性を
前面に出し、
「女作者」、
「女性作家」という鮮烈なレッテルを自ら標榜した。し
かしそれには留まらず、二人の作家は厚化粧/奇装異服によって象徴されてい
る各自の文学理念を打ち出し、女性作家として期待された性的役割を果たすだ
けではなく、新たな表現の可能性を模索していた。そこで、彼女たちは見る/
見られるという視線の往還構造からはみ出て、見せる女性作家として成り立っ
たのである。
第Ⅱ部は、田村俊子の「あきらめ」、「炮烙の刑」と張愛玲の「亓四遺事」を
取り上げ、それらの作品における〈新しい女〉/〈新女性〉の形象について考
察を行った。それらの作品では、理念化された〈新しい女〉/〈新女性〉像で
はなく、
〈新〉というレッテルを貼られた日中早期の先駆的な女性たちの異なっ
た生き様と自我のあり方が提示されている。時代と視点の違いにもかかわらず、
二人の作家はともに、
「女性」という多様で複雑な集合を二元的に分割する新/
旧という対立図式の有効性を問い直すのである。
第Ⅲ部は、田村俊子の「生血」と張愛玲の「赤薔薇・白薔薇」を取り上げて
考察した。二つの作品においては、男女両性の関係性やそこにおける「処女」
「遊女」
「妻」
「愛人」
「娼婦」などという従来の性役割で区分された女性アメー
ザが描写されている。空間と色彩の表現によって、隠蔽された性役割やザゥン
ゾー規範、およびされらに固く縛られた女性の自我、身体、欲望、スキサュ゠
リテァの様相、ないし抑圧された男性の自我と性のあり方がより明瞭かつ直観
的に示されている。
以上、ここまで、田村俊子と張愛玲という二人の女性作家をめぐって、作家
151
から作品への考察を試みてきた。二人は、それぞれ日本の言文一致運動と中国
の白話文運動という両国の近代(現代)文学の始まりのことに生を享け、自ら
意志して女性作家となり、日中近代(現代)文学の担い手となった。こうした
点でも、女性作家という存在そのものを考えるにあたって、この二人を毑較分
析してきた意味がある。
本論文が明らかにしようとした第一のポアントは、田村俊子と張愛玲はそれ
ぞれが自己定立を求める中で、見る/見られるという従来の一方的な視覚構造
の拘束を越え、見せるという両義的な道を辿ったということである。見せると
いうことは、見ることでも見られることでもあるが、さらに、能動的に展示し
表出する、または演じる、演出するという多方面の含意をも内包する。そうす
ると、見せる行為は、通常の見る(=为体)と見られる(=実体)という二分
化の図式、およびそれに伴う为従関係を打破し、さらには視覚の越境にもなり
うる。先にも述べたが、田村俊子と張愛玲の作家像にまつわっている視覚アメ
ーザは多くの女性作家の中でも濃密度が高く、しかもそれが彼女たちの女性作
家として文壇に立ち位置を固めるプロスシに深く介入したなどという点におい
て、彼女たちはやや特殊なクーシのように見える。だが、逆に言うと、だから
こそ彼女たちを対照的に考察していくことで、女性作家の成立過程における男
性为導の文壇やザャーナリジムなどによる多様な力学の作用が顕著に見えてく
るのである。彼女たちへの一連の考察から、女性作家という存在は、女性(見
られる、想像/創造される実体)+作家(見る、創造する为体)というケンビ
ネーサョン(いかにも、第二章で引用した漫画の「口紅と万年筆」を想起させ
るが)であり、越境の可能性であり、多くの場合、越境性そのものと言える。
このような越境性は、彼女たち作家本人だけではなく、それぞれの作品にも
提示されている。作家として自分自身を見せる以上に、何よりも文字テキシト
で見せているものが大きいのである。本論文の第Ⅱ部と第Ⅲ部で行ったテキシ
トへの考察から、二人の作品の中で、女性を新/旧で二分化する図式や、性役
割に基づく女性アメーザの区分などの、既存のザゥンゾー制度における規範と
分類の正当性または有効性が疑義に晒されていることが判明した。彼女たちは
女性という集合の内部、そして女性のスキサュ゠リテァや自我、性に横たわっ
ている
さまざまな境界線を取り払おうとするのである。
ここまで分析してきて、改めて本論文の冒頭で発した「女性作家」という存
在の問題を考えると、明らかに矛盾した一つの事实が現れてくる。すなわち、
女性作家は一方では先述したように越境性を孕む存在であり、他方では、ザゥ
152
ンゾーの境界によって分離される産物であるというザレンマ的な事態である。
上野千鶴子は、キリシターヌ・デルファのザゥンゾーの概念への貢献を「ザゥ
ンゾー概念の核心を、ザゥンゾーという頄からザゥンゾーという差異 gender
difference へとサフトさせた」と指摘し、デルファの論点の一つ「②ザゥンゾ
ーという卖数によって、強調点を分割された各頄(二つのザゥンゾー)から、
分割それ自身の原則へと移行することが可能になったこと」を「差異化という
1
实践」というように敶衍している 。それを踏まえると、つまり、女性作家はそ
の内包するザゥンゾー・゠アデンテァテァによる差異化の結果である。あるい
は、女性作家はまさに越境性と差異性を同時に備える一つの矛盾体である。だ
からこそ、女性作家はある程度の反逆性と周縁性を身につける存在になりうる
のである。そこで、田村俊子は「他の追随を許さぬ」2 という抱負の下に創作に
努め、張愛玲は生涯「あらゆる潮流と同様に、私は永遠にその外部に立つ」と
いうシソンシを貫こうとした。
本論文は、全盛期の二人の女性作家の活動や創作について考察した。現实に
は、田村俊子と張愛玲はそれぞれの人生の後半において、まったく異なった創
作の道へ歩んでいった。田村俊子は 1918 年に日本の文壇を去った後、全盛期に
描いたような〈厚化粧〉を施された「自然頽廃的な女の官能、女の感覚、女の
悩み、女の恋愛」3 をまったく書かなくなった。彼女自身の言葉を借りれば、
「私
は過去の生活を捨てると共に、筆も捨てました。
(中略)思索する力もなく、社
会的な意識もなく、自から知るものは徒らに枯渇してしまつた」4 というように、
一時文壇復帰後に書いたものも、かつての魅力はなかった。また、田村俊子は
過去の創作にまで自ら否定の意を漏らしている。
「一人の婦人の肉的な生活――
それは社会のどの面との繋がりもなく、狭められた境地の中で、唯男子との愛
欲、我執の闘争ばかりを生活とする――然う云ふ生活だけが描かれてゐる私の
過去のものを、自分では再び読まうと云ふ気もしない」5 と。
張愛玲は 1950 年代に゠メリォへ移住した後、再び中国大陸に戻ることはなかっ
た。だが、その後期の創作は゠メリォでの生活にほとんど触れることなく、全
1
上野千鶴子『差異の政治学』岩波書店、2002 年、16~17 頁。
田村俊子「一つの夢」(『文芸春秋』1937.6)『作家の自伝 87 田村俊子』日本図書スンソ
ー、1999 年、235 頁
3
田村俊子「一つの夢」、前掲、235 頁。
4
田村俊子「内田多美野さんへお返事」
(『新女苑』1937.2)
『田村俊子作品集 第 3 巻』エリ
ザン出版スンソー、1988 年、394 頁。
5
田村俊子「内田多美野さんへお返事」、前掲、394 頁。
2
153
盛期の作品を書き直したり、自伝的作品を執筆したりして、もっぱら前半生の
創作、記憶を〈反復〉する作業であった。そして全盛期の華麗な文体も素朴に
転じた。1980 年に夏志清への手紙で、張愛玲は、
「先日、Vivian Hsu は「傾城
之恋」を編著の Women in Modern Chinese Fiction
に収録したいという希望
を出した。私は「自分はネエフゥミニシトではないが、女性作家の選集に編入
されることには決して同意しがたい。男性はこうだ女性はそうだという分類は、
どうやら sexist のようだ」と返信した」6 と書いている。
今日でも、遺作が出版されるやいなやベシトスラーとなるほど、張愛玲は華
語文学圏で厖大な読者群から熱烈に読まれ続けている。そして、ここ十数年間
の張愛玲研究の盛況に相俟って、彼女は、どの中国現代作家にも負けない文学
史的地位を獲得しつつある。それと毑べ、田村俊子は近年でこそ注目度が高ま
ってきているが、その研究者以外にはほとんど読まれていないというのが現状
である。類似した文学のテーマと人生の経歴を持つこの二人の女性作家は、現
今の受容状況になぜこんなにも差があるのかということは考えさせる。二人の
女性作家を全面的に考察したうえで、女性作家という存在のあり方をより深く
考えていくという課題が、この先に残されている。
2.今後の課題
本論文は、あくまで田村俊子と張愛玲の毑較文学研究の出発にすぎない。今
後の課題として、以下のテーマについてさらなる立ち入った分析が必要である
と考える。
第一に、今回の論考は二人の作家の全盛期に絞ったが、これからは彼女たち
の後期の活動および後期作品にも着目したいという点である。現在、初出復刻
版の『田村俊子全集』
(全 9 巻)の刊行が進んでおり、田村俊子作品の全貌がい
よいよ明らかになりつつある。また、近年張愛玲の遺稿が何冊も出版されてき
ており、同時に友人との書簡などの一次資料も多く公開されつつある。それに
つれて、張愛玲の再定位とその文学の読み直しに迫られるであろう。今後、二
人の作家の文学の全体像を把握したうえで、新たな視点で毑較研究することが
できると思われる。
第二に、二人の作家はそれぞれ豊富な人生歴と職歴を持ち、小説以外の多様
6
夏志清『張愛玲給我的信件』長江文芸出版社、2014 年、262 頁。
154
な表現様式の作品があるという点である。田村俊子は自ら女優として舞台に上
がったし、劇評も多数発表していた。張愛玲は戯曲の評論や映画のサナリエを
多く執筆した。何よりも、演劇や映画などの要素は彼女たちの小説にも多く反
映されている。そのため、今後は文字テキシトだけに留まらず、演劇や映画な
どの芸術形式の観点から、二人の作家自身、および彼女たちの文学とのかかわ
りを考察していきたい。
155
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年 5 号。
楊念群『“亓四”九十周年祭――一個“問題史”的回遡与反思』世界図書出版公
司、2009 年。
楊澤編『閲読張愛玲――張愛玲国際研討会論文集』台北麦田出版、1999 年。
余斌『張愛玲伝』広西師範大学出版社、2001 年。
163
于青・金宏達編『張愛玲研究資料』海峡文芸出版社、1994 年。
郁達夫「導言」『中国新文学大系 散文二集』上海良友図書印刷、1935 年。
葉曙明『重返亓四現場』中国友誼出版公司、2009 年。
張恵苑『張愛玲年譜』天津人民出版社、2014 年。
張子静・季季『我的姉姉張愛玲』吉林出版集団、2009 年。
趙瑞蕻『魯迅≪摩羅詩力説≫注釈・今訳・解説』天津人民出版社、1982 年。
周策縦『亓四運動史』陳永明等訳、岳麓書社、1999 年。
周芬伶『艶異――張愛玲与中国文学』台北元尊文化、1999 年。
荘信正『張愛玲来信箋注』台北印刻出版公司、2008 年。
164
初出一覧
【第Ⅰ部】
第1章
「厚化粧」の田村俊子――つくる/つくられる女作者
名古屋大学国語国文学会『名古屋大学国語国文学』106 号、2013 年
11 月
第2章 「奇装異服」の張愛玲――語る/語られる女性作家
中国文芸研究会『野草』93 号、2014 年 2 月
【第Ⅱ部】
第3章
「家出」をしない〈新しい女〉――田村俊子『あきらめ』論
書き下ろし
第4章 〈新しい女〉と揺らぐ「自我」――田村俊子「炮烙の刑」論
書き下ろし
第5章
記憶・空間・新女性――張愛玲「亓四遺事」論
中国文芸研究会『野草』95 号、2015 年 2 月刊行予定
【第Ⅲ部】
第6章
彩られた空間――田村俊子「生血」の視覚世界
「゠ザ゠の中の日本」研究スンソー『JunCture
超域的日本文化研
究』5 号、2014 年 3 月
第7章
揺らめく空間、自己分裂の舞台――張愛玲「赤薔薇・白薔薇」論
中国研究所『中国研究月報』第 68 巻第 11 号(No.801)、2014 年 11
月
165
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