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KOJ000101

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KOJ000101
抜歯の民俗考古学序説
児玉
1
由佳
はじめに
考古学とは、 「過去の人類の 物質的遺物を 資料として、 人類の過去を 研究する学問」であ る。 その
対象は人類の 出現から現在に 至るまでと非常に 広範囲であ るが、 物」から得ることができる 情報は
「
少なく、
日封土の研究となれば、 考古資料が語る 情報量は非常に 少なくなるのであ る。
科学等の研究成果との 比較。検討といった
そこで、 当時の文化を 復元するために、 民族 (俗 ) 学や自烈
か法が用いられてきたが、 そこから導きだされた 解答も、 厳密にいえば 推測の領域を 越えることはな
文献を伴わない
いのかもしれない。 しかし、 こうした研究方法は、 効果的な方法であ ると言 う ことはできるであ ろう。
今回、私もこのような 方法をもちい、 縄文 封土の「抜歯」の 習俗について 考察していきたいと 無げ。
廿
「抜歯」とは、 あ る目的のもと 健康な歯牙を 抜く習俗であ る。 この習俗は、 届け台から現在に 至るま
で世界各地に
存在しており、 日本でも、 縄文。 弥生日刊やここの習俗があ った。 特に、縄文後期から 晩
期 にかけてこの 奇習は盛行したが、 その理由はなんだったのであ
これまでも、
多くの考古
ろう ヵ ㌔
@ 者や人類学者、
では、それらの研究の 中でも特に抜歯から
民族 (俗) 学者によって 抜歯研究がなされてきたが、 本稿
当時の社会構造に 迫り、 乃翻 固形態の復元を 試みた泰成秀爾
の研究を取り上げ、 再検討していくことにしたい。
Ⅱ
縄文人りこおける 抜歯の研究
研究更沙
抜歯の研究は、 大正 7 年 (1917)
東京大学解剖学教室の 小金井良精が 大阪府藤井寺市の 国府遺跡出土
抜歯人骨について 発表したのが 始まりであ るの。 その後、 現在に至るまで、 人類学の分野からは
工
清野謙次。長谷部言人,金閣丈夫。
鈴木尚 等が 、 考古学からは 松本 彦 セ部。 山内清男。 小林行雄。坪
井清足 ・渡辺誠、 そして、 民族 げ勧学からは古野清人。
大林太良等が
抜歯研究をおこない、 様々な解
釈がなされてきま 氏
これらの抜歯に 関する論文および 記載の数は 3h0 以上におよぶと 言われているが、 それらの大部
分が 194R 年 以前のもので、 用いられている 資料に地域的。 珂民
的偏りが著しく、 その編年上の位置
は
づけには誤りが 少なくない。
2
0 分布
抜歯の風習は 日本のみならず 世界的に見ることができ、 その分布は中国・ 台湾をはじめとする 東
南アジア。 アフリカ。オーストラリア。南北アメリカ。 ポリネシアなどにおよんでいるの。
一 1 一
日本では、 発掘調査の結果から 見ると、 高頻度に抜歯風習が 見られて
道ではあ まり見ることができな
レ
レ
㌔また、 一見すると太平洋側に 片寄って
骨 がしばしば貝塚によって
良好に保存されるからであ
っているとはいえないであ
ろう (第 1 図 。
って、 この結果が明確に 抜歯の地域分布を 物語
型式としては、 大きく分けると 犬歯を抜く系統は 東日本に、 切歯を抜く系統は 西日本に分布する。
その分布は亀 ケ岡式
土器系の文化圏 と凸 時文土器系の 文化圏に重なり、 生態的には広葉
樹林帯と
広葉常緑樹林 (『英樹林 ) 帯と 重なるとされているの。
落穏
古 の 例 とされるのは、 1968 年に沖縄本島の 具志頭地区の港 l@ 石場から 発
見された抜歯人骨であ る。 現場から発見されたフト 炭の放射性炭素の 測定値から、 約 1 万 8200 午前の
上部洪積世人類であ ることが明らかにされ、 そのうち i 体に抜歯と思われる 痕跡が見つかった。 下顎
の両手切歯が 2 本技芸されていたが、 他に郎蝕の見られないことから、 おそらく人為的に 抜歯された
ものであ ると推測 t ね 、 これが日本で 最古の抜歯 側 であ ると い えるであ ろうの。
4
の目的
縄文時代における 抜歯目的を決定的にあ
らわすものはもちろん何もない。 しかし、 古代から現代ま
式)
様
式
様
西日本領域 (
両日本領域
(無 抜歯 )
第 1 図抜歯人骨出土地分布と
抜歯様式の地方差 (泰成 1986 、 渡辺 1966 による 一部改変)
一 2 一
での抜歯の民族
例 と照らし め わせることによって
①装飾的な意味
②武器として、
挙げられているの。
あ るいは威嚇を 目的として
③機内的な意味 (成人。婚約・ 結嫡
④服喪として、 あ るいは呪訊
的な意味
⑤ 同族のしるし、 あ るいは従属のしるし、
⑥
の
次のようなことが
階級をあ られすしるし
刑罰として
医療として
⑧ その他
①の装飾的な 意味については、 笑った時に抜けた
美しく、 愛婿があ ったからだという
赤い舌が チ ロチ ロと 見えるのが
清野 説 りがあ るが、 美的感覚の差があ ったとしても、 それだけ
の為に痛みに 耐えて抜歯するのであ
ろうかという
をいれる叉状
う
研歯や歯牙を黄金や
宝石など他の
白い歯の間から
疑問や、 装飾という点では、 抜歯よりも歯に 刻み目
物質で飾る 飾歯などの歯牙 変工 のほうが適しているよ
に思われる。
次に 、 ②の武器や威嚇については、 武器にするのなら 抜歯よりも研ぐほうが 効果的ではないかと
い 9 意見もあ り、抜歯目的とするには 説得力に欠けるであ ろう。
⑥の刑罰に関しても、 抜歯の施工率から 考えれば、 一遺跡に住むほとんどの 人がなんらかの 刑罰
を受けていることになり、 抜歯目的としては 不適切であ ろう。
また、⑦の医療目的に 関しては、 抜歯が一定の 歯 に限られていることや、
蝕が 残されていることなどが 矛盾した考えを 実証しているの。
種
郎
本来抜かれるべき
な
このようなことから、 縄 はき代の抜歯目的としては、 ③。④。⑤が有力とされている。
『
の施
抜歯の施工年齢について 最初に論じたのは、 長谷部言人であ るの。 長谷部は、
5
岡山県笠岡市の
津
雲貝塚出土人骨において、 智歯の発育と 骨の癒着状態から 見て若年末期 及ひ壮年初期と推定される 2
体には抜歯が 見られることから、 牡牛 に達ナる 前に行われたものと 認めて良いだろう。 」としている。
同じく津雲貝塚の 人骨を調査した 宮木・清野等も 同様の結論を 下し、 その時期はおおよそ 春機発動期
(17∼ 18 歳) にあたると述べているの。
m綾 、 /J、金井
・渡辺は、施工年齢を 14∼ 15 歳とし、 抜歯は成人式の 一環としておこなわれていたとし
は上顎犬歯の 抜歯は成長中の
のと考えたけ
泰成 は、
若 い 目き別に行われ、下顎犬歯の抜歯は 必ボ成人になってから
行われたも
り。
智歯の萌
出が年齢の推定にはほとんど 役立たないとし、
くとも 2 . 3 午はさかのぼる 若年期と訂正するほうが
その時期を春機発動期よりも
少な
妥当であ ると述べている 修 。 しかし、 これは
って、 おそらくその 人の一生のうち い くつかの理由
で数回にわたって 抜歯は実施されたと 考えられている。
また、 たとえ抜歯の 理由が つであ ったとしても、 施術の際には 多量の出血を 伴い、 卒倒したり
あ くまでも施工年齢の 下限を示しているだけであ
ェ
死亡することもあ
るため働、
一度に抜 表する歯牙数はおのずから 制限されていたと
完成するまでには 数年かかっただろうと
考えられている。
- 3 -
思われ、
抜歯が
Ⅲ
抜歯からみる 社会構造
の型式
ⅠⅠ
これまでも、 抜歯の型式についてほ
様々な案が出されてきたが、 泰成 は、 大きく 4 つのグル@ プに
分類した (第 2 図)。
①
②
鋤噛
左右 2 本
正号
下顎犬歯・切歯
づ 0 型 (0 櫻
犬歯。切歯末技芸
犬歯 2 本づ 2C 型
中 側切噛 4 本∼ 4 1 型
・
中 。 側 切歯 4 本 づ寺町 2( ∼ 1) 本づ 4 1 20 型
ガ軒 2 本。切釘 1 ∼ 3 本づ 2C2
K型
③ 上顎第 1 小 白歯
④ 下顎第 1 小臼歯
抜歯の形態は 、 上に記した①と②の 組み合わせを 基本に 、 ③。④が 付カロされるとい j 形で成立す
るとしている。 また、一
遺跡において①と②が③。 ④の一部あ るいは全部と 複雑に絡み合って 併存
しているのは、 抜歯が単一の 目的のもとになされたのではないことを
端的に示寸前轍 とし、 縄文時代
と
の抜歯が各個人の 人生上で遭遇した 歴史的な出来事を 刻み込んだ一極の表象であ ったと考えた。
て、 そのよう @こ 自己の身体を 傷つけてまで 俵 示しなければならなかった
重大な出来事とは、 出生と死
し るのぞけば、 成人。結婚・近親者の 死亡ではなかったのではないかという
推測のもと
① づ 成人抜歯
② づ嫡囚 抜歯
④
③。 づ 服喪抜歯
として分類しているば
4。
り
このなかでも、 特に乃勒因 抜歯
ほ ついての説をとりあ げ、 再考
察することにしたい。
2
泰成 は、 先に記したよ
う
に、
下顎犬歯。切歯の抜歯を ゑ勧 国技
歯と想定し、 その抜歯型式の 違
いは出自の違いを 表示している
という説をたて、
岡山県笠岡市
津雲貝塚、 愛知県渥美那 吉胡兵
貝塚などを中心に 統計的処理を
4 l 2c
型
琳
第 2 図 2% 因 ・出自抜歯の5 型
一 4 一
そし
@( 泰成 1973
による)
おこなった。
まず、 抜歯型式を 4 1 系タりと2C 系列 こ薙拐りし、 抜歯系列と叉状研歯 ならびに装身具の 着装との関
係や (第 3
。
4 図 ) 、 墓地における 埋葬位置などから 4 T 系が 2C 系に対して優位に 立っているとし、
4 1 系をその集団の 一次的な成員、 2c 系を他の集団から 婚人してきた 二次的な成員と 推定した。 そ
の推定のもと、
いては選択居住婚が 主流であ ったとした
東日本については、
型と 2c
結果、 津雲貝塚においては 表方居住婚が、 吉胡貝塚にお
二系列の男女の 比率を調べた
掩ひ 。
個々の遺跡から 検出された抜歯人骨の
るが、 0(0)
数は少なく資料不足ではあ
基本型式とし、 西日本との対応などから 2c 型を婚人者とするのが
であ ると述べ、 0(0) 型を自氏族、 2c 型を他氏族とし、 大型居住婚が 主流であ ったとした。
自然
型が東日本における
簡単ではあ るが以上が 嫡因抜歯についての 養成の説であ る。 非常に興味深い 説であ ると捧げが、 批
判も少なくはなく、 特に居住形態に 関する考察に 対して、 民族学 (文化人類学 ) の研究者からは、 民族
例 との比較という 九法 で当時の女翻甜刮主様式を探るのならば、 泰成の解釈にあ てはまるような 事例は
ないといった 批判が多い。
例 との比較を用いることはきわめて
過去の社会を 復元する際、 民族
比較するにあ
いとき、
たっては、
う
。 しかし、
る。 民族学的事実と 考古学的解釈が 一致しな
様々な可能性を 考える必要があ
同時に、
考古学的解釈に 誤りがあ ったと考えると
重要であ るといえよ
かつては存在していたかもしれないという
可6 目 生も考えてみなくてはならないだろう。
ト
そ う いったことをふまえた
ぅ
えで、 次節からは、
おこなうとともに、 縄文晩期の西日本において
疑問点を挙げ、
泰成説に対する
私なりに再検討を
抜歯風習が 盛行した意義について 考えていきたい。
ま
に輯す る一
3
泰成は自説のなかで 津雲貝塚においては 妻方居住婚が主流であ ったと述べ、 その根拠のひとつとし
て、 津雲貝塚における 0(0) 型 男 ,佳人骨の出土数 をあげているば w 。 、津雲貝塚での 0(0) 型人骨の出
ひ
十数は男性が 1 1(+3) 、 女性が 0(+1) と圧倒的に男性の 割合が大きくなって
えば、
し
、 る。 泰成の分類にそ
男,性の割合が多かったという 角 秋 が成り立ち、 このような成人式を 経ながら生涯
独身で終わった 男性が非常に 多いのは、 女性が優位であ る妻方居住 婚 ならば起こり ぅ ることであ ると
述べている。 これら0(0) 型人骨の推定年齢を 見ると、 壮年以上で、 若年ならびに 成人人骨はほとん
これは未婚の
早
ど見られないため、 結婚はしたもののなんらかの
特別な
理由で抜歯を 施す前に死亡したというような
場合を考慮する 必要はないであ ろう。
しかし、 彼らが本当に 現在でい
ところの「独身」であ
う
ったかどうか
ほ疑問に思われるところであ
る。
養成 は、 ㍼ 因 抜歯の遺跡間の 相互関係において 4 T 2C 型ならびに 2C2
T 型について寡婦。 寡
夫 もしくは再婚者と 考えれそこで、 その再婚の形態を 考察したとき、 レ ヴィレート (婚) という可能
性も考えることができるであ ろう。レ ヴィレート (婚) とはエヴァンス・プリチャード (Evans-Ⅳ itch群 d
E.E)のヌア一族の 調査によって 広く知れわたるよさになった
攻剖
固形態であ るは7 。 これは、 夫が死亡
フ
し未亡人となった 妻を死亡した 夫の兄弟が引き 取るといった 習俗であ る。 日本古代でもこのような 婚
L口
LL
調辮
の
因
Ⅱ
よハ
勧
為
(
の
一丁
イ
4l
ら
れ
こ
ノヒ
で
ら
カ
向日
ま、
で
@
@
レ
イ
レ
す
」の伝承にも 記されている 倒 。 しかし、 レ ヴィレート (玖肋
矢
法的
言遜己
女
「
氏Ⅱ
り、
ヴ
<
な
で
は
昏
高女
ま
@
アし
厳密
ま
|
と
姻形態がとられていたことがあ
へ
第 3 図津雲貝塚出土人骨の 抜歯型式と夏風立方向
(清野 1949、 宮本 1925をもとに作成)
第 4 図吾朗貝塚出土人骨の 抜歯型式と頭位方向(清野 19 鵠をもとに作成)
一 6 一
をすませており、 兄弟は代理の 夫としても
う
存在している 家族のなかに 入っていくにすぎない」ので
儀柑ヤ予 っていない。
あ る。 すな む ち、 亡夫の兄弟は 夫ではあ るが法的な婚姻の
これを津雲貝塚の
0
(0) 型男性日本あ てはめて考察すると、 彼らは レ ヴィレート (婚) によって自分たちの 兄弟の妻であ っ
た未亡人を引き 取ったが、 あ くまでも再婚ではないので 抜歯型式のうえでは 未婚であ る 0(0) 型のま
まであ ったというようには 考えられないであ ろう れ
しかし、 レ ヴィレート (婚) の可能性を考えると 寡婦 (寡ヲコの再婚についての 問題が生じる。 和田正
平 め p 性 と結婚の民族学
コ
の中に、 M. C. キルウェンが
部族を対象に 調査した結果の 記載があ
死んだ夫のホームステッド
いる社会では、
1971 年∼72 年にかけてタンザニア 西北部の
る。 それによれば、 その多くが寡婦は 再婚すべきでないとし、
(尾房のにとどまるのが 普通だとされている。
レ ヴィレート (婚) 力 平手 われて
解消の理由にはならず、 離婚も再婚も 容易には認められないのであ
る。 津雲貝塚において レ ヴィレート (2% が行われていたと 考えるならば、 4T 20 型ならびに 2c2
死は決して結婚の
再考察しなければならないだろう。
出土人骨が不完全であ ったり、 抜歯後まもなく 死亡した場合は 歯槽がまだ完全には 閉鎖されず、
Ⅰ型の抜歯理由について
抜歯
娘 として認められないことなどもあ
り、現在までに統計処理されている
例数が確実であ るとはい
えないが、 それらの結果を 参考にすると、 津雲貝塚において 4 1 2C 型人骨 は女性 4 件 、 男,
性 6 件、
8(+2) 体 、 男,
注 6(+1) 体 となる。 ちなみ吉胡貝塚では 4 T 2C 型人骨は女性
6 件、 男,注10(+1)体 、 2C2
1 型人骨は女性 7 体 、 男性 6(+2) 体 、 稲荷山貝塚では 4 1 2C 型人骨
2C2
l 型人骨は女性
は女性
3(+3) 体 、 男性 3(+3) 体 、 2C2
割合は津雲貝塚約
1 理 人骨は男女共に
0 体 となり再婚者または 寡婦。寡夫の
35% 、 吉胡貝塚約 28% 、 稲荷山貝塚約 31% となる。 当時の人々が 結婚。再婚に関
してどう v.@った概念を持っていたのかはあ
がおこなわれていたとしても、
きらかではないが、 縄文晩期の西日本において
初期的農耕
まだ生業の大部分を 狩猟・採集が 占めていたと 思われ、 人々 @ま 攻剖因 に
より移動してきた 女性ならびに 男性を少なからず 子孫繁栄や経済活動のための
貴重な人員としてみて
いたのではないだろう 力もそ う 考えるならば、 離婚や再 力翻ま 理由の移動はもっと 限られていたと 思わ
ね 、 先に挙げた数字は 少し多いように 思われる。 おそらく、 当時の人々には 今日と同じような 離婚・
再婚の概念は 存在せず、 4 1 2C 型ならびに 2C2
I 型抜歯はその 理由を確定することはできないが、
思われる。
氏族問の移動にかかわるものではなかったのではないかと
東日本の抜歯人骨の 出土数は少なく、 統計をとることはきわめて
たように、 西日本の場合と 対応させて東日本では
抜歯として用いられていたと
0(om
型カミ 自
困難であ
氏族、 2c
るが、 泰成は先にも 述べ
型が他氏族をあ
らわササ剖因
考えた。
しかし私は、 東日本では西日本のよ
5@ こ攻醐因 抜歯といった
形で抜歯が用いられることはなかったの
ではないだろうかと 推測する。 西日本の抜歯に 対応するものとして 東日本では土偶や 石偶 。 石棒など
があ げられることがあ る。 だが私は、 その 2 つが持つ意味は 基本的に異なると 考える。 すな ねち、 土
偶等 が宗教的・呪術的な 要素を強く持つのに 対して、 抜歯、特に晩期西日本の 抜歯は青樹射難しといっ
た要素よりも 集団の構成員であ ることを証明する「しるし」のような
う
に、 抜歯とは歯を 抜 表する苦痛に耐えることにより
考える
成人
耐えること」が 目的のひとつであ り、その対象を犬歯や
切歯 と
のであ る。 多くの民族例から 考えられるよ
としてみとめられるというた「苦痛に
意味を強くもっていたと
--
7
--
歯牙にすることによって、
いう第三者が 容易に見ることができる
しかし、 縄文晩期の日本での 抜歯型式は周辺諸
れる歯牙数の 多さは他に例を
み剖
因の際の抜歯のほとんどが
ょ幽成
では見ることができないものが
うに西日本晩期の 抜歯が試練儀礼といった
良いだろう。 このようなことから、 先にも述べたよ
域を越えて発展していったと
いった意味をもった 抜歯が西日本にのみ 盛行し、 東日本ではそこまで
の違いは社会の 在り方の違いからきていると
佐々木高明は、
在していたと
多く 、 特に抜去 さ
見ず、縄文時代の抜歯の 特典性を示している。 また、 民族側 に見られる
女 此のみに施されるのに 対し、縄文時代の抜歯は
型式においての 性差は
あ るが施工に関しての 差はほとんどないといって
う
言明明したとされている。
周囲の人々に
考えるのであ
る。 そして、 そ
発展しなかったと
仮定し、 そ
考える。
中には一時的に 大量の人々を集中させるようなメカニズムが
成熟期の縄文文化の
考えた⑲。 例えば、 金沢泉 チカモリ遺跡 (縄文後期∼
存
晩 ) の巨大水柱遺構などは、 現
まめ
在推定されている 一般的 柑縄文旦目代のんラの人口ではおそらく 建立することはできず、
かなり広い地
考えられる。 人を集める社会の
仕組みには大きく 分けて、
人口の集中した
域から人々が 集められたと
特定の大集落があ りそれを中心に 人々が集まる 場合と一時制
猟。採集や半栽培を
後者のような
こ
人を集める場合の 2 つ があ るが、 狩
周恩支社会では特定の 大集落がいく っ も存在していたとは 考えにくく、
力法がとられていたと 考えた。 このようなメカニズムは 2 つの条件によって 支えられて
主としてい
いたと思われ、 1 つは食料であ った木の実や ザケ 。 マス等の収穫期が 一時期に集中すること、
つは「再分配」の 経済システムが 存在していたことだと
当時の東日本の
縄文社会で、
異なっているという
ェ
述べている。
このような経済システムがとられていたとするなら
概念はあ っても実質的には 共同で作業することも
ぱ、 各々の集落は
多く、集落間における 規制も西
日本のそれとはまた 異なり、 比較的緩やかな 面もあ ったのではないだろう
反対に、 晩期西日本では、
もう
ヵも
るその時期に、 すでに農耕という 文化を
行われていたと 思われ、 その規制の方法として 抜歯が
弥生時代へと 移り変わりつつあ
受け入れることができるだけの
共同体の規制が
発展していったのではないだろう
日本の文化のなかには 方言のよ
れ
う
@こ東と何とで分けることができるものが
少なくはない。 縄文文化
る。 亀ケ岡戒文化圏 と凸特立成文化圏、 広葉落葉樹林
帯と照葉樹林帯、 また、 石器類も東日本では 狩猟等に関する 道具が重要で、 西日本では植物性食料の
調達。加工に関係する 道具が発達したとされている。 抜歯もまた、 これらと同様に 東 と 何で分けるこ
とができ、 その発展が人々の 生活様式 ど深く関わっていたことを 物語っているであ ろう。 そして、 水
の中でも同じように 分類できるものが 数多くあ
田稲作農耕の伝播の速さも 東と 何で分けることが 可能であ り、農耕文化を比較的容易に 受け入れるこ
「抜歯」とい j 言葉から受けるイメー
とができた西日本において 抜歯文化が発展したということは、
ジとは異なり、 高度な共同村明き制のシステムとして 抜歯 力 普うわれていたことを 示唆しているのではな
いだろう ヵ ㌔
Ⅳ
結語
以上、春成の抜歯研究を 追 う 形で縄文晩期の
抜歯習俗について
きた問題点、 疑問点は以下の 通りであ る。
一 8 一
考察してき
仁
そこで得ることがで
,浮雲遺跡が妻方居住婚 であ ったという説は 再考の余地があ る。
2. 4 1 2C 型ならびに 2C2
T 型の抜歯は離婚。 再婚を理由として 施工されてもので
はないと推測 t れる。
8. 東日本での抜歯習俗は 西日本と同様の 発展を遂げたとは 考え難く 、 0 (0) 型。 2C 型を東
日本の力嵌困 抜歯として考察するのは 不適当と思われる。
4. 晩期西日本において 抜歯習俗は 、 単なる試練儀礼ではなく 共同体規制のシステムとして 用 い
られていたと 考える。
最初にも述べたよう @こ 、 厳密にいえば 泰成の研究も 推測の域を越えず、 私の考察もその 推測にも
ェ
ろう。 実際の抜歯人骨を 確認することもできず 抜歯型式等もこれまでの
為 、 新たな結果を 導き出すまでにはいたらなかったが、 私なりに縄文
垣間見ることができたのではないかと
感じている。 また、 今回抜歯習俗
とづいた推測でしかないであ
報告をもとにさせていただいた
人の精神文化といったものを
明荷切に感じたのが、
を考察するにつ
よりいっそうの 自然科学分野からの 研究の必要性であ
才
(俗) 例 との比較という 加法が推測の
域をこえるためにも、
その重要性を 改めて感じるのであ
る。 民族
る。
(1) Ⅱ樹皮 精 「日本石巻舌甘き 代人に上犬歯を抜き去る風習ありことに就て (1@人類特客柁甜33-12 19㏄) 31頁。
(2) 成田令
博丁 抜歯の文化度
ヨ ( 儂 カロ 控保健協会 1983) 3∼4 氏
(3) 磯崎正彦「縄文の生活いろいろ一 抜歯」 ( 歴史4な言制 2 1979) 83%
㈲ 成田令
輔卸喝註 (2) 13頁。
(5) f@@S@@mWSiW
9-12 K
(6) 成田令
博前掲註 (2) 10頁。
(7) 清野謙次 F古代人骨の研究に基づく日本人種言制 (岩波書店 1949) 229%
」
仁
(8) 長谷部言人「石巻朝刊モ
人の抜歯に就て
9) 宮本博人「津雲貝塚の
抜歯風習に就
(10)
(11)
(12)
(13)
(1の
(15)
(16)
(17)
(18)
(19)
」
鯨封
( 「人類弓勢
特封
( ぽ人類学
34-11
,
12 1919)
3㏄∼?.w.頁。
て
4%5 1925) 178 ∼179 頁。
清野謙次・金高
勘次 「姉河国吉
胡貝塚の抜歯及 歯牙 杉の風習に就
て ( 史双学窩矧 1 3 1929) 43∼68 頁。
渡辺誠「日本の抜歯風習と周辺地域との 関係」㎝考古学ジャーナノ
ゆ 10 1967) 21 頁。
小金井良精「日本石器時代人の
歯牙を変形する風習に就て ( n人類学
雙輻甜 34-11 . 12 1919) 鵠2∼3ih.i
頁。
養成秀爾「抜歯の意義@ ( 考古学研究J120-2 1973) 27 頁。
招あ
刀誠 %@
愚
文化における抜歯風習の所知 ( 口占 学田 ¥9 44 19㏄) 177頁。
泰成秀爾前掲註 (12) 28 ∼30 頁。
養成秀爾前掲註 (12) 30 ∼35 頁。
養成秀爾前掲註 (12) 433頁。
エヴァンス・プリチヤード『ヌア
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