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中国近現代女性服飾文化の変遷ー上海を中心に一

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中国近現代女性服飾文化の変遷ー上海を中心に一
中国近現代女性服飾文化の変遷一上海を中心に
教科・領域教育専攻
社会コース
M10150K
曹肝雲
はじめに
第一章 清朝末期の服飾(1840年∼1911年)
第二章 民国初期の服飾(1912年∼1919年)
第三章 民国中・後期の服飾(1920年∼1949年)
おわりに
服装は文化の直接の表現として、客観的な歴史を反映し
彩られて、多くの人がチャンスを求めて上海に進出した。
た。異なる歴史時期の異なる服装の特色から当時の人々の
モダン女性は自らを商晶化していた。厚化粧やきれいな装
精神状態が見える。すなわち、服飾研究は当時の人々が置
飾は包装紙のようなもので、自分を包み、自らを着飾るこ
かれていた生活環境や経済的状況、文化や習慣、心性の変
とで、街で陳列しようとしていたのである。このような西
化などを読み取ることによって、価値観や文化の変動、フ
洋の文物が流入したことにより、都市的な生活様式が根付
ァッションの変化などを明らかにするものである。例えば、
くなかで、中国人の道徳意識も大きく変化することになる。
辛亥革命のあとで、中山服の流行が始まった。チャイナド
昔から重視されていた儒教的な道徳観念が動揺し、商品経
レスとハイヒールは女性解放の象徴である。特殊時代に軍
済を基盤とした娯楽や贅沢が重視され、享楽的で消費的な
服が興った。清朝末期に、封建的観念の影響を受けて、中
文化が形成されたのである。妓女と女学生のような女性は
国の伝統的女性は纏足して、胸を縛って、すごく苦しい状
社会で自由に出入りすることができた。妓女と女学生はフ
態にあった。徐々に、社会の構造が替わり、文明の意識が
ァッションのリーダーとなった。上衣下裳という服飾形態
現れて、女性は自己意識と美しさを表現し始めた。
の中でも、1870年代から80年代にかけて流行した服飾形
中国近現代の百年の間に、いろいろな変化があり、たく
態は京装(北京式)と呼ばれている。色調は赤色や黄金色
さんの重要な歴史事件があり、中国女性はなにを経験して、
を基調とし、流行による変化は少なかった。一般女性の服
今のような独立した現代女性に替わったのか。私はこれに
飾はデザインには差はなかったが、素材や色彩、モチーフ
関心があって、歴史的視点から、女性服飾文化の変遷を明
などに違いがあった。清末期の妓女の服飾は鮮やかで、し
らかにしたいと考える。本研究は女性服飾を研究対象とし、
だいに一般婦女が中国の絹を使用していたの対して、妓女
『申報』や『良友』『婦女時報』などの史料を用いて、清
は輸入の絹織物を好んで使用した。アクセサリーの多様性
朝末期、民国時期の社会的歴史的背景を着目し、服飾の色
は清朝末期の女性服飾の特徴の一つであった。清朝末期、
の変遷、形の変遷、デザインの変遷、アクセサリーと髪型
新都市のファッション、社会環境や女性観、価値観の変化
の変遷から女性服飾文化の変遷を論じたい。
によって女性服飾が変わっていった。
本論文は1840年アヘン戦争から、1949年中華人民共和
民国初期、新たな政権の中華民国政府が統治し始めた。
国の成立まで上海を中心にの服飾の変化を述べた。上海は
社会と政治が大きく変化をするたび、女性の服飾への批判
中国の近現代の服飾の流行の発源地と言っても過言では
の声が出てきた。民国初期の服飾は混乱していた。人々は
ない。1840年から1949年までの期間、社会、政治、文化、
新たな思想を持つようになったが、政治はまだ安定しなか
経済の面において、服飾の変化を比較したことによって、
ったし、人々も新たな政治に慣れていなかった。日本の影
いくつかのことを明らかにした。
響を受けて、女性は「文明新装(細くて長い衿の単衣と袷、
清朝末期の上海は、西洋文化の流入を契機として、商業
黒のロング・スカートをよく着用し、模様を施さず、警や
都市となった時期であった。上海の象徴であるバンド(外
腕輪、指輪などの飾りをつけない)」という服を着始めた。
灘)や南京路は、清末・民国初期に数々のネオンや広告に
辛亥革命によって、三百年近くに及ぶ辮髪の魎習がついに
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取り除かれ、煩わしい衣冠も廃止され、女性をはなはだし
・普及のスピードが非常に速かった。水泳は健康にいいス
く束縛する纏足などの習俗が次第に取り払われた。纏足が
ポーツとして流行し、当時の女性服は身体を出し部分が多
なくなったからこそ、ハイヒールが流行ができた。五四運
かったことのが、その最も良い証拠であった。
動は女性解放運動に深い影響をもたらして、思想界の知識
中国近現代(1840年∼1949年の間)に、社会状況の変
人は男性のような便利な短い髪型を提唱した。この時期の
化に伴って、服飾は大きな変化をした。本論文は1840年
女性の服は体(腕)を少しだけで見せるようになって、ス
から1949年までの服飾の飾り、色彩、デザインの面の変
カートも短くなった。西洋からの縁飾りとボタンの使用も
化について述べてきた。特別の歴史事件と風潮に関連して
始まった。女学生は西洋の教育を受けて、西洋人と同じよ
服飾の変化はどうのような特徴があったのかを明らかに
うな娯楽もし始め、社交界の基本知識も学んだ。西洋の流
した。婦女の生活から思想までの変化に従って、服飾の変
行をしたがって、女性服、特に女学生の服の長さと形は少
化も伴った。特に新たな思想と物が出現し続けた上海にお
しつつ変化した。無声映画が出てきたから、女性は映画女
いては、伝統的な女性から「都市新女性」への変化が、服
優のファッションをまねることができるようになった。こ
飾の面から見られた。
の時期西洋と東洋からの舶来晶に対して人気があったと
服飾文化は従来重要な文化の一つであった。服飾の変化
思われる。上海のさまざまな領域で女性の就職機会が開か
は各時代の社会状況を反映していた。特に女性の服飾の変
れていた。女性の職業は銀行員やコピーライター、秘書や
化は中国近現代の服飾変化の重要な一部分であった。女性
会計係、百貨店の店員や電話局のオペレーター、教員や医
の服飾は女性の身体を表現する言語であり、また政治社会
師、看護師や薬剤師、ラジオのアナウンサーなどであった。
に対抗したり、及び新たな思想を表現するために、まず使
また理容師や切符の販売員、女性用品店の店員や運転手な
われていた。服飾は女性にとって非常に重要なものであっ
どが女性の新しい職業として紹介されている。女性の職業
た。
の増加は女性の社会的地位が上がったと考えられる。
民国中・後期、伝統的に妓女が活躍していた社交の領域
に、女学生をはじめとする一般の女性が進出し、固有の社
主任指導教員 松田 吉郎
会的地位を獲得していったのである。そうして獲得された
指導教官 松田 吉郎
女性の地位は、新たな都市環境で従来の男女関係を変動さ
せていた。1930年は旗抱の輝く時代であった。この時期
の旗抱は外国の生地とデザインとを結合し、裾の長さ、縁
飾り、飾りなどにおいて変化し続けた。1930年代の旗抱
はほとんど体とぴったりとしたものであった。雑誌と新聞
に掲載された広告の多くが女性向けであり、女性は消費の
主体となっていた。広告や百貨店、新聞、雑誌が盛んにな
ったので、大衆は流行服との接点が大きくなったことが分
かった。この時期、カレンダーが出てきた。女性は雑誌や
新聞、カレンダーで掲載された服をまねして、着用し始め
た。雑誌や新聞と映画の女優が着た服と一般生活中の女性
が着た服はお互いに影響しあっていた。1940年代、服は
また旗抱を主とし、旗抱はいろいろな場面で幅広く使われ
た。便服と女学生の制服、工場の女工の制服とも旗袖であ
った。1940年の旗抱は主に膝下まで、簡潔なデザインで
あった。婦女はみな便利な旗抱を着るようになり、旗抱は
日常的な普通の服になった。
民国中・後期にはr時装」という概念が出てきた。r時装」
というのは、最新流行の服のことであった。この時期、雑
誌や新聞などでデサイソナーが描いたr時装画」は掲載さ
れると同時にファッションショーも行われた。服飾の流行
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