Q＆A―神経科学の素朴な疑問

Q ＆ A―神経科学の素朴な疑問
Q
A
体験したことと想像したことを脳はどのように区別して記憶するのですか？
脳は自らが体験した出来事
記憶回路が形成される．こうした回路から
の場所で報酬を得られるような実験箱の中
を，エピソード記憶として長期
は，実際には経験したことがないような連
にマウスを置くと，海馬では，現在地から
間保存する．神経回路が獲得し
合的な情報が生じることも可能となる．
将来の報酬にたどりつくまでの経路を含ん
た記憶を正しく想起するためには，特定の
また，海馬の入出力回路は，外界の一部
だ場所細胞の再生活動が頻繁に生じる7)．
投射経路と伝達方向を持った神経伝達が必
の情報から，正しい全体像を想起(パター
さらには，まったく経験したことがない未
要である．例えば，新しい視覚情報を記憶
ン補完)するためにも重要である．例えば， 来の出来事を表象する再生(プリプレイ)も
する際には，一次視覚野，下側頭葉前部(TE
私たちは用意された食材や調理音や匂いな
報告されている．マウスの睡眠中に活動し
野)から 36 野という順で活動が伝播してい
どの感覚情報から，完成する献立を予想で
ていた場所細胞の発火パターンは，その後
くが，獲得した記憶を想起する際には，36
きる．これは想像による情報の補完，すな
に経験する新規環境でみられる場所細胞の
野から TE 野へ逆行性に信号伝達が生じる
わち現実から想像への変換プロセスであ
発火パターンとよく一致している8)．これ
1)
ことが示されている ．このように，シス
る．しかし，海馬に損傷を受けた患者では， らの知見から，海馬回路で生じる神経細胞
テムレベルの観点からは，主に大脳新皮質
感覚情報や情動を手がかりとして記憶を想
の再生活動は，体験した出来事の記憶の想
を中心とした脳領域連関と，記憶想起の関
起するような課題の成績が低下することが
起や固定，さらには未体験の出来事を想像
わりが研究されてきた．こうした機構に加
わかっている3)．海馬の再帰型回路が正し
するための中心的な役割を担っている可能
えて，大脳辺縁系に位置する海馬は，大脳
く機能しない遺伝子改変マウスでは，四方
性が提唱されている．
新皮質と密な相互連絡を持ち，正しい記憶
の壁に存在する絵柄を手がかりとしたモリ
これまでに説明したように，私たちの過
の想起をサポートする脳領域である．
ス水迷路試験を行うと，絵柄の数が少なく
去の体験の想起や将来の出来事の想像には
なるにつれ，プラットフォームの位置を正
海馬が関与していることが考えられる．今
海馬は記憶や学習に中心的な役割を果た
し，この部位が損傷を受けると，適切な記
しく想起できなくなる4)．こうした結果は， 後，海馬と他の脳領域との連関にも注目さ
憶の形成ができなくなることはよく知られ
海馬 CA3 野の再帰型回路が，実際に受け
ている．セルアセンブリの考え方によれば， た感覚入力に対して，脳内部に保存された
海馬回路の記憶基盤は，神経細胞群の発火
記憶情報との照合や補完を行い，独自の情
活動および細胞間シナプス伝達の可塑的変
報出力を生じさせる脳領域であることを示
化にあると考えられている．近年の光遺伝
唆する．
学的手法の発展は，このような古典的仮説
最近では，海馬が新しい情報の想像にも
に，より直接的な実証を与えることが可能
重要な役割を持つ可能性が提唱されてい
になった．例えば，c-fos プロモーター下で
る．海馬に損傷を受けた患者は，健常者と
チャネルロドプシン 2 を発現する遺伝子改
比べて，未体験の出来事を想像することが
変マウスにおいて，恐怖記憶の獲得時に活
困難になる3)．実際に海馬では，こうした
動した神経細胞群を再び活性化させると，
機能を支持する神経回路の活動が発見され
記憶を想起した時と同様のすくみ反応を模
ている．例えば，海馬には特定の場所に対
2)
倣することができる ．こうした研究がさ
応して発火を示す場所細胞が存在するが，
らに進めば，脳回路に埋め込まれた実体験
行動時に活動したこれらの細胞は，静止時
の記憶痕跡と想起の関連について，より深
やノンレム睡眠時にも，特定のパターンを
い理解が進むものと期待される．
持って再び活動する．このような情報の表
しかし，海馬の役割は過去の記憶を正確
象は，過去に体験した情報の再生(リプレ
に想起するだけにとどまらない．海馬の亜
イ)であり，記憶の固定や想起に必要であ
領域の一つである CA3 野では神経細胞群
ると考えられている5)．ヒトの実験でも，
が密な再帰型回路を形成しており，この回
ある特定の映画を見ている時に活動した海
路は，実際には経験していない出来事の想
馬の細胞が，同じ映画を思い出している時
像に重要な役割を持つことが示唆されてい
に再び活動することがわかっている6)．
る．一番単純な例は，情報の連合である．
しかし近年，こうした再生活動は，過去
複数の記憶痕跡が回路内に埋め込まれる
の表象だけでなく，未体験の出来事の表象
と，それらの間に相互作用が生じ，新しい
にも重要であることがわかってきた．特定
1434
れ，記憶想起や想像のメカニズムのさらな
る解明が進められることが期待される．
文
献
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西村 侑也
にし むら
ゆう や
池谷 裕二
いけ がや
東京大学大学院薬学系
研究科薬品作用学
同 教授
ゆう じ
0289-0585／20／￥90／頁／JCOPY