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活動理論、トランスメディア、ハッキング

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活動理論、トランスメディア、ハッキング
平成18年度科学研究費補助金(基盤研究(B))研究成果報告書
「拡張的学習と学校システム開発の介入研究―活動理論的アプローチ―」
(課題番号:17330172)
2007年 3 月
活動理論、トランスメディア、ハッキング 49
49
山住 勝利 活動理論、トランスメディア、ハッキング
― 新たな活動理論第 4 世代へ ―
はじめに
ユーリア・エンゲストローム等によって主張される活動理論は、複数の
異なる活動システムの相互作用に注目し、それらシステム間の境界領域に
創成される創造的活動に理論的枠組みを与えようとするものだ。その理論
が実践に転換される時、研究者と彼らの研究対象となる組織とのパート
ナーシップは、たとえば次のような関係の上に築かれる。「研究者はデー
タと発見物を得る」
、
「組織は実践を検証し変化させるために新しいツール
や批評的な刺激を得る」(山住, 2006, p.5)。このような相互の便益に基づく関
係性は何も研究者と組織との間だけではなく、(活動理論によって捉えられる)
異なる活動システム間の協働においても見られるであろう。そしてもちろ
んこの互恵的な関係は、一方が他方を頼りとする依存もしくは服従関係で
ないわけであって、個々の活動システムの自律性に基づいている。だがし
かし、そのような提携の結果が、共通の利益ではなく、それぞれにとって
の利益の範囲にとどまるのであれば、協働する意味も個々の活動システム
という狭い範囲内で終始してしまうだろう。では共通の利益とは何か。
50 山住 勝利
活動理論が、レフ・ヴィゴツキーを代表とする第 ₁ 世代からアレクセ
イ・レオンチェフの第 ₂ 世代を経てエンゲストロームの第 3 世代へと歴史
的に展開してきたことを考慮すれば(山住, 2006を参照)、この理論がさらな
る発展に向かう可能性があることが予想される(たとえば第 3 世代は、現実に
存在する異なる活動システム間の協働について掘り下げるが、物理世界とネットワーク
世界との協働に関する考察にまだ着手していない。その考察は未来の第4世代が活動理
論の展開として担うべき問題であるのかもしれない)。それゆえ活動理論が複数の
活動システム間において実践に適用される時、それはある完成された理論
の適用とは異なり、むしろ実践とともに理論があらたに構築されていく側
面が残るだろう。つまり活動理論は、活動全体を統合する理論となる一
方、他方で境界領域での実践に補完されながら歴史的に(再)構築されて
いく。その生成過程の中で活動理論の可能性が顕在化するのだと考えられ
る。それでは活動理論に基づきながら実践が何を生み出すかといえば、そ
れは新しい認識をもたらす知識と新しい実践のパターンであるだろう。こ
れが複数の活動システムに共通する利益である。そしてまた、逆に、新し
い認識と実践のパターンは、活動理論の歴史的形成に寄与するとも考えら
れる。共通の利益は結果的に活動理論(第 ₄ 世代?)の構築にもつながって
いくだろうが、それは結局、活動理論は、活動システム間の境界領域にお
ける多様なシステムの協働によって全体像が逆に照射されるような理論だ
ということである。こうした活動理論のさらなる展望ついて以下で考察し
たい。
1 .理論と実践の相互依存関係
たとえば、インターンシップに見られるような学校と職場間の発達的プ
ロジェクトが活動理論に基づいておこなわれる場合、次のようなプロジェ
クトの特徴を挙げることができる。まず、学生に限らず、教師、専門家な
活動理論、トランスメディア、ハッキング 51
どを含めたチーム全体が学習者となる。それに伴って教師の役目も単なる
知識の伝達ではなくなる。次に、プロジェクトの目的は、旧知識の適用で
はなく、新しい知識と実践の創造である。そして、その創造はそれぞれの
専門分野・組織を越境する学習者たちの協働によっておこなわれ、越境の
場としての「学習スタジオ」(learning studio)が形成される(Konkola, et al. を
参照)
。
このような特徴を持つインターンシップが活動理論に基づいているの
は、自律した学習者たち相互の学び合いが、複数の活動システム間(=学
習スタジオ) での創造的活動を促進する点から明らかだろう。創造に結び
つく学び合いは、活動理論では「拡張的学習」(expansive learning)と呼ばれ
る(山住, 2004, p.71)。そして、こうした活動理論に基づく具体的な活動つ
まり拡張的学習は、逆に言えば、先に述べたように、学習活動を中心に据
えた人間活動の新たなデザインとはどういうものか、という問題を掘り下
げる活動理論を補い深化させる。
活動理論においては、理論が中心に位置しながらも実践と密接につな
がっている。この関係を図式化するなら、以下のようになるだろう。
ታ〣㧝
ታ〣㧞
ታ〣㧡
ᵴേ
ℂ⺰
ታ〣㧠
ታ〣㧟
52 山住 勝利
それぞれの実践は複数の活動システムの協働によって成立するのである
から、各実践からは多様な組織・人へとさらに枝葉をのばすことができる
だろう。だから活動理論の周りには、個々の活動システム同士が関係を取
り結ぶ平面が広がっているのである。いずれにせよ活動理論は、理論のレ
ベルにとどまらずに、常に実践との接続を理論の成立に不可欠の要因とす
る。
2 .トランスメディア的現象
活動理論は、実践に補完されることによって理論の流動性を示す一方
で、具体的な実践活動をその理論的枠組みの中に統合するという矛盾を抱
えているように見える。たとえば、ある団体のリーダーが、
「自分は中心
的指導者として団体をまとめてきたが、そうできたのもメンバーのおかげ
だった」といった類の台詞を述べることがあるが、しかし実際は、リー
ダーとしての権力がその団体の中で無言の前提となっている場合が多い。
活動理論では、その理論が具体的実践に対して―団体のリーダーのような
―強制力を持つことは考えにくい。活動理論が理論として成立しているの
は、おそらくその理論が―研究対象が「学習、科学、技術、芸術、医療・
健康、生産、企業・ビジネス、政治・行政、国際関係、平和、環境、情報、
サービス・福祉、人権、市民生活、NGO・NPOなど、人間の諸活動の
(山住, 2004, p.69)ことからもわかるように―包括的な流れ(コ
全般にわたる」
ンテクスト)を形成しているからではないだろうか。
ところで、ばらばらの諸事物全体を集約する中心的な存在が、諸事物に
よって補完されるという例は、メディア研究においても見られる。それ
は、
「トランスメディア」である。
トランスメディアは、マサチューセッツ工科大学比較メディア研究科の
ヘンリー・ジェンキンス教授が Convergence culture(2006)において提起す
活動理論、トランスメディア、ハッキング 53
る概念である。これまで映画や漫画やゲームといった文化創造物は個々に
完結したものとして捉えられてきたが、他のメディアと協合することに
よって全体が成立する、メディア横断型語り(transmedia storytelling)の手法
をとった作品が登場してきた。そうした新しい型のメディアを指してトラ
ンスメディアと言うのである。ジェンキンスが挙げる具体例は、映画『マ
『マ
トリックス』である。
『マトリックス』はシリーズ全 3 作(『マトリックス』、
トリックス・リローデッド』、
『マトリックス・レボリューションズ』
)から成る作品で、
観客は映画だけで楽しめるのだが、それ以外に関連するウェブ・コミック
スやコンピュータ・ゲームやアニメあるいはホームページなど、他のメ
ディアによって中心にあるオリジナル映画が深められるという仕掛けがほ
どこされている(たとえば、映画の中の登場人物による会話の文脈が飛躍している
箇所は、アニメを見ることによって理解されるなど。複数のメディアを横断した複雑な
構成は古典的なハリウッド映画ではなかったことである[Jenkins, 2006, pp.102⊖03]
)。
ただし、個々のメディアはそれぞれ独立しており、映画同様それだけで楽
しめる。乙部一郎は、ゲームと認知力の成長の関係を論じるスティーブ
ン・ジョンソンの『ダメなものは、タメになる』の解説で、トランスメディ
アについて次のように説明する。
映画『マトリックス』
、アニメDVD『アニマトリックス』
、漫画『マ
トリックス・コミックス』、ゲーム『エンター・ザ・マトリックス』
等が各メディア固有の特性と世界観で『マトリックス』の世界を描き、
補い合いながら、内容をより複雑で深いものにしていく。これらメ
ディアは互いに深く関連し合いながらマトリックスの完成度をより高
めていく。この場合、これらの新しいメディアを使いこなすには、各
メディアの間を行き来しながら、視聴者が自ら情報を集め、情報の
「補完」を行なうなどの積極的な活動が必要とされる。(ジョンソン,
2006, p.292)
54 山住 勝利
ジェンキンスは、トランスメディア的現象としての『マトリックス』を
集合知(collective intelligence)の時代のエンターテインメントと言う(Jenkins,
2006, p.95)
。
『マトリックス』は、その周りを囲む多様なメディアの参加者
が言わば触媒(cultural activator)となって完成形へ導かれていく。たとえば、
コンピュータ・ゲームもそうだが、ネット上での『マトリックス』を巡る
議論などは、新たな集合知の時代のエンターテインメントを理解するのに
わかりやすい例と言えるだろう。
ここで注意すべきことは、
『マトリックス』が、トランスメディア的現
象といっても、あくまで集合知の中心に位置するということである。
深みのある創造的な集合知というのはたいてい成立しがたいものであ
る。それは集団の知識を集約するシステムが機能しがたいからだ。ジェー
ムズ・スロウィッキーは、『
「みんなの意見」は案外正しい』(2006)で、創
造的な集合知を生み出す賢い集団の四つの要件を提示している(p.28)。
(1)
どのようなものであれ意見の多様性。
(2)他人の意見に左右されない独立
性。
(3)独立した個人が同じ課題に分散したアプローチをとる分散性。(4)
個々の意見を集団の判断に集約する集約性。これらの中でもっとも重要な
要件はおそらく集約性だろう。たとえ集団のメンバーが多様な意見を独立
して提出しても、それをまとめあげなければ無秩序に陥ってしまうから
だ。集約のメカニズムの具体例としてスロウィッキーが挙げているのは、
フリーOSのリナックスにおけるリーヌス・トーバルズを中心としたグ
ループ、市場経済における価格などである(p.90)。ちなみに、OS開発の
中心としてのトーバルズの役割について、フリーソフト・プログラマのエ
リック・S・レイモンドはインタビューで、「リーヌスがやってるのはそ
れが他のところとぶつからないか、とか、将来的に変な制約を持ち込まな
いか、とかそういうところのチェックでしかない。かれが支配してるわけ
ではぜんぜんないのだ。調停役っていうのがいちばん適切だと思う」と述
べている(川崎, 1999, p.222)。少なくともリナックスにおいては、集約のメ
活動理論、トランスメディア、ハッキング 55
カニズムはトップダウン式の管理体制に拠るわけではない。
では『マトリックス』の場合はどうか。
トランスメディア現象としての『マトリックス』を集約するのは、その
中心にあるオリジナル映画であるだろう。映画『マトリックス』が異なる
メディアへの拡張を許容する一方で(実際は製作総指揮をとるウォシャウスキー
兄弟が許容するのだろうが)
、それらは完全に分散することはなく、
『マトリッ
クス』のもとに集約される。それは映画が、異なるメディアによる表現も
包括する「マトリックス」世界という大きなコンテクストを形成している
がゆえである。その集約性は、上からの命令ではなく、リナックスと同じ
ように、中心からのゆるい調停機能によって保たれているのではないだろ
うか。
3 .関係を生むハッキングそしてノットワーキング
ここで話を活動理論にもどそう。中心部が周辺部に補完されつつも、大
きなコンテクストを形成することによって全体を統合するトランスメディ
ア的現象は、『マトリックス』より具体性に欠けるとはいえ、上述したよ
うに活動理論にも見られる現象である。たとえば、活動理論に基づく活動
は、異なる複数の病院の間に結び目を作り、重複疾病患者のケアを新たに
デザインする。そうした具体的な活動のデザインの枠組み/文脈 /中心とし
て活動理論が実践を支え、逆に一連の実践が活動理論を補うのである。
そしてまた、これまでのトランスメディア的現象の概観から、活動理論
の重要な指向性が明確化するように思われる。トランスメディア的現象と
しての『マトリックス』が異なる複数のメディア間の関係を作り上げたの
と同じく、活動理論は―その実践が所属組織を越境する学習者の「学習ス
タジオ」を形成することからもわかるように―常に複数の異なる事物の結
び目作りを指向するのである。そして活動理論は、その結び目によって抽
56 山住 勝利
象化された活動世界における新たな実践のパターンを創出し、枠組みを与
えるのである。
ところで、マッケンジー・ワークは、
『ハッカー宣言』の中で、諸事物
間の関係の構築を抽象化と言い、そのような抽象化を「ハックする」こと
と捉える。
ハックするとは抽象化するということだ。そして抽象化するとは異な
る事物が関係を結んでいく平面を産み出すことだ。抽象化とは名前と
数字、またそれらの事物の位置と軌跡とを産み出すことなのであり、
諸事物が関与する場所の中にさまざまな関係を生み出し、諸関係の関
係を生み出すことなのだ。そして共有された最終目的をともなう一つ
の平面の上に配置された諸構成要素の機能分化こそがハッカーの達成
するものなのである。(ワーク, 2005, p.49)
この引用からわかるように、ワークは
「ハック」
という語を、コンピュー
タのプログラムに不正侵入するというような意味では用いていない(『ハッ
カー宣言』全体の主張については白田秀彰による「
『ハッカー宣言』の誤解説」http://
orion.mt.tama.hosei.ac.jp/hideaki/hackermanifesto.htmを参照のこと)
。より広義に、関
係性を産み出すことと捉えている。それゆえハッカーというのも、コン
ピュータに精通した者だけでなく、抽象化を通して創造行為をする者とい
1
うふうに広い意味で使われる 。
抽象性は発見されるかもしれないし、生み出されるかもしれない。あ
るいは、それは物質的なものであるかもしれないし、非物質的なもの
であるかもしれない。しかし抽象化とは、すべてのハッキングが生み
出し肯定するものであるのだ。抽象化を行うということは、プランを
構築するということである。別様に異なるものや関係ないものごと
活動理論、トランスメディア、ハッキング 57
が、多数の可能な関係性の中へと投げ込まれるという、そうしたプラ
ンを立てることなのだ。(pp.8⊖9)
このワークの言葉は、これまでわれわれが考察してきた活動理論の説明
にも十分使えるものである。すなわち、活動理論は、「別様に異なるもの
や関係ないものごとが、多数の可能な関係性の中へと投げ込まれるとい
2
う、そうしたプランを立てる」理論のことだと 。すでに述べたように、
活動理論は、複数の異なる活動システムの間をつなぎ、新たな認識をもた
らす知識と実践のパターンを創る、そうしたプランを立てる。ただし活動
理論では、プランの立案を「ハックする」ではなく「ノットワークする」
(knotworking)と言うだろう。つまり、複数の活動システムの間で「結び糸
細工する」のである。そして注意すべきことは、「ノットワーキングの中
では、権威やコントロールの固定された単一の中心はない」(山住, 2006,
p.12)ことである。だから、活動理論/ノットワーキングにプランを強制
する支配的な力はない。それはフィンランドのハッカー、リーヌス・トー
バルズによるリナックスの場合と同じだろう。言い換えれば、活動理論/
ノットワーキングは、活動システム間で結び糸細工を行い、関係の平面を
作り出すようハッキングするのである。しかし、活動理論に上述の意味で
のハッカー的要素が窺い知れるとしても、活動理論においてノットワーキ
ングはどのように行なわれるのだろうか。
4 .ブリコルールのハッカー
山形浩生は、
「ハック」(hack)という語をハッカー社会での特殊な意味
合いではなく、日常会話の文脈で現れる意味から説明する。山形による
と、
「切り刻む」という荒い意味合いの hack という言葉は、肯定的なニュ
アンスでは、
「非常にラフながら期待通りの機能や効果を挙げるものであ
58 山住 勝利
り、それをお手軽にまとめる、という意味」(山形, 2001, p.129)になる。そ
れがハッカーの世界で使われると、
「ラフだけどアイデア一発で賢く手っ
取り早く成果を出してくれちゃったね、やるじゃん」(p.127)という意味
になるという(ちなみに山形はワークの『ハッカー宣言』を「ダメな本」という[http://
cruel.org/other/smoking.html])
。
ハックという語のこうした肯定的ニュアンスから、広義のハッカーがい
わゆる「ブリコルール」(器用人)であることがわかる。レヴィ=ストロー
スによれば、ブリコルールは、身近にあるもちあわせの道具や材料を使っ
て多様な仕事ができる(レヴィ=ストロース, 1976, p.23)。しかしブリコラー
ジュ(器用仕事)を行なうには、対象とする道具や材料の「潜在的有用性」
(p.23)を見抜かなければならない。だから、単にもちあわせの物を寄せ集
めるだけではブリコラージュもハッキングも成立しないだろう。ハッカー
が「お手軽にまとめる」というのは、実は誰にとってもお手軽というわけ
ではないということだ。
繰り返せば、活動理論/ノットワーキングは、周りに存在する活動シス
テムを用いて、複数の活動システム間の関係の平面を創り出す。それは新
しく活動システムを構築するのではなく、既存のものを対象にする、言わ
ばブリコラージュである。そこから新たな知識と実践のパターンが産み出
されるのである。しかしエンゲストロームは、ノットワーキングは「捕え
どころのない即興的現象」だと言う(Engeström, 2006, p.7)。おそらくそれは、
ブリコラージュのようにノットワーキングが、所与の事物(組織)間の関
係を前提にせず、また単なる事物の寄せ集めでもなく、事物の潜在的有用
性を浮上させる新たな組み合わせを行なうものだからだろうが、その異種
結合の活動には、活動理論第 ₄ 世代が考えるべきノットワーキングの問題
点がある。
活動理論、トランスメディア、ハッキング 59
5 .活動理論第 4 世代の課題としてのノットワーキング倫理
以下のようにノットワーキング解釈する時、なにが考えるべき問題とし
て残るだろうか。
また、それ[ノットワーキング]は活動をコントロールする単一の中
心が不在であることによっても特徴づけられる。それゆえ、注目され
ねばならないのは、組織やチームが決してトップダウンではないよう
な意思決定を生みだすことである。いいかえれば、「ノットワーキン
グ」は、生活活動の現場に分散している人びとの多様な「声」(ものの
見方や立場、生活様式)に応答し、それらを共有していくことをとおし
て、「草の根」からの集団的な意味生成を実行していくことなのであ
る。この意味において、越境への「ノットワーキング」とは、私たち
の生を異種結合する行為のことだといえるだろう。(山住, 2004, p.104)
活動理論は、活動の権威的な中心ではないが、全体をまとめている。こ
のことにつてはこれまで述べてきたとおりである。それゆえ活動理論が具
体的な活動に介入する場合、
「生活活動の現場に分散している人びと」は、
意識的にせよ無意識的にせよ、活動理論によってゆるく統合されるだろ
う。ここで問題なのは、活動理論/ノットワーキングによる異種結合が、
はたして各活動システムの潜在的有用性を開花させうるのかどうかであ
る。まったく無作為の異種結合が即興的に活動システムの潜在的有用性を
示すこともあるかもしれないが、活動理論がどのような結合が「いい」の
かアレンジする必要があるのではないだろうか。それは、活動理論第 ₄ 世
代が考えるべき倫理の問題である。
ここで言う倫理は道徳のことではない。活動理論が垂直的な上からの権
威・命令を否定する理論である限り、超越的な価値に基づく道徳判断は問
60 山住 勝利
題にならない。道徳的倫理ではなく、
「いい・わるい」を巡るスピノザ的
な倫理である。ジル・ドゥルーズは、
『スピノザ』の中で次のように書く
いい・わるいは、第一にまずこの私たちに合うもの・合わないものと
いう客体的な、しかしあくまでも相対的で部分的な意味をもってい
る。また、そこからいい・わるいはその第二の意味として、当の人間
自身の生の二つのタイプ、二つのありようを形容する主体的・様態的
4
4
な意味をもつようになる。いい(自由である、思慮分別がある、強さをもつ)
といわれるのは、自分のできるかぎり出会いを組織立て、みずからの
本性と合うものと結び、みずからの構成関係がそれと結合可能な他の
構成関係と組み合わさるよう努めることによって、自己の力能を増大
させようとする人間だろう。
〈よさ〉とは活力、力能の問題であり、
各個の力能をどうやってひとつに合わせてゆくかという問題だからで
4
4
4
ある。わるい(隷従している、弱い、分別がない)といわれるのは、ただ
行き当たりばったりに出会いを生き、その結果を受けとめるばかり
で、それが裏目にでたり自身の無力を思い知らされるたびに、嘆いた
りうらんだりしている人間だろう。いつも強引に、あるいは小手先で
なんとか切り抜けられると考えて、相手もかまわず、それがどんな構
成関係のもとにあるかもおかまいなしに、ただやむくもに出会いをか
さねていては、どうしていい出会いを多くし、わるい出会いを少なく
してゆくことができるだろうか。(ドゥルーズ, 1994, pp.37⊖38)
少し長い引用になったのは、本論の結論がほとんどこの引用で言い尽く
されているように思えるからだ。活動理論は、その方向性として、多種多
様の活動システムを結び合わせ、境界領域=学習スタジオでの人間の創造
活動を促進するだろうが、恣意的な異種結合はわるい出会いに陥る危険性
がある。どのような異種結合によって個々の活動システムの潜在的力能が
活動理論、トランスメディア、ハッキング 61
高まり、全体としてまとまるのか十分に考慮しなければ、活動理論を実践
に動かすノットワーキングが各活動システムの潜在的有用性を開花させう
るのか心許ないまま終わってしまうだろう。そうしたノットワーキングに
おける倫理を深く考えることが活動理論をさらに展開する上での活動理論
第 ₄ 世代の課題になると思われる。
注
₁ ちなみにワークのいうハッカーは教育に対して「教育は名声と羨望の市場
として組織される」
(ワーク , 2005, p.32)がゆえ否定的であるが、『ハッカー
宣言』もある意味で(学校)教育の産物だと考えられるのだから、教育は常
に修正されこそすれ、否定されるものではないだろう。
₂ 活動理論が『ハッカー宣言』のように教育を否定することはないが。
引用・参考文献
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practice: Toward the next generation. Center for Human Activity Theory, Kansai
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New York University Press.
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ビやゲームは頭を良くしている』翔泳社 .
川崎和哉編(1999).『オープンソース・ワールド』翔泳社 .
Konkola, R., Tuomi-Gröhn, T., Lambert, P. & Ludvigsen, S. Promoting leaning and
transfer between school and workplace. Manuscript.
レヴィ=ストロース , C .(1976). 大橋保夫訳『野生の思考』みすず書房 .
スロウィッキー, J.(2006)
. 小高尚子訳『「みんなの意見」
は案外正しい』角川書店.
ワーク , M .(2005). 金田智之訳『ハッカー宣言』河出書房新社 .
山形浩生(2001).『山形道場:社会ケイザイの迷妄に喝!』イースト・プレス .
62 山住 勝利
山住勝広(2004).『活動理論と教育実践の創造:拡張的学習へ』関西大学出版部 .
山住勝広(2006).「社会変化の担い手としての学校―学校と学校外のアクター間
での生産的協働のモデル―」『 CHAT Technical Reports No.02:社会変化の
中の学校』関西大学人間活動理論研究センター , 1⊖18.
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