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ワンダフルワールド通信No.46 2006年3月発行 こちら

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ワンダフルワールド通信No.46 2006年3月発行 こちら
日本ルイ・アームストロング協会
ワンダフルワールド通信 No.46
日本ルイ・アームストロング協会 (ワンダフルワールド・ジャズ・ファウンデーション)
〒279-0011 浦安市美浜 4-7-15
WJF 事務局 ℡047-351-4464
ホームペ-ジ
2006 年 3 月発行
FAX047-355-1004
http://users.tapstep.net/saints/
発行人 代表 外山喜雄 編集長 山口義憲 編集 友永麻里子
日本ルイ・アームストロング協会ニューオリンズ募金に、
全国から寄せられた援助金は700万円を超えました!
ハリケーン・カトリーナから半年
ニューオリンズの復興まで、まだ長い道のりが!!
2005 年8月 29 日、私たちが心から愛するニュー
まだ衝撃的とも言える悲惨な状態にあるジャズの
オリンズの街がハリケーン・カトリーナによって壊
故郷の現状を見て、アメリカの抱える内面的な矛盾
滅的な被害を被ってから、早くも半年が経過した。
を、世界に知らせる結果となってしまった。
セカンドラインのダンスで必ず手にするニューオ
ジャズとサッチモの故郷の被災を知った日本全
リンズ名物のジャズ傘。この傘を作っているジャッ
国のジャズファン、ニューオリンズ・ファン、サッ
キーさんは、こんな手紙をくれた。
チモファン、プロ、アマチュアのミュージシャンの
“カトリーナとリタ、二つのハリケーンと洪水で
皆さん、そし日本ルイ・アームストロング協会会員
街から追い出されて、もう半年…まるで昨日の事の
の皆様からは、多くの暖かい援助が寄せられました。
よう…。前にもお知らせしたように中心部のフレン
その総額は 3 月 1 日現在で 700 万円を超えました。
チ・クオーターは大丈夫でしたが、他の地域はまだ
また、楽器を亡くしたミュージシャンにと送ってい
まだ戦場のような有様です。
ただいた楽器は多くのプロ用の楽器を含む 26 点。
一番深刻なのは、気持ちのひどい落ち込みが始ま
この様な壊滅的な状況には、本当に為すすべがないと
っていること…ほとんど被害をうけなかった人た
言うのが実感ですが、皆様からのハートは、必ずや日
ちも同様です。
本とアメリカ、日本とニューオリンズとの気持ちの通
今度この街がカムバックするときには、前よりも
い合いとなって、永遠に記憶される事でしょう。
ずっと素晴らしい、ハッピーな、そして、親切な街
になって欲しい、と夢見ることだけが、私たち全員
の希望の光なのです。
”
折りしも2月 28 日、ニューオリンズは、ハリケ
ーン被災後初のカーニバル、マルディ・グラの日を
迎えた、例年よりも規模は縮小されたものの、明る
く元気な祭と観光客、そして住民の姿がジャズ・ス
トリート、バーボン・ストリートから全世界に発信
されていた。しかし反面、すっかり復興から取り残
されてしまった貧困黒人層が多く住む地域の惨状
1月15日、ニューオリンズ復活パレードでサッチモ公園のある
ランパート通りを行くリバース・ブラスバンド。
も、お茶の間のテレビに映し出され、被災後半年、
1
私たち NOMHRF 基金はニューオリンズの音楽家達 775
ニューオリンズ
プリザベーション・ホールから
人に 46 万ドルの援助をすることが出来ました。
皆様、お願いです。是非実際にニューオリンズへい
らっしゃって下さい。そしてご自分で、この街の不滅
ジャズの故郷がマルディ・グラの祭に沸く2月末、
プリザベーション・ホールの NOMHRF(ニューオリンズ
のスピリットと、まだこれから私たちが直面しなけれ
音楽家ハリケーン救済基金)から手紙を頂きました。
ばならない巨大な課題を、実際に体験して下さい。朽
『ハリケーンから6ヶ月、マルディ・グラのお祭り
ちて行く空き家と隣に建つ修復された家が交互に建
も始まり、ニューオリンズはその復活を証明しました。
つ通りを…或るものは息を吹き返し、また、或るもの
しかし、この街のユニークな文化を街に再び復活させ
は未だに救援を待っています。
るのは、私たちのようなジャズのサポーターの役割で
私たちの多くの人々への援助を可能にしていただ
す。カトリーナの壊滅的な被害の傷はあまりにも広範
き感謝します。そして、今後も引き続き関心をお寄せ
囲で深いも
いただくようお願いします。
』
のでした。
NOMHRF(ニューオリンズ音楽家ハリケーン救済基金)
半年経過し
代表責任者 ジョーダン・ハーシュ
た現在も街
の多くの部
分が空っぽ
頑張れニューオリンズ!
で、暗黒に
~本場のサッチモ祭に参加する
包まれてい
ニューオリンズ支援ツアーに是非ご参加下さい!~
ます。
『プリザベーション・ホールからの手紙は、こ
う世界に呼びかけています。
“皆さんの目でニュ
ーオリンズの実態を見て下さい”と!!』
ジャズを愛する皆さん、是非ご参加下さい。
皆さんの手で、楽器をニューオリンズに届けま
しょう!!
2006 ニューオリンズ・ニューヨーク
サッチモの旅!!
・ニューオリンズ5泊
サッチモサマーフェスト 2006
(今年もジミー・スミス(DRMS)さんが参加
の予定です。)
・ニューヨーク4泊
サッチモハウス記念館とサッチモのお墓を
訪ねます!観光もタップリ!
期間:8 月 2 日(水)~12 日(土)
(ニューオリンズ 5 泊、
ニューヨーク 4 泊で、9 泊 11 日)
旅行費用:未定
定員:25 名
取扱い旅行社:日通旅行
お問合せ・お申込み:
日本ルイ・アームストロング協会 外山まで
TEL047-351-4464
FAX047-355-1004
嵐の前の
ニューオリ
ンズ。そこ
は音楽に満
ち満ちた地
域社会、ネ
イバーフッドを持つ市でした。セントラル・シティー
のマルディグラ・インデアン、トレメ地区の多くのブ
ラスバンド、ナインス・ウォード(第九地区)のエレ
クトリック・ロック…その音楽全てが、地域社会のコ
ミュニティーからから生まれたものでした。
そして今、その地域社会を復活させるのも音楽の力
なのです。
皆様のご援助を頂き、私たちが愛するミュージシャ
ン達は生活を再建することが出来ます。そして、彼等
のアートこそがニューオリンズの街の経済、スピリチ
ュアル両面での復興に拍車をかけることが出来るの
です。復興には何年もの年月が必要でしょう。しかし
それは確実に進行しています。毎日新しいビジネスが
[email protected]
再開し、新しい家が修復されています。現在までに、
2
ジャズ・ファウンデーション・オブ・アメリカのウェンデ
ィー・オクセンホーンさんからの感謝状。ニューオリンズ
に楽器を届ける活動は、日本の新聞でも大きく報道された。
リンカーンセンター,ウィントン・マルサリス氏から
届いた感謝状
ジャズ・ファウンデーション・オブ・アメリカのハリケー
ン支援活動のもようを伝える同会会報
全国から暖かいご寄付が有り難う御座いました。
ジャズミュージシャンの為にという基金の趣旨に基づき、ニューオリ
ンズのミュージシャンを支援している次の団体に、皆様の善意の
お気持ちとともに、義捐金として送らせていただきました。
プ リ ザ ベ ー シ ョ ン ・ ホ ー ル New Orleans Musicians
Hurricane Relief Fund 20,000 ドル (ニューオリンズの伝
統的ジャズを演奏する世界的に有名なホールの、ミュージシャン
支援基金。)
リンカーセンター Higher Ground Hurricane Relief
Fund 10,000 ドル (リンカーン・センターのCEOデレック・ゴード
ン氏が代表を務め、ウィントン・マルサリスが音楽監督を務めるハ
リケーン被災ミュージシャン支援の基金。)
Jazz Foundation of America、 Help New Orleans
Musicians Now に 10,000 ドル (ハリケーンで楽器を失
ったミュージシャンに楽器を贈る活動を続けている。 ジャズ史家ナ
ット・ヘントフ、ピアニスト、ビリー・テイラー 、元コロンビアレコードのプ
ロデューサー、ジョージ・アバキアン氏もアドバイザリー・ボードに加
わっている)
現在も、多くのご寄付が寄せられ続けております。今後もニュー
オリンズの音楽家達支援のために、役立てさせていただきます。
プリザベーションホール,ハリケーン募金から届いた感謝
状,その後新たに1万ドルを追加寄付しています。
3
禁酒法時代のシカゴ、NYへみんなで“タイムトラベル”!!
第2回
外山喜雄・恵子がご案内するサッチモワールド
サッチモの黄金時代(その1)1923~1928 文:小泉良夫
外山夫妻のデキシーセインツ結成 30 年を記念し
写真:遠藤益夫
ール黒人キャスト映画『ハレルヤ』が映し出される。
て始まった“サッチモとジャズ史の旅”。昨年に続
何か狭くてごちゃごちゃした酒場に満員の客。むせ
いて今回は第 2 回。まだちょっぴりお正月気分も残
返るようなタバコの煙の中で女性歌手、ニナ・メ
る 1 月 18 日、御茶ノ水のアテネフランセ文化セン
イ・マッキンニーがカーチス・モズビー楽団の演奏
ターで開催された。今回はサッチモが黄金時代を迎
で歌い、タップを踊りまくっている。いやあ煙がす
えた 1923 年から 1928 年の名演をたどるタイムトラ
ごいなあ、霞んでるよ。
ベル。タイムマシンは約 160 人の“乗客”で超満員。
マシンはシカゴ、リンカーン・ガーデンのキン
世界大恐慌、禁酒法による暗黒の時代に入って「The
グ・オリバー楽団とサッチモの共演現場に到着した。
Roaring Twenties(ローリング・トゥエンティーズ
1923 年 4 月 6 日、処女録音として知られる「Snake
=狂乱の’20 年代)
」と呼ばれたアメリカへ飛んだ。
Rag」が演奏されている。外山喜雄(tp)、恵子(vj)、
シカゴ騒然、NY激震…時空間をスリップして、マ
藤 崎 羊 一 (b,tuba) 、 粉 川 忠 範 (tb) 、 鈴 木 孝 二
シンはそんな “ジャズと狂騒の街”の真っただ中
(cl,sax)、ジミー・スミス(ds)、それに米国から来
に我々を運んでいったのでした。さて、サッチモは
てくれたクリス・カラブリス(p)、キング・オリバ
どこだ?
ー役の下間哲(tp)=前回は外山さんが一人二役で
サッチモがホット5で使った
同じモデルのトランペットで
1926年にタイムスリップ
ヘトヘトだったもんなあ=の面々がこれを熱演。
午後 6 時半、マシン発進! 軽妙なトークでお馴
染みのガイド役は山口義憲さん(「ワンダフルワー
ルド通信」編集長)。それにこの旅を監修していた
だいているジャズ評論家、瀬川昌久氏が解説者とし
て乗り込んでくれている。機長・ナビゲーターは当
然、外山夫妻。「私たちが学生時代に出会ったルイ
の黄金時代の演奏が、1967 年(昭和 42 年)12 月、
私たちをニューオリンズへ飛び出たせたのです。二
人でサッチモの若き日の時代をご案内できること
このキング・オリバー楽団でサッチモは恋をする。
は、とっても嬉しいことです」と恵子さんのアナウ
ンス。恩師キング・オリバーの楽団の第 2 コルネッ
お相手はピアノのリル・ハーデン。大学を出ていて
ト奏者として 1923 年、ニューオリンズからシカゴ
音楽教育もばっちりの彼女は、サッチモに譜面を書
へ上った青年サッチモ(21 歳から 27 歳)を追う。
いてあげたりしているうち、二人は恋に落ちて結婚。
サッチモはしっかりリルの尻に敷かれる。「うん、
瀬川昌久さんの解説、
山口さんの
トークでマシン発進
スクリーンには当時を彷彿とさせる 1929 年のオ
うちと同じです」とサッチモ外山(笑い)。曲目は
このリルとルイ合作の「Chimes Blues」に移る。こ
の当時、キング・オリバーが手にしていたのと同じ
モデル、1915 年のヨーク社製のコルネットを外山
さんが持ってきて、キング下間がこれを高らかに吹
き鳴らす。
4
ここで WJF 会員の松本圭市さんからのコルネッ
る。田辺さんは、ソプラノ、アルト、テナー、クラ
トの寄贈が紹介された。松本さんからの楽器の寄贈
リネットと、この日“4 刀流”でしたよ。
はこれが 2 度目とか。ありがとうございます。…と
いよいよシカゴへ戻ったサッチモのホットファ
やっているうちにマシンは NY へきていた。
イブ時代。キッド・オリー作曲の「Muskrat Ramble」。
NY のフレッチャー・ヘンダーソンからの誘いを
スクリーンには、1968 年(昭和 43 年)外山夫妻が
受けて、サッチモは NY へ飛んでいたのだ。最初は
ハワイで感激の対面となったオリーとのショット、
田舎者とバカにされていたそうだが、彼のソロを聴
隠し録り!?のオリーの肉声も披露される。
いて誰もがとりこにされた。「アンサンブルから次
そ し て 、 ス キ ャ ッ ト 誕 生 の 瞬 間 、「 Heebie
第にソロが注目を集めるようになっていきました。
Jeebies」の歴史的な現場へ。サッチモが楽譜を落
デューク・エリントンにも影響を及ぼしていくんで
として、思わずスキャットしてしまった場面が何と
す。このあたりのサッチモはもっと評価されてもい
もコミカルに再現されていく。
いでしょうね」と瀬川さん。
ここで興味深いエピソード。ドラムのマイクのお
ここでアルト・サックス(!)に田辺信男さん、
父さんは NY で活躍し、ジャズメンとも交流してい
テナー・サックスには WJF“アイドル・スイングガ
た抽象画家。お母さんは著名なファッション写真家
ール”の三宅咲子さんが若き日、20 歳のコールマ
だったそうで、お父さんには次の曲名と同じ
ン・ホーキンス役で加わり、ソロまで披露した
「Cornet Chop Suey」という作品がある。お母さん
「Mandy Make Up Your Mind」に入る。次の「Sugar
はサッチモと子供たちの写真を撮った傑作も残し
Foot Stomp」では、田辺信男、鈴木孝二、三宅咲子
ている。それらがスクリーンに映し出され、マイク
のクラリネット三重奏も。
の子供時代の写真まで出てきた。マイクの名付け親
日本を代表するミュージシャン
によるクラシックジャズの再現。
日本では画期的な試み
はサッチモの親友ドラマー、ズティー・シングルト
ンと聞いて、みんな「へぇー」と時ならぬ“トリビ
アの泉”にびっくり。
もう一つ、外山さんが取り出してきたのは、この
ホットファイブ時代のサッチモの古びたラッパ。そ
の実物を外山さんがオークションで競り落として
!!
きたという。家計簿を見て、リル恵子が渋い顔をし
たというのも分ります。ボロボロで音が漏れていた
管を、別の管でつなぎ合わせたり、あれこれ修理し
この 1924、25 年の NY 時代にサッチモと、“ブル
たりしてやっと音が出るようにした。これを吹かな
ースの女帝”といわれたベッシー・スミスが共演、
くて何がサッチモ外山だ!
ベッシーは足踏みオルガンとコルネットの伴奏だ
第一部の最後は「Struttin’With Some Berbeque
けで歌っている。それを再現するという。ン!?その
(バーベキュー料理で踊ろう)
」。米バンジョーの名
ボーカル役は誰?スミス…スミス、おー!ジミー・
手、リー・フロイドさんが飛び入りで参加、熱演を
スミスがいた!!ジミーが最高にブルージーなフィ
締めくくった。
ーリングで「St. Louis Blues」を歌ってくれた。
第二部の頭では、ジャズの最初のアルバムとなっ
ドラムはジミーからマイク・レズニコフさんに代
たサッチモの SP アルバムが登場した。これを作っ
わり「Cake Waking Babies From Home」。田辺さん
た偉大なプロデューサーがジョージ・アバキアン氏。
がソプラノサッ
我々のニューオリンズ・ツアーにはいつも駆けつけ
クスでシドニ
てくれている。もうこの会報に何度も登場していた
ー・ベッシエ役を
だき、会員の皆さんにもお馴染みの人。WJF 会員で
演じ
SP コレクターの山本俊平さんがそのアルバムその
5
楽しいジミーさんのケイクウォーク
ものを会場に持ってきてくれた。それを私(小泉)
忘れてた…終演後の外山さんの一言。「あー、くた
が家から担いできた“家宝”の蓄音機で掛けようと
びれたー!」
。
いう試みです。戦前から我が家にあって疎開先では
次回のタイムトラベルは 1929~34 年、サッチモ
軍歌と広沢虎造ばかり鳴らされていた蓄音機も、サ
を追って NY からヨーロッパへと廻ります。お楽し
ッチモの「Potato Head Blues」が掛かったときに
みに。
は、目を潤ませていましたよ。
この SP とまったく同じスタイルでセインツ+1
主催:日本ルイ・アームストロング協会
の“ホットセブン”が挑戦。さらに 1927 年吹き込
後援:スイングジャーナル
みの「12th Street Rag(12 番街のラグ)」からホッ
協力:ノラ・ミュージック
トファイブの「Fireworks(花火)」へと進む。
「West
協賛:明治乳業(株)
、
End Blues」では、ハリケーンの大被害を受けた被
早稲田大学ニューオルリンズ・
災地ウエストエンドの惨状も映し出されて、名曲の
ジャズクラブ稲門会
故郷に思いを馳せた。皆様の温かいご支援にも感
謝!感謝!支援カンパはまだまだ続けていますよ。
卒論はアメリカ大衆文化論
さて、サッチモはこのころピアニスト、アール・
~みなみらんぼうさん~
ハインズと出会う。この二人の天才ミュージシャン
日本経済新聞のコラム“みなみらんぼうのス
はお互いに影響しあいながら、音楽的にも大きく成
ローライフ”に第一回例会を“サッチモ少年の
長していく。では、サッチモとハインズのデュオで
聴いたジャズ”として大変好意的に取り上げて
…いや外山さんとクリスのデュオで「Weather Bird
下さったみなみさん、今回の例会にもお越し下
Rag」。さらにクリスのピアノソロで「Squeeze Me」
さいました。特別にショートスピーチを二部の
と続く。
最初にお願いしました。突然のお願いにもかか
お次は、サッチ
わらず、みなみさんにはこころよくお引き受け
モの代表作の一つ
いただき、下記のようなスピーチ(大意)をし
といわれ、シカゴ
ていただきました。
時代最後の録音、
1928 年 の 「 Tight
Like This」。司会
「大学で社会学専攻だったので、卒論のテー
アメリカからクリスさん。
アール・ハインズを好演。
マはアメリカ大衆文化論でした。そこでアメリ
カの大衆文化の大きな柱のひとつであるジャ
の山口さんが「外山さん、この曲名、どういう意味
ズ、特に古い時代のジャズを聴きまくりまし
ですか」と聞く。外山さん「さあ、分りません…そ
た。本日、ホット5やホット7などの演奏に接
う、ジミーさんに聞いてみましょう。ジミー!」。
し、当時を懐かしく思い出しました」
これには、ジミーさん、目をまん丸にして「な、何
みなみさん、ありがとうございました。
でそんなこと聞くの?答えられるわけがないでし
(山口)
ょう」とか。イミシンなんでしょうねェ。曲は、低
シャウトまで入る!
クライマックスに達したところで!?フィナーレ
は出演者全員によるジャムセッション、アール・ハ
インズ作曲「A Monday Date」。タイムマシンは熱演
に乗って 1928 年から無事、2006 年 1 月 18 日午後 9
時の御茶ノ水に戻ってきました。♪月日が経つのも
6
卒論は、瀬川先生の著書等を『大
幅に』引用させていただきまし
た。とみなみさん
音域から徐々に高音域へと移っていき(解説・外山)、
て大きく開花させました。差別のなかで唯一サッチ
外山喜雄のサッチモ特別講座
サッチモのトランペットテクニック①
モが完全な自由を満喫できる場所…それがジャズ
の中だった!!彼の当時のとてつもないエネルギ
イギリスのジャズ研究家マックス・ジョーンズと
ーには、唯一ジャズの中でだけで得られる自由をこ
ジョン・チルトンは著書“ルイ”の中でこう言って
の上なくエンジョイしながら、その喜びの叫びを音
います。『もし、ルイ・アームストロングが 1920
楽とリズムの中に爆発させている、そんな精神の昇
年代にキング・オリバー、フレッチャー・ヘンダー
華を感じます。天にまで届くような彼の、また同じ
ソン、クラレンス・ウィリアムス、ベッシー・スミ
境遇にあった全ての黒人の歓びの叫びが、崇高なス
ス等と共演し、ホット5、ホット7での録音を残し
イング感となってアメリカの音楽をリードしてき
た後何もしなかったとしても、ジャズ界におけるそ
たともいえるかも知れません。ジャズを芸術の域に
の地位がゆるぐことは決してないであろう』
まで高める偉業を成し遂げた最大の功労者はサッ
それほど若き日のサッチモがアメリカと世界の
チモだとも言えます。しかもさらに偉大なことは、
音楽界にもたらした“新しいジャズ感覚”は偉大な
常にエンターテイナーの精神を忘れる事なくそれ
影響力を持ったものだったのです。若きサッチモの
を成し遂げた、と言うことです。
トランペットのテクニックは時代の数十年先をい
ジャズは今日でもサッチモが 1920 年代に敷いた
っていました。強烈なスイング・リズム、ジャズ・
レールの上を走っていると言っても過言ではあり
フィーリング、ブルージーなサウンドとボーカル的
ません。
な楽器奏法、斬新な和音の解釈とスリリングな即興
サッチモとともに始まったジャズ界の大変革!
演奏…。楽器の最低音から当時としては驚異的と思
ルイ・アームストロングが師匠のキング・オリバ
われた高音域までを自由自在に操るルイに、トラン
ーに呼ばれ、ニューオリンズを後にしシカゴに登場
ペッターはもちろん、トロンボーン、クラリネット、
した時から、ジャズ界の大変革期が始まりました。
サックス、その他ピアノ、ドラムの奏者も、また編
1923 年のキング・オリバー楽団との初吹き込み以
曲家、作曲家までが、その音楽的世界観が様変わり
来、有り難いことにサッチモの足跡はほぼ 50 年間
するような大きな影響を受けました。
にわたってレコードに記録されています。シカゴで
そしてその天才ぶりは、トランペット奏法だけを
のデビューはセンセーションとなり街中のミュー
とってみても革命的でした。でも若き日のサッチモ
ジシャンの話題となったと言います。1924 年には
は楽器のみにとどまらず、ジャズ・ボーカルという、
ニューヨークのフレッチャー・ヘンダーソン楽団に
これまた全く新しい分野でも世界のパイオニアと
ソロイストとして約1年間在籍、テナーのコールマ
なります。サッチモのトランペット奏法が彼の歌を
ン・ホーキンスやドン・レッドマンなどジャズの開
楽器で表現している、つまりボーカル的という今ま
拓者達に決定的な影響を与えました。また、1925
でに例を見なかった天才的な面を持っていた裏返
年シカゴに戻ってからのルイは、ホット・ファイブ、
しとして、彼のボーカルは逆に器楽的と言うこれま
た裏返しの天才的な面を持っていたのです。サッチ
モがあみ出したスイング感、ブルース・フィーリン
グ、そして器楽的手法は、ジャズの分野のみならず、
アメリカのそして世界のポピュラー音楽、またクラ
シックの世界にも大きな影響を与えたのです。
過酷な人種差別に耐えなければならない黒人芸
人の境遇をものともせず、若きサッチモは天性のハ
ッピーなフィーリングで差別を逆手に取り、神から
キング・オリバー楽団
与えられた才能をきらめくような喜びの叫びとし
7
ホット・セブン、そして天才ピアニスト、アール・
もので有ることがわかります。オリバーの楽団にセ
ハインズとの出会いを通じジャズに新しい可能性を
カンド・コルネットとして迎えられたサッチモは、
見いだします。1920 年から 1930 年、この 10 年間に、
盛りを過ぎていたオリバーに比べ、20 才そこそこ
サッチモと言う天才を得たアメリカの黒人、白人ミ
の若者。レコーディングでは、ルイの音が強すぎバ
ュージシャン達はインスピレーションを爆発的に広
ランスをとるために、バンドのずっと後ろの方に座
げていきました。冗談音楽に近いサウンドでスター
らなければならなかったと言う逸話が伝わってい
トした新音楽ジャズは、サッチモのお陰で、高い芸
ます。初期のバンドスタイルは、全員の合奏アンサ
術性を持った、楽しいスイングするわかりやすい大
ンブルが主体でソロをとるのはクラリネットのみ、
衆に愛される音楽へと昇華していったのです。
2本のコルネットはジャズっぽくテーマのメロデ
ィーをハーモニーし、時折リズムが2小節ストップ
<ルイ・アームストロングの
トランペット・スタイルの分析>
初期のスタイル
すると、そのブレイクを即興のフレイズでハモリな
がら埋める。このルイとオリバーのスタイルが、当
時としてはとても斬新で、後々の大編成のジャズで
1923 年:
も使われるジャズフレイズの出発点がここにある
キング・オリバーのクリオール・ジャズバンド
とも言われています。
サッチモはニューオリンズ時代、自分がアイドル
~♪ディッパーマウス・ブルース♪~
としたミュージシャンとして、先生にあたるジョ
サッチモのニックネームがタイトルに付いたこ
ー・オリバー他、バンク・ジョンソン、バディー・
のブルースの録音には、キング・オリバーのブルー
プティ、マヌエル・ペレ、フレディー・ケパード等
ス・ソロが入っています。いかにサッチモのスタイ
をあげています。ニューオリンズ初代のジャズ王と
ルがオリバーと似ているかをよく現した演奏です。
言われるバディー・ボールデンは 1906 年に発狂し
(譜1)
音楽から退いていますが、サッチモの記憶の中では
ファンキーバット・ホールの表で、夜のダンスの宣
伝のための演奏をするバディーをかすかに覚えて
いて、子供ながらに一寸荒っぽい演奏だと思ったと
いっています。オリバーはルイを子供のように可愛
ジャズ初期のスイング感を変えた
がり、お下がりのコルネットをくれたり、一緒に教
サッチモのダーダッタ・リズム
則本アーバンの二重奏を練習してくれたり、ルイに
ニューオリンズのミュージシャンの特徴は、他の
とって父親のような存在でした。1923 年、音質は
街のミュージシャンよりもリズムにしなやかなス
悪いがふんだんに残されているSP録音に聞かれ
イング感が有った事です。初期のニューオリンズの
るサッチモは、オリ
スイングは、シンコペーションをタターターと弾ま
バーと全くそっくり
せるタター吹きにありました。オリバーの奏法、ま
で、よく聞き込んで
たレコードに残っているフレディー・ケパードも同
行くとサッチモの後
じシンコペーションのスイング感を持っています。
年のスタイルも、オ
しかし、オリバーとそっくりに吹いているサッチモ
リバーとオリバーの
のシンコペーションには、すでに大ブレークする新
プレイに反映されて
しいシンコペーション、ダーダッタの要素が多く入
いるニューオリンズ
っている。
の先輩コルネット奏
者達のスタイルの伝
統を強く受け継いだ
キング・オリバーとルイ
8
(譜2タターター、譜3ダーダッタ)
吹く事だけが夢だったルイに自分の道を歩くよう
勧め、ルイはニューヨークの一流バンド、フレッチ
ャー・ヘンダーソン楽団のソロイストとなります。
楽団の仲間には後にビッグバンド時代の先駆者的
サッチモは2ビートを4ビートに変えた
名アレンジャーとなったアルト・サックス奏者ド
キング・オリバー楽団の録音ではオリバーと瓜二
ン・レッドマン、またモダンジャズの時代まで多く
つに聞こえるサッチモのプレイですが、その中に新
のサックス奏者に影響を与えたテナーサックスの
しいジャズの要素を聞き取ることが出来ます。それ
コールマン・ホーキンスが在籍していました。古く
は4ビートのスイング感です。バンド全体は2ビー
さいソサエティー・バンドだったヘンダーソン楽団
トのリズムにまとめられていますが、サッチモの感
は、サッチモの4ビートのダーダッタ・スイングに
覚は後のジャズが持つ4ビートのスイング感、後年
出会い、あっという間に新感覚のビッグバンドへと
のベイシーバンドやイーストコースト・ジャズが持
変身をとげて行くのです。10 年後には、ヘンダー
っている攻撃的なリズムのプッシュを2ビートの
ソンはベニー・グッドマン楽団の重要な編曲スタッ
サウンドの中にポリリズムのように織り込んでい
フとなりスイングブームを影で支える存在となり
るのが革新的です。本来ニューオリンズでは、ジャ
ます。
ズはパレードや葬式などで行進しながら野外で演
~♪マンディー・メイクアップ・ユア・マインド♪~
奏されることが多く、バンドは右左右左と2ビート
古くさいアレンジで始まるこの録音、ホーキンス
で行進しながら4ビートで強烈にスイング、黒人の
のブレークソロは、まだまだタータ、タータと付点
観衆たちはこのスイング感を感じて熱狂し興奮し
八分音符で跳ねるばかりでヨチヨチ歩きのジャズ
ます。時としていくつかのバンドが街角で出会いジ
であるのに対し、サッチモのソロの生き生きとし自
ャズバトルになる事があると、バトルはよりスイン
由なこと。
グするバンドが観衆の熱狂で勝者に選ばれるまで
(譜4)
続いたといいます。自然とニューオリンズには強烈
な複合リズム・・・ポリリズムが発達し、この複雑で
強烈な4ビート感覚に裏打ちされたダーダッタの
この時点で、サッチモのリズムやアドリブソロな
スイング感こそが、サッチモがニューオリンズの伝
どのジャズ感覚、楽器の音色、テクニック等奏法の
統の上に編みだし世界にプレゼントしたスイン
マスター度ともに、当時の一流バンド、ヘンダーソ
グ・リズムなのです。
ン楽団のホーンセクションの5年、10 年先を行っ
1924 年:フレッチャー・ヘンダーソン楽団
ている事は驚きに値します。このニューヨーク滞在
中、サッチモはブルースの女王ベッシー・スミスと
録音を残しています。オルガンだけの伴奏によるセ
ントルイス・ブルースではハーマン・ミュートを使
った歌のバッキングが素晴らしい芸術作品を生ん
でいます。ニューオリンズのホンキートンクでラッ
パを吹いていたサッチモの少年時代、娼婦達は彼の
ブルースが大好きで、女達は“チビのルイ”を膝に
座らせブルースを吹かせ、チップをいっぱいラッパ
の朝顔につっこんでくれたといいます。そんなシー
フレッチャー・ヘンダーソン楽団
ンを彷彿とさせるベッシーとの共演です。
サッチモの才能の大きさに気づいたサッチモ夫
以下次号
人のリル・ハーデンは、キング・オリバーのように
9
レコード業界でも生誕 70 年記念録音の企画が実現
サッチモのちょっといい話 外山喜雄
ワット・ア・ワンダフルワールド考②
し、1970 年5月末、サッチモのゴスペル的な斬新
なバージョンのワンダフルワールド他 10 曲ほどが
サッチモの“この素晴らしき世界―ワット・ア・
録音された。この録音に馳せ参じたミュージシャン
ワンダフルワールド”は、サッチモが亡くなる4年
のリストは正に驚嘆に値する。
前の 1967 年に録音され、そのヒットは 40 年後の現
サド・ジョーンズ、マイルス・デビス、ケニー・
在も続いている。通信 42 号でご紹介したそのレコ
バレル、ボビー・ハケット、トニー・ベネット、チ
ーディングの生い立ち…ニューオリンズのハリケ
コ・ハミルトン、エディー・コンドン、オーネット・
ーン被災という大事件で、前回の掲載から時間が開
コールマン…、50 人を越える有名ジャズ・ミュー
いてしまった。前 42 号をもう一度ご参照いただき、
今号をお読み下さい。
ジシャン、歌手、評論家!そこには、ジャズ界をあ
げて“ハッピーバースデイ・ポップス!!!親爺さ
“素晴らしき世界”と言うテーマでサッチモが歌
ん誕生日おめでとう”と言わずにいられない熱い想
う作品を作ろうと思ったレコード・プロデューサー、
ボブ・シィール。コルトレーンの至上の愛や、サッ
いとハートウォーミングな真心があふれ、企画が本
来持っていたかも知れない売上げアップの下心を、
チモとデューク・エリントンの競演盤を作った名プ
すっかり圧倒してしまっている。
ロデューサーならではの企画といえるだろう。そし
サッチモはあるインタビューでこんな事を言っ
て、この曲のテーマ、メロディー、歌詞すべてに惚
ている。
れ込み、ギャラはいくらでも良いからと録音に参加
“確かに私はいつの間にか大物になったよ。色々
したサッチモの心意気。にもかかわらずサッチモも
な国へ行って、王様の前や法王の前でも演奏したし
曲もプロデューサーも好みではないからと、ロクな
…、若くて駆け出しだったニューオリンズ時代に、
プロモーションもしなかったレコード会社社長!
私が将来こんな事になるなんて誰かに言われたら、
40 年前、サッチモのワンダフルワールドの大ヒ
怖じけずいてしまったと思うよ!私は大物になろ
ットを生んだ人々や業界、そして世の中も、なんと
うなんて思った事はないし、自分の能力を証明しよ
純粋、我が儘、かつ牧歌的だったことか!!サッチ
うなんて思ったこともない。タダ、目の前のお客さ
モのワンダフルワールド誕生にも“仕掛け”が全く
んに喜んでもらおうと毎日必死になってやってき
なかった訳ではない。ワンダフルワールドが録音さ
ただけさ…。デ、ある日、気が付いたらこうなって
れた 1967 年8月 16 日、スタジオにはジョー・ウィ
いただけなんだよ…。
”
ルダー、クラーク・テリー(tp)アービー・グリー
サッチモ、ベイシー、エリントン、マイルス…私
ン、J.J.ジョンソン(tb)ハンク・ジョーンズ
たちの愛する素晴らしき音楽“ジャズ”は、皆、そ
(p)グラディー・テイト(drms)等そうそうたる
うではないか。目の前のお客様と音を通じて心を通
メンバーが参加、この日の録音を“サッチモと素晴
わせ、楽しんでもらおうと必死になっている内に気
らしい世界”をテーマに記念碑的な作品にしようと
が付いたら、“この素晴らしい世界に愛される”音
したプロデューサーの意図を感じないではない。し
楽になっていた!!!
かしそれは、売るための計算と言うより、“ジャズ
アルバムの売り上げが何万枚、何十万枚、何千万
の王様サッチモ”を敬愛するミュージシャン達が、
サッチモを愛する余り馳せ参じた結果、と言った方
円、何億円、、その為だけに頭をひねって売り上げ
戦略や仕掛けばかりを考えている音楽業界、そして、
があたっている。
同様に売上げや利益、そして効率至上主義がはびこ
1900 年7月4日生まれのジャズの王様サッチモ
る世の中…サッチモの歌った本当の意味の“素晴ら
は、1970 年7月 70 才の誕生日を迎えた。(後にな
しき世界”は、遠い昔となってしまったのだろうか。
ってこの誕生日が間違いで、本当の誕生日は 1901
続く
年の8月4日だったことが分かったのだが・・・)
10
3.990 円 送料 420 円
字幕監修 テキスト
一関ベイシーの
サウンド・チェック用レコードは
解説:外山喜雄
DVD プレイヤーをお
サッチモの「ハロー・ドーリー」
持ちでない方も、希
山口義憲
望すれば VHS ビデ
一関のジャズ喫茶「ベイシー」のマスター菅原さ
オコピーがついてきま
んは、学生時代、早大ハイソのドラマーで、私の属
す。
するニューオリの部室がある同じ音楽長屋で顔を
お申し込み 日本ル
合わせていた。
イ・アームスト ロング
協会まで
JR 東日本の雑誌「トランヴェール」2006 年 1 月
締め切り 4月 20 日 5月 15 日頃のお届け代金着払
号の巻頭エッセイで、作家の村松友視さんが「ベイ
<外山喜雄 解説より>
シー」のことを書いている。宮城県の沿岸部で地震
モダンジャズ・トランペッターマイルス・デビスはサッチモに
があったとき、村松さんは「ベイシー」の菅原さん
ついて、こんな言葉を残している。“ルイ・アームストロングが
に“大丈夫ですか?”と FAX を送った。菅原さんか
らは、スピーカーが少しずれていたが、大丈夫だっ
いなかったら、私は何もできなかったと思うね…”と。
何故、ルイ・アームストロングが“ジャズ”を作りだした張
た、との返事が届く。村松さんは再度、「で、その
本人なのか。そして、あのワット・ア・ワンダフルワードにうたわ
とき何のレコードを聴いていたのですか」と FAX
れる、サッチモの世界観はいかにして形作られていったのか
…。そのような疑問に、答えてくれるのが、1999 年英国
してみると、
「サッチモのハロー・ドーリーでした」
という返信があった。という内容である。
制作のこの異色ドキュメンタリー番組だ。
さて、1 月 11 日の日本経済新聞のコラム「あす
インタビューに答える豪華な顔ぶれ!!マックス・ローチ、ウ
ィントン・マルサリス、デイブ・ブルーベック、サッチモ楽団の
への話題」で聖路加国際病院副院長の細谷亮太さん
ベーシスト、アーベル・ショウ、ルイの二人目の奥さんリル・
が、このエッセイをとりあげて、山形からの片道 3
時間、ベイシーとサッチモと地震の関係について考
ハーディン。語られるルイの素顔は、レコードでは知ることの
出来ない興味深い事実にあふれている。語られることの無
察するエッセイを書いている。以下一部引用。
かったサッチモの母の“職業。1930 年代初頭サッチモと
マフィアのトラブルを語る元コロンビアレコード大プロデュー
サー、ジョージ・アバキアン。サッチモとマリファナというタブー
“「ベイシー」ってあのカウント・ベイシーに因
んだネーミングのはずなのに、どうしてサッチモ
の話題も親友の口から語られる。 今まで決して語られるこ
(ルイ・アームストロング)なのだろう。スピーカ
ーが不調で大好きなベイシーの曲がゆがんだら嫌
との無かったテーマに、最初は戸惑いと抵抗を感じないで
はない。だが全編を見終わったとき、今までよりさらにルイ・
だなと思ったからか、それともサッチモのにぎやか
アームストロングの実像に近づき、また、その一生に新たな
な曲で安心したかったからだろうか。どうでも良い
感動を覚えることもたしかである。公民権運動が盛り上が
ったリトルロック事件の際のサッチモのとった毅然たる態度。
ことを考えていても 3 時間は経過する。
”
亡くなる半年前、付き人に支えられながらも舞台に上がり、
サッチモを軸に、
観客を楽しませたその芸人魂。この作品には感激的なサ
ッチモの逸話が溢れている。
村松さん、細谷さ
ん、そしてワンダ
発売・販売 ナウオン・メディア株式会社
フルワールド通信
へと繋がるご縁に
思わずニッコリ。
11
は喜びでしたし、「音を合わせる」事の快感を初めて知っ
日本ルイ・アームストロング協会
た時でした。その内、教会の音楽のスタイルが変わり、メ
ニューオリンズ募金 収支状況ご報告
ンバーが多忙や田舎に帰省するなどで、演奏することも
皆様のご協力に心より感謝いたします。
少なくなって行きました。この楽器も教会の倉庫で十数
お寄せいただいた寄附総額(10 月 10 日開催緊急
年が経ち、その後私の家の中で場所も無く「行き先」を探
サッチモ祭でのご寄付も含みます)
しているところでした。古道具屋か、インターネットのオー
平成 18 年3月1日現在
7,165,358 円
ニューオリンズへの寄附
4,892,562 円
クションか、決心がつかず・・・・。そのような折、昼のニュ
(ハリケーン基金への送金4万ドル 詳細は3頁
ースでこの協会の様子が流れ、「ここであれば『私のユー
楽器を失った TBC ブラスバンドの楽器代金他)
経費
フォ』も復活するかもしれない。」と思い、メールをしました。
782,222 円
返事が届いた時は、ユーフォに息が再び吹き込まれた喜
(ニューオリンズ支援バッジ 8000 個、ストラップ
びを感じました。これで「きよしこのよる」「もろびとこぞり
1000 個制作費、通信費、雑費、チャリティーコンサ
て」などのクリスマスの賛美歌や「復活」の曲も演奏しまし
ート開催経費等を含みます)
今後の寄附先を検討中
た。再びどんな方がどんな「調べ」を奏でるのでしょうか。
1,490,574 円
楽しみです。この楽器を使ってくださる方と、お交わりが
ニューオリンズ支援は、まだまだ続きます。
できることがあれば、もっと新しい世界が広がるのではと、
ニューオリンズへの募金はこちらへ!!
私の思いは広がっていくばかりです。とにかく、使っていた
WJF会員の皆様をはじめ、ジャズを愛しニュー
オリンズを愛する皆様に、ぜひWJFニューオリン
だけるだけで幸せです。
ズ救援募金へのご協力を通じて、“ニューオリンズ
救援の聖者の行進”に参加をお願いする次第です。
救援金は下記あてに振込みをお願いします。
★WJF会員募集中!!
銀行振込 みずほ銀行 新浦安支店
ジャズを愛する皆様、どうぞ会員になって下さ
普通預金 口座番号:1664098
口座名: ニューオリンズ募金
い!!また皆様のお知り合いの方々に、ぜひWJ
郵便振替 口座名:WJFニューオリンズ募金
Fへのご入会をお勧め下さい。
口座番号:00140-4-741572
=WJF年会費=
楽器のご寄付と嬉しいお便り
ありがとうございます!!
川野麻実子様 (市川市)
トランペットとご寄付
森嶋理文様 (埼玉市)
トランペット
児玉繪倫子様 (横須賀市)
小林清志様 (世田谷区)
\6,000
学生会員(Student Membership)
\3,000
賛助会員(Friends of Louis Armstrong)\12,000
アルトサックス
中出由江様 (伊勢市)
一般会員(General Membership)
■寄付金及び会費のお振込み先■
郵便振替
00110-4-415986
ワンダフルワールド・J・F
トランペット2本
銀行振込
ユーフォニウム
三菱東京 UFJ 銀行浦安駅前支店
普通:5175119“ワンダフルワールド”
お問い合わせは TEL047-351-4464 WJF事務局
スをご覧になって楽器をお送りいただきました。
私は、46 歳です。この楽器は 20 歳を過ぎたころ私の通っ
ている教会でブラスバンドを組むことになり、はじめて自
分の金で買った楽器でした。月賦で一年半位。楽ではあ
りませんでしたが、みんなと楽器を演奏する楽しいひと時
700
でした。音を出すところから始め、ついて行くのがやっとで
練習は楽ではありませんでした。しかし、曲が完成した時
12
《編集後記》
緊急サッチモ祭と、W JF
のニューオリンズ支援活動を
知った皆様から事務局へ寄せ
られた温かいご支援は 万円
を越えました。これらはニュ
ーオリンズのジャズ関連団体
を通じて、現地のジャズ・ミ
ュージシャンたちに皆様の善
意と一緒に届けられていま
す。感謝の手紙の一部を今号
で紹介させていただきまし
た。一月の例会、1923年
~1928年のサッチモの黄
金時代の素晴らしいジャズを
聴くにつけ、ジャズを育んだ
ニューオリンズにさらなる支
援が必要なことも痛感してい
ます。
(山)
小林清志様からのお手紙―10月12日フジテレビのニュー
Fly UP