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日皮会誌:92 (13), 1357―1362, 1982 (昭57)
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日本皮膚科学会名誉会員,元北海道大学教授,
京都府立医科大学名誉教授
岩 下
健
一
一
一
(明治37年一昭和57年)
先 生
1358
略 歴
明治37年12月1日
山梨県韮山町にて出生
昭和5年3月
東京帝国大学医学部卒業
昭和5年4月
東京帝国大学医学部皮膚科泌尿器科教室副手
昭和12年8月
同助手
昭和12年I1月
医学博士(東京帝国大学)
昭和13年4月
日本皮膚科学会賞を受賞
昭和13年10月
東京帝国大学医学部付属医院外来医長
昭和17年2月
東京帝国大学医学部講師
昭和17年3月
北海道帝国大学教授
昭和19年8月
叙正六位
昭和22年12月
北海道大学医学部附属病院長,
北海道大学評議員(24年12月まで)
昭和30年12月
京都府立医科大学教授
昭和35年4月
京都府立医科大学附属病院長(37年4月まで)
昭和39年9月
第5回国際アレルギー学会(マドリッド)へ出席
昭和41年5月
第65回日本皮膚科学会学術大会会頭
昭和42年7月
第13回国際皮膚科学会(ミュンヘソ)へ出席
昭和43年3月
京都府立医科大学を定年退職
昭和43年4月
同名誉教授
昭和43年7月
アタリカ合衆国皮膚科学会国際名誉会員
昭和43年10月
第18回日本アレルギー学会会長
昭和45年11月
日本アレルギー学会名誉会員,功労賞授賞
昭和46年8月
東京都赤十字血液セソター所長
昭和47年5月
第14回国際皮膚科学会(ベニス)へ出席
昭和48年9月
ミネソタ皮膚科学会年次大会(ロチェスター)へ出席
昭和49年10月
日本赤十字社血液センター連盟会長
昭和50年11月
日本医真菌学会名誉会員
昭和51年4月
日本皮膚科学会名誉会員
昭和52年4月
叙勲三等授瑞宝章
昭和53年4月
東京都赤十字血液センター名誉所長
昭和55年3月
第16回国際皮膚科学会名誉委員(57年5月まで)
昭和57年5月24日
逝去(77歳)叙正四位
1359
日本皮膚科学会名誉会員,京都府立医科大学名誉教授
岩下健三先生のご逝去によせて
恩師岩下健三先生は,昭和57年5月24日の午後1時55分に,脳出血のために急逝されました.享年は77歳です.
おりからはアジアでは初めての国際皮膚科学会,第16回国際皮膚科学会が,5月23日から東京・ホテルニューオ
ータニにおいて荘厳に,そして華やかに開会されたばかりでした.翌24日に,日本皮膚科学会主催の土肥記念講演
者招待昼食会が同ホテルの桃の間で開催されBraun-Falco教授らICDのメンバーをはじめ内外の著明な皮膚科
学者が集まられ,岩下先生ご夫妻も出席されていました.その席上で,会食が始まって間もなくに,一瞬の出来事
として忽然として他界され,永遠の眠㈲こつかれてしまいました まさに動転・悲嘆の極みです.しかし,あるい
は思えば,神が学者としての先生に,学者としての大往生の場を与え賜うたものと信じます.翌25日に,学会場の
近くの四谷・イグナチオ教会でお通夜がしめやかに行われ,5月29日の午後1時から葬儀・告別式が青山葬儀所に
おいて清楚に,そして厳粛に執り行われました.先生のご冥福を心からお祈り申し上げ,ここに会員の諸先生方に
謹んでご報告を申し上げます.
岩下健三先生は明治37年12月1日に山梨県韮崎市でご出生,県立甲府中学校,旧制第八高等学校を経て,昭和5
年3月に東京帝国大学医学部をご卒業されました.ご卒業後はただちに東大皮膚科泌尿器科学教室に大局され,高
橋 明教授,遠山郁三教授,太田正雄教授に師事,薫陶を受けられています.昭和5年から約10年余の東大時代は
特に梅毒,泌尿器疾患(串丸回転症知見補遺など),サルフア剤などに興味を持たれた業績が多く,昭和13年には
医学博士の学位論文「サルバルサソ及び梅毒と網状内被細胞並びに肝機能」によって日本皮膚科学会賞の栄を受け
ておられます.また数年にわたって学士院学術研究会の委嘱によって膨大な我が国の医学業績を海外に紹介され,
さらには日本皮膚科学会雑誌の編集幹事として多大な尽力をなさいました.
昭和17年から約14年間の北大時代は,戦中,空襲による熱傷(文部省・戦時研究)のほか光線過敏症,皮膚結
核,低温と皮膚,梅毒などの研究は戦後にも傾倒され,さらに皮膚科領域でのホルモン,ビタミソ,物質代謝,角
化症などにも多くのすぐれたご業績がみられます.なかでも,北海道,特にアイヌの梅毒についての疫学的研究
は,第15回日本医学会総会(東京)のシンポジウムにおいて斯界の注目を集められました.なお小児の泌尿器疾
患,泌尿器系と内分泌・結核・レ線学的研究,膀胱の生理・病理について公にされたものも少なくありません.
昭和30年から約14年間の府立医大時代は,北大での先生の課題に加えてアレルギー,水庖性疾患,副腎皮質ホル
モソ,真菌,電子顕微鏡その他と,多彩・広範な研究に精力的に没頭されました.昭和41年には第65回日本皮膚科
学会会頭の責を果されましたが,会頭講演としての「表皮角化に関する知見」は器官培養,電子顕微鏡,組織化
学,生化学,才−トラジオグラフィなどを駆使しての正常角化,角化異常,異常角化への斬新だったアプg−チと
して不朽のご業績と信じています.その成果は第13回国際皮膚科学会(ミュンヘソ),第6回国際電子顕微鏡学会
(京祁)においても発表されました.角化は先生のライフワークでしたが,アレルギーもひとしお興味を持たれた
課題であり,もうひとつのライフワークとされていました.特に皮膚感作についてご造詣が深く,そのひとつであ
る「2,4-Dinitrochlorobenzeneによる皮膚感作に関する実験的研究」は第5回国際アレルギー学会(マドリッド)に
おいても高く評価されました.また第2回熱帯皮膚病会議組織委員,日本医真菌学会監事を歴任され,さらに泌尿
器,内分泌,化学療法,核医学,移植,不妊,ビタミン,形成外科などの各学会の評議員として各分野への発展に
も寄与されまし紀
昭和43年に大学を退職されましたが,研究への情熱はいささかも衰えることなく,却ってますます燃えて水痘,
帯状庖疹,甲状腺と皮膚病変などについて研究され,第14回国際皮膚科学会(ベニス),ミネソタ皮膚科学会年次
大会(ロチェスター)においてもご報告になってトます.東京都赤十字血液センターに席を置かれてからは,輸血
学についても輸血梅毒,まれな血液型,輸血とアレルギー性疾患などのご業績がみられ,日本輸血学会,日赤医学
会の評議員として活躍されました.
1360
今年の日本皮膚科学会(4月)において東京プリンスホテルでお目にかかった時も,また昨年I1月に京都にご夫
妻でおいでいただき心ばかりの喜寿のお祝いをした時も,先生はほんとうにお元気で,今度の国際皮膚科学会を楽
しみに心待ちされ「lectureするから聞いてくれ」といつもの笑顔でおっしゃいました.しかし,先生が「先天性
頭毛疎少症(Oligotrichosis capillitic ongenita)ニ内分泌的検索と抗甲状腺剤による治療」と題して発表される5月
28日には,先生のあの笑顔も今はなく,先生の永却の旅立ちのあとでした.北大の三浦祐晶教授が先生の遺稿を代
って発表されましたが,三浦教授と先生のお顔が二重写しとなって定かに見えず,また三浦教授の声もほとんど耳
に入らず,ありし日の先生の面影を追い,追慕の情を断ちがたく,切ないものを覚えました.先生はまさに命果て
るまでこよなく学問を愛し,学問と共に昇天されました.ここに先生のご業績のほんの一端を記し,私たちの学問
にはきびしかったが洒脱であった偉大な学者・師表である先生を偲び,衷心から尽きない感謝の意を捧げ,先生の
みたま安かれと心からお祈り申し上げます.
京都府立医大 外 松 茂太郎
1361
故 岩下健三先生を偲んで
日本皮膚科学会名誉会員,元北海道大学教授,京都府立医大名誉教授 岩下健三先生は,昭和57年5月24日午後
1時55分,脳出血のため東京虎の門病院で77年の生涯を閉じられた.
それは全く突然のできごとであった.第16回国際皮膚科学会は5月23日に盛大に幕をあけたが,開会式に先立っ
て行われた皇太子殿下御夫妻との御面会の場にも,先生はお元気で奥様とともに出席しておられた.開会式のあと
のウエルカム・パーティには,御自宅で学会発表のため勉強をされるので欠席されたとのことであったが,お眼に
かかった限りでは全く異常は感じられなかった.
翌24日からプログラムがはじまったが,お昼には日本皮膚科学会主催の土肥記念講演者および国際皮膚科委員会
(CID)ノソバー招待昼食会がホテル・ニューオータニの桃の間で開催されて,先生も奥様御同伴で出席しておられ
た.食事がはじまって間もなくてあったから,多分午後12時45分頃であったろうか,先生とは別なテーブルについ
ていた私か,何か異様な雰囲気を感じてふりむくと,先生が椅子の背に頭をもたせかけており,そのまわりに人が
動いているのが限に入った.すぐ駆け寄った時には既に意識がなく,呼吸も止まっていたように思う.出席されて
いた久木田,森岡,占部各教授,野波博士その他の方々の手助けを得てすぐ室外に運び,人工呼吸その他救急法を
施して頂いたが,特にマイアミ大学のブランク教授が献身的に救急処置をして下さったことは私にとって恐らく永
久に忘れ得ないものになろう.上記の諸先生その他の方々に厚く御礼を申しあげる次第である.
その後直ちにホテルの医師が駆けつけて蘇生術が行われたが,呼吸の回復はなく,脈樽も次第に弱まるのみであ
った.間もなく救急車で虎の門病院に移送されて,そこであらゆる救急処置が行われたのであるが,先生は遂に眼
覚めることなく,静かにこの世を去られたのであった.誠に急なことであったとはいえ,先生は少しも苦しまれる
ことなく,安らかにその一生を終えられたのであって,正に大往生であったといえよう.長い間公私ともにお世話
になった私が,たまたまその場に居合わせて最後までおみとりできたことは,因縁所生とでもいうのだろうか,私
にとっては感無量のものがあったのである.
先生は明治37年山梨県で出生された.先生の書かれた当時の思い出(日本医事新報第3011号,昭和57年)による
と,「今は市になっているが,甲府盆地の西北端,かつて佐久甲州街道の宿場だった韮崎という田舎町に生れ,大
正の中頃,県立甲府中学から旧制∧高に入るまで,甲州で育った.身延線などない頃で,海といえば,甲府から
鰍沢へ鉄道馬車,そこから富士川を舟で下るか,或は中央線で6,7時悶かかって東京に出ないと,みられなかっ
た」とある.
昭和5年東大医学部を卒業,直ちに皮膚科泌尿器科教室に入局された.小嶋理一博士らと同級であった.高橋
明教授,遠山郁三教授の薫陶を受けられ,昭和13年には「Sarvarsan及び徴毒と網状織内被細胞系統並に肝臓機能」
の論文で坂口賞を授与された.その後東大講師を経て,昭和17年4月北海道大学に迎えられ,初代志賀亮教授のあ
とを継いで皮膚科泌尿器科学講座の第2代目の教授として札幌に赴任された.「先に上京された学部長に予め依頼
していた医学部前の秋田屋に一先ず荷を解いたのが札幌での第一夜であった.故中村弘教授(中学同級,当時低温
研究所),医局の山田,有賀,金上,榊原,西谷,矢野,青木の諸君と共に,津軽海峡を初めて越えた私にはもの
珍しかった薪ストーブを囲み,夜半まで杯を煩けた」と,後年先生は赴任当初のことを記しておられる(北大皮膚
科開講40周年記念誌,昭和41年).
私は当時医学部学生として昭和18年から先生の教えを受けたが,講義やポリクリは厳しト中にも譚々と教え訓さ
れる慈父の感があった.特に新らしいサルフア剤について熱心に講義をされたことは今でも記憶に残っている.ま
た戦争中のこととて,教室員か青木良枝女史(前東京女子医大教授jを除いてほとんどすべて応召して手不足とな
ったため,学生が各科に配属されたが,皮膚科泌尿器科では先生の御指導のもとに,手術の助手,外来診療など教
室員と全く同じ処遇を受けて臨床上の経験を積み,また会食の時には色々な貴重なお話を伺うことができた.症例
報告をまとめて雑誌に発表した学生もいた筈である.こんなことから学生間の信望が厚く,医局には学生がよく集
まっており,卒業後も先生を慕う者が多かった.
1362
私は昭和19年卒業と同時に教室に入れて頂いて,爾来昭和30年に先生が京都府立医大に転出されるまで,11年余
の長きにわたって教室員として親しく御指導を受けることになったのであるが,その間研究,教育,診療など公的
な面においてのみならず,私的なことでもどれだけ多くの教えを受け,恩恵を蒙ったことか,到底筆舌に尽くしが
たいものがある.先生はサルフア剤の研究からホルモソ,ビタミンの分野まで手をひろげられ,教室員にテーマを
示して研究を命じられたが,学問に対する態度はきわめて厳格であり,従がって門下生に対しても厳しく指導され
た,御自身夜おそくまで教授室で仕事をされ,お帰りの時は必ず研究室を一巡して教室員の研究の進歩状況を御覧
になり,種々指導されるのが常であった また臨床面では熱傷,凍槍,皮膚結核,光線過敏症,梅毒,角化症など
に重点をおかれて,多くの論著を公表されている.いつも「論文は遺書と思え」といわれて,御自身の論文原稿も
推敲に推敲を重ねておられたが,教室員の論文についても丹念に眼を通され,ほとんど全部に朱が入れられて真赤
になってしまうのは毎度のことであった,添削されて10数回の書き直しを命じられた者もいた程であった.
この間昭和22年から戦後はじめての公選病院長として2年間,もっとも苦しい時代に管理職として御苦労され
た.深刻な石炭不足の折に本省と交渉して病院への特別な割当を獲得されたり,また第三内科と整形外科の独立に
伴う整備移転,放射線医学講座の独立,泌尿器科分立の基礎がため,看護学院の改組などに手腕を発揮された.こ
のような多忙な院長職としてのお仕事のほかに,教育,研究,診療についてもゆるがせにすることがなかったた
めに,後には一時健康を害されるに至ったものと思われるが,幸いに間もなく回復された.
かくも厳格な,かつ仕事熱心な先生であられたが,一旦公務を離れると誠に渥落で飾り気がなく,冬にはスキー
を教室員や学生とともに楽しみ,また尺八をたしなまれて,大学の邦楽部長として三曲演奏会には職員や学生と一
緒にしばしば出演された.また宴席では誰とでも膝を交えて歓談され,お得意の「隅田川」や「夕暮」の踊りを披
露されるなど,正に仕事を愛し,人を愛し,酒を愛した敬愛すべき先生であった.今思い返してみても,数え切れ
ない懐しい思い出が次々と湧き出て,追慕の情断ちがたいものを覚えるのである.
京都府立医大を定年退官後東京に移られてから乱機会あるごとに札幌を来訪されて,門下生と一タ歓を尽くす
のを楽しみにしておられた.そしてしばしばそのことを随想として日本医事新報その他にお書きになって,そのコ
ピーを必ず送って下さった.本年2月に来札された折には,有志が集まって心ばかりの喜寿のお祝いをしたのであ
るが,その時も先生は大変喜ぱれて,自ら撮影されたスナップ写真を御懇篤な礼状とともにわざわざ送り届げて下
さったのであった.恐らくこのことも何かの折にお書きになる積りではなかったかと思うが,永遠に拝見すること
かできなくなったのは誠に残念である.
先生は御退官後も学会には必ず御出席になり,御自身の研究成果を発表しておられた.ミュソヘソ,ベニスの国
際皮膚科学会にも奥様とともに参加されており,また今度の東京での学会では「先天性頭毛疎少症(Oligotrichosis
capillitii
c ongenita)一内分泌的検索と抗甲状腺剤による治験」の発表を5月28日にされることになっていて,口
述原稿(英文ともに)とスライドは既に事務局に届けておられた.先生の急逝により私が代わって口頭発表させて
頂いたか,先生がお元気ならば精魂こめられた研究成果を直接にお聞きすることができたのにと思うと,胸にこみ
あげるものを禁じ得なかったのである.
告別式は5月29日午後1時より青山葬儀所でしめやかにかつ厳粛に執り行われた.かすかに笑みをたたえて語り
かけるような大きな遺影を前にして,在りし日のことか走馬燈のように浮かんでは消え,涙をおさえることができ
なかった,思えば長い年月にわたって学生の教育,後進の育成に努め,また研究,診療に従事され,命終るに至る
まで学問の道にいそしまれた先生は,偉大な学者であり,師表であったといえよう.追憶は尽きなトが,最後に先
生の書かれた文(北大医学部同窓会新聞39号,昭和53年)の一部をお借りして,心から先生の御冥福をお祈りした
い.
−一一Erstens
G esundheit, zweitens Studieren, drittensSpielen. 私か北大の頃学生や教室員に折にふれよく口にし
た言葉であります.(略)しかしこの健康保持のためには肉体的にも精神的にも常に適度な刺激が必要でしょう.
余り呑気な生活も,反面余り忙がしい生活も健康にはよくないでしょう.入各々境遇,環境が違うから一律には言
えませんが,要するに自分の心身に適合した張りのある生活こそ大切だと思います.--一一一
昭和57年9月
北大医学部皮膚科 三 浦 祐 晶
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