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走れメロス 太宰治 メロスは激怒した。必ず、かの 邪智暴虐 の王を除か
『走れメロス』 (太宰治) 走れメロス 太宰治 メロスは激怒した。必ず、かの じ ゃ ち ぼ う ぎ ゃ く 邪智暴虐の王を除かなければ ならぬと決意した。メロスには政 治がわからぬ。メロスは、村の牧 人である。笛を吹き、羊と遊んで 横浜コミュニケーション障害研究会 -1- 『走れメロス』 (太宰治) 暮して来た。けれども邪悪に対 しては、人一倍に敏感であった。 きょう未明メロスは村を出発し、 野を越え山越え、十里はなれた こ 此 のシラクスの市にやって来た。 メロスには父も、母も無い。女房 も無い。十六の、内気な妹と二 人暮しだ。この妹は、村の或る は な む こ 律気な一牧人を、近々、花婿と して迎える事になっていた。結 横浜コミュニケーション障害研究会 -2- 『走れメロス』 (太宰治) 婚式も間近かなのである。メロス は、それゆえ、花嫁の衣裳やら 祝宴の御馳走やらを買いに、は るばる市にやって来たのだ。先 ず、その品々を買い集め、それ から都の大路をぶらぶら歩いた。 メロスには竹馬の友があった。セ リヌンティウスである。今は此の シラクスの市で、石工をしている。 その友を、これから訪ねてみる 横浜コミュニケーション障害研究会 -3- 『走れメロス』 (太宰治) つもりなのだ。久しく逢わなかっ たのだから、訪ねて行くのが楽 しみである。歩いているうちにメ ロスは、まちの様子を怪しく思っ た。ひっそりしている。もう既に 日も落ちて、まちの暗いのは当 りまえだが、けれども、なんだか、 夜のせいばかりでは無く、市全 体が、やけに寂しい。のんきなメ ロスも、だんだん不安になって 横浜コミュニケーション障害研究会 -4- 『走れメロス』 (太宰治) 来た。路で逢った若い衆をつか まえて、何かあったのか、二年ま えに此の市に来たときは、夜で も皆が歌をうたって、まちは賑や は ず かであった筈だが、と質問した。 若い衆は、首を振って答えなか ろ う や った。しばらく歩いて老爺に逢い、 こんどはもっと、語勢を強くして 質問した。老爺は答えなかった。 メロスは両手で老爺のからだを 横浜コミュニケーション障害研究会 -5- 『走れメロス』 (太宰治) ゆすぶって質問を重ねた。老爺 は、あたりをはばかる低声で、わ ずか答えた。 「王様は、人を殺します。」 「なぜ殺すのだ。」 「悪心を抱いている、というので すが、誰もそんな、悪心を持っ ては居りませぬ。」 「たくさんの人を殺したのか。」 「はい、はじめは王様の妹婿さま 横浜コミュニケーション障害研究会 -6- 『走れメロス』 (太宰治) よ つ ぎ を。それから、御自身のお世嗣 を。それから、妹さまを。それか ら、妹さまの御子さまを。それか ら、皇后さまを。それから、賢臣 のアレキス様を。」 「おどろいた。国王は乱心か。」 「いいえ、乱心ではございませ ぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、と いうのです。このごろは、臣下の 心をも、お疑いになり、少しく派 横浜コミュニケーション障害研究会 -7- 『走れメロス』 (太宰治) 手な暮しをしている者には、人 質ひとりずつ差し出すことを命じ て居ります。御命令を拒めば十 字架にかけられて、殺されます。 きょうは、六人殺されました。」 聞いて、メロスは激怒した。「呆 あ き れた王だ。生かして置けぬ。」 メロスは、単純な男であった。 買い物を、背負ったままで、のそ のそ王城にはいって行った。た 横浜コミュニケーション障害研究会 -8- 『走れメロス』 (太宰治) じ ゅ ん ら ちまち彼は、巡邏の警吏に捕縛 された。調べられて、メロスの懐 中からは短剣が出て来たので、 騒ぎが大きくなってしまった。メ ロスは、王の前に引き出された。 「この短刀で何をするつもりであ ったか。言え!」暴君ディオニス も っ は静かに、けれども威厳を以て そ う は く 問いつめた。その王の顔は蒼白 み け ん し わ で、眉間の皺は、刻み込まれた 横浜コミュニケーション障害研究会 -9- 『走れメロス』 (太宰治) ように深かった。 「市を暴君の手から救うのだ。」 とメロスは悪びれずに答えた。 びんしょう 「おまえがか?」王は、憫笑した。 「仕方の無いやつじゃ。おまえ には、わしの孤独がわからぬ。」 「言うな!」とメロスは、いきり立っ は ん ば く て反駁した。「人の心を疑うのは、 最も恥ずべき悪徳だ。王は、民 の忠誠をさえ疑って居られる。」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 10 - 『走れメロス』 (太宰治) 「疑うのが、正当の心構えなのだ と、わしに教えてくれたのは、お まえたちだ。人の心は、あてにな らない。人間は、もともと私慾の かたまりさ。信じては、ならぬ。」 暴君は落着いて呟き、ほっと つぶや た め い き 溜息をついた。「わしだって、平 和を望んでいるのだが。」 「なんの為の平和だ。自分の地 位を守る為か。」こんどはメロス 横浜コミュニケーション障害研究会 - 11 - 『走れメロス』 (太宰治) が嘲笑した。「罪の無い人を殺し て、何が平和だ。」 げ せ ん 「だまれ、下賤の者。」王は、さっ と顔を挙げて報いた。「口では、 どんな清らかな事でも言える。わ しには、人の腹綿の奥底が見え 透いてならぬ。おまえだって、い はりつけ まに、 磔 になってから、泣いて 詫びたって聞かぬぞ。」 わ り こ う う ぬ ぼ 「ああ、王は悧巧だ。自惚れてい 横浜コミュニケーション障害研究会 - 12 - 『走れメロス』 (太宰治) るがよい。私は、ちゃんと死ぬる 覚悟で居るのに。命乞いなど決 してしない。ただ、――」と言い かけて、メロスは足もとに視線を 落し瞬時ためらい、「ただ、私に 情をかけたいつもりなら、処刑ま でに三日間の日限を与えて下さ い。たった一人の妹に、亭主を 持たせてやりたいのです。三日 のうちに、私は村で結婚式を挙 横浜コミュニケーション障害研究会 - 13 - 『走れメロス』 (太宰治) げさせ、必ず、ここへ帰って来ま す。」 しわが 「ばかな。」と暴君は、嗄れた声 で低く笑った。「とんでもない嘘 う そ を言うわい。逃がした小鳥が帰 って来るというのか。」 「そうです。帰って来るのです。」 メロスは必死で言い張った。「私 は約束を守ります。私を、三日 間だけ許して下さい。妹が、私 横浜コミュニケーション障害研究会 - 14 - 『走れメロス』 (太宰治) の帰りを待っているのだ。そんな に私を信じられないならば、よろ しい、この市にセリヌンティウスと いう石工がいます。私の無二の 友人だ。あれを、人質としてここ に置いて行こう。私が逃げてしま って、三日目の日暮まで、ここに 帰って来なかったら、あの友人 を絞め殺して下さい。たのむ、そ うして下さい。」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 15 - 『走れメロス』 (太宰治) それを聞いて王は、残虐な気 ほ く そ え 持で、そっと北叟笑んだ。生意 気なことを言うわい。どうせ帰っ て来ないにきまっている。この嘘 だ ま つきに騙された振りして、放して やるのも面白い。そうして身代り の男を、三日目に殺してやるの も気味がいい。人は、これだから 信じられぬと、わしは悲しい顔し て、その身代りの男を磔刑に処 横浜コミュニケーション障害研究会 - 16 - 『走れメロス』 (太宰治) してやるのだ。世の中の、正直 や つ ば ら 者とかいう奴輩にうんと見せつけ てやりたいものさ。 「願いを、聞いた。その身代りを 呼ぶがよい。三日目には日没ま でに帰って来い。おくれたら、そ の身代りを、きっと殺すぞ。ちょ っとおくれて来るがいい。おまえ の罪は、永遠にゆるしてやろう ぞ。」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 17 - 『走れメロス』 (太宰治) 「なに、何をおっしゃる。」 「はは。いのちが大事だったら、 おくれて来い。おまえの心は、 わかっているぞ。」 じ だ ん だ メロスは口惜しく、地団駄踏ん だ。ものも言いたくなくなった。 竹馬の友、セリヌンティウスは、 深夜、王城に召された。暴君デ よ ィオニスの面前で、佳き友と佳き 友は、二年ぶりで相逢うた。メロ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 18 - 『走れメロス』 (太宰治) スは、友に一切の事情を語った。 う な ず セリヌンティウスは無言で首肯き、 メロスをひしと抱きしめた。友と 友の間は、それでよかった。セリ ヌンティウスは、縄打たれた。メ ロスは、すぐに出発した。初夏、 満天の星である。 メロスはその夜、一睡もせず十 里の路を急ぎに急いで、村へ到 あ く 着したのは、翌る日の午前、陽 横浜コミュニケーション障害研究会 - 19 - 『走れメロス』 (太宰治) は既に高く昇って、村人たちは 野に出て仕事をはじめていた。 メロスの十六の妹も、きょうは兄 の代りに羊群の番をしていた。よ ろめいて歩いて来る兄の、疲労 こ ん ぱ い 困憊の姿を見つけて驚いた。そ うして、うるさく兄に質問を浴び せた。 「なんでも無い。」メロスは無理に 笑おうと努めた。「市に用事を残 横浜コミュニケーション障害研究会 - 20 - 『走れメロス』 (太宰治) して来た。またすぐ市に行かな ければならぬ。あす、おまえの 結婚式を挙げる。早いほうがよ かろう。」 妹は頬をあからめた。 き れ い 「うれしいか。綺麗な衣裳も買っ て来た。さあ、これから行って、 村の人たちに知らせて来い。結 婚式は、あすだと。」 メロスは、また、よろよろと歩き 横浜コミュニケーション障害研究会 - 21 - 『走れメロス』 (太宰治) 出し、家へ帰って神々の祭壇を 飾り、祝宴の席を調え、間もなく 床に倒れ伏し、呼吸もせぬくら いの深い眠りに落ちてしまった。 眼が覚めたのは夜だった。メロ スは起きてすぐ、花婿の家を訪 れた。そうして、少し事情がある から、結婚式を明日にしてくれ、 と頼んだ。婿の牧人は驚き、そ れはいけない、こちらには未だ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 22 - 『走れメロス』 (太宰治) ぶ ど う 何の仕度も出来ていない、葡萄 の季節まで待ってくれ、と答えた。 メロスは、待つことは出来ぬ、ど うか明日にしてくれ給え、と更に 押してたのんだ。婿の牧人も頑 強であった。なかなか承諾してく れない。夜明けまで議論をつづ けて、やっと、どうにか婿をなだ め、すかして、説き伏せた。結婚 式は、真昼に行われた。新郎新 横浜コミュニケーション障害研究会 - 23 - 『走れメロス』 (太宰治) 婦の、神々への宣誓が済んだこ ろ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽ つり雨が降り出し、やがて車軸を 流すような大雨となった。祝宴に 列席していた村人たちは、何か 不吉なものを感じたが、それでも、 めいめい気持を引きたて、狭い 家の中で、むんむん蒸し暑いの こ ら も怺え、陽気に歌をうたい、手を 拍った。メロスも、満面に喜色を う 横浜コミュニケーション障害研究会 - 24 - 『走れメロス』 (太宰治) 湛え、しばらくは、王とのあの約 た た 束をさえ忘れていた。祝宴は、 夜に入っていよいよ乱れ華やか になり、人々は、外の豪雨を全く 気にしなくなった。メロスは、一 生このままここにいたい、と思っ た。この佳い人たちと生涯暮し て行きたいと願ったが、いまは、 自分のからだで、自分のもので は無い。ままならぬ事である。メ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 25 - 『走れメロス』 (太宰治) ロスは、わが身に鞭打ち、つい に出発を決意した。あすの日没 までには、まだ十分の時が在る。 ちょっと一眠りして、それからす ぐに出発しよう、と考えた。その 頃には、雨も小降りになっていよ う。少しでも永くこの家に愚図愚 図とどまっていたかった。メロス ほどの男にも、やはり未練の情と いうものは在る。今宵呆然、歓喜 横浜コミュニケーション障害研究会 - 26 - 『走れメロス』 (太宰治) に酔っているらしい花嫁に近寄 り、 「おめでとう。私は疲れてしまっ たから、ちょっとご免こうむって 眠りたい。眼が覚めたら、すぐに 市に出かける。大切な用事があ るのだ。私がいなくても、もうおま えには優しい亭主があるのだか ら、決して寂しい事は無い。おま えの兄の、一ばんきらいなもの 横浜コミュニケーション障害研究会 - 27 - 『走れメロス』 (太宰治) は、人を疑う事と、それから、嘘 をつく事だ。おまえも、それは、 知っているね。亭主との間に、ど んな秘密でも作ってはならぬ。 おまえに言いたいのは、それだ けだ。おまえの兄は、たぶん偉 い男なのだから、おまえもその 誇りを持っていろ。」 う な ず 花嫁は、夢見心地で首肯いた。 メロスは、それから花婿の肩をた 横浜コミュニケーション障害研究会 - 28 - 『走れメロス』 (太宰治) たいて、 「仕度の無いのはお互さまさ。私 の家にも、宝といっては、妹と羊 だけだ。他には、何も無い。全 部あげよう。もう一つ、メロスの弟 になったことを誇ってくれ。」 も 花婿は揉み手して、てれてい た。メロスは笑って村人たちにも え し ゃ く 会釈して、宴席から立ち去り、羊 小屋にもぐり込んで、死んだよう 横浜コミュニケーション障害研究会 - 29 - 『走れメロス』 (太宰治) に深く眠った。 眼が覚めたのは翌る日の薄明 の頃である。メロスは跳ね起き、 南無三、寝過したか、いや、まだ まだ大丈夫、これからすぐに出 発すれば、約束の刻限までには 十分間に合う。きょうは是非とも、 あの王に、人の信実の存すると ころを見せてやろう。そうして笑 って磔の台に上ってやる。メロス 横浜コミュニケーション障害研究会 - 30 - 『走れメロス』 (太宰治) は、悠々と身仕度をはじめた。 雨も、いくぶん小降りになってい る様子である。身仕度は出来た。 さて、メロスは、ぶるんと両腕を 大きく振って、雨中、矢の如く走 り出た。 私は、今宵、殺される。殺され る為に走るのだ。身代りの友を か ん ね い 救う為に走るのだ。王の奸佞邪 智を打ち破る為に走るのだ。走 横浜コミュニケーション障害研究会 - 31 - 『走れメロス』 (太宰治) らなければならぬ。そうして、私 は殺される。若い時から名誉を 守れ。さらば、ふるさと。若いメロ スは、つらかった。幾度か、立ち どまりそうになった。えい、えいと 大声挙げて自身を叱りながら走 った。村を出て、野を横切り、森 をくぐり抜け、隣村に着いた頃に は、雨も止み、日は高く昇って、 や そろそろ暑くなって来た。メロス 横浜コミュニケーション障害研究会 - 32 - 『走れメロス』 (太宰治) ひたい は額の汗をこぶしで払い、ここま で来れば大丈夫、もはや故郷へ の未練は無い。妹たちは、きっと 佳い夫婦になるだろう。私には、 いま、なんの気がかりも無い筈 だ。まっすぐに王城に行き着け ば、それでよいのだ。そんなに 急ぐ必要も無い。ゆっくり歩こう、 の ん き と持ちまえの呑気さを取り返し、 好きな小歌をいい声で歌い出し 横浜コミュニケーション障害研究会 - 33 - 『走れメロス』 (太宰治) た。ぶらぶら歩いて二里行き三 里行き、そろそろ全里程の半ば わ に到達した頃、降って湧いた災 難、メロスの足は、はたと、とまっ た。見よ、前方の川を。きのうの は ん ら ん 豪雨で山の水源地は氾濫し、濁 と う と う 流滔々と下流に集り、猛勢一挙 に橋を破壊し、どうどうと響きを こ っ ぱ み じ ん は し げ た あげる激流が、木葉微塵に橋桁 を跳ね飛ばしていた。彼は茫然 横浜コミュニケーション障害研究会 - 34 - 『走れメロス』 (太宰治) と、立ちすくんだ。あちこちと眺 めまわし、また、声を限りに呼び けいしゅう たててみたが、繋舟は残らず浪 に浚われて影なく、渡守りの姿も さ ら 見えない。流れはいよいよ、ふく れ上り、海のようになっている。メ ロスは川岸にうずくまり、男泣き に泣きながらゼウスに手を挙げ し ず て哀願した。「ああ、鎮 めたまえ、 荒れ狂う流れを! 時は刻々に 横浜コミュニケーション障害研究会 - 35 - 『走れメロス』 (太宰治) 過ぎて行きます。太陽も既に真 昼時です。あれが沈んでしまわ ぬうちに、王城に行き着くことが 出来なかったら、あの佳い友達 が、私のために死ぬのです。」 濁流は、メロスの叫びをせせら 笑う如く、ますます激しく躍り狂う。 あ お 浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、 そうして時は、刻一刻と消えて行 く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 36 - 『走れメロス』 (太宰治) 切るより他に無い。ああ、神々も 照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛 と誠の偉大な力を、いまこそ発 揮して見せる。メロスは、ざんぶ と流れに飛び込み、百匹の大蛇 のようにのた打ち荒れ狂う浪を 相手に、必死の闘争を開始した。 満身の力を腕にこめて、押し寄 せ渦巻き引きずる流れを、なん のこれしきと掻きわけ掻きわけ、 か 横浜コミュニケーション障害研究会 - 37 - 『走れメロス』 (太宰治) めくらめっぽう獅子奮迅の人の 子の姿には、神も哀れと思った れ ん び ん か、ついに憐愍 を垂れてくれた。 押し流されつつも、見事、対岸 の樹木の幹に、すがりつく事が 出来たのである。ありがたい。メ ロスは馬のように大きな胴震いを 一つして、すぐにまた先きを急 いだ。一刻といえども、むだには 出来ない。陽は既に西に傾きか 横浜コミュニケーション障害研究会 - 38 - 『走れメロス』 (太宰治) けている。ぜいぜい荒い呼吸を しながら峠をのぼり、のぼり切っ て、ほっとした時、突然、目の前 に一隊の山賊が躍り出た。 「待て。」 「何をするのだ。私は陽の沈ま ぬうちに王城へ行かなければな らぬ。放せ。」 「どっこい放さぬ。持ちもの全部 を置いて行け。」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 39 - 『走れメロス』 (太宰治) 「私にはいのちの他には何も無 い。その、たった一つの命も、こ れから王にくれてやるのだ。」 「その、いのちが欲しいのだ。」 「さては、王の命令で、ここで私 を待ち伏せしていたのだな。」 山賊たちは、ものも言わず一 こ ん ぼ う 斉に棍棒を振り挙げた。メロスは ひょいと、からだを折り曲げ、飛 鳥の如く身近かの一人に襲いか 横浜コミュニケーション障害研究会 - 40 - 『走れメロス』 (太宰治) かり、その棍棒を奪い取って、 「気の毒だが正義のためだ!」と 猛然一撃、たちまち、三人を殴り 倒し、残る者のひるむ隙に、さっ す き さと走って峠を下った。一気に さ す が 峠を駈け降りたが、流石に疲労 しゃくねつ し、折から午後の灼熱の太陽が まともに、かっと照って来て、メロ め ま い スは幾度となく眩暈を感じ、これ ではならぬ、と気を取り直しては、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 41 - 『走れメロス』 (太宰治) よろよろ二、三歩あるいて、つい に、がくりと膝を折った。立ち上 る事が出来ぬのだ。天を仰いで、 くやし泣きに泣き出した。ああ、 あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三 い だ て ん 人も撃ち倒し韋駄天、ここまで突 破して来たメロスよ。真の勇者、 メロスよ。今、ここで、疲れ切って 動けなくなるとは情無い。愛する 友は、おまえを信じたばかりに、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 42 - 『走れメロス』 (太宰治) やがて殺されなければならぬ。 き た い おまえは、稀代の不信の人間、 つ ぼ まさしく王の思う壺だぞ、と自分 を叱ってみるのだが、全身萎え な い も む し て、もはや芋虫ほどにも前進か なわぬ。路傍の草原にごろりと 寝ころがった。身体疲労すれば、 精神も共にやられる。もう、どうで もいいという、勇者に不似合い ふ て く さ な不貞腐れた根性が、心の隅に 横浜コミュニケーション障害研究会 - 43 - 『走れメロス』 (太宰治) 巣喰った。私は、これほど努力し たのだ。約束を破る心は、みじ んも無かった。神も照覧、私は 精一ぱいに努めて来たのだ。動 けなくなるまで走って来たのだ。 私は不信の徒では無い。ああ、 た できる事なら私の胸を截ち割っ て、真紅の心臓をお目に掛けた い。愛と信実の血液だけで動い ているこの心臓を見せてやりた 横浜コミュニケーション障害研究会 - 44 - 『走れメロス』 (太宰治) い。けれども私は、この大事な時 に、精も根も尽きたのだ。私は、 よくよく不幸な男だ。私は、きっと 笑われる。私の一家も笑われる。 あざむ 私は友を欺いた。中途で倒れる のは、はじめから何もしないのと 同じ事だ。ああ、もう、どうでもい い。これが、私の定った運命な のかも知れない。セリヌンティウ スよ、ゆるしてくれ。君は、いつ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 45 - 『走れメロス』 (太宰治) でも私を信じた。私も君を、欺か なかった。私たちは、本当に佳 い友と友であったのだ。いちど だって、暗い疑惑の雲を、お互 い胸に宿したことは無かった。い まだって、君は私を無心に待っ ているだろう。ああ、待っている だろう。ありがとう、セリヌンティウ ス。よくも私を信じてくれた。それ を思えば、たまらない。友と友の 横浜コミュニケーション障害研究会 - 46 - 『走れメロス』 (太宰治) 間の信実は、この世で一ばん誇 るべき宝なのだからな。セリヌン ティウス、私は走ったのだ。君を 欺くつもりは、みじんも無かった。 信じてくれ! 私は急ぎに急い でここまで来たのだ。濁流を突 破した。山賊の囲みからも、する りと抜けて一気に峠を駈け降り て来たのだ。私だから、出来た のだよ。ああ、この上、私に望み 横浜コミュニケーション障害研究会 - 47 - 『走れメロス』 (太宰治) 給うな。放って置いてくれ。どう でも、いいのだ。私は負けたの だ。だらしが無い。笑ってくれ。 王は私に、ちょっとおくれて来い、 と耳打ちした。おくれたら、身代 りを殺して、私を助けてくれると 約束した。私は王の卑劣を憎ん だ。けれども、今になってみると、 私は王の言うままになっている。 私は、おくれて行くだろう。王は、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 48 - 『走れメロス』 (太宰治) ひとり合点して私を笑い、そうし て事も無く私を放免するだろう。 そうなったら、私は、死ぬよりつ らい。私は、永遠に裏切者だ。 地上で最も、不名誉の人種だ。 セリヌンティウスよ、私も死ぬぞ。 君と一緒に死なせてくれ。君だ けは私を信じてくれるにちがい 無い。いや、それも私の、ひとり よがりか? ああ、もういっそ、悪 横浜コミュニケーション障害研究会 - 49 - 『走れメロス』 (太宰治) 徳者として生き伸びてやろうか。 村には私の家が在る。羊も居る。 妹夫婦は、まさか私を村から追 い出すような事はしないだろう。 正義だの、信実だの、愛だの、 考えてみれば、くだらない。人を 殺して自分が生きる。それが人 間世界の定法ではなかったか。 ああ、何もかも、ばかばかしい。 私は、醜い裏切り者だ。どうとも、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 50 - 『走れメロス』 (太宰治) か な 勝手にするがよい。やんぬる哉 。 ――四肢を投げ出して、うとうと、 まどろんでしまった。 せ ん せ ん ふと耳に、潺々、水の流れる音 が聞えた。そっと頭をもたげ、息 を呑んで耳をすました。すぐ足も とで、水が流れているらしい。よ ろよろ起き上って、見ると、岩の こ ん こ ん ささや 裂目から滾々と、何か小さく囁き ながら清水が湧き出ているので 横浜コミュニケーション障害研究会 - 51 - 『走れメロス』 (太宰治) ある。その泉に吸い込まれるよう にメロスは身をかがめた。水を両 す く 手で掬って、一くち飲んだ。ほう と長い溜息が出て、夢から覚め たような気がした。歩ける。行こう。 か い ふ く 肉体の疲労恢復と共に、わずか ながら希望が生れた。義務遂行 の希望である。わが身を殺して、 名誉を守る希望である。斜陽は 赤い光を、樹々の葉に投じ、葉 横浜コミュニケーション障害研究会 - 52 - 『走れメロス』 (太宰治) も枝も燃えるばかりに輝いている。 日没までには、まだ間がある。 私を、待っている人があるのだ。 少しも疑わず、静かに期待してく れている人があるのだ。私は、 信じられている。私の命なぞは、 問題ではない。死んでお詫び、 などと気のいい事は言って居ら れぬ。私は、信頼に報いなけれ ばならぬ。いまはただその一事 横浜コミュニケーション障害研究会 - 53 - 『走れメロス』 (太宰治) だ。走れ! メロス。 私は信頼されている。私は信 頼されている。先刻の、あの悪 魔の囁きは、あれは夢だ。悪い 夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲 れているときは、ふいとあんな悪 い夢を見るものだ。メロス、おま えの恥ではない。やはり、おまえ は真の勇者だ。再び立って走れ るようになったではないか。あり 横浜コミュニケーション障害研究会 - 54 - 『走れメロス』 (太宰治) がたい! 私は、正義の士とし て死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽 が沈む。ずんずん沈む。待って くれ、ゼウスよ。私は生れた時か ら正直な男であった。正直な男 のままにして死なせて下さい。 は 路行く人を押しのけ、跳ねとば し、メロスは黒い風のように走っ た。野原で酒宴の、その宴席の まっただ中を駈け抜け、酒宴の 横浜コミュニケーション障害研究会 - 55 - 『走れメロス』 (太宰治) け 人たちを仰天させ、犬を蹴とば し、小川を飛び越え、少しずつ 沈んでゆく太陽の、十倍も早く さ 走った。一団の旅人と颯っとす れちがった瞬間、不吉な会話を 小耳にはさんだ。「いまごろは、 あの男も、磔にかかっている よ。」ああ、その男、その男のた めに私は、いまこんなに走って いるのだ。その男を死なせては 横浜コミュニケーション障害研究会 - 56 - 『走れメロス』 (太宰治) ならない。急げ、メロス。おくれて はならぬ。愛と誠の力を、いまこ そ知らせてやるがよい。風態な んかは、どうでもいい。メロスは、 いまは、ほとんど全裸体であっ た。呼吸も出来ず、二度、三度、 口から血が噴き出た。見える。は るか向うに小さく、シラクスの市 の塔楼が見える。塔楼は、夕陽 を受けてきらきら光っている。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 57 - 『走れメロス』 (太宰治) 「ああ、メロス様。」うめくような声 が、風と共に聞えた。 「誰だ。」メロスは走りながら尋ね た。 「フィロストラトスでございます。 貴方のお友達セリヌンティウス様 の弟子でございます。」その若 い石工も、メロスの後について 走りながら叫んだ。「もう、駄目で ございます。むだでございます。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 58 - 『走れメロス』 (太宰治) 走るのは、やめて下さい。もう、 か た あの方をお助けになることは出 来ません。」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」 「ちょうど今、あの方が死刑にな るところです。ああ、あなたは遅 かった。おうらみ申します。ほん の少し、もうちょっとでも、早かっ たなら!」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロス 横浜コミュニケーション障害研究会 - 59 - 『走れメロス』 (太宰治) は胸の張り裂ける思いで、赤く 大きい夕陽ばかりを見つめてい た。走るより他は無い。 「やめて下さい。走るのは、やめ て下さい。いまはご自分のお命 が大事です。あの方は、あなた を信じて居りました。刑場に引き 出されても、平気でいました。王 様が、さんざんあの方をからかっ ても、メロスは来ます、とだけ答 横浜コミュニケーション障害研究会 - 60 - 『走れメロス』 (太宰治) え、強い信念を持ちつづけてい る様子でございました。」 「それだから、走るのだ。信じら れているから走るのだ。間に合う、 間に合わぬは問題でないのだ。 人の命も問題でないのだ。私は、 なんだか、もっと恐ろしく大きい ものの為に走っているのだ。つ いて来い! フィロストラトス。」 「ああ、あなたは気が狂ったか。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 61 - 『走れメロス』 (太宰治) それでは、うんと走るがいい。ひ ょっとしたら、間に合わぬもので もない。走るがいい。」 言うにや及ぶ。まだ陽は沈ま ぬ。最後の死力を尽して、メロス は走った。メロスの頭は、からっ ぽだ。何一つ考えていない。た だ、わけのわからぬ大きな力に ひきずられて走った。陽は、ゆら ゆら地平線に没し、まさに最後 横浜コミュニケーション障害研究会 - 62 - 『走れメロス』 (太宰治) の一片の残光も、消えようとした 時、メロスは疾風の如く刑場に 突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。 メロスが帰って来た。約束のとお り、いま、帰って来た。」と大声で 刑場の群衆にむかって叫んだ の ど つもりであったが、喉がつぶれ しわが か す て嗄れた声が幽かに出たばかり、 群衆は、ひとりとして彼の到着に 横浜コミュニケーション障害研究会 - 63 - 『走れメロス』 (太宰治) 気がつかない。すでに磔の柱が 高々と立てられ、縄を打たれた セリヌンティウスは、徐々に釣り 上げられてゆく。メロスはそれを 目撃して最後の勇、先刻、濁流 を泳いだように群衆を掻きわけ、 掻きわけ、 「私だ、刑吏! 殺されるのは、 私だ。メロスだ。彼を人質にした 私は、ここにいる!」と、かすれ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 64 - 『走れメロス』 (太宰治) た声で精一ぱいに叫びながら、 ついに磔台に昇り、釣り上げら か じ れてゆく友の両足に、齧りつい た。群衆は、どよめいた。あっぱ れ。ゆるせ、と口々にわめいた。 セリヌンティウスの縄は、ほどか れたのである。 「セリヌンティウス。」メロスは眼に 涙を浮べて言った。「私を殴れ。 ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 65 - 『走れメロス』 (太宰治) 途中で一度、悪い夢を見た。君 が若し私を殴ってくれなかったら、 も 私は君と抱擁する資格さえ無い のだ。殴れ。」 セリヌンティウスは、すべてを 察した様子で首肯き、刑場一ぱ う な ず いに鳴り響くほど音高くメロスの 右頬を殴った。殴ってから優しく ほ ほ え 微笑み、 「メロス、私を殴れ。同じくらい音 横浜コミュニケーション障害研究会 - 66 - 『走れメロス』 (太宰治) 高く私の頬を殴れ。私はこの三 日の間、たった一度だけ、ちらと 君を疑った。生れて、はじめて 君を疑った。君が私を殴ってく れなければ、私は君と抱擁でき ない。」 う な メロスは腕に唸りをつけてセリ ヌンティウスの頬を殴った。 「ありがとう、友よ。」二人同時に 言い、ひしと抱き合い、それから 横浜コミュニケーション障害研究会 - 67 - 『走れメロス』 (太宰治) 嬉し泣きにおいおい声を放って 泣いた。 き ょ き 群衆の中からも、歔欷の声が 聞えた。暴君ディオニスは、群 衆の背後から二人の様を、まじ まじと見つめていたが、やがて 静かに二人に近づき、顔をあか らめて、こう言った。 か な 「おまえらの望みは叶ったぞ。お まえらは、わしの心に勝ったの 横浜コミュニケーション障害研究会 - 68 - 『走れメロス』 (太宰治) だ。信実とは、決して空虚な妄 想ではなかった。どうか、わしを も仲間に入れてくれまいか。どう か、わしの願いを聞き入れて、 おまえらの仲間の一人にしてほ しい。」 どっと群衆の間に、歓声が起 った。 「万歳、王様万歳。」 ひ ひとりの少女が、緋のマントを 横浜コミュニケーション障害研究会 - 69 - 『走れメロス』 (太宰治) メロスに捧げた。メロスは、まご ついた。佳き友は、気をきかせ て教えてやった。 「メロス、君は、まっぱだかじゃな いか。早くそのマントを着るがい い。この可愛い娘さんは、メロス の裸体を、皆に見られるのが、 たまらなく口惜しいのだ。」 勇者は、ひどく赤面した。 (古説と、シルレルの詩から) 横浜コミュニケーション障害研究会 - 70 - 『走れメロス』 (太宰治) 横浜コミュニケーション障害研究会 - 71 -