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世界の市民と社会 - CAJS 国際比較日本センター

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世界の市民と社会 - CAJS 国際比較日本センター
世界の市民と社会
−研究の課題と視点−
2006・7・13 筑波大学駒場高校生への講演
特プロ 客員研究員
今井 雅晴
1、大学での勉強と研究
皆さん、よくいらっしゃいました。皆さんはいくつかの大学を訪問して、自分の将来進むべき
道を探っていらっしゃるのだと思います。
皆さんの学校の先生が作られた「高校2年生徒(56期) 2006年度
筑波大学訪問の栞」
によりますと、この行事の目的は「大学で行われている教育・研究の内容などを理解・体験し、
将来の進路決定の参考にする」とあります。本日はこのことを参考にしながらお話したいと思い
ます。
(1) 日本の大学の性格−勉強
さて唐突ですけれども、私は現代の社会において、誰もが大学へ進む必要はないと思っていま
す。それぞれの高校生は、それぞれ個性や能力の特色があり、それを生かせる道に進むべきだと
思うからです。かといっても、皆さんの誰でもが自分にはどのような能力があるのか、どの道に
進んだら自分にとって有利なのか、なかなか分からないでしょう。これはむずかしい問題です。
皆さんはすでに大学進学という一定のレ−ルの上に乗っていらっしゃるのでしょうから、でき
るだけ自分に合った大学を探すということになると思います。さらに、進学をなかば義務づけら
れているとはいっても、あらためて大学とはいったいどのようなところか、調べておくのは重要
なことです。
その観点からいうと、日本の大学とアメリカの大学を比較すると非常に興味深いことがありま
す。アメリカの大学の特色は、「ここに来ればこのような資格が取れます。社会のこのような種
類の仕事に対して、このような準備ができます」と、明確に宣言していることです。当然、受験
生は自分の将来の生き方をはっきりさせて大学に入学することになります。一般的には授業料は
高いです。
ですから、大学の授業の程度が低い、先生の教え方が悪い、宣言と中身とが違うということに
なると、学生から文句が出ます。これが学生の授業評価です。アメリカの学生は、高校の時は遊
ぶ、大学に入ったら懸命に勉強するのが普通です。日本と反対ですね。
日本の大学では、依然として教養を身につける、という目的のところが多いのです。もちろん、
一部の大学は一種の職業学校的な目的を明確にしているところもあります。関西のさる大学では、
公務員を養成する学部を作りました。関東でも、大工さんを養成するのを目的とする大学も作ら
れました。
-1-
日本の大学、特に文科系は教養を身につける、何かを教えてもらえる、「学ぶ」という意味の
「勉強をする」ことが目的になっています。したがって、やってもやらなくてもいい、といった
雰囲気が多く見られます。それより、大卒という資格を取って就職に結びつける、そのためには
本人の能力にかかわらず程度の高い大学をめざす、ということが社会の風潮になっています。皆
さんも懸命に勉強させられているのでしょう。頭を十分に絞り切って大学に入ってくることにな
ると思います。試験においても、最後の一分一秒までがんばれ、ということになっているはずで
す。
しかしそれはやめて欲しい。脱け殻のようになって入学してくる学生を扱う私たちの身にもな
ってくれ、というところです。大学で何をしたいか、という質問に対し、
「ゆっくりしたい」
「休
みたい」という新入生が多いのです。何か間違っていると思いませんか。「最後の一分一秒まで
がんばれ」というのは、
「試験で100点をめざせ」、ということにつながります。その結果、余
裕のない人間になります。大学で十分に活躍できるだけの余力を残して入学してきてほしいと思
います。そのためには、70点、80点でもよいと思うことです。
「最後の一分一秒までがんば」
らずに生きることです。
かといって、するべき努力をしなくていい、といっているのではありません。受験科目以外の
勉強もする、本も読む、運動もする、ということです。将来への意欲と、それを支える体力をつ
けることです。
では病身だったらどうするのか。人生お先真っ暗か。そんなことはありません。その特色を生
かした積極的な人生が送れます。
さて、では大学に入ったとして、何が待ち受けているか。勉強です。当然のことです。大学は
勉強するところですから。しかし小学校から高等学校までの勉強と根本的に異なります。それは、
高等学校までの勉強は、他人の作り上げた学問を学ぶ、という性格です。ですから大学入学試験
には、それぞれ正解があるのです。いくつかの解答のどれでもいいとか、あるいは何か新しい答
えを出してもいい、というふうにはなりません。
(2) 時代のための創造
しかし大学の勉強は違います。新しく学問を創造していくのです。それが大学の勉強の目的で
す。大学の勉強の最終的な成果を示すものとして、多くの大学では卒業論文を作成することがあ
ります。これは、中身に創造性があることが要求されます。
創造力を養うためには、いままでの人たちがどのように研究してきたかという成果を学ぶこと
が、まず必要です。そのための勉強をしなければなりません。しかし私は思うのですけれども、
他人の作り上げた成果をひたすら学ぶことによって、新しく作ろうとする創造力が身につくかと
いうと、必ずしもそうではありません。というより、それだけでは創造力はほとんど身につきま
せん。学ぶことと創造力の育成とは異なる能力だと思ってください。何かを創造していこうと意
欲的に努力しないかぎり、創造力は身につきません。
人間は人間として平等です。その上でいえば、日本社会をリ−ドする人材を養成してきた筑波
大学の、附属高校生として勉強を積み重ねてきた皆さんには、将来の社会をリ−ドする権利と責
任があります。
-2-
社会に出て、いろいろな自体に対応していかなければなりません。社会の現実をみつめ、将来
のためにはどのような策をとったらよいか、創造的に考えていかねばなりません。十代の後半、
ハイティ−ンとしていろいろ思うこともあるでしょうが、甘えていてはいけないんだとも考えて
ください。
次に、この特別プロジェクトではどのような研究をしているのか。どのような研究ができるの
か、についてお話します。筑波大学では、現代社会をどのように研究しようとしているのか、い
い換えれば、社会をどのようは方向に導いていこうとしているのかについてお話したいと思いま
す。
2、『比較市民社会・国家・文化特別プロジェクト(比較市民社会特プロ)』
(1) 大学の通常の組織<勉強・研究>
どこの大学でも通常の活動を行なっている組織があります。普通、日本の大学の教員は研究活
動と教育活動を行なうことになっています。さらに第3として、大学の運営に関わる仕事、すな
わち大学行政も行なわなければなりません。でもこの第3については、教員によって差がありま
す。ほとんど何もしない人もいれば、とてもたくさんの責任を負って仕事をしている人もいます。
それはともかく、もう皆さんがご存じと思いますが、筑波大学は他の大学と異なり、教育組織
と研究組織とが分かれています。他の大学では教育組織と研究組織とが一緒で、学部となってい
ます。たとえば文学部とあれば、先生たちは文学部に所属して研究を行ない、学生諸君のための
授業も行ないます。授業以外の指導も行ないます。すなわち教育活動です。最近は大学院重視の
大学が増え、教員を学部ではなく大学院に所属させる大学も多くなってきました。この場合には、
教員は何々大学大学院教授、といった肩書きになります。でも、教育組織と研究組織が一致して
いるということに変わりはありません。
筑波大学では違います。近年、筑波大学も教員を大学院に所属させるようになりましたので、
教員は、たとえば「筑波大学大学院人文社会科学研究科教授」という肩書きになりました。そし
てこの所属している研究科から、教育組織である学群に派遣されて、学部の学生諸君のための授
業等の教育を行なうのです。実際には学群の下部組織である学類を担当します。たとえば第一学
群人文学類とか第二学郡日本語・日本文化学類とかです。
もっとも、来年4月から学群は再編されて、三つある人文系学類(人文学類、比較文化学類、
日本語・日本文化学類)は人文文化学群に集められて、一つの学群を構成することになっていま
す。この学群・学類を作っている意味は、いろいろな専門の先生たちで多面的な教育を行なおう
ということです。たとえば、日本語・日本文化学類では、「世界に日本文化を発信できる有能な
人材を養成する」という目的のもとに、歴史・人類学専攻、文芸・言語専攻、現代文化・公共政
策専攻、国際政治経済学専攻、教育学専攻という五つの異なる分野の教員が集まって組織を作り、
学生諸君の教育に当たっています。
(2) 特別プロジェクト
このような筑波大学の通常の組織による教育と研究に加え、新たな事態に対応する研究組織や
-3-
教育組織が作られています。ここでは研究組織として、筑波大学内に設けられる特別プロジェク
トについてお話します。
筑波大学は東京教育大学のあとを受けて茨城県に移ってから30年あまりが経過しました。社
会は刻々と変化します。新しい課題が次々に生まれます。
筑波大学ができたころの日本社会は、政治面は保守と革新の対立が激しく、社会はゆれていま
した。大学も高校も自治会の動きが活発で、特に高校では学校のあり方や先生たちを糾弾する集
会が頻繁に開かれていました。経済面ではまだ発展途上で、種々の問題が起きていました。バブ
ルの時代の前です。世界では共産主義国家と資本主義国家の対立が激化し、戦火を交えない、冷
たい戦争、つまりは冷戦が厳しさを増していました。この対立をなんとか解消しなければ世界の
人々は幸せにならないと考えられていました。つまり政治と経済がよくなれば社会はよくなる、
人間は幸せになれると考えられていたのです。
ひるがえって、今日の日本と世界の状態はどうでしょうか。日本は1980年代の初めから未
曾有の経済大発展期に入りました。1992年に、突然のように不景気に陥りましたが、品物は
街中に溢れ続けました。それは今日でも続いています。皆さんはその中で生まれ、育っています
から、社会に品物がないとはどういうことか、どんなに苦しいことか、よく分からないと思いま
す。実は私もよく分かりません。
私は1942年生まれですので、第二次大戦が終わって4年後に小学校に入った人間です。貧
しい時代に育ちましたが、その貧しさを知っているのは私の親の世代です。その世代は、何とか
経済的に豊かになりたい、それには社会を導く政治がよくならなければならない、政治がよくな
れば経済もよくなる、人間生活もよくなる、と懸命に努力しました。日本人は世界的にみても働
き者ですし、歴史的に見ればその成果は着実に上がりました。豊かになりました。
でも二つの問題が発生しました。第一に、政治がよくなれば経済がよくなるということでした
けれども、日本・世界ともに、政治は必ずしもよくなっていません。かつて社会主義・共産主義
が世界の人民を救う、社会主義国家・共産主義国家は必ず成立する、それが歴史の必然だと声高
に主張した勢力がありました。しかしそうはなりませんでした。共産主義国家の大多数は潰れま
した。日本でも、そのようなことにはならなかったにもかかわらず、経済的な第発展を遂げまし
た。第一は、では政治はどうあるべきかということです。
第二は、日本では経済的に第発展を遂げて国民に幸せが訪れたでしょうか。たしかに経済面で
は訪れましたけれども、また別の大問題が発生しています。それは人間関係です。家庭内や学校、
職場の人間関係がとれない人たちが急激に増えています。引き篭もりが社会問題になって久しく
なりました。お互いの助け合いがなくても、食べていける状態になったことがそれを助長してい
ます。携帯やパソコンに沈潜することによって、多くの生身の人間に接し、人間関係を上手に取
る練習をするという機会が減っています。でも携帯・パソコンを社会から消すわけにはいかない
し、ではどうしたらよいでしょうか。
人間関係が取りにくくなっているのは世界的な傾向であります。でも、中国や韓国へ行くと、
そこの市民からは発展しようという意欲を感じます。特に若者たちに強い意欲を見ることができ
ます。
中国の大学に行くと、「私は大学を卒業したら会社を作って儲けたい。そのために、いま、勉
-4-
強しています」と大学1年生や2年生の女子の学生が口々にいいます。韓国では、自分の人生の
目標についてはっきり意思表示します。もともと中国人や韓国人は自己主張が強い人たちです。
日本人は相手の気持を慮って、穏やかに自分の意見をいう、時にはあいまいにしてはっきりいわ
ないというのが普通です。その上、自分の意見をはっきりいうと周りに痛めつけられる、目立た
ないようにした方がよい、という風潮が強くなっているので、知っていても、ひとまず、知らな
いといっておこう、という人生訓があるようにみえますので、日本の若者はよけいに優柔不断、
無知に見えます。
人間とはいかなる存在か、いかにあるべきか、ということが現代の大きな課題の一つであると
思います。そして私たちは一人で存在しているのではありません。社会の一員であり、国家に属
している市民であります。そして私たちが生きていることの表現すべては文化という言葉で示さ
れます。
私たちは、現在、日本列島で生きていますけれども、世界の中の構成員であることは明らかで
す。私たちは世界と無縁では存在できません。この資源の少ない日本列島で1億2千万もの人間
が、世界一豊かな経済生活・物質生活を送ることができるのは、ひとえに世界と交流を深めてい
るからです。世界中から魚・肉・野菜・鉱物資源その他を持ってきているからです。そのために、
日本人は必死に働いてきたのです。働くことでしか、外国に対抗できません。
アメリカには無限の資源があるように見えます。どうやっても彼らは繁栄するだろうと、こち
らは無力感に捉われることがあります。石油にしても、アラスカにたくさんあるのに、将来に備
えてそれを採掘しないのです。中東で石油の利権を獲得することに努力を傾け、何十年も成功し
続けているのです。
日本は外国と争う体制では生きていけません。いかに世界の人たちと共存をはかっていくか。
現代の言葉でいえば共生をはかっていくか。今日風にいえば多元的共生をはからなければなりま
せん。
日本の社会・文化の中で私たちはどのように生きているか。今後どのように生きていくべきか。
世界の国々・地域の人たちはどうなのか。これらを比較検討することによって明日の時代を切り
開いていこうではないか、という目的のもとに、私たち筑波大学では、通常の組織を横断した組
織を作りました。それがこの「比較市民社会・国家・文化特別プロジェクト」です。英語名では、
Special Research Project on Civil Society, the State and Culture in Comparative Perspective となりま
す。
この特別プリジェクトは、日本の他の大学や研究所、外国の大学の研究者の方々にも構成メン
バ−になってもらいました。日本学術振興会からも資金援助を受けて、日本学術振興会人文社会
科学振興プロジェクトとして「多元的共生社会の構築−多元的共生に関する国際比較」としての
研究も行なっています。こちらの英語名は、International Comparison of Pluralistic Co-existence of
Special Groups and Civil Societies です。
いわば最新の課題に即した研究体制を作り、通常の組織を超えた参加者と予算でもって研究を
進めています。ごく普通の、一般的な言葉を使えば、「現代の日本と世界の市民のあり方を考え
る」というのが本プロジェクトです。5年計画のプロジェクトで、すでに3年が過ぎ、4年目に
入っています。
-5-
3、本プロジェクトの人文系の研究とその成果
このプロジェクトには教員の運営委員や研究員の他に、6人の専任スタッフがいます。そのス
タッフが運営にがんばっていてくれていて、いろいろの成果が生まれています。たとえば昨年度
のセミナ−活動として、
4月 「南米・ボリビアの市民社会の問題点−JICA(国際協力機構)長期専門家の観察−」
5月 「西アフリカ社会の変化と継続−マリと日本の都市と文化に関する比較を通じて−」
などと題する発表会が、月に1回から時には3回行なわれています。9月にはこのプロジェクト
の責任者である辻中豊学長特別補佐が、
「比較の中の中国「市民社会」組織」
と題して発表しています。11月には、
「日本映画における「女」市民たちの変貌」
という発表もありました。
「ヨ−ロッパ研究会」では、
9月 「欧州憲法条約と市民社会−仏蘭の国民投票否決は何を意味するのか」
10月 「欧州統合とイギリス−不本意なパ−トナ−から、積極的推進役へ?」
11月 「グロ−バル化・EU化とドイツの市民社会」
など、また「アジアの宗教運動と市民社会研究会」では、
4月 「タイにおける仏教改革運動と市民社会−タマカ−イとサンティ・アソ−クの運動を中心に」
などがあります。英語での発表も多くあります。たとえば「ヨ−ロッパ研究会」では、
5月 「Civil society in Europe, 1945-2000: Transformation and European Particularities」
「アジアの宗教運動と市民社会研究会」では、
4月 「Islam in Japan-History and Prospects」
その他があります。
現代のことを知るためには、過去のことを歴史的に究明することも必要です。そこで歴史的な
研究も行なわれています。
さて、それでは、日本の市民・世界の市民といっても、どのような生活をしているのか。どの
ような面に関心を持って調査研究をしていけばよいのか。皆さんが関心を持たれるだろうと思わ
れることを考えながら、私が見てきた世界の市民社会の様子を軸にしてお話をしていきたいと思
います。まずアメリカからヨ−ロッパ、アジアの順でお話していきます。
4、世界の市民社会
−その生活のあり方・考え方・将来に向けての課題−
(1) アメリカ市民社会の特色
私は約20年くらい前から何度となくアメリカへ行って、その様子を見ています。私の本来の
専門は日本文化史です。さらにいえば、日本中世の仏教史、もっといえば親鸞と浄土真宗の歴史
の研究です。現在は、広く日本と外国の文化交流の歴史を視野に入れて研究を進めています。
日本でも、国内の様子は刻々と変わっていきます。昨年のことはもう古いといったこともあり
-6-
ます。外国のことでも同じです。頻繁に行っていないと時代に遅れてしまうこともあります。イ
ンタ−ネットで情報は取れるだろうという意見もあります。たしかにそういうことはいえます。
しかしそれでは、日本国内でパソコンと携帯だけで人生を渡っていける、ということと同じにな
ってしまいます。実際に現地へ行って、自分の目で見、耳で聞かなければほんとうに理解したこ
とになりません。
私はアメリカが好きです。世界に目を開かせてくれたからです。また私は日本語・日本文化学
類で日本文化史に関する授業を行なってきましたが、その多くはアメリカの研究者との交流の中
で作り上げた授業内容です。アメリカ人との交流がなければ、日本史研究者との交際範囲内でし
かものごとを考えることができず、視野も狭く、筑波大学での授業も世界的な発想ではできなか
ったと思います。私はアメリカの友人たちに感謝しています。その後、ヨ−ロッパやアジアの学
者たちとも親しくなり、彼らの考え方からもずいぶん学びました。当然、私も彼らに影響を与え
たと思います。
アメリカ人は、日本人の私から見ると、「市民」として興味深い人たちです。それに第二次大
戦後、日本の文化はアメリカの文化を受けて10年遅れ、5年遅れで展開してきました。いい換
えれば、現在アメリカで良いにしても悪いにしても流行していること、社会的風潮になっている
ことは、5年後、10年後に日本の社会現象になることがあります。
「なることが多いです」、と
いう方が正確であると私は考えています。それで、まずアメリカの市民たちからお話をしていま
す。
アメリカ市民のもっとも大きな特色は、「自立」ということです。これこそ日本の市民と大い
に異なる特色です。
①
自立の市民
アメリカの市民が自立を特色としているのは、アメリカという国の成り立ちによります。アメ
リカは移民の国です。もちろん、インディアンと呼ばれてきたアメリカの原住民がいます。かつ
て西部劇の映画で開拓に努める白人たちを理不尽に襲う野蛮人として描かれました。白人の頭の
皮を剥ぐ、なんと残酷な人間だ、といった類です。でも、もうずいぶん前に、頭の皮を剥ぎ始め
たのは実は白人の方だったのだ、ということがわかっています。
私たちはインディアンはアメリカ大陸の至る所に住んでいたような印象を受けていたのです
が、ほんとうはアメリカ全体で100万人程度しかいなかったそうです。彼らはやがて先祖伝来
の土地を追われ、researvationと呼ぶ居留区に押し込められて現在に至っています。現代になって、
もとの土地を返せという裁判を起こしたりしています。
アメリカの移民は、イギリスやフランスなどのヨ−ロッパ人が多かったのです。本国で不遇だ
った人たち、貧しかった人たちが多かったのです。
アメリカへ移民した人たちは、どのような頼る人たちがいたでしょうか。非常に少ないか、ま
ったくいなかったに違いありません。誰にも頼れません。自分を頼りに生活し、成功を夢見て努
力するしかありません。American dreamという言葉があります。成功、しかも幸運に恵まれて大
成功することがアメリカ人の夢なのです。それはお金に象徴されます。貧しさを克服し、豊かで
豪華な生活ができること。これこそアメリカの市民の理想です。現在でも、お金持ちに対する尊
-7-
敬心は日本人よりずっと強いです。日本人は、どちらかというと、お金持ちを素直に尊敬しない
傾向があります。しかしアメリカ人は違います。無条件に尊敬します。
それはともかく、自立しなけれならないアメリカでは、役所でも大学の事務室でも、商店でも、
皆さんが求めることは皆さんが探さなければなりません。誰かが親切に「あなたはあそこへ行け
ばいいですよ」とか、「私が連絡しておいてあげますよ」ということはありません。事務員がす
るべき権利は、自分が義務として課せられていることだけです。それ以外はする義務はないし、
またよく知らないことを行なって、責任を問われることも恐れているのです。
また一方では経験と能力が重んじられます。実際にはそうばかりでなくても、出発点の平等が
強調されます。
いろいろな文化を持った人々が、好むと好まざるとを問わず一つの社会を作っていく。すると
そこには共通のル−ルが必要になります。ですからアメリカ人には法を守るという意識が非常に
強いのです。アメリカでは弁護士が社会の中で活躍することが多いというのは、このことから来
ています。
アメリカでは、基本的に腹芸というのは通用しません。腹芸というのは、話さなくても分かる
という、お互い共通の文化を持っている社会で成立します。アメリカは多種類の異なる文化を持
った者が一つの社会を作ります。そこでは言葉のみがお互いのコミュニケ−ション手段です。ア
メリカ人は会話中に、日本人のようには頷きません。ただ相手の目を見ているだけです。日本人
としては苦しいところです。
移民社会というのは、私たち日本人が思いもつかない歴史と現在によって成り立っています。
アメリカに移民した人たちの中に、アイルランドから来た人たちがいます。アイルランドは、北
半球のかなり北部にあります。また土地もあまり豊かでないようです。貧しい人たちが多かった
といいます。ある一族が、一族をあげてアメリカ移住を決意したとします。すると彼らはまず、
一族の中から優秀な若者一人を選びます。貧しい中から費用を出しあってその若者をアメリカに
送るのです。
若者はアメリカの大学に入って懸命に勉強します。卒業して会社に入り、給料を貰えるように
なると、故郷から今度は2、3人の優秀な若者を呼び寄せ、自分が生活の面倒を見て勉強させま
す。その若者たちが会社に入ると、また故郷から何人かの親戚を呼び寄せます。このようにして
一族すべてをアメリカに移住させる。全員が移住し終わるまでに半世紀かかった、というのです。
②
市民のつながり
アメリカは自立の国ですけれども、一面では人間のつながりも大切にします。いわゆる学閥の
強さは日本の場合をうわまわります。アイビ−・リ−グという言葉があります。ハ−バ−ド大学
やイェ−ル大学、コロンビア大学、プリンストン大学等の有力大学は、大学を超えて卒業生を大
切にします。学閥といっても、一つの大学だけでなく、仲間の大学で利益を守るということです。
「アイビ−」というのは、植物のツタのことで、建物の外壁に這わせ、秋になると紅葉してとて
もきれいです。これら有力大学の象徴にしているのです。
アイビ−・リ−グの大学の先生の子どもは、授業料が半額免除です。アイビ−・リ−グに属し
ている大学なら、どこにおいてでもそうです。日本と違っておもしろいのは、両親がともにアイ
-8-
ビ−・リ−グの先生ならば、その子の授業料は全額免除です。私はそのような夫婦を知っていま
す。話がそのことに及んだとき、彼らはにやっと笑いました。
またアメリカ社会は寄付社会としても知られています。自立を重んじる社会ですから、お上に
命令されて動くのは好きではありません。政府でいえば、いわゆる小さな政府を好みます。その
かわり、お互いが助け合う寄付を重んじ、寄付できることは名誉なことであるという意識が社会
全体を強く覆っています。税金は安い、あるいはかからない、寄付者の名前を付けた基金や、あ
るいは大学の講座、教授ポストなどもあります。
この寄付社会は、キリスト教精神の裏づけがあります。「神のお恵みによって私は多少なりと
も余裕のある生活ができている、それはたまたまのことである、その余裕を困っている人たちに
頒けてあげるべきだ、それが神の御心に適うことなのだ」という考え方です。
また、移民で成り立っている国だからでしょう、アメリカの特色の一つは戸籍がないことです。
仮りアメリカの国内で生まれたとすると、その郡の役所に届けます。日本風にいえば、郡は州の
下にあります。郡の下には市や町、村がありますが、日本のような市・町・村の区別はほとんど
考えていないようです。それに、市・町・村というものは、そこに住んでいる住民の合意によっ
て組織を解散してしまうこともできるのです。そこの役所で行なっていた行政事務は、郡の役所
が担当することになります。
結婚すると、新夫婦が住んでいる郡の役所に届けます。それが誕生したところの郡であるかど
うかはまったく問題ではありません。離婚の時も郡の役所に届けます。たまたまその時に住んで
いるところの郡の役所にです。亡くなった時も同様です。日本のように、本籍地に行けばある人
物のことが誕生からすべて分かるというようにはなっていません。
ちなみに、日本人の夫婦の子どもがアメリカで生まれると、無条件でアメリカ国籍が貰えます。
日本で届ければ、当然、日本の国籍も与えられます。アメリカと日本、両方の市民、二重国籍と
いうわけです。しかしアメリカでは20歳になるとどちらかの国籍を選ばなければなりません。
(2) アメリカの大学
大学についていえば、まず第一に驚くことは、外国人を平気で教授にし、学部長にまでするア
メリカ社会です。日本ではなかなか困難ことです。また寄付社会ですから、意欲と努力によって
は、奨学金・基金をたくさんもらうことができます。ですからアメリカには世界中から人材が集
まるのです。
たとえばハ−ヴァ−ド大学は、世界一の学者を揃えた大学であるとして知られています。いま、
「世界一の学者を揃えた大学」といいました。もちろん、学部の学生や大学院生は優秀ですけれ
ども、それ以上に教員は優秀です。つまり大学の方針として、まず、優秀な学者を世界中から集
めることに全力をあげているのです。その学者に活躍してもらうことによってハ−ヴァ−ド大学
を有名にし、大学の経営を安定化させようというのです。そしてそれは成功しています。
ハ−ヴァ−ド大学の学生にはいろいろな人たちがいます。アメリカでは推薦状がものをいいま
すから、高校の先生の推薦状や全国に散らばるハ−ヴァ−ドの卒業生の推薦状によって押し上げ
られて入ってくる学生が多いので、さまざまな実力、としかいいようがありません。大学院生も
同じです。
-9-
大学の授業についていいますと、たとえばプリンストン大学では、一つの科目について1週に
3回の授業があります。1回は50分です。第1回は先生が講義をします。2回目は質疑応答な
ど。3回目は大学院生が学生20人程度ずつを指導して、授業の内容について討論するのです。
授業は火・水・木といった時間配分になります。そして学生は、先生から指定された本を200
頁、300頁とあらかじめ読んでおかなければなりません。先生は学生がそれを読んでいるとい
う前提で講義をするのです。指導する大学院生も、もちろん全授業に出席します。学生は討論会
などでは必ず発言しなければなりません。質問や意見などは必ず持っていなければなりません。
1週に3回の授業ですから、当然、授業科目は少ないです。日本のように広くまんべんなく、
とはアメリカ人は考えていません。
大学院の授業は、1週に50分×3回=150分で、150分をどのように使ってもいいので
す。75分を2回行なう教授もいました。私は週1回、150分で行ないました。2時間半です。
ニュ−ヨ−クのコロンビア大学大学では、新入生全員に美術史の授業を課します。美術史の授
業というと、日本人からみると、どのような絵画や彫刻が作られてきたか、時代によってどのよ
うな変化があるかなどの講義があるのかと思います。しかしコロンビア大学のこの授業ではそう
ではありません。ではどのような授業でしょうか。それは、たとえば学生にある絵を見せて、そ
れについて考えさせ、感想をいわせる。そののちにその絵の見どころなり、理解する上で参考に
なる話しなりをする。それを繰り返す。つまり、ものごとを自主的に感じ、それをことばで表現
する。人間性の養成が目的ということになります。先生も大変ですが、大学の教養課程の授業と
して一つのあるべき形であると私は思います。
高校のカリキュラムのシステムもおもしろいので触れておきます。私の娘が高校生で、すぐ近
くのプリンストン高校に入ったので、2回ほど見学に行きました。高校では、数学なら数学で、
易しく程度の低い授業と、難しく程度の高い授業とが平行して行なわれています。どちらを履修
してもよいのです。しかも一ヵ月間は変更できるのです。また昼休みの時間帯はありません。昼
食は生徒が勝手な時間に取るのです。
アメリカの大学では、採用されて5年程度すると、テニュア−を取るための審査があります。
テニュア−というのは、「定年まで在職する権利」といった意味です。この審査がなかなか難し
いのです。プリンストン大学では、新採用された人の7人に1人しか審査に合格しません。合格
しなければ大学を去るしかありません。
コロンビア大学では、数年で1回業績審査があり、それに合格してさらに4、5年後に「テニ
ュア−の審査を受けたらどうか」という示唆があれば審査が受けられるのです。示唆がなければ
コロンビアを去らねばなりませんし、審査を受けられても、合格するかどうかは分かりません。
もちろん、最初の数年でコロンビアを去らねばならない人も多いということです。
ちなみにアメリカでは会社や公務員の定年退職はありません。近年には急激に人権意識が進ん
でいて、人間を差別してはならない、年齢によっても同じことだというのです。年齢によって、
職につける、つけないということがあってはならない、ということです。さらに、就職を求める
履歴書に年齢はもちろん、性別を書かせることも禁止されています。第二次大戦後、日本は政治
上では民主主義、経済上では資本主義をアメリカに指導されて今日まできました。軍事上ではア
メリカの傘の下にいます。そしてアメリカ文化は10年後、5年後に日本に至っています。学校
- 10 -
現場、小学校での朝食、夫婦関係、親子関係、雇用関係などもしかりです。教育現場では、アメ
リカの生徒指導方針がそろそろ日本に影響を与え始めています。
アメリカ東海岸の独立宣言の地フィラデルフィアにフィラデルフィア美術館があります。アメ
リカやヨ−ロッパの「美術館」は日本で考えるイメ−ジより広い内容を持っています。アメリカ
の美術館は、日本の美術館と博物館とを合わせた内容の所蔵品・展示品を持っています。
(3) アメリカの理想と現実
アメリカはヨ−ロッパ近代に盛んになった理想の実現に努めようとしています。中世の暗い、
キリスト教に支配されすぎた社会から、古代ギリシャ・ロ−マの人間中心の文化に戻そうという、
いわゆる文芸復興、ルネッサンスの理想です。アメリカは、ヨ−ロッパに代わってそれを成し遂
げようというのです。まずその理想を形で表すために、ギリシャ神殿風の太い柱を持つ大きな建
物を立てたのです。アメリカの、特に初期に移民が盛んに行われた東海岸の都市に行くと、この
ような建物が目立ちます。市役所や郡役所、銀行、美術館などの公共性の強い建物は、だいたい
ギリシャ神殿風の外観を持っています。フィラデルフィア美術館もそうです。
このことに関連して、アメリカ人は世界を守ろう、世界の警察官であろうという政治意識を持
っています。ですから、世界中どこにでも顔を出し、政治的に問題があると彼らが判断すると、
彼らの価値観で介入します。
近年ではイラク問題介入、少し前はアフガニスタン問題介入、私が大学生のころはベトナム問
題介入です。この三つはことごとく失敗しています。
一般のアメリカ人は、人間は英語ができて当たり前、人間は英語が話せるはずだ、と思ってい
ます。よく日本の英語の教科書などで出てくる例文に、相手の話が聞き取れなかった時に、「も
っとゆっくり話してください」とお願いしなさい、とあります。しかし私の経験では、そんなお
願いをしても誰も聞いてくれません。せいぜい、また同じように早口で(これは日本人からみれ
ばですが)いわれるのがオチです。極端にいえば、英語が話せないのは知能が低いとみなされま
す。結局、相手についての理解力が不足している、相手を共通の仲間として理解すべきだという
教育が不足しているのかなと私は思います。世界中の問題に介入しては目立った失敗をするアメ
リカを見ていると、このように感じます。
(4) ヨ−ロッパ市民社会の特色
①
保守的な市民
アメリカでは次々に新しい科学技術や文化が誕生します。とても魅力的な国です。しかし南部
の農村地帯では保守的な空気が強いことは事実です。連邦政府も南部の保守的勢力を無視するこ
とはできません。
それに対してヨ−ロッパは、アメリカとはまた違った意味で全体的に保守的です。彼らは古代
から優れた文化を持っていて、近代・現代に至るまでそれを持ち続けているという自覚と誇りが
あります。ですから、ここ20、30年ばかり日本が新しい科学技術の開発を進め、家電機器な
ど次々に魅力的な新製品を安くヨ−ロッパ社会に売り込んできたことについて、一面では便利に
- 11 -
思いつつも、勝手に新しい製品を持ち込まないでくれ、自分たちの生活は今までの状態で十分だ
との不快感も強いのです。
極端な例とは思いますけれども、数年前のテレビで見たイギリス農村のある一家の夕食は、パ
ンとピクルスとチ−ズで365日、毎日これだと解説者がいっていました。現代の日本人ならと
ても耐えられないでしょう。その農家は、それしか食べるものがないとか、そのような雰囲気で
はありませんでした。要するに生活のスタイルは変えたくないのです。
階級社会も色濃く残っています。イギリスあたりは住所によってだいたい先祖伝来の身分が分
かるといいます。日本だと、金さえあればどこにでも住めます。イギリスではス−パ−で庶民の
買う品物と、貴族出身の人を中心とする上流社会の人たちの買う品物とは異なるのです。貴族た
ちの方が高い商品を買います。それは貴族用のコ−ナ−があるから分かります。これはつい何週
間か前のテレビで放映していました。
日露戦争の時の話をします。日本軍が捕虜にしたロシア兵は、かなりが四国にある捕虜収容所
へ収容されました。そこで捕虜は日本人の生活や考え方に接したといいます。戦争が終わって帰
国が許されたロシア兵は親日家になったといいます。少なくとも、日本はいい国だという印象で
帰りました。というのは、彼らは階級社会で身分制度がまだがっちりしていましたから、出身に
よって海軍大将・陸軍大将になれる者は決まっていました。歩兵や水兵にしかなれない身分の者
は、どんなに能力が優れていても大将にはなれませんでした。しかし日本では勉強して受験に合
格すれば誰でも陸軍大学・海軍大学に入れるし、やがては大将にもなれる。日本はなんといい国
だろうということなのです。
それから100年経っていますけれども、考え方の根本はなかなか変わりません。「人間は生
れながらにして平等である」とか「人は法のもとに平等である」とかイギリスやフランスの思想
家・法学者たちはいいました。それを伝え聞いた日本人は、まともに信じて、そうか、ヨ−ロッ
パ人は立派だ、ヨ−ロッパでは人間は皆平等なのだ、と思い込んでしまいました。でもイギリス
にはまだ貴族制度があるし、労働者との意識の対立には根深いものがあます。つい最近の『朝日
新聞』2006年6月15日号にも、ブレア内閣の副首相ジョン・プレスコット氏に対する保守
層からの攻撃が出ていました。
プレスコット氏は北ウェ−ルズ地方の鉄道員の息子として生まれ、進学に失敗、大西洋航路の
豪華客船の給仕として働き、金持ちの乗客からのチップで生計を補った、とあります。努力して
労働党内閣の副首相まで上り詰めたのですが、おりに触れての旧支配階級からの嫌味・攻撃は絶
えないようです。
イギリスは開かれた王室を掲げて、日本の天皇家の模範ともなっています。それを演出してき
たのはエリザベス女王の夫であるエディンバラ公であるともいわれています。またチャ−ルズ皇
太子は、ロンドンに住み、一種の飲み屋であるパブにも一人で行く、ここがそこだと教えられた
こともあります。また皇太子の屋敷は広い公園の一角にあり、私は昨年ロンドンに行った時に、
専用の自動車に乗って道路から屋敷に入ろうとする皇太子を、数メ−トルの距離から見たことも
あります。たいした護衛もついていませんでした。気さくな王室一家というわけです。
日本から見れば文化や政治はアンバランス、しかし彼らから見れば日本こそアンバランスなの
でしょう。
- 12 -
一転して外交政策になれば、彼らの厳しさと百戦錬磨の戦術には、日本はなかなかかないませ
ん。最近、韓国との関係での竹島問題や、中国との関係での尖閣諸島問題、ひいてはロシアとの
関係で北方四島問題など、領土問題が日本でも注目を浴びています。日本人の論理は、「ここは
日本固有の領地です。これこれこのような記録があります」というものです。
ヨ−ロッパ人の論理は違います。「取った所が私の領地だ」というものです。固有云々の論理
は通用しません。そんなことをいってたら、一つの土地に次から次に異なる人種が攻め込む歴史
を繰り返してきたヨ−ロッパでは、話がまとまりません。いま所有しているところが自分たちの
領地、という論理がもっとも分かりやすいのです。だからといって、すぐ軍事力に訴えて他国の
領地を奪い取っていいというものではありませんが。
②
民族自決とEU
第二次大戦後、日本、ドイツ、イタリアの植民地であった国々が独立を果たしました。これが
ある民族の政治体制はその民族で決めるという民族自決の流れの第一波です。やがてイギリス、
フランス、オランダ、ポルトガルなどの植民地であった国々も次々に独立していきました。これ
が第二波です。さらにここ十数年、ヨ−ロッパを中心とした民族ごとに独立を果たそうという動
きが高まり、それはまだ続いています。第三波です。これは植民地であった国が独立しようとい
うのではなく、複合的な民族で構成されている国家が、それぞれの民族ごとに別々の国家を作ろ
うという政治的動きです。
そのきっかけは1980年代後半からのソビエト連邦の構成員であるエストニア共和国、ラト
ビア共和国、リトアニア共和国のバルト3国の独立問題です。いずれも独立を果たしましたが、
やっかいなことに半世紀に及ぶロシア人支配の下で、ロシア人がかなりの割合でそれぞれの国の
人口を占めるに至っていたことです。当然、そのロシア人の多くは独立を嫌いますので。
またチェコスロヴァキアがもともとのチェコとスロヴァキアに分かれました。ユ−ゴ−スラヴ
ィアは北からスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア・モンテネグロ、
マケドニア等に分かれました。この5月にはモンテネグロの国民投票でセルビアと統一国家を続
けることやめて独立することが決まりました。セルビア・モンテネグロの領地ですけれども、事
実上、国連の管理下にあるコソボも、やがては独立の動きが加速することが予測されます。
問題は、旧ユ−ゴスラヴィアでもっとも経済的に豊かであったスロヴェニアでも、人口が19
9万人でしかないということです。モンテネグロは数十万人、コソボに至ってはその何割かしか
ありません。これでどのようにして経済的に自立していくのか。世界の国々に大使館を作らなけ
ればならないし、軍隊も持たなければならない。スペイン東北部からフランス西北部に住むバス
クの人たちも独立の動きが起きてから長いです。
かつてル−マニアの一部を構成していたけれども、ロシア人もかなり住んでいるということで
ロシアの中の共和国となっているモルドバ共和国。ここでも独立の動きがあります。すると、モ
ルドバの中のロシア人が人口の多くの割合を占める地方では、その中でも独立を果たそうとして
います。しかし人口わずか十数万です。独立したところで、どのようにして世界の中で国の体裁
を保っていけるでしょうか。すでに、同規模の独立を求める他の二つの地域との共同体を作ろう
という動きもあるようです。ただし三つの地域はかなり離れています。
- 13 -
民族自決の第3の動きが顕在化する以前、ヨ−ロッパではソビエト連邦を中心とする共産主義
国家(「東側」ともいわれていました)と、アメリカを中心とする資本主義国家(「西側」ともい
われていました)とがしのぎを削っていました。それぞれが政治的・軍事的団結組織を作ってい
ました。西側では、それは北大西洋条約機構と称していました。本質は軍事同盟です。やがて西
側には欧州経済共同体 European Economic Community ができました。
長い間続いた冷戦が消滅し、東側からの脅威がなくなって、西側では新たな経済中心のより緊
密な共同体が成立しました。EUです。共同体を構成する国の国民であるかぎり、国境での検問
はほぼフリ−、各国にもかなり自由に移動し、住み、仕事をすることができる。そして構成国は
共通の通貨「ユ−ロ」を使うことが始まっています。全体を統括する欧州議会も発足しています。
EUは国家間の緩やかな連合、といった所です。アメリカを頂点とする世界体制に対抗していこ
うという政治的動きでもあります。
むろん、問題もすでに発生しています。それは貧しい人々が豊かな生活と職を求めて発展して
いる国・地方に移動することです。安定的に生活していた人々は、これらの人々によって経済的
に動揺するし、治安の悪化もいわれています。ここにナショナリズムが強くなり、移民反対の動
きも目立ちます。右翼的な政党が以前より多くの支持を集めるという結果も招いています。
民族自決の結果誕生した人口・面積の小さな国は、EUに入ることで将来の活路を見い出そう
としています。それは国の政策としては正しいと思われます。経済的発展の遅れている旧東側の
諸国もEUへの加盟が増加しつつあります。ただし、問題も発生しつつあることは、いま述べた
とおりです。
国家の分裂と縮小、包括的な統合体。歴史的に見れば、ヨ−ロッパでは何百年来この繰り返し、
ということでしょう。今後どうなるか、どうするか。きわめて政治的な課題です。
(5) ヨ−ロッパ市民社会
①
フランス
皆さんはヨ−ロッパの歴史が漠然とでも頭にあるでしょう。いろいろな民族が入り乱れ、国境
もいろいろと変わってきました。フランスが近代国家として出発するとき、もっとも頭を悩まし
たのが何をもって国家としての統一体を維持するか、ということです。なにせ、今日の国名でい
えば、国境を陸上でスペイン、イタリア、スイス、ドイツ、ベルギ−等と接していますし、国の
中も「フランス」という統一体を維持するのに賛成の人たちばかりではありません。結局、フラ
ンスが選んだのは言葉でした。そのころの都であったパリ付近の言葉を「フランス語」と定めて、
領地内の人々に使用することを強制したのです。「フランス語は世界一美しい言葉である」と標
語を定めて、国民統一の紐帯としました。
フランスのパリ地方以外の人々には、当然、これが不満です。抵抗があります。あるからこそ、
フランス政府はフランス語の維持に努めてきました。これがフランス語だ、この発音がきれいな
フランス語だ、このように会話をしなさい、といい続けてきました。
島国にある日本は、国家がばらばらになる、言語を統一の紐帯にしようという心配はありませ
んでした。ですから、これが日本語だ、という強い政府の方針などは出たことがありません。
- 14 -
フランスではそんなに心配なのか。たしかにそうなのです。なにせ、現代フランス人の祖父母
の4人に1人は外国籍なのです。フランスとしての統一体、フランスの一員としての市民意識を
維持していこうとすれば、かなりの努力が必要なのです。そこには必ずといっていいように人種
問題が起きます。
一昨日から日本でも話題として大きく取り上げられているサッカ−・フランスチ−ムの主将ジ
ダンはアルジェリアからフランスに移民して来た両親の子としてマルセイユで生まれています。
ワ−ルドカップの決勝戦で相手のイタリアの選手に頭突きをくわしたきっかけが人種差別発言
なのではないかと騒がれています。
さて言語のことに戻れば、日本では、明治に入って東京山の手の言葉を軸にして日本語が意図
的に形成されました。当時の言葉でいえば「国語」です。
フランスの市民は、自主性に富んでいます。これはヨ−ロッパ人すべてにわたっていえること
でしょう。そしてまたドイツとイギリスへの対抗意識が強いことでも知られています。フランス
人は、英語が分かっていても、外国人とは英語で話さないと言われてきました。でも最近はそう
もいかなくて、英語で尋ねられれば英語で答える、というようになってきました。時には嫌な顔
をして答えない、という人もいますが。
ところで、歴史的に見れば、パリは北方の中心地です。南方にもフランスの第二の中心的な都
市があります。リヨンです。昔、古代ロ−マ人たちが作った植民都市がその始まりです。彼らは
河に望む丘の上に街を作りました。
リヨンには伝統ある大学として、リヨン第一大学、リヨン第二大学、リヨン第三大学等があり
ます。日本でもヨ−ロッパでも大学紛争の嵐が吹き荒れたころ、大学改革があり、リヨン大学が
いくつかに分かれたのです。その中の一つで、有力な日本研究者が集まっている大学がリヨン第
三大学です。
②
ベルギ−(旧オランダ)
仮りにEUを欧州全体を覆う組織と考えれば、その中心はベルギ−にあります。日本から見れ
ば、ベルギ−は欧州の一小国にすぎませんが、政治上では大きな役割の場を提供しています。そ
れはEUの本部がベルギ−のストラスブルクにあり、欧州議会が同じくベルギ−のブリュッセル
にあるからです。ヨ−ロッパの大国といえば、ドイツ、フランス、イギリスでしょう。このうち、
EUはドイツとフランスが軸となって作ったものです。イギリスはEUの勢力が大きくなってき
たのでやむなくEUに接近していますが、できればEUの単なる一員にはなりたくないのです。
ドイツとフランスの間にあるのがベルギ−です。しかも、ベルギ−の南部はフランス語圏、北
部はフラマン語が使われています。フラマン語はドイツ語に近いオランダ語の一方言です。ドイ
ツとの国境に近い地域ではドイツ語が使われています。つまり、ベルギーは地理的にもヨ−ロッ
パ全体のほぼ中央であるし、ドイツとフランスの中間地帯でもあるし、言語上の中間であるし、
ちょうどいいのです。
ベルギ−は、穏やかな中小規模の都市や農村、漁村で構成されています。落ち着いた人生を送
る人たちが多いだろうなあという印象の国です。
- 15 -
③
スロヴェニア
私たち日本人はアメリカ文化・政治の影響を強く受けています。それは特に第二次大戦後に日
本を占領した中心がアメリカであり、また日米安保条約を結んで、政治的にも軍事的にもアメリ
カの傘の下で発展してきたということによります。そしてアメリカが英語を使っていることでも
分かるように、アメリカはヨ−ロッパ、特にイギリスの強い影響下にあります。イギリスは原住
民に近いケルト人などもいますけれども、ドイツやオランダ等から渡ってきたアングロ人やサク
ソン人、別のいい方ではゲルマン系の文化が中心です。彼らはどちらかといえば攻撃的で積極的
な性格です。
さらにフランスやスペイン、イタリアなどの文化も日本に大きな影響を与えています。いわゆ
るラテン文化です。明るい、陽気な文化、というのが私たちの印象です。
しかしヨ−ロッパにはゲルマン系でもなければラテン系でもない文化があります。それはスラ
ブ人の文化です。穏やかな性格の文化です。日本人は第二次大戦末期にソビエト連邦と戦争した
ために、スラブ人に対してやや偏った見方をしていると私は考えています。ほんとうのスラブ人
は友好的で、穏やかな人たちです。その例をスロヴェニアで見ることができます。
スロヴェニアはもとユ−ゴスラヴィアの一部でした。しかしユ−ゴ紛争のなかで1991年に
独立しました。これはスロヴェニア人が有史以来初めて持った独立国家です。1991年までは
国がなかったのです。数百年間、ドイツ人に支配されていました。
現在の人口は199万人あまりです。南はアドリア海に面しています。といっても、イタリア
とクロアチアに挟まれて、海岸線はほんの数キロしかありません。彼らの使用しているスロヴェ
ニア語の形成は、日本語の形成と同時期です。またスロヴェニア人は国家としてナポレオンに感
謝しています。それはドイツ語の支配下の中で、スロヴェニア地方の言葉で教育する学校制度を
整えてくれたからです。
ユ−ゴスラビアは共産主義国家とはいっても、ソ連とは一線を画していました。しかし共産主
義国家であったことは間違いありません。それが1991年かから急速に資本主義国家へと変貌
しました。私は1997年、1999年、2005年および2006年とスロヴェニアを訪問し
ています。一つの国の政治体制と社会・文化が変わりつつあるのを興味深く眺めています。
スロヴェニアは人口・面積ともにとても小さい国です。自分の国だけで政治や経済が完結する
と考えることはできません。早くからEUに参加を希望し、やっとそれが認められました。来年
早々からは通貨にユ−ロを使用することになっています。大学生では1人で3、4ヶ国語ができ
て当たり前です。1年間は外国留学を義務づける動きもあります。
(6) ヨ−ロッパからアジア=トルコ
ヨ−ロッパとアジアを結び、また隔ててきたのがボスポラス海峡です。現地のトルコ語ではボ
アジチ海峡といいます。トルコはイスラム教徒の国で、かつては強大な勢力を誇り、広い領土を
有していました。しかししだいに領地を減らして現在の姿になっています。
ボスポラス海峡からエ−ゲ海、地中海、いわばトルコの西部で政治的・軍事的に問題となって
きたのはギリシャとの関係です。トルコは長い間ギリシャを支配下に置いていましたが、ギリシ
ャの根強い抵抗と戦いによって独立を認めざるを得ませんでした。私たち日本人はギリシャとい
- 16 -
うと親しみを感じますが、トルコ人は必ずしもそうではありません。
トルコの東部でも長い間の政治問題があります。それはイラクの国境近くに住むクルド人の独
立問題です。トルコ国内には100万人のクルド人が住んでいます(トルコ全体の人口は680
0万人です)。イラク国内にも350万人のクルド人がいます(イラク全体の人口は2300万
人です)。トルコ政府は少数民族の独立問題はない、と言明していますが、実際にはトルコとイ
ラクにまたがって住むクルド人の希望は自分たちの国を作ることです。トルコの政情不安のひと
つはこのクルド人問題です。
ではこのような少数民族の問題が日本にまったく関係がないかというと、そうではありません。
日本も在日韓国人・朝鮮人の人たちの問題があります。日本における少数民族問題です。数十万
人いるはずです。ヨ−ロッパだったら、十分に独立を主張できるだけの人数です。日本のなかで
は韓国系と北朝鮮系に分かれて対立してきました。つい最近、歴史的な和解が成立しましたが、
一ヵ月半ばかりでその和解は取り消しになりました。北朝鮮のミサイル発射もその要因となりま
した。
このようなトルコですが、実は大の日本びいきです。それはトルコが長い間戦ったロシア人を
日本は打ち負かした、ということから出発します。現在でも、トルコの首都イスタンブ−ルの郊
外や海岸に行くと、トルコの人たちが「日本人ですか」と話しかけてくることが多いです。「そ
うです」と答えると、彼らはうれしそうに笑います。これがアメリカあたりへ行くと「中国人で
すか」と聞かれたり、あるいは韓国語で話しかけられることが多いのです。
それに、トルコ人の男性はとてもやさしいのです、一般的に。そしてこれも私たちの常識と異
なって、トルコでは母親の権威がとても強いのです。トルコの男性は結婚しても、毎週のように
近所に住む母親を訪れます。電話でご機嫌伺いをするだけではだめなのです。かつてトルコの王
様が多くの女性たちを侍らすハ−レムがあったことから、トルコの男は強いのだ、と考えるのは
誤りのようです。
イスタンブ−ルにあるボアジチ大学はトルコで最もレベルの高い大学です。もともとはトルコ
在住のアメリカ人のための学校でした。その伝統をひいて、現在でも授業は一部を除いてすべて
英語で行なわれます。一部とは、イスラム教のコ−ランの授業のことです。入学して1年間は英
語の勉強をすると聞いています。
日本人もトルコに政治的にも経済的にも、また学問研究面でも積極的に近付いていきたいもの
だと思います。しかし日本から見れば政情不安やテロなどもあり、なかなか難しいところです。
5月ころに、観光客が増え始めるころを狙って爆弾テロがあったりします。トルコの人たちは大
したことはない、大丈夫だ、といいます。たしかに、結果的にはそのようなことが多いのです。
しかし何かあったとき、どこへどう逃げたらよいかわからない日本人としては、近寄りたくない
気持が生まれるのもやむを得ません。
(7) アジア
ここからは地理的に身近な中国、台湾、韓国の話をいたします。最初に中国からです。中国や
韓国の人たちは、私たち日本人と顔などの風貌がよく似ています。地理的にも近くに住んでいま
す。それで考え方も同じようだと錯覚することがあります。でも、異なっているところも多いの
- 17 -
です。アメリカ人の考え方の方が日本人に近い、と思うこともあるのです。
①
中国の市民社会の特色
中国は、現在、世界に残った数少ない共産主義の国です。政治的には、いわゆる民主共産主義
を取っています。つまり、職場で代表者になる人を推薦し、その人を選挙の形で選ぶ。このよう
にしてだんだん上の組織にあげていく。最終的に組織構成が決まったら、今度は上から下に命令
や指示がおりてくる。その指示に従って全体が動く。最高指導者はよほどのことがないかぎり、
変わらない。皆が選んだ優れた指導者なのだから従うべきであるというのです。農地も会社も私
有を禁止して公有にしました。
しかし、長い間には共産主義経済の欠陥が表面化しました。つまり、例えばまだ仕事がおわっ
ていなくても、定時になったら仕事を止めて帰宅する。作物がよくできていなくても、手当てを
しない。中国では人数が多いので、ひとつの仕事も2人、3人で担当するようにしました。する
とお互いに協力するどころか、お互いにお互いの監視しあうだけで仕事の成果が上がらない、と
いう結果になってしまいました。
しかし、中国も試行錯誤で工夫し、特に1980年代後半からの世界的な共産主義の危機に当
たって資本主義的な政策を取り入れて経済的な発展を驚異的に伸ばしつつあります。中国の若者
の人生に対する意欲的な態度は驚くほどです。経済発展を成し遂げて、何でもある、個人的には
どのようにしてもメシが食っていける、一方では社会で活躍する希望が消えつつある日本とは多
違いです。
それに、中国の人口は公称14億人です。加えて戸籍のない人、つまりは人口調査の網に引っ
掛からない人が1割は存在すると聞いています。14億人の1割といえば日本の人口以上です。
なんと中国では日本の人口以上の人が戸籍なしで生きているのです。このほか、中国人は世界中
に展開しています。いわゆる華僑の人たちです。
華僑の活躍は16世紀後半からです。中国大陸の人たちが東南アジアへ進出を始めたところか
ら始まりました。同じころ、日本人も東南アジアへの展開が始まりました。しかし江戸幕府の厳
しい鎖国政策によってそれは途絶えてしまいました。日本人の海外への展開は、明治時代になる
と再び開始しました。ハワイでは第二次大戦が始まる直前には4割が日系人でした。中国の満州
(現在の東北地方)に対しては日本人の人口を1千万人にしようという計画を立てて移民を送り
続けました。その結果、多くの悲劇を生みました。
さて中国の急激な経済発展は、多くの公害を生んでいます。経済が発展すればするほど石油等
のエネルギ−が不足します。現在東シナ海で中国政府が日本との対立を承知しつつ石油発掘に突
き進んでいるのはこの現れです。日本やアメリカなどは公害先進国ですから、中国に警告を発し
続けているのですが、先進国は勝手に発展してしまっている、後進国の自分たちも発展するのは
自分たちの権利だと主張して、なかなか公害のもとを断とうとしません。それよりも先進国に追
い付くのが先だ、それがなぜ悪い、先進国は勝手に公害を撒き散らしておいて、という主張です。
でも、中国は国土が広く、人口が多い分、公害もすさまじいのです。私は中国のさる海岸の入
江で、見渡すかぎりの海の表面に白い泡が立っており、岸辺が青く変色しているのを見たことが
あります。工場の廃水が流れこんでいるのです。広い入江の入り口を堰き止めて埋め立ててしま
- 18 -
う気配ですが、もしそうするとその排水は地面の下に残ることになります。
中国第一の大河揚子江(中国では長江といいます。揚子江は長江の河口付近の一部の名称です)
も、近年には急速に水量が減ってきたといいます。上流で工場用に大量の水を取ってしまうから
です。問題は深刻です。
一方、日本人が中国人と共同で真剣に取り組まなければならないことがあります。それは、東
アジア経済圏の構築です。世界的に政治・経済の発展の仕方を見ると、1国で発展を期するので
はなく、いくつかの国が地域的なグル−プにまとまって発展を期す方向で動きつつあるように見
えます。アメリカを中心とする北米グル−プ。EUの欧州グル−プ。そしてこれらに対抗してい
くためには中国・日本・韓国を中核とする東アジアグル−プの団結が必要であるという考え方で
す。
そうかなるほど、それがいい、と考える人は、おそらく多いと思います。ただ具体的な方策は
簡単ではありません。東アジアグル−プを作るのは時間と、まとめようという意欲が必要である
という意味です。この課題に関しては、最も経済的に発展してしまっている日本がもっとも遅れ
ています。中国や、北朝鮮の問題を抱えている韓国の方が進んでいます。
何をしなければいけないかというと、まず、共通語の作成です。たとえば、現在、世界共通語
になっている英語のような存在を東アジアで作らなければなりません。ひとつの言語では無理だ
ろう、すると日本語・韓国語・中国語でしょう。つまり、近い将来の日本人は中国語と韓国語も
学ぶ必要があります。幸い東アジアで共通に使用されている文字もあります。漢字です。ただこ
の三ヶ国では、同じ漢字でも違う意味で使われている字もありますし、韓国ではハングルが一般
的で、大学生でも漢字が読めない人が多くなっています。中国では第二次大戦後に簡体字を作り
まして、それが流通しています。日本の漢字はあくまでも表意文字ですが、中国では表音文字化
しています。
こんなことがあります。韓国のいくつかの大学では、中国からの留学生を熱心に招いています、
その大学に来れば韓国語が学べます。当然のことでしょう。でもそれだけではないのです。日本
語も学べる、というのがウリになっています。なんと、韓国では中国の若者に、韓国語と日本語
が学べるからと誘っているのです。そして日本にとっての脅威は、同じことを中国でも始めてい
るのです。中国に大学に来れば、中国語と韓国語が学べます、という誘いです。日本を置いてけ
ぼりにして東アジアグル−プの形成に走り始めています。
日本はいつまでも教科書問題や靖国問題でぐずぐずしている時ではないのです。問題が起きた
ときに対処しようとしても、それは無理です。起きる前から、お互いに十分に話し合い、お互い
の考え方を知り、親しい友人になっておかねばなりません。第二次大戦に関するお詫びについて
も、お互いの考え方がよく理解されていないのです。特に日本人が韓国・中国の人たちの考え方
を理解するように努めなければなりません、それをしていないのが大きな要因で、いつまでも問
題が続くのです。
「お詫び」ついて、日本人と同じようには韓国・中国の人たちは考えていない、
と日本人は理解すべきなのです。
日本人の「お詫び」について、私はこの「国際交流報告
1」の講演記録の部分で述べてあり
ます。
ところで、中国の東北地方の中心に大連という都市があります。大連およびその付近では、日
- 19 -
本との友好関係を軸に発展していこうという動きが強くあります。大連には日本の会社が3千社
も進出しています。日本もさらに応えなければなりません。
大連にはいくつかの大学があります。大連外国語大学が歴史が古く、権威があるのですが、近
年に総合大学となった大連大学の活動ぶりは目立ちます。近年といっても、二十年近くなります。
②
台湾の市民社会
台湾には、中国の一部かそうでないのか、という議論があります。もちろん、大陸の中国政府
は中国の一部であるという考え方です。しかし台湾の方は複雑です。大陸に共産党政権ができた
時、国民党の人たちや軍隊は大挙して台湾に逃げ込みました。これを外省人と称しています。彼
らの多くは大陸の故郷に帰りたい、という考え方、つまりは統一派です。
かつての国民党の指導者蒋介石の記念館です。学問・文化を台湾にもたらした、と評価されて
います。
しかし台湾にはもともとそこに住んでいた人たちがいます。本省人です。彼らの中には、国民
党の人たちに反発し、台湾だけで独立しようという考え方を持っている人たちもいます。かなり
前ですが、中国を代表する政府を、世界の多くの国々は国民党政府から共産党政府に変えてしま
いました。日本政府もそうです。ですから、正式には日本は台湾の政府とは国交がないのです。
実質的な交流は、ほとんど支障なく行なわれていますが。
台湾の人たちの多くは親日的です。前に述べた東アジア経済圏でも、台湾は大きな役割を果た
せるはずです。日本はもっと台湾を理解して共通の生活を行なえるように努力すべきであると思
います。
③
韓国
韓国でも近年の経済発展は目を見張るものがあります。最近韓国に行きましたが、物は豊かだ
し、生活はずいぶん裕福になっています。テレビのドラマでも日本人に大いに受けています。二
十年くらい前まではかなり異なっていた顔つきも、近年の韓国人の若者の顔は、日本人の若者の
顔とほとんど区別がつかなくなってしまいました。でも、日本人と韓国人では決定的といっても
いいくらい、違うところがあります。それは第1に北朝鮮問題を抱えていることです。北朝鮮の
経済が破綻に瀕していることは分かっています。もしその北朝鮮が崩壊して何千万人という人が
韓国領内になだれこんできたら大変なことです。そうならないように現在でも北朝鮮を支えてい
ます。
若者でいえば、徴兵制度があることが大きな違いです。これが第2です。近年、その期間が3
年から2年になりました。それでも、その間、人生での修業期間は中断します。日本の若者とは
大違いです。第3に、韓国人の気質があります。自分の意見をはっきりいう人たちであるという
ことです。しかも黒か白かはっきりさせようとします。この点では彼ら彼女等は、日本人よりア
メリカ人に近いです。
冷戦時代には、韓国は中国・北朝鮮の共産主義から日本を守る堤防になってやっているという
意識もありました。
前に述べたように、日本には在日韓国人・朝鮮人の人たちの問題があります。日本における少
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数民族問題です。数十万人いるはずです。ヨ−ロッパだったら、十分に独立を主張できるだけの
人数です。日本のなかでは韓国系と北朝鮮系に分かれて対立してきました。つい最近、歴史的な
和解が成立しましたが、一ヵ月半ばかりでその和解は取り消しになりました。北朝鮮のミサイル
発射もその要因となりました。
在日の人たちは日本人に差別されてきました。現在でもなくなったとはいえません。そして在
日の人たちは本国でも差別されました。二重の差別です。しかしつい最近の『朝日新聞』(20
06年7月7日、社説)によれば、在日の人たちはすでに1世・2世の時代は過ぎて、3世・4
世の時代となっているそうです。そして結婚相手は9割が日本人となっているそうです。時代は
変わります。私たちは十分に韓国人の人たちの考え方や待遇を考えてあげなければなりません。
おわりに
私たちはこのような世界のいろいろな問題に注目して研究を進めています。文科系の研究は、
一見何のために行なっているのか分からないところもあるかと思います。私たちは私たちが明日
人間としてどう生きればよいか、それを探るために研究を続けているのです。本プロジェクトで
は今日お話した以外の世界の地域、アフリカや南アメリカについても熱心な研究が進んでいます。
その成果も世に問いつつあります。
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