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教皇レ オ 9 世と聖職者 「独身」制 `)
Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College 教皇 レ オ 9 世 と聖 職 者 「 独 身」 制 ’) 尾崎 秀夫 は じめ に 一 般 に ll世 紀 半 ば に 始 ま る 教 会 改 革 当時 の 教 会 に お い て 横行 した シ モ シ モ ニ 制 につ ア い て は 、 蓄妾 が 横行 し て うの シモ ニ で た 、 い 。 この アの が 非 難 され た 。 禁 令 は 全 く守 ら れ ず 、 聖職者 「 独 身」 。 世紀 初 頭 に 教 る 、 ll世 紀 に は 聖 職者 の 妻帯 。 それ は 4 い ・ 、 。 問題 が 神聖 、 ーマ ロ 帝 国 の 帝 国教 会 制 と の 聖 職者結婚 に つ ロ タ い て は か らみ で イ プ な理 解 で 済 ま さ れ 多 くの 場 合 ス テ 、 あ る い は 禁 じ られ た とい う記 述 に 終始 し て 聖 職 者結婚 の 何 が 問題 と され 妻帯 し て い る こ ない い 。 、 、 叙 品 以 前 に 結婚 し た の で こ い る よ い た わけで ない 聖 職 者 夫婦 に は 貞潔 義務 を 求 め た 職 者 が 妻 を 娶 る こ とが 禁 じ られ た の そ れ か ら も妻 と 暮 ら す で 、 、 うに思 わ れ 禁 じ られ た たの で ある い 問題 で な か 一 。 。 教 会法 は聖 叙 品後 に 聖 あ り、 妻 帯 者 が 叙 品 され て 聖 職 者 と な と は 認 め られ て あれ ば 聖 職者の 結婚 す で に 筆 者 が 明 らか に し た よ う に 聖職 者 が と は 必 ず し も教 会 法 に 違 反 し て 職者 が 結婚す る こ とを 禁 じ 、 そ れ が ど の よ うに 非 難 さ れ 、 詳細 に 検討 さ と りわ け 日本 に お い て 十分 な 考 、 、 分 に 検討 され て 、 、 改革 は 教 会法 を徹底 さ せ 、 聖 職 者 独 身制 を確 立 した の か は十 り 改革の 原 因は 職 者結婚 と され る 2 ) 周 知 の 通 り ア と聖 ニ ス あ る 3) 察が 行 わ れ ず 。 わゆる グレゴ リウ 通説 で は 次 の よ うに 理 解 さ れ て れ て きた の に 対 し る い と は 聖 職 を金 銭 な ど に よ っ て 獲得 す る 行為 で あ る 会法 で 禁 じられ た が とい 、 っ た 4) 。 。 聖 職者 の 妻帯 は で はグ レ ゴ リウス 、 改革 31 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College うな教 会法 を ど の は こ の よ 更 した の か 一 うに 実行 し よ う と し た の か よ 。 般に グ レ で は 9LU一の 聖 職者結婚 に 対 す る 闘争 は ど の 。 か 。 レオ オ 9 世 か ら始 ま る と言 改 革 は 1049 年 に 登 位 し た 教 皇 レ オ レ ゴ リウ ス わ れ る 5) 、 あ る い は そ れ を変 、 9 世 も積 極 的 に 聖 職 者 結 婚 闘争 を遂 行 し た と さ れ る 6 ) との 。 よ うに行 わ れ た の で あろ う そ れ は 当初 か ら俗 人 とは 異 な る 倫 理 を聖 職 者 に 求 め る も の で あ っ た の か 本稿 で は レオ 9世が 。 主 に 各 地 で 開 催 した 教 会 会議 に よ っ て 聖 職 者結婚 の 問 、 題 に ど の よ う に 取 り組 ん だ か を 検討 し て きた い い 。 1 . 改革 教 皇 庁 の 成立 3 人 の 教 皇が 並 び 立 つ とい 入 に よ っ て 終止 符 を打 っ た トゥ ス 9世 と グ レ ゴ リウ ス イ リ ヒ の 宮廷司祭 で れ ン 、 彼は ク レメ ン ス 。 う教 皇 庁 の 混 乱 は 6世 ヴェ ス テル シル 、 バ ン ベ ル イ ハ 、 の て ネデ ィ ク ベ 、 っ た 。 ハ 新教 皇 と し て 指 名 さ リ ヒ の 皇 帝戴 冠 を行 ン 3 世の 介 ン リ ヒ た 7> っ 。 こ れ うこ とが で き よ う 。 、 。 っ イ 改革 を教会 の 俗 権 か ら の 解 放 と 捉 え る な ら 始 は 奇 妙 な もの に 思 え よ う し た 皇 帝権 に よ ハ 3 世 は 教 皇位 を 失 ク 司教 ス イ トゲ ー ル が 2 世 と名 乗 り るグ レ ゴ リ ウス 王 ッ 彼 は 1046 年 に イ タ リ ア 遠征 を行 い に よ っ て 改革 教 皇 庁 の 端 緒 が 開 か れ た と い い わゆ ドイ この 開 ま さ に 教 会 が そ の 軛 か ら逃 れ よ う と なぜ な ら 、 改 革 教 皇 庁 が 開 か れ た こ と に な る か らで あ る 。 教 会改 革 焦点 の ひ と つ は 俗 人 叙 任 の 否 定 で あ っ た が 、 改革 教 皇庁 は 俗 人 で あ る 皇 帝 に よ っ しか は ない 指 名 され た 教 皇 に よ て し 。 、 教 っ 始 まっ た こ と に な る て 会 改 革 は 最初 か ら 一 定 の ヴ ィ ジ ョ ン を持 っ て 開 始 さ れ た わ け で そ れ は い わ ば 紆余 曲折 を経 て 進展 し た の で あ る 頂 点 と す る 俗権 と の 闘争 が 目指 され て い た の で は な い 権 の 協力 関 係 が 望 ま れ て 家や 。 ク レス ケ ン テ ィ い た 家 などの 。 ロ 当初 の 第 ー マ 。 。 最 初 か ら 皇帝 権 を む し ろ 教 皇 権 と 皇帝 1 の 問題 は 教 皇 庁 が トゥ 、 周 辺 の 貴 族 に 私 物 化 され て 一 32 い ス クル ム る こ とで あ 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College り 、 の 皇 帝 の 介 入 は そ れ を 終 わ らせ る の に 必 要 で あ っ た 介入の 意図に つ い て は議 論 が あるが リ ヒ 、 2 世 を 任命 した こ と は 少数 の 例 外 を 除 い メ ン ス ン 3 人の 教皇を排除 し 教 皇ク レ 彼が 、 た しか に ハ イ 。 て 広 く歓 迎 支持 され た の 、 で あ る 8) 。 ク レ メ ン ス は 登 位 直後 の 禁 じ る 教令 を発 し た 9 ) しか し 。 後 継 者 と して ブ リ ク セ 乗っ たが ある ン リヒ に よ エ っ て イム と ダ グ ス ブ ル ク の 伯 で の 従 兄 弟 ユ ー グ の 息子 と し て 1002 年 に 生 ま れ た 11) 若 い ハ 、 ン て ロ ー トリ そ の も と で 教 皇 庁 に よ る 教 会改 革 が 本 格 的 に 開始 す る ラ ー トの ゲ 彼 の 前任者 ク ン の 宮廷 に 入 っ た 。 て ロ て 2 世 とダ っ ー マ の 聖 職 者 と民 慣 例 に 反 して 教 皇 と し て マ て い た。 彼は レオ こ レオは 。 と と なる イ 前の ン リ ヒ 9 世 と称 な く 、 巡 、 3 世の 指名 を 2 人 の 教皇 とは 異 な 、 て し 。 も そ の ま ま受 け入 れ る の で は な く つ 教会 選 ば れ る とい うこ と を 条 件 と し 礼服 を 身 に ま と っ て 1049 年 2 月 2 聖 職 者 と 民 衆 の 承 認 を 受 け な けれ ば こ の ま ま ロ ー マ を 日に ロ 去っ て ドイ ツ に 帰 る と 宣 言 、 人 々 の 、 っ 2 世 は 皇 帝ハ ス ス 衆に よっ で は 1026 年 か ら ト ゥ ー ル 司教 と し 、 た と され る 任命 を尊 重 しつ ーマ に入 り 皇帝 に 仕 え 教 会 改 革 と も 深 く関 わ レメ ン ス ン リ ヒの こ 。 そ の ま ま受 け入 れ て 教 皇 と な 法に則 っ 父で ある皇 ン リ ヒ の ハ らコ ン イ ス ろ か イ と名 ギ ー ト2 世 ハ 2世 ス ス そ の ー ーノ 教 皇 の 位 に 据 え ら れ た の が ト ゥ ル 司教 ブ ル ン ラ 、 、 アを 。 帝コ り ニ 、 彼は 。 そ の 年 の 10 月 に 急 逝 し ポ が 後継 者 に 任 命 さ れ ダ マ ッ シモ 、 彼 も数 日後 に 亡 くな り 改 革 の 実 を挙 げ る こ とは で きな か っ た 10) 、 次 に ハ イ で ク レ メ ンス は 、 司教 ポ ン ーマ 教会会議 を 催 開 1047年 1 月 に ロ 喝采 を受 け て 12 日 に 教 皇 に 登 位 した 、 と さ れ る 12) 。 教 皇 と な っ た か らモ ワ イ ヤ レ ンム オは 、 ーテ ィ 教 皇庁 の 主 要 なス タ エ の 道 士 で あ っ た フ ー ゴ ー ・カ 皇ス テ フ ァ ヌ ス 修道 士 ン デ ィ 9 世 となる フ で ドゥ ス リー ドリ あっ た 一 ヒ 、 、 ロ ッ フ を一 新 す る フ ン ベ ル ー トリ ン トゥ ゲ ン ス 。 ア ル プス 以 、 レ ミル モ ン 北 修 公 の 息子 で 後 に 教 7 世 とな そ して 教 皇 グ レ ゴ リ ウ ス 33 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College る ヒル デ ブ ラ ン トら を連 れ て き て 重 要 な 地 位 に 就 け 聖 職 者 と りわ け教 皇 の 、 側 近 で あ る 枢 機 卿 に よ り大 き な 権力 を 与 え て 指 導集 団 を 形 成 した よ っ て政 一方で 、 策 の 継続 性 が 確 保 さ れ る 。 新 興 貴族 で あ る ピエ オーネ を求 め た 13> 。 る こ ル レ ま た 要 職 か ら古 い ロ ある い は フ ラ 、 う し て 教 皇庁 は 教 会 改 革 の 中心 と し て の ーマ ン 。 これ に 貴 族 を排 除 す る ジパ ー二 家 に支持 体 制 を整 え た の で あ 。 レ オ は そ の 5 年 あ ま りの 教 皇 在位期 に イタ リア ドイ ツ 、 フ 、 ラ ン ス を股 に か け 開 催 し て 教 会改 革 を 精 力 的 に 推 進 し た で は 、 オ レ 9 世 は どの よ 、 行 く先 々 い で 9世 によ レオ 。 を握 り、 本格 的 に 教会改革 に 乗 り出 して ーマ に 長期間留まる ロ 、 くの で あ る う に 位 置 づ け られ 、 10 を 越 え る 教 会 会議 を っ て 、 教 皇庁 が 主 導権 。 うに 聖 職 者結婚 問題 と取 り組 ん だ の そ れ は 教 会改 革 の 中 で ど の よ と もな く こ るので あ ろ うか あ ろ うか で 以下 。 9 世 が 開催 した 教 会 会 議 の 決 議 を 中心 と して 検討 を進 め て い きた い 、 。 レオ 。 2 . 教皇 レ オ 9 世 の 活 動 先 に も述 べ た よ うに 会議 を 開 く こ と に よ っ 要 を 教 会 会議 を 中心 に レオ 、 て 、 9世 は西 ヨ ー ロ ッ パ の 教 会改 革 の 先 頭 に 立 っ た 。 不 明確 な 点 に 検 討 を加 え つ 各 地 を 回 りた び た び 教 会 本 章で は つ 彼の 活動の 概 、 、 と りわ け 聖 職 者 結婚 問題 に い か に 対 処 し た か を考 察 す る 14) 。 19 世 紀 に 聖 職 者独 身 制 に か ん す る大部の 後 間 も な く、 結 婚 し公 然 と 妻 と 暮 ら して ダ ブ ラ リス を 降格 させ た 、 い と し て い る 15) 。 著 書 を 著 した リ ー は たサ ロ ーナ ス ( パ レ オ が即位 、 ラ ー ト)大 司 教 しか し こ れ は 12世 紀 の 逸話 を混 同 した リ ー の 誤 り と さ れ る 16) 。 レ オ は登位 の した 。 そ の 3 ヵ 月後 議事録 は 残 っ な され た と され る切 、 て 復活祭 の 2 週 間 後 い ない が 、 シ モ ニ 、 4 月に ロ ー マ ア と聖 職 者 結婚 教 会 会議 を 開催 を禁 じる 決議 が 。 一 34 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College こ の 教 会会議 で シ モ ニ 問題 が 取 り上 げ られ た の は 確 実 で あ る ア 世 伝 』 18 ) もス ト リ の ボ ニ ゾ 19) ヒ ェ ン 211 ナ ウの ヘ ル マ タ ン ス コ 、 、 、 ス ・ダ ミ ア ス ニ だ けで あ る 会会議 に 言及 し と 、 ベ ル 。 りわ け シ モ ノ ル ドゥ ル ノル ベ はその ドゥ ド ル 史料 は 一 致 し て もそ う伝 え て お り 聖 職 者結婚 が 禁 じ ら れ た と伝 え る の は ノ ン ツの ベ ル い る と言 え る ゾ、 ニ 者 の 妾 22 ) は 以 後 ラ テ ラ ノ 宮 殿 の 女 奴 隷 と な る こ と を 定 め た と し て ボニ ゾ の 上 ニ は もそ の 著作 『友 へ 』 で 1049 年 の 級聖 職 者 に 結婚 す る こ と を 禁 、 1049 年 の じた ロ ー と述べ て 、 ー マ 教 会会議 で と 述 べ て ロ 教会 会議 に 言 及 し マ れる べ は ロ 、 き女 も今 後 、 ー マ る 24 ) ベ 。 女 奴隷 と され る ラ テ ラ ノ宮殿 の ーマ 教 い る 23) 。 トル ス ・ダ ミ ア 、 「不 貞司祭 「 完 全 な 教 会会議 で 聖 な る 記 、 市 壁 内 で 司祭 の 売春婦 と み ら れ の トル ペ 副助祭 以 上 、 る わ けで は ない が い 駁 論 Contra intemperantes clericos 』 の 中 で 憶 の 教皇 レ オ い 。 ーマ の 聖 職 ロ 、 ロ 9 ラ イ 、 年代 記 で 1049年 の ア を 禁 じ る た め と しな が ら ニ 20 ) ゥ ス 、ボ ス 『レ オ 。 、 る い か な る非 難 さ と 定 め た 」 と書 い て い る 25)Q こ れ以 外 に は こ の た と え ば 、 『レ オ 9 世伝 』は 26 に伝えて い る ) 。 1 第 コ ン 教 会 会 議 で 聖 職 者 結婚 が 禁 じ ら れ た と す る 史 料 は な V この 開会 後 まず ープル 、 ス タ ン テ ィ ノ じ 、 、 4 レ オは 前 の 教 皇 た ち の 教 令が 尊重 さ れ を断 罪 し 1049 年 の フ エ 近 親 結 婚 を非 難 して 、 そ ー マ 教 会 会議 に つ 主 要 な公 会議 の き こ と を 確認 す る さ らに 。 、 十分 の 一 ボ ニ ゾ が 伝 える い うの は教会法の よ の で ある うに 副 助 祭 以 上 伝統 で あ る が は 非 常 に 奇 異 に 感 じ られ る 。 シ モ ニ アの 、 異端 税 の 教会へ の 返還 を命 う な 多 くの 貴 族 夫 婦 を 別 れ さ せ た の よ 9 世伝 』 に は 俗 人 の 結 婚 に か ん す る 決 議 は 認 め ら れ て ん す る 決議 は 認 め られ な い 次の よう 決 議 を宣 言 し、 以 次に 。 て い す なわ ちニ ケ ー ア 、 ソ ス 、 カ ル ケ ドン の ェ るべ 数名 の 司 教 を罷 免 した つ ロ 。 『レ オ も、 聖 職 者 の 結 婚 に か 。 上 級 聖 職 者 に 結 婚 す る こ と を禁 じ る と の 聖 職 者 の 妻 を 教会 の 奴 隷 と す る と い う決 議 、 なぜ な ら 一 、 この 後 、 この よ うな 主 張 は 全 く現 れ 35 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College ない か らで あ る 皇帝 ハ イ 職者 の 息 子 を教 会 の 奴 隷 と す る と い う決 議 な ら 2 世 臨席 の も と 教 皇 ベ ネ デ リヒ ン 聖 。 たパ ヴ ィー ア教 会会議 で 定 め て る 27 ) い また 。 管見 で は 、 1049 年 の ーマ ロ ない 、 トゥ グ ラ 教 会会議 の た ニ ケ ー ア 公 会議 で の よる と レ ゴ グ 、 リウ 。 で ある ニ 7 世 を 支 持 した 修 道 士 で この 。 た い と りわ 、 2人 。 け聖 職 者 彼 は 妻 帯 聖 職 者 を避 け る 者 を破 門 と す る と し 決議 を 批 判 し29 ) 聖 職 者 結 婚 の 根拠 と さ れ て き 、 パ フ ヌ テ ィ オ ス の 逸話 を 初 め て 否定 して 7 世 も 1079 年 の ロ ス ・ダ ミ ア ス 聖 職 者 の 結婚 に 激 しい 憎 悪 を持 っ て 、 結 婚 禁 止 を強 硬 に 主 張 した ン と ペ トル ス ル ノ ル トゥ ス は グ レゴ リウ ス た 古代 の ガ 妻 の 奴 隷化 と 。 ベ ル ノル 、 は い ず れ も熱 烈 な改 革 派 で の 、 トレ ド 教 会会議 で 聖 職者 の 妻 を 教 会 の 奴 隷 と す る と の 決 議 が行 わ れ た と伝 え る の は ベ 655 年 の て っ 、 よ っ て 開催 さ れ 聖 職 者の しか し 。 う決議 は さ ら に遡 、 教 会 会議 で もそ の よ うな決 議 が 行 わ れ た28 ) い 8 世に ィ ク トゥ ス 1022年 、 ー マ い る 30 > 彼 に 。 教 会 会 議 で こ の 逸 話 を否 定 し た 31) 。 ペ トル たが 、 た 。 い 制 に 前 つ テ ア ヴ ・ ハ 、 ッ ェ ラ ーナ修道 イ ン リヒ は 厳 格 で 急 進 的 な考 え を持 っ て い て 。 ー 9世が ロ オ し た 32 ) α nus ロ ー 院 の 修 道 院 長で あ っ 3 世 と も緊密 な 関係 を 持 』 を 献呈 マ よ た と伝 え る 、 聖 職 者の 、 うに の 、 ロ ー マ た 。 にお 『ゴ 。 ーマ 教会 会議 で 聖 、 い て 一 述べ て い ない い 前 述 の よ うに い 、 る 。 職者 の 妻 の 奴 隷 化 が 定 め られ 3 人 は い ず れ も聖 職 者 結婚 に 対 す る 熱 烈 な 反 対 者 で あ る 書 Liber モ ラ の 奴 隷 と され た こ と を 伝 え て 教 会 会議 な の か は 記 し て ロ 聖 職 者 「独 身」 け る聖 職 者 の 妻 の 奴 隷 化 に つ の て そ の 根絶 を 要 請 、 1060 年 代 前 半 に 書 か れ た 33 ) な お 1049 年 の 、 っ 彼 が 教 皇 庁 に迎 え ら れ る以 性生 活 の 腐 敗 を告 発 し 教会 会 議 で 聖 職 者 の 妻 が 教会 い つ い 到 着 し教 皇 に 登 位 し た 直 後 に 彼 が ロ ー マ 教会会議 が 、 そ れが 以 上 の に マ 『 不 貞 司 祭駁 論 』 は 彼は ォ ン 彼 は 改 革教 皇 庁 に お け る 穏健 派 の 代 表者 と さ れ る が Gomorrhi る は フ ニ 教 会改 革 に 深 い 関心 を 有 し レ 、 ・ダ ミ ア ス 。 また い 36 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College ず れ も聖 職者 の 妻 と の 同 居 が 明確 に 禁 じ ら れ 針 と さ れ た 1059年 の ー ロ マ 聖 、 職者貞潔義務 が 教 皇 庁 の 方 教会会議 以 後 に 書 か れ た もの ある で そ の うち の 。 2 人 が 伝 え る 聖 職者 の 妻 の 奴隷化 と い う特 異 な 決議 は 、 聖 職 者 の 結 婚 を 憎 悪 す る者が レオ か 教 皇庁 に よ る 教会改革 に聖 職 者 「独 身」制 が 既定 路 線 と な っ た 後 、 9 世 時代 の 職者結婚 禁 止 政 策 を 誇張 し て 語 っ た も の 聖 で は ない だ ろ 、 う 。 で は 、 ボニ ゾ が伝 える上 級 聖 職 者 の 結婚 禁 止 は 決 議 さ れ た の 確 か に ボ ニ ゾ の 記述 は しば しば 不 正 確 で と され る 34 ) 。 彼は 、 あ ろ うか で 。 偏 向 し て お りあ ま り信 用 で きな い 、 1045 年 頃 生 ま れ 1090 年 頃死 去 し た グ レ 、 ゴ リウス 7世 に 35 友へ 信 頼 さ れ た 改革派 司 教 、 教 会法 学者 、 神 学 者 で あ っ た ) そ の 著 作 『 。 Liber ad α 』は micurn 、 皇 帝派 に よ っ て ス トリ か ら追 い 出 さ れ 女 伯 マ チ ル ダ の も と に か くま わ れ て 1085年 頃 に 書 か れ た と 考 え られ る た い トス カ ー ナ 、 1089年 に 目 を つ 彼 は 皇 帝派 に ス ト リか ら追 い 出 さ れ た だ け で な く 、 ぶ され 。 、 身体 に 障害 を 負 わ され る 36) 彼 は 反 対 派 か ら 狙 わ れ る 折 り紙付 き の 改革派 で 。 あっ た 。 ボ ニ ゾ も聖 職 者結婚 に は 強 く反対 し その感情的 L ‘ber de 漉 党 派 的 性 格 を強 め 、 碗 α r ε 謡 α π α 』で は 、 その 、 と りわ け彼 に 対す る 襲 撃の 、 妻 帯 聖職 者 を 「 姦 通 者 fornicatores 」 「 蓄妾 、 い る 37 ) 、 。 しか し、 彼 は 聖 職 者 の 妻 の 奴 隷 化 で は な く上 級 聖 職 者 の 結 婚 禁止 を伝 え て る だ けで あ り こ の 、 き た もの で あ り 決議 さ れ た か ど ど の もの で は な か た とい とで は な 。 る い 38 ) 。 こ れが ロ ー マ 教 会会 議 決議 され た と し て も 注 目 を 引 くほ 、 う こ とで あ ろ う 会議 で 聖 職 者 結 婚 問題 を 刷 新 す る こ うか は 明 言 で き な い が っ い う な 内 容 は そ れ ま で も し ば し ば教会 会議 で 決議 さ れ て 取 り立 て て 新 しい 、 で よ 、 後 に 書 か れ た 『キ リ ス ト教 徒 の 生 活 」 と非 難 し 妻 帯 司 祭 に 対 す る あ らゆ る 寛大 を 否定 し て 者 concubinati 後 この よ うに 1049年 の ロ ー マ 教会 決議 が行 わ れ た とは 断定 で きない の で あ 。 そ の 後、 レ オは パ ヴ ィ ー ア に 赴 い て 教 会 会 議 を 開催 し た 一 。 こ の 教 会会議 の 37 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College な い 39) 内容 は 史料 が な く 分かっ て に入 り 皇 帝ハ イ ン リ ヒ 、 ザ クセ 、 ンで 郷 の ト ゥ ー ル を経 由 し て る 。 リ ヨ ンの ラ ム い る 40 )。 シモ ニ 、 シモ ニ に 、 9世が ガ に ラ ンス で 関 係 す る 決議 は る 41 ) し か し、 。 高 利貸 し の 禁 止 貧 者 の 保護 、 シ モ 、 は 全 く言及 し て ス の い 鞠 ない 。 記 述 も挙 げ られ る が きな教 会 会 議 を 開催 し の 多 くの 事柄 を 健 全 身」 制 に つ い ての レ オ は す ぐに マ 催す る 。 の で きず 、 ム ス はマ ン ツ コ 。 シモ ニ ア 禁止 の ン て 語 る だ けで ドの 歴 9 史家 オ ル 、 認 め ら れ な い 43 ) 。 、 職者 厂 独 身」 制 に 聖 デ リ ク ・ヴ ィ タ ー リ ッ 「ガ リ ア に 来 て 、 ラ 世が 矯 正 した 」 と 書 か れ て い る だ けで 、 聖 ンス で 、 大 両 身分 職者 「 独 。 イ ン ツ に移 、 皇 帝 の 臨 席 を 得 て 10 月後半 に 教 会会議 を 開 り 、 こ の 教会会議 で シ ュ パ イエ ル 司 教 シ ゲ ボ ー トに 犯 彼 は 奇 跡 に よ っ て 口 が 麻 痺 した た め に そ の 申 し 開 き が 疑惑 を 晴 らせ なか イ い そ こ に は レオ に有効 に ニ ライテ ィズ ム ニ 聖 な る教父 た ち が 定 め た 古 い 教 令 を更 新 し 『レ オ 9 世 伝 』 は 晴 ら した と述べ ス の 、 、 う要 求 。 グ ラ ン 助 祭枢 機 卿 近 親結婚 の 禁 止 な ど が 定 め られ た 42 ) 第 、 ア 断罪につ イ と伝 え て 決議 が あ っ た と 確認 で き る わ け で は な い 45 ) 疑 惑 が か け られ 罪 ダム ニ ラ 聖 職 者 の 戦争 参 加 禁 、 11 条 の 近 親 相 姦 の 禁 止 を 聖 職 者 結婚 禁 止 と す る 解 釈 は 『レ オ 9 世 伝 』 も 。 、 コ 『レ オ 9 世 伝 』 もシ モ 。 他 に 司 教 は 聖 職 者 と民衆 の 選挙 に よ っ て 選 ば れ る こ と 止、 ア とニ ニ とを宣 誓す る よ 12の 決議 の 中 に は な い 伝 え られ て い る 、 い モ え られ て い る い こ な い さらに故 、 教 会 会 議 を召 集す リアか らシ 職者 が 罷免 さ れ た て ン ツ 教 会 会 議 を 開催 し た ア にか か わっ て 者 が 罷 免 さ れ た と書 い イ マ 、 ラ ンス で ア 対策 に つ い て は 具 体 的 措 置 が 伝 ニ ア ル プ ス を越 え て ドイ ツ 3 世 と会見 し た後 イナ ル ドゥ ス は 、 レ オ ア を犯 した 多 くの 聖 ア に か か わっ た それか ら 10月初 頭 に フ ラ ン ス の 、 トル ス は 司 教 た ち に シ モ し 。 異端を一 掃する た め イテ ィズ ペ い っ た と書 い 46 て い る )。 とこ ろ が ブ 教 会 会 議 で シ ゲ ボ ー トの 罪 を 姦 通 の 罪 と し て い る 記 述 を信 用 す 。 べ 、 シ ゲ ボ ー トは 1054 年 ま で 司教 の 地位 きで あ ろ う で は姦通 の 。 一 罪 とは 何 か レ ーメ ンの ア ダ 彼 は そ の 疑惑 を に 。 あるの で 、 ア ア ダムス は こ 38 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College 教 会会議 で シ モ の ル ク 大司教 ア レブラ ン に倣 て っ マ イ ベ ア ニ 的 異 端 と と も に 聖 職 者結婚 が 断罪 され た と し ダル ベ ル ト ( 在位 1043 〜 1072 ) は ド ( 在 位 1035 〜 1045 ) そ の 前 の リ ベ 、 ン ツ 教会 会議 で い ル トが そ れ を 適用 し て ぜ なら 、 ハ ン ブ ル ク で 聖職 、 ー ウ ス もパ ヴ ィ い る の は た後 っ ブル ク に戻 ン この 明 らか で な い 扱っ た か 措置 が マ イ ン 。 こ の 教 会 会議 を 終 え た タ リア に戻 ノ ル マ ン て っ た 。 ツ レ オは 、 料は ない こ アダ ル 、 、 。 、 ア ダル 彼 ら の 結 婚が 叙 品前 か ュ ベ こ と もあ た っ な 、 同居 を 1022年 の パ 。 教 会 会 議 49 ) で あ る 。 リベ ンテ ィ 妻 を 都市 か ら追 放 し た50 ) し 。 ル トが マ イ ン ツ て聖 教 会会 議 に 出 席 し 職 者 の 妻 を追 放 し た と い う 教 会 会 議 と ど の よ う に 関係 し て る の か は全 く い 。 ロ ー トリン ゲ ン を 経 由 し て ア ル プ ス を越 え 帰 還 後 す ぐに ラ い な ど で 教 会会議 を 開 催 し、 シ 。 う 教 会会議 に お い て も レ オ が ど の よ うに聖 職 者結 婚 問題 を 人 が 争 い 混 乱 して 免 した Sl ) とい 、 。 前任者 た ち に 倣 っ 分 か らな い の で あ る は 者の 妻 を ア 教 会会議決議 を受 け て 聖 職者 の か しア ダム ズ が 伝 えて 、 ( 在位 1028〜 1032) ウス た か らで あ る 47 ) 11世 紀 に な る と い ヴ ィ ー ア 教会 会議 48 ) と 1031年 の ブ ル ー ジ だ けで ン テ ィ 決 議 が 教 会 会 議 で な され る る ア 叙 品 前 に 結婚 し た聖 職者 は 妻 を離 別 し て は な ら 同居 を 認 め ら れ て 、 前任 者 の 。 、 禁 じ、 離 別 を 求 め ハ 、 重大 な 革 新 と い う こ と が で き る だ ろ う 追放 し た の な ら 、 ブ か な る 決議 が な され た か は 明 らか で な い が 教 会法の 伝統で は な い と され 、 司教 区 に 戻 り 、 聖 職者 の 妻 を教 会 と 都市 か ら追 い 出 す判決 を下 した 後 か を問 わ ず ン ハ 、 ン ゴバ ル ト人 や ギ リ シ ャ 人 る南 イ タ リ ア に 向か う こ こで モ ニ ア禁止 を訴 え ニ れ ら の 教 会 会議 に 。 つ い て 、 、 シ モ イ 、 ス ラム 、 イ 教徒 、 も彼 は シ ポ ン ト ア を 犯 し た 司教 を 罷 聖 職 者 結婚 問 題 が 扱 わ れ た とい う史 。 ーマ に とっ て レオ は再 び ロ を召 集 す る 。 ガ リウス 説の この 返し 、 1050年 の 復活祭後 の 4 月 29 日 に 教 会 会 議 教 会 会 議 の 中心 問 題 は 検討 で あ っ た 。 ベ レ ン ガ 一 、 聖 体 に か ん す る トゥ ー ル の リ ウス 説 は 異端 と さ れ 、 べ レ ン 彼 自身 が 次 に 39 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College 行われ る ヴェ ル われ た ドル で こ の ラ 。 ン チ 『ミ ラ フス の ノ 史』は ミラ ノ 。 教 もシ モ ニ ア で うに 、 ラ ンス 、 有罪 と され に こ の こ と を伝 え 教 会 会議 で 1050年 の ーマ ロ 教 会会 議 で も シ モ 。 は ど うで あ ろ うか 職 を奪 わ れ た 、 と伝 え て 、 。 い 324 年 の あ る だ けで な く た 56 ) それ は 、 る 55 )。 聖 ベ トロ 、 い て の 1059年 に 教 皇 ニ 定 め 」 が 言 及 され て につ い て の とい うこ と で は な い 何 らか の 定 め を 行 ない だろ の で は に る い うか そ の 後 9 月 に ヴ はべ した ラ ヴ ル ェ ェ レ ン ガ ン ては とい ル リウ チ ス ッ ェ 、 の 諸侯 い て もシ モ ニ ア に つ い て い るの は 、 ボニ ーマ 周辺 の 不貞聖職者 は聖 ッ トは 全 く新 し い 戦術 で 決議 第 4 条 に 反 す る もの で ーマ 教 会会 議 、 っ そ れ は レ オ が 聖 職者結婚 て 、 こ 戦 術 を採 用 した の 9 世 時代 に 遡 らせ ボ ニ ゾ の 記述 は 偏 向 し て お り 、 、 開催 され る が ほ かには コ で は、 。 。 リ ー トの 破 門 、 触れて ト規定 を レ オ リ で 教 会会 議 が 問題 で あ る が ン フ い マ 、 も 、 教皇 へ の 、 そ の メ イ ン ・ 尊敬 と服 従 を 拒 否 ル セ イ ユ の サ ン ・ヴ ィ ク トー ビ修道院 とア ミ ア ル 修 道 院 の 特権 を尊 重 す る よ うア ミ ア う史料 は な い ュ 1059 年 の 決 議 に 「レ オ の 聖 職 者 ッ 先 に も述 べ た よ うに 。 ナ 大司 教 フ 職者の 結婚に つ ニ ロ た とい う こ とで あ っ 修 道 院 の 教 皇 庁 直属 の 承 認 が 行 わ れ つ い 罪 権 威 で 、 聖 職者 も信徒 も姦 しか し 。 て 2 世 が 開 催 した ロ こ の 、 そ の 記 述 は 不 正 確 で 必 ず し も信 用 で きな マ アの の 、 ラ ウス コ ボニ ゾ は こ の ボイ コ 。 つ い ガ ン グ ラ 教 会 会議 の 。 ー ニ 問題 は 討 議 さ れ た 信徒 に よ る ボ イコ 採 用 され た 戦 術 で あ っ た57 ) 確 か 独 身に つ ター 9 世 は ブル ア ニ れ に こ 。 通 を 犯 し た 司祭 や 助 祭 を避 け る よ う命 じ ら れ テ 問 題 も扱 。 彼は 『 友へ 』 の 中 で た ア ニ 破 門 さ れ た 者 と交 流 しな い よ う書 簡 を送 っ て い る 54) 以 上 、 ゾ だけで あ る で シモ 司 教 が お そ ら くシ モ レオ 。 い て っ 、 ー マ 教 会 会議 に 召 喚 され た ドル 司 ロ 破 門 さ れ た 53 ) 、 聖 職 者結婚 に つ あ しか し 。 教 会 会議 に 告発 され 、 彼 自身 が 出 席 し て 身 の 潔 白 を 承 認 され た こ と を 伝 え て い る 52 ) ま た の よ リ教 会会 議 に 召 喚 さ れ た ッ ェ ン司教に命 この 教 ン 司教 の 対立 に じて られ て い る 58 ) 聖 。 会会議 で 取 り上 げ ら れ た 。 一 40 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College そ の 後 レオ は再び ア ル て ドイ ツ に 入 この プ ス を越 え ブ 、 ーニ ル ゴ ュ ー トリ ロ 、 ゲ ン ン そし 、 り 翌 年初頭 に ト レ ー ヴ で 皇 帝 ハ イ ン リ ヒ 3 世 と会 見 を も っ た 、 期 間 中 に 教 会会議 は 開 催 さ れ な か っ た が ル 、 聖 堂 参事 会 に 宛 て た カ の ッ 。 59 書 簡 で 妻帯 司 祭 の 問 題 が 言及 さ れ て い る ) 。 イ タ リア に 戻 ときには 、 シモ っ ニ たレオは 1051 年 4 月 に 、 ア的聖職者に よ る シ ま た サ ビ ー ナ 司教 と フ ァ ル フ の 結 婚 に か ん す る こ とで は ゴ リ ウ ス を 破 門 され た 61) 。 ァ 、 叔 父 の 寡婦 と 婚約 し た ヴ ェ 、 ン ガ リ ー 王 との 仲 介 と 、 題 に か か わ る こ とに な っ た た め い 、 ェ ッ い た 62) こ との 処 罰 で あ る 南 イ タ リア の ノ ル 当時 の 教 。 聖 職 者の 倫理 の 刷 。 9世で あ レオ 、 職 者 の 倫理 に 反す る とい こ れ は聖 。 リ司 教 グ レ マ ン っ たが こ れ以 、 後皇 人 の 問題 な ど の 政 治 問 在位期 の 前半 ほ ど改 革 教 会会 議 は 開 か れ て 、 な い 63 ) 。 ハ ン ガ リ ー は 10世 紀 末 に イ シ リ ス ト教 国 と して 建 国 され て 晩年 は 王 位 継 承 問 題 い ュ トヴ ァ た 64) ャ ー な り、 ン ガ ム エ ル ペ ル は 神聖 ロ リー へ の 勢 力 拡 大 の ル を復 位 ン ガ ーテ が 反乱 を起 させ る と と もに こ し、 ン ドラ ー シ ュ に よ 一 、 ン リ ヒ ー テ ルが ペ イシ ーテ ル ア っ て キ 、 エ フ 統 て を追 放 して バ ン ハ − 、 キ を破 っ て 。 しか し 公 の 娘 と結 婚 して に指 名 され 義弟 アバ ン ガ リー王 と 。 い ペ ・ 皇帝 はハ 〜テ 1045年 に ぺ 、 、 の も とに 逃 れ た 1046年 に 再 び 王 位 を奪 わ れ る こ 一 を 進め 後継 者 トヴ ァ ー ュ 3 世の 、 っ 子 イ ム レ が 死 去 した た め 彼 か ら 臣下 の 礼 を 受 け た リ ー を掌 握 す る こ とが で きず ド家 の ア 、 好機 と と ら え て 介 入 、 が 武力 に よ 甥の 。 1041年 に ペ ーマ 皇帝ハ イ ン しか し 。 悩 む こ と に なる で ー 1038 年 に 王 位 を 継 い だ が 、 統治 は 安定 せ ず シ ル チ 叔 父 の 寡婦 と の 結婚 は 聖 職 者 に 限 らず 聖職者 「 独 身」 制 と は 別 問題 で あ る 、 こ の 。 叙 品 が 有効 と 決定 され ア な しの ニ こ れ ま で 活 発 に 教 会会 議 を 開 催 して き た 帝 とハ 教 会会議 を 開 催す る マ 。 キ リ ス ト教 徒 の 倫 理 に 反 す る 新で は あるが ー 修 道 院 長 との 紛 争 の 調停 が あ っ た 60 ) 聖 職 者 会法 で キ リ ス ト教 徒 に 禁 じ ら れ て うよ り モ ロ ー テ ル はハ たア ー ル パ とに な る ー 。 41 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College 王 とな っ たア ドラ ー シ ン イ ン ラ ーシ マ を発 っ て ド イ ツ に 向か う リ ヒ は ュ は 宗主 権 を確 認す る た め 調停 は 不 調 に 終 わ っ た 、 ア 、 。 ハ ツ か ら イ タ リ ア に戻 努め る 。 ニ 1053 年 2 月 に は マ けで あ る 。 よ 暴 動 を起 い イン リ ヒ は っ て 2 度 に わた て っ ハ ン ガ 教会改革 の 推進 に こ 、 。 この ヒ マ ン ェ ナ ウ の ル ヘ こ した 者 が シ モ ニ トや 妻 ス る だ け で あ る 68 ) い い 。 帯聖 職 者 と は 書 か れ て お らず 。 この マ トヴ ン 教 ァ マ に戻 っ た教皇 は 4 月にロ ド司 教 座 の 特権 を 確 認 した 一 方 、 レ オ は南 イ タ リア 11世 紀 前 半 、 南 イ タ リ ア こ ー 教会会 議 を 召 集 した が マ 知 られ て い な い と しか の ノ ル ン マ 、 、 ビ ザン ッ 帝国、 イ ス ラ ム ン人 は、 次第 に 領 地 を 獲 得 し て 自立 的 活動 を 始 め 勢 力 を 拡大 し て い っ 南 下す る こ と と な る 。 、 ー 。 教徒 の そ こ に 、 当 初 傭 兵 と し て 南 イ タ リ ア で の 活動 9 世 はノ ル マ ン 1053 年 6 月 17 日 の 一 、 着々 と 人 の 勢 力 拡 大 が 教 会領 を脅 か す こ と を 危惧 し、 ま た 南 イ タ リ ア に 教 皇 権 の 影響力 を広 げ る た め い て 後 。 マ オ その 69 ) を 開始 し た ノ ル レ 、 こ こ で は グ ラ た 。 ずれ も 会会 議 で 。 勢力 が 錯 綜 す る 状 況 に あ っ た 70 ) も 人 の 問題 に も対 処 せ ね ば らなか っ た で は ラ ン ゴバ ル ト 。 ン 厳格 な措 、 も聖 職 者結婚 問 題 が ど の よ う に 扱 わ れ たか は 分 か らな い の で あ る ー だ 教 皇 の 正 し い 判 決 を 恐 れ る 司 教 た ち の 従者 に 、 置 が 何 に 対 す る もの で あ っ た の か は 明 白 で な い ロ れ はシ た 、 と さ れ る 66) っ 『レ オ 9 世 伝』 と ラ イ 、 侵 攻 を試 み 教会会議 が 開 催 さ れ た 65 ) が トヴァ ン ー リ 。 教 皇 の 家 人 が 殺 され た と 述 べ て て ー 皇 帝 へ の 公 租 の 支 払 い を条 最 初 の 厳格 な 措 置 が と れ な くな っ た と 伝 え67 )、 ヘ ル マ っ ド ン 7月にロ 教 皇 は こ れ に 応 じ て 1052 年 た レ オ は 教 会会議 を 開催 し て っ 9 世伝 』 は ア 。 ハ 、 、 伝 える の は て 『レ オ 暴動 に よ 暴動 に リー侵攻の 構 えを見せ た ン ガ トや 妻 帯 聖 職 者 の 暴 動 に よ っ て 開催 不 能 と な ス 教 会 会議 に つ よる リ ー に 対 す る 宗 主 権 を 否定 ン ガ ドラ ー シ ュ は 受 け 入 れ た もの の 皇帝 は 拒 否 し ン 結 局 撃退 さ れ る こ と と な る ドイ 、 ハ レ オ はハ ン ガ リーの 。 るが ハ 、 1050年教 皇 に 調 停 を 要 請 件 に 和 平 を提 案 す る が モ は 皇帝 の ュ チ ヴ ィ タ 、 軍 隊 を率 ー テ の 戦い は レ オ に 42 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College と っ て 悲惨 な 敗北 と な っ た たが こ とで あっ た マ ン え た 71) 。 ノル マ 1049年 に コ 、 ミハ エ ン っ と対 峙す る に 当 た り 、 たアル ギ タ ンス と と もに 、 使 節 と して 交 渉 は 決裂 主教 と の 関 係 は 険 悪 に な り 、 フ ィ ア 。 い た の で ある 、 レ オ は すで に こ の 以 上 が レオ 世 の 人で は なか っ た ロ 、 ンベ ル 。 た シモ っ 教 会 を嫌 悪 して い た総 大主 教 東方教 会 と異 な は こ れ に応答す る ス トゥ ス 。 しか し 総大 、 は 破 門状 を 聖 ル ・ケ ル ラ リ オ ス は 教 エ フ ン ベ ル 。 マ 派遣 され た ミハ しか し ア と聖 職 ニ こ の 、 2 つ の 重 大 な 問 題 と し て 扱 わ れ た わ けで は なか っ た て トゥ ン ツ ー ロ ー マ 教 会の トゥ ス が ロ ー マ に ソ 会 戻っ 彼 は 1054 年 4 月 に 世 を 去 っ 9 世 の 教 皇 在位期 に お け る 活 動 の 概 略 で あ る だ こ と は 認 め られ よ う い も大 き な 影響 を 与 に て 。 に お い て も っ と も重 大 で あ 政策に お 。 しか し、 フ ン ベ ル 、 会議 に お い て 使 節 の 不 正 行為 を 非 難 し た 72 ) 時 ある で ン 教 会 を 閉鎖 大聖 堂 の 祭 壇 の 上 に 置 い て 立 ち去 り、 た 。 ープル に タ ン テ ィ ノ コ ン ス 人 と の 関係 は 改 善 に 向 オ は南 イ タ リア に お け る ビザ 枢 機卿 フ 。 ン レ れ に 不 満 を持 ち 典 礼 や 慣 習 上 の 問 題 を 指摘 した ー マ に 帰還 し た の は 翌 帝 国 と の 関係 ー プル の ラ テ ン テ ィノ ル ・ケ ル ラ リ オ ス は こ マ ロ ツ と手 を結 ん だ ロ ス ュ 、 事 的 支 え と もな る の 人 と の 対 立 は 教 皇権 と ビ ザ ン 皇帝 の 手先 で あ る もっ と も、 こ れ 以 後 、 ノ ル 。 、 後 に は 教 皇権 の 重 要な 軍 い ノ ル し 、 彼 らの 南 イ タ リ ア 領有権 を 認 め ざ る を得ず 、 年春 の か 彼 は 捕虜 と な り 教皇 と し て 丁 重 な 扱 い を 受 け 。 者結婚 とい 問題 は レ オ 。 。 彼 が 当時の 教会 う問 題 に 取 り組 ん 9 世に よっ 次 に 章 を改 め て 聖 職 者 結 婚 問題 が い か な る 位 置 を 占め て い 、 て 同等 に レオ 9世の た か を、 本 章で の 検 討 を も と に 考察 した い と 思 う 。 3. レオ ブ ル 9 世 と聖 職 者 メ ン タ ール は 戦 っ た 」 と述べ て い 「独 身」 制 「レ オ 9 世 は も っ と も激 し く聖 職 者 る 73 ) 確 か に 。 レ 、 ー オは 結婚 と シ モ 10数 回 の 教 会会議 を西 ヨ ー ニ ロ ァ と ッ パ 43 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College あ ち こ ち で 開催 し シ モ ニ ア と聖 とん どの 教 会会議 で シ モ ニ ア の され る が 、 聖 職 2 回の る ロ ー マ そ れ らの 。 教 会会 議 、 もち ろ ニ ゾ やペ トル 。 会 会 議 決 議 第 3 条で 死 の これが い 教 会会議 、 また 、 の こ と 、 先 に も触 れ た 1059年 の の どの 定 め を さ して レ オ が聖 レ オ が聖 、 ニ ァ と 聖 職者 結 婚 が 同 等 に つ が し ば しば 一 緒 に 攻 撃 さ れ た と述 お い て 重 大 な 問 題 と 認識 さ れ て い た が 。 て い たが レ オの トゥ ール 、 ニ コ い る 一 な い ラ ウス か は 明 らか 部の 史 。 い 確か 。 74) だ が い 。 、 事実 無 根 と は 、 2世の ーマ 教 ロ 定 め 」 が 言 及 され で ない が オの レ 、 職 者 結婚 問題 に か ん す る 何 ら か の 。 こ とは 認め ら れ る と して も ある の で 。 レ オ 。 ー ス トウ は こ の 少 な くと もレ オ 、 9 世 時代 に は シ モ い て も、 シ モ ニ ア との が どの よ うな 活 動 を行 い て彼 バ ニ ア は 聖 職 者 結婚 は それ ほ ど で は な か 、 シモ 、 べ て い る 76 ) が 司 教 時代 に つ 聖 職 者結婚 につ の は た とは 言 え な い ての 問題 と さ れ た と は 思 え な い そ れ は 認 め られ な い だ けで あ 職 者結婚対策 を 開 始 した と改革教 皇庁 が認 識 し レ オ 9 世 が 聖 職 者 結 婚 問題 を 取 り上 げ た われ る っ 記 述 は 正 確 さ を 欠 くと は い え 「教 皇 レ オ の 聖 職 者 の 独 身 に つ い つ る い オ の 聖 職 者 結婚 禁 止 に 全 く言 及 し て ニ 4つ ン ツ 教 会会 議 の 史料 も必ず し も信 頼 度 は 高 くない た こ と は 、 こ れ か ら確認 で き る の で あ る て は イ マ も聖 職者 結 婚 禁 止 を伝 え て そ れ らの 5 年後 の 決議 な の で わずか 定 め を行 っ た て レ ・ダ ミ ア ス 言 えな い で あろ う て い る 75 )。 ス す る 決議 が 行 わ れ た と さ れ る 教 会会議 は 9 世 は 聖 職 者 結 婚 禁 Lヒを 命 じな か レオ 、 『レ オ 9 世 伝 』 は に ボ ん にかん につ い て 料 だ け で あ る だ けで な く しか し そ の ほ 。 問題 が 扱 わ れ た こ と は 多 くの 史料 に よ っ て 確認 者 「独 身」 制 教 会会 議 、 ラ ン 職 者結 婚 の 禁 止 を 決議 し た っ っ 2 9世に きわ め た と思 戦 い で は 知 られ た か は 知 られ て い な い 77 ) 。 も っ と も るの で はな ヨ ー ロ ッ パ 、 い だ か ら とい 。 を回 っ て 教会改 革にお ける レ オ 彼 が 改 革集 団 を ロ ー マ に 集 め っ て 教 会会 議 を 開催 し 一 、 、 9 世 時代 の 意 義 を否定 す 教 皇 の 首位 権 を 主 張 し 、 西 教 皇 主 導 の も と で の 教 会改革 を基 礎 44 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College づ け た 意義 は 決 して 小 さ くな い の ジ ャ ン の 光 と して 来 、 が い 「レ オ 9 世 へ は ク リス タ ル よ た だ ろ うか り明 る く輝 い た レ オや グ レ ゴ い た る 。 フ ェ カ ン 「 霊 的教義 。 黄 金 時代 以 リ ウス の (中略 ) あ な た は ロ ー マ 市 の あ な た の 司 教 座 で 人 々 。 けで は 満足 しな い を 開催 して 調査 した しか に トル ペ 、 と は なっ て 機卿 フ トゥ ンベ ル 非 難iした の は ス (中略) ア ル プス 以 北 の 教 会 も訪 れ ス ・ダ ミ ア は ニ 。 しか し 。 レ オが 声高 に 聖 職 者結婚 を 非 難 し 彼 は まだ 、 ロ レ オの 教会会議 ー ト リン ゲ ン か らロ ーマ に も聖 職 者 結 婚 を激 し く非 難 し て 『ゴ モ ラ の 、 時代 に は 教 皇 庁 の い る ス タ ッ 連 れ て きた 枢 しか し彼 が こ れ を 。 1053 年以降 の 東 方教会 に 対 す る 反論 の 中で 、 、 世話 」 なか っ た い 。 の 78 ) 。 書 』 を レ オ に 捧 げて い る フ 書 簡」 の 中 で 次 の よ うに 記 し て い ーマ 司教 の 中 で 最 も高貴 な あ な た ほ ど 勤勉 で 慎 重 に 現 れ た ロ 教会 の 牧 者 をする だ た の 当 時 の 人 々 もそ れ を 感 じて 。 あ っ た 79 ) 聖 職 で 。 9 世 時代 以 降 と 考 者 結婚 に 対 す る 方 針 が 定 ま り、 闘 争 が 本 格 化 す る の は レ オ え る べ きで あ ろ う 。 お わ りに 聖 職 者 結 婚 る 。 しか し 、 に あ ら か じ め 改革 理 念 が 整 え られ て か ら改 革 が 始 ま る の 改 革 の 進展 に 伴 つ 、 対 す る 攻 撃 は グ レ ゴ リ ウ ス 改革 の 重 要 な 要素 の ひ と つ で あ っ て 、 様 々 な 要素 が 新 た に加 わ 改 革 の 理 念 も定 ま っ て く る もの で あ ろ う 。 そ れ をグ レ ゴ リウス 改革 と呼 び 革像 を描 き 、 突然現 れ る わ け で は な い 権 か ら の 解放 の 通 りで あ る な どが 絡 む こ とい 。 。 シモ ニ ア オ レ 問題 に つ とが 非 難 さ れ た が 、 り 、 ある 消 え去 りつ い は 我 々 歴 史家 は 時期 を 区切 っ しか し、 当然 、 そ の よ 。 皇 帝権 と の 対 決 う理 念 は 、 た 。 て そ れ が 最 高潮 に 達 した 時期 を 中 心 に し て 改 、 そ の 特徴 を 捉 え る っ で は ない 、 うな 改 革 が あ る 時期 帝国教会制 に 対す る批判 9 世 時代 に は ま だ 現 れ て い い て 世俗 ない こ とは周 知 言 えば 、 改革 初 期 に は 聖 職 獲得 に 金 銭 俗 人叙任 は 問 題 と さ れ て − 、 い なか っ た 。 45 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kalsel Kobe Kaisei College College 聖 職 者 結 婚 に 対 す る 闘争 は 改 革 の 当初 か ら重 要課 題 わけで は な く 、 レオ 改革 が 進 む は、 い れた の か に 固 まっ ない の はその ため で あ る で つ 9 世 時代 に は 聖 職 者結婚 の れ に 対 す る 戦 略 ・戦 術 は い に つ い 、 つ い て と して 掲 げ られ て 重視 さ れ る よ うに な っ て なか っ た 。 、 。 まだ そ 明確 な 決議 や 教令 が 伝 わ っ て 。 頃 か ら、 な ぜ 聖 職 者 「独 身」 制 に 対 す る 戦 い が 本格的 に 開始 さ そ の 戦 略 ・戦 術 は ど の よ うな も の で あ っ た の で あ ろ うか て は 今後 の た きた の で あ る 問 題 は もち ろ ん 認 識 さ れ て は い た が て い い 課題 と して お きた い 一 。 こ れ ら 。 46 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronlo Library Service Llbrary Kobe Kaisei Kobe Kaisei College College 注 1) 「 独 身」 制 聖 職者 身が 求 め られ な か と独 身 に括 弧 を付 け る の は 、本 文 で 述 べ て い る よ うに 、必 ず し も完 全 な独 た ため で あ る っ グ レ ゴ リ ウ ス 改 革期 に は 、 こ の 点 に つ 。 い て 変化が 認 め ら 、そ の 検 討 は 今 後 の 課 題 と し 、本 稿 で は 括 弧 付 き の ま ま表 記 す る こ と とす る A ・ブ リ ッ シ 、 『叙 任 権闘 争 』 ( 野 口 洋 二 訳 )、創 文 杜 、重972 年 、 3 〜22 頁 野 口 洋 二 、『グ レ ゴ リ ウス 改革の 研 究』 創文社 25 〜55頁 山辺 規 子 「ロ ーマ ・カ ト リ ッ ク 秩 序 の 確立 」 江 川 温 、服 部 良 久 編 著 『丙 欧 中 世 史 〔中 〕』、 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房 、 1995年 所 収 ) 51 頁 ( G. 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Histoire du ehristianisme 3 Descl6e 1993 . 852 , Venard p 3 > 日 本 語 文 献 で は 次 の もの が 日本 に お け る 一般 的 見 解 を 代 表 し て い る と言 え る で あ ろ う 八 代 聖 職 者 の 妻 帯 と教 会 一致 」 『キ リ ス ト教 学 』 26 、1984年 、103 −− 105頁 野 口 、前 掲 書 、 崇 「 れるが 。 2) ュ 。 、 、 。 、 、 , , , , 、 。 , , , 皿 , , , , , , , , 。 。 34 頁 4) 。 『 独 身』制の 成立 」 『 神 戸 海 星 女 子 学 院 大 学 ・短 期 大 学 研 上 )、 究 紀 要 』、 第 38i }、1999 年 ( 以 下 、 「成 立 」 と 略 )。同 「聖 職 者 『独 身 」 制 起 源 再 考 ( 42 2004 ( 下 )」 「 神 戸 海 星 女 子 学 院大 学 研 究 紀 要』 第 41号 2003年 第 号 、 年 同 「中 世 前 拙稿 「 西 欧 中 世 に お け る 聖 職者 、 期 に お け る 聖 職 者 夫 婦 の 同居 に つ 年 56) ) い 、 。 、 第43 号 て」『 神 戸 海 星 女子 学 院 大学 研 究 紀 要 』、 、 2005 。 た と え ば 野 口 、前 掲 書 、80 − 89頁 。 Anne Llewellyn Barstow Married Priestsα nd the reforming P αp α cy , New York and Toron な 1980 p . 49 ;Jean Gaudemet Le c61ibat ecc16siastique Le droit et Ia pratique du Xle au XIIIe s . Zeitschrift der Savigny −Stiftung ftir RechtsgeschichteKanonistische A 〜)孟e 記μ π868 〔1982)p . 7. Controversy trchy from the Uta −Renate Blumenthal Tltelnvestitare ∫ Church nd Mon of Pennsylvania Press pp . 56 −57 . Ninth .to the TwelfthCenturor 1988 University , Th . tJte tertth to the early twelflh centur G. Tellenbach, e chur ℃ h in u estern Europe from y, − = , Europe 1993 . 141 142 . tr.by Timothy Reuter , Cambridge( Th e churclt in tvestern ) 野 pp 口 、前 掲 書 、80頁 。 cit. . in westerr Blumentha1 0p 、 Morris Op cit. 84−86;Tellenbach 7 he chureh , , p 57;C . pp . Eur 4pe p . 142_ DMansi Sacrorum .concitiorum rtov et mplissirna collectio 60 vols .Paris 1901 − G. cols . 27(=Mansi),19, 627−628. Rich6,〔)p . cit. p . 862, , T ん2 P αP α l refbrm of the eleventh centu of Pope Leo IX an ・ d Pope 1. S. Robinson, りy Lives .2004 p . Gregoノ:ソVI ‘ P αpal refbrm ) 99 . ゾ 、セ ー二 の ブ ル ーノ こ の よ うに 伝 え て い る の は 作 者不 詳 の 「レ オ 9 世 伝 』 と ス ト リ の ボ で ある Pa ρ t reforrn pp , 130−133 190 379.現 代 の 歴 史 家 で は ブ ル メ ン タ ール や モ リス 、 eit . . cit. . Blurnenthal o ρ. Morris op , 野 H 氏 は こ れ を認 め て い る p 70 ;C . p 86,野 口 、前 掲 〜 128,と 書 、81 82頁 も と も同 時代 史料 の 中 に は ラ イ ヒ ナ ウ の ル マ ン MGH SS V p , ・ ロ ーマ で ン ス の ン レ ミ の ン セ ル ム PL l42 col . 1420 . の よ に の を し 、 ラ サ ア う 皇帝 役 割 強調 セー の 選 出 に 言 及 し て い な い もの もあ る 。現 代 の 歴 史 家 の 中 に も 『レ オ 9 世伝 』 や ボ ニ ゾ ーノ の 証 言 を 、後 の 選 出 規 定 を 知 て い た 著 者 の 作 り話 と見 る 者 もい る ボ ニ ゾ も 二 の プ ル ー ノ も教 皇 選 挙 か らの 皇 帝 の 排 除 を 主 張 して い た P p 1 reforrn pp32 −35 .も と も こ ブル , ), , , , , , 7) , α , α , 〃 , 8> ’ , ( 9) 10) 11) , , , } , , α α , , , , ; , 12) , ニ 。 α , , , 。 。 , , ェ っ , , ヘ , , , 、 っ 。 。 一 47 α α っ , 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronio Library Service Library Kobe Kaisei Kobe Kaisei College College ー ピ ソ の エ ドが 後 世 の 創 作 で あ っ 「誰 も聖 職 者 と定め て 、 ( 司教 う と した こ こ と は で きない と は 認 め られ る 。 」 Mansi c。 , αc 1073 −1198 γ, , (冫 o ’漉 , , , nd innovation , in western Europe 蹉y π 麗 Cambridge University Press 1990 p . 35 ; Tellenbach TJte chrtrch 引 147 148 . pp . 14 ) 教 会会議第 1 条で ラ ン ス 修 道 院長 と し て ) 統 治 す る 、 司教 選 挙 の 教 会法 的 原 則 を確 立 し よ L741, Rich6,0p . cit. p . 863; 1. S. Robinson, The paD , 19 13) と 民衆 に 選 ば れず に 教 会 を るの で い も、 レ オ が 1049年 に 開催 し た て α , は 主 に以 下 の 著作 に負 て い る C. J. Hefele − − − H. Leclercq HtStoire des eenciles ( H 1. 】 V, Paris, 1907 , pp . ) t. 995 1107 ;Horace KMann , Th. e tives o ゲ the popes in the middle ages vo1 . 6, London , 1925 , pp , 19−192, Henry C . Lea , History of s cerdot l celib London , e christian church , 1932,4th y in th. ed . p . 153. Barstow, o ρ. eit. p . 55i n . 17. , Mann op . cit . p . 48、 P pal reform p . 138 ,そ の 著 者 は 、 か て フ ン ベ ル ト ゥ ス と も 言 わ れ て い た が 、今 日 で は .− ー ル トゥ 司 教 区 の あ る 修 道士 と 考 え ら れ る ∬bid. pp . t7 26, , Pa甲 α l ref 〕rm , P . 19L MGH , SSV , p . 426. MGH SS V p . 128 . 当 時 、「妻」 と 「妾] は 法 的 に 明 確 に 区 別 で き な か た James ABrundage Concubinage and Marriage in Medieval Canon Law ed . Vern Bullough and James ABrundage Sex t Practices and the Medieval Church Buffalo NY 1982 pp . 119 −128.こ こ で 「妾 con − cubina 」 と あ る の は 、彼 ら が 結 婚 し て い な か た た め で は な く 、 ノ ル ベ ル トゥ ス が よ り 印 本章 叙述 の で の 歴 史 的経 過 に つ い て = , っ 、 。 , , 15) α α α 〔, , 誕6) 17) 18 > , , α つ , 。 0/ 1222 ) 012 ) ) > { , , っ 。 , , “ α , , , , , っ 象の 悪 「妾 」 とい う語 を 選 ん だ た め い で あろ う 。 23) MGH , SS V p . 426. ’ sacerdotes 24) MGH Libelli de lites I p . 588 ; . et levite et subdiaconi cum uxoribus non _ ’ ー coeant . Papal reform . 191 ブ ル メ ン ル ニ . タ は誤 て ボ ゾ が 聖 職者の 妻 の 奴隷化 を伝 え p て い る と書 い て い る Blumenthal o ρ, cit. . 74 , p 22222 567890 ) PL 145 coL411 . ) PL 143, cols . 491−492;Pap l refbrm , pp , 136 −137 . ) Mansi l9, col . 353.皇 帝 の 決 議 批 准 書 は Mansi 19 clo . 355 . } Mansi 11 , coL29 . ) MGH ,Libelli de litesII pp . 80 −84 .ガ ン グ ラ 教 会 会 議 決 議 はMansi 2 col . 1102 c, 4, . ) MGH ,Libelli de litesII pp . 13−14 、.パ フ ヌ テ ィ オ ス の 逸 話 は 今 日 で は 否 定 さ れ て い る 「 成 立 」、223 〜224 頁 31) MGH SS V 426. 32) PL l45 cols . 159−190. Barstow op . cit. p52 . 33 ) PL 145 cols . 387−424. 34) Morris o ρ.cit.p . 82;Blumenthal,o ρ.cit . 257 n . 29. ,p . 35) ボ ニ ゾ と そ の 著 作 『友 」 に つ い て は 、Pap α1 reform pp . 36 −63 , ベ 36 ) MGH , SS V , p . 449 . ル ノ ル ド ゥ ス は そ の 時 、 ボ ニ ゾ が 殉 教 した と書 い て い る が 、他 の 史料 か ら彼 は そ の 後 数 年 間生 き延 び た よ うで あ る Pap α t reform 41 −42. , pp . 37) Bars 奴)w op . cit. p . 80 , 38> 野 凵 前 掲 書 34 〜35頁 39) Mansi 19 coL725 . 40) PI 159,coL903 , , t , , t っ , 。 , , , α 、 , ユ 」 , , , , 。 。 , , , , , , , , , へ , 。 , . 、 、 。 , . 一 48 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronio Library Service Library Kobe Kaisei Kobe Kaisei College College 41 > PI 143,coL492 ;P 〔甲 α ’refbrm , p . 139. 42 > Mansi 19 cols . 74 レ 742 , A . Frazee The origins of clerical celibacy in the western church Church histor 43 ) Ch . γ 42(1972)p . 162. pp . 138−139. 44) PL 143 coL492 ;Pap l reform . 45 ) The ecclesiasti , c α l history of OrdericVitalis voLI ed . Ma 巾 rie Chibnall Clarendon Press 1980 p , 199 Lib. II c , 15. PL 143 coL494 Papa . I reform p . 139 . 44445555555555666 67890123456789012 ) , ; ) 注 3 に 挙 げた 拙 稿 を 見 よ ) Mansi 19,353. 503, ) Mansi 19, 328. ) MGH SS VII PP . 141 . 793−794;P αpal refbrm , p . ) Mansi l9 cols . ) PL 147 coL903 . coL679 . ) Mansi 19, coL648 . ) PL 143, 1,p . 192. MGH Libeili de lites 589 ;Pap α 1 reform ) , p. ) Mansi 2, co1 . 1102,c . 4, Mansi 19 897 . ) } Mansi 19 773−782. ) PI 143 col. 671, coL795 , ) Mansi 19, 254. ) PLl43 , 100 −101 ;James Brundage L tv deπち Cerf,1987 pp . ) Jean Gaudemet Le in αria8e en Occ‘ an 〔 sex , 1christi α n s ε¢ 砂 in mediev α l Europe Chicago and London 1987 pp 」40−141. 63) Morris ρρ.cit . 88. ,p . ー史 《増 補 改訂 版 》』、 田 ー ハ ン ガ リ ハ ン つ い て は 、バ ム レ ー二 ・エ ル ヴ ィ ン 編 『 64) ガ リ 情勢 に 〜 代 文 雄 ・鹿 島正 裕 訳 、恒 文社 、孟980年 、第 2 版 1990 年 、52 72 頁 65) Mansi l9,799.マ ン シ は 1052 年 と し て い る が 、彼 も 引 用 し て い る 『レ オ 9 世 伝 』 で は 文 脈 上 145 . 1053年 の こ と と思 わ れ る PL 143 cols . 496−497;P 〔彡p α Z r 蜘 r 漉 p . ∫ − 66rO 07890 p . 1075;Barstow ,加. cit . p . 54. ) H L IV , , 496−497;P (;p α 1 reform , p . 145. ) PL l43 cols , 132 . ) MGH SS V p . ∫ coL809 07 ) Mansi 19, . ) ノ ル マ ン 人 の 南 イ タ リ ア で の 初 期 の 活 動 に つ い て は 、山 辺 規 子 『ノ ル マ ン 騎 上 の 地 中 海興 亡 史』 自水 社 1996年 3 ト 82頁 cit . p . 866. 71 ) Rich6 0 ρ. , 72 ) こ の 事 件 の 東 西教 会 の 関 係 に か ん す る 意 義 に つ い て は lbid. 865−866. , pp . 73 ) Blumenthal op . cit . p . 73 . Popal refbrrrt . 30 . 74 ) P 907 −908 , 75 ) Mansi 19,001s . Barstow cit Sl . 76 > ,op . . .P . 77 ) Morris , o ρ. cit. 86. ,P . 78 ) PL l43,coL797 , cols . 79 ) と りわ け PL 143, 983−tODO. 、 , , , , α , , , = , , , , , , 、 , , , , , 」 , , , , , , , , α , , 。 。 , , 〔 , , 、 、 、 。 , , , , 、 一 49 一 一 NNII-Electronic 工 工 Eleotronio Library Service Library