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第 24 号 - 桃山学院大学

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第 24 号 - 桃山学院大学
ISSN 1348−1312
第
論
24
号
文
住居侵入と自由 ……………………………江
書
藤
隆
之
( 1 )
排除法則の効果と費用について …………大久保
正
人
( 35 )
村木厚子『私は負けない:「郵便不正事件」は
こうして作られた』
(中央公論新社, 2013年, 253頁) ………軽 部
恵
子
( 67 )
村岡恵理『アンのゆりかご:村岡花子の生涯』
(新潮社, 2011年, 431頁) ………………軽 部
恵
子
( 73 )
評
2014年12月
桃山学院大学総合研究所
1
住居侵入と自由
江
I
本稿の課題と見通し
Ⅱ
議論の状況
藤
隆
之
(1) 判例の整理
(2) 学説の整理
Ⅲ
許諾権衝突の問題
Ⅳ
消極的自由と積極的自由
(1) 一般的区別
(2) 刑法的区別
Ⅴ
自由と住居の保護
(1) 消極的自由と自己決定
(2) 単独住居の保護
(3) 共同住居の保護
Ⅵ
住居以外の客体と 「人の看守する」 について
Ⅶ 結語
キーワード:住居権, 平穏, 消極的自由, 積極的自由
I
本稿の課題と見通し
正当な理由なく人の住居に侵入してはならない。 ところで, それは何故
(1)
なのか。 ひとつの難問である。
刑法学においては居住者の住居権を侵害するからであるとする住居権説,
とりわけ住居権を立ち入り許諾権と解する新住居権説 (許諾権説) と住居
2
(桃山法学
第24号 ’14)
(2)
の平穏を害するからであるとする平穏説とが争っている。 許諾権侵害であ
るとするならば, その許諾権とは何でありどのように行使されるのかが問
題となり, 平穏であるとするならば平穏とはどのような概念でありどのよ
(3)
うな状態になれば害されたといえるのかが問題となる。
一見すると, 居住者が平穏を乱して良いと許諾していればその平穏を乱
しても構わないことに鑑みると, 平穏説であっても保護されるのは 「許諾
(4)
のない平穏侵害」 のみであり結局許諾権説に帰着し, これまでの争いは許
諾の錯誤についての争いおよびポスティング等の処罰をどう見るかについ
ての争いでしかなかったようにも思われるため, これらの問題が合理的に
解決されうるのであれば, 許諾権説に分があるといいたくなる。 しかし,
そういう前にその許諾権とはいったいどのような性質のものであり, 誰に
与えられるものであるのか, どのように行使しうるのかを具体化しなけれ
ばなお短絡の誹りを免れないだろう。 また, 平穏説の唱えるところの平穏
概念にも本罪を理解するうえで看過しえない重要な役割があるかもしれな
い。 そうであるならば, 許諾権説的な思考方法を採用するにしても, ただ
ちに平穏概念を捨て去るのではなく, なおそれを検討する意義があるとい
うことになろう。 それは, 平穏説を平穏という実質的利益を保護する実質
(5)
的利益説と解し, これを意思侵害説とも評される許諾権説と対立させてき
(6)
たことが真に正しいのか, 換言すれば許諾権説は実質的利益を守るもので
はないのかという疑問にまでいたる。
もっと強く問題提起すれば, これまでの刑法学において 「自由に対する
罪」 といったときの 「自由」 の語が
する形で
積極的自由と消極的自由とを混同
きわめて大雑把に使用されてきたために, 自由と利益との関
係を分析的に把握することが難しい状態に陥っていたのではないか。
そこで, 本稿はこの課題に取り組みたいのであるが, 議論の展開がやや
複雑にいたりそうであるから, 理解しやすさのためにあらかじめ本稿のフ
ライトプランと着地点を簡単に見通しておきたい。
本稿は, まずこれまでの議論の状況を簡単に整理する。 判例と学説を見
渡すが, そこでは許諾権を具体的にどう理解するかが課題であるというこ
住居侵入と自由
3
とが明らかにされるであろう。 その後, 許諾権の理解を困難ならしめる問
題として許諾権衝突の問題が取り上げられ, その解決がこれまでの議論に
よったのではデッドロックに乗り上げてしまうことが示される。 次に, そ
のデッドロックから抜け出して先に進むために, 「自由」 の概念をアイザ
イア・バーリンによる自由の区別を参考に, 積極的自由と消極的自由に分
析的に区別する。 そして, 刑法において保護される 「自由」 は消極的自由
であるということを明らかにした上で, 立ち入り許諾権と呼ばれてきたも
のは 「立ち入り拒絶権」 として理解されるべきであり, 許諾権の行使と考
えられてきたものは 「拒絶権の放棄」 であったということが指摘される。
さらに, 消極的自由の観点から, 居住者が1人の場合の保護法益が導き出
される。 それは, 単なる拒絶権というよりはもっと事実化された 「居住者
(7)
以外に住居に立ち入られ住居の利益を乱されないこと」 という実質的利益
ではあるのだが, 消極的自由の 「自由内部における内容を個人に強制する
ものではない」 という性格から 「何が当該住居において守られるべき実質
的利益であるのかの解釈」 を居住者に委ねること, 換言すれば 「他者から
干渉されない領域を刑法が保護する中で何を為し, 何を為さないのかの決
定」, もっとラディカルに表現すれば 「いかなる実質的利益を追求するた
めに自己の住居を保護 (ないし不保護) してほしいのかの決定権」 が居住
者に存するために, 結局のところ拒絶権侵害が実質的利益侵害と重なり合
うということが述べられる。 それからようやく共同住居における拒絶権衝
突の問題を検討するが, そこでの解決指針はこれまでの検討から 「干渉さ
れない領域の保護=消極的自由の保護」 に絞られるので, その指針に沿っ
て類型ごとに解決が示される。 その後, 住居以外の客体すなわち邸宅, 建
造物, 艦船などについて, 保護法益を二元的に把握しなくても実定法上の
「人の看守する」 との文言から管理権者の抽象的・主観的な拒絶意思侵害
をもって直ちに処罰することにはならないことを述べる。 なぜなら, 法益
を単に拒絶権としたのではなく, あくまで実質的利益とし, 住居について
はその利益の決定権が居住者にあるために結論的に許諾権説と一致するに
すぎないのであるから, その他の客体における実質的利益 (もちろん管理
4
(桃山法学
第24号 ’14)
権も) を考慮する契機は, 私見に内在しているからである。 最後に, 理論
ではなく帰結の妥当性から, 多くの学説に抗して, 一部の判例のいうよう
に住居の囲繞地を住居ではなく邸宅とみるべきことがきわめて控えめに主
張される。 すると, マンション共用部分への立ち入りやセールスマンがイ
ンターフォンを押すために玄関前まで囲繞地に立ち入ることが抽象的意思
侵害の処罰から外れるなど, より妥当な不処罰範囲を
にとらえることによって
看守概念を厳密
確保することになるだろう。
以上が, 本稿の見通しである。 かなり複雑な論述になりそうではあるが,
まずは刑法学上の議論の整理からはじめていこう。
Ⅱ
議論の状況
(1) 判例の整理
まず, 議論の流れを時代を通して把握するために, 判例の状況を整理し
ておこう。
大審院時代の判例が, 住居侵入罪を住居権, とりわけ当時の家父長制度
に適合する形で家父長の住居権を保護するものであると理解してきたこと
はよく知られている (旧住居権説)。 たとえば, 代表的な判例である大正
(8)
7年12月6日の大審院判決は 「被告人は他人の不在に乗じ其妻と姦通する
目的を以て其住居に侵入せんとした」 といういわゆる姦通事例において
「住居侵入の罪は他人の住居権を侵害するを以て本質と為し住居権者の承
諾ありたるとき若くは通常住居権者に於て他人が住居に入ることを容認す
るの意思ありと推測し得べき場合に限りて其家族又は雇人の承諾ありたる
ときは本罪の成立せざること疑を容れず」 と住居権説の採用を明らかにす
るとともに, その住居権者の承諾ないし推定的承諾がある場合のみ家族・
雇人の承諾が有効になる旨を判示し, 家父長制度を背景にその住居権を家
父長に持たせることを怠らなかった。 そのうえで, 夫に承諾があることは
推定できないのであるから 「妻が本夫に代り承諾を与うるも其承諾は固よ
り何等其効力を生ずべきに非ず」 として住居侵入 (未遂) の成立を認めた
住居侵入と自由
5
原審を支持し, 被告人の上告を棄却した。 このような家父長の住居権を保
護法益とする裁判所の態度は, 家父長制度が崩壊する戦後まで一貫して維
持されたといってよい。 その証拠に, 姦通事例について住居侵入を認めた
(9)
(10)
同様の裁判例は, 大判昭和11年10月14日や大判昭和13年2月28日, 大判昭
(11)
(12)
和15年2月3日, 大判昭和15年2月6日などによって明確に維持されてい
(13)
る。
日本国憲法施行後, 家父長制度の否定および両性の平等原則にもとづく
(14)
婚姻制度の確立に伴い判例はその見解の変更を余儀なくされることになる。
(15)
最高裁昭和23年5月20日判決は 「住居権者の承諾ある場合は違法を阻却す
ること勿論である」 として住居権説を維持したようにみせながらも, これ
までとは違い, それが家父長にあるということを明言することはなかった。
(16)
最高裁昭和28年5月14日決定は 「住居侵入罪は故なく人の住居又は人の看
守する邸宅, 建造物等に侵入し又は要求を受けてその場所より退去しない
ことによつて成立するのであり, その居住者又は看守者が法律上正当の権
限を以て居住し又は看守するか否かは犯罪の成立を左右するものではない」
と判示し, 保護法益こそ明確にしなかったもののそれが 「法律上正当の権
限」 ではないなにものかでありうることをほのめかす態度をとった。 これ
(17)
を受けて, 最高裁昭和49年5月31日決定は 「住居侵入罪の保護すべき法律
上の利益は, 住居等の事実上の平穏であり, 居住者又は看守者が法律上正
当の権限を有するか否かは犯罪の成立を左右するものではない」 と, 最高
裁昭和51年3月4日決定は, 建造物の囲繞地が本罪の客体となる理由につ
いて 「建造物自体への侵入若しくはこれに準ずる程度に建造物利用の平穏
が害され又は脅かされることからこれを保護しようとする趣旨」 であると
判示し, 刑法130条の罪の保護法益は平穏であると解する態度を鮮明にし
(18)
た。 いわゆる住居の平穏説である。
(19)
ところが, その後の最高裁昭和58年4月8日判決は 「刑法130条前段に
いう 侵入し とは, 他人の看守する建造物等に管理権者の意思に反して
立ち入ることをいうと解すべきである」 と述べ, 平穏説への支持を一転し
てトーンダウンさせている。 ここでは平穏よりもむしろ 「管理権者の意思」
6
(桃山法学
第24号 ’14)
が問題にされている。 それならば, この判決を住居権説への復帰ないし再
転換であるとみるべきであろうか。 学説においては, 本判決をして新住居
(20)
権説に転換したのであるとする評価や, 本判決は大審院以来判例は一貫し
(21)
て住居権説を採ってきたことのあらわれであるとする評価や, あくまで本
判決の射程は侵入の概念であって保護法益については平穏説をなお採って
(22)
いるのであるとする評価など様々なものが散見され, 評価が定まっている
とはいいがたい。 私には, 判例の評価をめぐる争いにはさほど意義がない
ように思われる。 判例は時代とともにその見解を変えてきたのであるが,
それはまさに時代の流れに適合しようとするものであり, そしてそれ以上
のものではないとみるべきであろう。 というのも, 我が国における家制度
および公共とプライヴァシーの在り方はここ100年強の間にめまぐるしく
変化してきたが, そのような状況にあって争訟を具体的に処理する裁判所
がその見解を, あえて大法廷における判例変更の形をとらずに, 小法廷に
おいて時に明言を避けながら判断してきたのは, まさにその時々の柔軟な
解釈適用を担保するためであったと考えるのが自然だからである。 ここで
は, 形式的には判例変更はなされてないが, 実質的には時代および事案に
よってその説明方法が変遷してきたことを確認し, もしかしたらこのよう
な判例の在り方およびそれに対する評価の不一致は住居権説と平穏説との
間にさほど差がないということを暗に示唆しているのではないかという程
度に受けとめておくことにしたい。
(2) 学説の整理
現在, 学説において家父長制度にもとづく旧住居権説を主張する立場は
すでに見られず, 多数説といわれる住居の平穏説と新住居権説 (許諾権説)
とが対立している。 現状を簡潔に描写してみよう。
平穏説に立つ佐久間修は住居侵入罪を 「外部から不当に個人の生活領域
を侵害する犯罪」 と性格づけ, その法益を 「住居の平穏 (ないし安全) で
(23)
ある」 とする。 佐久間は, その教科書において複数住居権者の意思が対立
した場合や集合住宅に居住する人々の安心感の問題や旅行中の居住者が立
住居侵入と自由
7
ち入りに反対し留守番が立ち入りを許諾した場合, 住居権者の錯誤にもと
づく許諾の場合などを例に挙げ詳細に新住居権説を批判し, 新住居権説を
(24)
採用できないことを論ずる。
(25)
前田雅英は, 平穏説と新住居権説は 「実際上かなり重なりあっている」
としつつも, 問題は 「外形上平穏ではあるが意思に反する場合をどこまで
(26)
処罰すべきかである」 とし, 紛争時の大学や郵便局への立ち入りを例にあ
げ 「総長が 学外者立ち入り禁止 の札を立てそれを無視し平穏に立ち入っ
(27)
た場合も侵入行為になるというのはやはり不合理であろう」 として新住居
権説を批判し, 平穏説を採用している。
平穏説に対して, 山口厚は鋭い批判を向けている。 山口によれば平穏説
は実体的には住居などの内部において守られるべき何らかの実質的な利益
(28)
を保護する見解であり, 実質的利益説と呼ぶことができるという。 しかし,
その実質的利益が何であるかは, なお不明確のままである。 山口は 「問題
は, 平穏説=実質的利益説から, 保護の対象となる利益の内実を限定しう
(29)
るかにある」 と述べ, それが困難であることを指摘した上で, 実質的利益
は無限定となりうるのであるから 「平穏説=実質的利益説からは, 住居侵
入罪は 侵入 という行為形態においてのみ共通する 一般的利益侵害予
(30)
備罪
となり, 犯罪としての独自性が見失われることになる」 と批判する。
許諾権説は, 平穏説に対する批判と, 住居権者が他人の意に反する立ち
(31)
入りを受忍すべき理由はないこと, 結局のところ個人的法益に対する罪と
して住居侵入罪を捉える限りは, 侵入は居住者の意思に反するものである
ため, 結局のところ平穏説を採ったとしても許諾権説に帰着することなど
(32)
をその主たる論拠として唱えられている。 たとえば, 松宮孝明は, その教
科書において 「住居権侵害あれば平穏侵害あり」 と, 平穏概念が結局のと
(33)
ころ住居権概念に帰着することを明確な標語で表現している。
(34)
許諾権説批判には様々なものがあるが, とりわけ関哲夫と嘉門優からの
(35)
ものをとりあげておきたい。
わが国における住居侵入研究の第一人者ともいうべき関は, 住居と公営
(36)
建造物・社会的営造物との法益を多元的に理解すべきことを主張した上で,
8
(桃山法学
第24号 ’14)
住居についてはたしかに住居権的に理解するのではあるが, 公共営造物に
ついては 「外的障害によって業務遂行が乱されることがない平穏な状態」
として客観化され, 個々の職員に分解されえない平穏概念をその法益であ
(37)
ると主張する。 というのも, 関によれば, 家族生活が時代とともに社会的
なものから私事的なものへと変化し, 家族は私的自由領域としての性格が
(38)
顕著となってきているのに対して, 公共営造物はその公的な業務への国民
の利用可能性・批判可能性を担保することは民主主義的要請を基礎とする
ものであり, これらは公的・一般的な開放性ないし公開性を前提とするた
め, 管理者の許諾意思 (自己決定) が絶対的に尊重されるべき領域ではな
く, 「本罪の成否をもっぱら管理者の許諾意思にかからしめることは合理
(39)
的でない」 という。 関の構想は, 社会の変化を捉えたものであり興味深く,
保護法益を一元的に許諾権にかからせようとする見解に対して, とりわけ
公共営造物の保護法益論についての批判となっているようにも思われる。
ただし, 関の見解に対しては, 「官公庁の建造物といえども, 公的財産の
適切な管理という観点から, 管理・支配権が保護されないとする理由はな
(40)
い」 ため公的性格はあくまで管理権の制限の問題として考慮すれば足りる
とする批判や, 業務の遂行を保護法益とするのでは業務妨害罪と混同する
(41)
ものであるとの批判が加えられている。
嘉門優は, 意思侵害説に至る許諾権説 (および意思侵害説に至りうる平
(42)
穏説) に対して鋭い批判を加える。 いわく, 意思侵害説によれば 「居住者
の恣意的な拒否意思も保護されると解する以上, 居住者が第三者の立ち入
りに対し, 自分に危害を加えられるのではないかという
不安感 や, 相
手を気に入らないといった 不快感 を抱けば, 客体が
個人の住居 で
(43)
ある以上, 原則的に,
意志に反する立ち入り
として侵害に該当する」
ことになるが, 「他者に不安感・不快感を発生させることは社会生活を営
む上でしばしば起きることであって, これらをすべて法的な問題として取
(44)
り上げていけばきりがな」 く, 「そもそも, このような
という感情や, 漠然とした不安感の惹起は,
刑法
気に入らない
で対応されなければ
(45)
ならない問題であろうか」 と。 嘉門は, このような感情の保護は 「不快原
住居侵入と自由
9
理」 ないし 「迷惑原理」 によるものではあっても, 「侵害原理」 からは説
(46)
明することは困難であると述べ, 住居侵入罪の法益理解を明確化し, 侵害・
(47)
危殆化を要求しなければならないという。
このような嘉門の指摘には, 不安感や不快感一般を刑法で保護すべきで
(48)
ないという点について賛同したいが, 住居侵入の法益理解については疑問
がある。 たしかに, 不安感・不快感一般は刑法の保護対象ではない。 ある
(49)
人の不安感・不快感の保護は, 別の人の自由侵害につながるからである。
しかし, 一般的な社会生活上の不安感・不快感と個人の住居内における不
安感・不快感はその性質をまったく異にする。 前者は, 嘉門の指摘のとお
り, 社会生活上やむをえないことであり, これを刑法の規制対象とすべき
ではない。 ところが, 後者, すなわち個人の住居内における不安感・不快
感から人を保護することにはなお法益として十分な意義があるといわざる
をえない。 それが一般においてはどれだけ取るに足りない不快感であって
(50)
も, である。 個人には, 単に気に入らないというだけでその人が住居に入
ることを拒否する自由がある。 そうでなければ, 住居は住居でなくなって
しまうだろう。 どれだけ不合理な理由や偏見に基づこうとも, 嫌いな人の
立ち入りを拒否できなければそれは住居ではない。 単にもうちょっと寝て
いたいから, ひとりで観たい映画の DVD があるから, お気に入りの洋服
が洗濯中だから, 髪型が決まらないから, といって来訪者の立ち入りを,
たとえそれが日頃からの親友であってその立ち入りが社会的に穏当なもの
(51)
であったとしても断る自由があって初めて住居であり, その自由はそれだ
けで十分に保護に値する社会的実質を持っている。 公的なスペースから切
り離された私的領域の確保, いわば, 国家・社会から離れて個人の私的生
活を確保すること, 換言すれば自分が許可したのでないかぎり, 誰からも
(52)
干渉されず, 誰からも介入されない領域の確保は, 個人の尊厳に直結する
重要な自由 (権) である。 他者から強制を受けない私的領域の確保こそが
(53)
自由であり, 自由は個人の基本権の淵源ともなる重要な利益であり, 法益
(54)
として保護すべき十分な価値を有するといいうるだろう。
とはいえ, 許諾権説に単純に賛同できるかといえば, 必ずしもそうでも
10
(桃山法学
第24号 ’14)
ない。 許諾権がどこから発生し, それが誰によってどのように行使されう
るのかを検討する必要がなおあるだろう。
Ⅲ
許諾権衝突の問題
許諾権を中心に住居侵入罪の保護法益を考えようとすると, 許諾権者が
複数人いる場合のその衝突時の処理如何が困難な問題として立ち現れる。
たとえば, 2人暮らしの住居に, 片方が許諾し, 片方が拒絶する来客があっ
(55)
た場合の処理如何である。
ストレートに考えれば, 居住者の許諾権が侵害されれば法益侵害がある
といえるのだから, 居住者のうちの誰か1人でも立ち入りに反対をしてい
れば住居侵入罪が成立するようにも思われる。 たとえば, 大塚仁はそのよ
うに考え, 「各居住者が, 夫婦や成人の家族同士のように, 平等の立場に
あるときは, 有効な承諾は, それら全員の意思ないし推定的意思に適った
(56)
ものであることが必要である」, 「夫婦の一方が他方に代わってそこへの立
(57)
ち入りを承諾しうるのは, 他方の意思に反しない場合でなければならない」
という。 しかし, 居住者の1人に招き入れられた場合にも外出中の居住者
の推定的意思に反するだけで住居侵入罪が成立するというのであれば, そ
(58)
の処罰範囲はかなり広いものとなるであろう。
これに対して, 山口厚は居住者の1人の許諾で不処罰に十分であるとい
う。 山口は 「居住者=許諾権者自身については, その滞留が他の居住者=
許諾権者の意思に反することになっても, 住居侵入罪又は不退去罪は成立
しえないが, このことは, 許諾権は他の許諾権との関係で相互に制約され
(59)
ていることを意味する」 ので 「居住者=許諾権者1人の承諾があれば, 住
(60)
居侵入罪は成立しないと解すべきである」 という。 なるほど, たとえば恋
人が2人で同棲している住居において, 2人が喧嘩をし, 一方が他方の滞
留ないし帰宅を拒んだとしても, 住居侵入ないし不退去罪が成立するとは
考えられない。 その指摘は結論として正しい。 しかし, 山口の説明にはな
お疑問が残らざるをえない。 このような場合において住居侵入ないし不退
11
住居侵入と自由
去罪が成立しないのは, 許諾権が相互に制約されているからではなく, 当
該住居がそもそも他人性を欠くからではないだろうか。 許諾権の有無や判
断能力の程度などにかかわらず, 自己の居住する住居へは誰もが帰宅する
ことができる。 となれば, このような例は 「人の住居」 という客体の不在
に他ならず, 許諾権が相互に制約をされていることの論証例とはなりえな
いであろう。
また, 1人の許諾で不処罰に十分であると考える見解の具体的問題点を
山中敬一は指摘する。 いわく, 「現在しない居住者のみの同意があり現在
(61)
する居住者が全員反対する場合にも成立を認めないのは不合理である」 と。
そこで山中は 「現にその住居にいる居住者の一部が明示的に反対の意思表
(62)
示をしているときは, 同意は全体として無効であると解すべきである」 と
現在者意思優先説を主張する。 なるほど, 不在者の扱いについて, 山中の
指摘は結論としては説得的に思われる。 1人の許諾で十分であるとする見
解にも問題がないわけではない。
すると再び問題はデッドロックに乗り上げる。 そこで, なぜこのような
(63)
衝突問題が他の自由に対する罪と違って発生するのかについて, 基礎的な
観点から問題を照射してみたい。
Ⅳ
消極的自由と積極的自由
(1) 一般的区別
ここで, 議論の深化のために, 刑法において保護される自由が 「消極的
(64)
自由」 であるということを明確にしておきたい。 そのためには, 自由を消
(65)
極的自由と積極的自由との2つに区別することが必要となる。 そこで, こ
の自由の2つの概念すなわち “Two Concepts of Liberty” をアイザイア・
(66)
バーリンによるオックスフォード大学教授就任演説 (1958年) を参考にし
(67)
て区別しておこう。 自由について考察するのならば, 「自由」 という術語
がいかなる意味で使用されるのかについて
論
彼の哲学全体への賛否は別
バーリンの分析を参考にしない手はないであろう。 実際, 英語圏の
12
(桃山法学
第24号 ’14)
哲学者の多くは, 自由について考察するときには, バーリン哲学への賛否
にかかわらずバーリンの分析から説き起こすことを常としている。
バーリンによれば, 自由の概念は消極的自由 (negative freedom) と積
(68)
極的自由 (positive freedom) に区別される。
(69)
消極的自由は, 「∼からの自由」 であり, 他人に強制的に干渉されない
(70)
ことを意味している。 ここでは, 「したいことができない」 としてもそれ
は自由の欠如を意味しない。 あくまで, 手かせ・足かせのない状態, 他人
から強制的に介入されないことをもって, 消極的自由があるというのであ
る。 我々は
消極的自由の文脈においては
100メートルを能力不足
のために10秒以内で走れなくても, お金がなくてある物を買えないとして
(71)
も, 自由がないとはいわない。 不器用なためギターが上手く弾けなくても
自由がないとはいわない。 これに対して, 誰かに体を押さえつけられてい
るから走れない場合や, 何者かが買い物を妨害するから物を買えないよう
な場合, 他人に手をつかまれているからギターが弾けない場合は, 自由が
侵害されているという。 消極的自由は, 不干渉, 不侵害, 強制の否定といっ
た言葉で表現することができる状態である。 強制的干渉があれば不自由,
なければ自由というのが消極的自由である。 ここで注目しておきたいのは,
消極的自由といったときは単に不干渉の状態をいうのみであって, その不
干渉の状態においてその人が何を為すのかについては何ら言及していない
点である。 消極的自由は, 干渉や支配の及ばない自由の 「範囲」 を問題と
(72)
するだけなのである。
これに対して積極的自由は, 自分が自分自身の支配者でありたいという
(73)
願いから生ずるものである。 それは自己支配 (selfmastery) であり, 自ら
(74)
の行動が自ら決定した目的にかなっているという自由である。 つまりは自
己実現の自由であり, 目的達成の自由である。 積極的自由は干渉や支配の
(75)
「源泉」 を問題にし, そこで 「何をするか=何を実現するのか=何を達成
するのか」 の考慮が決定的に重要かつ不可避である。
(76)
これら積極的自由と消極的自由の概念は対立するものである。 積極的自
由には 「目的」 なり 「実現」 なりが必ず存在する。 「∼する自由」 である
住居侵入と自由
13
以上は, 「∼する」 という内容がそこに含まれる。 そうであるから, 積極
的自由は時に他者からの支援・保護を要求し, 同時に他者への干渉・介入
(77)
を招きうる。 これが国家刑罰と結びつけば刑法的パターナリズムを際限な
(78)
く正当化するものとなりえよう。 これに対して, 消極的自由はパターナリ
ズムを否定する方向の自由であるのだから, 両者の対立は明白である。
(2) 刑法的区別
もっと刑法の問題にひきつけて区別を明確化していこう。 たとえば, 我々
が 「刑法は性的自由を保護している」 というときは, 「ある者と性交しな
い自由=他者に性交を強制されない自由=性交を拒否する (消極的) 自由」
の保護を含意しており, それと対立する 「ある者と性交する自由=他者に
性交の相手方となることを強要する自由=性交を遂行する (積極的) 自由」
はまったく意味していない。 性交をしない (消極的) 自由は, 性交をせず
に何をするのかに言及しない。 性交をする (積極的) 自由はまさに特定の
誰かと性交をすることに言及している。 このとき両者は積極側と消極側と
で合意がない限り衝突し, 刑法的には消極的自由が一義的に保護され, 積
極的自由の同意なき行使は強姦罪を構成することになりうる。 このことに
異論のある者はいないだろう。 すると, 性的自由に対する罪において, 無
意識のうちに我々は自由概念を区別し, 消極的自由を保護客体としてきた
ということがいえよう。 強姦罪における 「性的自由」 が 「ある者と性交し
ない自由」 を意味していることは分析的に考えれば明らかなのである。
場所的移動の自由においてもまったく同様である。 我々は 「場所的移動
の自由」 という言葉で, 「場所的移動を妨げられない自由」 を漠然と念頭
に置き, 「好きな場所に好きな時に行ける自由」 を漠然と排除して論じて
きた。 それにもかかわらず, これを 「場所的移動の自由」 とあたかも積極
的自由であるかのように刑法学が表現してきたことには, 用語法上の問題
点を指摘せざるをえない。 実際, 「場所的移動の自由」 は消極的自由であ
るから, 場所的移動を妨げられない中で当人が何をするのかについては刑
法学の議論においては言及できない。 それがいかに下らないものであって
14
(桃山法学
第24号 ’14)
も, たとえば部屋から一歩だけ廊下に出てそこで10秒間逆立ちをしてから
また部屋に戻るという一般的には価値があると思われないようなことでも,
その部屋の鍵をかけて部屋から出ることを妨害すれば監禁罪が成立するの
である。 もし仮に, 「廊下で10秒の逆立ちのための移動であれば妨害から
保護されない」 というのであれば, それは明らかに不当であろう。
強要罪は, 自由に対する罪の基本類型であるが, 「権利の行使を妨害」
との規定はその権利が何であるかに言及せず消極的自由の保護を端的に表
現しているのであり, 「義務のないことを行わせ」 も, 「(義務のないこと
に対して) 不作為でいることを妨害されない自由=作為を強制されない自
(79)
由」 を意味している。 すなわち, 刑法上の自由に対する罪における保護法
益としての自由は, すべて介入・強制されない自由すなわち消極的自由な
(80)
のである。
考えてみれば, これは当然のことである。 消極的自由はそれ自体中身に
ついて何もいっていない。 自由を他者から強制干渉されない範囲としてと
らえ, その自由をどのようなものにするかという自由の内容については各
(81)
人がそれぞれに吹き込むことが期待され, 許されている。 つまり, 国家に
よる消極的自由の保護は, 私人の自由の範囲を保護するだけであり, そこ
に国家による強制の契機はない。 これに対して, 積極的自由は内容を有す
る概念である。 そこには, 何かを実現するという具体的な目的がある。 も
し国家が私人のある目的実現を刑罰でもって保護し, 別の目的実現を保護
しないとしたら, 国家が特定の目的ないし価値観の保護を刑罰をもって私
(82)
人に強制することに帰着しよう。 このようなことは, 自由主義国家におい
(83)
ては原則として許されることではない。 個人の活動に対して自由主義国家
がすべきことは, その活動の範囲を保障し, 強制を排除することであって,
その中身に立ち入って特定の活動を禁止したり特定の活動を後押しするこ
とではない。 阪本昌成の言葉を借りれば, 「自由は, 選択という人の活動
とかかわっている。 自由の理論体系は, 人の活動全体を視野に入れたもの
でなければならない。 そのさい, 活動の目的, 動機, 予想される結末は,
(84)
観察者の視野の外に置かれなければならない」 のである。 というのも, あ
住居侵入と自由
15
る人がある機会を選択した際のコスト計算は当人の内部にしか存在しない
がゆえに, 「外部の観察者は, 見送られた選択肢の費用を計算することが
(85)
できないのであ」 って, 当人が 「自由になした選択こそ真の選択に違いな
(86)
い, と外部の観察者は取り扱うべき」 なのである。
以上の整理から, 刑法において守られる 「自由」 とは消極的自由, すな
わち 「他者による介入・他者からの妨害からの自由」 であるということが
浮き彫りになったと思う。 同時に 「他者に介入・他者を妨害する自由=積
極的自由」 は守られていないどころか, その態様によっては犯罪として禁
(87)
圧されていることも分明となったであろう。 自由に対する罪における自由
法益が自己決定によって容易にその保護を放棄することができるのも, そ
れが消極的自由を意味しているからである。 他者による意に反する介入を
排除することが自由保護なのであるから, 本人が受け入れる介入からは刑
罰をもって保護する必要がないのである。 また, 消極的自由はいくら徹底
しても他人の消極的自由との衝突という事態は起こらない。 たとえば, A
が誰とも性交しないことを徹底しても, BがAと性交しないことやCと合
意の上で性交することとの衝突は起こらない。 衝突が起こるとすれば, 誰
かがAと性交するという積極的自由を (Aの意に反して) 行使しようとし
た時だけなのである。 このように, 消極的自由は徹底して保護しても本人
が自己決定によって放棄しても他者の消極的自由に影響を与えないのであ
る。
刑法において保護されている自由が消極的自由であることを, 自由に対
する罪のひとつである住居侵入罪にあてはめて考えると, これまで許諾権
説が論じてきたものは, その内実は許諾権でなかったというべきことに気
づかされる。 消極的自由が保護されるという限り, 保護されているのは住
居への立ち入り拒否権/拒絶権である。 許諾は, 「許諾権の行使」 ではな
く, 「拒絶権の放棄」 なのである。 このことを明確に指摘しておきたい。
以上のことを踏まえて, まず消極的自由と自己決定の問題をみて, その
後, 独り暮らしの住居の保護を論じてから, 住居侵入罪において消極的自
由が衝突しているようにみえる共同住居の問題を解きほぐしていこう。
16
(桃山法学
第24号 ’14)
Ⅴ
自由と住居の保護
(1) 消極的自由と自己決定
消極的自由は, 人間の人格と強く結びついている。 自由が, とりわけ妨
害のない状態を意味する消極的自由が人間にとってなぜ重要であるのかと
いえば, それが人間がその幸福を追求する第一条件だからである。 個人は
誰もが幸福を追求することができる。 しかし, 幸福とはきわめて相対的で
あり, ある人にとっての幸福と別の人にとっての幸福は必ずしも重ならな
いばかりか, 正反対であることすらありうる。 時には他者には愚行にしか
(88)
見えないような行いが当人にとって幸福な行いであるかもしれない。 そこ
で, 人が幸福になるためには, 誰かから幸福や価値観を押しつけられるの
ではなく, 何が幸福であるかを自ら考え, 自ら追求することがまず許され
なければならない。 そのための, 条件こそが強制的干渉のない状態 (強制
的干渉を拒絶できる状態) であり, そこで何をするかについては当人に委
ねられているのである。 そうであるから, 原則として人格に一身専属する
自由は, 当該自由主体がその自由 (拒絶権) を放棄するか否かを選択する
ことができる。 私的な領域について本人が自由放棄に同意しているのであ
れば, それはそうすることが本人の幸福追求につながるのであるから権力
が刑罰によってパターナリスティックに介入保護すべきでない。 刑罰によ
るパターナリスティックな介入保護は, かえって本人の幸福追求を害する
であろう。 かくして消極的自由の具体的要保護性については本人の決断に
基づいて保護・不保護が決定されるべきことが導き出されるのである。 こ
のように, 何が自分にとって幸福であるかを決定すること, その実現のた
めに自分の有している消極的自由を保護するか放棄するかを決定すること
は, 法や国家ではなく自由主体たる個人に委ねられているのである。 これ
(89)
が個人の (他者を侵害しない範囲における) 自己決定である。
もう一度まとめていおう。 自由に対する罪は消極的自由を保護している。
消極的自由は, 積極的自由とは異なり当該自由の状態において具体的にど
住居侵入と自由
17
のような行為を為すかについてはまったく触れていない。 すなわち, 消極
的自由の本質は不干渉・不介入の範囲を確保して, その中でどのような実
現目的を持ち, どのような活動をするかは私人に委ねる点にある。 そうで
あるから, 刑法による自由保護の枠組みの中で, 法益主体はその都度自分
の消極的自由が刑罰によって保護されるか保護されないかを決定すること
が許される。 その際, その自由の中で何を為すかは刑法の知るところでは
(90)
ない。 同意する監禁はいかなる態様でいかなる時間のものであるか, 同意
するわいせつ行為はどの程度のものか, それを法益主体は決定できるので
ある。 となれば, 同意する侵入はいかなるものであるかは, もちろんその
法益主体が決定することができるということになろう。 当然, 住居で何を
するつもりで, どのような理由で立ち入りに同意しなかったのか, そういっ
たことは刑法の関知するところではない。 むしろ関知してはならない。
(2) 単独住居の保護
ある住居に居住者が一人しかいない単独住居の場合, 住居侵入罪の保護
法益問題は以上の検討で十分に解決へと導きうるだろう。
単独で居住している場合, 住居はその居住者にとって他者から干渉され
ることのない排他的領域である。 したがって, その領域においてどのよう
な状態が当人の幸福に寄与するものであるか, それは居住者が自由に決定
することができる。 その決定にもとづいて, ある人の立ち入りを拒絶し,
またある人の立ち入りを拒絶しないのである。 すると, 住居の保護法益は
いわゆる当人にとっての住居のあるべき姿である。 そのあるべき姿, 換言
すれば 「平穏」 (実質的利益=住居の目的) がいかなるものであるかは,
(91)
その当人の消極的自由の範囲内における決定に委ねられる。 「平穏」 がど
のようなものであるかは, 国家の側が決定することではない。 これは自由
に対する罪であるから, 住居が侵害されないという消極的自由の中で,
「各人が設定する利益」 が保護されるべきなのである。
このように, 住居侵入罪の究極の保護法益は実質的利益であり, これま
(92)
での刑法学の用語法に従えばそれを 「平穏」 と呼んでもかまわないが, そ
18
(桃山法学
第24号 ’14)
の平穏が何を意味するかを居住者が決定することができるため, 拒絶権者
の意に反する立ち入りが侵入として理解されるのである。
個人が排他的領域を有している場合, 当人はその領域内の使用目的・方
(93)
法 (利益) を誰からも邪魔されずに自由に設定することができる。 これが,
拒絶権の根拠である。
(3) 共同住居の保護
ある住居に居住者が複数いる共同住居の場合, どのような保護の方法が
考えられるだろうか。 それをどの観点から考察すれば良いだろうか。
これまでの分析から得た知見によれば, この問題にはすでに解決のため
のひとつの観点が示されている。 それは, 排他的領域を有する者はその領
域における 「実質的利益」 の決定権があり, それに基づいて拒絶権が与え
られているということである。 となれば, これまでの許諾権衝突の問題と
は, 排他的領域性がそもそもない共同領域においてある居住者が設定する
利益と別の居住者が設定する利益とが対立する問題であったといえよう。
そこで, まず解決が容易な共同住居内においてもなお確立されている排
他的領域部分からみていきたい。 ある人の立ち入りを他の居住者の意思に
反して許諾している居住者が, 当該住居内に個人的な領域をすでに確立し
て有している場合, たとえば当該居住者が壁や扉などで明確に他の領域と
(94)
区別された個室を有している場合, 当該領域の平穏決定権は, 当該拒絶権
者に与えられると解するのが相当である。 当該拒絶権者の介入されない私
的領域として他の居住者の同意にもとづいて確立されているからである。
この領域については, 当該拒絶権者の意思および推定的意思が最優先され
る。 当該拒絶権者が拒絶権を放棄 (許諾) すれば立ち入ることができ, 行
使すれば立ち入ることができない。 つまり, 個室を割り当てられている者
が不在であったとして, 住居に現在する者全員が当該個室への立ち入りを
許諾したとしても, 外出中の個室拒絶権者の推定的意思に反する限り, 現
(95)
在者の許諾は有効とはいえない。
次に, 上記のような確立された個室にその個室の拒絶権者から許諾を得
住居侵入と自由
19
た者が立ち入るために通過することが必要不可欠となる領域, 玄関, 隣接
する廊下, 個室へ続く階段等については, 当該個室の自由に付随する権利
として単独で行使されうる。 これは根源的なその領域に対する自由でなく,
あくまで個室利用を妨害されない自由の一環として保護されるのである。
そうしなければ, 個室への自由が実効性をもたなくなってしまうからであ
る。 そうであるからこの領域への立ち入りについては, 当該個室の拒絶権
者が拒絶権を放棄することで十分である。 もちろん, 複数の居住者それぞ
れに個室が割り当てられ, それぞれに来客を招くことがあるだろうから,
その場合を考えれば, 「廊下等の個室へ向かうために立ち入ることが不可
避的な部分については当該個室の独占的使用者一人の許諾で十分である」
といえば足りるであろう。
トイレのように, 個室へ行くためには不可避ではないが, 長く滞在する
場合には使用が避けられない領域についても, 一人の許諾で十分であると
しよう。 個室利用を妨害されない自由に付随するものであろう。
これらに対して, 個室に行くのに立ち入る必要のないリビング・風呂等
の共用部分やワンルームマンションの一部屋などそもそも確立した個室を
持たない共同住居については, 介入されない領域保護である消極的自由の
本来的意義を尊重することにより, 拒絶を優先させ, 居住者が1人でも拒
絶していれば立ち入りは許されないと解すべきである。
なぜなら, 共用部分について一部の居住者がある者の立ち入りを許諾し,
別の居住者が拒絶した場合にその立ち入りを認めるとしたら, 拒絶者の消
極的自由が侵害されることになるからである。 個室への立ち入りに必要な
範囲での共用部分への立ち入りであれば, それを許諾 (拒絶権放棄) する
のは個室管理者の消極的自由保護という明確な理由があった。 人を 「自室
に」 招き入れることを妨害されない自由であり, 自室で何をするのかにつ
いては当該個室の管理者が自由に目的を設定することができる領域として
の自由である。 しかし, 自室への立ち入りに付随しない共用部分への立ち
入りについてはこのような正当化をすることができない。 というのも, 共
用部分にはそもそもある居住者が単独で利益設定できる領域ではないから
20
(桃山法学
第24号 ’14)
である。 拒絶者の側から換言すれば, そこで生活する者は端的に干渉を拒
絶する権利があり, その侵害を甘受すべき義務はないといえる。 たとえば
リビングで昼寝をしていることが来訪者によって邪魔されるべきではない。
住居の保護は, 「排他的生活領域に干渉されない自由」 の保護であるので,
排他的生活領域を独占している者の許諾は, その領域に対する唯一の拒絶
権の放棄であるためそれ自体有効であるが, 排他的生活領域がそもそも設
定されていない場合の一部の居住者による許諾は, 他の拒絶権者の拒絶権
を侵害するがゆえに積極的には意味をなさず, むしろ一人でも 「干渉され
(96)
たくない」 という者がいれば, その自由が優先するのである。
留守宅の場合には, 全員に許諾の推定的意思が認められる場合, たとえ
ばたびたび訪れる親戚が合鍵を使って居間で家人の帰りを待っているよう
な場合, 住居侵入罪は成立しない。 推定的意思が衝突する場合は, 現在者
がいる場合とパラレルに解決される。 個室については個室の管理者の推定
的意思が最優先であり, 個室使用に不可欠な共用部分についても当該個室
の管理者の推定的意思を最優先し, そうでない共用部分については1人で
も拒絶者がいれば, 立ち入りは許されないものと解すべきである。
Ⅵ
住居以外の客体と 「人の看守する」 について
以上のように, 住居侵入罪を考えてきたが, 130条は住居だけでなく,
人の看守する邸宅, 建造物, 艦船もその客体とする。 これらについては,
とりわけ公共営造物について二元的に法益を把握する見解が主張されてい
(97)
ることからもわかるように, ひとつの重要な問題である。 本稿では, 130
条の保護法益を客体ごとに別様に解する必要はなく, そのようにしなくて
もなお妥当な結論を導き出しうることを主張したい。 それは, 条文の 「人
の看守する」 の意義の分析によって達成される。
130条の保護法益は, 当該領域の 「利益」 である。 住居については, 消
極的自由の主体に利益の決定権があるため, 許諾権説のように
拒絶権と読み換えて
これを
居住者の意思 (拒絶) に反する立ち入りが侵入と
住居侵入と自由
21
されるのであった。 しかし, 住居以外の客体は, そこでは日常生活の用に
供しないことが前提とされており, 「私生活の場」 ではなく住居ほど 「排
(98)
他的領域」 ではない。 すると, 当該領域について 「何が利益であるか」 を
決定する権利は, 住居のときのような単なる好みや嫌悪感を理由とした行
使が必ずしも正当化されるとはいいがたくなる。 というのも, それが個人
による幸福追求の領域を保護するという消極的自由保護の要請は, 住居に
(99)
比べて極めて薄められているからである。 そのことを条文において示した
のが 「人の看守する」 である。
住居以外の客体についてそれらが看守されていることを法が明文で要求
しているのは, 当該領域に対しては抽象的・黙示的・主観的な意思では足
りず, 具体的・明示的・客観的な意思の表示がなければならないことを意
味している。 というのも, 「人の看守する」 という限定がない住居に対し
ては, 具体的かつ明示の拒否がなかったとしても (たとえば玄関のドアが
開け放たれていても) 留守宅に侵入することが禁止されているのに対して,
住居以外の客体について法は管理権者に 「有効に拒絶したいのならば, 事
実上支配・管理せよ」 と求めているのであり, 管理権者に具体的・明示的・
客観的な意思表示を求めているといいうる。 それゆえ, 具体的な意思表示
の不要である住居については, その居住者が主観的に当該領域における利
益を決定することができるのに対し, そうでない建造物等については管理
権者は具体的・明示的・客観的にその意思を表示しなければならないこと
になる。 住居においては意思表示なく立ち入りを拒絶できる (拒絶権者が
明示で拒絶を意思表示しなくとも内心で拒絶している住居に入れば住居侵
入罪が成立する) が, 建造物においては具体的・明示的・客観的に拒絶の
意思表示をしなければ拒絶は有効とはならないのである。
こう解することによって, 住居については原則としてその居住者の意思
に反すること自体が平穏を乱すことである (居住者が当該住居にとっての
利益を自由に決定することができる) と考えることができ, 建造物等につ
いては管理者の抽象的・黙示的・主観的意思に反するような場合であって
も具体的・明示的・客観的意思表示に反しない立ち入りについてはなお刑
22
(桃山法学
第24号 ’14)
法130条の成立を認めない余地があると解しうるのである。 たとえば, 一
般人が包括的に出入りを許されているように外形的に見える建造物への立
ち入りは, たとえ管理権者の推定的拒絶があったとしても侵入とはならな
(100)
いのである。
Ⅶ
結
語
最後にひとつだけ, いわゆる 「妥当な帰結」 から導き出される見解を控
えめに付け加えたい。 少なくない学説は住居の囲繞地は住居であるとして
(101)
いるが, 住居の囲繞地・共同住宅の共用部分は邸宅であるとする判例があ
(102)
る。 この場合, 後者の判例の立場を採った方が, いわゆる一般的にポスティ
ングが行われているマンション共有部分設置の郵便受けに対するポスティ
ングや 「セールスお断り」 と書いてあるものの一般に営業目的の来訪が行
(103)
われている住宅の囲繞地への立ち入り等軽微な案件について, 「人の看守
する」 という制限がかかるために, 刑法130条の罪の成立を否定しやすく
なるように思われる。 その点で, 私は住居の囲繞地は邸宅であるとする見
(104)
(105)
解に賛同したい。
本稿の主張をまとめると以下のとおりである。
①刑法の 「自由に対する罪」 は, 分析的に表現すれば 「消極的自由に対す
る罪」 である。
②住居侵入罪の保護法益は住居の利益であり, それをこれまでの用語法に
従って 「平穏」 と呼んでもかまわない。
③住居の利益がいかなるものであるかは, 刑法が消極的自由を保護してい
る以上, 当該住居の居住者が決定することができる。
④そのため原則として居住者の拒絶に反する立ち入りが住居侵入罪を構成
する。
⑤複数居住者の意思が対立した場合は, それぞれの領域ごとに解決がはか
られる。
⑥条文の文言上, 住居については拒絶権侵害が即利益侵害であるが, 邸宅・
住居侵入と自由
23
建造物・艦船については管理権者の抽象的意思に反するだけではただち
に利益侵害とはならず, 具体的・明示的・客観的な拒絶権が侵害されな
ければならない。
⑦住居の囲繞地, 共同住宅の共用部分は住居ではなく邸宅である。
(了)
注
(1)
なお, 本罪は130条という刑法典中の社会的法益に対する罪に位置し
ているが, 個人的法益に対する罪としてみるべきであることについては
一致をみているといえよう (毛利晴光 (大塚仁=河上和雄=佐藤文哉=
古田佑紀編)
大コンメンタール刑法
(青林書院, 平成12・2000年)
261頁参照)。 したがって, 本罪が個人的法益に対する罪か社会的法益に
対する罪かという点については特に論じないこととする。 ドイツ刑法
123条についても同様である。 Vgl. Hans Welzel, Das deutsche Strafrecht,
11. Aufl, 1969, S. 332 ; Urs Strafrecht BT., 5. Aufl., 2012, S.
230.
(2)
毛利・前掲注(1)261頁以下。
(3)
なお, 本罪をはじめ刑法における 「自由に対する罪」 の法益を自由で
あるとすること自体の見直しを迫るものとして, 辰井聡子 「 自由に対
する罪 の保護法益
喜彦・西田典之編
人格に対する罪としての再構成」 岩瀬徹・中森
刑事法・医事法の新たな展開 (町野古稀)
上巻
(信山社, 平成26・2014年) 411頁以下がある。 辰井の問題意識は理解で
きるが, それは 「自由」 の語を分析せず大雑把に用いてきたこれまでの
議論状況に問題があるのであって, 決して 「自由」 に問題があるのでは
ない。 刑法が保護する 「自由」 の中に漠然と積極的自由も含めていたこ
とに由来する問題なのである。 たとえば, 辰井は 「住居権者には誰を住
居に入れるか入れないかを決定する権利があり, 人には誰と性的行為を
行うか行わないかを決める権利がある」 (同412頁以下) というが, すで
にここに混乱が見られる。 住居権者には誰を入れるかを決定する権利は
なく, 人には誰と性的行為を行うかを決定する権利はない。 あくまで
「拒絶する権利 (消極的自由の保護)」 しかないのである。 このことは,
本稿の論述において明らかにしていく。 また, 佐藤陽子
―各論的考察による再構成―
参照。
被害者の承諾
(成文堂, 平成23・2011年) 41頁以下も
24
(桃山法学
(4)
第24号 ’14)
たとえば, 団藤は 「事実上の住居の平穏を保護法益とする」 としなが
らも, 侵入について 「住居の平穏を害するような態様における
り住居者の意思または推定的意思に反する
つま
立ち入りをいう」 と述べ,
続けて 「住居者の真意による承諾があれば, 違法な目的の立ち入りであっ
ても, 侵入とはいえない」 としている (団藤重光 刑法綱要各論 (創文
社, 昭和39・1964年) 486頁以下)。 これは, 平穏説を採りながらも, 結
局のところ許諾権説を採用していると評するべきであろう。 これに対し
て, 西田典之
刑法各論
第6版 (弘文堂, 平成24・2012年) 98頁は鋭
い批判を加えている。 しかし, 若干先取りすればそれでも本稿は団藤の
見解 (すなわち平穏を守る許諾権説) が基本的に妥当な方向を示してい
たという結論にいたり, その新たな根拠を提示することになるであろう。
(5)
「 正 当 な 理 由 が な い の に 」 と 定 め る 日 本 刑 法 130 条 や 「 違 法 に
(widerrechtlich)」 と定めるドイツ刑法123条に対して, スイス刑法186
条は Wer gegen den Willen des Berechtigten in ein Haus, in eine
Wohnung, in einen abgeschlossenen Raum eines Hauses oder in einen
unmittelbar zu einem Hause umfriedeten Platz, Hof oder
Garten oder in einen Werkplatz eindringt oder, trotz der
Aufforderung eines Berechtigten, sich zu entfernen, darin verweilt, wird, auf
Antrag, mit Freiheitsstrafe bis zu drei Jahren oder Geldstrafe bestraft.“ と
定め, 「許諾者の意思に反して (gegen den Willen des Berechtigten)」
と 「意思侵害」 を規定した例であるといえよう。
(6) たとえば山口厚
刑法各論
第2版 (有斐閣, 平成22・2010年) 118
頁や嘉門優 「住居侵入罪における侵入概念について
判的検討
(7)
意思侵害説の批
」 大阪市立大学法学雑誌第55巻第1号 (2008) 144頁参照。
これまでの議論の用語でいえば 「平穏」 と呼んでもかまわないだろう。
しかし, 平穏という日本語の単語でイメージされるような客観的な意味
での平穏ではないことに注意を要する。 あくまで当該居住者にとっての
平穏なのである。 極端なことを言えば, 居住者が住居内がかき乱され常
に混乱し続けていることをエキサイティングであると感じ, それを望む
のであるならば, 混乱こそがその住居にとっての 「平穏」 である。
(8)
刑録24輯1506頁。 引用の際は, カタカナをひらがなに開き, 旧漢字を
新漢字に改め, 適宜句読点を打つ。 以下, 同。
(9)
新聞4066号14頁。
(10)
刑集17巻125頁。
(11)
大審院判決全集7輯6号27頁。
住居侵入と自由
(12)
25
大審院判決全集7輯6号22頁。
(13)
その時代的な理由は, 出征兵士の妻の姦通事案について, 出征兵士の
士気高揚のため妻の姦通を処罰する必要があったが, 姦通罪は親告罪で
あるため戦地の夫が告訴しえないので, それに代えて住居侵入罪で処罰
したものと説明されることがある。 たとえば, 山中敬一
刑法各論
第
2版 (成文堂, 平成21・2009年) 170頁の注14がそのような説明をする。
(14)
なお, 戦後においても妻の姦通相手たる被告人に住居侵入罪の成立を
認めた興味深い判例に名古屋高判昭和24年10月6日 (高等裁判所刑事判
決特報1号172頁) がある。 ただし, 本判決の趣旨は家父長の住居権を
根拠とするものではなく, 夫婦に平等に許諾権があるとしても, なお夫
の許諾がないために住居侵入が成立するという許諾権者の対立における
いわゆる全員許諾必要説を採用する趣旨であるため, 結論のみをみて戦
後において旧住居権説が維持されていた例であるとはいえない。
(15)
刑集2巻5号489頁。
(16)
刑集7巻5号1042頁。
(17)
裁判集刑事192号571頁。
(18)
ただし, いずれも小法廷であり, 公に判例変更とはされていない。
(19)
刑集37巻3号215頁。 スイスの判例であるが, 住居権 (Hausrecht) を
保護法益として, それが Befugnis の下で理解されるとしたものとして
BGE 83 IV 156. も参照。
(20)
前田雅英 刑法各論講義 第5版 (東京大学出版会, 平成23・2011年)
170頁。
(21)
頃安健司 「刑法130条前段の
(22)
木藤繁夫 「刑法130条前段にいう
侵入
の意義」 研修420号73頁。
侵入
の意義等」 警察学論集36巻
7号152頁。
(23)
佐久間修
(24)
佐久間・前掲注(23)129頁以下。
刑法各論
第2版 (成文堂, 平成24・2012年) 128頁。
(25)
前田・前掲注(20)171頁。
(26)
前田・前掲注(20)172頁。
(27)
前田・前掲注(20)172頁の脚注6。
(28)
山口・前掲注(6)118頁参照。
(29)
山口・前掲注(6)118頁以下。
(30)
山口・前掲注(6)119頁。
(31)
頃安・前掲注(21)72頁以下。
(32)
西田・前掲注(4)97頁以下, 山口・前掲注(6)116頁以下, 大谷實
26
(桃山法学
第24号 ’14)
刑法講義各論
新版第3版 (成文堂, 平成21・2009年) 126頁など。
(33)
松宮孝明
刑法各論講義
(34)
たとえば, 香川達夫は 「住居権そのものは正権限にもとづくことが要
第3版 (成文堂, 平成24・2012年) 124頁。
件となろう。 だが, 必ずしもそうは主張されていない点で, この所説の
もつ論理性の欠如がうかがわれる。 加えて, 居住者中の特定人に対して
のみ, その権利が付与される基礎が定かでなく, したがって適切でない」
(香川達夫
刑法講義
各論
第3版 (成文堂, 平成8, 1996年) 453
頁) と述べている。
(35)
その他, 研究ノートではあるが, 鈴木晃 「住居侵入罪の保護法益につ
いて」 中京法学47巻 3・4 号 (2013) (175)295頁以下も許諾権説に対す
る批判が詳細かつ整理して述べられている。
(36)
関哲夫 住居侵入罪の研究
(成文堂, 平成7・1995年) 370頁。 この
ような見解に対して伊東研祐は 「私的な住居に関しては新住居権説を採
用する一方で, 半ば公的な建造物に関しては平穏説をその抱える問題点
を含めて引き継ぐものであり, 区別の根拠づけや業務妨害罪との関係整
理 (構成要件的成立可能性の検討) を含め, なお正統化が必要な次元に
止まるものといわねばならない」 と批判している (伊東研祐
刑法講義
各論 (日本評論社, 平成23・2011年) 86頁)。
(37)
関・前掲注(36)315頁以下。 あわせて同
続・住居侵入罪の研究
(成
文堂, 平成13・2001年) 9頁以下も参照。
(38)
関・前掲注(36)319頁以下。
(39)
関・前掲注(36)324頁以下。
(40)
山口厚 問題探究刑法各論
有斐閣 (平成11・1999年) 70頁。 これに
対する関からの反論が関 「続」・前掲注(37)29頁以下にある。
(41)
高橋則夫
刑法各論
成文堂 (平成23・2011年) 138頁, 西田・前掲
注(4)98頁など。
(42)
団藤説 (本稿注(4)参照) などが念頭に置かれている。 嘉門・前掲注
(6)151頁以下。
(43)
嘉門・前掲注(6)147頁。
(44)
嘉門・前掲注(6)147頁。
(45)
嘉門・前掲注(6)147頁。
(46)
嘉門・前掲注(6)165頁。
(47)
嘉門・前掲注(6)171頁以下。
(48)
曽根威彦 「ポスティングと刑事制裁」
現代社会と刑法
成25, 2013年) 144頁以下もあわせて参照。
(成文堂, 平
住居侵入と自由
(49)
27
ある人の不快感・不安感を強制力をもってなくすためには, その原因
となっている別の人の行動を強制的に制御する他ないが, それが 「侵害
原理」 から許されない制御であることは明らかである。 ただし, 私見は,
侵害原理がそもそも自由保護のための原理であることに鑑みれば, 立法
段階では侵害原理が重要 (国家機関による私人の自由制限には侵害原理
は欠かせない) ではあるものの, 具体的適用段階では
とづく立法を前提として
侵害原理にも
「危殆化原理 (危険行為の禁止)」 にもと
づく行為規範違反 (法益を危殆化する行為を禁圧する規範の事前提示と
その違反) で処罰に十分であると解する。 が, いずれにせよ, 不安感・
不快感の刑法による保護は正当化されない。
(50)
たとえば, 嫌煙家が, 一般に設置されている喫煙スペース・喫煙所に
不快感を抱いたとしても, その不快感は保護に値しない。 しかし, タバ
コの臭いのする者の自宅への立ち入りを拒絶することを保護することは
なお意味がある。 そうでなければ, 「他人の家に誰でも入れる」 という
ことになってしまうであろう。
(51)
逆に, その立ち入りがどんなに不穏当な態様であろうとも, 居住者か
ら立ち入りを許諾されているならば, それは侵入ではない。 住居侵入罪
の保護法益を自由に結び付けて理解する佐藤陽子が 「 侵入
語には, やはり
意思に反する
という用
という要素が含まれている」 と述べた
うえで, 「一階の玄関から立入ろうが, 二階の窓から立入ろうが, 家人
に招き入れられた者は日常用語的に
侵入者
とはいえない」 とするの
は正当である (佐藤陽子・前掲注(3)52頁)。
(52)
伊東は住居および建造物のミニマムな機能を 「その内部に居る時点時
点における天候を含めた様々な外部的影響からの物理的及び精神的シェ
ルター・干渉排除施設」 であると確認し, これを 「私的空間を支配する
自由」 と表現している (伊東・前掲注(36)86頁)。 「支配」 というと積極
的自由を思わせるので若干の語弊が生じる危惧を感じるものの, その主
張の内実は正当である。 表現としては, 「私的空間を他者に支配されな
い自由」 の範囲の確保と表現し, 居住者による住居支配の目的・態様に
ついて刑法が関与する余地を排除しておくべきであろう。
(53)
この点, 阪本昌成
憲法2
基本権クラシック
第4版 (有信堂, 平
成23・2011年) 17頁以下, とりわけ20頁以下参照。
(54)
私は嘉門が決してこの点を無視していると主張するものではない。 嘉
門は住居と公共営造物の違いについては必ずしも明確ではないがその違
いを意識している (嘉門・前掲注(6)173頁)。 しかし, 嘉門は意思侵害
28
(桃山法学
第24号 ’14)
について 「社会的に許容しうる態様, 程度」 を超えないと実質的利益侵
害・客観的な平穏侵害がないと述べている (同174頁) 以上, 私が本文
で加えたような批判は当たるであろう。
ドイツでの議論状況について, Vgl. Herbert Thomas Fischer,
(55)
StGB, 54. Aufl., 2007, 123, Rn. 4.
(56)
大塚仁 刑法概説
各論
第3版 (有斐閣, 平成8・1996年) 118頁。
(57)
大塚・前掲注(56)119頁。
(58)
なお, 高橋・前掲注(41)144頁は, 「1人でも反対すればつねに住居侵
入罪が成立すると解することは, 同意している居住者の保護をまったく
無視することになり, 妥当ではない」 というが, この批判は当たらない。
許諾権説で保護されるのはあくまで拒絶権であり, 住居への 「招き入れ
権」 ではない。 通常の場合でも, 許諾したからといって, 相手が実際に
立ち入るか否かは立ち入る者の行為にかかっているのであるから, 立ち
入りを許諾したが何らかの理由で立ち入らせることができなかったとし
ても, そのこと自体は保護するに当たらない。
(59)
山口・前掲注(6)125頁。
(60)
山口・前掲注(6)125頁。
(61)
山中・前掲注(13)170頁。
(62)
山中・前掲注(13)170頁。 なお, 山中は 「明示的な」 反対というが,
これは推定的拒否を含まないという趣旨であろう。 ただ, 現在者に限っ
ていえば, 反対は明示的に行われるものであって, 黙示的な反対という
のはおよそ考えられないがゆえに, この 「明示的な」 はほとんど意味の
ない限定であろう。 現在している者の表明が不快感の表明等にとどまり,
明示的に反対しなかった場合は, しぶしぶ容認したという状況であり,
そもそも反対していないのである。
(63)
たとえば, AがBとの性交に同意しようとも拒否しようとも, 他者C
がBとの性交を拒否する自由には何の影響も与えない。 DがEによる監
禁に同意しようとも拒否しようとも, FがEによる監禁を拒否する自由
には何の影響も与えない。
(64)
私はすでに監禁罪に関する論稿の中でこのことに言及している。 江藤
隆之 「監禁罪の保護法益について」
桃山法学
第23号 (平成26・2014
年) 45頁以下。
(65)
この区別は, イェリネク国法学の分類にも対応しうるが (Vgl. Georg
Jellinek, System der subjektiven Rechte, 2. Aufl., 1905 (Nd.
1964), S. 86f, 94ff.), イェリネクにおいては積極的自由については国家
住居侵入と自由
29
への権利要求といったものと結びついており適用範囲が狭く, より根源
的かつ国際的に広く議論されるのはバーリンによるものであるので, こ
こではバーリンの区別・用語法による。
(66)
バーリンについては定評のある入門書であるジョン・グレイ
和訳
一郎
バーリンの政治哲学入門
バーリンの自由論
河合秀
(岩波書店, 平成21・2009年) や濱真
(勁草書房, 平成20・2008年) がある。 これ
にくわえて, とりわけ近年の出色の作品として上森亮 アイザイア・バー
リン多元主義の政治哲学
(春秋社, 平成22・2010年) を挙げておきた
い。
本稿のバーリン引用は, Isiah Berlin, Liberty, Four Essays on Liberty,
(67)
Oxford University Press, 1968 および Isiah Berlin, Edited by Henry Hardy,
Oxford University Press, 2002 を元に訳出した。 以下, 引用・参照箇所
は2002年版のページ数を示す。 邦訳としては, アイザィア・バーリン
小川晃一・小池・福田歓一・生松敬三訳 自由論 新装版 (みすず
書房, 昭和54・1979年) 295頁以下を参照した。 なお, バーリンは freedom と liberty については区別しておらず, 本稿でも区別の必要性を感
じないので, 自由は freedom / libery どちらも互換可能な概念として理解
する。 亀本も liberty の語を使用するか freedom の語を使用するかは
「慣用, 好み, 文脈あるいは修辞学上の問題であり, 本質的なものでは
ない」 とする。 亀本洋
法哲学
(成文堂, 平成23・2011年) 557頁。
(68) Ibid., p. 169. なお, このバーリンの自由概念の整理について, 消極的
自由を必ずしも擁護しないマッカラム, テイラー, マクファーソンらか
ら批判が加えられ (概略は濱真一郎
バーリンの自由論
(勁草書房,
平成20・2008年) 58頁以下参照), 反対に消極的自由の擁護を強く支持
する自由主義経済学者ロスバードからも自己所有権論にもとづく鋭い指
摘 (マリー・ロスバード
自由の倫理学
森村進=森村環=鳥澤円訳
(勁草書房, 平成15・2003年) 256頁以下参照) があるが, 刑法における
自由保護に限定する本稿の議論には影響がないので, ここでは詳細に検
討しない。 なお, 古典的リベラリズムの立場からの整理として, 阪本昌
成 法の支配
(69)
(勁草書房, 平成18・2006年) 128頁以下参照。
バーリンの政治哲学および自由主義哲学の文脈では, この 「他人」 は
「政府=国家」 を主に表すことが多いが, ここではもう少し広く (そう
することは決して消極的自由の概念や自由主義理解を歪めるものではな
い) 一般的用語法における 「他人」 として理解しておこう。
(70) Ibid., p. 170.
30
(桃山法学
(71)
第24号 ’14)
上森の説明を参照した。 上森・前掲注(66)144頁。
(72)
特に, 上森・前掲注(66)143頁以下参照。 この表現での対比は同書の
281頁以下を参照した。
(73)
Ibid., p. 178.
(74)
Ibid., pp. 178
181.
注(71)と同様に上森・前掲注(66)143頁以下および281頁以下を参照し
(75)
た。
Ibid., pp. 178
179.
(76)
(77)
阪本昌成は正当にも 「消極的自由は, だれに対しても配分されうるの
に対して, ある種の積極的自由はそうではなく, 誰かの自由を減殺して
はじめて実現できる」 と述べている。 阪本昌成
リベラリズム/デモク
ラシー 第2版 (有信堂, 平成16・2004年) 85頁。
Mathias Mahlmann, Rechtsphilosophie und Rechtstheorie, 2. Aufl., 2012,
(78)
S. 307.
(79)
辰井・前掲注(3)413頁は, 自由に対する罪について 「特定の事項に
ついての決定権が害された場合に犯罪の成立を認めるに止まり, 包括的
に 意思の自由
や
自己決定権
を保護するものではない」 と述べる
が, 強要罪は消極的自由を守る包括的規定である (辰井がここで 「自己
決定権」 の語を積極的自由の意味で使用しているのならば異論はない)。
消極的自由の保護のための干渉は, ミルの時代から暴力等による自由侵
害の場合に限定されているように ( John Stuart Mill, On Liberty, 1859,
Chapter V “Applications”), 暴行や脅迫ひいては権力によって権利の行
使を妨害されたり, 義務のないことを行わされたりすることを防ぐとい
うのが, 消極的自由の根源的かつ包括的な保護の仕方である。 自由に対
する罪は強要罪および公務員職権濫用罪を典型的な犯罪類型とし, その
他特別な態様を別途規定する構造を有している。 江藤・前掲注(64)56頁
参照。
(80)
自由に対する罪において消極的自由の範囲内における自己決定を否定
する見解はおよそ主張されていないように思われるし, 仮にそのような
見解があったとしても不当であろう。
(81)
阪本昌成の表現を借りた。 阪本
リベラリズム/デモクラシー
前掲
注(77)85頁参照。
(82)
ここでは, 「刑罰をもって」 という限定を厳密に付しておきたい。 刑
罰強制以外の方法で特定の目的実現を支援する余地については, なお残
しておこうと思う。 消極的自由と積極的自由の区別は社会生活全般を対
住居侵入と自由
31
象とする場合には困難をともなう (実際に政治哲学上の議論が積み重ね
られている) が, 刑法における自由に限定する限り, 本稿の議論は通用
するであろう。
自由主義にとって重要なことは 「選択肢の非制限 (non-restrictions of
(83)
options)」 であるとし, それが積極的自由の要素を含むとしてもなおこ
れを消極的自由概念の範疇に含ませうると論ずるものに, ジョン・グレ
イ 山本貴之訳
自由主義論
(ミネルヴァ書房, 平成13・2001年) 63
頁以下がある。
(84)
阪本 リベラリズム/デモクラシー
前掲注(77)86頁。
(85)
阪本 リベラリズム/デモクラシー
前掲注(77)86頁。
(86)
阪本 リベラリズム/デモクラシー
前掲注(77)86頁。
(87)
もちろん, 積極的自由の行使がすべて禁止されているというわけでは
ない。 態様によっては, 依頼, 懇願, 要求, 申込などとして当然に適法
に行うことができる。
(88)
ミルは 「個人の幸福に最大の関心をもっているのは本人である」 とし
たうえで 「他人の助言や警告を無視して本人が間違いをおかすことがあっ
ても, 他人が本人のためだと考えることを強制するのを許容した場合の
方が, はるかに大きな害悪をもたらす」 と指摘する。 これが刑罰による
強制の話であればなおさらであろう。 Mill, op. cit, Chapter IV. 引用には
山岡洋一訳 (ジョン・スチュアート・ミル
山岡洋一訳
自由論
(日
経 BP クラシックス, 平成23・2011年) 168頁および169頁) を引いた。
(89)
その意味で自己決定は積極的なものではなく, 消極的自由の範囲内に
おいて行使される限定的なものである。 「他者侵害をする自己決定」 が
あり得ないことを想起せよ。 自己決定は常に, 「他者を侵害せず, 他者
から侵害されない範囲で, 何かを決定すること」 である。
(90)
たとえば, 先ほど例に挙げた 「部屋の外の廊下で逆立ちを10秒間だけ
したい」 という一般的には価値のあると思えない動機であっても, 部屋
の外に出ることを扉の鍵をかけて妨害すれば監禁罪は成立し, 部屋の外
の廊下からさらに家の外に出る鍵をかけたとしてもそれを被監禁者が
「廊下で逆立ちをする邪魔にはならないから鍵を外からかけておいても
いいよ」 と同意していれば監禁罪は成立しない。
(91)
これを 「私生活の領域に介入されない利益」 とする辰井の指摘 (辰井・
前掲注(3)429頁) は正しいが, これをして 「自由に対する罪」 という
よりは 「人格に対する罪」 という辰井の議論 (ないし用語法) には賛同
できない。 そもそも介入されない利益を 「自由」 と呼ぶのであるから。
32
(桃山法学
第24号 ’14)
もちろん, 自由は人格の範囲を保障するものであるから, 人格と密接に
関連している。 人格およびその実現の場を形式的かつ領域的に保護する
利益が自由である。 たが, 一足とびに人格という具体的なものに保護法
益をシフトさせることは, 刑法が個人の人格に関与することになり不当
である。 自由という呼称が刑法学の議論に混乱を引き起こしてきたとい
うのはその通りであるが, それは 「積極的自由は刑法の保護対象ではな
い」 と明確に主張することによって, 十分に解決されうる問題である。
(92)
(93)
ただし, 注(7)参照。
言うまでもないことだが, 刑法が禁圧している法益侵害・法益侵害の
危険をともなう行為をする (積極的) 自由は住居の中であっても
極的自由の範疇を踏み越えるため
消
許されない。 端的に表現すれば
「住居内であっても犯罪行為は放任されない」 のである。
(94)
他領域と区別される領域であっても, 他領域とあわせてひとつの住居
を構成していること, 換言すれば当該領域は住居の部分であることが前
提である。 そうであるから, 個室の許諾権者の意に反する立ち入りであっ
ても当該住居の居住者の立ち入りは他人性を欠くので刑法130条の罪を
構成しない。
(95)
(96)
大塚・前掲注(56)118頁以下。
それではなぜ, 共有スペースへの共同居住者の立ち入り (干渉) が許
されるように見えるのかといえば,
場合と同様
前注(94)の個室への立ち入りの
それは許諾権の問題ではなく住居の他人性がないからで
ある。 実は, ある居住者は共同居住者に対しても干渉拒絶権 (自由) を
有しているのであるが, 共同居住者による拒絶権侵害を刑法は犯罪とし
ては禁圧していないというだけである。
(97)
関・前掲注(36)全体がこのような主張をするものである。 あわせて同
「住居侵入罪の保護法益」 西田典之・山口厚・佐伯仁志編
刑法の争点
(有斐閣, 平成19・2007年) 150頁以下参照。
(98)
たとえ艦船であっても, それが日常生活の用に供されているのであれ
ば, それは住居であると主張したい。 ここで客体とされる人の看守する
艦船は, 日常生活に供されない艦船である。
(99)
建造物等についても 「消極的自由として保護すべき領域がない」 とま
では言えない。 たとえば, 法人が有するオフィスであれば, その法人の
排他的領域に対して介入されない自由は
ど明確ではなくとも
(100)
個人の私生活領域の自由ほ
あるといわなければならない。
もちろん, 具体的・明示的・客観的に管理者の拒絶意思が表示されて
住居侵入と自由
33
いる場合 (たとえばある店舗についてトラブルを起こした客に対して管
理権者が明示的に出入り禁止を告げて拒絶している場合) は, その意思
に反する立ち入りは建造物侵入罪を成立させる。 すると, 公共営造物に
対する立ち入りもなお広く禁止されるではないかという疑問も生じよう
が, ①当該営造物が国や地方公共団体による公の管理にかかっている場
合には具体的な拒絶意思表示が不合理・差別的なものであれば憲法違反
であり拒絶意思表示自体が無効となるため立ち入りは可能であり, ②当
該営造物が私営である場合 (私営鉄道の駅舎や私立学校の校舎など) に
はなお当該営造物の管理権を保護する必要があり
ような無効の意思表示でないかぎり
公序良俗に反する
結論として不当ではないという
べきであろう。
(101)
団藤・前掲注(4)486頁, 大塚・前掲注(56)113頁, 大谷・前掲注(32)
128頁, 前田・前掲注(20)176頁, 佐久間・前掲注(23)131頁など。
(102)
最判昭和32・4・4 刑集11巻4号1327頁, 最判平成20・4・11刑集62巻
5号1217頁 (立川自衛隊宿舎事件) など。 ただし, 立川自衛隊宿舎事件
判決では, きわめて単純に管理権者の意思に反し平穏を害するとして邸
宅侵入罪を認めているが不当である。 住居部分については, 私生活が営
まれているため当該居住者の意思に反する立ち入りは許されないが, 邸
宅部分については
本件客体が公営 (国営) の邸宅であることもあり
立ち入りの拒絶は慎重かつ限定的に解されるべきであった。 とりわ
け, 他のポスティングが許容されている状態の公営邸宅において, 態様
の異ならない特定のポスティングだけが拒絶されるというのは不合理で
あるといいうるであろう。 曽根・前掲注(48)145頁も参照。
(103)
なお, 囲繞地内部に設置されているインターフォンを鳴らして (ある
いはインターフォンがない場合に玄関扉をノックして) セールスの可否
を居住者に尋ねるために囲繞地へ立ち入った場合は, 居住者の具体的意
思の確認作業をするものにすぎないのであるから, 一般的に許されると
解すべきであろう。
(104)
(105)
曽根・前掲注(48)145頁。
なお, 松宮孝明 「校庭への立ち入りと建造物侵害罪」
立命館法学
239号 (平成7・1995年) 169頁のように建造物の囲繞地を客体から排除
する見解もある。 この見解にとりわけ罪刑法定主義の観点から強い説得
力を感じるので建造物については従いたい。
ただし, 住居および邸宅の囲繞地は邸宅である。 塀に囲まれた一戸建
ての庭を含めて邸宅と呼んだり, マンション共用部分 (すなわち建物の
34
(桃山法学
第24号 ’14)
内部) を客体に含めることには問題がないからである。 建造物の外側の
塀に囲まれた土地を建造物と呼ぶことはできないので, この部分につい
てだけ130条の客体から外したいと思う。
35
排除法則の効果と費用について
大久保
正
人
はじめに
Ⅰ
排除法則の効果
(1)
排除法則の位置づけ
(2)
排除法則の抑止効
Ⅱ
排除法則の費用
(1)
費用と効果
(2)
合衆国最高裁の動向
(3)
我が国における排除法則
おわりに
キーワード:排除法則, 人権保障, 真実発見
は
じ
め
に
アメリカ合衆国の刑事司法手続において, 違法な手段で収集された証拠
は, 公判で使用することが許されていない (違法収集証拠排除法則:以下,
(1)
排除法則と記す)。 違法に収集された証拠の証拠能力が否定される根拠と
しては, 一般に, ①司法の廉潔性を維持すること, ②将来における違法捜
査を抑止することが挙げられている。 そして, このような排除法則は, ア
メリカ合衆国の刑事司法手続に深く根付いている。
36
(桃山法学
第24号 ’14)
もっとも, 近年, 排除法則の存在意義を問い直す観点から, 排除法則の
目的を, 将来における違法捜査を抑止することに限定し, そのような抑止
の 「効果」 が, それに伴う 「費用」 (社会の損失) を上回る場合にのみ適
用されるとする見解が有力になっている。
本稿においては, まず, 排除法則の位置づけ (法源と正当化根拠) を明
らかにすることを通して, 排除法則の実質的な 「効果」 について検証する。
次に, 排除法則の 「効果」 と, それに伴う 「費用」 の関係について, 近年
のアメリカ合衆国最高裁の動向を中心として, 「利益衡量」 という観点か
ら検討する。 最後に, アメリカ合衆国の動向を参考にして, 我が国におけ
る議論に若干の示唆を得ることを試みる。
Ⅰ
排除法則の効果
違法な手段で収集された証拠を公判から排除する (証拠能力を否定する)
「違法収集証拠排除法則」 については, ①実際に犯罪者が見逃される確率
は低いこと, ②違法に収集された証拠に依拠した事実認定には問題がある
こと, ③憲法上の権利を保護するために必要とされること, ④法執行官に
よる違法行為を抑止すること, 等を理由として, アメリカの刑事司法制度
(2)
に広く浸透している。
しかし, ①法執行官の違法行為によって, 犯罪者が自由になってしまう
こと (法執行官による不始末の代償を社会に負わせることになる), ②信
頼できる証拠が排除されることによって, 裁判所の事実認定機能が害され
ること (違法に収集した証拠といえども, 証拠としての価値そのものに変
わりはない), ③排除法則は, 憲法の要請ではなく, 裁判所が創設した法
則に過ぎないこと, ④法執行官の違法行為を抑止するという証拠はないこ
と, 等を理由として, 排除法則の廃止や, その適用範囲の縮小を求める声
(3)
も大きい。
実際, 排除法則については, その改革の一環として, 様々な 「例外法理・
(4)
法則」 が確立されており, その適用範囲が限定される傾向にある。 以下,
排除法則の効果と費用について
37
排除法則の法源と正当化根拠 (排除法則の位置づけ) を明らかにすること
を通して, 排除法則の実質的な 「効果」 について検証する。
(1) 排除法則の位置づけ
アメリカ合衆国の刑事司法手続において, 排除法則は, どのように位置
づけられているのであろうか。 初めに問題となるのは, 違法な手段で収集
された証拠を排除することが, アメリカ合衆国憲法修正第4条 (以下, 修
正第4条と記す) の要請であるのか否かである。 この点, 排除法則が修正
第4条の要請であるならば, 合衆国最高裁は, それを破棄することが不可
能であるし, 議会も, それを廃止することが不可能であろう。 それに対し
て, 排除法則が裁判所によって創設された法則に過ぎないのであれば, 合
衆国最高裁は, それを破棄することが可能であるし, 議会も, それを廃止
することが可能であろう。 また, 排除法則がアメリカ合衆国の刑事司法手
続に深く根付いているとしても, 証拠 (物) としての価値そのものに変わ
りはないことに鑑みれば, 「真実発見の要請」 を犠牲にしてまで, その証
拠能力を否定しなければならない 「必然性」 が認められるのであろうか。
今日における排除法則の存在意義が問題となる。
1 排除法則の法源
修正第4条は, 違法に収集された証拠を公判から排除すること, すなわ
ち, 違法に収集された証拠の証拠能力を否定することを通して, 被疑者・
被告人の権利を 「救済」 することを要請しているのであろうか。 排除法則
が修正第4条の要請か否かについて, 合衆国最高裁は, Mapp 判決におい
て, 「個人のプライバシーの侵害に対する修正第4条による制約の一部」
であり, 「修正第4条及び修正第14条の本質的な部分」 であると述べてい
(5)
た。 しかし, 近年, 合衆国最高裁は, 排除法則が, 修正第4条の侵害を抑
止することを目的として 「裁判所によって創設された法則」 に過ぎないと
いう立場を採用し, 違法に収集された証拠を公判から排除することは, 憲
(6)
法の要請ではない旨を述べている。
38
(桃山法学
第24号 ’14)
合衆国最高裁は, Leon 判決において, 次のような理論的根拠を述べ,
(7)
排除法則が憲法上の基礎を有しないとの結論を導いている。
A 修正第4条は, 必要な救済として, 何ら排除法則に言及していない。
B 修正第4条の起源と目的の検証によると, 違法に収集された証拠を公
判において使用することが, 「新たな修正第4条の侵害を引き起こさない」
ことは明らかである。 すなわち, 修正第4条は, 違法な法執行行為が行わ
れた時点で侵害されるのであり, 公判において証拠が許容される時点で侵
害されるものではない。 したがって, 違法な法執行行為に基づいて収集さ
れた証拠を許容することは, 修正第4条の侵害とはならない。
C 修正第4条の侵害が, 違法な法執行行為の時点で終了する以上, 排除
法則は, 既に被った権利侵害を救済するものではない (救済することはで
きない)。
D 排除法則は, 将来における修正第4条の侵害を抑止することを目的と
して 「裁判所によって創設された救済」 である。
排除法則が修正第4条の要請ではないとする見解に対しては, 次のよう
(8)
な反対意見が述べられている。
A 憲法の重要な規範の大部分は, 一般的な言葉で述べられており, その
ような規範に意味を与える役割は, その後の司法による意思決定に委ねら
れている。 確かに, 「権利章典 (Bill of Rights)」 は, 明確な救済手段を規
定していない。 だからといって, 起草者は, 「権利章典」 が, 何ら救済手
段を伴わない単なる 「勧告的」 な規定に過ぎないとは想定していなかった
であろう。
B 法執行官による違法行為と, 公判における証拠の使用とを区別して議
論する見解を容認することはできない。 修正第4条は, 全体として, 政府
(法執行機関) の権限を抑制しており, 司法には憲法上の権利を遵守する
責務がある。
C 法執行行為は, 主として証拠を収集することを目的として行われてお
り, そのような証拠は, 通常, 公判において使用することを前提としてい
排除法則の効果と費用について
39
る。 したがって, 違法に収集された証拠の許容性を判断するのに際しては,
それを収集した法執行行為と同じ憲法上の問題が提起されるのは明らかで
ある。
このように, 排除法則の法源については, それを修正第4条の要請であ
るとする見解も存在するが, 現在においては, 「裁判所が創設した法則」
に過ぎないとする見解が支配的となっている。
2 排除法則の正当化根拠
排除法則の法源について, 合衆国最高裁は, 修正第4条の要請ではなく,
裁判所が創設した法則に過ぎないものと理解している。 そうであるならば,
裁判所は, 排除法則を破棄することが許されるし, 議会も, それを廃止す
ることが許されるはずである。 それにもかかわらず, 排除法則がアメリカ
の刑事司法制度に広く浸透しているのは, どのような理由によるのであろ
うか。 排除法則が存続し続ける正当化根拠, 言い換えるならば, 排除法則
が刑事司法制度にもたらしている 「効果」 が問題となる。
合衆国最高裁は, Mapp 判決において, 排除法則の2つの正当化根拠を
提示している。 それらは, ①司法の廉潔性を維持する効果があること, ②
(9)
将来における違法捜査を抑止する効果があることである。
① 司法の廉潔性の維持
排除法則の正当化根拠の1つは, 「司法の廉潔性」 を維持することに求
められる (このような正当化根拠の礎は, 100年前, 合衆国最高裁が下し
(10)
た Weeks 判決においても見出すことができる)。 なぜなら, 憲法を遵守す
る役割を担っている司法が, 憲法に反して収集された証拠の使用を認める
のであれば, そのことは, 司法の判断によって憲法違反を肯定しているこ
とに他ならないからである。 すなわち, 裁判所 (官) は, 憲法に違反して
収集された証拠を許容することによって, 「その手を汚すべきでない」 の
である。
40
(桃山法学
第24号 ’14)
② 将来の違法行為の抑止
排除法則の正当化根拠のもう1つは, 違法行為を行う 「動機」 を取り除
(11)
くことを通して, 将来における違法行為を 「抑止」 することに求められる。
すなわち, 刑罰という 「威嚇」 によって, 多くの潜在的な犯罪者は, 犯罪
に手を染めることを思いとどまるという 「刑罰の一般予防機能」 の考え方
と同様に, 違法に収集した証拠の使用を禁止するという 「制裁」 によって,
法執行官は, 憲法違反の捜索・押収を思いとどまるという考え方である。
このように, Mapp 判決において, 排除法則の2つの正当化根拠が示さ
れたが, 近年, 合衆国最高裁は, 「司法の廉潔性」 という正当化根拠を強
調することがなくなった。 そして, 近年, 合衆国最高裁は, 排除法則の唯
一の目的が, 「将来における修正第4条の侵害を抑止すること」 である旨
(12)
を述べている。
排除法則の正当化根拠 (目的) について, 「抑止効」 を重視し, 「司法の
廉潔性」 を強調しなくなったのには現実的な理由がある。 「司法の廉潔性」
という概念は, 本来的に, 道徳上の要請に基づくものであり, その実質的
な効果を検証するのが困難であることから, 裁判所による 「利益衡量」 に
馴染まない。 また, 合衆国最高裁が指摘しているように, 「司法の廉潔性」
を突き詰めるのであれば, 違法に収集された証拠は, 刑事手続だけではな
く, 民事手続を含めた全ての司法手続において排除しなければならなくな
(13)
るであろう。
(2) 排除法則の抑止効
排除法則の正当化根拠としては, 従来, ①司法の廉潔性の維持と, ②将
来における違法行為の抑止が挙げられていたが, 近年, 合衆国最高裁は,
「将来における違法行為の抑止」 を唯一の正当化根拠としている。
それでは, 「将来における違法行為の抑止」 という正当化根拠は, 現実
問題として, 証拠の排除に値する実質的な 「効果」 を挙げているのであろ
うか。 排除法則は, 修正第4条の権利が侵害されてから (不合理な捜索・
排除法則の効果と費用について
41
押収が行われた後に) 適用されることから, 違法行為によるプライバシー
の侵害を回復するという意味においては 「救済」 とならない。 したがって,
排除法則の正当化根拠 (目的) を判断するのに際しては, 排除法則が,
「将来における違法行為を抑止する」 という機能を果たしているのか, そ
の実質的な 「効果」 が問われることになる。
排除法則の 「抑止効」 については, それを懐疑的に捉える立場と, 肯定
(14)
的に捉える立場に分かれている。
1 排除法則の抑止効に懐疑的な立場
排除法則の 「抑止効」 に懐疑的な立場においても, 「効果」 そのものを
否定する見解と, 「効果」 が 「費用」 に見合わない点を問題とする見解が
存在する。
A 排除法則が 「抑止効」 として機能していない (機能しえない) ことは
(15)
明らかである。 大多数の善意・誠実な法執行官は, 修正第4条 (捜索・押
収) をめぐる複雑な法律関係を誤解しているだけである。 その多くは, 法
執行官の 「不注意」 による過誤であり, このような過誤は抑止しようがな
い。 排除法則は, 「故意, 無謀 (未必の故意・認識ある過失), 重過失」 に
よる行為, あるいは, 「反復的又は制度的な過失」 に対してのみ 「抑止効」
(16)
を有するのである。
B 反対に, 故意に修正第4条を侵害する法執行官については, 理論的に
は 「抑止効」 が働くとも考えられる。 しかし, 「抑止」 の実効性という観
点から見るならば, 証拠の排除という 「制裁」 は, あまりにも 「間接的」
で 「希釈された」 ものである。 排除法則が実質的な 「効果」 を発揮するた
めには, 証拠の排除という 「制裁」 が, 違法行為の直後に与えられる必要
があるだろう。 しかし, 現実問題として, 違法な法執行行為が行われた場
合であっても, 弁護人は, 裁判で争うことよりも, 「司法取引 (答弁取引)」
に持ち込む (そのような違法行為を含めて取引を行う) ことを選択する可
(17)
能性が高いであろう。 また, 裁判で争うことを選択する場合であっても,
証拠排除の申立は認められない可能性が高いし, 証拠の排除が認められる
42
(桃山法学
第24号 ’14)
場合であっても, それは, 違法行為が行われてから 「長い時間」 が経過し
た後のことであり, 違法行為を犯した法執行官にその事実が伝えられるこ
ともないであろう (さらに, 証拠が排除されたとしても, 「無罪」 になる
ことは稀である)。
C 公判において 「証拠が排除される」 という可能性だけでは, 違法行為
を行う強い 「動機」 を駆逐することはできないであろう。 なぜなら, 悪意
の法執行官は, 証拠が排除されようがされまいが, 被疑者に対して, プラ
イバシーの侵害, 刑事訴追に伴う出費や手間, 家庭の崩壊, 職場の解雇と
いうような, 別の 「苦痛」 を与えることによって, それなりの満足を得る
ことができるからである。
2 排除法則の抑止効に肯定的な立場
排除法則の 「抑止効」 に肯定的な立場においても, 「抑止効」 の対象
(何を抑止するのか) については, 「個々の法執行官の違法行為」 を抑止す
ると考える見解と, 法執行機関の 「職業的専門性」 を向上させることを通
して, 「全体としての違法行為」 を一般的に抑止すると考える見解が存在
する。
A 議論の前提として, 抑止効が 「ある」 という事実を証明するのは, 抑
止効が 「ない」 という事実を証明することよりも, 遥かに困難である。 す
なわち, もしも排除法則がなかったら, 違法行為の割合はどう変化するの
か, あるいは, 裁判所がより厳格に排除法則を適用するならば, 違法行為
の割合はどう変化するのかについては, 誰一人として正確に答えることが
できないであろう。 したがって, 排除法則の実質的な 「効果」 を客観的に
示す証拠がもたらされる可能性は低く, 「抑止効」 に関する議論は, その
(18)
大部分が 「信念」 に基づくものといえる。
B
排除法則の抑止効に否定的な見解は, 「個々の法執行官」 に着目して
抑止効が働かないことを指摘している。 しかし, 排除法則の真の目的は,
法執行機関に修正第4条の遵守を促すことを通して, 一般的に違法行為を
(19)
抑止することにある (すなわち, 法執行機関の職員の 「職業的専門性」 が
排除法則の効果と費用について
43
(20)
高められることの結果として, 違法行為が抑止される)。
C
排除法則 (Mapp 判決) が, 多くの法執行機関に抑止的効果をもたら
(21)
した (法を遵守する組織体制の構築を促した) ことは明らかである。 多く
の法執行実務の観察者は, Mapp 判決が, 法執行機関の 「職業的専門性」
を促進させた (法執行官に対する法教育や訓練プログラムの実施を通して,
法執行官の専門職としての意識を高めた) と報告している。 さらに,
Mapp 判決が下されてからというもの, それ以前と比較して, 捜索令状が
請求される事例が増えており (令状主義の原則への回帰), 法執行官 (機
関) によるあからさまな違法行為が減少している。 したがって, ここで排
除法則を撤廃するのであれば, 法執行機関が 「かつての悪い時代」 に逆戻
りしてしまうのではないかが懸念される。
このように, 排除法則の 「抑止効」 については, これを懐疑的に解する
見解と, 肯定的に解する見解とに分かれているが, この問題については,
別の角度から解説する見解もある。 それは, 「犯罪者を自由にする」 とい
う点を強調して, 排除法則の効果を疑問視する見解の矛盾点を指摘してい
る。 なぜなら, 犯罪者が自由になるということは, 別の側面からみると,
排除法則が十分に機能している (重要な証拠が公判に提出されなくなる結
果として, 犯罪者が有罪判決を免れる) ことを意味しているからである。
すなわち, 排除法則を批判する者は, 排除法則の 「非有効性」 ではなく,
(22)
むしろ, その 「有効性」 を不満の対象としているのである。
排除法則に何らかの 「抑止効」 が認められることは間違いないであろう。
但し, そのような 「抑止効」 は, 個々の法執行官の違法行為を対象とする
ものではなく, むしろ, 法執行機関それ自体の人権意識を高める (職業的
専門性の向上を促す) ことを通して, 将来における 「違法行為」 を一般的
に抑止する機能を果たすものといえよう。
44
(桃山法学
第24号 ’14)
Ⅱ
排除法則の費用
排除法則に 「抑止効」 が認められるとしても, それは, 排除法則を維持
することに伴う 「費用」 (社会的な損失) に見合うものなのであろうか。
排除法則に反対する者は, 排除法則の抑止効という 「効果」 よりも, それ
に伴う 「費用」 が大きいことを問題にしている。
そもそも, このような問題について 「費用対効果」 の理論を持ち出すこ
(23)
と自体に批判がない訳ではない。 排除法則の 「費用」 と 「効果」 は, 「真
実発見の要請」 と 「人権保障の要請」 を基礎とすることから, その内容に
よっては, 「測定不能なものを測定すること」 や 「比較できないものを比
(24)
較すること」 を必要とされるからである。 そこで, 排除法則の擁護者のい
くらかは, そのような 「利益衡量」 によるのではなく, 「司法の廉潔性」
を維持する必要性 (道徳的な側面) に焦点を当てるべきであると主張して
(25)
いる。
しかし, 合衆国最高裁が, 「違法収集証拠排除法則は合衆国憲法修正第
4条の要請ではない」 と判示し, 排除法則の目的を 「将来における違法行
為を抑止すること」 に限定している以上, これからの社会において, 排除
法則が維持されるのか否かは, 排除法則が有する違法行為を抑止する 「効
果」 (利益) と, 排除法則を維持することに伴う社会的な 「費用」 (損失)
とを 「秤」 にかけて検証し, その 「合理的な調和」 の下に決定すべきであ
ると考えられる。
このような 「費用」 と 「効果」 の関係について, 合衆国最高裁は, どの
ような見解を示しているのであろうか。 以下, 「費用」 と 「効果」 の関係
をめぐる立場の違いを整理し, 合衆国最高裁の判例を検討する。
(1) 費用と効果
「費用」 と 「効果」 の関係については, 排除法則を維持することに伴う
社会的な 「費用」 が, 排除法則が有する修正第4条の侵害を抑止する 「効
排除法則の効果と費用について
45
果」 を上回ることを理由として 「排除法則の適用に消極的な立場」 と, 排
除法則が有する修正第4条の侵害を抑止する 「効果」 が, 排除法則を維持
することに伴う社会的な 「費用」 を上回ることを理由として 「排除法則の
適用に積極的な立場」 とに大別することができる。
1 排除法則の適用に消極的な立場
排除法則を維持することに伴う社会的な 「費用」 が, 排除法則が有する
修正第4条の侵害を抑止する 「効果」 を上回ることを理由として 「排除法
則の適用に消極的な立場」 からは, 次のような主張がある。
A
排除法則を維持することに伴う 「費用」 は, 「信用性のある証拠」 の
喪失というかたちで顕在化する (違法に収集された証拠といえども, 証拠
物としての価値そのものに変わりはない)。 信用性のある証拠を排除する
ことは, 法執行官の違法行為によって 「犯罪者を自由にする」 ことを意味
し, それは, 社会の安全 (社会秩序の維持) にとって重大な 「損失」 とな
る。 違法な法執行行為の 「代償」 を社会 (市民) に負わせるのは本末転倒
であり, 違法行為に携わった法執行官 (法執行機関) を処罰すべきである。
B 排除法則を維持することは, 刑事司法制度に対する市民の敬意を失墜
させるという 「損失」 をもたらす。 一般市民とは直接関係のない事象に基
づいて, 有罪になるはずの犯罪者を自由にするのであれば, 刑事司法制度
の威厳が傷付くだけでなく, 市民が, 法や裁判所に対して軽蔑の念を抱く
ことに繋がるであろう。
C 違法な手段で収集した証拠を使用するために, 法執行官が, 法廷にお
いて 「偽証」 を試みる可能性を否定できない。 とりわけ, 重大事件におい
ては, 「犯罪者を自由にする」 よりも, 偽証をする方が真実発見に資する
という理解の下, 目的が手段を正当化してしまう可能性がある。
D 裁判所による排除法則の適用状況をみても, その 「抑止効」 には疑問
が残る。 証拠排除に伴う 「費用」 が高すぎる (「損失」 が大きすぎる) こ
とから, 裁判所は, 修正第4条の侵害を認定することを躊躇う傾向がある。
46
(桃山法学
第24号 ’14)
その一方で, 裁判所は, その救済の手段が証拠の排除ではない場合につい
ては, 修正第4条の侵害を認定することを厭わない。 すなわち, 排除法則
が存在することによって, 修正第4条の権利は, 「強められる」 のではな
く, 「弱められて」 いるのである。 排除法則が, その他の有効な救済に取っ
て代わられるのであれば, このような問題は生じないであろう。
E
結局のところ, 排除法則によって 「利益」 を享受するのは, 「有罪の
者 (犯罪者)」 だけである。 それに対して, 「無実の者 (一般市民)」 は,
排除法則から何の 「利益」 も享受しない。
2 排除法則の適用に積極的な立場
排除法則が有する修正第4条の侵害を抑止する 「効果」 が, 排除法則を
維持することに伴う社会的な 「費用」 を上回ることを理由として 「排除法
則の適用に積極的な立場」 からは, 次のような主張がある。
A 信用性のある証拠の喪失という 「費用」 は, 排除法則に伴うものでは
なく, 修正第4条それ自体が予定しているものである。 そもそも, 法執行
官が修正第4条に違反しなければ, 当該証拠が収集されることはなかった
のである。 「不合理な捜索・押収」 を禁止する修正第4条は, 初めから,
いくらかの 「有罪の者 (犯罪者)」 が自由になることを想定しているもの
といえる。
B 信用性のある証拠の喪失が社会の 「損失」 であるとしても, それは過
大評価されている。 なぜなら, 排除法則 (証拠排除) の結果として, 有罪
を免れる確率は, それほど高くないからである。 GAO (General Accounting Office) による1978年の調査によると, 証拠排除の申立がなされる可
能性のあった事件のうち, 実際に証拠が排除されたのは, わずか1.3%で
あった。 また, 連邦検察官の下に送致された事件のうち, 当該捜索・押収
が修正第4条に反することを理由として訴追が回避されたのは, わずか
0.4%であった。
C 排除法則が法執行活動に対して積極的な影響を与えているという事実
排除法則の効果と費用について
47
は, 以下のような指標が示す通りである。 例えば, 捜索令状を請求する数
が急速に伸びている。 また, 法執行官に対する法教育や訓練プログラムの
実施が積極的に進められており, 内部でガイドラインを規定する法執行機
関が増えている。 そして, 警察と検察が協働して, 証拠収集の適法性や証
拠の許容性について確認し合う実務が確立されている。
D 排除法則が有する実質的な効果は限定的なものであるとしても, それ
は重要な 「象徴的効果」 を有している。 排除法則が廃止されるのであれば,
法執行官は, 以前のように, より違法な行為に手を染めるかもしれない。
(26)
したがって, 有効な 「代替手段」 が存在しない以上, 全ての 「憲法上の制
約」 が取り払われたという印象を与えることがないように, 排除法則は維
持されるべきである。
排除法則が有する修正第4条の侵害を抑止する 「効果」 (利益) と, 排
除法則を維持することに伴う社会的な 「費用」 (損失) との関係について,
排除法則の適用に消極的な立場からの主張と, 排除法則の適用に積極的な
立場からの主張を見てきたが, 違法に証拠が収集された場合であっても,
それが直ちに 「犯罪者を自由にする」 ことには繋がらないことには注意を
(27)
要する。 多くの事例において, 違法に収集された証拠は, 手続上の瑕疵に
過ぎないことを理由として許容され, 被告人は有罪とされている。 また,
違法な法執行活動と認定される場合であっても, それによって収集された
証拠が公判において排除されることがないように, 様々な排除法則の 「例
外法理 (例えば, 善意・誠実の例外, 独立源の法理, 不可避的発見の法理,
(28)
希釈法理)」 が確立されている。
(2) 合衆国最高裁の動向
排除法則の 「費用」 と 「効果」 の関係について, 裁判所は, どのように
判示しているのであろうか。 合衆国最高裁は, 近年, 3つの事件において,
(29)
排除法則の 「費用」 と 「効果」 の関係について述べている。 それらは, 排
除法則の 「適用範囲」 や, 証拠排除の 「基準」 とも密接に関連しており,
48
(桃山法学
第24号 ’14)
その存廃の可能性を含めて, 排除法則のこれからを占うものといえる。
1 Hudson 判決
合衆国最高裁は, 2006年, 排除法則の将来に重大な影響を及ぼす可能性
(30)
を秘めた Hudson 判決を下した。 Hudson 事件は, ノック&アナウンス法
(31)
理の侵害を伴う法執行行為に関するものであった。 法執行官は, 捜索令状
に基づいて (但し, 居住者が対応するために必要とされる合理的な時間を
待たずに), 被疑者の住居に立ち入った。 この事件で問題となったのは,
ノック&アナウンス法理に違反した立入によって発見された薬物と銃火器
が, 公判から排除されなければならないのか否かであった。 Michigan 州
裁判所は, ノック&アナウンス法理の侵害の後に発見された証拠について
は, 「不可避的発見の法理 (排除法則の例外)」 の下において許容されると
(32)
判示する Michigan 州最高裁に依拠して, 当該証拠の排除を認めなかった。
合衆国最高裁 (Scalia 裁判官と4人の裁判官が執筆した法廷意見) は,
次のような理由を掲げて, ノック&アナウンス法理の侵害に基づいて, 証
(33)
拠が排除されることはない旨を判示した。
まず, 合衆国最高裁は, 違法行為と収集した証拠との間に 「因果関係
(34)
(原因と結果の関係)」 が必要とされる点を指摘した。 そして, 合衆国最高
裁は, ノック&アナウンス法理の侵害 (立入) と, Hudson の住居内にお
ける証拠の収集 (捜索) は, 別個の憲法上の行為であり, それらの間には
(35)
「因果関係」 が認められないとの結論を下した。
次に, 合衆国最高裁は, たとえ 「因果関係」 が認められる場合であって
も, 「希釈法理 (排除法則の例外)」 によって, ノック&アナウンス法理の
(36)
侵害に基づく証拠排除は認められないと述べた。 従来, 「希釈法理」 は,
違法行為との関係が希薄な 「派生証拠」 の使用を許容するものに過ぎなかっ
た。 しかし, ここにいう 「希釈法理」 は, ノック&アナウンス法理の侵害
を伴って収集した, 全ての (一次的及び派生的) 証拠の使用を許容するこ
(37)
とを意味した。
最後に, 合衆国最高裁は, 「利益衡量」 という視点を持ち出し, 排除法
49
排除法則の効果と費用について
則の 「効果」 (利益) が, それに伴う 「費用」 (損失) を上回る場合でなけ
(38)
れば, 証拠の排除が適切ではない旨を述べた。 Hudson 判決以前, 合衆国
最高裁は, 修正第4条の侵害が問題となる事例について, 個別的に 「費用」
と 「効果」 のバランスを検討することはなかった。 Hudson 判決は, ノッ
ク&アナウンス法理の侵害に関するものであったが, この 「費用対効果」
の理論は, 広く一般性を有したことから, その後, 他の修正第4条の侵害
(39)
に基づく証拠排除の事例においても, 同様に問題とされることになった。
Hudson 判決において, 合衆国最高裁は, 証拠の排除を, 「過度で不相
(40)
応」 な救済と評価しており, 「最後の手段」 であると位置づけている。 そ
して, 「犯罪者を自由にする」 だけでなく, 「危険を最大化」 するものであ
(41)
ると述べている。 Hudson 判決は, Mapp 判決 (1961年) の法理を 「旧時
代の遺物」 と捉えている点, すなわち, 時代や状況の変化に鑑みるならば,
かつてのような 「証拠排除」 が必要とされない (あるいは, 正当化されな
い) 旨を示唆している点において, 排除法則の将来に重大な影響を及ぼす
(42)
ことになった。
2 Herring 判決
Hudson 判決から2法廷期が経過した2009年, 合衆国最高裁は, Herring
(43)
判決を下した。 Herring 事件は, 誤ったコンピューターのデータベースを
信頼して行われた法執行行為に関するものであった。 法執行機関によって
維持・管理されているデータベースを参照したある管轄 (郡) の法執行官
は, データベースに掲載されている 「逮捕令状」 が有効なものと信じて
Herring を逮捕した。 そして, 逮捕に伴う自動車の捜索の結果, 薬物と銃
を発見した。 しかし, 当該法執行官が信頼したデータベースは, 別の管轄
(郡) の法執行官が, 不注意で更新を怠っていたものであり, 実際のとこ
ろ 「逮捕令状」 は数カ月前に失効していた。 その結果, Herring の逮捕は
違法と評価されることになり, そのような違法な逮捕に伴う自動車の捜索
も, 修正第4条を侵害するものとなった。
公判裁判所は, 逮捕にあたった法執行官が, 違法行為や不注意とは全く
50
(桃山法学
第24号 ’14)
無関係であることを見出し, 当該証拠が 「善意・誠実の法則」 の下におい
(44)
て許容される旨を判示し, 証拠の排除を認めなかった。 第11巡回区控訴裁
判所も, データベースの誤りは, 単なる不注意に基づくものであり, 当該
(45)
逮捕との関係が希薄であることを理由として, これを支持した。 この事件
で問題となったのは, ある管轄の法執行官が, 不注意でデータベースの更
新を怠っていた状況において, 他の管轄の法執行官が, その誤ったデータ
ベースを客観的に合理的に信頼して行動した場合 (間接的ではあるにせよ,
法執行官の不注意が介在する場合) に, 「善意・誠実の例外」 が適用 (拡
張) されるか否かであった。
合衆国最高裁は, データベースが更新されていなかったのは, 当該逮捕
との関係が希薄な 「偶発的な不注意」 に基づくものであり, 他の法執行官
が, 誤ったデータベースに 「客観的に合理的な信頼」 を置いて行動してい
たのであれば, それに基づく証拠を排除することは不適切であると判示し,
(46)
第11巡回区控訴裁判所の結論を支持した。 このことは, 「善意・誠実の例
外」 が, 法執行官による 「客観的に不合理な (すなわち, 不注意による)」
過誤が介在する場合にまで拡張されることを意味していた。
Herreng 判決の守備範囲は, 不注意による過誤と逮捕との関係が希薄な
状況で, 逮捕にあたった法執行官に責任がない場合に限定されるとも思わ
れるが, 実際問題として, 合衆国最高裁は, このような 「狭い範囲」 を処
理することだけを念頭に置いてはいないであろう。 実際, Roberts 主席裁
判官は, 証拠排除の問題が, 法執行官の 「有責性」 と, 違法行為を抑止す
(47)
る可能性によって決定される旨を述べている。 すなわち, 証拠排除が認め
られる範囲は, 法執行行為の 「有責性」 によって異なること, 言い換える
ならば, 排除法則を適用するためには, 問題とされる法執行行為が, 証拠
の排除によって抑止し得るほど 「十分に意図的 (故意)」 であり, そのよ
うな抑止の 「効果」 が, 刑事司法制度が支払う 「費用」 を上回るほど 「十
分に有責」 である必要がある。 それゆえ, 排除法則は, 「故意, 無謀 (未
必の故意・認識ある過失), 重過失による行為」, あるいは, 「反復的又は
制度的な過失」 に対してのみ抑止効果を発揮し得るもの考えられる。
排除法則の効果と費用について
51
Herring 事件で問題とされた法執行官は, 誰一人として, 要求されるレ
ベルの 「有責性」 を有していなかった。 ただ一つ非難することができたの
は, 「偶発的な不注意」 によるデータベース更新の過誤であったが, その
ような過誤に対して排除法則を適用したとしても, ほとんど 「抑止効果」
を得ることができないであろう。 それゆえ, 合衆国最高裁は, 「費用」 と
「効果」 の利益衡量を行った結果, 「元が取れない (コストに見合わない)」
と判断し, 証拠の排除という 「過度な制裁」 が正当化されない旨を述べて
(48)
いる。
このように, Herring 判決における合衆国最高裁は, 単に 「善意・誠実
の例外」 を拡張するだけでなく, 排除法則の適用に関する基本条件を確認
(49)
している。 そこでは, 「有責性」 という要件が, 「訴訟適格」 や 「因果関係」
の如く要求され, 排除法則を適用する際の障壁となっている。 そして, こ
の 「有責性」 の基準によって, 法執行官に, 最低でも 「重過失」 又は 「反
復的・制度的な過失」 が存在しない限り, 証拠の排除は否定されることに
なった。
3 Davis 判決
Herring 判決から2年半が経過した2011年, 合衆国最高裁は, Davis 判
(50)
決を下した。 Davis 事件は, 逮捕に伴う自動車の捜索の適法性に関するも
のであった。 自動車に同乗していた Davis は, 自動車検問の際, 虚偽の氏
名を告知したことにより逮捕された (運転者は, 酩酊運転で逮捕された)。
Davis と運転者は, 手錠をかけられ, パトロールカーの後部に連れて行か
れた。 そして, 自動車の捜索が行われ, Davis のコートから銃が発見され
た。 その後, Davis は, 銃の不法所持で起訴された。
Davis が逮捕された時点で, ほとんどの法域においては, 被逮捕者が自
動車内におらず, 警察の支配下にある場合でも, 逮捕に伴う自動車の捜索
(51)
によって, 自動車の助手席を捜索できるものと理解されていた。 しかし,
Davis 事件の上訴中, 合衆国最高裁は, 別の事件において, 逮捕に伴う自
動車の捜索の範囲を縮小し, Davis 事件のような状況における捜索が, 修
52
(桃山法学
第24号 ’14)
(52)
正第4条の侵害に該当する旨の判決を下した。 Davis 事件は, 上訴中であっ
たことから, 当該判決の法理は遡及的に適用され, Davis の銃を発見した
捜索は, 修正第4条を侵害するものと評価されることになった。
Davis による証拠排除の申立に関して, 合衆国最高裁は, 法執行官が不
合理な捜索・押収によって証拠を収集した場合であっても, それが拘束力
のある上級裁判所の判例に合理的に依拠して行われたのであれば, 証拠の
(53)
排除は不適切である旨を判示した。 合衆国最高裁は, 拘束力のある上級裁
判所の判例が, 具体的な法執行実務を許可している場合, その許可された
活動に従事している法執行官は, 当該状況において, なすべきことをして
(54)
いる 「合理的な法執行官」 に該当すると判断した。 そして, このような場
合に排除法則を適用したとしても, 誠実な法執行行為を抑止し, 法執行官
(55)
の職務に対する意欲を阻害する方向に作用するだけであると述べた。
事後的に当該捜索が違憲と判断された場合であっても, 「拘束力のある
判例を合理的に信頼して行った捜索で収集した証拠の排除を認めない」 と
いう結論それ自体は, 「証拠排除という厳格な制裁は, 客観的に合理的な
法執行行為を抑止する方向で適用されるべきではない」 という, 以前から
の合衆国最高裁の考え方によって必然的に導かれるであろう。 しかし,
Davis 判決において, 合衆国最高裁は, 当該事例の解決に必要な範囲を超
えて, 証拠排除を否定する理論的根拠を提示している。
Davis 判決の多数意見は, 排除法則による抑止 (効果) は, 法執行官が
修正第4条の権利を侵害する違法行為に対して 「故意, 無謀 (未必の故意・
認識ある過失), 重過失」 という態度を現す場合に限って効果的であり,
それに伴う損失 (費用) を上回る傾向にあると述べ, Herring 判決にいう
(56)
「有責性」 の基準を再確認している。 それによると, 当該法執行行為が,
自らの行為が適法であるという 「客観的に合理的な (善意・誠実な) 信念」
による場合, あるいは, 当該法執行行為が, 単に 「偶発的な」 過失による
場合, 「抑止効」 という正当化的根拠 (目的) はその説得力を失い, 排除
法則は 「割に合わない (コストの見合わない)」 ものになると考えられる。
Davis による証拠排除の申立は, 当該法執行行為に 「有責性」 が欠如して
排除法則の効果と費用について
53
いたという事実, すなわち, 捜索にあたった法執行官は, 「故意, 無謀
(未必の故意・認識ある過失), 重過失」 によって Davis の修正第4条の権
利を侵害しておらず, 何ら 「反復的又は制度的な過失」 もなかったという
(57)
事実に基づいて却下された。 仮に, 法執行官が, 当該捜索が判例によって
許されていると客観的には不合理に (不注意で) 信じていたとしても, 当
該証拠は許容されていたであろう。 なぜなら, 排除法則は, 「厳格な責任
(58)
を課す制度」 でも 「偶発的な過失を問う」 制度でもないからである。 この
ように, Davis 判決は, Herring 判決で述べられた 「有責性」 の基準が,
一般的に適用されうる (観測気球ではない) というメッセージを届けるも
のとなった。
Davis 判決の多数意見は, 排除法則について, 「真実を覆い隠し, 犯罪
者を処罰せずに地域社会に解き放つもの」 と述べるだけでなく, 「社会が
我慢して飲み込まなければならない」 「苦い薬」 であり, それは 「最後の
(59)
手段」 であると描写している。 そして, そのような観点から, 排除法則の
正当化根拠 (目的) について, 極めて限定的な理解を示している。 それに
よると, 「修正第4条をめぐる法律関係の発展のためには, 拘束力のある
判例を信頼した場合であっても, 証拠を排除することが必要」 という見解
(60)
は, 排除法則の 「役割」 に関する今日の理解と調和しないものとされる。
なぜなら, 現在, 合衆国最高裁は, 排除法則の唯一の目的を 「将来におけ
る違法行為を抑止すること」 と位置づけ, そのような目的は, 全ての違法
行為ではなく, 「有責な」 違法行為に基づいて収集された証拠を排除する
ことによって達成されるものと理解しているからである。
4 小括
近年の合衆国最高裁は, 排除法則について, 修正第4条の要請ではなく,
裁判所によって創設された法則に過ぎない旨を宣言している。 そして, 費
用対効果の理論を持ち出すことを通して, 排除法則が 「利益衡量」 の対象
とされる旨を述べているが, 現時点において, 合衆国最高裁は, 「排除法
則」 をどのように位置づけ, 評価しているのであろうか。
54
(桃山法学
第24号 ’14)
まず, 排除法則の 「正当化根拠 (目的)」 である。 この点について, 近
年の合衆国最高裁は, 将来における違法行為を抑止する目的 (抑止効) に
限定されるものと考えている。 但し, ここにいう 「抑止効」 は, 個々の法
執行官の違法行為を抑止する機能を果たすものというよりは, むしろ, 法
執行機関の違法行為を 「一般的に」 抑止する機能を果たすものと捉えてい
る。 すなわち, 排除法則の真の目的は, 法執行機関に対して, 法を遵守す
る体制の構築を促すことにある。 したがって, 排除法則の 「抑止効」 は,
法執行機関が, その職員 (法執行官) に対して法教育や訓練プログラムを
徹底して行うことや, 内部のガイドラインを規定することによって, その
「職業的専門性」 を高めること, そして, それを通して, 法を遵守する
(違法行為を行わない) 組織体制を構築することで具現化される。
次に, 排除法則をめぐる 「費用と効果の関係」 である。 この点について,
近年の合衆国最高裁は, その 「効果」 (利益) が, それに伴う 「費用」 (損
失) を上回る場合でなければ, 排除法則が適用されない旨を述べている。
すなわち, 合衆国最高裁は, 将来における違法行為を抑止する排除法則の
一般的な 「効果」 は認めつつも, それに伴う社会的な 「費用」 (例えば,
犯罪者を自由にすること) の重大性への懸念から, その 「利益衡量」 を慎
重に行っている (言い換えれば, 「人権保障」 と 「真実発見」 の合理的な
調和を図っている)。
最後に, 排除法則の 「適用範囲」 と, 証拠排除の 「規準」 の問題である
が, この点についても, 排除法則の 「効果」 と, それに伴う 「費用」 との
関係 (利益衡量) から導かれる。 第1に, 排除法則が適用されるのは,
「抑止効」 が認められる場合に限られる。 したがって, ①法執行官が善意・
誠実に行動していた場合, ②違法行為とは別の手段でも当該証拠を収集し
うる場合, ③違法行為がなかったとしても当該証拠を発見しうる場合, ④
証拠を収集した手段が違法行為から希釈されている場合については, たと
え証拠を排除したとしても, 将来における違法行為を抑止する機能が適切
に働かないことから, 排除法則は適用されない (排除法則の例外)。 第2
に, 排除法則が適用されるとしても, それは, 排除の 「効果」 が, それに
排除法則の効果と費用について
55
伴う 「費用」 を上回る場合に限られる。 したがって, 同じ 「違法行為」 で
あっても, 法執行官が 「故意, 無謀 (未必の故意・認識ある過失), 重過
失」 で行った場合の方が, 法執行官が単なる 「過失」 や 「不注意」 で行っ
てしまった場合と比較して, 証拠を排除する 「効果 (利益)」 が, それに
伴う 「費用 (損失)」 を上回る傾向にあるといえよう。 また, 法執行機関
の違法行為を 「一般的に」 抑止するという観点からは, 当該違法行為が
「反復的・制度的」 な過失に基づく (そのような法執行行為を許容する土
壌が法執行機関の組織体制に内在する) 場合の方が, 「偶発的・非制度的」
な過失に基づく場合と比較して, 証拠を排除する 「効果 (利益)」 が, そ
れに伴う 「費用 (損失)」 を上回る傾向にあるといえよう。
このように, 合衆国最高裁は, 排除法則の一般的な 「抑止効」 について
は評価しつつも (人権保障の要請), それに伴う社会的損失の重大性への
懸念から, (真実発見の要請), 排除法則の適用については慎重な姿勢を示
している。 排除法則の適用に慎重な近年の合衆国最高裁の態度は, 排除法
則の将来を暗示しているように思われる。 したがって, この先, 排除法則
が維持され続けるとしても, 現実的・実効的な 「救済」 という観点からは,
それを補完する 「有効な手段」 を確立しておく必要性が認められる。
(3) 我が国における排除法則
我が国における 「違法収集証拠排除法則」 の登場と発展は, アメリカ合
衆国における 「排除法則」 の議論による影響が大きい。 それゆえ, 我が国
とアメリカ合衆国の 「違法収集証拠排除法則」 は, そこで使用される 「文
言」 を異にする場合であっても, その実質的な 「内容」 については相通じ
るところが多い。 ここでは, アメリカ合衆国における 「排除法則」 に関す
る議論の流れに則して (合衆国最高裁判例と我が国の最高裁判例の対比と
いう観点から), 我が国の 「違法収集証拠排除法則」 を整理する。
まず, 違法収集証拠排除法則が, 憲法の要請なのか否かという点である。
我が国においても, 違法に収集された証拠物の排除を要請する明文の規定
(61)
がないことから問題となる。 この点について, 最高裁は, 「違法に収集さ
56
(桃山法学
第24号 ’14)
れた証拠物の証拠能力については, 憲法及び刑訴法に何らの規定も置かれ
ていないので, この問題は, 刑訴法の解釈に委ねられているものと解する
(62)
のが相当」 と述べている。 このように, 我が国の最高裁は, 合衆国最高裁
と同様に, 違法収集証拠排除法則が憲法の要請ではない旨を判示している。
次に, 違法収集証拠排除法則の 「正当化根拠 (目的)」 である。 最高裁
が判示するように, 違法収集証拠排除法則が憲法の要請ではなく, 刑事訴
訟法の解釈に委ねられているとするのであれば, 違法に収集された証拠物
の 「証拠能力」 についても, 刑事訴訟法の目的 (法第1条参照) である
「人権保障の要請」 と 「真実発見の要請」 とを秤にかけ, その合理的な調
和の観点から判断されることになる。
違法に収集された証拠物の証拠能力について, 「真実発見の要請」 を重
視する立場からは, ①証拠物の排除に関して, 明文の規定がないこと, ②
収集手続に違法があっても, 証拠物の証拠価値そのものに変わりはないこ
と, ③証拠を排除するならば, 真犯人を処罰できなくなること, ④違法な
証拠収集を行った捜査官 (機関) の責任は, 刑事・民事・行政上の責任を
問えば足りることを理由として, その証拠能力を 「肯定」 する見解 (違法
(63)
収集証拠排除法則不要論) が述べられている。
それに対して, 「人権保障の要請」 を重視する立場からは, 一般に, ①
(64)
司法の廉潔性を維持する必要性があること, ②適正手続を保持する必要性
(65)
(66)
があること, ③将来の違法行為を抑止する必要性があることを理由として,
(67)
その証拠能力を 「否定」 する見解が述べられている。
この点について, 最高裁は, 違法に収集された覚せい剤の証拠能力に関
して, 「証拠物は押収手続が違法であっても, 物それ自体の性質・形状に
変異をきたすことはなく, その存在・形状等に関する価値に変わりのない
ことなど証拠物の証拠としての性格にかんがみると, その押収手続に違法
があるとして直ちにその証拠能力を否定することは, 事案の真相の究明に
資するゆえんではなく, 相当でない」 と 「真実発見の要請」 に理解を示す
言葉を述べる一方で, 「証拠物の押収等の手続に, 憲法35条及びこれを受
けた刑訴法218条1項等の所期する令状主義の精神を没却するような重大
排除法則の効果と費用について
57
な違法があり, これを証拠として許容することが, 将来における違法な捜
査の抑制の見地からして相当でないと認められる場合においては, その証
拠能力は否定される」 と 「人権保障の要請」 に理解を示す言葉を述べるこ
とを通して, その 「合理的な調和」 という観点から, 一般論として, 違法
(68)
に収集された証拠物の証拠能力が否定される旨を判示している。
最高裁が示す違法収集証拠排除法則の 「正当化根拠 (目的)」 について
は, ①適正手続を保持することと, ②将来の違法行為を抑止することであ
ると考えられている。 その意味において, 「将来における違法行為を抑止
すること」 が排除法則の唯一の目的であると宣言する合衆国最高裁とは若
干ニュアンスを異にするが, 違法行為を抑止するということは, 結局のと
ころ, 適正手続を保持することに繋がるので, その実質的な内容について
は, それほど差異がないものといえよう。
最後に, 違法収集証拠排除法則の 「適用範囲」 と, 証拠排除の 「基準」
の問題である。 一般論として, 違法に収集された証拠物の証拠能力が否定
されるとしても, どの程度の 「違法性」 が認められる場合に, どのような
「基準」 に基づいて、 当該証拠物は排除されるのであろうか。 違法収集証
拠排除法則の正当化根拠 (目的) について, 「人権保障」 と 「真実発見」
の合理的な調和という観点から考察するのであれば, 証拠物の収集手続に
何らかの 「違法性」 が認められる場合であっても, 直ちに当該証拠物の証
(69)
拠能力を否定するのは相当とはいえないことから問題となる。
違法収集証拠排除法則の 「適用範囲」 について, 最高裁は, 「令状主義
の精神を没却するような重大な違法」 の存在を要求し, 証拠の排除が問題
となる状況を, 証拠物の収集手続に 「重大な違法」 が認められる場合に限
(70)
定している。 そして, 最高裁が, 「憲法35条の令状主義に反する」 ではな
く 「令状主義の精神を没却するような重大な違法」 と述べている点に鑑み
るならば, ここにいう 「違法の重大性」 とは, 単に憲法35条に違反してい
るだけではなく, 刑事訴訟法上, その違法の程度が極めて著しい場合を意
(71)
味しているものと考えられる。
それでは, 証拠物の収集手続に 「重大な違法」 が認められる場合に, ど
58
(桃山法学
第24号 ’14)
のような 「基準」 に依拠して, 当該証拠物の証拠能力が否定されるのであ
ろうか。 この点について, 最高裁は, 「これを証拠として許容することが,
将来における違法な捜査の抑制の見地からして相当でないと認められる場
合においては, その証拠能力は否定される」 と述べ, 証拠の排除が 「相当」
(72)
であることを要求している。 この 「排除の相当性」 については, 違法収集
証拠排除法則の正当化根拠 (目的) を踏まえた上で, 「人権保障」 と 「真
実発見」 の合理的な調和の観点から判断されるものと考えられる。 したがっ
て, 当該証拠物が排除されるのか否かは, ①手続違反の程度, ②手続違反
がなされた状況, ③手続違反の有意性, ④手続違反と当該証拠獲得との因
果性の程度, ⑤手続違反の頻発性, ⑥証拠の重要性, ⑥事件の重大性等の
要素を総合的に勘案し, 具体的な 「利益衡量」 を行うことを通して決定さ
(73)
れることになる。
最高裁は, 「違法の重大性」 を要求することを通して, 違法収集証拠排
除法則の 「適用範囲」 を画すると同時に, 「排除の相当性」 を要求するこ
とを通して, 具体的な 「利益衡量」 を行っている。 この点ついては, 排除
法則の正当化根拠 (目的) に資するか否か (排除法則の例外に該当するか
否か) を前提として, 排除法則の 「効果」 とそれに伴う 「費用」 の利益衡
量を行う合衆国最高裁の立場と, 実質的な相違は少ないものと考えられる。
また, 利益衡量に際して, 我が国の最高裁は 「排除の相当性」 を基準とし,
合衆国最高裁は 「有責性の規準」 を採用している。 これらの規準を形式的
に (「文言」 の観点から) みるならば, 我が国の最高裁は, 法執行行為の
「客観的側面」 に依拠する基準を採用し, 合衆国最高裁は, 法執行官の
「主観的側面」 を重視する基準を採用しているものとも思われるが, 実際
に 「排除の相当性」 を認定するのに際しては, 結局のところ, 当該法執行
官の 「態度 (主観的側面)」 についても考慮に入れざるを得ないことから,
(74)
その運用面において, 実質的な差異は少ないように思われる。
排除法則の効果と費用について
お
わ
り
59
に
我が国の違法収集証拠排除法則に関する議論は, アメリカ合衆国におけ
る議論の動向による影響が大きい。 もっとも, 我が国が参考にしているア
メリカ合衆国においては, 排除法則の正当化根拠 (目的) が問い直され,
様々な例外法理の確立 (とりわけ 「善意・誠実の例外」 の拡張) を通して,
排除法則の適用範囲が限定される傾向にある。 我が国の違法収集証拠排除
法則ついても, アメリカ合衆国 (最高裁) の動向に従って, それを限定す
る方向に進むのであろうか。 それとも, 独自の道を歩むのであろうか。
違法収集証拠排除法則の将来は, 究極的には, その 「費用」 と 「効果」
の利益衡量, 言い換えれば, 「人権保障の要請」 と 「真実発見の要請」 を,
どのように合理的に調和させていくのかに関する我々の選択に委ねられて
いる。 但し, そのような 「選択」 に際しては, 単に証拠の排除による 「効
果」 と, それに伴う 「費用」 の利益衡量を行うだけでなく, 我が国の 「法
制度」 や 「司法制度」 の実情を踏まえた上で, より大局的な観点から,
「人権保障」 と 「真実発見」 の合理的な調和を図っていく必要性が認めら
れる。
例えば, 我が国においては, アメリカ合衆国と比較して, 捜査機関に許
(75)
される 「捜査手法」 が限定されている。 また, アメリカ合衆国においては,
捜査機関が 「司法取引 (答弁取引)」 を行うことが許されており, 一般的
となっている。 そして, 違法収集証拠排除法則を適用する前提となる 「違
法」 行為は, その国の法律で許されている 「捜査手法」 の内容や, 司法制
度 (裁判制度) の在り方に依存するところが大きい。 したがって, そのよ
うな 「法制度」 と 「司法制度」 の差異を無視して, アメリカ合衆国におけ
る排除法則に関する議論を直接的に導入するのであれば, 我が国における
「人権保障」 と 「真実発見」 のバランスが崩れ, その 「合理的な調和」 を
保つことが困難になるであろう。
現在, 我が国においては, 「人権保障」 の観点から, 「取調べの全過程の
60
(桃山法学
第24号 ’14)
録音・録画」 と 「弁護人の取調立会権」 の法制度化が急がれている。 その
反面, 先進諸国と比較して, 捜査機関に許される 「捜査手法」 が限定され
ている我が国においては, 「取調べ」 を利用した 「自白」 の採取という証
拠収集方法に依存せざるを得ないのが 「現実」 である。 したがって, 「人
権保障」 の観点から, 「取調べ」 という証拠収集方法を規制するのであれ
ば, それと同時に, 「真実発見」 の観点から 「自白」 に頼らなくても, 被
疑者を起訴し, 被告人の有罪を立証することができる 「証拠収集方法」 を
確立することが必要となるであろう (現在, 我が国においては, アメリカ
合衆国等で認められている 「司法取引」 や 「潜入捜査 (仮装身分捜査)」
などを導入することの可能性が検討されている)。 したがって, 違法収集
証拠排除法則の 「方向性」 を検討するのに際しては, 我が国の 「法制度」
と 「司法制度」 の現状を正確に把握するのと同時に, 今後の展開をも見据
えた上で, 綿密な 「利益衡量」 を行う必要性が認められよう。
我が国の 「法制度」 と 「司法制度」 の実状を踏まえた違法収集証拠排除
法則の 「方向性」 の検討や, 違法収集証拠排除法則を補完する 「救済手段」
の検討を今後の課題として, 本稿はこれで閉じることにしたい。
注
(1)
Weeks v. United States, 232 U.S. 383 (1914); Mapp v. Ohio, 367 U.S. 643
(1961).
(2)
Roland V. del Carmen, Criminal Procedure Law and Practice (9th ed.)
(2012), 11213 ; John N. Ferdico, Henry F. Frandella, Christopher D.
Totten, Criminal Procedure for the Criminal Justice Professional (11th ed.)
(2013), 78
79.
(3) Id.
(4)
Ferdico, supra note (2), 7879.
(5)
Mapp v. Ohio, 367 U.S. 643 (1961), at 648.
(6)
United States v. Calandra, 414 U.S. 338 (1974), at 348. 排除法則は,
被告人が有する憲法上の権利ではなく, 裁判所によって創設された救済
である。
(7) United States v. Leon, 468 U.S. 897 (1984), at 906.
排除法則の効果と費用について
61
(8)
Id. at 953 (Brennan, J., dissenting).
(9)
Mapp v. Ohio, 367 U.S. 643 (1961), at 648, 659.
(10)
See, Weeks v. United States, 232 U.S. 383 (1914). 但し, Weeks 判決
において, 「司法の廉潔性」 という文言は使用されていない。
(11) Mapp v. Ohio, 367 U.S. 643 (1961), at 656 (quoting Elkins v. United
States, 364 U.S. 206, 217 (1960)).
(12)
Davis v. United States, 131 S.Ct. 2419 (2011), at 2432.
(13)
Stone v. Powell, 428 U.S. 465 (1976), at 485.
(14)
排除法則の 「抑止効」 については, 以下の文献及び判例等を参照。
Joshua Dressler, Alan C. Michaels, Understanding Criminal Procedure (6th
ed.); Stephen A. Saltzburg, Daniel J. Capra, Angela J. Davis, Basic
Crimminal Procedure (4th ed.) (2005); Wayne R. LaFave, Jerold H. Israel,
Nancy J. King, Principles of Criminal Procedure : Investigation (2004);
Weeks v. United States, 232 U.S. 383 (1914); Mapp v. Ohio, 367 U.S. 643
(1961); United States v. Leon, 468 U.S. 897 (1984); Hudson v. Michigan,
547 U.S. 586 (2006); Herring v. United State, 555 U.S. 138 (2009); Davis
v. United States, 131 S.Ct. 2419 (2011).
(15)
Bivens v. Six Unknown Named Agents of the Federal Bureau of Narcotics, 403 U.S. 388 (1971), at 41617 (Burger, J., dissenting).
(16)
(17)
Herring v. United State, 555 U.S. 138 (2009), at 14344.
アメリカ合衆国憲法修正第6条は, 「陪審裁判を受ける権利」 を保障
しているが, その反面, 刑事事件の約90%において, 何らかの 「司法取
引 (答弁取引)」 が行われ, 正式な裁判を経ないで事件の 「決着」 に至っ
ている。 司法取引については, 宇川春彦 「司法取引を考える (1)∼(17)・
完」
判例時報
1583号∼1627号 (判例時報社, 1997年∼1998年) が詳
しい。 その他, 島伸一
基点として
アメリカの刑事司法 ワシントン州キング郡を
(弘文堂, 2002年) 121頁, 丸山徹
制度 陪審裁判の理解のために
(18)
入門・アメリカの司法
(現代人文社, 2007年) 70頁等参照。
結局のところ, 刑事司法手続において, 真実発見の要請を重視するの
か, 人権保障を重視するのかという根本的な問題に帰着するであろう。
(19)
例えば, ①市民の自由に敏感な人材を雇用すること, ②適切な権限行
使を目的として, 法執行官に対して, 効果的な訓練プログラムを実施す
ること, ③法執行官に対して法律 (憲法や捜索・押収に関連する法律)
及び判例に関する教育を行い, 最新情報を維持させること, ④不合理な
捜索・押収の可能性を減少させる内部のガイドラインを策定すること,
62
(桃山法学
第24号 ’14)
等を法執行機関に促している。 William J. Mertens, Silas Wasserstrom,
The Good Faith Exception to the Exclusionary Rule : Deregulating the Police and Derailing the Law, 70 Geo. L. J. 365 (1981), at 394.
(20)
United States v. Leon, 468 U.S. 897 (1984), at 953 (Brennan, J., dissenting).
(21)
Stewart 判事は, 「Mapp 判決が下され, 世界は変った」 と述べている。
Potter Stewart, The Road to Mapp v. Ohio and Beyond ; The Origins, Development and Future of the Exclusionary Rule in Search-and-Seizure Cases,
83 Colum L. Rev. 1365 (1983), at 1386.
(22)
Silas J. Wasserstrom, Louis Michael Seidmman, The Fourth Amendment
as Constitutional Theory, 77 Geo. L. J. 19 (1988), at 3637.
(23)
United States v. Leon, 468 U.S. 897 (1984), at 929 (Brennan, J., dissenting).
(24)
Yale Kamisar, Gates, “Probable Cause,” “Good Faith,” and Beyond, 69
Iowa. L. Rec. 551 (1984), at 613.
(25)
Herring v. United State, 555 U.S. 138 (2009), at 151 (Ginsburtg, J.,
Joined by Stevens, Souter, and Breyer, J., Dissenting).
(26)
排除法則の代替手段としては, ①法執行機関から独立した委員会によ
る審査, ②政府に対する民事不法行為訴訟の提起, ③公判から分離され
た聴聞 (同一の裁判官と陪審による), 等が挙げられているが, そのい
ずれについても, 非効果的であることが指摘されている。
(27)
1983年の研究によると, 重罪事件で逮捕された者のうち, 排除法則の
適用によって刑事司法手続から除外された者は, 0.6%∼2.35%程度に
過ぎないことが報告されている。
(28)
合衆国最高裁は, 排除法則の例外として, 次のような法理・法則を確
立している。 ①善意誠実の例外 (Good Faith Exception) とは, ある法
執行官が, 令状に対する善意・誠実な信頼に基づいて (令状が有効であ
ると合理的に信じて) 行動した場合, 後にその令状が無効であるとされ
たとしても, 当該令状に基づいて収集した証拠が許容されるというもの
である。 United States v. Leon, 468 U.S. 897 (1984); Arizona v. Evans, 514
U.S. 1 (1995); Herring v. United State, 555 U.S. 138 (2009). ②独立源法
理 (Independent Source Doctrine) とは, 違法な手段で収集された証拠
であっても, 当該証拠が, 違法行為とは無関係の別の適法な手段でも収
集できる場合には, 許容されるというものである。 Nix v. Williams, 467
U.S. 431 (1984); Segura v. United States, 468 U.S. 796 (1984). ③不可避
排除法則の効果と費用について
63
的発見の法理 (Inevitable Discovery Doctrine) とは, 違法行為がなかっ
たとしても, いずれ適法に証拠を発見できた場合には, 当該証拠が許容
されるというものである。 ④希釈法理 (Attenuation Doctrine) とは, 証
拠を収集した手段が, 当初の違法行為から十分に希釈されている場合,
当該証拠が許容されるというものである。 Nardone v. United States, 308
U.S. 338 (1939); Won Sun v. United States, 371 U.S. 471 (1963); United
States v. Ceccolini, 435 U.S. 268 (1978).
(29)
近年の合衆国最高裁の動向については, 以下の文献を参照。 James J.
Tomkovicz, Davis v. United States : The Exclusion Revolution Continues, 9
Ohio State. J.C.L. 381 (2011); James J. Tomkovicz, Hudson v. Michigan and
the Future of Fourth Amendment Exclusion, 93 Iowa L. Rev. 1819 (2008);
Emily C. Barbour, Davis v. United States : Retroactivity and the Good-Faith
Exception to the Exclusionary Rule, UNT. DL., April 19 (2011); Laura E.
Collins, Davis v. United States : Expanding The Good Faith Exception to the
Exclusionary Rule to Objective Reliance on Binding Appellate Precedent
Presents Too Many Threats to Constitutional Protections, 81 Miss. L. R.
164 (2011); Joshua Dressler, Alan C. Michaels, Understanding Criminal
Procedure (6th ed.).
(30)
Hudson v. Michigan, 547 U.S. 586 (2006).
(31)
ノック&アナウンス法理 (knock-and-announce rule) とは, 被疑者を
逮捕し, 捜索令状を執行する法執行官は, 居住者に対して, その目的及
び権限を告知しない限り, 住居に立ち入ることが許されないというもの
である。 Wilson v. Arkansas, 514 U.S. 927 (1995).
(32)
Hudson v. Michigan, 547 U.S. 586 (2006), at 588
59.
(33)
Id. at 594, 599.
(34)
Id. at 1851.
(35)
Hudson v. Michigan, 547 U.S. 586 (2006), at 592.
(36)
(37)
Id. at 592
93.
Id. at 594.
(38)
Id. at 594, 599.
(39)
James J. Tomkovicz, Hudson v. Michigan and the Future of Fourth
Amendment Exclusion, 93 Iowa L. Rev. 1819 (2008), at 1878
80.
(40)
Hudson v. Michigan, 547 U.S. 586 (2006), at 591, 595.
(41)
Id. at 591.
(42)
Id. at 597
99.
64
(桃山法学
第24号 ’14)
(43)
Herring v. United State, 555 U.S. 138 (2009).
(44)
Id. at 138
39.
(45)
Id.
(46)
Id. at 137, 146.
(47)
Id. at 137, 143
44.
(48)
Id. at 140 (quoting United States v. Leon, 468 U.S. 897, at 916).
(49)
Id. at 143
44.
(50)
Davis v. United States, 131 S.Ct. 2419 (2011).
(51)
New York v. Belton, 453 U.S. 454 (1981).
(52)
Arizona v. Gant, 556 U.S. 332 (2009).
(53)
Davis v. United States, 131 S.Ct. 2419, 2429 (quoting United States v.
Leon, 468 U.S. 897, at 920).
(54)
Id.
(55)
Id. (quoting United States v. Leon, 468 U.S. 897, at 919).
(56)
Id. at 2427.
(57)
Id. at 2428.
(58)
Id. at 242829 (quoting Herring v. United State, 555 U.S. 138, at 144).
Id. at 2427 (quoting Hudson v. Michigan, 547 U.S. 586, at 591).
(59)
(60)
Id. at 2432.
(61)
我が国における違法収集証拠排除法則については, 秋吉淳一郎 「違法
収集証拠」 井上正仁・酒巻匡編
刑事訴訟法の争点
ジュリスト増刊
(有斐閣, 2013年) 180頁, 椎橋隆幸 「証拠排除の要件」 井上正仁・大澤
裕・川出敏裕編
刑事訴訟法判例百選 [第9版]
(有斐閣, 2011年)
196頁, 大谷直人 「違法に収集した証拠」 松尾浩也・井上正仁編
訴訟法の争点 [第3版]
刑事
(有斐閣, 2002年) 194頁等参照。
(62)
最高裁昭和53年9月7日判決 (刑集32巻6号1672頁) 参照。
(63)
最高裁昭和24年12月13日判決 (刑集15号349頁) 等参照。
(64)
違法行為によって収集された証拠を拒否することによって, 汚れなき
司法を維持し, 国民の裁判所に対する尊敬, 信頼を確保しようとするも
のである。 この点については, 証拠上明白な犯人を処罰しないことにな
るので, 裁判所に対する国民の信頼が, かえって損なわれることになる
との批判がある。
(65)
真実発見のためであっても, 適正手続に違反する手段による証拠の収
集は許されないものと考えられている。 この点については, 憲法の基本
権を保障するためとはいえ, 明らかに罪を犯している犯人を無罪とする
排除法則の効果と費用について
65
のは不当であるとの批判がある。
(66)
違法行為によって収集した証拠の使用を禁止することを通して, その
ような法執行行為が無益であることを周知し, それによって違法行為の
再発を抑止しようとするものである。 この点については, 職務熱心な捜
査官は, 時として捜査が違法であることを知りつつも犯人を検挙しよう
とすることがあるので, 必ずしも違法捜査を抑止する効果があるとはい
えないとの批判がある。
(67)
その他, 権利侵害の救済を理由とするものや, 憲法上の保障を理由と
するものがある。
(68)
最高裁昭和53年9月7日判決 (刑集32巻6号1672頁) 参照。
(69)
井上正仁
刑事訴訟における証拠排除
(弘文堂, 1985年) 402頁以下
参照。
(70)
最高裁昭和53年9月7日判決 (刑集32巻6号1672頁) 参照。
(71)
安冨潔 刑事訴訟法 [第2版]
(72)
最高裁昭和53年9月7日判決 (刑集32巻6号1672頁) 参照。
(73)
井上正仁・前掲注(69)。
(74)
最高裁平成15年2月14日判決 (刑集57巻2号121頁) 参照。
(75)
警察白書平成26年版 (ぎょうせい, 2014年) 36頁以下参照。
(三省堂, 2013年) 474頁参照。
67
書 評
村木厚子
『私は負けない:「郵便不正事件」は
こうして作られた
(中央公論新社,2013年,253頁)
軽
部
恵
子
本書は,厚生労働省次官の村木厚子が,自身が逮捕され,裁判にかけられた郵
便不正事件について,その過程を詳細に語ったものである。聞き手と構成は,オ
ウム真理教に係わる一連の事件報道などで知られるジャーナリストの江川紹子が
務めた。
2009年 6 月,厚生労働省雇用均等・児童家庭局の局長だった著者が,実態のな
い障害者団体に偽造の証明書を発行し,第三種郵便の不正利用に加担したとして,
部下の上村勉係長(当時)らに続き,虚偽有印公文書作成・同行使の容疑により
逮捕された。しかし,被告人自身が証拠のフロッピー・ディスクが検察側によっ
て改竄されていることに気付き,それを端緒にして2010年 9 月に無実が証明され
た。その後,著者は内閣府政策統括官(共生社会政策担当)を経て,2013年 7 月
から厚生労働事務次官の任にある。また,2011年 6 月には,江田五月法務大臣
(当時)によって,法務大臣の諮問機関である法制審議会「新時代の刑事司法制
度特別部会」の委員に就任した。
近年,有罪が確定した事件の再審が行われ,被告人の無罪が確定する事件が続
いている。たとえ数か月であろうと,被疑者・被告人として拘束されること,自
分の話を信じてもらえないことの苦痛は察するに余りある。直近では,2014年 3
月に袴田事件の袴田巌元被告に対する再審開始が決定され,元プロボクサーはよ
うやく拘置所から釈放された。人生の 3 分の 2 近くにあたる半世紀,死刑の恐怖
と毎日向かい合いながら,無実を訴え続けたことになる。他にも, 6 度の再審請
68
(桃山法学
第24号
’14)
求を行い,事件発生から34年 6 ヶ月後にようやく無罪を勝ち取った免田事件,逮
捕から釈放まで17年かかった足利事件,東京電力の女性社員を殺害したとされた
が,事件発生から15年ぶりに再審が開始され,無罪判決が出された事件など,冤
罪事件は枚挙に暇がない。
冤罪事件に関する書籍は多い。村木の郵便不正事件だけでも,今西憲之と週刊
朝日取材班が著した『私は無実です:検察と戦った厚労省官僚村木厚子の445日』
(朝日新聞出版,2010年)がある。証拠改竄した大阪地検特捜部の前田恒彦・主
任検事(当時)については,朝日新聞取材班『証拠改竄:特捜検事の犯罪』(朝
日新聞出版,2011年)がある。ちなみに,前田元検事は2012年 5 月に服役を追え
て出所し,現在はフェイスブックや講演活動などを通じて,検察の問題点を社会
に発信している。前田の元上司の1人で,証拠改竄を指示したとして犯人隠避の
罪で有罪が確定した元特捜部長の大坪弘道は,『勾留百二十日:特捜部長ははぜ
逮捕されたか』(文藝春秋,2011年)を出版した。
本書が注目に値するのは,逮捕から勾留,裁判に至る過程が本人の言葉によっ
て詳細に描かれていることにある。その根底には,優れたインタビュアー,江川
紹子の手腕もさることながら,「メモ魔」を自称する村木の卓越した情報収集と
整理能力にある。地方国立大学を卒業後,女性が働き続けられる環境を求めて
1978年に労働省(当時)に入省し,同期入省のキャリア男性と結婚した。20代の
後半に子連れの地方単身赴任をしながらキャリアを磨き,女性の後輩たちにとっ
てロールモデルとなった人物だから,当然なのだが。著者の前半生については,
『あきらめない:働くあなたに贈る真実のメッセージ』(日経 BP 社,2011年)
の第 1 章および第 2 章を読んでほしい。
本書の構成は「はじめに」と「おわりに」の他, 2 部 8 章に加え,江川紹子に
よる解説「真相は今も隠されたまま」,巻末の付録 2 点(事件関連年表および上
村勉の被疑者ノート)からなる。
第一部は「第一章
間の勾留」,「第三章
まさかの逮捕と二〇日間の取り調べ」,「第二章
裁判で明らかにされた真相」,「第四章
一六四日
無罪判決,そして
……」,「終章 信じられる司法制度を作るために」からなる。それから,江川紹
子による 3 本のコラムが付いており,第二章末尾にあるコラムのタイトルは「冤
罪の温床となっている“人質司法」で,第三章末尾のタイトルは「
特捜神話”
に毒されたマスメディア」である。第四章末尾のコラムは「検察への,国民の監
村木厚子『私は負けない:「郵便不正事件」はこうして作られた
69
視が必要」と題される。
第二部はインタビューと対談から構成されている。第一章は,村木の夫,村木
太郎のインタビュー「支え合って進もう」である。第二章は,「ウソの調書はこ
うして作られた」と題し,村木のかつての部下,上村勉との対談になっており,
江川が進行役を務めている。第三章は「一人の無辜を罰するなかれ」と題して,
映画監督の周防正行のインタビューが掲載されている。周防は,痴漢冤罪事件を
題材にした映画「それでもボクはやっていない」(2007年,東宝)を監督したこ
とでも知られるが,2011年 6 月,江田大臣によって法制審議会「新時代の刑事司
法制度特別部会委員」に就任した。
第一部を通じて強く印象に残るのは,取り調べの中で本人の主張と全くニュア
ンスの異なる調書が作られる点である。これは何十年も前から弁護士会と一部メ
ディア等によって指摘されてきたが,冤罪事件の被害者が語ると臨場感が格段に
違う。村木は,福祉団体に関する証明書は企画課長名で出されたから,自分がわ
ざわざ部下に偽造を命じる必要がなく,通常の決裁を経て正規の証明書を発行で
きる,と取り調べの検事に対して説明したが,調書にならなかった (p. 27)。む
しろ,「検察側にとって都合のいい,少なくとも都合の悪くないことだけをつま
みとってまとめた文章を示されて,そこから交渉が始ま」るのである (pp. 27
28)。
著者を最初に取り調べた検事は比較的よく話を聞いてくれる方だったが (p. 28),
それでも彼は「執行猶予がつけば大した罪ではない」と口にした (p. 29)。無実
の人にとって,執行猶予は嬉しくない。まして,公務員には長年築いてきた信頼
の崩壊を意味する(p. 29 参照)。2014年 4 月30日,法務省の諮問機関である法制
審議会が,日本版司法取引を導入するか検討し始め,同年 6 月23日に導入の方向
が示された。取り調べの完全な可視化なくして,司法取引の導入は冤罪の可能性
を増やすのではないか。
さらに衝撃的であったのは,新たな担当検事の発言である。1998年 7 月に発生
した和歌山毒カレー事件で死刑判決の確定した林真須美は,かつて著者と同じ拘
置所にいたが,「あの事件だって,本当に彼女がやったのか,実際のところは分
からないですよね」(p. 37) と述べたと言う。冤罪事件は無実の罪に問われた人
間とその家族に大変な苦痛をもたらすが,刑の確定から何年も経った後に,真犯
人は逃亡中という事実を突きつけられる被害者や犠牲者の遺族にとっても大変な
70
(桃山法学
第24号
’14)
苦痛である。
ところで,「証拠よりもストーリー」(p. 39) を求める態度は,人間誰しもが内
包する。そもそも,人間は見たいことだけを見,聞きたいことだけを聞くように
造られているが,これは必要な部分に視覚や聴覚を集中させるためである。一方,
人間は仮説に合わない実験結果を排除したくなる。あるいは,自説に都合のよい
資料(史料)を喜び勇んで受入れ,都合の悪い指摘は「根拠がない」と結論づけ
る。この誘惑はきわめて大きく,名誉欲などと絡んで,捏造事件を起こす。古今
東西,この陥穽にはまった人間は多い。
話を本書に戻そう。第二部第一章では,著者の夫の村木太郎が,妻の逮捕直前
から公判終了後までの経緯と心境を語っている。新聞記者から取材の申込みが来
た際,夫の担当していた国際労働機関 (ILO) 総会に関することかと思いきや,
妻の証明書偽造疑惑に係わる話であった。妻同様,課長が自分の名前で決裁文書
を出すのに偽造する必要はないと夫も説明したが,大阪地検特捜部の情報を確認
に来ているだけの新聞記者には受け入れられなかった(pp. 136
137)。太郎は,
出張先のジュネーヴで「たいほ」とのみ書かれた厚子の携帯メールを受け取り,
家宅捜索には後輩が年次休暇をとって立ち会ってくれることになったものの,気
をもみながら帰国の便に乗らざるを得なかった(pp. 138
189)。
本書が冤罪事件に関する他の書籍と大きく異なるのは,第二部第二章で著者と
著者を陥れる「自供」をした上村勉が対談し,巻末の付録 2 で彼の被疑者ノート
を掲載したことである。上村が本書の対談に参加したのは,課長に無断で証明書
を発行した自分が「第一に,村木さんにお目にかかって謝らなければいけない。
それから,村木さんが取り調べの可視化などの問題に取り組んでいらっしゃると
聞いたので,何か協力できることがあれば,と思」ったからだと言う (p. 151)。
前田元主任検事が改竄したフロッピー・ディスクの一件については,読者が直接
読んでもらいたい。
被疑者ノートは,単に「被疑者がメモしたノート」ではなく,日本弁護士連合
会が形式を定めた。それは日付に始まり,「取調官の氏名」,「取調事項」,「印象
に残った取調官の態度・言葉」,「あなたの対応」,「あなたの心境」,「健康状態」
等の項目に本人が書き込むようになっている。上村のノートから,彼の健康状態
が日々悪化していったことが如実にわかる。その立場に置かれた人は,平均何日
取り調べに耐えられるのかとも思う。
村木厚子『私は負けない:「郵便不正事件」はこうして作られた
71
著者の娘は大学の授業で足利事件を題材に議論したが,多くの学生は,虚偽の
自白に追い込まれた菅谷利和さんは「弱かったから虚偽の自白をした」と主張し
たと言う (p. 9)。しかし,嘆いた娘が心理学の専門家に取り調べの実態をどう説
明すべきか尋ねたところ,「弱いから自白するんじゃない。弱いところを突かれ
て自白するんだ」という答えを得た(同)。警察,検察,そして裁判官は,供述
を頻繁に変える被疑者が遂に観念して自白したと考えるが,全く逆の例もあるこ
とを忘れてはならない。
第二部を通じて感じるのは,人間の記憶は曖昧で,プロの手にかかれば,如何
様にも変質すると言う点である。そして,取り調べが延々と続き,終わりの見え
ない絶望感から,他人を犠牲にしてでも早く拘束から解かれたいという心理に陥
るのである (pp. 158
159)。上村は,拘置所で弁護士と面会させてもらえない日
曜日に検事の取り調べを受け,調書に署名する前に弁護士と相談させてほしいと
検事に頼んだが,厚生労働省の同僚たちを再聴取すると圧力を掛けられた (pp.
162
163)。
江川紹子の 3 本コラムと巻末の解説は,本書の「まとめ」を適宜してくれる。
常に淡々と大事件の要点を伝えてきた彼女ならではの筆力である。また,著者と
基本的な物事の感じ方が似ており,著者の思いをそのまま形にした (p. 192) こ
とも大きかった。
本書は,法学部初年次生の教材としてはもちろん,裁判劇や模擬裁判の台本に
も生かせるであろう。また,裁判員候補に選出される可能性のある大学生や一般
市民には,公平に物事を見て考える教材となる。本書をできるだけ多くの人に読
んでもらいたいと評者は心から願う。
取り調べの可視化は,著者および周防監督の努力にもかかわらず,裁判員裁判
の対象となる重大事件と,検察の独自捜査事件のみが対象となることで答申案が
まとめられることになった。また,被疑者が録音・録画を拒絶する,あるいは,
記録すると十分な供述をしない場合に録音・録画をしないという例外規定が設け
られることになった。だが,ここで著者は諦めずに全面可視化の重要性を発信続
けるのではないか。その期待を込めて,評者は本書のメインタイトル「私は負け
ない」を I will continue to fight と英訳した。
最後に,本書を読む上で参考になる関連番組の URL を付した。とくに NHK
クローズアップ現代の番組サイトは,番組トランスクリプトを読める,あるいは
72
(桃山法学
第24号
’14)
番組の一部を視聴できるものを含む。本書とともに役立ててほしい。
(2014年 7 月 7 日脱稿)
<参考>(番組の初回放送が新しい順に並べた)
NHK 総合「クローズアップ現代 No. 3478
埋もれた証拠
∼袴田事件”当事者
たちの告白∼」(2014年 4 月 3 日放送)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3478.html(2014年 7 月 6 日最終アクセス)
橋下惇 NHK 解説委員「時論公論
袴田事件“国家機関が無実の人を陥れた」
(2014年 3 月28日放送)
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/184128.html(2014年 7 月 6 日最終アクセス)
NHK 総合「クローズアップ現代 No. 3405
可視化はどうあるべきか
∼取り調
べ改革の課題∼」(2013年 9 月24日放送)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3405.html
NHK 総合「クローズアップ現代 No. 3224
密室”は開かれるのか∼検証・取
り調べの可視化∼」(2012年 7 月 4 日放送)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3224.html(2014年 7 月 6 日最終アクセス)
NHK 総合「クローズアップ現代 No. 3210 東電女性社員殺害事件 再審の衝撃」
(2012年 6 月 7 日放送)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3210.html(2014年 7 月 6 日最終アクセス)
NHK 総合「クローズアップ現代 No. 3127
証拠は誰のものか」(2011年11月30日
放送)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_3127.html(2014年 7 月 6 日最終アクセス)
NHK 総合「NHK スペシャル
堕ちた特捜検事
∼エリート検事
逮捕の激震」
(2010年 9 月26日放送)
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2010/0926/(2014年 7 月 6 日最終アクセス)
NHK 総合「クローズアップ現代 No. 2755
えん罪はなぜ見過ごされたか」(2009
年 6 月23日放送)
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail_2755.html(2014年 7 月 6 日最終アクセス)
73
書 評
村岡恵理
『アンのゆりかご:村岡花子の生涯
(新潮社, 2011年, 431頁)
軽
部
恵
子
2014年 3 月31日, NHK 連続テレビ小説「花子とアン」(平成26年度前期, 第90
作)の放送が始まった。放送も 3 分の 2 が終わったが, 平均視聴率が20%を越え,
大変な人気を博しているという。ドラマの原案は,『赤毛のアン』を日本で初め
て翻訳した村岡花子の孫娘の 1 人で, 作家でもある村岡恵理が提供した。原案の
元になったのが, 本書『アンのゆりかご:村岡花子の生涯』(新潮社, 2011年)
である。
著者の村岡恵理は1967年に生まれ, 祖母の母校でもある東洋英和女学院高等部
を卒業し, その後成城大学文芸学部を卒業した。1991年以降, 祖母の著作と蔵書
を姉である翻訳家の村岡美枝とともに保存し,「赤毛のアン記念館・村岡花子文
庫」を主宰する。
『赤毛のアン』の原作は, L. M. モンゴメリ (Lucy Maud Montgomery, 1874
1942) の Anne of Green Gables である。1908年にカナダで出版されたが, 日本で
村岡花子の手による訳書が刊行されたのは, 44年も経った1952年であった。原作
の初版から110年以上, 邦訳出版から60年以上を経て,『赤毛のアン』とその翻訳
者に対する関心が日本で再び高まっている。
本書は, プロローグとエピローグに加え, 10章から成る。プロローグは,「戦
火の中で『赤毛のアン』を訳す:昭和20年(1945) 4 月13日, 太平洋戦争が終結
する 4 ヶ月前」と題される。第 1 章「ミッション・スクールの寄宿舎へ:明治26
∼36年(1893∼1903, 誕生∼10歳)」, 第 2 章「英米文学との出会い:明治37∼40
年(1904∼07, 11∼14歳)」, 第 3 章「 腹心の友』の導き:明治41∼大正 2 年
(1908∼13, 15∼20歳)」, 第 4 章「大人も子供も楽しめる本を:大正 3 ∼ 6 年
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(桃山法学
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す み か
(1914∼17, 21∼24歳)」, 第 5 章「魂の住家:大正 7 ∼10年(1918∼21, 25∼28
歳)」, 第 6 章「悲しみを越えて:大正11∼昭和 2 年(1922∼27, 29∼34歳)」, 第
7 章「婦人参政権を求めて:昭和 3 ∼13年(1928∼38, 35∼45歳)」, 第 8 章「戦
時に立てた友情の証:昭和14∼20年(1939∼45, 46∼52歳)」, 第 9 章「 赤毛の
いと
アン』ついに刊行:昭和21∼27年(1946∼52, 53∼59歳)」, 第10章「愛おしい人々,
そして本:昭和28∼43年(1953∼68, 60∼75歳)」である。
エピローグは「 赤毛のアン』記念館に, 祖母の書斎は残る」と題する。その
後に, 文庫版あとがき, 注釈, 村岡花子関連年表, 主要参考文献, Special Thanks,
そして作家の梨木香歩によるエッセイ「 曲り角のさきにあるもの』を信じる」
が寄せられた。
各章のタイトルが, 村岡花子の人生の主なできごとを端的に示している。また,
副題に具体的な年代と年齢が付記されている。花子は明治から昭和を生きたため,
元号と西暦の双方が明記されているのは, 読者にとってありがたい。
それから, NHK の「花子とアン」の主人公は役の上で年齢を重ねてもどこか
若々しいが,『赤毛のアン』が初めて世に出たのは1952年である。1893年まれの
村岡花子は還暦目前となっていた。Anne of Green Gables の邦訳タイトルをどう
するかで悩んだあげく, あまり気に入らなかった編集者の提案「赤毛のアン」に
決めたのは, 20歳だった娘みどりが大賛成したからで, 花子は若い人の感性に賭
けたのであった (pp. 325
327)。人間の行動決定に年齢はしばしば重要な要因と
なるので, 読者には花子の年齢と対比しながら各章を読んでもらいたい。
本書は, NHK 連続テレビ小説「花子とアン」と内容が完全に合致しているわ
けではない。番組終了時に「このドラマはフィクションです」という断り書きが
毎回提示されるが, ドラマに描かれた人物やできごとと, 本書の記述はかなり異
なっている。ドラマを見て, 村岡花子の人生に大いに興味をかき立てられた人に
は, ぜひ本書を手にしてもらいたい。
当然, 本書の価値は史実とフィクションの区分に留まらない。たとえば, 評者
が本書を手にとって読むまで, 村岡花子という人物は「赤毛のアン」シリーズな
どの翻訳者という程度の認識しかなかったが, それは大きな誤りであった。花子
は, キリスト教精神に基づく環境で薫陶を受け, 妻を対等なパートナーとして接
する夫に恵まれ, 子育てをしながら翻訳やラジオの仕事を続け, 関東大震災で夫
の印刷会社が大損害を受けると家計を支え, 女流文学者や市川房枝らとの交流を
村岡恵理『アンのゆりかご:村岡花子の生涯
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通じて婦人参政権運動に貢献した。戦後も, 著名人来日時の通訳, 講演会への出
席, エッセイ等の執筆を通じて活躍した。つまり, 花子は今日的に表現すると,
女性の人権, ひいてはジェンダーの平等を体現した人である。巻末の梨木による
エッセイの一部をここに引用したい。
「本書には, ただ村岡花子一人の女性史のみならず, 彼女が生きた時代の女性
たちの意識, 彼女たちの置かれた社会的地位, 葛藤までもが丹念に描かれている。
中でも, 市川房枝に対する言及は, 簡潔ではあるが, 各時代の要所要所に的確に
入っていて, 婦人参政権獲得運動の歴史が実に端的に浮かび上がる仕組みになっ
ている」(p. 430)。
本書に記された花子の人脈を見れば, 梨木の指摘も容易に納得できる。とにか
く, 花子に連なる人々の顔ぶれは「すごい」の一言に尽きる。たとえば花子の初
恋の人, 澤田廉三は外交官となり, 日本の国連加盟に尽力した。彼の妻, 澤田美
喜は岩崎久弥(三菱財閥の三代目)の長女だが, エリザベス・サンダース・ホー
ム(第 2 次世界大戦後, 日本に進駐した連合軍兵士と日本人女性の間に生まれた
子どもたちのための施設)の創設者であった。財閥解体後, ホームの運営資金調
達に親は頼りにできなかった。戦後, ホームを訪れた花子は, 美喜の正義感に感
動し, 夫婦ぐるみで親交を深めたと言う (p. 314)。
花子の短歌の師は佐佐木信綱 (18721963) だが, 1937年に第 1 回文化勲章を
受章した人物である。花子の翻訳者としての力量は, 英語力のみならず日本語の
力にあることは言うまでもないが, 彼女に日本語を磨く貴重な場を与えたのが佐
佐木であった。彼の門下には女性が多く, 主宰する短歌結社「竹柏会」は女流歌
人の登竜門として知られていた (pp. 8788)。今春, 評者は村岡花子訳(新潮社)
とそれ以外の訳者による『赤毛のアン』を読み比べてみたが, 村岡版の訳文が断
然読みやすい根底には, 日本語にとって最も自然な七五調のリズムがあると感じ
た。
そして, きわめつけは, 花子が東洋英和女学校で出会った腹心の友, 柳原子
である。刑法に姦通罪が規定されていた1921年, 有夫の女性と 7 歳年下の帝大生
との駆け落ちには, 厳しい処罰が待っている可能性があった。しかも, 子の父
は華族で, 叔母が大正天皇の生母だったから, スキャンダルの規模が並大抵では
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(桃山法学
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なかった。もっとも, 男性の側もただ者ではない。後に子の夫となる宮崎龍介
は, 1911年の辛亥革命を成し遂げた孫文を日本で支援してきた宮崎滔天 (1870
1922) の息子である。いずれにせよ, 華族という身分に縛られ, 価値観が全く違
う相手との再婚という「座敷牢」に閉じこめられていた親友が, 夫への絶縁状を
新聞発表するという究極の手段をとった白蓮事件は, 花子が婦人参政権運動や身
の上相談を通じて社会の変革に携わっていく動機の一部になったのではないか
(第 7 章参照)。
戦争の足音は, 花子の周囲にも暗い影を投げかける。政党政治が崩壊した日本
では, 東洋英和も文部省(当時)の指導の下, 天皇の御真影を奉戴し, 軍事教育,
日の丸掲揚などを受け入れることを余儀なくされた (pp. 267
269)。盧溝橋事件
から 2 年後の1939年には, 花子の長年の友人で, カナダ人婦人宣教師だったミス・
ロレッタ・レナード・ショー (18721940) も帰国を決意した (p. 270)。1872年
にカナダ東部で生まれたショーは, 1904年に英国教会 (Church of England) の婦
人宣教師として来日し, 大阪のプール女学校(現プール学院大学)で27年間教壇
に立ち続け, 1931年から教文館で働いていた(同)。
友人の帰国を見送りに来た花子に, ミス・ショーは友情の記念として, 1 冊の
本を渡す。これが1908年刊行の Anne of Green Gables であった。別れ際にカナダ
人宣教師の残した言葉は重い。「いつかまたきっと, 平和が訪れます。その時,
この本をあなたの手で, 日本の少女たちに紹介してください。」(p. 271)。皮肉
なことだが, Anne of Green Gables が出版されたのは, ヨーロッパに第 1 次世界
大戦の影が忍び寄る時代であった。
友人にもらった書籍を出版する日まで, 花子は幾多の困難と試練に立ち向かわ
なければならなかった。 開戦を機にラジオ番組への出演をやめた (pp. 274
275)。
空襲がひどくなると, 原書と翻訳原稿を風呂敷に包み, 抱えて逃げ回った (p.
293)。焼夷弾が家の庭に落ちたこともあった (p. 297)。それでも, 花子は 2 つ
とも守り抜いた。
1952年 5 月10日, 村岡花子訳『赤毛のアン』がついに出版された。この日は,
第 2 次世界大戦の連合国と日本が講和した日本国との平和条約(サンフランシス
コ平和条約)が効力発生した1952年 4 月28日から 2 週間後のことだった。物語に
飢えていた子どもたちはもちろん, 国立大学など高等教育へのアクセスを大幅に
改善された女性たちが, 努力によって自分の道を切り開いていくアン・シャーリー
村岡恵理『アンのゆりかご:村岡花子の生涯
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を熱狂的に迎えたことは想像に難くない。
花子の活躍は続く。戦前は婦人矯風会を通じて公娼廃止, 少年禁酒法, 婦人参
政権のために運動してきたが, 戦後は女性と子どもを含めたすべての人々の幸せ
を願って, 日本ユネスコ協会連盟副会長に就任し, 市川房枝の活動を支援した
(p. 347)。産児制限の運動家マーガレット・サンガーが1952年10月に来日した際
は通訳を務め, 産児制限運動を推進していた日本の女性政治家の草分けである加
藤シヅヱとともに, 1951年開設の民間放送ラジオ東京(現 TBS ラジオ)の座談
会に出席した (p. 348)。1955年 5 月, ヘレン・ケラーが 3 度目の来日をした際は,
帝国ホテルで開催された歓迎会で直接話をし, 翌日に飯田橋富士見町教会で行わ
れた講演の通訳を務めた (p. 349)。実は, ケラーが1947年に 2 度目の来日をした
際, 花子は日比谷公会堂で同女史の講演を聴いて感銘を受け, 彼女の著書『私の
半世紀』および『ヘレン・ケラーの救い主アニー・サリバン』を基に, 子ども向
けの伝記『ヘレン・ケラー』にまとめて偕成社から出版していた。
本書を読んだ評者にとって, 何よりの収穫だったのは, 花子が「ラジオのおば
さん」としてラジオ JOAK 放送局(NHK の前身)の番組に登場し,「子供の新聞」
と称して一家団欒の夕食の時間帯にほっとするような話題を中心にニュースを伝
えていたことを知った点である (pp. 249
253 参照)。まるで, NHK 記者だった
池上彰が大きく関わったテレビ番組「週刊こどもニュース」(1994
2010年放送)
のようではないか。否, この放送は1932年 6 月に始まったので, 花子の方が大先
輩である。
花子の担当コーナーは子どものみならず大人にもたいそう喜ばれ,「ラジオの
おばさん」が最後に発する「ごきげんよう」の挨拶は, 巷で物まねされるほどで
あった (pp. 251252)。花子の名前をかたって物品を購入する, あるいは花子の
夫をかたって芸者遊びをし, 請求書をつけ回してくる者さえ現れた (p. 252)。花
子が『王子と乞食』などの数々の英米文学を翻訳してきた実績と, ラジオのパー
ソナリティーとして戦前から得ていた高い知名度は,『赤毛のアン』の面白さと
訳の読みやすさを折り紙付きにしていたかもしれない。
このように, 本書は単に村岡花子の生涯をまとめただけではない。時代の主要
な動きを的確にちりばめ, 女性史, そして日本社会が歩んできた道のりを俯瞰で
きるようになっている。村岡恵理は, 祖母の残した原稿等を丹念に読み込み, そ
の生涯を明治・大正・昭和と言う 3 つの時代の大きな流れに見事に再構成した。
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(桃山法学
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まさに, 著者の筆力の賜といえよう。中学校や高校で歴史の時間が苦手だった人
でも, 本書を読めば自然と歴史が好きになるに違いない。なぜなら, 歴史は人間
ドラマの集大成であり, 本書は「村岡花子とその時代」を描いたからである。
現在, 赤毛のアン展実行委員会他が主催する「日加修好85周年記念『モンゴメ
リと花子の赤毛のアン展 」が全国を巡回している。この展覧会では, ミス・ショー
が村岡花子に渡した Anne of Green Gables(ショーのサイン入り), 花子が戦時中
の灯火管制下で作業を続けた『アン・オブ・グリン・ゲイブルス』の翻訳原稿用
紙, 1952年初版の『赤毛のアン』(三笠書房刊), 原作者モンゴメリの手書き原稿,
絶筆となった The Blythes Are Quoted(邦題『アンの想い出の日々 。2012年刊),
モンゴメリが18971899年に作っていたスクラップブック(日本初公開)など,
貴重な資料が多数展示されている。『アンのゆりかご』を読了した人は, 村岡花
子という人格がどのように育まれていったか, また, 女流文学者として道を開拓
していったモンゴメリと花子の共通点に花子が何を感じたか,「想像の翼」を広
げることができるだろう。
最後に, Anne of Green Gables は本国カナダでの人気がやがて米英に伝播した
が, 日本での人気ぶりはカナダの研究者たちが研究対象とするほどである。40歳
代の日本人で, 1979年に初回放送された世界名作劇場「赤毛のアン」(アニメ)
で初めて『赤毛のアン』を知ったという人は少なくなく, アニメの放送(再放送
を含む)がファンを広げたことは間違いないだろう。それにしても,『赤毛のア
ン』(とおそらくアニメ「赤毛のアン」)がこれほどまで日本で人気を得ているの
はなぜか。評者はいくつかの仮説を立てているが, その詳細は別稿にゆずりたい
と思う。
(2014年 8 月 1 日脱稿)
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村岡恵理『アンのゆりかご:村岡花子の生涯
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Issue No. 24
(December 2014)
Articles
Hausfriedensbruch und Freiheit
……………………………………………ETO Takahiro
( 1 )
A Cost-Benefit Analysis in the Exclusionary Rule
……………………………………………OKUBO Masato
( 35 )
Book Reviews
Atsuko MURAKI, I Will Continue to Fight :
How My Mail Fraud Case Was Fabricated
(in Japanese, Chuokoron-Shinsha, 2013, p. 253)
……………………………………………KARUBE Keiko
( 67 )
Eri MURAOKA, Anne’s Cradle : The Life of Hanako Muraoka
(in Japanese, Shinchosha, 2011, p. 431)
……………………………………………KARUBE Keiko
( 73 )
Edited by
St. Andrew’s University Law Studies Association
St. Andrew’s (Momoyama Gakuin) University
1 1 Manabino, Izumi, Osaka 594 1198, Japan
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