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ヘーゲル事典を読む : Michael Inwood, A Hegel
Dictionary, Blackwell Oxford 1992, 347p. を中心とし
て
嶋崎, 隆
一橋論叢, 113(4): 494-501
1995-04-01
Departmental Bulletin Paper
Text Version publisher
URL
http://doi.org/10.15057/12229
Right
Hitotsubashi University Repository
橋論叢 第113巻 第4号 平成7年(1995年)4月号 (116)
書 評
へーゲル事典を読む
のだろうか、という思いが見られる。たし・かにへーゲル事典を
しいへーゲル哲学にかんするスタンダードな事典などつくれる
の研究書ないし解説書とならざるをえない。事典を解説すると
書くという試みは、それ自身ひとつのへーゲル解釈となり、そ
−ζ6=竃−量ミoo戸﹄雰gb︸o迂os8ミ一
ンウツドの著作の紹介・解説をおこないたい︵以下、引用頁を
いうのもおかしな話かもしれないが、以上の理由で、上記のイ
も、各項目間の内容的調整が不十分であること、項目によって
ーゲル事典にかんして、そのメリツトをいくつも承認しながら
ので、それに簡単に触れたい。氏はそこで、とくに弘文堂のへ
その研究水準の専門化、高度化を如実に示している。
ところで以上の両事典については、私の知るかぎり、牧野広
︵3︺
義氏による﹁へーゲルを現代に生かす事典﹂という書評がある
いる。日本のへーゲル研究者の総結集とでもいえるものであり、
へーゲル年譜、日本語で読めるへーゲル書一覧、などがついて
ている。﹁付録﹂として、きわめて詳細なへーゲル執筆年代表、
みならず、人名なども含み、七〇〇頁以上の大部なものとなっ
の解説書である。その後に出た弘文堂のへーゲル事典は用語の
達している。二の事典はへーゲル哲学で重要とみなされる用語
未来社のへーゲル事典は一九九四年三月の段階ですでに五刷に
ダードで網羅的な事典が待望されていたことも事実であって、
して三つのへーゲル事典を生んだ。へーゲルについてのスタン
最近のへーゲル・ブームの高まりが、その困難な状況を突破
一 三事典の鼎立
本文中に記す︶。
匡曽斤峯o=一〇ζo己ε竃一ωミpを中心として
崎 隆
ゲルの難解さゆえであろう。ここにははたして、段誉褒腫の激
が従来存在しなかったのは奇異な感があるが、それもまたへー
見するかぎり、見当たらないのが現状である。なお中国には、
︵宝︺
九四〇頁のへーゲル事典があるが、今回は言及しない。
難解をもうて鳴るへーゲル哲学体系にたいして、専門の事典
にすぎない。その他の欧米諸国においても、へーゲル事典は管
^1︺
クナーの﹃へーゲル・レキシコン﹄だが、これは単なる用例集
現在にいたるまで意外と見当たらない。あえていえぱ、グロソ
係の事典が二つや三つあってもおかしくないと思われるのだが、
弘文堂︶が現れた。本場のドイツにおいて本格的なへーゲル関
﹃へーゲル事典﹂︵加藤、久保、幸津、高山、滝口、山口編著、
高田編者、未来社︶であり、その後、より大規模なものとして、
もその編著者に加わった﹃へーゲル用語事典﹄︵岩佐、島崎、
のへーゲル事典が刊行されている。最初に出版されたのは、私
へーゲル研究がほぽ頂点に達したと思われる現在、いくつか
嶋
494
(117)書
この事典には、私も執筆者として参加したが、そもそもへーゲ
執筆者の一面的解釈や偏りがあること、などを指摘している。
ル解釈上の統一は、最初からそれほど前提されな・かうたといえ
る。百花繍乱の解釈が成立しうるへーゲルについて、その統一
をめざそうとすれば、学問的議論がはてしなく続くこととなり
かねない。とはいえ牧野氏は、﹁実体と主体﹂﹁自由﹂﹁矛盾﹂
の三用語を取り上げ、その取り扱いの不十分性を具体的に指摘
するが、氏が用語の基本的了解事項を問題とするかぎり、その
批判は私にと。て基本的に首肯できるものといえる。論争を期
待したいところである。
ニ インウソドのへーゲル事典の概略
以上の二つの日本語事典に割ってはいったのが、ドイツなら
ぬイギリスのインウソド編集のへーゲル事典であった。彼の事
を事典によって解説してしまったところだ。この事典の著者は
典の驚異的なところは、彼が一人でへ−ゲル哲学体系の全分野
彼一人である。たしかに、へーゲル哲学の解説書を一人で書く
ことは、ある意味でできなくもないが、それと、スタンダード
な事典を作成することとはわけがちがう。彼は猪突猛進して・
へーゲルの一面的・窓意的な解釈をしてしまったのだろうか
、.。まず、インウソド自身について紹介すれば、彼は現在・
オツクスフォードのトリニティ・カレソジの特別研究員、チュ
ーター で あ る 。
本書は最初に、﹁へーゲルと彼の言語﹂﹁へーゲル入門﹂とい
う二つの論文を導入的に掲げる。こういうアイディアもあった
のかと、おおいに学ばされた。その後、﹁AからZまでの記載
と二次的文献についての﹁文献目録﹂、ドイツ語での﹁索引﹂
事項﹂が続き、ここが本文となる。﹁付録﹂として、へ−ゲル
いており、ありがたい。またドイツ語索引も当然のサーピスだ
がついている。﹁文献目録﹂にはそれぞれ簡単ながら解説が付
ろう。ただし本書には、目次としてへーゲルの用語がどこにも
載つていないので、この点、不便を感じた。つまり、本文をめ
はでき⊥ないのだo
くる以外に、項目がどういう順序で並んでいるのかを知ること
以下、未来社の用語事典との比較を交えて・∵の事典の特徴
を説明したい。三四七頁というインウソドの箏典を翻訳すれぱ・
似ているからだ。
大部なものとなってしまうだろうが、作り方は未来社のものと
三 全体の特徴
にアプローチしており、強引で一面的な解釈はしていない。し
まず全体の印象からすれば、本事典はよくまとまってい亀
説明のさい箇条書きを多用したりして、へーゲルにたいし丁寧
かもそこには、イギリス哲学独特の平明さがある。ほぼ一〇〇
ファベツド順に並んでいる。そのなかには、用語のみでなく、
項目が扱われており、﹁絶対的﹂から﹁意志と意欲﹂までアル
﹃大論理学﹄﹃精神現象学﹄から﹃美学﹄﹃宗教哲学﹄にいたる
までの著作の説明もはい。ている。各項目ことの分量的配分に
かもそのなかで研究書が紹介・検討される場合もあり、さなが
それほど相違はなく、大体三頁が一項目に当てられている。し
495
橋論叢 第113巻 第4号 平成7年(1995年)4月号 (118)
ら小論文の集大成とい。た観がある。これにたいし、未来社の
事典では九四項目の用語が説明されており、各著作の説明は、
の両事典で重複することは当然であるから、未来社の事典では
うしろの付録のなかで詳細になされている。大部分の項目がこ
ほとんど取り上げられなかった項目もまた、印象に残る。たと
﹁定め、運命、摂理﹂﹁イロニーとロマン主義﹂などである。こ
えぱ、﹁戦争と平和﹂﹁文化と教育﹂﹁家族と女性﹂﹁死と不死﹂
のなかで﹁家族と女性﹂についていうと、いうまでもなく﹁家
説明はほとんどない。へーゲルは固有の女性観をもつているし、
族﹂は釆来社の事典でも十分に説明されているが、﹁女性﹂の
現代におけるフェミニズムの存在を考慮して、もう少し意図的
に﹁ 女 性 ﹂ に つ い て 配 慮 す ぺ き だ ウ た 。
さて・内容的にいうと、へーゲルの思弁的展開を詳細に追究
するという点ではもうひとつというところだが、へーゲル哲学
の入口まで読者をスムーズに導くという点ではきわめて細かい
配慮がなされているという印象を受ける。古代ギリシヤ以来の
丁寧な哲学史的説明、へーゲルと同時代の哲学.思想の説明な
どはおおいに参考となるものであり、ヨーロツパと日本の学問
的厚みの差を痛感する。しかも、こうした広範な説明がインウ
ッド一人でなされているのだ。また、ギリシヤ語、ラテン語か
らの哲学用語の語源的説明やドイツ語と英語の対応関係の説明
も丁寧でわかりやすく、初学者にとって利用しやすくできてい
る。一例をあげると、ドイツ語の彗苧ま雪︵﹁止揚﹂﹁揚棄﹂
などと訳される︶には、英語の害巨斗ρ害巨ヨ牡①一彗目具
○竃og冒實oq①二巨晶﹃呉①が従来、使用されてきたといわれ、
その数の多さに驚かされる︵−−以上のように、本文中に本
書の頁数を記す︶。昌;g彗という、いかにも弁証法的な用
語の複雑さを表していて、興味深い。
未来社の事典では、分量からすると、哲学史的.語学的解説
これは・相対的な問題であるが︶。したがつてインウツドの事
よりもへーゲル哲学そのものの説明に力が注がれる︵もちろん
ヒューム、スミスらの人間
へーゲルのあの思弁的展開
典は、哲学史的知識を豊富にもち、
を詳しく知りたいという読者には、 もの足りないかもしれない
ロック以来の経験論や市民
思うに、イギリスでは、ホッブズ、
社会論、社会思想の伝統があるし、
論の伝統もあるので、社会哲学や人間論.宗教論における叙述
は豊富で厚く、参考となる。これにたいし、論理実証主義以来
の分析哲学二己語哲学の伝統のなかでは、おのずと弁証法的論
理学やその他弁証法関係の説明は弱くなるのだと恩う。その点
で、弁証法的論理展開はかならずしも十分ではない。
さて・読者のために付けられた二つの解説的な論文の内容は
どのようなものか。﹁へーゲルと彼の言語﹂の目的は、①へ1
.ゲルの著作と本事典を読むさいに前提となる、ドイツ語の文法
に一八世紀における発展について説明すること、③ドイツ語の
的特徴を解説すること、②哲学用語としてのドイツ語の、とく
へーゲル的使用の特徴、および哲学的ドイツ語への彼の貢献に
ついて述べること、である。こうした手ほどきはまさに必要で
あり一ここからまた、イギリスにおける哲学教育の充実ぷりが
想像できた。残念ながらここで詳細に述べられないが、へーゲ
ルの言語H概念をめぐるインウツドの議論は、私にとつてとて
496
も魅カ的なものである。
ろである。へ−ゲル弁証法の妥当性ないし有効性は、まずここ
ヘラクレイトスと違い、へーゲルはたえまない流動だけでなく、
でためされてきた感がある。インウッドはここで、二ーチェや
む悟性を正当に認めたという。これは妥当な指摘であろう。た
事物の存在︵有︶を、つまり事物の相対的安定性とそれをつか
はない。そこでは、へ−ゲルに連なる過去の哲学者や、へ−ゲ
比較的短文である﹁へーゲル入門﹂も、初学者にとって悪く
ルに影響を与えた近代と同時代の哲学者に幅広く言及される。
だし彼は、有から無への、詑弁とも見える論理をあまり詳しく
ただここで気になることは、﹁彼の生涯の詳細は、個別的には、
彼の思想には無関係だ﹂︵ε︶とあるように、へーゲルの生涯
﹁概念︵8昌①9︶﹂について、インウッドは充実した理解を示
は説明していない︵堂R︶。ところで、大論理学の対象である
している。彼はけっしてそれを類概念や共通的普遍性などの形
は比較的平板であり、彼の生涯のでき,ことは、彼の哲学形成に
に究明したように、へーゲルの友人の多くにフリーメイソンの
式的概念へと歪曲していない。へーゲルの概念は、①直観、感
あまり重要ではないと書かれてあることだ。だがドントが執勘
会員がいて、彼を援助したのであり、彼もその一員だった可能
^’︶
性があることなどの事実が最近、明らかとなってきている。そ
してまた、彼がフランス革命から一九三〇年の七月革命やイギ
れ対比されるという。その後、概念は自我の構造を表すものと
実現としての客観性と、④概念論内部で判断、推理と、それぞ
指摘され、さらに対象を構成するものとしての概念がいわれる。
性、表象などと、②論理学内で有︵存在︶、本質と、③概念の
リス選挙法改正にいたるまで、社会問題に強い関心をもってき
たことは事実であり、そうした現実的関心はへーゲル哲学と切
さらにへーゲルによれぱ、直観や知覚は、深く概念負荷的
︵8昌名二ぎ彗︶である。つまり、直観や知覚という単純に
弁証法的概念の中枢である﹁矛盾﹂にかんしては、矛盾対立、
的概念を過不足無くしっかりとまとめている。
表現する︵㎝o.R︶。以上のようなインウッドの解説はへーゲル
﹁理論負荷的﹂ということぱを連想させる。また概念は自由を
響されているというのである。この指摘は、科学史における
見えるものも、実は特定の概念的枠組みによってすでに深く影
り離せない関係にあるのではないだろうか。
四 各項目の説明1①
以下まず、弁証法、論理学、認識論、意識論などの抽象的な
テパマにかんするものをいくつか考察し、その後、実在哲学な
どの具体的テーマ、さらに人間論、文化論、宗教論などのテー
マにかんする項目を検討して、上述の特色を浮かび上がらせた
﹁有・無・成︵σ9自困﹄O;旨Oq彗ασ①8昌一轟︶﹂は周知のよ
実しているとはいえない。カントやフィヒテらの哲学史的前提
ない。さて、﹁弁証法﹂については、意外と叙述が少なく、充
へーゲル的トリアーデ︵三分法︶をはっきり構成しているとこ
反対対立などについて言及されたりするが、あまりつっこみは
㌧
うに、へーゲル大論理学の冒頭に出てくる概念であり、しかも
497
評
書
(119)
平成7年(1995年)4月号 (120)
第113巻第4号
一橋論叢
の構造などの叙述は扱われない︵。。−R︶。﹁推理・三段論法・
発展については適切にも言及されるが、大論理学末尾の弁証法
や、悟性−否定的理性−肯定的理性という﹁論理的なもの﹂の
リシャ語、ラテン語にそくしての、この両語の意味の変転の説
性と悟性︵冨畠昌彗o⋮ま﹃g彗2目oq︶についていえぱ、ギ
る。妥当であり、そのほかの説明も参考になる︵N違声︶。﹁理
によって産出されたり、それに依存していること、があげられ
上っておこなわれており、バランスが悪いといえる︵M亀R︶。
明が豊富になされるあまり、へ−ゲル固有の意味の解説がはし
結論︵巨︷彗昌8一昌=O①日一ωヨOコ08;一島一昌︶﹂では、いわゆる
﹁三重の推理﹂が触れられていないのが残念である︵冨①申︶。
という項目を紹介しよう。ここでの叙述はとても印象に残った
最後に﹁認識と承認︵篶8智三昌彗﹂竃斥昌ξ一&鷺目雪一︶﹂
インウッドはイギリスの言語哲学の影響もあってか、上述のよ
﹁言語︵一彗窪品①︶﹂という項目は充実していて輿味深い。最
ものである。ドイツ語の彗ぎ昌彗︵認識する︶にぴったり対
うに、へーゲルのことぱに深い関心を寄せており、この点で、
初に、なぜへーゲル哲学で言語が明瞭な位置をしめないのかと
応する英語はないが、あえていうと、篶8oq邑塞になる。この
ことぱは実は、認識するという意味と、さらに認知する、承認
いう問題に答えている。その答えは、①弁証法というものと同
じく、言語は哲学全体に属し、その特殊部分に属していない、
をふまえて、インウッドは篶8①qユ篶の五つの意味として、
するという広い意昧をすでに含んでいる。こうした言語的背景
①ものや人をそれとして同定化する、②自分の誤り、真理など
②いかにして言語が発生したのか︵ルソー、ヘルダー、フィヒ
③一言語の差異などの問題は経験的探究の問題とされ、またへー
o&o︶、④ものやひとを社会関係のなかで実践的な意味をこめ
を理解する、③ものやひとをそれとして認める︵ぎ邑戸o昌−
テらの問題提記︶という問題を、へーゲルは提出しなかった。
せた、ということである。いうまでもなく、言語を具体的に論
つながる︶、⑤ひとに特別な仕方で注意を払う︵ぎ冒昌の意
て認知し、承認する︵①邑o轟p冨葦︸一署召oく①などの意昧に
ゲルはことぱに具体化された論理的カテゴリーにこそ関心を寄
じた﹃エンチュクロベディー﹄四五八節以下についても、象徴、
と展開されており、両者には興味深いズレがある。実はインウ
ソドは、へiゲル固有の相互の承認行為をまともには扱ってい
学にあるように、物の認識から対人関係的場面での相互承認へ
、 、 、 、
○昌oの意昧をもつ。以上の説明では、私的場面から公的・社
会的場面へと段々と移行しているが、へーゲルでは、精神現象
自彗に対応するが、③以下はすべて彗①鼻①;彗一曽ぎ〇三−
味にもつながる︶、をあげる。上記①、②はドイツ語の雪斥竃−
記号、記憶、象形文字とアルファベッドなどとともに言語が解
説される。最後にはデリダのへーゲル批判にまで言及される
︵旨↓申︶。
﹁措定と前提︵OOω三長嘗O召O彗毫畠=一昌︶﹂などという
﹁或るものが措定される﹂の意味として、①種子において内含
扱いにくい項目もあるが、すぐれたものといえる。そこでは、
ように、外部へ向かい顕在化すること、②或るものが別のもの
的︵;呂o6なものが植物として顕在的︵異呂o5になる
498
(121)書
ない。さらにインウッドは、へーゲルにない論点として、心身
問題︵心と身体はいかにして相関し、対応するか︶、他我闇題
︵私の意識から他人の存在と意識をどう再構成するか︶などを
司o﹃Oq=ωo戸向ω閉画くωoコ一す蜆=床一〇﹃︸ohO−く=ωOo7ドき−↓①↓ーの
巨Hoq睾=o訂o窃竺ω争與饒のことぱの流布にかんしては、>。
昌gξ−昌笑ぎoqよりもo巨昌oo萬四冨にたずさわったこと、
済の規模がまだ小さく、家計、家族と区別されず、成人男子が
ーゲル以前で市民社会が国家と区別されなかったのかを、①経
独訳︵ミ雷︶の影響が大きいと指摘される。そのあと、なぜへ
われており、理論的聞題とされていないという。まことに興昧
②市民革命以前の状態では、政治が主従関係の社会生活と区分
出しており、へーゲルでは、他者の問魑が実践的場面でのみ扱
ーゲルにたいしおおいに異論をはいている︵違蜆R︶。
深いことに、ここではインウソドはイギリスの哲学者としてへ
その基礎をなす﹁精神︵ω旦﹃5﹂を見ると、通例の精神の
弁証法、論理学などのものより充実しているように思われる。
実在哲学、さらに人間論、宗教論などの項目についていえぱ、
養形成の構想が丁寧に、幅広く考察され、さらに、へーゲル的
;ミール﹄に始まり、へiゲル以前およぴ同時代の教育、教
﹁教養形成と教育︵昌=昌①彗O&昌き昌︶﹂では、ルソー
R︶。
されたことなど、三点にわたって述べており、参考になる︵3
では、国家の役割が市民間の経済関係を容易にすることに限定
されなかったこと、③近代の多くの政治理論とくに社会契約説
意味が﹁精霊﹂という段階から、﹁ものの内面的意味﹂という
五 各項目の説明1②
段階まで手際よく一〇に区別されており、わかりやすい。さら
いう段階から、﹁宗教上の神、精霊﹂という段階まで九つにわ
が示され、正当である︵竃R︶。﹁死と不死︵o雷;彗三ヨヨo﹃−
状況へと陥り、そこから調和的融和へと弁証法的にいたること
な里巨⋮oqでは、フランス的な啓蒙とも、ゲーテの古典的ヒ
ューマニズムとも異なり、自然的な状態から必然的に、疎外の
にへーゲル自身の精神の意味も、﹁自然と異なる人間精神﹂と
であることに言及されない。これにたいし、﹁自然と自然の哲
邑一q︶﹂は四頁近くスペースをとって論じられており、私に
たって平明に説明される︵MミR︶。だが、精神の本質が自由
ソドが自然哲学にあまり関心をもっていないことがわかる
学︵冨巨冨彗O昌=O閉εξO︸冨三富︶﹂を見ると、インウ
とっても参考となった項目である。とくに彼は、へーゲルにと
ってソクラテスとキリストという二人の偉人の死が問題とされ
たとする。キリストの死は深い神学的意昧をもち、彼の死と復
︵屋ミ﹁︶﹁機械論・化学論・目的論︵ヨ8す彗赤;oま目尿昌
昌O邑8一〇〇qく︶﹂という項目もあるが︵屋−芦︶、自然哲学に
チェを先取りしているという。インウッドはとくに個人の魂の
活は﹁死の死﹂︵否定の否定︶と規定される。﹁神の死﹂は二−
不死の問題に触れ、へーゲルがこの問題にほとんど関心を抱か
関係する項目はあまり目立たない。
ドにとづてお手のものだろう。彼は語源的説明のなかで、
さて、﹁市民社会︵〇三一眈OqOξ︶﹂という項目は、インウッ
499
一橋論叢 第113巻 第4号 平成7年(1995年)4月号 (122)
ゲルが魂の不死を肯定したと見るのにたいし、フォイエルバッ
富に採用したことの意義は大きいと思われる。
想状況のなかに堂々と位置づけ、語学的ないし言語的説明を豊
版社、一九八六年。
︵2︶ 張世英編﹃黒格ホ︹へ−ゲル︺辞典﹄上、吉林人民出
㊤一
︵1︶ 甲9o鼻烏■寒㌣卜§き§一︷︸ま一ω言茸霊ユ冨ω甲
なかったという。こうしてゲッシェルやマクダガートは、へー
ハやコジューヴはその問題がへーゲルの体系と合致しないとい
ろう。インウソドは最後に、へーゲル哲学が魂の不死の考えと
う。これはへ−ゲルの宗教解釈から必然的に発生する論争であ
一致しない七つの理由を詳論しており、まことに興味深い︵昌
︵3︶﹃恩想と現代﹄三〇号、白石書店、一九九二年
声︶。
﹁定め・運命・摂理︵3貝箒娑ξ彗O肩〇三旦彗8︶﹂もま
島訳︶未来社、一九八○年、とくに三六〇−三七八頁を参
︵4︶ ジャック・ドント﹃知られざるへーゲル﹄︵飯塚・飯
照。
た、短文ながらきわめて充実した、深い内容を示している。こ
ウソドは関連する用語を細かく、雰娑ヨヨ昌oq︵使命︶、o鶉争−
トとして使用している。一項旦二、四頁で読み切りであり、
この事典を私は現在、三、四年生のゼミナールのテキス
こではまた、ドイツ語と英語の対応上の困難が生ずるが、イン
ざ河ωo彗宍竃一︵運命︶、憲;∋︵宿命︶、く雪霊畠三蜆︵悲運︶
であるので、ち上うど一回のゼミで一項目を終了できる。
しかも専門書ほど内容的にむずかしくはなく、英語も平明
と分け、へーゲルの運命論を簡潔に説明する︵−昌R︶。﹁戦争
と平和﹂では、へーゲルが戦争の倫理的意義を強調したことな
インウソド氏から経歴などの自己紹介の手紙が届いたの
︹付記︺
のだと内心、評価している。
なども十分につけて報告する。彼らの努力もなかなかのも
学生諸君は毎回きちんと訳を溝書してきており、参考資料
たっているので、哲学入門としても適当なものであろう。
しかも単にへーゲルにかたよらず、哲学・思想の全般にわ
どが触れられたあと、へーゲルの戦争論が延々と批判される
︵ω畠甲︶。宗教関係では、﹁神とキリスト教︵OO旦彗ρO∼華㍗
は、①歴史上のキリスト、②自然的世界、③ヨハネ福音書のロ
彗一昌︶﹂などという項目があり、﹁神の子﹂のもとでへーゲル
ゴス︵父なる神の﹁永遠の子﹂︶を考えているという指摘が印
内容をなるべく盛り込むという点ではもの足りないという印象
以上のようにして、インウッドの事典には、スタンダードな
ンにて生まれる。オックスフォードのユニヴァーシティ・
で、それによって氏を紹介する。氏は一九四四年、ロンド
象的だった︵二讐c。
もないわけではないが、個人著作としては力作であろう。また、
カレソジにて人文科学およぴギリシャ、ラテンの哲学一歴
いうそうつっこんだ弁証法的展開がほしいという気がしないで
もないが、へーゲルをギリシャ以来の哲学史および同時代の思
500
史学を学ぷ。一九六七年からトリニティ・カレッジの特別
研究員およぴチューターとなり、現在にいたる。専門分野
は幅広く、古代ギリシャ哲学、道徳哲学およぴ政治哲学、
形而上学、認識論などである。業績は以下のとおり。
鳶呉宛昌巨&oqo彗α宍品印コ霊旦Loooω一き零、ω色8−
ごo畠一⋮害ζ⋮軸貝毒oo⑩一き零豪ぎ、さ&§δミト8§ミ吻
旦一﹄oごO目凹目︷09自目−o目片與H︸一︺︸=︷≡ωo−い︸o目oq一ヒ目O壷閉−
§ト蕩きミ鼻ぎ︸易昌o冨一、ω↓轟冨5巨op三;彗−目弓o−
色8L竃ω.
︵一橋大学教授︶
501
評
(123)書
Fly UP