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Title 唐代の市制と行 - Kyoto University Research Information

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Title 唐代の市制と行 - Kyoto University Research Information
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唐代の市制と行 : とくに長安を中心として
佐藤, 武敏
東洋史研究 (1966), 25(3): 275-302
1966-12-31
https://doi.org/10.14989/152731
Right
Type
Textversion
Journal Article
publisher
Kyoto University
5
7
2
代
:
ヵ
制
その性質が把握し難いことであ
と考えられる。本稿は、唐代の長安を中心にまず市場の位
あり方や行の性質なども或る程度究明できるのではないか
市場管理の制度や貧態を考察することを逼じて都市商人の
度に闘する史料はかなりったえられている。そこで園家の
る。ところがこれに劃して市制つまり園家の市場管理の制
史料がきわめて乏しく、
問題であると思う。ただ遺憾なのは、惰唐時代の行関係の
①
中園のギルドの起源を追求する上においてきわめて重要な
れ迄の研究で明確になったとは必ずしも考え難い。これは
どういう種類の共同行局なのか、という黙については、こ
たものなのか、もし後者とすれば、どういう性質の園鐙、
いのか、それとも何らかの圏慢を結成し、共同行震を行っ
ある。皐に同業者が庖舗を並べていたということにす、ぎな
敏
行
ー!とくに長安を中心として││
市の商業は、市と呼ばれる一定の場所で園家の管理の下に
行われたが、唐代の中葉以後、この市制は次第にくずれ、
栄代に入ると、都市の商業は必ずしも一定の場所に限定さ
れず、また都市の商人たちは行と呼ばれる相互扶助的な機
能を有する圏鐙つまりギルドを結成するに至った、という
﹂とは今日大僅定説となっている。ところで行なるものは
決して宋代に始まるのでなく、惰代にはじめてあらわれ、
武
と
唐代には多くの都市に設けられていたようである。そこで
藤
市
一種どういう性質のものであったか、 ということで
佐
の
き
中園においては、 ほぼ先秦時代から唐代にかけて主要都
し
問題となるのは、こうしたいわば市制下にある階唐時代の
行は、
- 32-
唐
~ì
についてのベ、最後に圏家の市場管理の衰退に伴い、行は
置と構造を明らかにし、次いで圏家の市場管理、行の性質
一門、定四面街各贋百歩、北街嘗皇城南之大街、東出春
南北居二坊之地、
まず東市について、
﹁長安志﹂容八東市の僚に、
どうなっていくか、という問題にふれてみたい、と思うの
明門、贋狭不易於蓄、東南及南面三街向内開壮、蹟於奮
集、高年廓戸口減子長安、文公卿以下民止多在朱雀街東、
@@
街、市内貨財二百二十行、四面立邸、四方珍奇皆所積
(註日﹀東西南北各六百歩、 四面各開
である。
市の位置と構造
東西ほぼ封稽になってレることから、晴唐長安城の市の原
封稽になっている。岡崎敬氏は北貌の洛陽の大市と小市が
その位置はそれぞれ皇城の東南と西南にあり、南者は東西
大興城の都曾市、後者は利人市をうけついだものである。
他、周圏の街道の幅についてもうニ貼﹁長安志﹂の誤謬を
及南面三街向内開壮
面各開二門﹂とし、﹁東面及南面三街向内開壮﹂を﹁東西
志 L とほぼ同様の文を記しながら﹁四面各開一門﹂を﹁四
ある。徐松の﹁唐南京城坊孜﹂巻三東市の僚は、﹁長安
と見える 。 ただしこの文には-誤謬と思われる駐がいくつか
.
第宅所占動貴、由是商買所湊多野西市、 .
型と推測されているが、 おそらく安嘗であろう。ただ注意
指摘している。
﹁長安士山﹂によると四面の街は各
L としている。足立喜六氏は、以上の
一つは、
3ー
- 3
唐代長安の主要な市は、東市と西市であり、前者は惰の
しなければならないのは、北貌洛陽の大市・小市は城外に
②
位置し、惰唐長安の東市・西市は域内に位置していた、と
康百歩となっているが、南面は百歩、北面は九十一歩、東
@
いう黙である。こうした市の位置の繁化の意味について
西は各百二十五歩であること、もう一つは上のこととも開
@
狭不易於奮﹂とされ、市の北街は百歩で、それから、東、
﹁長安志﹂によると﹁北街:::東出春明門、廉
事貧が剣明したし、また文献のったえと若干喰い遣いもあ
春明門に出るには康さは蓄のようにやはり四十七歩であ
次に構造については、近年調査護掘が行われ、新らしい
るので少し詳しくふれてみたい。
連するが、
は、私はすでに別稿において論じた。
6
7
2
る、と解されるけれども、それは不嘗で春明門街も市の北
街と異なることも相違しているし、 また幅も相違してい
百歩ハ一四七メートル)としているが、北面が他の面の大
る。賀測の結果と文献の記載とを比較すると、寅測の結果
て OOO徐メートル、東西が九二四メートルとなってい
どについて寅測と調査が行われた。貰測の結果は南北が
生池の一部が稜掘され、
一九 六二年には市の形制と街道な
六O年、大佳の範圏がはっきりし、同年、東市東北隅の放
圏の街幅は、逆に貧測の方が文献の記載より狭い、という
韓の面積は、賞測の方が文献の記載より大きいが、その周
幅などは賓測の結果とかなり相違している。 つまり東市全
測と一致するが、南と東・西が異なることや、東西南北の
五メートル)とな っており、北面が最も狭いとなす黙は賓
-七七メートル)、東・西いずれも百二十五歩(一八三・七
る。足立氏の修正設は、南面百歩、北面九十一歩(
街と同じく百歩に近いこと、なとをあげられている。
@
では東西と南北とで長さが少し異なり、巌密な正方形をな
結果になっている。 次に東市の内部については、 徐松の
東靖はわずか中部の北よりの方に一二O蝕メートルが残っ
部の塘基が残っているが、西北角と西南角の保存が良く、
次に調査の結果によると、市の四面は楕に固まれ、今日
メートル)より大きいこと、などが明らかにされている。
歩は一・四七メートルとされているから、六百歩は八八二
だったことを示すものであろう。北街が西街と交文してい
れは﹁長安志﹂にも見えるように東市より西市の方が調密
街幅は三0 メートル近くで、西市の街幅の倍位である。こ
中、西街の北部と南街の西部とが行われただけであるが、
て内部は井字形ということになる。 調査は市内の街道の
いるから、東西と南北にそれぞれ二街道があり、 したがっ
﹁長安志﹂の修正設によると、
4ー
- 3
さて東市の遺蹟は、一九五九年に調査が開始され、一九
さないこと、また雨迭の長さは、文献の六百歩(唐代の一
ているだけである。格基の厚さは六l 八 メートルで、西市
る十字のところは、東西八O徐メートル残っている。東街
﹁四面各開二門﹂とされて
のそれよりは厚い。東市の四面の大街の保存は良く、東
はほとんど破壊されている。しかし西北十字の位置から見
@
西・南の三面の街幅は皆同じで一二二メートル、北面は春
明門街が幅一二0 メートルとなっている。
﹁長安志﹂は各
7
7
2
﹁長安士山
L巻十西市の僚に、
れば、東市も西市と同じく四僚の市街であゥたことは疑い
ない、と推定されている。
次に西市については、
南北登雨坊之地、市内有西市局、ハ註日﹀隷大府寺、市
内庖躍如東市之制、長安蘇所領四蔦徐戸、比高年魚多、
浮寄流寓不可勝計、市西北有池、長安中、沙門法成所穿、
位。市の四面の門は破壊されてあとをとどめていない。市
の四面の各街は、西面の大街の西漫の残存部分の幅が九四
メートル、 東街が 一一七メートル、 南街が二一O メlト
ル、北街(金光門大街﹀が一二0 メートルとなっている。
西市の内部は、橋の内側に塘に沿うて卒行に街道が走って
いる。街の幅は一四メートル位。市内には南北と東西に走
る街道がそれぞれ二篠あり、四街が交叉して井字形をなし
ている。街の幅は二ハメートル。南北二街の間隔は三O九
メートル、東西二街の間隔は三二七メートル。北の街道は
市の北塘から一ニ三六メートルのところにあり(沿塙の街道
- 35-
支分永安渠以注之、以魚放生池、:・・:
@
を含む、以下同じ)、東の街道は東清から二九三メートルの
ところにある。街の雨側には水溝がある。以上のように市
の内部は四僚の街が交文し、市は九個の長方形から成立つ
ているが、中央の部分は東西二九五メートル、南北三三O
ここは市署・卒準局のあとと推定されてい
る。その他の長方形の街に面した部分に庖舗が設けられた
ょうである。というのは、街に臨んだ部分の房祉が比較的
メートルで、
東西九二七メートルであることが判明した。
調密だからである。なお長方形毎に小さい巷這があり、内
部の通行に便になっている。また巷遁の下に碍で築いた下
-F
これは東市と大差がない。市の北と東の雨面には版築の
圏堵のあとが残っており、塘の厚さはいずれも四メートル
初大睦正方形で、長さ・幅各約一、 O玉0 メートルとされ
-、 甲
p
一九六一年の再調査の結果、東市と同様南北が
寸L 争 れ カ
‘
、
、
、
、
長く、東西が短い長方形を呈し、南北一、 O コ二メートル、
六0 ・六一・六二年にわたり中園科皐院考古研究所の手に
よって調査護掘が行われた。西市のプランについては、最
トル徐の鹿家橋と東桃園村との間にあり、
ところで西市の遺蹟は、吟日の西安城の西南一キロメー
一九五九年から
る
と見える。西市の形制については、東市と同じとされてい
8
7
2
2
7
9
水道があり、それは大街の雨側の溝に通じている。市の直
劃・配置・排水など大第完備していたことがわかる。
要な黙について簡単に見ておこう。
護掘地黙は西市の南街東端の南側の一部分。ここは
一九六O年に護掘されたが、注目されるのは、道路・居住
の路面が設見され、それぞれ唐代晩・中・早期のもの、
推定されている。 その中、 早期のが比較的よく残ってお
り、底を石で埋めた後、土をつき固めたもので、きわめて
固く、路幅は一六l 一八メートル。この中、車馬遁の幅が
一四メートル。車轍のあとも護見されたが、幅約一・三メ
ートル。路の南側に各三0 センチ(断面牢月形)のふたの
ない嘩怖があり、これは排水溝である。この溝の外側にまた
一メートル幅の歩遁がある。次に居住祉も三層、 いずれも
破壊がひどく復原が困難とされている。ただ早期の路面の
三彩陶器の破片、 大 量 の 査 碗 ・ 盆 な ど の 破
雨側から南北相劃する居住祉二つが護見され、そこから碍
瓦、盆、曜、
片、開元通費・乾元重買などの銅銭、少しばかりの織塊が
出土、 さらに居住社内から石臼・石杵、南側の街に臨んだ
地面から小園坑数個が瑳見されたが、飲食業を経営したと
ころ、と推測されている。次に排水溝は、土でつくったの
-3
6一
ところで西市は一九六0 ・六一・六二年、若干の地黙が
---蹄
と
祉・排水溝・固形建築などである。道路は上・中・下三層
一一培
設掘調査され、 さらに新らしい知見がもたらされたが、重
長安西市遺蹟卒面圃
① 一 九 六 O年 設 掘 地 鮎
②一九六一年設捌地鮎
@一九六二年波掘地鮎
@
地面(中期の地面)より一・三メートル位低く、形は雨者
に属している。次に固形建築は二つ護見され、底は嘗時の
は早期の路面の南側に沿い、後者は晩期の路面と同一時期
と噂でつくったのと雨種あり、いずれもふたがない。前者
溝口と溝底の幅は一・一五メートル、深さは0 ・六五メ l
噂が用いられ、底にも卒らに素面の方碍がしかれている。
﹂とになっている。 ところが晩期の溝の雨壁には長方形の
られ、木板の外にたてに柱が立てられ、溝壁の崩壊を防ぐ
ぺ 上 ロ の 幅 が0 ・九メートル。溝の南壁には木板がつけ
y
南者とも物を儲醸したとこ
溝口と晩期の街面は卒らである。居住祉は街の南遁(水
J
o
トレ
,
大韓同じで、 口大・底小。東の一瞬は口径四・四八メ lト
jIF
。
ル
ル、底径は四・ O 八メートル、東の二践は口径五・五メ l
トル、底径五・一メ
の土塘基、居住地面、仕跡などが残っているだけ。居住祉
車問の南側﹀で一部が護掘されたが、保存が良くなく、
の規模は大きくなく、最も長いのさえ一 0 メートルに達せ
ろ、と推定されている。
ω
OOO徐
卒方メートルが護掘されたが、注目されるのは街道・水溝
ず、大鐙三間位。最小は四メートルばかりで一間位。奥行
は、前年の護掘のときと大瞳同じである。このときの護掘
褒掘され、居住祉が護見されたが、街の南側の水溝の情況
7ー
3
~
護掘地貼は北街の中部。 一九六一年にて
-居住祉など。 北街の街道は三O徐メートル護掘された
は多少はっきりしているところで約三メートル。居住祉の
離は嘗時の庖舗の前の歩道と考えられている。
を復原すればその距離は二メートルばかりである。この距
北側はくずれた水溝から一メートル位の距離にあり、水溝
が、幅は一六メートル。街面は南側の居住祉面より高く、
路土の厚さは一メートル絵。これは最初の路面より,次第に
街上には車轍のあとがあり、幅はすべて一・三五メート
多く破壊されているが、北側がかなり良く残っている。水
護掘地黙は西市の中部の南側。ここは一九六二年に
溝は早・晩雨期つくられたようで、早期の溝は狭く、晩期
は文献に市署の前に位置していたとされる大衣行をさがす
ル。次に水溝は街の南側に街と卒行して設けられ、南側は
部
の溝の下にある。 早期の溝は、 底の幅が0 ・七五メ lト
)
3
(
積まれたからのようである。
0
8
2
1
8
2
品など が出 土しているところから珠賀商の遁祉かも知れな
品(硫・叙・奔・文様を刻した骨飾)、珍珠、薦問咽、金飾
ためであったが、大衣行は護見されず、大量の骨製の装飾
史的嬰遷にもとづくものがなかったかどうか、今後さらに
となっている。そこで貫測の結果と文献との喰い遣いに歴
四年十二月、致東市東北角道政坊 西北角以庚花奪棲前地﹂
の傑では、
﹁宮之西南隅日花尊相輝棲﹂の註に﹁開元二十
ぃ、と推測されている。
市の内部の
γ及び大きさが文献のったえと多少相違していること、制
に直劃されている黙である。唐代長安の貧測の結果は、巌
構造上の特色は、外形は方形で、内部は街によって井字形
ところで文献並に考古準的調査を遁じ一致している市の
検討を必要とするであろう。
市がいく度かつくりかえられていること、川刊
密な正方形でなく、東西より南北が少しばかり長い長方形
市のプラ
具健的情況、以上三貼が新らしく明らかにされたこととし
さて右のような調査護掘の主要な成果は、川刊
てあげられるであろう。仰の調査の結果と文献の相違につ
となっているが、市の形制を方形とするのは先奏時代以来
一夫に劉
いが、漢代の長安についてはコニ輔黄圃﹂長安九市の僚に
こかの都市で行われたことがあったのかど うか明らかでな
する鄭玄の注は﹁方各百歩﹂となっている。これは賓際ど
﹁周躍﹂考工記匠人に﹁市朝一夫﹂と見え、
都の場合は漸次その規模が大きくなってきてレるようであ
の古い博統をもっている。ただ時代が下るにつれてとくに
いて、調査を捻嘗した人は文献は大健の数字を記したも
の、と考えている。貫測と文献のったえの相違は、長安の
場合、市だけに限られず、外郭城、宮城、皇城、坊、街幅
などにわたってい旬。文献の数字が全観的に精密のもので
ないことが察知される。しかし考古拳的調査の結果にも多
少問題がある。たとえばそれによると、市の内部がいく度
かつくりなおされていることを明らかにしているが、外形
﹁周廻八里﹂となっており、
北謀洛陽の大市については、
﹂れは一途二里の正方形とい
寸洛陽伽藍記﹂巻四城西では
﹁長安市有九、各方二百六十六歩﹂と見えてレる。さらに
たとえば東市の東北角は、輿慶宮の横張工事によって削り
とられたという記事がある。
﹁唐雨京城坊致﹂巻一興慶宮
については鑓化がなかったようにつたえている。ところが
る。
ηJ
。
。
う意味であろう。また唐の杜賓の﹁大業雑記﹂大業元年の
僚によると、晴代洛陽の豊都市も周園が八里だったようで
管
﹁
園の古代において賓際行われたことがあったかどうか明ら
Eh--h
当、
、手
、
カ吋fねしカ 市場を井字形に直劃する設があった。
晶
、
子﹂小匡篇に﹁慮商必就市井﹂と見え、唐の予知章は﹁立
市必四方、若造井之制、故田市井﹂と註している。ただこ
のように市井ということばは、市の形制をあらわすもの、
易が行われたからである、としている。しかし私は予知章
言市井﹂と見え、市井ということばは古く井戸の近遣で交
﹁古人未有市及井、若朝栗井汲水、便貨物於井漫貨貰、故
﹁史記﹂卒準書の正義には
﹁公羊停﹂宣公十五年の何休の解詰には﹁因井
れに射し、
@
ある。ところで﹁長安志﹂などに見える唐代長安の東西市
は、方六百歩とされているが、六百歩は里になおすと二里
にあたる。とすると、唐代長安の東西市の外形の原型は、
以篤市、 放日市井﹂ と見え、
﹁東都豊都市、東西南北、
⑫
位置と同様に北親洛陽の大市あたりにもとめられるのでは
なかろうか。ただし内部の構造については問題がある。北
﹁南京新記﹂には、
と考えたい。 つまり古代において地割は耕地だけでなく、
- 39-
貌洛陽の大市の内部は明らかでないが、晴代洛陽の豊都市
について、
居二坊之地、 四面各開三門、邸凡三百一十二面、責貨一百
都市の市においても井字形に行うという思想があり、こう
した思想にもとづいて唐代長安の市の内部が直劃されたも
の、と推測されるのである。ただ長安の東西市とほぼ同じ
大きさをもっ惰代洛陽の盟都市が、長安よりさらに多くの
とであろうか。或は洛陽の盟都市の方が嘗時の商業費遠の
九僚の街道により直劃されていたということはどういうこ
の植業市は周園四里、四門を開いていたとされているか
ら、この市の内部は、街道が十字形に交文していたことに
忠貧に設計されたとも考えられる。ただ私はこのことが摘
賞情に即雁して設計され、長安の方が古代の市制の思想に
に直劃されていたことは濁特の制度のようである。ただ中
なる。このように見てくると、唐代長安の東西市が井字形
本、南北三本の街道が交叉していたことになる。また元の
﹁河南志﹂巻二ロル一城門坊街隅古跡の僚によると、階代洛陽
いる。各面三門、全部で十二門というから、内部は東西三
行﹂と見え、 ﹁大業雑記﹂大業元年の僚には、﹁(盟都市﹀
周八里、通門十二、其内一百二十行、三千徐擦﹂と見えて
2
8
2
唐長安において始めて寅現したのではなく、北貌洛陽にお
いてすでにそのようであったのではないかと推定してい
る。この黙は前述のように何ら史料的根擦がないのである
が、長安の東西市の位置の劃稿、外形と大きさが北貌洛陽
江
川
明
止巾
次に長安の市の運営とくに園家管理の制度と貫態につい
て考えてみよう。
長安の東西市を管理する官署は、 市署と卒準署である
が、この二署は太府寺に属する。 市署に属する官吏を、
を原型とすること、 また惰唐の均田法は北貌の均田法を原
型とし、それらは古代の井田法と何らかのつながりをもっ
﹁大唐六典﹂
と、次の通りである。
:
1
:
1
語
1
1
蓬
「
三
三
τ
グ天皇(
﹁奮唐書﹂﹁新唐書﹂にしたがって表示する
のではないか、 と考えられること、 などの理由による。
要するに惰唐長安の市は、位置のみならず構造の貼でも
上人
-7天再「一
らないが、これは﹁長安志﹂などに見える西市の護達を示
する。排水溝以外については今後の調査にまたなければな
のものより晩期のものが立涯になっていることは注目に値
卒準署については、
るったえは、三つの史料同一といってよい。ところが衣の
であろう。 したがって市署の官名、定員、官位などに闘す
以下を記していない貼である。
﹁大唐六典﹂
﹁欝唐書﹂
﹁新唐書﹂一一一
﹂れは記載を省略したもの
すものであり、 また唐水部式残巻では京域内や羅郭の摘は
グ天音│
者のったえは同じでない。三者を表示すると、・次の通りで
7
それぞれの坊が修理するとされていることから考え、排水
上人
ある。
構造はほぼ同一になっていることなどの若干の改革が見ら
設展に伴って長安の市は城内に移り、東西南市の大きさ、
れることを明らかにした。なお長安の市が時代により費遷
i
﹁大唐六典﹂が他の二書と異なるのは、丞迄記し、録事
北親洛陽の大市・小市を原型としていること、ただ経済の
六各
l
従令
1
1
-4
0一
市
容│容│ご
四回出
十 i十 │ 旬
があることも重要な問題であり、とくに街の排水溝は早期
志
雪
│
喜
雪1 ~更
八, 1四, 1ー
百新l職 替l
エ2
官唐i
官唐 1 1会
溝の改善は市の商人たちにより行われたと推測される。
銘3
官書官劃六
I典
I志L
志L
制 三 容I L
四回省
全
庁
人
軍
逗
│
グ
l
_
1
:
:
;
1
_
品目
下人
三史
人
I
!
人十!
従監│従監
九事
九 事│
品六
品二l
﹁嘗唐書﹂では
らに﹁新唐書﹂では太府寺所属の官署が七署とされ、卒準
二人としている。南者の記事は明らかに相違している。さ
六典﹂は六人の定員としているのに割し、
固などが見えていない。これは或は市署の場合と同様記載
を省略したとも見られる。しかし監事については、﹁大唐
唐六典﹂には﹁奮唐書﹂の録事、府、史、典事、買人、掌
三者中、最も官名の多レのが﹁嘗唐書﹂の記事で、
八新│四醤十大
職閣唐
百唐│
準暑は、時代により官名、定員などに饗動があり、そこで
京都諸市令掌百族交易之事、丞魚之露、凡建
標立候、 陳感排物、 以二物卒市、 以三買均
市、凡輿官交易及懸卒臓物並用中賀、其造弓
矢長万、官鶏之立様、何題工人姓名、然後聴
曹之、諸器物亦如之、以偽濫之物交易者渡官、短狭不中
量者還主、凡貰買奴蝉牛馬用本司本部公験以立券、凡貰
買不和市権園、及更出開閉共限一債、若参市而規自入者
並禁之、凡市以日午撃鼓三百盤、而衆以舎、 日入前七
刻、撃鉦三百聾、市衆以散、
この規定を分析してもう少し詳しく考えてみよう。
(市場の配置)
﹁陳態解物﹂は﹁周躍﹂地官司市の文と全く同じで、同
)
1 建標立候、陳建排物、
(
業の庖が並べられ、 商品毎に直別されるという意味であ
﹁周躍﹂司市ではその下に﹁而卒市﹂と見え、 ﹁陳捧
排物﹂の狙いが市場における債格の統制にあっ切とされて
また後に至り贋止されたため﹁新唐書﹂に記載が見えない
いるが、債格の統制については、唐では後述のようなさら
に詳しい規定がある。﹁建標立候﹂は、﹁新唐書﹂百官志
のではないか、と思われる。
は﹁諸市毎擦立標、題行名﹂となっている。市の慰には標
⑬
では﹁市建皆建標、築土魚候﹂となっている。また唐令で
﹁大唐六典﹂と﹁蓄唐書﹂との相違が見られるのであり、
人固
﹁大唐六典﹂には次のように
次に市署の職掌について、
見える。
1一
-4
重一一
一一ム
十費
ムーー
一一ム
十掌
る
i
一日主主
二典
大
二「
JI
:
:
:
十
11
:
:
:
十
」
暑が省かれている。これらは一位どのように解すべきか。
文献には何らったえるところがないが、おそらく唐代の卒
4
8
2
2
8
5
がたてられ、行名が記されていたようである。次に候は、
﹁以二法卒物﹂とあり、註に﹁一日度量度調分寸尺丈、量謂
が属する太府寺の職掌が﹁大唐六典 L に見えるが、それに
となっている。また
﹁新唐書﹂によると土で築くことになっている。これは市
機霊也、衡卒也﹂
唐令には﹁諸官私斜斗秤度、毎年八月詣金部太府寺卒校、
@
合升斗斜、二日権衡、
の篠には﹁市有候官﹂と見え、コニ輔責圃﹂では漢代長安の
不在京者、 詣所在州蘇卒校、 並印署、 然後聴用﹂ と見え
﹁周膿﹂地官遁人
市棲も市吏候墓のところとされているが、唐代では市署の
る。毎年一回入月、官私の度量衡を太府寺に提出し、その
擦を監視するものみのところであろう。
他に市建毎に簡単なものみが設備されていたようである。
検査をうけ、 スタンプをもらって使用がゆるされることに
なっている。このように見てくると、度量衡全般が太府寺
以二物卒市(度量衡の管理﹀
前項で見たように﹁卒市﹂は﹁周雄﹂司市では債格の統
さらにはそれに属する市署の管理下にあった、と考えられ
﹁新唐書﹂巻一六三柳仲野俸に、
の権量を置いて、交易にあたってはそれを使用させたとい
と見える。これは禽昌年聞のことであるが、東西市に園家
司史入粟違約、仲部殺而戸之、自是人無敢犯、
拝京兆晋ノ、置権量於東西市、使貿易用之、禁私製者、北
たとえば
制に用いられているが、この規定はそれとは異なり、度量
私は市署が管理するのは、量・衡もしくは度・量だけでな
衡が日常生活の物資と密接な関係があり、 かっ一不正が行わ
るが、この場合は全く禁止されている。
とがわかる。 ただ一般的には私製の度量衡が許可されてい
ぅ。穀物などの交易と関連してとくに擢量が重視されたこ
れ易か・ったため重視されたのではないか、と考える。市国有
問、東西市における私製の擢量がみだれたため特別の措置
おそらく曾昌年
の管理が度・量・衡全般にわたったことについては、市令
く、度・量・衡全般にわたるものであり、 またとくに量・
@
る。とくに量衡が重視されたことについては、
﹁大唐六典﹂の註には、﹁調秤以格、
衡の管理に闘する規定である。ただ問題となるのは、二物
ということばである。
⑮
﹁度量器物排其員偽軽重﹂
斗以概﹂となっており、唐令や﹁奮唐書﹂も同文である。
ところが ﹁新唐書﹂
見
と
ぇ、市署が管理するのは度量の器物となっている。 しかし
t
主
-42-
(
2
)
たことは、すでにのべたところであるが、 しかしこの私製
かということである。法制上私製の度量衡が認められてい
行においてそれぞれ度量衡を協定することがあったかどう
がとられたもの、と推測される。そこで問題となるのは、
の帳簿が作製されたとされている。三等の債格の貫例につ
ったとされ、
食魚下賀﹂としている。唐令では十日毎に三等の債格があ
買について﹁大唐六典﹂の註は、寸精魚上買、次篤中買、
は三買でもって市場の債格を統制することを意味する。三
次伍文
下拾伍文
下建文
三O 五四競文書﹀
(
下参拾陸文
下摩伯
三O 七ニ挽文書)
(
上直銭摩伯楽拾文 次康伯陸拾文
上直銭参拾伍文
上直銭参拾捌文 次参拾楽文
上直銭陸文
上直銭拾柴文 次拾陸文
ことを明示している文書を二三あげると、次の遁りである。
であるという。とくに三等の債格が行において寅施された
@
﹁新唐書﹂巻四八百官志では、十日毎に債格
の度量衡の軍位は、官製のそれと相違するものでなく、法
いては、仁井田陸氏が大谷文書から﹁債格表文書﹂として
⑮
で規定されているのにしたがわなければならず、さらに毎
約七十貼紹介しているが、これは天賓期吐魯番地方の史料
⑮
いた。しかし﹁新唐書﹂柳仲部俸の記事によれば、 おそら
曾昌の頃の市においては園家の度量衡と車位が相違する
ノh
菓子行
乾葡萄萱勝
私製の度量衡が使用されることがあったと思われるが、こ
うした私製の度量衡は個々の商人が不正に使用するという
大藁
米麺行
﹂とより、行の内部で慣習的に使用されるのが多かったの
ではなかろうか。北司への入粟は行の仕事であろうし、柳
仲郭の改革以前、北司の史は行の擢量を認めていたもので
自麺萱到
南練行
北庭麺壷到
壷
勝
大練壷疋
円
あろう。
以三買均市(債格の統制﹀
修品の交易を禁止することのようである。ところで唐代で
躍﹂の本文には﹁以政令禁物腰而均市﹂とあるように、率官
均市ということばも﹁周護﹂司市に見える。しかし﹁周
)
3
(
3ー
-4
年一回の検査があり、違反者に劃しては罰則が設けられて
6
8
2
伍拾文
梓州小練萱疋
参伯柴拾文
河南府生純萱疋
下陸伯参拾文
蒲快州施査疋
陸伯壷拾文
上直銭参伯玖拾文
上直銭陸伯伍拾文
次参伯捌拾文
次陸伯擦拾文
下車伯
次陸伯試拾文
次捧伯陸拾文
上直銭陸伯参拾文
上直銭捧伯柏木拾文
J
今ζ
下
(
三O九七鵠文書)
おそらく行だったのではなかろう
か。宋代においては、たとえば﹁宋舎要輯稿﹂食貨五五雑
買務天梧二年十二月の僚に、
提奉庫務所言、雑買務準内東門劉子、九月牧買匹島内、
白施毎匹二千二百、十月牧買宅施毎匹二千八百、及牧買
果子、添減慣例不定、稿府司未牒到時佑、検舎大中群符
九年篠例、時佑於旬偲日、集行人定奪、宰自今令府司、
候入旬一日、類取衆牒雑買務、伺別湾事宜、取本務官批撃
月日、賀選嘗司、置簿抄上貼検、従、
と見える。この史料で重要な黙は、十日毎に物債が決めら
れること、しかもそうした物債は十日毎の休日に行人が集
まって決めること、 である。十日毎に物債が決められるこ
とは、唐代の制度を踏襲したものに相違ない。したがって
宋代に貫施された十日毎の物債が行人によって決められた
ということも、唐代迄湖らせてもよろしいのではないか、
と考えられるのである。
﹁奮唐書﹂巻四高宗紀
なお長安の東西市に高宗永徽六年に常卒倉が設けられ、
非常の場合、債格調節が行われた。
永徽六年、:::八月己酉、:::先是大雨、道路不通、京
- 44-
生絹萱疋
伍拾文
﹂のように三等の債格が漣境地帯の市の行で寅施されたと
すれば、長安の市の行においても質施されていた、と考え
てよいであろう。ただしこの債格の性質がどういうものか
問題になる。仁井田氏は、日本の閲市令を参考にされ、公
定債格ではなく、取引債格で、市の帳簿にのせであったば
かりでなく、官に届け出たもの、とのべられているが、重
た操作を行う主韓は、
的な操作が加えられる、と考えなくてはならない。こうし
等の債格に限定されるとすれば、債格決定にあたって人魚
要な指摘である。ところで公定債格ではないとしても、
2
87
'
8
8
2
師米債暴貴、出倉粟耀之、京師東西二市置常卒倉、
そらく行人と思われる。債格については、後にまた言及す
ることにする。
格調整を行うため東西市に常卒倉を設けたことがわかる。
いこと、こうした場合に園家の手で日常の生活必需品の債
は、債格の饗動がはげしく、必ずしも三等の債格は守れな
西二市に常卒倉を置いたという。天災などの非常の場合
米債が暴騰したため倉粟を買り出し、これを契機として東
いものは買主に返還すること、 となっている。こうした手
ものを交易するものは官に浪牧し、 サイズが規定通りでな
で買買が許されるが、他の器物も同様であること、偽濫の
家の見本にしたがい、また製作工人の姓名を記し、その上
﹁大唐六典﹂によると、弓矢、長万をつくる場合は、園
と見える。大雨で陸路による米穀の轍迭が不可能となり、
﹁奮唐書﹂巻四九食貨志下によると、額慶二年十二月には
工業品の取締規定は、中園において古い歴史をもち、 たと
と見えている。また製作工人の署名は、戦園以来の各種器
5ー
- 4
手工業品の費買の制限
京の常卒倉に常卒箸の官員がおかれている。この常卒暑は
えば﹁瞳記﹂ 王制に市場での買買禁止品をあげている中
建中元年七月勅、夫常卒者、常使穀債如一、大豊不信用之
物に見えるところである。唐代でもこうした古くからの規
﹁奮唐書﹂食貨志
滅、大倹不帰之加、難遇災荒、人無菜色、自今巳後、忽
定に大瞳したがったようであり、とくにサイズの規定につ
不中致、幅贋狭不中量、不粥於市、:
米債貴時、宜量出官米十高石、褒十高石、毎石量付南市
をつくろうとしたことではないが、ともかく織物業者の濁
いる。このことは織物業者が共同して規定と異なった布吊
@
いては、織物の場合厳守するようしばしば詔勅が出されて
になっている。市場において賓際債格を決定するのは、
と見え、国家が米・褒を市の行人に託して販買させること
行人、下債纏貨、
下に、
直接買買を行うのではないようである。
債格調節を行った例が史料に見えているが、 しかし国家が
@
)
4
(
用不中度、 不粥於市、兵車不中度、不粥於市、布吊精鏡
米だけでなく、他に姿・盟 ・布吊などの日常生活必需品の
お
'
9
8
2
自の活動が推定される。
奴稗牛馬の貰買の規定
﹁大唐六典﹂によると、奴牌牛馬を 買買する場合は、本
@
﹁唐律疏
司本部の公験を用い、#?を立てることになっている。唐令
では奴稗牛馬の他、 駐螺腫等も該嘗する。
お
あるという。とすると、市場において他の人が買うことを
許さず、自分だけが濁占することのようである。同﹁及更
これは賀主が安いものを高く貰
出開閉、共限一憤﹂。註によれば、﹁貰物以賎魚貴、買物以
貴魚賎﹂であるという。
り、買主が高いものを安く買うことのようである。付﹁若
@
参市、而規自入者﹂。註によれば、﹁在傍高下其債、以相惑
きること、もし疾病がなくして買主が貫主を欺いて取消様
どに疾病があることを稜見した場合、契約をキャンセルで
ならないこと、市努を立て、三日以内に買主が奴牌馬牛な
異なり、同業者が不嘗に濁占債格を設定することと思われ
なのは伺のケ l スであるが、これは仰で見た債格の統制と
傍で債格を宣向下させるケ l ス、と解してレる。とくに重要
を濁占するケ l ス、判は同業の商人が協定債格を設け、そ
つけるケ l ス、川刊は第三者が貰主・買主の
れを買方におし.
飢也﹂であるという。陶希聖氏は、仰は個人の商人が購買
を行使しようとしても、契約はやはり数力があること、も
る。ただし ﹁新唐書﹂百官志では、 買買上の制限として
立し、債格が決まってから三日以内に市券を立でなければ
し疾病があり買主が買主の解約請求を承認しないときは罰
.
﹁大唐六典﹂によれば、市場は日午に鼓を三百うって始
市場の開閉の規定
している。
れたのかどちらかであろうが、私は後者ではないかと推定
ない。これは記載を省略したのか、或は後に至って贋止さ
﹁禁権固及参市白殖﹂となっており、制のケ l スが見嘗ら
貰買上の制限
次の三つがあげられている。
﹁大唐六典﹂には買買に嘗って禁止される事項として、
ω ﹁凡買買不和、而権固﹂。註
べきものはこの限りに非ざることとなっている。
せられること、法令が規定されず、事に嘗って私契を立つ
要旨は、奴牌馬牛駐螺瞳など重要な生産手段は、合意が成
議﹂巻二六雑律にはさらに詳細な規定が見られるが、その
な
によれば、機とは﹁専略英利﹂で、固とは﹁障固其市﹂で
- 46ー
)
5
(
まり、
日入前七刻に鉦三百をうって終ることになってい
以上は市署の職掌であるが、この他、市には卒準暑があ
り、その職掌は﹁大唐六典﹂に次のように見える。
卒準令掌供官 市易之事、丞篤之司、凡百司不用之物則以
時出貨、其混官物者亦如之、
以上、長安の市場に劃する圏家の管理の制度や賓態の一
部についてみてきたが、なおここで問題としなければなら
ないことは、右のような制度は、市場の流通秩序の維持に
その主な狙いがあるようで、園家の直接的な利盆はあまり
考慮されていないよう思われる貼である。ただ卒準署、が捨
嘗したとされる官物の買買は後者に該嘗するであろう。さ
らに重要なのは、市税である。これはあまり明らかでない
刊に﹁其商買准令、所在牧税﹂と見えるのは、市籍
が、唐 A
の税のことであろう。 また賓買税もあったようで、
記﹂巻五二斉悼恵王世家に﹁市租千金﹂と見え、索隠・正
義ともにこの市租を買買税としているが 、この解穫は唐の
@@
制度にもとづいたもののようである。因に索隠・正義とも
に唐の開元年間の執筆という。加藤繁氏は、市籍の税は唐
の中葉以後おとろえ、代って通過の物資やその貰買に封し
て課税することなる、と推測されているが、或はそうかも
知れない。市制の衰退とともに市税の性質も襲っていくの
@
であろう。なお長安年間には商人以外に劃しても課する入
市の税 のようなものが問題になっているが 、これは責現し
なかったようである。
7ー
-4
,
卒準署の主要職掌は、官が必要とする物品の購入、{自の
ろで﹁大唐六奥﹂註は、卒準令の起源として﹁周薩﹂質人
および漢の卒準令をあげ、いずれも物債を卒定する職務を
もっていた、としている。しかし唐では物債の調節は、市
署や常卒暑などで行われることになっていたのは前述の通
りである。卒準署の物品の買買は、物債の卒定より、財政
上の目的で行 われた 、と考えられる。また物品の購入はも
ちろん、官物の販買も常卒暑の例から類推すれば、卒準署
が直接行うのではなく、市場の商人を逼じて行うのではな
つ二
ミチ
ヵ、 と考えられる。なお前にあげた市署の職掌に、
ー、
カ
﹁凡興官交易、及懸卒臓物、並用中買﹂と債格に開する規
定が見えている。
史
る
梯下品や官が浪牧した物品の販買にあるようである。とこ
0
9
2
2
9
1
販貰、官への物品の納入など、後者には濁自の度量衡の使
のとがあり、前者には債格の統制、常卒倉の穀物や官物の
共同行震を分類すると、闘家に協力的なものと自治的なも
し、共同行痛を行っていたことを間接的に推定した。その
ところで園家の市場管理の検討を通じ、行は園鐙を結成
料もないので明らかにし難い。
や摩数に閲する前記の史料が信用できるのかどうか他に史
となっているから、毎行の家数も増加したとされる。行数
に火災があり、東市の曹門以西十二行四千齢家が焼けた、
巡瞳行記﹂巻四曾昌三年六月二十七日の篠によると、東市
は盟都市が一百二十行で三千飴庫と見え、圃仁﹁入唐求法
数行(﹁太卒贋記﹂容四三六張高の傑引﹁績玄怪録﹂)
絹行(﹁太卒慶記﹂省三六三王憩の傑引﹁乾蝶子﹂)
秤行(﹁太卒贋記﹂容二四三賓父の傑引﹁乾隈子﹂)
鰍轡行(﹁太卒慶記﹂倉一七五李君の傑引﹁逸史﹂)
太衣行(﹁雨京新記﹂長安西市の僚)
子﹂)
鍛行(﹁太卒底記﹂省二六一鄭群玉の傑引温廷錆﹁乾腰
肉行(唐康餅﹁劇談録﹂谷上玉鮪活雀相公歌妓の傑)
長安の行名で明らかなのをあげると、次の通りである。
用などが層するようであるが、本節で見た限りではやはり
前者が中心的なもの、 と考えなければならない。それでは
以上の他に行の共同行痛は見られないか、 またそうした各
市の行数はニ百二十とされる。ただしこの敢字は加藤氏に
L や元﹁河南志﹂に
金銀行(﹁太卒慶記 L省二八O劉景復の篠引李孜﹁纂異
の遁りである。
薬行(﹁入唐求法巡種行記﹂倉四曾回目五年正月三日の傑)
十行とあるから、長安東市の二百二十行は一百二十行の誤
なお唐代の他の都市の行名の明らかなのをあげると、・次
敷が増加したとされ、また﹁大業雑記
敷ではないとされる。ところが全漢昇氏は唐に入り行の穂
8
まりであり、 ま た 一 百 二 十 と い う 敷 字 は 多 数 の 形 容 で 、 貫
よるし印、元﹁河南志﹂洛陽南市︹盟都市︺の僚には一百ニ
東
市
。
蘇
ナ
i
l
-48
種の共同行矯は歴史的にどういう閥係にあるか、 について
今度は行の側から考察を試みよう。
/
.
:
:
:
:
﹁長安志﹂によれば、西市の行数は明らかでないが、東
I
T
f
/
西
市
f
/
f
/
1
1
#
四
2
9
2
﹀
﹂
記
新貨行。
地域不明
錯釜行(
綜鳥行︿
δ 六O)
については小絹行、大絹行、新絹行などに分れている 。 こ
と、米については白米行、大米行、梗米行などに分れ、絹
とく に 房 山 の 史 料 を 見 る
O七O、三O六四)
一
れによ って唐代の商業の専 門化がかなり進んでいることが
四O 程になる。
三O七二﹀
知られ、長安の行数も多数にのぼっていたことが推定され
算してみると、
きて右にあげた行名で重複しているのを除き、総数を計
米行、雑行。
揚州揚子懸魚行(﹁酉陽雑畑出綴集﹂省三支諾皐下﹀
以上はほとんどが天費・貞元年聞に属するものである。
@
また仁井田氏が大谷文書よりひろい出された交河郡の行
名は、次の通りである。
米麺行(
﹀
三O八五
菓子行(文書番腕三O五四)
菜子行(
三O九七)
以上はいずれも天賓期のものとされている。
県練行(
1
1
次に私がかつて紹介した一九五六年河北省房山で護見さ
は前にのベた、が、その首長は、行頭(﹁周鵡注疏﹂倉一五地
次に右のような行は唐代すでに園陸を結成していたこと
れた石粧の題記に見える唐代の行関係史料がある。その地
月 二十六日
官臨時長の質公彦の疏、 ﹁奮唐 ﹂食貨志上貞元九年一一 一
窪
田
﹁太卒庭記﹂各一五七李君篠引﹁虚子遡史﹂など)、行首
白米行、大米行、梗米行、屠行、 五熟行、炭行
(﹁太卒慶記﹂省二八O劉景復の係引李放﹁纂異記﹂)と呼ばれ、
域と行名とを記すと、次の逼りである。
活陽郡
行に属する商人は、行人(﹁奮唐書﹂食貨志下) と呼ばれた。
肉行、果子行、叡多行、染行、靴行、雑貨行、
油行、磨行、諸行。
行、小彩行、布行、帳頭行。
で、賀公彦は行頭と同一視している。さらに易州の例に市
﹂とばも見える。 康長はもと ﹁周躍﹂ 地 官 に 見 え る も の
また摩長 (﹁太卒賢記﹂品包 囲八四李娃侍引﹁異聞集﹂) という
@
生鎮行、絹行、小絹行、紙吊行、大絹行、新絹
勅
9ー
-4
1
1
@
る
1
1
f
/
1
1
深 幽
州 州
:
93
2
見え るが、これは行の首長なのか、或は市全般の有力者と
老(﹁金石孝編﹂谷十二開元寺隣西公鑑艦讃﹀ ということばが
民間度曲、西市楼上出一女、即抱築器、先云我亦弾此曲
一曲新翻羽調録要、其街西亦建一棲、東市大詣之、及昆
昆衛琵琶最上、必謂街西無以敵也、建請昆脅登繰棲、理
女即途更衣出見、
乃信也、 蓋西市豪
と見える。これは詔があって市を移して雨を祈った例であ
族、厚賂荘巌借善本、以定東臨之勝、
乃奔請魚師、
粂移在楓香調中、及下援、聾如雷、其妙入神、昆荷即驚
してそのよ うなものがあ ったのか明らかでない。
次にいよいよ行の機能の検討に移らなければならない。
唐代の行の機能には、前節で見た経済的機能以外のものも
見られる。 まずあげられるのは、宗教的な機能である。長
安の場合でないが、 前 述 の 房 山 の 石 鰹 題 記 に 見 ら れ る 行
か荘厳寺の倫に賂したというが、 こうした特殊
西市の 豪族、
また
をつく ったことを示すもので、行はまた吐邑の構成をなし
な場合だけでなく、通常市人と寺備との結びつきがあった
るが、東市と西市の市人が一致して雨を祈っており
ており、幹部には祉官、邑主、卒正、録事 などがあり、組
﹁
蓄唐書﹂食貨志上に、
経済的機能以外のものとしてもう一つ行頭による検察の
機能がある。
(元和﹀四年間三月 、京城時用銭、毎貫頭除十六文陪内
依銭及有鉛錫銭等、
貞元九年三月二十六日勅、 間内級
と思われる。 おそらく長安の行には宗教的な機能をもって
銭、法嘗禁断、慮因捉揚、或亦生姦、使人易従、切於不
停主人等検察迭官、如有容隠、粂許買物、領銭人糾告、
いるものもあった、と推測される。適切な例ではないかも
一手
始、遇 長 安 大 皐 、 詔 移 雨 市 祈
、
貞 元 中 有 康 昆 橋第
其行頭主人牙人重加科罪、府麻所由祇承人等、並不須干
擾、自今己後、有国交闘用歓陪銭者、宜但令本行頭及居
雨、及至天門街、市人蹟較勝負、及闘聾築、即街東有康
知れない が、段安節﹁雛府雑録﹂琵琶の僚に
とがのべられているが、これも行の宗教的機能を示す史料
の首長がその徒を糾合して美人霊を呉の泰伯廟に献じたこ
引かれているが、李致﹁纂 異記﹂によると、蘇州の金銀行
のではないか、 と推測されるのである。
いずれも四月八日に行人が共同して石鰹(大般若経)
室
車
合員は邑人、祉人なととも呼ばれている。さらに加藤氏も
主
』
u
t
u
n
2
9
4
れた依陪銭の使用を検察するのが行頭の責任となってい
と見える。この例は経済的なものと閥連があるが、禁止さ
擾
ところで債格の統制、官物の販貰、官への物品の納入、
的な行震と自治的な行篤とがあることは、前節で見た通り
るものは主として前者に属し、宗教に関するものは主とし
て後者に属するであろう。ところでこうした圏瞳の結成、
h-on-
常卒倉の米・褒を南市の行人に託して販買を行わせた例に
共同行局の出現がいつに始まるか、明らかでない。行の護
争I ナf
ついては、前にふれたところである。 また長安の市におけ
生と同時なのか、それとも行の護生より遅れるのか分らな
は、組合員が相共に紳併の祭杷を営むような行震がまずお
ある。 また各種の共同行掲の歴史的関係について、加藤氏
@
る行の例ではないが、長安の手工業者が債格協定を行って
募人集
、
マ
ミ
、
μ ただかなり早い時期に圏瞳の結成が行われたようで
l
u
wふ
多是車工所居也、
いた例を次にあげよう。
く﹁集異記﹂に、
上都通化門長庖、
こ
れ
ノ
、 さらに準んで 管業上の便利利盆のためにも協力する
ようになり、 また官府に劃してその所要の品を調達する任
車、輪鞍輯殺、皆有定債、
と見える。これは長安の逼化門の長庖に多くの車製造業者
そのほとんどが開元・天賓以後のものである。宗教的な共
る。ところでこれ迄見てきた行の共同行為を示す史料は、
つまり宗数的な共同行震を最も古いもの、 とされてい
務つまり行役を負捨するようにもなった、と考えられてい
最も北に位置している円である。しかもこれら車製造業者
と推測され
が製作し、販買する輪鞍輯較には定債があったというが、
﹂れはおそらく業者の協定債格ではないか、
る
、
が居住していたこと示すが、通化門とは、東の三門の 中
康備其財、
﹁太卒贋記﹂巻八四実柴山の篠引
行潟に関する直接的な史料は、 ほとんど見嘗らない。
であるが、本節で指摘した非経済的行震の中、検察に闘す
行っていたことは明らかである。共同行震には園家に協力
った時期において、商人たちが圏瞳を結成し、共同行矯を
﹂のよ うに見てくると、唐代、市場が園家の管理下にあ
る
度量衡の管理など、市制の項で推定した行の経済的な共同
る
i
守
FD
2
9
5
その前にまず市制の衰退という問題について考えてみな
っていくものであろうか。市制の衰退とともに衰えていく
なら、これなとは共同行信用の早いものであろう。また官物
ければならない。市制が寅施されていても、市においてだ
同行震に関する例も、それ以前のものは見嘗らない。ただ
の買買を行う卒準署が唐初から設けられ、後には姿を消す
け商業が行われていたということではなく、市以外でも行
ものであろうか、或は市制の衰退を契機にかえって盛んに
こ
ん
﹂
、 さらに卒準暑は行人を介して官物の販買や官への物
われていたことは、すでに唐代以前から見られるところで
常卒倉は永徽年間にあらわれており、もし常卒倉の穀物責
品の納入を行うこと 、 を前に指摘したが、これが正しいと
ある。 たとえば北魂洛陽の場合、
なっていくものであろうか。
すれば、官物責買も行の共同行詩の早いものであろう。と
の僚に屠殺業者が東市の北の殖貨里に住んでいたと見え、
買を市の行人に託することが嘗初から行われていたとする
すれば、行の共同行痛はまず園家に協力的なもの、 つまり
同書巻三城南の僚に慕義里に多くの外園商人が住んでい た
市制の衰退と行の推移
していくことが、多くの研究家により指摘されているとこ
と推測したが、ところで唐代中葉以降、市制が次第に衰退
ので、その共同行痛は園家に協力的なものから始まった、
)A 市 において取扱われない
特殊な商工業、たとえば屠販
が、しかしそうした市以外の商工業者を分類してみると、
は、市以外に多くの商工業者が居住していたことがわかる
之民﹂が多かったと見えている。このように北貌の洛陽で
'岨司、
唱
ろであり、そのような情勢に劃して行は一世どのようにな
財 ・金擦の二里にも富人が住み、以上の十里は ﹁工商貨殖
業者、市の北の怒軍手 ・奉絡の二里には棺構業者、 この他準
の二里には楽器業者、市の西の退酷 ・治鱒の二里には酒造
三里には屠版業者や遠距離交易商人、市の南の調音 ・幾律
﹁
洛陽伽藍記﹂巻二城東
官物の貰買 や債格の統制などから始まり、その後、協向性
と見え、同 書巻 四城西の僚に洛陽大市の東の逼商 ・達貨の
五
と私は推測する。
が強まるにつれて自治的な行震があらわれるのではなかろ
う
前節で唐代の行は、元来園家の市制を背景に成立したも
台
、
P
h
υ
ηL
市に庖舗をもっ資力のない零細な行商人。
記﹂巻一五六雀潔の篠引く﹁逸史﹂に、
﹁太卒康
﹁同書﹂巻四OO都路駐の篠
太府卿屋公名潔在長安、過天門街、偶逢買魚甚鮮、
とあるのは、魚の行商の例。
市の商業を妨げるもので
業、酒造業、棺構業など、助遠距離交易を行う富裕な商
ω外園商人、とな っており、
はなかったようである。唐代の長安においてもこれとほぼ
同様な情況にあった。長安における市以外の商工業者を分
、
Lに
﹁同書﹂巻四一七宣卒坊官
﹁長安志﹂巻七務本坊の僚引
﹂のように長安には零細な行商人がかなり多かったよう
とある中の負販者はやはり行商の例であろう。
有負腹者阿不避、
李静侍郎好譜戯、叉服用筆鮮、買朝回、以同列入坊門、
とあるのは、乾柴の行商の例。﹁因話録﹂巻四に、
秋多夜多聞貰乾柴、 云是枯柴精也、
俗説務本坊西門是鬼市、或風雨穏晦、皆開其喧緊之盤、
輩下歳時記﹂に、
く ﹁
とあるのは、油の行商の例。
京宣卒坊有官人夜師、入曲、貰油者張帽駄桶、不避道、
人の保引く﹁酉陽雑狙
とあるのは、蒸餅の行商の例。
角有伏噂、車鯛之町翻、塵土涜其餅、路苦之、
都路駐、長安人、先貧、嘗以小車推蒸餅貰之、﹂録勝業坊
引く﹁朝野余載﹂に、
、
人
}
3
(
析してみると、次のようになるであろう。
)
特殊な商工業者。通化門長庖の車
(市& 市の行に見えない
﹁築府雑録﹂琵琶の篠
賓不可勝計、常興朝貴遊、邸庖園宅、遁満海内、四方物
量魚所牧、
と見える。懐徳坊は西市の西隣りにあたる。
3一
-5
工の集固について は前にふれた。
交宗朝、有内人鄭中丞、善胡琴、内庫有二琵琶、競大小
忽雷、鄭嘗弾小忽雷、偶以匙頭脆、途崇仁坊南趨家修
理、大約造幾器悉在此坊、.
と見えるのは、換器業者が崇仁坊ハ卒康坊の北)に住んで
、 ﹁太卒御
遠距離交易を行う富商。この例としては
いた例である。
)
2
(
覧﹂巻四九五都鳳織の候引く﹁西京記﹂に、
‘
西京懐徳坊南門之東、 有富商都鳳殿、:::其家E富、金
6
9
2
7
9
2
である。
る。 しかし 飲 食 業 者 で は な く、 外 国 商 人 で は な い 例 が あ
﹁太卒庭記﹂巻八四王居士の篠引く ﹁閥史﹂ に
、
有常築王居士者、入京、乃託於人目、有富室危病、醤薬
。
る
ったと恩われる。ところで問題となるのは、市の商工業と
不救者、某能活之、得三百千、則成南山併屋失、果有延
以上のような商工業者は、市の商人と競合の閥係になか
同種 の、 つまり市の商工業と競合の関係にある商工業が、
延需坊は西市の東隣りにあたる。
志﹂王園児の僚に 、
わかるが
また ﹁北里
とある。延書坊で金銀珠玉を販一貫するものがあったことが
蕎坊習金銀珠玉者、:・
﹁太卒庚記﹂巻 二七八因子監明躍の僚引
市以外で行われているということである。この例としては
飲食業者が多い。
、
く ﹁酉陽雑狙﹂ に
明経逐選入長輿里果羅庖、常所過慮、庖外有犬競、
宣陽線撤舗張言震街使郎官置宴、
とあるが、繰糊舗のあった宣陽坊は東市の西隣りである。
4一
-5
とあるのは、長興里に畢羅広があった例。長興里(坊)と
は、朱雀街東第二街と東第三街とに挟まれ 、北よ り三番目
﹁同書﹂張住住の僚に、
宜陽坊の北に位置してい
仙客謂鴻 目、阿翼男母安否、鴻云、並在興化宅、仙客喜
とばをとりかわした中に、
て、王仙客が新昌南街でもと蒼頭であった塞鴻と舎い‘こ
﹁太平贋記﹂巻四八六無讐俸に、建中年聞のこととし
卒康坊も同じく東市の西隣り、
とあり、卒康坊南曲で草創蓋果の類を買ったとされるが 、
莫、震小舗席、貨草創盤果之類、:
張住住者、南曲所居卑閥、有二女兄不振、 是以門甚寂
の坊。畢羅は館館とも書かれ 、胡食 の 一種。沈既済の﹁任
氏体﹂に、
鄭︹子︺行及里門、門局未設、円高刀有胡人程餅之合、
﹁太卒慶
とあり、これは東市の南、三つ目の坊の昇卒坊の坊門のと
﹂ろに餅を賀る庖があったことを示している。
記﹂巻四O 二欝餅胡の僚に、
有穆人在京城、隣居有鶴餅胡、
とあるのも市外の例であろう。ただ右の例はいずれも市外
にあって胡餅を販賀する例で 、 外 圏 商 人 の よ う に 思 わ れ
る
極云、 我便遁街去、 鴻目、 某己得従良、 客戸有一小宅
子、既給漏業、
と見え、輿化坊で績を販買するものがあったことが知られ
る。加藤氏は 、延蕎坊の金銀珠玉商、宣陽坊の繰瀬舗など
は市制がゆるんでからであろう、と推察されている。輿化
ω
﹁太卒贋記﹂巻四二賀知章の僚引く﹁原化記﹂に、
をもち、市外の坊に居住するという形のものも増してく
。
る
賀知章、西京宣卒坊有宅、針門有小板門、常見一老人乗
臨出入其問、積五六年、親老人顔色衣服如故、亦不見家
層、詞問里巷、皆云是西市買銭貫王老、更無他業、
:妾素買人之妻也、 夫亡十年、 旗亭之
﹁同書﹂巻一九 六買人妻篠引く ﹁集異記﹂に、
とあるのは、買銭貫王老が宣卒坊に居住し、 西市に逼って
いた例。
妾居崇仁里、
内、向有嘗業、朝建暮家、 日一鼠銭三百則可支失、
とあるのは、市とは見えていないが、崇仁里に居住し、市
に擦をもっていた例であろう。
以上のように見てくると、市制の衰退はまた行の弛緩少
くとも空間的な統制の弛緩を意味する 、といえる 。それで
はさらに進んで行の結合関係はどのようになっていくであ
ろうか。空間的な統制の弛緩は、嘗然園家の力を背景に維
持されていた行の商業濁占権がくずれ始めたことを示すも
のであり、それに代って市内および市外における商人たち
の個別的な商業活動が盛んとなる。 たとえば﹁唐圏史補し
巻中に、
5ー
-5
坊の販給業は、建中年間のこととされているから 、唐も中
葉以降である。ただ輿化坊だけは市から比較的離れている
ω
の特殊な商工業者、
が、延誇坊、宣陽坊、卒康坊などはいずれも 市の周 溢の坊
の遠距離交易の商人
である。 また
﹁太卒贋記﹂巻
行の中に他の商業が混入するようになる。また市内に庖舗
一五七李君の篠引く口逸史﹂によると、長安西市の鰍轡行
の酒棲に上るという記事がったえられているが、或る種の
るとともに、市の行自瞳がゆるんでくる。
なお市以外の直域以外に商工業者が護生し、増加してく
外の坊へも旗大していったのでなかろうか。
い商工業者が居住し、市制の衰退に仲い、市の行と同種の
商工業者も居住するようになり、 さらにそれは市の周透以
などの住む坊も市の周迭のものが多い。これはおそらく洛
陽大市の場合と同様、市の周遊に最初は市の行と競合しな
298
2
9
9
宋清賀繋子長安西市、朝官出入移庭、清純貰輔衆迎迭之、
貧土請薬、常多折券、人有急難、傾財救之、歳計所入、
本の蓄積を行ったものであろう。
﹂のように唐代中葉以降、 市制 の衰退に伴い行の商業濁
占権がくずれてきていることは明らかであるが、 さりとて
行が消滅したわけではない。前にあげた例では、常卒倉の
L
利亦百倍、長安言、人有義 峰、賀繋宋清 、
と見える。長安の西市に薬行があったことは、前にあげた
穀物を 市の行人に託し販買させたのは建中年 間のこと、
無視し、全く濁自の営業方法により利益を蓄積した、とい
も知られる。ところがこの西 市の 繋商宋清は 、債格協定を
いが、河北省房山の石経の題記で年挽の明らかなものとし
らは園家に協力した共同行震である。また長安の例ではな
陪銭の使用を行頭が検察したのは元和年間のことで、これ
吠
H
﹁入唐求法巡雄行記 L t
包囲禽昌五年正月三日の僚によって
うのである。唐代一部の商人の資本の蓄積が大きく 、園家
同十四年締局行 ・ ︹米行︺、 建中口年肉
年大絹行、同十年大米行 ・小絹行、同十一年屠行、同 十
て、天賓二年白米行 ・小影行、同六年布行・新絹行、同九
@
﹁嘗唐
が税商 や借商を行ったことはすでに研究が試みられている
が、と りわけ都に大資本の商人が出現したことは、
年絹行 ・僕頭行、
行、貞元元年版多行、同丑年染行 ・雑貨行、同 七年磨行
書﹂巻 入玄宗本紀開元二十 二年の候に、
三月 、混京兆商人任令方資財六十除蔦貫、
靴行、同十年油行・新貨行、同十一年諸行などがあり、こ
れらは宗教を中心とする自治的共同行震である。なお曾昌
年間長安の西市に紫行があったことは、前に見たところで
ある。このように唐末迄都市の市に行が存績していたこと
外の商人なのか、 またどのような種類の商業を営んでいた
合になっている 、と 考えられる。 また行内部においても濁
活溌になるから 、行は加入強制をともなわないルーズな 結
は疑ないが、市制の衰退以後は行以外の商人の営利活動が
のか明らかでないが、多くは個別的な管利活動によって資
と見える。これらの富商たちは、市内の商人なのか或は市
一二十大商、則園用済失、
不給、請借京城富商銭、大卒毎商留禽貫、儀並入官、
四月、:::壬戊:::、太常博士章都賓陳、京以軍輿庸調
と見え、同書巻一二徳宗本紀建中三年の候に、
不
nO
R
υ
自の商業活動を行う富商があらわれ、債格の統制などは充
分な機能を果すにはいたらなくなった、とも考えられる。
市制衰退以後、行はこうした蟹質を蒙るが、 しかし加入
組合員は単に園家に協力するだけでなく、共同の信仰をも
うとしたのが小稿である。要約すると、 まず長安の東西 市
の位置・構造にふれ、その原型は北貌洛陽の大市 ・小市に
もとめられるが、 その後の経済護展により若干の改革が見
られるし 、 また東西市自身唐一代を通じ饗彊が見られるこ
えって整備されているという事責は、上のような動きを背
った、と思われる。長安西市の排水溝が晩期にいた ってか
し、とくに行の共同行篤として園家に協力的なものと自治
と、さらに進んで行白身の種類、
は圏瞳を結成し 、 共 同 行 粛 を 行 っ た こ と が 推 測 さ れ る こ
、
と、次に園家の市場管理の制度と寅態とを検討し 市の行
景にして理解される。そしてこ うした行がやがて 市以外の
的なものとがあるが、前者より後者へ護展したものであろ
組織、 機 能 な ど を 考 察
商人をも包援しよ うとする方向へ進み、宋代の行を生みだ
う こと、最後に市制の衰退と行の推移についてのベ、市制
の衰退に伴い行も弛緩するが、共同信仰を中心とする自治
る。これは主として史料の関係によるものであろう。とこ
研究があるが、 宋 代 に 比 べ 唐 代 の 部 分 は か な り 簡 単 で あ
唐宋時代の市や行 に ついては、すでに加藤繁氏の詳細な
て市場濁占が可能となり、 また債格の統制なども行われた
的の一つとして成立したものであるが、 しかしそれによっ
来唐代の行圏鐙は、園家の経済活動に協力することを主目
ないかと思われること、などの諸黙に闘するであろう。元
@
す母胎となるのではないか、と推測されるのである。
ろが近年、唐代長安の市の護掘調査が行われ、 また天賓期
、 また後には共同信仰などを中心とする自治的な行魚
﹄
ル
﹂
的結合は依然存績し、市制崩壊後の行の母胎になるのでは
吐魯番地方の債格表文書や 河北省房山石経所見の行関係史
び
があらわれていること、などから考えれば、ギルドの護生
す
料が紹介されるにいたったが、これらの新らしい史料を利
む
を唐代にもとめてもよろしレのではないかと思われる。
.
.
.
.
、
J、
用しながら、改めて唐代の市制や行について考察を試みよ
- 57-
ちながら親睦を深め、市の繁築を取戻そうとする動きもあ
0
0
3
1
0
3
註
し、市制下の行をギルドと見る設がある。詳しくは清水盛光
①市制の崩壊をもってギルド愛生の係件となす設があるのに釘
﹁支那枇曾の研究﹂第一筋第一章第二節参照。
一 六の三)。
② 岡 崎 敬 ﹁ 漢 代 に お け る 長 安 と 洛 陽 ﹂ ( ﹁ 東 洋 史 研 究﹂
① 拙 稿 ﹁ 漢 代 長 安 の 市﹂(﹁中園古代史研究﹂第二)。
①文の字﹁唐南京城坊孜﹂は叉につくるが、叉の字が正しいで
あろう。
L 第七掌、第三、九参照。
③ 民 の 字 ﹁ 唐 雨 京 城 坊 孜 ﹂ は 居 に つ く る が 、 居 の 字 が 正 しいで
あろう。
足立 喜 六 ﹁ 長 安 史 蹟 の 研 究
東市の調査については、﹁唐代長安城考古記略﹂(﹁考古﹂
一九六三の一一)参照 。
西市の調査については、﹁唐長安城西市選祉費掘﹂(﹁考古﹂
③森鹿三﹁世間唐一里の長さ﹂(﹁東洋史研究﹂ 五の六)。
①
一九 六 一の 五 ) お よ び 前 掲 ﹁ 唐 代 長 安 城 考 古 記 略 ﹂ 参 照 。
⑬ ﹁ 唐 代 長 安 威 考 古 記 略 ﹂ に 詳 しい記述が見られる 。
尺) 一歩 、 三O O歩 一塁 の 小 程 が あ っ た が 、 ﹁ 長 安 志 ﹂ の 方 六
⑪ 唐 代 の 里 に 、 五 尺 一歩 、 三 六O歩 一 里 の 大 程 と 五 尺 ( 小 尺 六
究﹂第二章、第一一、三参照。
百歩設は小程によったのではなかろうか。なお﹁長安史蹟の研
。
す
﹁周髄正議﹂の設による。
⑫ ﹁ 史 記 曾 注 考 設 ﹂ 引 く 張 文 虎 の 設 は、 及 井 の 二 字 を 街 字 と
⑬
﹁唐令拾遺﹂脇市令 一O。
れる。
⑬﹁唐令拾巡﹂開市令七、なお行名は日本令により補ったとき
⑬
寺、閲元九年勅格などに見える。
L 土地法取引法第三部第十
﹁ 唐 律 疏 議 ﹂ 谷 二 十 六 雑 律。
仁井田陸﹁中闘法制史研究
三節。
加藤繁﹁宋代に於げる都市の護淫に就いて﹂
十四雀融停など参照。
(﹁支那経済史
加藤繁﹁宋代商税考﹂(﹁支那経済史考詮 ﹂ 下
﹀
。
出寵融﹁課税関市疏﹂(﹁唐文献什﹂谷二十七)、﹁沓唐番﹂巻九
﹁史記曾注考詮﹂史記総論司馬貞張守衛事歴。
。
﹁唐令拾遺﹂関市令 一図
陶希聖﹁唐代管理市的法令﹂(﹁食貨﹂四の八)。
﹁唐令拾遺 ﹂ 閥市令一一。
ヲ
。
Q
た と え ば 、 ﹁ 仰 府 元 勉 ﹂ 各 五O 四 邦 計 部 総 鳥 に い く つ か 見 え
鳥の例が見える。
の十 月 に は 躍 の 例 、 岡 本 紀 谷 十 五 慾 宗 下 元 和 八 年 四 月 に は 布
年 九 月 に は 米 ・駿 の 例 、 ﹁ 欝 唐 番 ﹂ 本 紀 谷 十 四 順 宗 邸 位 の 年
﹁奮唐書﹂食貨志下建中元年七月には米・奈の例、同建中三
一章 第
﹁大唐六典﹂各三金部郎中の係、﹁唐曾要﹂各六十六太府
。
v
z
⑫ ﹁ 沓 唐 書 ﹂は倉一六五、なお宋の銭易﹁南部新書﹂にも見え
⑬ ﹁ 唐 令 拾 遺 ﹂ 閥 市 令 九。
⑬
⑧⑬
@
②
⑧@⑧@⑧⑧
⑧
⑦③
。
。
302
考設﹂上﹀。
全漢昇﹁中国行曾制度史﹂。
2﹀、曾毅公
前掲﹁中園法制史研究﹂土地法取引法第三部第十一章第三
節。
拙稿﹁唐代ギルドの新資料﹂(﹁中園史研究﹂
﹁北京石刻中所保存的重要史料﹂(﹁文物 L一九五九の九)、林
東洋史研究叢刊之+六
中園古代の田制と税法
││秦漢経済史研究││
苓
著
二五O
京都市左京直吉田本町京都大皐文撃部内
(圏内迭料は本合同負携)
右書御希望の方は本曾までお申込み下さい。
田の﹁田租﹂に閲する研究をも牧録している。
が、その雨方に亙るものとして、公団の﹁俵﹂および私
・ものを 集 め、後半には、税制に闘するものを集めている
土地制度および租税制度花関する研究論文十二篤と附設
三編から成る 。 本書 の前牢には、主として田制花関する
本警 は、著者 が最 近十年ほどの聞に研究した秦漢時代の
附索引橡債
A 5判クロース製 本女五 O頁
O
O圃
次
元自﹁房山雲居寺塔輿石経﹂(﹁文物﹂一九六一の四・五)な
ど参照。
大絹行以下慨頭行迄は、活陽郡所属と推定 。
加藤繁﹁唐宋時代の商人組合﹁行﹂を論じて清代の曾館に 及
ぶ﹂(﹁支那経済史考詮﹂上)。
たとえば鞠清遠(中島敏謬)﹁唐代財政史﹂第四章三 。
本稿脱稿後、小野寺郁夫氏の宋代の行に闘する綿密な研究
﹁宋代における都市の商人組織﹁行﹂について﹂(﹁金海大
泉 法 文 挙 部 論 集 ﹂ 史 拳 篤 二 る を 讃 む こ と が で き た 。宋代の
行については、氏と多少異なった見解をもっているが、別の
機曾にのべてみたい 。
中
振替京都三七二八番
東洋史研究曾
- 59-
卒
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