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Page 1 Page 2 ドゴン族研究とフランス民族学の展開 坂 井 信 三 一
南山大学 人類学博物館館額 第 5 号 第 2 回 誇 滞 会 要 旨 : ; :;・鮒.Il . :,:.掛1=tf. '・:,f .A:lil. 1;鮒.I.tT. ;蕊 ・.iii' 親側, rf・.Jz.7:ンも、t /9♂/ ・ // ・/∫ ドゴン族研究とフランス良族学の展開 坂 井 信 三 -はじだ)に- ゎが国に於いてフランス良族学は、イギリス社会人類学やアメリカ文化人類学と比べて、紹 介される地金が少なかったように思われる.確かに世界の学会に及ぼした彩軌ま大きいとは言 えないが、その研究法は独特のものがあり、非常に興味深いものであるo そこで本譜に於ては、最も鼠署にフランス属漢学の特赦が盛れているドゴン族研究を中心と してフランス社会学との関係からも、その展開を考零していくことにする。 -フランス民族学の前史フランス良族学は1 9 3 0年代にアカデミズムの中にその地位を示すようになる。しかし、 それに先立つ属族学的研究が全く行なわれていなかったわけではないo群論的研究はデュルケ ム、モースらの社会学著、レピ-プTJユルのような哲学者遠によって担われていたoしかし、 彼らはいわゆるフィールドワークは行なわなかったので、資料の提供は当時の植民地行政官や 忘教師のようなアマチュアによって為されていた。例を挙げると、ニュ-=カレドニアの、モ -リス=レナール、アフリカのドラフォース、モンティエ、トシ工などがそれに当たるoつま り、理論家とブイ-ルドワーカ-が分離していたわけで、当時の英米に比べて時代的には遅れ ていたと言える。 -フランス民族学の幕あけ本当の意味での本格Ergな民族学的研矧ま、マルセル-グリオ-ル達によって始まるQ彼らは モースの弟芋のいわば一期生であって、郡ヨ的訓練を受けた後、統々とフィールドに旅立った oグリオール達は、 1 93 1年から2年間、ダカールからジブチまでのアフリカ横断調査旅行 を行ない、その際、初めてドゴンの人々に出会っr-わけである。当臥ドゴン族は他の部族-早 、入植し7=白人遠から野蛮で好戦約だと思われていた.彼らは、ドゴンのある村で仮面結社に ょる大境模な儀礼に遭遇しこのことに触発されて、ドゴン研究へと懐いていった。いわば、こ のことによって、フランスでは初めて本格的な民族学著による、本格的な民族学研究が成立し たのである。徴に、その複のドゴン族研究の遠慮を辿ることにより、フランス良族学の展開部 分の跡つけが可自白であろう. -英米人三田学との相違点- さて、フランス属旗学は秀二次大戦前に、一連の良族韻が発表され、一つのピークを迎えた と言ってよい。この時点に於いて、英米人類学との方法論上の相遠点が明らかになってきたD その一つとして、フィールドワークの仕方が挙げられるであろう。例えば、イギリス社会人深 学は、比較的小規模な社会に単独で長期間、調怒するのに対し、フランス民族学の調査は、さ まざまな分野の専rrg的A]識人の持田によって多面的に行なわれた。これは、専門家によって一 つの事実を多面的に把握しようという方法意識があってのことで、一つの事象は、多面的側面 を持つという孟智織による。この考えはフランス社会学の影野を受けており、モースの壬即昌した、 「全体的社会寧EJS」という概念にその起演をもつ。このことを、モースは、文献だけを通して 雷E明しようとしたが、グリオール等は、フィールドを通して明らかにしようとしたo さらに、記録手段の面に於いても、イギリスとフランスでは違いが魔られる.例えば、イギ T)スでは、ノートと鈷望至とカメラ<'らいなのに対して、フランスでは、航空写詔、映画、緑営 機まで使っているし、村を測王達することも行なっている。 しかし、以上に述べたことは、主に調査の壬≡循上の問題であって、問題悪報とか方法論のオ リジナリティーではない。 2 -籍二次世界大戦後の フランス屈族学の展開- フランス民族学が本当の オリジナリティーを持つよ うになってくるのは、第二 次世界大戦後のことである。 ここでも、ドゴン族研究が 重要な位眉を占めていrL_. つまり、戦前の調査では、 仮面儀礼とか奇妙な制度と か、外面的なものに策申さ れていたのに対して戦後の 調査は、内面的、精神的な 面にまで及ぶようになった. フランス民族学の新たな 展開には、第一に、民族学 とドゴン族との関係という 側面があり、第二に良盛挙 と社会学との関係という側 面がある。以下、これら二 点に関して考察を試みたい。 △ドゴン研究とフランス 良族学との関係 グリオール連は、すでに 15年間、ドゴン族研究を続 けてきたわけであるが、そ の過程で、彼らの制度.慣 +-tg48中也時のアフリカ 「水の押」 せりか否房より 習をかなり1詳しく分析して きた。しかし、戦後になって初めて、制度.慣習を現地人白身がどのように関連つけ、寛解し ているかが明らかになってきた。つまり、現他人白身が、百分遠の瓢虞.慣習について、首尾 一貨性のある説明体系を持っていることが明らかになってきたわけである。このことは、 1946 年にオゴテメリという-^の老人がグリオールに33EI脚こわたって、自分たちの伝統的な知m を語ったことに依るQその後、この記録は、 「水の神」として出版された。それまでは、フラン スに限らず、どこの属族学にわいても、宗教的なものは、断片的にしか記録されていなかった。 ここで初めて、現出[人自身のErから見に、各制度・慣習の相互関係がわかってきた。しかも、 その相互関係に、首尾一貫性があることが明らかになってきた。オゴデメrJとグリオールの出 会いを実機として研究の方向が定まり、非常に独特な研究が展開されえ7=と言えよう。 ます諾一に、甑讃1の手法の面では、現地人の中で、各分野に専門附な937織を持っている人達 から、秘否の知識を聞き出すということに、調査の主力がう生がれるようになったわけであるo 例えは、祖先祭不己、トーテムクランの祭ネ己、それぞれの儀礼の司祭、呪術師、鍛冶屋、仮面儀 礼の結社の長老など各部門の専門家を主要なインフォーマントとして、その人達が、伝承して いる秘密の先丁緒を教えてもらうということに、蘭萱の主力が注がれたわけである.それに伴っ て、禍査は、観察よりも、インタビューの方が、すっと重要視されるようになってきた。 沢に、同宿悪路の面では、秘密の勅諭を確成して、窮地人の文化の世界慨を再梢成すること 3 に研究の巨的をしぼ丁たことが指摘される。 つまり、さまざまな制度.慣習が、構造的. 技青白餌に、どう関連しあっているかという ことではなくて、夢邑他人のもつ思惟のレベ ルでそれぞれのWr度が、どういうふうに統 合されているかに問題がしぼられている。 だから、比愉餌な言い方をすると、現地人 白身が、自分たちの社会について持ってい る良贋学的な児解を明らかにしようとする 聞題意i瀧なのである。 さらに、方法上、研究者は、記述すると いうことに主力を置き、百分たちの理論を、 そこに持ちこむといったことはしない。つ まり、自分たちの理飴で外側から、その社 会を説明するということを否定してしまう。 その社会の内側でなされている説明をとら えようとするわけである。このように、フ ランス民族学は、対象とするには、その社 会に生きている人々白身が持っている説明 を理解することが、不可欠だということを 弓基調するのである。 その後、フランスの民族学者達は、さら に、他の西アフリカの様々な社会で同じよ うな㈲増悪讃毒を持って、続々と研究してい ったわけであるoそして、一連の、実にめ ざましい成果があがっ7=。例をあげてみる と、ドゴンの近くに住んでいるパンバラ族、 マリに住んでいるソンガイ族、北カメルー ンのフアリ族、コートジボワールのコノ族、 セネガルのジューラ族といったところで、 屈族学的な仕事が、釈々と行なわれていっ たわけである。 △フランス社会学との関係 その第一としては、先程、言及した「全体的社会事実」という概念が、霞要だと思うo つの事象を多面的に扇召述し、また、研究対繁を広くとるという件数が、現地人の説明体系を 受けとめて記述する際、非常に大きな利点となったと考えられる○ 例えば、貝休閑に言うと、はた吋りの時に、縦糸の闇に横糸を左石から入れていくが、この 往復遊動と、桐を耕す時に、北の方から、窮西東商と、ジグザグにうねを作っていく往u退 却とが、両方とも、世界の全てのものを生きつかせている生命力のiEE和と、同 硯されてい るoしかも、その生命力は蝕治屋が、ハンマーで鉄床を打つ雷とも同一視されているoそれ から、抑物の分,fBが、社会の分節体系、さらには、人間の卑俗の分節体系とも象徴的に対応 させられている。 このように、技術や分撰体系が、宗教附な慨念や社会構造と関わりながら、彼らの世界観 の空電な部分を表現しているわけである。ところで、フランス民族学は、技術や分瑚体系を すでに研究していたし、それに対する関心も,十分に払っていたわけだから、それを受けと 4 めるのに珊卵がなかったと言えると思うoつまり、彼らの研矧ま、社会的な側面だけでなく、 技術や分塀体系の面にまで及んでいたことが運賃な利点となったのである。このような旨く ぼりを、民腰学者にさせていたものが、モースの全体的社会事情という概念だったのである 諒二に、現地人の持つ説明体系を重視するという彼らの姿勢があけられる。この点は、フ ランス社会学を代表するモースにははっきり現れていたものであるB彼は、西洋人の概念で、 属族譜の事実を分顎することを排除しようとした.そうすることによって、事実の全体的な 性格を題解しなければならないと考えたaそこで、民族語の事実を取り扱う時には、西洋の 一般理論よりも、現地人の理論の方が有効性が大きいということを認めていた.それと関連 して、先程、指摘したように、この属族学は、外側からの説明を否定するという点も社会学 と関係がある。モースは、本当の社会学酪説明というのは、何かの一般理輪によって事象を 髄明するのではなくて、具体的な事象を理解するそのこと自体が問題なのだと考えていた。 そこでも、外からする説明は、なるべく避けた方がよいという態度が、モースの中にあっrL。 グリオ-ル遠の良族学は、このようなモースの闇度を.徹底附に推し進めたものであると考 えられるo 菜三に、フランス社会学の持っていた様々な1媒質が、良族学にそのまま受け継がれている ことが指摘される.例えば、社会の分塀体系やトーテミズム、分類の観念、交換、生魚力の 観念など、そういった中心的な課題を 社会学は持っていたわけだが、これらが、民族学に そっくりそのまま受け継がれたわけである. ただし、そういう誤電を 息に受け継いだと いうわけではなくて、そういった個々の問題 が、より大きい一つの壱五指的な体系を構成す るということを 民族学は明らかにしたと言 ってもよい。例えば、社会学では、社会の分 析体系と^格の概念は、別々に取りあげられ ていたが、良族学では現地人の瀧明体系を詳 しく記述していくうちに、そういったものが、 実は一・・つのものであることがわかった。つま り、罰他人が世界を秩序立てていく全体的な 体系の中にこれらの説日月が含みこまれている ことが明らかになった.したがって、この崖 族は、社会学から引き継いだ聞き置を独白な形 で展開していったと言えるだろう。 このように考えるとフランス民族学は社会 学から一・線的にく発展して普たように思われる が、必ずしもそうではない。民族学のみが、 フランス社会学の後継者ではないし、この属 族学百体、フランス社会学から大きく1鞭反し た面もあるのであるo例を挙げると、社会学 においては、宗教研究の際、基本的な前環と して、桝と俗の二分割をしているが、属族学 では、この分だUを完全に故頂しているのであ る。なぜなら、 tg:罪の中でGBこるすべての現 象を完全に一つの相で説明しようという現地 人の理論にあくまでもしたがっていったから である。つまり、現地人の説明を重視すると いう態度は、社会学から受け継いだものであ るが、その態度に忠実であった結果、社会学 の基本Bg前確さえも粟ててしまうというところまで、進んでいったわけである。だから、フラ ンス属族学と社会学との関係は非常に複雑であって、供冠に検討しなければならないB -我々に残された課題- さて、我々はこのフランス良族学をどのように受け継いでいくべきかを考えてみなければな らない。グリオール連の民族学の中で、最も疑問と思われるのは、窮地人の説明が、実際にど ういう場面で適用されるのが、全くわからないということであるo彼らは、誤他人の説明体系 が音感一貫しているということを強調しているが、これは、説明というもの自体が、一貫性を 求めていくものだから、いわば当然のことである。問題は、むしろ、この脱明が、どういう状 況において引き合いに出されるのが、そしてそこからどういう実践が生まれてくるのかという ところにある.説明というものは、一定の聞宅解決のために楢成された知識の体系のことであ ると考えられる。そうである以上,必ずそれは、ある状況に含まれている問題が何かというこ とを明らかにして、それを解決するための実践に指針を与えるものでなければならない。した がってある説明を理解するには、それが引き合いに出される状況、その鎗異を93]らなくてはな らない。そうでなくては、説明の存在する理由が不明のま削こなってしまうだろう.つまり、 この民族学の提出した、 qosmologyの研究は非常に独白なものであるが、そのcosmologyの存 在する理由が、結局、不明のまま残っていることになるのである○ そこで、こうした問題を解決するには、その説関が為されている現鄭こ立ち会ってみること が唯一の方法であると思われる。 「ドゴンの鍵と錠」 :ドゴンの家々には、普通、このような錠がつけられている。 錠には、さまざまな彫刻がほどこされている。 6 -ドゴン族について- ドゴン族は人口25万人前後で、西アフリカ、ニジェール河の大喝曲部に近いバンデイアガラ 断崖地方を中心に、マリ共和国とオートボルタ共和国の一瓢こまたがって居住している。剰甫 できる土矧ま全て、耕作されているので、パンデイアガう断崖と呼ばれる絶壁にはしごをかけ、 岩棚にへばりつくように家や相を作って生酒を営む。 彼らは4つの部族に分かれており、それら一つ一つ共通の男系子孫から成っていると信じら れている。また、各村の住民は、いくつもの細かい男系親族集団に分かれているが、大きな男 系親族騒Eaとなれば一つの村を占めている場合もあるB 彼らは、雑穀、米、トウモロコシを栽培して主食とする。 ドゴン族の生活は、家庭生悟、社会生活=経済その他、あらゆる面でつねに彼らの神海と人 生観につながっている.それは彼らの生活を律する観念である,。織物や農業のやり方、家腰内 の,%億、衣類、家の飾りつけなど、すべてが象教に満ちている。 グリオ-ル遠が格別の魂陳をもって分析し、その結果、ドゴン族文化の特色としてよく知られ るようになったものの一つに仮面儀礼がある。仮面儀礼は秘密結社のメンバーによる押師であ る。仮面は、狩猟で殺された,動物や載令で死んだ人間の「ニヤマ」 -ドゴン族の考える不滅の 霊カーのすみかと信じられている。儀式用の一つ一つは、彼らが祖先とする蛇の偉大な仮面か らのみこの霊力を仰いでいるとされようo羅カの評皆は、伝票された儀礼行事をつうじて執行 されるo 八十周に及ぶ儀式用仮面の製作、公開、保存に関する一切の権限は、 「アワ」と呼ばれる機 密結社の構成員に属している. 一般的にいって、村ごとに結社が存在し、ひとつの大仮面-蛇に変fiして死んだ頗和の者を かたとる木柱-をもつ、郡礼を受けた男子はすべて桔社に加入する。結社の中核をなすのは 六十年に一正行なわれるシギという大祭に二度参か口し見た老人たちで、祭儀の秘儀と仮面錯社 にEEl有の秘密の言語を伝承している。 =参考文献= 阿部年陪 /9占∫ 「アフリカの創世神話 禾己伊国展新譜」 / 9 7年 「仮面と死-ドゴン社会における造形情動と文化」 月刊言語 別冊 アフリカの文化と言語 大修・館密店 FORTES,M.and DTmRLEN,G. (eds.) / 9占∫ AFRICjUI SYSTmS OF TLIOCJfr, 0.U.P. CRIAULE.M. / 93 g KASQIJES DOGONS, ER MEMOTRES DE I'川STITUT D'ET脚OLOGtE XXXIII, PARIS. / 9年ga L'Al⊥ZANCE CATrl腺rlQUE : JURICA 18 b DIEU D'EAU ; ENTI町rIENS AVEX: ∝TEMMELI,坂井信三・竹沢開一郎訳 「水の押-ドゴン族の神瀬的世界」 せりか否房/9g/ / 9∫ 7 METr70DE DE L'Fr恥CCfWE7IE, P.U.FりPARIS・ CRIAUIE,M et DIETERLEN,C / 9占5 LE RENARD PALE, TRAVAUX ET MEMOtRES DE L'lNSTITUT D'ETfmOLCCIE LXXII, pARIS. LEV卜STRAUSS / 9 5 8 ANrHROPOLOGrE STRUCTUfLuE,L柑RAIRIE FLON,PARIS.川EF肥濃訳「構造人塀 単」 みすず書房 /97.2 7 MAUSS,M. / 9 5 0 SCCIO1-OGIE AmPOLOGIE,P.U.F.,PARIS.有Ltb宇他訳 「社会学と入朝 学」 I,ⅠⅠ. 弘文堂 /973/7占 瓜IER,P. / 9占8 HISTOtRE L'JuTlⅡ抑POL(氾IE,PIUIF・ ,PARIS・ POIRIER,I. / 9占g HISTOI氾 PENSEE ET跡rOL∝IQⅧ ln J・POIRIER (ed ) ETZDJOLOCIE CE- NERALE, ENCYCLOPⅢ)IE DE LA PLEIADE・ / 9占9 HISTOIRE DE L'mOLOGIE (COLLECTION CUE SAIS-JE?) ,吉野情人訳 「良族学の歴史」 文庫クセジュ 白水社 この他に、足正和倍訳「マ)L'セル.モースの世界」みすす菅野/97ゲ(「瓜∝ELMAUI ss」の表題のもとに、 L'ARC誌48号/972 として出版されたものの翻訳)がある. 一・坂井侶三プロフィールー /9∫/年 生まれる /97∫年 南山大学入婿学科卒弟 / 9 g /年 東京都立大学社会科学研究科博士課程修了(社会^好学専攻) 現 在 甫Lu大学文学郡専任講師 論 文「身体と社会 -ドゴン族の生理- 富野観を手がかりとしで」社会人類学 年報 yo.14弘文堂 訳 管「水の神-ドゴン族の神帯筋世界」 (兵訳)せりか書方 △おわりに 南山大学人類学博物盟では、誇2回講現金を 昭和56年6月13日、在学の坂井倍三先生を法 師として開催した。坂井先生の専門分野は、アフリカ、ドゴン族の民族学的研究であり、本 隈では、ドゴン族研究の蛙となるフランス民族学の展開との関係を漕演して】貰いだ。富普前会 には、氏が調賓された際のスライドも上映され、愚昧深いものであった。 ここに、諦杭全の首己錘をまとめて、人≦頃学博物館幸笈として刊行することになりました。富碁 演ならびに、我々のまとめた僻要の校訂をしていただいた坂井先生の労に対`tJ・Btから感謝い たします.なお、説明不十分な点があれば、まとめた私達学生の賓任であります. (柴田慶子) (編集後閑) 本号は博物館学実習の学生中の/つのグループ、即ち放念正康・川崎-平・榊原裕子・ 宮地玲子・村減文子・屠場学・柴田選手の7名の^類学科学生が講演会の時点から一貫して 担当した。主として週一回のB75<謀略間内での作男であり、タイプ打ちの不慣れもあって、 発行が遅れたものの無事完成させた学生諸君の努力と、かれらに対し度々の御教示をたまわ った坂井講Btrに感謝したい。 ※ 表紙説明 ドゴン族の死んだ良和の祖先を あらわす仮面 新珊社 「旅人アフリカ美術」 (人類の契術)より