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インタビュー(PDF:108KB)

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インタビュー(PDF:108KB)
社会で活躍する卒業生
インタビュー
﹁
感若
じ者
さに
せ未
る来
仕を
事
﹂
中 村ブレイス株 式 会 社
代表取締役社長
中村 俊郎
さん
(1971年 短期大学部 通信教育部 卒業 )
通信教育で「学ぶ喜び」知る
かつては日本の銀の主産地だった石見
銀山で栄えた島根県大森町に、5人兄姉
の末っ子として生まれた。成績優秀で「向
学心は誰にも負けなかった」が、
経済的な
理由から大学進学を断念。病院勤めだっ
た姉の紹介で京都の義肢装具製作会社に
就職した。
「大学の多い京都ならば、
いつ
か夜間で学べるチャンスがある」と期待し
たことも、
就職の動機となった。
しかし、
いざ仕事が始まってみると、残
業続きの忙しさ。時は高度成長期で、
労災
事故や交通事故の増加とともに、業界へ
のニーズも高まっていた。しかし、
当時は
教科書になるものもなく、先輩の手作業
を見ては技術を学ぶ。やりがいは大きくな
る一方で、時間に余裕が持てないまま進
学の夢が遠のいていくかと思われたある日、
新聞広告で『近畿大学通信教育部』の存
在を知った。
「これなら同僚に迷惑をかけずに勉強
できる」と、入社2年目から受講。平日の
スクーリングを受けるために週末の休み
を返上して仕事をこなし、
京都から2時間
かけて長瀬まで通った。
今年、
通信教育部開設50周年を迎えた
通信教育部生みの親でもある世耕弘昭理事長の「私
達は進む 時に一歩後退する それから二歩前進
ときに足踏みをする 新らしき世界を求めて」
の言葉に励まされ通学を続けたという
母校は、
「ずっと学びたかった者にチャン
スを与えてくれた大学」。今でも初めて受
けたドイツ語の授業が忘れられない。
「や
っぱり大学の自由な雰囲気はいいなあと、
それだけでも満足していました」
過疎化した故郷の再生を懸けて起業
オンリーワン技術で高度な義肢装具を生む
通常は2年制のカリキュラムだが、
4年
かけて単位を取得した。
「卒業証書をもらうために大学に行くの
ではない。他人の力を借りて単位を取っ
世界遺産に登録されて一躍有名になった「石見銀山」。そのおひざ元の山間の小さな
ても意味がない」と、
中村さんは心に決め
集落に、義肢装具や医療用具の開発・製作で他の追随を許さない技術力を有する中村ブ
ていた。どんなにつらくても、
課題やレポ
レイスがある。世界特許を取得した足底装具をはじめ、「芸術品の域に達する」といわ
れるほどリアルに再現する人工乳房や手・指など、
高度な技術は国内外で評判に。
近畿大学短期大学部通信教育部を卒業し、ア
メリカで先端技術を学んだ創業者の中村俊郎さ
ートは自分自身の力で真剣に取り組んだ。
「仕事と通学でふらふらになりながらも、
一生懸命学んだこの期間がその後の人生
の支えになっている」と、
振り返る。
卒業試験では、
恩師とこんなやりとりが
んが抱き続けたのは、「若者に未来を感じさせ
あった。仕事を聞かれて「義肢装具づくり
る仕事で故郷に活気を取り戻す」という熱い思
をしています」と答えたところ、
「あなたは
いだった。
いい仕事をされていますね。がんばってく
ださい」と激励されたという。
「将来、
大切
09
社会で活躍する卒業生
中村ブレイス株式会社
〒694-0305 島根県大田市大森町ハ132
電話(0854)89-0231
FAX(0854)89-0018 ホームページ
http://www.nakamura-brace.co.jp
な仕事になる」と感じていた折に、
自分の
誇りを持てる仕事を与えること。中村ブレ
選択が間違いでなかったことを確信する
イスの評判を聞いて集まってきた若者が
出来事となった。次は義肢装具の先端技
働く社内は、
いつも明るい。義肢装具士資
術を学ぼうと、
京都の会社を退職し、
単身
格取得者も15人と心強い。
アメリカへ渡った。
「一人の技術者を育てるには十数年か
学生食堂の大盛りごはんは
空腹を満たしてくれました、
という思い出話も
かります。でも、
若者の発想は生かさない
たった一人で故郷に工房を開設
口コミで評判が広がり、成長企業に
アメリカでは、
向学心に理解を示してく
れる日系人との出会いなど良縁に恵まれた。
ともったいない。昔から大事な仕事は社
員に任せるようにして、
じっくり育ててきま
中村 俊郎(なかむら としろう)
した」
近畿大学短期大学部商経科通信教育部卒業。義肢装具の先端技術を
飛躍のきっかけとなった主力商品の足
昼は義肢装具製作会社で働きながら、夜
底装具も、
若手社員の力を生かしたものだ。
は英会話学校へ。大学の義肢装具士育成
骨折の治療や扁平足の矯正用に使われる
コースや病院でも学び、
2年間を過ごした。
シリコンゴム製で、
世界特許を取得しており、
この時期、
中村さんは驚くべき体験をし
世界中で130万個も売れている。国内で
■1948年、島根県大森町生まれ。66年、大井義肢製作所入社。71年、
学ぶため、退職してアメリカに留学。カリフォルニア大学、ランチョー・ロ
ス・アミゴス病院で学ぶ。74年に帰国し、中村ブレイスを創業。82年に
法人化。国際義肢装具連盟日本代表理事。島根県教育委員長、
「石見銀
山世界遺産をめざす会」理事として世界遺産登録に尽力。石見銀山資
料館理事長。
贈る活動も行っており、
アフガニスタンと
ている。自転車で帰宅途中、
車にひかれ重
は全国の義肢製作所に委託販売。直営店
大森町を舞台にした映画『アイ・ラヴ・ピー
傷を負い、
なんと病院の霊安室で意識を
を全国展開すれば収益は上がるが、
そうし
ス』のモデルになっている。
取り戻したというのだ。九死に一生を得た
た考えは毛頭ない。
「特許を取ったのは、
体験だが、
それさえも「死にかけた人間が
製品を独占しようというのではなく、
我々
り役に。
「幼かったころ、
『石見銀山は世界
助かったのだから、
学んだことを社会に役
が発明したということを世界にわかっても
の銀山』と父に繰り返し言われて育ちまし
立てたい」と志を強くさせる。
「故郷で創
らうだけでいいのです。後発だった日本の
た。忙しくて、
引き受けるかどうか悩みま
業しよう」と、
1974年に帰国した。
義肢装具をレベルアップさせたくてアメリ
したが、
こんなチャンスはないと思い、地
一人で起業し、納屋を改装した小さな
カに渡ったのですから、
同業の方々と一緒
域の人たちと一緒に活動することを決意
工房からスタート。最初の1カ月は受注ゼ
に、
いいものを提供できる喜びを分かち
しました」
ロで、
作ったのは叔父の腰痛用コルセット
合いたい」
石見銀山の世界遺産登録運動でも旗振
戦国時代後期から江戸前期にかけてヨ
だけだった。石見銀山華やかなりしころは
さらに、
中村ブレイスの代名詞ともいえ
人口20万人を超えた町の衰退を食い止
る製品がある。手作りによる人工の乳房や
の銀鉱だった石見銀山。山を削ることや
めるために、
「ここでしか作れない製品を
手、
指などだ。社長自ら「メディカルアート」
森林伐採をせずに、坑道を掘り進んで採
生み出して、世界に認められよう」という
と名づけたもので、
皮膚の色むら、
指のしわ、
掘する環境共生型の生産方式が特徴だった。
強い思いがあった。
透けて見える血管、
体毛など本物そっくり
文字通り再び世界の銀山となり、
ただの観
光地にするのではなく、
「なぜ世界遺産に
ーロッパでもその名を知られる世界有数
製品の良さは口コミで徐々に広がって
に再現する。人工乳房は仰向けになると
いく。取引先の病院でも、
「患者さん一人
横にたわみ、
湯船につかるとピンク色に染
選ばれたのか、その価値の部分を伝えて
ひとりに合わせて丁寧な仕事をしてくれる」
まるほどのリアルさ。オーダーメードのため、
いく」と新たな責任を感じている。
と評判は上々で、着実にユーザーや取引
指1本で製作に1カ月を要する不採算部
「『お前には道を切り開く力がある』と
先は増え、
82年に法人化。社員70人ほど
門だが、
「体の一部を損ない、
失意のどん
いう父の言葉や、
『義肢装具作りの本が日
の会社に成長し、
日本全国の医療機関、
義
底にいる人たちが笑顔を取り戻すきっか
本になければ、
君がアメリカで学んで本を
肢装具会社を通して約200種の製品を
け作り」を念頭に取り組んでいる。
提供している。
若者の発想を生かしながら
技術者をじっくり育てる
書けばいい』という国立病院の先生の言葉、
通信教育部の卒業試験での恩師の激励な
世界遺産の町から発信
故郷の新しい歴史を築く
ど、
心に残る言葉に励まされて奮起してき
ました。いろいろな方の力添えによって今
中村ブレイスは「元気なモノ作り中小企
の私があります。感謝の心を大事にしてプ
創業以来、
一貫してきたのは「人を大事
業300社」選定の他、
「第2回ものづくり
ラス思考で取り組めば、
夢は実現できるん
にすること」。まず、使う人の立場で喜ば
日本大賞特別賞」など多数の賞を受賞。
ですね」
れるものを作ることだ。一つの義肢装具
中村さんは本業以外にも、
島根県の教育
の提供が、障害を持つ人の人生を変える
委員長、
島根大学客員教授など、
さまざま
未来を世界遺産の町から発信していく。
きっかけとなる。それほど大きな仕事をし
な要職を務めてきた。海外の災害や戦争
深い郷土愛と仕事への情熱は、輝きを増
ているという自負はある。そして、
若者が
で足を失った子どもたちに無償で義足を
し続けるだろう。
これからも若い芽とともに、
21世紀の
社会で活躍する卒業生
10
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