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自分の弱さを認め祈れる人となる
自分の弱さを認め祈れる人となる 金城学院同窓会みどり野会会長 大野木 英 子 マタイによる福音書 5 章43 ~ 45節 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇ら せ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。………」 ずいぶん昔のことですが、長い間私の心に棘がひっ掛かったように忘れられ ない出来事がありました。ある日曜日、礼拝堂を出ようとした私は、突然「死 刑制度をどう思いますか、賛成ですか?反対ですか?」そう問いかけられまし た。とっさのことで、戸惑いながら「個人的には、いいとは思わないけれど」 と答えた私に「じゃあ、反対ですね、これに署名してください」そう言って渡 された署名用紙は死刑反対の用紙ではなく、一人の死刑囚の減刑を望む嘆願書 でした。しかも、そこに書かれている文字は私にとって忘れられない名前でし た。死刑囚の名前をいちいち覚えている私ではありませんが、その死刑囚は皆 さんや私と同じようにあの坂道を登りこの大学で学んでいた、皆さんにとって は先輩、私にとっては後輩に当たる学生を殺害した人物でした。もちろん、そ の学生のことを私が知っているわけでもありません。しかし、新聞に『家庭教 師します』と広告を出した彼女を『子供の家庭教師をしてほしい』と呼び出し 殺害した残忍なやり方は、同窓生として子を持つ親として許せませんでした。 どんなに年数が経ってもその名は忘れることはなかったのです。死刑を『いい』 とは思わないと言いながら、その名前を見た途端「卑怯と言われても、署名は できない」そう答えて礼拝堂を出ましたが、忘れられない出来事でした。 数年経って、ある『聖書を学ぶ会』で、マタイによる福音書 5 章43~45節の 学びをした時、自分の体験を話し「今でもきっと署名はできないかもしれない」 と言う私に、講師の先生は『「神は、正しい者にも正しくない者にも平等に雨 を降らしてくださる」あなた自身の中でその人との間に壁を作り、差別をして いるのではないか。敵とラベルを貼ることをやめたら、ものの見方が変わって くるのではないでしょうか』と指摘されました。私の中で『不特定多数の死刑 囚、この死刑囚』と差別しているという指摘は真実でしたが、それでも「彼の ―8― 死刑阻止の嘆願」の署名はできないという自分が依然としてありました。 そんな私の心を変えたのは一冊の本でした。筆者はシスターであり、ノー トルダム清心学園の理事長をしていらっしゃる渡辺和子先生です。 9 歳の時 『 2 ・26事件』で、当時教育総監をしていたお父様を青年将校たちによって惨 殺された経験をお持ちの方です。お父様の機転で、座卓の陰に隠れていたた め、渡辺先生の命は救われました。後にシスターとなることを選ばれた渡辺先 生は、お父様を殺した人々のことを『憎んでいますか』とよく聞かれたそうで す。その度に『あの方たちにはあの方たちの大義名分かおありになったと思い ますので、お恨みしておりません』と答えておられたそうです。 しかし、決してそうではなかった。修道院に入って20年ほど経った 2 月26日 に近い時、テレビ出演のためテレビ局へ出かけると、お父さんを殺した側の兵 士の一人も来ていたそうです。驚かれた先生は、心を落ち着かせようと、出さ れたコーヒーを飲もうとしますが、一滴も飲めなかった。何でもない朝のコー ヒー、口元に持っていっても喉に入らなかった。その時『自分は、本当は心か ら許していないのかもしれない』と思われたそうです。そして、「敵を愛する こと」の難しさを感じられたといいます。 もちろん、渡辺先生の体験と私の体験は比較すべきものではありません。し かし、先生の『頭で許しても、からだが言うことを聞かないことがある。口で は綺麗なことを言っても体がついていかないことがある。今、聖書の中の「敵 を愛しなさい」ということを実行するとすれば、せめて、相手の不幸を願わな いことを心に留めて、祈ることが自分のできる精一杯のこと、そして、言葉で 言えても体がついていかないことがあると知り、そんな自分を許すのです』と いう言葉が私の心を変えてくださったのです。 正当論をかざしながらも、心が・体がついていかないことは誰にでもある。 「死刑をいいとは思わない」と言いながら、特定の死刑囚に対して署名ができ なかった自分を心のどこかで許せなかったのかもしれない。しかし、「そんな 自分を許せない」と思うのでなく「そんな自分も私の中にある、そして、そん な自分を許すことがあってもいい」と気付かされたのです。「隣人を愛し、敵 を憎む」ことは簡単、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことは難 しい。しかし、神さまはそんな私をも愛し、愛を与えるために、イエスさまが 代わりに苦しみを負ってくださった。だからこそ、イエスさまの愛にお応えす る生き方が求められている。「愛することは難しくともその人のために折れる 人となること。その人が自分のしたことを省み、自分が殺めた彼女の無念さを 感じ取ることができるように変わっていってほしいと祈ることはできるかもし ―9― れない」そう思えたのです。そんな祈りができる人間となるよう、神様から求 められていることを覚えて歩んで参りたいと思っております。 2014年 4 月23日 朝の礼拝 ― 10 ―