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奴隷解放の表象 - 日本大学生産工学部

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奴隷解放の表象 - 日本大学生産工学部
日本大学生産工学部研究報告B
2012 年 6 月 第 45 巻
研究ノート
奴隷解放の表象
ウィリアム・ウェルズ・ブラウン
『逃亡,あるいは自由への飛躍』論(その1)
木内
徹 ,福島
昇
Representation of Emancipation:
William Wells Brown s
(No.1)
Toru KIUCHI
and Noboru FUKUSHIMA
劇場が次々と建設」(常山
Ⅰ. 初めに
41)された。また,この時代
の舞台は,いわゆるミンストレルショーという形式の寄
席演芸が主流であった。
ウィリ ア ム・ウェル ズ・ブ ラ ウ ン(
南北戦争前の 19世紀は,ブラウンの『自身が書いた逃
,1814?-1884)は,黒人の書いた最初の小説『ク
ローテル,あるいは大統領の娘
亡奴隷ウィリアム・ウェルズ・ブラウンの物語』(
アメリカ合衆国の奴
隷生活の物語』
,1847) を初めとして,ブラウンと境遇が似
の著者と
ているフレデリック・ダグラスの奴隷体験記など,奴隷
して知られているが,アメリカで初めて戯曲を出版した
制反対運動用のプロパガンダとしての意味もあり,多く
黒人劇作家としても知られている(
9)。ブラウン
の奴隷体験記が出版された。奴隷体験記はすなわち自伝
が生きた 19世紀は,アメリカにユージーン・オニールに
で,
「自伝作家の本質は演技であり」,
「自伝作家をひとり
よる本格的な演劇が育つ前の時代であり,ピューリタン
の役者として,自伝作品をひとつの演劇として読み換え
によってイギリスで敵視されていた演劇が,アメリカで
る」(常山
さらにいっそう嫌われたが,
「独立戦争と第2次対英戦争
曲『体験,あるいは北部の人に気骨を与える方法』
(
101)ことができる。ブラウンは,2編の戯
が終結したのち,アメリカではシェイクスピアを中核と
,
する演劇文化が大発展」し,1820年代から「大都市には
1856,[未刊行,作品は残っていない])と『逃亡,ある
日本大学生産工学部教養・基礎科学系教授
― 15 ―
いは自由への飛躍』
(
まみえることはなかった。その後,ブラウンは 500ドル
,1858) によって,まさに奴隷体験を戯曲にしてし
で洋裁師のサミュエル・ウィリーに売られ,ウィリーは
まった。戯曲形式がいかに人々へ訴える力が強いかを
ブラウンを蒸気船の下働きとして貸し出した。1年後,
知っていたのである。
ウィリーはブラウンを商人で蒸気船の船主イーノック・
プライスに売りに出した。
Ⅱ. ウィリアム・ウェルズ・ブラウンの生涯と作品
こうしてブラウンは,20歳になるまでにあちこちに貸
し出され,何度も逃亡を試みては失敗したが,1834年1
ウィリアム・ウェルズ・ブラウンは,医師でもあるジョ
月1日に,プライス家の旅行に同行し,オハイオ州シン
ン・ヤングの経営するケンタッキー州レキシントンの大
シナティの船着き場で蒸気船からトランクをあげる作業
農園で奴隷として,1814年頃7人兄弟の末っ子として生
をしていたとき,街の中に紛れ込んでしまう。そして,
まれた。ブラウンの父親は,ジョージ・ヒギンズという
6日のあいだ夜の街を,冬なのに薄着でろくな食料もな
ジョン・ヤングの兄弟(あるいはいとこ)であった。従っ
くさまよい,高熱を出して凍え死にそうになっていたと
て,ブラウンは白人と黒人のあいだの混血で,母親エリ
き,ある人に助けられた。
「その人はつばの広い帽子をか
ザベスも混血の女性であったため,白人のように肌の色
ぶり,非常に長いコートを着て,明らかに運動のため散
が白かった。ブラウンは,その肌の白さのため,ヤング
歩をしていた。私はこの人を見るとすぐに,その服装を
家の旅行に同行すると,家族の一員と間違われることが
見て,独り言を言った。
『あなたこそ,私が探し続けてき
しばしばあり,逆に,奴隷たちのあいだからは白人にお
た人だ』と。私は間違いを犯していなかった。この人こ
もねていると思われて揶揄の対象となった。そのことが,
そまさにその人だった」
(『ブラウンの物語』76)。そのと
ブラウンを深く悩ませることになったのである。
き食べ物や衣服や少額の金をくれて逃亡を手伝ってくれ
ヤング氏が 1827年にセントルイスに移住したとき,13
たのは,ウェルズ・ブラウンというクウェーカー であっ
歳のブラウンはあちこちの白人に一時的に奴隷として貸
た。このクウェーカーは,ブラウンに彼の姓名を与え,
し出された。この奴隷の貸し出しという習慣は当時の南
その後,ブラウンはウィリアム・ウェルズ・ブラウンと
部に
繁にあることであった。ヤング氏がミズーリ州の
名乗ることにした。すぐには最終目的地としていたカナ
議員になって多忙となったため,グローヴ・クックとい
ダへは行かずに,まずは,オハイオ州クリーブランドに
う残忍な奴隷監督者に奴隷の監督を一任したので,ヤン
逃亡して,1834年から 36年まで,湖を往復する蒸気船で
グ氏の奴隷たちは
繁に鞭を打たれるようになった。ブ
働きながら,同時に他の逃亡奴隷の救助を始める。逃亡
ラウンは,体験記に母が鞭を打たれ,助けることもでき
直後に,自由黒人であったエリザベス・スクーナーと結
なかった耐え難い思いを痛切に描いている。
婚し,3人の娘が生まれた。末娘ジョゼフィーンはのち
ブラウンは,1828年から 29年のあいだ,フリーランド
の 1855年,父親ウィリアムの伝記を書くこと に な る
という酒場の経営者に貸し出されたが,ひどい扱いをさ
れたので,逃亡して失敗し,連れ戻されて残虐な罰を受
。1836年から 45年までの9年間,さらに読み書き
けた。1830年には約6ヶ月,
『セントルイス・タイムズ』
の訓練をするとともに,蒸気船の終着港であったニュー
紙の編集者で,後に奴隷廃止論者となるエリージャ・ラ
ヨーク州バッファローに居住し,「連邦完全禁酒協会」
ヴジョイの助手として働いた。1830年から 31年には,ミ
を設立して,禁酒運動
ズーリ川を行き来する蒸気船の甲板員奴隷として働き,
に携わるとともに,逃亡奴隷支援のために地下鉄道のい
こ の と き ミ シ シッピー川 に 沿って,セ ン ト ル イ ス と
わゆる「車掌」を務め,カナダへ逃亡奴隷を逃がすため
ニューオリンズのあいだを往復し,ナッチェズなど南部
エリー湖の蒸気船で活躍した(
各地で奴隷制の実態をつぶさに観察することができた。
は,カリブ海のハイチなどを訪れ,アフリカ出身の黒人
また,学校でいう読み書きなどの基礎教育にあたるもの
たちが奴隷としてどのような運命をたどったかをつぶさ
をこの頃に習得したと思われる。1832年には約1年間,
に知った。そして「車掌」として働いた結果,たとえば,
奴隷商人ジェームズ・ウォーカーのもとで下働きとして
1842年5月から 12月までに 69人の逃亡奴隷をカナダ
働いた。1832年,ヤング氏は財政的
5)。1840年に
迫状態にあったた
へ逃亡させることに成功する。また,1843年7月,ニュー
め,ブラウンの父親であるヒギンズに決して売りに出さ
ヨーク州バッファローで奴隷制に反対する全国黒人会議
ないと約束してあったにもかかわらず,ブラウンを売り
が行われたとき,これに参
に出そうとする。そのときブラウンは,母とともに逃亡
加し,奴隷制反対運動家で黒人のヘンリー・ハイランド・
するが,2人はイリノイ州で捕らえられ,ブラウンはよ
ガーネットの演説「アメリカ合衆国の奴隷に告ぐ」をき
り過酷な労働を強いられる農作業の奴隷とされてしま
いて感銘を受け,またそこで,元奴隷で反奴隷制運動家
い,母エリザベスは遠い南部に売られ,2度と2人は相
として著名なフレデリック・ダグラスや,同じく奴隷制
― 16 ―
反対運動家で反対演説家チャールズ・レノックス・リー
滞在しなければならなかったのは,逃亡奴隷が自由州で
モンドといった奴隷制反対運動の黒人闘士たちに出会っ
捕らえられたら奴隷の身分に戻されるとした悪名高い逃
た。そして新聞『全国反奴隷制スタンダード』にこの会
亡奴隷法(1793年施行)が,1850年にアメリカ本国で一
議のことを報じる文章を初めて書いた。1843年秋には,
層強化された法案が可決していたためであった。そのた
西ニューヨーク反奴隷制協会の専属演説家となり,47年
め,ブラウンはもし帰国すれば,逃亡奴隷ということで
までその仕事を勤めた。ブラウンはこうして雄弁さのた
逮捕され,所有者のもとへ戻される危険性があったので
め急速に演説家として有名になっていき,この年後半の
ある。
半年で百回にも及ぶ奴隷制反対の演説を,ニューヨーク
1851年6月に,ロンドンで開かれた万国博覧会を訪
州,ペンシルヴァニア州,オハイオ州,インディアナ州
れ,1852年,呼び寄せた娘とともにフランスへ旅行して
などで行った。1844年,ニューヨークで行われたアメリ
反奴隷制の演説を行った。そして,その9月には『ヨー
カ反奴隷制協会の大会で演説するため招かれ,初めて大
ロッパでの3年
聴衆の前で演説を行った。1845年に,反奴隷制の急先鋒
た人々』
あるいは,私が見た場所と私が会っ
であるクウェーカーが多く住んでいるファーミントン
を出版した。これは欧州滞在
(ローチェスターの南東)
へ移り住んだ。1847年,妻と別
中にフレデリック・ダグラス発行の新聞や友人宛てに
れて娘を引き取り,その5月ボストンに移住して,マサ
送った書簡集である。1853年にはロンドンで,
『クローテ
チューセッツ州反奴隷制協会専属演説家として雇われる
ル,あるいは大統領の娘』を出版した。これは黒人によ
ことになる。
7月に北部に脱出するまでの 20年間を描い
る最初の小説だと言われているが,イギリスで出版され
た奴隷体験記『ブラウンの物語』を出版し,これはフレ
たので,正確には「アメリカ以外で出版された」最初の
デリック・ダグラスの奴隷体験記に次いでベストセラー
黒人による小説であり,その意味ではハリエット・ウィ
となりたちまち4版を重ねた。12月に『セイレム女性反
ルソン
奴隷制協会で行われた演説』
が「アメリカで出版された」最初の黒人による小説とい
-
の『我らのニグ』
(
,1859)
を出版し
うことになるだろう。『クローテル』は,アメリカで最初
た。こうしてブラウンは,ニューヨーク州やマサチュー
に出版されたものではないものの,それでもなお,黒人
セッツ州で奴隷制反対運動に深く関わっていった。ブラ
が最初に「書いた」小説であることに変わりはない。し
ウンの演説は道徳的良心と非暴力に訴えるものだった。
かし,『クローテル』はハリエット・ビーチャー・ストウ
奴隷制を維持するアメリカの民主主義の矛盾を批判し,
の『アンクルトムの小屋』(1852年)ほどには奴隷制を巡
時代に適応できない奴隷の従順さをも批判した。また黒
る議論の中心にならなかった。
人の劣等性を証明しようとする偏見に満ちた理論に反論
ブラウンは,この小説によって奴隷制が家族というも
した。1848年には,ベラ・マーシュとともに 46曲を集め
のに,いかに破壊的影響を及ぼすか,を示そうとした。
た歌集『反奴隷制の竪琴
また,奴隷制度がトマス・ジェファーソンのような民主
-
反奴隷制集会用歌集』
-
-
主義国家アメリカの象徴と,いかに矛盾するかを示そう
を出版した。しか
とした。この小説が出版されたときは,ブラウンはまだ
し,この当時,マサチューセッツ州の岬ケープ・コッド
法的に奴隷主プライスの所有物であった。ブラウンに
で演説中に暴漢に襲われ,危うく殺されそうになるとい
とって,この『クローテル』の世界は,架空の物語では
う体験もしている。また,逃亡を果たしたばかりのエレ
なく,まだ現実のものであった。そのようなとき,プラ
ン・クラフト,ウィリアム・クラフトという逃亡奴隷の
イスは,1848年にブラウンの奴隷体験記を読んで,325ド
夫婦と知り合い,1849年,ともに演説旅行をする。
ルで自由を保障しようと申し出た。しかし,ブラウンは
1849年7月,ボストンからイギリスへ渡航し,8月の
自由というものは神聖かつ犯すべからざるものであり,
パリ平和会議でアメリカ代表として反奴隷制運動の演説
買うものではないという信念から,最初その申し出を
をする。そして,先述のクラフト夫妻とともに奴隷制反
断ったが,これは神によって自由という身分が下された
対を訴え,イングランド各地,スコットランド,アイル
のだ,と
ランドなど各地を巡って,奴隷制反対の演説を行った。
こうして,1854年に主人プライスから自由の身分を買い
単に奴隷制反対運動を行うだけではなく,ヨーロッパの
取り,9月にアメリカに晴れて自由黒人として帰国し,
文化,宗教などの教養を身につけようとした。演説のな
再びボストンに住み,ニューイングランド反奴隷制協会
かで「何の教育も受けずに 20歳で奴隷制度から逃げ出し
の専属演説家となり,ロンドンやフィラデルフィアで
た人間は,(……)もし他の人に追いつこうとするなら,
行った演説『サント・ドミンゴ−その革命と愛国者たち』
他人が寝ているときにも本を読まねばならない」と言っ
ている。その後,5年間の長きにわたってヨーロッパに
(
えてプライスから自由を買い取ることにした。
,1854)
をまとめて出版した。これは,サント・ドミンゴ,つま
― 17 ―
り現在のハイチの黒人革命について述べたものである。
南部諸州の物語』
その後,1855年1月に,マサチューセッツ反奴隷制協会
の大会で基調演説家として演説した。
を出版した。1870年に
は,禁酒運動を基本にした政党の立ち上げに参加する。
また全国黒人市民会議にも演説者として招待され,少
自由黒人のための学校改革と禁酒運動を調査するために
しずつ政治と関わらざるを得ない状況になってくる。し
ケンタッキーを訪れるが,ここでクー・クラックス・ク
かし,自由党が結成されたとき,ブラウンは不偏不党を
ランの団員に捕らえられるという経験をする。1873年に
貫いた。これは,奴隷制反対運動は政治にまみれるべき
はアメリカ黒人のルーツをアフリカから追跡した3冊目
ではないという信念からだった。また,奴隷制反対論者
の歴史書『立ち上がる息子,あるいは黒人種の先人と発
で著名なウィリアム・ロイド・ギャリソンの急進的な反
展』
対運動の手法を支持した。そのほか,1859年に『ブラウ
ンの物語』の縮刷版である『アメリカの奴隷ウィリアム・
を出版する。『ヨーロッパ
のアメリカ人逃亡奴隷』
ウェルズ・ブラウンの回顧録』
は,
『ヨーロッパでの3年』の拡大版である。これは,
を出版し,自らの半生
ブラウンがいままで書いたもののなかで,アメリカの一
を振り返った。4月には,エリザベス・グレイと再婚し,
流新聞『ニューヨーク・デイリー・ニュース』で初めて
12月から翌年の3月まで『ミラルダ,あるいは美しい4
書評され「外国旅行の生き生きした楽しめる記録」であ
分の1黒人
ると評された。
事実に基づくアメリカの奴隷制を巡る
ロマンス』
1874年には,奴隷解放の立役者チャールズ・サムナー
を,
のためにボストンのミュージック・ホールで基調講演を
黒人週刊新聞に連載する。1861年,自由黒人のハイチへ
行う。1877年,イギリスを再訪し,禁酒を訴える演説を
の移住を訴えてカナダで演説を行う。いよいよ南北戦争
各地で行う。1879年から 80年に,元奴隷州であったアラ
が始まると,初めのうちは,黒人の戦争参加に反対を表
バマ,テネシー,ヴァージニアを旅行する。1880年,最
明したが,後に北軍の熱烈な支持者となっていった。1863
後の著書となる自伝『我が南部の家,あるいは南部とそ
年1月1日,奴隷解放宣言が発効すると,ボストンの教
の人々』
会で聴衆に向かってそれを読み上げた。そして,北軍が
を出版した。1884年2月,ウェンデル・フィリッ
組織した黒人初の連隊である第 54マサチューセッツ歩
プス(社会改革者,急進的な奴隷制廃止論者で,アメリ
兵連隊の新兵補充員を勤めた。ブラウンは,この年,黒
カ奴隷制反対協会会長,晩年は禁酒・刑罰改正・婦人参
人初の軍事史である『黒人
政権・企業活動の制限などを唱えて戦った)のために演
その祖先,天才,業績』
説を行った。11月9日,68歳で膀 胱 癌 の た め に マ サ
といった歴史書も出版したが,これは3
年間で 10版まで出た。
名声を博したブラウンだったが,マサチューセッツ州の
1864年,
『クローテル,あるいは大統領の娘』の改作で
あ る『ク ローテ ル
チューセッツ州チェルシーで死去した。これだけ生前に
南 部 諸 州 の 物 語』
ケンブリッジ・マサチューセッツの墓標のない墓地に埋
葬された。
を出版し,その秋には最
後の反奴隷制演説を行った。そして,1865年には,医業
を開始し,亡くなるまでこれを続ける。ヨーロッパにい
Ⅲ. 劇作家としてのウィリアム・ウェルズ・ブラ
ウン
るあいだも医療の実践を行ったが,この当時は医学教育
を本格的に受けたものでないと医療を実践できないとい
ブラウンは,アメリカ黒人最初の劇作家である。アイ
う時代ではなかったので,自己流で徐々に医学を学んで
ラ・オールドリッジとビクトール・セジュールは,それ
いった。しかし,それを生業とするまでには至らず,
「か
ぞれ,『黒人の医師』(1847年戯曲完成)と『セビリアの
つて人間の性格や心に汚名を着せたもののなかで,もっ
ユダヤ人』
(1844年にパリで上演)という,黒人としてア
とも残酷な抑圧制度」
(
『ブラウンの物語』
)
である奴隷制
メリカン・ルネサンス期の戯曲を書いたが,アメリカ国
を廃止させるべく反奴隷制運動のために全力を尽くし
内でこれらの戯曲を出版したわけではなくヨーロッパで
た。
出版し,活躍の場はアメリカではなくほぼヨーロッパ各
1867年,初めてワシントン
リカの反乱における黒人
を訪れる。また,
『アメ
その英雄的行動と忠誠心』
地であった 。その点,ブラウンには,アメリカで書きア
メリカで発表した2作の戯曲がある。『体験』と『逃亡』
である。従って,ブラウンは「アメリカで最初に戯曲を
と,
『クローテル
南部諸州の物語』
の改作である『クローテル,あるいは黒人の女主人公
出版した黒人の劇作家である」と言えるのである。
『体験』は,初め「パン生地顔」(“
― 18 ―
”奴隷制
度に反対しなかった北部自由州の議員,南北戦争当時南
自立の問題などを扱っている。黒人方言によって,奴隷
部に同調的だった北部住民のこと)というタイトルだっ
の日常的な会話がどのように行われているかを明らかに
た。「パン生地顔」
の北部出身の白人牧師が,説教のなか
し,人種問題のみならず,南部の白人と奴隷の女性との
で奴隷制を擁護していたが,彼自身誘拐されて奴隷とし
あいだに起こる,現代社会のセクシュアリティーに関す
て売られてしまう。
そこで奴隷としての体験を経験して,
る問題についても応用できる内容を含んでいる。北部の
自分のかつての態度を悔い改める。そして北部へ戻って
白人にも根強い偏見があることを暴き,人種問題は南部
奴隷制反対運動に積極的に参加するようになるのであ
だけのものではないことを明らかにしている。また,こ
る。1856年4月9日,ブラウンは「パン生地顔」のタイ
の戯曲は重要な歴史的問題として,「地下鉄道」の存在も
トルで,マサチューセッツ州ウスターにおいて,ネヘマ
際立たせている。そして,白人が黒人に扮して行なう,
イア・アダムズ牧師との共著『奴隷制についての南部側
黒人生活を茶化した演芸で,以前米国で流行したミンス
の見解』を初めて読み上げた(古川
9頁)。翌 1857年
トレルショーの実態もみることができる。テレビもラジ
2月2日,午後8時,オハイオ州セイレムのタウンホー
オも映画もない時代に,奴隷制度の実態をまざまざと北
ルでも読み上げた(
部の人々に知らせるためには,このように当時一般的で
42)
。
その一方,戯曲『逃亡』は,1858年に8折判のパンフ
レットとしてボストンで出版された。これを出版したロ
バート・ ・ウォールコットはユニテリアン教会牧師で,
あったミンストレル仕立てで観客に朗読することが大き
な意味を持ったのである。
『逃亡』のなかの出来事は,晩年の自伝『我が南部の家』
マサチューセッツ奴隷制反対協会書記長であった(古川
にほとんど繰り返し描かれている。そして『我が南部の
5)。この戯曲は,1847年2月4日にオハイオ州セイレム
家』は,その序文に筆者自ら「これらの昔の出来事は筆
の住民集会場で聴衆の前ですでに初めて読み上げられて
者の記憶から呼び起こして書かれたものである」(113)
いる(
と言っているように,作者が実際に体験したことである。
42)
。ブラウンは,この戯曲の前書で「こ
の戯曲は私自身の楽しみのために書かれたもので,聴衆
農園主のゲインズ医師はブラウンの主人ヤングをモデル
の目にさらすことなど毛頭
としていると思われる(
えたこともありません。そ
10)。
れでも,私は友人たちの前で個人的にこれを読み上げ,
『逃亡』は,キャンベルという隣人が,その専属医であ
その人たちの招きである文学会でも読み上げることにな
るゲインズ医師のところへやってくる場面から始まる。
りました。そのとき以来,この戯曲をこの国の様々な場
ブラウンは自伝のなかで「ゲインズ医師は,いつも幸せ
所で朗読することとなりました」と言っている。どうす
そうで誰しも同じ幸福を願う『ポプラー農場』の所有者
れば,奴隷制をそのまま聴衆に伝えられるか,演説のな
で,穏やかな性格で,明るい紳士だった」(『我が南部の
かで戯曲仕立てにしたら訴える力が強くなるか,などと
家』119)と言っているように,この戯曲は伝記的要素が
工夫した結果なのである。
ふんだんに盛り込まれている。ゲインズ夫人は自分の身
たとえば,1847年のマサチューセッツ州セイレム女性
反奴隷制協会における演説のなかで,
「私が,仮に奴隷制
分が高いことを理由に,夫にキャンベル夫人の来訪を断
る。
の悪弊をあなたがたに語り,最悪の状態の奴隷を示した
いとしても,一人一人をそこへ実際に連れて行き,耳元
あの方とおつきあいするのはどうしてもごめんだわ。
でそっとつぶやきたい。奴隷制度はこれが典型というも
だって,あの方,皮なめし業者の娘だって話よ。あなた,
のはないし,それを示すこともできないのですよ,と」
覚えておいていただきたいんですけど,あたしは口に銀
(
190)と言っている。ニューヨーク州オー
のスプーンをくわえて生まれてきたって言われるくら
バーンの新聞『デイリー・アドヴァタイザー』は,「ブラ
い,お金持ちで高貴な家に生まれたんですからね。ワイ
ウン氏の作品は,奴隷制擁護に対する批判の傑作戯曲で
リー家の血筋が私の血管に流れているんですからね。
(1
あり,ウィットと風刺と哲学と論点と客観的事実に満ち
幕1場)
ている。それらすべてが天才的な手法で結合されている」
と高く評価し,ギャリソンの新聞
『解放者』
(1858年9月
10日,10月8日)
や
『全国反奴隷制スタンダード』(1858
(『日本大学生産工学部研究報告 』第 46巻 2013年6月
へ続く)
年 12月 25日)も絶賛している。
その当時,どちらの戯曲も演劇作品として上演はされ
Notes
なかったが,聴衆の前で朗読された。北部と南部が南北
戦争に突入する直前の緊張状態にあるなかで,出版され,
1. 以下,『ブラウンの物語』と略す。本書への言及は,
朗読されたこの戯曲は,
奴隷の性的な搾取に焦点を当て,
奴隷制のもとでの道徳的腐敗や人種差別の問題,黒人の
― 19 ―
すべて
-
か
らである。
-
2. 以下,
『逃亡』
と略す。本書への言及は,すべて
-
-
からである。
-
3. 1650年ごろ英国でジョージ・フォックスによって
-
立されたプロテスタントの一派で正式名はフレンド
派といい,
「主のことばに震える“
”」というこ
とから付けられた俗称。
-
4. 以下,『我が南部の家』
と略す。本書への言及はすべ
て
-
5. 福島昇・木内徹共訳「アイラ・オールドリッジ著『黒
人の医師』
」
,
『日本大学生産工学部研究報告 』第 42
-
巻(2009年6月 20日)
,117-146頁,木内徹・福島
-
昇共著「黒人俳優アイラ・オールドリッジの生涯に
ついて」,
『日本大学生産工学部研究報告 』42
(2009
年6月 20日)
,1-8頁,福島昇・木内徹共訳「ビク
トール・セジュール著『セビリャのユダヤ人』」,『日
本大学生産工学部研究報告 』第 43巻(2010年6月
//
20日),1-57頁,木内徹・福島昇共著「戦争のあと
- />
に撃たれた大砲
/
//
/
ビクトール・セジュールの生涯
と作品について」
,
『日本大学生産工学部研究報告 』
第 43巻(2010年6月 20日)
,13-19頁を参照。
Works Cited
古川博巳「戯曲『逃亡ないし自由への跳躍』−逃亡奴隷が
記したドラマと人生の間」,『黒人研究』44号(1972
年 12月 25日),5-9頁,13頁.
常山菜穂子『アメリカン・シェイクスピア
初期アメ
リカ演劇の文化史』(国書刊行会,2003年)
*
-
本研究ノートは,日本学術振興会科学研究費補助金
(基盤研究
)の助成によるものである。
( 24.2.18受理)
― 20 ―
Fly UP