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百音語
「というわけで私、明日から一週間実家に帰るから」
馴染みの涼しい喫茶店でアイスコーヒーを片手に、宇佐見蓮子はそう切り出した。
「そう、じゃあお土産は東京ばな奈と面白い怪談話でいいわよ」
ちりば
その話は今日、十一回目だ。毎回気の利いた返しを考える身にもなって欲しい。
「ん~。身の毛もよだつような面白くておいしい話を仕入れてこなきゃね」
められた
蓮子はそんなことは意に介せず、フォークでブルーベリーとラズベリーが鏤
フルーツタルトを口に運びながら答えた。私もあれにすればよかったと少しだけ後悔し
て、グラスの口を指でふき取った。店内は私たちの他に客は一人だけで、ブルーノート・
』が静かに流れていた。
ジャズの『 POLKA DOTS AND MOONBEAM
「物を口に入れながら話さないの。行儀悪いわよ」
あくび
蓮子は、んーと生返事をしながらせっせとタルトの続きを口に運び始めた。私もマン
ゴーベリーヌの残りを味わいながら窓の外に目をやる。昼間は天気もよく絶好の活動日
腕時計をちらりと見るともう六時十二分。もう今日は秘封倶楽部の活動もお仕舞いだ。
和だったが、今は茜色に頬を染めながら空は欠伸をしていた。誕生日に彼女から貰った
私はベリーヌを食べ終え、ガムシロップをひとつと半分、ミルクを少しだけ入れたア
イスコーヒーを口にしながら隣に置いた紙袋を見る。今日はお互い本屋やアンティーク
かけら
ショップで買った荷物がそれなりにあったせいでへとへとだ。蓮子はタルトの最後の一
や
ゆ
欠片を口に放り投げながら話し始めた。 「まったく、怪談話なんて趣味の悪いもの調べるのはよしたらいかがかね」
「趣味が悪いのはお互い様でしょ」
揄したので少しむっとした。
い私すは、彼女が人の忠告を無視して、私の最近の関心事を揶
椅子に座ったまま伸びをして続ける。
「という訳で一週間、私は晴れて自由の身ってわけね」
「お勤め、ご苦労さんです。お嬢」
蓮子は大げさに体を乗り出しながら私に顔を近づけた。マスカラもつけていないのに
長い睫。少し羨ましく思いながら顔を背けて肩を竦めた。 にんきょう
「任侠映画やドラマのどこが面白いのよ」
かじ
「なあに、せっかくのながーい夏季休業なんだから、有意義に過ごさなきゃ」
「日がな一日テレビに噛りついてるのが有意義なわけ」 ここ四日はレンタルショップから借りてきたアーカイヴ・レイとネットで買った怪談
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ああ この素晴らしき世界のために
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やホラー、任侠物の映像ファイルを交互に見ながら過ごしていた。私の態としては秘封
倶楽部の活動として日本の怪談やホラーなどを通したオカルト系映像作品を鑑賞しつ
つ、専攻の相対性心理学的見聞を広めるといったものだが、蓮子の場合は完全に趣味だ。
私が怪談話やホラー映画を見ているときに、横から補足という名のちゃちゃを入れたり、
ネタばらしをするのはやめて欲しい。寝るのもだ。
「だからこうして今日は買い物に出たんじゃないのー健康的に」
蓮子はアイスコーヒーの残りを音を立てないように飲みきってから、そう言った。 「はいはい。まあ、蓮子がいない間はゆっくり映画も見れるし」
私は少しだけ厭みを込めながら答えた。外ではこうして気も使えるのに、どうして家
で二人きりの時にはできないのか。怪談やオカルトに日常的に触れていると不思議な事
やものに出会う事は多々あるが、そんなことよりも人間そのもののほうがよっぽど不思
議で不可解なものである。この見解は一昨日、B級ホラーを五本ほど連続で鑑賞した後
に、蓮子が欠伸交じりに出したものだ。事実は小説よりも奇なり。なるほど蓮子自身、
ただ
それを体現しているわけだ。
「何よ、メリーだって爛れた生活がしたいんじゃない」
私の真似をして伸びをしながら蓮子は言った。私は二千二百円と書かれた伝票を見て
から白い財布を鞄から取り出して開き、七百七十円を伝票の上に置いた。この店は毎月
十日と二十日に三割の学生割引をしてくれる。一日過ぎてはいるが、マスターがオカル
こだわ
ト好きである事と常連である事をいい事に、毎回三割引でマスターの奥さんお手製のス
イーツと、マスター拘りのコーヒーを味わっているのだ。
「人聞きの悪い事言わないでよ。私は健康的にホラー鑑賞がしたいだけよ」
私も残りのコーヒーを飲み干しながらそう反論する。グラスの底で溶けきれずに溜
まっていたガムシロップの甘さがやわらかく口に広がった。蓮子はポケットから千円札
を取り出して置き、私が置いた硬貨の中からぴったりの額を拾い上げて残りをまたポ
ケットに仕舞う。蓮子は早々に荷物に手をかけると立ち上がりながら言った。
「どこが健康的なのよ、私がいない間ずっと引籠る気じゃないでしょうねー」
私も荷物を持って立ち上がりながら、カウンターでグラスを拭いていたマスターに向
き直って言った。
タルト、お願いしてもいいですか」
「ご馳走様でした。ベリーヌ美味しかったです。明後日、今日蓮子が食べてたフルーツ
マスターはにっこり笑って拭いていたグラスとクロスを置くと、軽く手を上げて合図
してくれた。マスターは気さくで優しく、大柄でひげを蓄えた見た目の割りに若い。奥
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さんとも仲がよく、和やかに店を切り盛りしている。将来、喫茶店を開くのも悪くない
かもしれないと思う。私は蓮子と出口に足を向けた。
「外に出る気はあるみたいね。ひとこと言えば一口あげたのにー。よっこいしょっと」
「オジサンっぽいよ、蓮子。それに」
私が片手で入り口のドアを開けると、カランとベルの音がして、少しだけ緩んだ夏の
熱と香りが店内に飛び込んできた。まだ陽は落ちきってはいない。
「それにー」 子の瞳に夕焼けが映ってい
私は外に出て伸びをしながら振り返ると、小首を傾げるほ蓮
ほえ
る。蓮子の後ろでカランとドアが閉まる音を聴きながら微笑んで言った。
「美味しいものは独り占めしたいじゃない」
静かな夏休みを満喫していた。
八月十三日。私は大学生活二度目うの
つ
した日本は過去、全国に浸透していた風習を時代に
首都機能の全てを新都、京都に遷
合わせて変化させていた。日本の先祖供養の風習であるお盆は、蓮子の実家のある旧都
でははるか昔、七月十五日に行っていたそうだが、今は一ヶ月遅れた、昔で言う旧盆の
日程で行われているそうだ。昔は新都でも八月にお盆を迎えていたようだが、今では旧
都での日程を引き継ぎ、七月に行う習わしとなっている。
「ん~。もうちょっと早く出ればよかったな」
私はこの夏の初めに買って、まだ袖を通していなかった白にベージュの刺繍が入った
ワンピースを着て、買い物に来ていた。伸びをしながら商店街のモニュメントに備え付
かげ
けられた時計を見ると午後四時三十二分。起きたのが一時半頃だったので気分はまだ午
前中だ。正午を過ぎているため真夏の日は少し翳り、風も穏やかに吹き、空は高い。西
の空に積雲が見えるくらいでこの季節にしては快適だ。
朝ごはんの代わりにと、さっきいつものお店に行ってフルーツタルトを食べてきた。
今回は蓮子が食べた時にはなかったクランベリージャムが添えられていて、予想よりも
おかし
はるかに美味しく、なんだか得をした気分だ。ただ、蓮子に言われて否定はしたが、大
学生ならではの爛れた生活をしている自分が少し可笑しかった。
は一週間までにしようと決めていた。家に引籠ってばかり居るとど
三日前から籠るうの
つうつ
うしても気分が鬱々としてくる。二日前に少しだけ外に出たので予定としてはあと一日
ばっこ
あるが、蓮子が旧都に帰っている間にもう二十本くらいは映画やドラマを見たはずだ。
とある地下都市でバイオハザードに巻き込まれた新人警官がゾンビたちが跋扈する死の
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ああ この素晴らしき世界のために
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街から脱出するアクション。街の人間が少しずつ半魚人に代わって行ってしまい、その
筆舌しがたい容姿と海に住む邪神の復活を描いたもの。日本の山中にある村の人間が地
域に根付いた宗教によって狂気に陥っていくもの。古典作品を基にした幽霊譚。パソコ
ンの中に巣食う電子霊の都市伝説。夜一人でいると部屋をノックして、ドアを空けた人
間を次元の狭間へ連れて行く怪物、などなど。面白いものもいくつかあったが、いい加
減に飽きた。
とは言え、時間はまだ早い。新都の夏は地形のせいもあるが暑い。買い物以外にもう
少し、この貴重な過ごしやすい日をもっと有効に活用できないものか、とぼんやり考え
まば
ながら歩いていると、いつの間にか商店街のはずれに来ていた。お盆でて地方へ帰省し
ている人間が多いからか、人通りは疎らだ。
ひとけ
「んー、こういう時って、映画だと必ず主人公は裏路地に行くのよね」
気の無い場所に好き好ん
ホラー映画で得た知識のひとつ。なぜああも主人公たちは人
で足を向けるのかがわかった気がした。何のことはない。いつもの私たちのサークルの
活動指針と変わりないのだ。好奇心によって私たちは活動している。
運よく、私は今まで現実では映画のようにゾンビやクリーチャー、幽霊に出会った事
はなく、そういう空想や創作の世界は愉しいファンタジーでしかない。いつもは二人で
つぶや
行動することが多いので、たまには自分がホラーや怪談、都市伝説の主人公の真似をし
て一人で新都の裏通りを散策するのも悪くない。そう独り言を呟いてから商店街の裏路
地に足を向けた。
「新都にもこんなところがあるのね」
裏通りは通りより少し薄暗く風通しもあまり良くない。じっとりと夏の湿気が漂って
いる気がした。ただ、裏通りならではのお店も立ち並び、異国情緒溢れた不思議な不思
議な感覚に陥る。
「映画だと、こういう時に女の子一人でいると必ず絡まれるのよね」
左に目を向けると、机とコルクボードにストラップや指輪を飾り並べているお店が見
える。派手な格好をした若い男が、女子高生二人にシルバーのアクセサリーを勧めてい
る様に既視感を覚えた。てくてくと裏路地を散策しながら、ここ数日を振り返ってみた。
この一週間ほど見ていた映画は五百年以上も前のヴィンテージ物が多かったが、物語
の冒頭でこういう光景を何回か見た記憶がある。何百年経とうと人間の本質は変わらな
いらしい。
頭の中でここ数日どっぷりと漬かっていたホラーやら都市伝説やらが渦巻く。話とし
ては大まかに勧善懲悪、もしくは欲を出した人間が失敗するという道徳に近いもの、純
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ああ この素晴らしき世界のために
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粋な悪意によって恐怖が発生するもの、動物的本能を利用した純粋な恐怖、切ない死に
まつわる物語。物によってまちまちではあるが、大まかにこのくらい。ホラーとは何か、
ゾンビや悪魔、幽霊、『十三日の金曜日』のジェイソン、『エルム街の悪夢』のフレディ
が出てくればホラーかと言われると首を傾げざるを得ないが、昔の映像作品の脚本を読
み解いてみるとわかりやすく、そして穴だらけなファンタジーだ。
中でも一番怖かったのはB級モンスター映画の人間が虫に変わっていってしまうもの
だ。一番生理的に受けつけなかった。狼人間のように大きい虫に変わってしまうものは
さておき、髪の毛や手足の爪が虫に変わって、皮膚の下や内臓の中に巣を作る。思い出
しているとそれだけで気持ち悪い。これは動物的本能を利用した映像ならではの演出で
はあるが、この時ばかりは隣に蓮子が居なくて心細いと思った。
二時間半ほど経っただろうか。裏路地の主人公になる、という二次目的は裏通りでの
ウィンドーショッピングにすり替わっていた。かわいい小物や雑貨、洋服を売っている
お店も見つけられたし、一次目的である気分転換は概ね成功したと言ってもよかった。
夏特有の気の早い街灯がちらほらと見える。腕時計を見るともう六時半を回っていた。
今や裏路地は陽が傾いたために陰り、より薄暗くなっていた。昼間は遠くに見えていた
はら
雲は灰色の巨大な入道雲に成長して、雨の気配を孕んでいる。久しぶりの一人きりの散
むな
策で少し興奮していた私はこのまま帰るのが少し名残惜しく、我ながらいじらしくした
り顔で歩いていた。探検しているようで楽しい。だが、期待も虚しく飲食店の排気と埃
ばかりの人通りのない裏路地に迷い込んでしまった。
きびす
「もう帰ろうかな、日も暮れてきたし」
を返してもと来た道を帰ろうとすると、道の真ん中に黒猫が立ってじっと私を見つ
踵
めていた。不幸を運ぶ黒猫をテーマにした映画があったことを思い出して、少し不安に
なった。王道過ぎるし、ベタ過ぎる。ただ、周りの気温が二度下がった気がした。そう
いえば映画の主人公たちもこうして日常から唐突に、恐怖という非日常の中に堕ちて
いったのだ。夏の香りは鳴りを潜め、鼻につく厭に甘い匂いがする。
「ど、どうしたの」 私は黒猫に恐る恐る話しかけてみたが、猫は微動だにせず私をじっと見つめていた。
いや、違う。猫はじっと私の後ろを見つめていたのだ。
はんすう
後ろでぱりんと何かが割れる音がした。何者かの気配を感じる。現実の時間がゆっく
り流れ始めると同時に、頭の中で映像が明滅していた。こういう時、ホラー映画の主人
公たちはどうしていたか。記憶を反芻する。ごうんごうんと聞こえていた排気のファン
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ああ この素晴らしき世界のために
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の音が少しずつ遠くなり、消えていく。いつの間にか額に汗が滲み、髪の毛が頬に張り
ついていた。
私は黒猫の瞳を見つめ返したまま、後ろにいる何かの動向を探ってみた。そうだ、携
帯で後ろを撮影してみようか。鞄の中に手を入れてデバイスを繰り当てようとした。だ
めだ。それこそ映像の中で死んでいった被害者たちと同じ目に遭ってしまう。鞄の中で
デバイスのストラップを探り当てたが、それを握り締めた。
振り返らず前に向かって走るか。いや、もし。それが本当に人ならざるものだったな
ら。冷えていく外気とは裏腹に、体は熱を持ちはじめていた。何のためにつらつらとホ
ラー作品を鑑賞していたのか。秘封倶楽部の活動、研究のためではない。それは建前で、
いずれこういう事が我が身に降り懸かるのではないか。本当はその危惧と焦りからだっ
たのだ。ドラマならブラックアウトする場面だ。しかし、そうはならない。
「それって、気持ち悪いと思わない。メリー」
蓮子の声が頭の中で、耳元で聴こえた。こういう時に私は何をすべきなのか。森を観
て、木を視ていなかった自分自身が急激に恨めしくなった。私がいなくなったら、悲し
む人はいるのだろうか。ごくり。と、喉が鳴り、鼓動が早くなる。
叫びたい。今すぐここから逃げ出したいのに、足が言う事を聞いてくれなかった。そ
うだ、蓮子が帰ってきたらまず、この話をしよう。どうせまた夢の話だと、笑って片付
けてくれるに決まっている。日常という非日常が今はひたすらに恋しい。
めまい
私は既に恐怖という呪縛に囚われていた。一度凍りついた思考はじわりと溶け出して
背中を伝う。そして、その雫は太股を伝って足元に染みが広がり、ぬかるむ。体が少し
ずつ沈んでいく気がした。次第に強くなってゆく匂いに眩暈がする。ざり、ざり、と何
かを引きずるような音が聞こえている。確実に気配は近づいていた。
そして、ぴったりと私の背後に重なるように、それは、恐らく立っていた。どうする。
どうする。鞄の中で白い兎のストラップが悲鳴を上げていた。膝が折れそうだ。
ねっとりした甘い香りが、胸元と袖口から進入してくる。嫌だ、誰か、助けて。
形容できない不快感。生ぬるい、得体の知れない何かは、私の素肌を縛り上げていく。
色を感じた、というのは表現として正しくはないであろうが、背後でどろどろとした紫
色が渦を巻いていた、気がした。
結局、私はそのまま振り返ることはなかった。いや、振り返ることができなかった。
と言うほうが正しい。尋常ならざる恐怖に打ち震え、立ち尽くしてはいたが、真っ直ぐ
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ああ この素晴らしき世界のために
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に黒猫の瞳だけは見据えていたのだ。その金色の瞳は少しずつ、少しずつ、左に動き始
める。私は背後に意識を向けた。ゆっくりと、不定形の何かは、猫の瞳の動きに合わせ
てゆっくりと動いていた。そして、ぴったりとその瞳と何かが止まる。二次目的は既に
達成されていた、などと頭は急激に冷静な判断力を取り戻し、どうでもよい事を考えて
うごめ
いた。胸の中で焦り、悲鳴を上げていた心とは裏腹に。
いていた何かの気配が消える。少しだけ外気温が上がった気がした。ほっと
背後に蠢
してストラップを握り締めていた手を緩めようとしたが、猫はまだ、何かを見つめてい
た。もうひとつの気配がそこに、在る。新たに現れたその気配は、確かな質量を持って
私に近づいてきていた。人の足音のようにも思える。ざり、ざり。と。それは今までの
ゆっくりとした粘度をもったそれではなく、一定のリズムを持っていた。猫はまだ視線
を動かさず、じっと私の左後方を見つめている。
今度は何が現れたのか。ザラザラとノイズのような足音は、刻一刻と私目掛けて近づ
いてくる。汗で溶けたマスカラで目が痛い。背中に張りついたワンピースや、湿気で蒸
れた下着が気持ち悪かった。ごろごろと灰色の空は喉を鳴らしながら、泣き出しそうな
顔をしている。
バン。と唐突に破裂音が聞こえた。私は驚いて小さく悲鳴を上げながら力なく地面に
いぶか
へたり込んでしまう。若い藍色のチュニックを着た金髪の女性が私を訝しりながら一瞥
し、ビニール傘を差して足早に私の横を通り過ぎて行く。ああ、よかった。私はほっと
して胸を撫で下ろし、握り締めていた兎を解放した。
ほぐ
ほ
て
ぽつ、と頬に冷たさを感じた。空を見上げると、ぱらぱらとビルの室外機に雨粒がぶ
つかって弾けている。降り出したらしい。ああそうだ、私は帰ろうとしていたんだ。さっ
きまでの恐怖と緊張が雨によって解れ、火照った身体と麻痺した心を静めていく。視線
とばり
をさっきまで黒猫がいた場所に戻すと、もうそこには何もなかった。腕時計を見ると七
時前。雨雲も手伝ってか夜の帳が降りてきていた。
「帰らなくちゃ」
私はふらりと汚れた足で立ち上がり、通りに出ようと鞄を抱いて走った。ただ、少し
走ってから思い直して立ち止まる。さっきまでは恐ろしくて振り返れなかったが、確か
に後ろにいたであろう何かがどうしても気になる。私は意を決して振り返った。すると
そこには何もなく、何の変哲もない薄暗い路地があるだけだった。 「気のせいだったのかな」
雨が次第に強くなってきた。既に白いワンピースと膝は、雨と埃で汚れていた。途中
で傘を買う気にはなれない。もう一度通りに出ようと私は駆け出した。さっきのはなん
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ああ この素晴らしき世界のために
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だったんだろう。そういえば何でこんな路地に入ったんだろうか。甘い香り、黒猫、金
色の瞳と紫色。小走りしながら、頭の中でいくつもの疑問が跳ねる。いや、いい。今は
ただ、早く帰って熱いシャワーが浴びたい。明るい街頭の光が見えてきた。通りに出れ
そうだ。
後ろでにゃあん、と猫の鳴き声が聞こえた。咄嗟に私は振り返ってしまう。闇の中で
二つの金色の瞳がこちらをじっと、見つめていた。
がちゃん。ちゃりん。下駄箱の上に鍵を置く。私はずぶ濡れになりながら、家に辿り
着いていた。通りに出るまでに服も身体も汚れていたので、歩いて帰ってきた。生地が
薄い夏服だったこともあって下着が透けていたのも電車に乗らなかった理由のひとつだ
が。それほど遠出はしていなかったが、それなりに歩いたので足が張って辛い。行儀が
悪いと思いながら靴を脱ぎ捨て、鞄を置いた。フローリングよりも足が冷たい。温かい
お風呂が恋しかった。早く、お風呂にゆっくりと浸かって身体を温めたい。
私は真っ直ぐに風呂場に向かい、濡れているというよりは透けていたワンピースと、
濡れて気持ち悪い下着を洗濯機に放り込み、裸になってバスルームのドアを開けた。髪
が肌について冷たかった。
1LDKのワンルーム。一人暮らしには少し手広な我が家。バスルームはもちろんト
イレバス別だ。シャワーの蛇口を捻るとしばらく冷たい水が流れ、すぐに少し熱めのお
湯が湯気を立てはじめた。
「ああー、生き返るわ」
そういえば、二人で温泉に行った時にも同じようなことを蓮子が話していた気がする。
温泉に入って生き返る、ってよく言うけれどそれまで死んでたの、私たち。頭から熱い
シャワーを浴びた。冷え切った頬が少しだけ緩み、身体が少しずつ温まっていく。バス
タブにお湯を張りながら、シャワーノズルを低めのハングに掛け直してバスチェアに
座った。とりあえずメイクを落とそう。
今日は暑いと思ったのであまりメイクはしていなかったが、それなりに濡れて帰って
きたので、きっとひどい顔をしているなと思った。鏡の中の私は一体どんな恐ろしい顔
をしているのだろうか。湯気で曇った鏡をシャワーで流した。湯気の中から現れた顔は
予想に反して笑っていた。シャワーの音とお湯の流れる音がする。
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ああ この素晴らしき世界のために
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「ん、どうしたのメリー。帰るのは明日よー」
蓮子は夕飯を食べ終え、自分の部屋のベッドに身体を預けて実家に戻る前に新都で
買 っ た 本 を な が ら 読 み し て い た。 窓 か ら 気 の 早 い 星 を 眺 め る。 時 間 は 六 時 四 十 七 分
二十八秒コンマ三十四。食事をしてすぐに寝そべって、我ながら行儀が悪いなと思った
が、そんなことはどうでもいい。せっかくの実家だ。だらしなくいきたい。
「ううん。帰ってくるのはいいんだけど、そういえば課題って終わった?」
「課題? って言ってもまだ夏休みなんて半分以上残ってるじゃない」
あいまい
。蓮子は曖昧に記憶の中を泳いでみた。特に思い当たる節がない。ぱらぱ
何のことめだ
く
らと本を捲る。小説の中では漢たちが兄弟の杯を交わしていた。
「あ、いや八月の十九日に岡崎教授が提出しに来い、って言ってなかったっけ」
「えっ」
蓮子は素っ頓狂な声を上げた。そういえば、そんなことを中間試験の後に聞いたよう
な気がする。今はまだ気がするだけだが。
「だから、あの課題のレポート」 つい二週間と四日ほど前のことだったが、既に埃を被っていた記憶を掘り起こす。あ
あ、たしかに、あの変態教授がそんなことを言っていた気がする。のんべんだらりと実
家で墓参りをしている間にすっかり忘れていた。あの教授の課題をうっかり忘れたり、
意図的にすっぽかしたりすると、ギフトという名の通常の二倍の課題と、小三時間ほど
は正座で延々と講釈という名の説教を聞きながら、貴重な女子大生の優雅な午後を消費
して彼女とランデブーする羽目になる。それだけは勘弁したい。
まと
蓮子はぱたん、と読んでいた本を閉じて、荷物をまとめようとベッドから跳ね起きた。
着替えと本と本、レンタルしたアーカイヴ・レイ、メリーのためにこっちで買った、旧
都の都市伝説を纏めた本。持って帰るものを思い浮かべながら、黒いキャリーに手を伸
ばそうとしたが、既にキャリーから着替えや物が溢れていたので急激にやる気をなくし
てベッドに再び倒れ込み、読みかけの本を開く。
「よーし、明日の昼にはそっちに着くから泊めて」
「はいはい、泊めてじゃなくて、そういう時はなんて言うの」
いくばく
蓮子は携帯デバイスを片手に、ベッドを転がって唸る。悔しいが背に腹は変えられな
い。恐らくはご飯かお菓子だ。ありがたいことに、可愛がってくれる親戚のおじさんや
おばさん達から幾許かお小遣いを貰っていたので、懐には余裕があった。
「手伝ってください、お願いしますメリー様。なんでもしますからー」
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ああ この素晴らしき世界のために
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「ん。今、なんでもするって言ったよね。じゃあ……」
寒気がした、気がした。クーラーの温度を下げすぎたか。しかしこのままでは、恐ら
く五千円分ほどは借りを返さなくてはと思うと確かに薄ら寒い。
「あー電波が遠い。あー、聴こえるメリー」
「あっ、ちょっと蓮子はな……」
枕元に置く。画面の
蓮子はメリーの声をわざとらしく遮って電話を切り、デバイスを
のたま
中で白い羊が寝息を立てていた。面倒な事になった。魔法などと宣うアナクロファンタ
ジスタな変人の気紛れに付き合ってやるほど、私も暇ではない。早く終わらせて残り一ヶ
月半の夏休みを楽しみたいというのに。
実家では、ほとんど墓参りと親戚回りで終わってしまった。ただ、これで得られる対
価もあることにはあるので、蓮子はお仕事と割り切っていた。俗な仕事もあるものだと
皮肉に思う。階段の下から早く風呂に入れと母親の声がした。
「はーい、お風呂ね」
蓮子は大きめな生返事をして、読んでいた本を閉じてベッドから立ち上がる。兄弟と
いうものは実に好いものだ。物語の親分のように難しいことを考えず『簡単に難しいこ
とに没頭』したい。中々ノンフィクションでは叶わない願いだが。明日帰るならば、早
いうちに寝てしまったほうがいいし、母親にも明日新都に帰ると告げなくては。もとい、
その前にこの凄惨な荷物をどうにか。いや、やっぱり後回しにしよう。
あさぎ
ま
蓮子が着替えと下着を持ってドアに手をかけようとするとふと、寒気がして振り返る。
窓の外では星が瞬き、夏休みでだらけて無防備な自分の姿が見える。赤い林檎が小さく
プリントされた半袖のTシャツを着て、浅葱色のスウェットの裾を捲くり、少し伸びた
髪を後ろで結った、ごくごく普通の女子大生の姿だ。
クーラーの温度を下げすぎたか。何か別に厭な予感がしたような気がしたが、なんだ
ろう。思い当たる節がない。これから課題を片付けなくてはならないからかもしれない。
思い返してみると無謀な量だった気して、言いようもなくそわそわする。早く風呂に入っ
てさっぱりしてから、この荷物をまとめて片付けよう。その厭な予感は違う形で現実に
なる。
「あー! 終わんない!」
私はレポート用紙にペンを投げ出して、机にうつ伏せに寝そべった。何を書けばいい
のかさっぱりわからない。西洋の魔術、魔法に関する超総合物理学的見解と、現代社会
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ああ この素晴らしき世界のために
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への還元。何のことだ。私は小説家でもなければ脚本家でもないし、ましてや魔法使い
や錬金術師でもない。晩ご飯を食べてからというもの、一向に筆が進んでいなかった。
メリーはベッドに寝そべりながら、新しく借りてきたであろうゾンビ映画と、私が買っ
てきた本を交互に観ながら欠伸を噛み殺している。器用な奴だ。午後十一時十三分。外
はもうすっかり暗くなっていた。
新都に着いたのはお昼頃。ちょうどいい時間だったこともあり、メリーと外で昼食を
摂ってから荷物を自分の部屋に投げ捨て、課題を持ってメリーの家に来ていた。
『……そしたら、鏡の中で私が笑ってたのよ』 『はいはい、悪い夢でも見たんでしょ』
なにやらメリーは私が帰省している間に恐怖体験をしていたらしいが、私にとっては
今、目の前で繰り広げられている、魔法使い達が社会に適合して生活している様のほう
が不気味に思えた。水の魔法使いが水道局やビルの清掃業などに従事しているのはいい
のだが、終わる気がしない。大型テレビの中でゾンビに襲われた女性が絶叫していた。
B級ホラーを見ているとポップコーンが食べたくなる。
「メリー手伝ってよー」
「アイディアは出してあげたでしょー」
メリーは本を読むのを一時中断して、枕を抱きしめながらテレビを見ていた。一時間
半くらい前にディスクを入れ替えていたので、映画はもうそろそろクライマックスなの
だろう。男性の叫び声と銃声が聞こえる。
「だって、魔法使いなんて非科学的な存在が、どうやったら社会人として就活しなきゃ
いけないのよ。悪の魔法使いになって世界征服でもすればいいじゃない」 「そう思うならそういう風に書けば良いじゃない。ただそうすると正義の魔法使いが
きっと現れるわよ」 それにしても、今の時代の何処にペンと紙でレポートを仕上げる人間がいるのだ。ア
ナクロ、時代錯誤にも程がある。ペンや銃が剣よりも強かった時代は五世紀以上も昔の
話で、今はキーボードやキーパネルのほうが強い。なんて言ったって資源の無駄になら
ないのだから。テレビからエンディングの曲であろう、ひどくハッピーな曲が聞こえる。
気になって画面を見てみると、出演者が全員劇中の格好そのままにダンスを踊っていた。
誰だこの脚本を書いた大馬鹿者は。ファニー賞をやろう。
「ふぁあ。どう、終わりそうー」
メリーはテレビのチャンネルを変えて、眠そうにのっそりとベッドから立ち上がり、
キッチンに向かっていった。冷蔵庫から麦茶のペットボトルとグラスをひとつ持って来
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ああ この素晴らしき世界のために
23 百音語
て私の隣に座る。こぽこぽと心地よい音をさせながら、机の上で空になって久しい私の
グラスに並々と、もうひとつのグラスに半分ほど注いだ。
「ありがとう、薄情者め」 「どういたしまして、先生」
メリーの笑顔が恨めしい。ファンタジー小説ならば、リアリストの私ではなく夢想家
であるメリーのほうが適任だというのに、代筆だけはどうしても引き受けてくれなかっ
た。私はメリーが淹れてくれた麦茶のグラスを手に取って、一気に半分ほど飲む。原稿
用紙一枚あたり四千円というのが彼女の原稿料らしいが、とてもじゃないけどお財布と
相談する気にはなれなかった。試合は後半十分ほどだが、なんて言ったって必要なのは
計四十ページ以上もあるのだから。
メリーは麦茶を飲みながら、私の書いた原稿を斜め読みしていた。一方私は雷属性の
魔法使いが電気工学系の仕事以外に何をすれば良いのか考えあぐねていた。そうだ、雷
属性の魔法使いが存在したら、革命的なエネルギー問題の解決がなされるだろう。その
線で二ページは埋まるはずだ。メリーがグラスを持ったまま笑い声を上げた。一生懸命
に筆を進めている人間に対して酷いではないか。 「あはは、こんなんじゃ世界で魔法使いの終末戦争が起こるわね」
「むー。じゃあ後半は魔法使い達の学会と倫理機構について書くわ」
メリーは左手で目を擦りながら立ち上がって大きな欠伸と伸びをした。私もつられて
欠伸をする。朝までに終わるのだろうか。微妙だ。どうやっても闇の魔法使いが敵にな
るビジョンしか見えない。メリーは麦茶のペットボトルを持って、またキッチンに向かっ
て行く。ぱたんと冷蔵庫を閉める音が聞こえた。
「じゃあ私、もう寝るから。がんばってね蓮子」
ささや
メリーはひらひらと手を振りながら寝室に戻る。恨みの思念を飛ばしてみたが、あま
り効果がないようなので声に出して言った。
「ぐっすり眠れる魔法を耳元で囁いてあげようか」
「ありがと。でも夢見が悪そうだし結構よ、見習い魔法使いさん」
私の軽口を軽くいなして、メリーはベッドに就いた。ああ、闇の魔法は眠りを司るこ
とにしよう、夜といえば闇だ。不眠症を解決する眠りの魔法と、寝ずに働ける不眠の魔
法を開発してくれたら、世界中の悩める社会人が大喜びするはずだ。特に二十四時間戦
いたがる日本人にはぴったりだろう。ため息が形になる。
「はぁ、それにしても」
終わる気がしない。白紙のレポート用紙がまだ十五枚以上残っている。テレビでは深
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ああ この素晴らしき世界のために
25 百音語
つ
夜のニュース番組が始まっていた。
い
時ぞやの映画で見た、魔法使いの黒いローブを着て机に座って試験を受けて
蓮子は何
いた。机は灰色の石なのかプラスチックなのかよくわからない物質でできている。上を
見上げると、高いアーチ状の天井に見たこともないような美しいステンドグラスがはめ
込まれていて、空と雲が透けて見える。 時間操作クラス入門と書かれた問題用紙には『昨日が明日の二日前である場合、明日
の次の日は今日であるか昨日であるか』と書かれていた。命題の証明か。この定義なら
ば答えは。蓮子は羽根ペンを持ちながらしばらく頭を捻っていたが、夢だと気づくのに
そう時間はかからなかった。何故ならば右隣の席に座っていたのが、ディープブルーの
服を着た赤い目をした白い兎で、左に座っているのが頭を抱えて絶望している、とぼけ
た顔をした大柄な半魚人だったからだ。とりあえず、この問題の答えはこれで決まりだ
ろう。答案用紙に答えを書き込もうとした。
「んぉ……」
蓮子は目を覚ました。レポート用紙が顔に貼りついている。部屋はしんと静まり返っ
ていた。予想通り夢だったらしい。それはそうだ。時間操作、タイムマシンは二十世紀
の妄想の産物で、現在に至るまで完成していない。ぼーっとした頭で夢の内容を思い出
していたが、今の課題も一緒に思い出して半漁人と同じく頭を抱える。
「あーもうこれ、終わんないな」
ペンを握ろうとしたが、やる気が起きなかった。眠い。立ち上がろうとすると体の骨
がぱき、と音を立てた。テーブルにうつ伏せで寝ていたので体が痛い。蓮子はリビング
の電気を消すと、放送を終了していたテレビに向かって手を振って電源を消した。中途
半端に寝ぼけた頭と薄目のまま、メリーの寝ている寝室に向かった。カーテンの隙間か
ら空を観るとどんよりと曇っていたが、ちらと星が視える。時間はもう午前三時を回っ
ていた。よし、諦めよう。最初からわかっていたことだが、私は小説家には向いていな
いようだ。
「疲れたよーメリー」
蓮子は手探りでメリーのベッドに忍び込むと、直ぐに違和感に気が付いた。ベッドは
温かいのに、そこに在るべきメリーの身体がない。トイレだろうか。まあいい、眠い。
枕に顔を埋めると、メリーのシャンプーとトリートメントの香りがした。
蓮子はしばらく瞼を閉じて眠気と戯れていたが、一向にメリーが帰ってくる気配がな
いので心配になってきた。コンビニでも行ったのだろうか。のらりとベッドから抜け出
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ああ この素晴らしき世界のために
27 百音語
して寝室の電気を点ける。部屋の様子はさっきまでと変わっていなかった。
「メリー」
呼びかけてみたが返事はない。机の上を見てみたが、メリーの兎のストラップが付い
たデバイスも財布も置かれたままだ。少しずつ目が醒めてきた。どこに行ったのだろう。
蓮子はまずトイレに向かいドアをノックしてみた。入っている気配もなく、中の電気も
消えている。蓮子は玄関に向かい、電気を点けた。靴もあるし、いつもの場所には鍵が
二つある。
「あれ、どこ行ったの」
蓮子は首を傾げながら、薄暗いリビングに戻ってみる。テーブルには飲みかけの麦茶
が入ったグラスと散乱したレポート用紙とペン、消しゴム、自分のデバイス。どういう
事だ。べランダのカーテンを開けてみたが窓は閉まっており、メリーが育てている小さ
なパキラの植木鉢がひとつ、空はどんよりと渦を巻いていた。心臓の音が少し、大きく
なった気がした。厭な予感がする。
蓮子は振り返って玄関に向かい、急いでサンダルを履きながら、鍵を一つ掴んで玄関
のドアを開ける。外の空気は生ぬるい湿気を孕んでいた。どこに行ったの、メリー。
がちゃん。ちゃりん。蓮子はメリーの部屋の鍵をいつもの場所に置いた。涼しい。や
はり靴は部屋を出た時と変わらずに、そこにあった。部屋に戻ると少し落ち着いたのか、
足に痛みを覚える。サンダルを脱いで見てみると足の甲にストラップの赤い痕が残って
いて、腱の部分が少し擦り剥けていた。走ったせいだろう。
そういえば、玄関の電気を点けっぱなしにして出てしまったようだ。いや、そんなこ
とはどうでもいい。今はただ疲れていた。こんな時、どうしたら良いのだろうか。蓮子
は近所のメリーが行きそうな所を思いつく限り探してみたが、どこにもその姿はなかっ
た。曇っていたし、デバイスを持って出なかったので正確な時間はわからないが、二時
間ほどは外に出ていただろうか。
蓮子はとぼとぼとリビングに向かうと、やはり部屋は先ほどと変わってはいなかった。
リビングの左手の方にある寝室を見てみると、電気が点いたままになっている。蓮子は
心の中に暗く漂っていた雲が晴れていくのを感じて、胸を撫で下ろした。メリーが枕を
抱いて静かに寝息を立てていたからだ。
疑問は晴れては居なかったが、ほっとすると同時にどっと疲れと睡魔が襲ってきた。
瞼が重い。蓮子は寝室の電気を消して、メリーの寝ているベッドに静かに潜り込んだ。
スプリングが心地よく反発しつつも、やわらかく蓮子を迎え入れてくれた。壁を向いて
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ああ この素晴らしき世界のために
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た
ち
いたメリーは寝返りを打って、無防備な顔を見せる。もしこれがドッキリだったらあま
もそんな事をするようには見えない。白い肌に長い睫と薄い唇、金色の髪。いつもの彼
りに性質が悪いが、薄明かりの中に見える彼女の寝顔は完全に油断しきっていた。とて
女と同じだ。
「この、どこに行ってたのよー」
蓮子は小声で恨み言を呟きながら、左手の指でメリーの左頬を摘んでみた。やわらか
い。外気と不安に燻されていた心が洗い流されていくのがわかる。メリーがううんと呻
いたので蓮子はどきりとして手を離し、互いの吐息が絡まった。何も知らない顔で眠る
彼女。視界が滲む。よかった、生きてここに、居る。
ぱらぱらと窓の外から雨の音が聴こえてきた。降り出したようだ。心地よい雨音の波
と共にまどろみの中に堕ちてゆく。鈍っていく頭で、さっきまで考えていた薄くて軽い
小説のような最高にチープなシナリオを書き換えなくては、と思った。蓮子は瞼を閉じ
る前に魔法の言葉を唱える。夢から醒めるために。 「おやすみ、メリー」 ご飯とお味噌汁の匂いがする。それから卵とウインナー、葱の匂い。お腹をくすぐる
美味しそうな匂い。でも、まだ眠い。蓮子は布団を抱きしめた。薄目を開けるとメリー
が朝ご飯をテーブルに並べていた。窓から差し込む朝日が目に染みる。雨は止んだらし
い、とぼんやり思った。
「お寝坊さん、ご飯は要らないのー」
メリーは蓮子が目を覚ましたことに気がつくと、声をかけてキッチンに戻っていった。
かちゃんという、食器の音と包丁でトントンと耳障りのよい音が聞こえる。
「ん~」
蓮子は枕に顔を埋めたまま、甘えた返事をして深呼吸をした。甘い香りがする。
お腹は空いたが、この気持ち良いぬくもりに、まだもう少しこうしていたい、甘えて
いたい気持ちのほうが強い。蓮子はベッドに寝そべったまま伸びをしてから、リビング
に背中を向けるように寝返りを打って音を上げた。メリーがベッドに近づいてくる足音
が聞こえる。
「む~、あと二時間半」
「はいはい、馬鹿なこと言ってないで」
メリーは呆れた声で返事をしながら、冷たい手で蓮子の首筋に触れた。蓮子は驚いて
メリーの手を跳ね除けて飛び起きた。惰眠を貪るのは辞めだ。
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ああ この素晴らしき世界のために
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「なにすんのよメリー」
「ご飯にする、パンにする」
眠い目を擦りながら怒ってみたが、メリーはにこにこしながら意に介せず、朝食のメ
ニューを蓮子に聞いた。鬼め。キッチンからトーストの香ばしい香りがする。用意して
いるのになぜわざわざ聞くのか。朝食はパン派だと知っている癖に。蓮子は憮然として
答えながらベッドを抜け出した。
「私、バターだからね」 Tim Kay
八時二十八分。蓮子は朝食を摂りながら昨日の出来事を反芻していた。寝ぼけていた
頭も、ホットブラックコーヒーの香りと苦味で覚醒していた。やっぱり朝食はパンに
限る。メリーは自分の茶碗と食器を洗いながらキッチンで鼻歌を歌っていた。
の『 My World
』だ。朝からご機嫌な奴だ。蓮子はメリーに文句を言った。
「人がパン食べてる時に納豆はないんじゃない」
もっと
「日本人なのに朝ご飯にお米を食べないのはどうかと思うわよ」
もかもしれないが、宇佐見家では代々朝食はパン派なのだ。日本人かぶれの外国
ご尤
人にとやかく言われたくは無い。食器と水の流れる朝の音。蓮子がテレビを点けると、
土曜のアニメ番組が流れ始める。もう九時十二分だ。蓮子はメリーに片付けられた課題
を眺めた。あれは諦めよう。書き直して出版社に持ち込むのもよいかもしれない。もし
かしたら担当くらいはつくかもしれない。
「明日はパンにするわよ、私が作るから」
「はいはい、宇佐見シェフ」
蓮子は軽口を叩きながら、二枚目のパンの残りを口に入れた。メリーは麦茶を入れた
グラスをひとつ持ってきて蓮子の隣に座ると、テレビのチャンネルをニュース番組に変
えた。賑やかな音楽が流れ出す。蓮子はパンを飲み込むと両手を合わせた。
「ご馳走様でしたー」
「はい、お粗末様でした。蓮子もシャワー浴びたら」 メリーはテレビを見ながら、麦茶を一口飲んで言った。柑橘系の爽やかなボディソー
プの香りがする。そういえば昨日、お風呂に入っていなかった。ただ、今はそんな事よ
りも気になることがある。蓮子は食べ終わった皿を片付けながらメリーに尋ねた。
「落ち着いたらね。それよりメリー、昨日の夜どこかに行ってなかった」
キッチンに立つと、メリーが使った食器はすでに片付けられていた。蓮子は水を流し
て軽く汚れを落としてから、自分の食器を洗い始める。
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ああ この素晴らしき世界のために
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「そうね、強いて言うなら魔法学校に通ってたかしら」
メリーは蓮子の書いていたレポートに目を通しながら、間延びした声を上げた。この
時期の水道の水は心地よい。食器用洗剤のグレープフルーツの香りが鼻腔をくすぐる。
「そうじゃなくて、昨日の夜、部屋を出たって聞いてるの」
「おかげさまでぐっすり寝てたけど。どうしたの、蓮子」 蓮子は不思議な気分になった。どういうことだ。確かにあの時、彼女は部屋にいなかっ
たはずだ。痕跡だけは確かにあったが、身の回りの物や、靴もすべてあったはずだ。頭
の中に疑問符がいくつも浮かび、冴えていた頭がまた曖昧に白く濁っていく気がした。
昨夜の出来事は夢だったのか。夢だったとしたら一体、何を意味するのだろうか。
「珍しいわね、蓮子が夢の話をするなんて」
メリーはソファに仰向けに寝そべりながら、キッチンに居る蓮子を見て言った。蓮子
は泡のついた食器を水で流しながら憮然として答えた。
「夢じゃないわよ、たぶん。まじめに訊いてるんだから答えて」
「人のこと言えないんじゃない、もしかしたら蓮子も」
洗い物を終えた蓮子は手をフキンで拭きながらリビングに向かい、テレビを見ながら
ひらひらとレポート用紙を振っていたメリーからそれを奪い取り、言葉を遮った。冗談
じゃない。真夏の朝日と鮮やかな青が、白いレースのカーテン越しに見える。テレビが
言うには今日は夕方から雨らしい。
「誰かさんと一緒にしないでよ、まったく」
メリーは頬を膨らませながら誰かで悪かったわね、と小さい声で小言を言いながら起
き上がると欠伸をした。蓮子は愛想笑いをしながらつられて欠伸をする。昨日の出来事
は本当に夢だったのか。それにしては厭に生々しかったような気がする。昨晩の湿気を
孕んだ空気、アスファルトの香りとやり場のない焦り。それは心の中に確かに刻まれて
いた。いや、本当に確かだろうか。幼いころから色も感触もある明晰夢ばかり見ていた
自分に問いかけてみると、急に不安になり、喉が渇いた。
蓮子はメリーから奪い取った書きかけの原稿を片手に、キッチンに戻ってコーヒーメ
イカーから二杯目のコーヒーを先ほど洗ったマグカップに注いだ。香ばしい香りに疑問
が溶けていくような気がした。そうだ、あれはきっと夢だったのだ。少しも変わらず日
常がここにある。熱いコーヒーを一口飲むとほっとしたのか、他愛もない疑問をとやか
く考えている自分が馬鹿らしくなった。原稿に目を落とすと蛇がのた打ち回っていた。
がんばった昨日の自分を褒めてやりたい。今はこの原稿を書き上げなくては昨日の自分
に示しがつかない。昨日は諦めて寝てしまったが急に使命感が湧いてきた。蓮子はリビ
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ああ この素晴らしき世界のために
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ングに戻りながら声を張り上げた。
「うーん、変人とのデートは一時間半内には抑えたいわね」
「それならオチはギャグ以外で、しっかりつけたほうがいいわよ」
メリーは何時の間にかテレビの前にしゃがんで、昨日観ていたアーカイヴ・レイの
パッケージの裏をまじまじと読んでいた。たしかに、音しか聞いていなかったが、ああ
いう安い話に落とし込むのは勿体無い。蓮子は原稿をテーブルに投げ出してマグカップ
をテーブルに置いて伸びをして言った。
「さて、目標は明日の午後一ね」
「志低いわね」
メリーは新しいディスクを入れて、ソファーに戻って来て座った。今回の話はどうや
ら海外物らしい。寂れた田舎町の風景が画面に映り、日本語に吹き替えられたアメリカ
ンジョークが聞こえてくる。
「ぐーたらB級ホラーばっかりみてる人に言われたくないわね。さて、と」
蓮子は意気込んで、メリーが座るソファーとテーブルの間に座った。ペンを取ろうと
すると、左の足首に鋭い痛みを感じる。足首を見ると皮が擦り剥け、血が少しだけ滲ん
でいた。さっきまでは気がつかなかったが、足の甲にも昨日の痕がうっすらと残ってい
る。やはり、あれは夢などではなかった。
窓の外は黒く塗りつぶされ、ざあざあと雨と風が唄っていた。蓮子は一日中不安を拭
えずにいた。丸一日かけてレポートを進めようとしてはみたが、あまり手につかず進ん
でいなかった。そんな気分ではない。蓮子はメリーを何度も問い正してみたが、当のメ
リーは結局蓮子の言うことに耳を貸さず、今日は一日中ずっと新作のジャパニーズホ
ラーを鑑賞していた。
「ねぇ、メリー」
「だって」
メリーは蓮子に抱きついて震えていた。先ほどから、画面に白い顔をして目から赤い
涙を流している人間が映る度に悲鳴を上げて。日本の山奥にある廃村を題材にした典型
的なジャパニーズホラー。日本の恐怖演出はねっとりとして確かに怖い。海外の作品の
ように条件反射を利用した直接的な演出を利用するのではなく、じわりと背筋から這い
登ってくるような恐怖演出は日本特有だ。ただ、今の蓮子には薄っぺらい表現にしか見
えない。今まさに恐怖の渦中にいるのだから。
画面の中で脇役が突然振り返り、悲鳴を上げる。そこにはゆらゆらと左右に揺れなが
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ああ この素晴らしき世界のために
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ら目と口がひとつずつしかなく、鼻のない真っ白な体をした怪物が映っていた。メリー
は悲鳴を上げて蓮子の左手を握り締めた。
「そんなに怖いなら観なければいいじゃない」
小さく呟いてみたが、メリーは画面に食い入るように見入っていて返事をしなかった。
蓮子はレポート用紙に目を落とす。何のためにこんなことをしているのだろうか。物語
がただの記号の羅列に見えてきた。絆創膏を貼った足首の傷がずきりと痛む。
蓮子は確かめようと思っていた。何かあるならば、今夜も起こるはずだ。都市伝説を
端から信じてはいなかったが、今までもそんなものなんて比べ物にならないほど不思議
な体験はしてきていた。覚悟を決め、これから何が起ころうともそれを確かめて、受け
入れよう。蓮子はメリーの手を握り返した。
「あー、怖かった」
「そうね、もうこんな時間」
メリーは声を上げて目を右手で擦っていた。デバイスを見ると時間はもう十時を回っ
ていた。夏だというのに、今日は夕方から降り出した雨のせいで気温が低い。
「あ、あとで入るから、お湯張ってね」
「はいはい」
メリーはそう答えながら立ち上り、テレビのチャンネルをバラエティに変えると、バ
スタオルと着替えを持って風呂場に歩いていった。ばたんとドアを閉める音が聞こえた。
レポートは残り三ページほどでかたを付けなければならないのに、だらだらと、あと少
しが一向に進まない。オチが思いつかないのだ。
ボールペンを片手でくるくると回しながら頭を捻り唸るも、一向に文学の神様は降り
てきてはくれない。結局バラエティ番組をちらちら見ながら無為に三十分が過ぎていっ
た。
「もやもやするなぁ」
蓮子は立ち上がってベッドに向かい、そのままうつ伏せで倒れこんだ。雨の湿気で体
がだるい。このまま寝てしまおうか。今日は外にも出ていないし、そんなに汚れていな
いはずだ。すると、ふと枕元に置かれていた本を見つける。メリーのためにと買ってき
ていた日本の怪談や都市伝説をまとめた本だ。手にとってぱらぱらとページをめくって
みる。
視、リ
中には幾つかおどろおどろしいの挿絵と共に、コトリバコ、こっくりさん、邪
たぐい
ンフォン、渦人形、きさらぎ駅などの怪談話、根も葉もないような都市伝説の類がつら
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ああ この素晴らしき世界のために
39 百音語
つらと書かれていた。あまり内容を確認せずに買った物だったが、読んでみるとなるほ
ど面白く、この時期にはぴったりだ。我ながら中々良い買い物をした。 蓮子はぱらぱらと本の続きを斜め読みしていると、そのうち中のひとつに聞き覚えの
あるキーワードを見つけて、生唾をごくり、と飲み込んだ。夢中で読み進めるうちに心
の中でなりを潜めていた黒々とした疑念が次第に大きく成長していく。窓の外で渦を巻
きながら暴れる巨大な雷雲のように。
「まさか、そんなわけ」
あまりに出来過ぎた悪い冗談にしか思えない。作り話と偶然が重なっただけだと笑い
飛ばせば済む話だ。けれど、蓮子は口に出した自分の声が震えていることに気がついた。
思考が淀む。ああ、どうして私はあの時、彼女の話をもっと真剣に受け止められなかっ
たのだろうか。非現実的。そうだ、こんな話は創作でしかないのだ。登場人物たちは作
家という至極傲慢で、肥大化した虚栄心を抑えることの出来ない、利己的な愚か者たち
に翻弄される道具でしかない。そして、その創作の中に違和感なく埋没して溺れてしま
う受け取り手もまた、愚か者だ。私はそのどちらとも違う。私は確かに現実を生きてい
て、これからもこの世界で生きていくのだ。自分で書いていたレポートもとい妄想の塊
もまた、彼女の評価を受けるための道具でしかない。
「ピピー」
蓮子は驚いて本を手放した。自分の世界に入り込んでいた蓮子は、突然の音で現実に
引き戻される。洗濯機の音だ。
「何よ。びっくりさせないでよ、もう」
蓮子はベッドから立ち上がり、読んでいた本を枕元に置いた。フォトフレームの中で、
今年の春に行ったお花見で撮った画像が映っていた。メリーと蓮子が笑顔でピースして
いる。そうだ、こんな鬱屈した生活は投げ捨てて、明日明後日にでも二人で取材旅行に
行こう。前々から気になっていた事や場所もいくつかあるし、ちょうどいい。
蓮子は風呂場へ向かった。乾燥機を使うとはいえ、雨の日の洗濯物は気分が滅入る。
蓮子は洗面所のドアノブを捻って、中に入るとシャワーの水音が聞こえてきた。そうい
えばもうメリーがお風呂に立ってから四十分くらいは経っている。洗濯機の乾燥機能の
ボタンを押して、メリーに話しかける。ゴウンゴウンと洗濯物が回り始めた。
「メリー、いつまでお風呂入ってるのよ」
蓮子は洗面所の鏡に映った自分を見て、手櫛で前髪を直しながら返事を待った。しか
し、メリーの返事はなかった。シャワーの音で聞こえないのだろうかと思い風呂場のド
アを軽く開けて声をかける。
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ああ この素晴らしき世界のために
41 百音語
「メリー、あんまり長く入ってるとのぼせるよ」
シャワーの音だけが聴こえる。返事が、ない。心の片隅に追いやり、打ち払ったはず
の疑念がまた形を取り戻し始めた。蓮子は恐る恐るバスルームのドアを開けると、白い
湯気が顔にかかり、シャンプーの甘い花の香りがした。疑念は奇妙な確信に似た感情に
変化する。言葉にしたくはなかったが、もう我慢出来なかった。
「口に出しちゃいけなかったのよ、メリー」
蓮子はその場に座り込んだ。シャワーの音と乾燥機の音、微かに遠くで喉を鳴らして
いる雷雲の音が聞こえる。さっきまでここにいたであろう彼女の姿は無く、温かい雨に
濡れた黒い猫がそこには、居た。
「蓮子?」
声が聞こえた気がする。そういえば、何をしていたのだろうか。私は紫色のワンピー
スを着て、裸足のまま鬱蒼とした森の中で立ち尽くしていた。振り返ると獣道が見える。
「ここはどこ」
私は疑問を口にしてみた。しかし、返事はない。これは夢だろうか。いや、違うかも
しれない。空を見上げると、いつもの夢とは違って景色が紫がかっていることに気がつ
く。こういうことは今までもよくあったが、いつもと様子が違うので少し不安になって
きた。鳥の声も聴こえないし風もないけれど、気温も不思議と感じないので違和感を感
じる。何かがおかしい。とりあえずはあたりを散策してみようか。向き直って目の前を
よく見てみると、白い家のようなものが見える。
「迷うなら森の中ね。もう迷ってるけど」
どうせ夢だ、思いきり楽しまなくては勿体無い。私はやわらかい土で出来た地面を慎
重に歩いて進んだ。たまに枝や石が落ちている。足の裏がふわふわして変な気分になっ
た。
白い家は、近くで見ると意外に立派な佇まいをしており、ヨーロッパ建築に似た意匠
がこらされていた。誰か住んでいるのだろうか。あたりを見回してみると植木鉢や花壇、
ちょっとした畑のようなものがあり、小さな小川も見える。私は窓から中の様子を伺お
うとしたが、カーテンが締め切られていて様子が伺えない。
「これじゃあなんだか泥棒みたいね」
私は他人事のように呟いて玄関らしいところに向かった。玄関の畳石は冷たくて硬い。
変な感覚だ。ドアを二回ノックして尋ねてみた。
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ああ この素晴らしき世界のために
43 百音語
「こんにちは、誰か居ませんか」
しかし、しんとして返事はなかった。ドアノブを捻ると驚くほどドアは軽く、開いて
しまった。中は薄暗く、オーク材だろうか、焦げ茶色をしたフローリングの廊下が見え
る。どうしよう。けれど、無用心な人も居たものだと、自分のしていることを棚に上げ
て思った。すると中から香ばしく焼き菓子の甘い香りがしてきた。ああよかった、やっ
ぱり誰か居るのだ。もう一度大きな声で尋ねながら私は屋敷に足を踏み入れた。
「こんにちは、誰か――――」
急にぐらりと足元がぬかるみ始め、体が沈んでいく。え、どういうことなの。私は焦っ
て声を上げてみたが誰も返事をしてくれない。必死にもがいてみるも、流砂のようにゆっ
くりと体が沈んでいく。ごめんなさい、泥棒なんてするつもりはないから助けて。ドア
にしがみついてみたが、体が引きずり込まれていく。嫌だ、助けて。景色が歪んで見える。
焦りながらもふと目の前を見ると、白いブラウスを着て、青いスカート履いた金髪碧眼
の小さな女の子が、小首を傾げながら立っていた。嫌に顔色が白く、生気が感じられな
かったので、少し不気味に思ったが、もう胸元まで沈んでいた私は必死に助けを求めた。
「お願い、助け」
私は絶句して戦慄した。差し伸べられた手、いや腕。在るはずの手首から先が無かっ
たからだ。そこで一度、私の意識は途切れる。
真っ暗な世界に私は裸で立っていた。しかし、不思議と自分の体だけはしっかりと見
える。どうにも忙しい夢だ。夢? どうして夢だと思ったのだろうか。いや、明らかに
こんな非現実的な物は夢に違いない。そういえば、ついさっきまで夢を見ていたような
気がするが、内容が思い出せない。
「メリー」
後ろから蓮子の声が聞こえた。聴き慣れた声を耳にし、ホッとして振り返ると其処に
はいつもの姿をした蓮子が笑顔で立っていた。蓮子は続けて口を開いた。
「大丈夫、すごい濡れてるけど」 蓮子に言われて自分の体を見てみると、私は確かに濡れていた。髪の毛から雫が滴っ
ている。蓮子は心配そうに私の体に触れようとしたが、私はその手を避けて後ずさりし
た。蓮子の姿をした何かは困った顔をしながら続ける。
「どうしたのよ、メリー。変よ」
心と身体が叫んでいた。これは悪夢だ。
「変なのはあなたよ、どうして手首がないの」
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ああ この素晴らしき世界のために
45 百音語
目の前にいる何かはケタケタと笑いだした。良く見ると顔にひびが入っている。
「手首がないのは当たり前じゃない、まだ途中なんだもの」 「途中? どういう事なの」
「理由は自分で探さなきゃ。ねぇメリー」
何かはメリー、メリー、と私の名前を呼びながら崩れていき、中から今度は私の姿を
した何かが現れた。片腕と足首がない。何かの背後や足元からひび割れた腕が幾つも生
えてきた。驚いてさらに後ずさりすると、冷たい何かにぶつかった。硬い。耳元で吐息
と声が聴こえる。笑顔が張りついた片目に闇がはめ込まれた私の顔がそこに在った。
「ねぇ、メリーどうしてだと思う」 私は自分の背後にいたそれを払い除けると、訳もわからず走り出していた。どういう
ことなの。背後から私の名前を呼ぶ声がサイレンのように聞こえる。後ろを振り返ると、
無数の白い手が私の身体を捕まえようと追ってきている。
助けて、誰か。蓮子。必死に走る中で、いろいろな思い出がフラッシュバックする。早く、
夢なら醒めて。
白い指が私の右肩を腕を掠めた。触れられてないはずなのに、其処が赤黒く変色して
いく。私の名前を呼ぶ声は、幾つもの壊れたオルゴールのように共鳴していく。私は耳
を両手で塞いで走り続けた。私にはまだやりたい事があるの。助けて。息が切れ始める。
あの手に触れたら終わりだ。けど、もう、保たない。心臓と身体が悲鳴を上げていた。
全速力で人が何分間走り続けられるというのか。もう、限界だ。
けど、私のやりたいことって、何。疑問が心の中に芽生えると同時に、時間がゆっく
りと流れ始める。私のやりたいことは。今まで形を保っていた黒い地面は形を保つ事を
すす
止めた。確かな足元を失った私はがくんと垂直に闇の中に落ちていく。
「ん、起きたのメリー」
っていた。私は確か昨日、お風呂に入ってい
蓮子はベッドに腰をかけてコーヒーを啜
て、それで。眩しい。枕元の電子時計を見ると十一時を回っていた。寝起きの頭で記憶
を掘り返してみるも思い出せない。トーストの甘い香りと、コーヒーの香りがして、心
が落ち着いてきた。蓮子は私の額に張りついていた前髪を指で払い言った。
「すごい汗だけど、悪い夢でも見た?」
「ううん、大丈夫」
悪い夢は確かに見ていたが、心配させたくないので口には出さなかった。言わなくて
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ああ この素晴らしき世界のために
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いいことは口にしない方がいい。蓮子はほっとしたのか、冗談めかして言った。
「ちょっと遅い朝ご飯だけど、メリーはコーヒーお砂糖一杯半だよね」
きっと、悪夢の中で出した答えはこれだったのだ。だからこそ、こうして。
「あと、ミルクも忘れないでよ」 私は蓮子に笑顔で答えた。ああ、この素晴らしい世界のために、私は。
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Fly UP